目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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89. 伸ばした手の先

 ユールベルは机に頬杖をつき、窓越しに空を見上げた。午前中よりも雲が厚くなっているような気がする。傘を持ってこなかったが、帰るまでもつだろうか——ぼんやりとそんな心配をした。
 授業がつまらないわけではなかったが、丁寧すぎる担任の解説は、彼女をときどき退屈にさせた。もっとも、レオナルドはそれでもついていくのがやっとである。担任の進め方が間違っているわけではないのだろう。
 ガラガラガラ——。
 ノックもなしに、引き戸が開けられた。
 授業中の担任と生徒たちは、いっせいにそちらに目を向けた。扉を開いたのは、見知らぬ男だった。アカデミーの教師でも生徒でもなさそうだ。
「ユールベル=アンネ=ラグランジェはいるか」
 男は教室を見まわしながら尋ねた。
 ユールベルは怪訝な顔で手を挙げた。見ず知らずの男に、なぜ自分の名前が呼ばれているのか、まるでわからなかった。頭を巡らせてみたが、思い当たる節はない。
「一緒に来てください」
 男は丁寧な口調で言った。
 ユールベルはますます訝った。授業中に呼びつけるなど、よほど重要なことに違いない。だが、やはり何も思い当たることはない。まさか、アンソニーに何か——一瞬、不吉な考えが頭をよぎった。そんなはずはないと、懸命にその思考を振り払う。
「ユールベル」
 男は急かすように名を呼んだ。
 ユールベルは不安そうな面持ちで立ち上がり、男に促されるまま教室を出た。扉が閉められ、彼女の姿が見えなくなる。
 レオナルドは弾けるように立ち上がった。
「おい、レオナルド! どこへ行くつもりだ!」
 担任が呼び止めたが、完全に無視をした。振り向きもせず堂々とその前を横切り、彼女を追いかけ教室を飛び出していった。

 ユールベルは、応接室の前へ連れてこられた。どうやらこの中で何かがあるらしい。二年以上、アカデミーに通っているが、ここに入るのは初めてだった。
 男が扉を開いた。
「姉さん!!」
 応接室のソファに、弟のアンソニーが座っていた。彼女の姿を見るなり立ち上がり、落ち着かない様子で駆け寄ってきた。
「アンソニー、どうしてここに……」
 彼が元気そうなのでとりあえずは安堵したが、アカデミーになぜ彼まで呼ばれたのか不思議だった。
「ふたりとも、掛けて」
 応接室の中にいた年配の男性が、ソファを示しながら言った。彼も教師ではないようだ。おそらく王宮の関係者だろう。サイファのものと似たような濃青色の制服を身に着けている。
 ユールベルは、自分より背の高くなった弟の手を引きながら、中へと足を進めた。並んでソファに腰を下ろすと、睨むように目の前の男を見た。
「何の用なの?」
「単刀直入に言います」
 男性は膝の上で手を組み合わせ、真剣な表情をふたりに向けた。
「あなた方の母親が重傷を負い、入院しています」
「え…? どういうことですか?」
 アンソニーが身を乗り出して尋ねた。
「本日昼頃、ルーファス=ライアン=ラグランジェ宅で大規模な爆発が起こりました。それに巻き込まれたようです」
 ユールベルはうつむき、無言で立ち上がった。長い横髪が肩から滑り落ち、顔に陰を作る。何かをこらえるように固く結ばれたこぶしは、体の横でわずかに震えていた。
「私たちに、親はいません」
 小さな口を開き、重々しくそう告げる。そして、いまだ座っている弟の手首を掴み、乱暴に引いた。
「待ってよ、爆発に巻き込まれたって……」
 アンソニーは手を引っ張られたまま、それでも立ち上がろうとしなかった。困惑した顔で姉を見上げる。
 彼女の表情には、焦りと怒りが滲んでいた。
「他人よ、関係ない」
「僕らの母親だよ」
「違う」
 ユールベルはぎゅっと心臓を鷲掴みにされたように感じた。弟はまだあの人のことを母親だと思っている——そのことがたまらなく悔しく、そして怖かった。
「姉さん、僕は、やっぱり気になるよ」
 アンソニーは、ユールベルがどう思っているかは察していた。それでも、母親の様子を知りたい、見に行きたいという思いは消せなかった。もし、このまま会わずに母親が死んでしまうようなことがあれば、きっと一生後悔してしまうだろう。
「どうして? せっかく忘れかけていたのに……」
 ユールベルの右目は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。その悲しげな瞳は、アンソニーの胸を深く貫いた。一瞬、気持ちが揺らいだ。だが——。
「ごめん、僕は、やっぱり母さんのところへ行くよ」
「勝手にすればいいわ」
 ユールベルは、涙をこらえた声で、突き放すように言った。そして、掴んでいた手首を離すと、足早に応接室をあとにした。

 戸口にはレオナルドがいた。話を立ち聞きしていたのだろう。心配そうな顔を彼女に向けたが、声は掛けなかった。早足で歩く彼女のあとを、ただ無言でついて歩く。
 彼女は教室には戻らなかった。昇降口から外に出る。せり出した厚い雲が、昼下がりの強い日差しを遮り、どんよりと重く湿った空気を作っていた。
 アカデミーの門を出たところで、彼女は不意に足を止めた。
「どこまでついてくるの?」
 後ろのレオナルドに、振り返らないまま尋ねる。
「家に帰るんだろう」
「駄目、来ないで」
 語気を強くしてそう言うと、振り切るように、よりいっそうの早足で歩き始めた。緩やかなウェーブを描いた長い金髪が、頭の後ろで結ばれた白い包帯と絡み合うように揺れる。
 レオナルドは彼女の嘆願を聞き入れなかった。遅れることなくついていく。
「今にも壊れそうなおまえを、ひとりにはできない」
「もう、あなたを利用したくない」
 ユールベルはかすれた小さな声で言った。
「俺は利用してくれて構わない。それだけでいい」
「私が、駄目になるの」
 苦しげにそう言うと、足を止めた。ゆっくりと振り返り、レオナルドの青い瞳を見つめる。
「お願い、ひとりになりたいの」
「ユールベル……」
 レオナルドは手を伸ばした。彼女を抱きしめようとする。
 しかし、ユールベルは拒絶した。顔をそむけ、手を伸ばし突き放す。一歩、二歩と後ずさると、くるりと背を向けて走り去った。長い髪が大きく波を打ってなびいた。
「ユールベル……」
 レオナルドは追いかけることが出来なかった。足が、地面に根を下ろしたように動かない。小さくなる後ろ姿を見つめながら、ただ彼女の名前をつぶやくしかなかった。

 ユールベルは自宅に帰った。ガラス窓に寄りかかり、崩れるように座り込むと、ぼうっと空を見上げた。灰白色の雲が緩やかに流れていく。

 そのまま、数時間が経った。
 彼女はずっと動かず、窓際に座り込んでいた。いまだにぼんやりとしている。すでに陽は落ち、空は濃紺色に塗り替えられていた。部屋も暗くなっていたが、灯りはつけていない。
 はぁっ……。
 彼女は息を吐いた。いつになく寒く感じる。気のせいかもしれない。自分の心が、そう感じさせているのだろうと思った。
 ——バルタスもアンソニーも、私ではなくあの人を選んだ。
 その事実が彼女の心を蝕んだ。大きな穴が開いたように感じた。焦がれるように痛く、そして寂しい。
 バルタスはともかく、アンソニーだけは自分を選んでくれると信じていた。だが、その幻想は見事に打ち砕かれた。しかし、冷静に考えれば考えるほど、この結果が当然のことのように思えてきた。自分は選んでもらえるような人間ではないのだ。そんなことはわかっていたはずなのに、どうして忘れていたのだろう。
 手足が冷たくなってきた。痺れたように感覚が薄い。これも気のせいなのだろうか。
 不意に、空から白いものが舞い降りてきた。
 ——雪?
 凍てついた涙と呼ばれる、白い小さな雫。三年前にも目にしている。閉じ込められた二階から、結界ごしに見ていた。今の状態とそれほど変わらない。あの頃は、自分の行動を奪う結界がなければ、もっと自由に生きられると思っていた。だが、自分の心は、いまだに過去に囚われたままである。

 ガチャッ。
 玄関の扉が開く音が聞こえた。
 ユールベルはびくりとした。確か、鍵は掛けたはずだった。一瞬、レオナルドかと思ったが、鍵はとうの昔に返してもらっていた。
「姉さん? いないの?」
 廊下から聞こえてきたその声は、よく知っているものだった。聞き違えるはずはない。
 でも、いったいどうして……?
 ユールベルはわけもわからず、声のする方に目を向けた。
 リビングルームの扉を開けて入ってきたのは、まぎれもなく弟のアンソニーだった。彼は、暗がりの中に姉の姿を見つけると、ほっとしたように息をついた。
「良かった、いたんだ」
 そう言いながら、パチンとスイッチを入れた。部屋に人工的な灯りが満ちた。
 ユールベルはまぶしさに目を細めた。
「真っ暗だったからビックリしたよ。帰ってないのかと思って心配しちゃった」
 アンソニーは、あどけなさの残る笑顔を見せた。
「まだそんな格好をしてたんだ。寒くないの?」
 ユールベルの隣に座り込むと、細い指先を取り、優しく包むように握りしめた。
「アンソニー……?」
 ユールベルはとまどったように呼びかけると、下を向いている彼を見つめた。
「だいぶ冷えてるね」
 アンソニーはぽつりと言った。そして、自分のジャケットを脱ぐと、彼女を抱き込むようにして羽織らせた。華奢な彼女にとっては、大きいくらいのものだった。一緒に暮らし始めて以来、成長期の弟は驚くほど背が伸びていった。身長はもう追い越されている。
「なんか、結界に穴が空いたらしくて、これからもっと冷え込むって」
 ユールベルの肩に手を置いたまま、ガラス越しに空を見上げる。空からは、白い雪がひらひらと舞い降りていた。その数は次第に増してきているようだ。
「夜ごはん、まだだよね。温まるものを作るから」
「どうして……戻ってきたの?」
 ユールベルは不思議そうに尋ねた。どことなく、怯えているようだった。
 アンソニーは質問の意味がわからず、きょとんとした。
「どうしてって、ここ、僕の家だよ? 僕と姉さんの家」
「あの人のところに行ったんじゃ……」
「心配だから様子を見てきただけなんだけど……もしかして、僕が母さんと一緒に暮らすことになったと思ったの?」
 ユールベルは返事の代わりに涙をこぼした。真珠のようなきれいな丸い雫が、頬をかすめて落下し、彼の手の甲で弾けた。
 アンソニーは肩をすくめて笑った。母親からは、新しい家で一緒に暮らそうと、しつこいくらいに懇願された。だが、それははっきりと断ってきた。
「心配しないで、僕はどこにも行かないから」
 ユールベルはうっと声を詰まらせ、彼に縋りついて泣いた。右目からあふれる涙が、白いシャツを濡らしていく。
 アンソニーは、小さい子供をあやすように、彼女の頭に優しく手を置いた。

 翌日、ターニャがユールベルたちの家へ遊びにきた。
 話題は昨日の爆発のことだった。巻き込まれた人々の多くがラグランジェ家の人間だったと知り、その中にユールベルたちの家族がいたのではないかと心配をしていたらしい。どうやら、遊びにきたというよりも、そのことを聞くために来たという方が正しいようだ。
「はい、母親が巻き込まれました」
 ターニャの問いかけに、アンソニーはいたって落ち着いた様子で答えた。
「え? ホントに?」
 ターニャは目を丸くし、白い息を混じらせながら言った。飲みかけの紅茶を机に戻す。自分で質問しておきながら、そんなことはないだろうと心のどこかで思っていたのだろう。
「うちは爆発が起こったところのすぐ近くだったんです。父さんは仕事で家にいなかったけど、母さんは家にいたから……」
 アンソニーは淡々と説明した。
「それで、無事なの?」
「命に別状はないそうです。骨折だけって聞きました」
「そう、よかった」
 ターニャはほっと胸を撫で下ろした。はっきり言えば、あの母親のことは嫌いだった。一度会っただけだが、恐ろしく印象は悪かった。それでも、知った人間が亡くなるというのは、気持ちのいいものではない。
「やめて、あの人の話は……」
 ユールベルは弱々しい声で、ぼそりと言った。ソファの上で膝を抱え、顔を曇らせている。
「あ……」
 ターニャは配慮が足りなかったと反省した。この姉弟と母親の事情は、少しは知っているつもりだった。アンソニーはともかく、ユールベルはいまだに異常なほど母親を怖れている。彼女の前でする話ではなかった。
「ごめんね」
 素直に謝罪の言葉を口にすると、ユールベルの隣に移動する。そして、安心させるように彼女の肩を抱きながら、そっと寄りかかった。
 ユールベルは気を持ち直しかけた。寮のときから、彼女はいつもこうやって温もりをくれた。初めは馬鹿なことと思ったが、案外これで落ち着いた。彼女の気持ちが嬉しかったのかもしれない。
 だが、そのとき——。
「でも、逃げてばかりじゃ、何も変わらないんじゃないかなぁ」
 出し抜けに、ターニャがそうつぶやいた。ほとんど独り言のようだった。そのときの彼女の目は、ここではないどこか遠くを見ていた。
 ユールベルは体をこわばらせた。
「わた……し……」
 震えながら、細くかすれた声を漏らす。膝に顔を埋め、厚手のスカートの裾を、何かをこらえるようにきつく掴んだ。
 ターニャははっと我にかえった。
「あ、ごめん! 今の忘れて!」
 勢いよくそう言うと、ユールベルをぎゅっと抱きしめた。今日二回目の失態だ。顔をしかめながら、激しく自分を責めた。
 ユールベルは、ターニャの腕の中で、彼女の言葉をぼんやりと反芻した。

 それから一週間が過ぎた。
 事故から二、三日ほど雪が降り続き、この世界は一面、白色に覆われたが、それ以降は新たに降ることはなかった。だが、まだ冷え込みは続き、地面には固くなった雪が残っている。

 ユールベルは、半分凍りついた雪を踏みしめながら、大きな建物を見上げた。
 アンソニーはあれから何度かユリアの見舞いに行っていた。そのたびに、もう帰ってこないのではないかという不安に押しつぶされそうになった。だが、行くなとは言えなかった。ただ、祈りながら彼の帰りを待つだけだった。
 彼は必ずここへ帰ってくると言っている。その言葉を信用していないわけではない。だが、どうしても、怯える心は止められなかった。
 ——逃げてばかりでは、何も変わらない。
 ユールベルは表情を引き締め、足を踏み出した。ジャリ、と氷の砕ける音がした。

「良かったわ、レイチェルが元気になって」
 アルティナはカラリと笑って椅子に座った。
 ベッドのうえで上半身を起こしたレイチェルも、穏やかに微笑みを返した。萌黄色の寝衣に、厚手のカーディガンを羽織っている。現在、病棟にはある種の結界が張られており、そこそこの暖かさが保たれていた。そのため、毛布にくるまるような必要はなくなっていた。
 アルティナは、サイファから大体の事情を聞いていた。爆発事故を起こしたのはレイチェルの魔導が原因であることも、そのせいで父親が亡くなってしまったことも——。
 レイチェルは事故から三日ほどの間、ほとんど口を開くこともなく、壊れたように動かなかった。ベッドに横になったまま、生気のない表情でぼんやりしているか、眠っているかのどちらかだった。
 しかし、次第に表情を取り戻し、一週間が過ぎて、ようやく起き上がれるまでになった。
 アルティナは素直にそのことを喜んだ。まだ心の傷が癒えたわけではないだろう。だが、彼女はあえて普段どおりに接した。こういうとき、まわりに必要以上に気を遣われるのが、何よりもつらいはずだと思ったからだ。
「今度は子供たちも連れてくるわね……って、その前に退院しちゃうかしら」
 そう言って、あははと笑う。
「ね? いつから復帰できるの?」
「そのことなんだけど……」
 レイチェルは遠慮がちに前置きした。
「何?」
 アルティナは軽い調子で続きを促した。一瞬、嫌な予感がしたが、無理やり心の隅に追いやった。
 レイチェルは表情を硬くして、彼女を見上げた。
「私、辞めさせてもらおうと思っているの」
「なっ……辞める?! 何を言いだすの?! ふざけないで!!」
 アルティナは取り乱したように叫んだ。椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、ベッドに手をつくと、正面から彼女に顔を突きつける。
 だが、レイチェルは冷静だった。すぐ近くまで寄せられた顔に引くこともなく、薄い微笑みを見せる。
「本気で言っているのよ」
「あれは事故なのよ?! あなたが悪いわけじゃない。責任を取る必要なんて……」
「そうじゃないの、聞いて」
 落ち着いた声でそう言うと、まっすぐに視線を向けて理解を求める。
 アルティナは澄んだ瞳に気圧され、言葉をなくし口をつぐんだ。倒した椅子を起こし、静かに座る。それは、彼女の話を聞くという意思表示だった。
 レイチェルは真剣な表情で口を切った。
「私は自分の力を制御することができない。このままでは、いつかアルティナさんも巻き込んでしまうかもしれないの」
 しっかりとした口調で、ひたむきに説明する。
 だが、アルティナは納得しなかった。
「今まで十年間、何事もなかったじゃない」
「今後もないって保証はないわ」
「そんなものいらない!」
 冷静なレイチェルの言葉に、彼女は全力で反論した。感情が昂り、声が大きくなっていく。
「未来を保証するものなんて、あるわけないじゃない!」
「私は、アルティナさんを大切に思っているから……」
「大切に思ってくれているなら傍にいて。万が一、今回みたいなことが起こって、巻き込まれて命を落とすことがあっても、私は本望よ。レイチェルを恨まないし、後悔もしない。私が軽い気持ちで言ってるんじゃないってことは、わかってくれるわよね」
 レイチェルの両肩に手をかけ、覗き込むようにして熱く見つめる。その瞳からは強い決意が見てとれた。彼女の言うように、軽い気持ちでないことはよくわかった。
「ええ、でも……」
「頼んでるわけじゃない、これは命令よ。私の付き人を続けて。辞めることは許さない」
 アルティナは有無を言わせぬよう、強い口調で命じた。だが、そこに傲慢さは窺えなかった。そこから感じたのは、縋り付くような必死さだけだった。だからこそ、レイチェルは何も言えなくなった。
「レイチェル、あなたは私のたったひとりの友達なの」
 そう言ったアルティナは、怖いくらい思いつめた顔をしていた。瞳がわずかに潤んだ。彼女はそれを隠すようにうつむくと、突然、レイチェルの首に腕を絡めて抱きついた。ぎゅっと力を込める。長い銀色の髪が、レイチェルの頬をさらりと撫でた。
「お願い、私をひとりにしないで……」
 普段のアルティナからは想像もつかない弱々しい声だった。
 レイチェルは彼女の背中に手を置こうとした。だが、その手は途中で止まった。彷徨う指先は空を掴み、何事もなかったようにベッドの上に戻った。

 ココン、コン——。
 弱く不安定なノックの音が聞こえた。
 ユリアはベッドから体を起こした。扉の方に目を向ける。夫のバルタスではないだろう。彼は、もっとはっきりとした力強いノックをする。
「どうぞ」
 豊かな巻き髪を軽く手で整え、よそ行きの声で返事をする。
 ガラガラ、と扉が開いた。
 そこから姿を現したのは、思いもよらない人物だった。
「ユールベル……」
 そう言ったきり、絶句した。
「重傷って聞いたけど、ずいぶん元気そうね」
 ユールベルは挑発的に言った。だが、その声は固かった。装った無表情もどことなくぎこちない。緊張をしているのは明らかだった。
「……何をしに来たの。まさか、お見舞いってわけではないでしょう?」
 ユリアは眉間に力を込め、あからさまに嫌悪感を示した。
 ユールベルは顎を引き、小さな口をきゅっと結ぶと、上目遣いに彼女を睨めつけた。
「もう、あなたに怯えるのは嫌だから……決着を、つけにきたの」
「決着?」
 ユリアは眉をしかめた。それの意味するところがわからなかった。怪訝な表情のまま逡巡する。
「ま、さか……」
 あることに考えが至った。みるみるうちに顔色が失せていく。喉もカラカラに乾いていった。
「まさか、私を、殺そう……っていうの?」
「そんなことはしないわ」
 ユールベルは軽蔑するように言い捨てた。
 タン……。
 ゆっくりと重い足を踏み出した。一歩、一歩とユリアの方へ歩みを刻んでいく。
「な、何……?」
 ユリアは怯えたように、狼狽した声を発した。
 だが、ユールベルは何も答えなかった。歩みも止めなかった。ベッドの傍らまで来ると、ようやく足を止め、まっすぐにユリアを見る。手を伸ばせば、互いに触れられる距離——彼女にとっては、身の危険を感じる距離である。
 すぅ、っと大きく息を吸い、緊迫した面持ちで口を開く。
「私はもう逃げないし、あなたを怖れたりもしない。アンソニーは、絶対に渡さないから」
「……何なの、それ」
 ユリアは拍子抜けしたように、唖然として尋ねた。
「私の決意。あなたに宣言しておこうと思ったの」
 ユールベルにも、子供じみた馬鹿なことだという自覚はあった。だが、彼女にとっては精一杯の行動だった。そして、この行動にかけていた。ユリアに自らの意思で会い、目の前で宣言することができたなら、自分の中の恐怖心を克服することができるのではないか、と——。
 ユリアは急に強気に戻った。ユールベルが自分に危害を加えるつもりはないと悟ったためだ。ふっ、と鼻で笑う。
「決着なんて偉そうに言ったわりには、その程度なの? 呆れたわ」
「近づいただけであれほど怯えていた人が、よくそんなこと言えるわね」
 ユールベルも負けじと言い返す。体中がびくついていた。この距離が怖い。後ずさりたい気持ちを懸命に抑える。
「久しぶりだったから、あなたが虚勢だけの人間だということを忘れていたのよ」
「結界まで張って、二階に私を閉じ込めていたのは、私を怖れていたからじゃないの?」
 ユリアは言葉に詰まった。シーツを掴み、憎々しげに顔をしかめた。
「……そう……いえ、違うわ」
「怖れていたから、優位に立とうとしたんでしょう?」
 ユールベルの首筋には、薄く汗が滲んでいた。
 ユリアも同様に、額に汗を滲ませている。
「母親なんだから、優位に立って何が悪いの」
「あなたに母親の自覚があったなんて驚きだわ」
 ユールベルの声に冷たい響きが加わった。単なる反撃のための言葉ではない。心の奥底からの言葉だった。娘とも思っていないくせに、母親などと口にすることに驚き、そして呆れた。
 ユリアは完全に追い込まれた。深くうつむき、シーツを引きちぎらんばかりにきつく握りしめる。
「……ああ言えば、こう言う……少しも変わっていない……人を怒らせるしか能のない子……」
「言いたいことがあるなら、私に向かってはっきりと言ったらどうなの」
 ユールベルの挑発に、ユリアの中の何かが切れた。
「どこまで馬鹿にすれば気がすむの! いいかげんにして!!」
 怒りで顔を真っ赤にすると、爆発したように叫び、大きく腕を振り上げた。
 空気を切る音が聞こえた気がした。
 ユールベルは息を呑んだ。一瞬、怯えた顔を見せたが、目をそむけることはなかった。
 パシン——。
 何かを打つような高い音が、部屋に弾けた。
 ユールベルの頭が薙ぎ払われた音ではない。
 頬が打たれた音でもない。
 勢いよく振り下ろされたユリアの腕を、ユールベルが片手で受け止めた音だった。
「なっ……」
 ユリアは驚き、目を丸くした。
 行動を起こしたユールベルの方も呆然としていた。
 防御することなど今まで出来なかった。その考えすらなかった。手を上げられれば、ただ受けるしかなかった。彼女の中では、それ以外の選択肢はゼロだった。きっと、アンソニーも同じだろう。
 だが、防ぐことは出来たのだ。
 その腕は、思ったよりもずっと細かった。力も決して強くなどない。ずっと、圧倒的なものと感じていたのは、小さな子供の頃に受けた記憶のせいだろうか。
 時は流れていた——。
 ユールベルの目から、涙が零れ落ちた。
「あなたを怖れる理由なんて、とっくになくなっていたんだわ!」
 泣きながらそう言うと、弾くように腕を押し返した。そして、潤んだ瞳でひと睨みすると、踵を返し、走って部屋を出て行った。
 うなだれたユリアの耳に、遠ざかる靴音がこびり付いた。

 ユールベルはユリアの病室が見えないところまで走ると、ゆっくりと足を止めた。壁に寄りかかり、しゃくり上げながら涙を拭う。
 心の重しが少しだけ軽くなったような気がした。それと同時に、心に大きな穴が空いたようにも感じた。安堵と寂寥の入り混じったような、複雑な心境だった。
 これで少しは何かを変えられたのだろうか。その自信はない。結局、何も変わっていないのかもしれない。それでも良かった。きっかけにくらいにはなるかもしれない——彼女にしてはめずらしく、そんな希望を信じる気持ちになっていた。

「あなたから説得してくれない?」
「そういうことはサイファに頼め」
 ふと、そんな会話がユールベルの耳に入った。片方はとてもよく知っている声だ。その声を聞いただけで、胸が熱く痛んだ。
 何を話しているのだろう。誰と話しているのだろう。
 熱が彼女を衝動のままに突き動かす。靴音をさせないよう忍び足で廊下の角に移動すると、身を隠しながら声の方を盗み見た。
 そこにいたのは、ラウルと王妃アルティナだった。ふたりきりで、他には誰もいない。廊下の中央に立ったまま、向かい合って話をしている。
「自信がないわけ?」
「おまえの命令を受ける義務はない」
「義理はあるでしょう?」
「ルナのことを言っているなら、レイチェルにも同じだけの義理がある」
 互いに喧嘩腰だった。双方とも腕を組み、厳しい顔で睨み合っている。
「いいわよもう」
 先に折れたのはアルティナだった。腰に手をあて、面倒くさそうに大きくため息をつく。反撃の言葉はいくらでもあった。だが、ラウルはそう簡単には落ちないだろう。言い合うだけ時間の無駄である。
「サイファに頼むことにするわ」
「期待は持たないことだな。レイチェルを説得など、誰にも出来はしない」
 ラウルは冷ややかに忠告した。
 アルティナはわずかに顎を上げ、鋭い目を彼に向けた。真顔で瞳の奥を探る。
「そうやって、いつもあきらめてばかりなのね、あなたは」
「何がいいたい」
 ラウルは目つきを険しくした。
「わかってるくせに」
 アルティナはとぼけた口調で軽く言った。
 ラウルには無表情で目を伏せた。自分の中で思い当たることはあった。だが、彼女がそれを知っているはずがない。自分の考えているものと、彼女の考えているものは、まったく違うものなのだろう。そう思うことにした。
「それじゃ、またね」
 アルティナは、身を翻しながら右手を上げ、気持ちを切り替えるように軽い調子で言った。
 ラウルは軽く視線を送ったあと、無言で踵を返した。

 ユールベルは慌てて顔を引っ込めた。柱の陰に回り込み、身を隠す。
 その理由はアルティナだった。ラウルとの話を終えた彼女が、ユールベルのいる方へ向かってきたのだ。艶やかな銀色の髪をなびかせながら、大きな足取りで闊歩している。まっすぐ正面を向いているせいか、隠れたユールベルに少しも気づくことなく通り過ぎ、階段を降りていった。小刻みな靴音が、複雑に反響しながら遠ざかっていく。
 ユールベルはもういちど廊下の角から顔を出し、ふたりがいた場所に目を向けた。だが、そこにラウルの姿は見つけられなかった。
 ——え? どこ?
 慌てて飛び出し、駆けながら何度もあたりを見まわす。緩やかなウェーブを描いた金の髪が、白い包帯とともに振り乱れた。だが、今の彼女にそれを気にする余裕はなかった。

「体調はどうだ」
 病室のひとつから、低い声が聞こえた。
 扉が閉じられているため、中の様子は窺えない。だが、それはラウルの声に間違いなかった。
 ユールベルはその病室に近づき、息をひそめて耳をそばだてた。

「ええ、もう大丈夫」
 レイチェルはにっこりとして答えた。いつもと変わらない愛らしい微笑みだった。
 ラウルは無表情で、彼女の前のパイプ椅子に腰を下ろした。
「無理して笑わなくてもいい」
「無理なんてしていないわ……?」
 レイチェルは不思議そうに、やや語尾を上げて答えた。
 ラウルはわずかに眉を寄せた。
「すまない」
「えっ?」
 レイチェルは困惑した。先ほどからの発言が理解できない。とまどいの眼差しを彼に送る。
 ラウルはそれに答えるように口を開いた。
「おまえにばかり、重荷を背負わせている」
「…………」
 レイチェルは無言のまま、薄く微笑んだ。そして、ゆっくりと目を閉じ、緩やかに首を横に振った。カーディガンの上で、彼女の金髪が静かに揺らめいた。
 彼女は、すべて自分の責任だと思っている。他人がどれだけ違うと言っても、それを受け入れることはないだろう。謝罪も慰めも望んでいない。ラウルにはわかっていた。わかっていながら、どうしても口にせずにはいられなかった。
「私に出来ることがあれば、何でも言え。おまえの頼みは出来る限り聞くつもりだ」
 彼女に背負わせたものと比して、あまりにも小さな償いかもしれない。だが、彼女の意思を尊重した上で、自分にしてやれることといえば、このくらいしかなかった。
 レイチェルは少し思考を巡らせたあと、ぽつりと言った。
「りんごが食べたい」 
「りんごだな、わかった」
 ラウルは真顔で確認すると、おもむろに立ち上がった。
「そこにあるわ」
 レイチェルは後ろの棚を指さした。
 彼女の指先を辿ると、そこに篭盛りのりんごが置いてあった。誰かの見舞いの品のようだった。果物ナイフもその中にあった。
 ラウルは隣の洗面台で軽く手を洗ったのち、篭からひとつを手にとると、ナイフを使って皮を剥き始める。
「やっぱりすごいわね」
 その手際の良さを見て、レイチェルが感嘆した。くるくると回転するたびに、赤い衣がほどかれていく。まるで手品のように見えた。
 ラウルは感心されるほどのことではないと思ったが、彼女が嬉しそうだったので、黙ってそれを見せていた。いい気になっているわけではない、と自分に言い訳をする。ただ、少しだけ昔を思い出した。
 りんごはすぐに剥き終った。小さく切って小皿に盛り、レイチェルに差し出す。
「ありがとう」
 レイチェルは、にっこりと笑って、両手でそれを受け取った。小さなフォークで、そのひとかけらを口に運ぶ。
「おいしい」
 彼女は子供のように素直な感想を述べ、柔らかく微笑んだ。
 ラウルもつられて、ごくわずかだったが、口元を緩ませた。
 ふたりの間に流れる平穏な時間。だが、それは、ほんのひとときのことだった。
「サイファは何か言っていた? 私のこと」
 彼女のその一言で、ラウルはいつもの無表情に戻った。
 彼女は何か察しているのだろうか。それとも尋ねてみただけなのだろうか。確かにサイファとあることを話し合った。しかし、それは彼女にとって歓迎するような内容ではない。伝えるべきかどうか迷った。
「隠さないで」
 見透かしたように、レイチェルは凛とした声で言った。
 ラウルは軽くため息をついた。嘘はつけない。手を拭きながら、あきらめたように椅子に座る。
「サイファから、おまえの記憶を消せないかと相談を受けた」
「えっ……?」
「一連の事故の記憶だ」
「やめて! それは駄目!!」
 レイチェルは取り乱したように哀訴した。ベッドから身を乗り出し、縋るようにラウルの袖を掴む。りんごがのった小皿は、今にも手から滑り落ちそうだった。
 ラウルはその小皿をそっとすくい上げ、隣の棚に置いた。そして、縋り付く小さな手に、自分の大きな手を重ねた。
「安心しろ、おまえの了承なしに、そんなことはしない」
 レイチェルは我にかえると、安堵の息をついた。
「そもそも、成人では上手くいかない可能性の方が高いからな」
 ラウルは抑揚のない声で、そう付け加えた。
 レイチェルは難しい顔でうつむいた。成人の記憶を消すのは困難である——サイファもそのことは知っているはずだ。なのに、なぜ……。忘れるくらいに焦燥していたのかもしれない。それとも、一縷の望みに託すつもりだったのだろうか。
 どちらにしろ、そこまで追い詰めたのは自分なのだ。心を閉ざし、起き上がることさえできない状態を、何日も見せつけてしまった。助けるためには記憶を消すしかない、という極端な考えに至ったとしても、彼を責めることは出来ない。全力で自分を守ろうとしてくれた、その結果なのだから——。
 彼女はラウルの腕から手を引こうとした。ラウルもそれに応じるように、彼女に重ねた手を退けた。
「忘れたくはないのか」
「忘れてはいけないもの」
 レイチェルの小さな口が、迷いなく動いた。
 ラウルは目を閉じ、小さく息をついた。
「あのとき、無理にでも、おまえをここから連れ去るべきだった」
 そうすれば、こんなつらい目に遭わせることはなかった。さらなる重荷を背負わせることはなかった。ラウルの胸に、悔恨の思いが湧き上がった。
 レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「後悔するなんておかしいわ。ラウルは、何度、同じ状況が巡ってきても、きっと同じ選択をする。同意なしに連れていくなんてこと、ラウルにはできないもの」
 ラウルはじっと彼女を見つめた。無表情だったが、心の中はざわめいていた。
「甘く見るな。おまえは私のごく一部しか知らない」
「それで十分だわ、今のラウルを推測するには」
 レイチェルはにこやかに切り返した。
 ラウルは気色ばんだ。彼女の余裕ある言動に腹が立った。自分のことをどれだけ知っているというのだ——急に怖い顔になり、鋭く睨めつける。そして、激しさを喉元で抑えた、迫力のある低音で言った。
「ならば、おまえが間違っていると証明してやる。今からおまえを連れ去る。同意は得ない……それでもいいのか」
「ちゃんと同意を得ようとしているわね」
 レイチェルは肩をすくめて笑った。
 ラウルは肩を落としてうなだれた。顔を隠すように手で押さえる。自分の間抜けさに羞恥を覚えた。同時に、彼女には敵わないとも思った。すっかり見透かされている。やはり、自分には強引に実行することなど無理なのだ。
 サイファなら手段を選ばないのかもしれない。それが必要だと思えば、躊躇なく行動に移すだろう。それが、うらやましくもあり、憎らしくもあった。

 ——そうやって、いつもあきらめてばかりなのね、あなたは。
 脳裏にアルティナの声がよみがえった。あまりにも、今の状況にぴったりとはまる。彼女がいいたかったのは、やはりこのことなのだろうか。

「アルティナが、おまえを説得しろと言ってきた」
 ラウルは不意に話題を変えた。
 ずいぶんと唐突だったが、レイチェルには何の話なのかすぐにわかった。少し前に、病室の外でふたりが言い争うような声が聞こえていた。話の内容までは判別できなかったが、ラウルのその言葉を聞いて、付き人の件に思い当たったのだ。
「説得するつもり?」
「いや、断った」
 ラウルは素っ気なく言った。そして、一拍おいて言い添えた。
「私も付き人を続ける方がいいとは思っている。だが、アルティナに頼まれて説得したのでは、あいつの肩を持つことになるからな」
「子供みたいなことを言うのね」
 その茶々に気を取られることなく、ラウルは真剣に話を続ける。
「私は常におまえの味方でいたい。断ったのはそういう理由だ。だから、今後、私の意思で話を持つことがあるかもしれない」
 レイチェルは真面目にこくりと頷いた。
「だが、今は体を休めることだけを考えろ」
 ラウルは医者としてそう告げたあと、表情を変えずに付け加えた。
「今度、とびきり美味いりんごを持ってくる」
「ありがとう、嬉しい」
 レイチェルは顔をほころばせた。小さな花が咲いたような、可憐な笑顔だった。
 ラウルは、その愛くるしい表情に意識を絡めとられた。それは、あの頃を思い出させるものだった。拒絶しておきながら、忘れようとすれば妨害する。いつもそうだ。自覚がないだけにたちが悪い。ふぅ、と疲れたように小さく息をつく。
「今からでも遅くない。一緒に行かないか」
 どこへ、などと言わなくても通じるだろう。いったいこれで何度目なのか。自分の往生際の悪さに呆れつつ、それでも止めることができなかった。しかし、これが最後だと心に決めた。
「行ったらアルティナさんの付き人を続けられないわ」
 レイチェルは冗談めかして言った。
 だが、ラウルは真顔で返した。
「続けるつもりはないのだろう」
「…………」
 レイチェルは何も答えられなくなった。表情に陰を落とし、うつむいた。
「悪かった、追い詰めるようなことを言って」
 ラウルは低い声で言った。そして、じっと彼女を見つめると、今度は力強く語りかける。
「レイチェル、おまえがここに留まることを望むなら、私もこの国に留まり、おまえの傍らで力になる」
 レイチェルは顔を上げた。嬉しいというより、むしろ苦しかった。彼にはつらい思いばかりさせている。きっとこれからもそうだろう。なのに、彼はいつまでも味方でいようとしてくれている。その気持ちに報いることはできないのに……。せつなげに彼を見つめた。
 ラウルは彼女の瞳に吸い込まれそうになった。ほとんど無意識に手を伸ばす。大きな手のひらが、彼女の白い頬に触れた。
「ラウル?」
 レイチェルは不思議そうに瞬きをした。
「……少し熱っぽいな。休んだ方がいい」
 ラウルは事務的な口調で言った。そして、ゆっくりと手を引いていく。名残惜しげな指先が、彼女から離れた。
「無理をするな」
 そう言い残して立ち上がると、彼女の視線を振り切るように背を向け、大きな足どりで病室を出て行った。

「なに、さっきの……」
 扉を開くと、そこにはユールベルが立っていた。体の横でこぶしを握り、怒りを抑えたような怖い顔をしている。レイチェルとの会話を聞いていたのだろう。どこから聞いていたのかはわからない。だが、そんなことはどうでもよかった。
 ラウルはすぐに扉を閉めた。レイチェルに悟られたくなかった。そして、素知らぬ顔でユールベルの前を通り過ぎようとした。
 だが、ユールベルが逃すはずはなかった。彼の正面にまわり込むと、行く手を阻むように立ちはだかる。
「どうして? どういうことなの? わた、し……」
 ずいぶん混乱しているようだった。混乱というより、動揺かもしれない。顔を歪ませながら、懸命に言葉を探している。
「そう、よ……私にも、あのくらい優しくしてほしかった!!」
 激情とともに、固く握りしめた両手をラウルの胸に叩き付けた。涙があふれた。それを拭うことなく、何度も何度も叩き続ける。それでも、彼にとっては何の痛みにもならなかった。
「私がほしかったものなのにっ……!!」
「ここは病室の前だ。静かにしろ」
 ラウルの口調は冷淡だった。それが、ますますユールベルを激昂させた。
「何が病室よ! あの人に聞かれたくないだけじゃない!!」
「ユールベル?」
 不意に、扉の向こうから声がした。レイチェルのものだ。部屋の前でこれだけ喚いていれば、聞こえない方がおかしい。
「すまない、今、黙らせる」
 ラウルは扉越しに声を投げた。ユールベルをくるりと逆に向かせると、背後から片手で体を抱き寄せ、もう片方の手で口を塞いだ。彼女はラウルに抱き上げられるような格好になり、ほとんど宙に浮いていた。かろうじて地面に触れているつま先が、心もとなさそうに彷徨っている。
 そのまま、離れたところへ連れていこうと足を踏み出しかけた、そのとき——。
「ラウル、ユールベルとふたりきりで話をさせて」
 レイチェルが予想外のことを口走った。さすがのラウルも驚き、慌てた。
「何を言っている。こいつは危険だ。何をしでかすかわからない。ふたりきりになどできるか」
 ユールベルの胸に、締めつけられるような痛みが走った。苦しくて意識が遠のきそうだった。口を塞がれたまま、新たな涙があふれる。心の深いところから湧き上がってきたような、熱い涙だった。
「ラウル、私の頼みは聞いてくれるんでしょう?」
 レイチェルは冷静に返した。
 ラウルは返答に窮した。彼女の頼みを聞く——それは、ラウル自身が彼女に告げたことだった。つい今しがたのことである。もちろん、嘘ではなく本心だ。だが、このようなことは想定していなかった。
「ラウル、お願い」
 もう一度、畳み掛けるように頼み込む。
 ラウルはもう拒むことは出来なかった。無言で扉を開けた。そして、いまだ泣いたままのユールベルを、病室の中へ押しやった。
 レイチェルはベッドの上で穏やかに微笑んでいた。
「い、嫌……わ、わたし……」
 ユールベルはうろたえながら、ラウルのもとに戻ろうとした。だが、ラウルは手を突き出し、それを阻んだ。
「レイチェルに危害を加えるような真似をしたら、ただではおかない」
 凍りつくような冷たい声だった。だが、その瞳は激しく燃えたぎっていた。
 本気だ、とユールベルは思った。ぞくりと身震いをする。体が内側から凍りつくようだった。涙も止まった。その瞬間、悲しみよりも恐怖が勝っていた。彼に対して、ここまでの戦慄を覚えたことはなかった。
 ラウルは静かに扉を閉めた。

 閉ざされた病室の中で、ユールベルとレイチェルはふたりきりになった。
 ユールベルは、ラウルを求めるように伸ばした手を、いまだ下ろせずにいた。その先には扉しかない。縋りたい人の姿はもう見えない。
「ユールベル」
 背後から、鈴を鳴らしたような声が聞こえた。びくりとして、体をこわばらせた。だが、観念したかのように表情を引き締めると、ゆっくりと振り返った。
 レイチェルは優しい笑顔をたたえていた。化粧をしていないその顔は、大人っぽさが抜け、普段よりも若く感じた。まるで少女のようだった。肌は雪のように白く、頬にはわずかな赤みがさしている。小さな唇はほのかな薄紅色をしていた。可憐でいて、儚げ——そんな表現がふさわしかった。

 おじさまのいちばん大切な人。
 レオナルドの好きだった人。
 そして、多分、ラウルも——。
 まるで、愛されるために生まれてきたような人——。

 ユールベルは胸の少し下をぐっと押さえた。何も持っていない自分、すべてを手に入れている彼女。あまりにも違いすぎる。ずるい、と思った。
「ここに座って。ふたりで話をするのは初めてかしら」
 レイチェルは、ラウルが座っていたパイプ椅子を示した。
 ユールベルは緊張しながら足を進めた。言われるまま椅子に座る。わずかに残っていた座面の温もりに、彼女の心が小さくさざめいた。
「お母さまのお見舞いに来たの?」
「私に親はいないわ」
「そうだったわね」
 レイチェルはあっさりと同意した。
「それで、何の話?」
 ユールベルは努めて無愛想に尋ねた。それは、今の自分にできる唯一の防御だった。
「特にこれといってないんだけど……今まであまりあなたと話したことがなかったから、何かお話できればと思って」
 レイチェルは親しみをこめた笑みを向ける。
 だが、ユールベルはそれを受け付けなかった。表情を凍らせたまま、すっと椅子から立ち上がった。
「話がないのなら帰るわ」
 レイチェルの微笑みが、寂しげに翳った。
「私、やっぱりあなたには嫌われているのね」
「……ただ苦手なだけよ」
 ユールベルは顔をそむけて、ぼそりと言った。それは、本当のことだった。子供の頃からそうだった。嫌いというほどの感情はなかったが、一緒にいるのが苦痛だった。とても居心地が悪かった。だから、いつもあからさまに避けて、話もしないようにしていた。今にして思えば、すべて自分の劣等感からきていたのかもしれない。
「お願い、少しここにいてくれないかしら」
 レイチェルは小首を傾げて、控えめにせがんだ。
 そういうふうに可愛らしく頼み込む彼女に、ユールベルは腹立たしさを覚えた。黒い気持ちが湧き上がる。
「私の質問に、答えてくれる?」
「ええ、いいわ」
 レイチェルは嬉しそうに、ぱっと表情を明るくした。
 ユールベルは、彼女を見つめながら、再びゆっくりと腰を下ろした。ギィ、と嫌な音を立てて、パイプ椅子が軋んだ。
「……あなたも、あの爆発に巻き込まれたの? 家は離れていたはずだけど」
 本当はこんなことではなく、ラウルとのことを訊くつもりだった。徹底的に問いつめようと思っていた。だが、無垢なまでの彼女の笑顔を見ていたら、つい違うことを口に上らせていた。
「巻き込まれた……んじゃないわ、私が、起こしたの」
「えっ?」
 あまにりも突飛だったため、にわかには理解できなかった。言葉のままに受け取れなかった。目を見開き、思わず尋ね返す。
 レイチェルは淡々と説明を続ける。
「魔導の実験中に起こった事故ということになっているけれど、私の魔導の力が暴発してしまったのが、本当の原因」
「あなたが……」
 ユールベルは信じられない思いだった。国の結界を損傷するほどの魔導を、彼女がひとりで発したというのだろうか。彼女にはそれほどの魔導力が備わっているようには見えなかった。
「子供の頃、魔導の訓練から逃げてばかりだったの。だから、かしら、自分の力をコントロールできないことがあるみたい。自分にこんな力があるなんて知らなくて……なんて、ただの言い訳ね。我が侭だったから、私」
 遠くに思いを馳せるような口調に、自嘲と後悔の色が入り混じっていた。
「だったら、どうしてそんなに平然としていられるの。あなたの我が侭のせいで、たくさんの人が死んだり怪我をしたりしているのに」
 ユールベルは厳しい追及をする。
「どうしてかしらね」
 レイチェルは他人事のように言った。背中の枕に体重を掛け、ぼんやりと視線をさまよわせる。
 ユールベルはその態度に苛立った。自分のしでかしたことに、何の自覚も持っていないように思えた。彼女を責めるように睨みつける。
「少しくらい心が痛まないの? どうして笑っていられるの? どうしてはしゃいでいられるの? ラウルと楽しそうに話なんかして……。何人もの人を殺しておいてすることじゃないわ」
「ラウルのこと、好きなのね」
 レイチェルは柔らかく微笑みかけた。
 思わぬ反撃に、ユールベルは顔を紅潮させた。
「違う、ラウルのことなんて好きじゃない、あんなひと大嫌いだわ!」
 身を乗り出し、躍起になって否定する。だが、むきになればなるほど、その言葉は虚しいものになっていった。
 だが、レイチェルは優しさをもって、それを受け止めた。
「わかったわ、変なことを言ってごめんなさい」
 ユールベルはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「あなた、は……」
 ためらいがちに口を開き、震えるような声を絞り出した。こわばった顔でレイチェルを見つめる。そして、ひと呼吸ののち、意を決したように、いちばん知りたかったことを尋ねる。
「あなたは、ラウルのこと、好きなの?」
「ええ、好きよ」
 レイチェルはためらいなく答えた。
 ユールベルはカッとした。どうしようもなく頭にきた。無邪気な顔で、何の屈託もなく、平然と答える彼女を許せなかった。顔を隠すようにうつむき、肩を小刻みに震わせながら立ち上がった。
「……私は……やっぱり、あなたのこと、嫌いだわ」
 レイチェルは彼女を見上げ、寂しげに微笑んだ。薄紅色の唇が動き、何かを告げようとする。
 だが、ユールベルはそれを聞くことを拒絶した。片耳を塞ぎながら弾けるように駆け出し、病室を飛び出していった。

 廊下にはラウルがいた。
 彼のことをすっかり忘れていた。話はすべて聞かれたに違いない。その内容を思い返し、ユールベルはカッと顔が熱くなった。目の奥も熱くなった。左目から涙があふれ、頬を伝い落ちた。
「笑いたければ、笑えばいいわ!」
 無表情のラウルを睨みつけ、自暴自棄な叫びを上げる。
 今日は泣いてばかりだった。自分は今、ひどい顔をしているだろう。目が腫れているような気がした。こんな顔を見られたくない——ユールベルは額を掴むように押さえ、深くうつむいた。
「……なっ!!」
 立ち去ろうとした彼女の細い腕を、ラウルは無造作に掴み、引っぱり上げた。ユールベルの体は引き戻され、正面からラウルに倒れかかった。視線を上げれば、近いところに彼の顔がある。
「放して!!」
 この状況に驚き、反射的に逃れようとした。力一杯もがくが、彼に掴まれた腕はびくともしなかった。せめてもの抵抗に、顔だけはそむけた。
「ひとつ言っておく」
 感情を抑えた低い声で、ラウルが前置きした。
 ユールベルは、横目でそっと視線を戻した。
「笑っている人間が、笑わない人間より気楽に生きているなどと決めつけるな」
 ラウルはまっすぐに彼女の目線を捉えて言った。
 ユールベルは涙目で、キッと睨み返した。心の中にいろんな感情が渦巻いた。悲しくて、悔しくて、怖くて、苦しくて、頭がおかしくなりそうだった。
「放して!!」
「このまま帰すわけにはいかない。包帯を直す。来い」
 ラウルはユールベルの手首を掴んだまま歩き出した。彼女の目を覆う包帯は、ずいぶんと緩くなり、ずれかかっていた。
 ユールベルは手を引かれながら、おとなしくついて歩いた。そうするしかなかった。ラウルの手を振り払うなどということは不可能に近い。手の甲で涙の跡を拭う。もう泣いてはいなかった。だが、本当は広い背中に縋り付いて、泣きじゃくりたかった。

 厚い雲の切れ間から、太陽が顔を覗かせた。
 ずいぶん久しぶりに見た気がする。レオナルドは忘れかけていたその眩しさに目を細めた。
「レオナルド!」
 不意に、背後から自分の名を呼ばれた。訝しげに振り返る。足の下で、固くなった雪が、ジャリ、と濁った音を立てた。
 視線を向けた先にいたのは、自転車に乗った黒髪の女性だった。手を振りながら、ふらふらと走っている。どうやらこちらに向かってくるようだ。
 彼女はレオナルドの横まで来ると、ブレーキをかけて止まろうとした。だが、前輪を雪にとられたらしく、ぐらりとバランスを崩した。わっ、と焦った声を上げながらも、とっさに足をついて体勢を戻した。
 ふう、と小さく安堵の息をついた。そして、ぱっと顔を上げると、親しげな笑みを見せる。
「久しぶりっ」
「……誰だおまえは」
「はぁ?」
 思いもよらないレオナルドの返答に、彼女は素っ頓狂な声を上げた。口をとがらせると、下からじっと覗き込むようにして睨む。
「それ、本気で言ってるわけ?」
「声はどこかで聞いたことがあるような気が……あっ!」
「思い出した?」
 彼女はくすりと笑う。
「ターニャか?」
「正解」
 レオナルドは、唖然として彼女を見た。上から下まで、まじまじと視線を巡らせる。ずいぶんと雰囲気が変わっていた。髪は胸のあたりまで伸び、薄く化粧もしているようだ。そして、細身のパンツスーツを着こなしている。以前よりも大人っぽく、そして、女らしくなった気がした。
「そんなに変わった?」
「性格はそのままのようだな」
「まあね」
 レオナルドは嫌みのつもりだったが、ターニャは素直に受け取った。もっとも、その嫌みも、半分は照れ隠しのようなものだった。
「これから帰るの?」
「ああ」
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろ。方向、同じみたいだし」
 ターニャは一方的にそう言うと、返事を待たずに自転車を降りた。それを引きながら、レオナルドと並んで歩き始める。
「こんな雪の積もっているときに、自転車なんてよく乗るな」
 レオナルドは半ば呆れたように言った。
「雪のない部分でしか乗ってないわよ」
 細い道はまだ雪や氷で覆われているが、大通りは早い段階から除雪されていた。特に、王宮に近いこのあたりは、細めの道でも除雪されていることが多い。そういう道を選んで通っているということだろう。この道も、隅の方は雪が残っているが、中央部分はきれいに除雪されている。
「ついてないのよね、ワタシ」
 ため息まじりにそう言うと、ターニャは面白くなさそうに口をとがらせた。
「練習してようやく乗れるようになったと思ったら、急に雪が積もっちゃうんだもん。しばらく乗ってないと、感覚を忘れそうだったし、仕方なくってところかな」
「今まで乗れなかったのか」
 レオナルドは驚いたように言った。自転車など、幼い頃にみんな乗れるようになるものだと思っていた。
 ターニャは少し恥ずかしそうに、頬を赤らめながら、上目遣いで彼を睨んだ。
「そうよ、悪い?」
「いや、悪くはないが、天然記念物モノだな」
「いくらなんでも、そこまでめずらしくないでしょ」
「俺はどっちも見たことがない」
 レオナルドは無遠慮に言葉を重ねる。
「なんで今さら乗ろうと思ったんだ?」
「ああ、それ? えーっと……」
 ターニャは空を見上げながら、言葉を探した。
「私ね、母親に会いに行こうと思ったの。ずっと会いたくなかった母親だけど……。そのために、自転車を練習したのよ」
「なんで自転車なんだ。他に手段はいくらでもあるだろう」
「どうしてかなぁ」
 レオナルドの率直な疑問は、彼女自身にも疑問だった。ハンドルに両腕を置いてもたれかかり、視線を落として考え込む。
「何か、克服したかったのかな。それとも、自分を試してたのかも……」
「そんなに嫌なら、会わなければいいだろう」
「逃げてばかりじゃ、何も変わらないから」
 ターニャは少し照れたように言った。
 だが、レオナルドはたいして興味なさそうだった。
「ただの自己満足じゃないのか」
「それでもいいの」
 ターニャはにっこりと笑った。
「ねぇ、レオナルドのお母さんってどんな人?」
「口うるさいだけだ。子供の頃はよくゲンコツくらった」
 レオナルドは面倒くさそうに、しかし思いのほか丁寧に答えた。
「へぇ、ちゃんと親子してるんだ…って、あ! レオナルドの家は大丈夫だったの? 例の爆発」
 ターニャは突然、思い出したように尋ねた。
「ああ、俺の家は離れてたから」
 レオナルドは前を向いたまま、素っ気なく答えた。もし、何かあったとしたら、こんなところで呑気に母親の話などしていないだろう。そのくらいわかって然るべきだと思ったが、今さらこんな質問をしてくるなど、彼女は思ったより抜けているようだ。
「そう、良かった。少し心配してたんだ」
「少しだけか」
「心配しただけ有り難がってよ」
 レオナルドのひねくれた発言にもめげず、ターニャは明るく笑って言い返した。

「そういえば、今日はユールベルと一緒じゃないのね」
 しばしの沈黙のあと、ターニャはふとそんなことを口にした。
 レオナルドの心は、その一言で掻き乱された。
「アカデミーを休んでいたんだ。……ラウルのところへ行っていたみたいだ」
 ターニャと会う少し前、アカデミーの近くでユールベルを見かけた。声を掛けようと思ったが、新しい包帯を見て、声を掛けられなくなった。その巻き方や結び方は、ラウルのものだったからである。
「そっか」
 ターニャは寂しげに言った。ちらりと横目でレオナルドを盗み見る。彼はまっすぐ前を見据えていた。だが、その表情はどこか疲弊しているようだった。
「キミたち、どうなってるの?」
 ユールベルには訊けなかった不躾な質問をぶつけてみる。ずっと気になっていたことだった。レオナルドには、これだけで意味するところは通じるはずだ。返答を拒まれるかもしれないと思ったが、意外にも冷静に答えてくれた。
「どうにもなってないさ。ずっと、よくわからない状態が続いている」
「それでいいの?」
「俺の問題じゃない、ユールベルの問題だからな。……正直、どうしていいか、俺にはわからない」
 レオナルドは足元を見ながら、ため息をついた。
「ずいぶん弱気ね」
 ターニャは少し驚いていた。いつも傲慢なまでの態度をとっているレオナルドが、自分にこんな弱音を吐露するなど信じられなかった。だが、一年、二年とこんな状態が続けば、不安になるのも、疲れるのも、無理ないのかもしれない。
 レオナルドはさらに、信じがたいことを口にした。
「あいつが幸せになるのなら、俺は身を引いてもいいと思っている」
「ええっ?! 本気で言ってるの……?」
「ああ、でも、あいつはジークやらラウルやら、どう考えても無理っぽいところばかりに行くからな……今はやっぱり目を離せない」
 レオナルドは、もう一度、深くため息をついた。
「だったら、もうちょっと頑張ってみたら?」
「これ以上、頑張ったら、完全にストーカーだぞ」
「イイ男になれって言ってんの!」
 ターニャは元気づけるように明るく笑いかけた。
 レオナルドは何と返事していいかわからず、むすっとして顔をそむけた。

「俺はこっちに曲がるが……」
 十字路に差し掛かり、レオナルドは右を指差した。
「じゃあ、ここでお別れね。あ、ちょっと待って」
 ターニャはポケットを探り、小さな紙片を取り出した。
「これあげる。私の名刺。かっこいいでしょ」
 嬉しそうにえへへと笑って、レオナルドに差し出した。だが、それはどう見ても、何の変哲もないごく普通の名刺だった。左上に勤めている研究所の名前が記されている。特段、自慢するようなものでもない。
 レオナルドはそれを受け取ると、視線を落としてじっと見つめた。なぜか異様に真面目な顔をしている。ターニャが不思議そうに見ていると、彼は顔を上げて尋ねた。
「これ、勤め先だろう。連絡してもいいのか?」
「……は?」
「……ん?」
 ふたりは互いの反応が理解できなかった。思いきり怪訝な表情で、探るように顔を見合わせる。
「貸して」
 先に動いたのはターニャだった。レオナルドの指から名刺を取り上げると、ポケットからボールペンを取り出し、裏に何かを書き記した。
「連絡するならこっちにして。自宅だから」
 手書きの面を掲げ、もう一度レオナルドに手渡した。
「ああ? わかった……」
 レオナルドはどうにも腑に落ちないといった様子で、それを受け取った。最初から自宅の連絡先をくれればよかったじゃないか、と心の中で毒づいた。
「じゃあね。完全にふられたりしたら連絡ちょうだい。晩ごはんくらいおごってあげるから!」
 ターニャは自転車にまたがり、笑いながら言った。手を振りながら走り去って行く。ようやく乗れるようになったという言葉を裏付けるように、彼女の走行はふらふらして危なっかしげだった。
「おごるって……あいつ、貧乏人のくせに何を言ってるんだ……」
 レオナルドは首を傾げながら、奇妙な面持ちでつぶやいた。そして、名刺を掴んだ手をジャケットのポケットに入れると、右側の道へ足を踏み出した。
 緩やかな風が吹いた。柔らかい髪がふわりと舞い上がった。頬をかすめるその温度は、まだ暖かいとはいえなかったが、少しだけ冷たさが和らいでいた。


90. 責務

「アンジェリカ!!」
 ジークは声の限りに叫んだ。しかし、彼女を止めることは出来ない。次第に遠ざかっていく足音が、棘のように心に突き刺さる——。

 あれから一週間が過ぎた。
 ジークはまだ病院のベッドに縛り付けられたままだった。比較的、軽い骨折だった左腕は、まもなく器具が外される予定だと聞いた。だが、右手は当分ギプスのままで、両足も固定され動かすことを禁止されている。完治までにはほど遠い。
 何もすることが出来ない今の状態では、母親やリックの見舞いが唯一の楽しみだった。ひとりでいると、どうしても暗い思考に陥ってしまう。誰かとたわいのない話をしている間だけは、気を紛らわすことができた。

「すまないな、あまり顔を出せなくて」
 サイファは魔導省の制服のまま、ジークの病室にやってきた。仕事の合間に抜けてきたようだ。いつものように、ベッド脇にパイプ椅子を広げて座る。正面のカーテンは開けられており、少し汚れたガラス越しに、鈍色の空が広がっていた。その厚い雲の切れ目からは、わずかに太陽が顔を覗かせている。
「いえ」
 ジークはベッドの上に横たわったまま返事をした。目線だけを彼に向ける。
 あまり顔を出せなくて——などと言っているが、サイファは一日一回、必ずこうやって顔を見せに来ていた。彼なりに責任を感じているのだろう。もっとも、仕事が忙しいらしく、二、三の言葉を交わすだけで終わることが多かった。もちろん、ジークにそれを責めるつもりは微塵もない。むしろ、多忙な状況にもかかわらず、自分のことを気に掛けてくれることが嬉しかった。
「後始末も落ち着いてきたから、これからは時間が取れそうだよ」
「後始末……?」
 あまり穏やかではない言葉の響きに、ジークはおずおずと聞き返した。
 サイファは小さくくすりと笑った。ジークの反応が無性に可笑しかった。自分はよほど信用されていないらしい。彼にしたことを思えば、それも当然のことだろう。
「結界の修復、被害者への補償、その他事後処理などだね」
 軽くそう答えると、膝の上で手を組み合わせた。続けて説明をする。
「結界は修復の目処が立ったよ。応急処置は完了している。これから一ヶ月かけて、徐々に元の強度へ戻していくことになった。あと、被害者との話し合いもほぼ終わった。ラグランジェ家の人間、つまり身内が多いから、あまりややこしいことにはならずに済みそうだよ。不幸中の幸いといったところかな」
「そうですか」
 ジークは安堵の息をついた。サイファの後始末の内容は、いたって正当なものだった。不穏なことを考えそうになっていた自分を反省した。
 サイファは軽い調子で話を続ける。
「この一週間、寝る間もないほど忙殺されていてね。家にもほとんど帰っていないんだ。アンジェリカの顔も、もう三日も見ていないよ。あの子は元気にしているか?」
「あ……」
 ジークは沈んだ声を落とし、表情を曇らせた。眉根を寄せて顔をそらす。
 サイファは驚いたように、目を少し大きくした。
「どうした?」
「来て、ないです、一週間……」
 ジークは訥々と答えた。
 隣のレイチェルのところへは、何度か見舞いに行っているようだった。話の内容まではわからないが、薄い壁を通して彼女の声が微かに聞こえた。たまに笑い声も混じっていた。
 そのたびに、こちらにも来てくれるのではないかと、無駄な期待をしてしまう自分がいた。病室の前の軽い足音に、痛いくらいに胸を高鳴らせていた。だが、それはいつも通り過ぎるだけで、決して扉を越えてくることはなかった。
「喧嘩でもしたのか?」
「いえ、喧嘩じゃ……なくて……」
 ジークは眉間に皺を寄せた。どう説明しようかと頭を巡らせた。
「言いたくなければ聞かないよ」
 サイファは安心させるように、柔らかく微笑みかけた。気にはなったが、無理に問いつめるのも不憫だと思った。何か言いにくい事情があるのだろう。ぽん、と彼の肩に手を置く。
 ジークは彼を見上げた。その手から温もりが沁みてきた。不意に胸が締めつけられ、泣きたいような気持ちになった。
「俺……ダメです……ひとりでバカみたいに焦って、勝手なことばかり言って、自分の気持ちを押しつけて……」
「プロポーズでもしたのかい」
 サイファは笑いながら言った。重い空気を払拭しようと、軽くからかってみたつもりだった。
 しかし、ジークの反応は予想外のものだった。
「どうしてわかったんですか?」
 目を見開き、きょとんとして尋ね返す。それは、肯定の返事でもあった。
 今度はサイファの方が驚いた。
「本当なのか?」
 ジークがこんな嘘や冗談を言う人間でないことはわかっているはずだった。それでも、確認せずにはいられなかった。それほど動揺したのだろう。彼がこのために頑張ってきたということは理解していたが、アンジェリカはまだ13歳である。いきなりそうくるとは思わなかった。
 ジークは視線を落とし、自嘲の笑みを浮かべた。
「最後まで聞いてもらえませんでしたけど……」
「そうか……」
 サイファは大きく息をついた。アンジェリカの考えはおおよそ理解できた。彼女はこの事件に責任を感じている。自分だけ幸せにはなれないと思ったのだろう。昨日の今日では無理からぬことだ。
 だが、ジークの気持ちもわからないではなかった。
「焦るのは仕方ないよ。殺されかけたうえに、あんな話まで聞かされたんだからな。すべて私のせいだ、すまなかった」
「違います。俺が悪いんです。俺が、アンジェリカの気持ちをわかってやれなかったから……。それどころか、ぜんぶ終わったと思って、ひとり浮かれてた……最低だ……」
 ジークは苦しげに胸の内を吐き出した。少し涙目になっていた。それを隠すように、顔をそむける。そして、小さくすすり上げると、弱々しい声で続けた。
「きっとアンジェリカには、俺なんかより、サイファさんの方が……」
 サイファは大きく目を見開いた。そして、少し呆れたように言う。
「まだあの話を気にしているのか」
 あの話とは、サイファがアンジェリカの夫になるという話である。彼自身が望んだことではない。ラグランジェ家の存続と繁栄のために、長老会が決定したことだった。ルーファス亡き今、その話も白紙に戻った。いや、戻したのだ。ジークにはまだ伝えていなかったが、ラグランジェ家どうしでの婚姻しか認めないという規則も撤廃していくつもりだった。
 ジークは顔をそむけたまま、拗ねたように口をとがらせた。
「そういうわけじゃ……ただ、サイファさんの方がアンジェリカを幸せにできるんじゃないかって思っただけです」
「幸せにするよ」
 サイファはさらりと言った。息を呑んで振り返ったジークを、真顔で見つめて付言する。
「ただし、父親としてね」
「あ……」
 ジークの口から、はっとしたような安堵したような声が漏れた。
 サイファは真剣な表情のまま、厳しい口調で問いかける。
「君はあきらめるのか? どれだけ忠告しても引かなかったあの気概はどこへ行ったんだ」
「すみません……」
 ジークは目を伏せ、消え入りそうに謝った。
 サイファは小さくため息をついた。彼を奮起させようとしたが、失敗に終わってしまった。方法を誤ったのかもしれない。彼には時間が必要なのだろう。もうしばらくは、そっとしておくことにした。
「アンジェリカに伝えることはあるか?」
「……わかりません」
 ジークはゆっくりと首を横に振った。伝えたい気持ちは山ほどあるが、自分には何も言う資格はないような気がした。何を言っても説得力がないように思えた。
「伝言役はいつでも務めるよ。ゆっくり頭の中を整理するといい」
 サイファは優しく言った。
 ジークは胸が熱くなった。彼の穏やかな微笑みを見上げながら、わずかにこくりと頷いた。
「さあ、本題に入ろうか」
 サイファは体を起こして背筋を伸ばし、気持ちを切り替えるように声を張った。
「本題?」
 ジークは何気なく聞き返した。
 サイファはズボンのポケットから手帳を取り出しながら答えた。
「そう、今日は君の卒業論文について聞きにきたんだ。テーマは決めたか?」
「あ、いえ……」
 ジークは沈んだ声で返事をした。右手は完治までに二ヶ月ほどかかると聞いている。脚の方は、リハビリもあるため、もう少しかかるらしい。論文の締切がいつなのか詳しくは知らないが、確か三ヶ月後くらいのはずだ。とても間に合うとは思えなかった。
「私の予定もあるから、早めに取り掛かってもらわないとな」
 サイファは手帳に目を落としつつ、ページを繰りながら淡々と言う。
「サイファさんの予定……?」
「なんだ、ラウルに聞いてないのか?」
 本気でわかってなさそうなジークの顔を見て、サイファは少し驚いたように言った。
「私が君の論文の手伝いをするんだよ。今の君の状態では、文献を探しにいくどころか、読むこともままならないだろう。念のため、ラウルには代筆の許可ももらってある」
「え、でも……」
「もちろん、内容を考えるのは君だよ。私は君の手足になるだけだ」
「そ、そこまで迷惑は掛けられません!」
 ジークはあわてて断った。手足と聞いてたじろいだ。相手はラグランジェ家当主であり、魔導省副長官である。そんな人を手足として使うなど、一介の学生にすぎない自分には出来ない。とんでもないことだ。
 そんなジークの様子を見て、サイファは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「君をこんな状態にしたのは誰だったかな?」
「それは……」
 ジークは言葉に詰まった。難しい顔で考え込む。眉間には皺が刻まれていた。
 サイファは、そんな彼を後押しするように畳み掛ける。
「君には卒業してもらわないと困るんだ。魔導省の内定のことを忘れたわけではないだろう?」
「でも……」
「互いのためだよ。遠慮など不要だ」
「そう、ですね」
 ジークも卒業したくないわけではない。いや、卒業できなければ、彼自身も困ってしまうだろう。だからといって、リックに頼むのも気が引ける。彼にもジークと同じように卒業論文があるからだ。こうなったら、腹を括ってサイファの申し出を受けるしかない。
「よろしくお願いします」
 ジークはやや気後れしながら言った。その声には、まだ少しの迷いが含まれていた。
 サイファはにっこりと微笑みを返した。

 ——コンコン。
 不意に扉がノックされた。
 母親ではないだろう。彼女ならノックなどせずに飛び込んでくるからだ。この時間だとアカデミーに行っているはずのリックでもない。当然、アンジェリカであるはずはない。
「はい」
 誰だろうと思いながら、ジークは返事をした。
 それを待っていたように、静かに扉が引き開けられる。そこから姿を現したのは、レイチェルだった。寝衣ではなく、きっちりとドレスを着込んでいる。可憐な微笑みをたたえながら、軽く頭を下げた。
「早かったね」
 サイファは椅子から立ち上がり、彼女へと足を進めた。細い髪を指で梳くように撫でる。
「もう準備はできたのかい?」
「ええ、荷物は部屋の前にまとめてあるわ」
 レイチェルは彼を見上げ、にっこりと返事をした。そして、少し真面目な顔になると、サイファの手から離れ、ジークに向き直った。ゆっくりと一歩前に歩み出る。
「ジークさん、私、今日で退院することになりました」
「良かったですね」
 ジークは微かに表情を緩めて答えた。サイファとの会話から、退院することは察しがついていた。彼女は怪我をしているわけではなく、魔導力の消耗による衰弱だけだった。回復までにそう時間がかかるものではない。
 ただ、精神的に大きなショックを受け、寝込んでいると聞いていた。自分の魔導力により、あんな事故が起こってしまったのだ。そのせいで父親まで亡くなっているのだ。無理もないだろう。だが、先ほどの彼女の様子を見る限り、少なくとも表面上は元気を取り戻したようだ。
「いろいろと、申しわけありませんでした」
 レイチェルはきゅっと表情を引き締めると、厳粛な声で謝罪の言葉を口にした。
「ジークさんには随分とご迷惑をお掛けしました。……お聞きになったのですよね?」
「……はい」
 ジークにはそれだけしか言えなかった。複雑な表情で目を伏せる。
「言い訳はしません。すべて私の行動が起こした結果です。本当に申しわけありませんでした」
 レイチェルは真摯にそう言うと、深々と頭を下げた。長い髪がさらさらと肩から滑り落ちていく。
「俺は……」
 ジークは低い声でためらいがちに切り出すと、顔をそむけ、視線を窓の外に流した。軽く息を吸い、ゆっくりと言葉を繋げていく。
「俺は、アンジェリカに会えたから、だから……」
 そこまで言うのが精一杯だった。それ以上は声にできそうもなかった。言おうとしていることは嘘ではない。だが、心の中にさまざまな葛藤があった。サイファへの遠慮もあった。口を結び、眉間に力を入れる。
「良かった……」
 背後からの吐息まじりの声。ジークは驚いて振り向く。
「良かった、あの子のことを否定しないでくれて」
 レイチェルは微笑んで言った。儚い微笑みだった。だが、声には安堵したような響きがあった。
「それだけが心配だったから……ありがとうございます」
 彼女は胸に手をあて、もういちど頭を下げた。
 ジークは何か言わなければと思いつつ、言葉が出てこなかった。もどかしさに眉をしかめる。顔を上げた彼女と目が合うと、ぎこちない微笑みを見せた。

「レイチェル、そろそろ行こうか」
 壁に寄りかかっていたサイファが、タイミングを見計らって口を開いた。後ろから彼女の腰に手をまわすと、寄り添いながら病室を出て行った。戸口でちらりとジークに視線を流し、軽く手を挙げる。そして、後ろ手でそっと扉を閉めた。
 ジークは小さく息をついた。少し疲れてしまったようだ。目を細め、象牙色の天井を見つめる。
 そのとき、ふいに、扉の向こうの会話が耳に入った。
「家まで歩ける?」
「ええ」
「じゃあ、一緒に歩いて帰ろうか」
「お仕事はいいの?」
「少しくらい抜けても平気だよ」
「また部下の子に怒られるわよ」
 くすくすと笑い声が混じる。
 それは、本当に仲の良さを感じさせるものだった。穏やかであたたかい空気が流れている。おそらくさまざまなことを乗り越えてきたのだろう。そのうえに彼らの今があるのだ。
 自分は……自分たちは、この状況を乗り越えられるのだろうか——。
 ジークはガラス越しの空を見上げて、深くため息をついた。わずかに覗いていた太陽は、いつのまにか再び厚い雲に隠されていた。

 リックたち最終学年生にとっては、今日がアカデミー最後の授業だった。これからは授業はなく、各自卒業論文に取りかかることになっている。
「アンジェリカ、これからジークのお見舞いに行くんだけど、一緒に行かない?」
 リックはアンジェリカの席に歩み寄り、覗き込むようにして声を掛けた。
 彼女は帰り支度の手を止めると、にっこりと笑顔を作って彼を見上げた。
「ごめんなさい。今日は行くところがあるから」
「今日はじゃなくて、今日もでしょう?」
 リックの反対側から聞こえた、不機嫌そうな女性の声。それは、セリカのものだった。彼女はリックとともにジークの見舞いに行くことが多い。今日もそのために来ているのだろう。
「ええ、そうね」
 アンジェリカは彼女に振り向くこともなく、素っ気なく答えた。まともに相手をするつもりはなさそうだった。
 セリカはムッとして何かを言い返そうとしたが、リックが無言でそれを制した。そして、アンジェリカに向き直り、穏やかに尋ね掛ける。
「ジークのお見舞い、行ってる?」
 もしかしたら、彼女は自分たちと一緒に行くより、ひとりで行きたいと思ってるのかもしれない。ひとりで行っているのなら、それはそれでいい。そうであってほしい——その期待を込めての質問だった。
 だが、アンジェリカの返答は、期待とは逆のものだった。口を閉ざしたまま、首を横に振った。
 それを見て、セリカは逆上した。
「どういうつもりなの? 何があったか知らないけど、あんまりじゃない?」
「セリカ、僕らが口を出すことじゃないよ」
 リックは落ち着いた口調でたしなめた。
 だが、セリカの気持ちはおさまらなかった。かえって昂っていった。
「だって、こんなのひどすぎるわ!ジークはずっとずっと頑張ってきた。すごく頑張ってきた。全部あなたのためなのよ? あなたのために、あんな大怪我まで負ったのよ? 下手すれば死んでた。しかも、それをやったのはあなたの父親っていうじゃない。少しは申しわけないと思わないの?! 自分が自由になったら、ジークはもう用なし?! 利用してただけ?!」
 激情に突き動かされるままに、一気に捲し立てて非難した。
 アンジェリカはずっと無表情でそれを聞いていた。セリカが言い終わると、鞄を閉め、椅子から立ち上がった。うつむいたまま机に手をつき、ぽつりと言葉を落とす。
「わかっているわ。私がひどい人間だってことくらい」
「どうして反論しないの?!」
「そのとおりだからよ」
「ちゃんとこっちを見て言って!」
 セリカはアンジェリカの華奢な肩を引いた。
 だが、アンジェリカは振り向かず、その手を払いのけた。そして、鞄を手にとると、自分からセリカに向かい合った。真剣な表情で、背の高い彼女を見上げる。
「私は、もうジークに会うつもりはない」
 きっぱりとした口調だった。迷いなど感じられなかった。
 セリカは小さなアンジェリカに圧倒された。彼女を説得することは不可能に思えた。何を言っても自分の意志を曲げることはないだろう。彼女の強情さは以前から知っている。おそらく、自分にはどうすることもできない。だったら、せめて——。
「……理由くらい聞かせて」
 かぼそい声だった。瞳も悲しげに揺らいでいる。
 だが、アンジェリカの漆黒の瞳は、強い光をたたえていた。まっすぐにセリカを見つめて言う。
「私がそう決めたからよ」
「理由になってない!」
 セリカは泣きそうになりながら叫んだ。
 それでも、アンジェリカの心が揺さぶられることはなかった。
「何とでも言えばいい。気の済むまで罵倒すればいい」
 そう言って、セリカの横をすり抜け、教室から出ていこうとした。
「アンジェリカ!」
 リックの呼び声に、アンジェリカの足が止まった。ほとんど無意識だった。条件反射のようなものだったかもしれない。
「ジークは、きっと、いつまでも待ってるよ」
 背後から聞こえたその声は、とても優しかったが、どこか寂しげだった。
 アンジェリカは胸がズキリと痛んだ。顎を引き、ぎゅっと目をつぶる。そして、その痛みを振り払うかのように駆け出すと、教室から走り去っていった。

 小さくなる彼女の足音を聞きながら、セリカは額を押さえてうなだれた。
「私、随分ひどいこと言っちゃった」
「そうだね、ちょっとひどかったね」
 リックは微笑みながら応じた。小さく肩をすくめて見せる。
 セリカはうつむいたまま、顔中に後悔を広げた。
「あそこまで言うつもりじゃなかったのに、止まらなくなっちゃって……」
 そこで言葉を詰まらせると、泣きそうに瞳を潤ませた。それでも、涙を零さないよう精一杯こらえた。自分は泣く立場にはない。
「多分、アンジェリカも苦しんでるんだと思うよ」
 リックは冷静に言った。
 セリカは神妙にこくりと頷いた。彼女もアンジェリカの言葉がそのまま本心だとは思っていない。きっと何か理由があるはずだ。目尻を拭い、顔を上げる。
「私たちに何か出来ることはないの?」
「うーん、難しいね……」
 リックは腕を組み、首を傾げて考え込んだ。
「ずっとふたりと友達でいること、くらいかな?」
 そう言って、にっこりと微笑みかける。
「……ええ、そうよね」
 セリカはうつむいて、わずかに表情を緩めた。きっと、自分たちに出来ることはそのくらいしかない。しかし、それはとても大切なこと——。
「行こうか、お見舞い」
「ええ」
 リックは包み込むように彼女の手をとると、病院に向かって歩き出した。

 ——コンコン。
 アンジェリカは緊張した面持ちで、医務室の扉をノックした。
「開いている」
 すぐに、中から声が聞こえた。
 アンジェリカはぐっと表情を引き締めた。そっと引き戸を開け、中へ入る。
「何の用だ」
 机に向かっていたラウルは、冷たく彼女を一瞥して言った。
「聞きたいことがあるの」
「何だ」
 アンジェリカはきゅっと口を結び、彼の横顔を見つめた。そして、小さく息を吸い、意を決したように口を開く。
「私の髪と瞳が黒い理由。知っているんでしょう?」
「知らんな」
 ラウルの返答は少しのためらいもなかった。そして、取りつく島もないくらいに素っ気ないものだった。
 だが、アンジェリカは挫けなかった。そのくらいのことは想定済みである。すぐに答えてもらえるなどとは、初めから思っていない。今日は粘れるだけ粘るつもりで来たのだ。
「これが事件の始まりなんでしょう? お父さんは隠しているけど、そのくらいわかるわ」
「ならば、サイファに聞け」
「お父さんは無理よ……ラウルなら嘘をつかないと思ったから」
「知らんと言っている。それを信じたらいいだろう」
 ラウルは振り向くこともなく淡々と答えた。机に向かったまま、ペンを持つ手を動かし続けている。
 アンジェリカはじっと彼を見据えた。
「ラウルは医者だから知っているはずだわ。いえ、きっとラウルが突き止めたんだわ。私がまだ赤ん坊だった頃に」
 ラウルは一瞬、手を止めた。だが、すぐに筆記を再開する。
 アンジェリカはうつむき、胸元をぐっと押さえた。
「私、遺伝子の異常なの? 長くは生きられないの?」
 落ち着いた静かな声。だが、その中に微かな震えがあった。
 再び、ラウルの手が止まった。今度は一瞬ではなかった。カタンとペンを置き、椅子をまわして彼女に向かい合った。その不安そうな顔を、険しい表情で見つめる。
「誰がそんなことを言った」
「そうとしか思えないもの。呪われているなんて非科学的なことを除外すれば、これくらいしか思い当たることがない。ひいおじいさまが事を急いたのは、私の先が短いことを知ったからよ。私が死んでしまう前に、私の魔導力を子孫に受け継がせたかったんだわ。お父さんとお母さんが、私の婚約者を決めなかったのも、私をこんなに自由にさせてくれているのも、きっと長く生きられないことを知っていたからね」
 アンジェリカはほとんど確信しているような口調で言った。そして、心の中で付け加える。
 ——ジークだって、あんなに急いでいたし。
 まだ13歳の自分にあんなことを言うのは、きっと、自分の先が短いことを知ったからに違いない。そう考えれば辻褄が合う。
 ジークの気持ちは嬉しかった。しかし、自分だけ幸せになることなど許されない。自分の存在が、多くの人を不幸にしてきたのである。そして、ジークさえも不幸にしてしまう。一緒にいられる時間は長くないのだろう。だったら、もう会わない方がいい。
「何を勝手な推測ばかりしている」
 ラウルは眉をしかめて言った。
「私は本当のことが知りたいの。ユールベルのときみたいに、私だけ何も知らないなんて、そんなの許されないわ。もう小さな子供じゃない。私のせいで起こったことなら、その原因を知らなければならないのよ」
 アンジェリカは一歩踏み出し、胸に手をあて、必死に訴えかけた。まっすぐ彼を見つめ続ける。
 だが、不意にその瞳が揺らいだ。
 きっと、生まれてしまったことが罪——。
 優しい両親は、それが事実であっても、絶対にそうは言わないだろう。だから、自分も絶対に口には出さないと決めた。だが、こんな子だと知っていれば、生まなかったに違いない。そのことを思うと、胸が押しつぶされそうになる。
 ラウルは腕を組み、ため息をついた。
「おまえの言っていることが的外れだということだけは、はっきりと言える」
「的外れ……ってことは、本当のことを知っているのね?!」
 アンジェリカは目を見開いて身を乗り出した。
「そうではない。おまえの遺伝子に異常などない、それがわかっているというだけだ」
 ラウルは面倒くさそうに答えた。くるりと椅子をまわし、机に向かう。
 だが、アンジェリカはその答えに納得しなかった。両手を祈るように組み合わせ、ラウルの横顔に懇願する。
「お願い、ラウル。私、聞いたことは誰にも言わない。もちろん、お父さんにもお母さんにも。自分の胸だけに留めておくわ。だから……」
「知らんと言っている。信じるも信じないもおまえの勝手だ。これ以上おまえに言うことはない」
 ラウルは、鞄に書類を投げ込みながら、苛ついた口調で突き放した。
 アンジェリカは暗く表情を沈ませた。眉根を寄せながら目を伏せる。こうなってしまっては、もう何を聞いても答えてはくれないだろう。これが、最後の望みだったのに——。
「もう出ろ。私はこれから往診に行く」
「往診? もしかして、あの事件の……?」
「そうだ」
 ラウルは鞄の口を閉めて立ち上がった。
 アンジェリカははっとして、彼の袖を掴んだ。思いつめたような表情で見上げる。
「私も連れていって、手伝わせて!」
「断る。とっとと帰れ」
 ラウルは冷たく言い捨てた。鞄を取り、医務室を出ようとする。
 だが、アンジェリカは手を離さなかった。袖を掴んだまま、彼を見上げ、懸命に訴えかける。
「私のせいなのよ? 何か出来ることがあれば、少しでも償えるなら……」
「おまえに責任などひとつもない」
「私の存在のせいで起こったのは事実でしょう?」
 ラウルは迫力のある眼差しで、ギロリと睨み下ろした。
「迷惑だ、帰れ」
 凄みをきかせた低音で唸るように言う。
「これは人の命を預かる仕事だ。思いつきの自己満足などに付き合ってられん」
 それは、反論しようのない正論だった。アンジェリカの表情が翳った。
「確かに思いつきだし、自己満足かもしれない……」
 そう言いよどみながら、ゆっくりと視線を落とした。黒い髪がはらりと頬にかかり、横髪が表情を隠していく。
「……でも!」
 体の奥から絞り出したような声。
 彼女は勢いよく顔を上げた。そこにあったのは、迷いを払拭した真摯な双眸だった。
「私、一生懸命に、真剣にやるわ。半端な気持ちなんかじゃない」
 ひたむきに力説しながら、袖を掴む手に力を込めた。白い布に深い皺が刻まれる。
 だが、ラウルは表情を凍らせたまま、ますます冷酷に拒絶する。
「医学の知識どころか、用具や薬品の名前すらわからない素人など役に立たん。足手まといだ」
「勉強するわ! 役に立てるよう努力するから」
 アンジェリカはしつこく食い下がった。口をきゅっと結び、大きな瞳で訴えかける。
 ラウルは眉をしかめた。彼女は何を言っても引き下がる気配がない。こうなったら行動で示すしかないだろう。この小さな手を振り払って、完全に無視をしてしまえば——。
 だが、体が動かなかった。なぜか実行することが出来なかった。いや、「なぜか」ではない。その理由は自分でもわかっていた。深くため息をつく。
「……明日からだ。今日は帰って勉強しろ」
 疲れたようにそう言うと、本棚に手を伸ばして一冊の本を取り、アンジェリカに投げるように渡した。それは、看護技術の本だった。
「最低限のことは覚えてこい。使えないとわかれば、いつでも切る。いいな」
「わかったわ」
 アンジェリカはその本をぎゅっと抱えた。そして、時間が惜しいとばかりに、急いで戸口に向かった。そこでくるりと振り返ると、真剣な表情でラウルを見つめた。口元にわずかな笑みをのせる。
「ありがとう、ラウル。チャンスをくれて」
 そう言うと、スカートをひらめかせながら、駆け足で医務室を出ていった。
 ——今は、自分の出来ることをするだけ。
 本当のことは聞けなかったが、果たすべき務めが見つかった。ラウルの言うように、自己満足なのかもしれない。自責の念から逃れるための行動なのかもしれない。それでも、少しでも役に立てるのならば、行動を起こす価値はあるはず——彼女はそう信じていた。
 アカデミーの外に出ても、足を止めることなく走り続けていく。頬を打つ風はまだ冷たかったが、今の彼女には心地よいくらいだった。


91. 自分の足で

「やあ、ラウル」
 サイファは軽く手を挙げながら、ラウルの医務室へ足を踏み入れた。ニコニコと人なつこい笑顔を浮かべている。
 机に向かっていたラウルは、それを一瞥すると、ムッとした表情を見せた。サイファを目にしたときのいつもの反応である。そして、関心がないと云わんばかりに、すぐに手元に視線を戻すと、再びペンを動かし始めた。
「何の用だ」
「ジークの卒業論文を持ってきたよ。提出はおまえのところでいいんだろう?」
 サイファは右脇に携えていた水色のファイルを、表紙を見せるように掲げた。それを机の隅にそっと置く。
 ラウルはその表紙にちらりと目を走らせた。
「ずいぶん早いな。締め切りまでまだ一ヶ月ある」
「頑張ったからね。ジークも私も」
 サイファは腰に手をあて、満足そうに言った。まるで褒められたがっている子供のようだった。もちろん、目の前の先生がそう簡単に優しい言葉を掛けてくれないことは、とてもよく知っている。
 案の定、ラウルは何も言わなかった。無表情でファイルを手に取ると、中央あたりを開いた。目だけを左右に動かし、文字を追っていく。
「なかなか新鮮な体験だったよ。論文など書いたことがなかったからな」
 サイファはそう言いながら、ベッドの端に腰を下ろした。布団に倒れ込みたがっている体を両手で支えると、焦茶色の長髪がかかる広い背中に視線を流す。
 ラウルは何の反応も示さなかった。口を閉ざしたまま論文を読み続ける。
 だが、不意に眉を寄せた。
 パタンとファイルを閉じると、椅子をくるりとまわし、正面からサイファを睨みつけた。
「これはおまえが書いたものだろう」
 手にしていたファイルを掲げ、その表紙をパンと軽く叩いた。
「代筆は認めると言っただろう?」
 サイファは体を起こし、不思議そうに言った。
 ラウルは、彼がとぼけているのだと思った。苛立ちながら言い返す。
「そうではない。この文章はおまえのものだ。ジークの文章はもっと垢抜けない」
 サイファはそれを聞いて、ようやくラウルの言わんとすることがわかった。ふっと笑みを漏らす。そして、ゆっくりと目線を上げると、凛と表情を引き締めた。鮮やかな青い瞳は、まっすぐにラウルの眼差しを捉えている。
「内容については、いっさい口出ししていない。すべてジークが考えたものだ。私は彼の言ったとおり文字を書いたにすぎない」
 彼の言葉には、少しの迷いも揺らぎも窺えない。真剣そのものだった。
 だが、次の瞬間には、一転してカラリとした笑顔を見せた。
「まあ、文章の書き方については、多少アドバイスしたけどね」
 先ほどとはまるで違う、きわめて軽い調子で言い足した。
 ラウルは眉をひそめた。無言で彼を睨みつける。おそらく「多少」ではなく「相当」口を挟んだはずだ。そうでなければ、ここまで急激に文体が変わるはずがない。
「いいだろう? そのくらい」
 サイファはまったく悪びれることなく了解を求めた。
「……まあいいだろう」
 ラウルはため息まじりに言い、ファイルを机の上に置いた。いくらサイファが責任を感じているからといって、ジークの代わりにすべてを引き受けたとは考えにくい。たとえサイファが申し出ても、ジークがそれを許さないはずだ。おそらく、サイファの言うように、文章を書く上でのアドバイスを行っただけなのだろう。サイファには腹が立っていたが、冷静に考えれば許容範囲内である。
「これでひとつ肩の荷がおりたよ」
 サイファは両手を上げて伸びをしながら、そのまま仰向けに倒れ込んだ。パイプベッドが軋み、白いシーツに緩やかな皺が走る。
「二日ほど徹夜でね。そろそろ限界だ。しばらく休ませてくれ」
 そう言うと、寝転んだまま濃青色の上着を脱ぎ始めた。
 ラウルは眉根を寄せ、睨みつける。
「これは病人のためのベッドだ」
「一眠りして病気を未然に防ぐんだよ」
 サイファは涼しい顔で屁理屈を捏ねた。脱いだ上着を隣のベッドに放り出し、革靴を脱ぐと、布団に入って横になった。
「一時間後に起こしてくれ」
「ふざけるな。魔導省の仮眠室へでも行け」
 ラウルは机を叩き付けるようにして立ち上がった。
 だが、サイファの返事はなかった。すでに目は閉じられている。冗談ではなく、本当にここで眠るつもりのようだった。
 ラウルはため息をついた。レイチェル同様、サイファも言い出したら聞かない性格だ。これ以上の応酬も面倒なだけである。もう諦めることにした。ベッドのまわりにクリーム色のカーテンを引き、脱ぎ捨てられた上着をハンガーに掛ける。
「悪いな」
 カーテンの向こうから声が聞こえた。その声はいつもの明瞭さを欠いており、彼が眠りに落ちかけていることを感じさせるものだった。

「ええっ? 卒論、もう出来たの?!」
 リックの素っ頓狂な声が、病室を突き抜けた。間違いなく廊下まで響いただろう。
「声、大きすぎよ」
 隣のセリカが、片眉をひそめながらたしなめた。立てた人差し指を、唇に当てて見せる。
 リックは肩をすくめ、申しわけなさそうに笑った。
「それで、提出はしたの?」
「ああ、ついさっきサイファさんが持っていったところだ」
 ジークは淡々と答えた。パイプベッドの上で、無造作に脚を投げ出して座っている。
 すでに、骨折は治癒していた。だが、入院生活は続いている。リハビリのためだ。右腕のギプスはきのう外されたばかりで、まだしっかりと字は書けない。両足も簡単なリハビリを始めたところで、歩行訓練はこれからである。
「すごいね、きっと一番乗りだよ」
 リックは両手を握りしめ、興奮ぎみに言った。自分のことのように喜んでいる。
 だが、当の本人は醒めたままだった。
「まあ、他にやることなかったしな」
 斜め下に視線を落とし、素っ気なく言う。
「それに、サイファさんの都合もあったんだ。明日からあんまり時間がとれなくなるみたいで、できれば今日までに仕上げたいって急がされたんだよ」
「サイファさんも大変そうだよね」
 リックは微笑んだ。詳しいことを知っているわけではなかったが、ラグランジェ家当主として、魔導省副長官として、また個人としても、他にやらなければならないことがたくさんあるだろうことは想像がついた。
 ジークは真面目な顔で頷いた。
「あの人はホントすげぇよ。忙しいはずなのに、申しわけないくらい、いろいろやってくれるんだ。それも、何もかも早くて的確だしな。曖昧な頼み方をしても、ドンピシャのいい文献を持ってきてくれるし、文章についてのアドバイスまでしてくれたし、清書するのもめちゃくちゃ早かったし……仕事もしてるのに、そんな時間どこにあるのか不思議なんだよな。もしかしたら、あんまり寝てねぇのかも」
「ジークにしたことを思えば、そのくらい当然だわ」
 セリカは腕を組み、刺々しく言った。
 ジークはうんざりして顔をしかめた。
「いつまで根に持ってんだよ。だいたいおまえには関係ねぇだろ」
「ジークが根に持たなさすぎるのよ。自分を殺そうとした人を褒めてどうするわけ?」
「うっせぇな。俺が納得してんだからいいんだよ」
 面倒くさそうに言い捨てる。
 セリカはため息をついた。彼の思考がさっぱりわからなかった。好きな人の父親とは仲良くしておいた方がいいとか、そういう打算ならまだ理解できる。だが、ジークの場合は違う。間違いなく本気で尊敬している。いったいどこまでお人好しなのだろうか。無性に腹立たしくなってくる。
 リックはそんな彼女をなだめるように、背中に優しく手を置いた。
「セリカ、ジークがいいっていうんだからさ」
 彼女はじとりとリックを睨んだ。彼までジークやサイファの味方をしたことが面白くなかった。
「人のこと気にかけてる場合? あなたの卒論はどうなのよ。手伝ってくれる人はいないわよ。私だって手伝ってあげないんだから」
 ツンとして口をとがらせる。ほとんど八つ当たりである。
 だが、リックは笑顔でそれを受け止めた。柔らかい口調で答える。
「大丈夫だよ。締切までには間に合う予定」
「あいつは……ちゃんとやってんのかな」
 ふいに、ジークがつぶやいた。
「ラウルの手伝いで手一杯なんてことはねぇのかな」
 片膝を立て、その上で頬杖をつくと、ぼんやりと窓の外に視線を流す。青い空に、筋状の白い雲がゆっくりと流れている。
 アンジェリカがラウルの手伝いをしていることは、サイファから聞いていた。おそらく例の事故に責任を感じてのことだろう。どんな思いでそれを申し出たのか、どんな思いで往診にまわっているのか、想像すると胸が痛い。
「それは大丈夫だよ。もうすぐ提出できるって言ってた。ラウルの手伝いも、今は週に二回くらいみたいだし」
 リックは努めて明るく言った。
「そうか」
 ジークは小さく安堵の息をつき、表情を緩めた。
 だが、今度はセリカが顔を曇らせた。
「まだ、一度も来てないのね、アンジェリカ」
「来ないって言ったら来ねぇだろ、あいつは」
 ジークはあきらめたような口調で言った。
 セリカには、それがかえって痛々しく感じられた。その気持ちを押し隠し、おどけたように肩をすくめる。
「ホント強情よね。アンジェリカだってジークに会いたいはずなのに」
「さぁ、どうだろうな……そうでもねぇのかもな……」
 ジークはうつむき、寂しげに自嘲の笑みを浮かべた。
 思い返してみれば、いつも自分が勝手に盛り上がっているだけで、アンジェリカはいつも冷静だった。自分にもリックにも、同じように接していた。そして、本人の口から何を聞いたわけでもない。考えれば考えるほど自信がなくなってきた。自分が滑稽に思えてきた。
「大丈夫だよ、信じようよ」
「そうよ、弱気になるなんてジークらしくないわ」
 ふたりは口々に励ました。何の解決にもならない言葉だったが、その気持ちが嬉しかった。
「ああ、そうだな」
 そう答えて、微かな笑顔を見せた。それが、今の彼にできる精一杯の感謝の表現だった。

「一時間、過ぎたぞ」
 ラウルは椅子から立ち上がり、ベッドの方へ歩いていった。薄いクリーム色のカーテンを開く。シャッと軽い音が医務室に響いた。
 サイファは無言で体を起こした。まだ眠そうだ。ぼんやりした表情で腕時計を見る。
「ちょうど一時間だ」
「おまえが一時間で起こせと言った」
「律儀だな」
 笑いを含んだ声で言う。
 ラウルは気色ばんだ。カーテンレールに掛けてあった上着を、ハンガーごと投げつける。
「さっさと仕事に行け」
「その前に、ジークのところへ卒論提出の報告に行ってくるかな」
 サイファは靴を履き、上着を抱えてベッドから立ち上がった。
 ラウルは腕を組み、睨むように彼を見た。
「おまえ、ジークにばかり構っていていいのか」
「それは嫉妬か?」
 サイファは顔を上げ、からかうような挑戦的な笑みを向ける。
 ラウルは眉をしかめ、不快感をあらわにした。苛つきながら口を開く。
「自分の娘のことも気にかけろということだ」
 予想外の言葉に、サイファは驚いて目を見張った。
「めずらしいな、おまえがそんなことを言うなんて」
 上着をばさりと強く振ってから、マントのように背中にまわし、腕を伸ばして袖を通す。
「そういえば、今、おまえの手伝いをやってるんだってな。半端なことはしない子だ。役に立っているだろう?」
「元々ひとりでまわるつもりだった。いなくても困りはしない」
 ラウルは愛想なく答えた。
 サイファはくすりと笑った。素直に答えていないが、否定もしていない。遠まわしに認めているようなものだった。追及して困らせようかとも思ったが、とりあえず今はやめておいた。これ以上、本題から逸れるのは本意ではない。
「アンジェリカのことは、もちろん気にかけているよ。あの事件に責任を感じていることも知っている。だが、あの子はそれを乗り越えようとしているだろう? 自分の意思で、自分の足で立って前に進んでいる。だから、余計なことはせず、見守っているんだよ」
「責任を感じているだけならいいがな」
 何か含みのある言い方だった。
 サイファは手を止めた。合わせようとしていた上着の前がはらりと開く。
「どういう意味だ?」
 だが、ラウルは答えを返さなかった。腕を組んだまま、眉ひとつ動かさない。
「知ってることがあるなら言えよ」
 サイファは険しい表情で詰め寄った。青く燃えるような瞳で、鋭く睨めつける。だが、その奥には不安の影が揺らいでいた。
 ラウルはじっと探るように見つめ返した。
「アンジェリカが言っていたことだが」
 そう前置きをして、静かに話し始める。
 それは、以前アンジェリカがラウルを問いつめたときに語ったものだった。自分は遺伝子の異常を抱えていて、そのせいで髪や瞳の色が黒いのだと。そして、長くは生きられないのだと——。彼女が口にした言葉を、ラウルは漏らさず伝えていく。
 サイファは黙って聞いていた。腕を組み、眉根を寄せる。そして、話が終わると、小さくため息をついた。
「そんなことを考えていたのか……」
 困惑と苦渋を滲ませながら、独り言のようにつぶやく。
「突拍子もないが、筋は通っているな」
 破綻している論理なら簡単に崩せるが、一応、矛盾なく組み立てられているのが厄介だ。しかも、ラウルの口ぶりだと、そうとう強く思い込んでいるらしい。生半可に対峙したのでは、こちらが玉砕しかねない。
 組んだ腕をほどき、両手を腰に置くと、ラウルを見上げて尋ねる。
「それで、おまえはどう対応したんだ?」
「知らんと突っぱねた」
 ラウルは無表情で簡潔に答えた。
 サイファは薄く笑った。
「まあ、そうするしかないよな。それが正解だよ。おまえの下手な嘘では、必ず綻びが出るからな」
「ならば、おまえが上手い嘘をついて何とかしろ」
「難題だね。でも、あんな思い違いをさせたまま、放ってはおけないよな」
 真面目な顔でそう言いながら、手早く上着の前を閉め、詰襟のフックを掛けた。前髪をさらりと掻き揚げる。
「何かいい策がないか考えてみるよ。おまえは知らん振りを通せ」
「言われなくてもそうする」
 ラウルはムッとして言った。
 サイファはふっと表情を緩めると、手を振りながら医務室を出て行った。

 翌日——。
 その日はラウルの往診の日だった。
 本来、ラウルの仕事は医務室での診察のみである。だが、サイファの依頼により、例の事件の被害者を往診することになった。基本的には、入院するほどではない者、退院したが全快していない者をまわる。一回の巡回につき、二、三箇所ほどだ。初めの頃はほぼ毎日まわっていたが、順調に回復した者も多く、今では週に二回ほどになっていた。そろそろ週一回にしても良さそうなくらいだった。
 往診にはアンジェリカが同行した。被害者にはラグランジェの人間も多く、「呪われた子」である彼女には、嫌悪の眼差しを向けられることが度々あった。また、ラグランジェ以外の人間からも、別の理由で嫌悪されることが何度もあった。爆発事故の原因については、魔導の実験中の過失ということになっていたが、それを起こしたのがラグランジェ家であることは本家も認めており、公式発表もされている。被害者の前に姿を現せば、怒りをぶつけられるのは当然のことといえる。
 彼女はどんな目で見られても、どんな罵声を浴びせられても、ただひたすら耐えていた。事件のことを責められれば、頭を下げて謝罪した。すべては自分の責任だと思っているからだろう。そのうち耐え切れなくなり、また長い眠りに陥ってしまうのではないか——ラウルはそう危惧したが、彼女にその兆候は見られなかった。
 往診を続けるうちに変化が現れた。アンジェリカにではなく、周囲の方にである。彼女に対する態度が軟化したのだ。もちろん、そうでない者もいる。だが、半数以上は変わったといってもいい。それは、まぎれもなく彼女の真摯な態度によるものだった。

 コンコン。
 医務室の扉がノックされた。
「入れ」
 ラウルは頬杖をついたまま、無愛想に返事をした。
 ガラガラと扉が開く。
 そこから姿を現したのはアンジェリカだった。往診に同行するために来たのだ。軽い足どりで中に入っていく。
 彼女を一瞥すると、ラウルは机に手をついて立ち上がった。床に置いてあった鞄を手に取り、椅子の上に荒っぽく投げ置いた。机の上にはカルテらしき書類が広げられている。どうやらこれから準備をするようだ。
「来るの、少し早かったかしら」
「座って待っていろ」
「ええ」
 アンジェリカは、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、行儀よく座った。両手をきちんと膝の上にのせ、背筋をピンと伸ばし、大きな瞳でラウルを見つめる。
「卒業論文は進んでいるか」
 ラウルは手を動かしたまま、唐突に尋ねた。
「もうすぐ提出できるわ」
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。
「ジークはもう提出したのよね?」
「……誰に聞いた」
 ラウルは手を止めて彼女に振り向いた。まさか、彼女がその話題を振ってくるとは思わなかった。しかも、何の屈託もないように見える。
「リックが教えてくれたの。きのうでしょう? 一番乗り?」
「そうだ」
「すごいわね」
 アンジェリカは嬉しかった。ジークはしっかりと頑張っているのだ。両手両足が不自由な状態で、誰よりも早く仕上げるなど、並大抵のことではない。もちろん、サイファが手伝ったことは知っていたが、それでも彼の努力がなければ叶わなかっただろう。自分も負けてはいられない、頑張らなければ——心の中で決意を新たにした。
「今日はどこへ行くの?」
 機嫌よく弾んだ声に、ラウルは短い返答で応じる。
「病院だ」
「えっ?」
「ジークが今日から本格的にリハビリを始めた。その様子を聞きにいく」
 机の上に広がっていたカルテを、ファイルにまとめて鞄に入れる。
「でも、往診って、病院には行かないんじゃ……」
 アンジェリカはうろたえた。胸を押さえ、顔を曇らせる。
 ラウルは無表情のまま、じろりと冷たい目を向けた。
「何だ?」
「…………」
 アンジェリカは彼の視線から逃げるように背中を丸めた。何も答えられなかった。
「嫌なら帰れ。患者を選り好みする奴に用はない」
 ラウルは凄みのある重低音で突き放した。
 アンジェリカは顔を上げ、強気にキッと睨んだ。
「そんなこと言ってない。行くわ」
 力を込めてそう言うと、椅子から立ち上がる。そして、小さな口をきゅっと結び、まっすぐにラウルを見つめた。意志の強そうな漆黒の瞳には、小さな決意の光が宿っていた。

 リハビリ室は明るかった。大きなガラス窓から自然光を採り込む設計になっている。
 ほとんどずっと病室に縛り付けられていたジークは、その開放感に気分が高揚した。ここなら気持ちよくリハビリに打ち込めるだろうと思った。

「ジーク、調子はどうだい?」
「あ、先生」
 リハビリ室にジークの担当医が入ってきた。清潔感のある短髪に、黒のタートルネック、その上に白衣を身に着け、柔和な笑顔を浮かべている。まだ若い。20代後半くらいだろう。彼もアカデミー出身だと聞いた。そのこともあって、ジークは彼のことを良き先輩のように感じていた。
「頑張ってるね。無理してるんじゃないか?」
「大丈夫です。俺、鍛えてましたから」
 ジークは歩行訓練の足を止め、手すりにつかまったまま元気よく答えた。だが、隣の若いトレーナーは、眉をひそめて口を挟んだ。
「無理しすぎなんですよ。もう二時間ぶっ続けで、休憩さえ取ろうとしない。初日からこれじゃ、体がもちませんよ。僕の言うことは全然聞かないし……先生から何か言ってやってください」
 担当医は、彼をなだめるように笑顔で頷くと、ジークの肩にぽんと手をのせた。
「そんなに焦っちゃいけないよ」
「平気です。俺、一刻も早く、自分の足で歩けるようになりたいんです。走れるようになりたいんです」
 ジークは思いつめたように熱っぽく言葉を重ねていく。
 だが、担当医がそれを遮った。
「ん? ちょっと顔が赤くないか? それに汗も……」
「あ、それは体を動かしたからですよ」
 顔を覗き込んできた担当医を、ジークは上体をひねってかわした。
 そのとき——。
「あっ!!」
 部屋中に響き渡るほどの大声。
 担当医はジークの視線を辿るように振り返った。その目に映ったのは長身の人物——ラウルだった。入口からまっすぐこちらへ足を進めている。
「テメーずいぶん久しぶりだな。二ヶ月もほったらかしかよ」
 ジークは前のめりになりながら、乱暴な言葉で噛みついた。
「おまえの治療はこの病院に任せてある」
 ラウルは事も無げに答えた。
 それを聞いて、ジークはますます頭にきた。
「少しは責任、感じてねぇのかよ。元はといえば全部テメーのせいだろう。サイファさんは、毎日、来てくれてるぜ」
「私の顔など見たくないだろう」
「ああ、見たくねぇよ! けど、そういう問題じゃなくて、気持ちの問題だって言ってんだよ!」
 感情的に捲し立てたせいか、頭がくらくらしてきた。おまけに息苦しい。
「今さら何しに来たんだよ……ったく……」
 疲れた声でぼそりと言うと、頭を押さえ、ふうと息を吐いた。
 そのとき、一瞬、ラウルの後ろに小さな人影が見えた。
 ドクン、と心臓が飛び跳ねる。
 まさか、今の……。
 体を傾け、首を伸ばし、その正体を確かめる。
「久しぶり、ね」
 懐かしい声、夢にまで見た姿——。
 アンジェリカだ。
 彼女は、ばつが悪そうなぎこちない笑顔を浮かべていた。ジークに見つかり観念したのか、ラウルの後ろに隠れるのをやめ、遠慮がちに出てきた。薄いピンク色のブラウスに、紺色のカーディガンを羽織っている。短めの白いスカートがふわりと揺れた。
「あ……アンジェリカ……」
 ジークは頭が真っ白になった。呆然と彼女を見つめる。そして、何かに操られているかのように、手すり伝いに一歩、また一歩とふらふら足を進めていく。
「ちょっ……あの……」
 アンジェリカは困惑して後ずさった。
 ジークは歩みを止めなかった。手すりを放し、心もとない足どりで彼女に向かう。
 だが、彼の足はそれに耐えられるほど回復していなかった。
 床につまづき、膝がガクリと折れた。
 ぐらりと視界が揺れる。
 彼の体は斜めにつんのめった。
「ジーク!」
 アンジェリカはとっさに地面を蹴った。倒れ込むジークの体を受け止める。しかし、その重みに耐えかね、彼を抱えたまま崩れるように床に座り込んだ。
「だ……大丈夫?」
「やっと……つかまえた……」
 ジークは苦しげに、荒い息を吐きながらそう言うと、彼女の背中に腕をまわした。ぎゅっと力を込める。アンジェリカの首筋に、熱い吐息がかかった。
「ジー……ク……?」
 背中の手がだらりと落ちた。頭の重みが肩にのしかかる。
 アンジェリカははっとした。
「意識をなくしてる。それに、すごい熱だわ」
 助けを求めるように、ラウルを見上げた。
 彼は素早くジークを引き離すと、額に大きな手をのせて熱を診た。そして、その体を抱えて立ち上がる。
「病室で休ませる。501号室か?」
「あ、はい、エレベーターで行きましょう」
 担当医はそう返事をすると、すぐに誘導を始めた。
 ジークを抱えたまま、ラウルは彼について歩く。アンジェリカも小走りで、その後を追う。ラウルの腕の中でぐったりするジークを見つめながら、彼女は心配そうに顔を曇らせた。
「大丈夫なの?」
「たいしたことはない」
 ラウルは感情なく言った。
「急激に無理をしたせいで、疲れが出たのだろう。こいつは限度を知らん奴だからな」
「すみません」
 担当医は申しわけなさそうに謝った。少し落ち込んでいるような声だった。

 ラウルはジークをベッドに寝かせ、汗を拭いた。
 ジークの顔はまだ熱を帯びているようだった。息も少し苦しそうだ。ラウルはたいしたことはないと言っていたが、それでもアンジェリカの不安は拭えなかった。祈るように両手を組み合わせる。
「おまえはそいつに付いていろ」
「わかったわ」
 アンジェリカが真剣な顔で頷くと、ラウルは担当医とともに出て行った。リズムの違うふたつの足音が、次第に遠ざかっていく。
 足音が聞こえなくなると、静寂だけが残った。奇妙なくらいに音がしない。この階には他の入院患者はいないのかもしれない。そう思えるくらいだった。
 アンジェリカはベッド脇のパイプ椅子に、音を立てないようそっと腰を下ろした。彼の火照った顔をじっと見つめる。胸がズキリと痛んだ。
 ——ごめんなさい、ジーク。
 心の中で詫びた。ラグランジェの問題に巻き込んでしまったこと、こんな目に遭わせてしまったこと、そして、ずっと会いにいかなかったこと——彼には謝るべきことが山のようにある。いくら謝罪しても足りない。
 だが、どうやって償えばいいかわからなかった。出来ることなら償いたい。だが、自分の命が残り少ないのだとしたら、軽率な行動はすべて彼を傷つけることになる。自分に出来るのは、もう彼に会わないこと。それだけ。そう思っていたのに……。
 彼女は固く口を結び、膝の上にのせた両手をぎゅっと握りしめた。

 それから一時間ほどが過ぎた。
 病室の扉が静かに開き、そこから担当医が入ってきた。振り返ったアンジェリカに、にっこりと微笑んで尋ねかける。
「どう?」
「まだ眠っているわ。だいぶ落ち着いたみたい」
 彼女の言葉どおり、ジークは規則正しい寝息を立てていた。顔はまだ赤かったが、息苦しそうにはしていない。
「ラウルは?」
 今度はアンジェリカが尋ねた。
「ジークの骨折の経過とリハビリの様子を聞いてから帰ったよ。君はジークが落ち着くまで付き添うようにって」
「そう」
 彼女は素っ気なく答えて、立ち上がった。
「もう落ち着いているから、私も行くわ。あとはお願いします」
「起きるまで待っててあげたら?」
 担当医は穏やかに微笑んで言った。
「いえ……」
 アンジェリカはとまどいながら目を伏せた。
「ジークは君に会いたがっていたようだけど」
「……会うわけには、いかないから」
「どうして?」
「中途半端な思い出なら、ない方がいいでしょう?」
 下を向いたままそう言う彼女を、担当医は怪訝に見つめた。
「そうかな?」
 考えを巡らせながら首を傾げ、自分の細い顎に手を添える。
「君たちの事情はよくわからないけれど、思い出がないことの方が悲しいんじゃないかな?」
「見解の相違ですね」
 アンジェリカはそう言って、にっこりと満面の笑顔を作って見せた。緩やかにお辞儀をすると、病室から出て行こうとする。
「逃げているのかい?」
 後ろから投げかけられた担当医の言葉に、彼女の足は止まった。
 ——逃げている? 私が……?
 アンジェリカの鼓動は次第に強くなっていく。胸が壊れそうに痛い。頬を一筋の汗が伝った。
 ——違う、そうじゃない。こうするしかないの。事件の責任は私にあるから。そして、何よりジークを傷つけたくないから……。
 ずっとそう思ってきた。そのつもりだった。
 なのに、たった一言で、こんなにも心が掻き乱されている。
 それは、彼の言ったことが真実だからではないのだろうか?
 本当は、自分が傷つきたくないだけ、怖がっているだけでは——。
「ごめん」
 担当医の謝罪が、彼女を現実に引き戻した。頬の汗を手の甲で拭う。
「ジークのこと、お願いします」
 背中を向けたまま、感情を抑えた声で言った。
 担当医は華奢な後ろ姿を見つめた。
「ジークに伝えることはある?」
「……無理しないで、って」
 アンジェリカはそっと扉を開けると、振り返ることなく出て行った。五歩を歩き、十歩を早足で歩き、そこからは全力で駆け出した。

 ジークは目を覚ました。
「あれ? 俺……」
 状況が把握しようと、ぼんやりとあたりを見まわす。見慣れた天井、見慣れた窓の外の景色、薄汚れた自分の鞄、図書室で借りっ放しの本——。ここが自分の病室であることはわかった。
 少し離れたところに、担当医が足を組んで座っていた。
「目が覚めたかい?」
 人当たりのよい微笑みをジークに向ける。
「熱を出して倒れたんだよ。やっぱり無理しすぎてたね」
 ジークは言われてようやく思い出した。ガバリと勢いよくシーツを捲り上げながら飛び起きる。
「アンジェリカは?!」
「もう帰ったよ。しばらくそこに座って君を看てたんだけどね」
 担当医が指差したのは、ジークのすぐ隣に広げられたパイプ椅子だった。今は誰も座っていない。夢のあとのような空虚な空間。
 だが——。
「夢、じゃない……」
 広げた両の手をじっと見つめる。あのときの感覚が、感触が甦ってくる。この腕で、この体で、確かに抱きしめたのだ。ようやく捕まえた、もう離さない——そう、思った。
 しかし、それはほんの一瞬のことだった。感覚が残っていなければ、ただの幻想と区別できなかったかもしれない。せめて一言、二言でも言葉を交わしたかった。あんなタイミングで意識をなくすなど、自分の情けなさに涙が出そうだ。ギリ、と奥歯を噛みしめる。
「伝言があるよ」
「えっ?」
 ジークの心臓がドクンと強く打った。聞きたいけれど、聞くのが怖いような気がした。
 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、担当医はさらりと言う。
「無理しないでって」
「あ、あぁ……」
 ジークは拍子抜けしたような声で返事をした。
「おまえが逃げるから無理するんじゃねぇか」
 うつむいてシーツを握りしめ、苦笑しながら小さく独り言をつぶやく。
「彼女、ラグランジェ家のお嬢さんだよね? どういう関係?」
 担当医は微笑みを保ったまま、穏やかに尋ねかけた。
「アカデミーのクラスメイトです。……それだけです」
 ジークは低い声で答えた。それ以外に答えようがなかった。
「彼女とはもうすぐ会えなくなるの?」
「えっ?」
 担当医の質問に、きょとんとした顔を上げる。もうすぐ会えなくなる、などというと、まるで今は普通に会っているみたいだ。彼女とは二ヶ月間ずっと会えていなかった。質問と現実がちぐはぐで、頭が混乱した。
 そんな彼を見て、担当医は自分の勘違いだったのかもしれないと思った。自信がなさそうに説明をする。
「彼女がそんなようなことを言ってたから……中途半端な思い出はない方がいい、だから会うわけにはいかない、とか……」
「なんだよ、それ……」
 ジークはそう言ったきり絶句した。膝を立て、頭を抱える。
 彼女の結婚話はなくなったと聞いていた。アカデミー卒業後には会えなくなるというのも、当然それとともに白紙に戻ったはずだ。なのに、なぜ……。
 サイファからは何も聞いていない。隠しごとをされているのだろうか。嘘をつかれているのだろうか——彼に対する不安と疑念が渦巻いた。


92. 本当のこと

 翌朝、ジークは早朝に目が覚めた。
 高熱のため、昨日は夕食も摂らないうちに眠った。そのため、目が覚めるのも早かったようだ。時間的には十分すぎるほど眠ったはずだが、疲れはとれていない。ただ、熱はもう下がっているような気がする。棚に置いてあった体温計に手を伸ばし、脇に挟んで計測を始める。
 コンコン——。
 扉がノックされた。
「はい」
 少し掠れた声で返事をした。声を出したのは随分と久しぶりのような気がした。
「もう起きていたのか」
 そう言いながら入ってきたのは、サイファだった。濃青色の制服を身に着けている。
 ジークは慌てて起き上がった。こんな時間に来るのは先生か看護師だと思い込んでいたので、心の準備が出来ていなかった。
「寝たままでいいよ。ちょっと様子を見に来ただけだから」
 サイファは軽く右手を上げてそう言ったが、ジークは再び身を横たえることはしなかった。上半身を起こし、彼に顔を向ける。
「倒れたって聞いたけど、大丈夫かい?」
「ちょっと熱が出ただけです。もう下がりました」
 そう答えたあと、脇に挟んだ体温計のことを思い出した。そろそろ計測時間の三分だ。そっと取り出し、横に伸びた銀色の棒を目で追う。起き抜けにしてはやや高めだが、平熱といってもいい数値だった。
 サイファもそれを覗き込んだ。そして、にっこりと笑う。
「焦って無理をしては、逆に遠回りになってしまうこともある。先生の言うことは聞いたほうがいいよ」
「はい」
 ジークは素直に答えた。ラウルに説教されると無条件に反発したくなるが、サイファが相手だと従順になることが多い。好き嫌いもあるが、それとは別に、彼には逆らいがたい雰囲気があるのだと思う。
「じゃあな」
 サイファは軽く右手を上げて、踵を返した。
「あ、あの!」
 ジークは身を乗り出して呼び止めた。
 サイファは振り返った。
「何だい?」
 だが、ジークは何も答えられなかった。唇を噛み、うつむいている。何か言いたいことがあるが、切り出せずにいるようだ。サイファにはそれがわかったが、無理に聞き出すことはしなかった。
「あしたまた来るよ」
 にっこりと笑ってそう言い、扉に向かって足を進めようとする。
 ジークはとっさに彼の手首をガシッと掴んだ。かなり強い力だった。
 サイファは驚いた面持ちで振り返った。
「す、すみません」
 ジークは我にかえり、顔を赤らめて謝った。慌てて手を放す。自分でもこんな行動に出てしまったことに驚いた。それほど思い悩んでいたのだろう。
 サイファはわずかに微笑んだ。
「言いたいことがあるんだね」
「……はい」
 ジークは目を伏せ、小さく頷いた。
「あまり時間はとれないんだ。単刀直入に言ってくれるかな」
 そう言ったサイファの声には、普段の柔らかさはなかった。
 ジークは固い表情で話し始めた。
「アンジェリカが俺に会いに来ないのは、そのうち会えなくなるから……みたいなことを言ってたらしいんですけど、それってどういう意味ですか? サイファさん、何か知ってるんですか?」
 冷静にと思っていたが、感情の起伏の激しい彼にとって、それは難しかった。口調が次第にきつくなっていった。顔を上げ、責めるような強い眼差しを向ける。
「ああ、それか」
 サイファは軽い調子で言った。
 やはり知っていた——ジークは頭に血が上っていく。奥歯をぎり、と噛みしめる。
「私もつい先日、ラウルに聞いたばかりなんだけどね」
 ジークとは対照的に、サイファはさらりと話していく。
「どうやらあの子、自分はもうすぐ死ぬと思っているらしいんだ」
「えっ?」
 ジークの目が大きく見開かれた。
「完全な思い違いだよ。自分の髪や瞳が黒いのは、遺伝子に異常があるせいだと考えているようだ」
「あっ……」
 ジークは思わず声を漏らした。
 その話は知っていた。一時期、自分もそれが真実ではないかと思っていたことがある。
「知っていたのか?」
 サイファは驚いたように目を大きくした。
 ジークは申しわけなさそうに身を小さくした。
「リックから聞いたんですけど……確か、四年生になったくらいの頃に、アンジェリカがそう言ってたらしいです。でも、すっかり忘れてて……」
「そうか、そんなに前からか……」
 サイファは腕を組み、難しい顔でうつむいた。軽くため息をつき、窓際へと歩き出す。革靴がタイルの床を打ち鳴らす。無機質な音が病室に響いた。
「何とか誤解を解いてやりたいとは思っているんだけどね。いい手が、思い浮かばないんだ」
 窓枠に左手をおき、ガラス越しの空を見上げた。青色の空に薄いレースのような雲が掛かっている。枯茶色の小さな鳥が二羽、目の前を横切った。
「ジーク、どうしたらいいと思う?」
 ゆっくりと振り返り、薄い笑みを浮かべ、ベッドの上の彼を見つめる。鮮やかな青の瞳が小さく揺れた。
 ジークは何も答えられずに目を伏せた。サイファに思いつかないものを、自分が思いつくとは思えない。自分が考えついた方法はひとつだけ——おそらくサイファもそれはわかっているはずだ。わかっていて尋ねているのだろう。決心がつかないのだ。迷っているのだ。
 そして、それは自分も同じだった。アンジェリカにとって、彼女の家族にとって、それが良い方法なのかわからない。だから、それを口にすることが出来なかった。彼を後押しすることが出来なかった。
 ギュッとシーツを握りしめた。力を込めた手は、わずかに震えていた。体中からじわりと汗が滲んだ。
 沈黙がふたりの間に横たわる。ふたりとも身動きすらしなかった。
 遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
 微かな木々のざわめきが聞こえた。
 何も聞こえなくなった。
 何も……。
「本当に、まいるよ」
 サイファが長い静寂を打ち破った。落ち着いた声だった。
 ジークが顔を上げると、彼は寂しげに微笑んでいた。

 アンジェリカはゆっくりと目を開いた。それとともに、意識も現実に引き戻される。
「私、眠っていたのね」
 額に手の甲をのせ、ぼんやりとつぶやく。独り言だ。ここは自分の部屋で、自分のベッドで、自分以外に誰もいないことは知っている。
 布団も掛けていなかったことに気がつく。薄手のネグリジェ一枚で、少し肌寒い。
 昨晩からずっと考えを巡らせていた。ジークのこと、事件のこと、自分のこと、そして、これからのこと——。
 一睡もできないだろうと思っていた。だが、いつのまにか眠ってしまったらしい。自分は思ったよりも図々しく出来ているようだ。
 だが、眠ったおかげで冷静になることができた。頭が冴えた。もういちど考えを巡らせる。

 会わないのはジークのため、そう思っていたのは事実。
 でも、自分が怖れていたことも事実。
 ジークと一緒にいれば、その時間を手放すことに未練が生まれる。きっと死ぬことが怖くなる。恐怖心に対する恐怖を感じていた。だから、そのことから逃げていたのだ。
 それは認めざるをえない。
 だが、自分の気持ちを除外して考えたとしても、やはり会わない方が良いのではないか。
 一緒の時間が幸せであればあるほど、いなくなってからの傷が深くなる。
 今、自分が身を引けば、ジークの傷はまだ浅くてすむ。
 だから……。
 そこで考えが行き詰まる。いや、これが結論なのだろうか。
 目を細め、ベッドの天蓋を見つめる。
 何かが引っかかっている。とても大切な何かが……。見えそうで見えない、手が届きそうで届かない。その何かを掴むように、額にのせていた右手を上方に伸ばした。指先が不安そうに空をさまよう。
『思い出がないことの方が悲しいんじゃないかな?』
 ふいに、ジークの担当医の言葉が脳裏によみがえる。あのとき、激しく揺さぶられた言葉だ。
 思い出がない?
 思い出が、欲しい……?
 思い出……。
 突然、閃光のような何かが頭の中を駆け抜けた。
 はっとして大きく目を見開く。鼓動が跳ね上がる。それを鎮めるかのように、両手を重ねてぎゅっと胸を押さえる。
 そう、だった。
 思い出した。
 曾祖父にジークに会うなと言われたとき、自分はアカデミー卒業まで時間をくれるように懇願した。
 それは、思い出が欲しかったから。
 いつか、それが自分を傷つけることがあったとしても、何もないよりはずっといいと思ったのだ。
 この先、強く生きていくために、必要だと思ったのだ。

 ——私、自分勝手だった。

 大きく瞬きをする。涙が一筋、流れ落ちた。耳を濡らす。髪を濡らす。
 自分は思い出を欲したくせに、ジークには与えようとしなかった。
 彼のためだなんて決めつけて。
 自分が逃げるための口実にして。
 今からでもまだ間に合う。会いに行かなければ——。

 アンジェリカはベッドから飛び降り、ネグリジェを脱ぎ捨てた。

 コンコン——。
 本日二回目のノックだ。
 ジークはパジャマからジャージに着替え終わったところである。これから歩行訓練のため、リハビリ室に向かうつもりだった。
「はい?」
 少し語尾を上げて答える。
 こんなに朝早くに誰だろうと思った。サイファは出て行ったばかりだ。今度こそ担当医か看護師だろうか。
 ガチャ——。
 そろりと遠慮がちに扉が開く。
「えっ……?」
 ジークの動きが止まった。目だけが大きく見開かれていく。
「おはよう」
 少し照れたようにそう言いながら、アンジェリカが開いた扉から入ってきた。ジークに向かってまっすぐに立ち、後ろで手を組みニコリと笑う。
 ジークは弾かれたように身を乗り出した。
「アンジェリカ!!」
「待って!!」
 アンジェリカは開いた両手を前に突き出し、大きな声で制止した。
「逃げないから、落ち着いて」
 ゆっくりとなだめるように言う。
「あ、ああ」
 ジークはまだしっかり歩けもしないのに、ベッドから飛び降りようとしていた。彼女に止められなければ、間違いなく転倒していただろう。
 アンジェリカは扉を閉め、中へと足を進めた。そして、ジークの隣にちょこんと腰掛ける。ベッドのマットがわずかに沈んだ。彼を見上げると、にっこりと笑いかける。
 ジークは動揺した。顔が熱くなるのを感じた。顔だけでなく、頭も沸騰したように熱い。彼女がなぜここへ来たのか、なぜここに座っているのか、なぜ微笑んでいるのか——様々な疑問が浮かぶ。だが、何も考えられない。
「ごめんなさい、ずっとお見舞いに行かなくて」
「あ、いや……」
「今さらかもしれないけれど、これからは毎日、お見舞いに行くから」
 アンジェリカはしっかりとした口調で、明るく歯切れよく言った。屈託のない笑みを見せる。
 しかし、ジークの疑問は解決していない。呆然としながら口を開く。
「どうして急に……」
「迷惑?」
 アンジェリカは首を斜めに傾げて尋ねた。大きな瞳で見つめながら、じっと彼の返事を待つ。
 ジークは慌てて、首をぶんぶんと横に振った。
「良かった」
 アンジェリカは胸に手をあて、ほっと息をつきながら笑った。
 これは、夢だろうか、幻だろうか——ジークは混乱していた。あまりに唐突すぎて、現実だという実感を持てなかった。目の前の少女が実体だという自信がなかった。手を伸ばして、触れて、確かめたかった。だが、近すぎる距離に身じろぎさえ出来ずにいた。
「今日は手ぶらだけど、これからは何か持ってくるわね」
「いいよ、手ぶらで。来てくれるだけで」
 ジークはあやふやな思考にとらわれたまま、ほとんど反射的に答えを返す。
 アンジェリカはくすりと悪戯っぽく笑った。
「手ぶらじゃなくてもいいんでしょう?」
「ああ、まあな……」
 ジークは複雑な表情で彼女を見た。
 まるで夢を見ているようだった。彼女が去ったあの日から、ずっと求めてやまなかった光景が、今、自分の目の前にある。何よりも嬉しいことのはずだった。それなのに、なぜか素直に喜べないでいた。それは、まだ現実としての実感がないから、そして、棘のように引っかかっていることがあるから——。
 彼女は今まで頑として来ようとしなかった。きのうも会うわけにはいかないと言っていたらしい。なのに、今朝になっていきなりこれである。今までの真逆と言ってもいい。
 この一日でいったい何があったのだろうか。どういう心境の変化があったのだろうか。尋ねようとしたが、彼女はそれをはぐらかした。答えたくないということだろう。
 無理に追及すれば、またいなくなってしまうのではないか。そんな不安を感じて、何も訊けなくなってしまった。情けないくらいに臆病になっていた。せっかく戻ってきた彼女を、再び失うことだけは避けたかったのだ。
 アンジェリカはジークの黒いジャージに目を落として口を開いた。
「ジーク、もしかしてこれからリハビリ?」
「まあな。朝食前の自主練」
「車椅子で行くの?」
「ああ」
 その答えを聞くと、アンジェリカは跳ねるように立ち上がり、嬉々として隅に畳んであった車椅子を広げた。やけに手際がいい。ラウルの手伝いで覚えたのだろうか。
「私が押していってあげる」
「いい、自分で行ける」
 ジークは慌てて言った。照れたように頬を赤く染めている。
 アンジェリカはくすりと笑った。
「じゃあ、少しだけお手伝い」
 そう言うと、ジークの前にすっと手を差し延べた。
 ジークは呆然とその手を見つめた。細い指先はきれいに揃えられ、自分の目線よりやや下に留まっている。
 心臓が高鳴った。
 おそるおそる手を伸ばし、その上に自分の手を重ねる。
 その瞬間、何かが体中を駆け抜けた。ゾクリと震えがきた。だが、次の瞬間には、小さく柔らかな手の温もりに、大きな安らぎを感じた。そのとき、初めて、現実なのだと実感した。
「立てないの?」
 アンジェリカが心配そうに顔を傾げて覗き込んだ。
「いや、大丈夫だ」
 ジークはふっと息を漏らして口元を上げると、彼女の手を掴んで立ち上がった。ゆっくりと体の向きを変え、車椅子に腰を落とす。そして、車輪に手を掛け、移動する準備を整えた。
「さあ、行くか」
「行きましょう」
 ふたりは顔を見合わせて小さく笑いあった。

 それから二週間が過ぎた。
 アンジェリカは宣言どおり、毎日、ジークの見舞いに来た。
 そのおかげ、というわけでもないだろうが、ジークの足はみるみる回復していった。走るのはまだ無理があるが、普通に歩けるまでにはなっていた。

「いいお天気!」
 アンジェリカはよく通る声を響かせ、廊下から中庭に飛び出した。高く青い空を仰いで、身軽にくるりとまわる。光を受けた黒髪が煌めきながら舞い上がり、薄地の短いスカートがふわりと風をはらんだ。
「おい、気をつけろよ、転ぶなよ!」
「平気よ!」
 ヒヤヒヤしながら注意したジークの言葉を、彼女は目映い笑顔で受け流す。
 ジークは諦めたようにため息をついた。だが、その表情は柔らかくほころんでいた。彼女のあとに続き、緑の芝生に足を踏み入れる。真上から強い光が降り注いだ。眩しくて目を細める。
 アンジェリカは藤のバスケットを後ろ手に持つと、両足を揃えてジークに向き直り、くすりと笑った。

 そこは病院の中庭だった。鮮やかな緑の木々と、絹のカーテンのような噴水が、心地よい空間を作り出していた。時折、鳥のさえずりも聞こえる。ここだけ時間の流れが違うような、そんな錯覚さえしてしまいそうだ。
 一角には、木製のベンチが置かれていた。三人がけくらいの大きさだろう。
 ふたりはそこに並んで腰を下ろした。
 ジークは背もたれに両肘をかけ、目を細めて空を仰ぎ見る。パジャマでもジャージでもなく、まったくの普段着だった。とても入院患者には見えない。アンジェリカは彼の反対側にバスケットを置き、その横顔を見つめて微笑んだ。

 アンジェリカは毎日のように、ジークをここへ連れ出していた。薬品くさい病室に閉じこもりきりでは、治るものも治らないと思ったのだ。
 ジークも、最初こそ乗り気ではなかったが、実際に来てみると、すっかりこの場所が気に入ってしまった。正確にいえば、この場所でアンジェリカと過ごす時間が気に入っている、ということだが——。
 とはいえ、いつもふたりきり、というわけではなかった。
 偶然、同じ時間に見舞いに来たリック、セリカと一緒のときもあった。もっとも、彼らはそれ以降、アンジェリカとかち合わないように、時間をずらすようになった。ジークに気を遣っているのだろう。
 また、サイファと一緒のときも何度かあった。アンジェリカとサイファに挟まれてベンチに座っていると、ジークは必要以上に緊張してしまった。それを悟られないように、平常を装っているつもりだったが、傍から見れば、ほとんど無駄な努力といってよかった。
 アンジェリカもサイファも、そんなジークの気持ちをわかっていて、反応を楽しんでいるようだった。ジークはますます居たたまれない気持ちになった。だが、嫌ではなかった。そういう時間もいい思い出になるだろうと素直に思えた。

「ジーク、今日ね、私も卒論を提出したわ」
「えっ? まだ出してなかったのかよ」
 ジークは驚いて振り向いた。自分が提出した頃、アンジェリカももうすぐだと聞いていた。あれから二週間以上が過ぎている。もうとっくに提出しているものと思い込んでいた。
 アンジェリカは肩をすくめて笑った。
「早さではジークに負けちゃったから、質で勝負しようと思って、仕上げに時間をかけたの」
「おまえ、どこまで負けず嫌いなんだよ」
 ジークは呆れたように言った。だが、顔はそれほど呆れていない。
「ジークだって負けず嫌いでしょう?」
「おまえほどじゃねぇよ」
「ほら、やっぱり負けず嫌い」
 アンジェリカはくすくす笑って、小さく彼を指さした。
 ジークはぱちくりと大きく瞬きをした。そして、彼女の言うことを理解すると、ばつが悪そうに目をそらせた。ベンチにもたれかかり、耳元を赤らめながら空を見上げる。
「まあ、お互いさま、だな」
「ええ、そうね」
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。

 ジークは横目で彼女の向こう側を盗み見た。
「今日は、何だ?」
「えっ?」
 唐突で言葉足らずなジークの質問に、アンジェリカはとっさに反応できなかった。彼の催促するような視線の先をたどる。そこにあったのは、彼女が持参した藤のバスケットだった。ようやく彼の言いたいことに気がついた。
「ああ、今日はチーズケーキよ」
 そう言うと、チェック柄の布をめくり、中から皿に載せたチーズケーキを取り出した。透明の薄いラップを外し、銀のフォークを添えて差し出す。
「どうぞ」
「悪りぃな」
 言葉とは裏腹に、表情は嬉しそうだった。それを受け取ると、さっそく大きなひとかけらを口に運ぶ。
 アンジェリカは横から覗き込むよう彼を見つめる。
「どう? 美味しい?」
「ああ、うめぇよ」
 ジークはケーキを口に入れたまま、子供みたいに無邪気に答えた。本心からの率直な言葉で、ひいき目やお世辞は抜きである。彼の様子を見ていれば、それを疑う余地はない。
「良かった」
 アンジェリカは安堵の息をつき、幸せそうに顔をほころばせた。

 これは、今日だけではなく、毎日のことだった。
 アンジェリカは差し入れと称し、来るたびに食べるものを作ってきた。クッキー、マドレーヌ、プリンなど、主に菓子類である。サンドイッチだったことも二度ほどあった。
 もちろん、彼女の一方的な押しつけなどではなく、ジークの方もそれを心待ちにしていた。お菓子が食べられることもそうだが、彼女が自分のために作ってくれるということが、何よりも嬉しかった。しかも、それが美味しいのだから申し分がない。

 アンジェリカはゴソゴソと何かをバスケットから取り出した。それは、小さめの水筒と、大きめのマグカップだった。水筒の中には温かいコーヒーが入っている。それをマグカップに注ぎ、チーズケーキを食べ終わったジークに手渡した。代わりに、彼は空になった皿を返した。
 バスケットの中を片付けながら、アンジェリカは尋ねる。
「ジーク、いつ退院できるの? そろそろ?」
「あ、いや、実は、もう退院していいって前から言われてんだ」
 ジークは事も無げに言った。マグカップを傾け、コーヒーを口に流し込む。熱くはないが、ぬるくもない。飲むには適温である。
「え? どういうこと……?」
 アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。
 ジークは空を見ながら答える。
「退院してもどうせ通院しなきゃなんねぇし、面倒だから完治するまで居座ろうかと思って」
「何よそれ。ジークってそんなに横着者だったの?」
 アンジェリカは呆れたように尋ねかけた。
 ジークは彼女にちらりと視線を投げると、微かに口元を緩めた。
 アンジェリカが見舞いに来てくれるのが嬉しいから、だから、出来ることならまだ退院はしたくない——本音をいえば、その気持ちが大きかったが、そんな馬鹿みたいなことは、口が裂けても言えない。
 だが、彼女はまるで見透かしたかのように言った。
「私なら、ジークの家にだって、毎日お見舞いに行ってもいいんだけど」
「ばっ……お、俺んちは遠いぞ……」
 本当に見透かされたのか、ただの偶然なのか、ジークにはわからなかった。照れ隠しにもならない、意図不明の返答をしてしまい、ますます恥ずかしくなる。顔が熱くなった。
 アンジェリカは隣でくすくす笑っていた。
「ま、居座ってもせいぜいあと一週間ってとこだろうけどな」
 ジークはベンチの背もたれに両肘を掛け、大袈裟に空を仰いだ。風が心地いい。火照った頬の熱をさらっていってくれるかのようだ。
「退院したら、何かしたいことってある?」
「そうだなぁ……全力疾走してぇなぁ」
 緩やかに流れる薄い雲を眺めながら、のんびりと答えた。
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。とてもジークらしい答えだと思った。
「じゃあ、川辺にでも全力疾走しに行く?」
「いいな、それ」
 彼女の提案に、ジークは声を弾ませて同意した。
 川辺と聞いて、いつかの光景を思い出す。煌めく水面、冷たい水、浅く流れる水音、砂利の音、小石の音、沈む夕陽、真っ赤な夕景、細い石段、薄汚れたガードパイプ——それほど昔のことでもないのに、なぜだかとても懐かしい気がした。再び、あの場所にアンジェリカと一緒に行ける。そう思うだけで、胸がこそばゆくなる。
「他には?」
「うーん……今は思いつかねぇな」
 ジークは斜め上に視線を流し、コーヒーを口に運ぶ。考えているような素振りを見せたが、実際のところは、川辺での全力疾走で頭がいっぱいだった。
 アンジェリカは大きな瞳で、じっと彼の横顔を見つめる。
「じゃあ、私の行きたいところへ一緒に行ってくれる?」
「ああ、いいぜ。どこだ?」
 ジークは浮かれた気持ちを抑えようとしたが、あまり効果はなかった。声は素直に弾んでしまった。
「遠いんだけど、海へ行ってみたいの。まだ見たことがなくて、一度、見てみたいって思ってたの。あと、静かできれいな森の湖があるって聞いたから、そこへも行ってみたい。ジークの家でまた星も見たいし……まだまだたくさんあるわ。毎日、出かけても足りないくらいね!」
 アンジェリカははしゃぎながら言った。ジークに負けないくらいだった。無邪気な笑顔を見せている。
 ジークは空に向かって笑いながら答える。
「おまえ、欲張りすぎだって。そんなに急がなくてもいいだろ」
「……どうして?」
 少しうわずった声。それまでの雰囲気とは違う、ためらいがちな、張り詰めたような問いかけである。
 ジークは驚いて振り向いた。
 彼女は目を伏せ、何かに耐えているような顔をしていた。懸命に無表情を取り繕っている。
「おまえ……まさか、まだ、遺伝子の異常だとか思ってんじゃねぇだろうな」
 ジークは眉をひそめて尋ねた。
「思っているわよ」
 アンジェリカは当然のように答えた。今度はしっかりとした声だった。視線をまっすぐ前に向け、何事もなかったかのように、普通の表情に戻っている。
 ジークは顔をしかめた。ほとんど忘れかけていた。彼女が見舞いに来るようになってから、毎日、楽しいことばかりだった。彼女も楽しそうで、気にする素振りなど見せなかった。だから、大切なはずのことなのに、隅に追いやられていた。実際は何も解決していなかったのだ。
「それは違うんだ。おまえの誤解だって」
「いいの、私、もう逃げないから」
「だから、違うって言ってんだろ!」
 いくら違うと言っても、その理由がなければ、納得させることは出来ない。それはわかっていた。だが、自分ではどうしようもないのだ。ただ、違うと言い続けるしかなかった。
「ジークは知っているんでしょう?」
 アンジェリカは目を細めた。ゆっくりジークへと振り向く。微かに潤んだ黒い瞳で、まっすぐ彼を見つめる。黒髪がさらさらと風に揺れた。
「本当のこと、教えてくれる?」
 緩やかな口調で、旋律を奏でるように尋ねかける。
 ジークはどきりとした。鼓動が速くなっていく。ここで言い淀んでは、ますます誤解されてしまう。しかし、焦れば焦るほど言葉が出てこない。唇を噛んだ。
 彼女の思っている本当のことと、自分の知っている本当のことは、違うものだ。だが、それを答えるわけにはいかないのだ。
「あっ……ごめんなさい、困らせるようなことを言って」
 アンジェリカははっとして肩をすくめると、申しわけなさそうに笑った。そして、明るい声で力強く言う。
「私は大丈夫だから」
 ジークは表情を曇らせた。
 彼女が無理をしていることくらいわかる。こんな無理をさせてしまうことが耐えられなかった。何も出来ない自分が歯がゆくて仕方なかった。
 ——サイファさん……。
 助けを求めるように、心の中でその名前を呼んだ。苦い響きが胸に広がった。

 サイファはふたりに気づかれないように、そっとその場を離れた。
 ジークの見舞いに来たのだが、中庭のふたり声を掛けようとしたとき、空気が変わったのを感じ、柱の陰に身を隠したのだ。
 ——本当のこと、教えてくれる?
 その言葉が心をえぐる。
 良い方に向かっているのではないか、このままでいいのではないか、そう思っていた矢先だった。
 だが、アンジェリカは忘れたわけでも納得したわけでもなかった。このままでは、この先ずっと彼女を苦しめることになる。彼女だけではない。ジークまでも苦しめてしまう。
「どうすればいい……」
 ふたりから十分に離れたところで、サイファは足を止めてつぶやいた。
 窓枠に手を掛け、ガラス越しに空を見上げる。無垢な青さが目にしみて痛かった。


93. 結婚式

 太陽は高い位置にあり、日射しはとても強かった。
 鮮やかな青の空を、薄い雲が流れていく。少しのあいだ眺めているだけで、動いていることが認識できるくらいだ。地上は穏やかだが、上空には強めの風が吹いているのだろう。

 その空よりも濃い青色の制服が、人気のない小径を進んでいた。サイファである。ややうつむき加減で、思いつめたような難しい顔をしていた。時折、わずかに眉根を寄せたりもする。何か考えごとをしているようだった。
 ほんの十数分前、彼はジークを見舞うために病院へ行っていた。もっとも、会わずに引き返してしまったので、その目的は果たせなかった。偶然に聞いたアンジェリカの言葉が原因である。
 ——本当のこと、教えてくれる?
 何度も、何度も、その言葉を反芻し、解決策を頭から捻り出そうとする。しかし、どうしても良い方法が思い浮かばない。当然のことだろう。すでに幾度となく検討し、考え抜いているのである。今さら簡単に思いつくはずもない。
 深くため息をつく。
 いや、本当はひとつだけあるのだ。誰もが思いつく最善の方法が。
 それは、彼女の望むまま、真実を告げること——。
 おそらく、このことが頭にあるせいで、思考が停止しているのだろう。これ以上の解決方法は存在しないのだから仕方がない。
 頭では理解していても、心はそれを拒否をしている。結論を受け入れることから逃げていた。だが……。
 ——潮時、だな。
 足を止めると、ふっと息をつき、諦めたような寂しげな微笑を浮かべた。遠くを見上げ、目を細める。そのとき、空から降りてきた緩やかな風が、細い金の髪をさらさらと吹き流した。

 サイファは重厚な扉を引き、広い玄関に足を踏み入れた。非常識なほど大きな屋敷であるが、彼にとっては、生まれたときから過ごしてきた場所、住み慣れた我が家である。
 だが、このときはひどく緊張していた。
 家に入ることで湧き上がった感情だったが、根本的な原因はもちろん別のところにあった。

 重い足を騙しながら、いつもの歩調でリビングルームに向かう。
「レイチェル?」
 名前を呼びながら、柔らかな自然光が広がる部屋を見渡した。だが、彼女の姿はなかった。
 ふと、ガラス窓のひとつが半開きになっていることに気がついた。そちらに歩み寄り、庭に目を向ける。探していた人はそこにいた。
 彼女は小さな花壇にじょうろで水を遣っていた。花壇といっても、成長途中の茎と葉だけで、花もつぼみも見られない、いささか地味な状態だ。彼女が退院してから自分で作ったものである。
 例の事故ののち、彼女はアルティナの付き人を辞めた。もっとも、正式には辞任ではなく休暇ということになっている。だが、彼女に戻る意思はなかった。二ヶ月間、一度も王宮には行っていない。
 そのため、彼女には時間が有り余っていた。花壇はその時間を埋めるために作っているようなものだった。また、気持ちを落ち着けるためでもあったのだろう。何でもないように振る舞ってはいたが、自分が引き起こした惨事の重みを忘れたわけではない。
 サイファは知っていた。今でもときどき彼女が夢にうなされていることを。いくら気丈な彼女とはいえ、眠っているときは心が無防備になるのだろう。そんなとき、自分に出来ることは少ない。どうしようもなく無力だと思う。
 レイチェルは振り返ることなく、水やりを続けていた。窓際からの視線には気づいていないようだ。後ろ姿がとても無防備に見えた。
 サイファは足音を立てないよう庭に降りた。背後からそっと近づいていき、小さな彼女を包み込むように抱きしめる。金色の髪がふわりと空気をはらんだ。
「え? サイファ?」
 レイチェルは傾けていたじょうろを水平に戻した。そして、抱きすくめられたまま、わずかに首をまわして彼を見た。大きな目をぱちくりさせて尋ねる。
「どうしたの? ずいぶん早かったのね」
「ただの休憩だよ。君に会いたくなった」
 サイファは彼女にまわした腕に、ぎゅっと力を込めた。
「何か、話があるんじゃない?」
 レイチェルは優しい声で尋ねた。いつもより緩やかな口調だった。
 サイファは腕を放した。体ごと振り向いた彼女と視線を合わせ、ふっと柔らかく微笑む。
「少し、歩こうか」
「ええ」
 レイチェルは上品に頷いた。長い髪がさらりと小さく揺れた。

 そこは、王宮の外れにある小さな森だった。生い茂った枝葉の隙間から、幾多の細い光が地面に降りている。風が吹くたびに、光が揺らぎ、緑のざわめきが起こった。
 その森の散歩道を、ふたりは並んで歩いた。他に人影はない。
「アンジェリカのこと?」
 レイチェルは唐突に切り出した。
「よくわかったね」
 サイファはにっこりと微笑みを向ける。彼女のこういう鋭さは今に始まったことではない。特に驚きはしなかった。おそらく、庭で抱きしめたときには、すでに見透かされていたのだろう。
「相談、なんだけどね」
 サイファはそう前置きをして語り始めた。緩慢とした足どりで歩きながら、アンジェリカが誤解していること、そして、どのように誤解しているかを、順を追って丁寧かつ明瞭に説明する。
「つまり、まだあの子は自分が長くは生きられないと思っているんだ」
「そう……」
 レイチェルは顔を曇らせた。アンジェリカが何か悩んでいることは感じていたが、まさかこのような突拍子もないこととは、そして、ここまで深刻なこととは思わなかった。
「私たちは、どうすればいいと思う?」
 サイファは前を向いたまま、険しいくらいに真剣な顔で尋ねた。
 レイチェルは深く顔をうつむけて考え込んだ。横髪が頬にかかり、顔に陰を作っている。そのまま固まったように、微動さえしない。
 しばらく沈黙が続いた。
 やがて、小さな口だけが動く。
「真実を、話すしかないんじゃないかしら」
 重々しく紡がれた言葉。その響きから、浅い考えではないとわかる。話せばどうなるか、彼女なりに熟慮したのだろう。そのうえで、そうするしかないと結論を出したのだ。
 サイファは苦しげに目を細め、無言で空を見上げた。木々の切れ間から、濃い青色が覗いている。ここから雲は見えなかった。
 レイチェルは頭を持ち上げ、彼の端整な横顔をじっと見つめた。
「サイファもそう思っているんでしょう?」
「ああ、でも、今日までずっと決心がつかなかったんだ。怖かったんだ」
 サイファは淡々と答えた。ズボンのポケットに手を入れると、ふっと笑って顔をうつむける。
「情けないね」
「私だって、怖いわ」
 レイチェルは静かに言葉を落とした。強い光をたたえた瞳を、まっすぐ彼に向ける。
 サイファは薄く微笑んだ。
 彼女の強さがうらやましかった。怖いと言っているものの、すでに覚悟を決めた目をしている。自分は決心をつけるまで幾日かかっただろうか。いや、いまだに迷いが捨てきれていない。
「レイチェル、君はそれでいいの?」
 最後の意思確認をする。答えは聞かなくてもわかる。それでも尋ねたのは、彼女のためではなく、自分のためだったのかもしれない。
「サイファさえ良ければ」
 レイチェルはしっかりと彼を見据えて言った。静かだが、芯のある声だった。そして、その内容は、彼の思ったとおりのものだった。
 わずかに残っていた心の砦が崩れた。
 サイファは彼女に手を伸ばし、薄紅色の頬をそっと包み込んだ。そして、愛おしげに微笑みかけて言う。
「腹をくくるよ」
「ええ、私も」
 レイチェルも同調し、柔らかな微笑みを返した。

 サイファは腕を組むと、険しい顔で空を仰いだ。難しい現実に向き合わなければならない。
「何をどう話すか、考えておかないとな」
「ねぇ、私が話してもいいかしら」
 レイチェルは訴えかけるような眼差しで、少し遠慮がちに言う。
 サイファ目を大きくして彼女に振り向いた。それは、一家の長としての自分の役目と思っていた。彼女が話すなどということは選択肢にさえなかった。だが、言われてみれば、確かに彼女の思いも理解できる。
「話しづらくはないか?」
「それでも、私の責任だから」
 凛とした表情、凛とした声、凛とした佇まい。彼女はすべてを受け止めているようだ。いつかこういう日が来ることを予測していたのだろうか、とサイファは思う。彼女を見つめたまま、じっと考え込み、静かに口を開く。
「わかった、任せるよ。私はいない方がいいかな」
「ええ……」
 レイチェルの瞳がわずかに揺れた。申しわけなさそうに目を伏せる。
 サイファはそんな彼女を気遣い、安心させるように微笑んだ。だが、うつむいたままの彼女に、伝わったかどうかはわからない。
「いつ、話すんだい?」
「今日にでも」
 レイチェルは短く即答した。アンジェリカが悩み続けている以上、少しでも早いに越したことはない。サイファにも異存はなかった。神妙な顔で頷く。
「わかった。私は今夜は帰らない。じっくり話すといい」
「ごめんなさい」
 レイチェルは胸の前で手を組み合わせ、心苦しそうに謝罪の言葉を口にした。このことだけでなく、これまでのすべてのことについて謝罪したかった。だが、それをどう言えばいいのか、それ以前に、言っていいのかさえわからなかった。言葉は続かなかった。
 それでも、サイファには十分に伝わった。
 彼は、彼女が何を言いたがっているのかを理解していた。彼女の口をつぐませたのは自分であることも自覚していた。たとえ二人きりのときであっても、そのことは二度と口にしない——そう約束させたのは自分なのだ。もう14年以上も前のことである。
「謝るのは私の方だ。ずっと秘密を守り続けるのはつらかっただろう」
「いいえ、サイファの判断が正しかったことは知っているから」
 強い突風が吹いた。レイチェルの細い髪が舞い上がった。ドレスの形が大きく変わった。木々のざわめきが波を打って空に抜けた。いくつかの木の葉が空からはらはらと舞い降りてきた。
 サイファは目を細め、ふっと笑った。
「そろそろ仕事に戻るよ」
 レイチェルは急に不安に襲われた。彼の笑顔がどこか寂しげだったからかもしれない。どこか諦めたような声音だったからかもしれない。彼の右手を取り、両手で包み込んだ。
「サイファ、帰ってきてね」
「ああ、あしたね」
 サイファは彼女の肩に左手を置き、柔らかい頬に、そっと触れるだけの口づけを落とした。

 魔導省の塔、その最上階の一室がサイファの個室だった。
 少し狭い部屋から、この広い部屋に移り、はや数ヶ月が経過していた。初めは広すぎると思ったこの場所も、今ではもう違和感を覚えることはなくなった。むしろ、仕事をするには理想的と感じるようになっていた。彼は部屋に、部屋は彼に馴染んでいた。
 だが今日は、この理想的な部屋でさえ、仕事が手につかなかった。
 頭の回転がやたらと鈍く、集中力が途切れてしまう。かつてこのようなことはなかった。思考の切り替えは得意なはずだった。だが、今日は切り替える余裕もないくらいに、思考領域のほとんどが他のことに占められている。
 とはいえ、今日中に終えなければならないものもある。それだけは何とか片付けた。すべて書類上の仕事だった。会議はひとつもなかった。そのことには心から安堵した。今日はまともな議論が出来る状態ではない。
 革張りの背もたれに身を預けながら、疲れたように大きく息をつく。
 椅子を180度まわし、一面のガラス窓から外を眺めた。いつのまにか、すっかり闇が空を覆っていた。眼下には家々の灯りが点在している。色も形も大きさも様々だ。その灯りのもとには、人が、家族がいるのだろう。灯りと同じように、様々な人が、様々な家族が——。
 顎を上げ、目を閉じた。わずかに目蓋が震えた。
 くるりと椅子を戻し、外界に背を向ける。机上に散らばる書類を重ね、棚の中にしまった。
 ——切り上げよう。
 心の中で踏ん切りをつけると、部屋の鍵を手に取り立ち上がった。

 アンジェリカは夕食のあと、リビングルームでくつろぎながら本を読んでいた。アカデミーの勉強とは関係ないが、魔導の本である。趣味のようなものだ。
「アンジェリカ、お茶を淹れたから休まない?」
 レイチェルがトレイにティーカップを載せて入ってきた。にこやかに微笑みかける。
「ありがとう」
 アンジェリカは屈託のない笑顔を返すと、しおりを挟んで本を閉じ、すぐ隣に置いた。
 レイチェルはふたつの紅茶をテーブルに配り、アンジェリカの向かいに腰を下ろした。ソファが軽く沈む。
「どうぞ」
 きれいに指先が揃えられた手で促しながら、その紅茶をアンジェリカに勧めた。
 そして、レイチェル自身もソーサとティーカップを手に取った。熱い紅茶を少しだけ口に運ぶと、流れるような所作でソーサに戻した。
「ねぇ、アンジェリカ」
「ん?」
 アンジェリカはティーカップに口をつけたまま目線を上げた。
「お父さんのこと、好き?」
「もちろんよ。どうして?」
 紅茶を手にしたまま、不思議そうな顔で尋ね返す。母親からの質問は、随分と唐突なものだった。今までこんな質問をされたことがあっただろうかと考える。自分が記憶している限りではなかったはずだ。何かあったのだろうか。漠然とした不安が湧き上がった。
 だが、レイチェルは何も答えを示さなかった。ただ優しい微笑みを見せるだけだった。

 コンコン——。
 扉が軽快にノックされた。
 ダイニングテーブルで生徒の卒業論文を読んでいたラウルは、手を止めて立ち上がった。掛時計にちらりと目をやる。まだそれほど遅い時間ではない。患者だろうかと思う。無言で玄関へ向かい、鍵をまわして扉を開いた。
「やあ、ラウル」
 そこに立っていたのはサイファだった。いつものように軽い笑顔を浮かべながら、軽い口調でそう言い、軽く右手を上げた。左手は皺だらけの紙袋を無造作に掴んでいる。
 ラウルは眉根を寄せ、強く睨みつけた。
「何の用だ」
「入れてくれ」
 サイファは質問には答えず、自分の要求のみを口にした。
「帰れ」
 ラウルは冷たくあしらい、扉を閉めようとする。
 だが、サイファはそれを阻んだ。靴の裏で蹴りつけるようにして、扉を元の位置に戻した。顎を引き、挑戦的な鋭い視線を突きつける。
「おまえに断る権利はないんだよ」
 氷のような冷たさでそう言うと、肩をぶつけながらラウルの横を通り抜け、許可のないまま部屋へと足を踏み入れた。
 ラウルは眉をひそめ、その背中を睨みつけた。だが、もう止めはしなかった。こういうときのサイファには、何を言っても無駄である。ため息をつきながら扉を閉めた。

 サイファがここへ来るのは二度目だった。最初のときも強引に押し入った。招かれたことは一度もない。
「何の用かくらい言ったらどうだ」
 あとから入ってきたラウルが、不機嫌そうな低い声で尋ねた。少し離れたところで、立ったまま腕を組む。
 サイファは茶色の紙袋に覆われた物を、ダイニングテーブルの上にドンと置いた。そして、外側の紙袋だけを乱暴に引き破る。中から、琥珀色の液体が入ったボトルが姿を表した。かなり上等そうに見える。まだ封は切られていない。新品のようだ。
「一晩、付き合えよ」
「静かにしろ、ここには……」
 ラウルが何かを言いかけたとき、寝室から小さな影が現れた。それは、小さな女の子——ラウルの娘のルナだった。目を擦りながら、寝ぼけた様子でぼうっと立ち尽くしている。
 サイファは驚いてその女の子を見下ろした。もちろん、ラウルに娘がいることは知っていた。何度か会ったこともある。だが、親子一緒の姿を目にすることが少ないせいか、あまり実感はなく、このときはすっかり頭から抜け落ちていた。
 ——静かにしろ、ここには……。
 先ほどのラウルの言葉がよみがえる。その続きは「ルナがいる」だったのだろう。
「ラウル……?」
「起こしちゃってごめんね」
 サイファはしゃがんでルナと目線を合わせると、人なつこく微笑みかけた。そして、驚いて目を丸くしている彼女を、両腕でゆっくりと抱き上げた。思ったよりも重かった。
「おじさん、だれ?」
 ルナは少し怯えた様子で尋ねた。サイファとは何度か顔を会わせているはずだが、幼すぎたため記憶に残っていないのかもしれない。もしくは、単に寝ぼけているだけという可能性もある。どちらにしろ、たいした問題ではない。
「ラウルの友達だよ」
「赤の他人だ」
 満面の笑みで口にしたサイファの返答を、ラウルは間髪入れず横から否定した。その素早さと必死さが可笑しくて、サイファは吹き出しそうになった。
「あかのたにん?」
 ルナはラウルに振り向き、大きな目をぱちくりさせて尋ねた。
「説明してやれよ」
 サイファは明らかに面白がっていた。声がすでに笑っている。
 ラウルはムッとして睨みつけた。大またでサイファに歩み寄ると、その腕から娘を奪い取った。片手で抱きかかえたまま、暗い寝室へ連れていく。
「今度きちんと説明してやる。今日はもう寝ろ」
「はぁい」
 そんな会話が寝室から聞こえてきた。
 サイファは目を細め、表情を緩めた。父親としてのラウルが見られて、少しだけ嬉しかった。

 しばらくして、ラウルがひとりで戻ってきた。ルナを寝かしつけてきたのだろう。寝室の扉をそっと閉める。
「ずいぶん喋るようになったね」
 サイファは勝手に椅子に座っていた。ダイニングテーブルに頬杖をつき、にこにこと笑顔を浮かべている。
 ラウルは立ったまま腕を組んだ。上からサイファを見下ろして命令する。
「ルナを起こさないよう静かにしろ。出来なければ帰れ」
「父親としての自覚が芽生えてきたか」
 サイファは目をそらさずにそう言うと、意味ありげに小さく笑った。
 ラウルは眉をひそめて睨みつけた。
「何が言いたい」
 唸るような低音で詰問する。
 だが、サイファはまるで動じなかった。静かな笑みを浮かべたまま、穏やかな口調で続ける。
「おまえの家族ごっこは、いつまで持つかな」
「追い出すぞ」
「グラスを二つ、頼む」
 ラウルはため息をついた。
「私は飲まない。ひとつなら出してやる」
「飲めないわけじゃないんだろう。今日くらい付き合えよ」
「理由があるなら言え」
「今日で終わるかもしれない。私の“家族ごっこ”がね」
 サイファは感情を見せず、淡々と言った。テーブルの隅に視線を落とす。そこに何かがあったわけではない。ただ、少し逃げたかっただけだろう。
 ラウルは無言で台所へ向かった。戸棚からグラスをふたつ手に取ると、大きな足どりで戻ってきた。それをボトルの横に置き、卒業論文の束を後ろの棚に片付け、サイファの向かいに座る。
「雰囲気のないグラスだな」
「贅沢を言うな。これしかない」
 グラスは生活感あふれる無骨なものだった。水やジュースを飲むためのものだろう。高級酒に相応しくないことは、誰が見ても明らかである。
 サイファはボトルを開け、ふたつのグラスに琥珀色の液体を注いだ。底から指二本分ほどの量だった。氷をもらおうと思ったが、このままでもいいかと思い直す。ひとつをラウルの前に差し出し、もうひとつは自分の前に置いた。
「何に乾杯しようか」
「乾杯などしなくていい」
 ラウルは冷ややかに撥ねつけた。
 サイファはくすりと笑い、自分のグラスを手に取った。
「ふたりの父親に乾杯、かな」
 どこか楽しげな口調でそう言うと、睨みをきかせているラウルに、掲げたグラスを小さく傾けて見せた。

 ふたつのティーカップが、ほぼ同時にテーブルに戻された。両方とも底が見えている。
「もう一杯いる?」
「私はもういいわ」
 アンジェリカは笑顔で断った。中断していた読書を再開しようと思い、隣に置いてあった本を手に取ろうとする。
「ねぇ、アンジェリカ」
「なに?」
 母親に呼びかけられ、本に手を掛けたまま顔を上げる。
 レイチェルは優しい微笑みを浮かべて言った。
「サイファから聞いたわ」
「え? 何を?」
「あなたの自分自身についての推測」
 アンジェリカは口を閉じたまま、大きく目を見開いて母親を見た。具体的な説明はなかったが、彼女が何について言っているのかは、これだけでも十分に理解できた。そう、遺伝子異常のことだ。父親にも言ったことはなかったが、おそらくラウルから聞いたのだろう。緊張のためか、頭が熱くなり、手が冷たくなった。ぎこちなく口を開く。
「間違って、いないでしょう?」
「間違っているわ」
 レイチェルは滑らかに答えた。
 だが、それでもアンジェリカは信じなかった。苦い顔で目を伏せる。母親も嘘をついているのだろうと思った。違うというのなら、本当のことを教えてほしい。出来るわけはない——心の中で毒づく。
「真実を、聞きたい?」
「えっ?」
 思いがけない発言を耳にし、アンジェリカは驚いて顔を上げた。自分の聞き違いかと思った。
 レイチェルは優しく微笑んでいた。
「あなたに聞く覚悟があれば、今、ここで話すわ」
 アンジェリカは片眉をひそめながら、身を乗り出して尋ねる。
「本当に、本当のことなの? 作り話で私を騙して納得させようとしていない?」
「本当の話よ」
 深く澄んだ蒼い瞳が、正面から彼女を捉えた。
 アンジェリカはその双眸に吸い込まれそうに感じ、少し目眩を覚えた。
 ——きっと、嘘は言っていない。
 それは直感だった。論理的な根拠は何もない。だが、信じていいと思った。信じようと決めた。
 その途端、急に怖くなった。
 うつむいてきゅっと口を結び、じっと考え込む。頬に黒髪がかかった。本の上に置いた手を、ゆっくりと握りしめる。手のひらに汗が滲んだ。
 自分は何を悩んでいるのだろう。悩むことなど何もないはずだ。ずっと知りたかったことである。その機会を逃すなど、ありえないことだ。ただ心の準備が出来ていないだけ。落ち着こう——。胸に手をあて、深呼吸をする。
「教えて」
 静かにそう言うと、緩やかに顔を上げる。そして、強い力を秘めた漆黒の瞳を、まっすぐレイチェルに向けた。

 ラウルとサイファは向かい合ったまま、静寂の中でグラスを傾けていた。最初は文句を言っていたラウルも、今は大人しくサイファに付き合っている。ふたりとも緩いペースで飲んでいた。最初に注いだ量の半分も減っていない。
「美味いだろう? とっておきだったんだ」
 サイファはグラスを目線の高さまで持ち上げ、深みのある澄んだ琥珀色を見つめると、満足そうに口元を上げた。この液体を通してラウルを見ようと思ったが、量が少ないせいか上手くいかなかった。
 ラウルはグラスを手に持ったまま、冷めた目を向けた。
「酒に逃げるとは感心しない」
「今日だけさ」
 サイファは澄ました顔で言った。
 ラウルはグラスをテーブルに置いた。
「レイチェルにすべて押しつけてきたのか」
「違うよ、彼女の希望だ。ひとりで真実を話すとね」
 サイファはそう言うと、おもむろに頬杖をつき、じっと目の前の彼を見つめた。
「だから、今晩は帰れない。朝まで付き合ってもらうよ。それくらいはしてくれるんだろう」
 ラウルはムッとして眉をひそめた。
「何がそれくらいだ。今までさんざん利用してきただろう」
「それでもまだ足りないと思ってるんだけどね」
 サイファは無邪気なくらいの笑顔を見せると、一気にグラスの残りを飲み干した。それほど量はなかったが、それでも喉の奥がカッと熱くなった。テーブルの中央に置いてあったボトルを手に取り、自分で自分のグラスに注いだ。最初よりも少し多かった。
「飲み過ぎるな」
「それは、友としての助言か? 医者としての忠告か?」
「巻き込まれて迷惑なだけだ」
 ラウルはつれない答えを返すと、サイファの手元にあったボトルを、テーブルの中央に引き戻した。

 アンジェリカの真剣な表情を見て、レイチェルは柔らかく頷いた。暫しの時間、顔を下に向ける。そして、ゆっくりと顔を上げる。微笑みは消えていた。
 アンジェリカの緊張はさらに強くなった。それに耐えるように、小さな口をきゅっときつく結んだ。額には薄く汗が滲んでいた。胸が張り裂けそうで、もう声が出せる状態ではない。ただ無言で母親の言葉を待つ。
「アンジェリカ」
 桜色の唇がそっと開き、優しい音色で名前を呼んだ。そして、一呼吸おいて続ける。
「あなたは、ラウルの子供なのよ」
「……えっ?」
 ごく短い言葉を発したきり、アンジェリカの動きが止まった。表情も固まっている。
「あなたは、ラウルの子供なの」
 レイチェルはもういちど同じ抑揚で言った。
 アンジェリカは懸命に頭を働かせる。
「わ、私……このうちの子じゃなかった……って、こと……?」
「いいえ、そうじゃないの。あなたを産んだのは私よ」
「それって、どういう……」
 まるで謎掛けだった。少なくとも彼女はそう感じた。ますます混乱した。糸がもつれるように思考が絡まる。やがて、諦めたように思考が停止する。もしかすると、理解することを無意識のうちに拒絶していたのかもしれない。
 レイチェルは少し困ったように微笑んだ。
「あなたは、私とラウルの間の子供なの。意味はわかるわね?」
「あっ……」
 喉の奥から小さく声が漏れた。
 これが、真実。
 これが、本当のこと。
 言えなかった理由。
 私がラグランジェの他の人とは違う理由。
 でも、どうして?
 どういうこと?
 大きく開いたままの瞳から、無意識のうちに涙の粒が零れ落ちた。
「そうよね、驚くわよね」
 レイチェルは申しわけなさそうに、曖昧な微笑みを浮かべて言った。
 アンジェリカの涙は止まらなかった。
 悲しいわけではない。つらいわけではない。いや、それらもあったかもしれない。言葉では説明しようのないくらい、雑多で、複雑で、矛盾した感情が、内側から一気に湧き上がった。それは、彼女の許容量を遥かに超えていた。自分の中で処理しきれなかった分が、涙となって溢れ出しているのだろう。
 流されるままの涙は、頬を伝い、手の甲やスカートに落ちていく。
 レイチェルはただ穏やかに見守っていた。

 やがて、アンジェリカは少しずつ落ち着きを取り戻した。レイチェルから差し出されたハンカチで涙を拭い、深呼吸して息を整える。
「お父さんは、このこと……」
「知っているわ、あなたが生まれる前から」
 レイチェルの小さな口から、落ち着いた声が紡がれる。
 アンジェリカは濡れた瞳で彼女を見つめ、無言で耳を傾けた。
「サイファのおかげなのよ。今、私たちがこうしていられるのは。ラグランジェ家に真実を知られていたら、あなたが生まれることはなかったし、私も生きていなかったかもしれない」
 アンジェリカは胸を押さえて息を呑んだ。決して大袈裟な物言いではない。ラグランジェ家なら、曾祖父なら、平気でそのくらいのことはするだろうと思った。
「サイファはただの一度も私を責めず、すべてを引き受けてくれたの。何もわかっていなかったあの頃の私と、おなかの中のあなたを、身を呈して全力で守ってくれたわ」
 目頭が熱くなる。鼻の奥がつんとする。
 父親の顔を思い浮かべた。笑顔だった。そう、彼はいつだって笑顔を向けてくれていた。
 ——お父さん。
 心の中で呼びかける。再び、涙が溢れ出した。先ほどとは違い、とても熱い涙だった。
 うつむきながら、濡れた頬をハンカチで拭いた。
「でも、どうして……」
 とまどいがちにそう切り出し、ゆっくりと顔を上げる。漆黒の瞳は、不安に怯えるように小さく揺れていた。
「お母さんにとって、お父さんとの結婚は、望まないものだったの? 親が決めたから仕方なく? お父さんのこと、好きじゃなかったの……?」
 レイチェルは生まれたときから、サイファのもとへ嫁ぐことが決められていた。親どうしが決めた結婚だった。そのことは知っていた。だが、そんなことを感じさせないくらいに、ふたりはとても仲が良さそうに見えた。仲が良いと信じていた。だから、どうしても聞きたかった。
 レイチェルは優しい声できっぱりと答える。
「いいえ、ずっと大好きだったわ。もちろん、今も」
「ラウルは?」
 アンジェリカはさらに尋ねかけた。瞳の奥を探るように見つめる。
 レイチェルはわずかに目を細めた。遠くに思いを馳せるような、どこか物憂げな微笑みを浮かべた。
「ラウルも、好きだったわ」
「……今も?」
「ええ」
 迷いのない答え。とても落ち着いた声だった。
 アンジェリカは複雑な表情でうつむいた。どう反応すればいいかわからなかった。それ以前に、どう受け止めればいいかさえ、わかっていなかった。
「軽蔑されても当然だと思っているわ」
 レイチェルは、一瞬だけ、つらそうな表情を見せた。それを微笑みで包み隠す。
「でも、サイファとともに生きていくと決めたから、今は……」
「お父さんに恩があるから?」
 アンジェリカはうつむいたまま、遠慮のない率直な質問を投げかけた。
 レイチェルは小さく息を呑んだ。ゆっくりと目を閉じ、そして、ゆっくりと目を開く。
「……そう、かもしれないわね」
「ラウルは? ラウルもお母さんのことが好きだったんじゃないの?」
 今度は、顔を上げて尋ねた。問いつめるような強い口調だった。その声の厳しさに、自分自身で驚いた。感情が昂ってきたせいかもしれない。
 レイチェルの蒼い瞳が揺れた。
「申しわけなく思っているわ。結果的に裏切ってしまったから。きっと、傷つけたから……」
「ああ……」
 アンジェリカはため息まじりの声を上げ、つらそうに顔を歪めると、ソファの上に膝を立てて顔を埋めた。両手で頭を抱え込む。
 一気になだれ込んできた信じがたい事実が、心に重くのしかかる。
 でも、実感はない。自分の知っている現実と繋がらない。
 頭が混沌としていた。頭痛がする。ぎゅっと目をつむり、後頭部を押さえる手に力を込めた。

 ダイニングテーブルで向かいあったまま、ラウルとサイファは静かに飲み続けていた。ときどきサイファが話を振り、ラウルが面倒くさそうに答える。その繰り返しだった。
「飲まないと言ったわりには、よく飲んでるよな」
 サイファは呆れたように言った。
 ボトルの中身はもうほとんどなくなりかけていた。その八割くらいはラウルが飲んだ。だが、顔色も口調もまったく変わらず、酔っている気配はない。
「私が飲まなければ、おまえが飲むだろう。強くもないくせに」
「へぇ、気遣ってくれているのか」
 サイファは頬杖をつき、ニッと口の端を上げた。上目遣いでラウルを見る。
 だが、彼の答えはつれないものだった。
「ここで酔いつぶれられたら、私が迷惑を被るからな」
「そのつもりで来たんだよ。おまえに迷惑をかけたくて、な」
 サイファはグラスの口を爪で弾いた。高い音が小さく鳴った。
 ラウルはムッとして彼を見下ろした。
「謝れといいたいのか」
「いや、謝れと言っても謝らないだろう?」
「ああ」
 当然のようにそう答え、グラスを口に運んだ。残りを一気に流し込む。
 サイファはふっと笑った。
「おまえに迷惑をかけるのは、私の趣味だと思ってくれ」
「甘えているだけだろう」
「まあな。気兼ねなく甘えられるのは、おまえくらいだからな」
「少しは気兼ねしろ」
 ラウルはボトルを手に取り、残り少なくなっていた液体を自分のグラスに注ぎきった。
「いつまで居座るつもりだ」
 空のボトルをテーブルの隅に置きながら、ぶっきらぼうに尋ねる。
「夜が明けるまでさ」
 サイファはさらりと答える。
 ラウルは掛時計に目を向けた。
「そろそろだ」
「ああ」
 サイファは重い声で同意すると、グラスを持って立ち上がった。窓の方へ足を進め、そっとカーテンを開ける。まだ太陽は見えないが、ほんのりと空の下方が白み始めていた。
 窓枠に手を掛け、外の一点を見つめながら、間もなく訪れるであろうそのときを無言で待った。ラウルも無言だった。物音さえしない。部屋は静寂に包まれていた。
 やがて、地平の向こうから光があふれた。解き放たれたように空へ広がる。部屋へも飛び込んできた。正面からその光を受けたサイファは、眉根を寄せ、目を細めた。グラスの残りを一気に呷る。
「夢から醒める時間、かな」
 その声には寂寥感が滲んでいた。ゆっくりと部屋の中のラウルに振り返り、窓枠にもたれかかる。そして、空疎な笑みを浮かべると、静かに口を開いた。
「これまで必死に守ってきた。どんな手を使っても守り通そうと思っていた。だけど、アンジェリカには敵わなかったよ。最も手強い相手だったね」
 顔を隠すように深くうつむく。金の髪がはらりと頬にかかった。
「知らせたくはなかった。ずっと、“本当の父親”でいたかったよ」
 低く沈んだ声で、つぶやくように言った。
 ラウルはうなだれたままの彼を見つめた。肩がわずかに揺れていた。
「諦めるのが早いな」
「現実を見ているだけさ」
 サイファの声はもう平常に戻っていた。すっと背中を伸ばし、まっすぐラウルに目を向ける。背後から照らす光が、金の髪を鮮やかに煌めかせた。
 ラウルはテーブルに肘をつき、深いため息を落とした。
「この14年という年月も現実だろう」
「14年、か……」
 サイファには、それが長いのか短いのかわからなかった。アンジェリカが生まれて、ここまで成長したことを思えば、それなりに長い時間といえるだろう。だが、実感としては、あっというまだったような気がする。
 ラウルは無表情で続ける。
「家族は血で作られるわけではない、共に過ごした時間で作られていくものだ——それが、おまえの考えではないのか」
「ああ、だけど理想論だよ。アンジェリカがそれを受け入れるかはわからない」
 サイファは真面目な顔で答えた。それはあくまで自分の理想であり、アンジェリカの理想は違うものかもしれない。もし、同じ理想を持っていたとしても、その理想を現実としては受け入れられないかもしれない。理想と現実は、得てして乖離しているものだ。
 そんなことを考えながら、ふっと寂しげに表情を緩めた。
「さてと、そろそろ帰るよ」
 寄りかかっていた窓枠から体を離し、ラウルの方へ歩いていく。
「こんな時間まで悪かったな」
 そう言いながら、空のグラスをそっとテーブルに置いた。
 ラウルは立ち上がった。口を閉じたまま、無言で立ち尽くしている。何か言いたげに見えたが、サイファは何も訊かなかった。
「じゃあな」
 軽い別れの言葉を口にすると、扉の方へ颯爽と足を進めた。だが、ドアノブに手を掛けたところで、急に動きを止めた。背を向けたまま、つぶやくように言う。
「もしかしたら、今度のことで、おまえにも迷惑を掛けることになるかもしれないが……」
 そこで言葉を切った。暫しの間ののち、小さくふっと息を漏らした。
「いや、自業自得だな」
 笑いを含んだ声でひとり納得したように言うと、振り返ることなく、軽く片手を上げて出て行った。医務室の扉を開閉する音が、ラウルの耳に微かに届いた。

 頬を撫でる空気が冷たい。吸い込むとさらに冷たい。痛いくらいに染み渡っていく。
 サイファは酔いが醒めるのを感じた。
 まだ明るくなりきっていない空を見上げ、息を吐きながら目を細める。グラデーションはすでにかなり拡散していた。そろそろ人々が動き出す時間に差し掛かろうとしている。
 家へ近づくにつれ、自分の鼓動が強くなるのを感じた。
 レイチェルは起きているだろうか。さすがにこの時間まで待っていることはないだろう。帰らないと言ってあったのだ。寝ていたら起こそうかどうしようか迷う。出来れば、先にアンジェリカの様子を聞いておきたい。対応方を考えたいのだ。

 迷っているうちに、家に着いてしまった。
 眠っていたら、一度、優しく起こしてみよう。それで起きなければ、起きるまで待とう——そう結論を出し、重厚な扉に手を掛けた。そろりと音を立てないように開く。
 だが——。
「お父さん遅い! 朝帰りじゃない」
 アンジェリカがリビングルームから飛び出してきた。寝るときの格好ではない。ハイネックの黒いセーターにチェック柄のミニスカート、つまり、まったくの普段着だった。サイファの前に駆けつけると、両手を腰にあて、頬を膨らませた。少し前屈みになり、上目遣いで睨むようにして覗き込む。
 それは、幻聴でも幻覚でもない。まぎれもなく彼女はここにいる。
 想定外の展開に、サイファは驚きを隠せなかった。
「そんな言葉、どこで覚えたの」
 そのことに驚いたわけではない。だが、なぜかそんな重要度の低いことを口にしていた。そう言いながら、考える時間を稼いでいたのかもしれない。
 アンジェリカは怪訝な表情で、首を傾げた。
「お酒くさくない?」
「ああ、ラウルのところで飲んでて……」
 突然、アンジェリカは正面からサイファに飛びついた。胸に顔を埋め、背中に手をまわし、ぎゅっと力を込める。
 サイファは大きく目を見開いた。
 少し離れたところにはレイチェルが立っていた。優しい眼差しでふたりを見守っていた。

「お母さんから、本当のことを聞いたわ」
 静かな落ち着いた声。
「つらくは、なかったの?」
 サイファの胸に顔を寄せたまま、アンジェリカは囁くように問いかける。
「……少しはね」
 サイファは正直に答えた。今さら嘘をつくことに何の意味もない。彼女も本当のことが聞きたいはずだ。ずっとそれを望んでいたのだ。
「私のこと、憎くないの?」
「そんなふうに思ったことは、一度だってないよ」
 それは、嘘偽りのない事実だった。だが、信じてもらえるだろうか、と少し不安に思う。彼女の華奢な背中に両手をまわし、そっと優しく抱きしめた。
「私ね、生まれてきて本当に良かった。今は、心からそう思っているわ」
 そう言ったアンジェリカの声は少し固かった。体も少し強張っていた。大きく息を吸い込んだのが、体を通して伝わってきた。腕の中の少女に、サイファは気遣うような目を向けた。
 アンジェリカは顔を上げ、彼と視線を合わせた。にっこりと微笑む。
「だから、ありがとう。私を生かしてくれて。私とお母さんを守ってくれて」
 精一杯の感謝を込めてそう言った。サイファがいなかったら、サイファの判断が違うものだったら、自分はここにはいなかった。そのことを想像するだけでも怖い。だから、この気持ちだけは伝えたかった。
 そして、出来れば——。
「これからも、ずっと私のお父さんでいてくれる?」
「いいの?」
 サイファは思わず尋ね返した。
 そんな彼に、アンジェリカは口をとがらせ、少し怒った顔を見せる。
「訊いてるのは私なんだけど」
 サイファは柔らかく微笑んだ。愛おしげに彼女を見つめると、黒髪に手を差し入れ、梳くように滑らせる。
「ああ、もちろんだよ。これからも、ずっと私の娘でいてくれると嬉しい」
「良かった」
 アンジェリカはほっと安堵の息をつきながら笑った。笑いながら、次第に瞳を潤ませていく。慌ててうつむくと、目元を人差し指でそっと拭った。
「なんだか安心したら眠くなっちゃった」
 明るく言ったその声には、微かに涙が混じっていた。
「私、寝てくるわ。今日もジークのお見舞いに行かなくちゃいけないし」
 そう言いながら、顔を隠すようにしてサイファから離れ、階段へと駆けていく。数段上がったところで、くるりとスカートをひらめかせて振り返り、照れくさそうにはにかんで見せた。
「おやすみなさい、お父さん、お母さん」
 サイファとレイチェルは、意地っ張りな愛娘に微笑みを向けた。
「おやすみ、アンジェリカ」
「おやすみなさい」
 ふたりはそれぞれ挨拶を返し、二階へ駆け上がっていくアンジェリカを見送った。

「お帰りなさい」
「ただいま」
 玄関に残されたふたりは、いつもどおりの挨拶をして、微笑みを交わした。どちらともなく手を伸ばし、自然な流れで抱き合う。互いの温もりを確かめるように、そのまま動きを止めた。
「ずっと、起きてたの?」
 サイファは囁くような優しい声で尋ねかける。
 レイチェルは、彼の温かい胸元に頬を寄せたまま、小さく微笑んだ。
「ええ、今夜は帰ってこないって言ったんだけれど、あの子、いつまででも待つってきかなくて」
「ずいぶん待たせてしまったね」
 サイファも目を細めて微笑んだ。彼女の背中にまわした腕に、少しだけ力を込める。
 レイチェルは顔を上げ、大きな瞳を彼に向けた。
「ずっと、ラウルのところにいたの?」
「ああ、一晩中、酒を飲みながら、嫌味を言って絡んでいたよ」
「まあ」
 レイチェルは口元に指を添え、くすくすと笑った。彼女にはわかっていた。そして嬉しかった。その行動は、憎しみからくるものではなく、彼なりの甘えである——。彼もまた、ラウルに好意を持ち、慕っているのだ。子供の頃から今に至るまで、その気持ちの根本的な部分は変わっていないのだろう。
 サイファは彼女の細い髪に指を絡めた。その一本一本は薄く透き通っているように見えた。とてもきれいだが、とても頼りない。
「壊れてしまうと思っていた」
「私も、覚悟はしていたわ」
 レイチェルの声には、どことなく固さが感じられた。そのときの心情を思い出したせいだろう。
「強い子だね」
 サイファは二階の方へ視線を向けて言った。
「すぐに結論を出したわけじゃないのよ。すごく思い悩んでいたわ」
「思い悩んで出した結論なら、なおさら嬉しいよ」
 アンジェリカのことだ。あらゆる現実を思い巡らせ、あらゆる可能性を想定し、そのうえでこの結論を選び取ったのだろう。真剣に悩んだ分だけ、その結論には重みがある。
「アンジェリカには、いくら感謝してもしたりないな」
 ゆったりと熱い吐息まじりに言う。
 レイチェルは優美な微笑みを浮かべた。
「私たち三人が家族として過ごした、この14年の積み重ねがあったからだと思うわ」
 サイファは一瞬だけ目を見開き、それからふっと小さく笑った。
 レイチェルは不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの?」
 サイファは帰宅する少し前の会話を思い浮かべていた。
「ラウルにも同じようなことを言われたんだ」
「ラウルに?」
 レイチェルは目をぱちくりさせた。
「私は血を否定していたつもりだったが、実際のところは、誰よりも血にこだわっていたのだろう。心のどこかで血のつながりには敵わないと思っていた。信じきれなかったんだよ。情けないな、本当に」
 サイファは落ち着いた口調で、淡々と心情を吐露した。最後の部分に、軽くため息が混じった。
 レイチェルは彼を見つめたまま、ゆっくりと首を横に振った。そして、再び、彼の胸に寄りかかった。
「サイファ、これからも、ずっと私の夫でいてくれる?」
「ああ、もちろん。君がずっと妻でいてくれると嬉しい」
 それは、アンジェリカのときと同じ言いまわしだった。ふたりは顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
「じゃあ」
 レイチェルは体を起こし、顔の横に左手を立てて見せた。指先をまっすぐに揃え、手の甲をサイファに向けている。
「持っているんでしょう?」
 わずかに首を傾げて尋ねる。
 主語はなかったが、サイファには何のことかすぐにわかった。ズボンのポケットに右手を差し入れて探る。そして、ゆっくりと手を引き、彼女が催促したものを取り出す。それは、プラチナの指輪だった。14年前、結婚指輪としてレイチェルに贈ったものである。先日の事故のときに、ルーファスの手を通して彼の元へ戻ってきたのだ。
「知っていたの?」
「そうじゃないかと思っただけ。指輪がないことに気づいていたはずなのに、何も言わなかったから」
 サイファはふっと表情を緩めた。彼女には敵わないと思った。
「君を縛り付けてしまう気がして、迷っていたんだ」
「今なら、もう迷うこともないでしょう?」
 レイチェルは可憐に愛らしく笑った。
 その笑顔に後押しされるように、サイファは彼女の左手をとった。細く、小さく、そして透き通るように白い。
「これからもずっと、私とともに歩んでいってくれるかい?」
「はい」
 レイチェルはサイファの目を見つめ、凛とした声で答えた。迷いは微塵も感じられなかった。
 サイファはプラチナの指輪を、彼女の左手の薬指にゆっくりと嵌めた。
「結婚式みたい」
 レイチェルは無邪気にくすりと笑った。
「そのつもりだよ」
 サイファは真面目な顔で答えた。彼女の左手を柔らかく包み込むように握る。
 レイチェルは顔を上げ、深く澄んだ双眸を彼に向けた。
 ふたりは手を繋いだまま、まっすぐに見つめ合った。
 互いに小さく一歩ずつ歩み寄る。
 そして、ゆっくりと口づけを交わした。
 言葉はなくとも、ふたりはその意味をわかり合っていた。

 それは、ともに生きる決意、そして、誓い。
 14年前に交わしたものよりも、もっと強く、もっと深い——。

 朝の光がステンドグラスを通し、周囲に彩りを添えた。
 朝の鐘が王宮で打ち鳴らされ、同時に鳥の羽ばたきが空へ舞い上がった。
 それらは、まるで、この儀式を祝福しているかのようだった。
 鐘の余韻が消える。
 ふたりはそっと目を開き、互いの姿をその瞳に映した。
 そして、視線を合わせたまま、優しく微笑み合った。



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