目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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81. 絡み合う矛盾

 サイファは王宮の廊下を、早足で歩いていた。人々が行き交う雑踏の中で、自分の靴音だけが際立って聞こえる。まるで、自分ひとりが隔離された空間にいるかのように感じていた。
 彼は足を止めた。ラウルの医務室の前だった。難しい顔で扉を見つめ、きゅっと口を結んだ。
 コンコン——。
 軽く二度、ノックをした。返事を待たずに扉を引き開ける。素早く中に入り、扉を閉めると、背中から倒れ込むようにもたれかかった。がしゃんと派手な音が部屋に響いた。
「何だ」
 机に向かっていたラウルは、顔を上げ、短く詰問した。だが、サイファの返事はなかった。うなだれたまま顔すら見せない。前髪と横髪が陰を作っている。
 サイファは後ろ手で扉を探ると、がちゃりと鍵をかけた。
「どういうつもりだ」
 ラウルは机に手をつき、立ち上がった。大股で彼へと足を進める。ぶつかるほど近くまで体を寄せると、背筋を伸ばして腕を組み、威圧的に睨みつけながら見下ろした。だが、うつむいている彼の表情は窺えない。
「どけ」
 ラウルはサイファの肩を掴もうと手を伸ばした。だが、逆にサイファがその手を掴んで止めた。震えるほどに強く力を込める。
「これは、おまえが受けるはずだったものだ」
 抑えた声でそう言うと、キッとラウルを睨み上げ、勢いよく殴りかかった。右の拳が一直線に伸びる。ラウルは避けることも防ぐこともせず、それを頬で受けた。微動だにしない。ただ、目だけをギロリとサイファに向けた。
 サイファは顔をしかめながら手を引き、その手を軽く振った。
「なんて固い顔だ……」
「説明しろ」
 ラウルは凄みのある低音で唸った。腕を組み、行く手を阻むように立ちはだかる。
「あとでな」
 サイファは彼の脇をすり抜け、医務室の中央へ躍り出た。さらに奥へ進み、ほとんど壁と同化した目立たない扉を開けると、躊躇することなく中へ入っていった。その先はラウルの居宅だった。そのことはサイファも知っているはずである。
 ラウルは彼の勝手な行動に驚き、慌てて後を追った。

 サイファはリビングにいた。腰に手をあて、ぐるりと部屋を見回している。
「いい部屋じゃないか。きれいに片付いている」
「出て行け」
 ラウルは上腕を掴み上げた。サイファはそれを振りほどくと、ラウルに背を向けうなだれた。
「今晩だけでいい、泊めてくれ」
 弱々しく、息を吐くように言葉を落とす。肩が小さく揺れた。
「断る。帰りたくないのなら、魔導省の宿泊施設を使えばいいだろう」
 ラウルは冷たく撥ねつけた。後ろからサイファの肩を掴み、乱暴に引く。彼の体がよろけた。そのまま追い出そうとする。だが、サイファはその手を払いのけると、逆に奥の部屋へと駆け込んだ。すぐに鍵をかけ、扉全体に強い結界を張る。青白い光が、鈍く浮かんで消えた。
 サイファは前髪をくしゃりと掴むと、ふぅと息を吐き、暗い部屋を見渡した。
 そこは寝室だった。大きなベッドの横に、小さなベビーベッドが置かれている。それは、以前、ラウルとともに組み立てたものだった。サイファの表情がわずかに緩んだ。幼子の成長は速い。ルナもそろそろベビーベッドが不要になる頃だろうか。そんなことを考えながら、壁を背に、崩れるように座り込んだ。立てた膝の上に腕をのせ、深くうなだれる。
 扉には、自分の精一杯の力を込めて結界を張った。しかし、ラウルならこのくらい軽々と解除できる。鍵も外から簡単に開けられる構造のものだろう。きっとすぐに入ってくるに違いない。そう思ったし、それを少し期待もしていた。しかし、扉は沈黙を保ったままだった。
 サイファはため息をついた。呆れられたか、諦められたかのどちらかだろう。いや、どちらも同じ意味だ。一抹の寂しさを感じながらも、それならここで一晩じっくりと頭を冷やすことにしようと思った。
 そのとき。
 激しい爆裂音とともに、扉が砕けた。大小多数の破片が勢いよく飛び散る。サイファは目を見張った。とっさに頭の前に手をかざし、身を庇う。いくつもの破片が近くを掠め、いくつかの破片は体に当たった。
 パラパラと軽い音が聞こえる。小さな礫が床を打つ音だ。飛散が落ち着いたようである。サイファはゆっくりと顔を上げた。
 バシャン!
 待ち構えていたかのように水が飛んできた。避ける間もなく顔面から冷水を浴び、全身ずぶ濡れになった。サイファは水を滴らせながら、呆然として前を見た。
 砕けた扉の向こうに、青いバケツを持ったラウルが立っていた。白い雑巾をサイファの顔に投げつけ、空のバケツを乱暴に転がした。
「後始末をしておけ」
 ラウルは無表情でそう言い残すと、外へ出て行った。
 サイファは唖然として大きく瞬きをした。遠くで戸が閉まる音を耳にすると、ふと我にかえった。なぜか不意に笑いがこみ上げてきた。手の甲で顔を拭いながら、肩を揺すって笑った。情けなくて、可笑しくて、たまらなかった。

 数十分後、ラウルは戻ってきた。
 サイファは膝をついて床を拭いていたが、彼を一瞥すると、雑巾をバケツに掛けて立ち上がった。
「とりあえず、破片は一箇所に集めた。床も拭いた。扉は明日、人をよこして修理させるよ」
「少しは頭が冷えたか」
 ラウルは斜めに構え、愛想なく言った。
「ああ、風邪をひきそうだ」
 サイファは肩をすくめた。髪も服も、まだ生乾きだった。
 ラウルは脇に抱えていた紙袋をサイファに投げた。サイファは怪訝な顔で受け取ると、中を覗き込んだ。そこには着替えが入っていた。顔を上げ、ラウルを鋭く睨みつける。
「レイチェルに何を言った」
「言われて困るようなことをするな」
 ラウルは冷ややかに切り返した。サイファはわずかに顔をしかめた。
「おまえがそんなにお節介だとは知らなかった」
 ラウルはため息をつき、腕を組んだ。
「おまえのせいでルナを連れ帰れなくなった。レイチェルに世話を頼むしかない。それには理由が要る」
 あからさまに面倒くさそうな口調で説明をする。サイファは眉をひそめ、じっと彼を見つめた。
「浴室、借りるぞ」
 無反応な横顔に声を掛けると、紙袋を脇に抱え、浴室に向かった。

 サイファは冷えた体を熱いシャワーであたためた。
 本当に風邪をひくかと思った。いや、もしかしたら、もうひいてしまったかもしれない。そのときはラウルにうつしてやる——心の中でそう毒づいた。だが、ラウルが風邪をひくのだろうかという疑問が、ふと頭に浮かんだ。少なくともサイファはそのような姿を見たことがなかったし、話に聞いたこともなかった。

 サイファは部屋着に着替えて浴室から出てきた。ラウルはダイニングでひとり紅茶を飲んでいた。
「勝手にバスタオルを使わせてもらった。あとハンガーも」
 サイファはラウルの隣に座った。疲れたように、軽くため息をつきながら頬杖をつく。ラウルはちらりと彼に目を向けた。
「手を見せろ」
「ん? ああ、これか?」
 サイファは右手の甲を見た。小指の付け根あたりから、斜めに赤い線が入っている。ラウルが扉を蹴り壊したとき、その破片が当たってついた傷だ。すでに血は止まっている。それほど深いものではない。だが、傷のまわりが少し赤く腫れていた。
 ラウルは立ち上がり、長髪を揺らしながら、隣の部屋へ入っていった。そして、すぐに小さな救急箱を持って戻ってきた。それをテーブルの上に置き、椅子に腰を下ろすと、サイファの右手をとり、手際よく消毒を始めた。サイファは痛みに顔をしかめた。
「ここだけか」
 ラウルは手を動かしながら尋ねた。サイファは不機嫌な顔で、頬杖をついた。
「全身、調べるか」
 ラウルは取り合わなかった。薬を塗りながら話を変えた。
「情けないな、あれしきのことで傷を作るなど」
「まさか結界ごと扉を蹴破るなんて思わないよ、普通は」
 サイファはふてくされて言った。
「おまえは昔から、予想外に攻撃を受けたときの対処がなっていない。致命的な弱点だ」
 ラウルは大きめの絆創膏を貼った。サイファはひったくるように手を引き抜いた。
「もういちど、おまえに教えを請おうかな」
「見込みはない、やめておけ」
 ラウルは素っ気なく言った。
「冗談だ。真に受けないでくれ」
 サイファは肩をすくめ苦笑した。ラウルは無表情で、救急箱を片付けた。

「落ち着いたら腹が空いてきたな。何か作ってくれるんだろう?」
 サイファは台所を眺めながら言った。使い込まれているが、きれいに片付いている。乳児用と思われる食器もいくつか目についた。
「外で食ってこい」
 ラウルは冷たく一蹴した。サイファには目もくれず、紅茶を口に運ぶ。
「そんな気分じゃないんだ」
「だったら、何か出前をとれ」
 サイファは微かに笑って頬杖をついた。
「おまえの手料理を食べてみたいんだよ。ずっと、そう思っていた。作ってくれるんだろう? 私にも」
 私にも、のところに力を込めて言うと、まっすぐに視線を送り、ニヤリと意味ありげに笑った。
 ラウルは刺すような鋭い目をサイファに向けた。
「贅沢は言わない。簡単なものでいいよ」
 サイファは一転して軽い調子になった。明るく笑いながら言う。
 ラウルはじっと睨みつけていたが、やがて立ち上がり、流し台へ向かった。観念して何かを作り始めたようだ。サイファはにこにこして、その後ろ姿を眺めた。

 ラウルは皿をふたつ手にして戻ってきた。ふたつとも同じスパゲティだった。細やかな霧のような湯気が立ち上っている。それを机の上に置くと、力任せに椅子を引き、どかりと座った。サイファに振り向くこともなく、無言のまま食べ始めた。
 サイファは皿を引き寄せた。スパゲティをフォークに巻きつけ、口に運ぶ。ゆっくりと噛みしめ、じっくりと味わう。
「……美味いよ」
 微かに笑ってうつむくと、ぽつりとつぶやいた。

 サイファが食べ終わると、ラウルは待ち構えていたかのように立ち上がり、後片付けを始めた。湯を沸かしながら、手慣れた様子で皿や鍋を洗う。
「ルーファスに呼ばれたんだ」
 サイファは静かに口を切った。机の上に、組んだ手をのせる。ラウルは動きを止めることなく皿を洗っていた。水の流れる音が続く。聞いているのかいないのかわからなかったが、サイファは話を続けた。
「アンジェリカについての通告だったよ」
 ラウルは皿洗いを終え、水を止めた。そして、沸騰したやかんの火を止めると、紅茶を淹れ始めた。相変わらず、聞いているのかどうか判別できない態度である。だが、聞こえていないということはないだろう。
「長老会は、私を彼女の事実上の夫にすると決定したそうだ」
 サイファはさらりと言った。まるで他人事のようだった。
 ラウルの手が一瞬、止まった。
「どういうことだ」
 背を向けたまま静かに尋ねた。サイファは表情を変えず、落ち着いた声で答える。
「私に、彼女と子をなせと……」
 ラウルはティーカップをふたつ持って戻ってきた。サイファの隣に腰を下ろすと、ティーカップのひとつを彼の前に差し出した。
「了承したのか」
「逃げてきた」
 サイファはうつむいて答えた。ティーカップを手にとり、紅茶を口に運ぶ。そして、小さく息をついた。
「怖かったんだ。馬鹿なと思いつつ、気持ちが傾いていた」
 サイファは再び机の上で手を組んだ。
「彼女を意に添わない男にやるくらいなら、と考えてしまったよ。それだけじゃない。それ以上に、積極的に惹かれたことがあった。抗いがたいほどの魅力のあるもの……」
 その手が微かに震えた。
「子供だ」
 ぽつりと言葉を落とす。ラウルは無表情で、彼に視線を流した。
「だって、奇跡だろう?」
 サイファは声を張り、勢いよく振り向いた。横髪が揺れ、ぱさりと頬を打つ。
「成し得ないはずのことが実現するんだ。私たち三人の絆の完成形だよ。ラグランジェ家にとっても、私個人にとっても、最高の存在となるはずだ」
 右手を広げながら、そう力説した。だが、すぐに強気な表情は崩れた。自嘲ぎみに笑うと、額を掴むように押さえた。
「私は狂っている。自分でも呆れるよ。ルーファスがここまで知っていたのかは不明だが、まったく、上手い策を考えたものだ」
「わからないな」
 ラウルがようやく口を開いた。
「おまえは私を憎んでいるのではないのか」
「ラウル、おまえ……何もわかっていなかったのか」
 サイファは額に手を置いたまま、背中を丸めて笑った。ラウルは眉をひそめ、彼を睨んだ。サイファは笑うのをやめ、背もたれに寄りかかり、目を細めて天井を見つめた。
「ときどき腹立たしく憎らしく思うことはあっても、結局はおまえのことが好きなんだ。子供の頃、そう言ったことがあっただろう? その気持ちは、今もずっと変わらない」
 柔らかい声でそう言うと、ふっと笑って目を閉じた。
「家庭教師としておまえに来てもらって、いろいろな話を聞いたな。新しい魔導も教えてもらった。毎日、世界が広がっていくように感じたよ。あの頃はただ無邪気に楽しかった」
「家庭教師としての役割を果たしただけだ」
 ラウルはつれなかった。無愛想にそう言うと、ティーカップに手を伸ばした。
「そう言うだろうと思った」
 サイファはにっこりと笑った。
「私にとって、おまえは最高の師であり、兄のような父のような存在、そして、かけがえのない友だ。もっとも、すべて私の一方的な思いにすぎないが」
「話が脱線している」
 ラウルは腕を組んだ。
「そうだな」
 サイファは頬杖をつき、顔を斜めにしてラウルを見つめると、口元を緩めた。
「では、おまえの意見を聞かせてくれ」
「私には関わりのないことだ」
 ラウルは腕を組んだまま、サイファには目も向けずに答える。
「よく平然とそんなことが言えるな」
 サイファは呆れたように言った。
「元はと言えば、おまえの行動が招いた結果だろう。助言のひとつくらい、くれてもいいと思うがな」
「……レイチェルはどうするつもりだ」
 ラウルは前を向いたまま、口だけを動かして尋ねた。サイファは彼の横顔をじっと見つめ、真剣な面持ちで答える。
「彼女は私の決定に従うさ。たとえそれがどんなものだとしても」
 ラウルはわずかに振り向き、横目で睨みつけた。組んだ腕の中で、こぶしを握りしめる。
 サイファは顎を引き、負けじと強い視線を返した。
「言いたいことがあるなら、口に出して言ったらどうだ」
 しかし、ラウルは口を開かなかった。サイファはさらに挑発を続ける。
「私は利用できるものは何でも利用する。必要とあれば、負い目を盾に優位に立つことも辞さない。相手が誰であろうとな。そのことは、おまえがいちばん知っているはずだ」
「おまえがそういう人間だということは知っている。だが……」
 ラウルはいったん言葉を切った。奥歯を噛みしめ、わずかに眉をしかめる。
「レイチェルだけは大切にすると思っていた」
 低く抑えた声で言った。
 サイファは微かに笑みを漏らした。
「ああ、とても大切だよ」
 涼しい声で答える。
「彼女がこの世に生を受けたときからずっと、変わらずに愛情を注いできた。私なりに全力で守ってきた。そして、これからも……」
 ゆっくりと目を伏せていく。そして、祈るように両手を組むと、その上に額をのせた。
「だが、今、気持ちが揺らいでいるんだ。彼女を悲しませる奴は許さないと思いつつ、私自身がそういう決定をしてしまうかもしれない。いや、今回だけじゃない。あのときだってそうだった。彼女の気持ちも聞かず、私の一方的な決断を押しつけたんだ。もしかしたら、彼女は……」
 そこで言葉を切った。おもむろに顔を上げ、ラウルに振り向く。
「最低だろう?」
 憂いを含んだ瞳で問いかける。ラウルは険しい表情で、激しく睨めつけた。
「私に何を言わせたい」
「無関心でいてほしくないだけさ。どんな非難の言葉でも、何もないよりはずっといい」
「甘えるな」
 ラウルは冷たく突き放した。
「おまえにしか甘えられない」
 サイファは真顔で言った。
 ラウルは大きくため息をついた。
「まだ、頭が冷えていないようだな」
「水責めだけは勘弁してくれ」
 サイファは苦笑した。
「もう寝ろ」
 ラウルは面倒くさそうに言った。
「ああ、その方が良さそうだ」
 サイファは残りの紅茶を一気に流し込んだ。もうすっかり生ぬるくなっていた。カップを机に戻して立ち上がると、扉が壊れたままの寝室へ向かった。
「おまえにとって家族とは何だ」
 背後からラウルの声が聞こえた。サイファは目を大きくして足を止めた。ゆっくりと振り返る。
「今まで何のために守ってきた」
 ラウルは背を向けたまま、再び問いかけた。
 サイファは目を閉じ、ふっと息を漏らすと、再び寝室へと足を進めた。

 あたたかい——。
 サイファはぼんやりと目を覚ました。カーテンの隙間から射し込む光が、顔に当たっていた。眩しさに思わず目を細める。
 ここは——。
 手をかざして光を遮りながら、あたりを見回した。見知らぬ天井、見知らぬカーテン、懐かしい匂い、ベビーベッド、壊れた扉の破片、手の甲の絆創膏……。
 そうだ、ここはラウルの寝室——。
 きのうの出来事が、一気に頭に蘇った。
 サイファは体を起こした。顔を上げ、時計を探す。掛時計の針は、いつも起きる時間よりも前を指していた。寝過ごしたわけではない。安堵してほっと息をついた。
 扉のない入口からは、人工的な光が微かに漏れ入っていた。ダイニングからのようだ。サイファはベッドを降り、引き寄せられるように歩いていった。
 そこは蛍光灯の明かりで満ちていた。その下で、ラウルは紙の束に囲まれていた。生徒たちのレポートらしい。ペンを片手に読み進めている。
「おはよう」
 サイファは微笑んで挨拶をした。
「ああ」
 ラウルはレポートに目を落としたまま、気のない返事をした。
「もしかして、一晩中、起きていたのか」
 サイファはラウルの向かいに座った。目の前のレポートを手にとり、頬杖をつきながらパラパラとめくる。ラウルはサイファの手からレポートを奪い返した。
「寝る場所がない」
「ソファがあるだろう」
 サイファは平然と言った。ラウルは眉をひそめて睨みつけた。しかし、サイファはまるで意に介していないようだった。
「おまえのベッド、寝心地が良くないな。マットレスが古いんじゃないのか」
「人のベッドを占領しておいて言うセリフか」
 ラウルはため息まじりに言った。そんな彼を見て、サイファはニコニコとしていた。
「少しは落ち着いたか」
 ラウルは再びレポートに目を落として言った。サイファは肩をすくめた。
「きのうのことを思い返すと恥ずかしいな」
「まるで子供だ」
「大目に見てくれ。まだ三十数年しか生きていないヒヨッコだからな」
 上目遣いにラウルを見て、ニッと笑う。ラウルは下を向いたまま、わずかに顔をしかめた。
「どうするか、決めたのか」
「ジークに頑張ってもらうことにしたよ」
 サイファはさらりと答えた。ラウルは顔を上げた。険しい表情だった。
「何をさせるつもりだ」
「それは彼自身に考えてもらう。彼が無茶をしても、アンジェリカには危害は及ばないだろうからね。思う存分、暴れてもらうさ」
 サイファの口調は、どこか楽しそうだった。
「あいつには無理だ」
 ラウルはペラリとレポートをめくった。
「気楽に見守るよ。どちらに転んでも、私には悪い話ではないからね。ジークの力が及ばなかったときのことを考えると、私は表立って動かない方がいいだろうな」
 ラウルはひと睨みしただけで、何も言わなかった。
「最低だと思っているか」
「ああ」
「それはどうも」
 サイファはにっこりと微笑んだ。そして、机の上に置いてあったペンを手にとると、指でくるりと回した。
「私のやり方が気に入らないのなら、自分で行動を起こせばいい。最低なのは、傍観者を決め込んでいるおまえも同じさ」
 そう言うと、ニッと挑むように笑い、ペンをラウルの額に突きつけた。彼は無表情のままだった。
「さ、朝食の時間だ」
 サイファは軽い調子で言うと、机の上で腕を組んだ。
「もう帰れ」
 ラウルは苛ついた様子で命令した。しかし、サイファはそれに従うつもりなど微塵もなさそうだった。ニコニコしながらラウルを見ている。
「今朝はコーヒーが飲みたい気分だな。ブラックで頼むよ。インスタントは駄目だからな」
 ラウルは呆れ果てて、何も言い返す気になれなかった。下手に言い返しても、よけいに疲れるだけだと悟ったのだ。黙って立ち上がると、レポートを脇に置き、台所へと向かった。


82. 決意のゆびきり

 キーン、コーン——。
 終業を告げるチャイムが鳴った。
「今日はここまでだ」
 ラウルは教本を閉じ、脇に抱えた。
「このレポートの提出期限は明日だ。忘れるな」
 生徒たちを鋭く見まわしてそう言うと、大きな足取りで教壇を降り、勢いよく扉を開けた。
「やあ、昨晩はどうも」
 そこにはサイファが待ち構えていた。軽く右手を上げ、にこやかにラウルを見上げている。ラウルは眉をひそめて睨んだ。
「何の用だ」
「おかげさまで風邪ぎみだよ。どうにも仕事に身が入らなくてね」
 ラウルは無言でポケットを探った。小さな白い紙包みをふたつ取り出すと、サイファに手渡した。
「ずいぶんと用意がいいんだな。まさか毒じゃないだろうな」
 サイファはその紙包みを指でつまみ、透かすように高く掲げた。
「こういう用件なら医務室に来い」
 ラウルは苛ついて言った。
 ふたりの会話はクラス中の注目を集めていた。終業後にしてはいつになく静かである。アンジェリカとジークも驚いたように前扉のふたりに目を向けていた。
「いや、おまえに用があるわけじゃない」
 サイファはラウルの肩をポンと叩くと、教室の中へと足を進めた。そして、軽く右手を上げ、にっこりと笑う。
「やあ」
 それはジークに向けられたものだった。ジークは席に着いたまま、不安そうな面持ちで会釈した。
「お父さん、こんなところでラウルと喧嘩しないで。恥ずかしいわ」
 ジークの隣に立っていたアンジェリカは、顔を赤らめながら口をとがらせ、上目遣いで父親を見た。
「喧嘩じゃないよ」
 サイファは優しく微笑み、彼女の頭に手をのせた。
「……ねぇ、お父さん」
「何だい?」
「ジークに何の用なの?」
 アンジェリカは心配そうに尋ねた。黒い瞳がわずかに揺れた。
「たいしたことじゃないよ」
 サイファは笑顔を保ったまま軽く答えた。
「ごまかさないで!」
 アンジェリカは語気を強めて言い返した。真剣なまなざしで、睨むようにサイファを見つめている。一歩も引くつもりはないようだ。
 サイファはふっと表情を緩めた。彼女の横髪に手を伸ばし、撫でるように後ろに流す。そして、あらわになった耳元にそっと顔を近づけた。
「約束は守るから」
 柔らかい声でそう耳打ちをした。それはアンジェリカの疑念に対する答えそのものだった。しかし、それでもまだ彼女の心は晴れなかった。訝しげに顔を曇らせている。サイファは安心させるように大きくにっこりと笑って見せた。
「そう時間はかからないよ。アンジェリカとリックは図書室で待っていてくれ。終わったらジークを行かせるから」
「はい」
 リックは素直に返事をした。だが、アンジェリカは複雑な表情で口を結んだままだった。
「ジーク、行こうか」
「あ、はい」
 ジークは急いで鞄の中に教本を放り込み、サイファのあとについていった。

 ふたりは連れ立って教室を出た。終業直後の廊下は、いつもと変わらず賑やかだった。話し声や靴音、扉の開閉などの雑多な音が交じり合っている。ガラス窓から射し込む光は、だいぶ柔らかくなっているものの、まだ色づいてはいない。
 ラウルはまだ扉の近くに留まっていた。壁にもたれかかり、険しい顔でサイファを睨みつける。だが、サイファは余裕の微笑を返した。
「それじゃあな、先生」
 涼やかな声でそう言うと、立ち止まることなく颯爽と通り過ぎた。ジークはラウルを気にしながらも、遅れないよう足を速めた。
「サイファには深く関わるな」
 背後からラウルの声が聞こえた。ジークははっとして振り返った。ラウルは壁にもたれたまま、無表情でジークに視線を流していた。しかし、目が合うと途端に背を向けた。焦茶色の長髪が大きく波を打った。そのまま早足で立ち去っていく。
「ジーク」
 サイファは足を止め、呼びかけた。ジークは慌てて前に向き直った。後ろ髪を引かれたが、それを振り切り、再びサイファについて歩き始めた。

「アンジェリカ、どうしたの?」
「ええ……」
 リックの問いかけに、アンジェリカは曖昧に返事をした。心ここにあらずという感じである。眉根を寄せ、じっと考え込んでいる。
「図書室、行こうよ」
「ええ……」
 サイファはあのことをジークに告げるつもりではないか、自分が本家を継ぐと決めたあのことを——アンジェリカはそう疑っていた。サイファはジークには知らせないと約束してくれた。今日も約束を守ると言ってくれた。しかし、だとしたら、いったいジークに何の用があるというのだろうか。後ろめたいことがないのなら教えてくれればいい。なのに、ごまかして隠しているのが怪しい。やはり、サイファは嘘をついているのかもしれない。
 アンジェリカは思考を止めた。疲れたようにため息をつく。こんなにも疑り深い自分が嫌になった。自分の父親くらい、どうして素直に信じられないのだろう。
「ねぇ、アンジェリカ?」
 リックは心配そうに覗き込んだ。あまりにも上の空なので、肩を揺すってみようか迷った。
 ——お父さんのこと、信じるわ。
 アンジェリカは自分の気持ちを決めた。顔を上げると、にっこりとリックに微笑んだ。
「行きましょう、図書室」
 ようやく返ってきたまともな反応に、リックは安堵しながら頷いた。

 ジークが連れてこられたのは、薄暗い部屋だった。ただでさえあまり広くないにも拘らず、ロッカーや段ボール箱が多く、また、乱雑に取りとめなく物が散らばっていて、人が立てる場所はますます少なくなっていた。わずかに埃っぽく感じる。倉庫だろうか、とジークは思った。
 サイファはロッカーのひとつを開け、ハンガーに掛かった服を取り出した。それは濃青色の上下だった。サイファが身に着けている魔導省の制服と同じもののようだ。
「君の制服だよ」
「えっ?」
 ジークは素っ頓狂な声を上げた。サイファはにっこりと笑った。
「背格好は私と同じくらいだから、おそらくこれで大丈夫だろう。着てみてくれるか。合わなければ調整するか取り替えるかするから」
 そう言いながら、押しつけるようにそれを渡し、ふたりの間に仕切りのカーテンを引いた。
 ジークはとまどいながら、腕の中の制服を眺めた。
「ずいぶんと早いんですね。まだ何ヶ月も先なのに」
「その間に成長したら、ちゃんと取り替えてあげるよ」
 薄いクリーム色のカーテンの向こうから、冗談めいた声が返ってきた。確かに、もうそれほど成長するような年齢でもない。ジークは苦笑しながら着替え始めた。

「実は、これは単なる口実でね」
 サイファは静かに切り出した。
 ジークは手を止めた。仕切りのカーテンに目を向ける。サイファの影が薄く映っているのが見えた。腕を組んで、壁にもたれかかっているようだ。表情を窺えないのがもどかしい。
「本当は、君に話しておきたいことがあって来てもらったんだ」
「何ですか?」
 ジークはカーテンを開けた。まだ上着を脱いだだけの状態だ。不思議そうな顔でサイファを見ている。
 サイファはそんな彼を見て、にっこりと微笑んだ。
「着替えをしながら話そう」
「あ、はい」
 ジークはカーテンを閉め、言われるままに着替えの続きを始めた。
「ジーク」
「はい」
「アンジェリカのことは好きか?」
 不意打ちにも近い、唐突の質問だった。ジークの心臓は大きく打った。痛いくらいに強く膨張と収縮を繰り返す。頬が火照り、額に汗がにじんだ。しかし、迷いはなかった。
「はい、好きです」
 噛みしめるように答える。
「ありがとう」
 サイファの声は優しかった。だが、次の瞬間には、鋭く険しいものに変わっていた。
「これから話すことは、アンジェリカに口止めされている」
 ジークの顔から熱が引いた。何か、嫌な予感がした。
「だが、やはり君に知らせないわけにはいかないと思ってね」
 サイファは淡々と話を続ける。
「アンジェリカの前では知らないふりをしてほしい。出来るか?」
 ジークは難しい顔で考え込んだ。アンジェリカが口止めしている話を聞くことは、彼女を裏切ることにならないだろうか——そんな疑問が頭をもたげた。断ろうか迷った。だが、話の内容は気になる。サイファの口調からすると、相当に重要なことのようだ。口止めされていることをあえて話すのは、それなりの理由があるからに違いない。聞かなければ後悔するかもしれない。
「……はい」
 迷ったすえ、低い声で返事をした。知らないふりなどという器用なことができるか自信はなかったが、話を聞くためには肯定するしかなかった。
「くれぐれも頼むぞ」
 カーテンに映ったサイファの影が少しだけ動いた。
「では、話そう」
 ジークは固唾を呑んだ。サイファは表情を引き締め、ゆっくりと口を開いた。
「アンジェリカはラグランジェの人間と婚姻し、ラグランジェ本家を継ぐ。彼女自身がルーファスとそう約束した。彼女が自由でいられるのはアカデミーを卒業するまでだ。それ以降は君と会うことも敵わないだろう」
「……えっ?」
 ジークはすぐにはその話を理解できなかった。いや、頭が理解することを拒絶したのかもしれない。鼓動が早鐘のように打っていた。頭の中が強く脈打っていた。汗が頬を伝った。そして、ようやく理解が追いついた。
「そ、んな……嘘だ!!」
 ジークはカーテンを引きちぎらんばかりの勢いで開け、叫びながら飛び出した。まだ着替えはほとんど進んでいない。上半身の服を脱いだところのようだった。
 サイファは無表情で彼を見た。
「いや……あの……冗談、ですよね?」
 冷めた視線を向けられ、ジークは途端に萎縮した。しどろもどろになりながら、自分のきつい言葉を取り繕うように尋ね直した。
「本当だよ」
 サイファは素っ気なく言った。
「どうしてだと思う?」
「……わかりません」
 ジークは唇を噛み締めうつむいた。本当に見当もつかなかった。
「君のためだよ」
「え……?」
 ジークは大きく目を見開いた。サイファは彼の瞳を奥まで覗き込むように見つめた。
「君を助けるために、アンジェリカはその条件を呑んだんだ」
「俺を、助ける……?」
 ジークは眉をしかめて考え込んだ。そして、はっとして顔を上げた。
「まさか、あのとき?!」
「そう、君がルーファスの家で騒ぎを起こしたときだよ。おかしいと思わなかったか? すぐに釈放されて」
 サイファはじっとジークを見据えて言った。ジークは責められているように感じた。確かにあのとき不思議に思った。なのに、なぜ気がつかなかったのだろうか。なぜ深く考えなかったのだろうか。
「俺のせいで……」
 ジークは歯を食いしばり、こぶしを強く握りしめた。爪が食い込んでいたが、痛みなど気にならなかった。
「俺が……俺が何とかします。俺がやめさせます!」
 思いつめた表情でサイファに詰め寄り、懸命に訴える。そんな彼を、サイファは右手で制した。
「いつまでも裸でいると、君も風邪をひくぞ。着替えながら話そう」
「……はい」
 ジークは勢いを削がれ、肩を落としてカーテンの向こうに戻った。ゆっくりカーテンを閉めると、真新しい白いシャツを手に取った。
「君は何とかすると言ったが、いったい何をするつもりだ?」
 サイファの落ち着いた声が背後から聞こえた。ジークは眉根を寄せた。
「それは……これから考えます」
「勝てると思うか」
「やってみないとわからないです」
 ジークはシャツの袖に、乱暴に腕を通した。こんな返答しかできない自分が、無性に腹立たしかった。何とかする——今まで何度もそう思ったのに、具体的に何をすべきか未だに見いだせていない。それは、本気で考えていなかったからに他ならない。常に受け身だった。自分の不甲斐なさをあらためて痛感した。
 サイファは目を細めて遠くを見やった。
「君もそろそろ大人になってもらわないとね」
「それは、あきらめろ……ってことですか」
 ジークは湧き上がる激しい感情を抑え、努めて冷静に尋ねた。
「諦めを知ることは大人への入口に過ぎない。何を諦め、何を諦めるべきでないか——それを見極められるのが、本当の大人だ」
 サイファは真摯に答えた。
 ジークは握りこぶしをぐっと胸に押し当てた。
「これは、俺にとって、あきらめてはいけないことです」
「感情に流された結論は、見極めたとはいわない」
 サイファは冷淡に指摘した。ジークは返す言葉がなかった。強く唇を噛み締めた。
「君は、自分のしようとしていることが正しいと思うか」
 サイファは再び問いかけた。ジークは声の方へ向き直った。
「当然です! アンジェリカが望んでもいない、こんなこと……」
 カーテンに映る影に、むきになって答える。カーテンが微かに揺れ、それに沿って影も揺らいだ。
「彼女は望んだよ。自分でそうすることを選んだんだ」
「それは、仕方なく……俺のせいで……」
 ジークの声はみるみる沈んでいった。
「家のために望まない婚姻に身を委ねるなど、そうめずらしい話でもない。私とレイチェルの婚姻も、そもそもは親どうしが決めたものだ。そうやって家が護られ、伝統が護られ、この国が護られてきたんだ」
「誰かを不幸にしなければ護れないものだったら、無い方がいいです」
 ジークはまっすぐに言った。サイファは小さくふっと笑った。
「君のそういうところは好きだよ。でも、そう簡単にはいかない」
「サイファさんはどうすべきだと思ってるんですか」
「何事も0か1というわけではないからね。どこかで折り合いがつけられることもある。アンジェリカは不幸にはならないよ」
「え?」
 ジークは奇妙な面持ちで眉をひそめた。
「最初こそ寂しい思いをするだろうが、その生活の中で幸福を見つけていくだろう。もしかしたら、君といるよりも大きな幸福を得られるかもしれない」
「それって、どういう……」
 ジークの顔がこわばった。
「君が思うほど、人も世界も単純ではないということさ。手は動かしているか?」
「あ、いえ……」
 ジークは慌てて濃青色の上衣を手に取った。さっと袖を通し、前を閉じる。だが、その手は次第に動きを止めていった。
「ひとつ忠告するならば、自分の行うことを正しいなどと思わないことだ」
 サイファは凛然と言った。ジークはゆっくりと顔を上げた。困惑したように目を細める。
「正しいか否かの議論では、君は必ず負ける」
 サイファは厳しく断定した。
「君自身もわかっていると思うが、君は正義のためにやろうとしているわけではない。ただ身勝手な望みを実現させようとしているに過ぎない。そのことを認め、下手な理論武装はやめるべきだ」
 その鋭い指摘は、ジークの胸に深く突き刺さった。サイファは軽く息を継ぐと、幾分、語調を和らげた。
「たとえ正しくなくとも、すべてを敵にまわそうとも、迷わずにやり通すくらいの気概がなければ、君に勝ち目はないよ」
 ジークは少し怯んだ。簡単にいかないことくらい、わかっているつもりだった。だが、もしかしたら、本当は何もわかっていなかったのかもしれない。自分が進もうとしている道は、想像もつかないほど険しいのだろう。しかし——。
「よく考えるんだ。後悔のないようにな」
 サイファは優しく諭すように言った。
「俺はあきらめません」
 ジークは低く落とした声で即答した。それは、どれだけ考えても、何が起ころうとも、変えようのない強い意思だった。
 サイファは口元を緩めた。
「君の決意はわかった。着替えているかい?」
「あっ……」
 ジークはすっかり手が止まっている自分に気がつき、思わず声を上げた。これで何度目だろう。どうも、考えることと手を動かすことが同時にできないようだ。顔を赤らめながら、また着替えにかかった。
「このまま何の取っ掛かりもない状態では、君もどうしていいかわからないだろう。いくつか質問を受け付けるよ。答えられる範囲で私が答えよう。そうでないとフェアじゃないからね」
 ——フェア?
 ジークはその言葉に軽い引っかかりを覚えた。だが、それはすぐに意識の奥深くへ沈んでいった。代わりにサイファに尋ねたいことが、次々と浮上してきた。頭の中で整理をする。
「質問、していいですか?」
 顔を上げ、カーテンに映る影に向かって尋ねる。
「どうぞ」
 サイファは短く答えた。どこか楽しんでいるふうな声音だった。ジークはごくりと唾を飲み、口を開いた。
「アンジェリカの髪と瞳の色は関係ありますか」
「そうだね……」
 サイファは相槌を打つと、一息おいて話を続けた。
「色がどうだからというわけではないけれど、そうなった原因は関係するね」
 ジークは緊張しながら、さらに踏み込む。
「その原因は何ですか」
「それは答えられない質問だ」
 サイファはきっぱりと言った。以前と同じ答えだった。知らないから答えられないのか、知っているが都合が悪いので答えられないのか、どちらだろう——。ジークは後者ではないかと思った。根拠はないが、確信に近いものを持っていた。
「遺伝子……が関係しますか」
 ずっと気になっていた単語をぶつけてみる。
 サイファは少し間をおいてから、静かに答えた。
「いいところを突いてきたね。さあ、次の質問は何だ」
 間髪入れず、次を促す。もうこの話題は終わりにするという意思表示なのだろう。それは、核心に近づいた証左とも取れる。
「これで終わりか?」
「いえっ」
 ジークは慌てて声を上げた。続けて質問を口にしようとして、一瞬、躊躇った。耳元をほんのり赤く染める。
「……あの……アンジェリカの婚約者は誰ですか」
 サイファはくすりと笑った。
「まだ決めていないんだ。ラグランジェの人間なら誰でもいいことになっている。君は誰がいいと思う?」
「えっ?」
 思いもよらない逆質問に、ジークは凍りついたように固まった。
「君に決めてもらってもいいかなと思っているよ」
 サイファの声は穏やかだった。冗談なのか本気なのか、ジークには判別がつかなかった。泣きそうに顔を歪ませ、奥歯を噛みしめる。
「他に質問はあるか?」
 サイファは軽快に尋ねた。ジークはきゅっと眉根を寄せた。
「サイファさんは味方ですか? それとも……」
 そこで言葉を切った。それ以上は口にできなかった。
「私はアンジェリカの幸せを願っている。ラグランジェの人間として生きるのもひとつの道だろう。現状では、それが最も平和的な解決方法だね」
 サイファは淡々と答えた。ジークは黙って彼の言葉を噛みしめた。
「だからといって、君が起こそうとしている行動を阻害したりはしない。君は君で、信じる道を進めばいい」
「わかりました」
 ジークは沈んだ声で答えた。

 シャッ——。
 カーテンが開き、濃青色の制服に身を包んだジークが、サイファの前に姿を現した。うつむき加減に視線を落とし、ふさいだ表情で立ちつくしている。
「いいね、ぴったりだ」
 サイファはにっこりと微笑んだ。すっとジークへ歩み寄ると、外れていた詰襟のフックを掛けた。彼の細い指が首筋に触れ、ジークはどきりとした。思わず顔を横に向ける。そのとき、不意にガラス窓に映った自分の姿が目に入った。
「なんか、変……ですよね。似合ってませんよね」
 弱気につぶやくように尋ねかける。
「すぐに馴染むさ。そうなってもらわないと困るしね」
 サイファは笑いながらジークの肩に手を置いた。ジークにはその手がとてつもなく重く感じられた。この制服が似合う人間になれ、ということをサイファは言っているのだろう。今の自分には、そんな自信はまるでなかった。
 サイファは腕時計に目を落とした。
「今日はこれで終わりだ。アンジェリカたちが待っている。行ってやってくれ」
「はい」
 ジークは再びカーテンを引こうとした。だが、その手をサイファが掴んだ。そして、にっこりと微笑みかける。
「このままだよ」
「え?」
 ジークはきょとんとした。
「このまま図書室へ行って、アンジェリカたちに制服姿を見せるんだ」
「え、どうして……」
「アンジェリカは、私が約束を破るのではないかと疑っているからね。違う理由で君を呼んだと信じさせなければならない」
 サイファは論理的に説明した。
 ジークはうろたえた。サイファの言い分はよくわかったが、問題はそこではない。
「だからって、これで歩きまわるのはまずいんじゃ……まだ働いてもいないのに……」
「誰も気づかないと思うよ。もし何か言われるようなことがあれば、私の名前を出せばいい」
 サイファは事も無げに言った。ジークはもう反論することができなかった。従うしかないと思った。あきらめたように気弱な笑顔を浮かべた。

 ジークはきょろきょろと廊下を見まわしながら外へ出た。幸い、近くには誰もいない。ひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。
「くれぐれも勘づかれないよう頼むよ」
 サイファも部屋を出て、扉を閉めた。
「アンジェリカは君を巻き込みたくないと思っている。そして、残された自由な時間を普通に過ごしたいと願っているんだ。そこを汲んでやってくれ」
「わかりました」
 ジークは一礼すると、鞄を胸元に抱え、顔を伏せるようにうつむきながら戻っていった。

 サイファは彼の背中を見送った。
 ——苛めすぎたかな。
 扉にもたれかかり腕を組むと、小さく息を吐いた。少し頭がぼうっとしている。熱が上がってきたようだ。ポケットに手を入れ、ラウルからもらった薬の存在を確かめた。

 ガラガラガラ——。
 図書室の扉が開いた。アンジェリカとリックは、何気なくそちらに目を向けた。その瞬間、ふたりはぽかんと呆気にとられた。
「ジーク、どうしたのそれ」
 アンジェリカは上から下まで眺めながら尋ねる。
「ああ、なんか制服のサイズ合わせだったみてぇだ」
 ジークはぎこちなく笑った。アンジェリカはため息をつき、白い目を向けた。
「だからって、そのまま来ることないじゃない。いいの? そんな格好で歩きまわっても」
 リックは頬杖をついて笑った。
「アンジェリカに見せたかったんだよ、きっと」
「ば……違うって!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、あたふたと否定した。
「どう? 感想は」
 リックはそんな彼を無視して、楽しそうにアンジェリカにマイクを向ける振りをする。アンジェリカはじっとジークを見ながら、わずかに首を傾げた。
「なんだか不思議な感じ」
 ジークは力なく笑った。
「やっぱ似合わねぇよな」
「そんなことはないわ。見慣れていないだけで、悪くないわよ」
「そうだよね。ジークはいつもラフな格好だから」
 リックも重ねてフォローする。
「自信なさそうにしているからいけないのよ。もっと背筋を伸ばした方がいいと思うわ」
 アンジェリカはにっこり笑いかけた。
 ジークは胸が締めつけられた。彼女の笑顔が痛かった。しかし、それを表情に出すことは許されない。
「おまえら俺のことばっか言ってねぇで、自分のこと考えろよ。就職活動、ちゃんとやってんのか?」
 ごまかすように、無愛想にそう言うと、ふたりの前の席に腰を下ろした。
「僕はもうすぐ決まりそうだよ。たぶん大丈夫だと思う。アンジェリカは?」
 リックは隣の彼女に話を振った。
「うん……私は、いいの」
 アンジェリカは歯切れが悪かった。
「今だと年齢のせいで難しいから、やっぱり四年後にしようかなって」
 取り繕うように付け加えると、肩をすくめて笑った。
「じゃあおまえ、卒業したら何するつもりなんだ」
 ジークは頬杖をつき、目をそらせて尋ねた。
「これから考えるわよ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「気楽なもんだな」
 ジークはぶっきらぼうに言った。アンジェリカは少し顔を曇らせただけで、何も言わずうつむいた。
「ジーク、言い過ぎだよ」
 リックは眉をひそめてたしなめた。
 ジーク自身も十分にわかっていた。きっとリックが思う以上に言い過ぎている。サイファから本当のことを聞いた今の自分なら、彼女の答えが嘘であることも、どんな思いでこの嘘をついているのかも、察することは容易だった。なのに、なぜこんなひどいことを言ってしまったのだろう。
「悪かった」
 ジークは素直に謝った。アンジェリカはうつむいたまま小さく頷いた。その表情は、何かを必死にこらえているように見えた。
「……なぁ」
 ジークは少しためらいながら声を掛けた。慎重に言葉を選びながら紡いでいく。
「俺らの関係は、卒業してもずっと切れることなく続くんだ。そうだろう?」
 アンジェリカはどきりとした。だが、すぐに笑顔を作って見せる。
「なに? どうしたの、急に。もう感傷に浸っているの?」
 軽く、明るく、からかうように問いかけた。しかし、ジークは真顔のままだった。立てた小指を彼女に差し出す。
「えっ?」
「約束」
 アンジェリカは動揺を見せた。
「そんな子供じみたことって、いつもジークが言っているのに……」
「いいだろ、たまには」
 ジークは掲げた小指を、さらに彼女の鼻先に近づけ催促した。アンジェリカは仕方なく、おずおずと小指を出した。ジークはそれに自分の小指をがっちりと絡ませた。
 ——必ず、俺がおまえを自由にしてやるから。もう少しだけ待っててくれ。
 心の中で強く語りかける。
「約束、したからな」
 ジークは真剣な顔で、まっすぐ彼女を見つめた。つないだままの小指は、互いに熱を帯びている。アンジェリカは漆黒の瞳をわずかに潤ませた。小さな口が微かに動いたが、何も言葉は出てこなかった。


83. 優しい研究者

「ごめんなさい、待った? だいぶ遅れちゃった」
 セリカは小走りで駆け寄ると、申しわけなさそうに両手を合わせた。
「いや、呼び出したのは俺の方だし」
 ジークは椅子に座ったまま、淡々と答えた。

 そこはアカデミーの食堂だった。全面ガラス張りの窓から柔らかい光が降り注ぎ、白いテーブルを眩しく照らしている。終業後のため、それほど人も多くなく、落ち着いたざわめきが穏やかに広がっている。

 セリカはジークの向かいに座った。膝の上に鞄を載せると、上目遣いに彼を見た。視線を落としたまま、じっと何かを考え込んでいるように見える。何となく、声を掛けるのが躊躇われた。沈黙が続き、気まずい空気がのしかかる。
 ジークは突然、立ち上がった。
「何か飲むか? 奢る」
 ちらりと彼女に視線を流し、無愛想に尋ねる。
「あ……じゃあ、コーヒー」
「わかった。待ってろ」
 そう言うと、ジーンズのポケットに右手を突っ込み、カウンターへと向かった。
 セリカは身を乗り出して振り返り、訝しげに彼の後ろ姿を眺めた。

 しばらくして、ジークは紙コップをふたつ手にして戻ってきた。ひとつをセリカの前に置き、席に着く。
「リックには内緒にしてきたか?」
「ええ……でも、なんだか悪いことしているようで落ち着かないわ。何なの?」
 セリカは眉をひそめて尋ねた。
「心配かけたくねぇだけだ」
 ジークは素っ気なく答えた。しかし、それは彼女が聞きたかった答えではなかった。不満そうなまなざしを彼に向ける。
 ジークはコーヒーを口に運び、一息つくと話を続けた。
「おまえ、医学科だろ? 遺伝学とかそっち方面に詳しい人を知ってたら、紹介してほしいんだ」
「それって、アンジェリカの関係で?」
 セリカは身を乗り出し、声を低くして尋ねた。
「ああ、少しでも手がかりを見つけねぇと」
 ジークは眉根を寄せうつむいた。そのままじっと考え込む。
 セリカはわずかに顔を曇らせた。
「言っても無駄でしょうけど、あまり深入りしない方が……」
「あいつは自分の人生を懸けて俺を救ってくれたんだ。今度は俺があいつを救う番だ」
 ジークは机の上で手を組み、思いつめたように言った。怖いくらい真剣な顔だった。
 セリカは何か言いたげに彼を見つめていたが、やがてあきらめたように小さく息をついた。
「わかったわ。じゃあ、私の元担任の先生に連絡をとってみる」
「元担任? 医学科は持ち上がりじゃねぇのか?」
 ジークは不思議そうに尋ねた。アカデミーでは4年間ずっと同じ先生がひとつのクラスを受け持つものと思っていた。少なくとも魔導全科ではそうである。
「基本はそうだけど、先生の都合でね。本業の研究が忙しくなって、辞めてしまったの」
「自分勝手なヤツだな」
「仕方ないわよ。予定が変わっちゃうことだってあるでしょう?」
 セリカは肩をすくめた。
「そいつが遺伝の研究をしてるんだな」
 ジークは本題に戻り、念押しした。セリカはこくりと頷いた。
「ええ、第一人者らしいわよ」
「頼む」
 ジークは頭を下げた。セリカは驚いて目を見開いた。彼が自分に頭を下げるなど、想像もしなかった。それだけ必死であるということだろう。
「任せて」
 彼女は力強く答えると、にっこりと笑って見せた。
「それじゃ、また連絡するわね」
「ちょっと待ってくれ」
 立ち上がろうとしたセリカを、ジークが慌てて引き止めた。
「何? まだ何かあるの?」
「ラグランジェ家について聞きてぇんだ」
「そういうことなら、包帯の子に聞いた方がいいんじゃないの?」
 セリカはさらりと言った。
 ジークはぴくりと眉を動かした。ユールベルのことはおそらくリックに聞いたのだろう。どの程度、知っているのかわからなかったが、それを尋ねようとは思わなかった。
「必要ならあいつにも聞く。今はおまえに聞いてるんだ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、腕を組み、椅子にもたれかかった。
 セリカは彼の態度に困惑した。何が彼の気に障ったのかわからなかった。少しびくつきながら答える。
「え、ええ、わかったわ。でも、ここじゃちょっと……」
「外、歩きながらならいいか?」
 ジークは親指で窓の外を指し示した。仏頂面はまだ崩れていない。
「ええ」
 セリカは神妙にこくりと頷いた。
 ジークは残りのコーヒーを一気に流し込み、立ち上がった。

 王宮の外れにある小さな森。緩やかな風が枝葉を揺らし、ざわざわと音を立てている。ふたりはその下の小径を並んで歩いていた。近くに他の人影は見えない。セリカは彼の横顔に視線を流すと、話を切り出した。
「それで、何が聞きたいの?」
「何でもいいんだ。知っていることがあれば、どんなことでも教えてほしい」
 ジークは真摯に尋ねた。まっすぐなまなざしを彼女に向ける。セリカはどぎまぎしながら目をそらした。
「そう言われても困るんだけど……」
 口ごもりながら後ろで手を組み、小さく息をつく。
「だいたい私だって、そんなに詳しいわけじゃないのよ。確かに祖父はラグランジェの人だったけど、そのこともあまり口外してはいけないことになってたし、ましてやラグランジェの内情なんて……。ラグランジェ家を出るとき、誓約書まで書かされたそうよ」
「は? 誓約書?」
 ジークは面食らい、大きく語尾を上げて聞き返した。
「ええ、みんながみんな、ラグランジェの人間どうしで結婚するわけじゃなくてね。祖父のように外部の人間と結婚する人もいるわけ。そのときに、ラグランジェの名を捨てることと、ラグランジェの内情について口外しないことを、誓約書に書かされるのよ。血判まで捺したらしいわよ」
 そう言って、彼女は人差し指を立てて見せた。
「こういうことも、本当は言ってはいけないんだけど」
「そのわりにはペラペラしゃべってんな、おまえ」
 ジークは呆れたように言った。その途端、セリカはカッと顔を上気させた。
「ジークが教えろって言うからじゃない! せっかく力になろうと思ってたのに、もういいわよ、言わないから!」
 逆上して感情的に喚き立てると、ぷいと背を向けアカデミーに戻ろうとした。
 ジークは焦った。何気なく言ったことが、彼女の逆鱗に触れることになるとは思わなかった。今の自分にとって、彼女は唯一の糸口である。失うわけにはいかない。慌てて肩を掴み、引き止める。
「悪い、すまねぇ、悪気はなかったんだ、機嫌直せよ」
 何とかなだめようと、思いつく限りの言葉を並べた。
 セリカは口をとがらせ、ジークの手をじっと睨んだ。彼の手は意外と大きかった。その大きな手を広げ、がっちりと自分の肩を掴んでいる。
「わかったわよ」
 彼女はため息まじりにそう言うと、肩の手を払いのけた。
「それで、何の話だったかしら」
 ジークはほっと息をついた。右手で額の汗を拭いながら、元の話を再開した。
「ラグランジェを出るときの話だ。名を捨てるって言ってただろ。あれ、どういうことだ?」
 セリカは歩きながら、きびきびと答える。
「ラグランジェを名乗ってはいけないってこと。つまり、男性女性にかかわらず、ラグランジェではなく、相手の姓になるわけ」
「そういや、おまえのところもそうだな」
 ジークはぽつりと言った。セリカは前を向いたまま頷いた。
「ええ、だからラグランジェの名を持つ者は、みんな純血ってことになるわね」
「なるほどな」
 ジークは難しい顔で、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。今までぼんやりと理解していたものの輪郭が、はっきりと見えてきたように感じた。
「それだけじゃないの。ラグランジェ家の人間だと吹聴してもいけないし、そのことを利用して商売をしてもいけない。家系図も決してラグランジェ家に繋げてはいけないそうよ」
 セリカは人差し指を立てて、口に当てた。
「ラグランジェであることを隠せとまでは言われないけど、結構それに近いものがあるみたい」
「厳しいな」
 短く落とされたジークの声は固かった。セリカはちらりと彼を見た。
「そうでもしないと、ラグランジェの名と血を守ってこられなかったでしょうね。だからこそ、二千年近く経った今でも、名門として絶大な力を持っているってわけ」
 ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「もしかして、怖じ気づいたのかしら?」
 セリカは悪戯っぽい目を彼に向け、くすりと笑った。
「バカやろう! んなわけねぇだろ!」
 ジークは顔を真っ赤にして言い返した。

 次の休日、ジークはマーティン=ヘイリーの自宅に向かっていた。セリカが紹介してくれた遺伝学の研究者である。彼女に会う約束を取りつけてもらったのだ。ジークはひとりで行くつもりだったが、なぜか彼女もついてきた。
「別におまえまで来ることねぇのに」
「いいじゃない。君もおいでって先生に言われたし、私も久しぶりに先生に会いたかったし」
 セリカは弾んだ声を上げた。青い空を見上げて、にっこりと笑う。
 ジークは疑わしげな視線を彼女に向けた。
「やけに嬉しそうだな」
「え? ちょっと、勘違いしないでよ! お世話になった先生ってだけなんだから」
 セリカは大慌てで弁明した。ジークは面倒くさそうにため息をついた。
「それよりこれ、どっち行けばいいんだよ」
 彼が指差した正面は行き止まりで、道は左右に分かれていた。セリカはハンドバッグから小さな紙切れを取り出した。それを広げ、何度か回しながら眺める。
「えーと、この道の突き当たりね」
 彼女は左の道を指差した。その指を追いかけるように、ジークは左側に目を向ける。そして、その先を見て唖然とした。
「突き当たりって、あれか?」
「……あれみたい、ね」
 そこに建っていたのは、個人の邸宅とは思えないほど立派なものだった。建物は左右に分かれており、向かって右側は角張った小さな平屋、左側は緩やかな曲面で覆われた、ガラス張りの大きな二階建てである。その洗練された近代的な外観には、まるで生活感がない。ふたつの建物は、渡り廊下で繋がっていた。
「研究業って儲かるのか?」
「さぁ……」
 セリカも驚いているようだった。とまどいながら、門柱のボタンを押す。遠くでチャイムが鳴った。
 すぐに小さな建物の方の扉が開いた。白衣を着たひょろりとした男性が、中から姿を現した。まだ二十代後半くらいに見える。助手だろうか、とジークは思った。
「お久しぶりです、先生」
 セリカはその男性ににっこりと微笑みかけた。
「よく来てくれたね」
 男性も門を開きながら微笑み返した。
 どうやら彼がマーティン=ヘンリー本人のようだ。ジークは驚き、まじまじとその男を見た。白衣はくたびれ、くすんだ茶色の髪は、くせ毛なのか寝癖なのか、ところどころ大きくはねている。この冴えない男が名の通った研究者とは、にわかには信じがたい。
「先生のご自宅があまりに立派なので驚きました」
 セリカは感情を込めて言った。
「研究所も兼ねてるんだよ」
 男は照れくさそうにはにかんだ。
「あ、そうだわ。先生、こちらが先輩のジーク=セドラックです」
 セリカは思い出したようにジークを紹介した。ジークは先輩という言葉に違和感を覚えたが、一応、彼女の二学年上なので間違ってはいない。何かむずがゆかったが、あえて否定はしなかった。無言でその先生に一礼する。
「マーティン=ヘイリーです。よろしく」
 男は丁寧な口調で名乗り、痩せて骨張った右手を差し出した。ジークも右手を差し出し、ふたりは軽く握手を交わした。
「さあ、上がって」
 マーティンはにっこり笑って、ふたりを小さい方の建物へ招き入れた。

 三人は応接間に向かっていた。マーティンとセリカが並んで歩き、ジークはその一歩後ろをついていく。セリカはマーティンと思い出話に花を咲かせていた。というよりも、ほとんどセリカが一方的にしゃべっている状態だった。マーティンはにこにこしながら彼女の話を聞き、時折、相槌を打っていた。
 ジークは何気なく窓の外に目を向けた。その途端、目つきを険しくし、足を止めた。
「あっちは研究施設ですか?」
 前を歩くマーティンに、窓の外を指差して尋ねた。その指の先には大きい方の建物があった。
「そうだよ。私たちは研究棟と呼んでいる」
 マーティンは振り返って答えた。ジークは顎を引き、もういちどその建物を窺った。
「……見せて、もらえませんか」
「いいよ」
 マーティンはあっさり承諾した。力んでいたジークは拍子抜けした。絶対に渋られると思った。あの建物から感じたものは気のせいだったのか——? 釈然としない思考を抱えながら、しかめ面で腕を組んだ。
 一方、セリカは顔を輝かせ、無邪気に喜んでいた。
「わぁ、見せてもらえるんですか?」
 胸元で両手を組み、声を弾ませる。
 マーティンは目を細め微笑むと、研究棟へと繋がる廊下に案内した。

「すごい設備! アカデミー以上だわ」
 研究棟に入るなり、セリカは感嘆の声を上げた。くるりと一回転しながら、全体を見渡す。正面には大きな機械、小さな機械、反対側には器具や薬品を収納した棚、実験用と思われる小動物の飼育棚などが並んでいる。そのどれもが真新しい。彼女はマーティンに説明を求めながら、ひとつひとつじっくりと見てまわった。
「先生はおひとりで研究なさってるんですか?」
 彼女は大きな機械を覗き込みながら、背後のマーティンに尋ねかけた。
「まさか、助手をふたり雇ってるよ。今日は休日だからいないけどね」
「どうりできれいに片付いていると思いました」
「相変わらずきついなぁ、君は」
 マーティンは笑いながら言った。セリカも肩をすくめて笑った。だが、ジークはひとり険しい顔でうつむいていた。
「どうしたの? ジーク」
 その様子を目にしたセリカは、気遣わしげに声を掛けた。
「何でもねぇよ」
 ジークはぶっきらぼうに答えた。ポケットに手を突っ込み、取り留めなく歩きまわる。ここへ来たいと言い出したのは彼だが、あまり楽しんでいるふうには見えない。セリカには、彼の考えていることがさっぱりわからなかった。

 一通り研究棟をまわった後、三人は小さい方の建物に戻り、応接間へとやってきた。マーティンはお茶を用意すると言って、隣の台所へ入っていった。残されたふたりは、狭いソファに並んで座り、彼が戻ってくるのを待った。互いに前を向いたまま口を開こうとはしない。重苦しい沈黙が流れる。
「ビンゴかもしれねぇな」
「え?」
 ジークはぽつりと言葉を落としたあと、再び黙り込んでしまった。セリカは不安そうに彼の横顔を窺った。
「たいしたおもてなしは出来ないけど」
 マーティンがマグカップを三つ持って戻ってきた。三つとも形も柄も大きさも違う。それらを机の上に置き、ジークたちの向かいに腰を下ろした。
「お構いなく」
 ジークは素っ気なく言った。
「いただきます」
 セリカはにっこりと微笑んで、マグカップを口に運んだ。中は紅茶だった。濃すぎて少し渋いくらいに感じた。
「それで、私に何が聞きたいんだ? ジーク君」
 マーティンはマグカップ片手に尋ねた。ジークはまっすぐ彼を見据えた。
「どんな研究をしているか教えてもらえますか」
「遺伝関係なら何でも。今はゲノム塩基配列の解読と平行して、遺伝子疾患についての研究をしている」
 マーティンはさらりと答えた。難しい専門用語が並び、ジークにはよくわからなかったが、顔には出さないようにした。
「この分野の研究は、最近ようやく本格的に始まったばかりでね。専門で研究しているのは、今のところ、私を含めて三人だけだ。それだけ未開拓で研究のしがいがあるよ。何かと風当たりは強いけどね」
「風当たりって?」
 セリカは両手でマグカップを持ったまま尋ねた。
「倫理的な問題だ。神の領域だから踏み入るべきでないと主張する人は多い」
 マーティンは感情のない声で答えた。これまでとは違う客観的な口調だった。ジークはそのとき初めて、彼が研究者であることを実感した。
「それでも先生は、医学の発展のために頑張ってるんですよね」
 セリカはにっこりと微笑みかけた。マーティンは薄く笑みを浮かべ、目を伏せた。
「そんなにかっこいいものじゃないよ。ただの知的好奇心かな。だから、研究さえ続けられれば、それでいいんだ」
「そういえば、あの研究はどうなりました?」
 セリカは身を乗り出して尋ねた。
「ほらあれ、えっと、何でしたっけ。アカデミーを辞める前に言ってましたよね。もうすぐ論文が完成するって」
「ああ、あれね……あれは、駄目になったよ」
 マーティンはうつむき、曖昧に笑った。
「え? もう出来かけていたんじゃ……」
「上手くいかないこともあるよ」
「もしかして、圧力をかけられたんですか?」
 突然、ジークが口を挟んだ。
 マーティンははっとして顔を上げた。血の気の失せたその表情からは、あからさまな動揺が見て取れた。
「い……いや、違う。そうじゃない。失敗しただけだ」
「この家、まだ新しいようですけど、いつ建てられたんですか」
 ジークはさらに質問を畳み掛けた。マーティンは眉をひそめた。
「……何が言いたいんだ」
 ジークは答えの代わりに、じっと視線を送った。マーティンの額にじわりと汗がにじんだ。
「まさか君たちは彼らの手のものか? 何を探りにきた?! 私は何も……!」
 机に手をついて身を乗り出し、早口で捲し立てる。額から頬に、汗が伝って落ちた。
「先生? どうしたの? 彼らって……?」
 セリカは困惑し、怪訝に顔を曇らせながら尋ねた。
 彼女の声を耳にし、マーティンははたと我にかえった。肩を上下させ大きく息を吐くと、ソファの背もたれに身を預けた。吹き出た汗を、白衣の袖で拭う。
「すまない、ちょっとした勘違いだ。忘れてくれ……お茶のおかわりを持ってくるよ」
 そう言ってぎこちなく笑いながら、自分の飲んでいたマグカップを掲げて見せた。まだ中身は半分ほど残っていた。

 ジークは、台所に向かうマーティンの背中をじっと見つめた。そして、彼の姿が見えなくなると、隣のセリカにこっそりと耳打ちした。
「おまえ、10分ほどあいつを外に連れ出してくれ」
「え? どういうこと?」
 セリカはジークに振り向いた。だが、顔の近さに驚き、慌てて前に向き直った。
「気になることがあるんだ。調べたい」
 ジークの声は真剣だった。
「気になることって?」
 セリカも声を小さくした。少しうつむき、彼の方に視線を流す。
「研究棟の方に結界を張ってあったところがあっただろ」
「そうなの?」
「……おまえ、魔導の感覚が鈍ってるだろ」
 ジークは呆れたように、冷めた目を向けた。セリカは頬を赤く染めながら、眉をしかめた。
「だって仕方ないじゃない。それで? それが何?」
「怪しいだろ、結界まで張るなんて」
 ジークは当然のように言った。しかし、セリカは首を傾げた。
「研究者だもの。それくらいのもの、あるんじゃない? 未発表の研究に関するものとか。怪しいだなんて決めつけたら、先生に失礼だわ」
「だから、調べてみるって言ってんだよ。さっきのあいつの態度も気になるしな。何もなければそれでいい。だから頼む、10分だけ」
 ジークは思いつめたようにセリカに詰め寄った。すでに近かった顔が、さらに近くなる。
「そんなこと言われたって……」
 セリカは彼から逃げるように顔をそらすと、困ったように口を閉ざし、目を伏せた。

「すまなかったね」
 マーティンはにこやかに戻ってきた。右手のマグカップからは、白い湯気が立ちのぼり、甘い匂いがあたりに広がった。今度はココアだった。ソファに腰を下ろすと、それをひとくち飲んで息をついた。
 セリカは不意にすくっと立ち上がった。
「どうしたんだい?」
 マーティンはマグカップを机に置き、驚いたように彼女を見上げた。
 セリカはとびきりの笑顔を作って見せた。
「素敵なお庭ですね」
 明るい声でそう言うと、窓の方へと小走りで駆けていった。
「そうかい? 何も手入れしてないけど……」
 窓の外の庭は、雑草が伸び放題になっていた。
「あ、えっと……私、人工的な庭より、こういう野性的な方が好きなんですっ」
 セリカは懸命に取り繕った。ジークは無関心を装い、素知らぬ顔で紅茶を口に運んでいたが、内心はヒヤヒヤしていた。ただひたすら上手くいくことを祈っていた。
「ね、先生。いっしょにお庭を歩きませんか?」
 セリカは小首を傾げ、じっと彼の目を見つめて問いかけた。
 マーティンは答えに詰まっていた。複雑な面持ちで目を泳がせる。
「ね? いいでしょう?」
 セリカは少し甘えるように、もう一押しした。
 マーティンはふっと息を漏らした。
「わかったよ」
 そう言って優しく微笑み、腰を上げる。それから、ふと思い出したようにジークに振り向いた。
「あ、君もいっしょに……」
「俺はいいです。草にかぶれやすいんで」
 ジークはマーティンを遮って言った。
 真顔でスケールの小さな嘘をつく彼の姿がおかしくて、セリカは思わず吹き出しそうになった。慌てて下を向き、口元を手で押さえる。
 ジークは本棚を指差した。
「あの辺の本とか、貸してもらえますか? ここで読んでます」
「ああ……」
 マーティンは怪訝な表情を浮かべながらも、言われたとおり本棚から冊子をふたつ取り出し、ジークに手渡した。
「行きましょう、先生」
 セリカは飛びつくように彼の腕をとり、外へと急かした。部屋を出る間際、彼女はちらりと振り返り、こっそりジークにウインクした。

 空の青は濃く、降り注ぐ光は痛いくらいに強かった。むっとする草いきれの中を、ふたりは並んで歩いていた。踏みしめられた雑草が、カサカサパキパキと軽い音を立てている。
 セリカは後ろで手を組み、空を見上げていた。すらりとした細い脚に、細身の白いパンツがよく似合っている。ショートカットの明るい栗毛は、陽の光を受け鮮やかに輝き、長めの前髪は、風になびき微かに揺れている。
 そんな彼女を見て、マーティンは眩しそうに目を細めた。
「いいのかい、彼氏を放っておいて」
「彼氏? 違いますよ。ただの知り合いです」
「ずいぶん親しげに見えたけど……」
「先生、観察力が足りないんじゃないですか?」
 セリカは彼に振り向き、くすりと笑った。マーティンもつられて笑った。
「勉強、頑張っているかい」
「ええ、もちろん」
 セリカは胸を張って答えた。
「すまないね」
「え?」
 マーティンは申しわけなさそうな、儚い笑顔を浮かべた。
「途中で君たちを放り出してしまった」
「仕方ないですよ。研究が忙しくなったんですものね」
 セリカは優しく微笑んだ。
 マーティンは白衣のポケットに手を突っ込み、顔を曇らせうつむいた。
「私がアカデミーの教師を引き受けたのは研究費のため、ただそれだけだったんだ。ひどい話だろう?」
「辞めたのは研究費を調達する目処が立ったから、ですか?」
「ああ、ある人が私の研究を支援したいと申し出てくれてね。この家もその人に建ててもらったんだよ」
「良かったですね」
 セリカは屈託のない笑顔を見せた。マーティンは目を細めた。
「優しいね、君は、本当に……」
 そう言いながら、彼女に振り向く。そのとき、ふと、あることに気がついた。
「あれ、彼がいない」
 セリカの背後はちょうど応接間になっていた。窓ガラス越しに見える部屋の中には、どこにもジークの姿がなかった。机の上には無造作に冊子が置かれている。マーティンは応接間の方へと足を向ける。
「きっとお手洗いに行ってるんですよ」
 セリカは焦った。ちらりと腕時計を見る。まだ5分しか経っていない。
「でも、場所がわからないんじゃ……」
 マーティンは窓ガラスに手をつき、もういちど部屋の中を覗き込む。
「いいじゃないですか、ジークのことなんて」
「しかし……」
「先生!」
 セリカは後ろから抱きついた。
「セリカ……」
「私、先生のことが好きなんです!」
 なんとか引き止めようと、ついそんなことを口走ってしまった。しかし、これで少し持たせられるかもしれない。先生ならきっと、傷つけないように断ろうとするだろう。自分が食い下がれば、5分くらいは——セリカはそう思った。
「本当なのか?」
「え、ええ……」
「夢が叶った」
「え?」
 予想と違う反応に、彼女は狼狽した。彼の体にまわしていた手を放し、一歩、二歩、後ずさる。
 マーティンは背を向けたまま、抑えた声で噛みしめるように言った。
「私も、ずっと、君のことが好きだった」
 う、うそっ——。
 セリカは目を大きく見開き、呆然とした。頭の中がぐらぐらと揺れる。嘘をついて騙した罪悪感、泣きたいほどの謝罪の気持ち、この場から逃れたいという無責任な願い、あと5分の約束——。どう行動すればいいのか、答えは出ない。
「セリカ……」
 マーティンはまっすぐ彼女に向き直ると、優しくその名を呼んだ。そして、肩にそっと手をのせ、濃い蒼色の瞳をじっと覗き込んだ。

 ジークは応接間を抜け出し、研究棟へ来ていた。脇目も振らず、目をつけてあった場所へと向かう。そこはフロアの隅だった。取り立てて何かがあるようには見えない。だが、魔導を使える人間ならば、床の表面に張られた不可視の結界に気付くだろう。
 床には金属がふたつ、並んではめ込まれていた。それらの間に一本、そして、囲むように四方に切れ目が入っていた。金属は引き出すと把手になり、床が開くようになっているものと思われる。中は収納、もしくは地下室といったところだろうか。
 ジークはまず結界を解除することにした。そうしないと、把手に触れることもできない。彼にとっては難しい結界ではなかった。小さく呪文を唱え、そっと結界に手を触れる。その瞬間——。

 ドン!!

 マーティンははっとして振り返った。研究棟の方から、灰白色の煙が薄く上がっていた。ここからは何が起こったのか、確認することができない。彼はセリカを放し、険しい表情で駆け出した。
「あ……待って!」
 セリカは呆然としていたが、我にかえると、慌ててそのあとを追いかけた。走っているうちに、次第に頭が冴えてきた。
 まさか——。
 鼓動が速く強くなっていく。湧き上がる嫌な予感を払うように、きゅっと目をつむり、頭を横に振った。

 ふたりは研究棟へ駆け込んだ。爆発は奥の方で起こったようだ。天井とガラス窓が一部、崩れ落ちている。広い机や大きな機械の陰になっていて、爆発が起こったと思われる部分はよく見えない。急ぎ足で近づく。
 黒く焦げた瓦礫とガラスの破片が、小さな山となっている。その脇で、体を丸めながら倒れている人影が見えた。
「ジーク!!」
 セリカが悲鳴のような声を上げた。駆け寄って抱き起こそうとした。しかし、彼はそれを制止し、自力で起き上がった。
「大丈夫だ。とっさに結界、張ったから」
 彼の体に大きな傷は見当たらなかった。顔と手にいくつかかすり傷がある程度である。セリカはほっと安堵の息をついた。
「トラップか?」
 ジークは少し離れて立っているマーティンに尋ねた。彼は固い顔で頷いた。
「ああ、防犯システムを切らずに結界を解除すると、爆発する仕組みになっている」
「危なすぎるだろ! 死ぬところだったぞ!」
「君はやはり彼らの手のものだったんだな!」
 マーティンはジークを睨んだ。だが、その瞳には怯えの色が浮かんでいた。
 ジークは落ち着いた声で尋ねた。
「彼らってラグランジェ家ってことか?」
「何をとぼけている」
 マーティンは眉をひそめた。額にうっすらと汗が滲んでいる。
「とぼけてねぇよ。俺はそのラグランジェ家のことを調べてるんだ。おまえはラグランジェ家とどんな関係があるんだ」
「か……関係などない」
「おまえこそ、今さら何とぼけてんだよ」
 ジークはマーティンのまわりに結界を張った。四角く、薄青色の光が浮かび上がる。マーティンは驚いてそれに手を伸ばした。だが、光が壁となり通り抜けることは出来なかった。
「何のつもりだ」
「そこで大人しくしてろ。この地下室にあるんだろ、その証拠が」
 ジークは爆発で大きく崩れた穴から、下の地下室に飛び降りた。

 そのフロアには、セリカとマーティンがふたりきりで残された。マーティンはため息をつき、床に座り込んだ。
「先生……あの……」
 セリカは泣きそうな顔で立ち尽くしていた。マーティンはうなだれたまま、寂しそうに笑った。
「私を足止めするための嘘だったんだろう」
「ごめんなさい……」
 セリカはそれ以外の言葉を見つけられなかった。何を言っても、自分を正当化するための言い訳にしかならない。うつむいて唇を噛みしめる。
「馬鹿みたいだったね、ひとりで舞い上がって」
 マーティンはぼそりと言った。そして、視線を上げると、微かに口元を緩めた。
「でも、いい思い出ができたよ。君が忘れるのは自由だが、私に忘れろとは言わないでくれよ」
「先生……」
 セリカは口元に手を添え、目を閉じた。目蓋の内側が熱くなった。

「これだな」
 ジークはクリップで止められたいくつもの紙束を抱えて、地下室から戻ってきた。その表紙は、タイトルと日付が入っていたと思われる部分が黒塗りにされていた。地下室に置いてあったそれらしきものは、これだけだった。他は、埃を被った机や椅子などの大きな家具ばかりである。
「ラグランジェの圧力を受けて、この論文の公表を取りやめた。そして、その代わりに研究の金銭的援助をしてもらうことにした。違うか?」
 ジークは紙束のひとつを掲げて尋ねた。
 マーティンは床に座り込んだまま彼を一瞥すると、小さく笑い、肩をすくめた。
「論文とそれに関係する一切の物は、彼らに渡したことになっている。それらと引き換えに援助をしてくれることになったんでね。だから、それがここにあると知れたら、私は研究を続けられなくなる」
「ジーク……」
 セリカはすがるようにジークを見た。だが、ジークは彼女を相手にしなかった。まっすぐマーティンだけを見据え、質問を続ける。
「この研究とアンジェリカとは、どういう関係があるんですか」
「アンジェリカ? 誰だそれは」
 マーティンは無表情で尋ね返した。ジークは眉をひそめた。
「本当に知らないのか?」
「私は自分の研究をしただけだ。たまたまそれがラグランジェ家にとって都合が悪かった、というだけだろう」
 マーティンは淡々と言った。嘘をついているようには思えない。ジークは難しい顔でうつむくと、じっと考え込んだ。
「悪いですけど、これは借りていきます」
 低く抑えた声でそう言い、紙束を脇に抱える。
「俺、ラグランジェ本家の当主と知り合いなんで、今度はそっちから支援してもらえるように頼んでみます。了承してもらえるかわかりませんけど、ルーファスよりは話せる人だと思うんで……」
「何を言ってるんだ、君は」
 マーティンは奇妙な面持ちでジークを見上げた。
「本当です。ジークはラグランジェ家の当主と知り合いです」
 セリカが援護した。しかし、マーティンの表情は変わらなかった。
「そうじゃない。私の論文を揉み消し、取引を持ちかけてきたのが、そのラグランジェ本家の当主なんだが」
「え?」
 ジークとセリカが同時に声を上げた。マーティンは静かに付け加える。
「サイファ=ヴァルデ=ラグランジェだよ」
 ジークは大きく目を見開いた。抱えていた紙束が、バサバサと床に滑り落ちた。


84. 遠くの空と冷たい床

「ここだと思ったわ」
 突然、頭上から降ってきた声に、ジークは驚いて顔を上げた。
 そこにはセリカが立っていた。にっこりと微笑み、ジークの向かいに座る。
「おまえ、何しに来たんだよ」
 ジークは彼女を睨み、広い机の上に散乱した本や書類を掻き寄せた。山となったそれらを隠すように、両腕で覆う。
 セリカはその様子を見て、寂しげに笑った。
「手伝うわ、それを読むの」
「帰れよ」
 ジークは冷たく撥ねつけた。
「きっと役に立てるわ」
「なんでそうおせっかいなんだよ。いらねぇって言ってんだろ」
「だって、知ってしまったんだもの。こんな中途半端なところで引けない。それに……」
 セリカは一瞬、躊躇した様子を見せたが、すぐに強い語調で言った。
「あなたのためじゃない、アンジェリカのためよ」
 真剣なまなざしを、まっすぐ彼に向ける。
「少しは罪滅ぼしさせて」
 ジークは怪訝に眉をひそめた。彼女の言う罪滅ぼしとは、アンジェリカを刺したことに対するものに違いない。なぜいきなりその話を持ち出してきたのだろうか。本気でそう思っているのだろうか。それとも、こう言えば断られないと思ってのことだろうか——。彼女の本心はわからない。だが、少なくとも軽い気持ちでないだろうことは、その表情から察しがついた。
 ジークはしばらく迷っていたが、気難しげにため息をつくと、書類から腕をどけ、椅子の背もたれに身を預けた。そして、腕を組みながら、タイトルを黒塗りにされた表紙を目線で指し示した。
「それ、読めよ」
 セリカは安堵したように息をつき、こくりと頷いた。

 そこはアカデミーの図書室だった。休日の午前という時間のためか、人の姿はほとんどなく閑散としている。あたりはとても静かだった。耳につくのは、ときおり聞こえる廊下を行き交う靴音くらいである。
 マーティンから手に入れた論文を読むために、ジークは早朝からここへ来ていた。関連書を片っ端から調べつつ解読しようとしていたが、思うように進まなかった。ただでさえ最先端の研究である。医学などかじったことすらない彼にとっては、無謀な挑戦と言わざるを得ない。なので、実際のところ、彼女の申し出はありがたかった。ただ、サイファが関わっていると聞き、反射的に誰にも知られてはならないと意固地になっていたのだ。無意識に彼を庇おうとしたのかもしれない。

 セリカは論文を手にとると、無言で読み進めた。何時間も休むことなく、ひたすら読み続けた。昼食すらとっていない。ジークも目を通してはいたが、彼女ほど集中力が持続しなかった。魔導書であればいくらでも読み続けられるが、専門外のものでは行き詰まってばかりで疲れ方が違う。休憩をとらずにはいられなかった。何度となく窓の外を眺めたり、本を探すふりをして歩きまわったりした。

「なるほどね」
 セリカは唐突にそうつぶやくと、ため息をつきながら論文を閉じた。
「確かにこれは都合が悪いわ。隠蔽するのも無理ないかも」
「わかったのか? 書いてあること」
 ジークははっとして身を乗り出すと、早口でせっつくように尋ねた。
「大まかにはね」
「もったいつけてねぇで教えろよ」
 セリカは表情を引き締めた。そして、まっすぐに彼を見据えると、しっかりとした口調で話し始めた。
「簡単にいえば、近親者どうしでの婚姻を繰り返すと、遺伝子疾患を起こしやすくなるってことね」
「それって、ラグランジェ家……」
 ジークは眉根を寄せ、つぶやくように言った。
 セリカは彼から目をそらさず、小さく頷いた。
「そう、この論文は、ラグランジェ家があと数世代のうちに滅びる可能性を示唆しているのよ」
「でも、ラグランジェ家がそうやってきたのは、強い魔導力を維持するためだったんだろ?」
 ジークは釈然としない顔で、首を捻りながら尋ねた。
「だから、彼らのやってきたことが否定されてるってわけ。確かに、魔導力のことだけを考えるならば、優秀なラグランジェ家どうしで子孫を作っていくのは間違いじゃないけど、生物学的には良いことではなかったのよ」
 セリカはうつむき加減に頬杖をつき、小さくため息をついた。浮かない様子でひとり物思いに耽っている。だが、ジークの理解は追いつかなかった。少しきまり悪そうに頼む。
「もう少しわかるように説明してくれねぇか」
「あ、ええ……」
 セリカは頬杖を外し、思考を巡らせた。そして、軽く握った手を口元に添えると、ゆっくりと話し始めた。
「つまりね……一族の中だけで婚姻を繰り返すと、みんな遺伝子的に似てくるのよ。強いところはより強くなるけれど、弱い部分はより弱っていくの。ラグランジェ家は二千年近く続けてきたんだから、そうとう遺伝子に綻びがきているはず」
 ジークは机にひじを立て、額を掴むように押さえた。苦しげに顔をしかめる。
「その綻びが表面に現れたのが、アンジェリカなのか」
「そうかもしれない。そういう例は書かれていないけど……」
 セリカは顔を曇らせ、控えめに言った。
「あいつら……ラグランジェの奴らは、アンジェリカを必要だって言ってたぜ。遺伝子の病気とかだったら必要なわけねぇだろ」
 ジークは必死に反論した。
 セリカは下を向いた。困ったように眉根を寄せる。考えついたことを言うべきかどうか迷っていた。ジークの神経を逆なでするだけかもしれない。でも、自分では正しい可能性の方が高いと思っている。だったら、やはり言った方がいいのではないか。いや、言うべきだ——。ためらいつつも、小さな声で言う。
「治療方法を見つけるための実験台にするつもりかも……」
 冷静な推論だった。だが、ジークにとっては冷酷すぎる話だった。呆然と目を見開いたまま、固まっている。
「……ジーク?」
 セリカが心配そうに呼びかけると、彼は弾けるように立ち上がった。机に散乱した書類を掻き集め、鞄の中に放り込む。そして、その鞄を乱暴に引っ掴み、戸口へ向かって早足で歩き始めた。
「待って!」
 セリカは机に手をついて立ち上がり、慌てて呼び止めた。
「おまえはもう帰れ」
 ジークは背を向けたまま、つれない言葉を返した。しかし、彼女は引かなかった。
「私も行くわ。ここまで付き合ったんだもの」
「ここからは俺ひとりでやらせてくれ。頼む」
 ジークは低く押し込めた声で懇願した。その声には激しい感情と強い決意が滲んでいた。
 セリカは何も言えなくなった。きゅっと口を結び、目を伏せた。
「……今までいろいろ助かった。いつか、礼はする」
 ジークは振り返らずにぼそりと言った。
「楽しみにしているわ」
 セリカは、彼の背中に、精一杯の笑顔と明るい声を送った。

「アルティナはいないのか」
「すぐに戻ってくるわ。待っていてくれる?」
 レイチェルはにっこり微笑みかけた。ラウルは短く「ああ」と答え、腕を組んだ。
 少し離れたところで、アルスとルナは積み木で遊んでいた。ふたりはまるで兄妹のように見えた。実際、アルスは彼女の面倒をよく見ていた。手がかからなくていいわ、と、アルティナはよく笑いながら言っている。
「お茶を淹れるわね」
「いや、いい」
 レイチェルはラウルの横顔をじっと見上げた。彼は無表情だった。どこか遠くを見ているようで、何も見ていないような目をしている。
「ベランダに出ましょうか」
 レイチェルは柔らかく声を掛けた。そして、大きな両開きのガラス扉を押し開けると、光の射すベランダへと足を進めた。緩やかな風が、彼女の細い髪をさらさらと揺らした。朱く色づいた光を浴び、きらきらと煌めく様は、まるでプラチナのようだった。
 ラウルはわずかに目を細めた。
 レイチェルはくるりと振り返った。ボリュームのあるドレスが、大きく波を打って揺れる。
「何か、言いたいことがあるんじゃない?」
 鈴を鳴らしたような声でそう問いかけると、まばゆい光を背に受けながら、部屋の中のラウルににっこりと微笑みかけた。
「なぜだ」
「そんな顔をしているから」
 彼女は子供の頃から勘が良かった。いつもそうやって無邪気に人の心を見透かす。人の気も知らずに——ラウルはため息をついた。彼女の隣へと足を進める。眼前には、朱色に染まった空が一面に広がっていた。
「ずっと、迷っていた」
「ラウルでも迷うことなんてあるのね」
 レイチェルはにっこりと微笑んだ。
「重要なことだからだ。だが、今、決めた」
 ラウルはほとんど表情を動かさずに言った。レイチェルは不思議そうに彼の横顔を見つめた。
「……一緒に、行かないか」
「どこへ?」
 ラウルは顔を上げ、遠くの空を見上げた。風が吹き、焦茶色の長髪が大きくなびいた。
「ラグランジェの名が意味を成さないところだ」
「そんなところ、あるのかしら」
 レイチェルは笑いながら言った。しかし、ラウルは無表情のままだった。
「この国が世界のすべてではない」
 深く静かに言葉を落とす。そして、ゆっくりと振り向くと、大きな蒼色の瞳をじっと覗き込むように見つめた。
 レイチェルはきょとんとした。だが、自分に向けられた黒い瞳を見ているうちに、不意に彼の意図を理解した。それは、受け入れられることではなかった。曖昧に笑いながらうつむくと、小さく首を横に振った。
「私と同じ時を生きられるとしても、答えは変わらないか」
「えっ?」
 小さな口を開いて顔を上げた彼女に、ラウルは真剣なまなざしを送った。
「私の国に来れば、おそらくおまえの時の流れは私と同じになる」
 レイチェルは混乱した。次から次へと疑問が頭に浮かんだ。だが、何も尋ねはしなかった。ただ無言で首を横に振った。
「ここにおまえの未来はない。おまえはまだ知らないだけだ。サイファが何を考えているのかを」
 ラウルの声は、彼にしてはめずらしく熱を帯びていた。
 レイチェルは笑顔を作って見せた。
「私はサイファについていくと決めたのよ」
「あいつがおまえを裏切るとしてもか」
 ラウルは低い声で問いつめた。
「ええ、それでも」
 レイチェルは微笑みを保ったまま、躊躇いなく答えた。
 沈みかけた太陽は、向かい合うふたりを強く照らし、冷たくなった風は、顔から熱を奪っていく。
「愚かな女だ」
 ラウルは、彼女を見つめたまま、静かに言った。レイチェルはくすりと笑った。
「久しぶりにその言葉を聞いたわ」
「おまえは少しも変わっていない」
 ラウルは手を伸ばした。ゆっくりと彼女に向かう。指先が頬に触れようかという、そのとき——。
「ひとの妻に向かって、愚かな女とはひどいんじゃないかな」
 部屋の方から声が聞こえた。はっとして振り向く。
 そこにいたのはサイファだった。彼は腕を組み、扉近くの柱にもたれかかっていた。顎を引き、横目でラウルを見ると、ニヤリと挑戦的に笑った。
 ラウルは眉をしかめた。
「いつからそこにいた」
「10秒ほど前かな。子供たちから目を離すなんて感心しないな」
 サイファはそう言いながら、近くで遊んでいたルナを抱き上げた。
「おい、おっさん!!」
 隣でアルスが騒いでいたが、意に介さなかった。
「大きくなったね」
 真正面からルナを見て話しかける。ルナは大きな目をさらに大きくして、びっくりしていた。
「汚い手で触るな」
 ラウルは肩をいからせながら歩み寄り、ルナを奪い返そうと手を伸ばす。だが、サイファはそれを阻んだ。彼の手首をがっしりと掴み、指が食い込むほどに強く力を込める。
「その言葉、そのままおまえに返すよ」
 抑えた声で淡々と言う。だが、その声とは裏腹に、手首を掴む力はますます強くなっていた。ラウルを見上げた彼の瞳は、激しく燃える青い炎のようだった。ラウルも負けずに、強く鋭い視線をぶつけた。
 レイチェルは困惑しながらふたりを見ていた。
「こら! あんたたち!!」
 威勢のいい声と同時に、パコンパコンという軽い音が部屋に響いた。
 その声の主は王妃アルティナだった。手には丸めた薄い冊子が握られている。これでふたりの頭を叩いたのだ。たいして痛いものでもないだろう。
「私の部屋まで来て喧嘩しないでよね! ルナも驚いちゃってるじゃない」
 彼女はサイファの腕からルナを奪うと笑顔であやした。ルナもほっとしたように顔をほころばせた。何が起こっているかは理解していなかったが、緊迫した空気は感じていたようだ。
「まったく、男っていつまでたっても子供のままなのよね。嫌になるわ」
 面倒くさそうに文句を言うアルティナを見て、ふたりの男たちは毒気をなくした。このふたりに遠慮なくこういうことを言うのは彼女くらいである。彼女が王妃だからではない。元来、そういう性格なのだ。誰に対しても、媚びることも、気後れすることもない。
「それで、サイファ、あんたは何の用なの? 仕事中じゃないの?」
「ええ、その仕事がやっかいでね。行き詰まってしまったんですよ」
「へぇ、めずらしい。それで息抜きってわけ?」
 アルティナは少し驚いたように言った。彼の仕事に関する弱音を聞いたのは、初めてかもしれない。
 レイチェルは大きく瞬きをした。
「もしかして、そのお仕事って……」
「私の手には負えないから、ラウルの力を借りようと思ってね」
 サイファは彼女の言葉をさえぎって言った。微かに笑みを浮かべながら、人差し指を口に当て、こっそりとウインクする。レイチェルはくすりと笑った。
「断る」
 ラウルは苛立たしげに一蹴した。
「それは困ったな」
 サイファは軽い口調で言った。困っているようにはとても聞こえない。だが、レイチェルとアルティナは口々に彼を援護した。
「ラウル、サイファを手伝ってあげて。本当に困っていると思うの」
「ラウル、行ってあげたら? ルナならちゃんと預かっててあげるわよ」
 ラウルは思いきりサイファを睨んだ。

 ふたりは魔導省の塔へと来ていた。最上階の廊下を並んで歩いている。下の階は活気にあふれているが、最上階は人も少なく、いつも静かである。今もふたりの靴音が響いているだけだった。
「どうやらわかっていないようだから、もういちど言っておくが」
 サイファは前を向いたまま切り出した。
「レイチェルは決して私を裏切らないよ」
「そう思うなら、私が何をしようと放っておけばいいだろう」
 ラウルは冷静に言い返した。
「無駄な努力をするおまえを哀れに思って、忠告してやっているのさ」
 サイファは涼しい顔で言った。ラウルはその挑発には乗らなかった。
「おまえにしては下手な嘘だな」
「じゃあ、本音を言おうか」
 サイファはズボンのポケットに手を入れ、軽く息を吸い込みながら顔を上げた。
「レイチェルのことは信じている。心配などしていない。ただ、面白くないんだよ、勝手なことをされては」
 ラウルはそれでも無表情だった。サイファは小さく息をつき、目を閉じた。
「私からレイチェルを説得してやろうか」
「何をだ」
 ラウルはようやくサイファに目を向けた。サイファは微かに笑った。
「連れて行きたいんだろう? おまえの故郷へ」
「……どういうつもりだ」
 ラウルは眉をひそめて睨みつけた。
「それで彼女が救われるなら、それもひとつの方法だということさ。ただし条件がある」
 サイファは真剣な顔でラウルの瞳を見つめた。
「そのときは私も一緒だ」
 ラウルはじっと彼を見つめ返した。
「おまえは誤解をしているようだが、私と同じ時を生きられるのはレイチェルだからであって、おまえではそうならない」
 サイファはラウルを睨み上げた。
「私を連れていきたくないから、つまらない嘘を言っているんじゃないだろうな」
「そう思いたければ好きにしろ」
 ラウルは素っ気なく突き放した。サイファはうつむき、眉根を寄せじっと考え込んだ。
「……魔導力の差か?」
「私の推論だがな」
 ラウルは遠くに目をやり、腕を組んだ。
「とことん私は除け者というわけか」
 サイファはため息をついた。
「馬鹿な男だよ、おまえは。騙して連れていって、寿命が尽きるのを待っていれば良かったんだ」
「レイチェルが苦しむことになる」
 ラウルは無表情で切り返した。サイファは彼を一瞥し、薄く笑みを浮かべた。
「……嘘だよ、全部」
 ぽつりと言葉を落とす。
「彼女を説得することなんて、私にも出来ないさ。あれでそうとう頑固だからな。おまえの反応が見たかっただけさ」
 淡々とそう言うと、ラウルの表情をちらりと窺った。だが、そのときの彼の意識は他に向いていた。
「いつからそこにいた」
 鋭く切りつけるように詰問する。
 サイファは彼の視線を追った。その先にいたのはジークだった。少し離れたところで立ち尽くしてこちらを見ている。
「い……今さっき来たところだ」
 彼は怯みながらも、精一杯の虚勢を張った。いつものようにラウルを睨もうとする。だが、あからさまに目は泳いでいた。
 ラウルは醒めた顔を向けた。
「その答えは当てにならない。人によっては10秒がずいぶん長いらしいからな」
「彼は悪くないだろう。悪いのは往来で聞かれたくない話をしていた私たちの方だ」
 サイファの擁護に、ジークはほっと胸を撫で下ろした。このふたりをそろって敵にまわしたくはない。
「あの、サイファさん、今日は少し訊きたいことがあって……」
 安心したところで、遠慮がちに本題を切り出す。
「ちょうど良かった」
「え?」
 サイファは人なつこい満面の笑顔をジークに向けた。

 ガチャ——。
 サイファは自室の鍵を開け、扉を押し開いた。
「どうしたんですか、これ……」
 ジークは目の前の光景に唖然とした。
 部屋の中はまるで荒らされたかのように乱雑だった。あちらこちらに段ボール箱が散在している。どれも中途半端に物が入っていて、何が目的なのかわからない。他にも、本や書類がそこかしこに積み上げられていた。無造作で崩れているものも多い。
「引っ越しをするんだ。といっても、数十メートル先の部屋だけどね」
「これはおまえの仕業か」
 ラウルは部屋を見渡しつつ、冷ややかに尋ねた。
「ひとりでやろうと思ったんだが、なかなか難しいものだな」
 サイファは真顔で答えた。
 ラウルは無表情のまま呆れ返った。レイチェルが懇願した理由がわかった。彼女は知っていたに違いない。引っ越しのことも、サイファがそれを苦手とすることも。
 サイファは笑顔でジークに振り向いた。
「ジーク、君も手伝ってくれるか?」
「あ、はい」
 ジークは素直に了承した。この状況ではとりあえず手伝うしかないだろうと思った。

 三人はそれぞれ段ボール箱を抱えて廊下に出た。サイファが先頭を行き、ラウルとジークはその後ろをついて歩く。いくつかの部屋の前を通り過ぎた。
「さ、ここだよ」
 サイファが示した扉には、他と同じように金属製のプレートが掛かっていた。
「魔導省副長官……」
 ジークは目を大きくして、呆然と読み上げた。魔導省長官に次ぐ役職である。もちろん、その役職名の下にはサイファの名前が刻まれている。
「正式には明日からだよ」
 サイファは軽い調子で言った。
「これでもまだルーファスの影響力には及ばないけどね」
 ジークは固い表情で目を伏せた。だから、サイファは逆らおうとしないのだろうか。そして、暗に自分のことを当てにするなといっているのだろうか——。さまざまな疑問と憶測が頭に浮かぶ。だが、尋ねることはできなかった。
 サイファは扉を開いた。
 中は広かった。今までの部屋の倍ほどはある。机と本棚は備えつけられていたが、それ以外の物は何もなく、殺風景な印象だった。正面は、以前と同じように一面ガラス窓になっている。
 サイファは机の上に段ボール箱を下ろした。にっこりとして、後ろのふたりに振り返る。
「さ、どんどん運んでくれ」
「おまえは命令するだけか」
 ラウルは呆れたような目を向けた。
「私はここで運び込まれたものを片付けていくんだよ。作業は分担しないとな」
 サイファは当然のように言った。

 ラウルとジークは乱雑な部屋に戻って来た。正面の大きなガラス窓には、紺とオレンジのグラデーションが映し出されている。部屋の中とは対照的に、すっきりとした空模様である。
 ふたりはどちらともなく互いに別々の方を向き、背中合わせで作業を始めた。ラウルは机の上の書類を、ジークは床に散らばった本を片付けている。
「おまえは何をしに来た。深入りするなと忠告したはずだ」
 ラウルは背を向けたまま、責めるように言った。手際よく段ボール箱に詰めていく。
「ヤバいことはわかった。でも、引くつもりはねぇよ」
 ジークはぶっきらぼうに答えた。小さくため息をつくと、面倒くさそうに前髪を掻きあげた。
「ラウル、おまえ全部、知ってたんだな。サイファさんと親しいし、それに医者だし」
 ラウルは何も答えず、黙々と作業を続けた。ジークはそれを肯定と受け取った。さらに一方的に質問を浴びせる。
「さっきの話、何だったんだよ。レイチェルさんに何かさせようとしてたのか? サイファさんが除け者ってどういうことだ?」
「おまえには関係ない」
 ラウルは冷淡に突き放した。ジークはむっとして顔をしかめた。本を持った手が止まる。
「じゃあ、俺のこともテメーには関係ねぇだろ」
「おまえが動くと、事態がよけいにややこしくなる」
「なんだと?!」
 カッとして噛みつきながら、勢いよく振り返る。だがその瞬間、はっとして動きを止めた。
「もしかして……おまえも救いたいのか? サイファさんやレイチェルさんを」
「サイファなどどうでもいい」
 ラウルは抑揚のない声で言った。手は休むことなく動き続けている。
「レイチェルさんは……?」
 その質問には何も答えなかった。
 ジークは一筋の光明を見いだしたと思った。立ち上がって彼に振り向くと、熱っぽく問いかける。
「もし、俺と目的が同じなら、一緒にやらねぇか? 方法はこれから考えるところだけど、おまえと一緒ならきっと……」
「やりたければひとりでやれ。私はこの国に関わるつもりはない」
「は? さんざん関わってんじゃねぇかよ」
「そうだ、関わりすぎた。関わるべきではなかった」
 ラウルは独り言のように言った。ジークは怪訝に眉をひそめる。
「わけわかんねぇ」
「おまえに理解されようとは思っていない」
「ああそうかよ」
 ラウルの受け答えを聞いていると、次第に頭に血が上っていく。
「おまえなんかに頼もうとした俺がどうかしてたぜ」
 嫌悪感をあらわにし、吐き捨てるように言う。そして、重い段ボール箱を抱え上げ、広い背中を睨みつけた。
「俺は逃げねぇ、絶対にな」
 毅然とそう宣言すると、大股で部屋を出て行った。

 部屋には蛍光灯の明かりが満ちていた。眩しさを感じるくらいだった。一方、窓の外は薄暗くなっていた。すでに陽は落ち、あとは急速に光を失っていくだけである。
「これで最後です」
 ジークは段ボール箱を抱えて入ってきた。彼の言葉どおり、これが最後の一箱だった。ラウルと何度も往復をして、ようやく運び終えることができたのだ。力仕事は苦手ではなかったが、これだけ重いものばかりが続くと、さすがに疲労感を覚える。大きく息を吐きながら、部屋の中央に段ボール箱を下ろした。
「ご苦労さま」
 サイファは笑顔でねぎらった。部屋の片付けの方もだいぶ進んでいるようだ。ラウルはこちらを手伝っていた。運ぶ荷物が少なくなってきたところで、サイファに指示されたのだ。あいかわらず無言で作業を進めている。
「ロッカーの中も運んでくれたか?」
「え? あの開かないロッカーですか?」
「そうだ、鍵を掛けっ放しだったな」
 サイファはズボンのポケットから小さな鍵を取り出し、ジークに投げてよこした。空中に弧を描き、慌てて差し出した彼の手にすっぽりと収まる。
「中のものを持ってきてもらえるかな」
「はい」
 ジークは素直に従った。鍵を握りしめ、部屋を後にする。
「サイファ、おまえどういうつもりだ」
 ラウルは手を止め、睨みつけた。
 サイファは腰に手をあて、反り返るくらいに背筋を伸ばしながら、ゆっくりと振り返った。
「彼と話をしてくるよ。邪魔をするなよ」
 そう言って、ニッと不敵な笑みを浮かべた。

 サイファの個室だったその部屋は、もう以前の面影はなかった。すっかり荷物が運び出され、がらんとしている。薄暗さも手伝って、どことなくもの寂しさが漂っている。
 ジークは渡された鍵で、古びたロッカーを開けた。中には段ボール箱がひとつあった。紙束が山のように詰め込まれている。詰め込まれているというよりも、無造作に放り込まれているという方が近い。彼はそれを抱え上げると、何気なく視線を落とした。
 ——これは!
 はっとして段ボール箱を床に置き、しゃがみ込むと、その中のひとつを手にとった。そして、部屋の隅に置いてあった自分の鞄を引っ掴み、中から紙束を取り出した。マーティンのところから持ってきた論文のひとつである。ふたつの表紙はまったく同じに見えた。黒塗りにされている部分も寸分違わない。一枚、二枚、三枚——ふたつを同時にめくって見比べていく。やはり同じものだった。
 これがここにあるということは、やはり——。
「それは、ヘイリー博士のところで手に入れたのかい?」
 ジークはぎくりとして振り返った。そこにはサイファが立っていた。開け放たれた戸口に寄りかかり、微かな笑みを浮かべながら見下ろしている。
「あ……」
 ジークはまともな返事ができなかった。額から汗が吹き出した。膝をつき、口を半開きにしたまま、呆然とサイファを見上げている。
「ヘイリー博士がコピーを隠し持っていることは、薄々、勘づいていたよ」
 サイファはそう言いながら、静かに扉を閉めた。廊下からの明かりが遮断され、部屋はますます暗くなった。窓の外はほぼ紺色が支配していた。
 ジークの恐怖心はますます募った。逃げ道を塞がれたかのように感じた。サイファはなぜ扉を閉めたのだろうか。聞かれたくない話であることは確かだが——。
 サイファは話の続きを始めた。
「だが、それを使ってどうこうするつもりはなく、単に自分の研究の成果を手元に置いておきたかっただけなのだろう。金にも名声にも興味を示さない人だからね。だから、見逃したのさ」
「やはり、サイファさんが揉み消したんですか?」
 ジークは眉根を寄せた。額から頬に汗が伝い、床に落ちる。
「非難している顔だね。だが、これは正当な取引だったんだよ。彼にとっても悪い話ではない。金銭面での心配をせずに、好きな研究に打ち込めるんだからね」
 サイファは少しも悪びれず、平然と言った。
 そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。だが——。
 そこまで考えて、ジークは複雑な顔でうつむいた。とっくにわかっていることだった。正しいことかどうかなど、サイファにとってはさして重要ではない。彼は別の基準で動いている。今さら反論など無意味だ。
 代わりに、もうひとつ気になっていたことを、質問としてぶつけてみた。
「彼への支援は、打ち切るつもりですか」
「いや、続けるよ」
 サイファはさらりと答えた。
「我々の未来のためには、彼の研究が不可欠だからね」
 ジークは眉根を寄せた。サイファは無表情で彼を見下ろした。
「その論文は読んだか」
「はい」
「ならば、私の言ったことの意味はわかるね」
 ジークは顔を上げた。思いつめた声で尋ねる。
「あの、アンジェリカはこの論文とどう関係するんですか? 教えてください、アンジェリカは……」
「質問は受け付けない」
 サイファは彼の言葉を遮り、冷たく拒絶した。
 ジークは唇を噛んだ。力が抜けたようにうなだれる。
「君はそんなことを訊くためにここへ来たのか? 大事な手がかりを持って、のこのこと」
 サイファは後ろ手で、がちゃりと鍵をかけた。
「……え?」
 ジークはきょとんとして顔を上げた。そのとき——。
 ガシャン!!
 ロッカーが派手な音を立てた。それは、ジークが打ちつけられた音だった。サイファが彼の右手首を掴み、後方のロッカーに押しつけた、いや、叩きつけたのだ。ジークは仰向けにひっくり返った。腕と頭を強く打ち、その痛みに顔をしかめた。
 サイファは倒れたジークにまたがり、覆いかぶさるように顔を近づけた。
「私がその気になれば、一瞬でこの論文は灰になる」
「なっ……」
 ジークの顔から血の気が引いた。ようやく手に入れた大切な証拠だ。ルーファスと対峙するためには、これがなければ話にならない。必死に精一杯の抵抗をする。だが、サイファは意外と力が強かった。体勢の違いもあるだろうが、ジークがどれだけ力をこめてもびくともしなかった。右手はロッカーに、左手は床に押しつけられている。それでも、右手に握っている論文は手放さなかった。
「わかっていただろう、それは私にとって都合の悪いものだということを。もう少し警戒心を持つべきだったな」
 サイファの顔に冷たい笑みが浮かんだ。端整な顔立ちだけに迫力がある。ジークは背筋が凍りついた。言い知れぬ恐怖を感じた。畏怖といってもいいかもしれない。息が止まり、うめき声すら出ない。
 ガシャン!!
 鍵を閉めたはずの扉が、激しい音を立てて開いた。ラウルが蹴り開けたのだ。扉は原形を留めていたが、鍵の部分は破壊されている。
「何をしている」
「おまえなぁ、少しは扉を壊すことに躊躇いを持てよ」
 サイファは呆れたようにため息をついた。ラウルは無表情で腕を組む。
「鍵を掛けるおまえが悪い」
「邪魔するなと言っただろう。せっかく面白いところだったのに」
 サイファは文句を言いながら立ち上がった。
 ジークは呆然としていた。起き上がる気力もなく、床に体を投げ出したまま、天井を見つめている。不意に思い出したように右手の論文の感触を確かめた。まだ灰にはなっていないようだ。
「忠告だよ」
 サイファは笑って言った。ジークの手を取り、体を引っ張り起こす。彼の背中は埃にまみれていた。髪にもゴミが絡まっている。しかし、彼にはそんなことを気に掛ける余裕などなかった。何がなんだかわからないといった顔で、サイファを見上げた。
 サイファは真面目な顔になった。
「君の行動の甘さと判断の遅さは、いつか命取りになる。身をもって実感しただろう」
 ジークはぐっと強く口を結び、うつむいた。返す言葉もなかった。
「ルーファスは手強いよ。それだけは言っておく」
 サイファは段ボール箱を抱え上げた。
「あとは私たちだけでやるから、君はもう帰っていいよ。ありがとう、助かった」
「あの、これ……」
 背を向けたサイファに、ジークはとまどいがちに声を掛けた。右手の論文を掲げる。
 サイファは鋭い視線を流した。
「切り札は慎重に扱え」
「公表することになるかもしれません」
 ジークは表情を引き締めた。
 サイファはふっと小さく息を漏らした。
「よく考えたうえで、君が最善と思う行動をとればいいさ。基本的に君の行動は阻害しない。だが、許容範囲を超えた場合は全力で阻む。それだけだ」
 ジークは息を呑んだ。
「行くぞ、ラウル」
 サイファは戸口のラウルに横柄に声を掛けると、颯爽とした足取りで部屋を出て行った。
 ラウルは冷たくジークを見下ろした。何か言いたげだったが、何も言わずに部屋を出て行った。鍵の壊れた扉は、開け放たれたままだった。
 ジークはすっかり暗くなった部屋にひとり残された。冷たい床に座り込んだまま、手にした論文を握りしめる。
 ——俺は、逃げない。
 奥歯を噛みしめ、自らを鼓舞するように、心の中で強くつぶやいた。


85. 最強の敵手

 ジークは革張りのソファに腰を下ろしていた。背筋をピンと伸ばし、軽く握った手を膝の上にのせている。体も表情も緊張でこわばっていた。目だけを動かし、部屋の様子を探る。
 そこは応接間だった。アンジェリカの家と同等に広い。何も物が置かれていない空間が、中央に大きく取られていた。自分の座っている窓際には、レースのカーテン越しに柔らかい自然光が広がっている。全体的に明るい雰囲気だ。調度品は、新しくはないが、どれも上質で、手入れが行き届いているように見えた。
 ガチャ——。
 扉が開き、年配の女性が入ってきた。ティーカップを載せたトレイを手にしている。ジークの元に足を進めると、上品な物腰で紅茶を机に置き、彼へと差し出した。
「どうぞ」
「どうも」
 ジークは小さく頭を下げた。だが、それには手を伸ばそうとしなかった。疑惑の目つきでじっと覗き込むだけである。
「毒なんて入っていませんよ」
 老婦人はくすりと笑ってそう言いながら、部屋をあとにした。
 自分の心を見透かされ、ジークはばつが悪そうにうつむいた。しかし、それでも、その紅茶には手をつけなかった。

 しばらくして、再び扉が開いた。
「待たせたな」
 ルーファスが尊大に低音を響かせながら、ゆったりとした足取りで入ってきた。ジークの向かいに腰を下ろす。ソファが軋み音を立てた。
 ジークは険しい顔で睨みつけた。だが、ルーファスは余裕の表情でそれを受け流した。
「まさか再びここへ乗り込んでくるとは思わなかったな」
 ルーファスは軽く笑いながら、顎で戸口の方を指し示す。
「向こうの台所だ、おまえが壁を壊したのは。覚えているか」
「本題に入ってもいいですか」
 ジークは挑発には乗らなかった。鞄の中から紙束を取り出し、机の上に置いた。表紙がところどころ黒塗りにされている。
「知ってますよね」
 上目遣いに、目の前の男を窺う。
 ルーファスは冷たい目でその紙束を見下ろした。
「サイファから手に入れたのか」
「いや、ヘイリー博士からだ」
 ジークはきっぱりと答えた。
 ルーファスはそれを手にとり、ペラペラとめくった。
「サイファが回収したものと思っていたがな」
 眉ひとつ動かさず、独り言をつぶやく。
「あいつのやり方はぬるくていかん。私なら徹底的にやる。逆らう気など起きぬようにな」
 ジークはごくりと唾を飲んだ。淡々とした言い方だったが、だからこそ真実味があるように感じた。対処したのがサイファで良かったのかもしれない。
 ——ブワッ。
 突然、鈍い音とともに閃光が走った。その一瞬で紙束は灰燼と化し、ルーファスの手から机の上に崩れ落ちた。細かな燃え殻が、埃のように舞い上がる。
「それで?」
 ルーファスは手についた灰を払いながら、涼しい顔で尋ねた。
 ジークは何の前触れもなく起こったことに、目を丸くしていた。紙の焼けた匂いが現実を伝えている。しかし、すぐに気を落ち着け、冷静に口を開いた。
「コピーはとってあるぜ。誰にもわからないところに隠してある」
「ほう、少しは頭が働くようだな」
 ルーファスは冷ややかに言った。少しも動揺している様子はない。ジークはこのとき初めてサイファの忠告に感謝した。あの忠告がなければ、コピーを取ることはなかっただろう。
「頼みがある」
「頼みではなく脅迫ではないのか」
 ルーファスは鼻先で笑いながら言った。
 ジークはぎこちなく口角を吊り上げた。その額には薄く汗が滲んでいる。
「そうとってもらっても構わないぜ。聞き入れてもらえない場合は、さっきの論文を公表するつもりだ」
「何の伝手もない君が、どうやって公表するつもりだ」
「わかりそうな学者や学生に配りまわれば、噂にくらいはなるんじゃねぇか。見る人が見れば、正しいかどうかわかるだろうしな」
 ルーファスは口元に微かな笑みをのせた。
「なるほど、思ったより頭が働くようだ。それで、要求は何だ」
「わかってんだろ。アンジェリカを自由にしろ」
 ジークは昂る感情を抑えながら、低い声で言った。怒りで我を忘れては、以前の二の舞になりかねない。もう同じ過ちを繰り返さないと心に決めている。
「それは無理だ。我々にはあの子が必要でね」
 ルーファスは考える素振りすら見せずに即答した。
 ジークは眉をひそめ、鋭く睨みつけた。
「いくらラグランジェ家を救うためでも、実験台なんて絶対に許さねぇからな」
「何の話だ」
「今さらとぼけるな! あの論文は読んだぜ」
 ルーファスは目を伏せ、ふっと笑った。
「そうか、この論文以外の真実は、何も知らんというわけだ」
 ジークは怪訝な面持ちで首をひねった。
「どういうことだ」
「アンジェリカは実験台などではない。滅びゆく我々の救世主となるべき存在だ」
「救世主?」
 ジークはますます訝った。
「だって、あいつの遺伝子は綻びがきてるんじゃ……」
「逆だ。あの子だけが唯一、正常な血を持っている」
「え? 何で……」
 ルーファスはまっすぐにジークを見据え、今までにない真摯な口調で言う。
「アンジェリカは丁重に扱うと約束しよう。君は黙って手を引けばいい。あの論文を公表すれば、ラグランジェ家の威信は失墜する。サイファもアンジェリカも、皆が不幸になるだけだ」
「このままじゃ、どのみちアンジェリカは不幸だ!」
 ジークはこぶしを机に叩きつけ、勢いよく立ち上がった。再び灰が舞い上がり、静かに落ちていく。
 ルーファスはそれにも動ずることはなかった。
「サイファがついている。不幸になどしないだろう」
「いくら父親がついてるっていっても……」
「夫だ」
「は?」
 ジークはぽかんとした。話の繋がりがわからなかった。
 ルーファスはソファの背もたれに身を預けた。革が摩擦音を立てる。恰幅のいい腹の上で手を組み、悠然とジークを見上げた。
「サイファがアンジェリカの夫となる予定だ」
「……ちょっと待て」
 ジークは額を押さえ、崩れるようにソファに腰を下ろした。頭が混乱して、何がなんだかよくわからない。嫌な汗が体中から滲んでいる。
 ルーファスは淡々と説明を始めた。
「もちろん、表向きには別の夫を用意するがな。事実上の夫はサイファだ。サイファとの子をなし、後継者として育てるのが、アンジェリカの役目だ」
 ジークはうつむいたまま眉根を寄せた。そして、ゆっくり顔を上げると、ルーファスをじっと睨む。
「何もかも間違ってんだろ、それ。だいたいそれじゃ、ますます破滅へ向かうだけじゃねぇか。俺をからかってんのか? バカにしてんのか? 試してんのか?」
「真面目な話だ」
 ルーファスは青い瞳でまっすぐに見つめ返した。
「それで何でラグランジェ家が救われることになるんだよ!」
「心配無用だ。我々は君より多くの事実を知っている」
「説明しろよ!」
 一向に話が見えてこない。ジークは苛立ちを募らせていった。受け答えが感情的になっていく。
 そんな彼を、ルーファスは冷淡に突き放す。
「その義務はない」
 ジークは顔をしかめた。
「アンジェリカは、あいつは承諾してんのかよ」
「近いうちに話をするつもりだ。逆らうことはないだろう。我々に従うと約束したのだからな、君を助けるために」
 ルーファスは嫌みたらしくそう言うと、ニヤリと口元を歪めた。
 ジークは唇を噛み、うつむいた。
 そうだ、俺のせいだ——。
 だからこそ、自分が彼女を救い出さなくてはならない。ラグランジェ家では家の存続がすべてなのだ。そんな捻れた家では、絶対に彼女は幸せになれない。
「大人しく帰れ」
 ルーファスは大きく息をつきながら体を起こした。そして、ジークの前に置かれたティーカップに手を伸ばした。少し灰が浮かんでいたが、気にせず口に運ぶ。
「まだ答えを聞いてねぇ」
 ジークは強気に言った。
「引く気はないようだな」
「当然だ」
「一日だけ時間をくれ」
 ルーファスはティーカップを机の上に置いた。
「私ひとりで決断するわけにはいかんのでな」
「長老会で討議して決めるってわけか」
 ジークは険しい目つきでルーファスを窺った。彼は感情のない視線をジークに向けていた。口を閉ざしたまま、何も答えようとはしない。
「明日のこの時間、答えを聞きに来るぜ」
 ジークはソファから立ち上がった。そして、ルーファスをひと睨みすると、腹立たしげに鞄を引っ掴み、足早に出て行った。

「アルフォンスたちを呼んでくれ」
 ルーファスはソファに身を沈めながら、背後の妻に頼んだ。彼女は胸元で両手を重ね、心配そうに立ち尽くしていた。
「あなた……」
 口をついて出たその声は、か細く弱々しかった。だが、ルーファスの声は、いつもと変わらず力強かった。
「心配はいらん。何もかも上手くいく。何もかも、な」
 ルーファスは目を細め、天井を見つめた。

 ジークは後ろの扉から教室に入った。すでに授業は始まっていた。教壇のラウルは冷たく一瞥しただけで、何事もなかったかのように授業を続けた。
 だが、何人かの生徒は後ろを振り返っていた。その中には、リックとアンジェリカもいた。リックはほっと安堵したような表情を見せていた。しかし、アンジェリカは心配そうに顔を曇らせ、何か言いたげに大きな瞳を潤ませていた。
 ジークはすべての視線を振り切り、無言で席に着いた。

 レイチェルは王妃アルティナの部屋にいた。
 だが、アルティナはここにはいない。彼女は、国王、つまり夫に呼ばれて出て行ったのだ。めずらしいことではなかった。むしろ、よくあることと云ってもいい。つまらないことですぐ呼びつけるのよ、と彼女自身も笑ったり怒ったりしながらよく言っている。つまらないことというのが真実かどうかはわからないが、実際、たいていの場合はすぐに戻ってきていた。
 レイチェルは目の届くところでアルスとルナを遊ばせながら、ひとり紅茶を飲んでいた。
「レイチェルさん」
「はい……?」
 突然の呼びかけに、彼女は少し驚いたように返事をして振り向いた。ティーカップをソーサに戻す。
 声の主は若い衛兵だった。王妃の部屋の前には、必ずふたりの衛兵が常駐している。彼はそのうちのひとりである。開け放たれたままの戸口から、覗き込むように上半身を乗り出していた。
「お父上がいらしています」
「お父さまが?」
 レイチェルはきょとんとして立ち上がった。父親は、退職して以来、ここへ来たことなど一度もない。何か大変なことでも起こったのだろうか——ふとそんな考えが頭をよぎった。不安が膨らみ、小走りで部屋を出た。ほてった桜色の頬に、ひんやりとした空気が触れる。
「お父さま?」
 あたりを見まわしながら声を掛けた。長い金髪が薄暗い廊下で波を打つ。だが、父親の姿は見つからない。
 そのとき、背後から大きな影が彼女に忍び寄った。

 魔導省の塔。その最上階の一室にサイファはいた。今日から彼は副長官となる。そして、ここは彼の新しい個室である。今までより広く、明るい雰囲気だ。引っ越しを済ませたばかりで、机の上もまだきれいに片付いている。だが、すぐに書類の山に覆われることになるだろう。
 ——コンコン。
 扉がノックされた。サイファは書類をめくる手を止め、顔を上げた。
「どうぞ」
 その声と同時に扉が開き、ルーファスが入ってきた。机の前まで足を進め、後ろで手を組むと、座っているサイファを無愛想に見下ろした。
「その若さで副長官とはな。どんな手を使ったのだ」
「真面目に仕事に取り組んだ結果ですよ。ラグランジェの名前の力も大きいでしょうけどね」
 サイファは机の上で手を組み、にっこりと微笑んだ。
「少しは感謝しているようだな」
「価値は適正に評価していますよ。そうでなければ利用することも出来ませんから」
 淡々とそう言うと、面倒くさそうに頬杖をつき、ルーファスを見上げた。
「それで、何の御用ですか。昇進祝いに来たわけではありませんよね。手ぶらですし」
 ルーファスはふっと笑った。
「手ぶらではないぞ」
 その口調はどこか楽しんでいるふうだった。
 サイファは嫌な予感がした。こういうときのルーファスは、何か良からぬことを企んでいることが多い。警戒心をあらわにした厳しいまなざしを彼に向ける。
 ルーファスは上着のポケットに手を入れ、何かを取り出した。そっと机の上に置く。カタン、と小さな音を立てた。
 それは、プラチナの指輪だった。何の飾りもないシンプルなものだ。だが、その内側には、見まがうことのない刻印があった。
 まさか——。
 サイファははっとして、表情をこわばらせた。

「ジーク、どこへ行っていたの? 心配したわよ」
 授業が終わるなり、アンジェリカは一目散にジークに駆け寄った。いったんアカデミーへ来ていたジークが、いつのまにか姿を消していたのだ。何かに巻き込まれたのではないか、危ないことに首を突っ込んでいるのではないかと気が気でならなかった。
 ジークは椅子から立ち上がった。思いつめた顔を彼女に向ける。
「アンジェリカ、俺の家へ来い」
「え? いいけど、いつ?」
 アンジェリカはきょとんとしながら尋ねた。
「あ……そうじゃなくて……」
 ジークは困ったように頭に手をやった。斜め上に視線を流し、考えを巡らせる。そして、再び真剣な顔になると、彼女の細い両肩に手をのせた。
「おまえ、あの家を出て、俺の家に住め」
「えっ……?」
 アンジェリカは大きく目を見張った。
「ジーク、いくらなんでもいきなりすぎ」
 隣で見ていたリックは苦笑した。事情を知らない彼には、ジークの発言は非常識なものとしか思えなかった。
「危ねぇんだよ、おまえの家は」
 ジークはまっすぐに彼女の瞳を覗き込んで言った。
 アンジェリカは怪訝に眉をひそめ、首を傾げた。彼が冗談を言っているようには見えない。いや、そもそもこんな冗談を言う人間ではない。
「わかるように説明してくれる?」
「今は、言えねぇ……けど、俺を信じろ」
 ジークは手に力を込めた。彼女の肩をぐっと掴む。
 アンジェリカは納得のいかない様子だった。不満そうな顔でじっと考え込む。
「……じゃあ、お父さんとお母さんに相談してみる」
「ダメだ!」
 ジークは即座に否定した。
 アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「いったい何なの? そんなの無理に決まってるじゃない。ジーク、おかしいわ」
「俺はおまえを守りたいんだ!」
 ジークは必死だった。できれば、例の論文のことも、サイファのことも知らせないでおきたい。それが彼女のためだと思った。しかし、それを言わなければ危機感を上手く説明できない。伝わらない、伝えられないことがもどかしかった。

「やあ、ジーク君」
 ジークの背筋に冷たいものが走った。何度も聞いて耳に馴染んだ声、そして、今は最も耳にしたくなかった声。なぜこのタイミングで——きゅっと口を結び、振り返る。
 サイファは戸口で愛想良く微笑み、右手を上げていた。軽快な足取りで教室に入り、ジークたちに近づく。いつもと何ら変わったところはない。
「お父さん、今度は何の用なの? 来すぎじゃない?」
 アンジェリカは眉をひそめて尋ねた。彼女の指摘ももっともだった。前回、ここへジークを訪ねて来たのは、ほんの数日前のことである。
「今日は個人的なことでね」
 サイファは受け流すように言うと、引き締まった端整な顔をジークに向けた。深い蒼の瞳が鋭く光る。
「一緒に来てくれるかな」
「俺も話をしたいと思ってたところです」
 ジークは固い声で言った。緊張を滲ませながらも、毅然とした表情で見つめ返す。ふたりの間の空気がピンと張りつめた。
 アンジェリカは息を呑んだ。
「ねぇ、いったいどうしたの?」
 ただならぬ雰囲気に不安を感じ、どちらにともなく尋ねる。
「何でもないよ」
 サイファは柔らかく言った。
「でも……」
「心配性だね、アンジェリカは」
 今度は包み込むように優しく微笑んだ。そして、顔を曇らせる彼女の頬に、そっと手を伸ばす。
 だが、その手が彼女に触れることはなかった。
 ジークが彼の手首を掴んで止めたのだ。必要以上に強い力を込めている。握り潰さんばかりの勢いだ。
 サイファは目を大きくして振り向いた。
「行きましょう」
 ジークは低く抑えた声で言った。表情を隠すためなのか、深くうつむいている。
 サイファはふっと小さく息を漏らした。
「そうだね」
 落ち着いた声で同意する。
 ジークはようやく手を離した。サイファの手首には、薄く指の跡が残っていた。サイファは何も言わず、さり気なく袖を引き下げた。そして、ジークににこりと微笑みかけると、彼の背中に手をまわした。

「どうしたのかしら、やっぱり変だわ」
 アンジェリカは不安を拭えなかった。小さくなるふたりの後ろ姿を、横目でちらりと見る。
「うん、確かに」
 リックも彼らの姿を目で追いながら頷いた。
「ジークとお父さん、喧嘩しているのかしら」
 アンジェリカは口元に手を添えうつむいた。何ともいえない微妙な表情をしている。
「喧嘩っていうより、一方的にジークが反発してるみたいだったけどね」
 リックは冷静に指摘した。そうだとしても、不思議なことには違いなかった。ジークはいつもサイファのことを信用し、慕っているように見えたからだ。それが壊れるような何かがあった、ということなのだろうか。
 アンジェリカも同じことを考えていた。
「なんだか心配。こっそりあとをつけようかしら」
「それはダメだよ」
 リックは優しくたしなめた。
「そうよね」
 アンジェリカは気落ちして、深くため息をついた。ふたりが向かった方に顔を向ける。だが、彼らの姿は昼時の雑踏に掻き消され、もう目にすることは敵わなかった。

 サイファとジークは道場へとやってきた。魔導耐性に優れた、また物理的にも頑丈な建物である。魔導の実戦訓練などを行う場所だが、今はあまり使われていない。
「どうして道場なんですか」
 ジークはサイファの背中に尋ねかけた。
「誰にも邪魔されたくないんでね」
 サイファは鍵を開けながら、素っ気なく答えた。
「それなら別にここでなくても……」
「さあ、入ろう」
 ジークの反論を無視するようにそう言うと、扉を開き、軽やかに中へ入っていった。
 ジークはあとに続けなかった。足が重い。進むことを拒絶しているかのようだった。この捉えどころのない空間が苦手なせいかもしれない。それとも、閉塞した空間でサイファとふたりきりになることに恐怖を感じているせいだろうか。
 しかし、いつまでも入口に突っ立っているわけにはいかない。意を決して足を進めた。
 白い床、白い壁、白い天井——眩しいくらいに真っ白で何の飾りもない部屋。その中央にふたりは立っている。
「まずは君の話を聞こうか」
 サイファは腕を組み、振り返った。無表情でじっとジークを見つめる。
 ジークは少し怯んだが、負けじと強い視線を返した。そして、率直に尋ねる。
「サイファさんが、アンジェリカの事実上の夫になるって本当ですか」
 サイファはふっと表情を和らげた。
「やはりその話を聞いたんだね。さっきの君の態度から、そうじゃないかと思ったよ」
 ジークは奥歯を噛みしめた。彼が否定してくれることを期待していた。だが、その淡い期待は脆くも崩れ去った。どうしようもなく頭に来た。
「それで本当にアンジェリカを幸せに出来ると思ってるんですか。そんな歪んだ環境じゃ、誰も幸せになんてなれない。だいたいレイチェルさんはどうするんですか!」
 怒りまかせに一気に捲し立てる。
 サイファは曖昧に笑った。
「君の言うとおりだ。君は正しい。うらやましいよ、まっすぐに物事を考えられる君が」
「皮肉ですか」
 ジークは気色ばんだ。
「本心だよ」
 サイファは真顔で言った。
「だから、君に託したんだ、私たちの未来を。君なら、私たちを、アンジェリカを解き放ってくれるのではないかと期待していた」
 ジークははっとした。サイファのこれまでの言動が、次々と頭を駆け巡った。自分を導いてくれた、道を示してくれた、現実の厳しさを教えてくれた。もし、本当にアンジェリカの夫になるつもりでいるのなら、こんなことをする必要などない。ラグランジェ家の当主という立場から、拒否することが出来ずにいただけかもしれない。
「サイファさん、俺……」
「だが、君は期待に応えてくれなかった。いや、私の落ち度かな」
 サイファは何もかもあきらめたように言った。憂いを含んだ顔でうつむく。横髪がはらりと頬にかかった。
 ジークは慌てて食い下がる。
「まだ終わってません! 結果が出るのはこれからです!」
「残念だが、もう終わるんだよ」
 サイファはゆっくりと視線を流した。白い空間の中で、鮮やかに蒼が光る。
「君は、ここで死ぬ」
「……え?」
 呆然としているジークの前で、サイファの魔導力が一気に高まる。彼の周囲に竜巻のような風が起こった。



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