目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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79. それぞれの覚悟

「おはよう」
 アンジェリカは校門前のジークとリックに駆け寄ると、いつものようににっこりと挨拶をした。だが、ふたりの反応はいつもとは違った。リックは目をぱちくりさせて尋ねた。
「家出でもするの?」
「違うわよ!」
 アンジェリカは肩をいからせて言い返した。
「少し大きな荷物を持っているだけで、どうしてすぐに家出って思われてしまうのかしら」
 腕を組み、不満げに眉根を寄せる。その背中には大きなリュックサックが負われていた。少しどころではなく、かなり大きい。彼女自身がすっぽり入ってしまうくらいだ。どう考えても、アカデミー通学には相応しくない鞄である。
「リック、この前はどうして来てくれなかったの? 楽しみにしていたのに」
 彼女は顔を上げ、思い出したように言った。彼女が言っているのは、ジークの家で手料理を作ったときのことだ。それが一昨日で、きのうも休日だったため、リックと顔を会わせるのは、その後、初めてである。
「ごめんね、急に用事が出来ちゃって」
 リックは申しわけなさそうに微笑んだ。詳しい内容は言わなかった。
「もしかして、セリカに関係があるの?」
 アンジェリカはそんな気がして、何となく尋ねた。別に、だからどうというつもりもなかった。だが、リックはそれに答えようとはしなかった。
「ごめんね」
 にっこりと謝るだけで、肯定も否定もしなかった。
「まあ、いいけど」
 アンジェリカは、彼の態度に引っかかるものを感じながらも、おとなしく引き下がった。これ以上の追求は無駄だと悟ったのだ。セリカに気を遣っているのだろう、そう思うことにした。

 ジークは心配そうに彼女を見つめていた。
 あの夜、アンジェリカは屋根の上で意識をなくした。そして、そのまま翌日の昼過ぎまで眠り続けた。だが、目を覚ましたときには、すっかり元気を取り戻していた。
「起こしてくれればよかったのに。だいぶ寝過ごしちゃった」
 小さく肩をすくめ、笑いながらそんなことを言っていた。
 結局、何が原因なのか、何が起こったのか、ジークにはわからないままだった。ただ、あの夜の彼女の状態は、普通ではなかった。確かなことはそれだけだ。
 サイファにはまだ言っていない。その機会がなかったからだ。だが、言うべきかどうかも迷っていた。今の彼女を見ていると、あのときはただ疲れていただけかもしれない、そう思えてくる。それでも一応、知らせておいた方がいいのだろうか——。

「それで、その荷物は何なの?」
 リックは非常識なリュックサックを指さして尋ねた。アンジェリカはにこにこして答えた。
「今日はユールベルのところへ行くのよ」
「本気か?!」
 今まで黙り込んでいたジークが、突然、大声で割り込んできた。リックを押しのけ、慌てた様子で詰め寄る。しかし、彼女は嬉しそうに、明るく声を弾ませた。
「ええ、料理も作るの。楽しみだわ」
「ダメだ!」
 ジークは強く言った。だが、彼女は涼しい顔で切り返した。
「もう約束したもの」
「どうしてもっていうなら、俺も一緒に行く」
 ジークは負けじと食らいついた。
「私はユールベルとふたりきりで話がしたいの」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「ダメだ!」
 あんなことがあったすぐ後だ。何がなんでも止めなければならない。ユールベルとふたりきりなんて——。ジークは必死だった。
 アンジェリカはますます不機嫌になった。眉根を寄せ、ジークを睨みつける。
「どうしてジークにそんなことを言われなければならないの? お父さんとお母さんの許可は取ったのに」
「え……」
 ジークは何も言えなくなった。まさか、両親の許可を取っているとは思わなかった。ユールベルとふたりきりなんて、よく許したものだ。心配ではないのだろうか。ジークは不思議でならなかった。
「行ってもいいのね?」
 アンジェリカは下から覗き込んで尋ねた。
「あ、ああ、まあ……」
 ジークは困り顔で口ごもった。
 アンジェリカはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「良かった」
 そう言うと、重そうなリュックサックを揺らしながら、軽い足どりで校舎へと駆けていった。
 ジークとリックも、彼女を追って駆け出した。

 キーン、コーン——。
 何ごともなく夕方になり、終業のチャイムが鳴った。
「今日はここまでだ」
 ラウルは教本を閉じ、授業を切り上げた。彼の授業は、どんなにきりが悪くても、必ずチャイムとともに終わる。このことに関しては、クラスの誰もが好評価をしていた。彼は無造作に教本と抱えると、焦茶色の長髪を揺らし、大きな足どりで出ていった。そのとたん、教室は賑やかになった。いつもと変わらない日常の光景だ。
 アンジェリカは嬉しそうに、大きなリュックサックを背中に担いだ。
「じゃあね。私はユールベルの家に行くから」
「ああ、無理すんなよ」
 ジークは鞄に教本を投げ込みながら、素っ気なく答えた。だが、それは繕ったもので、本当は心配で胃に穴が開きそうだった。
 アンジェリカはにっこり微笑むと、手を振って教室を出ていった。彼女の大きなリュックサックは、常にまわりの注目を集めていたが、彼女自身はまるで気づいていない様子だった。
「行かせてよかったの?」
 リックは鞄を肩に掛けながら、ジークの席へやってきた。
「仕方ねぇだろ」
 ジークはため息まじりに答えた。そして、鞄を掴み、立ち上がった。
「リック、おまえは先に帰ってろ」
「どこへ行くの?」
 リックは不安を顔いっぱいに広げた。まさか、こっそりとユールベルの家に行って、覗きや盗み聞きをするつもりでは——。思いつめた今のジークならやりかねない。疑惑の目で彼を見る。
「おまえ、何か勘違いしてねぇか?」
 ジークは眉をひそめて振り返った。
「サイファさんのところだよ」
 そう言って、王宮の方向を指さした。

「君の方から会いに来てくれるなんて、嬉しいよ」
 サイファは椅子から立ち上がり、机の上に散乱した書類を片づけ始めた。ここは魔導省の塔、その最上階にあるサイファの個室である。彼の背後の大きなガラス窓には、青い空と赤い空、それらを繋ぐグラデーション、そして、傾きかけた太陽が映し出されていた。
「アンジェリカの手料理はどうだった?」
 サイファは手を止めずに尋ねた。
「あ、はい、おいしかったです」
 ジークは不意の質問に少し慌てた。答えてしまってから、もっと感情のこもった言い方は出来なかったものかと後悔した。
 しかし、サイファはその答えで十分に満足しているようだった。
「そうだろう」
 声を弾ませ、満面の笑みをたたえた。
「それで、何の話だい? あ、座っていいよ」
「はい」
 ジークは示されたパイプ椅子にゆっくりと座った。気をつけたつもりだったが、それでもギギッという耳障りな軋み音は止められなかった。
 机の上は大雑把に片づいた。サイファはようやく手を止め、大きな椅子に腰を下ろした。ひじを机につき、両手を組むと、深い蒼色の瞳をまっすぐジークに向けた。
 ジークはびくりとした。心の中を探られているかのように感じた。
「アンジェリカのことなんですけど」
 少し早口でそう切り出した。サイファはじっと彼を見つめたまま、無言で次の言葉を待った。
「その、料理を作りに来た夜、話している途中で眠るように意識をなくしたんです。次の日にはちゃんと、ていうか昼頃に目を覚ましたんですけど……。疲れていただけかもしれませんが、少し気になって……」
 ジークはそこまで一気に話すと、心配そうに顔を曇らせた。膝にのせた手を握りしめる。
 サイファはわずかに目つきを険しくした。
「そのとき、何の話をしていたんだ?」
「えっと……確か、就職の話だったと思います」
 ジークは考えながら答えた。
「そうか」
 サイファは小さく息をつき、革の背もたれに身を預けた。ゆっくりと顔を上げ、目線を天井に向ける。
 ジークはそれを見て、不安が湧き上がった。
「あの……」
「教えてくれてありがとう。大丈夫だとは思うが、気をつけて様子を見るよ」
 サイファは体を起こし、にっこりと笑いかけた。だが、ジークは笑顔を返せなかった。責めるように尋ねる。
「心配じゃないんですか。そんな状態でユールベルのところへ行かせて」
「何かあれば、彼女が連絡をくれるだろう」
 サイファは冷静に答えた。
 ジークは難しい顔で、目を伏せた。サイファがそこまでユールベルを信用していることが意外だった。いや、いつまでも過去のことにこだわっている自分の方がおかしいのかもしれない。今のユールベルは、確かにもう危険ではないと思う。だが、アンジェリカとふたりきりにするには、やはり抵抗がある。ジークはそんな考えの間で揺れていた。
「そうだ、ジーク、今からうちに来ないか?」
 サイファは突然、思いついたように言った。ジークはきょとんとした。
「実は、既にひとり来ることになっていてね。君が来てくれると、彼も喜ぶだろう」
「彼?」
 怪訝に尋ね返す。
 サイファは口元に笑みをのせ、椅子から立ち上がった。
「ちょうど来たようだ」
 タタタ……と軽快な足音が、遠くから近づいてきた。ジークもつられて腰を上げ、音のする方を振り返った。それとほぼ同時に、ガシャンと弾けるように扉が開く。
「こんにちは!」
 溌溂とした元気の良い挨拶とともに、金髪の少年が飛び込んできた。
 ジークはその少年を指さし、記憶をたどりつつ口を開いた。
「おまえは確か……」
「あれ? ジークさん?」
 少年はくりっとした青い目をぱちくりさせた。

「こんにちは」
 戸口で出迎えたユールベルに、アンジェリカはにこやかに挨拶をした。ユールベルは、包帯で覆われていない方の目で、彼女の背負っているものをじっと見つめた。
「あなた、家出してきたなんてことは……」
「違うわよ!」
 アンジェリカは思いきり頬を膨らませた。そして、むすっとしたまま、無遠慮にすたすたと中に進んだ。ここへは一度、遊びに来たことがあるので、間取りは知っている。ユールベルの案内は不要だった。
 リビングルームに入ると、アンジェリカはリュックサックを下ろした。
「これは、今日の夕食の材料とお泊りに必要なものよ」
 ファスナーを開け、中を覗き込み、両手を突っ込む。
「あと、これ……」
 そう言いながら、上目遣いでユールベルを見ると、そこからガラスの瓶を取り出して掲げた。赤みがかった黒色のボトルに、金と銀で箔押しされた、上品な薄赤色のラベルが貼られている。
「それ、お酒?」
 ユールベルはぽつりと尋ねた。アンジェリカはにっこり微笑んだ。
「どれが美味しいかわからなかったから、適当に持ってきちゃった」
 ユールベルはため息をついた。
「おじさまは知っているの?」
「まさか。告げ口する?」
「わざわざそんなことしないわ。でも、聞かれたら正直に答えるわよ」
「ええ」
 アンジェリカは肩をすくめながら、ボトルを机の上に置いた。
「弟はいないって言っていたけど、どうしたの?」
 ユールベルはソファに腰かけた。
「おじさまのところへ行っているわ。つまり、人質ってことね」
 感情のない声で、淡々と答える。アンジェリカは腰に手をあて、軽くため息をついた。
「素直じゃないわね。お父さんのことは、信頼しているんでしょう?」
「ええ、でも、おじさまは私のことを信用していないのよ」
 ユールベルはまっすぐ前を向いて言った。
「勘違いしないで。悲観しているわけじゃないし、責めているわけでもない。おじさまがそうするのは当然だと思っているわ」
 アンジェリカの顔がわずかに翳った。
「そんなつもり、ないと思うけど……」
 そこでいったん言葉を切ると、軽く息をつき、腕を組んだ。
「まあいいわ。どちらにしろ、何も起こりはしないもの、ね」
「ええ、そうね」
 ユールベルは無愛想に答えた。
 アンジェリカは気を取り直し、笑顔を作った。
「それじゃ、さっそく夕食を作るわね。作るっていっても、お手軽なパスタなんだけど」
 そう言いながら、フリルのついた淡いピンクのエプロンを身につけた。そして、重いリュックサックを抱え、パタパタと台所へ向かった。

「お帰りなさい」
 レイチェルはリビングルームから姿を現すと、高く澄んだ声で出迎えた。いつものようにロングドレスを身にまとっている。ウェストがきつく締められ、スカートが腰から丸く膨らんだ形のものだ。
「ただいま」
 サイファは優しい笑顔で応えた。
「あら、ジークさん?」
 レイチェルは大きく瞬きをし、少し語尾を上げて言った。サイファの後ろには、ジークとアンソニーが立っていた。アンソニーが来ることは聞いていたが、ジークのことは知らなかった。
 ジークはぺこりと頭を下げた。動作がややぎこちなかった。サイファとはよく会っていたが、レイチェルとはしばらくぶりに顔を会わせる。そのため緊張していたのだ。
「いらっしゃい」
 レイチェルは華やかに微笑みかけた。
 ジークは微かに頬を染めながら、引き寄せられるように彼女を見つめた。
 ——ドクン。
 彼の鼓動は強く打った。
 澄んだ大きな瞳、意志の強そうな目元、柔らかそうな頬、小さな口——。
 そのどれもが、アンジェリカとよく似ていると感じたのだ。レイチェルは変わっていない。アンジェリカがレイチェルに似てきたのだろう。それだけアンジェリカが成長したということかもしれない。もっとも、まだまだ成長の追いついていない部分もあるが——。
「ジークさん?」
 レイチェルは小首を傾げて、尋ねるように呼びかけた。
 ジークははっとして我にかえった。
「あ、いえ、よろしくお願いします」
 慌てふためいて耳元を真っ赤にしながら、もういちど頭を下げた。
「僕、夕食の準備をしにいっていいですか?」
 隣のアンソニーが、落ち着きなく尋ねた。待ちきれないといった様子である。
「どうぞ」
 レイチェルは笑いながら答えた。
 ジークは驚いてアンソニーに振り向いた。
「おまえが作るのか?」
「ジークさんの分もちゃんと作ります」
 人なつこい笑顔でそう言い残し、台所へと駆けていった。
 ジークは小さく息をついた。彼の料理好きは知っていたが、まさかここに来てまで作るとは思わなかった。
「大丈夫だよ。彼はなかなかいい腕をしているから」
 サイファはそう言いながら、濃紺色のコートを脱いだ。レイチェルはそれを受け取ろうと手を伸ばした。そのとき——。
 グイッ。
 サイファはその手を強く引いた。長い金色の髪がふわりと揺れる。彼女は倒れこむように彼の胸に寄りかかった。彼女はきょとんとしていたが、サイファは何の説明もせず、彼女の細い腰に手をまわしてぐっと引き寄せた。そして、顎を軽く持ち上げると、小さな唇に口づけをした。ふたりの足元に、ばさりとコートが落ちた。
 ジークは棒立ちのまま固まった。あまりに突然のことに面くらった。どうすればいいのかわからなかった。目のやり場に困ったが、あからさまに逸らすことも出来なかった。
 サイファはゆっくり顔を離すと、彼女の肩に手をのせた。大きな蒼い瞳を見つめたまま、流れるような横髪を撫で、愛おしげに微笑みかける。レイチェルも彼から目を逸らすことなく、にっこりと微笑み返した。
 サイファは床に落ちたコートを拾い上げ、無言でレイチェルに手渡した。そして、踵を返すと、足早にリビングルームへ向かっていった。彼の端整な横顔はきりりと引き締まっていた。そこから彼の思考を読み取ることはできなかった。
「ごめんなさい、驚かれたでしょう?」
 レイチェルは肩をすくめて、くすりと笑った。
「いえ……」
 ジークはきまり悪そうに答えた。だが、話しかけてくれて少しほっとしていた。
 レイチェルはそっと彼に歩み寄り、顔を近づけた。
「サイファ、子供みたいなところがあるの」
 声をひそめてそう言うと、立てた人差し指を唇に当て、片目を瞑って見せた。
 ジーク頬を赤らめながら、少し体を反らした。冷静に頭を働かせることができなかったせいか、彼女の言わんとするところがさっぱりわからなかった。

「お待たせ」
 アンジェリカはふたり分のパスタとサラダを机に並べると、ユールベルの隣に腰を下ろした。柔らかいソファは大きく沈み、彼女をふんわり包み込むように支えた。
「いよいよね」
 嬉しそうに声を弾ませると、家から持参したワインのボトルを手にとった。コルク栓を抜くところは何度も見たことがあったが、実際にやるのは初めてだった。コルク抜きをねじ込み、力を込めて引っ張る。見よう見まねだったが、なんとか抜くことができた。多少、不格好だったものの、特に問題はない。
 グラスを近くに引き寄せ、ワインを注いでいく。ワイングラスはなかったので、ユールベルがいつも使っているストレートのグラスである。
「きれいな色……」
 ユールベルはようやく口を開いた。グラスに注がれた液体は、赤寄りのピンク色をしていた。見事なくらい透きとおっている。緩やかに揺れる表面は、電灯の光を受け、きらきらと輝きを放っていた。まるで宝石のようだ。
「乾杯しましょう」
 アンジェリカはユールベルにグラスのひとつを手渡した。彼女は無表情で受け取った。
「それじゃ、乾杯」
 アンジェリカはにっこり微笑んだ。自分のグラスを、ユールベルのグラスに重ねる。カン、と短い音が、鈍く響いた。
 ユールベルはひとくち流し込むと、グラスを置いた。フォークを手に取り、パスタの皿を引き寄せる。茄子のトマトソーススパゲティだった。トマトの鮮やかな色が、食欲を刺激する。彼女は少しづつフォークに巻きつけ、口に運んだ。茹で加減も、味の濃さもちょうど良かった。アンジェリカが夕食を作ると言い出したときには、まともなものが作れるのか疑っていたが、出されたものは意外にもまともすぎるくらいのものだった。少し見直した——そう思って、隣の彼女に目を向けた。
 アンジェリカはグラスの中の液体を覗き込んでいた。固い表情だった。ワインには、まだ口をつけていないようだ。しかし、覚悟を決めたように頷くと、ぐいっとグラスを傾けた。
 ごくり。
 喉が小さく動き、ワインを飲み込んだ。
 彼女は次第になんともいえない表情になり、首を傾げて口を開いた。
「……思っていたのとまるで違う味……甘くないのね」
 眉根を寄せ、じっとグラスを見つめる。
「麻酔薬にお酢と唐辛子を入れたみたいな感じ」
「あなた、味覚は大丈夫?」
 ユールベルは半ばあきれたように、半ば心配そうに尋ねた。アンジェリカの言葉は、ワインの味を表現したものとはとても思えなかった。第一、麻酔薬を飲んだことなどあるのだろうか。
「喉が焼けるように熱いわ。舌もしびれてきたみたい」
 アンジェリカは胸元を押さえ、顔をしかめた。
「無理することはないわ。やめた方がいいわよ」
 ユールベルはワインを口に運びながら、淡々と忠告した。
 アンジェリカは挑発されたように感じた。ムッとして強気な表情になる。
「平気よ、グラスに注いだ分くらい、きちんと飲みきるわ」
 力をこめてそう言うと、もういちど口をつけた。だが、彼女のグラスの中身は、ほとんど減っていなかった。

 ユールベルはパスタを食べ終わり、ソファにもたれかかりながら、のんびりとワインを飲んでいた。二杯目である。一方、アンジェリカはまだ一杯目と格闘していた。少しづつ口に運び、ようやく半分くらいになったところだ。
「何か、話があるんでしょう?」
 ユールベルはグラスを机に置き、そう切り出した。そもそも、アンジェリカの当初の目的は、料理でもワインでもなく、話をするため、だったはずだ。
「えっ? あ、そうだったわ」
 彼女は一瞬、きょとんとした表情を見せたが、すぐにユールベルの言葉を飲み込んだ。グラスをそっと机に置くと、ソファの背もたれに身を預け、まっすぐ前を見つめた。そして、小さな口を開き、凛とした声で言った。
「私、ラグランジェの本家を継ぐことになったの」
 ユールベルは右目を大きく見開いた。アンジェリカは天井を仰ぎ、静かに畳み掛ける。
「ラグランジェの誰かと結婚して、新しい後継者を産んで、育てるの」
「ジークは知っているの?」
 ユールベルは感情を抑え、冷静に尋ねかけた。
 アンジェリカは首を横に振った。
「まだ言っていないわ」
「いつ言うつもりなの」
 ユールベルの口調が少しきつくなった。アンジェリカは儚い笑顔を浮かべた。
「私が自由でいられるのは、アカデミー卒業までなの。だから、卒業式の日に言おうかなって」
「それでいいの? いえ、あなたが良くてもジークが良くないわ」
 ユールベルの口調はますますきつくなった。責めているかのようだった。
 アンジェリカは視線を落とした。
「そうね、きっとジークを怒らせることになるわね。嫌われるかもしれない。でも、いっそ、その方がいいのかも……」
「あなたのことを嫌いになれれば、ジークも楽でしょうけど」
 ユールベルは腹立たしげに、突き放すように言った。
 アンジェリカは困惑して顔を曇らせた。
「一生、会えないってわけじゃないのよ。ジークは王宮で働くことになると思うし……」
 ユールベルは鋭く睨んだ。
「一生、会えないよりも、余程つらい目を見るわよ」
「えっ?」
 アンジェリカは目を大きくして、不思議そうな顔をした。
 ユールベルはため息をつきながらうつむき、額を押さえた。
「ごめんなさい、わかっているわ。あなたがこうするしかなかったってこと」
 わずかに頭を振りながら、沈んだ声を落とす。後頭部で結んだ白い包帯が、小さく揺れた。
「でも、どうして私にこんな話をするの?」
 ゆっくりと顔を上げ、険しい視線をアンジェリカに向ける。
「まさか、ジークを譲るなんて言い出すつもりじゃないでしょうね」
「ジークは物じゃないわ。譲るも譲らないもない」
 アンジェリカは真面目な顔で彼女を見つめ、落ち着いた声で言った。
 今度はユールベルが顔を曇らせた。確か、アンジェリカには以前にも同じようなことを言われた。そう、自分はこういう発想しかできない、とても浅ましい人間なのだ。しかし、それはずっと前から気がついていたこと。ユールベルはうつむき、自嘲ぎみに笑った。
「私の結婚相手、まだ決まっていないみたいなの」
 アンジェリカは話を本筋に戻した。
「レオナルド……かもしれない」
 ぽつりと落とされたその名前を聞いて、ユールベルは大きく目を見開いた。何も言葉が出てこなかった。
「可能性としては、いちばん高いと思うの。年齢的に合う人って、他に思い浮かばないし、レオナルドは過去にも候補に挙がったことがあるもの」
 アンジェリカはまるで他人事のように、推論を披露する。
「どうなるかわからないけれど、あなたにはあらかじめ言っておいた方がいいと思って」
「そう……」
 ユールベルはやっとのことで相槌を打った。
「もしかしたら、あなたにとってはその方が都合がいいかしら」
 アンジェリカは口元に人差し指を添え、斜め上に視線を流した。ユールベルは怪訝に眉をひそめたが、アンジェリカは真顔で彼女に振り向いた。
「あなた、レオナルドと一緒にいても、少しも幸せそうじゃないもの。嫌なら嫌って言った方がいいわよ」
 ユールベルはうつむいて目を閉じた。
「怖いのよ」
 アンジェリカは不思議そうに首を傾げた。
「レオナルドが?」
「ひとりになることが、よ」
 ユールベルは顔を上げ、目を細めた。
「私のことを見てくれるのは、レオナルドだけだもの」
「そんなことないんじゃない? お父さんだって、ラウルだって、あなたのことを気に掛けているわ」
 アンジェリカは即座に反論した。ユールベルはゆっくりと首を横に振った。
「そうじゃないの。あなたにわかるように説明できないけれど……」
「どういうこと?」
 アンジェリカは覗き込むようにして尋ねた。ユールベルは遠くに目を向けて答える。
「私は、あなたほど純粋じゃないもの」
「なにそれ、バカにしているの?」
 アンジェリカはムッとして、強い口調で問いただした。しかし、ユールベルはふっと寂しげに笑っただけで、何も答えなかった。
 アンジェリカはますます頭に来た。完全にバカにされていると思った。何もわからないことが腹立たしさを倍増させる。腹立ちまぎれに、半分ほど残っていたワインを一気に飲み干した。ガン、と叩きつけるように、空になったグラスを机に戻す。
「それで、レオナルドと私が結婚することになったら、あなたどうするの?」
 アンジェリカは喧嘩腰で詰問した。
「どうもしないわ。どうしようもないでしょう」
 ユールベルは抑揚なく答えた。
 アンジェリカはソファに手をついて身を乗り出し、彼女にぐいっと顔を近づけた。真剣な面持ちで、囁くように尋ねる。
「祝福してくれる?」
「してほしいの?」
「ええ、どうせなら」
 アンジェリカはにっこりと頷いた。
「変わっているわね、あなた」
 ユールベルはあきれたように言った。ため息をつき、グラスを手にとろうとする。
 そのとき、ふいに肩に重みがかかった。
 驚いて振り向くと、アンジェリカがくてんと倒れるように寄りかかっていた。
「酔ったの?」
 ユールベルは彼女の様子を窺った。その視線は、何もない空間に向けられていた。焦点が定まらないというわけではない。目に見えない何かを見据えているようだった。
「せめて、あなたとは、ずっと友達でいたいわ」
 彼女の大きな瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。

 今ごろあいつ、どうしてるかな——。
 ジークはベッドにごろんと寝転がり、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 ここはラグランジェ家のゲストルームである。夕食をごちそうになり、その後すぐに帰ろうとしたが、サイファに強く引き止められ、断りきれず泊まっていくことになったのだ。

 ——コンコン。
 扉が小さくノックされた。
「はい」
 ジークは慌てて起き上がり、姿勢を正した。
「ジークさん」
 扉がガチャリと開き、アンソニーが入ってきた。人なつこい笑顔を見せている。
「なんだおまえか」
 ジークはふうと息を吐き、体から力を抜いた。
 アンソニーはにこにこしながら、ジークの隣にちょこんと腰かけた。
「僕のパスタ、おいしかったですか?」
「ああ、うまかったよ」
 ジークはぶっきらぼうに答えた。
「今度はもっと手の込んだものを作りますね」
 アンソニーは屈託なく言った。だが、今度といっても当てはない。
「何しに来たんだよ、おまえ」
 ジークはため息まじりで尋ねた。背中を丸め、面倒くさそうに頬杖をつく。
 アンソニーはにっこりと微笑んだ。
「僕たちの将来について話し合うためです」
「はぁ?」
 ジークは素頓狂な声を上げた。
「今日ここで会えたのも、天のお導きです」
 アンソニーは両手を組んで、うっとりと顔を上げた。ジークはぽかんと口を開けた。
「……おまえ、アタマ大丈夫か?」
 アンソニーは途端に真面目な顔になり、ジークに振り向いた。
「僕のお兄さんになってください」
「何だよそれ」
「つまり、姉さんをお願いしますってことです。姉さんと結婚すれば、ジークさんは僕のお兄さんです」
 人差し指を立て、なぜか得意げに説明する。
 ジークは額を押さえ、大きくうなだれた。頭痛がしてきた。
「レオナルドなんかじゃダメなんです。一緒にいても、姉さん、少しも幸せそうじゃないし。姉さんにはきっとジークさんみたいな人がいいんです」
 アンソニーは力説した。ジークは疲れたようにため息をついた。
「あのな、そういうことは他人が頼むようなことじゃねぇだろ」
「他人じゃなくて、きょうだいです」
「本人じゃねぇって意味だよ」
「姉さんは奥ゆかしい人だから、僕が頑張らないと幸せになれないと思うんです」
 アンソニーは次々と淀みなく言い返してきた。
 ジークは奥ゆかしいという形容に疑問を感じたが、あえて反論はしなかった。アンソニーに背を向け、ごろんと寝転がった。ベッドのスプリングが微かに軋んだ。
「いくら頼まれても俺は無理だからな。他を当たれ」
 突き放すように言い放つ。
 アンソニーは困ったように顔を曇らせた。
「どうして? 姉さんのこと、嫌いですか?」
 ジークは背を向けたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……俺にはいるんだ、大切な奴が。何があっても、そいつとずっと一緒にいるって、そう決めたんだ」
 訥々と言葉を落としていく。その声は静かだったが、内に秘めた強い決意がにじんでいた。
「姉さんには、少しの望みもないんですか?」
「ない」
 アンソニーの質問に、ジークは迷いなくきっぱりと答えた。
 アンソニーは一瞬うろたえた。軽く握った右手を口元に当てると、じっと考え込んだ。沈黙が続く。やがて、ふっと表情を緩め、にっこりと微笑んだ。
「わかりました。仕方ないですよね」
 物わかりの良い態度に、ジークは安堵した。彼としても、これ以上きついことは言いたくなかった。
「じゃあ、せめて誰だか教えてください。ジークさんが心に決めた人」
 アンソニーはニコニコして尋ねた。ジークを覗き込もうと首を伸ばす。
「何でおまえにそんなことまで言わなきゃなんねぇんだよ」
 ジークは顔を隠すように、背中を丸めた。
 アンソニーはわずかに首を傾げた。
「アンジェリカ、ですか?」
「……知ってんなら聞くなよ」
 ジークは少し頬を赤らめ、ぼそりと言った。誰に教えたわけでもないのに、なぜか知られているという状況にも、いいかげん慣れてきた。
「言ってみただけです。他に思い当たる人がいなかったから」
 アンソニーはあっけらかんと言った。そして、人差し指を口元に当てると、考えを巡らせながら視線を上に向けた。
「でも、アンジェリカは本家の後継ぎですよね?」
「……わかってる」
 ジークは下唇を噛み、白いシーツをぎゅっと握りしめた。まっさらなシーツに深い放射状のしわが刻まれる。
「でも、俺が何とかしてみせる……絶対に……あきらめたりなんか、しない……」
 力のこもった低い声で唸る。それは、自分自身に対する決意の言葉だった。

 サイファは寝室の扉を開け、静かに足を進めた。中にはレイチェルがいた。鏡に向かい、ブラシで長い金髪をとかしている。サイファに気がつくと、にこりと笑いかけた。サイファも笑顔を返し、ベッドに腰を掛けた。
「ジークと話をしようと思ったんだが、先客がいてね」
「もう機嫌は直ったの?」
 レイチェルは鏡に向かったまま、悪戯っぽく尋ねた。サイファは小さく肩をすくめた。
「少し、大人げなかったね」
「ええ」
 レイチェルは彼に振り返り、にっこりと笑った。
「こんなにむきになったのも久しぶりだな」
 サイファは頭に手をやると、小さくため息をついた。
 レイチェルは鏡に向き直り、再び髪をとかし始めた。
「ジークさんだから、かしら」
 ちらりとサイファに視線を流して言う。
「かもしれない」
 サイファは目を伏せ、ふっと笑った。背中を丸め、膝に両腕をのせると、重々しく口を開いた。
「彼は覚悟を決めている」
 レイチェルは手を止め、ゆっくりと振り返った。サイファは真剣なまなざしを向けていた。固い表情で話を続ける。
「君は反対するかもしれないけれど、私はできるだけのことはしてやりたいと思っている」
「反対なんてしないわ」
 レイチェルは即答した。
「それが最良と思うなら、そのように行動して」
 瞬きもせずサイファを見つめ、凛とした声ではっきりと言った。
「君につらい思いをさせるかもしれない」
 サイファは険しい表情を見せた。
「私はサイファに従うわ。この指輪を嵌めたときに、覚悟は決めたもの」
 レイチェルは左手の薬指に嵌められた細い銀の指輪を、右手でそっと包み込んだ。彼女の透き通った深い蒼色の瞳は、まっすぐにサイファを捉えていた。それが彼女の答えだった。


80. 天使の名を持つ少女

 サイファは呼び鈴を鳴らした。
 中で濁った鐘の音が響いた。
 すぐに、古めかしい重厚な扉が、ギィと音を立てて開いた。中から姿を現したのは、小柄な若い女性だった。肩よりやや長いくらいの黒髪、わずかに茶色がかった黒い瞳。そして、地味な黒いワンピースと白いエプロンを身につけている。どうやらメイドのようだ。
「サイファ様、ですね」
 彼が名乗るより早く、彼女は抑揚のない声で尋ねた。
「ああ」
 サイファは短く返事をした。ズボンのポケットの中に左手を入れる。
「どうぞ、こちらへ」
 メイドは彼を中へ招き入れ、先導した。広い廊下から細い廊下へと進んでいき、突き当たりの扉の前で足を止めた。
 コンコン。
 軽く二度、扉を叩く。
「サイファ様をお連れしました」
「入れ」
 中から低い声が聞こえた。重く、威圧的な響きである。
 メイドは静かに扉を開けた。
 その部屋は書斎だった。広くはないが、小奇麗に片付けられている。微かに、古い本の黴びたような匂いがした。奥にはがっちりとした体格の男が座っていた。アンティークな机に肘をつき、戸口のふたりにじっと視線を送っている。
「フラウ、おまえは下がれ。茶もいらん。しばらく近づくな」
「かしこまりました、ルーファス様」
 メイドは一礼すると、すっと下がり、静かに扉を閉めた。軽い足音が遠ざかり、消えていく。
「すまないな、当主であるおまえを呼びつけてしまって」
 ルーファスは素っ気なく言った。すまないなどと思っていないことは明白だった。
「いえ、長老の命令には逆らえませんから」
 サイファはにっこりと大きく微笑んだ。
 ルーファスはわずかに眉をひそめた。
「まったく、おまえという奴は……。わかっていても口には出さぬ慣わしだ」
「あなたこそ、しらを切らなくても良いのですか」
 サイファは笑顔を保ったまま切り返した。
 長老会はラグランジェ家の重要事項に関する決定権を有している。その存在は当主以外には隠され、個々のメンバーについては当主にさえ知らされない。そのため、メンバーの察しがついても、それについては語らないのが暗黙のルールとなっているのだ。
 ルーファスは顔の前で両手を組み、ため息をついた。
「まあ、今は異常時だ。互いの立場をはっきりさせた方が、都合が良いだろう」
「今日の話のためにも、ですね」
 サイファがここへやってきたのは、話があるとルーファスに呼ばれたからだった。彼の話がどのようなものかは見当がついた。おそらく、アンジェリカのことだろう。正式にラグランジェ家の後継者とするための準備を進めるつもりに違いない。だが、サイファには、彼らの思いどおりにさせるつもりはなかった。
「あなたの話の前に、私の提案を聞いていただけませんか」
 険しいくらいに真面目な顔になり、丁寧な口調で頼んだ。
 ルーファスは鋭い目つきで彼を見上げた。
「良かろう」
 重々しい声で許可を出す。
 サイファは顎をわずかに上げると、口元に微かな笑みをのせた。
「ラグランジェ家を解体しましょう」
 ルーファスの眉がわずかにぴくりと動いた。
「冗談にしては面白みに欠けるな」
 ほとんど表情を変えず、抑えぎみに低音を響かせる。
 サイファはにっこりと微笑んだ。
「純血に拘泥することをやめ、本家筋のみを残して解体すれば、すべての問題が解決する、そう思いませんか」
 そこまで言うと、脇に抱えていた青いファイルを机の上に置いた。ノート数冊分ほどの厚みがある。表紙には何も書かれていない。
 ルーファスはそれを一瞥すると、ギロリとサイファを睨んだ。
「これは何だ」
「ラグランジェ継承に関する提案書です。現状の分析、新しい細則の草案、それを採用した場合の影響予測などをまとめてあります」
「細則の草案だと?」
 声が大きく、きつくなった。それでも、サイファは動じることなく、凛として説明を続けた。
「かいつまんでお話ししますと、基本的には第一子が継承すること、子がなければラグランジェの血を引く近親者を養子に迎え、継承させること、継承者の配偶者はラグランジェ家の者以外でも可とする。ただし、魔導の力を相当に有する者とする——といったところですね」
 ルーファスは身じろぎもせず聞いていた。青い瞳で、睨むようにサイファを見つめる。
「ラグランジェとランカスターの最大の違いは何だ」
「魔導力の有無ですか」
 サイファは面倒くさそうに答えた。ルーファスは自分たちのラグランジェ家と王家であるランカスター家を、何かにつけ比較していた。そして、結論はいつも自分たちの優秀性を示すものだった。サイファにはそれが有意義なこととは思えなかったし、聞き飽きてうんざりもしていた。
「そうだ」
 ルーファスは低く声を落とした。
「ランカスターはその名を守れば良い。ランカスターの名こそが王家の証だからだ。だが、ラグランジェは魔導の力を守らねばならん。ラグランジェの名に力を与えているのは、我々の魔導力だからだ。そして、ラグランジェが二千年もの間、魔導力を失わなかったのは、純血を守ってきたからだ」
 その声は次第に力を帯び、演説めいた口調になっていった。
 サイファは腕を組んで横を向き、ため息まじりに言った。
「だが、それが過ちの始まりでしょう」
「過ちなど何ひとつない」
 ルーファスは間髪を入れずに抗弁した。高圧的に声を張り、サイファを睨み上げる。
「強がりにしか聞こえませんね」
 サイファは肩をすくめた。
「アンジェリカを利用しても、一時凌ぎにしかならない。数世代後には、また同様の問題が起こるはずです」
「その頃には医学が発達しているだろう」
 ルーファスは事も無げに言った。
 サイファは薄笑いを浮かべた。
「遺伝子に手を入れるつもりですか。実に、あなたらしい考えだ」
 横髪を振り乱し、勢いよくルーファスに向き直る。
「だったら、アンジェリカを利用しなくても、それまで待てばいいでしょう」
「それでは間に合わん可能性もある」
 ルーファスはおもむろに立ち上がると、サイファに背を向けた。レースのカーテンを半分ほど開き、ガラス越しに空を見上げる。もう随分と陽が落ち、光は急速に力を失いかけていた。
「アンジェリカ、か……上手い名をつけたものだな」
 空を見上げたまま、独り言のようにつぶやいた。
「我々を破滅から救い、さらなる飛躍をもたらす新たなる血——まさに天からの使いだ」
 後ろで手を組み、ゆっくりと振り返ると、ニッと片側の口端を吊り上げた。
 サイファはにっこりと微笑んで応酬した。
「ラグランジェにとってではなく、私にとっての天使ですよ」
「ある日、不意に舞い降りた、というわけか」
 ルーファスは含み笑いを見せる。
 サイファはうつむいて下唇を噛んだ。ルーファスの云わんとしていることはわかっていた。
「参考までにお聞かせください。いつ、気づかれたのですか」
「あの子が生まれたときだ。証拠はなかったが、最も有りうる推測から導いた結論だ」
 サイファはふっと息を漏らした。
「私の父も、レイチェルの父も、長老会のメンバーですからね。推測に必要な情報を集めるのはわけもなかった、というわけだ」
 ルーファスはカーテンを引き、サイファに向き直った。
「アルフォンスはおまえを殴ってしまったことを、随分と気に病んでいた」
 サイファはにっこりと笑顔を作った。
「あの状況では手を上げるのも無理からぬことです」
「そうだ、嘘をついたおまえが悪い」
 ルーファスは強い語調で責めた。
「しかし、嘘をつかなければ、アンジェリカは生まれていなかったかもしれない」
 サイファは冷静に切り返した。
 ルーファスは冷たく凍りつくような青の瞳で、刺すように彼を睨みつけた。
「……結果的に、おまえには感謝しなければならないようだ」
 抑えた声でそう言うと、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。目を閉じ、背もたれに身を沈める。革がギュッと音を立てた。
「生まれたばかりのアンジェリカを手に掛けようとしたのは、あなた方、長老会ですね」
 サイファは静かに尋ねかけた。
 ルーファスは目蓋を上げた。天井を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「あれは私の独断だ。合意を取りつけていては手遅れになると思ったのだ。そのことは、他のメンバーに相当、非難されたよ」
「なるほど、だからそれ以降、動きがなかったわけですか」
 サイファは得心した。腕を組み、軽く息をつく。
 ルーファスは顔を上げたまま、目を細めた。
「我々の間でも意見が割れていてな。膠着状態が続いていた」
「そこへ、例の論文が出てきた」
 サイファがあとを続けた。
「そうだ、あれで我々の採るべき道は決まった。アンジェリカを後継者にすると」
 ルーファスの声に力がこもった。
 サイファは冷淡にルーファスを見下ろした。
「少々、勝手すぎやしませんか。殺そうとしたり、蔑んだり、散々なことをしておきながら、必要となれば強引に後継者に据えるなど」
「勝手なのはおまえの方だ」
 ルーファスは低く唸り、ギロリと睨めつける。
「子供が家を継ぐのは至極当然のことだ。おまえも、おまえの父も、そして私も、皆、そうやってきた。アンジェリカだけが好き勝手していい道理などない。ましてやラグランジェを解体するなど、愚劣極まる行為だ」
 サイファはふっと笑い、肩をすくめた。
「良い案だと思いますけどね。次第に出生数が減ってきていますし、その面においても無理が生じてきています。このままではいずれ血筋は途絶えますよ。その提案書に詳しくまとめてありますので、あとでゆっくりとご覧ください」
 にっこりとして、机の上の青いファイルを示した。
 ルーファスはフンと鼻を鳴らした。
「期待はせぬことだ。我々はラグランジェの名を形骸化させるつもりはない。このままでは途絶えるというのなら、新たな方策を探すまでだ。純血を保ったままでのな」
「言っていることが矛盾しています」
「アンジェリカのことは薬だと割り切る。我々よりも強い魔導力を持つ、優秀な血だからな」
「自分勝手で都合のいい解釈ですね」
 サイファは冷めた視線を送った。
「互いにな」
 ルーファスは気難しい顔で立ち上がった。戸口の方へ歩いていき、扉の横のスイッチを押す。パチンという音とともに、薄暗くなった部屋に、人工的な白い明かりが満ちた。
「私は、何もおまえたちを苦しめたいわけではない。できれば、幸せになってほしいと思っている」
「それは、ありがたいですね」
 サイファは笑顔で応じた。本心を隠すために表情を操作することには馴れているし、それが得意だという自負もあった。だが、乾いた口から発せられたその声は、少し掠れていた。
 ルーファスはゆっくりと戻り、再び席についた。そして、机の上で両手を組むと、ふっと意味ありげな笑みを浮かべた。
「私の提案は、おまえにとっても悪い話ではないはずだ」
「まずは、聞きましょうか」
 サイファは悠然とした口調で、余裕の態度を装った。
 ルーファスは真剣な面持ちで、まっすぐサイファを見据えた。
「アンジェリカの配偶者については、おまえに決定権を与える。ラグランジェの男子なら誰でも良い。自由に選べ」
「それで譲歩したつもりですか」
 サイファは鼻先で笑った。
 しかし、ルーファスは無視して話を続けた。
「ただし、その配偶者は表向きのものだ。別にもうひとり、事実上の夫を据える。こちらは既に決定していてな」
 サイファは怪訝に表情を曇らせた。話がきな臭くなってきたと思った。そもそも、なぜこのような繁雑なことをする必要があるのかが見えなかった。
 ルーファスは険しい目つきで彼を捉えた。
「おまえだ、サイファ」
 低い声が静かに響いた。
 サイファは目を見開いた。その言葉がずっしりと腹の底に落ち込む。頭の中がぐらりと揺れた。額に汗が滲んだ。
「……な……にを……」
 やっとのことで、それだけの言葉を絞り出す。鼓動が次第に激しくなっていく。全身が脈打っているのがわかる。暴れる心臓が痛く、苦しい。
 ルーファスは淡々と説明を始めた。
「本家筋を途絶えさせるわけにはいかんのでな。それに、今、ラグランジェで最も優秀なのはおまえだ。優れた血統を残すという意味でも、おまえ以外の選択は有り得ない」
「馬鹿な、娘だぞ!」
 サイファは身を乗り出し、両手でバンと机を叩きつけた。ギリ、と奥歯を食いしばり、ルーファスを激しく睨みつける。額から頬に、汗が伝った。
「何の問題もないと思うが」
「問題だらけだ!」
 反射的に噛みつく。
 ルーファスはゆったりとした動作で、机に肘を立てた。
「もちろん、生まれた子は、表向きの配偶者の子ということにしておく。世間的に非難されることもない」
「そういうことを言っているのではない」
 怒りを押し込めた低い声は、微かに震えていた。
 そんなサイファを見て、ルーファスはふっと笑みを漏らした。
「おまえの愛する娘を、誰の手にも渡さずに済むのだぞ?」
 語尾を上げ、挑発するように問いかける。
「私はあの子の父親だ!」
 サイファはカッと頭に血がのぼり、大きな声を張り上げた。机についた手はわななき、その指先は白くなっていた。
 ルーファスは追い打ちを掛ける。
「苦しい強がりだな。素直になれ」
「話にならない」
 サイファは舌打ちをした。くるりと背を向け、大股で歩き出す。そして、乱暴に扉を開けると、そのまま部屋を出ていった。
 ルーファスは何も声を掛けなかった。

 外は薄暗くなっていた。太陽の姿はもう見えない。すでに、空の大半を濃紺が支配している。
 振り切るように屋敷を飛び出したサイファは、冷たい空気を吸い込み、少し落ち着きを取り戻した。それでも、今はただ、この場を離れたいという思いでいっぱいだった。うつむき加減で足早に歩く。金色の髪が、緩やかな風になびき、さらりと揺れた。

「サイファ」
 前方から太い声がした。
 サイファははっとして顔を上げた。そこにいたのはアルフォンスだった。レイチェルの父親である。大きなごつい体に似合わない、上品で可愛らしいクリーム色の紙袋を携えている。
「もう帰るのか。一緒に食べようと思ったんだが」
 そう言って、その紙袋を掲げた。前面に有名なケーキ店のロゴマークが入っていた。
 サイファは何ともいえない複雑な表情を浮かべた。表情を上手く操作することができなかった。そもそも、どういう表情を作ればいいのかさえわからなくなっていた。
「話は、聞いたんだな」
 アルフォンスは真剣な顔になり、重い声を落とした。
「レイチェルに話しづらいのなら、私の方から……」
「お気遣いは無用です」
 サイファはアルフォンスを遮り、突き放すように冷たく言った。
 アルフォンスの顔に陰が落ちた。
「すまない。ずっと君に謝りたい、謝らねばならないと思っていた。それに、言葉では言い尽くせないほど感謝している。君が……」
「そんな必要はありません」
 サイファは毅然としてアルフォンスを見据えた。
「ですが、私たちのことを少しでも思ってくれているのなら、祖父を……ルーファスを説得してください」
 静かにそう言うと、返事を待たず足を進めた。アルフォンスのすぐ横をすれ違う。後ろから呼び止める声が聞こえたが、振り返らなかった。逃げるように、いっそう足を速めた。

 ルーファスの屋敷が見えなくなった頃、サイファはカチャリという小さな音を聞いた。ズボンのポケットの中からだった。はっとして足を止めた。左手をそっとポケットに忍ばせると、奥歯を噛みしめ、深くうなだれた。

「遅かったな。サイファはもう帰ったぞ」
 書斎に入ってきたアルフォンスを一瞥すると、ルーファスは無愛想に言った。
「家の前で会いました」
 アルフォンスは隅に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、どかりと腰を下ろした。ミシミシと嫌な音が部屋に響く。
「随分と怒っていたようです。彼が受け入れる望みは薄いのではないですか」
 ルーファスの表情を横目で窺う。彼は、微かに笑みを浮かべていた。
「いや、良い反応だ。サイファがこれほどまでに狼狽した姿を見せたのは初めてだろう。それだけ揺さぶられたということだ」
 アルフォンスはため息をついた。
「私は複雑な気持ちです。これではレイチェルが……」
「あの女に拒否する権利はない。当然の報いだ」
 ルーファスは冷然と言い放った。
 アルフォンスは押し黙ってうつむいた。何も言い返すことができなかった。

 コンコン。
 扉が軽くノックされた。
「入れ」
 ルーファスは顔を上げて言った。
 ガチャリと扉が開き、メイドが姿を現した。彼女が手にしている銀製のトレイには、二人分のケーキと紅茶が載せられている。ケーキはアルフォンスが持参したものだ。
 彼女は一礼して書斎に入ると、それをルーファスの机の上に置いた。芳醇な甘い匂いがほのかに漂う。彼女は再び一礼すると、すっと下がって部屋を出た。
 アルフォンスはフォークを手に取り、さっそくケーキを食べ始めた。ルーファスはそんな彼に、呆れたような冷めた目を向けた。
「いい年をしてケーキなど、情けない」
「ここのチーズケーキは絶品ですよ」
 アルフォンスは真顔で言った。
 ルーファスはケーキには手をつけずに、紅茶だけを口に運んだ。
「それは?」
 アルフォンスはフォークを持っていない方の手で、机の上の青いファイルを指さした。
「サイファが置いていったものだ。提案書とか言っていたな。下らん。私が受け入れるとでも思ったか」
 ルーファスはティーカップを置き、吐き捨てるように言った。
 アルフォンスはフォークを置き、そのファイルを手に取った。パラパラめくり、ざっと目を走らせながら、要所要所で手を止めじっくりと読む。
「数値については、多少、誇張された感はあるが、良く出来ている」
 最後まで目を通すと、ファイルを閉じ、そっと机の上に置いた。
「ラグランジェ解体か……思い切ったことを考えたものだ。いや、彼は昔から家や血筋に対するこだわりはなかったな」
「愚かな男だ」
 ルーファスは鼻を鳴らした。
 アルフォンスは目を伏せ、難しい顔をした。
「私は……これでも良いのではないかと思う。少なくとも血筋は途絶えない。これ以上、無理を重ねても、我々に未来があるとは思えない。過去の過ちを素直に認め、変わらねばならないのかもしれません」
「馬鹿を言うな」
 ルーファスは迫力ある低音で叱りつけた。
「ラグランジェは最善の方法で優秀な血を守ってきた。その証が我々の存在だ」
「サイファによれば、魔導力は減少するが 70パーセント程度で収束するという予測だ。悪くないと思うが」
 アルフォンスは遠慮がちに意見した。
 ルーファスは鋭くギロリと睨みつけた。
「机上の空論だ。人選に誤りがなかった場合の話だろう。不確定要素も多すぎる。どちらにしろ、ラグランジェの血が薄くなるのは止められまい。すべて外部の者と婚姻した場合、七代後にはラグランジェの血は 1%以下になる。それをラグランジェと言えるのか」
「魔導力を保つことと、純血を守ること、どちらが重要ですか」
「どちらも譲れん」
 アルフォンスはふうと息をついた。
「やはり、あなたを説得するのは無理のようだ」
「愚か者、今ごろわかったのか。何十年の付き合いだ」
 ルーファスは無表情で紅茶を口に運んだ。
「そろそろあなたの切れ味も鈍くなっている頃ではないかと思ったんですよ」
 アルフォンスはしれっとそう言うと、ルーファスの前に置かれたもうひとつのケーキに手を伸ばした。
 ルーファスは片肘を立て、手の甲に顎を載せた。
「この問題が片づくまでは、老け込むわけにはいかん」
「楽しそうですね」
 アルフォンスは口をもぐもぐさせながら、上目遣いでルーファスの表情を窺った。彼は嬉しそうに目を細めていた。
「ああ、サイファがどう出るか、実に楽しみだ」
 その言葉は本心なのだろうと、アルフォンスは直感した。ラグランジェ家の一大事だというのに、それを楽しむなど不謹慎だと思ったが、口には出さなかった。彼はルーファスとは違い、ただ平和的に解決することを願っていた。


81. 絡み合う矛盾

 サイファは王宮の廊下を、早足で歩いていた。人々が行き交う雑踏の中で、自分の靴音だけが際立って聞こえる。まるで、自分ひとりが隔離された空間にいるかのように感じていた。
 彼は足を止めた。ラウルの医務室の前だった。難しい顔で扉を見つめ、きゅっと口を結んだ。
 コンコン——。
 軽く二度、ノックをした。返事を待たずに扉を引き開ける。素早く中に入り、扉を閉めると、背中から倒れ込むようにもたれかかった。がしゃんと派手な音が部屋に響いた。
「何だ」
 机に向かっていたラウルは、顔を上げ、短く詰問した。だが、サイファの返事はなかった。うなだれたまま顔すら見せない。前髪と横髪が陰を作っている。
 サイファは後ろ手で扉を探ると、がちゃりと鍵をかけた。
「どういうつもりだ」
 ラウルは机に手をつき、立ち上がった。大股で彼へと足を進める。ぶつかるほど近くまで体を寄せると、背筋を伸ばして腕を組み、威圧的に睨みつけながら見下ろした。だが、うつむいている彼の表情は窺えない。
「どけ」
 ラウルはサイファの肩を掴もうと手を伸ばした。だが、逆にサイファがその手を掴んで止めた。震えるほどに強く力を込める。
「これは、おまえが受けるはずだったものだ」
 抑えた声でそう言うと、キッとラウルを睨み上げ、勢いよく殴りかかった。右の拳が一直線に伸びる。ラウルは避けることも防ぐこともせず、それを頬で受けた。微動だにしない。ただ、目だけをギロリとサイファに向けた。
 サイファは顔をしかめながら手を引き、その手を軽く振った。
「なんて固い顔だ……」
「説明しろ」
 ラウルは凄みのある低音で唸った。腕を組み、行く手を阻むように立ちはだかる。
「あとでな」
 サイファは彼の脇をすり抜け、医務室の中央へ躍り出た。さらに奥へ進み、ほとんど壁と同化した目立たない扉を開けると、躊躇することなく中へ入っていった。その先はラウルの居宅だった。そのことはサイファも知っているはずである。
 ラウルは彼の勝手な行動に驚き、慌てて後を追った。

 サイファはリビングにいた。腰に手をあて、ぐるりと部屋を見回している。
「いい部屋じゃないか。きれいに片付いている」
「出て行け」
 ラウルは上腕を掴み上げた。サイファはそれを振りほどくと、ラウルに背を向けうなだれた。
「今晩だけでいい、泊めてくれ」
 弱々しく、息を吐くように言葉を落とす。肩が小さく揺れた。
「断る。帰りたくないのなら、魔導省の宿泊施設を使えばいいだろう」
 ラウルは冷たく撥ねつけた。後ろからサイファの肩を掴み、乱暴に引く。彼の体がよろけた。そのまま追い出そうとする。だが、サイファはその手を払いのけると、逆に奥の部屋へと駆け込んだ。すぐに鍵をかけ、扉全体に強い結界を張る。青白い光が、鈍く浮かんで消えた。
 サイファは前髪をくしゃりと掴むと、ふぅと息を吐き、暗い部屋を見渡した。
 そこは寝室だった。大きなベッドの横に、小さなベビーベッドが置かれている。それは、以前、ラウルとともに組み立てたものだった。サイファの表情がわずかに緩んだ。幼子の成長は速い。ルナもそろそろベビーベッドが不要になる頃だろうか。そんなことを考えながら、壁を背に、崩れるように座り込んだ。立てた膝の上に腕をのせ、深くうなだれる。
 扉には、自分の精一杯の力を込めて結界を張った。しかし、ラウルならこのくらい軽々と解除できる。鍵も外から簡単に開けられる構造のものだろう。きっとすぐに入ってくるに違いない。そう思ったし、それを少し期待もしていた。しかし、扉は沈黙を保ったままだった。
 サイファはため息をついた。呆れられたか、諦められたかのどちらかだろう。いや、どちらも同じ意味だ。一抹の寂しさを感じながらも、それならここで一晩じっくりと頭を冷やすことにしようと思った。
 そのとき。
 激しい爆裂音とともに、扉が砕けた。大小多数の破片が勢いよく飛び散る。サイファは目を見張った。とっさに頭の前に手をかざし、身を庇う。いくつもの破片が近くを掠め、いくつかの破片は体に当たった。
 パラパラと軽い音が聞こえる。小さな礫が床を打つ音だ。飛散が落ち着いたようである。サイファはゆっくりと顔を上げた。
 バシャン!
 待ち構えていたかのように水が飛んできた。避ける間もなく顔面から冷水を浴び、全身ずぶ濡れになった。サイファは水を滴らせながら、呆然として前を見た。
 砕けた扉の向こうに、青いバケツを持ったラウルが立っていた。白い雑巾をサイファの顔に投げつけ、空のバケツを乱暴に転がした。
「後始末をしておけ」
 ラウルは無表情でそう言い残すと、外へ出て行った。
 サイファは唖然として大きく瞬きをした。遠くで戸が閉まる音を耳にすると、ふと我にかえった。なぜか不意に笑いがこみ上げてきた。手の甲で顔を拭いながら、肩を揺すって笑った。情けなくて、可笑しくて、たまらなかった。

 数十分後、ラウルは戻ってきた。
 サイファは膝をついて床を拭いていたが、彼を一瞥すると、雑巾をバケツに掛けて立ち上がった。
「とりあえず、破片は一箇所に集めた。床も拭いた。扉は明日、人をよこして修理させるよ」
「少しは頭が冷えたか」
 ラウルは斜めに構え、愛想なく言った。
「ああ、風邪をひきそうだ」
 サイファは肩をすくめた。髪も服も、まだ生乾きだった。
 ラウルは脇に抱えていた紙袋をサイファに投げた。サイファは怪訝な顔で受け取ると、中を覗き込んだ。そこには着替えが入っていた。顔を上げ、ラウルを鋭く睨みつける。
「レイチェルに何を言った」
「言われて困るようなことをするな」
 ラウルは冷ややかに切り返した。サイファはわずかに顔をしかめた。
「おまえがそんなにお節介だとは知らなかった」
 ラウルはため息をつき、腕を組んだ。
「おまえのせいでルナを連れ帰れなくなった。レイチェルに世話を頼むしかない。それには理由が要る」
 あからさまに面倒くさそうな口調で説明をする。サイファは眉をひそめ、じっと彼を見つめた。
「浴室、借りるぞ」
 無反応な横顔に声を掛けると、紙袋を脇に抱え、浴室に向かった。

 サイファは冷えた体を熱いシャワーであたためた。
 本当に風邪をひくかと思った。いや、もしかしたら、もうひいてしまったかもしれない。そのときはラウルにうつしてやる——心の中でそう毒づいた。だが、ラウルが風邪をひくのだろうかという疑問が、ふと頭に浮かんだ。少なくともサイファはそのような姿を見たことがなかったし、話に聞いたこともなかった。

 サイファは部屋着に着替えて浴室から出てきた。ラウルはダイニングでひとり紅茶を飲んでいた。
「勝手にバスタオルを使わせてもらった。あとハンガーも」
 サイファはラウルの隣に座った。疲れたように、軽くため息をつきながら頬杖をつく。ラウルはちらりと彼に目を向けた。
「手を見せろ」
「ん? ああ、これか?」
 サイファは右手の甲を見た。小指の付け根あたりから、斜めに赤い線が入っている。ラウルが扉を蹴り壊したとき、その破片が当たってついた傷だ。すでに血は止まっている。それほど深いものではない。だが、傷のまわりが少し赤く腫れていた。
 ラウルは立ち上がり、長髪を揺らしながら、隣の部屋へ入っていった。そして、すぐに小さな救急箱を持って戻ってきた。それをテーブルの上に置き、椅子に腰を下ろすと、サイファの右手をとり、手際よく消毒を始めた。サイファは痛みに顔をしかめた。
「ここだけか」
 ラウルは手を動かしながら尋ねた。サイファは不機嫌な顔で、頬杖をついた。
「全身、調べるか」
 ラウルは取り合わなかった。薬を塗りながら話を変えた。
「情けないな、あれしきのことで傷を作るなど」
「まさか結界ごと扉を蹴破るなんて思わないよ、普通は」
 サイファはふてくされて言った。
「おまえは昔から、予想外に攻撃を受けたときの対処がなっていない。致命的な弱点だ」
 ラウルは大きめの絆創膏を貼った。サイファはひったくるように手を引き抜いた。
「もういちど、おまえに教えを請おうかな」
「見込みはない、やめておけ」
 ラウルは素っ気なく言った。
「冗談だ。真に受けないでくれ」
 サイファは肩をすくめ苦笑した。ラウルは無表情で、救急箱を片付けた。

「落ち着いたら腹が空いてきたな。何か作ってくれるんだろう?」
 サイファは台所を眺めながら言った。使い込まれているが、きれいに片付いている。乳児用と思われる食器もいくつか目についた。
「外で食ってこい」
 ラウルは冷たく一蹴した。サイファには目もくれず、紅茶を口に運ぶ。
「そんな気分じゃないんだ」
「だったら、何か出前をとれ」
 サイファは微かに笑って頬杖をついた。
「おまえの手料理を食べてみたいんだよ。ずっと、そう思っていた。作ってくれるんだろう? 私にも」
 私にも、のところに力を込めて言うと、まっすぐに視線を送り、ニヤリと意味ありげに笑った。
 ラウルは刺すような鋭い目をサイファに向けた。
「贅沢は言わない。簡単なものでいいよ」
 サイファは一転して軽い調子になった。明るく笑いながら言う。
 ラウルはじっと睨みつけていたが、やがて立ち上がり、流し台へ向かった。観念して何かを作り始めたようだ。サイファはにこにこして、その後ろ姿を眺めた。

 ラウルは皿をふたつ手にして戻ってきた。ふたつとも同じスパゲティだった。細やかな霧のような湯気が立ち上っている。それを机の上に置くと、力任せに椅子を引き、どかりと座った。サイファに振り向くこともなく、無言のまま食べ始めた。
 サイファは皿を引き寄せた。スパゲティをフォークに巻きつけ、口に運ぶ。ゆっくりと噛みしめ、じっくりと味わう。
「……美味いよ」
 微かに笑ってうつむくと、ぽつりとつぶやいた。

 サイファが食べ終わると、ラウルは待ち構えていたかのように立ち上がり、後片付けを始めた。湯を沸かしながら、手慣れた様子で皿や鍋を洗う。
「ルーファスに呼ばれたんだ」
 サイファは静かに口を切った。机の上に、組んだ手をのせる。ラウルは動きを止めることなく皿を洗っていた。水の流れる音が続く。聞いているのかいないのかわからなかったが、サイファは話を続けた。
「アンジェリカについての通告だったよ」
 ラウルは皿洗いを終え、水を止めた。そして、沸騰したやかんの火を止めると、紅茶を淹れ始めた。相変わらず、聞いているのかどうか判別できない態度である。だが、聞こえていないということはないだろう。
「長老会は、私を彼女の事実上の夫にすると決定したそうだ」
 サイファはさらりと言った。まるで他人事のようだった。
 ラウルの手が一瞬、止まった。
「どういうことだ」
 背を向けたまま静かに尋ねた。サイファは表情を変えず、落ち着いた声で答える。
「私に、彼女と子をなせと……」
 ラウルはティーカップをふたつ持って戻ってきた。サイファの隣に腰を下ろすと、ティーカップのひとつを彼の前に差し出した。
「了承したのか」
「逃げてきた」
 サイファはうつむいて答えた。ティーカップを手にとり、紅茶を口に運ぶ。そして、小さく息をついた。
「怖かったんだ。馬鹿なと思いつつ、気持ちが傾いていた」
 サイファは再び机の上で手を組んだ。
「彼女を意に添わない男にやるくらいなら、と考えてしまったよ。それだけじゃない。それ以上に、積極的に惹かれたことがあった。抗いがたいほどの魅力のあるもの……」
 その手が微かに震えた。
「子供だ」
 ぽつりと言葉を落とす。ラウルは無表情で、彼に視線を流した。
「だって、奇跡だろう?」
 サイファは声を張り、勢いよく振り向いた。横髪が揺れ、ぱさりと頬を打つ。
「成し得ないはずのことが実現するんだ。私たち三人の絆の完成形だよ。ラグランジェ家にとっても、私個人にとっても、最高の存在となるはずだ」
 右手を広げながら、そう力説した。だが、すぐに強気な表情は崩れた。自嘲ぎみに笑うと、額を掴むように押さえた。
「私は狂っている。自分でも呆れるよ。ルーファスがここまで知っていたのかは不明だが、まったく、上手い策を考えたものだ」
「わからないな」
 ラウルがようやく口を開いた。
「おまえは私を憎んでいるのではないのか」
「ラウル、おまえ……何もわかっていなかったのか」
 サイファは額に手を置いたまま、背中を丸めて笑った。ラウルは眉をひそめ、彼を睨んだ。サイファは笑うのをやめ、背もたれに寄りかかり、目を細めて天井を見つめた。
「ときどき腹立たしく憎らしく思うことはあっても、結局はおまえのことが好きなんだ。子供の頃、そう言ったことがあっただろう? その気持ちは、今もずっと変わらない」
 柔らかい声でそう言うと、ふっと笑って目を閉じた。
「家庭教師としておまえに来てもらって、いろいろな話を聞いたな。新しい魔導も教えてもらった。毎日、世界が広がっていくように感じたよ。あの頃はただ無邪気に楽しかった」
「家庭教師としての役割を果たしただけだ」
 ラウルはつれなかった。無愛想にそう言うと、ティーカップに手を伸ばした。
「そう言うだろうと思った」
 サイファはにっこりと笑った。
「私にとって、おまえは最高の師であり、兄のような父のような存在、そして、かけがえのない友だ。もっとも、すべて私の一方的な思いにすぎないが」
「話が脱線している」
 ラウルは腕を組んだ。
「そうだな」
 サイファは頬杖をつき、顔を斜めにしてラウルを見つめると、口元を緩めた。
「では、おまえの意見を聞かせてくれ」
「私には関わりのないことだ」
 ラウルは腕を組んだまま、サイファには目も向けずに答える。
「よく平然とそんなことが言えるな」
 サイファは呆れたように言った。
「元はと言えば、おまえの行動が招いた結果だろう。助言のひとつくらい、くれてもいいと思うがな」
「……レイチェルはどうするつもりだ」
 ラウルは前を向いたまま、口だけを動かして尋ねた。サイファは彼の横顔をじっと見つめ、真剣な面持ちで答える。
「彼女は私の決定に従うさ。たとえそれがどんなものだとしても」
 ラウルはわずかに振り向き、横目で睨みつけた。組んだ腕の中で、こぶしを握りしめる。
 サイファは顎を引き、負けじと強い視線を返した。
「言いたいことがあるなら、口に出して言ったらどうだ」
 しかし、ラウルは口を開かなかった。サイファはさらに挑発を続ける。
「私は利用できるものは何でも利用する。必要とあれば、負い目を盾に優位に立つことも辞さない。相手が誰であろうとな。そのことは、おまえがいちばん知っているはずだ」
「おまえがそういう人間だということは知っている。だが……」
 ラウルはいったん言葉を切った。奥歯を噛みしめ、わずかに眉をしかめる。
「レイチェルだけは大切にすると思っていた」
 低く抑えた声で言った。
 サイファは微かに笑みを漏らした。
「ああ、とても大切だよ」
 涼しい声で答える。
「彼女がこの世に生を受けたときからずっと、変わらずに愛情を注いできた。私なりに全力で守ってきた。そして、これからも……」
 ゆっくりと目を伏せていく。そして、祈るように両手を組むと、その上に額をのせた。
「だが、今、気持ちが揺らいでいるんだ。彼女を悲しませる奴は許さないと思いつつ、私自身がそういう決定をしてしまうかもしれない。いや、今回だけじゃない。あのときだってそうだった。彼女の気持ちも聞かず、私の一方的な決断を押しつけたんだ。もしかしたら、彼女は……」
 そこで言葉を切った。おもむろに顔を上げ、ラウルに振り向く。
「最低だろう?」
 憂いを含んだ瞳で問いかける。ラウルは険しい表情で、激しく睨めつけた。
「私に何を言わせたい」
「無関心でいてほしくないだけさ。どんな非難の言葉でも、何もないよりはずっといい」
「甘えるな」
 ラウルは冷たく突き放した。
「おまえにしか甘えられない」
 サイファは真顔で言った。
 ラウルは大きくため息をついた。
「まだ、頭が冷えていないようだな」
「水責めだけは勘弁してくれ」
 サイファは苦笑した。
「もう寝ろ」
 ラウルは面倒くさそうに言った。
「ああ、その方が良さそうだ」
 サイファは残りの紅茶を一気に流し込んだ。もうすっかり生ぬるくなっていた。カップを机に戻して立ち上がると、扉が壊れたままの寝室へ向かった。
「おまえにとって家族とは何だ」
 背後からラウルの声が聞こえた。サイファは目を大きくして足を止めた。ゆっくりと振り返る。
「今まで何のために守ってきた」
 ラウルは背を向けたまま、再び問いかけた。
 サイファは目を閉じ、ふっと息を漏らすと、再び寝室へと足を進めた。

 あたたかい——。
 サイファはぼんやりと目を覚ました。カーテンの隙間から射し込む光が、顔に当たっていた。眩しさに思わず目を細める。
 ここは——。
 手をかざして光を遮りながら、あたりを見回した。見知らぬ天井、見知らぬカーテン、懐かしい匂い、ベビーベッド、壊れた扉の破片、手の甲の絆創膏……。
 そうだ、ここはラウルの寝室——。
 きのうの出来事が、一気に頭に蘇った。
 サイファは体を起こした。顔を上げ、時計を探す。掛時計の針は、いつも起きる時間よりも前を指していた。寝過ごしたわけではない。安堵してほっと息をついた。
 扉のない入口からは、人工的な光が微かに漏れ入っていた。ダイニングからのようだ。サイファはベッドを降り、引き寄せられるように歩いていった。
 そこは蛍光灯の明かりで満ちていた。その下で、ラウルは紙の束に囲まれていた。生徒たちのレポートらしい。ペンを片手に読み進めている。
「おはよう」
 サイファは微笑んで挨拶をした。
「ああ」
 ラウルはレポートに目を落としたまま、気のない返事をした。
「もしかして、一晩中、起きていたのか」
 サイファはラウルの向かいに座った。目の前のレポートを手にとり、頬杖をつきながらパラパラとめくる。ラウルはサイファの手からレポートを奪い返した。
「寝る場所がない」
「ソファがあるだろう」
 サイファは平然と言った。ラウルは眉をひそめて睨みつけた。しかし、サイファはまるで意に介していないようだった。
「おまえのベッド、寝心地が良くないな。マットレスが古いんじゃないのか」
「人のベッドを占領しておいて言うセリフか」
 ラウルはため息まじりに言った。そんな彼を見て、サイファはニコニコとしていた。
「少しは落ち着いたか」
 ラウルは再びレポートに目を落として言った。サイファは肩をすくめた。
「きのうのことを思い返すと恥ずかしいな」
「まるで子供だ」
「大目に見てくれ。まだ三十数年しか生きていないヒヨッコだからな」
 上目遣いにラウルを見て、ニッと笑う。ラウルは下を向いたまま、わずかに顔をしかめた。
「どうするか、決めたのか」
「ジークに頑張ってもらうことにしたよ」
 サイファはさらりと答えた。ラウルは顔を上げた。険しい表情だった。
「何をさせるつもりだ」
「それは彼自身に考えてもらう。彼が無茶をしても、アンジェリカには危害は及ばないだろうからね。思う存分、暴れてもらうさ」
 サイファの口調は、どこか楽しそうだった。
「あいつには無理だ」
 ラウルはペラリとレポートをめくった。
「気楽に見守るよ。どちらに転んでも、私には悪い話ではないからね。ジークの力が及ばなかったときのことを考えると、私は表立って動かない方がいいだろうな」
 ラウルはひと睨みしただけで、何も言わなかった。
「最低だと思っているか」
「ああ」
「それはどうも」
 サイファはにっこりと微笑んだ。そして、机の上に置いてあったペンを手にとると、指でくるりと回した。
「私のやり方が気に入らないのなら、自分で行動を起こせばいい。最低なのは、傍観者を決め込んでいるおまえも同じさ」
 そう言うと、ニッと挑むように笑い、ペンをラウルの額に突きつけた。彼は無表情のままだった。
「さ、朝食の時間だ」
 サイファは軽い調子で言うと、机の上で腕を組んだ。
「もう帰れ」
 ラウルは苛ついた様子で命令した。しかし、サイファはそれに従うつもりなど微塵もなさそうだった。ニコニコしながらラウルを見ている。
「今朝はコーヒーが飲みたい気分だな。ブラックで頼むよ。インスタントは駄目だからな」
 ラウルは呆れ果てて、何も言い返す気になれなかった。下手に言い返しても、よけいに疲れるだけだと悟ったのだ。黙って立ち上がると、レポートを脇に置き、台所へと向かった。


82. 決意のゆびきり

 キーン、コーン——。
 終業を告げるチャイムが鳴った。
「今日はここまでだ」
 ラウルは教本を閉じ、脇に抱えた。
「このレポートの提出期限は明日だ。忘れるな」
 生徒たちを鋭く見まわしてそう言うと、大きな足取りで教壇を降り、勢いよく扉を開けた。
「やあ、昨晩はどうも」
 そこにはサイファが待ち構えていた。軽く右手を上げ、にこやかにラウルを見上げている。ラウルは眉をひそめて睨んだ。
「何の用だ」
「おかげさまで風邪ぎみだよ。どうにも仕事に身が入らなくてね」
 ラウルは無言でポケットを探った。小さな白い紙包みをふたつ取り出すと、サイファに手渡した。
「ずいぶんと用意がいいんだな。まさか毒じゃないだろうな」
 サイファはその紙包みを指でつまみ、透かすように高く掲げた。
「こういう用件なら医務室に来い」
 ラウルは苛ついて言った。
 ふたりの会話はクラス中の注目を集めていた。終業後にしてはいつになく静かである。アンジェリカとジークも驚いたように前扉のふたりに目を向けていた。
「いや、おまえに用があるわけじゃない」
 サイファはラウルの肩をポンと叩くと、教室の中へと足を進めた。そして、軽く右手を上げ、にっこりと笑う。
「やあ」
 それはジークに向けられたものだった。ジークは席に着いたまま、不安そうな面持ちで会釈した。
「お父さん、こんなところでラウルと喧嘩しないで。恥ずかしいわ」
 ジークの隣に立っていたアンジェリカは、顔を赤らめながら口をとがらせ、上目遣いで父親を見た。
「喧嘩じゃないよ」
 サイファは優しく微笑み、彼女の頭に手をのせた。
「……ねぇ、お父さん」
「何だい?」
「ジークに何の用なの?」
 アンジェリカは心配そうに尋ねた。黒い瞳がわずかに揺れた。
「たいしたことじゃないよ」
 サイファは笑顔を保ったまま軽く答えた。
「ごまかさないで!」
 アンジェリカは語気を強めて言い返した。真剣なまなざしで、睨むようにサイファを見つめている。一歩も引くつもりはないようだ。
 サイファはふっと表情を緩めた。彼女の横髪に手を伸ばし、撫でるように後ろに流す。そして、あらわになった耳元にそっと顔を近づけた。
「約束は守るから」
 柔らかい声でそう耳打ちをした。それはアンジェリカの疑念に対する答えそのものだった。しかし、それでもまだ彼女の心は晴れなかった。訝しげに顔を曇らせている。サイファは安心させるように大きくにっこりと笑って見せた。
「そう時間はかからないよ。アンジェリカとリックは図書室で待っていてくれ。終わったらジークを行かせるから」
「はい」
 リックは素直に返事をした。だが、アンジェリカは複雑な表情で口を結んだままだった。
「ジーク、行こうか」
「あ、はい」
 ジークは急いで鞄の中に教本を放り込み、サイファのあとについていった。

 ふたりは連れ立って教室を出た。終業直後の廊下は、いつもと変わらず賑やかだった。話し声や靴音、扉の開閉などの雑多な音が交じり合っている。ガラス窓から射し込む光は、だいぶ柔らかくなっているものの、まだ色づいてはいない。
 ラウルはまだ扉の近くに留まっていた。壁にもたれかかり、険しい顔でサイファを睨みつける。だが、サイファは余裕の微笑を返した。
「それじゃあな、先生」
 涼やかな声でそう言うと、立ち止まることなく颯爽と通り過ぎた。ジークはラウルを気にしながらも、遅れないよう足を速めた。
「サイファには深く関わるな」
 背後からラウルの声が聞こえた。ジークははっとして振り返った。ラウルは壁にもたれたまま、無表情でジークに視線を流していた。しかし、目が合うと途端に背を向けた。焦茶色の長髪が大きく波を打った。そのまま早足で立ち去っていく。
「ジーク」
 サイファは足を止め、呼びかけた。ジークは慌てて前に向き直った。後ろ髪を引かれたが、それを振り切り、再びサイファについて歩き始めた。

「アンジェリカ、どうしたの?」
「ええ……」
 リックの問いかけに、アンジェリカは曖昧に返事をした。心ここにあらずという感じである。眉根を寄せ、じっと考え込んでいる。
「図書室、行こうよ」
「ええ……」
 サイファはあのことをジークに告げるつもりではないか、自分が本家を継ぐと決めたあのことを——アンジェリカはそう疑っていた。サイファはジークには知らせないと約束してくれた。今日も約束を守ると言ってくれた。しかし、だとしたら、いったいジークに何の用があるというのだろうか。後ろめたいことがないのなら教えてくれればいい。なのに、ごまかして隠しているのが怪しい。やはり、サイファは嘘をついているのかもしれない。
 アンジェリカは思考を止めた。疲れたようにため息をつく。こんなにも疑り深い自分が嫌になった。自分の父親くらい、どうして素直に信じられないのだろう。
「ねぇ、アンジェリカ?」
 リックは心配そうに覗き込んだ。あまりにも上の空なので、肩を揺すってみようか迷った。
 ——お父さんのこと、信じるわ。
 アンジェリカは自分の気持ちを決めた。顔を上げると、にっこりとリックに微笑んだ。
「行きましょう、図書室」
 ようやく返ってきたまともな反応に、リックは安堵しながら頷いた。

 ジークが連れてこられたのは、薄暗い部屋だった。ただでさえあまり広くないにも拘らず、ロッカーや段ボール箱が多く、また、乱雑に取りとめなく物が散らばっていて、人が立てる場所はますます少なくなっていた。わずかに埃っぽく感じる。倉庫だろうか、とジークは思った。
 サイファはロッカーのひとつを開け、ハンガーに掛かった服を取り出した。それは濃青色の上下だった。サイファが身に着けている魔導省の制服と同じもののようだ。
「君の制服だよ」
「えっ?」
 ジークは素っ頓狂な声を上げた。サイファはにっこりと笑った。
「背格好は私と同じくらいだから、おそらくこれで大丈夫だろう。着てみてくれるか。合わなければ調整するか取り替えるかするから」
 そう言いながら、押しつけるようにそれを渡し、ふたりの間に仕切りのカーテンを引いた。
 ジークはとまどいながら、腕の中の制服を眺めた。
「ずいぶんと早いんですね。まだ何ヶ月も先なのに」
「その間に成長したら、ちゃんと取り替えてあげるよ」
 薄いクリーム色のカーテンの向こうから、冗談めいた声が返ってきた。確かに、もうそれほど成長するような年齢でもない。ジークは苦笑しながら着替え始めた。

「実は、これは単なる口実でね」
 サイファは静かに切り出した。
 ジークは手を止めた。仕切りのカーテンに目を向ける。サイファの影が薄く映っているのが見えた。腕を組んで、壁にもたれかかっているようだ。表情を窺えないのがもどかしい。
「本当は、君に話しておきたいことがあって来てもらったんだ」
「何ですか?」
 ジークはカーテンを開けた。まだ上着を脱いだだけの状態だ。不思議そうな顔でサイファを見ている。
 サイファはそんな彼を見て、にっこりと微笑んだ。
「着替えをしながら話そう」
「あ、はい」
 ジークはカーテンを閉め、言われるままに着替えの続きを始めた。
「ジーク」
「はい」
「アンジェリカのことは好きか?」
 不意打ちにも近い、唐突の質問だった。ジークの心臓は大きく打った。痛いくらいに強く膨張と収縮を繰り返す。頬が火照り、額に汗がにじんだ。しかし、迷いはなかった。
「はい、好きです」
 噛みしめるように答える。
「ありがとう」
 サイファの声は優しかった。だが、次の瞬間には、鋭く険しいものに変わっていた。
「これから話すことは、アンジェリカに口止めされている」
 ジークの顔から熱が引いた。何か、嫌な予感がした。
「だが、やはり君に知らせないわけにはいかないと思ってね」
 サイファは淡々と話を続ける。
「アンジェリカの前では知らないふりをしてほしい。出来るか?」
 ジークは難しい顔で考え込んだ。アンジェリカが口止めしている話を聞くことは、彼女を裏切ることにならないだろうか——そんな疑問が頭をもたげた。断ろうか迷った。だが、話の内容は気になる。サイファの口調からすると、相当に重要なことのようだ。口止めされていることをあえて話すのは、それなりの理由があるからに違いない。聞かなければ後悔するかもしれない。
「……はい」
 迷ったすえ、低い声で返事をした。知らないふりなどという器用なことができるか自信はなかったが、話を聞くためには肯定するしかなかった。
「くれぐれも頼むぞ」
 カーテンに映ったサイファの影が少しだけ動いた。
「では、話そう」
 ジークは固唾を呑んだ。サイファは表情を引き締め、ゆっくりと口を開いた。
「アンジェリカはラグランジェの人間と婚姻し、ラグランジェ本家を継ぐ。彼女自身がルーファスとそう約束した。彼女が自由でいられるのはアカデミーを卒業するまでだ。それ以降は君と会うことも敵わないだろう」
「……えっ?」
 ジークはすぐにはその話を理解できなかった。いや、頭が理解することを拒絶したのかもしれない。鼓動が早鐘のように打っていた。頭の中が強く脈打っていた。汗が頬を伝った。そして、ようやく理解が追いついた。
「そ、んな……嘘だ!!」
 ジークはカーテンを引きちぎらんばかりの勢いで開け、叫びながら飛び出した。まだ着替えはほとんど進んでいない。上半身の服を脱いだところのようだった。
 サイファは無表情で彼を見た。
「いや……あの……冗談、ですよね?」
 冷めた視線を向けられ、ジークは途端に萎縮した。しどろもどろになりながら、自分のきつい言葉を取り繕うように尋ね直した。
「本当だよ」
 サイファは素っ気なく言った。
「どうしてだと思う?」
「……わかりません」
 ジークは唇を噛み締めうつむいた。本当に見当もつかなかった。
「君のためだよ」
「え……?」
 ジークは大きく目を見開いた。サイファは彼の瞳を奥まで覗き込むように見つめた。
「君を助けるために、アンジェリカはその条件を呑んだんだ」
「俺を、助ける……?」
 ジークは眉をしかめて考え込んだ。そして、はっとして顔を上げた。
「まさか、あのとき?!」
「そう、君がルーファスの家で騒ぎを起こしたときだよ。おかしいと思わなかったか? すぐに釈放されて」
 サイファはじっとジークを見据えて言った。ジークは責められているように感じた。確かにあのとき不思議に思った。なのに、なぜ気がつかなかったのだろうか。なぜ深く考えなかったのだろうか。
「俺のせいで……」
 ジークは歯を食いしばり、こぶしを強く握りしめた。爪が食い込んでいたが、痛みなど気にならなかった。
「俺が……俺が何とかします。俺がやめさせます!」
 思いつめた表情でサイファに詰め寄り、懸命に訴える。そんな彼を、サイファは右手で制した。
「いつまでも裸でいると、君も風邪をひくぞ。着替えながら話そう」
「……はい」
 ジークは勢いを削がれ、肩を落としてカーテンの向こうに戻った。ゆっくりカーテンを閉めると、真新しい白いシャツを手に取った。
「君は何とかすると言ったが、いったい何をするつもりだ?」
 サイファの落ち着いた声が背後から聞こえた。ジークは眉根を寄せた。
「それは……これから考えます」
「勝てると思うか」
「やってみないとわからないです」
 ジークはシャツの袖に、乱暴に腕を通した。こんな返答しかできない自分が、無性に腹立たしかった。何とかする——今まで何度もそう思ったのに、具体的に何をすべきか未だに見いだせていない。それは、本気で考えていなかったからに他ならない。常に受け身だった。自分の不甲斐なさをあらためて痛感した。
 サイファは目を細めて遠くを見やった。
「君もそろそろ大人になってもらわないとね」
「それは、あきらめろ……ってことですか」
 ジークは湧き上がる激しい感情を抑え、努めて冷静に尋ねた。
「諦めを知ることは大人への入口に過ぎない。何を諦め、何を諦めるべきでないか——それを見極められるのが、本当の大人だ」
 サイファは真摯に答えた。
 ジークは握りこぶしをぐっと胸に押し当てた。
「これは、俺にとって、あきらめてはいけないことです」
「感情に流された結論は、見極めたとはいわない」
 サイファは冷淡に指摘した。ジークは返す言葉がなかった。強く唇を噛み締めた。
「君は、自分のしようとしていることが正しいと思うか」
 サイファは再び問いかけた。ジークは声の方へ向き直った。
「当然です! アンジェリカが望んでもいない、こんなこと……」
 カーテンに映る影に、むきになって答える。カーテンが微かに揺れ、それに沿って影も揺らいだ。
「彼女は望んだよ。自分でそうすることを選んだんだ」
「それは、仕方なく……俺のせいで……」
 ジークの声はみるみる沈んでいった。
「家のために望まない婚姻に身を委ねるなど、そうめずらしい話でもない。私とレイチェルの婚姻も、そもそもは親どうしが決めたものだ。そうやって家が護られ、伝統が護られ、この国が護られてきたんだ」
「誰かを不幸にしなければ護れないものだったら、無い方がいいです」
 ジークはまっすぐに言った。サイファは小さくふっと笑った。
「君のそういうところは好きだよ。でも、そう簡単にはいかない」
「サイファさんはどうすべきだと思ってるんですか」
「何事も0か1というわけではないからね。どこかで折り合いがつけられることもある。アンジェリカは不幸にはならないよ」
「え?」
 ジークは奇妙な面持ちで眉をひそめた。
「最初こそ寂しい思いをするだろうが、その生活の中で幸福を見つけていくだろう。もしかしたら、君といるよりも大きな幸福を得られるかもしれない」
「それって、どういう……」
 ジークの顔がこわばった。
「君が思うほど、人も世界も単純ではないということさ。手は動かしているか?」
「あ、いえ……」
 ジークは慌てて濃青色の上衣を手に取った。さっと袖を通し、前を閉じる。だが、その手は次第に動きを止めていった。
「ひとつ忠告するならば、自分の行うことを正しいなどと思わないことだ」
 サイファは凛然と言った。ジークはゆっくりと顔を上げた。困惑したように目を細める。
「正しいか否かの議論では、君は必ず負ける」
 サイファは厳しく断定した。
「君自身もわかっていると思うが、君は正義のためにやろうとしているわけではない。ただ身勝手な望みを実現させようとしているに過ぎない。そのことを認め、下手な理論武装はやめるべきだ」
 その鋭い指摘は、ジークの胸に深く突き刺さった。サイファは軽く息を継ぐと、幾分、語調を和らげた。
「たとえ正しくなくとも、すべてを敵にまわそうとも、迷わずにやり通すくらいの気概がなければ、君に勝ち目はないよ」
 ジークは少し怯んだ。簡単にいかないことくらい、わかっているつもりだった。だが、もしかしたら、本当は何もわかっていなかったのかもしれない。自分が進もうとしている道は、想像もつかないほど険しいのだろう。しかし——。
「よく考えるんだ。後悔のないようにな」
 サイファは優しく諭すように言った。
「俺はあきらめません」
 ジークは低く落とした声で即答した。それは、どれだけ考えても、何が起ころうとも、変えようのない強い意思だった。
 サイファは口元を緩めた。
「君の決意はわかった。着替えているかい?」
「あっ……」
 ジークはすっかり手が止まっている自分に気がつき、思わず声を上げた。これで何度目だろう。どうも、考えることと手を動かすことが同時にできないようだ。顔を赤らめながら、また着替えにかかった。
「このまま何の取っ掛かりもない状態では、君もどうしていいかわからないだろう。いくつか質問を受け付けるよ。答えられる範囲で私が答えよう。そうでないとフェアじゃないからね」
 ——フェア?
 ジークはその言葉に軽い引っかかりを覚えた。だが、それはすぐに意識の奥深くへ沈んでいった。代わりにサイファに尋ねたいことが、次々と浮上してきた。頭の中で整理をする。
「質問、していいですか?」
 顔を上げ、カーテンに映る影に向かって尋ねる。
「どうぞ」
 サイファは短く答えた。どこか楽しんでいるふうな声音だった。ジークはごくりと唾を飲み、口を開いた。
「アンジェリカの髪と瞳の色は関係ありますか」
「そうだね……」
 サイファは相槌を打つと、一息おいて話を続けた。
「色がどうだからというわけではないけれど、そうなった原因は関係するね」
 ジークは緊張しながら、さらに踏み込む。
「その原因は何ですか」
「それは答えられない質問だ」
 サイファはきっぱりと言った。以前と同じ答えだった。知らないから答えられないのか、知っているが都合が悪いので答えられないのか、どちらだろう——。ジークは後者ではないかと思った。根拠はないが、確信に近いものを持っていた。
「遺伝子……が関係しますか」
 ずっと気になっていた単語をぶつけてみる。
 サイファは少し間をおいてから、静かに答えた。
「いいところを突いてきたね。さあ、次の質問は何だ」
 間髪入れず、次を促す。もうこの話題は終わりにするという意思表示なのだろう。それは、核心に近づいた証左とも取れる。
「これで終わりか?」
「いえっ」
 ジークは慌てて声を上げた。続けて質問を口にしようとして、一瞬、躊躇った。耳元をほんのり赤く染める。
「……あの……アンジェリカの婚約者は誰ですか」
 サイファはくすりと笑った。
「まだ決めていないんだ。ラグランジェの人間なら誰でもいいことになっている。君は誰がいいと思う?」
「えっ?」
 思いもよらない逆質問に、ジークは凍りついたように固まった。
「君に決めてもらってもいいかなと思っているよ」
 サイファの声は穏やかだった。冗談なのか本気なのか、ジークには判別がつかなかった。泣きそうに顔を歪ませ、奥歯を噛みしめる。
「他に質問はあるか?」
 サイファは軽快に尋ねた。ジークはきゅっと眉根を寄せた。
「サイファさんは味方ですか? それとも……」
 そこで言葉を切った。それ以上は口にできなかった。
「私はアンジェリカの幸せを願っている。ラグランジェの人間として生きるのもひとつの道だろう。現状では、それが最も平和的な解決方法だね」
 サイファは淡々と答えた。ジークは黙って彼の言葉を噛みしめた。
「だからといって、君が起こそうとしている行動を阻害したりはしない。君は君で、信じる道を進めばいい」
「わかりました」
 ジークは沈んだ声で答えた。

 シャッ——。
 カーテンが開き、濃青色の制服に身を包んだジークが、サイファの前に姿を現した。うつむき加減に視線を落とし、ふさいだ表情で立ちつくしている。
「いいね、ぴったりだ」
 サイファはにっこりと微笑んだ。すっとジークへ歩み寄ると、外れていた詰襟のフックを掛けた。彼の細い指が首筋に触れ、ジークはどきりとした。思わず顔を横に向ける。そのとき、不意にガラス窓に映った自分の姿が目に入った。
「なんか、変……ですよね。似合ってませんよね」
 弱気につぶやくように尋ねかける。
「すぐに馴染むさ。そうなってもらわないと困るしね」
 サイファは笑いながらジークの肩に手を置いた。ジークにはその手がとてつもなく重く感じられた。この制服が似合う人間になれ、ということをサイファは言っているのだろう。今の自分には、そんな自信はまるでなかった。
 サイファは腕時計に目を落とした。
「今日はこれで終わりだ。アンジェリカたちが待っている。行ってやってくれ」
「はい」
 ジークは再びカーテンを引こうとした。だが、その手をサイファが掴んだ。そして、にっこりと微笑みかける。
「このままだよ」
「え?」
 ジークはきょとんとした。
「このまま図書室へ行って、アンジェリカたちに制服姿を見せるんだ」
「え、どうして……」
「アンジェリカは、私が約束を破るのではないかと疑っているからね。違う理由で君を呼んだと信じさせなければならない」
 サイファは論理的に説明した。
 ジークはうろたえた。サイファの言い分はよくわかったが、問題はそこではない。
「だからって、これで歩きまわるのはまずいんじゃ……まだ働いてもいないのに……」
「誰も気づかないと思うよ。もし何か言われるようなことがあれば、私の名前を出せばいい」
 サイファは事も無げに言った。ジークはもう反論することができなかった。従うしかないと思った。あきらめたように気弱な笑顔を浮かべた。

 ジークはきょろきょろと廊下を見まわしながら外へ出た。幸い、近くには誰もいない。ひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。
「くれぐれも勘づかれないよう頼むよ」
 サイファも部屋を出て、扉を閉めた。
「アンジェリカは君を巻き込みたくないと思っている。そして、残された自由な時間を普通に過ごしたいと願っているんだ。そこを汲んでやってくれ」
「わかりました」
 ジークは一礼すると、鞄を胸元に抱え、顔を伏せるようにうつむきながら戻っていった。

 サイファは彼の背中を見送った。
 ——苛めすぎたかな。
 扉にもたれかかり腕を組むと、小さく息を吐いた。少し頭がぼうっとしている。熱が上がってきたようだ。ポケットに手を入れ、ラウルからもらった薬の存在を確かめた。

 ガラガラガラ——。
 図書室の扉が開いた。アンジェリカとリックは、何気なくそちらに目を向けた。その瞬間、ふたりはぽかんと呆気にとられた。
「ジーク、どうしたのそれ」
 アンジェリカは上から下まで眺めながら尋ねる。
「ああ、なんか制服のサイズ合わせだったみてぇだ」
 ジークはぎこちなく笑った。アンジェリカはため息をつき、白い目を向けた。
「だからって、そのまま来ることないじゃない。いいの? そんな格好で歩きまわっても」
 リックは頬杖をついて笑った。
「アンジェリカに見せたかったんだよ、きっと」
「ば……違うって!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、あたふたと否定した。
「どう? 感想は」
 リックはそんな彼を無視して、楽しそうにアンジェリカにマイクを向ける振りをする。アンジェリカはじっとジークを見ながら、わずかに首を傾げた。
「なんだか不思議な感じ」
 ジークは力なく笑った。
「やっぱ似合わねぇよな」
「そんなことはないわ。見慣れていないだけで、悪くないわよ」
「そうだよね。ジークはいつもラフな格好だから」
 リックも重ねてフォローする。
「自信なさそうにしているからいけないのよ。もっと背筋を伸ばした方がいいと思うわ」
 アンジェリカはにっこり笑いかけた。
 ジークは胸が締めつけられた。彼女の笑顔が痛かった。しかし、それを表情に出すことは許されない。
「おまえら俺のことばっか言ってねぇで、自分のこと考えろよ。就職活動、ちゃんとやってんのか?」
 ごまかすように、無愛想にそう言うと、ふたりの前の席に腰を下ろした。
「僕はもうすぐ決まりそうだよ。たぶん大丈夫だと思う。アンジェリカは?」
 リックは隣の彼女に話を振った。
「うん……私は、いいの」
 アンジェリカは歯切れが悪かった。
「今だと年齢のせいで難しいから、やっぱり四年後にしようかなって」
 取り繕うように付け加えると、肩をすくめて笑った。
「じゃあおまえ、卒業したら何するつもりなんだ」
 ジークは頬杖をつき、目をそらせて尋ねた。
「これから考えるわよ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「気楽なもんだな」
 ジークはぶっきらぼうに言った。アンジェリカは少し顔を曇らせただけで、何も言わずうつむいた。
「ジーク、言い過ぎだよ」
 リックは眉をひそめてたしなめた。
 ジーク自身も十分にわかっていた。きっとリックが思う以上に言い過ぎている。サイファから本当のことを聞いた今の自分なら、彼女の答えが嘘であることも、どんな思いでこの嘘をついているのかも、察することは容易だった。なのに、なぜこんなひどいことを言ってしまったのだろう。
「悪かった」
 ジークは素直に謝った。アンジェリカはうつむいたまま小さく頷いた。その表情は、何かを必死にこらえているように見えた。
「……なぁ」
 ジークは少しためらいながら声を掛けた。慎重に言葉を選びながら紡いでいく。
「俺らの関係は、卒業してもずっと切れることなく続くんだ。そうだろう?」
 アンジェリカはどきりとした。だが、すぐに笑顔を作って見せる。
「なに? どうしたの、急に。もう感傷に浸っているの?」
 軽く、明るく、からかうように問いかけた。しかし、ジークは真顔のままだった。立てた小指を彼女に差し出す。
「えっ?」
「約束」
 アンジェリカは動揺を見せた。
「そんな子供じみたことって、いつもジークが言っているのに……」
「いいだろ、たまには」
 ジークは掲げた小指を、さらに彼女の鼻先に近づけ催促した。アンジェリカは仕方なく、おずおずと小指を出した。ジークはそれに自分の小指をがっちりと絡ませた。
 ——必ず、俺がおまえを自由にしてやるから。もう少しだけ待っててくれ。
 心の中で強く語りかける。
「約束、したからな」
 ジークは真剣な顔で、まっすぐ彼女を見つめた。つないだままの小指は、互いに熱を帯びている。アンジェリカは漆黒の瞳をわずかに潤ませた。小さな口が微かに動いたが、何も言葉は出てこなかった。


83. 優しい研究者

「ごめんなさい、待った? だいぶ遅れちゃった」
 セリカは小走りで駆け寄ると、申しわけなさそうに両手を合わせた。
「いや、呼び出したのは俺の方だし」
 ジークは椅子に座ったまま、淡々と答えた。

 そこはアカデミーの食堂だった。全面ガラス張りの窓から柔らかい光が降り注ぎ、白いテーブルを眩しく照らしている。終業後のため、それほど人も多くなく、落ち着いたざわめきが穏やかに広がっている。

 セリカはジークの向かいに座った。膝の上に鞄を載せると、上目遣いに彼を見た。視線を落としたまま、じっと何かを考え込んでいるように見える。何となく、声を掛けるのが躊躇われた。沈黙が続き、気まずい空気がのしかかる。
 ジークは突然、立ち上がった。
「何か飲むか? 奢る」
 ちらりと彼女に視線を流し、無愛想に尋ねる。
「あ……じゃあ、コーヒー」
「わかった。待ってろ」
 そう言うと、ジーンズのポケットに右手を突っ込み、カウンターへと向かった。
 セリカは身を乗り出して振り返り、訝しげに彼の後ろ姿を眺めた。

 しばらくして、ジークは紙コップをふたつ手にして戻ってきた。ひとつをセリカの前に置き、席に着く。
「リックには内緒にしてきたか?」
「ええ……でも、なんだか悪いことしているようで落ち着かないわ。何なの?」
 セリカは眉をひそめて尋ねた。
「心配かけたくねぇだけだ」
 ジークは素っ気なく答えた。しかし、それは彼女が聞きたかった答えではなかった。不満そうなまなざしを彼に向ける。
 ジークはコーヒーを口に運び、一息つくと話を続けた。
「おまえ、医学科だろ? 遺伝学とかそっち方面に詳しい人を知ってたら、紹介してほしいんだ」
「それって、アンジェリカの関係で?」
 セリカは身を乗り出し、声を低くして尋ねた。
「ああ、少しでも手がかりを見つけねぇと」
 ジークは眉根を寄せうつむいた。そのままじっと考え込む。
 セリカはわずかに顔を曇らせた。
「言っても無駄でしょうけど、あまり深入りしない方が……」
「あいつは自分の人生を懸けて俺を救ってくれたんだ。今度は俺があいつを救う番だ」
 ジークは机の上で手を組み、思いつめたように言った。怖いくらい真剣な顔だった。
 セリカは何か言いたげに彼を見つめていたが、やがてあきらめたように小さく息をついた。
「わかったわ。じゃあ、私の元担任の先生に連絡をとってみる」
「元担任? 医学科は持ち上がりじゃねぇのか?」
 ジークは不思議そうに尋ねた。アカデミーでは4年間ずっと同じ先生がひとつのクラスを受け持つものと思っていた。少なくとも魔導全科ではそうである。
「基本はそうだけど、先生の都合でね。本業の研究が忙しくなって、辞めてしまったの」
「自分勝手なヤツだな」
「仕方ないわよ。予定が変わっちゃうことだってあるでしょう?」
 セリカは肩をすくめた。
「そいつが遺伝の研究をしてるんだな」
 ジークは本題に戻り、念押しした。セリカはこくりと頷いた。
「ええ、第一人者らしいわよ」
「頼む」
 ジークは頭を下げた。セリカは驚いて目を見開いた。彼が自分に頭を下げるなど、想像もしなかった。それだけ必死であるということだろう。
「任せて」
 彼女は力強く答えると、にっこりと笑って見せた。
「それじゃ、また連絡するわね」
「ちょっと待ってくれ」
 立ち上がろうとしたセリカを、ジークが慌てて引き止めた。
「何? まだ何かあるの?」
「ラグランジェ家について聞きてぇんだ」
「そういうことなら、包帯の子に聞いた方がいいんじゃないの?」
 セリカはさらりと言った。
 ジークはぴくりと眉を動かした。ユールベルのことはおそらくリックに聞いたのだろう。どの程度、知っているのかわからなかったが、それを尋ねようとは思わなかった。
「必要ならあいつにも聞く。今はおまえに聞いてるんだ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、腕を組み、椅子にもたれかかった。
 セリカは彼の態度に困惑した。何が彼の気に障ったのかわからなかった。少しびくつきながら答える。
「え、ええ、わかったわ。でも、ここじゃちょっと……」
「外、歩きながらならいいか?」
 ジークは親指で窓の外を指し示した。仏頂面はまだ崩れていない。
「ええ」
 セリカは神妙にこくりと頷いた。
 ジークは残りのコーヒーを一気に流し込み、立ち上がった。

 王宮の外れにある小さな森。緩やかな風が枝葉を揺らし、ざわざわと音を立てている。ふたりはその下の小径を並んで歩いていた。近くに他の人影は見えない。セリカは彼の横顔に視線を流すと、話を切り出した。
「それで、何が聞きたいの?」
「何でもいいんだ。知っていることがあれば、どんなことでも教えてほしい」
 ジークは真摯に尋ねた。まっすぐなまなざしを彼女に向ける。セリカはどぎまぎしながら目をそらした。
「そう言われても困るんだけど……」
 口ごもりながら後ろで手を組み、小さく息をつく。
「だいたい私だって、そんなに詳しいわけじゃないのよ。確かに祖父はラグランジェの人だったけど、そのこともあまり口外してはいけないことになってたし、ましてやラグランジェの内情なんて……。ラグランジェ家を出るとき、誓約書まで書かされたそうよ」
「は? 誓約書?」
 ジークは面食らい、大きく語尾を上げて聞き返した。
「ええ、みんながみんな、ラグランジェの人間どうしで結婚するわけじゃなくてね。祖父のように外部の人間と結婚する人もいるわけ。そのときに、ラグランジェの名を捨てることと、ラグランジェの内情について口外しないことを、誓約書に書かされるのよ。血判まで捺したらしいわよ」
 そう言って、彼女は人差し指を立てて見せた。
「こういうことも、本当は言ってはいけないんだけど」
「そのわりにはペラペラしゃべってんな、おまえ」
 ジークは呆れたように言った。その途端、セリカはカッと顔を上気させた。
「ジークが教えろって言うからじゃない! せっかく力になろうと思ってたのに、もういいわよ、言わないから!」
 逆上して感情的に喚き立てると、ぷいと背を向けアカデミーに戻ろうとした。
 ジークは焦った。何気なく言ったことが、彼女の逆鱗に触れることになるとは思わなかった。今の自分にとって、彼女は唯一の糸口である。失うわけにはいかない。慌てて肩を掴み、引き止める。
「悪い、すまねぇ、悪気はなかったんだ、機嫌直せよ」
 何とかなだめようと、思いつく限りの言葉を並べた。
 セリカは口をとがらせ、ジークの手をじっと睨んだ。彼の手は意外と大きかった。その大きな手を広げ、がっちりと自分の肩を掴んでいる。
「わかったわよ」
 彼女はため息まじりにそう言うと、肩の手を払いのけた。
「それで、何の話だったかしら」
 ジークはほっと息をついた。右手で額の汗を拭いながら、元の話を再開した。
「ラグランジェを出るときの話だ。名を捨てるって言ってただろ。あれ、どういうことだ?」
 セリカは歩きながら、きびきびと答える。
「ラグランジェを名乗ってはいけないってこと。つまり、男性女性にかかわらず、ラグランジェではなく、相手の姓になるわけ」
「そういや、おまえのところもそうだな」
 ジークはぽつりと言った。セリカは前を向いたまま頷いた。
「ええ、だからラグランジェの名を持つ者は、みんな純血ってことになるわね」
「なるほどな」
 ジークは難しい顔で、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。今までぼんやりと理解していたものの輪郭が、はっきりと見えてきたように感じた。
「それだけじゃないの。ラグランジェ家の人間だと吹聴してもいけないし、そのことを利用して商売をしてもいけない。家系図も決してラグランジェ家に繋げてはいけないそうよ」
 セリカは人差し指を立てて、口に当てた。
「ラグランジェであることを隠せとまでは言われないけど、結構それに近いものがあるみたい」
「厳しいな」
 短く落とされたジークの声は固かった。セリカはちらりと彼を見た。
「そうでもしないと、ラグランジェの名と血を守ってこられなかったでしょうね。だからこそ、二千年近く経った今でも、名門として絶大な力を持っているってわけ」
 ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「もしかして、怖じ気づいたのかしら?」
 セリカは悪戯っぽい目を彼に向け、くすりと笑った。
「バカやろう! んなわけねぇだろ!」
 ジークは顔を真っ赤にして言い返した。

 次の休日、ジークはマーティン=ヘイリーの自宅に向かっていた。セリカが紹介してくれた遺伝学の研究者である。彼女に会う約束を取りつけてもらったのだ。ジークはひとりで行くつもりだったが、なぜか彼女もついてきた。
「別におまえまで来ることねぇのに」
「いいじゃない。君もおいでって先生に言われたし、私も久しぶりに先生に会いたかったし」
 セリカは弾んだ声を上げた。青い空を見上げて、にっこりと笑う。
 ジークは疑わしげな視線を彼女に向けた。
「やけに嬉しそうだな」
「え? ちょっと、勘違いしないでよ! お世話になった先生ってだけなんだから」
 セリカは大慌てで弁明した。ジークは面倒くさそうにため息をついた。
「それよりこれ、どっち行けばいいんだよ」
 彼が指差した正面は行き止まりで、道は左右に分かれていた。セリカはハンドバッグから小さな紙切れを取り出した。それを広げ、何度か回しながら眺める。
「えーと、この道の突き当たりね」
 彼女は左の道を指差した。その指を追いかけるように、ジークは左側に目を向ける。そして、その先を見て唖然とした。
「突き当たりって、あれか?」
「……あれみたい、ね」
 そこに建っていたのは、個人の邸宅とは思えないほど立派なものだった。建物は左右に分かれており、向かって右側は角張った小さな平屋、左側は緩やかな曲面で覆われた、ガラス張りの大きな二階建てである。その洗練された近代的な外観には、まるで生活感がない。ふたつの建物は、渡り廊下で繋がっていた。
「研究業って儲かるのか?」
「さぁ……」
 セリカも驚いているようだった。とまどいながら、門柱のボタンを押す。遠くでチャイムが鳴った。
 すぐに小さな建物の方の扉が開いた。白衣を着たひょろりとした男性が、中から姿を現した。まだ二十代後半くらいに見える。助手だろうか、とジークは思った。
「お久しぶりです、先生」
 セリカはその男性ににっこりと微笑みかけた。
「よく来てくれたね」
 男性も門を開きながら微笑み返した。
 どうやら彼がマーティン=ヘンリー本人のようだ。ジークは驚き、まじまじとその男を見た。白衣はくたびれ、くすんだ茶色の髪は、くせ毛なのか寝癖なのか、ところどころ大きくはねている。この冴えない男が名の通った研究者とは、にわかには信じがたい。
「先生のご自宅があまりに立派なので驚きました」
 セリカは感情を込めて言った。
「研究所も兼ねてるんだよ」
 男は照れくさそうにはにかんだ。
「あ、そうだわ。先生、こちらが先輩のジーク=セドラックです」
 セリカは思い出したようにジークを紹介した。ジークは先輩という言葉に違和感を覚えたが、一応、彼女の二学年上なので間違ってはいない。何かむずがゆかったが、あえて否定はしなかった。無言でその先生に一礼する。
「マーティン=ヘイリーです。よろしく」
 男は丁寧な口調で名乗り、痩せて骨張った右手を差し出した。ジークも右手を差し出し、ふたりは軽く握手を交わした。
「さあ、上がって」
 マーティンはにっこり笑って、ふたりを小さい方の建物へ招き入れた。

 三人は応接間に向かっていた。マーティンとセリカが並んで歩き、ジークはその一歩後ろをついていく。セリカはマーティンと思い出話に花を咲かせていた。というよりも、ほとんどセリカが一方的にしゃべっている状態だった。マーティンはにこにこしながら彼女の話を聞き、時折、相槌を打っていた。
 ジークは何気なく窓の外に目を向けた。その途端、目つきを険しくし、足を止めた。
「あっちは研究施設ですか?」
 前を歩くマーティンに、窓の外を指差して尋ねた。その指の先には大きい方の建物があった。
「そうだよ。私たちは研究棟と呼んでいる」
 マーティンは振り返って答えた。ジークは顎を引き、もういちどその建物を窺った。
「……見せて、もらえませんか」
「いいよ」
 マーティンはあっさり承諾した。力んでいたジークは拍子抜けした。絶対に渋られると思った。あの建物から感じたものは気のせいだったのか——? 釈然としない思考を抱えながら、しかめ面で腕を組んだ。
 一方、セリカは顔を輝かせ、無邪気に喜んでいた。
「わぁ、見せてもらえるんですか?」
 胸元で両手を組み、声を弾ませる。
 マーティンは目を細め微笑むと、研究棟へと繋がる廊下に案内した。

「すごい設備! アカデミー以上だわ」
 研究棟に入るなり、セリカは感嘆の声を上げた。くるりと一回転しながら、全体を見渡す。正面には大きな機械、小さな機械、反対側には器具や薬品を収納した棚、実験用と思われる小動物の飼育棚などが並んでいる。そのどれもが真新しい。彼女はマーティンに説明を求めながら、ひとつひとつじっくりと見てまわった。
「先生はおひとりで研究なさってるんですか?」
 彼女は大きな機械を覗き込みながら、背後のマーティンに尋ねかけた。
「まさか、助手をふたり雇ってるよ。今日は休日だからいないけどね」
「どうりできれいに片付いていると思いました」
「相変わらずきついなぁ、君は」
 マーティンは笑いながら言った。セリカも肩をすくめて笑った。だが、ジークはひとり険しい顔でうつむいていた。
「どうしたの? ジーク」
 その様子を目にしたセリカは、気遣わしげに声を掛けた。
「何でもねぇよ」
 ジークはぶっきらぼうに答えた。ポケットに手を突っ込み、取り留めなく歩きまわる。ここへ来たいと言い出したのは彼だが、あまり楽しんでいるふうには見えない。セリカには、彼の考えていることがさっぱりわからなかった。

 一通り研究棟をまわった後、三人は小さい方の建物に戻り、応接間へとやってきた。マーティンはお茶を用意すると言って、隣の台所へ入っていった。残されたふたりは、狭いソファに並んで座り、彼が戻ってくるのを待った。互いに前を向いたまま口を開こうとはしない。重苦しい沈黙が流れる。
「ビンゴかもしれねぇな」
「え?」
 ジークはぽつりと言葉を落としたあと、再び黙り込んでしまった。セリカは不安そうに彼の横顔を窺った。
「たいしたおもてなしは出来ないけど」
 マーティンがマグカップを三つ持って戻ってきた。三つとも形も柄も大きさも違う。それらを机の上に置き、ジークたちの向かいに腰を下ろした。
「お構いなく」
 ジークは素っ気なく言った。
「いただきます」
 セリカはにっこりと微笑んで、マグカップを口に運んだ。中は紅茶だった。濃すぎて少し渋いくらいに感じた。
「それで、私に何が聞きたいんだ? ジーク君」
 マーティンはマグカップ片手に尋ねた。ジークはまっすぐ彼を見据えた。
「どんな研究をしているか教えてもらえますか」
「遺伝関係なら何でも。今はゲノム塩基配列の解読と平行して、遺伝子疾患についての研究をしている」
 マーティンはさらりと答えた。難しい専門用語が並び、ジークにはよくわからなかったが、顔には出さないようにした。
「この分野の研究は、最近ようやく本格的に始まったばかりでね。専門で研究しているのは、今のところ、私を含めて三人だけだ。それだけ未開拓で研究のしがいがあるよ。何かと風当たりは強いけどね」
「風当たりって?」
 セリカは両手でマグカップを持ったまま尋ねた。
「倫理的な問題だ。神の領域だから踏み入るべきでないと主張する人は多い」
 マーティンは感情のない声で答えた。これまでとは違う客観的な口調だった。ジークはそのとき初めて、彼が研究者であることを実感した。
「それでも先生は、医学の発展のために頑張ってるんですよね」
 セリカはにっこりと微笑みかけた。マーティンは薄く笑みを浮かべ、目を伏せた。
「そんなにかっこいいものじゃないよ。ただの知的好奇心かな。だから、研究さえ続けられれば、それでいいんだ」
「そういえば、あの研究はどうなりました?」
 セリカは身を乗り出して尋ねた。
「ほらあれ、えっと、何でしたっけ。アカデミーを辞める前に言ってましたよね。もうすぐ論文が完成するって」
「ああ、あれね……あれは、駄目になったよ」
 マーティンはうつむき、曖昧に笑った。
「え? もう出来かけていたんじゃ……」
「上手くいかないこともあるよ」
「もしかして、圧力をかけられたんですか?」
 突然、ジークが口を挟んだ。
 マーティンははっとして顔を上げた。血の気の失せたその表情からは、あからさまな動揺が見て取れた。
「い……いや、違う。そうじゃない。失敗しただけだ」
「この家、まだ新しいようですけど、いつ建てられたんですか」
 ジークはさらに質問を畳み掛けた。マーティンは眉をひそめた。
「……何が言いたいんだ」
 ジークは答えの代わりに、じっと視線を送った。マーティンの額にじわりと汗がにじんだ。
「まさか君たちは彼らの手のものか? 何を探りにきた?! 私は何も……!」
 机に手をついて身を乗り出し、早口で捲し立てる。額から頬に、汗が伝って落ちた。
「先生? どうしたの? 彼らって……?」
 セリカは困惑し、怪訝に顔を曇らせながら尋ねた。
 彼女の声を耳にし、マーティンははたと我にかえった。肩を上下させ大きく息を吐くと、ソファの背もたれに身を預けた。吹き出た汗を、白衣の袖で拭う。
「すまない、ちょっとした勘違いだ。忘れてくれ……お茶のおかわりを持ってくるよ」
 そう言ってぎこちなく笑いながら、自分の飲んでいたマグカップを掲げて見せた。まだ中身は半分ほど残っていた。

 ジークは、台所に向かうマーティンの背中をじっと見つめた。そして、彼の姿が見えなくなると、隣のセリカにこっそりと耳打ちした。
「おまえ、10分ほどあいつを外に連れ出してくれ」
「え? どういうこと?」
 セリカはジークに振り向いた。だが、顔の近さに驚き、慌てて前に向き直った。
「気になることがあるんだ。調べたい」
 ジークの声は真剣だった。
「気になることって?」
 セリカも声を小さくした。少しうつむき、彼の方に視線を流す。
「研究棟の方に結界を張ってあったところがあっただろ」
「そうなの?」
「……おまえ、魔導の感覚が鈍ってるだろ」
 ジークは呆れたように、冷めた目を向けた。セリカは頬を赤く染めながら、眉をしかめた。
「だって仕方ないじゃない。それで? それが何?」
「怪しいだろ、結界まで張るなんて」
 ジークは当然のように言った。しかし、セリカは首を傾げた。
「研究者だもの。それくらいのもの、あるんじゃない? 未発表の研究に関するものとか。怪しいだなんて決めつけたら、先生に失礼だわ」
「だから、調べてみるって言ってんだよ。さっきのあいつの態度も気になるしな。何もなければそれでいい。だから頼む、10分だけ」
 ジークは思いつめたようにセリカに詰め寄った。すでに近かった顔が、さらに近くなる。
「そんなこと言われたって……」
 セリカは彼から逃げるように顔をそらすと、困ったように口を閉ざし、目を伏せた。

「すまなかったね」
 マーティンはにこやかに戻ってきた。右手のマグカップからは、白い湯気が立ちのぼり、甘い匂いがあたりに広がった。今度はココアだった。ソファに腰を下ろすと、それをひとくち飲んで息をついた。
 セリカは不意にすくっと立ち上がった。
「どうしたんだい?」
 マーティンはマグカップを机に置き、驚いたように彼女を見上げた。
 セリカはとびきりの笑顔を作って見せた。
「素敵なお庭ですね」
 明るい声でそう言うと、窓の方へと小走りで駆けていった。
「そうかい? 何も手入れしてないけど……」
 窓の外の庭は、雑草が伸び放題になっていた。
「あ、えっと……私、人工的な庭より、こういう野性的な方が好きなんですっ」
 セリカは懸命に取り繕った。ジークは無関心を装い、素知らぬ顔で紅茶を口に運んでいたが、内心はヒヤヒヤしていた。ただひたすら上手くいくことを祈っていた。
「ね、先生。いっしょにお庭を歩きませんか?」
 セリカは小首を傾げ、じっと彼の目を見つめて問いかけた。
 マーティンは答えに詰まっていた。複雑な面持ちで目を泳がせる。
「ね? いいでしょう?」
 セリカは少し甘えるように、もう一押しした。
 マーティンはふっと息を漏らした。
「わかったよ」
 そう言って優しく微笑み、腰を上げる。それから、ふと思い出したようにジークに振り向いた。
「あ、君もいっしょに……」
「俺はいいです。草にかぶれやすいんで」
 ジークはマーティンを遮って言った。
 真顔でスケールの小さな嘘をつく彼の姿がおかしくて、セリカは思わず吹き出しそうになった。慌てて下を向き、口元を手で押さえる。
 ジークは本棚を指差した。
「あの辺の本とか、貸してもらえますか? ここで読んでます」
「ああ……」
 マーティンは怪訝な表情を浮かべながらも、言われたとおり本棚から冊子をふたつ取り出し、ジークに手渡した。
「行きましょう、先生」
 セリカは飛びつくように彼の腕をとり、外へと急かした。部屋を出る間際、彼女はちらりと振り返り、こっそりジークにウインクした。

 空の青は濃く、降り注ぐ光は痛いくらいに強かった。むっとする草いきれの中を、ふたりは並んで歩いていた。踏みしめられた雑草が、カサカサパキパキと軽い音を立てている。
 セリカは後ろで手を組み、空を見上げていた。すらりとした細い脚に、細身の白いパンツがよく似合っている。ショートカットの明るい栗毛は、陽の光を受け鮮やかに輝き、長めの前髪は、風になびき微かに揺れている。
 そんな彼女を見て、マーティンは眩しそうに目を細めた。
「いいのかい、彼氏を放っておいて」
「彼氏? 違いますよ。ただの知り合いです」
「ずいぶん親しげに見えたけど……」
「先生、観察力が足りないんじゃないですか?」
 セリカは彼に振り向き、くすりと笑った。マーティンもつられて笑った。
「勉強、頑張っているかい」
「ええ、もちろん」
 セリカは胸を張って答えた。
「すまないね」
「え?」
 マーティンは申しわけなさそうな、儚い笑顔を浮かべた。
「途中で君たちを放り出してしまった」
「仕方ないですよ。研究が忙しくなったんですものね」
 セリカは優しく微笑んだ。
 マーティンは白衣のポケットに手を突っ込み、顔を曇らせうつむいた。
「私がアカデミーの教師を引き受けたのは研究費のため、ただそれだけだったんだ。ひどい話だろう?」
「辞めたのは研究費を調達する目処が立ったから、ですか?」
「ああ、ある人が私の研究を支援したいと申し出てくれてね。この家もその人に建ててもらったんだよ」
「良かったですね」
 セリカは屈託のない笑顔を見せた。マーティンは目を細めた。
「優しいね、君は、本当に……」
 そう言いながら、彼女に振り向く。そのとき、ふと、あることに気がついた。
「あれ、彼がいない」
 セリカの背後はちょうど応接間になっていた。窓ガラス越しに見える部屋の中には、どこにもジークの姿がなかった。机の上には無造作に冊子が置かれている。マーティンは応接間の方へと足を向ける。
「きっとお手洗いに行ってるんですよ」
 セリカは焦った。ちらりと腕時計を見る。まだ5分しか経っていない。
「でも、場所がわからないんじゃ……」
 マーティンは窓ガラスに手をつき、もういちど部屋の中を覗き込む。
「いいじゃないですか、ジークのことなんて」
「しかし……」
「先生!」
 セリカは後ろから抱きついた。
「セリカ……」
「私、先生のことが好きなんです!」
 なんとか引き止めようと、ついそんなことを口走ってしまった。しかし、これで少し持たせられるかもしれない。先生ならきっと、傷つけないように断ろうとするだろう。自分が食い下がれば、5分くらいは——セリカはそう思った。
「本当なのか?」
「え、ええ……」
「夢が叶った」
「え?」
 予想と違う反応に、彼女は狼狽した。彼の体にまわしていた手を放し、一歩、二歩、後ずさる。
 マーティンは背を向けたまま、抑えた声で噛みしめるように言った。
「私も、ずっと、君のことが好きだった」
 う、うそっ——。
 セリカは目を大きく見開き、呆然とした。頭の中がぐらぐらと揺れる。嘘をついて騙した罪悪感、泣きたいほどの謝罪の気持ち、この場から逃れたいという無責任な願い、あと5分の約束——。どう行動すればいいのか、答えは出ない。
「セリカ……」
 マーティンはまっすぐ彼女に向き直ると、優しくその名を呼んだ。そして、肩にそっと手をのせ、濃い蒼色の瞳をじっと覗き込んだ。

 ジークは応接間を抜け出し、研究棟へ来ていた。脇目も振らず、目をつけてあった場所へと向かう。そこはフロアの隅だった。取り立てて何かがあるようには見えない。だが、魔導を使える人間ならば、床の表面に張られた不可視の結界に気付くだろう。
 床には金属がふたつ、並んではめ込まれていた。それらの間に一本、そして、囲むように四方に切れ目が入っていた。金属は引き出すと把手になり、床が開くようになっているものと思われる。中は収納、もしくは地下室といったところだろうか。
 ジークはまず結界を解除することにした。そうしないと、把手に触れることもできない。彼にとっては難しい結界ではなかった。小さく呪文を唱え、そっと結界に手を触れる。その瞬間——。

 ドン!!

 マーティンははっとして振り返った。研究棟の方から、灰白色の煙が薄く上がっていた。ここからは何が起こったのか、確認することができない。彼はセリカを放し、険しい表情で駆け出した。
「あ……待って!」
 セリカは呆然としていたが、我にかえると、慌ててそのあとを追いかけた。走っているうちに、次第に頭が冴えてきた。
 まさか——。
 鼓動が速く強くなっていく。湧き上がる嫌な予感を払うように、きゅっと目をつむり、頭を横に振った。

 ふたりは研究棟へ駆け込んだ。爆発は奥の方で起こったようだ。天井とガラス窓が一部、崩れ落ちている。広い机や大きな機械の陰になっていて、爆発が起こったと思われる部分はよく見えない。急ぎ足で近づく。
 黒く焦げた瓦礫とガラスの破片が、小さな山となっている。その脇で、体を丸めながら倒れている人影が見えた。
「ジーク!!」
 セリカが悲鳴のような声を上げた。駆け寄って抱き起こそうとした。しかし、彼はそれを制止し、自力で起き上がった。
「大丈夫だ。とっさに結界、張ったから」
 彼の体に大きな傷は見当たらなかった。顔と手にいくつかかすり傷がある程度である。セリカはほっと安堵の息をついた。
「トラップか?」
 ジークは少し離れて立っているマーティンに尋ねた。彼は固い顔で頷いた。
「ああ、防犯システムを切らずに結界を解除すると、爆発する仕組みになっている」
「危なすぎるだろ! 死ぬところだったぞ!」
「君はやはり彼らの手のものだったんだな!」
 マーティンはジークを睨んだ。だが、その瞳には怯えの色が浮かんでいた。
 ジークは落ち着いた声で尋ねた。
「彼らってラグランジェ家ってことか?」
「何をとぼけている」
 マーティンは眉をひそめた。額にうっすらと汗が滲んでいる。
「とぼけてねぇよ。俺はそのラグランジェ家のことを調べてるんだ。おまえはラグランジェ家とどんな関係があるんだ」
「か……関係などない」
「おまえこそ、今さら何とぼけてんだよ」
 ジークはマーティンのまわりに結界を張った。四角く、薄青色の光が浮かび上がる。マーティンは驚いてそれに手を伸ばした。だが、光が壁となり通り抜けることは出来なかった。
「何のつもりだ」
「そこで大人しくしてろ。この地下室にあるんだろ、その証拠が」
 ジークは爆発で大きく崩れた穴から、下の地下室に飛び降りた。

 そのフロアには、セリカとマーティンがふたりきりで残された。マーティンはため息をつき、床に座り込んだ。
「先生……あの……」
 セリカは泣きそうな顔で立ち尽くしていた。マーティンはうなだれたまま、寂しそうに笑った。
「私を足止めするための嘘だったんだろう」
「ごめんなさい……」
 セリカはそれ以外の言葉を見つけられなかった。何を言っても、自分を正当化するための言い訳にしかならない。うつむいて唇を噛みしめる。
「馬鹿みたいだったね、ひとりで舞い上がって」
 マーティンはぼそりと言った。そして、視線を上げると、微かに口元を緩めた。
「でも、いい思い出ができたよ。君が忘れるのは自由だが、私に忘れろとは言わないでくれよ」
「先生……」
 セリカは口元に手を添え、目を閉じた。目蓋の内側が熱くなった。

「これだな」
 ジークはクリップで止められたいくつもの紙束を抱えて、地下室から戻ってきた。その表紙は、タイトルと日付が入っていたと思われる部分が黒塗りにされていた。地下室に置いてあったそれらしきものは、これだけだった。他は、埃を被った机や椅子などの大きな家具ばかりである。
「ラグランジェの圧力を受けて、この論文の公表を取りやめた。そして、その代わりに研究の金銭的援助をしてもらうことにした。違うか?」
 ジークは紙束のひとつを掲げて尋ねた。
 マーティンは床に座り込んだまま彼を一瞥すると、小さく笑い、肩をすくめた。
「論文とそれに関係する一切の物は、彼らに渡したことになっている。それらと引き換えに援助をしてくれることになったんでね。だから、それがここにあると知れたら、私は研究を続けられなくなる」
「ジーク……」
 セリカはすがるようにジークを見た。だが、ジークは彼女を相手にしなかった。まっすぐマーティンだけを見据え、質問を続ける。
「この研究とアンジェリカとは、どういう関係があるんですか」
「アンジェリカ? 誰だそれは」
 マーティンは無表情で尋ね返した。ジークは眉をひそめた。
「本当に知らないのか?」
「私は自分の研究をしただけだ。たまたまそれがラグランジェ家にとって都合が悪かった、というだけだろう」
 マーティンは淡々と言った。嘘をついているようには思えない。ジークは難しい顔でうつむくと、じっと考え込んだ。
「悪いですけど、これは借りていきます」
 低く抑えた声でそう言い、紙束を脇に抱える。
「俺、ラグランジェ本家の当主と知り合いなんで、今度はそっちから支援してもらえるように頼んでみます。了承してもらえるかわかりませんけど、ルーファスよりは話せる人だと思うんで……」
「何を言ってるんだ、君は」
 マーティンは奇妙な面持ちでジークを見上げた。
「本当です。ジークはラグランジェ家の当主と知り合いです」
 セリカが援護した。しかし、マーティンの表情は変わらなかった。
「そうじゃない。私の論文を揉み消し、取引を持ちかけてきたのが、そのラグランジェ本家の当主なんだが」
「え?」
 ジークとセリカが同時に声を上げた。マーティンは静かに付け加える。
「サイファ=ヴァルデ=ラグランジェだよ」
 ジークは大きく目を見開いた。抱えていた紙束が、バサバサと床に滑り落ちた。



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