目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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76. 特別な普通の日々

「ただいま」
「お帰りなさい」
 サイファが荘厳な扉を押し開けて声を張ると、レイチェルはパタパタと小走りで出迎えた。いつものように、彼女は愛らしく微笑んでいた。だが、彼の方はいつもと違っていた。顔色が冴えない。レイチェルはコートを受け取りながら、心配そうにじっと覗き込んだ。
「どうしたの? 疲れているみたい」
「いろいろあってね。でも、心配ないよ」
 サイファはにっこり微笑み、彼女の頬に軽く口づけた。
「アンジェリカはいるか?」
 そう尋ねた彼の声は、無意識に硬くなっていた。レイチェルの表情もつられて硬くなった。当惑して、彼を見つめ返す。
「ええ……呼んできましょうか?」
「ああ、頼む」
 サイファは淡々と答えると、応接間へと向かった。

「お父さん?」
 アンジェリカはきょろきょろと見まわしながら、応接間へ入っていった。レイチェルからサイファが呼んでいると聞いてきた。だが、彼の姿は見当たらなかった。ふと、カーテンがはためいていることに気がつき、その方へ足を進めた。カーテンの後ろの大きなガラス窓は全開になっていた。
 外に目を遣ると、サイファの後ろ姿が見えた。まだ濃青色の制服のままだった。ズボンのポケットに片手を掛け、空を見上げているようだ。
 空は半分ほど紺色に塗り替えられていた。地平近くの鮮やかな朱色が、最後の抵抗を見せるかのように、強い存在感を示している。その上を、オレンジ色の雲がゆっくりと流れていく。
 サイファは彼女に気がつくと、にっこり笑って振り返った。
「アンジェリカ、降りておいで。風が気持ちいいよ」
「うん」
 アンジェリカは庭に降り、サイファの隣へ駆けていった。ひんやりした風が、頬を心地よく撫でた。黒髪がさらさらとかすかな音を立てて揺れた。思わず顔がほころんだ。後ろで手を組み、背筋を伸ばすと、大きく深呼吸した。そして、にっこりとして隣の父親に振り向いた。
 だが、彼は、朱い光を正面から受けながら、思いつめた顔で遠くを見つめていた。アンジェリカの胸に不安が湧き上がった。
「お父さん?」
「空の向こう側が見たいと思ってね」
 サイファは穏やかにそう言うと、アンジェリカに微笑んだ。
「空に向こう側なんてあるの?」
「さあね、ラウルがそう言ったんだ」
「本当にあるんだったら、私も見てみたいな」
 アンジェリカは無邪気に笑った。
 サイファは、再び、空に目を向けた。
「ルーファスのところへ行ったのか」
「……ええ」
 アンジェリカも空を見上げた。その顔から笑みは消えていた。
「何を言ったんだ」
「アカデミーを卒業したら、言うとおりにするって」
 サイファは険しい顔で彼女に振り向いた。ルーファスが簡単にジークを釈放させるはずはない。そうしたのは、彼を利用する必要がなくなった——つまり、アンジェリカがルーファスの要求を受け入れたからではないか。それがサイファの推測だった。外れていればいいと思っていた。しかし、彼女の答えは、彼の推測そのものだった。
「何か、考えがあるのか?」
 低く抑えた声で尋ねる。彼女は目を細め、遠くを見つめたまま、抑揚のない声で答えた。
「言葉のままよ。約束は守るわ」
「どういうことかわかっているのか!」
 サイファはつい感情的になった。声を荒げ、詰問する。
 アンジェリカはキッと睨みながら振り向いた。
「わかっているわよ! ラグランジェ家の誰かと結婚して、本家を継げばいいんでしょう?」
 彼女のまなざしには強い決意が表れていた。軽い気持ちで行動したわけではないのだろう。そのことは、サイファにもよくわかった。だからといって、納得できるものではない。
「本当に、それでいいのか」
 重々しく尋ね掛ける。
「もう決めたことよ」
 アンジェリカは素っ気なく答え、再び空を見上げた。
「不幸だなんて思わないで。それはそれで幸せなことかもしれないじゃない。お父さんとお母さんのようになれたら、いうことないわ」
 サイファの胸に小さなとげが刺さった。
「私たちとおまえでは、状況が違う」
「どんな状況でも、幸せになる努力はするわ」
 アンジェリカは大きな漆黒の瞳をサイファに向けた。真剣な面持ちで、まっすぐに彼を見つめる。サイファの鼓動は大きくドクンと打った。返す言葉を見失った。
「私の結婚相手も、お父さんみたいな人だといいんだけど」
 アンジェリカはにっこり笑って、小さく肩をすくめた。いじらしい彼女の笑顔に、サイファの胸は強く締めつけられた。
「ジークには、言ったのか」
 アンジェリカの顔に陰が落ちた。目を伏せ、ぽつりと答える。
「言わないつもり」
「おまえが良くても、彼を傷つけることになるぞ」
「わかっているわ」
 アンジェリカは後ろで手を組み、くるりと背を向けた。短いスカートがふわりと舞った。
「でも、言ったら、きっとまた危ないことをしちゃうから」
「だからといって……」
「それに」
 アンジェリカの凛とした声が、サイファの言葉を遮った。サイファは大人しく口をつぐんだ。目の前の小さな背中を見つめた。彼女はわずかに振り向き、かすかな笑みを浮かべた。
「卒業までは、普通に過ごしたいから」
「普通?」
 サイファは怪訝に尋ね返した。アンジェリカはくるりと体をまわし、彼に向き直った。
「そう、アカデミーで勉強して、ジークやリックと話をして、笑いあって、ときどき喧嘩もして……そんな普通の日々が、私にとっては特別なの」
 そこまで言うと、彼女は急に真剣な顔になった。
「卒業までにそんな思い出をいっぱい作っておきたい。そのためには、ジークに何も言わない方がいいと思うの。確かにひどいと思うけど……私の最後のわがまま、許してほしいな」
 アンジェリカは寂しげな瞳で曖昧に笑った。
「アンジェリカ……」
 サイファは何も言えなくなった。

「ジークさんには、いつ言うつもりなの?」
 ふいに、レイチェルの声が割り込んだ。その声は後ろの窓際からだった。どうやらそこでふたりの会話を聞いていたようだ。
「言わない……言えないわ、きっと」
 アンジェリカはうつむいた。
「駄目、それだけは駄目よ」
 レイチェルは庭に降り、アンジェリカへと足を進めた。怖いくらいに思いつめた顔で、まっすぐに彼女を見つめている。
「ジークさんを傷つけることになる。あなたはそのことに傷つくことになる。ふたりとも、きっとずっと引きずってしまうわ。時が経てば忘れるだろうなんて、思わない方がいい」
「でも、私、わかってもらう自信ないから……」
 アンジェリカはとまどいがちに、弱々しく言葉を落とした。
 レイチェルは優しく彼女の髪を撫でた。
「それでも、あなたが自分の口から伝えなければならないことよ」
 アンジェリカは顔を上げ、すがるように母親を見た。彼女は穏やかな微笑みで、娘を包み込んだ。無言で勇気づける。
「……わかったわ。卒業式の日に伝える」
 アンジェリカは小さく頷き、しっかりした声で答えた。覚悟を決めた彼女の表情には、もう弱さは見られなかった。

 アンジェリカは家の中へ戻り、庭にはサイファとレイチェルが残った。
「すまない」
「え?」
 レイチェルはきょとんとして振り向いた。サイファは眉根を寄せ、つらそうな顔で彼女を見ていた。
「君の口から告げる機会を奪ったのは、私だ」
 重々しく声を落とす。レイチェルは目をつむり、静かに首を横に振った。
「あのときは、ああするしかなかった、そうでしょう? 悪いのは私だもの」
「違う」
 サイファは足を踏み出し、強い調子で否定した。
 レイチェルは後ろで手を組み、空を仰いだ。長い金色の髪が風に揺れ、夕陽を浴びて煌めいた。
「この話はやめましょう。しない約束だったじゃない」
「……ああ」
 サイファは喉の奥から絞り出すように返事をした。その約束をさせたのも、自分だった。

「アンジェリカのことはどうするの?」
 レイチェルは話題を変えた。過ぎ去ったことよりも大事な、いま、最も考えなければならないことだ。
 サイファは表情を引き締めた。
「このままにはしない」
 低い声で鋭く答える。
 レイチェルは視線を落とした。
「もしかしたら、アンジェリカの選択は正しいのかもしれないわ」
 複雑に顔を曇らせながら、小さな声で言った。しかし、サイファの決意は揺らがなかった。腕を組みながら前に歩み出ると、紺色の空を見上げ、目を細めた。
「君もわかっているだろうが、あの子の選択は次善のものだ。一番に望むことではない。だから、私はあきらめないよ。アンジェリカを幸せにするためなら……」
 ふいに、レイチェルは彼の背中に頬をつけ、そっと寄りかかった。
「意地になっているの?」
「いや、アンジェリカのことを大切に思っているだけだよ」
 背中の彼女を安心させるように、サイファは優しく誠実に答えた。
「無茶はしないで」
 レイチェルは静かにそう言うと、彼の体温を感じながら目を閉じた。

 空は抜けるように青かった。鮮やかに色づく緑は、まぶしいくらいに輝いている。アンジェリカは軽い足どりでアカデミーへ向かっていた。
「おはよう」
 校門をくぐったところでジークとリックを見つけ、駆け寄りながら声を掛けた。
「おはよう、アンジェリカ」
 リックはにっこりと微笑んだ。その隣で、ジークは照れくさそうに顔を赤らめ、目を泳がせていた。原因はきのうのことだった。釈放されたときに、安堵して思わず彼女に寄りかかってしまった。あとで考えると、そのことが少し情けなく思えた。
「きのうのこと、お母さんに話したの?」
 アンジェリカは彼の心情を察することなく、無遠慮に覗き込んで尋ねた。彼女の大きな瞳に見つめられ、彼の顔はますます熱を帯びていった。
「あ、ああ……。帰ったらもう知ってた。サイファさんから連絡があったって」
 微妙に視線を外しながら、なんとか冷静に答えを返した。
「お母さんに何か言われた?」
 アンジェリカは気遣わしげに尋ねた。ジークは少し考えて、ぽつりと答えた。
「バカ……ってな」
 アンジェリカはくすりと笑った。ジークもつられて笑った。
 本当は、母親の言葉には続きがあった。
 ——やり方に問題はあったけど、まあよくやったんじゃない? 連れ去られた子を助けようとしたんでしょ?
 ぶっきらぼうだが温かみのあるその言葉に、ジークは涙が出そうになった。そんなこともあり、なんとなく気恥ずかしくて、アンジェリカには続きの言葉は言えなかった。
「これからどうすりゃいいんだろ」
 ジークは足元を見ながら、ため息まじりにつぶやいた。目の前の小石を軽く蹴飛ばした。
「何が?」
 アンジェリカはきょとんとして尋ねた。ジークは顔をしかめ、頭に手をやった。
「あのじいさん、あれで挨拶代わりとか言ってやがったし、今度はどんな手でくるか……」
「もう大丈夫よ、きっと」
 アンジェリカはにっこり微笑んだ。ジークは怪訝に眉をひそめた。
「なんでだよ」
「そんな気がするだけ」
 アンジェリカは青い空に向かって、明るく声を弾ませた。
「根拠のない自信はアテにならないって言ったの、誰だっけな」
 ジークは呆れたように言った。しかし、アンジェリカは笑顔を崩さなかった。
「私の勘はよく当たるのよ」
 屈託なくそう言うと、大きな瞳をくりっとさせ、後ろで手を組み、ジークを覗き込んだ。
「今から悩んでたって仕方ないじゃない。何か起こったら、そのとき考えましょう」
「うん、そうだね」
 リックが横から相槌を打った。
 しかし、ジークは難しい顔をして首を傾げた。彼は、ふたりほど楽観的にはなれなかった。

 三人は校舎に入り、教室へ向かっていた。そのとき、前から歩いてきたレオナルド、ユールベルのふたりと鉢合わせした。ジークとレオナルドは、互いにムッとした表情で睨み合った。ジークはすぐに視線を外し、無視して通り過ぎようとした。だが、レオナルドはジークを見据え、口をひらいた。
「ユールベルから話は聞いた」
 ジークは反射的に足を止めた。話というのは、おとといからきのうにかけてのことだろう。彼女に頼まれ、彼女の弟を救おうとした。簡単にいえば、そういうことになる。彼女がどう説明したのかはわからないが、ジークにとってはどうでもいいことだった。止めた足を再び動かそうとした。そのとき——。
「一応、礼は言っておく」
 レオナルドの口から、思いもよらない言葉が発せられた。ジークは驚いて顔を上げた。ジークだけではなく、アンジェリカとリックも大きく目を見開いている。
 レオナルドは不機嫌な顔で続けた。
「だが、勘違いするな。ユールベルがおまえを頼ったのは、おまえ以外に話せない状況だったからであって、おまえが頼りになるとか、頼もしいとか、頼りたいとか、そんな理由じゃない」
 ジークはうんざりして脱力した。やはりレオナルドはレオナルドだと、妙に納得した。
 ユールベルはレオナルドの隣で、困惑した表情を浮かべていた。
「ねぇ、ユールベル」
「え?」
 アンジェリカはユールベルに声を掛けた。ユールベルはびくりと振り向いた。アンジェリカはにこにこと微笑んでいた。
「今度、ふたりだけで話せないかしら」
「ええ、いいけど……」
「ふたりきりなんてダメだ!」
 ジークは慌てて割り込んだ。ユールベルを信じていないわけではなかったが、ふたりきりにするには漠然とした不安があった。
「おまえ、何を企んでいる?!」
 今度はレオナルドだった。きつい口調でアンジェリカを問いつめた。
「話をするだけよ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「行くぞ」
 レオナルドはユールベルの手を引き、逃げるように大股で歩き出した。
「また連絡するわ」
 アンジェリカはユールベルの背中に声を送った。彼女は振り返って何か言いたげな顔を見せたが、レオナルドは立ち止まらず強引に連れ去った。

「おまえ、何の話をするつもりなんだよ」
 ジークは腕を組み、むすっとしてアンジェリカに振り向いた。まさか、自分の話か——? 仏頂面の後ろで、鼓動が高鳴った。
「ジークのことじゃないから安心して」
 まるで彼の心を見透かしたように、アンジェリカはさらりと答えた。
「別にっ……んなこと……」
 ジークの顔に一気に血がのぼった。とっさに反論しようとする。だが、すぐにトーンダウンし、口ごもっていった。うつむいて腕を組み、困ったように眉をひそめた。
「そうだわ」
 アンジェリカは急に何かを思い出し、目を大きく見開いた。
「ジーク、前に私の手料理を食べたいって言ってたじゃない?」
「いっ、言ってねぇよ!!」
 ジークは焦った。今度は思いきり否定した。確か、それは彼女が言い出したことであって、自分が言った記憶はない。
「何よ、そんなに嫌なの?」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「えっ、あ……い、嫌とは言ってねぇだろ……」
 ジークはきまり悪そうにうつむいた。耳元が赤くなっていく。いつものことながら、すっかり彼女のペースである。少し悔しい思いはあったが、不思議と嫌な気はしない。
「じゃあ、今度、ジークの家に作りに行くわ」
 アンジェリカは顔を輝かせて言った。
「俺んち?!」
 ジークは自分を指さし、素頓狂な声を上げた。アンジェリカはちょこんと首を傾げた。
「だめ?」
「母親にきいてみねぇと……」
 ジークは難しい顔で唸った。断られることはないと思うが、きっと何かとからかわれるだろう。そのことだけが心配だった。
 アンジェリカはにっこり笑った。
「それじゃ、きいておいてね。リックも食べに来てね!」
「いいの? 楽しみだなぁ」
 リックは素直に嬉しそうな声を上げた。自分も誘ってもらえるとは思わなかった。ジークだけというなら、それはそれで構わないと思っていたが、やはり少し寂しさはある。当然のように誘ってくれた彼女に感謝した。もっとも、ジークはふたりきりの方がいいと思っているかもしれないが——。リックは彼の顔色を窺った。
 ジークは眉根を寄せ、考え込んでいた。
 リックは苦笑いした。
 だが、ジークの頭の中は、リックの想像とは掛け離れていた。ジークは、明るく振る舞う彼女を見て、微かな不安を感じていた。無理をしているのではないか、そんなふうに思えた。もしかしたら、責任を感じ、自分を元気づけようとしてくれているのかもしれない。それとも、今だけでも嫌なことを忘れていたいのだろうか。
「ジーク?」
 アンジェリカが目をぱちくりさせて、下から覗き込んだ。
「あまり難しい顔ばかりしてたら、眉間のしわ、取れなくなっちゃうわよ」
「しわなんて寄ってねぇよ」
 そう言いつつも、ジークはこっそり下を向き、人差し指と中指で眉間を伸ばした。

「え? お父さん?!」
 アンジェリカは口に手をあて、息を呑んだ。教室の前で壁に寄りかかっていたのは、彼女の父親のサイファだった。彼は三人に気がつくと、人なつこい笑顔を見せた。
「やあ、きのうは大変だったね」
 壁から体を離すと、軽く右手を上げ、ジークに声を掛けた。ジークは少し驚きながらも、挨拶を返そうとした。だが、そのとき、アンジェリカは彼を庇うように前に飛び出した。あごを引き、上目遣いで父親を睨みながら、声をひそめて問いつめる。
「何をしに来たの?」
「ジークに用があって来たんだよ」
 サイファは優しくなだめるように言った。しかし、彼女は警戒を解かなかった。それどころか、ますます態度を硬化させた。
「だめ!!」
 首を横に振りながら、必死に押し返そうとする。
「どうしたんだよ、アンジェリカ……」
 ジークは彼女の後ろで呆然とつぶやいた。ついさっきまでの楽天的な明るさとは、まるで正反対の挙動である。多少、無理をしているのではないかと思ったが、ここまでの落差を見せられては、さすがに驚く。
 サイファは彼女の細い腕を掴み、引き寄せた。抵抗する彼女を抱きしめ、彼女にだけ聞こえるように耳元でそっと囁いた。
「心配するな。あのことは彼には言わない。アンジェリカの大切な日常は守るよ」
「じゃあ、何の用なの」
 アンジェリカは父親を見上げ、きつい口調で尋ねた。ジークたちにも聞こえる声だった。サイファも小声をやめ、通常の声で答えた。
「上司にジークを連れてくるように言われたんだ」
「どうして」
 アンジェリカはサイファの服をぎゅっと掴み、潤んだ揺れる瞳を彼に向けた。
 サイファは申しわけなさそうに肩をすくめた。
「私にもわからないんだ」
「そんな……」
「彼のことは守るよ。信じてくれるかい?」
 アンジェリカは不安そうな顔のまま、かすかに頷いた。
 サイファはにっこりとして、彼女の頭に手をのせた。
「そういうわけで、一緒に来てくれるか? ジーク」
「でも、これから授業が……」
 ジークは嫌な予感がして腰が引けた。とっさにその場しのぎの言いわけを口にする。
 サイファは愛想よく微笑んだ。
「ラウルの許可は取ったよ」
 逃げ道は塞がれていた。ジークには、他に断る理由が思い浮かばなかった。観念するしかない。素直に「はい」と返事をすると、サイファのあとについていった。

「心配ないよ」
 ひたむきにふたりを見送るアンジェリカの肩に、リックは優しく手をおいた。アンジェリカは沈んだ顔でうつむいた。
「そうだといいんだけど」
「もう大丈夫って、さっき自分で言ってたじゃない。アンジェリカの勘はよく当たるんでしょ?」
 リックは同意を求めるように、にっこり微笑み掛けた。
「ええ、そうね」
 アンジェリカも顔を上げて、微笑み返した。だが、今の自分の心にあるのは不安ばかりだった。嫌な想像が次から次へと頭に浮かぶ。こんな勘は当たらなければいい。当たらないでほしい。懸命にそう願った。


78. ずっと忘れない

「こんにちは」
 アンジェリカはにっこりと挨拶をした。戸口で出迎えたジークは、呆然と彼女を見つめた。
「家出でもしてきたのか? その荷物……」
「違うわよ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「材料とか、調味料とか、準備するものがたくさんあるの」
「言ってくれれば迎えに行ったのに」
 ジークはあきれたように言いながら、彼女がリュックサックを下ろすのを手伝った。そのリュックサックは、彼女が中にすっぽり入るくらいの大きなものだった。しかも、ずっしりと重い。
「こんなものを担いで、よくここまで歩いてきたな」
「日頃から鍛えているもの」
 身軽になったアンジェリカは、腰に手をあて、ふうと大きく息をついた。そして、ぐるりと部屋の中を見まわした。
「リックはまだなの?」
 彼女はジークに振り返って尋ねた。ジークはぎくりとした。頭に手をやり、片目を細めながら答える。
「ああ、あいつな……。なんか用が出来たみたいで来られねぇって」
「そう」
 アンジェリカは沈んだ声を落とした。
 ジークの胸にずきりと痛みが走った。リックが来なかったのは、おそらく自分に気を遣ってのことだろう。もちろん、そんなことを頼みはしない。だいたいリックが遠慮したところで、アンジェリカとふたりきりになれるわけではない。そう、ここには他にもうひとりいるのだ。遠慮のかけらもない人間が——。
「いらっしゃい、アンジェリカ!」
 不必要に大きな声が耳をつんざいた。そのもうひとり、母親のレイラである。ジークはうんざりしてため息をついた。
「すごーく楽しみにしてたのよ。おいしい手料理、期待してるわ」
 レイラは満面の笑顔で声を弾ませた。
「任せてください」
 アンジェリカはにっこり笑い、両方のこぶしをぎゅっと握ってみせた。
「それじゃ、全部お任せしちゃうわね。台所はもうホント好きなように使っていいから」
 レイラは左手を大きく開き、腕を勢いよく伸ばすと、狭い台所をオーバーに示した。まるで舞台上の司会者のようだった。

 アンジェリカはさっそく料理に取りかかった。フリルのついた淡いピンク色のエプロンを身につけると、リュックサックから材料を取り出し、丁寧に並べていく。ジークは背後からその様子をじっと見ていた。
「何を作るんだ?」
「シチューよ」
 アンジェリカは流し台に向かったまま答えた。
「シチューか……」
 ジークは難しい顔で腕を組んだ。前にセリカが作ったものと同じである。比べたくはないが、無意識に比べてしまいそうで怖い。それでも、自分は心の中に留めるつもりだ。しかし、母親は危険である。なにせ、考えなしに思ったことをすぐ口に出すのだ。そのせいで幾度、肝を冷やしたか知れない。
「何か問題?」
 アンジェリカは包丁を手に振り返り、眉をひそめた。
 ジークは鈍く光る刃を見て、顔から血の気が引いた。慌ててぶるぶると首を横に振った。

「俺も何か手伝うよ」
「今日はひとりで作るって決めたの」
 アンジェリカは、腕まくりをするジークを制止した。ジークはまくった袖を下ろし、後ろから見守ることにした。強情な彼女のことだ。ひとりでやると決めたのなら、必ずそれを貫くだろう。他の人がどういう提案をしようと、簡単にそれを受け入れるはずがない。
 アンジェリカは野菜を洗い、包丁で皮を剥き、一口大に切っていった。手つきは悪くなかった。丁寧にそつなくこなしていく。動きも計算されているようで無駄がない。ただ、あまりにも真剣な顔つきのせいか、きっちりしすぎているせいか、家庭的な雰囲気は微塵も感じられず、まるで化学実験でもしているかのようだった。
 ひととおり材料を炒め、水を加えると、エプロンのポケットからストップウォッチを取り出した。それを首に掛け、親指でボタンをカチカチと押す。
「しばらく休憩」
 アンジェリカはくるりと振り返り、ようやく表情を和らげた。

「ねぇ、料理と魔導って似ていると思わない?」
 アンジェリカは両手で頬杖をついて尋ねた。
「は? どこが?」
 ジークは椅子に腰掛けながら、不思議そうに彼女を見た。
「プリミティブなものを組み合わせて高度なものを構成していくところとか、応用次第で無限のバリエーションを創り出せるところとか。レシピどおりに作っても個性が出ちゃうのも似てるわね」
 アンジェリカはニコニコしながら答えた。ジークは腕を組み、首をひねって考え込んだ。
「まあ、なんとなくわかるような気もするけどな」
「でしょう?」
 アンジェリカは嬉しそうに身を乗り出した。しかし、視線を斜め上に流すと、少し不満げに付け加えた。
「ただ、料理の場合は手続きを短縮できないのがもどかしいわね」
 そう言いながら、首に掛けたストップウォッチの紐を、くるくると指に巻きつけたり、ほどいたりした。せっかちな彼女には、そのことがいちばんの問題だった。こういう待ち時間がじれったいのだ。
 それは、ジークも同じだった。彼もときどき簡単な料理を作るが、待ち時間を待ちきれず、苛ついていることが多い。だが、今日の待ち時間はまったく苦にならなかった。彼はちらりとアンジェリカを盗み見た。

 ピピッ。
 短く電子音が鳴った。アンジェリカはストップウォッチの表示を確認して立ち上がった。
「あと少しよ。待っててね」
 にっこり笑ってそう言うと、短いスカートをひらめかせ、パタパタと鍋の方へ駆けていった。ジークは椅子に座ったまま、彼女を目で追った。

 やがて、台所からシチューらしい匂いが漂ってきた。ジークはそわそわした。
「お、そろそろかな?」
 匂いにつられ、レイラも再び居間へやってきた。ジークの隣に座り、頬杖をついた。そして、優しく目を細め、アンジェリカの後ろ姿に視線を投げた。
「一生懸命でホント可愛いわよねぇ。ねぇ、ジーク」
「ん……ああ、まあ……」
 ジークは口ごもりながら曖昧に返事をした。

「お待たせ」
 アンジェリカはシチューをトレイに載せて運んできた。レイラ、ジーク、そして自分の席へ、順に配っていく。
 ジークは目の前に置かれた皿の中をじっと覗き込んだ。とりあえず、見た目は普通のクリームシチューだ。どこもおかしなところはない。匂いも普通に美味しそうだ。
 レイラは息子の頭を小突いた。
「そんなにジロジロ見ないの」
 アンジェリカはくすりと笑った。そして、ロールパンが山盛りになったバスケットを、テーブルの中央にどんと置いた。
「パンは時間がかかるから、家で焼いてきたの」
「焼いたって、まさか、おまえが作ったのか?」
 ジークはパンを指さしながら顔を上げた。アンジェリカはエプロンを外しながら、むっとして口をとがらせた。
「そうよ、疑っているの?」
「いや、驚いただけだ」
 ジークはまじまじとパンの山を見つめた。味はまだわからないが、少なくとも見た目は、市販のものと比べても遜色ない。
「さ、それじゃ、食べましょうか」
 レイラは明るく声を張ると、両手を合わせた。
「いただきまーす」
「いただきます」
 レイラのあとに続いて、ジークとアンジェリカも手を合わせて言った。
 ジークはシチューをスプーンですくい、口に運ぼうとした。だが、その手が途中で止まった。軽くため息をつきながら、ゆっくりと顔を上げる。
「あのな、そんなに見られてたら食えねぇって」
「だって、ジークの反応が気になるんだもの」
 アンジェリカは真面目な顔で、黒い大きな瞳をまっすぐ彼に向けていた。彼女だけでなく、なぜか母親もじっと彼の方を見ていた。
 ジークはもう一度ため息をつくと、覚悟を決めて、山盛りのスプーンにぱくりと食らいついた。
「どう?」
「……うまい」
 口をもぐもぐと動かしながら答える。
「本当?」
 アンジェリカは疑わしげに下から覗き込んだ。
「ああ、本当にうまいって」
 どんなふうに表現すればいいかわからなかったが、お世辞ではなく本当に美味しかった。ひいき目もあるかもしれないが、セリカのよりも美味しいとジークは思った。手を止めることなく、ガツガツと頬張っていく。
 彼のいつも通りの豪快な食べっぷりを見て、アンジェリカはようやく安堵し、顔をほころばせた。

「ごちそうさま! 本当においしかったわ。想像以上よ」
 レイラは陽気に笑いながら、歯切れよく言った。それが本心だということは、少なくともジークにとっては一目瞭然だった。もっとも、彼女がどんなものを想像をしていたのかはわからないし、聞かない方がいいだろうと思った。
「俺も、ごちそうさま」
 ジークは椅子にもたれかかり、満足そうに腹に手を置いた。多めに作ったシチューも、山のようにあったパンも、すべてなくなった。ほとんど彼が平らげたようなものだ。
 アンジェリカは本当に嬉しそうだった。笑顔をあふれさせている。そんな彼女を見て、ジークも嬉しくなった。

「置いとけよ。あとで俺がやっとく」
 後片づけを始めたアンジェリカに、ジークは後ろから声を掛けた。
「ダメよ。後片づけまでが料理だって、うちのシェフも言っていたもの」
 彼女は皿を洗う手を止めずに言った。ジークは腕を組み、柱に寄りかかった。そして、口元を緩め、小さな後ろ姿を見つめた。
「やっぱすげぇよ、おまえ」
「ありがとう」
 アンジェリカはちらりと振り返り、くすりと笑った。

「お茶、入ってるわよ!」
 後片づけを終えたアンジェリカに、レイラは大声で呼びかけた。
「ありがとうございます」
 アンジェリカは台所からパタパタと駆けてきて、席についた。ジークもその後ろからのんびり戻ってくると、彼女の隣に座った。
 レイラは紅茶をふたりに差し出した。そして、興味津々に身を乗り出すと、アンジェリカに尋ねかけた。
「それにしても、料理に興味を持つなんて、どういう心境の変化?」
 アンジェリカは両手でティーカップを持ち、にこやかに微笑んだ。
「自立することに憧れていたの」
 そう言って、熱い紅茶をひとくち流し込むと、小さく息をついた。
「本当は、料理も掃除も出来なくたって、何の不自由もないんだけど」
「でも、他へお嫁に行ったら、そういうわけにもいかないでしょ?」
 アンジェリカはきょとんとした。だが、すぐににっこりすると「ええ」と答えた。
 ジークは耳元を赤くしながら、横目で母親を睨みつけた。自分をからかっているに違いない。いや、自分だけならいい。だが、アンジェリカを巻き込むのはやめてほしいと思った。変なふうに思われていないだろうか——。心配だが、尋ねることもできない。下を向いて額を押さえると、大きくため息をついた。
「どうしたの? ジーク」
 アンジェリカは首を傾げ、覗き込んだ。
「そろそろ帰るだろ、送ってく」
 ジークは腕時計を見て立ち上がった。アンジェリカの家はここから遠い。のんびりしていたら、真夜中になってしまう。
 アンジェリカは座ったままで、目をぱちくりさせた。
「今日はここに泊まっていくのよ。言ってなかったかしら」
「な、なに言ってんだよ、おまえ」
 ジークの声はうわずっていた。しかし、アンジェリカは真顔だった。大きな瞳でじっとジークを見つめる。
「お父さんとお母さんの許可はちゃんと取ったわよ」
「えっ……」
 パコン。
 レイラが丸めた新聞紙でジークの頭を叩いた。
「あんたなに顔を赤らめてんのよ。アンジェリカは私の部屋で寝るの。あったりまえでしょう?」
 思いきり冷たい目を息子に向ける。ジークは一気に上気し、激しく狼狽した。
「わっ……わかってるよ!!」
 本当はわかっていなかったが、そう言うしかなかった。きまり悪そうに顔を背けながら、しかめ面で舌打ちをした。そして、ふいに何かを思いついた様子ではたと動きを止めると、唐突にアンジェリカの腕を引いた。
「上へ行こう」
「え? ええ」
 彼女はとまどいながらも、手を引かれるまま彼についていった。
 ジークは、彼の部屋がある二階を通り過ぎ、さらに上へ向かった。
 三階は屋根裏部屋だった。そこは物置きとして使われているようだ。埃っぽく、段ボール箱が無造作に積まれている。天井は低く、屋根の形そのままに斜めになっていた。電灯はなかった。天窓から射し込む月明かりだけが、ぼんやりとその部屋を照らしていた。
 ジークはその天窓を開け、スチールの梯子を掛けた。彼自身には必要ない。アンジェリカのためである。
「屋根の上に出るの?」
「ああ、気をつけろよ」
 アンジェリカは不安そうに怖々と梯子を上っていった。
「わぁ……」
 屋根の上に立つと、彼女の顔がぱっと晴れていった。澄み渡った濃紺の空には、たくさんの星が瞬いていた。今にも頭上から降り注いできそうだった。夜の冴えた風は、頬を心地よく刺激し、さらさらと黒髪をなびかせた。
 ジークは天窓から顔を出し、彼女を見上げると、ふっと表情を緩めた。母親から逃げたい一心の思いつきだったが、ここに来て本当に良かったと思った。
「上ばっか見てると、よろけて落ちるぞ。座れよ」
「うん」
 アンジェリカは緩やかな傾斜に腰を下ろした。ジークも天窓から屋根に出ると、彼女の隣に脚を投げ出して座った。
「ねぇ、星って何だと思う?」
 アンジェリカは膝を抱えて、真上を見上げた。
「太陽の小さいやつだろ? 小さい光球」
「いったい何の意味があるのかしら」
「さぁ……」
 ジークは眉根を寄せた。正しい答えはわからないし、気の利いた答えも思い浮かばない。
「おまえはどう思うんだよ」
 逆にアンジェリカに聞き返してみた。彼女を空を見上げたまま、真顔で答えた。
「空に開いた穴じゃないかしら」
「は?」
「穴から光が漏れているのが星なの」
 今までに聞いたこともないような突飛な意見だったが、それを否定するほどの知識もジークにはなかった。
「じゃあ、おまえのいう“空”って何だよ」
「結界かしら。この国を維持しているのは四大結界師でしょう?」
 アンジェリカは小さく人差し指を立てた。
「きっと、空の向こう側には別の国があって、そこから守るために結界を張っているのよ」
「なるほどな……」
 ジークは後ろに手をつき、空を見上げて目を細めた。一応、筋は通っている。
「ただの想像だけど」
 アンジェリカは笑って肩をすくめた。そして、ジークに振り向くと、無邪気に声を弾ませる。
「もし、ジークが四大結界師になったら、こっそり教えてくれないかしら。この国を維持する仕組み」
 ジークは苦笑いした。
「それ、きっと国家機密だぜ」
「誰にも言わないわ、ね?」
 アンジェリカは口元で両手を合わせ、ぐいっと顔を近づけた。
「まぁ、覚えてたらな……」
 ジークはどぎまぎしながら、曖昧な返事でごまかそうとした。
「じゃあ、約束」
 アンジェリカはにっこり笑って小指を立てた。
「二十年先か、三十年先かわかんねぇぞ」
「だから、忘れないように指きりするの」
 軽く口をとがらせそう言うと、ジークの小指に自分の小指を絡ませ、勝手に指きりをした。
「……ねぇ、ジーク」
 少しの沈黙のあと、ためらいがちに呼びかけた。その声には微かに翳りのようなものが感じられた。ジークははっとして振り向いた。
「就職のこと、決めたの?」
 彼女は膝を抱えうつむき、ぽつりと尋ねた。
 ジークは表情を引き締め、はっきりとした声で答えた。
「魔導省に行くことにした」
「そう」
 アンジェリカは複雑な面持ちで相槌を打った。
「俺さぁ」
 ジークは頭の後ろで手を組み、仰向けに寝転がった。
「アカデミーに入る前まで、あんまり怖いものなんてなかったんだ。自分がいちばんすごいんだって本気で思ってた。今にして思えばバカみたいだけどな」
 そこで言葉を切ると、遠くを見つめ、ふっと笑った。
「それが、アカデミー入学試験から、いきなりおまえに負けるしよ。王宮にはラウルとかサイファさんとか、すごい人がごろごろしてる。今はびびってばっかりだ」
「ラウルのことを認めるなんて、どうしちゃったの?」
 アンジェリカは膝の上に頬をのせ、いたずらっぽく笑った。ジークは真面目な顔で答えた。
「だんだん、相手の力量が感じられるようになってきたんだ」
 それは、紛れもなくアカデミーで学んだ成果である。その方法を教わるわけではないが、魔導について学び、鍛錬していくうちに、副次的に身についていくのだ。
「ラウルは底知れねぇな。好きにはなれねぇけど、魔導に関してはすごいヤツだと思う」
「私は先生としても立派だと思うけど」
 アンジェリカは笑って付け加えた。
 ジークは顎を引き、彼女の背中をじっと見つめた。ラウルだけではない。彼女にも底知れないものを感じていた。深く探ろうとすれば、体の芯から凍りつきそうになる。だが、そのことは口には出さなかった。
「だから、魔導省へ行くの?」
 アンジェリカは前を向いたまま、落ち着いた声で尋ねた。
「ああ、そういうすごい人たちの中で働いてみたいんだ」
 ジークは淡々と、しかし、迷いなく答えた。
 アンジェリカもジークの隣で仰向けになった。星空が視界一面に広がった。他に見えるものは何もない。遠近感が掴めなくなり、少し目眩がして、空に落ちていきそうな錯覚を起こした。
 ジークはすぐ横に彼女がいるのを感じ、心拍が上昇した。
「おまえはあの研究所か?」
 少し早口で尋ねる。
 アンジェリカは胸元で手を組み、ゆっくりと目を閉じた。
「そうね、行けたらいいわね」
 小さくつぶやくように答える。
「なんだよ、めずらしく弱気だな」
 ジークは驚いて、アンジェリカに顔を向けた。彼女は目をつむったままだった。前髪が、かすかに風に揺れた。
「ねぇ、ジーク」
 小さな唇が、小さく動いた。
「ん?」
「今日はありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ」
 ジークは柔らかく微笑んだ。
「今日のことは、ずっと忘れないから」
 アンジェリカは囁くように言った。
「大袈裟だな、おまえ。こんなこと、またいつでも出来るだろ。今度こそリックも呼ぼうぜ、な」
 ジークは明るく言った。だが、アンジェリカの返事はなかった。仰向けで目を閉じたまま、人形のように動かない。ジークの心臓がドクンと強く打った。弾けるように起き上がると、彼女を覗き込んだ。
「アンジェリカ? おい、アンジェリカ!」
 何度も肩を揺すりながら、必死に呼び掛ける。
 アンジェリカはうっすら目を開いた。ぼんやりとジークの顔を見る。
「……あんまり心地いいから、つい眠っちゃった」
 ジークは安堵した。全身から力が抜け、へたり込んだ。
「張り切りすぎて疲れたんだろ。降りようぜ」
「もう少し、ここにいたいな」
 アンジェリカは潤んだ黒い瞳に、星空を映しながら言った。
「また寝ちまうかもしれねぇだろ。ここ屋根の上だぜ? 危ねぇって」
「ジークがいてくれるでしょう?」
 そう尋ねかけると、にっこりと微笑んだ。ジークはわざと大きくため息をついた。
「……ったく、あと少しだけだぞ」
「ありがとう」
 アンジェリカはしばらくの間、無言で星空を眺めていた。しかし、それは長く続かなかった。やがて、目蓋が落ちていき、静かに寝息を立て始めた。
 ジークは片膝を立て、彼女の様子をじっと見守っていた。
 ふいに風が冷えてきたのを感じた。自分の上着を脱ぎ、彼女の上にそっと掛け置いた。
 そのとき、彼はどきりとした。近くで見た彼女の寝顔が、やけに白いような気がしたのだ。月明かりのみが頼りのこの場所では、正確な顔色などわかりようがない。ただ、重なって見えた。一ヶ月もの間、目を覚まさなかったあのときと——。自分の許容以上のことがなだれ込んだとき、自衛のため脳が活動を停止する、つまり、眠ったまま起きないことがある。サイファはそう言っていた。
 ——違う、ただ疲れて眠っているだけだ。
 ジークは自分に言い聞かせるように、心の中で強くつぶやいた。アンジェリカが現実から目を背けたくなるほどの出来事など、最近は起こっていないはずだ。……いや。もしかしたら、曾祖父に怯えているのかもしれない。彼女は大丈夫だと言っていたが、根拠は何もない。まわりに心配を掛けないように明るく振る舞っていただけかもしれない。
「……アンジェリカ?」
 おそるおそる声を掛け、手の甲でそっと頬に触れた。しかし、彼女は目を覚まさない。ジークは不安そうに目を細めた。鼓動は早く強くなっていく。
 もういちど呼び掛けようか迷った。もし、眠っている原因が精神的なものだとしたら、無理に起こしてはいけないらしい。結論が出ないまま、じっと彼女を覗き込み、手のひらで柔らかい頬を包み込んだ。
 アンジェリカのまつげが小刻みに震えた。彼女はゆっくりと目を開いた。目の前をぼうっと見つめる。次第に焦点が合っていき、ぼやけた輪郭がはっきりしていった。そこには、思いつめたジークの顔があった。頬には彼の手が置かれている。そこだけ、とてもあたたかい。
「だいぶ、寝てた……?」
「いいよ、寝てろよ」
 ジークは優しく言った。
「ダメ……だって、夢を見たいわけじゃないもの……」
 彼女は手をつき、懸命に起き上がろうとした。だが、崩れるように再び意識を失った。ジークは、それを予期していたかのように、しっかりと抱きとめた。無言で手に力を込めた。そして、そのまま彼女を抱えて立ち上がると、天窓の梯子を降りていった。


79. それぞれの覚悟

「おはよう」
 アンジェリカは校門前のジークとリックに駆け寄ると、いつものようににっこりと挨拶をした。だが、ふたりの反応はいつもとは違った。リックは目をぱちくりさせて尋ねた。
「家出でもするの?」
「違うわよ!」
 アンジェリカは肩をいからせて言い返した。
「少し大きな荷物を持っているだけで、どうしてすぐに家出って思われてしまうのかしら」
 腕を組み、不満げに眉根を寄せる。その背中には大きなリュックサックが負われていた。少しどころではなく、かなり大きい。彼女自身がすっぽり入ってしまうくらいだ。どう考えても、アカデミー通学には相応しくない鞄である。
「リック、この前はどうして来てくれなかったの? 楽しみにしていたのに」
 彼女は顔を上げ、思い出したように言った。彼女が言っているのは、ジークの家で手料理を作ったときのことだ。それが一昨日で、きのうも休日だったため、リックと顔を会わせるのは、その後、初めてである。
「ごめんね、急に用事が出来ちゃって」
 リックは申しわけなさそうに微笑んだ。詳しい内容は言わなかった。
「もしかして、セリカに関係があるの?」
 アンジェリカはそんな気がして、何となく尋ねた。別に、だからどうというつもりもなかった。だが、リックはそれに答えようとはしなかった。
「ごめんね」
 にっこりと謝るだけで、肯定も否定もしなかった。
「まあ、いいけど」
 アンジェリカは、彼の態度に引っかかるものを感じながらも、おとなしく引き下がった。これ以上の追求は無駄だと悟ったのだ。セリカに気を遣っているのだろう、そう思うことにした。

 ジークは心配そうに彼女を見つめていた。
 あの夜、アンジェリカは屋根の上で意識をなくした。そして、そのまま翌日の昼過ぎまで眠り続けた。だが、目を覚ましたときには、すっかり元気を取り戻していた。
「起こしてくれればよかったのに。だいぶ寝過ごしちゃった」
 小さく肩をすくめ、笑いながらそんなことを言っていた。
 結局、何が原因なのか、何が起こったのか、ジークにはわからないままだった。ただ、あの夜の彼女の状態は、普通ではなかった。確かなことはそれだけだ。
 サイファにはまだ言っていない。その機会がなかったからだ。だが、言うべきかどうかも迷っていた。今の彼女を見ていると、あのときはただ疲れていただけかもしれない、そう思えてくる。それでも一応、知らせておいた方がいいのだろうか——。

「それで、その荷物は何なの?」
 リックは非常識なリュックサックを指さして尋ねた。アンジェリカはにこにこして答えた。
「今日はユールベルのところへ行くのよ」
「本気か?!」
 今まで黙り込んでいたジークが、突然、大声で割り込んできた。リックを押しのけ、慌てた様子で詰め寄る。しかし、彼女は嬉しそうに、明るく声を弾ませた。
「ええ、料理も作るの。楽しみだわ」
「ダメだ!」
 ジークは強く言った。だが、彼女は涼しい顔で切り返した。
「もう約束したもの」
「どうしてもっていうなら、俺も一緒に行く」
 ジークは負けじと食らいついた。
「私はユールベルとふたりきりで話がしたいの」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「ダメだ!」
 あんなことがあったすぐ後だ。何がなんでも止めなければならない。ユールベルとふたりきりなんて——。ジークは必死だった。
 アンジェリカはますます不機嫌になった。眉根を寄せ、ジークを睨みつける。
「どうしてジークにそんなことを言われなければならないの? お父さんとお母さんの許可は取ったのに」
「え……」
 ジークは何も言えなくなった。まさか、両親の許可を取っているとは思わなかった。ユールベルとふたりきりなんて、よく許したものだ。心配ではないのだろうか。ジークは不思議でならなかった。
「行ってもいいのね?」
 アンジェリカは下から覗き込んで尋ねた。
「あ、ああ、まあ……」
 ジークは困り顔で口ごもった。
 アンジェリカはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「良かった」
 そう言うと、重そうなリュックサックを揺らしながら、軽い足どりで校舎へと駆けていった。
 ジークとリックも、彼女を追って駆け出した。

 キーン、コーン——。
 何ごともなく夕方になり、終業のチャイムが鳴った。
「今日はここまでだ」
 ラウルは教本を閉じ、授業を切り上げた。彼の授業は、どんなにきりが悪くても、必ずチャイムとともに終わる。このことに関しては、クラスの誰もが好評価をしていた。彼は無造作に教本と抱えると、焦茶色の長髪を揺らし、大きな足どりで出ていった。そのとたん、教室は賑やかになった。いつもと変わらない日常の光景だ。
 アンジェリカは嬉しそうに、大きなリュックサックを背中に担いだ。
「じゃあね。私はユールベルの家に行くから」
「ああ、無理すんなよ」
 ジークは鞄に教本を投げ込みながら、素っ気なく答えた。だが、それは繕ったもので、本当は心配で胃に穴が開きそうだった。
 アンジェリカはにっこり微笑むと、手を振って教室を出ていった。彼女の大きなリュックサックは、常にまわりの注目を集めていたが、彼女自身はまるで気づいていない様子だった。
「行かせてよかったの?」
 リックは鞄を肩に掛けながら、ジークの席へやってきた。
「仕方ねぇだろ」
 ジークはため息まじりに答えた。そして、鞄を掴み、立ち上がった。
「リック、おまえは先に帰ってろ」
「どこへ行くの?」
 リックは不安を顔いっぱいに広げた。まさか、こっそりとユールベルの家に行って、覗きや盗み聞きをするつもりでは——。思いつめた今のジークならやりかねない。疑惑の目で彼を見る。
「おまえ、何か勘違いしてねぇか?」
 ジークは眉をひそめて振り返った。
「サイファさんのところだよ」
 そう言って、王宮の方向を指さした。

「君の方から会いに来てくれるなんて、嬉しいよ」
 サイファは椅子から立ち上がり、机の上に散乱した書類を片づけ始めた。ここは魔導省の塔、その最上階にあるサイファの個室である。彼の背後の大きなガラス窓には、青い空と赤い空、それらを繋ぐグラデーション、そして、傾きかけた太陽が映し出されていた。
「アンジェリカの手料理はどうだった?」
 サイファは手を止めずに尋ねた。
「あ、はい、おいしかったです」
 ジークは不意の質問に少し慌てた。答えてしまってから、もっと感情のこもった言い方は出来なかったものかと後悔した。
 しかし、サイファはその答えで十分に満足しているようだった。
「そうだろう」
 声を弾ませ、満面の笑みをたたえた。
「それで、何の話だい? あ、座っていいよ」
「はい」
 ジークは示されたパイプ椅子にゆっくりと座った。気をつけたつもりだったが、それでもギギッという耳障りな軋み音は止められなかった。
 机の上は大雑把に片づいた。サイファはようやく手を止め、大きな椅子に腰を下ろした。ひじを机につき、両手を組むと、深い蒼色の瞳をまっすぐジークに向けた。
 ジークはびくりとした。心の中を探られているかのように感じた。
「アンジェリカのことなんですけど」
 少し早口でそう切り出した。サイファはじっと彼を見つめたまま、無言で次の言葉を待った。
「その、料理を作りに来た夜、話している途中で眠るように意識をなくしたんです。次の日にはちゃんと、ていうか昼頃に目を覚ましたんですけど……。疲れていただけかもしれませんが、少し気になって……」
 ジークはそこまで一気に話すと、心配そうに顔を曇らせた。膝にのせた手を握りしめる。
 サイファはわずかに目つきを険しくした。
「そのとき、何の話をしていたんだ?」
「えっと……確か、就職の話だったと思います」
 ジークは考えながら答えた。
「そうか」
 サイファは小さく息をつき、革の背もたれに身を預けた。ゆっくりと顔を上げ、目線を天井に向ける。
 ジークはそれを見て、不安が湧き上がった。
「あの……」
「教えてくれてありがとう。大丈夫だとは思うが、気をつけて様子を見るよ」
 サイファは体を起こし、にっこりと笑いかけた。だが、ジークは笑顔を返せなかった。責めるように尋ねる。
「心配じゃないんですか。そんな状態でユールベルのところへ行かせて」
「何かあれば、彼女が連絡をくれるだろう」
 サイファは冷静に答えた。
 ジークは難しい顔で、目を伏せた。サイファがそこまでユールベルを信用していることが意外だった。いや、いつまでも過去のことにこだわっている自分の方がおかしいのかもしれない。今のユールベルは、確かにもう危険ではないと思う。だが、アンジェリカとふたりきりにするには、やはり抵抗がある。ジークはそんな考えの間で揺れていた。
「そうだ、ジーク、今からうちに来ないか?」
 サイファは突然、思いついたように言った。ジークはきょとんとした。
「実は、既にひとり来ることになっていてね。君が来てくれると、彼も喜ぶだろう」
「彼?」
 怪訝に尋ね返す。
 サイファは口元に笑みをのせ、椅子から立ち上がった。
「ちょうど来たようだ」
 タタタ……と軽快な足音が、遠くから近づいてきた。ジークもつられて腰を上げ、音のする方を振り返った。それとほぼ同時に、ガシャンと弾けるように扉が開く。
「こんにちは!」
 溌溂とした元気の良い挨拶とともに、金髪の少年が飛び込んできた。
 ジークはその少年を指さし、記憶をたどりつつ口を開いた。
「おまえは確か……」
「あれ? ジークさん?」
 少年はくりっとした青い目をぱちくりさせた。

「こんにちは」
 戸口で出迎えたユールベルに、アンジェリカはにこやかに挨拶をした。ユールベルは、包帯で覆われていない方の目で、彼女の背負っているものをじっと見つめた。
「あなた、家出してきたなんてことは……」
「違うわよ!」
 アンジェリカは思いきり頬を膨らませた。そして、むすっとしたまま、無遠慮にすたすたと中に進んだ。ここへは一度、遊びに来たことがあるので、間取りは知っている。ユールベルの案内は不要だった。
 リビングルームに入ると、アンジェリカはリュックサックを下ろした。
「これは、今日の夕食の材料とお泊りに必要なものよ」
 ファスナーを開け、中を覗き込み、両手を突っ込む。
「あと、これ……」
 そう言いながら、上目遣いでユールベルを見ると、そこからガラスの瓶を取り出して掲げた。赤みがかった黒色のボトルに、金と銀で箔押しされた、上品な薄赤色のラベルが貼られている。
「それ、お酒?」
 ユールベルはぽつりと尋ねた。アンジェリカはにっこり微笑んだ。
「どれが美味しいかわからなかったから、適当に持ってきちゃった」
 ユールベルはため息をついた。
「おじさまは知っているの?」
「まさか。告げ口する?」
「わざわざそんなことしないわ。でも、聞かれたら正直に答えるわよ」
「ええ」
 アンジェリカは肩をすくめながら、ボトルを机の上に置いた。
「弟はいないって言っていたけど、どうしたの?」
 ユールベルはソファに腰かけた。
「おじさまのところへ行っているわ。つまり、人質ってことね」
 感情のない声で、淡々と答える。アンジェリカは腰に手をあて、軽くため息をついた。
「素直じゃないわね。お父さんのことは、信頼しているんでしょう?」
「ええ、でも、おじさまは私のことを信用していないのよ」
 ユールベルはまっすぐ前を向いて言った。
「勘違いしないで。悲観しているわけじゃないし、責めているわけでもない。おじさまがそうするのは当然だと思っているわ」
 アンジェリカの顔がわずかに翳った。
「そんなつもり、ないと思うけど……」
 そこでいったん言葉を切ると、軽く息をつき、腕を組んだ。
「まあいいわ。どちらにしろ、何も起こりはしないもの、ね」
「ええ、そうね」
 ユールベルは無愛想に答えた。
 アンジェリカは気を取り直し、笑顔を作った。
「それじゃ、さっそく夕食を作るわね。作るっていっても、お手軽なパスタなんだけど」
 そう言いながら、フリルのついた淡いピンクのエプロンを身につけた。そして、重いリュックサックを抱え、パタパタと台所へ向かった。

「お帰りなさい」
 レイチェルはリビングルームから姿を現すと、高く澄んだ声で出迎えた。いつものようにロングドレスを身にまとっている。ウェストがきつく締められ、スカートが腰から丸く膨らんだ形のものだ。
「ただいま」
 サイファは優しい笑顔で応えた。
「あら、ジークさん?」
 レイチェルは大きく瞬きをし、少し語尾を上げて言った。サイファの後ろには、ジークとアンソニーが立っていた。アンソニーが来ることは聞いていたが、ジークのことは知らなかった。
 ジークはぺこりと頭を下げた。動作がややぎこちなかった。サイファとはよく会っていたが、レイチェルとはしばらくぶりに顔を会わせる。そのため緊張していたのだ。
「いらっしゃい」
 レイチェルは華やかに微笑みかけた。
 ジークは微かに頬を染めながら、引き寄せられるように彼女を見つめた。
 ——ドクン。
 彼の鼓動は強く打った。
 澄んだ大きな瞳、意志の強そうな目元、柔らかそうな頬、小さな口——。
 そのどれもが、アンジェリカとよく似ていると感じたのだ。レイチェルは変わっていない。アンジェリカがレイチェルに似てきたのだろう。それだけアンジェリカが成長したということかもしれない。もっとも、まだまだ成長の追いついていない部分もあるが——。
「ジークさん?」
 レイチェルは小首を傾げて、尋ねるように呼びかけた。
 ジークははっとして我にかえった。
「あ、いえ、よろしくお願いします」
 慌てふためいて耳元を真っ赤にしながら、もういちど頭を下げた。
「僕、夕食の準備をしにいっていいですか?」
 隣のアンソニーが、落ち着きなく尋ねた。待ちきれないといった様子である。
「どうぞ」
 レイチェルは笑いながら答えた。
 ジークは驚いてアンソニーに振り向いた。
「おまえが作るのか?」
「ジークさんの分もちゃんと作ります」
 人なつこい笑顔でそう言い残し、台所へと駆けていった。
 ジークは小さく息をついた。彼の料理好きは知っていたが、まさかここに来てまで作るとは思わなかった。
「大丈夫だよ。彼はなかなかいい腕をしているから」
 サイファはそう言いながら、濃紺色のコートを脱いだ。レイチェルはそれを受け取ろうと手を伸ばした。そのとき——。
 グイッ。
 サイファはその手を強く引いた。長い金色の髪がふわりと揺れる。彼女は倒れこむように彼の胸に寄りかかった。彼女はきょとんとしていたが、サイファは何の説明もせず、彼女の細い腰に手をまわしてぐっと引き寄せた。そして、顎を軽く持ち上げると、小さな唇に口づけをした。ふたりの足元に、ばさりとコートが落ちた。
 ジークは棒立ちのまま固まった。あまりに突然のことに面くらった。どうすればいいのかわからなかった。目のやり場に困ったが、あからさまに逸らすことも出来なかった。
 サイファはゆっくり顔を離すと、彼女の肩に手をのせた。大きな蒼い瞳を見つめたまま、流れるような横髪を撫で、愛おしげに微笑みかける。レイチェルも彼から目を逸らすことなく、にっこりと微笑み返した。
 サイファは床に落ちたコートを拾い上げ、無言でレイチェルに手渡した。そして、踵を返すと、足早にリビングルームへ向かっていった。彼の端整な横顔はきりりと引き締まっていた。そこから彼の思考を読み取ることはできなかった。
「ごめんなさい、驚かれたでしょう?」
 レイチェルは肩をすくめて、くすりと笑った。
「いえ……」
 ジークはきまり悪そうに答えた。だが、話しかけてくれて少しほっとしていた。
 レイチェルはそっと彼に歩み寄り、顔を近づけた。
「サイファ、子供みたいなところがあるの」
 声をひそめてそう言うと、立てた人差し指を唇に当て、片目を瞑って見せた。
 ジーク頬を赤らめながら、少し体を反らした。冷静に頭を働かせることができなかったせいか、彼女の言わんとするところがさっぱりわからなかった。

「お待たせ」
 アンジェリカはふたり分のパスタとサラダを机に並べると、ユールベルの隣に腰を下ろした。柔らかいソファは大きく沈み、彼女をふんわり包み込むように支えた。
「いよいよね」
 嬉しそうに声を弾ませると、家から持参したワインのボトルを手にとった。コルク栓を抜くところは何度も見たことがあったが、実際にやるのは初めてだった。コルク抜きをねじ込み、力を込めて引っ張る。見よう見まねだったが、なんとか抜くことができた。多少、不格好だったものの、特に問題はない。
 グラスを近くに引き寄せ、ワインを注いでいく。ワイングラスはなかったので、ユールベルがいつも使っているストレートのグラスである。
「きれいな色……」
 ユールベルはようやく口を開いた。グラスに注がれた液体は、赤寄りのピンク色をしていた。見事なくらい透きとおっている。緩やかに揺れる表面は、電灯の光を受け、きらきらと輝きを放っていた。まるで宝石のようだ。
「乾杯しましょう」
 アンジェリカはユールベルにグラスのひとつを手渡した。彼女は無表情で受け取った。
「それじゃ、乾杯」
 アンジェリカはにっこり微笑んだ。自分のグラスを、ユールベルのグラスに重ねる。カン、と短い音が、鈍く響いた。
 ユールベルはひとくち流し込むと、グラスを置いた。フォークを手に取り、パスタの皿を引き寄せる。茄子のトマトソーススパゲティだった。トマトの鮮やかな色が、食欲を刺激する。彼女は少しづつフォークに巻きつけ、口に運んだ。茹で加減も、味の濃さもちょうど良かった。アンジェリカが夕食を作ると言い出したときには、まともなものが作れるのか疑っていたが、出されたものは意外にもまともすぎるくらいのものだった。少し見直した——そう思って、隣の彼女に目を向けた。
 アンジェリカはグラスの中の液体を覗き込んでいた。固い表情だった。ワインには、まだ口をつけていないようだ。しかし、覚悟を決めたように頷くと、ぐいっとグラスを傾けた。
 ごくり。
 喉が小さく動き、ワインを飲み込んだ。
 彼女は次第になんともいえない表情になり、首を傾げて口を開いた。
「……思っていたのとまるで違う味……甘くないのね」
 眉根を寄せ、じっとグラスを見つめる。
「麻酔薬にお酢と唐辛子を入れたみたいな感じ」
「あなた、味覚は大丈夫?」
 ユールベルは半ばあきれたように、半ば心配そうに尋ねた。アンジェリカの言葉は、ワインの味を表現したものとはとても思えなかった。第一、麻酔薬を飲んだことなどあるのだろうか。
「喉が焼けるように熱いわ。舌もしびれてきたみたい」
 アンジェリカは胸元を押さえ、顔をしかめた。
「無理することはないわ。やめた方がいいわよ」
 ユールベルはワインを口に運びながら、淡々と忠告した。
 アンジェリカは挑発されたように感じた。ムッとして強気な表情になる。
「平気よ、グラスに注いだ分くらい、きちんと飲みきるわ」
 力をこめてそう言うと、もういちど口をつけた。だが、彼女のグラスの中身は、ほとんど減っていなかった。

 ユールベルはパスタを食べ終わり、ソファにもたれかかりながら、のんびりとワインを飲んでいた。二杯目である。一方、アンジェリカはまだ一杯目と格闘していた。少しづつ口に運び、ようやく半分くらいになったところだ。
「何か、話があるんでしょう?」
 ユールベルはグラスを机に置き、そう切り出した。そもそも、アンジェリカの当初の目的は、料理でもワインでもなく、話をするため、だったはずだ。
「えっ? あ、そうだったわ」
 彼女は一瞬、きょとんとした表情を見せたが、すぐにユールベルの言葉を飲み込んだ。グラスをそっと机に置くと、ソファの背もたれに身を預け、まっすぐ前を見つめた。そして、小さな口を開き、凛とした声で言った。
「私、ラグランジェの本家を継ぐことになったの」
 ユールベルは右目を大きく見開いた。アンジェリカは天井を仰ぎ、静かに畳み掛ける。
「ラグランジェの誰かと結婚して、新しい後継者を産んで、育てるの」
「ジークは知っているの?」
 ユールベルは感情を抑え、冷静に尋ねかけた。
 アンジェリカは首を横に振った。
「まだ言っていないわ」
「いつ言うつもりなの」
 ユールベルの口調が少しきつくなった。アンジェリカは儚い笑顔を浮かべた。
「私が自由でいられるのは、アカデミー卒業までなの。だから、卒業式の日に言おうかなって」
「それでいいの? いえ、あなたが良くてもジークが良くないわ」
 ユールベルの口調はますますきつくなった。責めているかのようだった。
 アンジェリカは視線を落とした。
「そうね、きっとジークを怒らせることになるわね。嫌われるかもしれない。でも、いっそ、その方がいいのかも……」
「あなたのことを嫌いになれれば、ジークも楽でしょうけど」
 ユールベルは腹立たしげに、突き放すように言った。
 アンジェリカは困惑して顔を曇らせた。
「一生、会えないってわけじゃないのよ。ジークは王宮で働くことになると思うし……」
 ユールベルは鋭く睨んだ。
「一生、会えないよりも、余程つらい目を見るわよ」
「えっ?」
 アンジェリカは目を大きくして、不思議そうな顔をした。
 ユールベルはため息をつきながらうつむき、額を押さえた。
「ごめんなさい、わかっているわ。あなたがこうするしかなかったってこと」
 わずかに頭を振りながら、沈んだ声を落とす。後頭部で結んだ白い包帯が、小さく揺れた。
「でも、どうして私にこんな話をするの?」
 ゆっくりと顔を上げ、険しい視線をアンジェリカに向ける。
「まさか、ジークを譲るなんて言い出すつもりじゃないでしょうね」
「ジークは物じゃないわ。譲るも譲らないもない」
 アンジェリカは真面目な顔で彼女を見つめ、落ち着いた声で言った。
 今度はユールベルが顔を曇らせた。確か、アンジェリカには以前にも同じようなことを言われた。そう、自分はこういう発想しかできない、とても浅ましい人間なのだ。しかし、それはずっと前から気がついていたこと。ユールベルはうつむき、自嘲ぎみに笑った。
「私の結婚相手、まだ決まっていないみたいなの」
 アンジェリカは話を本筋に戻した。
「レオナルド……かもしれない」
 ぽつりと落とされたその名前を聞いて、ユールベルは大きく目を見開いた。何も言葉が出てこなかった。
「可能性としては、いちばん高いと思うの。年齢的に合う人って、他に思い浮かばないし、レオナルドは過去にも候補に挙がったことがあるもの」
 アンジェリカはまるで他人事のように、推論を披露する。
「どうなるかわからないけれど、あなたにはあらかじめ言っておいた方がいいと思って」
「そう……」
 ユールベルはやっとのことで相槌を打った。
「もしかしたら、あなたにとってはその方が都合がいいかしら」
 アンジェリカは口元に人差し指を添え、斜め上に視線を流した。ユールベルは怪訝に眉をひそめたが、アンジェリカは真顔で彼女に振り向いた。
「あなた、レオナルドと一緒にいても、少しも幸せそうじゃないもの。嫌なら嫌って言った方がいいわよ」
 ユールベルはうつむいて目を閉じた。
「怖いのよ」
 アンジェリカは不思議そうに首を傾げた。
「レオナルドが?」
「ひとりになることが、よ」
 ユールベルは顔を上げ、目を細めた。
「私のことを見てくれるのは、レオナルドだけだもの」
「そんなことないんじゃない? お父さんだって、ラウルだって、あなたのことを気に掛けているわ」
 アンジェリカは即座に反論した。ユールベルはゆっくりと首を横に振った。
「そうじゃないの。あなたにわかるように説明できないけれど……」
「どういうこと?」
 アンジェリカは覗き込むようにして尋ねた。ユールベルは遠くに目を向けて答える。
「私は、あなたほど純粋じゃないもの」
「なにそれ、バカにしているの?」
 アンジェリカはムッとして、強い口調で問いただした。しかし、ユールベルはふっと寂しげに笑っただけで、何も答えなかった。
 アンジェリカはますます頭に来た。完全にバカにされていると思った。何もわからないことが腹立たしさを倍増させる。腹立ちまぎれに、半分ほど残っていたワインを一気に飲み干した。ガン、と叩きつけるように、空になったグラスを机に戻す。
「それで、レオナルドと私が結婚することになったら、あなたどうするの?」
 アンジェリカは喧嘩腰で詰問した。
「どうもしないわ。どうしようもないでしょう」
 ユールベルは抑揚なく答えた。
 アンジェリカはソファに手をついて身を乗り出し、彼女にぐいっと顔を近づけた。真剣な面持ちで、囁くように尋ねる。
「祝福してくれる?」
「してほしいの?」
「ええ、どうせなら」
 アンジェリカはにっこりと頷いた。
「変わっているわね、あなた」
 ユールベルはあきれたように言った。ため息をつき、グラスを手にとろうとする。
 そのとき、ふいに肩に重みがかかった。
 驚いて振り向くと、アンジェリカがくてんと倒れるように寄りかかっていた。
「酔ったの?」
 ユールベルは彼女の様子を窺った。その視線は、何もない空間に向けられていた。焦点が定まらないというわけではない。目に見えない何かを見据えているようだった。
「せめて、あなたとは、ずっと友達でいたいわ」
 彼女の大きな瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。

 今ごろあいつ、どうしてるかな——。
 ジークはベッドにごろんと寝転がり、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 ここはラグランジェ家のゲストルームである。夕食をごちそうになり、その後すぐに帰ろうとしたが、サイファに強く引き止められ、断りきれず泊まっていくことになったのだ。

 ——コンコン。
 扉が小さくノックされた。
「はい」
 ジークは慌てて起き上がり、姿勢を正した。
「ジークさん」
 扉がガチャリと開き、アンソニーが入ってきた。人なつこい笑顔を見せている。
「なんだおまえか」
 ジークはふうと息を吐き、体から力を抜いた。
 アンソニーはにこにこしながら、ジークの隣にちょこんと腰かけた。
「僕のパスタ、おいしかったですか?」
「ああ、うまかったよ」
 ジークはぶっきらぼうに答えた。
「今度はもっと手の込んだものを作りますね」
 アンソニーは屈託なく言った。だが、今度といっても当てはない。
「何しに来たんだよ、おまえ」
 ジークはため息まじりで尋ねた。背中を丸め、面倒くさそうに頬杖をつく。
 アンソニーはにっこりと微笑んだ。
「僕たちの将来について話し合うためです」
「はぁ?」
 ジークは素頓狂な声を上げた。
「今日ここで会えたのも、天のお導きです」
 アンソニーは両手を組んで、うっとりと顔を上げた。ジークはぽかんと口を開けた。
「……おまえ、アタマ大丈夫か?」
 アンソニーは途端に真面目な顔になり、ジークに振り向いた。
「僕のお兄さんになってください」
「何だよそれ」
「つまり、姉さんをお願いしますってことです。姉さんと結婚すれば、ジークさんは僕のお兄さんです」
 人差し指を立て、なぜか得意げに説明する。
 ジークは額を押さえ、大きくうなだれた。頭痛がしてきた。
「レオナルドなんかじゃダメなんです。一緒にいても、姉さん、少しも幸せそうじゃないし。姉さんにはきっとジークさんみたいな人がいいんです」
 アンソニーは力説した。ジークは疲れたようにため息をついた。
「あのな、そういうことは他人が頼むようなことじゃねぇだろ」
「他人じゃなくて、きょうだいです」
「本人じゃねぇって意味だよ」
「姉さんは奥ゆかしい人だから、僕が頑張らないと幸せになれないと思うんです」
 アンソニーは次々と淀みなく言い返してきた。
 ジークは奥ゆかしいという形容に疑問を感じたが、あえて反論はしなかった。アンソニーに背を向け、ごろんと寝転がった。ベッドのスプリングが微かに軋んだ。
「いくら頼まれても俺は無理だからな。他を当たれ」
 突き放すように言い放つ。
 アンソニーは困ったように顔を曇らせた。
「どうして? 姉さんのこと、嫌いですか?」
 ジークは背を向けたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……俺にはいるんだ、大切な奴が。何があっても、そいつとずっと一緒にいるって、そう決めたんだ」
 訥々と言葉を落としていく。その声は静かだったが、内に秘めた強い決意がにじんでいた。
「姉さんには、少しの望みもないんですか?」
「ない」
 アンソニーの質問に、ジークは迷いなくきっぱりと答えた。
 アンソニーは一瞬うろたえた。軽く握った右手を口元に当てると、じっと考え込んだ。沈黙が続く。やがて、ふっと表情を緩め、にっこりと微笑んだ。
「わかりました。仕方ないですよね」
 物わかりの良い態度に、ジークは安堵した。彼としても、これ以上きついことは言いたくなかった。
「じゃあ、せめて誰だか教えてください。ジークさんが心に決めた人」
 アンソニーはニコニコして尋ねた。ジークを覗き込もうと首を伸ばす。
「何でおまえにそんなことまで言わなきゃなんねぇんだよ」
 ジークは顔を隠すように、背中を丸めた。
 アンソニーはわずかに首を傾げた。
「アンジェリカ、ですか?」
「……知ってんなら聞くなよ」
 ジークは少し頬を赤らめ、ぼそりと言った。誰に教えたわけでもないのに、なぜか知られているという状況にも、いいかげん慣れてきた。
「言ってみただけです。他に思い当たる人がいなかったから」
 アンソニーはあっけらかんと言った。そして、人差し指を口元に当てると、考えを巡らせながら視線を上に向けた。
「でも、アンジェリカは本家の後継ぎですよね?」
「……わかってる」
 ジークは下唇を噛み、白いシーツをぎゅっと握りしめた。まっさらなシーツに深い放射状のしわが刻まれる。
「でも、俺が何とかしてみせる……絶対に……あきらめたりなんか、しない……」
 力のこもった低い声で唸る。それは、自分自身に対する決意の言葉だった。

 サイファは寝室の扉を開け、静かに足を進めた。中にはレイチェルがいた。鏡に向かい、ブラシで長い金髪をとかしている。サイファに気がつくと、にこりと笑いかけた。サイファも笑顔を返し、ベッドに腰を掛けた。
「ジークと話をしようと思ったんだが、先客がいてね」
「もう機嫌は直ったの?」
 レイチェルは鏡に向かったまま、悪戯っぽく尋ねた。サイファは小さく肩をすくめた。
「少し、大人げなかったね」
「ええ」
 レイチェルは彼に振り返り、にっこりと笑った。
「こんなにむきになったのも久しぶりだな」
 サイファは頭に手をやると、小さくため息をついた。
 レイチェルは鏡に向き直り、再び髪をとかし始めた。
「ジークさんだから、かしら」
 ちらりとサイファに視線を流して言う。
「かもしれない」
 サイファは目を伏せ、ふっと笑った。背中を丸め、膝に両腕をのせると、重々しく口を開いた。
「彼は覚悟を決めている」
 レイチェルは手を止め、ゆっくりと振り返った。サイファは真剣なまなざしを向けていた。固い表情で話を続ける。
「君は反対するかもしれないけれど、私はできるだけのことはしてやりたいと思っている」
「反対なんてしないわ」
 レイチェルは即答した。
「それが最良と思うなら、そのように行動して」
 瞬きもせずサイファを見つめ、凛とした声ではっきりと言った。
「君につらい思いをさせるかもしれない」
 サイファは険しい表情を見せた。
「私はサイファに従うわ。この指輪を嵌めたときに、覚悟は決めたもの」
 レイチェルは左手の薬指に嵌められた細い銀の指輪を、右手でそっと包み込んだ。彼女の透き通った深い蒼色の瞳は、まっすぐにサイファを捉えていた。それが彼女の答えだった。


80. 天使の名を持つ少女

 サイファは呼び鈴を鳴らした。
 中で濁った鐘の音が響いた。
 すぐに、古めかしい重厚な扉が、ギィと音を立てて開いた。中から姿を現したのは、小柄な若い女性だった。肩よりやや長いくらいの黒髪、わずかに茶色がかった黒い瞳。そして、地味な黒いワンピースと白いエプロンを身につけている。どうやらメイドのようだ。
「サイファ様、ですね」
 彼が名乗るより早く、彼女は抑揚のない声で尋ねた。
「ああ」
 サイファは短く返事をした。ズボンのポケットの中に左手を入れる。
「どうぞ、こちらへ」
 メイドは彼を中へ招き入れ、先導した。広い廊下から細い廊下へと進んでいき、突き当たりの扉の前で足を止めた。
 コンコン。
 軽く二度、扉を叩く。
「サイファ様をお連れしました」
「入れ」
 中から低い声が聞こえた。重く、威圧的な響きである。
 メイドは静かに扉を開けた。
 その部屋は書斎だった。広くはないが、小奇麗に片付けられている。微かに、古い本の黴びたような匂いがした。奥にはがっちりとした体格の男が座っていた。アンティークな机に肘をつき、戸口のふたりにじっと視線を送っている。
「フラウ、おまえは下がれ。茶もいらん。しばらく近づくな」
「かしこまりました、ルーファス様」
 メイドは一礼すると、すっと下がり、静かに扉を閉めた。軽い足音が遠ざかり、消えていく。
「すまないな、当主であるおまえを呼びつけてしまって」
 ルーファスは素っ気なく言った。すまないなどと思っていないことは明白だった。
「いえ、長老の命令には逆らえませんから」
 サイファはにっこりと大きく微笑んだ。
 ルーファスはわずかに眉をひそめた。
「まったく、おまえという奴は……。わかっていても口には出さぬ慣わしだ」
「あなたこそ、しらを切らなくても良いのですか」
 サイファは笑顔を保ったまま切り返した。
 長老会はラグランジェ家の重要事項に関する決定権を有している。その存在は当主以外には隠され、個々のメンバーについては当主にさえ知らされない。そのため、メンバーの察しがついても、それについては語らないのが暗黙のルールとなっているのだ。
 ルーファスは顔の前で両手を組み、ため息をついた。
「まあ、今は異常時だ。互いの立場をはっきりさせた方が、都合が良いだろう」
「今日の話のためにも、ですね」
 サイファがここへやってきたのは、話があるとルーファスに呼ばれたからだった。彼の話がどのようなものかは見当がついた。おそらく、アンジェリカのことだろう。正式にラグランジェ家の後継者とするための準備を進めるつもりに違いない。だが、サイファには、彼らの思いどおりにさせるつもりはなかった。
「あなたの話の前に、私の提案を聞いていただけませんか」
 険しいくらいに真面目な顔になり、丁寧な口調で頼んだ。
 ルーファスは鋭い目つきで彼を見上げた。
「良かろう」
 重々しい声で許可を出す。
 サイファは顎をわずかに上げると、口元に微かな笑みをのせた。
「ラグランジェ家を解体しましょう」
 ルーファスの眉がわずかにぴくりと動いた。
「冗談にしては面白みに欠けるな」
 ほとんど表情を変えず、抑えぎみに低音を響かせる。
 サイファはにっこりと微笑んだ。
「純血に拘泥することをやめ、本家筋のみを残して解体すれば、すべての問題が解決する、そう思いませんか」
 そこまで言うと、脇に抱えていた青いファイルを机の上に置いた。ノート数冊分ほどの厚みがある。表紙には何も書かれていない。
 ルーファスはそれを一瞥すると、ギロリとサイファを睨んだ。
「これは何だ」
「ラグランジェ継承に関する提案書です。現状の分析、新しい細則の草案、それを採用した場合の影響予測などをまとめてあります」
「細則の草案だと?」
 声が大きく、きつくなった。それでも、サイファは動じることなく、凛として説明を続けた。
「かいつまんでお話ししますと、基本的には第一子が継承すること、子がなければラグランジェの血を引く近親者を養子に迎え、継承させること、継承者の配偶者はラグランジェ家の者以外でも可とする。ただし、魔導の力を相当に有する者とする——といったところですね」
 ルーファスは身じろぎもせず聞いていた。青い瞳で、睨むようにサイファを見つめる。
「ラグランジェとランカスターの最大の違いは何だ」
「魔導力の有無ですか」
 サイファは面倒くさそうに答えた。ルーファスは自分たちのラグランジェ家と王家であるランカスター家を、何かにつけ比較していた。そして、結論はいつも自分たちの優秀性を示すものだった。サイファにはそれが有意義なこととは思えなかったし、聞き飽きてうんざりもしていた。
「そうだ」
 ルーファスは低く声を落とした。
「ランカスターはその名を守れば良い。ランカスターの名こそが王家の証だからだ。だが、ラグランジェは魔導の力を守らねばならん。ラグランジェの名に力を与えているのは、我々の魔導力だからだ。そして、ラグランジェが二千年もの間、魔導力を失わなかったのは、純血を守ってきたからだ」
 その声は次第に力を帯び、演説めいた口調になっていった。
 サイファは腕を組んで横を向き、ため息まじりに言った。
「だが、それが過ちの始まりでしょう」
「過ちなど何ひとつない」
 ルーファスは間髪を入れずに抗弁した。高圧的に声を張り、サイファを睨み上げる。
「強がりにしか聞こえませんね」
 サイファは肩をすくめた。
「アンジェリカを利用しても、一時凌ぎにしかならない。数世代後には、また同様の問題が起こるはずです」
「その頃には医学が発達しているだろう」
 ルーファスは事も無げに言った。
 サイファは薄笑いを浮かべた。
「遺伝子に手を入れるつもりですか。実に、あなたらしい考えだ」
 横髪を振り乱し、勢いよくルーファスに向き直る。
「だったら、アンジェリカを利用しなくても、それまで待てばいいでしょう」
「それでは間に合わん可能性もある」
 ルーファスはおもむろに立ち上がると、サイファに背を向けた。レースのカーテンを半分ほど開き、ガラス越しに空を見上げる。もう随分と陽が落ち、光は急速に力を失いかけていた。
「アンジェリカ、か……上手い名をつけたものだな」
 空を見上げたまま、独り言のようにつぶやいた。
「我々を破滅から救い、さらなる飛躍をもたらす新たなる血——まさに天からの使いだ」
 後ろで手を組み、ゆっくりと振り返ると、ニッと片側の口端を吊り上げた。
 サイファはにっこりと微笑んで応酬した。
「ラグランジェにとってではなく、私にとっての天使ですよ」
「ある日、不意に舞い降りた、というわけか」
 ルーファスは含み笑いを見せる。
 サイファはうつむいて下唇を噛んだ。ルーファスの云わんとしていることはわかっていた。
「参考までにお聞かせください。いつ、気づかれたのですか」
「あの子が生まれたときだ。証拠はなかったが、最も有りうる推測から導いた結論だ」
 サイファはふっと息を漏らした。
「私の父も、レイチェルの父も、長老会のメンバーですからね。推測に必要な情報を集めるのはわけもなかった、というわけだ」
 ルーファスはカーテンを引き、サイファに向き直った。
「アルフォンスはおまえを殴ってしまったことを、随分と気に病んでいた」
 サイファはにっこりと笑顔を作った。
「あの状況では手を上げるのも無理からぬことです」
「そうだ、嘘をついたおまえが悪い」
 ルーファスは強い語調で責めた。
「しかし、嘘をつかなければ、アンジェリカは生まれていなかったかもしれない」
 サイファは冷静に切り返した。
 ルーファスは冷たく凍りつくような青の瞳で、刺すように彼を睨みつけた。
「……結果的に、おまえには感謝しなければならないようだ」
 抑えた声でそう言うと、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。目を閉じ、背もたれに身を沈める。革がギュッと音を立てた。
「生まれたばかりのアンジェリカを手に掛けようとしたのは、あなた方、長老会ですね」
 サイファは静かに尋ねかけた。
 ルーファスは目蓋を上げた。天井を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「あれは私の独断だ。合意を取りつけていては手遅れになると思ったのだ。そのことは、他のメンバーに相当、非難されたよ」
「なるほど、だからそれ以降、動きがなかったわけですか」
 サイファは得心した。腕を組み、軽く息をつく。
 ルーファスは顔を上げたまま、目を細めた。
「我々の間でも意見が割れていてな。膠着状態が続いていた」
「そこへ、例の論文が出てきた」
 サイファがあとを続けた。
「そうだ、あれで我々の採るべき道は決まった。アンジェリカを後継者にすると」
 ルーファスの声に力がこもった。
 サイファは冷淡にルーファスを見下ろした。
「少々、勝手すぎやしませんか。殺そうとしたり、蔑んだり、散々なことをしておきながら、必要となれば強引に後継者に据えるなど」
「勝手なのはおまえの方だ」
 ルーファスは低く唸り、ギロリと睨めつける。
「子供が家を継ぐのは至極当然のことだ。おまえも、おまえの父も、そして私も、皆、そうやってきた。アンジェリカだけが好き勝手していい道理などない。ましてやラグランジェを解体するなど、愚劣極まる行為だ」
 サイファはふっと笑い、肩をすくめた。
「良い案だと思いますけどね。次第に出生数が減ってきていますし、その面においても無理が生じてきています。このままではいずれ血筋は途絶えますよ。その提案書に詳しくまとめてありますので、あとでゆっくりとご覧ください」
 にっこりとして、机の上の青いファイルを示した。
 ルーファスはフンと鼻を鳴らした。
「期待はせぬことだ。我々はラグランジェの名を形骸化させるつもりはない。このままでは途絶えるというのなら、新たな方策を探すまでだ。純血を保ったままでのな」
「言っていることが矛盾しています」
「アンジェリカのことは薬だと割り切る。我々よりも強い魔導力を持つ、優秀な血だからな」
「自分勝手で都合のいい解釈ですね」
 サイファは冷めた視線を送った。
「互いにな」
 ルーファスは気難しい顔で立ち上がった。戸口の方へ歩いていき、扉の横のスイッチを押す。パチンという音とともに、薄暗くなった部屋に、人工的な白い明かりが満ちた。
「私は、何もおまえたちを苦しめたいわけではない。できれば、幸せになってほしいと思っている」
「それは、ありがたいですね」
 サイファは笑顔で応じた。本心を隠すために表情を操作することには馴れているし、それが得意だという自負もあった。だが、乾いた口から発せられたその声は、少し掠れていた。
 ルーファスはゆっくりと戻り、再び席についた。そして、机の上で両手を組むと、ふっと意味ありげな笑みを浮かべた。
「私の提案は、おまえにとっても悪い話ではないはずだ」
「まずは、聞きましょうか」
 サイファは悠然とした口調で、余裕の態度を装った。
 ルーファスは真剣な面持ちで、まっすぐサイファを見据えた。
「アンジェリカの配偶者については、おまえに決定権を与える。ラグランジェの男子なら誰でも良い。自由に選べ」
「それで譲歩したつもりですか」
 サイファは鼻先で笑った。
 しかし、ルーファスは無視して話を続けた。
「ただし、その配偶者は表向きのものだ。別にもうひとり、事実上の夫を据える。こちらは既に決定していてな」
 サイファは怪訝に表情を曇らせた。話がきな臭くなってきたと思った。そもそも、なぜこのような繁雑なことをする必要があるのかが見えなかった。
 ルーファスは険しい目つきで彼を捉えた。
「おまえだ、サイファ」
 低い声が静かに響いた。
 サイファは目を見開いた。その言葉がずっしりと腹の底に落ち込む。頭の中がぐらりと揺れた。額に汗が滲んだ。
「……な……にを……」
 やっとのことで、それだけの言葉を絞り出す。鼓動が次第に激しくなっていく。全身が脈打っているのがわかる。暴れる心臓が痛く、苦しい。
 ルーファスは淡々と説明を始めた。
「本家筋を途絶えさせるわけにはいかんのでな。それに、今、ラグランジェで最も優秀なのはおまえだ。優れた血統を残すという意味でも、おまえ以外の選択は有り得ない」
「馬鹿な、娘だぞ!」
 サイファは身を乗り出し、両手でバンと机を叩きつけた。ギリ、と奥歯を食いしばり、ルーファスを激しく睨みつける。額から頬に、汗が伝った。
「何の問題もないと思うが」
「問題だらけだ!」
 反射的に噛みつく。
 ルーファスはゆったりとした動作で、机に肘を立てた。
「もちろん、生まれた子は、表向きの配偶者の子ということにしておく。世間的に非難されることもない」
「そういうことを言っているのではない」
 怒りを押し込めた低い声は、微かに震えていた。
 そんなサイファを見て、ルーファスはふっと笑みを漏らした。
「おまえの愛する娘を、誰の手にも渡さずに済むのだぞ?」
 語尾を上げ、挑発するように問いかける。
「私はあの子の父親だ!」
 サイファはカッと頭に血がのぼり、大きな声を張り上げた。机についた手はわななき、その指先は白くなっていた。
 ルーファスは追い打ちを掛ける。
「苦しい強がりだな。素直になれ」
「話にならない」
 サイファは舌打ちをした。くるりと背を向け、大股で歩き出す。そして、乱暴に扉を開けると、そのまま部屋を出ていった。
 ルーファスは何も声を掛けなかった。

 外は薄暗くなっていた。太陽の姿はもう見えない。すでに、空の大半を濃紺が支配している。
 振り切るように屋敷を飛び出したサイファは、冷たい空気を吸い込み、少し落ち着きを取り戻した。それでも、今はただ、この場を離れたいという思いでいっぱいだった。うつむき加減で足早に歩く。金色の髪が、緩やかな風になびき、さらりと揺れた。

「サイファ」
 前方から太い声がした。
 サイファははっとして顔を上げた。そこにいたのはアルフォンスだった。レイチェルの父親である。大きなごつい体に似合わない、上品で可愛らしいクリーム色の紙袋を携えている。
「もう帰るのか。一緒に食べようと思ったんだが」
 そう言って、その紙袋を掲げた。前面に有名なケーキ店のロゴマークが入っていた。
 サイファは何ともいえない複雑な表情を浮かべた。表情を上手く操作することができなかった。そもそも、どういう表情を作ればいいのかさえわからなくなっていた。
「話は、聞いたんだな」
 アルフォンスは真剣な顔になり、重い声を落とした。
「レイチェルに話しづらいのなら、私の方から……」
「お気遣いは無用です」
 サイファはアルフォンスを遮り、突き放すように冷たく言った。
 アルフォンスの顔に陰が落ちた。
「すまない。ずっと君に謝りたい、謝らねばならないと思っていた。それに、言葉では言い尽くせないほど感謝している。君が……」
「そんな必要はありません」
 サイファは毅然としてアルフォンスを見据えた。
「ですが、私たちのことを少しでも思ってくれているのなら、祖父を……ルーファスを説得してください」
 静かにそう言うと、返事を待たず足を進めた。アルフォンスのすぐ横をすれ違う。後ろから呼び止める声が聞こえたが、振り返らなかった。逃げるように、いっそう足を速めた。

 ルーファスの屋敷が見えなくなった頃、サイファはカチャリという小さな音を聞いた。ズボンのポケットの中からだった。はっとして足を止めた。左手をそっとポケットに忍ばせると、奥歯を噛みしめ、深くうなだれた。

「遅かったな。サイファはもう帰ったぞ」
 書斎に入ってきたアルフォンスを一瞥すると、ルーファスは無愛想に言った。
「家の前で会いました」
 アルフォンスは隅に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、どかりと腰を下ろした。ミシミシと嫌な音が部屋に響く。
「随分と怒っていたようです。彼が受け入れる望みは薄いのではないですか」
 ルーファスの表情を横目で窺う。彼は、微かに笑みを浮かべていた。
「いや、良い反応だ。サイファがこれほどまでに狼狽した姿を見せたのは初めてだろう。それだけ揺さぶられたということだ」
 アルフォンスはため息をついた。
「私は複雑な気持ちです。これではレイチェルが……」
「あの女に拒否する権利はない。当然の報いだ」
 ルーファスは冷然と言い放った。
 アルフォンスは押し黙ってうつむいた。何も言い返すことができなかった。

 コンコン。
 扉が軽くノックされた。
「入れ」
 ルーファスは顔を上げて言った。
 ガチャリと扉が開き、メイドが姿を現した。彼女が手にしている銀製のトレイには、二人分のケーキと紅茶が載せられている。ケーキはアルフォンスが持参したものだ。
 彼女は一礼して書斎に入ると、それをルーファスの机の上に置いた。芳醇な甘い匂いがほのかに漂う。彼女は再び一礼すると、すっと下がって部屋を出た。
 アルフォンスはフォークを手に取り、さっそくケーキを食べ始めた。ルーファスはそんな彼に、呆れたような冷めた目を向けた。
「いい年をしてケーキなど、情けない」
「ここのチーズケーキは絶品ですよ」
 アルフォンスは真顔で言った。
 ルーファスはケーキには手をつけずに、紅茶だけを口に運んだ。
「それは?」
 アルフォンスはフォークを持っていない方の手で、机の上の青いファイルを指さした。
「サイファが置いていったものだ。提案書とか言っていたな。下らん。私が受け入れるとでも思ったか」
 ルーファスはティーカップを置き、吐き捨てるように言った。
 アルフォンスはフォークを置き、そのファイルを手に取った。パラパラめくり、ざっと目を走らせながら、要所要所で手を止めじっくりと読む。
「数値については、多少、誇張された感はあるが、良く出来ている」
 最後まで目を通すと、ファイルを閉じ、そっと机の上に置いた。
「ラグランジェ解体か……思い切ったことを考えたものだ。いや、彼は昔から家や血筋に対するこだわりはなかったな」
「愚かな男だ」
 ルーファスは鼻を鳴らした。
 アルフォンスは目を伏せ、難しい顔をした。
「私は……これでも良いのではないかと思う。少なくとも血筋は途絶えない。これ以上、無理を重ねても、我々に未来があるとは思えない。過去の過ちを素直に認め、変わらねばならないのかもしれません」
「馬鹿を言うな」
 ルーファスは迫力ある低音で叱りつけた。
「ラグランジェは最善の方法で優秀な血を守ってきた。その証が我々の存在だ」
「サイファによれば、魔導力は減少するが 70パーセント程度で収束するという予測だ。悪くないと思うが」
 アルフォンスは遠慮がちに意見した。
 ルーファスは鋭くギロリと睨みつけた。
「机上の空論だ。人選に誤りがなかった場合の話だろう。不確定要素も多すぎる。どちらにしろ、ラグランジェの血が薄くなるのは止められまい。すべて外部の者と婚姻した場合、七代後にはラグランジェの血は 1%以下になる。それをラグランジェと言えるのか」
「魔導力を保つことと、純血を守ること、どちらが重要ですか」
「どちらも譲れん」
 アルフォンスはふうと息をついた。
「やはり、あなたを説得するのは無理のようだ」
「愚か者、今ごろわかったのか。何十年の付き合いだ」
 ルーファスは無表情で紅茶を口に運んだ。
「そろそろあなたの切れ味も鈍くなっている頃ではないかと思ったんですよ」
 アルフォンスはしれっとそう言うと、ルーファスの前に置かれたもうひとつのケーキに手を伸ばした。
 ルーファスは片肘を立て、手の甲に顎を載せた。
「この問題が片づくまでは、老け込むわけにはいかん」
「楽しそうですね」
 アルフォンスは口をもぐもぐさせながら、上目遣いでルーファスの表情を窺った。彼は嬉しそうに目を細めていた。
「ああ、サイファがどう出るか、実に楽しみだ」
 その言葉は本心なのだろうと、アルフォンスは直感した。ラグランジェ家の一大事だというのに、それを楽しむなど不謹慎だと思ったが、口には出さなかった。彼はルーファスとは違い、ただ平和的に解決することを願っていた。


81. 絡み合う矛盾

 サイファは王宮の廊下を、早足で歩いていた。人々が行き交う雑踏の中で、自分の靴音だけが際立って聞こえる。まるで、自分ひとりが隔離された空間にいるかのように感じていた。
 彼は足を止めた。ラウルの医務室の前だった。難しい顔で扉を見つめ、きゅっと口を結んだ。
 コンコン——。
 軽く二度、ノックをした。返事を待たずに扉を引き開ける。素早く中に入り、扉を閉めると、背中から倒れ込むようにもたれかかった。がしゃんと派手な音が部屋に響いた。
「何だ」
 机に向かっていたラウルは、顔を上げ、短く詰問した。だが、サイファの返事はなかった。うなだれたまま顔すら見せない。前髪と横髪が陰を作っている。
 サイファは後ろ手で扉を探ると、がちゃりと鍵をかけた。
「どういうつもりだ」
 ラウルは机に手をつき、立ち上がった。大股で彼へと足を進める。ぶつかるほど近くまで体を寄せると、背筋を伸ばして腕を組み、威圧的に睨みつけながら見下ろした。だが、うつむいている彼の表情は窺えない。
「どけ」
 ラウルはサイファの肩を掴もうと手を伸ばした。だが、逆にサイファがその手を掴んで止めた。震えるほどに強く力を込める。
「これは、おまえが受けるはずだったものだ」
 抑えた声でそう言うと、キッとラウルを睨み上げ、勢いよく殴りかかった。右の拳が一直線に伸びる。ラウルは避けることも防ぐこともせず、それを頬で受けた。微動だにしない。ただ、目だけをギロリとサイファに向けた。
 サイファは顔をしかめながら手を引き、その手を軽く振った。
「なんて固い顔だ……」
「説明しろ」
 ラウルは凄みのある低音で唸った。腕を組み、行く手を阻むように立ちはだかる。
「あとでな」
 サイファは彼の脇をすり抜け、医務室の中央へ躍り出た。さらに奥へ進み、ほとんど壁と同化した目立たない扉を開けると、躊躇することなく中へ入っていった。その先はラウルの居宅だった。そのことはサイファも知っているはずである。
 ラウルは彼の勝手な行動に驚き、慌てて後を追った。

 サイファはリビングにいた。腰に手をあて、ぐるりと部屋を見回している。
「いい部屋じゃないか。きれいに片付いている」
「出て行け」
 ラウルは上腕を掴み上げた。サイファはそれを振りほどくと、ラウルに背を向けうなだれた。
「今晩だけでいい、泊めてくれ」
 弱々しく、息を吐くように言葉を落とす。肩が小さく揺れた。
「断る。帰りたくないのなら、魔導省の宿泊施設を使えばいいだろう」
 ラウルは冷たく撥ねつけた。後ろからサイファの肩を掴み、乱暴に引く。彼の体がよろけた。そのまま追い出そうとする。だが、サイファはその手を払いのけると、逆に奥の部屋へと駆け込んだ。すぐに鍵をかけ、扉全体に強い結界を張る。青白い光が、鈍く浮かんで消えた。
 サイファは前髪をくしゃりと掴むと、ふぅと息を吐き、暗い部屋を見渡した。
 そこは寝室だった。大きなベッドの横に、小さなベビーベッドが置かれている。それは、以前、ラウルとともに組み立てたものだった。サイファの表情がわずかに緩んだ。幼子の成長は速い。ルナもそろそろベビーベッドが不要になる頃だろうか。そんなことを考えながら、壁を背に、崩れるように座り込んだ。立てた膝の上に腕をのせ、深くうなだれる。
 扉には、自分の精一杯の力を込めて結界を張った。しかし、ラウルならこのくらい軽々と解除できる。鍵も外から簡単に開けられる構造のものだろう。きっとすぐに入ってくるに違いない。そう思ったし、それを少し期待もしていた。しかし、扉は沈黙を保ったままだった。
 サイファはため息をついた。呆れられたか、諦められたかのどちらかだろう。いや、どちらも同じ意味だ。一抹の寂しさを感じながらも、それならここで一晩じっくりと頭を冷やすことにしようと思った。
 そのとき。
 激しい爆裂音とともに、扉が砕けた。大小多数の破片が勢いよく飛び散る。サイファは目を見張った。とっさに頭の前に手をかざし、身を庇う。いくつもの破片が近くを掠め、いくつかの破片は体に当たった。
 パラパラと軽い音が聞こえる。小さな礫が床を打つ音だ。飛散が落ち着いたようである。サイファはゆっくりと顔を上げた。
 バシャン!
 待ち構えていたかのように水が飛んできた。避ける間もなく顔面から冷水を浴び、全身ずぶ濡れになった。サイファは水を滴らせながら、呆然として前を見た。
 砕けた扉の向こうに、青いバケツを持ったラウルが立っていた。白い雑巾をサイファの顔に投げつけ、空のバケツを乱暴に転がした。
「後始末をしておけ」
 ラウルは無表情でそう言い残すと、外へ出て行った。
 サイファは唖然として大きく瞬きをした。遠くで戸が閉まる音を耳にすると、ふと我にかえった。なぜか不意に笑いがこみ上げてきた。手の甲で顔を拭いながら、肩を揺すって笑った。情けなくて、可笑しくて、たまらなかった。

 数十分後、ラウルは戻ってきた。
 サイファは膝をついて床を拭いていたが、彼を一瞥すると、雑巾をバケツに掛けて立ち上がった。
「とりあえず、破片は一箇所に集めた。床も拭いた。扉は明日、人をよこして修理させるよ」
「少しは頭が冷えたか」
 ラウルは斜めに構え、愛想なく言った。
「ああ、風邪をひきそうだ」
 サイファは肩をすくめた。髪も服も、まだ生乾きだった。
 ラウルは脇に抱えていた紙袋をサイファに投げた。サイファは怪訝な顔で受け取ると、中を覗き込んだ。そこには着替えが入っていた。顔を上げ、ラウルを鋭く睨みつける。
「レイチェルに何を言った」
「言われて困るようなことをするな」
 ラウルは冷ややかに切り返した。サイファはわずかに顔をしかめた。
「おまえがそんなにお節介だとは知らなかった」
 ラウルはため息をつき、腕を組んだ。
「おまえのせいでルナを連れ帰れなくなった。レイチェルに世話を頼むしかない。それには理由が要る」
 あからさまに面倒くさそうな口調で説明をする。サイファは眉をひそめ、じっと彼を見つめた。
「浴室、借りるぞ」
 無反応な横顔に声を掛けると、紙袋を脇に抱え、浴室に向かった。

 サイファは冷えた体を熱いシャワーであたためた。
 本当に風邪をひくかと思った。いや、もしかしたら、もうひいてしまったかもしれない。そのときはラウルにうつしてやる——心の中でそう毒づいた。だが、ラウルが風邪をひくのだろうかという疑問が、ふと頭に浮かんだ。少なくともサイファはそのような姿を見たことがなかったし、話に聞いたこともなかった。

 サイファは部屋着に着替えて浴室から出てきた。ラウルはダイニングでひとり紅茶を飲んでいた。
「勝手にバスタオルを使わせてもらった。あとハンガーも」
 サイファはラウルの隣に座った。疲れたように、軽くため息をつきながら頬杖をつく。ラウルはちらりと彼に目を向けた。
「手を見せろ」
「ん? ああ、これか?」
 サイファは右手の甲を見た。小指の付け根あたりから、斜めに赤い線が入っている。ラウルが扉を蹴り壊したとき、その破片が当たってついた傷だ。すでに血は止まっている。それほど深いものではない。だが、傷のまわりが少し赤く腫れていた。
 ラウルは立ち上がり、長髪を揺らしながら、隣の部屋へ入っていった。そして、すぐに小さな救急箱を持って戻ってきた。それをテーブルの上に置き、椅子に腰を下ろすと、サイファの右手をとり、手際よく消毒を始めた。サイファは痛みに顔をしかめた。
「ここだけか」
 ラウルは手を動かしながら尋ねた。サイファは不機嫌な顔で、頬杖をついた。
「全身、調べるか」
 ラウルは取り合わなかった。薬を塗りながら話を変えた。
「情けないな、あれしきのことで傷を作るなど」
「まさか結界ごと扉を蹴破るなんて思わないよ、普通は」
 サイファはふてくされて言った。
「おまえは昔から、予想外に攻撃を受けたときの対処がなっていない。致命的な弱点だ」
 ラウルは大きめの絆創膏を貼った。サイファはひったくるように手を引き抜いた。
「もういちど、おまえに教えを請おうかな」
「見込みはない、やめておけ」
 ラウルは素っ気なく言った。
「冗談だ。真に受けないでくれ」
 サイファは肩をすくめ苦笑した。ラウルは無表情で、救急箱を片付けた。

「落ち着いたら腹が空いてきたな。何か作ってくれるんだろう?」
 サイファは台所を眺めながら言った。使い込まれているが、きれいに片付いている。乳児用と思われる食器もいくつか目についた。
「外で食ってこい」
 ラウルは冷たく一蹴した。サイファには目もくれず、紅茶を口に運ぶ。
「そんな気分じゃないんだ」
「だったら、何か出前をとれ」
 サイファは微かに笑って頬杖をついた。
「おまえの手料理を食べてみたいんだよ。ずっと、そう思っていた。作ってくれるんだろう? 私にも」
 私にも、のところに力を込めて言うと、まっすぐに視線を送り、ニヤリと意味ありげに笑った。
 ラウルは刺すような鋭い目をサイファに向けた。
「贅沢は言わない。簡単なものでいいよ」
 サイファは一転して軽い調子になった。明るく笑いながら言う。
 ラウルはじっと睨みつけていたが、やがて立ち上がり、流し台へ向かった。観念して何かを作り始めたようだ。サイファはにこにこして、その後ろ姿を眺めた。

 ラウルは皿をふたつ手にして戻ってきた。ふたつとも同じスパゲティだった。細やかな霧のような湯気が立ち上っている。それを机の上に置くと、力任せに椅子を引き、どかりと座った。サイファに振り向くこともなく、無言のまま食べ始めた。
 サイファは皿を引き寄せた。スパゲティをフォークに巻きつけ、口に運ぶ。ゆっくりと噛みしめ、じっくりと味わう。
「……美味いよ」
 微かに笑ってうつむくと、ぽつりとつぶやいた。

 サイファが食べ終わると、ラウルは待ち構えていたかのように立ち上がり、後片付けを始めた。湯を沸かしながら、手慣れた様子で皿や鍋を洗う。
「ルーファスに呼ばれたんだ」
 サイファは静かに口を切った。机の上に、組んだ手をのせる。ラウルは動きを止めることなく皿を洗っていた。水の流れる音が続く。聞いているのかいないのかわからなかったが、サイファは話を続けた。
「アンジェリカについての通告だったよ」
 ラウルは皿洗いを終え、水を止めた。そして、沸騰したやかんの火を止めると、紅茶を淹れ始めた。相変わらず、聞いているのかどうか判別できない態度である。だが、聞こえていないということはないだろう。
「長老会は、私を彼女の事実上の夫にすると決定したそうだ」
 サイファはさらりと言った。まるで他人事のようだった。
 ラウルの手が一瞬、止まった。
「どういうことだ」
 背を向けたまま静かに尋ねた。サイファは表情を変えず、落ち着いた声で答える。
「私に、彼女と子をなせと……」
 ラウルはティーカップをふたつ持って戻ってきた。サイファの隣に腰を下ろすと、ティーカップのひとつを彼の前に差し出した。
「了承したのか」
「逃げてきた」
 サイファはうつむいて答えた。ティーカップを手にとり、紅茶を口に運ぶ。そして、小さく息をついた。
「怖かったんだ。馬鹿なと思いつつ、気持ちが傾いていた」
 サイファは再び机の上で手を組んだ。
「彼女を意に添わない男にやるくらいなら、と考えてしまったよ。それだけじゃない。それ以上に、積極的に惹かれたことがあった。抗いがたいほどの魅力のあるもの……」
 その手が微かに震えた。
「子供だ」
 ぽつりと言葉を落とす。ラウルは無表情で、彼に視線を流した。
「だって、奇跡だろう?」
 サイファは声を張り、勢いよく振り向いた。横髪が揺れ、ぱさりと頬を打つ。
「成し得ないはずのことが実現するんだ。私たち三人の絆の完成形だよ。ラグランジェ家にとっても、私個人にとっても、最高の存在となるはずだ」
 右手を広げながら、そう力説した。だが、すぐに強気な表情は崩れた。自嘲ぎみに笑うと、額を掴むように押さえた。
「私は狂っている。自分でも呆れるよ。ルーファスがここまで知っていたのかは不明だが、まったく、上手い策を考えたものだ」
「わからないな」
 ラウルがようやく口を開いた。
「おまえは私を憎んでいるのではないのか」
「ラウル、おまえ……何もわかっていなかったのか」
 サイファは額に手を置いたまま、背中を丸めて笑った。ラウルは眉をひそめ、彼を睨んだ。サイファは笑うのをやめ、背もたれに寄りかかり、目を細めて天井を見つめた。
「ときどき腹立たしく憎らしく思うことはあっても、結局はおまえのことが好きなんだ。子供の頃、そう言ったことがあっただろう? その気持ちは、今もずっと変わらない」
 柔らかい声でそう言うと、ふっと笑って目を閉じた。
「家庭教師としておまえに来てもらって、いろいろな話を聞いたな。新しい魔導も教えてもらった。毎日、世界が広がっていくように感じたよ。あの頃はただ無邪気に楽しかった」
「家庭教師としての役割を果たしただけだ」
 ラウルはつれなかった。無愛想にそう言うと、ティーカップに手を伸ばした。
「そう言うだろうと思った」
 サイファはにっこりと笑った。
「私にとって、おまえは最高の師であり、兄のような父のような存在、そして、かけがえのない友だ。もっとも、すべて私の一方的な思いにすぎないが」
「話が脱線している」
 ラウルは腕を組んだ。
「そうだな」
 サイファは頬杖をつき、顔を斜めにしてラウルを見つめると、口元を緩めた。
「では、おまえの意見を聞かせてくれ」
「私には関わりのないことだ」
 ラウルは腕を組んだまま、サイファには目も向けずに答える。
「よく平然とそんなことが言えるな」
 サイファは呆れたように言った。
「元はと言えば、おまえの行動が招いた結果だろう。助言のひとつくらい、くれてもいいと思うがな」
「……レイチェルはどうするつもりだ」
 ラウルは前を向いたまま、口だけを動かして尋ねた。サイファは彼の横顔をじっと見つめ、真剣な面持ちで答える。
「彼女は私の決定に従うさ。たとえそれがどんなものだとしても」
 ラウルはわずかに振り向き、横目で睨みつけた。組んだ腕の中で、こぶしを握りしめる。
 サイファは顎を引き、負けじと強い視線を返した。
「言いたいことがあるなら、口に出して言ったらどうだ」
 しかし、ラウルは口を開かなかった。サイファはさらに挑発を続ける。
「私は利用できるものは何でも利用する。必要とあれば、負い目を盾に優位に立つことも辞さない。相手が誰であろうとな。そのことは、おまえがいちばん知っているはずだ」
「おまえがそういう人間だということは知っている。だが……」
 ラウルはいったん言葉を切った。奥歯を噛みしめ、わずかに眉をしかめる。
「レイチェルだけは大切にすると思っていた」
 低く抑えた声で言った。
 サイファは微かに笑みを漏らした。
「ああ、とても大切だよ」
 涼しい声で答える。
「彼女がこの世に生を受けたときからずっと、変わらずに愛情を注いできた。私なりに全力で守ってきた。そして、これからも……」
 ゆっくりと目を伏せていく。そして、祈るように両手を組むと、その上に額をのせた。
「だが、今、気持ちが揺らいでいるんだ。彼女を悲しませる奴は許さないと思いつつ、私自身がそういう決定をしてしまうかもしれない。いや、今回だけじゃない。あのときだってそうだった。彼女の気持ちも聞かず、私の一方的な決断を押しつけたんだ。もしかしたら、彼女は……」
 そこで言葉を切った。おもむろに顔を上げ、ラウルに振り向く。
「最低だろう?」
 憂いを含んだ瞳で問いかける。ラウルは険しい表情で、激しく睨めつけた。
「私に何を言わせたい」
「無関心でいてほしくないだけさ。どんな非難の言葉でも、何もないよりはずっといい」
「甘えるな」
 ラウルは冷たく突き放した。
「おまえにしか甘えられない」
 サイファは真顔で言った。
 ラウルは大きくため息をついた。
「まだ、頭が冷えていないようだな」
「水責めだけは勘弁してくれ」
 サイファは苦笑した。
「もう寝ろ」
 ラウルは面倒くさそうに言った。
「ああ、その方が良さそうだ」
 サイファは残りの紅茶を一気に流し込んだ。もうすっかり生ぬるくなっていた。カップを机に戻して立ち上がると、扉が壊れたままの寝室へ向かった。
「おまえにとって家族とは何だ」
 背後からラウルの声が聞こえた。サイファは目を大きくして足を止めた。ゆっくりと振り返る。
「今まで何のために守ってきた」
 ラウルは背を向けたまま、再び問いかけた。
 サイファは目を閉じ、ふっと息を漏らすと、再び寝室へと足を進めた。

 あたたかい——。
 サイファはぼんやりと目を覚ました。カーテンの隙間から射し込む光が、顔に当たっていた。眩しさに思わず目を細める。
 ここは——。
 手をかざして光を遮りながら、あたりを見回した。見知らぬ天井、見知らぬカーテン、懐かしい匂い、ベビーベッド、壊れた扉の破片、手の甲の絆創膏……。
 そうだ、ここはラウルの寝室——。
 きのうの出来事が、一気に頭に蘇った。
 サイファは体を起こした。顔を上げ、時計を探す。掛時計の針は、いつも起きる時間よりも前を指していた。寝過ごしたわけではない。安堵してほっと息をついた。
 扉のない入口からは、人工的な光が微かに漏れ入っていた。ダイニングからのようだ。サイファはベッドを降り、引き寄せられるように歩いていった。
 そこは蛍光灯の明かりで満ちていた。その下で、ラウルは紙の束に囲まれていた。生徒たちのレポートらしい。ペンを片手に読み進めている。
「おはよう」
 サイファは微笑んで挨拶をした。
「ああ」
 ラウルはレポートに目を落としたまま、気のない返事をした。
「もしかして、一晩中、起きていたのか」
 サイファはラウルの向かいに座った。目の前のレポートを手にとり、頬杖をつきながらパラパラとめくる。ラウルはサイファの手からレポートを奪い返した。
「寝る場所がない」
「ソファがあるだろう」
 サイファは平然と言った。ラウルは眉をひそめて睨みつけた。しかし、サイファはまるで意に介していないようだった。
「おまえのベッド、寝心地が良くないな。マットレスが古いんじゃないのか」
「人のベッドを占領しておいて言うセリフか」
 ラウルはため息まじりに言った。そんな彼を見て、サイファはニコニコとしていた。
「少しは落ち着いたか」
 ラウルは再びレポートに目を落として言った。サイファは肩をすくめた。
「きのうのことを思い返すと恥ずかしいな」
「まるで子供だ」
「大目に見てくれ。まだ三十数年しか生きていないヒヨッコだからな」
 上目遣いにラウルを見て、ニッと笑う。ラウルは下を向いたまま、わずかに顔をしかめた。
「どうするか、決めたのか」
「ジークに頑張ってもらうことにしたよ」
 サイファはさらりと答えた。ラウルは顔を上げた。険しい表情だった。
「何をさせるつもりだ」
「それは彼自身に考えてもらう。彼が無茶をしても、アンジェリカには危害は及ばないだろうからね。思う存分、暴れてもらうさ」
 サイファの口調は、どこか楽しそうだった。
「あいつには無理だ」
 ラウルはペラリとレポートをめくった。
「気楽に見守るよ。どちらに転んでも、私には悪い話ではないからね。ジークの力が及ばなかったときのことを考えると、私は表立って動かない方がいいだろうな」
 ラウルはひと睨みしただけで、何も言わなかった。
「最低だと思っているか」
「ああ」
「それはどうも」
 サイファはにっこりと微笑んだ。そして、机の上に置いてあったペンを手にとると、指でくるりと回した。
「私のやり方が気に入らないのなら、自分で行動を起こせばいい。最低なのは、傍観者を決め込んでいるおまえも同じさ」
 そう言うと、ニッと挑むように笑い、ペンをラウルの額に突きつけた。彼は無表情のままだった。
「さ、朝食の時間だ」
 サイファは軽い調子で言うと、机の上で腕を組んだ。
「もう帰れ」
 ラウルは苛ついた様子で命令した。しかし、サイファはそれに従うつもりなど微塵もなさそうだった。ニコニコしながらラウルを見ている。
「今朝はコーヒーが飲みたい気分だな。ブラックで頼むよ。インスタントは駄目だからな」
 ラウルは呆れ果てて、何も言い返す気になれなかった。下手に言い返しても、よけいに疲れるだけだと悟ったのだ。黙って立ち上がると、レポートを脇に置き、台所へと向かった。



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