目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

閉じる


<<最初から読む

74 / 94ページ

74. 動き始めた長老

「ユールベル=アンネ」
 ずっしりと体に落ち込むような重みのある低音が、アカデミーの廊下に響いた。背後から名を呼ばれた彼女は、びくりと体をこわばらせた。並んで歩いていたレオナルドも、けわしい顔で足を止めた。ふたりが振り返ると、そこには気難しい顔をした年輩の男が、後ろで手を組み立っていた。堂々たる恰幅を見せつけるように胸を張り、背筋をピンと伸ばしている。その佇まいからは強い威厳が感じられた。
「おまえに話がある。一緒に来てもらおうか」
 男は有無を言わせぬ口調で、一方的に告げた。ユールベルの目に怯えの色が浮かんだ。レオナルドは一歩踏み出すと、彼女を庇うように、その前に右手を伸ばした。
「どうしてあなたが……」
「レオナルド=ロイ、おまえに用はない」
 口をはさみかけたレオナルドを、男は冷徹な視線で鋭く射抜いた。レオナルドは体をすくませた。喉が乾き、張りつきそうになった。無理やり唾を飲み込もうとする。
 男はユールベルに目配せをすると、後ろで手を組んだまま歩き始めた。
「レオナルド、先に帰って」
 ユールベルは固い声でそう言うと、早足で男のあとを追った。
「待て!」
 レオナルドは手を伸ばし、引き止めようとした。しかし、気持ちとは裏腹に、足は凍りついたように動かない。自分を圧倒する者に対する防衛本能が、足を進めることを拒絶していた。自分の情けなさが腹立たしくて仕方なかった。下唇を噛みしめ、爪が食い込むほどにこぶしを握りしめた。

 ユールベルと男は、アカデミーの外れにある寂れた教会へとやってきた。こじんまりとして古びているが、手入れは行き届いているようだ。床も、長椅子も、ステンドグラスも、祭壇も、丁寧に磨き上げられていた。
 カツーン、カツーン——。
 男はゆったりと靴音を打ち鳴らしながら、教会へ足を踏み入れた。そして、中央まで足を進めると、踵を返し、扉付近で立ち尽くしているユールベルをまっすぐに見つめた。扉から射し込む夕陽が、彼女を後ろから照らし、金の髪を鮮やかに縁取った。床に落ちた長い影は、男の足元まで伸びている。
「おまえにやってもらいたいことがある」
「私なんかに何を頼むっていうの」
 彼女はあごを引き、上目遣いでじっと男を睨んだ。
「そう構えるな。簡単なことだ」
 男は幾分、柔らかに言ったが、彼女の警戒心が緩むことはなかった。彼を見据えたまま、無言で次の言葉を待った。男はそれに応じ、核心を口にした。
「アンジェリカとジークの仲を裂いてほしい」
 ユールベルは目を見開いた。
「男を誘惑するのは得意だろう?」
 彼はさらに畳み掛けた。表情を動かさず、しかし、意味ありげに彼女を見る。ユールベルはカッと顔を紅潮させ、その瞳に激しい怒りをたぎらせた。
「断るわ。他をあたって」
 抑制されたその声は、微かに震えていた。声だけではない。肩も、腕も、背中も、小刻みに震えていた。そして、耐えかねたように背を向けると、教会から出ていこうとした。
「今夜はシチューの予定だったようだな」
 男は声を張った。ユールベルは足を止め、怪訝に振り返った。話の流れが掴めない。戸惑いの表情を浮かべ、瞳で問いかける。
「アンソニーを預かっている」
 男は静かに答えた。彼女ははっと息を呑んだ。みるみるうちに顔が青ざめていく。
「監禁がどんなものか、おまえには言うまでもないだろう」
「アンソニーはどこ?!」
 彼女は長い髪を揺らし、切迫した声を上げた。男はふっと小さく笑った。
「役目を果たせば帰すと約束する。変な気は起こすな。おまえには常に見張りがついていると思え」
 ユールベルの右目が潤んだ。今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。何か言いたそうに口を開こうとしたが、何も言えなかった。はぁっと息を吐くと、弾けるように教会から飛び出した。緩やかなウェーブを描いた金の髪を煌めかせ、夕陽の中へと消えていった。

 レオナルドは腕を組み、アカデミーの門前を落ち着きなくうろついていた。一分が一時間にも感じる。難しい顔で、何度も何度も校舎の方に目を向けた。
「ユールベル!」
 レオナルドはようやく彼女の姿を捉えた。ほっとしたように呼びかけ、走り寄った。しかし、彼女はうつむいたまま、彼を無視して走り過ぎた。
「待て!」
 レオナルドは焦って振り返ると、彼女の細い肩を掴んで止めた。
「何があった?」
「何も……」
 ユールベルは顔を背けたまま、感情を押し殺して言った。だが、その声にはわずかに涙が混じっていた。レオナルドは彼女の正面にまわりこみ、両肩を掴んで覗き込んだ。
「何も、って顔じゃないだろう」
「ごめんなさい……。今はひとりにして。お願い」
 ユールベルは涙を浮かべ懇願した。レオナルドは目を細めうつむいた。彼女の肩にのせた手に、ぐっと力を込める。
「……わかった」
 自らを抑えるようにそう言うと、肩からそっと手を放した。ユールベルはすり抜けるように彼から離れ、走って校門を出ていった。
 ——ひとりにして良かったのだろうか。
 レオナルドは自分の判断に自信が持てなかった。彼女の表情を思い返し、後悔と自己弁護の狭間で揺れた。

 ユールベルは全力で走り、息をきらせて自宅へ戻った。ドアノブに手を掛けまわすと、引っかかることなく半回転した。鍵はかかっていないようだ。荒い息を整えるように大きく呼吸をし、ごくりと唾を飲み込む。そして、意を決して扉を開くと、中へ駆け込んだ。
 しんと静まり返った部屋には、人の気配はない。だが、ソファの上には、アンソニーが学校へ行くときに使っている鞄が置いてあった。ユールベルの鼓動はますます早く強くなっていった。他の部屋をひとつづつまわっていく。どこにも彼の姿はない。最後に台所を覗く。そこには、シチューの材料と思われる食材が準備してあった。まな板の上には、人参が切りかけのままで放置されていた。
 ——今夜はシチューの予定だったようだな。
 彼女の脳裏に男の低い声がよみがえった。彼はこのことを知っていた。おそらく、ここからアンソニーを連れ去ったのだろう。彼女は両手で顔を覆い、その場に泣き伏した。

 ひとしきり泣いたあと、彼女は駆け足でアカデミーに戻った。まもなく日が落ちようかという頃だ。校舎内には、もうまばらにしか人はいない。その中を、彼女は靴音を響かせ走りまわった。あてはない。ここにいるとは限らない。既に帰ったかもしれない。それでも今はこれしか出来ない。

「ホント頭に来るぜ、ラウルのヤツ」
「ジーク、いつも同じこと言っているわよ」
「それで気が晴れるんならいいけどね」
「晴れるわけねーだろ」
 ジーク、リック、アンジェリカの三人は、他愛もない話をしながら図書室から出てきた。
「やっと、見つけた……」
 ユールベルは肩を大きく上下させ、切れ切れに言葉を落とした。思いつめた顔でジークを見つめる。ジークも彼女の存在に気がついた。様子が普通でないことは、ひと目でわかった。怪訝な視線を彼女に向ける。リックとアンジェリカも、つられて彼女に目を向けた。
 ユールベルはまっすぐジークを見つめながら、距離を縮めていった。息づかいまで感じられるほどに近づく。ジークはうろたえ、後ずさろうとした。だが、彼女がそれを許さなかった。踵を上げ、彼の首に手をまわし、体を寄せて抱きついた。
「え? ちょっ……おまえっ、おいっ!」
 ジークは激しく狼狽した。ふわりと舞い上がった甘い匂いが鼻をくすぐる。そして、胸元に感じる柔らかなふくらみ、首筋にかかる温かい吐息——。一瞬、頭の中がぐらりと揺れたように感じた。
 しかし、彼女が次に口にした言葉が、彼の理性を呼び戻した。
「弟が人質に取られているの。私も見張られている」
 ジークにだけ聞こえるように、耳元で小さく言った。彼ははっとした。それだけで、何が起きたのかおおよその見当がついた。
「詳しい話、聞かせてくれ」
 彼女の頭に手を添えると、その耳に触れるくらいに口を近づけ、囁くように言った。ユールベルは浅くこくりと頷いた。

「悪い、俺、今日はユールベルと帰る」
 ジークは、呆然としているリックに振り返り、さらりと言った。なるべく何でもないふうを装った。だが、アンジェリカには何も言えなかった。目を向けることすらできなかった。
「……何か、あったの?」
 アンジェリカが後ろからぽつりと問いかけた。
「別に」
 ジークは背を向けたまま、素っ気なく答えた。そして、ユールベルの手を引き、足早に去っていった。
 アンジェリカは無言でふたりの後ろ姿を見送った。リックは心配そうに彼女の横顔を窺った。

 あたりは紺色に包まれていた。頬にあたる風も、ずいぶんひんやりとしてきた。ジークとユールベルは、急ぎ足で校庭を横切り、教会へとやってきた。扉は閉まっていた。だが、ジークは躊躇することなく両開きの扉を引いた。
 ギィ——。
 軋み音が静寂を裂いた。扉がゆっくりと開かれていく。
 中はだいぶ薄暗かった。暖色の明かりがほのかに祭壇を浮かび上がらせている程度である。しかし、そのことが、昼間よりも教会らしい雰囲気を醸し出していた。
 ジークは無遠慮にドタドタと音を立てながら踏み入った。ユールベルの手を引き、祭壇に向かって進んでいく。そして、いちばん前の長椅子に彼女を座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「少し前に、ルーファス=ライアンに連れられてここに来たの」
 ユールベルは声をひそめて言った。
「それ、アンジェリカのひいじいさんか?」
 ジークも小声で尋ねた。直感的にそう思った。それ以外に思い当たる人物はいなかった。
 ユールベルは小さく頷いた。
「ラグランジェ家の先々代当主よ。知っているの?」
「ああ、一度、話をしたことがある」
「そう」
 彼女の胸に漠然とした不安が広がった。ジークがここまでラグランジェ家に関わっていたとは思わなかった。
「それで?」
 ジークは続きを催促した。ユールベルは頷いて本筋に戻った。
「彼は、弟を預かっていると言ったの。家に帰って確かめたけど、実際に夕食を作りかけでいなくなっていたわ」
 そこまで言うと、目を細めうつむき、右手で額を押さえた。
「帰してほしければ、あなたとアンジェリカの仲を裂けって。私を常に見張っているとも……」
 ジークはあたりを見渡した。姿は見えないが、確かに人の気配のようなものは感じる。見張られているのは事実かもしれないと思った。
「仲を裂くって、どうすればその役目を果たしたことになるんだ?」
 ユールベルは首を横に振った。
「わからないわ。見張りがいるとすれば、その見張りが判断するのかもしれない」
 ジークは背もたれに両腕を掛け、天井を仰いだ。
「ヤツらにそう思わせて返してもらうか、それとも乗り込んでいって奪い返すか……」
「乗り込むってどこへ?」
「監禁場所に心当たりはねぇのか?」
 ユールベルは固い顔でうつむき、首を横に振った。ジークはため息をつきながら、再び天井を仰いだ。
「弟も魔導は使えるんだろ? 逃げ出して来ないってことは、多分、結界を張られてるんだろうな」
 ユールベルの顔からさっと血の気が引いた。膝の上にのせた小さなこぶしをきつく握りしめると、うつむいたまま顔をこわばらせた。細い肩は、何かに耐えるようにわなないている。
 ジークはそれを目にして気がついた。彼女は自分の過去を思い出しているのだと。
「悪りィ。嫌なことを思い出させちまったな」
 彼は申しわけなさそうに顔を曇らせた。ユールベルは顔を上げ、すがりつくように彼の袖を掴んだ。
「アンソニーをあんな目に遭わせたくない! はや……」
 ジークはあたふたとして彼女の口を手でふさいだ。
「声がでかいっ」
 ユールベルはしゅんとして黙り込んだ。ジークは安心させるように、今度は落ち着いた口調で言った。
「大丈夫だろ。あいつを傷つけるのが目的じゃねぇんだ。ひどい扱いはされてねぇよ」
「自宅……かもしれない」
「え?」
 ジークはぽかんとした。ユールベルは彼を見上げた。
「部屋がひとつあればいいもの。結界を張ってあるとはいえ、誰が近づくかわからない外より、自分の家の方がよほど安全だわ」
「確かにな」
 ジークは腕を組み、考え込んだ。
「あいつの家はどこかわかるか?」
「いいえ、アンジェリカやおじさまなら知っていると思うけど……」
 ユールベルはうつむき、言葉を詰まらせた。
「訊くわけにはいかねぇよなぁ」
 ジークがそのあとを引き取って続けた。ため息をつき、腕を組んだまま視線を上げた。口をきゅっと結び、目を細める。
「ラウル……」
 ユールベルはぽつりと言った。そして、驚くジークに振り向き、彼と視線を合わせた。
「ラウルも知っているかもしれないわ」
「ラウルか……」
 ジークはあからさまに嫌そうに言った。顔をしかめ、頭を掻く。ユールベルは意気消沈してうなだれた。
「心配すんな。訊きに行くって」
 ジークは彼女の肩をぽんと叩くと、立ち上がってジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「行くぞ」
 ユールベルは立ち上がり、彼のあとについて行った。

「おまえら……!」
 ジークは目を見開いた。そこにいたのはリックとアンジェリカだった。教会の外で待ち構えていたのだ。リックは心配そうに顔を曇らせた。アンジェリカは、後ろで手を組みうつむいた。
「帰れよ」
 ジークは視線を落とし、感情のない声で告げた。リックは彼の正面にまわりこんだ。
「何か事情があるんだったら、僕らにも話してよ、ね?」
 優しく笑顔を作り、訴えかける。しかし、ジークは苛ついたように舌打ちして、顔をそむけた。
「なんもねぇよ。俺が誰とどう過ごそうと関係ねぇだろ」
 突き放すように答えると、ユールベルの手首を掴み、足早に校舎へと向かった。
「ジーク!」
 リックは彼を引き止めようとした。だが、アンジェリカはそれを静かに制止した。
「リック、帰りましょう」
 そう言って、まっすぐ門へと歩き出した。
 リックは、別々に去り行くふたりの背中を、交互に目で追った。そして、悩みながらも、アンジェリカの方に足を向けた。

「ごめんなさい」
 ユールベルは消え入りそうな声でそう言うと、申しわけなさそうに目を伏せた。
「いや、俺のせいでおまえを巻き込んじまったんだからな」
 ジークは彼女に背を向けたまま、その言葉を噛みしめた。それは、まるで自らに言い聞かせるかのようだった。
 ユールベルは沈痛な面持ちで首を横に振った。
「元はといえば、ラグランジェ家の問題なの。巻き込まれたのはあなたの方だわ」
「どっちのせいかなんて議論は意味ねぇよ。解決することだけを考えようぜ」
 ジークは淡々と言った。しかし、その言葉が彼女の胸を熱くした。あふれそうになる涙を必死にこらえた。
「弟を取り戻したら、私からアンジェリカにきちんと説明するわ」
 それは、彼女なりの精一杯の誠意だった。
「そうしてもらえると、ありがたいな」
 ジークは少し疲れたようにため息をつきながら笑ってみせた。

「くそっ、留守かよ!」
 ジークは明かりの消えた医務室を睨み、鍵のかかった扉を蹴りつけた。ガシャンと派手な音が虚しく響く。
「待つしかねぇか」
 ため息まじりにそう言うと、扉を背に座り込んだ。ユールベルは立ったまま壁にもたれかかった。薄明かりの蛍光灯の下、ふたりは無言でラウルを待った。あたりに人影は見えない。気まずい沈黙だけが、静かに流れていく。

 ——カッ、カッ。
 うとうとしていたジークは、その靴音に反応し、勢いよく顔を上げた。しかし、それはラウルではなく、パンプスを履いた女性だった。彼女は怪訝な顔を見せたが、そのまま何も言わず通り過ぎていった。
 ジークは深く息を吐いた。ここで待ち始めてからどのくらい経つだろうか。二時間、いや三時間くらい経っている。その間、ユールベルはずっと立ったままだった。表情に見える疲労の色は、だいぶ濃くなっていた。
 ジークは立ち上がった。
「今日はもう帰ろう。あした出直そうぜ」
 ユールベルは不安そうに顔を上げた。捨てられた子猫のような目で、彼を見つめる。
「弟なら大丈夫だろ。あいつらだって悪党ってわけじゃねぇんだし」
 ジークは彼女を納得させるためにそう言った。彼自身もそう思おうとしていた。だが、心の片隅には、拭い去れない不安がわだかまっていた。そして、それはユールベルも同じだった。
「だと、いいんだけど……」
「大丈夫だ」
 ジークはもう一度、今度は力強く言った。彼女は固い表情で、ぎこちなく頷いた。

 ふたりは並んで歩き、アカデミーの門を出た。空はもう完全に闇に覆われている。街灯の小さな明かりだけが、歩き進める頼りだった。
「じゃあな」
 ふたりの帰路の分かれ道で、ジークは右手を上げた。そして、自分の帰路へと足を進めようとした。
「待って!」
 ユールベルは思いつめた声を上げ、後ろからジークに抱きついた。細い腕にぐっと力を込め、彼の背中に顔をうずめる。そして、桜色の小さな口を開いた。
「ひとりになりたくない……怖いの」
 かぼそい声が背中から伝わってきた。ジークは困惑して顔を歪ませた。
「そう言われてもな……」
「いてくれるだけでいいの」
 ユールベルは哀願を続けた。森の湖を思わせる蒼い瞳は、緩やかに揺らめいていた。

 結局、ジークはユールベルに押し切られた。自分の家に帰ることをやめ、彼女と食事をとり、それから彼女の家へと向かった。ふたりとも口には出さなかったが、もしかしたらアンソニーは戻っているかもしれない——そんな淡い期待が胸をよぎった。
 しかし、それは単なる期待で終わった。部屋は真っ暗で、人の気配などまるでない。ソファに投げ置かれた鞄に、作りかけのシチュー。それらは、ユールベルが出ていったときと何ら変わらない状態でそこにあった。
 彼女は落胆した表情で、台所を見つめた。
 ジークはソファにごろんと横になった。
「あしたは決戦になるかもしれねぇ。しっかり寝とけよ」
「アンソニーのベッドがあるから使って」
 ユールベルは奥を指さした。ジークは起き上がり、彼女の指先を目で追った。そこには寝室があった。扉は大きく開け放たれている。そのため、明かりは消えていたが、容易に中を窺うことが出来た。寝室としては十分すぎるほどの広さがあるが、飾り気はまるでない。目につくのは両脇にあるベッドくらいだ。彼女は右側を指し示しているので、そちらがアンソニーのものなのだろう。サイズは大人のものと変わらないようだった。
 ジークは遠慮することなく、その上に体を投げ出した。仰向けに寝転がり、両手を上げ大きく伸びをする。ユールベルはうっすらと穏やかな笑顔を見せた。
「俺はもう寝るぜ。おまえも早く寝ろよ」
 ジークはぶっきらぼうにそう言うと、布団にもぐり込んだ。彼女に背を向け、目を閉じる。
「おやすみなさい」
 ユールベルは白いシーツを見下ろしながら、ぽつりと言葉を落とした。

 ——眠れない。
 あれから何時間が過ぎただろうか。ユールベルも自分のベッドに入っていたが、一向に寝つけなかった。何度も無意味に寝返りを打つだけだった。
 眠れない理由のひとつは、左目を覆っている包帯だった。いつもは、就寝時には外しているのだが、今日はジークがいるために外せないでいた。醜い傷跡を見られたくなかったのだ。
 そして、もうひとつの理由は、ジークそのものだった。彼はアンソニーのベッドでぐっすり眠っているようだった。静かに寝息を立てている。
 ユールベルはベッドから下りた。何とかあたりが見渡せるくらいの薄明かりの中、彼女は足音を立てないようジークに近づいていった。ベッド脇で立ち止まり、無防備な寝顔を見下ろす。じっと見つめているうちに、ふいに右目から涙がこぼれ落ちた。あわてて両手で口を押さえ嗚咽を飲み込むと、素早くそっと寝室を出ていった。リビングルームのソファに座り、膝を抱え顔をうずめた。そして、音を立てないよう静かに忍び泣いた。

「そろそろ起きろよ」
 遠くに聞こえたその声に、ユールベルは目を覚ました。あたりはさわやかな明るさに包まれている。ぼんやりとした頭で起き上がり、自分のまわりを見まわした。そこはリビングルームのソファの上だった。泣きながらそのまま眠ってしまったらしい。体の上には毛布が掛けられていた。
「おまえ何でこんなとこで寝てんだ? もしかして俺、いびきとか寝言とかうるさかったか?」
 ジークは、トーストとコーヒーを手に台所から戻ってくると、ソファに座りながら尋ねかけた。不安げに彼女を覗き込む。彼女は目を伏せ、無言で首を横に振った。
「あ、勝手に風呂とかタオルとか借りたぞ」
 その言葉どおり、彼の髪は濡れていたし、首からはタオルが掛かっていた。それだけではなく、彼が手にしていたトーストもコーヒーも、勝手に台所から調達したものだった。
 ユールベルは両手で顔を覆い、すすり泣き始めた。肩を大きく揺らしている。
「え? あ、まずかったか? 悪かった。えっと、どうすればいいんだ?」
 ジークはトーストを片手におろおろした。ソファから腰を浮かせ、困り顔で彼女を覗き込む。彼女は小刻みに首を左右に振った。
「そうじゃない。私、自分のことがとことん嫌になったの!」
 ジークは真面目な表情になった。ゆっくりとソファに腰を下ろす。彼女は小さくしゃくり上げながら話を続けた。
「あなたの良心や優しさにつけ込んで、引き止めてしまった。あなたと一緒にいたかったから……。アンソニーがさらわれたのに、私はこんなことばかり考えて……」
 そこまで言うと、うっと言葉を詰まらせた。大粒の涙が、右目から手の甲にこぼれ落ちた。膝の上の毛布をぎゅっと掴み、こぶしを小さく震わせる。
「私、自分がどれほどひどい人間か思い知ったわ」
 きつく目を閉じ、涙声で吐き捨てるように言った。そして、背中を丸め、さらに深く顔をうつむけた。こんなひどい表情を見られたくなかった。何より彼の反応が怖かった。
「……そんなもんじゃねぇのか」
 ジークはソファの背もたれに深く身を沈め、大きく息を吐いた。
「そんなこと、思ったとしても、普通わざわざ言わねぇよ」
 ユールベルはうつむいたまま、眉根を寄せた。
「俺は気にしてねぇから、おまえも気にするな。それより早く準備しろよ。授業が始まる前にラウルのところに行くからな」
 ジークは淡々とそう言うと、手にしていたトーストにかじりつき、口いっぱいに頬張った。ユールベルは小さくすすり泣きながら、こくりと頷いた。

「おい、ラウル!」
 ジークは医務室の扉を乱暴に叩いた。鍵は締まっている。また留守なのだろうか、それともまだ帰っていないのだろうか。そう思ったが、しつこく叩き続けた。
 ——ガチャ。
 鍵を開く音がした。間髪入れず、引き戸が開かれた。
 戸口にはラウルが立っていた。左手にはまだ包帯が巻かれている。彼は思いきり不機嫌な顔で、上からジークを睨み下ろした。ジークはぎょっとして後ずさった。
「朝早くから何の用だ」
 ラウルはいつもと変わらない冷淡さで尋ねた。ジークは突っかかるように答えた。
「あのジジイの住所を教えろ」
「誰のことだ」
「あいつだ、えーと……」
「ルーファス=ライアン=ラグランジェ」
 後ろに立っていたユールベルが助け舟を出した。ラウルはその名を聞いて、わずかに眉をひそめた。
「聞いてどうする」
「おまえには関係ねぇ」
 ジークは苛立たしげに声を荒げた。
「なら、関係あるやつに訊け」
 ラウルはすげなく言うと、扉を引いた。ジークはあわてて体を挟み込んだ。扉が彼の腕に直撃し、ガシャンと音を立てて止まった。
「どうしても聞かなきゃなんねぇんだ!」
 扉に打ちつけられた痛みに顔をしかめながら、必死に訴えかけた。
「お願い、ラウル」
 ユールベルも後ろからすがるように懇願した。ラウルはじっと彼女を見つめた。
「そこで待っていろ」
 静かにそう言うと、ジークを押し出して扉を閉めた。彼は、今度はおとなしく従った。扉の前で立ち尽くして待った。
 一分ほどすると、再び扉が開いた。戸口に現れたラウルは、二つ折りにされた小さな紙切れを手にしていた。
「それが住所か?!」
「よく考えてから行動しろ」
「わかってる」
 ラウルが差し出したその紙切れを、ジークは引ったくるように受け取った。
「今日は遅刻するからな」
 仏頂面でそう言うと、踵を返し、早足で歩き始めた。
 ユールベルは何か言いたげに、じっとラウルを見つめた。しかし、結局は何も言わず、小走りでジークのあとを追いかけた。

 アカデミーの門を出たところで、ふたりはアンジェリカとばったり出くわした。彼女はこれからアカデミーへ行くところだった。ふたりを見て、一瞬、目を丸くしたが、すぐに無表情に戻り、無言ですれ違った。
 ジークは唇を噛みしめた。そして、彼女の遠ざかる足音を振り切るかのように走った。

 ふたりは住所をたどり、ルーファスの家の前へとやってきた。それなりに立派な家ではあるが、ラグランジェ本家よりはだいぶ小さい。もっとも、非常識に大きい本家と比べること自体が間違っているともいえる。
 ジークはユールベルの様子がおかしいことに気がついた。うろたえながらあたりを見まわしている。
「どうした?」
「あれ、私の住んでいたところ……」
 彼女は斜め裏の家を指さした。ジークは驚いて目を見張った。
「すぐ近所じゃねぇか」
「……ええ」
 彼女はそれだけ答えるのが精一杯だった。ジークと同様に、いや、それ以上に驚いていた。彼女はアカデミー入学前、何年もの間、自宅の二階に幽閉されていた。知らなくても、もしくは忘れていても無理はない。
 彼女は自分が住んでいた家の二階を、目を細めて見つめた。改築のため、窓の形が変わっている。厚い遮光カーテンも引いていない。もうあの頃の面影はなかった。しかし、それでも忘れられるものではない。ふいに過去の出来事が鮮明に蘇ってきた。光のあたらない部屋、湿った不快な匂い、結界の外から冷めた目を向ける父親——。思わず吐き気をもよおし、下を向いて両手で口を押さえた。
「大丈夫か? しばらく休むか?」
 ジークは心配そうに顔を曇らせた。ユールベルは眉を寄せた。冷や汗が、ひたいから頬に伝い、床に落ちた。
「……いいえ、平気よ」
 アンソニーを早く助けなければ。あの子にこんな思いはさせたくない。だから、姉である自分がしっかりしないと——。彼女は胸を押さえ、大きく息を吸い、顔を上げた。気持ちを立て直し、表情を引き締めた。
 ジークも表情を引き締め頷いた。そして、ルーファスの家を見渡した。
「でも、ホントにここにいるのかわかんねぇな。あやしい結界が張られてるようには感じねぇし……」
「いくらでも偽装はできるわ。優秀な魔導士や結界師なら」
 ユールベルは自分の父親のことを思い浮かべていた。彼女の父親も、監禁していた結界を偽装して、外部からわからないようにしていた。
「行ってみるしかねぇか」
 ジークは緊張しながら呼び鈴を鳴らした。すぐに扉が開いた。彼はさっと身構えた。だが、扉を開けたのはルーファスではなく、メイドらしき女性だった。ジークよりやや年上くらいだろうか。地味な黒いドレスに、白のエプロンをつけている。彼女は、ふたりを値踏みするような目でじろりと見た。
「えーと、ルーファス=ライアン=ラグランジェに用があって来た」
 ジークは彼女の視線にたじろぎながら、とりあえず用件を伝えた。
「お約束でしょうか」
 メイドは感情なく尋ねた。
「約束は、ねぇけど……」
「では、お引き取りを」
 彼女は扉を閉めようとした。
「ちょっと待て!」
 ジークは閉まりかけた扉を力づくでこじ開け、中に押し入った。
「な……何を?!」
 弾き飛ばされたメイドは、よろけながら甲高い声を上げた。しかし、素早く体勢を立て直すと、小さな声で呪文を唱え始めた。
「マジかよ!」
 ジークはユールベルの手を引き、後ろにかくまうと、前面に結界を張った。ユールベルも、後ろからふたりの周囲に結界を張った。
 メイドは胸の前で両手を向かい合わせた。その間に強い光が生まれ、あたりを青白く照らした。黒髪がさらさらと波打ち舞い上がる。呪文の詠唱が止まると同時に、彼女はその光をジークたちに放った。
 ——ドン!!
 正面から結界にぶつかり、光は消滅した。その下の大理石の床は、白く凍りついていた。
 彼女は大きく肩で息をしながら、再び呪文を唱えようとした。
「下がっていろ、フラウ」
 低い威厳のある声が、玄関ホールに響いた。その声の主が、カツン、カツンと靴音を響かせながら、ゆったりと歩いてくる。それは、アンジェリカの曾祖父・ルーファスだった。
「はい」
 メイドは一礼すると、すっと奥へ消えていった。
 ルーファスは後ろで手を組み、鋭い目でふたりを見た。ユールベルはびくりと体をこわばらせ、ジークの袖をぎゅっと掴んだ。
「何をしに来たのだ、ユールベル。まさか、もう役目を果たしたなどと言うつもりではないだろうな」
「ああそうだ。だから早く返せよ、弟」
 ユールベルが答える前に、ジークが勝手に答えた。彼女はとまどいがちに彼を見た。彼は刺すような視線をルーファスに向けている。今にも飛びかからんばかりだ。
 だが、ルーファスはまるで動じなかった。
「ならば、証しを立ててもらおうか」
「証し?」
 ジークは怪訝に眉をひそめた。ルーファスは真顔で答えた。
「そうだな、アンジェリカを呼び、あの子の目の前で、おまえたちが口づけをするというのはどうだ」
「てめぇ、バカか! ふざけてんじゃねぇぞ!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、彼の胸ぐらを掴んだ。
「愚かだな」
 ルーファスはそれでも余裕綽々だった。
「アンソニーは私の手中にあるのだ。合図を送るだけで、私の思うように出来るのだぞ」
 ジークは歯噛みした。彼の胸ぐらを掴んだまま、その手を震わせる。
「聞こえた……!」
 ユールベルは、突然はっとして右目を開いた。ジークは驚いて振り返った。
「どうした?」
「アンソニーの声が聞こえたの!」
 そう答えたときには、彼女はすでに走り出していた。屋敷内へと駆け込んでいく。ジークも急いで彼女のあとを追った。

 ——バン!
 彼女は勢いよく扉を開けた。
「アンソニー!」
 彼はいた。そこは台所だった。年輩の女性と向かい合って座り、ボールの中の卵を、泡立て器で撹拌していた。
「ねえさん、どうしたの? そんなに息をきらせて」
 アンソニーは目をぱちくりさせて、戸口の姉を見た。彼女は呆然と彼を見た。
「あなた、ここで何を……」
「ケーキを作ってるんだよ。出来たらねえさんも食べて!」
 アンソニーは無邪気に笑った。
「そうじゃなくて、どうしてここにいるの?!」
 ユールベルは強い口調で問いつめた。アンソニーは、不思議そうな目を彼女に向けながら説明をした。
「ねえさんがまた帰って来られなくなったって、ルーファスさんが僕を迎えに来たんだ」
 ユールベルははっとした。つい先日、ラウルのところに泊まったとき、サイファが彼を迎えに行き、一晩、預かってくれた。それと同じパターンだ。おそらくルーファスは知っていて利用したのだろう。もし、先日のことがなければ、そう簡単についていかなかったのではないか。自分がもっと彼のことを考えていれば……。ユールベルは泣き崩れた。膝をつき、両手で顔を覆って嗚咽する。
「ねえさん、どうしたの?」
 アンソニーは彼女のもとに行き、心配そうに覗き込んだ。

「てめぇ、嘘ついてコイツを連れてきたってわけか」
 ジークは、あとから入ってきたルーファスを睨みつけた。
「私は平和主義者なんでね」
 彼はしれっと言った。
「どこまでふざけた野郎なんだ!」
「今回はほんの挨拶代わりだ。君が折れない限り、今後はこんな生易しいことではすまんぞ。手駒はどこからでも調達できるからな」
「手駒だと?」
 ジークは眉をひそめた。
「人の弱みにつけ込んで脅すなんて、やること汚ねぇんだよ! いいかげんにしやがれ!」
 再びルーファスの胸ぐらを掴み、締め上げる。
「きれいごとだけで守れるものなら、喜んでそうするがな。恨むなら、ラグランジェに関わった自分自身を恨め」
 そう言うと、ルーファスは意味ありげな笑みを浮かべた。
「次は君の親友のリックか、それとも母親のレイラか……」
 ジークはカッとなった。凄まじい形相で、我を忘れて殴りかかる。
「ジーク、駄目っ!!」
 ユールベルは声の限りに叫んだ。ジークはルーファスの顔を外し、後ろの壁にこぶしを打ち込んだ。壁に大きく穴があき、破片がばらばらと落ちていく。それにより舞い上がる粉塵で、足元は何も見えないほどに白く煙っていた。
「フラウ、保安に通報しろ」
「はい、かしこまりました」
 後ろに控えていたメイドは、ルーファスに一礼すると、部屋から出ていった。
 ジークの顔から血の気が失せた。ユールベルは息を呑んで、彼を見上げた。


77. 難しい選択

「あの、これからどこへ行くんですか」
 ジークは、サイファの半歩後ろを歩きながら尋ねた。サイファは彼を一瞥すると、淡々と答えた。
「さっきのアンジェリカとの話は聞いてなかったのか? 私の上司のところだよ」
「あ……」
 ジークは返事に困った。その話は聞いていた。だが、あくまでアンジェリカを説得するための話で、本当にそうだとは思わなかった。疑ってしまったことがばれただろうかと、少しびくついた。

 ふたりは魔導省の塔へやってきた。
 ジークは目の前にそびえ立つその塔を仰いだ。これほど間近で見たのは初めてだった。ずいぶん大きく、高い。思わず、はぁと感嘆の息を漏らした。
 サイファは微笑みながら、彼の背中に手を置いた。ジークは促されるまま、中に入った。煌々と灯りのついた廊下。その両側にオフィスが広がっていた。オフィスは廊下よりもさらに明るかった。たくさんの机が整然と並び、座って仕事をこなしている人、その間を足早に歩きまわっている人などであふれ、活気に満ちていた。
 サイファは立ち止まることなく廊下を進み、突き当たりの小さな四角い部屋に入っていった。部屋というにはあまりにも小さい。五、六人がやっと入るくらいの広さである。無機質で何の装飾もなく、ただの箱のようだ。
 ジークも、少しためらいながら、そのあとに続いた。
 サイファは彼が入ったのを確認すると、入口の横にあるパネルのボタンをいくつか押した。厚い扉がゆっくりとスライドして閉まった。
 ジークは漠然とした不安を感じ、何となく天井を見上げた。その直後、突き上げるような強い力が足にかかった。どうやらその小さな部屋が急上昇しているようだ。しかし、長くは続かなかった。驚いているうちに止まり、ゆっくりと扉が開いた。目の前には、先ほどとは違う光景が広がった。
「最上階だよ」
 サイファはにっこり笑って振り向いた。
 ジークは外に出ると、落ち着きなくあたりを見まわした。目の届く範囲に窓がないため、どのくらいの高さなのかはわからなかった。
 サイファは颯爽と歩き出した。ジークもそのあとについて歩いた。片側にはずらりと部屋が並んでいた。ガラス張りの下とは違い、中の様子は窺えない。窓もないため、廊下から見えるのは扉だけである。音もなく、静寂があたりを包んでいる。息が詰まるような、閉塞的な雰囲気だ。
「ここが私の部屋だ」
 サイファは足を止め、扉のひとつを示した。扉にはプレートが掛かっていた。金属製で、名前と所属が彫り込まれているものだ。上品な光沢で、高級感がある。ジークの目は釘付けになった。この年齢で最上階に個室をもらえるなんて、やはりすごい人なんだ——あらためてそう思った。
 サイファは自室には寄らず、再び歩き出した。分岐した廊下を細い方へ曲がり、奥まったところに入っていく。その行き止まりに、他とは違う重厚な造りの扉があった。だが、他と同じように名前のプレートが掛かっている。
「ここだ。私の上司、魔導省長官の部屋だよ」
「長官……」
 ジークはぼんやりした声で繰り返した。
「わかりやすくいうと、魔導省でいちばん偉い人ってことだね」
 サイファのその説明は、彼にとってさらなる重圧となった。表情がこわばる。そんな人が、自分なんかに何の用があるというのだろうか——。
 サイファは扉をノックした。
「サイファです。ジークを連れてきました」
「入れ」
 中から低い声が聞こえた。サイファは扉を開け、ジークを促しつつ、一緒に中へ入った。そこは個室とは思えないほどの広さがあった。天井も高い。全体的に物は少ないようだ。目立ったものといえば、両脇の本棚と、奥の大きな机くらいである。贅沢な空間の使い方だ。
「よく来たな、ジーク=セドラック」
 奥に座っていた男が、低音を響かせた。おそらくこの男が長官だろう。サイファと同じ濃青色の制服を身に着けている。年はサイファよりもずいぶん上のようだ。ジークは怪訝に会釈をした。だが、長官は無表情のままだった。目線だけをサイファに動かし、悠然と命令する。
「サイファ、君は下がっていたまえ」
「はい」
 ジークはその答えにうろたえ、サイファに振り向いた。守ってくれるはずでは……。そう思ったが、そんな情けないことを口に出すわけにはいかない。ぐっとこらえ、口を固く結ぶ。
「ジーク、終わったら私の部屋へ来てくれるか?」
 サイファはにっこり笑いかけた。
「あ、はい……」
 ジークは心細そうに返事をした。そして、部屋から出て行くサイファの背中を、目で追いすがった。

「掛けたまえ」
 長官は、ジークのために用意したと思われる椅子を示した。ジークは素直に座った。長官の真正面だった。座り心地は良かったが、居心地は悪かった。
「あの……」
「そんな顔をするな。取って食いはしない」
 そう言われても、何もわからないこの状況で、落ち着けるはずがない。ジークは膝にのせた手を握りしめた。
「俺に、何の用ですか」
 長官はふっと笑った。
「ラグランジェ家に喧嘩を売った、無謀な学生に興味があってね」
 ジークの眉がぴくりと動いた。
「喧嘩を売ったつもりはありません」
 不愉快さを押し隠しながら、きっぱりと言う。
 長官は口の端を吊り上げた。挑むように笑いかける。
「つもりはなくても売っているぞ。現実として」
 ジークは言葉につまった。
「君のことは調べさせてもらった」
 長官は机にひじをつき、両手を組んだ。
「どこかで聞いたような名前だと思ったが、まさかあのリューク=セドラックの息子だったとはな」
「…………?」
 ジークは眉をひそめ、訝しげに首を傾げた。
「彼は幼い頃、魔導の天才児として注目されていてね。だが、あるとき、ぱたりと魔導を使うことをやめてしまったんだ。まわりがどれだけ説得しても、頑として使おうとはしなかった。我々の間では、ある意味、有名人だった」
 長官は淡々と語った。
 ジークは奇妙な顔で眉根を寄せた。いきなりそんな話をされても、何の実感も湧かない。
「それ、誰か他の人と間違ってませんか」
 長官は目を閉じ、ふっと口元を緩めた。
「君は彼の才能を受け継いだというわけだ。だが、君は彼と違って魔導が好きだ」
 腹の底に響くような重い声でそう言うと、鋭い視線をジークに向けた。ジークはたじろいだ。瞳の奥まで探られるように感じた。椅子に座ったままわずかに身を引き、ごくりと唾を飲み込んだ。
 長官は組んだ手を机の上に下ろし、背筋を伸ばした。
「君の進路希望先は魔導省となっていたが、それは今も変わらんか?」
「はい、一応……」
 ジークは歯切れ悪く答えた。魔導不正使用などという事件を起こした以上、いくら採用試験を頑張っても受かることはないだろう——その考えが彼を萎縮させた。
「君を採用する」
 長官は厳かに言った。
「……は?」
 突然のことに、ジークの思考は混乱したまま停止した。
「君を採用する、と言ったんだ」
 長官はもう一度、ゆっくりと丁寧に言った。
「どういうことですか」
 ジークの額にうっすらと汗がにじんだ。自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。
「年にひとりくらいなら、私の裁量で採用してもいいことになっている。暗黙の了解というやつだがね」
「どうして俺なんですか」
 気持ちを立て直し、まっすぐ長官を見据える。長官はかすかな笑みを口元にのせた。
「君が優秀だからだ。父親から受け継いだ才能は確かなものだ。アカデミーの成績も申し分ない。民間へやるには惜しい人材だよ」
 ジークはひざの上のこぶしを強く握りしめた。自分でも理由はわからなかったが、長官の返答に不快感を覚えた。表情に出ないよう必死にこらえたが、まぶたは微かに痙攣していた。
「俺は、試験を受けて自分の力で入ります」
 低く抑えた声で、毅然と言った。真剣な表情で、長官を睨むように見据える。
 だが長官は、鼻先で笑って受け流した。
「それは無理だな。魔導で問題を起こした人間を採ると思うかね」
 ジークは目を伏せ、表情を曇らせた。何も言い返すことができない。
「つまらない意地やプライドは、捨てた方が身のためだ。それで君の希望が叶うのだ」
 長官は声を張り、尊大に言った。
 ジークは眉をひそめ、唇を噛み締めた。

 ——コンコン。
 ジークはサイファの部屋の扉をノックした。
「どうぞ」
 中から歯切れの良い声が聞こえた。ジークは緊張しながら、そろそろと扉を開けた。そこは、長官の部屋の半分ほどの広さだった。天井も高くない。両脇には本棚やロッカーが並び、奥にはスチール机が置かれていた。机の上には、乱雑な書類の山がいくつもできている。サイファはその紙束に囲まれるようにして座っていた。背後は一面ガラス窓になっており、青空と薄い筋状の雲が映し出されていた。
「今、きりが悪くてね」
 サイファはにっこり笑ってペンを掲げた。
「もう少し待ってもらってもいいかな」
「はい」
「椅子はそこにあるから」
 そう言いながら、壁に立てかけられたパイプ椅子を指さした。
「部屋の中は自由に見ていいからね」
「はい」
 ジークはあらためてぐるりと部屋を見まわした。そして、本棚へと足を進めた。上から下へ、ざっと目を走らせる。並んでいるのは主に魔導書のようだ。隅にはひっそりと医学書も置いてあった。ジークはそのうちの一冊に目を奪われた。難しい医学用語が並ぶ背表紙に「遺伝子」という単語が見えた。
 遺伝子の異常——アンジェリカが言ったというその言葉が頭をよぎった。まさか、本当に? いや、ただの偶然だ。ジークはそう思おうとした。しかし、偶然にしては出来すぎている気がしてならない。なぜサイファはこの本を持っているのだろうか。読んでみたいという衝動に駆られた。だが、この状況では断念せざるをえないと判断した。今、サイファがこちらを見ているわけではないが、いつ顔を上げないとも限らない。なぜその本を手に取ったのかを尋ねられては、返答に窮する。
 代わりに魔導の本を一冊、本棚から抜いた。立ったままパラパラとめくりながら、横目でサイファの様子を窺った。彼は真面目な顔で書類に向かい、何かを書きつけているようだった。
「もう少しだよ」
 突然、彼は顔を上げ、にっこり微笑んだ。
「え、あ、はい」
 ジークはどきりとして、しどろもどろに返事をした。持っていた本を落としそうになった。ふうと小さく息を吐き、心を鎮めると、本に集中することにした。だが、どうしてもサイファのことが気にかかり、文字を追うだけで内容が頭に入ってこなかった。
「お待たせ」
 サイファはペンを置いて顔を上げた。ジークはほっとして本を閉じ、元の場所に戻した。
「君は行儀がいいね」
 サイファは頬杖をつき、ニッと笑った。
 ジークはとまどった。彼の真意が読めなかった。ただ、なんとなく褒められたようには思えなかった。
「部屋の中を引っかきまわせば、面白いものが見つかったかもしれないのに」
「面白いものって……?」
「さあ、私が面白いと思うものと、君が面白いと思うものは違うからね」
 自分は試されているのだろうか、とジークは思った。何を、というのはわからない。奇妙な面持ちで口をつぐんだ。
「こっちへおいで」
 サイファは立ち上がり、大きなガラス窓に向かうと、後ろで手を組んだ。ジークは言われるがまま、彼の隣に並んだ。
「いい景色だろう」
 ガラス窓の向こうには、青空が大きく広がっていた。濃い青色にかかった薄い雲が、ゆっくりと流れていく。そして、下方には小さく森や街が見えた。行き交う人々は、かろうじて点として認識できるくらいだった。ジークは足がすくんだ。これほど高いところに立つのは初めてだった。
 サイファはそんな彼を見て、満足そうに微笑んだ。
「長官の話は何だったんだい?」
 ジークは現実に引き戻された。サイファに振り向き、とまどいがちに答える。
「俺を、採用するって……」
「やはり、その話だったんだな。良かったじゃないか」
 サイファは明るく言って、ジークの肩に手を置いた。だが、ジークは難しい顔でうつむいた。
「前にも言ったと思うが」
 サイファはそう前置きしながら、腕を組み、ガラス越しに空を見上げた。
「君は、君のいる場所に見合う実力をつければいいだけのことだ。プライドのために好機を棒に振る選択は、愚かだと思うよ」
「……はい」
 以前にその話を聞いたときは納得した。今も間違っているとは思わない。しかし、今回はなぜかすっきりしない。迷いが拭えない。
「もうすぐお昼だな」
 サイファは腕時計を見て言った。
「一緒に食べようか。もちろん私のおごりだよ」
 彼はにっこりとして、ジークの背中をぽんと叩いた。

「サイファさん、あの……」
 ジークは少し言いにくそうに切り出した。隣を歩くサイファは、にこやかに振り向いた。
「何だい?」
「父のこと、ご存知でしたか?」
「君の父親か?」
 サイファは不思議そうに尋ね返した。ジークは頷いて話を続けた。
「さっき長官が言ってたんですけど、俺の父親、子供の頃は魔導の天才児だったって……」
 サイファは興味深げに目を見開いた。
「子供の頃?」
「あるとき急に使わなくなったらしいんです。それで、長官たちの間では有名だったとか」
 ジークは下を向き、言葉を切った。
「いや、私は知らなかったよ」
 サイファは前を見て、真面目な顔で言った。それからジークに振り向き、にっこりと笑った。
「君のお父さんが子供の頃は、私も子供だからね」
「あっ……」
 ジークは小さく声を漏らした。そう言われてみれば、確かにそうだ。サイファは父親より若い。まだ生まれていなかった可能性もある。
 サイファは再び前を向いた。
「でも、たまにそういう子はいるよ。魔導を使える子が、みんな魔導が好きというわけではないからね」
 ジークは長官の話を思い出した。父親は魔導が好きではなかった——やはり、そういうことなのだろうか。もしそうなら、嬉々として魔導を使っていた息子のことを、どう思っていたのだろうか。訊きたくても、もう本人はいない。
 サイファは淡々と話を続ける。
「それでもたいていはまわりの期待に応え、魔導の道へ進む。よほど意志が強くないと、魔導を封印し続けることはできないよ。天才児となれば、なおさらね。」
 サイファはジークに微笑みかけた。
「君のお父さんは、自分の意志をしっかり持った人だったんだね」
 ジークは顔を上げることができなかった。悩んで流されてばかりの自分が、とても情けなく思えた。

「やあ、ラウル」
 サイファはにこやかに右手を上げた。その視線の先には、無表情のラウルがいた。脇に教本を抱えている。ジークは話に夢中で気がつかなかったが、そこはラウルの医務室の前だった。授業を終え、戻ってきたところのようだ。
「一緒にお昼を食べよう」
 サイファは朗らかに言った。ジークはぎょっとして彼に振り向いた。まさかラウルを誘うとは思わなかった。誘うためにわざわざここへ来たのだろうか。
「断る」
 ラウルはムッとして答えた。背を向け医務室の鍵を開ける。
「私のおごりだぞ」
「いらん」
「受け持ちの生徒の進路についての話もあるんだがね」
 サイファは軽い調子で言った。ラウルは扉に手を掛けたまま、肩ごしに彼を睨みつけた。そして、その鋭い視線を、隣のジークにも向けた。ジークはびくりとした。
「待っていろ」
 ラウルは低い声でそう言うと、乱暴に医務室の扉を開け入っていった。
「早くな」
 サイファはにこやかに見送った。

 三人は王宮内の喫茶店に入った。内装は上品なアンティーク調で統一されている。静かで落ち着いた店だ。ジークは以前にもここでサイファと昼食をともにしたことがあった。
 サイファは窓際に席をとった。その隣にジーク、向かいにラウルが座った。
 ジークは落ち着かなかった。メニューを見ていたが、どうにも視点が定まらない。手のひらは次第に汗ばんできた。サイファだけでも緊張するのに、ラウルまで一緒である。昼食など、もうどうでもよかった。一刻も早く帰りたかった。
「ジーク、決まったか」
「あ、はい、カレーライスを」
 とっさに目についたメニューを答えた。サイファはにっこりとした。
「いいね。ここのカレーは美味しいんだ。私もカレーにするよ。ラウルは決まったか?」
 ラウルはメニューを見ようともせず、腕を組み、不機嫌な顔で目を閉じていた。
「何でもいい。おまえが決めろ」
「好き嫌いくらい、あるんだろう」
「ない」
 サイファは頬杖をつき、ふっと笑った。
「程度の多少はあれ、好き嫌いがない人間なんていないと思うけどね」
 ラウルは眉をひそめ、サイファを睨んだ。サイファは窓の外に視線を流した。
「好き嫌いがないという人は、それを見せないように振る舞っているだけだ。しかし、人である以上、完璧には振る舞えないものさ」
「何がいいたい」
 ラウルは低く唸るように言った。
「一般論だよ」
 サイファは外を向いたまま、無表情で答えた。
 ジークは何ともいえない張りつめた空気を感じ、いたたまれない気持ちでコップの水をじっと見つめた。

 サイファはウェイトレスを呼び、注文を告げた。
「カレーライスをふたつ、それとお子さまランチを」
 ジークは飲みかけの水を吹きそうになった。ラウルはものすごい形相でサイファを睨んだ。
「あの、お子さまランチは取り扱っておりませんが……」
 ウェイトレスは困惑して言った。サイファは彼女に振り向き、にっこりと微笑んだ。
「そう、じゃあカレーライスを三つ」
「かしこまりました」
 ウェイトレスは愛想よく微笑み返した。

「サイファ、おまえ……」
 ラウルの低い声は、怒りで震えていた。
「何でもいいと言ったのはおまえだろう」
 サイファは事も無げに言った。ラウルは刺すように鋭く睨みつけた。
「ラウルはね、都合が悪くなると、いつもこうやって睨むんだ」
 サイファはカラッと笑いながら、ジークに言った。
「からかいすぎるととんでもない行動に出ることがあるからね。適度なところで引くといいよ」
「はぁ……」
 ジークは曖昧に返事をした。忠告されなくても、ラウルをからかうこと自体、ジークには無理な芸当だった。いや、ジークだけでなく、ほとんどの人間には無理だろう。
「サイファさんの家庭教師はラウルだったって聞いたんですけど、本当ですか?」
 ジークは気になっていた話をぶつけてみた。先日アンジェリカから聞いた話である。
「本当だよ」
 サイファはさらりと答えた。
「子供の頃の話だけどね。それ以来のつきあいだから、ラウルとは長いな。いや、ラウルからすれば短いのかな」
 含みのある笑みをラウルに向ける。彼は不機嫌にため息をついた。
「くだらないことばかり言ってないで、本題に入ったらどうだ」
「ああ、ジークの進路の話だね」
 ジークは緊張して体をこわばらせた。視線を落としたまま、背筋を伸ばし、手を膝の上にのせる。
 サイファはそんな彼を見て微笑むと、ラウルに向き直った。
「魔導省に採用されることが決まったそうだ。おまえの生徒で内定第一号じゃないか? 良かったな」
 サイファは明るく言った。ラウルは冷ややかな目を向けた。
「おまえ……また余計なことをしたな」
「私は今回は無関係だよ。長官の独断だ」
 サイファはにこやかに反論した。だが、ラウルは信じなかった。
「おまえがそう仕向けたのだろう」
「まさか」
 サイファは笑った。
「私はとことん信用されてないらしい」
 そう言いながらジークに振り向くと、大袈裟に肩をすくめて見せた。
「お待たせしました」
 会話の切れ目のちょうどいいタイミングで、ウェイトレスが三人分のカレーライスを運んできた。湯気とともに、スパイスの刺激的な香りが漂う。ジークは思い出したかのように、急に空腹を感じた。

 その後、三人はほとんど無言で昼食を食べた。たまにサイファが口を開き、ジークが相槌を入れるくらいだった。そして、食べ終わるとすぐに店を出た。
「それじゃ、またな」
 サイファは軽く右手を上げ、塔の方へ戻っていった。
 ラウルとジークは方向が同じだったので、何となく並んで歩いた。ふたりとも無言のままだった。ジークはこの気まずさに必死に耐えていた。
「奴らの言いなりになってもいいのか」
 ラウルがふいに口を切った。ジークは驚いて彼を見上げた。奴らとは長官やサイファのことだろうか——。
「魔導省にこだわらなければ、就職はできるはずだ。前にも言ったが、そもそもおまえは役人に向いていない」
 ラウルは前を向いたまま、はっきりした口調で言った。ジークは言い返すことなく、ただ黙って目を伏せた。
「今ならまだ断れる。逆にいえば、断ることができるのは今だけだ。よく考えるんだな」
 そこまで言うと、ラウルは足を止めた。医務室の前だった。一度ジークに視線を投げると、長い髪を揺らしながら、さっと医務室へ入っていった。

 ジークはひとり教室へと向かった。まだ昼休みは続いている。アカデミーはとても賑やかだった。だが、ジークの耳にはほとんど何も入ってこない。彼は思考を巡らせていた。ラウルの言葉、サイファの言葉、長官の言葉——それぞれを何度も反芻しながら歩いた。

「ジーク!」
 教室に入ると、アンジェリカとリックが心配そうに駆け寄ってきた。
「何の用だったの?」
 アンジェリカは早口で尋ねた。
「あ、ああ……何か、俺を魔導省に採用するって」
 ジークは何でもないふうを装って答えた。
 アンジェリカは黒い瞳を大きく見開いた。そして、表情をけわしくすると、床を蹴り駆け出した。ジークは慌てて腕を掴み、引き止めた。
「どこ行くんだよ」
「お父さんに文句を言ってくるわ!」
 アンジェリカは勢いよく振り返り、怒りまかせに大声で言った。ジークはまっすぐ彼女を見つめた。
「サイファさんは関係ない。今回は長官の独断だって」
「どうかしら?」
 彼女の声はとげとげしかった。表情からも、あからさまに疑っている様子が見てとれた。
 ジークは冷静に言った。
「いいんだ。俺が考えて答えを出す」
「断らないの?」
 アンジェリカはきょとんとして言った。ジークは彼女の腕を放した。そして、視線を落とし、薄笑いを浮かべる。
「魔導省に入るには、これしか手がない」
「どういうこと?」
「きのうの事件のこと、記録に残されてんだ。だから、普通に採用試験を受けても受からねぇって」
「そんな……」
 アンジェリカは眉根を寄せた。うつむいて目をつむり、胸を押さえてつぶやく。
「私のせいだわ。こうなる前に、もっと早くに……」
「え?」
 ジークは覗き込むようにして尋ね返した。アンジェリカは顔を上げた。
「ごめんなさい、本当に。ジークの人生をめちゃくちゃにして」
 今にも泣き出しそうに謝る。
「おいおい、勝手にめちゃくちゃにすんなって」
 ジークは笑いながら言った。
「今日のことは、むしろラッキーかもしれねぇだろ」
「うそ、思ってもないくせに」
 アンジェリカは潤んだ目で睨んだ。

 キーンコーン——。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
 アンジェリカはくるりと背を向け、目尻を拭いながら席に戻った。ジークも表情を曇らせ、自席についた。引き寄せられるように、机に突っ伏す。もう起き上がれないかと思うほど、体中が鉛のように重かった。


75. 取引

 狭く薄暗い部屋。その中央にジークは座っていた。無骨なスチール机に手をのせ、うつむき眉を寄せている。安っぽいパイプ椅子は、彼が動くたびに不快な軋み音を立てた。扉の両脇には、制服の男がひとりずつ立っていた。後ろで手を組み、無言でジークを見張っている。
 ——ガチャ。
 扉が開き、颯爽とサイファが入ってきた。その表情はけわしかった。小脇にはいくつかの書類を抱えている。彼は金の髪をさらりと揺らし、戸口の見張りを振り返った。
「下がっていろ」
「はい」
 ふたりの見張りは一瞬、怪訝な顔を見せたが、すぐに一礼をして部屋を出ていった。
 サイファはジークの向かいに座った。耳を裂く軋み音が狭い部屋に響いた。ジークはうつむいたまま体をこわばらせた。
「すまないな、仕事だ」
 サイファは書類を机に置きながら、素っ気なく言った。ジークは手を膝に下ろし、弱々しく頷いた。
「だいたいの話はユールベルから聞いた」
 サイファは目を伏せ、話を続けた。
「昨晩、アンジェリカの様子がおかしかった理由がわかったよ」
「すみません」
 ジークは眉を寄せ、膝にのせた手をぐっと握りしめた。
「責めてはいないよ」
 サイファは静かにそう言い、ファイルを開いた。無表情で目を落とし、事務的な口調で読み上げ始めた。
「住居不法侵入、暴行未遂、器物破損、魔導不正使用……認めるか」
「……はい」
 ジークは少しためらったあと、小さな声で返事をした。ルーファスに殴り掛かったとき、感情が高ぶり、思わずそのこぶしに魔導の力をのせてしまった。そうでなければ、壁を打ちつけても崩れることはなかっただろう。
 サイファは軽くため息をついた。
「魔導の不正使用は罪が重い。君も知っているだろう」
「脅迫は、罪にはならないんですか」
 ジークは低く抑えた声で言った。その声には憤りが滲んでいた。サイファはわずかに目を細めた。
「証拠がない。客観的に見れば、君が制止を振り切って上がり込み、無抵抗な老人に暴行しようとした、そういうことになる」
 感情を見せずに淡々とそう言うと、じっとジークを見つめた。ジークはうつむいたまま肩を震わせた。
「あいつは……俺の母親やリックも利用しようとしていた!」
 抑え込んだ怒りが噴出した。冷静にと努めたが、やはり堪え切ることはできなかった。
 サイファはファイルを閉じ、机の上に置いた。
「それはおそらくハッタリだ。ラグランジェ家は何よりも騒ぎを起こされることを嫌う。外部の人間を利用すれば、当然そのリスクは高くなる。だから、無関係な者を軽々しく巻き込むようなことはしないよ」
 安心させるように、優しい口調で言った。しかし、ジークの表情が和らぐことはなかった。思いつめた顔でサイファを見つめ、口を開いた。
「絶対にないとは、言い切れませんよね」
「ああ」
 サイファは動じることなく素直に認めた。
 ジークは再びうつむいた。それきり沈黙が続いた。それほど長くはなかったかもしれない。だが、ジークには時が止まったかのように感じられた。
 サイファは瞬きをして、静かに切り出した。
「ラグランジェ家と関わるのをやめるというなら、祖父にそう伝えよう。私は君の意思を尊重する。どのような結論を出そうとも、私はそれを受け入れるつもりだ。君を恨んだりはしない」
 ジークは目を閉じ、まぶたを震わせた。
「考えさせてください」
「わかった」
 サイファは深い声を落とした。そして、一息つくと、再び口を開いた。
「私もできる限りのことはするつもりだ。だが、あまり期待はしないでくれ」
 ジークに返事はなかった。ただ、硬い顔でうつむいたままだった。サイファは眉根を寄せた。
「本当に、すまなかった」
 重々しくそう言うと、椅子を引いて立ち上がり、取調室から出ていった。
 ジークはやるせない思いで、彼の後ろ姿を見送った。無機質な靴音が遠ざかり、代わりに静寂が訪れた。

 ガラガラガラ——。
 アカデミーへやって来たサイファは、教室の前扉を開けた。教壇のラウルも、生徒たちも、いっせいに振り向いた。
「授業中だぞ」
 ラウルは眉をひそめ、冷ややかに言った。
「悪いが来てくれ」
 サイファは落ち着いた声で頼んだ。その青い瞳は真摯にラウルを見つめていた。
 ラウルは小さくため息をつくと、教本を机に置いた。
「しばらく自習にする」
 生徒たちにそう言い残し、教室をあとにした。

 ジークと何か関係があるのだろうか——。
 リックは不安になった。ジークはきのうからずっと、様子が普通ではなかった。アンジェリカを避け、ユールベルと親密そうにしていた。昨晩は家にも帰らなかった。今日はアカデミーにも来ていない。
 彼は頼りない顔でアンジェリカに振り向いた。だが、彼女は席にいなかった。
「えっ?」
 リックは驚いて立ち上がり、あたりを見渡した。やはり、彼女の姿は見当たらない。
「まさか……」
 彼の顔からさっと血の気が引いた。あわてて廊下へ飛び出したが、もう彼女の姿も、ラウルとサイファの姿も見つけられなかった。

 サイファはラウルを連れ、王宮の外れにある小さな森へとやってきた。ひっそりとした静かな散歩道に、強い木漏れ日が落ちている。サイファはその中をゆっくりと歩いていた。ラウルはさらさらと流れる金色の髪を見ながら、そのあとに続いた。
 サイファは足を止めた。そして、背を向けたまま淡々と言った。
「ジークがルーファスの家へ乗り込んで事件を起こした。今、魔導省で留置している」
 ラウルも足を止めた。焦茶色の長髪が風になびいた。
「私にどうしろというんだ」
 サイファは振り返り、微かな笑みを見せた。
「君の生徒だろう。一応、知らせておこうと思っただけだ」
 そう言うと大きくため息をつき、額を押さえてうなだれた。
「いや、おまえの顔が見たかっただけかもしれない。正直、どうすればいいのかわからないよ」
 弱音を吐いたその声には、はっきりと疲れが滲んでいた。ラウルは無表情で彼の顔色を窺った。
「少し休め」
 サイファはその言葉に驚き、薄笑いを浮かべた。
「おまえに気づかってもらえるとは、ありがたいな」
「医者として言っている」
 ラウルの反応はすげないものだった。だが、サイファはにっこりと笑顔を見せた。

 カサッ——。
 脇から草の踏みしめられる音が聞こえた。サイファははっとして機敏に振り向いた。
「アンジェリカ!」
 彼女は大きな樹の後ろから姿を現した。真剣な表情でサイファを見据えている。
「ジークのところへ連れていって」
「だめだ、教室に戻れ」
 サイファは顔つきを厳しくし、毅然と言った。しかし、アンジェリカは引かなかった。逆に前へ踏み出し、詰め寄った。
「私のせいなんでしょう? ジークに会わせて」
「あとで取りはからう。今は引くんだ」
 アンジェリカは反抗的な目で睨んだ。
「いいわ、自分で探すから」
「待て!」
 踵を返したアンジェリカを引き止めようと、サイファは彼女の細い手首を掴んだ。
 その瞬間。彼女の体全体から魔導の力が発せられた。体が強く光ると同時にバチッという音がして、サイファの手を弾いた。そして、間髪入れず、彼のまわりに強力な結界を張った。
「な……」
 サイファは、自分のまわりで淡く光る結界を、呆然と見上げた。アンジェリカはそのまま振り返りもせず、散歩道を走り去っていった。軽い足音が次第に小さくなっていく。サイファは自嘲ぎみにふっと笑った。
「見てないで解除してくれないか。内側からは魔導が使えない結界だ」
「油断していたにしても情けないな」
 ラウルはあきれたように言うと、呪文を唱えることなくサイファのまわりの結界を消滅させた。
「仕方ないさ」
 サイファは大きくため息をつき、森の緑を見上げた。
「魔導の潜在能力は、私より遥かに上だからな。おまけに、教えているのはおまえだ」
 そう言ってラウルに視線を流し、意味ありげに含み笑いをした。だが、その表情にはどこか翳りのようなものがあった。
 ラウルは無表情で視線を返した。
「それは、おまえ自身が望んだことだ」
「ああ、アカデミーの担任はね」
 サイファは背を向けながら言った。ラウルは太い眉をぴくりと動かした。

 アンジェリカは薄汚れた建物に駆け込んでいった。窓が少なくこじんまりとして、陰気な雰囲気が漂っている。いくつかある魔導省管轄の建物のひとつで、容疑者の取り調べや留置がなされているところだ。おそらくここだろうと、あたりをつけてやってきたのだ。
 入ってすぐのロビーにユールベルがいた。長椅子に腰かけ、膝の上で祈るように手を組んでいる。
「ユールベル! ジークは?」
 アンジェリカは彼女に駆け寄り、焦ったように早口で尋ねた。ユールベルは驚いて顔を上げ、右目を見開いた。アンジェリカが思いつめた顔で自分を見つめている。その視線に耐えきれず、逃げるように目を伏せた。
「奥に連れていかれて、それきりよ」
 彼女は小さな声で答えた。
 アンジェリカは奥へと続く廊下に、鋭い目を向けた。その入口には、ふたりの衛兵が立っていた。彼女を目にすると、互いに顔を見合わせ、とまどった表情を浮かべている。ラグランジェ本家の令嬢が押し入ろうとしたら、どのように対応すれば良いのだろうか。そもそも、止めようにも止められる自信はまるでない——。ふたりはそうならないことを祈った。
 だが、アンジェリカにその祈りは通じなかった。まっすぐその廊下へ向かって走り出した。衛兵たちの表情が引きつった。
「行ってはだめ!!」
 ユールベルは後ろからアンジェリカに抱きつき、彼女を止めようとした。
「放して!!」
 アンジェリカは一気に魔導力を高めた。あたりの空気が、彼女を中心に渦を巻いた。ユールベルの長い髪は絡み合うように舞い上がった、ワンピースはバタバタと音を立ててはためいた。それでもユールベルは放さなかった。必死でアンジェリカにしがみついた。
「冷静になって! ジークはそんなこと望んでいない!」
 精一杯の声で訴えかける。
 アンジェリカははっとした。それをきっかけに落ち着きを取り戻し、魔導力も鎮まっていった。
 あたりは再び静寂を取り戻した。
 ユールベルは力が抜けたように、その場に座り込んだ。
「何があったの? 話して」
 アンジェリカは彼女を見下ろし目を細めた。ユールベルは床に手をつき、大きくうなだれた。
「ごめんなさい、私のせいなの……」
 そう切り出すと、訥々と話し始めた。きのうルーファスに弟を人質に取られ脅されたこと、そして今日、彼の家で起こったこと——。
 アンジェリカは神妙な面持ちで聞いていた。そして、ユールベルが話し終わると、複雑に顔を歪ませ、走って出ていった。

 アンジェリカはルーファスの家へとやってきた。呼び鈴を鳴らすと、すぐにメイドが扉を開けた。
「私はアンジェリカ=ナール=ラグランジェ。ひいおじいさまはいるかしら」
 アンジェリカは背筋をピンと伸ばし、自分より背の高いメイドを睨みながら、冷たく尋ねた。
「どうぞ」
 メイドは丁寧にお辞儀をし、彼女を中へと案内した。

 ルーファスはリビングルームで悠然と椅子に腰かけていた。背もたれに身を預けたまま、小さく光る蒼い瞳を彼女に流した。
「アンジェリカ=ナール。随分と早かったな。手間が省けたよ」
「あなたの目的は私なんでしょう?」
 アンジェリカはきつい表情で曾祖父を睨みつけた。
「今さらあらためて言うことでもないがな」
 彼はそう前置きすると、静かに話し始めた。
「一族の者と結婚し、子をなし育てる。そうやってラグランジェ家を次世代へ繋ぎ、守っていくことが、本家に生まれた者の定めだ。みなそうやってきた。おまえひとり好き勝手していい道理はない」
 アンジェリカはごくりと唾を飲み込んだ。鼓動が強く打っている。じっと曾祖父を見つめ、ためらいがちに口を開いた。
「……私が承知すれば、ジークを助けてくれるの?」
「そのように取りはからおう」
 ルーファスは真剣な表情で答えた。
 アンジェリカは目を伏せた。そのまま考えを巡らせる。様々な想定をした。様々な未来を思い浮かべた。様々なものを天秤に掛けた。
 やはり、私の選択はこれしかない——。
 決意を固めたように、ぐっと表情を引き締めた。ゆっくりと顔を上げ、強いまなざしを彼に向けた。
「わかったわ。あなたの望みどおりにする。でも、アカデミーを卒業するまで待って」
「ならん」
 彼はきつい口調で即答した。そして、冷たい目でアンジェリカをじろりと睨みつけた。
「アカデミーは今すぐ辞めてもらう。そもそも、あそこでおまえは悪影響を受けたのだからな」
「お願い、せめて卒業させて。あと一年もないわ」
 アンジェリカは顔を曇らせながら懇願した。
 ルーファスはおもむろに腰を上げた。一歩、また一歩と、彼女との間を詰めていく。大きな体が近づくたび、小さな彼女は威圧された。まばたきすることも忘れ、彼を見上げている。彼女は完全に彼の影に覆われた。
「何を企んでいる」
 ルーファスは体の芯まで響く低音を、彼女の頭上から降らせた。
「何も」
 アンジェリカは強気にそう言い、キッと睨み上げた。額から頬に汗が伝った。
「ただ、最後までやり遂げたいだけよ。初めて自分の意志で進んだ道だから」
 ルーファスは探るように彼女の瞳の奥を見つめた。アンジェリカはまっすぐ見つめ返した。
「約束は必ず守るわ。私にはそれしか道がない。そのことはよくわかったから」
「許さん、と言ったらどうする」
 ルーファスは重々しく尋ねた。アンジェリカの瞳に強い光がともった。
「何もかも、むちゃくちゃにするわ。あなたも道連れよ」
 ゆっくりと魔導力を高めていく。まわりの大気が激しく揺らぎ、カーテンが舞い上がりはためく。
 ルーファスの背筋に冷たいものが走った。初めて彼女に対して恐怖を感じた。彼女は本気だ。そうなれば、自分も無事ではすまない。本当に何もかも台無しになってしまう。彼女にはそれだけの力がある——。
「まあいいだろう。卒業までは待とう」
 彼は威厳を保ったまま答えた。アンジェリカは小さく息を吐き、力をゆっくりとおさめていった。
 ルーファスは彼女の顎を掴み、ぐいと持ち上げた。
「くれぐれも言っておく。妙なことは考えるな」
「くどいわね」
 アンジェリカは眉をひそめ、少し苦しげに言った。しかし、ルーファスは容赦しなかった。さらに彼女の顎を持ち上げる。アンジェリカはつま先立ちになり、思いきり顔をしかめた。
「その身を大切にしろ。もはやおまえひとりのものではない。おまえがラグランジェ家のすべてを背負っているのだ」
 ルーファスは覆いかぶさるように彼女の黒い瞳を覗き込んだ。

「ユールベル、アンジェリカは来なかったか?」
 サイファは小走りで駆け寄りながら尋ねた。ユールベルは長椅子から立ち上がった。
「来たわ。中に押し入ろうとしたのを止めたら、出ていってしまったけれど」
「そうか……」
 サイファは難しい顔で何かを考えながら、ぼんやりと相槌を打った。
 ユールベルは不安げに瞳を揺らした。自分の行動は間違っていたのだろうか、そんな考えが湧き上がった。
 サイファは彼女の暗い顔に気がつくと、その頭に優しく手を置き微笑みかけた。
「止めてくれてありがとう」
 ユールベルはそれでもまだ表情を曇らせていた。
「疲れただろう。帰って休んだ方がいい」
 サイファは彼女を気づかった。しかし、ユールベルは首を横に振った。
「いいえ、ここにいるわ。いたいの」
 力を込めて懇願した。サイファはにっこりと笑顔を見せ、もういちど彼女の頭に手をのせた。
「わかった。無理はするな」
 ユールベルは彼の手の温もりを感じながら、こくんと頷いた。

 サイファは魔導省の最上階へとやってきた。早足で廊下を歩く。自室があるため、毎日のように通る場所だ。しかし、今回は自室を通り越し、さらにその奥へと向かった。
 コンコン——。
 突き当たりの扉を軽く二度ノックし、返事を待った。
「どうぞ」
 中から男性の落ち着いた声が聞こえた。サイファは扉を開け、中へと進んだ。その部屋は、サイファの部屋の倍ほどの広さがあった。こざっぱりと整頓され、床もきれいに磨かれていた。
 奥の窓際には、サイファと同じ濃青色の服を着た男性が立っていた。サイファよりやや背が高いくらいで、体格はよく似ていた。彼は入口に背を向け、後ろで手を組み、大きなガラス窓から外を見下ろしていた。
 サイファは彼へと足を進めた。無言で隣に並ぶと、目を細め、ガラス越しに空を望んだ。一面に広がる青のグラデーションに、白い筋状の雲がかかっていた。緩やかな風が、少しずつそれを流していく。
「ジーク=セドラックを釈放していただけませんか、長官」
 サイファが口を切った。長官と呼ばれた男は、前を向いたままきっぱりと答えた。
「通報があった以上、そういうわけにもいかん」
「彼は嵌められたんです。お察しでしょう」
 サイファは淡々と抗議した。長官は彼を一瞥した。
「彼と君とはどういう関係だ」
「娘の友達です。アカデミーのクラスメイトでしてね」
 サイファは愛想よく言った。
「ただの学生が、なぜルーファス=ライアン=ラグランジェの不興を買ったのか知りたいね」
 長官は外を見ながら、鷹揚に尋ねかけた。
「娘と仲良くしすぎたからでしょう」
 サイファはさらりと答えた。長官は怪訝な顔で振り向いた。
「つまらない冗談など期待していないのだが」
「いえ、事実ですよ。これ以上のことは、ラグランジェ家の内情に関わることなので、お話できませんが」
 サイファは真顔で言った。その表情を見て、長官はようやく信じる気になった。軽くため息をつき、椅子に腰を下ろした。そして、机に向かうと、肘をついて両手を組み合わせた。
「だとすれば、不憫な話だな。……だが、釈放するわけにはいかんよ」
「私より祖父の方が大きな影響力を持っているから、ですか」
 サイファは長官に振り返り、落ち着いた声で尋ねた。
「そうだ」
 長官はたじろぎもせず答えた。
「あの方の意向に逆らえば、私の首など簡単に飛ぶ」
 強いまなざしで前を見据え、重々しく言葉を落とす。
 サイファは端整な顔を、鋭く引き締めた。青い瞳に小さな強い光が宿った。
「いずれ、あなたよりも祖父よりも、私の方が強大な権力を握ることになりますよ」
「そうなったときには、君のご機嫌を窺うよ」
 長官の声はいたって真面目だった。ゆっくりサイファに振り向くと、口元に不敵な笑みをのせた。サイファは隙のない表情で、同じように笑みを返した。
「こんなときのために、あなたの弱みを握っておくべきでした」
 冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、今度は大きくにっこりと笑ってみせた。
 長官は強い視線を送り、低い声で詰問した。
「君がそこまで彼に肩入れする理由は何だ」
「娘を悲しませたくないんですよ」
 サイファは穏やかに微笑した。長官はそれでもなお、けわしい表情を崩さなかった。
「それだけか?」
 再度、低い声で問いただす。
 サイファの顔から、すっと笑みが消えた。一呼吸すると、静かに話し始めた。
「彼は、私が持ちえなかったものを持っています。だから、それを守ってやりたいと思うのかもしれません」
「……なるほどな」
 長官は椅子の背もたれにもたれかかった。
「君にそう言わしめる彼に、興味が出てきたよ」
 かすかに楽しむような声音だった。天井を見つめ、わずかに口角を上げた。

 ジリリリリ——。
 けたたましく電話のベルが鳴った。長官は身を起こし、素早く受話器をとった。
「はい。……なに? …………わかった」
 そう言い終わると、ゆっくりを受話器を戻した。視線を落としたまま、怪訝な面持ちで眉間にしわを寄せる。
「どうかしたのですか」
 サイファは嫌な予感を押し隠し、平静を装って声を掛けた。
 長官は彼に振り向いて言った。
「君にとっては朗報だ……多分な」

 サイファは再びジークの取調室へ入っていった。
 ジークはパイプ椅子に座りうなだれていた。が、サイファに気がつくと、驚いて立ち上がった。机に手をつき、身を乗り出して、思いつめた表情で口を開いた。
「サイファさん、俺、やっぱり……」
「釈放だ」
「え?」
 ジークはきょとんとした。サイファの言葉がとっさに理解できなかった。
「釈放だよ」
 サイファはもう一度、繰り返した。ジークの表情はみるみるうちに晴れていった。
「ありがとうございます!」
 力いっぱい礼を言うと、大きく頭を下げた。
「私は何もしていない」
 サイファは顔を曇らせた。だが、ジークはそれを謙遜としか受け取らなかった。言いようもないくらい彼に感謝した。
 サイファはけわしい表情でジークを見つめた。
「釈放はされるが、魔導の不正使用については記録に残る。一生、君についてまわることになる。覚悟しておけ」
「……はい」
 ジークは噛みしめるように返事をし、ごくりと唾を飲み込んだ。

 ジークはサイファにつれられて、取調室をあとにした。狭く薄暗い廊下を歩き、広いロビーへと出た。
「ジーク」
 鈴を鳴らしたような声。
 ジークははっとして視線を上げた。息を呑んだ。そこにいたのはアンジェリカだった。彼の真正面に立ち、安堵した表情で目を潤ませていた。
「おかえり」
 ジークはその声を耳にすると、張りつめていたものが一気にとけた。倒れ込むように彼女の肩に額をのせ、腕を掛けて寄りかかった。
「……ただいま」
 あたたかい吐息まじりの小さな声。だが、それで充分だった。彼女にだけ届けばよかった。
 ユールベルは離れたところからその様子を見ていた。ジークは自分の存在にも気づいていない——。そんなふたりに割って入ることなど出来なかった。無言でその場から立ち去った。
 サイファは腕を組み、訝しげに娘を見つめた。
 ——まさか、アンジェリカが……。
 ジークの突然の釈放を知ってから、ずっとその考えが頭にこびりついていた。彼女を目にすると、その疑惑はよりいっそう膨らんだ。杞憂であってほしい。サイファはそう願わずにはいられなかった。


76. 特別な普通の日々

「ただいま」
「お帰りなさい」
 サイファが荘厳な扉を押し開けて声を張ると、レイチェルはパタパタと小走りで出迎えた。いつものように、彼女は愛らしく微笑んでいた。だが、彼の方はいつもと違っていた。顔色が冴えない。レイチェルはコートを受け取りながら、心配そうにじっと覗き込んだ。
「どうしたの? 疲れているみたい」
「いろいろあってね。でも、心配ないよ」
 サイファはにっこり微笑み、彼女の頬に軽く口づけた。
「アンジェリカはいるか?」
 そう尋ねた彼の声は、無意識に硬くなっていた。レイチェルの表情もつられて硬くなった。当惑して、彼を見つめ返す。
「ええ……呼んできましょうか?」
「ああ、頼む」
 サイファは淡々と答えると、応接間へと向かった。

「お父さん?」
 アンジェリカはきょろきょろと見まわしながら、応接間へ入っていった。レイチェルからサイファが呼んでいると聞いてきた。だが、彼の姿は見当たらなかった。ふと、カーテンがはためいていることに気がつき、その方へ足を進めた。カーテンの後ろの大きなガラス窓は全開になっていた。
 外に目を遣ると、サイファの後ろ姿が見えた。まだ濃青色の制服のままだった。ズボンのポケットに片手を掛け、空を見上げているようだ。
 空は半分ほど紺色に塗り替えられていた。地平近くの鮮やかな朱色が、最後の抵抗を見せるかのように、強い存在感を示している。その上を、オレンジ色の雲がゆっくりと流れていく。
 サイファは彼女に気がつくと、にっこり笑って振り返った。
「アンジェリカ、降りておいで。風が気持ちいいよ」
「うん」
 アンジェリカは庭に降り、サイファの隣へ駆けていった。ひんやりした風が、頬を心地よく撫でた。黒髪がさらさらとかすかな音を立てて揺れた。思わず顔がほころんだ。後ろで手を組み、背筋を伸ばすと、大きく深呼吸した。そして、にっこりとして隣の父親に振り向いた。
 だが、彼は、朱い光を正面から受けながら、思いつめた顔で遠くを見つめていた。アンジェリカの胸に不安が湧き上がった。
「お父さん?」
「空の向こう側が見たいと思ってね」
 サイファは穏やかにそう言うと、アンジェリカに微笑んだ。
「空に向こう側なんてあるの?」
「さあね、ラウルがそう言ったんだ」
「本当にあるんだったら、私も見てみたいな」
 アンジェリカは無邪気に笑った。
 サイファは、再び、空に目を向けた。
「ルーファスのところへ行ったのか」
「……ええ」
 アンジェリカも空を見上げた。その顔から笑みは消えていた。
「何を言ったんだ」
「アカデミーを卒業したら、言うとおりにするって」
 サイファは険しい顔で彼女に振り向いた。ルーファスが簡単にジークを釈放させるはずはない。そうしたのは、彼を利用する必要がなくなった——つまり、アンジェリカがルーファスの要求を受け入れたからではないか。それがサイファの推測だった。外れていればいいと思っていた。しかし、彼女の答えは、彼の推測そのものだった。
「何か、考えがあるのか?」
 低く抑えた声で尋ねる。彼女は目を細め、遠くを見つめたまま、抑揚のない声で答えた。
「言葉のままよ。約束は守るわ」
「どういうことかわかっているのか!」
 サイファはつい感情的になった。声を荒げ、詰問する。
 アンジェリカはキッと睨みながら振り向いた。
「わかっているわよ! ラグランジェ家の誰かと結婚して、本家を継げばいいんでしょう?」
 彼女のまなざしには強い決意が表れていた。軽い気持ちで行動したわけではないのだろう。そのことは、サイファにもよくわかった。だからといって、納得できるものではない。
「本当に、それでいいのか」
 重々しく尋ね掛ける。
「もう決めたことよ」
 アンジェリカは素っ気なく答え、再び空を見上げた。
「不幸だなんて思わないで。それはそれで幸せなことかもしれないじゃない。お父さんとお母さんのようになれたら、いうことないわ」
 サイファの胸に小さなとげが刺さった。
「私たちとおまえでは、状況が違う」
「どんな状況でも、幸せになる努力はするわ」
 アンジェリカは大きな漆黒の瞳をサイファに向けた。真剣な面持ちで、まっすぐに彼を見つめる。サイファの鼓動は大きくドクンと打った。返す言葉を見失った。
「私の結婚相手も、お父さんみたいな人だといいんだけど」
 アンジェリカはにっこり笑って、小さく肩をすくめた。いじらしい彼女の笑顔に、サイファの胸は強く締めつけられた。
「ジークには、言ったのか」
 アンジェリカの顔に陰が落ちた。目を伏せ、ぽつりと答える。
「言わないつもり」
「おまえが良くても、彼を傷つけることになるぞ」
「わかっているわ」
 アンジェリカは後ろで手を組み、くるりと背を向けた。短いスカートがふわりと舞った。
「でも、言ったら、きっとまた危ないことをしちゃうから」
「だからといって……」
「それに」
 アンジェリカの凛とした声が、サイファの言葉を遮った。サイファは大人しく口をつぐんだ。目の前の小さな背中を見つめた。彼女はわずかに振り向き、かすかな笑みを浮かべた。
「卒業までは、普通に過ごしたいから」
「普通?」
 サイファは怪訝に尋ね返した。アンジェリカはくるりと体をまわし、彼に向き直った。
「そう、アカデミーで勉強して、ジークやリックと話をして、笑いあって、ときどき喧嘩もして……そんな普通の日々が、私にとっては特別なの」
 そこまで言うと、彼女は急に真剣な顔になった。
「卒業までにそんな思い出をいっぱい作っておきたい。そのためには、ジークに何も言わない方がいいと思うの。確かにひどいと思うけど……私の最後のわがまま、許してほしいな」
 アンジェリカは寂しげな瞳で曖昧に笑った。
「アンジェリカ……」
 サイファは何も言えなくなった。

「ジークさんには、いつ言うつもりなの?」
 ふいに、レイチェルの声が割り込んだ。その声は後ろの窓際からだった。どうやらそこでふたりの会話を聞いていたようだ。
「言わない……言えないわ、きっと」
 アンジェリカはうつむいた。
「駄目、それだけは駄目よ」
 レイチェルは庭に降り、アンジェリカへと足を進めた。怖いくらいに思いつめた顔で、まっすぐに彼女を見つめている。
「ジークさんを傷つけることになる。あなたはそのことに傷つくことになる。ふたりとも、きっとずっと引きずってしまうわ。時が経てば忘れるだろうなんて、思わない方がいい」
「でも、私、わかってもらう自信ないから……」
 アンジェリカはとまどいがちに、弱々しく言葉を落とした。
 レイチェルは優しく彼女の髪を撫でた。
「それでも、あなたが自分の口から伝えなければならないことよ」
 アンジェリカは顔を上げ、すがるように母親を見た。彼女は穏やかな微笑みで、娘を包み込んだ。無言で勇気づける。
「……わかったわ。卒業式の日に伝える」
 アンジェリカは小さく頷き、しっかりした声で答えた。覚悟を決めた彼女の表情には、もう弱さは見られなかった。

 アンジェリカは家の中へ戻り、庭にはサイファとレイチェルが残った。
「すまない」
「え?」
 レイチェルはきょとんとして振り向いた。サイファは眉根を寄せ、つらそうな顔で彼女を見ていた。
「君の口から告げる機会を奪ったのは、私だ」
 重々しく声を落とす。レイチェルは目をつむり、静かに首を横に振った。
「あのときは、ああするしかなかった、そうでしょう? 悪いのは私だもの」
「違う」
 サイファは足を踏み出し、強い調子で否定した。
 レイチェルは後ろで手を組み、空を仰いだ。長い金色の髪が風に揺れ、夕陽を浴びて煌めいた。
「この話はやめましょう。しない約束だったじゃない」
「……ああ」
 サイファは喉の奥から絞り出すように返事をした。その約束をさせたのも、自分だった。

「アンジェリカのことはどうするの?」
 レイチェルは話題を変えた。過ぎ去ったことよりも大事な、いま、最も考えなければならないことだ。
 サイファは表情を引き締めた。
「このままにはしない」
 低い声で鋭く答える。
 レイチェルは視線を落とした。
「もしかしたら、アンジェリカの選択は正しいのかもしれないわ」
 複雑に顔を曇らせながら、小さな声で言った。しかし、サイファの決意は揺らがなかった。腕を組みながら前に歩み出ると、紺色の空を見上げ、目を細めた。
「君もわかっているだろうが、あの子の選択は次善のものだ。一番に望むことではない。だから、私はあきらめないよ。アンジェリカを幸せにするためなら……」
 ふいに、レイチェルは彼の背中に頬をつけ、そっと寄りかかった。
「意地になっているの?」
「いや、アンジェリカのことを大切に思っているだけだよ」
 背中の彼女を安心させるように、サイファは優しく誠実に答えた。
「無茶はしないで」
 レイチェルは静かにそう言うと、彼の体温を感じながら目を閉じた。

 空は抜けるように青かった。鮮やかに色づく緑は、まぶしいくらいに輝いている。アンジェリカは軽い足どりでアカデミーへ向かっていた。
「おはよう」
 校門をくぐったところでジークとリックを見つけ、駆け寄りながら声を掛けた。
「おはよう、アンジェリカ」
 リックはにっこりと微笑んだ。その隣で、ジークは照れくさそうに顔を赤らめ、目を泳がせていた。原因はきのうのことだった。釈放されたときに、安堵して思わず彼女に寄りかかってしまった。あとで考えると、そのことが少し情けなく思えた。
「きのうのこと、お母さんに話したの?」
 アンジェリカは彼の心情を察することなく、無遠慮に覗き込んで尋ねた。彼女の大きな瞳に見つめられ、彼の顔はますます熱を帯びていった。
「あ、ああ……。帰ったらもう知ってた。サイファさんから連絡があったって」
 微妙に視線を外しながら、なんとか冷静に答えを返した。
「お母さんに何か言われた?」
 アンジェリカは気遣わしげに尋ねた。ジークは少し考えて、ぽつりと答えた。
「バカ……ってな」
 アンジェリカはくすりと笑った。ジークもつられて笑った。
 本当は、母親の言葉には続きがあった。
 ——やり方に問題はあったけど、まあよくやったんじゃない? 連れ去られた子を助けようとしたんでしょ?
 ぶっきらぼうだが温かみのあるその言葉に、ジークは涙が出そうになった。そんなこともあり、なんとなく気恥ずかしくて、アンジェリカには続きの言葉は言えなかった。
「これからどうすりゃいいんだろ」
 ジークは足元を見ながら、ため息まじりにつぶやいた。目の前の小石を軽く蹴飛ばした。
「何が?」
 アンジェリカはきょとんとして尋ねた。ジークは顔をしかめ、頭に手をやった。
「あのじいさん、あれで挨拶代わりとか言ってやがったし、今度はどんな手でくるか……」
「もう大丈夫よ、きっと」
 アンジェリカはにっこり微笑んだ。ジークは怪訝に眉をひそめた。
「なんでだよ」
「そんな気がするだけ」
 アンジェリカは青い空に向かって、明るく声を弾ませた。
「根拠のない自信はアテにならないって言ったの、誰だっけな」
 ジークは呆れたように言った。しかし、アンジェリカは笑顔を崩さなかった。
「私の勘はよく当たるのよ」
 屈託なくそう言うと、大きな瞳をくりっとさせ、後ろで手を組み、ジークを覗き込んだ。
「今から悩んでたって仕方ないじゃない。何か起こったら、そのとき考えましょう」
「うん、そうだね」
 リックが横から相槌を打った。
 しかし、ジークは難しい顔をして首を傾げた。彼は、ふたりほど楽観的にはなれなかった。

 三人は校舎に入り、教室へ向かっていた。そのとき、前から歩いてきたレオナルド、ユールベルのふたりと鉢合わせした。ジークとレオナルドは、互いにムッとした表情で睨み合った。ジークはすぐに視線を外し、無視して通り過ぎようとした。だが、レオナルドはジークを見据え、口をひらいた。
「ユールベルから話は聞いた」
 ジークは反射的に足を止めた。話というのは、おとといからきのうにかけてのことだろう。彼女に頼まれ、彼女の弟を救おうとした。簡単にいえば、そういうことになる。彼女がどう説明したのかはわからないが、ジークにとってはどうでもいいことだった。止めた足を再び動かそうとした。そのとき——。
「一応、礼は言っておく」
 レオナルドの口から、思いもよらない言葉が発せられた。ジークは驚いて顔を上げた。ジークだけではなく、アンジェリカとリックも大きく目を見開いている。
 レオナルドは不機嫌な顔で続けた。
「だが、勘違いするな。ユールベルがおまえを頼ったのは、おまえ以外に話せない状況だったからであって、おまえが頼りになるとか、頼もしいとか、頼りたいとか、そんな理由じゃない」
 ジークはうんざりして脱力した。やはりレオナルドはレオナルドだと、妙に納得した。
 ユールベルはレオナルドの隣で、困惑した表情を浮かべていた。
「ねぇ、ユールベル」
「え?」
 アンジェリカはユールベルに声を掛けた。ユールベルはびくりと振り向いた。アンジェリカはにこにこと微笑んでいた。
「今度、ふたりだけで話せないかしら」
「ええ、いいけど……」
「ふたりきりなんてダメだ!」
 ジークは慌てて割り込んだ。ユールベルを信じていないわけではなかったが、ふたりきりにするには漠然とした不安があった。
「おまえ、何を企んでいる?!」
 今度はレオナルドだった。きつい口調でアンジェリカを問いつめた。
「話をするだけよ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「行くぞ」
 レオナルドはユールベルの手を引き、逃げるように大股で歩き出した。
「また連絡するわ」
 アンジェリカはユールベルの背中に声を送った。彼女は振り返って何か言いたげな顔を見せたが、レオナルドは立ち止まらず強引に連れ去った。

「おまえ、何の話をするつもりなんだよ」
 ジークは腕を組み、むすっとしてアンジェリカに振り向いた。まさか、自分の話か——? 仏頂面の後ろで、鼓動が高鳴った。
「ジークのことじゃないから安心して」
 まるで彼の心を見透かしたように、アンジェリカはさらりと答えた。
「別にっ……んなこと……」
 ジークの顔に一気に血がのぼった。とっさに反論しようとする。だが、すぐにトーンダウンし、口ごもっていった。うつむいて腕を組み、困ったように眉をひそめた。
「そうだわ」
 アンジェリカは急に何かを思い出し、目を大きく見開いた。
「ジーク、前に私の手料理を食べたいって言ってたじゃない?」
「いっ、言ってねぇよ!!」
 ジークは焦った。今度は思いきり否定した。確か、それは彼女が言い出したことであって、自分が言った記憶はない。
「何よ、そんなに嫌なの?」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「えっ、あ……い、嫌とは言ってねぇだろ……」
 ジークはきまり悪そうにうつむいた。耳元が赤くなっていく。いつものことながら、すっかり彼女のペースである。少し悔しい思いはあったが、不思議と嫌な気はしない。
「じゃあ、今度、ジークの家に作りに行くわ」
 アンジェリカは顔を輝かせて言った。
「俺んち?!」
 ジークは自分を指さし、素頓狂な声を上げた。アンジェリカはちょこんと首を傾げた。
「だめ?」
「母親にきいてみねぇと……」
 ジークは難しい顔で唸った。断られることはないと思うが、きっと何かとからかわれるだろう。そのことだけが心配だった。
 アンジェリカはにっこり笑った。
「それじゃ、きいておいてね。リックも食べに来てね!」
「いいの? 楽しみだなぁ」
 リックは素直に嬉しそうな声を上げた。自分も誘ってもらえるとは思わなかった。ジークだけというなら、それはそれで構わないと思っていたが、やはり少し寂しさはある。当然のように誘ってくれた彼女に感謝した。もっとも、ジークはふたりきりの方がいいと思っているかもしれないが——。リックは彼の顔色を窺った。
 ジークは眉根を寄せ、考え込んでいた。
 リックは苦笑いした。
 だが、ジークの頭の中は、リックの想像とは掛け離れていた。ジークは、明るく振る舞う彼女を見て、微かな不安を感じていた。無理をしているのではないか、そんなふうに思えた。もしかしたら、責任を感じ、自分を元気づけようとしてくれているのかもしれない。それとも、今だけでも嫌なことを忘れていたいのだろうか。
「ジーク?」
 アンジェリカが目をぱちくりさせて、下から覗き込んだ。
「あまり難しい顔ばかりしてたら、眉間のしわ、取れなくなっちゃうわよ」
「しわなんて寄ってねぇよ」
 そう言いつつも、ジークはこっそり下を向き、人差し指と中指で眉間を伸ばした。

「え? お父さん?!」
 アンジェリカは口に手をあて、息を呑んだ。教室の前で壁に寄りかかっていたのは、彼女の父親のサイファだった。彼は三人に気がつくと、人なつこい笑顔を見せた。
「やあ、きのうは大変だったね」
 壁から体を離すと、軽く右手を上げ、ジークに声を掛けた。ジークは少し驚きながらも、挨拶を返そうとした。だが、そのとき、アンジェリカは彼を庇うように前に飛び出した。あごを引き、上目遣いで父親を睨みながら、声をひそめて問いつめる。
「何をしに来たの?」
「ジークに用があって来たんだよ」
 サイファは優しくなだめるように言った。しかし、彼女は警戒を解かなかった。それどころか、ますます態度を硬化させた。
「だめ!!」
 首を横に振りながら、必死に押し返そうとする。
「どうしたんだよ、アンジェリカ……」
 ジークは彼女の後ろで呆然とつぶやいた。ついさっきまでの楽天的な明るさとは、まるで正反対の挙動である。多少、無理をしているのではないかと思ったが、ここまでの落差を見せられては、さすがに驚く。
 サイファは彼女の細い腕を掴み、引き寄せた。抵抗する彼女を抱きしめ、彼女にだけ聞こえるように耳元でそっと囁いた。
「心配するな。あのことは彼には言わない。アンジェリカの大切な日常は守るよ」
「じゃあ、何の用なの」
 アンジェリカは父親を見上げ、きつい口調で尋ねた。ジークたちにも聞こえる声だった。サイファも小声をやめ、通常の声で答えた。
「上司にジークを連れてくるように言われたんだ」
「どうして」
 アンジェリカはサイファの服をぎゅっと掴み、潤んだ揺れる瞳を彼に向けた。
 サイファは申しわけなさそうに肩をすくめた。
「私にもわからないんだ」
「そんな……」
「彼のことは守るよ。信じてくれるかい?」
 アンジェリカは不安そうな顔のまま、かすかに頷いた。
 サイファはにっこりとして、彼女の頭に手をのせた。
「そういうわけで、一緒に来てくれるか? ジーク」
「でも、これから授業が……」
 ジークは嫌な予感がして腰が引けた。とっさにその場しのぎの言いわけを口にする。
 サイファは愛想よく微笑んだ。
「ラウルの許可は取ったよ」
 逃げ道は塞がれていた。ジークには、他に断る理由が思い浮かばなかった。観念するしかない。素直に「はい」と返事をすると、サイファのあとについていった。

「心配ないよ」
 ひたむきにふたりを見送るアンジェリカの肩に、リックは優しく手をおいた。アンジェリカは沈んだ顔でうつむいた。
「そうだといいんだけど」
「もう大丈夫って、さっき自分で言ってたじゃない。アンジェリカの勘はよく当たるんでしょ?」
 リックは同意を求めるように、にっこり微笑み掛けた。
「ええ、そうね」
 アンジェリカも顔を上げて、微笑み返した。だが、今の自分の心にあるのは不安ばかりだった。嫌な想像が次から次へと頭に浮かぶ。こんな勘は当たらなければいい。当たらないでほしい。懸命にそう願った。


78. ずっと忘れない

「こんにちは」
 アンジェリカはにっこりと挨拶をした。戸口で出迎えたジークは、呆然と彼女を見つめた。
「家出でもしてきたのか? その荷物……」
「違うわよ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「材料とか、調味料とか、準備するものがたくさんあるの」
「言ってくれれば迎えに行ったのに」
 ジークはあきれたように言いながら、彼女がリュックサックを下ろすのを手伝った。そのリュックサックは、彼女が中にすっぽり入るくらいの大きなものだった。しかも、ずっしりと重い。
「こんなものを担いで、よくここまで歩いてきたな」
「日頃から鍛えているもの」
 身軽になったアンジェリカは、腰に手をあて、ふうと大きく息をついた。そして、ぐるりと部屋の中を見まわした。
「リックはまだなの?」
 彼女はジークに振り返って尋ねた。ジークはぎくりとした。頭に手をやり、片目を細めながら答える。
「ああ、あいつな……。なんか用が出来たみたいで来られねぇって」
「そう」
 アンジェリカは沈んだ声を落とした。
 ジークの胸にずきりと痛みが走った。リックが来なかったのは、おそらく自分に気を遣ってのことだろう。もちろん、そんなことを頼みはしない。だいたいリックが遠慮したところで、アンジェリカとふたりきりになれるわけではない。そう、ここには他にもうひとりいるのだ。遠慮のかけらもない人間が——。
「いらっしゃい、アンジェリカ!」
 不必要に大きな声が耳をつんざいた。そのもうひとり、母親のレイラである。ジークはうんざりしてため息をついた。
「すごーく楽しみにしてたのよ。おいしい手料理、期待してるわ」
 レイラは満面の笑顔で声を弾ませた。
「任せてください」
 アンジェリカはにっこり笑い、両方のこぶしをぎゅっと握ってみせた。
「それじゃ、全部お任せしちゃうわね。台所はもうホント好きなように使っていいから」
 レイラは左手を大きく開き、腕を勢いよく伸ばすと、狭い台所をオーバーに示した。まるで舞台上の司会者のようだった。

 アンジェリカはさっそく料理に取りかかった。フリルのついた淡いピンク色のエプロンを身につけると、リュックサックから材料を取り出し、丁寧に並べていく。ジークは背後からその様子をじっと見ていた。
「何を作るんだ?」
「シチューよ」
 アンジェリカは流し台に向かったまま答えた。
「シチューか……」
 ジークは難しい顔で腕を組んだ。前にセリカが作ったものと同じである。比べたくはないが、無意識に比べてしまいそうで怖い。それでも、自分は心の中に留めるつもりだ。しかし、母親は危険である。なにせ、考えなしに思ったことをすぐ口に出すのだ。そのせいで幾度、肝を冷やしたか知れない。
「何か問題?」
 アンジェリカは包丁を手に振り返り、眉をひそめた。
 ジークは鈍く光る刃を見て、顔から血の気が引いた。慌ててぶるぶると首を横に振った。

「俺も何か手伝うよ」
「今日はひとりで作るって決めたの」
 アンジェリカは、腕まくりをするジークを制止した。ジークはまくった袖を下ろし、後ろから見守ることにした。強情な彼女のことだ。ひとりでやると決めたのなら、必ずそれを貫くだろう。他の人がどういう提案をしようと、簡単にそれを受け入れるはずがない。
 アンジェリカは野菜を洗い、包丁で皮を剥き、一口大に切っていった。手つきは悪くなかった。丁寧にそつなくこなしていく。動きも計算されているようで無駄がない。ただ、あまりにも真剣な顔つきのせいか、きっちりしすぎているせいか、家庭的な雰囲気は微塵も感じられず、まるで化学実験でもしているかのようだった。
 ひととおり材料を炒め、水を加えると、エプロンのポケットからストップウォッチを取り出した。それを首に掛け、親指でボタンをカチカチと押す。
「しばらく休憩」
 アンジェリカはくるりと振り返り、ようやく表情を和らげた。

「ねぇ、料理と魔導って似ていると思わない?」
 アンジェリカは両手で頬杖をついて尋ねた。
「は? どこが?」
 ジークは椅子に腰掛けながら、不思議そうに彼女を見た。
「プリミティブなものを組み合わせて高度なものを構成していくところとか、応用次第で無限のバリエーションを創り出せるところとか。レシピどおりに作っても個性が出ちゃうのも似てるわね」
 アンジェリカはニコニコしながら答えた。ジークは腕を組み、首をひねって考え込んだ。
「まあ、なんとなくわかるような気もするけどな」
「でしょう?」
 アンジェリカは嬉しそうに身を乗り出した。しかし、視線を斜め上に流すと、少し不満げに付け加えた。
「ただ、料理の場合は手続きを短縮できないのがもどかしいわね」
 そう言いながら、首に掛けたストップウォッチの紐を、くるくると指に巻きつけたり、ほどいたりした。せっかちな彼女には、そのことがいちばんの問題だった。こういう待ち時間がじれったいのだ。
 それは、ジークも同じだった。彼もときどき簡単な料理を作るが、待ち時間を待ちきれず、苛ついていることが多い。だが、今日の待ち時間はまったく苦にならなかった。彼はちらりとアンジェリカを盗み見た。

 ピピッ。
 短く電子音が鳴った。アンジェリカはストップウォッチの表示を確認して立ち上がった。
「あと少しよ。待っててね」
 にっこり笑ってそう言うと、短いスカートをひらめかせ、パタパタと鍋の方へ駆けていった。ジークは椅子に座ったまま、彼女を目で追った。

 やがて、台所からシチューらしい匂いが漂ってきた。ジークはそわそわした。
「お、そろそろかな?」
 匂いにつられ、レイラも再び居間へやってきた。ジークの隣に座り、頬杖をついた。そして、優しく目を細め、アンジェリカの後ろ姿に視線を投げた。
「一生懸命でホント可愛いわよねぇ。ねぇ、ジーク」
「ん……ああ、まあ……」
 ジークは口ごもりながら曖昧に返事をした。

「お待たせ」
 アンジェリカはシチューをトレイに載せて運んできた。レイラ、ジーク、そして自分の席へ、順に配っていく。
 ジークは目の前に置かれた皿の中をじっと覗き込んだ。とりあえず、見た目は普通のクリームシチューだ。どこもおかしなところはない。匂いも普通に美味しそうだ。
 レイラは息子の頭を小突いた。
「そんなにジロジロ見ないの」
 アンジェリカはくすりと笑った。そして、ロールパンが山盛りになったバスケットを、テーブルの中央にどんと置いた。
「パンは時間がかかるから、家で焼いてきたの」
「焼いたって、まさか、おまえが作ったのか?」
 ジークはパンを指さしながら顔を上げた。アンジェリカはエプロンを外しながら、むっとして口をとがらせた。
「そうよ、疑っているの?」
「いや、驚いただけだ」
 ジークはまじまじとパンの山を見つめた。味はまだわからないが、少なくとも見た目は、市販のものと比べても遜色ない。
「さ、それじゃ、食べましょうか」
 レイラは明るく声を張ると、両手を合わせた。
「いただきまーす」
「いただきます」
 レイラのあとに続いて、ジークとアンジェリカも手を合わせて言った。
 ジークはシチューをスプーンですくい、口に運ぼうとした。だが、その手が途中で止まった。軽くため息をつきながら、ゆっくりと顔を上げる。
「あのな、そんなに見られてたら食えねぇって」
「だって、ジークの反応が気になるんだもの」
 アンジェリカは真面目な顔で、黒い大きな瞳をまっすぐ彼に向けていた。彼女だけでなく、なぜか母親もじっと彼の方を見ていた。
 ジークはもう一度ため息をつくと、覚悟を決めて、山盛りのスプーンにぱくりと食らいついた。
「どう?」
「……うまい」
 口をもぐもぐと動かしながら答える。
「本当?」
 アンジェリカは疑わしげに下から覗き込んだ。
「ああ、本当にうまいって」
 どんなふうに表現すればいいかわからなかったが、お世辞ではなく本当に美味しかった。ひいき目もあるかもしれないが、セリカのよりも美味しいとジークは思った。手を止めることなく、ガツガツと頬張っていく。
 彼のいつも通りの豪快な食べっぷりを見て、アンジェリカはようやく安堵し、顔をほころばせた。

「ごちそうさま! 本当においしかったわ。想像以上よ」
 レイラは陽気に笑いながら、歯切れよく言った。それが本心だということは、少なくともジークにとっては一目瞭然だった。もっとも、彼女がどんなものを想像をしていたのかはわからないし、聞かない方がいいだろうと思った。
「俺も、ごちそうさま」
 ジークは椅子にもたれかかり、満足そうに腹に手を置いた。多めに作ったシチューも、山のようにあったパンも、すべてなくなった。ほとんど彼が平らげたようなものだ。
 アンジェリカは本当に嬉しそうだった。笑顔をあふれさせている。そんな彼女を見て、ジークも嬉しくなった。

「置いとけよ。あとで俺がやっとく」
 後片づけを始めたアンジェリカに、ジークは後ろから声を掛けた。
「ダメよ。後片づけまでが料理だって、うちのシェフも言っていたもの」
 彼女は皿を洗う手を止めずに言った。ジークは腕を組み、柱に寄りかかった。そして、口元を緩め、小さな後ろ姿を見つめた。
「やっぱすげぇよ、おまえ」
「ありがとう」
 アンジェリカはちらりと振り返り、くすりと笑った。

「お茶、入ってるわよ!」
 後片づけを終えたアンジェリカに、レイラは大声で呼びかけた。
「ありがとうございます」
 アンジェリカは台所からパタパタと駆けてきて、席についた。ジークもその後ろからのんびり戻ってくると、彼女の隣に座った。
 レイラは紅茶をふたりに差し出した。そして、興味津々に身を乗り出すと、アンジェリカに尋ねかけた。
「それにしても、料理に興味を持つなんて、どういう心境の変化?」
 アンジェリカは両手でティーカップを持ち、にこやかに微笑んだ。
「自立することに憧れていたの」
 そう言って、熱い紅茶をひとくち流し込むと、小さく息をついた。
「本当は、料理も掃除も出来なくたって、何の不自由もないんだけど」
「でも、他へお嫁に行ったら、そういうわけにもいかないでしょ?」
 アンジェリカはきょとんとした。だが、すぐににっこりすると「ええ」と答えた。
 ジークは耳元を赤くしながら、横目で母親を睨みつけた。自分をからかっているに違いない。いや、自分だけならいい。だが、アンジェリカを巻き込むのはやめてほしいと思った。変なふうに思われていないだろうか——。心配だが、尋ねることもできない。下を向いて額を押さえると、大きくため息をついた。
「どうしたの? ジーク」
 アンジェリカは首を傾げ、覗き込んだ。
「そろそろ帰るだろ、送ってく」
 ジークは腕時計を見て立ち上がった。アンジェリカの家はここから遠い。のんびりしていたら、真夜中になってしまう。
 アンジェリカは座ったままで、目をぱちくりさせた。
「今日はここに泊まっていくのよ。言ってなかったかしら」
「な、なに言ってんだよ、おまえ」
 ジークの声はうわずっていた。しかし、アンジェリカは真顔だった。大きな瞳でじっとジークを見つめる。
「お父さんとお母さんの許可はちゃんと取ったわよ」
「えっ……」
 パコン。
 レイラが丸めた新聞紙でジークの頭を叩いた。
「あんたなに顔を赤らめてんのよ。アンジェリカは私の部屋で寝るの。あったりまえでしょう?」
 思いきり冷たい目を息子に向ける。ジークは一気に上気し、激しく狼狽した。
「わっ……わかってるよ!!」
 本当はわかっていなかったが、そう言うしかなかった。きまり悪そうに顔を背けながら、しかめ面で舌打ちをした。そして、ふいに何かを思いついた様子ではたと動きを止めると、唐突にアンジェリカの腕を引いた。
「上へ行こう」
「え? ええ」
 彼女はとまどいながらも、手を引かれるまま彼についていった。
 ジークは、彼の部屋がある二階を通り過ぎ、さらに上へ向かった。
 三階は屋根裏部屋だった。そこは物置きとして使われているようだ。埃っぽく、段ボール箱が無造作に積まれている。天井は低く、屋根の形そのままに斜めになっていた。電灯はなかった。天窓から射し込む月明かりだけが、ぼんやりとその部屋を照らしていた。
 ジークはその天窓を開け、スチールの梯子を掛けた。彼自身には必要ない。アンジェリカのためである。
「屋根の上に出るの?」
「ああ、気をつけろよ」
 アンジェリカは不安そうに怖々と梯子を上っていった。
「わぁ……」
 屋根の上に立つと、彼女の顔がぱっと晴れていった。澄み渡った濃紺の空には、たくさんの星が瞬いていた。今にも頭上から降り注いできそうだった。夜の冴えた風は、頬を心地よく刺激し、さらさらと黒髪をなびかせた。
 ジークは天窓から顔を出し、彼女を見上げると、ふっと表情を緩めた。母親から逃げたい一心の思いつきだったが、ここに来て本当に良かったと思った。
「上ばっか見てると、よろけて落ちるぞ。座れよ」
「うん」
 アンジェリカは緩やかな傾斜に腰を下ろした。ジークも天窓から屋根に出ると、彼女の隣に脚を投げ出して座った。
「ねぇ、星って何だと思う?」
 アンジェリカは膝を抱えて、真上を見上げた。
「太陽の小さいやつだろ? 小さい光球」
「いったい何の意味があるのかしら」
「さぁ……」
 ジークは眉根を寄せた。正しい答えはわからないし、気の利いた答えも思い浮かばない。
「おまえはどう思うんだよ」
 逆にアンジェリカに聞き返してみた。彼女を空を見上げたまま、真顔で答えた。
「空に開いた穴じゃないかしら」
「は?」
「穴から光が漏れているのが星なの」
 今までに聞いたこともないような突飛な意見だったが、それを否定するほどの知識もジークにはなかった。
「じゃあ、おまえのいう“空”って何だよ」
「結界かしら。この国を維持しているのは四大結界師でしょう?」
 アンジェリカは小さく人差し指を立てた。
「きっと、空の向こう側には別の国があって、そこから守るために結界を張っているのよ」
「なるほどな……」
 ジークは後ろに手をつき、空を見上げて目を細めた。一応、筋は通っている。
「ただの想像だけど」
 アンジェリカは笑って肩をすくめた。そして、ジークに振り向くと、無邪気に声を弾ませる。
「もし、ジークが四大結界師になったら、こっそり教えてくれないかしら。この国を維持する仕組み」
 ジークは苦笑いした。
「それ、きっと国家機密だぜ」
「誰にも言わないわ、ね?」
 アンジェリカは口元で両手を合わせ、ぐいっと顔を近づけた。
「まぁ、覚えてたらな……」
 ジークはどぎまぎしながら、曖昧な返事でごまかそうとした。
「じゃあ、約束」
 アンジェリカはにっこり笑って小指を立てた。
「二十年先か、三十年先かわかんねぇぞ」
「だから、忘れないように指きりするの」
 軽く口をとがらせそう言うと、ジークの小指に自分の小指を絡ませ、勝手に指きりをした。
「……ねぇ、ジーク」
 少しの沈黙のあと、ためらいがちに呼びかけた。その声には微かに翳りのようなものが感じられた。ジークははっとして振り向いた。
「就職のこと、決めたの?」
 彼女は膝を抱えうつむき、ぽつりと尋ねた。
 ジークは表情を引き締め、はっきりとした声で答えた。
「魔導省に行くことにした」
「そう」
 アンジェリカは複雑な面持ちで相槌を打った。
「俺さぁ」
 ジークは頭の後ろで手を組み、仰向けに寝転がった。
「アカデミーに入る前まで、あんまり怖いものなんてなかったんだ。自分がいちばんすごいんだって本気で思ってた。今にして思えばバカみたいだけどな」
 そこで言葉を切ると、遠くを見つめ、ふっと笑った。
「それが、アカデミー入学試験から、いきなりおまえに負けるしよ。王宮にはラウルとかサイファさんとか、すごい人がごろごろしてる。今はびびってばっかりだ」
「ラウルのことを認めるなんて、どうしちゃったの?」
 アンジェリカは膝の上に頬をのせ、いたずらっぽく笑った。ジークは真面目な顔で答えた。
「だんだん、相手の力量が感じられるようになってきたんだ」
 それは、紛れもなくアカデミーで学んだ成果である。その方法を教わるわけではないが、魔導について学び、鍛錬していくうちに、副次的に身についていくのだ。
「ラウルは底知れねぇな。好きにはなれねぇけど、魔導に関してはすごいヤツだと思う」
「私は先生としても立派だと思うけど」
 アンジェリカは笑って付け加えた。
 ジークは顎を引き、彼女の背中をじっと見つめた。ラウルだけではない。彼女にも底知れないものを感じていた。深く探ろうとすれば、体の芯から凍りつきそうになる。だが、そのことは口には出さなかった。
「だから、魔導省へ行くの?」
 アンジェリカは前を向いたまま、落ち着いた声で尋ねた。
「ああ、そういうすごい人たちの中で働いてみたいんだ」
 ジークは淡々と、しかし、迷いなく答えた。
 アンジェリカもジークの隣で仰向けになった。星空が視界一面に広がった。他に見えるものは何もない。遠近感が掴めなくなり、少し目眩がして、空に落ちていきそうな錯覚を起こした。
 ジークはすぐ横に彼女がいるのを感じ、心拍が上昇した。
「おまえはあの研究所か?」
 少し早口で尋ねる。
 アンジェリカは胸元で手を組み、ゆっくりと目を閉じた。
「そうね、行けたらいいわね」
 小さくつぶやくように答える。
「なんだよ、めずらしく弱気だな」
 ジークは驚いて、アンジェリカに顔を向けた。彼女は目をつむったままだった。前髪が、かすかに風に揺れた。
「ねぇ、ジーク」
 小さな唇が、小さく動いた。
「ん?」
「今日はありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ」
 ジークは柔らかく微笑んだ。
「今日のことは、ずっと忘れないから」
 アンジェリカは囁くように言った。
「大袈裟だな、おまえ。こんなこと、またいつでも出来るだろ。今度こそリックも呼ぼうぜ、な」
 ジークは明るく言った。だが、アンジェリカの返事はなかった。仰向けで目を閉じたまま、人形のように動かない。ジークの心臓がドクンと強く打った。弾けるように起き上がると、彼女を覗き込んだ。
「アンジェリカ? おい、アンジェリカ!」
 何度も肩を揺すりながら、必死に呼び掛ける。
 アンジェリカはうっすら目を開いた。ぼんやりとジークの顔を見る。
「……あんまり心地いいから、つい眠っちゃった」
 ジークは安堵した。全身から力が抜け、へたり込んだ。
「張り切りすぎて疲れたんだろ。降りようぜ」
「もう少し、ここにいたいな」
 アンジェリカは潤んだ黒い瞳に、星空を映しながら言った。
「また寝ちまうかもしれねぇだろ。ここ屋根の上だぜ? 危ねぇって」
「ジークがいてくれるでしょう?」
 そう尋ねかけると、にっこりと微笑んだ。ジークはわざと大きくため息をついた。
「……ったく、あと少しだけだぞ」
「ありがとう」
 アンジェリカはしばらくの間、無言で星空を眺めていた。しかし、それは長く続かなかった。やがて、目蓋が落ちていき、静かに寝息を立て始めた。
 ジークは片膝を立て、彼女の様子をじっと見守っていた。
 ふいに風が冷えてきたのを感じた。自分の上着を脱ぎ、彼女の上にそっと掛け置いた。
 そのとき、彼はどきりとした。近くで見た彼女の寝顔が、やけに白いような気がしたのだ。月明かりのみが頼りのこの場所では、正確な顔色などわかりようがない。ただ、重なって見えた。一ヶ月もの間、目を覚まさなかったあのときと——。自分の許容以上のことがなだれ込んだとき、自衛のため脳が活動を停止する、つまり、眠ったまま起きないことがある。サイファはそう言っていた。
 ——違う、ただ疲れて眠っているだけだ。
 ジークは自分に言い聞かせるように、心の中で強くつぶやいた。アンジェリカが現実から目を背けたくなるほどの出来事など、最近は起こっていないはずだ。……いや。もしかしたら、曾祖父に怯えているのかもしれない。彼女は大丈夫だと言っていたが、根拠は何もない。まわりに心配を掛けないように明るく振る舞っていただけかもしれない。
「……アンジェリカ?」
 おそるおそる声を掛け、手の甲でそっと頬に触れた。しかし、彼女は目を覚まさない。ジークは不安そうに目を細めた。鼓動は早く強くなっていく。
 もういちど呼び掛けようか迷った。もし、眠っている原因が精神的なものだとしたら、無理に起こしてはいけないらしい。結論が出ないまま、じっと彼女を覗き込み、手のひらで柔らかい頬を包み込んだ。
 アンジェリカのまつげが小刻みに震えた。彼女はゆっくりと目を開いた。目の前をぼうっと見つめる。次第に焦点が合っていき、ぼやけた輪郭がはっきりしていった。そこには、思いつめたジークの顔があった。頬には彼の手が置かれている。そこだけ、とてもあたたかい。
「だいぶ、寝てた……?」
「いいよ、寝てろよ」
 ジークは優しく言った。
「ダメ……だって、夢を見たいわけじゃないもの……」
 彼女は手をつき、懸命に起き上がろうとした。だが、崩れるように再び意識を失った。ジークは、それを予期していたかのように、しっかりと抱きとめた。無言で手に力を込めた。そして、そのまま彼女を抱えて立ち上がると、天窓の梯子を降りていった。



読者登録

瑞原唯子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について