目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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70. 親子のかたち

「うそつき!」
「そうだよ、ジーク。ひどいよ!!」
 アンジェリカとリックは口々にジークを責め立てた。
「違っ……」
 言葉に詰まり、反論すらできないジークに、ふたりは冷淡な目を向けた。
「こんなヤツのこと、もう忘れなよ」
 リックはわざとらしくため息をついた。
「言われなくても忘れるわ」
 アンジェリカはつんと顔をそむけ、不機嫌に言い捨てた。そして、リックと腕を組むと、ふたりで笑いあいながら去っていった。
「待て! おいっ! おいっ!!」
 引きちぎれるくらいに強く腕を伸ばすが、なぜか足は石のように動かない。追いかけたいのに追いかけられない。みるみるうちに、ふたりの姿は小さくなっていった。
「ジーク、君には手を引いてもらうと言ったはずだ」
 威厳に満ちた、腹の底に響く低音。どこからともなく男が現れた。ラグランジェ家の先々代当主だ。
「我々はリックを正式な後継者と認めた」
「なっ……」
 ジークは目を見開いた。額から汗が流れ落ちる。男は静かに言葉を続けた。
「君も男なら、潔く諦めろ」
「う……嘘だ!!」
 ジークは自分の叫び声で目を覚ました。心臓が痛いくらいに激しく強く打っている。自分の鼓動の音が、自分自身ではっきりと感じとれた。
「……夢……か……」
 見なれた天井の木目を目にし、ようやく状況を把握した。途端に体中から力が抜けた。大きく息をつき、吹き出した額の汗を袖口で拭った。
 ——まったく、何て夢だ。
 きのうの出来事が影響しているのは間違いない。自分の不安な気持ちがあんな夢を見せたのだろう。ただの夢だ——。懸命に自分に言い聞かせた。

 ジークは冴えない顔で、のっそりと体を起こすと、よろよろ階段を降りていった。
「おはよ、ジーク。やっと起きたのね」
 聞きなれない女性の声が、彼を出迎えた。
「へ?」
 ジークは間の抜けた声を上げ、振り向いた。そして、唖然として固まった。口を開けたまま声も出ない。
「ごはん、まだなの。もう少し待ってね」
 再び彼女が声を掛けた。ジークははっとして我にかえると、慌てふためきながらあたりを見回した。間違いなく自分の家だ。もういちど声の主を見る。エプロン姿の彼女は、じゃがいもの皮を剥きながらくすりと笑った。
「おまえ、セリカ……か?」
「そうよ」
 ジークは半信半疑で尋ねたが、彼女は当然のように肯定した。彼はますます混乱した。まだ夢の続きではないかと疑った。思わず頬をつねり確かめてみた。痛みを感じる。夢ではないようだ。わけがわからないといった顔で、唸りながら額を押さえる。
「ちょっと待て。なんでおまえがウチの台所で料理してんだ」
「私がお願いしたのよ」
 隣の部屋で、母親のレイラが声を張った。彼女はダイニングテーブルで、マグカップを片手にくつろいでいた。セリカと視線を交わすと、意味ありげに笑いあった。
 ジークはいまだに状況がさっぱり把握できないでいた。落ち着きなく、母親、セリカと何度も交互に目を向ける。このふたりは知り合いでも何でもないはずだ。なのにどうして——。
 狐につままれたような顔をしている息子を見て、レイラは耐えきれずに吹き出した。
「リックと彼女がウチの前を通りかかったから呼び止めたのよ。パンクしたままだった自転車を修理してもらおうかと思って」
 ジークはようやく合点がいった。しかし——。
「リックはまだいいにしても、なんであいつに昼メシ作らせてんだよ」
 セリカを指さし、呆れ口調で尋ねる。
「ただ待ってもらうのも何だから、ついでにお願いしちゃった」
 年甲斐もなくかわいこぶる母親に、思いきり眉をひそめた。
「ったく、その図々しい性格、なんとかならねぇのかよ」
「人のこと言うまえに、そのカッコなんとかしたら? レディの前でみっともない」
 レイラはすまし顔でそう言うと、お茶を口に運んだ。
 ジークははっとして自分を見た。着古しすぎるほど着古したよれよれのパジャマ。その前のボタンを半分以上はずし、だらしなく胸をはだけさせている。髪も寝癖でぼさぼさになっていることは、容易に想像がつく。
「それを早く言えよ!」
 ジークはカッと顔を赤くして、あわてて二階へと駆け上がっていった。
「顔も洗って来なさいよー」
 レイラは淡々と追い打ちをかけた。
 セリカはそんなふたりのやりとりがおかしくて、くすくすと笑った。

 ジークは一応の身支度を整えると、再び階段を降りていった。ふいにごはんの炊きあがる匂いが鼻をくすぐる。その瞬間、忘れていた空腹を思い出し、急に体から力が抜けるように感じた。ふらつきながら台所に目をやると、リックとセリカが湯気の立ちのぼる鍋をはさみ談笑していた。
「おはよう、ジーク」
 リックは彼に気がつくと、にこやかに挨拶をした。いつもと変わらない穏やかで人懐こい笑顔。ジークは、一瞬、今朝の夢が頭をよぎった。だが、この光景を見ていると、あれはやはりただの夢としか思えなかった。
「悪りィな。なんかこき使って」
「まあ、いつものことだし」
 リックはそう言って笑った。ジークはますます申しわけない気持ちになった。
「リックは手先が器用だから助かるわ。ジークと違って」
 当のレイラはほおづえをつき、呑気にそんなことを言っている。まるで悪びれる様子もない。ジークは腕を組み、白い目を彼女に向けた。
「ジーク、あれからどうしたの? アンジェリカとはあのまま?」
 リックは声をひそめて尋ねた。ジークは途端に顔を曇らせた。
「……ああ」
 沈んだ表情で、沈んだ声を落とす。
「なに、なに? ケンカでもしたの?」
 地獄耳のレイラは、脳天気にはしゃぎながら首を突っ込んできた。
「おまえは黙ってろよ」
 ジークは苛立ちをあらわにした。
「これ、言おうか迷ってたんだけど……」
 リックはそう前置きをして、ジークの目をまっすぐ見つめた。ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「アンジェリカ、すごく悩んでるよ」
「ん? ああ、わかってる」
 それは、リックに言われるまでもないことだ。ジークは肩すかしを喰らったように感じた。アンジェリカが黒い髪と黒い瞳のせいで、親戚たちから蔑まれていたことは、ジークも知っていた。そのことで悩んでいることも、わかっていたつもりだ。ひょっとしたら、そんなこともわからない唐変木だとリックに思われているのだろうか。ジークは怪訝に眉をひそめた。
 しかし、リックが続けて語った話は、ジークが初めて知るものだった。
「自分だけ髪や瞳が黒いのは、遺伝子の異常じゃないかって言ってた。色素がなくて白くなるってのがあるらしくて、自分はその逆なんじゃないかって」
 ジークは腕を組んで首を捻った。
「難しいことを考えるな、あいつ……。どうなんだよ、医学生」
「え? 私?」
 料理を終え、後片づけをしていたセリカは、裏返った声で聞き返した。すぐ背後でなされているふたりの会話に、興味がないふりをしているつもりだった。が、ジークには耳をそばだてていることがばれていたのだろうか。
「おまえ以外に誰がいるんだよ」
 ジークは面倒くさそうに言った。不機嫌に口をへの字に曲げ、彼女を睨む。
「いきなり言われてもわからないけど……」
 セリカは手を拭きながら振り返った。
「役に立たねぇな」
 ジークは顔をしかめ、吐き捨てた。
「ジーク!」
 彼のあまりにあからさまな態度に、温厚なリックも黙ってはいられなかった。
 しかし、それを制したのはセリカだった。
「いいのよ、気にしてないから」
 無理に笑顔を浮かべてそう言うと、話の続きを始めた。
「色素が出来なくて、髪が白かったり瞳が赤いってのは確かにあるわよ。アルビノっていうんだけど。でも、逆は聞いたことないわね」
「アンジェリカもそう言ってたよ」
 リックは頷きながら言った。セリカは口元に人さし指をあて、斜め上に視線を流した。
「でも、たとえ突然変異だったとしても、彼女の場合、問題ないんじゃないかしら。アルビノは色素がないから、光に弱いとか健康上の問題があるけど」
 ジークは目をつぶり、腕を組むと、深く頭を垂れた。懸命に考えを巡らせる。そして、うつむいたまま薄く目を開くと、ぽつりと言葉を落とした。
「違うな」
「え? 何が?」
 リックは大きく瞬きをして尋ねた。だが、ジークは独り言のようにぶつぶつとつぶやくだけだった。
「遺伝子の異常とかだったら、あのジジイがあんなこと言うわけねぇ……」
「あのジジイって、アンジェリカのひいおじいさん? 何を言ったの?」
 リックは眉をひそめて再び尋ねた。ジークを覗き込んでその表情をうかがう。彼は考え込んだ様子で、眉根を寄せ、口をぎゅっと結んでいた。答えようという様子は見られない。
 リックはあきらめたようにため息をついた。
「僕たちに言えないんだったらいいけど、アンジェリカにはちゃんと話した方がいいよ」
 そう言いながら、椅子の上に置いてあった上着に袖を通した。セリカもエプロンを外し、代わりにジャケットを手にとった。
「おい、食ってかねぇのか?」
 リックたちが帰り支度をしていることに気付き、ジークはあわてて尋ねた。リックはにっこりと振り向いて言った。
「うちで母親が待ってるから。もともとそういう予定だったんだよ。ね」
 セリカに同意を求めると、彼女も笑顔で頷いた。
「ふたりともありがとね。また来て」
 レイラは立ち上がり、手を振ってふたりを送り出した。ふたりも手を振りながら去っていった。

「うん、おいしい! 彼女、いいお嫁さんになるわよ」
 セリカの作ったクリームシチューを食べながら、レイラは声を弾ませた。ジークは無反応で黙々と食べ続けた。おいしいとは思ったが、口には出さなかった。
「あのセリカって子、確か、あんたに会いにウチまで来たことあったわよねぇ」
 レイラは記憶をたどるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。ジークはぎくりとして手を止めた。
「だから、何だよ」
 下を向いたまま、つっけんどんに切り返す。しかし、その声には、少しの固さと動揺が感じられた。
 レイラはニヤリと口端を上げた。
「リックにとられちゃったわけね。なっさけない」
「そんなんじゃねぇよ。あいつが勝手につきまとってただけだ」
 ジークは顔を上げることなく反論すると、いらついた様子で白いごはんをかき込んだ。
 そんな息子を見て、レイラはため息をついた。
「ま、本命はがっちり掴んでおくことね」
 軽い調子でそう言うと、彼の鼻先にスプーンを突きつけた。
「ケンカなんてしてる場合じゃないでしょ」
 ジークはどきりとした。レイラはさらにきつい一撃を加えた。
「うかうかしてると、アンジェリカまでリックにとられちゃうわよ」
 ダン!
 ジークは机を叩きつけて立ち上がった。何か言いたげに、瞳を揺らし開いた口を震わせる。しかし、その口から言葉は出てこなかった。
「気にしてたんだ」
 レイラは大きく目を開き、彼を見上げた。ジークは苦々しい顔で目を閉じ、崩れ落ちるように椅子に腰を落とした。顔を隠すように、深くうなだれる。
「あんたがひねくれた態度ばかりとってたら、冗談抜きでそうなっちゃうかもよ。少しは素直になることね」
 母親の冷静で厳しい忠告が、ジークの胸に深く突き刺さった。膝の上にのせたこぶしを、爪が食い込むほどに強く握りしめる。
 レイラはさらりと付け加えた。
「だからって、あちらの親御さんに顔向けできないようなことはするんじゃないわよ」
「するわけねぇだろ!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、大声で言い返した。その一瞬で全身から汗が吹き出した。息を整えながら、冷水が入ったコップを手にとる。
 レイラは両手でほおづえをつき、にこにこして彼を見た。
「なんだよ」
 ジークは少しびくつきながら、訝しげに尋ねた。
「あんたの顔立ちとかさ、だんだんリュークに似てきてるわよね」
 レイラは嬉しそうにそう言った。ジークはそれを聞いて、母親が笑顔で自分を見ていたわけがわかった。リュークとはジークの亡くなった父親のことだ。亡くなってから、もう十年以上になる。確かに似てきているかもしれない——ジーク自身にもそんな自覚はあった。一息ついて、手にしていた水を口に運ぶ。
「だから私、ちょっと心配だったのよ」
 レイラは思い出したように笑った。
「息子に恋しちゃったらどうしようって」
 ジークは飲みかけの水を吹いた。
「でも、内面はいつまでたってもバカなガキンチョのまんまだから、ぜーんぜんそんな気は起こらないけどね」
 そう言って、レイラはカラカラと笑った。ジークは布巾で机を拭きながら、疲れきったようにため息をついた。
「悪かったなバカで。半分は母親の血を引いてんだから仕方ねぇだろ」
「それもそうね、あはははは!」
 思いきり嫌味を言ったつもりだったが、あっさり認められてしまった。どうも調子が狂う。ジークはもう一度ため息をついた。
「リュークか……」
 そうつぶやいたレイラの声には、懐かしさがあふれていた。ジークもつられて父親を懐かしむ。真っ先に思い浮かぶのは、バイクに向かう寡黙な背中と油の匂い。父親の仕事をしている姿を見るのが好きだった。学校帰りにこっそり覗きに行ったりもした。
「生きていれば男どうしでいろんな話ができたのにね」
 レイラはいつになく優しい顔で言った。
「実際生きてたら、あんま話なんてしてねぇと思うけどな」
 ジークは目をそらし、ぶっきらぼうに答えた。だが、聞いてみたいことや話したいことはたくさんある。父親と今の自分が話をしている光景を思い浮かべて、思わず胸が熱くなった。だが——。
「って、こんな話、意味ねぇよ。もう生きてねぇんだし」
 心の幻を打ち消すかのように、冷めた口調でぼそりとつぶやき、仏頂面でほおづえをついた。
「たまにはいいじゃないっ」
 レイラはいつものように、明るい声を張り上げた。
「死んだ人は記憶の中でしか生きられないんだから」
「……それ、ちょっとくさくねぇか?」
 ジークはほおづえをついたままで、じとっと母親に視線を流した。
「やっぱり?」
 レイラはおどけて頭に手をあてた。
「ま、たまにはいいけどよ」
 ジークが無愛想にそう言うと、レイラはにっこりと笑った。両手でほおづえをつき、まっすぐジークの瞳を覗き込む。
「あんたがいてくれて良かった」
「なんだよ、急に」
 柄にもないことを口にする母親に、ジークは少しうろたえた。
「ひとりだったら、とっくに挫けてたわ」
「そうか? ひとりでも結構たくましく生きてくだろ」
 照れくさいものを感じながら、それを見せないようつれない返事をする。レイラは大袈裟に肩をすくめて見せた。
「わかってないわねぇ。女ってものが」
「おまえが女を語るなよ」
 ジークは冷ややかに言った。
「あら、少なくともあんたよりはわかってるつもり……ですわよ?」
 レイラはふざけてそう言うと、自分自身で吹き出した。ジークもそんな彼女につられ、笑顔を見せた。だが、それはすぐに消えた。いつまでこうやって気楽に笑っていられるのだろうか。ふいに表情に翳りを落とすと、ためらいがちに口を開いた。
「あのな……俺、もしかしたら、ヤバい奴を敵にまわすことになるかもしれねぇ」
「なに? ケンカ?」
 レイラは腕まくりしながら身を乗り出した。わくわくして、顔を輝かせている。
「なんで嬉しそうなんだよ! 冗談じゃなくて本当の話だぞ!」
 ジークが呆れたように怒鳴りつけると、レイラは急に真面目な顔になった。
「相手はなんて言ってるの?」
 ジークは返答に困った。どこからどこまで言えばいいのだろうか。少し考えてから、差し障りのない部分をかいつまんで話した。
「手を引かなければ、俺のことを潰すつもりらしい。多分、裏から手をまわして就職できないようにするとか……そんなことじゃねぇかと思う」
「あんたの気持ちは決まってるわけ?」
 レイラはまっすぐにジークを見据えた。ジークは逃げるように視線を外した。
「正直、怖ぇ。でも……」
 そこで言葉が途切れた。そのままうつむき、唇を噛みしめる。
「そうね。よく考えて、後悔の少ない方を選ぶことね」
 レイラはきびきびと言った。
「考えなしにバカやるのは止めるけど、しっかり考えて覚悟のうえでなら、何も言わない」
 めずらしく真剣な母親の言葉が、ジークの心に静かに響く。彼はうつむいたまま目を細めた。
 レイラはぱっといつもの明るい表情に戻った。
「ま、ホントに社会から干されたとしても、あんたひとりくらい私がなんとかしてあげるわ。だてに四十年、生きてないのよ」
 あははと笑いながら、大きく胸を張った。
 ジークはそう言われても、少しも安心できなかった。ラグランジェ家の仕打ちがそんなに生易しいものとは思えなかったのだ。それでも、母親のその気持ちはありがたかった。
「四十二年だろ」
 ジークはいつもの憎まれ口を返した。レイラはニッと笑って彼を見た。
「細かい男は嫌われるわよ」
 そう言って、まだ暗い顔をしている息子の鼻をつまんだ。

 昼食を終え、ジークは自分の部屋に戻ってきた。敷きっぱなしの布団の上に、ごろりと転がる。カーテンは半分だけしか開かれていなかったが、真昼の強い陽射しが差し込み、眩しいくらいだった。光から逃れるように背を向けると、体を丸め、ゆっくりと目を閉じた。
 アンジェリカ——。
 頭の中に広がる暗闇で、小さくその名をつぶやいた。彼女の笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、さまざまな表情が次々と浮かんでくる。
 ——笑うときも怒るときも、あいつはいつもまっすぐ俺を見てたな……。俺は、どうだった。顔をそむけてはいなかったか。
 ジークはゆっくりと目を開いた。仰向けになり、天井を見つめる。
 ——あいつの気持ちはわからない。だけど、もし、俺といることを望んでくれるとしたら……。そうしたら、俺は……。
 その顔に次第に赤みがさしていく。とっさに枕元に落ちていた上着をつかみ、頭に覆い被せた。


 アンジェリカは窓を開け、濃紺色の空を見上げた。かすかな夜風が、ほてった頬を冷まし、薄いレースのカーテンをひらひらと揺らす。
 うそつき——。
 きのう、ジークに言ってしまったひとこと。それが頭から離れない。何度も何度もリフレインする。
 ジークが嘘つきなら、私は卑怯ものね。
 黒髪がさらさらと頬にかかる。潤んだ目を細め、窓枠にもたれかかりながら、今日何度目かのため息をついた。

 アンジェリカは部屋を出ると、階段を降り、リビングルームに向かった。その途中、ダイニングルームの明かりがついていることに気がつき、何気なく覗き込んだ。
「あら、アンジェリカ」
 萌黄色のネグリジェを纏ったレイチェルが、笑顔で振り返った。右手にはコーヒーカップ、左手には牛乳瓶を持っている。
「あなたも飲む? ホットミルク」
「うん」
 アンジェリカは言葉少なにテーブルについた。
「お父さんはまだ帰ってないの?」
「今日は帰れそうもないんですって。最近、また忙しいみたいね」
 レイチェルは牛乳を火にかけながら答えた。
「そう」
 アンジェリカは無表情でほおづえをついた。そして、口をついて出そうになったため息を、ぐっと呑み込んだ。
「どうしたの? 今日はずっと沈んだ顔をしていたけど」
 レイチェルは背を向けたまま尋ねた。アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「そう、だった?」
「ええ、隠しているつもりだった?」
 そう尋ね返されて、困ったような複雑な表情ではにかんだ。

 かすかに甘い匂いが立ちのぼる。レイチェルはカップをふたつ手に持って振り返った。ひとつをアンジェリカに手渡し、自分も席についた。
「ありがとう」
 アンジェリカはそのホットミルクにそっと口をつけた。ほっとするような優しい温かさが体の中から広がる。固かった表情も次第にほぐれていった。
「おいしい」
「そう、よかった」
 レイチェルは大きくにっこりと笑った。そして、自分もホットミルクを口に運んだ。
「ねぇ、お母さん」
 アンジェリカはカップに両手を添え、顔を上げた。
「なぁに?」
 レイチェルは微笑みながら、大きな瞳を彼女に向けた。
「今日、一緒に寝てもいい?」
 アンジェリカは遠慮がちに尋ねた。
 レイチェルは目を見開き、きょとんとした。しかし、すぐに優しい笑顔を浮かべると、あたたかい声で答えた。
「もちろんよ」
 その言葉を聞いて、アンジェリカは少し照れ笑いしながらほっと息をついた。

「さあ、どうぞ」
 レイチェルに促されて、アンジェリカは両親の寝室に足を踏み入れた。もちろん初めてというわけではないが、あまりここに入ることはなかった。前に来たのは数年前——アカデミー入学以前である。だが、そのときに見た光景とほとんど変わっていない。懐かしさを感じながら、彼女はベッドにもぐり込んだ。レイチェルも、明かりを消すと、反対側からベッドに入った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 ふたりは挨拶を交わすと、暗い中でおでこを合わせ、にっこりと笑いあった。

「……きれいな髪」
 アンジェリカは唐突にぽつりとつぶやいた。
「え?」
 もう眠ったかと思っていた娘の声に、レイチェルは少し驚いて振り向いた。アンジェリカは横になったまま、彼女の長い髪を指でなぞった。カーテンの隙間からわずかに漏れ入る月明かりが、その柔らかな金の髪をほんのりと白く光らせる。まるで上品なプラチナを思わせる輝き。それは、神秘的とさえ形容できるものだった。アンジェリカは小さくため息をついた。
「本当にきれい」
「アンジェリカ、あなたの髪もきれいよ」
 レイチェルは感情を込めてそう言うと、彼女の手をとり包み込んだ。だが、その返答は素っ気ないものだった。
「そうかしら?」
 彼女の言葉には否定的な響きが含まれていた。それでもレイチェルはあきらめなかった。黒髪をゆっくりと撫でながら、にっこりと笑いかけた。
「私は好きだわ」
「この髪のせいで、お父さんとお母さんに迷惑を掛けてる」
 アンジェリカは眉根を寄せた。レイチェルは彼女の額に、自らの額をコツンと付けた。
「あなたに迷惑を掛けられたなんて、少しも思っていないわ」
「でも、事実よ」
「あなたのせいじゃない」
 ピシャリと言い放ち、そっとアンジェリカの頭を抱き寄せる。
「誰かのせいにしたいのなら、私を責めて」
 アンジェリカは目を見開き、息を呑んだ。耳元で静かに落とされた母親の声は、何かを深いものを秘めているように感じた。つらいのは自分だけではない。そんなことはわかっていたつもりだったのに。こんなことを言っても困らせるだけなのに——。
「でもね」
 アンジェリカが謝ろうとした矢先に、再びレイチェルが口を開いた。抱えていた娘の頭を離し、まっすぐに黒い瞳を覗き込む。
「私は、あなたが私の……私たちの娘でよかった、心からそう思っているわ。それは信じて」
 アンジェリカの胸に、熱いものがこみ上げてきた。自分が不安になったとき、信じられなくなったとき、黒い気持ちが沸き上がったとき——そんなときはいつだって、父も母も、迷わずそう言ってくれた。何度も何度もこの言葉に救われた。そして、今も——。
「私も、お父さんとお母さんの娘でよかった……って……」
 うっすらと潤んだ目を細め、言葉を詰まらせる。レイチェルは優しく微笑み、娘の頬にそっと手をのせた。
「何か、あったの?」
 そう尋ねられるのも仕方ないとアンジェリカは思った。一緒に寝たいなどと言ったのは初めてだったし、普段は触れないようにしている髪の色の話題を持ち出したり、確かに普通ではなかった。
 そして、実際に“何か”あった。
 きのうの出来事が頭をよぎる。曾祖父のこと、ジークのこと——。
「……私、ジークにひどいことを言ってしまったの」
 天井を見つめ、掛け布団をぎゅっと握りしめた。
「悪いことをしたと思うなら、素直に謝ることね」
 レイチェルは穏やかな口調で、諭すように言った。アンジェリカは口元まで布団を引き寄せた。
「許してくれるかしら」
 横目でちらりと母親を窺う。
「さあ、それはわからないわ。ジークさんが決めることだから」
 穏やかな声だが、その内容は厳しいものだった。アンジェリカはわずかに顔を曇らせた。レイチェルは彼女の前髪を、ゆっくりと掻き上げた。
「でもね、謝るということは、許しを請う行為ではなくて、自分の非を認めてそれを伝える行為なのよ」
 アンジェリカははっと目を見開いた。
「だから、許してくれるかを考えて行動するのは、間違ってるんじゃないかしら」
 レイチェルは淡々と言った。だが、その言葉には優しさがあふれていた。アンジェリカも十分にそれを感じとっていた。
「そうね、そうよね」
 彼女は自らに言い聞かせるように言った。そんな娘を見て、レイチェルは包み込むように笑いかけた。
「お母さん……」
 アンジェリカは母親の胸元に顔を寄せた。あたたかく、柔らかい。
「もっと、こうやって甘えてくればよかった」
「今からでも遅くないんじゃない?」
 レイチェルは彼女の背中に手をまわし抱き寄せた。アンジェリカはぬくもりの中でゆっくりと目を閉じた。

 目の覚めるような冷たい空気が頬を刺す。空が白み始めた中を、サイファは家路についていた。
 さすがに疲れたな——。
 首をまわし、凝り固まった肩をほぐすと、小さく息をついた。このところ仕事が忙しいうえ、ラグランジェ家の雑務や個人的な調べものなどで、帰りの遅い日が続いている。今日のように明け方になることもたびたびあった。普通ならいっそ帰らないという選択肢もあるだろうが、彼には考えられなかった。どんなに短い時間であったとしても帰りたい、帰ってレイチェルの顔を見たいという思いが強かった。
 サイファは裏口から家へ入った。静まり返った広い屋敷に、乾いた靴音が響く。かろうじて足元が見えるくらいの薄明かりの中を、まっすぐ寝室へと歩いていく。
 ギ……。
 サイファはそろそろと扉を押し開けた。音を立てないよう足先に神経を集めながら、そっと中に入る。
 ——アンジェリカ?
 レイチェルに寄り添う黒い頭が目に入り、一瞬、息が止まった。だが、ベッドを覗き込み彼女であることを確認すると、安堵して胸を撫で下ろした。なぜここにいるのかという疑問が頭をかすめたが、すやすやと眠っているふたりを見ていると、そんなことはどうでもよくなった。自然と頬が緩んでくる。疲れさえも忘れてしまう。いつまでもこの光景を見ていたい、そんな思いにとらわれた。
「う……ん……」
 アンジェリカは小さく声を漏らしながら、寝返りを打った。そして、ぼんやりと目を開いた。
「お父さん?」
「ごめんね、起こしてしまったね」
 サイファはしゃがんで彼女を覗き込み、にっこりと笑いかけた。アンジェリカは目をこすりながら、あたりを見回した。
「そうだわ……ここはお父さんとお母さんの寝室……」
 いまだにはっきりしない頭で、確かめるようにつぶやくと、ぼうっとしながら体を起こした。
「ごめんなさい、自分の部屋に戻るわ」
「いや、ここにいてくれ」
 不思議そうな顔を向けるアンジェリカの頬に、サイファは手を添えた。
「ひとつのベッドに三人並んで寝るのも、たまには悪くないだろう? アンジェリカは嫌か?」
「ううん、嬉しい」
 アンジェリカは眠そうな声でゆったり答えると、とろけるように微笑んだ。そして、彼の袖を掴み、自分の方へ引っ張った。
「急かさなくても逃げはしないよ。まずは着替えないと……」
 サイファはそう言いかけて、思い直した。とりあえずはこのままでもいいか。アンジェリカが寝ついてから着替えればいい——。ふっと表情を緩めると、彼女にせがまれるままベッドに入り、その隣に体を横たえた。ふたりは顔を見合わせて、小さく笑いあった。
「お父さん、大好きよ」
 囁くようにそう告げられて、サイファはくすぐったいものを感じた。愛おしげに目を細め、微笑みかける。そして、彼女を抱き寄せると、やわらかな頬にそっと口づけた。

 しばらくすると、アンジェリカは父親の胸の中で、静かに寝息を立て始めた。サイファは優しく彼女の頭に手をまわした。
 いつのまにか目を覚ましていたレイチェルは、そんな彼を見て、にっこり微笑んでいた。それに気づいたサイファも微笑みを返した。言葉はなくとも、ふたりにはそれだけで通じ合うものがあった。


71. 一緒にいたい

 リックは居心地の悪さを感じていた。その原因はジークとアンジェリカである。ふたりはまだ休日前の言い合いを引きずっているようだった。まったく口をきかないということはなかったが、ときどき交わす言葉はぎこちなく、その間には妙な緊張感が漂っていた。互いに思いつめた表情を浮かべ、何か機会をうかがっているように見えた。
 リックにはそれがもどかしかった。よほどおせっかいを焼こうかと思ったが、ふたりで解決すべき問題だと思い直し、この空気に耐えることにした。

「アンジェリカ」
 放課後になり、ジークはようやく切り出した。いつになく固いその声に、彼女はびくりとした。だが、それを悟られないよう平常を装った。
「……なに?」
「話がある。ちょっと付き合ってくれ」
 ジークは視線を外し、ぶっきらぼうに言った。アンジェリカは、彼の横顔を見上げた。
「私も、話があるの」
「あ、ああ……」
 ジークは彼女に背を向け、口ごもりながら返事をした。
 リックはにこにことして、その様子を見守っていた。ジークはそれに気がつくと、後ろから乱暴に彼の首に腕をまわした。そして、ぐっと力をこめ、首を絞めるようにして耳打ちした。
「おまえ、ついて来るなよ。絶対に、来るんじゃねぇぞ」
「そんな野暮なことはしないよ」
 リックは苦しそうに笑いながら、声をひそめて言った。
「おまえには覗きの前科があるからな。クギ刺しとかねぇと」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。あれは出ていくタイミングが掴めなかっただけだって」
 以前、ジークとセリカが話しているときに、リックがこっそりと隠れて聞いていたことがあった。ジークは、そのときのことをまだ根に持っているようだった。大雑把な性格のわりには、細かいことをいつまでも覚えている。リックは苦笑いした。
「とにかく、来るんじゃねぇぞ」
 ジークはもういちど念押しすると、リックを解放した。そして、ポケットに両手を突っ込むと、アンジェリカの前を足早に横切った。
「行くぞ、アンジェリカ」
 扉に手を掛けると、後ろでぼんやりしていた彼女に声を掛けた。
「あ、うん」
 アンジェリカは小走りで彼のあとを追っていった。

 ふたりはアカデミーを出て、無言で歩き続けた。ジークはポケットに手を突っ込んだまま、無表情で歩を進める。アンジェリカは、彼がどこへ向かっているのか気になったが、尋ねることはできなかった。

 突然、視界が広がり、風が吹き上げた。
 アンジェリカは短いスカートを押さえながら、ぐるりと見渡した。
「ここって……前に来たところね」
 下方に広がる白い川原と透明なせせらぎ。上方に広がる青い空。それらが交わる場所を、沈みゆく太陽が朱色に染め上げている。細やかに揺れる水面がきらきらと輝きを放ち、緩やかな流れがさらさらと上品な音を立てている。
「覚えてたのか」
 ジークは薄汚れたガードパイプに手を掛け、振り返った。
「忘れるわけないじゃない」
 彼女も並んでガードパイプに手を置いた。にっこり笑って彼を見上げる。
「試験中だったのに、ジークに言いくるめられて連れてこられたのよね」
「言いくるめてって何だよ」
 ジークは少し頬を赤らめながら言い返した。
「あのときは確か、ふたりとも転んで水をかぶって……」
 アンジェリカはそこまで言うと、急にうつむき口をつぐんだ。ジークも同じようにうつむいた。ガードパイプに掛けた手に、ぐっと力を込める。そして、川原へと続く石段を無言で降り始めた。アンジェリカも黙ってそのあとに続いた。
「座れよ」
 ジークは下から二段目の石段に腰を下ろすと、その隣をパンパンと叩いた。アンジェリカはこくりと頷くと、スカートの後ろを押さえながら素直に座った。しかし、そこは二人が並んで座るには狭い場所だった。少しでも動くと、腰や肩が触れてしまう。ふたりはぎこちなく体をこわばらせた。
「ジーク」
 アンジェリカは下を向き、膝を抱えたまま呼びかけた。彼は、視線だけを彼女に流した。
「私の話から聞いてほしいの。いい?」
「ん、ああ……」
 そういえば、彼女も話したいことがあると言っていた。ジークは自分のことに精一杯で、今まですっかり忘れていた。何の話だろうか、急に不安が湧き上がってきた。
 アンジェリカは意を決したように、ジークに振り向いて言った。
「ごめんなさい、わたし、うそつきなんてひどいことを言ってしまって」
「ああ、そのことか」
 ジークは前を向いたまま、固い声で言った。すぐ横に彼女の顔がある。近い。動くことも目を向けることもできない。
「別にそんな気にしてねぇよ。俺も悪かったし」
「本当に?」
 アンジェリカは首を伸ばし、さらに顔を近づけた。ほとんどジークの肩に寄りかかるような格好になっている。
「ああ」
 ジークは息が止まりそうになりながら、ようやくそれだけの返事をした。
「よかった」
 アンジェリカは短いスカートをひらめかせながら、軽やかに川原におりた。そして、後ろで手を組むと、くるりと振り返った。心のつかえがとれたように、屈託のない笑顔を見せている。
 ジークはほっと息をつき、少し疲れた顔で笑った。それから、斜め下に視線を落とすと、ぽつりと尋ねかけた。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
「なに?」
「うそつきって、どういう意味で言ったんだ?」
「あ、それは……」
 アンジェリカは口ごもりながら目を伏せた。
「ひいおじいさまの話が……私とは関係ないって言ったから……」
 どこか不安定な表情で、自信なさげに訥々と言葉を落としていく。
「だよな、そうだよな」
 ジークは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。膝に腕をつき深くうなだれると、自嘲の表情を浮かべ、声なく笑った。
「じゃあ、次はジークの話」
 アンジェリカは明るい声を作り、少しあわてたように話題を切りかえた。
 ジークは体を起こし、まっすぐ彼女を見つめた。
「おまえがアカデミーに入学したのは、何のためだ」
「え?」
 アンジェリカは首をかしげ、怪訝に彼を見た。怖いくらいの真剣な顔。彼女は気圧されて息を呑んだ。とまどいながら話し始める。
「私のことを認めさせたかったから……。こんな髪で、こんな瞳だけど、私もラグランジェ家の人間だって、呪われた子なんかじゃないって、魔導の実力で証明したかった」
 「証明して、どうするつもりだったんだ」
 ジークは彼女を見据え、静かに尋ねた。アンジェリカは困惑して眉をひそめた。
「どうするって、別に……。ただ、見返したかっただけよ」
 ジークは背中を丸め、大きくため息をついた。
「バカ。もっと考えてから行動しろよな」
「バカって何よ!」
 アンジェリカはカッとして言い返した。腰に手をあて、口をとがらせ、ジークを睨む。だが、彼はうつむいたまま、ぽつりと言った。
「証明……しちまったのかもしれねぇな」
「えっ?」
「認める気になったかって聞いたら、当たらずとも遠からずって言ってたぜ、あのジイさん」
 アンジェリカはきょとんとした。
「ひいおじいさまが……?」
「ああ」
「それってどういう意味かしら」
 ジークは目を細め、暮れかかった空を見上げた。
「おまえの魔導の実力だけは認めたってことかもな」
「…………」
 アンジェリカは複雑な表情で立ちつくした。後ろから風が吹き、黒髪をさらさらと舞い上げる。
 ジークは空を見つめたまま、眉根を寄せた。
「もうすぐ正式決定になるらしいぜ。おまえが本家を継ぐって話」
「……そう」
 彼女はたじろぎもせず、そのひとことだけを口にした。ジークはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「だから、あれ、おまえが言ってたっていう遺伝子がどうとかって話、あれは違うんじゃねぇのか? もし異常があるんだとしたら、本家を継がせたりしねぇだろ」
 アンジェリカは大きく瞬きをした。
「リックに聞いたの?」
「ああ」
 確かに、口止めはしなかった。彼を責めることはできない。ただ、リックが口外するとは思わなかった。アンジェリカは何ともいえない顔で目を伏せた。
「心配してたぜ、あいつも」
 ジークはそう言ってリックをかばった。だが、その表情は浮かないものだった。
「……なんでリックなんだよ。俺ってそんな頼りねぇか?」
 アンジェリカは不思議そうに彼を見た。
「別に相談したわけじゃなくて、話の流れで言ってしまっただけなんだけど……」
「それにしてもだな」
 ジークはそこまで言うと、顔をしかめて自分の額を叩いた。
「悪りィ。言いたいのはそういうことじゃなくてだな、とにかくおまえはどこも悪くなんかねぇってことだ」
「ひいおじいさまたちが気づいていないだけ、かもしれないじゃない」
「そんなに抜けてるヤツじゃねぇだろ」
「……だったらいいんだけど」
 アンジェリカはあまり信じていない様子だった。後ろで手を組むと、敷き詰められた小石に踵を打ちつけた。ジャッ、と濁った和音を奏でる。
 ジークは、彼女の言動に不安を掻き立てられた。
「おまえは望んでねぇんだろ、本家を継ぐなんてこと」
 少し早口で尋ねかける。アンジェリカは目を細め、じっと彼を見つめた。
「……昔は、望んでいたかもしれない」
 不安は現実になった。後頭部を殴られたかのような衝撃。一瞬、めまいがして目の前が暗くなった。
「今は、違うんだろ?」
 乾いた喉から言葉を絞り出す。一縷の望みにすがる気持ちだった。額には汗がにじみ、眉はかすかに震えていた。必死であることは一目瞭然だ。
 だが、アンジェリカはそれには答えず、質問を返した。
「相手のこと、言ってた?」
「いや……」
 はぐらかされた。そう思ったが、もういちど尋ね直すことは怖くて出来なかった。
「ひいおじいさまは、どうして私の話を、わざわざジークにしたのかしら」
 アンジェリカは目を細めて広い空を見上げた。ジークは困ったように顔をしかめた。
「それは……」
 少し言い淀んだあと、慎重に言葉を選び答えていく。
「おまえと仲良くすんな……って言うため、だったんだろうな」
「そう、言ったの?」
「そんなようなことをな。でも、俺は……」
「もう、一緒にいない方がいいわね」
 アンジェリカはぽつりと言った。ジークの顔から一気に血の気が引いた。
「おまえ、本気なのかよ!」
 石段から飛び上がるように立ち上がる。
「なんでだよ! まさか、本当に本家を継ぐ気なのか?!」
 アンジェリカは無言で目を伏せた。ジークはこぶしを握りしめ、彼女に詰め寄った。ジャッ、と小石が耳をつんざく音を立てる。
「おまえはそれでいいのかよ。レオナルドか誰かわかんねぇけど、そんな男と……!」
「これは私の問題なの!」
 アンジェリカはよく通る声で、彼の言葉を遮った。そして、凛とした瞳を向け、静かにはっきりと言った。
「ジークは巻き込めない」
「もう巻き込まれてんだよ!」
 ジークはむきになって言い返した。だが、彼女は冷静だった。淡々と言葉を紡いでいく。
「だから、ここで手を引いて。取り返しがつかなくなる前に」
「冗談じゃねぇぞ。絶対に引かねぇからな」
 ジークは奥歯を噛みしめ、低く唸るように言った。
「ジークがいたって何も変わらない。無駄にひどい目に遭わされるだけよ」
「そんなのわかんねぇだろ!」
 ジークは必死に食らいついた。ここであきらめたら何もかもが終わってしまう。そんなふうに感じていた。
 アンジェリカの表情がわずかに揺れた。
「……私が本家を継ぐことを望んでるって言ったら?」
「うそつきって言葉を返してやるよ」
 ジークは彼女の瞳をまっすぐ見つめた。その大きな漆黒の瞳は、次第に潤んでいった。
「ジークは知らないのよ。ひいおじいさまのことを、ラグランジェ家のことを」
「わかってるさ」
 ジークは実感をこめて言った。もしかしたら、アンジェリカよりも——。そう思ったが、口には出さなかった。真摯なまなざしで、じっと彼女を見つめる。
「覚悟は決めてんだ」
 アンジェリカは泣きそうに目を細めた。
「どうして? いつも私のせいで、かぶらなくていい火の粉をかぶって……。私、そんなのもう耐えられない」
「耐えろよ!」
 ジークは彼女の両肩に手をのせ、ぐっと力をこめた。
「少しでも俺のことを思ってくれるなら……」
「何よそれ、むちゃくちゃよ。ジーク、おかしいわ」
 アンジェリカは顔をゆがめ、ゆっくりと首を振りながら、ジークから逃れようとした。しかし、彼は手を緩めようとはしなかった。
「おまえはさっき自分の問題だって言ってたけど、おまえだけの問題じゃねぇ。俺の問題でもあるんだ」
「なに言ってるの? 全然わからない」
「わかれよ!!」
 もどかしげに眉をしかめながら、大声で叫んだ。彼女の肩を掴む手には、無意識に力が入る。食いしばった奥歯から、くっと小さく声が漏れた。
 限界だった。
 説得する言葉が見つからない。
「俺は……!」
 耐えかねたかのように、彼女を勢いよく引き寄せた。その小さな背中に手をまわすと、力いっぱい抱きしめた。
「わかれよ……ガキじゃ、ねぇんだろ」
 微かに甘い匂いのする黒髪に頬を寄せ、耳元でつぶやくように言葉を落とした。彼女の華奢な体を、腕に、胸に感じる。あたたかく、そして柔らかい。ジークはさらに腕に力をこめた。
「……ジーク、苦しい」
 アンジェリカは小さくかすれた声を漏らした。ジークははっと我にかえると、あわてて腕を離した。顔を赤らめながら横を向き、うつむいて額を押さえた。
「悪かった……でも、俺、おまえに何を言われても、引く気はねぇからな」
 アンジェリカは眉根を寄せ、彼の横顔を見つめた。ぎゅっと握りしめた手を、胸元に押し当てる。冷たい風が吹き抜け、頬の微熱をさらっていった。同時に、落陽の最後の余韻も掻き消した。

「ジーク、まだ寝てるんですか?」
 リックが驚いて尋ねると、レイラは扉にもたれかかり、困り顔で肩をすくめた。
「寝てるっていうか……きのうずいぶん落ち込んで帰ってきたと思ったら、ごはんも食べないで部屋に閉じこもっちゃって。それきりなのよ」
 リックは眉をひそめて顔を曇らせた。
「僕、様子を見てきます!」
 そう言うなり家に駆け込み、二階へと突進していった。
「ジーク!」
 大声とともに、乱暴に扉を開け放つ。彼は狭い部屋で頭から布団をかぶり、体を丸めていた。
「俺、休む……」
 布団からくぐもった弱々しい声が聞こえた。
「きのう、アンジェリカと何があったの?」
 リックは戸口に立ったままで尋ねた。だが、布団がほんの少し動いただけで、返事はなかった。
「売り言葉に買い言葉で、ケンカをこじらせちゃった、とか?」
「……もっと悪い」
 ジークは布団の中でさらに丸まった。膝を抱え、頭をうずめる。
 ——最低だ。自分の気持ちばかり押しつけた。感情が高ぶっていたとはいえ、あれはひどい。怖がられても嫌われても、当然の報いだ。彼女の曾祖父に引き裂かれるまでもなく、もう口もきいてもらえないかもしれない。そう思うと、いくら後悔してもし足りない。そのくせ、彼女を抱きしめた感触を思い出しては胸が熱くなる。顔が赤くなる。本当に最低だ。とことん自分が嫌になる。
「逃げても解決しないよ。悪いと思うなら、謝らなきゃ」
 リックの言うことはもっともだった。わかってはいるが、そうするだけの勇気はなかった。とても顔など会わせられない。
「ジーク!!」
 リックは勢いよく掛け布団を剥ぎ取った。

 ふたりは遅れてアカデミーにやってきた。もうとっくに授業が始まっている時間だ。それでもジークの足どりは重い。リックは、そんな彼を急き立て、引っ張っていった。
 教室まで来ると、ふたりは後ろ側の扉を開け、身を屈めながらそっと入っていった。教壇のラウルはそれに気づいたが、冷たく一瞥しただけで何も言わなかった。アンジェリカもちらりとジークに目を向けた。ジークは彼女の視線を感じたが、顔を向けることは出来なかった。どんな表情をしているのか、見るのが怖かった。

「どうしたの? ふたりとも。遅刻なんて初めてじゃない?」
 授業が終わるなり、アンジェリカはジークの席に駆け寄った。少し心配そうにしているが、怒ったり呆れたりしているようには見えない。リックは拍子抜けした。ジークの様子からすると、取り返しのつかない喧嘩をしたものとばかり思っていた。なのに、彼女の方はいたって普通で、いつもと何ら変わったところはない。どういうことなのだろうと首を傾げながら、ジークに振り向いた。だが、彼もまた驚いていた。その驚き方はリックの比ではない。ぽかんと口を半開きにしたまま、呆然と彼女を見上げている。
「……あ……きのうのこと……」
 うわごとのように声を漏らす。アンジェリカは後ろで手を組み、にっこり笑って彼を覗き込んだ。
「私ね、ジークのことを、もっと信用することにしたの」
「え?」
 ジークは、近すぎる彼女から逃れようと、上体を後ろに引いた。椅子から落ちそうになり、あわてて背もたれに手を掛ける。
 アンジェリカは顔の前で両方のこぶしをぎゅっと握りしめ、ぐっと気合いを入れた。
「だから、ひいおじいさまに負けないでね!」
「あ、ああ……」
 ジークはわけがわからないまま、彼女の勢いに圧されて何となく返事をした。アンジェリカは不満げに口をとがらせた。
「もうっ! もっと強気な返事を聞きたいわ」
「……絶対に、負けねぇ」
 ジークはぽつりと言った。いまだに状況が飲み込めない。
「ちょっと力強さが足りないけど、まあいいわ」
 アンジェリカは顔を弾けさせて笑った。
「おまえ、なんで……」
 ジークはとまどいながら尋ねた。
「わかれよって言ったのはジークじゃない」
 アンジェリカは当然のように言った。
「それに……」
 真顔でジークを見つめる。そして、肩をすくめるとにっこり笑った。
「私も、本当は、ずっとジークと一緒にいたいもの」
 ぎゅるぎゅるぎゅる——。
 ジークのおなかが派手に鳴った。三人は顔を見合わせた。アンジェリカとリックは同時に吹き出し、くすくすと笑った。ジークの顔は、みるみるうちに真っ赤になっていった。
「そういや、今朝もきのうの夜も、何も食ってなかった……」
「じゃあ、早く行きましょう、お昼を食べに。三回分、食べなきゃね」
 アンジェリカは彼の腕を引っ張った。
「そんなに食ったら、ハラ壊すって」
 ジークは頭を掻きながら立ち上がった。
「ジークなら大丈夫よ」
「おまえ、俺を何だと思ってんだよ」
 ふたりは顔を見合わせて、そんな会話をしていた。いつものように、いつもより近い距離で、並んで歩いている。リックは、事情はよくわからなかったが、上手くおさまった様子なのを見て、ほっと安堵した。
「リック、何してるの? 行きましょう」
 足が止まったままの彼に気づき、アンジェリカは笑顔で呼びかけた。その隣で、ジークは照れたような、ばつが悪いような、複雑な笑みを浮かべていた。
「ごめん、いま行く」
 リックはにっこりと笑って駆け出した。あとで、ジークから詳しい話を聞き出そうと心に決めた。


72. あきらめ

 むせ返るような強い消毒液の匂い。
 レオナルドはあからさまな嫌悪を示した。腕を組みながら壁にもたれかかり、うつむき加減に顔をしかめる。
「治らないと言ったくせに、いつまでこんなことを続けるんだ」
 吐き捨てるように言うと、あごを引いたまま、上目づかいで前を凝視した。その先にいたのは、ラウルとユールベルだった。向かい合って椅子に座っている。ラウルは彼女の目を診察すると、手際よく包帯を取り替え始めた。
「嫌なら来なくていい。何度も同じことを言わせるな」
 面倒くさそうに、突き放した答えを返す。レオナルドはますます顔をけわしくした。
「おまえは優秀な医者だという話だが、たいしたことはないんだな。それとも手を抜いているのか?」
 ラウルはまるで取り合わなかった。無言でユールベルの頭に包帯を巻きつけている。しかし、彼女の方が、その言葉に反応した。大きく右目を開き、ラウルを見つめる。
「……治せるの?」
「レオナルドの言葉など真に受けるな」
 ラウルは彼女を引き寄せ、頭の後ろで包帯を結んだ。そして、頬に軽く手を置くと、椅子をまわし机に向かおうとした。だが、彼女が腕をつかみ、それを止めた。
「私のことが嫌いだから手を抜いているの? 私があなたを困らせてばかりだから、その仕返し?」
 張りつめた表情で問いかける。ラウルは目を閉じ、ため息をついた。
「治せないものは治せない」
「お願い、私が悪かったのなら謝るわ。目は見えるようにならなくてもいい。せめて、醜い傷跡だけでも……」
 ユールベルは、彼の腕をつかむ手に力を込めた。細い指がかすかに震えている。それでも、ラウルの心は動かなかった。
「何度言われても答えは変わらない」
 素っ気なく彼女の手を払い、机に向かう。そして、薄く黄ばんだカルテに万年筆を走らせた。さらさらと軽い音が部屋を舞う。ユールベルは目を伏せた。

「アンジェリカは治したんじゃないのか」
 レオナルドが思い出したように口を切った。ラウルが振り向くと、彼は無言で脇腹を指さしてみせた。どうやらセリカに刺されたときのことを言っているらしい。
「わずかに痕が残っているはずだ」
「わずかに、か」
 ラウルの言葉の一部を、レオナルドは嫌みたらしく強調して繰り返した。
「あれとは状況も状態も違う」
 ラウルは冷静に答え、机に向き直った。再び手を動かし始める。レオナルドは腕を組み、口をへの字に曲げ黙り込んだ。

「嘘よ!」
 静寂を裂く叫び声。それはユールベルが発したものだった。椅子から立ち上がり、握りしめたこぶしを震わせている。
「やっぱり私だからなのよ」
 だが、ラウルはカルテに向かったまま、視線を上げようともしなかった。ユールベルは彼の冷淡な横顔をきつく睨みつけた。その目には涙がにじんでいた。
「弁解くらいしたら? それでも医者なの?」
 震える声で責め立てる。それでも、彼はまるで無反応だった。ユールベルは唇を噛みしめうつむいた。そして、ゆっくりと、思いつめた顔を上げた。
 ——シャッ!
 ラウルの頬に冷たい刃が押し当てられた。ユールベルの仕業だった。机の上のペン立てからカッターを取り、その刃をあてがったのだ。
「ユールベル!」
 レオナルドは壁から跳ねるように身を起こした。
「あなたも少しは思い知るといいわ」
 彼女にはレオナルドの声など少しも届いていないようだった。まっすぐにラウルを睨み、カッターを持つ手にぐっと力を入れた。固い頬に、わずかに刃が沈む。
 だが、ラウルは平然として微動だにしなかった。
 ユールベルの顔がこわばった。微かなとまどいの色が浮かぶ。怯えるようにわななく手でゆっくりと刃をずらしていった。彼の頬に赤い一筋が浮かぶ——。
「いいかげんにしろ」
 ラウルは横目でギロリと睨めつけた。彼女が怯んだその瞬間、彼は素手で刃をつかみ、強く握りしめた。手から赤い血が滴り、手首、肘へと伝っていく。そして、さらに力を入れると、刃だけを根元からへし折った。
 ユールベルは青ざめ、呆然と立ち尽くしていた。柄だけになったカッターが手から滑り落ち、床の上で乾いた音を立てた。
 ラウルは血まみれの刃を、机の上に投げ捨てた。そして、おもむろに立ち上がると、真っ赤に染まった手を彼女へと伸ばした。
「い……いや……」
 顔を引きつらせ、震えながら後ずさる。頭をぎこちなく横に振り、精一杯の拒絶を示した。だが、ラウルは容赦なく距離を縮め、流血する手のひらを、彼女の眼前に突きつけた。顔に生温いものが滴り流れる。それは、白いワンピースにも落ちていき、胸元を赤く染めた。
「見ろ。おまえの行動の結果だ」
「違う……私、こんなつもりじゃ……私じゃ……私じゃない!」
 ユールベルは顔をそむけ、目をつむり、声の限りに叫んだ。その直後、糸が切れたように、膝からガクンと崩れた。ラウルは素早くそれを抱きとめた。床に倒れ込むすんでのところだった。意識を失った彼女は、力の抜けた体を、すっかりラウルに預けている。
 レオナルドは動くことも声を発することもできず、ただその光景を目に映すだけだった。顔からは血の気が失せ、足はカクカクと震えている。立っていることさえ危うい状態だ。
「出ていけ」
 ラウルはぞっとするほど冷たい視線を彼に向けた。
「お、おまえ、なんで……」
「出ていけ」
 同じ言葉を、語気を強めて繰り返す。そして、血で染まった手をレオナルドに突き出した。
「うわぁ!」
 彼は情けない悲鳴を上げ、しりもちをついた。ラウルは乱暴に引き戸を開けると、レオナルドを医務室から蹴り出した。間髪入れずに扉を閉め、ガチャリと鍵を下ろす。あっというまの出来事だった。
 レオナルドは蹴られた腹を押さえ、うめきながら立ち上がった。扉を引いてみたが、ガタガタと音を立てるだけで、開くことはなかった。扉に手を掛けたまま、下唇を噛みしめる。そして、怒りをぶつけるように、力いっぱい扉を叩きつけた。

「どいてくれないか」
 頭上から降る高圧的な声。扉を背に座り込んでいたレオナルドは、口を真一文字に結んだ。その一言だけで、嫌悪するに十分だった。間違いなくあいつの声だ——。睨みをきかせながら、ゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは、案の定、サイファだった。大きな黒い紙バッグを脇に抱えている。
「ここに用があるんでね」
 彼は冷たく見下ろしながら、親指で医務室の扉を示した。レオナルドははっとして立ち上がった。
「中に入るなら、俺も一緒に入れてくれ!」
 サイファは詰め寄る彼を制した。
「おまえは追い出されたんだろう。気が立っているときのラウルは何をするかわからないぞ。下手をすると殺されるかもな」
「脅かそうったってそうはいかない。もしそうなら、おまえだって……」
 レオナルドは食い下がった。だが、そんな彼を見て、サイファはふっと口元を緩めた。
「残念ながら私は特別でね。ラウルが私を殺すことはできない」
 レオナルドにはその意味がわからなかった。怪訝に眉をひそめる。しかし、それを追求するよりも、今はもっと重要なことがあった。
「だったら、おまえから俺のことを頼んでくれ。ユールベルに会わせてくれ」
「それが目上の人間に物を頼む態度か?」
 サイファは尊大にそう言うと、レオナルドを押しのけ、扉をノックした。レオナルドはこぶしを震わせながら歯噛みした。怒りで上気した顔を深くうつむけると、押し殺した声で唸るように言った。
「……お……お願いします」
 彼にとっては耐えがたい屈辱だった。よりによって、最も腹立たしく、最も疎ましい相手である。しかし、自尊心をかなぐり捨ててでもユールベルに会いたい。会わなければならない。その思いの方が強かった。
 サイファは冷めた目で彼を見やった。まだ足りないとばかりにあごをしゃくる。レオナルドは切れそうになる自分を必死につなぎ止めた。半ば自棄になりながら、床に手をつき頭を下げた。
 そのとき、中から扉が開いた。薄暗い廊下に光の帯が伸びる。そして、そこにラウルと思われる影が映った。サイファはさっと医務室に入ると、後ろ手で扉を閉め、鍵をかけた。
 レオナルドは土下座したまま、その場に残された。何かを言う間もなかった。ただ、唖然として扉を見つめるだけだった。手から廊下の冷たさが染みてきた。

「着替えだ」
 サイファは黒い紙バッグを机の上に放り投げた。カタンと固い音がした。中にはいくつか箱が入っているようだった。
 ラウルは疲れたように椅子に身を投げた。そして、あきれ口調でため息まじりに言った。
「私は殺人鬼か」
「感謝してほしいくらいだよ」
 サイファはにっこり笑った。
「レオナルドを追い払うためさ。どうせ扉の前でしつこく座り込んで耳をそばだてているだろうが」
 扉がガタンと音を立てた。レオナルドが動揺して体勢を崩したのだろう。サイファは失笑した。
「それに、言ったことは間違っていないと思うがね」
 後ろからラウルの肩に腕をのせ、挑発的な笑みを口元にのせた。
「私を殺せないということも」
 耳元で囁くように言葉を落とす。
「図に乗るな。何もかもどうでも良くなることもある」
 ラウルはむっとしてそう言うと、サイファの頭を押しのけようとした。だが、彼はそれをひょいとかわし、軽い調子で笑った。
「おまえと本気でやりあえるのなら、それはそれで本望だよ」
 ラウルは無言で眉をひそめた。
「それで、ユールベルはどうしている」
 サイファは急に真面目な顔になり尋ねかけた。ラウルは、紙バッグを床に下ろしながら答えた。
「気を失っただけだ。今は私の部屋で休ませている」
「あまり、いじめないでやってくれよ」
 サイファは彼の左手に目を向けて言った。そこには真新しい白い包帯が巻かれていた。
「刃物を持ち出したのはあいつだ。何の覚悟もなくな」
「必死だったんだよ。おまえもそのくらいわかっているだろう。もう少しソフトに受け止めてやってくれよ」
「おまえがやれ。父親代わりはおまえだろう」
 ラウルはいらだたしげに、冷たいまなざしを向けた。
「私に出来ることはやっているよ」
 サイファはパイプベッドに腰を下ろした。
「ただ、彼女がすがるのはいつもおまえなんでね」
「迷惑だ」
 ラウルはすげなく答えた。無表情で背を向ける。そんな彼を見て、サイファはにこりとした。
「私よりおまえのほうが優しいことを、無意識のうちに感じとっているのかもな」
 ラウルはわずかに振り返り、肩ごしに鋭く睨みつけた。しかし、サイファは軽く笑ってそれを受け流した。
「少なくとも、今の彼女に必要なのは、レオナルドではなくおまえだ。落ち着くまで、せめて一晩くらい一緒にいてやってくれ」
「断る」
 ラウルは即座に拒否した。微塵のためらいもない。にもかかわらず、サイファは勝手に話を進めていった。
「ルナのことは心配するな。一晩、預かってくれるよう頼んでおこう。いや、私が預かるか……そうだ、それがいい」
「おまえなどにルナを預けられるか」
「面倒を見るのはレイチェルだぞ」
 ラウルは少し間をおいてから答えた。
「……レイチェルに迷惑は掛けられない」
「やはり優しいな、ラウル先生は」
 サイファは含みをもった口調で、からかうように言った。ラウルは固く口を結んだ。
「たまにはいいだろう? アンジェリカもルナに会いたがっていたよ」
 今度はにっこり微笑んで言った。それでもラウルは無言だった。背を向けたまま、振り返ろうともしない。
 サイファはそれを承諾と受け取った。
「よし、決まりだな。彼女の弟には、私から連絡しておこう」
「おまえはいつも強引だ」
 ラウルはあきれたようにため息をついた。サイファはニヤリとしてパイプベッドから立ち上がった。腰に手をあて、背筋を伸ばす。
「嫌いじゃないんだろう。レイチェルもあれでけっこう強引だからな」
 ラウルは何も答えなかった。前を向いたまま机の上でこぶしを握りしめた。白い包帯が千切れそうなくらいに引っ張られ、微かに音を立てた。
「大丈夫なのか。かなり出血したようだが」
 サイファはそのこぶしに目を落とした。
「たいしたことはない」
「無茶はするな」
 気づかうように言うと、ポンと肩に手をのせた。それから、はたと思い出したように付け加えた。
「そうだ、今度どこかを切ったときは、手当てをする前に私を呼んでくれ」
 ラウルはぴくりと眉を動かした。椅子をまわし、サイファに向き直る。
「まさか、くだらん噂を信じているわけではないだろうな」
「おまえの血は青色だとか、緑色だとか、飲めば不老不死になるとか?」
 サイファはどこか楽しむような声音で、悪戯っぽく尋ねかけた。そして、挑むようにラウルを覗き込んだ。
「血が赤いということは知っているけどね」
 そう言いながら、彼の頬につけられた浅い傷を親指でなぞる。その傷は、わずかに赤黒かった。
「だが、不老不死の方は、試してみないことには、わからないだろう?」
「おまえがそこまで愚かだったとはな」
 ラウルは小さく息をつきながら、彼の手を払いのけた。焦茶色の長髪を大きく波打たせ、再び背を向ける。
 サイファはにっこり笑い、軽く右手を上げると、医務室をあとにした。

 レオナルドは深くうなだれ、扉の脇で座り込んでいた。左右に長く続くガラス窓には、一面紺色の景色が映し出されている。行き交う足音も次第にまばらになっていき、あたりは寂寥としていた。
 鍵の開く音、そして扉の開く音——。
 中から出てきたのはサイファだった。レオナルドは凄まじい形相で睨み上げた。
「俺をいじめてそんなに楽しいか」
「まあな」
 サイファは悪びれもせず、あっさりと肯定した。
「我々の話は聞いていたな」
「…………」
 レオナルドは目をそらせ、口をつぐんだ。聞き耳を立てていたことは、サイファにばれている。それはわかっていた。だが、素直に認めることには抵抗があった。
 サイファはそのことについて、それ以上の追求はしなかった。
「ユールベルはラウルのところに預けた。今日は帰った方がいい」
「冗談じゃない、なぜラウルなんだ!」
 レオナルドは立ち上がり、サイファに噛みついた。サイファは横目で彼を一瞥した。
「今のおまえではユールベルを支えてやれないからだ」
「そんなことはない!」
「おまえは不安定になったユールベルの行動を見ていながら、止めることができなかった」
 レオナルドは何も言い返せなかった。唇を噛みしめうつむく。
「そもそも、おまえが日頃から彼女の悩みを、痛みをわかってやっていれば、それを受け止めてやっていれば、彼女があんな極端な行動には出ることはなかった。違うか?」
 サイファは淡々と追いつめた。
「好きだという気持ちは大切だ。だが、おまえの場合はそれが強すぎる。自分の気持ちを押しつけるばかりで、相手を見ようともしない」
「違う! 俺はいつも見ていた!」
 レオナルドは必死に否定した。サイファは冷めた視線を投げた。
「見ていてわからなかったのなら、なおのこと悪いな」
 レオナルドは完全に負けた。返す言葉などなかった。くやしさと情けなさに肩を震わせた。
「冷静になれ、心にゆとりをもて、そして相手の気持ちを考えろ。そうすれば、今まで見えなかったものが見えてくるはずだ」
 サイファは腕を組んで、壁にもたれかかった。
「彼女を支えるには、多少のことでは動じない精神が必要だ。ラウルのようにというのは無理な話だが、せめてもう少し大人になれ。彼女が安心して寄り掛かれるようにな」
 レオナルドは怪訝に眉をひそめ、彼の端整な横顔を睨みつけた。
「……何を企んでいる。普段のおまえなら、ユールベルと引き離そうとするんじゃないのか?」
「アンジェリカの婚約者を決めろという声が、最近また強くなってきている。おまえの名前も上がるかもしれない」
「そういうことか」
 レオナルドは鼻先で笑った。
「断ってくれるんだろう? 親に逆らっても、何を敵にまわしても」
 サイファは腕を組んだまま、視線を流して尋ねた。レオナルドは真剣な表情で答えた。
「当然だ、見くびるな。おまえのためじゃない。自分自身のためだ」
「固い決意が聞けて良かったよ。おまえが息子だなんてゾッとするからな」
 サイファはそう言って、ニヤリと笑ってみせた。レオナルドも口端をつり上げ、負けじと言い返した。
「それはこっちのセリフだ。おまえが父だなんて、この世の終わりだ」
「この点においては、私とおまえは利害の一致する仲間というわけだ。ただし、私はユールベルの父親代わりでもある。彼女を不幸にするようなことはしないつもりだ。わかるな」
「俺は、不幸になんてしない」
 レオナルドはまっすぐな瞳をサイファに向けた。しかし、不意にあることが頭をよぎった。はっとすると、眉根を寄せ、首を傾げる。
「ちょっと待て。ユールベルの父親代わりってことは……」
「父親代わりであって、父親ではない。そこは流せ」
 確かにそこにこだわるより、もっと大切なことがある。引っかかるものはあったが、そのことについては考えないようにした。
「じゃあな。一晩、頭を冷やしてよく考えろ」
 サイファはレオナルドの額にポンと手をのせ、踵を返した。レオナルドは顔をしかめながら、手の感触の残る額を何度も拭った。そして、小さくなる後ろ姿を、奇妙な面持ちで見送った。

 ユールベルはベッドの中で目を覚ました。見覚えのある天井。
 ここは——。
 首を動かし、あたりを見回す。こじんまりとした飾り気のない部屋。だが、とても懐かしい光景、懐かしい匂い。ラウルの寝室だった。以前と違うのは、ベビーベッドがあることくらいだ。
 彼女はベッドの上で上半身を起こした。そのとき、何も身に纏っていないことに気がついた。それと同時に、医務室での記憶もよみがえった。目の前を滴り落ちる赤い血、体を伝う生温い感触。思わず吐き気をもよおし、口を押さえてうつむいた。
「目が覚めたか」
 ラウルは無遠慮に扉を開け入ってきた。あいかわらずの無表情で、怒っているのかいないのか、推し量ることもできない。
 ユールベルは包帯を巻かれた彼の左手に目を落とした。
「ごめんなさい……」
 目をそらし、力なく謝る。
「謝るくらいなら、初めからするな」
 ラウルは冷淡な言葉を返した。ユールベルの蒼い瞳はじわりと潤んでいった。彼女はまぶたを震わせながら目を細めると、そのまわりの傷跡にそっと指を這わせた。
「本当に治らないのね」
「何度も言ったはずだ」
 どれだけ尋ねても、彼の答えが変わることはなかった。白いシーツをぎゅっと握りしめる。それから、小さな声で訥々と語り始めた。
「初めのうちは平気だと思っていたわ。人に何と思われようと関係ないって。それまでの仕打ちに比べたら、好奇の目で見られたり、陰で何かを言われたりすることなんて、なんてことはないって。なのに、どうしてかしら、次第につらくなっていったのよ。どうして……。もしかしたら、人の優しさを知って、人の冷たさも身にしみるようになったのかもしれないわね」
 そこまで言うと、さらに深く顔をうつむけた。長い金の髪が、彼女の表情を覆い隠す。
「……こんなことなら、ずっと心を閉ざしていればよかった」
 ラウルはじっと黙って聞いていた。そして、彼女が話し終わると、静かに自分の言葉を落とした。
「誰にでも、あきらめるしかないことはある」
 ユールベルは頭をもたげ、潤んだ瞳で彼を見つめた。
「あなたにも?」
「誰にでもだ」
「だったら教えて。あなたは何をあきらめたの?」
 探るように彼の黒い瞳を覗き込む。だが、彼女にはその奥にあるものを掴むことはできなかった。
 ラウルは何も答えず、部屋を出ようとした。
「待って、行かないで。聞かないわ。だから、一緒にいて」
 ユールベルはあわてて懇願した。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、わずかに振り返った。
「誰かにすがりたいのなら、サイファを頼れ。あいつがおまえの父親代わりだろう」
「おじさまには迷惑を掛けたくない」
「ラグランジェの人間は、どいつもこいつも勝手ばかり言う」
 ラウルはその語調に腹立たしさをにじませた。
「勝手ついでに、もうひとつお願いしてもいいかしら」
 そう言ったユールベルを、冷たく刺すように睨めつける。彼女はそれに動じることなく彼を見据え、小さな口を開いた。
「私、あなたと一緒にここで暮らしたい」
「前に断ったはずだ」
 ラウルはにべもなくはねつけた。
「私、なんでもするわ。あなたの役に立てるように頑張る。あの子の世話だってするわ。だから、私をここに置いて」
 ユールベルは必死に訴えかけた。
「おまえは逃げ込もうとしているだけだ」
「逃げて何が悪いの?!」
 表情ひとつ変えないラウルを、涙目で睨みつける。しかし、彼の気持ちが揺らぐことはなかった。徹底的に彼女を突き放す。
「他へ行け。迷惑だ」
「どうしてっ……」
 ユールベルは涙をこぼしながら、両手で顔を覆った。細い肩を震わせ、何度もしゃくり上げている。
「あきらめるしかない。そういうことだ」
「だったらあなたがあきらめて!」
 勢いよく顔を上げ、強い視線を彼に向けた。濡れた頬も濡れたまつげも拭わず、いまだ小さくしゃくり上げてる。
 ラウルはまっすぐに黒い瞳を返した。そして、静かに言った。
「弟はどうするつもりだ」
 ユールベルははっとしてうつむいた。微かに自嘲の笑みを浮かべる。
「忘れていたわ」
 目を細め、奥歯を噛みしめる。
「最低だわ。自分のことしか考えていなかった。姉だなんていう資格ないわね。……いいえ、元からそんなものはなかった」
 膝を引き寄せ、シーツごと抱えると、そこに顔をうずめた。
「それでも……それでも、やっぱり、あの子は私が守るしかない」
 弱々しい声だが、きっぱりと言い切った。おもむろに顔を上げると、細く白い腕を伸ばし、ラウルに手のひらを向けた。
「帰るわ。服と包帯、返して」
 きつい口調で、精一杯、強がってみせる。ラウルは無表情で彼女を見下ろした。
「今晩だけ泊まっていけ。弟にも連絡を入れておく」
 ユールベルの腕から力が抜けた。軽い音を立てて、シーツの上に落ちる。
「優しくするか冷たくするか、どちらかにしてほしいわ」
 伏目がちに複雑な表情を見せると、ぼそりとつぶやいた。
 ラウルは前に向き直り、部屋を出ようとした。
「待って! 行かないで!」
 ユールベルは怯えた声で引き止めた。ラウルは背を向けたまま足を止めた。
「私はおまえと違って暇ではない。……あとで戻る。大人しく寝てろ」
 淡々とそう言うと、部屋を出て、静かに扉を閉めた。

 チチチチ……。
 小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。木々のざわめきがそれに重なる。細く開いた窓から、ひんやりとした空気が流れ込み、薄地の白いカーテンをふわりと舞い上げた。窓からの柔らかな光が大きく揺らめく。机に向かうラウルにもその風は届いた。彼の長い髪がさらさらとなびいた。
 ——ガチャッ。
 奥の部屋からユールベルが姿を現した。真新しい上質な白いワンピースに、黒いエナメルの靴、おろし立ての白い包帯、緩やかなウェーブを描く金色の髪。すっかり身支度を整えている。
 彼女はゆっくりと足を進めていった。
「帰るわね」
 机に向かうラウルに、後ろから声をかける。
「ああ」
 ラウルは振り返らずに返事をした。ユールベルは目を細め、彼の背中をじっと見つめた。
「……また、来てもいいかしら」
「診察にならな」
 素っ気ない答えを返す。ユールベルは後ろから彼に腕をまわした。広い背中に頬を寄せ、そのあたたかさを感じながら目を閉じた。
「さようなら」
 囁くように告げられたその言葉は、微かに震えていた。

 ユールベルは医務室を出て、扉を閉めた。そのとき、脇でレオナルドが座り込んでいることに気がついた。服にも顔にも、血がついたままだった。すでに変色して、赤というよりも黒に近くなっている。
「ずっと、ここにいたの?」
「情けないな。俺ではラウルの代わりにもならないのか」
 レオナルドはうなだれたまま、自嘲ぎみに言った。ユールベルの胸に痛みが走った。何も答えることが出来なかった。ただ、眉根を寄せ、うつむくだけだった。
「おまえはもう俺のことを必要としなくなっていた。それは、だいぶ前からわかっていた」
「……頼んでおきながら、勝手よね」
「勘違いするな。おまえを好きになったのは、頼まれたからじゃない」
 レオナルドは、隣で立ち尽くすユールベルに、ちらりと目を向けた。
「だから、これからも勝手におまえのことを好きでいる」
「私なんかのどこがいいのよ」
 ユールベルは後ろで手を組み、壁にもたれかかると、投げやりに言った。
「理由が欲しいなら、いくらでも挙げてやる。それとも、迷惑ってことなのか?」
 レオナルドは淡々と尋ねた。ユールベルは困惑して顔を曇らせた。
「私は、どうすればいいの?」
 レオナルドはじっと考え込んだ。そして、静かに口を開いた。
「俺を見ていてくれ。きっと、おまえを受け止められるような男になってみせる。ラウルの代わりでなく、ジークの代わりでなく、俺を俺として好きになってくれるまで待つさ」
 穏やかだが、力強さを感じさせる声。いつもの彼にはない落ち着きもあった。
 ユールベルは遠くを見て、目を細めた。
「前にも言ったわ。あなたの気持ちには応えられないかもしれないって」
 レオナルドはふっと笑ってうつむいた。
「前にも言っただろう。それでも俺はあきらめないと。未来のことは誰にもわからない、そうだろう?」
 ユールベルはゆっくりと彼に振り向いた。そして、静かに尋ねかける。
「あなたは、何かをあきらめたことはあるの?」
「……あるさ」
 レオナルドは低い声で短く答えた。頼りなく目を伏せている。しかし、すぐにその表情を引き締めると、瞳に決意をみなぎらせた。
「でも今度は、おまえのことだけは、絶対にあきらめるつもりはない」
「あなたのそういうところ、うらやましいわ」
 ユールベルは足元を見つめながら、少し寂しげに微笑んだ。そして、そっと顔を上げると、窓の外の青い空を遠望した。


73. 進路

 ガラガラガラ——。
 ジークは引き戸を開け、中に入った。いつもは賑やかな教室が、今はしんと静まり返っている。
 そこにいたのはラウルひとりだけだった。窓際の椅子に座り、青色のファイルに目を落としていた。ファイルを持つ左手は、白い包帯で覆われていた。
 ジークは乱暴に椅子を引き、向かいの席に腰を下ろした。ふたりの間の机には、窓からの強い光が落ちていた。その照り返しのまぶしさに、思わず目を細める。わずかに顔をそむけ腕を組み、正面に座る担任の言葉を待った。
「魔導省か」
 ラウルはファイルを閉じると、感情のない声でつぶやいた。ジークはむっとして眉をひそめた。
「文句あるのかよ」
 ぶっきらぼうな口調でふてぶてしく突っかかる。だが、ラウルは無表情のままだった。彼を見もせず、ファイルを机に置くと、冷淡に言い放った。
「やめておけ。おまえには向いていない」
「なんだと?」
 ジークは顔をしかめた。そして、身をのり出すと、いきり立って語気を荒げた。
「いきなりそれかよ! おまえにそんなことわかるのか? 俺の何を知ってるっていうんだ!」
「あそこは理不尽なことが平然とまかり通るところだ。おまえにはそれを受け入れる覚悟があるのか」
 ラウルはジークを見据え、静かに言った。ジークは当惑の表情を浮かべた。考えもしないことだった。返答に窮し、目を泳がせる。
「忠告はした。あとは勝手にしろ」
 ラウルは冷たく言い捨てた。ジークはカチンときた。途端に強気になり言い返す。
「ああ、言われなくても勝手にするぜ」
「おまえが望めばサイファがどうとでもするだろう」
 ラウルはファイルを手に取り、すっと立ち上がった。ジークの頭に一気に血がのぼった。奥歯を噛みしめると、目の前の長身の男をキッと睨み上げた。
「俺の実力じゃ受かるわけねぇって言いたいのか?」
 怒りを込めた低い声で尋ねる。ラウルは冷たい目で彼を見下ろした。
「魔導の実力やアカデミーの成績は問題ない。問題はおまえのその態度だ」
 ジークは息を呑んだ。
「気に食わないからといって、そういうあからさまな態度をとっていては受かりはしない。受かったとしても昇進は見込めない。」
 ラウルは淡々とそう言うと、ファイルを脇に抱えた。
 ジークは苦々しく顔をしかめた。言葉もなく目を伏せる。痛いところを突かれた。その自覚はあった。だが、ラウルに対しては意地を張りたかった。
「……これは、相手がおまえだからだ。いざとなれば、上手くやる」
 精一杯の反抗心は、自信なさげな弱々しい声で語られた。
 ラウルは無言で背を向け歩き出した。
「た、たとえ!」
 ジークは去り行く背中に向かって声を張り上げた。ラウルの足は止まった。
「たとえ、上手くいかなかったとしても……」
 そこでいったん言葉を切った。グッと表情を引き締め、瞳に強い光を宿らせると、彼の大きな背中を凝視した。
「俺は、サイファさんに頼ろうなんて思ってねぇ。自分の力でやっていく」
 今度は決意をみなぎらせた声で、きっぱりと言い切った。
 ラウルはわずかに振り返った。
「ならば、はっきりとサイファにそう言っておくんだな。放っておくと、あいつは勝手なことをやりかねない」
「ああ、そうするぜ」
 ジークは投げやりに答え、フンと鼻を鳴らした。ラウルは再び背を向けた。そして、
ふいに口を切った。
「サイファに関わるとろくなことがない。あいつには近づきすぎるな」
 その声には、苛立ちと反感のようなものが微かに含まれていた。ジークは怪訝に眉をひそめた。
「俺は進路指導に来たんであって、人生相談に来たんじゃねぇぞ」
 彼のその言葉に、ラウルは何も答えなかった。無言のまま、大きな足どりで教室を出ていった。ちらりと見えた横顔は、相変わらずの無表情だった。
 ひとり残されたジークは、大きく息を吐きながら、机に突っ伏した。机の表面は、昼下がりの強い陽射しに照りつけられ、熱いくらいだった。しかし、今の彼には、それがちょうど心地よく感じられた。

 ジークは教室を出ると、食堂に向かい歩き出した。あたりは多くの生徒が談笑しながら行き交い、騒がしいくらいに賑やかだった。誰も皆、楽しそうに見える。彼は無意識に足を早めた。ときおりスニーカーがキュッと軽い音を立てた。
 小走りで階段を駆け降りると、彼ははっとして足を止めた。その視線の先にいたのは、レオナルドとユールベルだった。ここは彼らの教室の近くだった。そうでなくても同じアカデミーにいる以上、校舎内のどこで出会ってもまったく不思議ではない。だが、できれば出会いたくない相手だ。
 彼らも気づいたらしく、同様にはっとしてジークを見ていた。ジークはわずかに身構えた。また、いつものように、レオナルドが嫌味のひとつでも吹っかけてくるだろうと思った。だが、彼は不機嫌な顔を見せただけで、つんと無視をして通りすぎた。彼に手を引かれたユールベルも、とまどいがちに顔をそむけた。ジークの視界の隅を、白い包帯が流れた。
 ジークは思わず振り返っていた。首を傾げながら、階段を上がるふたりの後ろ姿を睨んだ。肩すかしをくらった脱力感、無視されたことの腹立たしさ、ふたりの態度への疑問など、さまざまに入り混じった感情が、彼に複雑な表情を作らせていた。

「ジーク! ここだよ!」
 リックは食堂に入ってきた彼を目ざとく見つけ、声を張り上げた。笑顔で大きく手を振っている。アンジェリカも隣でにっこり微笑んでいた。先に進路指導の面談を終えたふたりは、ここでジークを待っていたのだ。
 ジークは軽く右手を上げて応えると、コーヒーを買ってから、ふたりのいる窓際の席についた。一面の大きなガラス窓から陽光が射し込み、まぶしいくらいに明るい。食堂には彼らの他にもちらほら生徒がいて、遠くで笑い声やはしゃぎ声が上がっている。のどかな昼下がりらしい光景だ。
「どうしたの?」
 そんな中でひとり冴えない顔をしているジークを見て、リックは心配そうに声を掛けた。ジークはコーヒーをひとくち流し込むと、膨れっ面で頬杖をついた。
「ここに来る途中でレオナルドに会った」
「また喧嘩したのね」
 アンジェリカは呆れ口調で言った。
「そうなるかと思ったけど、あいつ、完全に無視しやがった。嫌味を言われるよりも腹が立つぜ。ユールベルも俺を避けるみたいに目を逸らすしな」
 ジークは面白くなさそうにそう言い、口をとがらせた。
「ユールベル、来てたんだ」
 ぽつりと漏らしたアンジェリカのひとことに、ジークははっとして振り向いた。
「違っ……別に、だからどうってわけじゃねぇんだ!」
 慌てふためいて、とっさに稚拙な弁明をする。だが、曖昧な言い回しは彼女に通じなかった。ぽかんとしてジークを見ている。彼の顔にわずかな赤みがさした。リックは隣で声をひそめて笑っていた。
「ええ、別に来ていてもいいんだけど……」
 アンジェリカとジークの話は噛み合っていなかった。だが、ジークは訂正しなかった。黙って彼女の話の続きを聞いた。
「きのうはユールベル、事情があって家に帰れなかったみたいなの。だから、今日アカデミーに来ているとは思わなくて。そう、それできのうだけアンソニーをうちで預かったのよ」
「アンソニーって、ユールベルの弟だったな」
 ジークはエプロン姿の彼を思い出していた。ターニャの卒業祝いパーティで、張り切って料理をしていた姿が印象深い。まだ顔立ちはあどけなかったが、その言動は姉のユールベルよりもしっかりしていた。
「ええ、それにルナちゃんも来ていたのよ。もうけっこう歩けるし、言葉もしゃべるの。とっても可愛いわ」
 アンジェリカは声を弾ませた。だが、ジークはまるで興味を示さなかった。ぼんやりと聞き流しながら、ふと、ラウルの左手の包帯のことを思い出した。ルナを預けたのは手を怪我したせいなのだろうか。あのラウルが怪我をするとは、いったい何が原因だったのだろうか。彼の関心はそちらに向かっていた。
「楽しそうだね」
 リックはにこにこして相槌を打った。アンジェリカも顔をほころばせて頷いた。
「本当、賑やかで楽しかったわ。私にも弟や妹がいればいいなって思っちゃった」
「今からでも遅くないかも」
 リックが言い終わらないうちに、ジークはテーブルの下で彼のすねに蹴りを入れた。横目で睨みつける。リックは痛みをこらえて苦笑いした。ふたりのおかしな様子に、アンジェリカは目をぱちくりさせた。
「じゃあ、お兄さんはどう?」
 リックは話題を変えた。人さし指を立てて尋ねかける。
「そうね、リックみたいな優しいお兄さんだったら、いいかもしれないわ」
 アンジェリカは少し考えながらそう言うと、彼に明るく笑いかけた。
 ジークは頬杖をつき、コーヒーを口に運んだ。彼自身は、気にしていないふうを装ったつもりだったが、表情ににじむ不機嫌さは隠しきれなかった。
「ジークがお兄さんだったら?」
 リックは軽い調子で質問を続けた。ジークはぎょっとして彼を見た。あやうくカップを滑り落とすところだった。
 アンジェリカは首を傾げながら、じっとジークを見つめた。
「毎日、喧嘩してそう」
 真顔でぽつりと言った。しかし、すぐに笑って付け加えた。
「でも、きっと楽しいわね」
 ジークの頬は赤く染まった。そして、嬉しいような困惑したような、ぎこちない笑顔を返した。
「なによ、私が妹じゃ不満?」
 アンジェリカは口をとがらせた。ジークは弱り顔でぼそりと答えた。
「不満ていうか、妹って……」
「生意気だから妹には似つかわしくないってこと?」
 彼女はさらにきつく問いつめた。
「そうじゃねぇよ!」
 ジークは反射的に言い返した。だが、それきり言葉を繋ぐことが出来なかった。困ったように顔をしかめ、前髪をくしゃりと掴む。
 アンジェリカは怪訝に彼を覗き込んだ。
「そうじゃなくて、何なの?」
「まあまあ、落ち着いて、ふたりとも」
 リックがふたりに割って入った。ジークにとってはありがたい助け舟となった。ふうと安堵の息をついた。
「そうだ、進路指導はどうだったの?」
 リックの質問に、ジークの心は落ち着く間もなく波立った。けわしい顔で頬杖をつくと、口をとがらせた。
「俺は役人に向いてねぇからやめとけってよ。自分こそ教師に向いてねぇくせに」
「でも、やめる気はないんでしょう?」
 アンジェリカはくすりと笑って尋ねた。
「当たりまえだ。忠告だなんて偉そうに。よけいなお世話だぜ」
 ジークは腹立たしげに答えた。そのとき、ふいに、進路指導でラウルが口にしたもうひとつの忠告を思い出した。そして、あのとき頭の隅をかすめた疑問——。
「なあ、ラウルとサイファさんって、仲が悪いのか?」
 窓の外に目をやりながら、その疑問を彼女にぶつけた。ガラスの向こうでは、木々の緑がかすかに揺れている。
「どうして?」
 アンジェリカは驚いて尋ね返した。
「なんとなくな。さっきも、ラウルのヤツ、サイファさんに関わるなとか言ってやがったし」
「それは、お父さんにっていうよりも、ラグランジェにって意味じゃないかしら。今までも私のことで巻き込まれているから、心配しているのよ」
 彼女は冷静に答えた。だが、ジークは腑に落ちない表情で眉をひそめた。
 アンジェリカは淡々と話を続けた。
「私の見た限りでは、お父さんとラウルは仲が悪いってことはないと思うの。お父さんが軽口を言って、ラウルに睨みつけられるってことは、よくあるけれど」
 その光景が目に浮かんで、ジークは軽く吹き出した。しかし、すぐにはっとして考え込んだ。まさか、それが原因で、ラウルはサイファさんを嫌うようになったのだろうか——。同時に、それくらいのことで嫌うようになるだろうかとも思った。
 難しい顔をしている彼を見て、アンジェリカは付け加えた。
「お父さんが子供の頃、ラウルが家庭教師をしていたみたいなのよね。それ以来の長い付き合いだから、軽口も言えるんだと思うわ」
「家庭教師?」
 ジークにとって、それは初耳だった。ふたりの姿とその事実を重ね合わせると、その関係がとても不思議なものに思えた。ますますわからなくなった。
「……レイチェルさんとは?」
 ついでだと思い、ジークはもうひとつ気に掛かっていたことを尋ねた。アカデミーの中庭で話していたふたりの姿が、ずっと頭から離れなかった。話は一部しか聞いていないので、内容はよくわからなかった。だが、何かがあったらしい。ラウルのあの怒り様も、ただ事ではないと思った。
 アンジェリカはきょとんとしながらも、素直に答えた。
「ラウル? お母さんの家庭教師だったこともあるらしいわよ。ふたりがしゃべっているところはあまり見たことないけれど、仲が悪いってことはないんじゃないかしら」
 ジークはじっと考え込んだ。アンジェリカは訝しげに彼を覗き込んだ。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「ちょっと気になっただけだ。別に深い意味はねぇよ」
 ジークは素っ気なく答えた。それから、再び頬杖をつくと、口をへの字に曲げた。
「でも、なんか引っかかるんだよな、いろいろと。隠しごとをされてるって言ったら、言い過ぎかもしれねぇけど」
「もしかしたら、あのことかしら」
 アンジェリカは軽く握った手を口元に添え、ぽつりと言った。
「心当たり、あるの?」
 リックは抑えた声で尋ねた。
「ええ」
 アンジェリカはこくんと頷いた。
「お父さんとお母さんが結婚する前に、私ができたことかなって」
 ガタガタン!
 ジークは勢いよく立ち上がった。椅子が倒れ、食堂に大きな音が響いた。驚愕の表情でアンジェリカを見下ろし、口をカクカクと震わせた。
「おっ、おまえっ! なんでそれ知ってんだ!!」
 右足を後ろに引いて、彼女を指さしながら、大声でわめき立てた。彼の顔は耳まで真っ赤になっていた。隣では、リックがゲホゲホとむせこんでいた。
「え? ジーク、知っているの? どうして?」
 アンジェリカも驚いて、逆に聞き返した。
「お、俺は、サイファさんに聞いた……」
 ジークは狼狽しながら、次第に消え入りそうな声で答えた。どうしていいかわからないといった様子で目を泳がせている。
「お父さん、ジークにそんなことまで話していたのね」
 アンジェリカは大きな黒い瞳で彼を見つめ、ひとりごとのように言った。
「ていうか、おまえこそ何で……」
 ジークの心臓は、いまだに早鐘のように打っていた。一方のアンジェリカは、いたって冷静だった。
「親戚たちがよく私の近くで、ひそひそとそんな話をしているのよ。聞こうと思わなくても聞こえるわ」
 さらりとそう言ったかと思うと、急にむっとして眉根を寄せた。
「だから呪われているんだとか罰だとか、そういうことを言うのよ、あの人たち。非科学的にもほどがあるわ。そう思わない?!」
 彼女は強い口調で同意を求めた。
「あ……ああ……」
 ジークは勢いに圧され、まごついた返事をした。
「このことをジークに話していたってことは、隠していることはこれじゃないわね」
 アンジェリカはそうつぶやきながら、真剣に考え始めた。
 ジークとリックは隠れるようにして身をかがめ、こっそり囁きあった。
「俺、あいつがわからねぇよ」
「僕はいろんなことに驚きすぎて、わけがわからないよ」
 リック乾いた笑いを浮かべた。彼は彼女の話した事実さえ知らなかった。当然の反応といえるだろう。
「なにふたりでひそひそ話しているの?」
 アンジェリカは怪訝にふたりに振り向いた。
「アンジェリカの進路指導はどうだったのかなって」
 リックはとっさに取り繕った。彼女はそれに素直に答えた。
「やっぱり年齢がネックなのよね。比較的、融通がきくのは研究所らしいわ」
「研究所って、俺がアルバイトしていたとこか?」
 ジークは倒れた椅子を起こして座った。
「他にもいくつかあるみたい。でもやっぱり、あそこがいいかしら」
「悪くねぇと思うけど……」
 そう言いながら、ジークは研究所でのことを思い起こした。あの研究所では、サイファの影響力がとても強いように見受けられた。特別扱いされたくない彼女にとって、居心地は良くないかもしれない。いや、どこへ行ったとしても、多少は特別扱いされるに違いない。ラグランジェ本家の娘という肩書きに加え、働くには若すぎる年齢がある。他とまったく同じというわけにはいかないだろう。彼女自身はそのことをわかっているのだろうか。
「リックはどうだったの? 進路指導」
 アンジェリカはふいにリックに話題を振った。
「僕は、教師になるのか確認されて、それで終わりだったよ」
 ジークとアンジェリカは唖然として彼を見た。
「それだけか?」
「問題がないってことね」
 アンジェリカはうらやましそうに言った。

「リック!」
 セリカが小走りで駆け寄ってきた。上品な顔立ちを明るく輝かせている。薄手のジャケットと短いタイトスカートが、すらりと背の高い彼女によく似合っていた。
「何か深刻な話?」
 曇り顔のジークとアンジェリカを目にすると、彼女は遠慮がちに尋ねた。リックは優しく微笑んで答えた。
「ちょっと進路の話をね」
「そっか、もう四年生なのね」
 セリカは少し感傷的に言った。彼女はもともとリックたちとクラスメイトだったが、一年生のときに自主退学をしていた。もし退学していなければ、彼女も同じ四年生になっていただろう。今を後悔しているわけではないが、ふとそんな気持ちが心を通り過ぎた。
 彼女はジークを見て、にっこりと笑顔を作った。
「ジーク、夢、かなえてね」
 彼は一瞬、呆気にとられた。しかし、すぐにむっとした表情に変わった。ぷいと横を向くと、つんとして答えた。
「おまえに言われるまでもねぇよ」
「そうね」
 予想どおりの反応に、セリカはくすりと笑った。
 リックは肩をすくめて苦笑いした。いつまでたっても、ジークはセリカに冷たいままだ。過去のことを引きずっているのか、ただ単に彼女のことが気に食わないのか、どちらかはわからない。ただ、彼女の方は気にしてなさそうなのが救いだった。
「それじゃ、僕はこれで」
 リックはジークとアンジェリカにそう告げると、鞄を取り立ち上がった。
「ええ、またあしたね」
 アンジェリカはにっこりとして手を振った。ジークは仏頂面のまま軽く右手を上げた。
 リックとセリカは仲良く並んで食堂を出ていった。

「……外、歩くか?」
 窓の外があまりにいい天気だったので、ジークはそう言ってアンジェリカを誘った。彼女も嬉しそうに応じた。
 ふたりはあてもなく、校舎のまわりを歩いた。強い陽射しがふたりの後ろに濃い影を作っている。アンジェリカは後ろで手を組み、ピンと背筋を伸ばして顔を上げた。心地良さそうに目を閉じ、光を浴びている。ときおり吹く優しい風が、黒髪をさらさらとなびかせた。ジークは体の中にもあたたかい光が広がるように感じた。
「ねぇ、ジーク」
 一歩前を歩いていたアンジェリカが、軽いステップを踏みながら、くるりと振り返った。短いフレアスカートがひらりと舞い上がる。ジークは下から覗き込んでくる彼女の笑顔にどきりとした。
「なんだ?」
 アンジェリカはさらににっこりとして笑いかけた。
「まだ誰にも言ってないんだけど、私、卒業したら家を出ようと思っているの」
「家出?!」
 ジークは素頓狂な声を上げた。
「そうじゃなくて、一人暮らし!」
 アンジェリカは眉根を寄せ、強く力を込めて訂正した。
「いつまでも親元で甘えていてはいけないと思うのよね」
「いつまでもって、おまえまだ……」
 ジークはそこまで言って口をつぐんだ。しまったという表情が見え隠れしている。アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「なによ、子供だって言いたいの?」
「大変なんだぞ。わかってんのか?」
「わかっているわよ」
 アンジェリカはむきになって言い返した。
「だから、今から料理とか洗濯とか、きちんと勉強しているわ。他の人に出来て、私に出来ないわけはないでしょう?」
「本を読んでるだけじゃ、料理は出来ねぇぜ」
 ジークは淡々と言った。アンジェリカはますますむきになった。
「ちゃんと作っているわよ。本職のコックさんには及ばないけれど、けっこう美味しいのよ」
 ジークはなんとも言えない表情で彼女を見た。
「なによ、その疑いのまなざしは」
「自分で食ってみたのかよ」
「当たりまえでしょう?」
 アンジェリカは、少しも信用しようとしないジークに、半ばむくれ、半ばあきれていた。だが、突然ぱっと顔を輝かせると、思いきり声を弾ませた。
「そうだわ、今度、食べに来て。ごちそう作るから! ねっ!」
 屈託のない笑顔でジークを覗き込む。
「え、あ、ああ……」
 ジークはどぎまぎしながら返事をした。思わず彼女のエプロン姿を想像していた。ついさっきまで料理の腕を疑っていたことなど、どこかへ吹き飛んでいた。
「それじゃ、約束」
 アンジェリカは小指を立ててにっこり笑うと、ジークの小指に絡ませた。こんなガキくさいこと、とジークは思ったが、彼女の指が触れた瞬間、何も言えなくなった。無邪気に指切りをする彼女が、無性に愛おしかった。しかし——。
「どうしたの?」
 ジークが急に顔を曇らせたことに気づき、アンジェリカは不安そうに尋ねた。
「なんか俺、平和ボケしそうだぜ」
「平和なんだから、いいじゃない」
 アンジェリカは当然とばかりにさらりと言った。ジークはため息をついた。
「おまえの問題、片付いてねぇよ」
「きっと大丈夫よ」
 彼女は笑顔を見せた。
「もし、ひいおじいさまがジークに何かしたら、お父さんが仕返しすると思うし、簡単には動けないはずよ。私だって黙っていないわ。だから、心配しないで」
 そう言って、右のこぶしをぎゅっと握りしめた。意気込む彼女を見て、ジークは複雑な気持ちになった。ため息をつき、青い空を仰いだ。白く薄い雲が、緩やかに流れていく。
「ホント情けねぇな、俺。おまえを守りたいと思ってんのに、逆に守られてんのか」
「情けなくなんかないわ!」
 アンジェリカはまっすぐ真剣に彼を見つめた。
「私が毎日、笑っていられるのは、ジークのおかげよ」
「俺、何もやってねぇよ」
 ジークはとまどいながら、ぶっきらぼうに言った。しかし、そんな彼を見て、彼女はにっこりと笑った。
「生きるのがこんなに楽しいって教えてくれたのは、ジークよ」
 ジークは何も言葉を返せなかった。ただ気恥ずかしくて目を伏せるだけだった。嬉しく思う気持ちもあったが、それだけのことをした自信が持てなかった。
 アンジェリカは後ろで手を組むと、くるりと背を向けゆったりと歩き出した。そして、足をそろえて止めると、空を見上げた。
「卒業しても、ずっと仲良くしてね」
 静かな落ち着いた声。ジークははっとして顔を上げた。
 彼女はゆっくりと振り返ると、彼と視線を合わせた。神妙な面持ち、何かを訴えかけるような瞳。いつもより数段、大人びて見える。ジークはごくりと唾を飲んだ。
「……あっ……当たりまえだろ! 今さらなに言ってんだ! 俺は何があっても引かないって言ったはずだぜ。忘れたのかよ。ずっと、俺はおまえを……俺たちは、これからも……ずっと……!」
 彼は不格好に、しかし懸命に言った。
 アンジェリカはふと口元を緩めると、無邪気な笑顔を見せた。強い陽射しを浴びた黒い髪が、その表情とともにきらきらと輝いていた。


74. 動き始めた長老

「ユールベル=アンネ」
 ずっしりと体に落ち込むような重みのある低音が、アカデミーの廊下に響いた。背後から名を呼ばれた彼女は、びくりと体をこわばらせた。並んで歩いていたレオナルドも、けわしい顔で足を止めた。ふたりが振り返ると、そこには気難しい顔をした年輩の男が、後ろで手を組み立っていた。堂々たる恰幅を見せつけるように胸を張り、背筋をピンと伸ばしている。その佇まいからは強い威厳が感じられた。
「おまえに話がある。一緒に来てもらおうか」
 男は有無を言わせぬ口調で、一方的に告げた。ユールベルの目に怯えの色が浮かんだ。レオナルドは一歩踏み出すと、彼女を庇うように、その前に右手を伸ばした。
「どうしてあなたが……」
「レオナルド=ロイ、おまえに用はない」
 口をはさみかけたレオナルドを、男は冷徹な視線で鋭く射抜いた。レオナルドは体をすくませた。喉が乾き、張りつきそうになった。無理やり唾を飲み込もうとする。
 男はユールベルに目配せをすると、後ろで手を組んだまま歩き始めた。
「レオナルド、先に帰って」
 ユールベルは固い声でそう言うと、早足で男のあとを追った。
「待て!」
 レオナルドは手を伸ばし、引き止めようとした。しかし、気持ちとは裏腹に、足は凍りついたように動かない。自分を圧倒する者に対する防衛本能が、足を進めることを拒絶していた。自分の情けなさが腹立たしくて仕方なかった。下唇を噛みしめ、爪が食い込むほどにこぶしを握りしめた。

 ユールベルと男は、アカデミーの外れにある寂れた教会へとやってきた。こじんまりとして古びているが、手入れは行き届いているようだ。床も、長椅子も、ステンドグラスも、祭壇も、丁寧に磨き上げられていた。
 カツーン、カツーン——。
 男はゆったりと靴音を打ち鳴らしながら、教会へ足を踏み入れた。そして、中央まで足を進めると、踵を返し、扉付近で立ち尽くしているユールベルをまっすぐに見つめた。扉から射し込む夕陽が、彼女を後ろから照らし、金の髪を鮮やかに縁取った。床に落ちた長い影は、男の足元まで伸びている。
「おまえにやってもらいたいことがある」
「私なんかに何を頼むっていうの」
 彼女はあごを引き、上目遣いでじっと男を睨んだ。
「そう構えるな。簡単なことだ」
 男は幾分、柔らかに言ったが、彼女の警戒心が緩むことはなかった。彼を見据えたまま、無言で次の言葉を待った。男はそれに応じ、核心を口にした。
「アンジェリカとジークの仲を裂いてほしい」
 ユールベルは目を見開いた。
「男を誘惑するのは得意だろう?」
 彼はさらに畳み掛けた。表情を動かさず、しかし、意味ありげに彼女を見る。ユールベルはカッと顔を紅潮させ、その瞳に激しい怒りをたぎらせた。
「断るわ。他をあたって」
 抑制されたその声は、微かに震えていた。声だけではない。肩も、腕も、背中も、小刻みに震えていた。そして、耐えかねたように背を向けると、教会から出ていこうとした。
「今夜はシチューの予定だったようだな」
 男は声を張った。ユールベルは足を止め、怪訝に振り返った。話の流れが掴めない。戸惑いの表情を浮かべ、瞳で問いかける。
「アンソニーを預かっている」
 男は静かに答えた。彼女ははっと息を呑んだ。みるみるうちに顔が青ざめていく。
「監禁がどんなものか、おまえには言うまでもないだろう」
「アンソニーはどこ?!」
 彼女は長い髪を揺らし、切迫した声を上げた。男はふっと小さく笑った。
「役目を果たせば帰すと約束する。変な気は起こすな。おまえには常に見張りがついていると思え」
 ユールベルの右目が潤んだ。今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。何か言いたそうに口を開こうとしたが、何も言えなかった。はぁっと息を吐くと、弾けるように教会から飛び出した。緩やかなウェーブを描いた金の髪を煌めかせ、夕陽の中へと消えていった。

 レオナルドは腕を組み、アカデミーの門前を落ち着きなくうろついていた。一分が一時間にも感じる。難しい顔で、何度も何度も校舎の方に目を向けた。
「ユールベル!」
 レオナルドはようやく彼女の姿を捉えた。ほっとしたように呼びかけ、走り寄った。しかし、彼女はうつむいたまま、彼を無視して走り過ぎた。
「待て!」
 レオナルドは焦って振り返ると、彼女の細い肩を掴んで止めた。
「何があった?」
「何も……」
 ユールベルは顔を背けたまま、感情を押し殺して言った。だが、その声にはわずかに涙が混じっていた。レオナルドは彼女の正面にまわりこみ、両肩を掴んで覗き込んだ。
「何も、って顔じゃないだろう」
「ごめんなさい……。今はひとりにして。お願い」
 ユールベルは涙を浮かべ懇願した。レオナルドは目を細めうつむいた。彼女の肩にのせた手に、ぐっと力を込める。
「……わかった」
 自らを抑えるようにそう言うと、肩からそっと手を放した。ユールベルはすり抜けるように彼から離れ、走って校門を出ていった。
 ——ひとりにして良かったのだろうか。
 レオナルドは自分の判断に自信が持てなかった。彼女の表情を思い返し、後悔と自己弁護の狭間で揺れた。

 ユールベルは全力で走り、息をきらせて自宅へ戻った。ドアノブに手を掛けまわすと、引っかかることなく半回転した。鍵はかかっていないようだ。荒い息を整えるように大きく呼吸をし、ごくりと唾を飲み込む。そして、意を決して扉を開くと、中へ駆け込んだ。
 しんと静まり返った部屋には、人の気配はない。だが、ソファの上には、アンソニーが学校へ行くときに使っている鞄が置いてあった。ユールベルの鼓動はますます早く強くなっていった。他の部屋をひとつづつまわっていく。どこにも彼の姿はない。最後に台所を覗く。そこには、シチューの材料と思われる食材が準備してあった。まな板の上には、人参が切りかけのままで放置されていた。
 ——今夜はシチューの予定だったようだな。
 彼女の脳裏に男の低い声がよみがえった。彼はこのことを知っていた。おそらく、ここからアンソニーを連れ去ったのだろう。彼女は両手で顔を覆い、その場に泣き伏した。

 ひとしきり泣いたあと、彼女は駆け足でアカデミーに戻った。まもなく日が落ちようかという頃だ。校舎内には、もうまばらにしか人はいない。その中を、彼女は靴音を響かせ走りまわった。あてはない。ここにいるとは限らない。既に帰ったかもしれない。それでも今はこれしか出来ない。

「ホント頭に来るぜ、ラウルのヤツ」
「ジーク、いつも同じこと言っているわよ」
「それで気が晴れるんならいいけどね」
「晴れるわけねーだろ」
 ジーク、リック、アンジェリカの三人は、他愛もない話をしながら図書室から出てきた。
「やっと、見つけた……」
 ユールベルは肩を大きく上下させ、切れ切れに言葉を落とした。思いつめた顔でジークを見つめる。ジークも彼女の存在に気がついた。様子が普通でないことは、ひと目でわかった。怪訝な視線を彼女に向ける。リックとアンジェリカも、つられて彼女に目を向けた。
 ユールベルはまっすぐジークを見つめながら、距離を縮めていった。息づかいまで感じられるほどに近づく。ジークはうろたえ、後ずさろうとした。だが、彼女がそれを許さなかった。踵を上げ、彼の首に手をまわし、体を寄せて抱きついた。
「え? ちょっ……おまえっ、おいっ!」
 ジークは激しく狼狽した。ふわりと舞い上がった甘い匂いが鼻をくすぐる。そして、胸元に感じる柔らかなふくらみ、首筋にかかる温かい吐息——。一瞬、頭の中がぐらりと揺れたように感じた。
 しかし、彼女が次に口にした言葉が、彼の理性を呼び戻した。
「弟が人質に取られているの。私も見張られている」
 ジークにだけ聞こえるように、耳元で小さく言った。彼ははっとした。それだけで、何が起きたのかおおよその見当がついた。
「詳しい話、聞かせてくれ」
 彼女の頭に手を添えると、その耳に触れるくらいに口を近づけ、囁くように言った。ユールベルは浅くこくりと頷いた。

「悪い、俺、今日はユールベルと帰る」
 ジークは、呆然としているリックに振り返り、さらりと言った。なるべく何でもないふうを装った。だが、アンジェリカには何も言えなかった。目を向けることすらできなかった。
「……何か、あったの?」
 アンジェリカが後ろからぽつりと問いかけた。
「別に」
 ジークは背を向けたまま、素っ気なく答えた。そして、ユールベルの手を引き、足早に去っていった。
 アンジェリカは無言でふたりの後ろ姿を見送った。リックは心配そうに彼女の横顔を窺った。

 あたりは紺色に包まれていた。頬にあたる風も、ずいぶんひんやりとしてきた。ジークとユールベルは、急ぎ足で校庭を横切り、教会へとやってきた。扉は閉まっていた。だが、ジークは躊躇することなく両開きの扉を引いた。
 ギィ——。
 軋み音が静寂を裂いた。扉がゆっくりと開かれていく。
 中はだいぶ薄暗かった。暖色の明かりがほのかに祭壇を浮かび上がらせている程度である。しかし、そのことが、昼間よりも教会らしい雰囲気を醸し出していた。
 ジークは無遠慮にドタドタと音を立てながら踏み入った。ユールベルの手を引き、祭壇に向かって進んでいく。そして、いちばん前の長椅子に彼女を座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「少し前に、ルーファス=ライアンに連れられてここに来たの」
 ユールベルは声をひそめて言った。
「それ、アンジェリカのひいじいさんか?」
 ジークも小声で尋ねた。直感的にそう思った。それ以外に思い当たる人物はいなかった。
 ユールベルは小さく頷いた。
「ラグランジェ家の先々代当主よ。知っているの?」
「ああ、一度、話をしたことがある」
「そう」
 彼女の胸に漠然とした不安が広がった。ジークがここまでラグランジェ家に関わっていたとは思わなかった。
「それで?」
 ジークは続きを催促した。ユールベルは頷いて本筋に戻った。
「彼は、弟を預かっていると言ったの。家に帰って確かめたけど、実際に夕食を作りかけでいなくなっていたわ」
 そこまで言うと、目を細めうつむき、右手で額を押さえた。
「帰してほしければ、あなたとアンジェリカの仲を裂けって。私を常に見張っているとも……」
 ジークはあたりを見渡した。姿は見えないが、確かに人の気配のようなものは感じる。見張られているのは事実かもしれないと思った。
「仲を裂くって、どうすればその役目を果たしたことになるんだ?」
 ユールベルは首を横に振った。
「わからないわ。見張りがいるとすれば、その見張りが判断するのかもしれない」
 ジークは背もたれに両腕を掛け、天井を仰いだ。
「ヤツらにそう思わせて返してもらうか、それとも乗り込んでいって奪い返すか……」
「乗り込むってどこへ?」
「監禁場所に心当たりはねぇのか?」
 ユールベルは固い顔でうつむき、首を横に振った。ジークはため息をつきながら、再び天井を仰いだ。
「弟も魔導は使えるんだろ? 逃げ出して来ないってことは、多分、結界を張られてるんだろうな」
 ユールベルの顔からさっと血の気が引いた。膝の上にのせた小さなこぶしをきつく握りしめると、うつむいたまま顔をこわばらせた。細い肩は、何かに耐えるようにわなないている。
 ジークはそれを目にして気がついた。彼女は自分の過去を思い出しているのだと。
「悪りィ。嫌なことを思い出させちまったな」
 彼は申しわけなさそうに顔を曇らせた。ユールベルは顔を上げ、すがりつくように彼の袖を掴んだ。
「アンソニーをあんな目に遭わせたくない! はや……」
 ジークはあたふたとして彼女の口を手でふさいだ。
「声がでかいっ」
 ユールベルはしゅんとして黙り込んだ。ジークは安心させるように、今度は落ち着いた口調で言った。
「大丈夫だろ。あいつを傷つけるのが目的じゃねぇんだ。ひどい扱いはされてねぇよ」
「自宅……かもしれない」
「え?」
 ジークはぽかんとした。ユールベルは彼を見上げた。
「部屋がひとつあればいいもの。結界を張ってあるとはいえ、誰が近づくかわからない外より、自分の家の方がよほど安全だわ」
「確かにな」
 ジークは腕を組み、考え込んだ。
「あいつの家はどこかわかるか?」
「いいえ、アンジェリカやおじさまなら知っていると思うけど……」
 ユールベルはうつむき、言葉を詰まらせた。
「訊くわけにはいかねぇよなぁ」
 ジークがそのあとを引き取って続けた。ため息をつき、腕を組んだまま視線を上げた。口をきゅっと結び、目を細める。
「ラウル……」
 ユールベルはぽつりと言った。そして、驚くジークに振り向き、彼と視線を合わせた。
「ラウルも知っているかもしれないわ」
「ラウルか……」
 ジークはあからさまに嫌そうに言った。顔をしかめ、頭を掻く。ユールベルは意気消沈してうなだれた。
「心配すんな。訊きに行くって」
 ジークは彼女の肩をぽんと叩くと、立ち上がってジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「行くぞ」
 ユールベルは立ち上がり、彼のあとについて行った。

「おまえら……!」
 ジークは目を見開いた。そこにいたのはリックとアンジェリカだった。教会の外で待ち構えていたのだ。リックは心配そうに顔を曇らせた。アンジェリカは、後ろで手を組みうつむいた。
「帰れよ」
 ジークは視線を落とし、感情のない声で告げた。リックは彼の正面にまわりこんだ。
「何か事情があるんだったら、僕らにも話してよ、ね?」
 優しく笑顔を作り、訴えかける。しかし、ジークは苛ついたように舌打ちして、顔をそむけた。
「なんもねぇよ。俺が誰とどう過ごそうと関係ねぇだろ」
 突き放すように答えると、ユールベルの手首を掴み、足早に校舎へと向かった。
「ジーク!」
 リックは彼を引き止めようとした。だが、アンジェリカはそれを静かに制止した。
「リック、帰りましょう」
 そう言って、まっすぐ門へと歩き出した。
 リックは、別々に去り行くふたりの背中を、交互に目で追った。そして、悩みながらも、アンジェリカの方に足を向けた。

「ごめんなさい」
 ユールベルは消え入りそうな声でそう言うと、申しわけなさそうに目を伏せた。
「いや、俺のせいでおまえを巻き込んじまったんだからな」
 ジークは彼女に背を向けたまま、その言葉を噛みしめた。それは、まるで自らに言い聞かせるかのようだった。
 ユールベルは沈痛な面持ちで首を横に振った。
「元はといえば、ラグランジェ家の問題なの。巻き込まれたのはあなたの方だわ」
「どっちのせいかなんて議論は意味ねぇよ。解決することだけを考えようぜ」
 ジークは淡々と言った。しかし、その言葉が彼女の胸を熱くした。あふれそうになる涙を必死にこらえた。
「弟を取り戻したら、私からアンジェリカにきちんと説明するわ」
 それは、彼女なりの精一杯の誠意だった。
「そうしてもらえると、ありがたいな」
 ジークは少し疲れたようにため息をつきながら笑ってみせた。

「くそっ、留守かよ!」
 ジークは明かりの消えた医務室を睨み、鍵のかかった扉を蹴りつけた。ガシャンと派手な音が虚しく響く。
「待つしかねぇか」
 ため息まじりにそう言うと、扉を背に座り込んだ。ユールベルは立ったまま壁にもたれかかった。薄明かりの蛍光灯の下、ふたりは無言でラウルを待った。あたりに人影は見えない。気まずい沈黙だけが、静かに流れていく。

 ——カッ、カッ。
 うとうとしていたジークは、その靴音に反応し、勢いよく顔を上げた。しかし、それはラウルではなく、パンプスを履いた女性だった。彼女は怪訝な顔を見せたが、そのまま何も言わず通り過ぎていった。
 ジークは深く息を吐いた。ここで待ち始めてからどのくらい経つだろうか。二時間、いや三時間くらい経っている。その間、ユールベルはずっと立ったままだった。表情に見える疲労の色は、だいぶ濃くなっていた。
 ジークは立ち上がった。
「今日はもう帰ろう。あした出直そうぜ」
 ユールベルは不安そうに顔を上げた。捨てられた子猫のような目で、彼を見つめる。
「弟なら大丈夫だろ。あいつらだって悪党ってわけじゃねぇんだし」
 ジークは彼女を納得させるためにそう言った。彼自身もそう思おうとしていた。だが、心の片隅には、拭い去れない不安がわだかまっていた。そして、それはユールベルも同じだった。
「だと、いいんだけど……」
「大丈夫だ」
 ジークはもう一度、今度は力強く言った。彼女は固い表情で、ぎこちなく頷いた。

 ふたりは並んで歩き、アカデミーの門を出た。空はもう完全に闇に覆われている。街灯の小さな明かりだけが、歩き進める頼りだった。
「じゃあな」
 ふたりの帰路の分かれ道で、ジークは右手を上げた。そして、自分の帰路へと足を進めようとした。
「待って!」
 ユールベルは思いつめた声を上げ、後ろからジークに抱きついた。細い腕にぐっと力を込め、彼の背中に顔をうずめる。そして、桜色の小さな口を開いた。
「ひとりになりたくない……怖いの」
 かぼそい声が背中から伝わってきた。ジークは困惑して顔を歪ませた。
「そう言われてもな……」
「いてくれるだけでいいの」
 ユールベルは哀願を続けた。森の湖を思わせる蒼い瞳は、緩やかに揺らめいていた。

 結局、ジークはユールベルに押し切られた。自分の家に帰ることをやめ、彼女と食事をとり、それから彼女の家へと向かった。ふたりとも口には出さなかったが、もしかしたらアンソニーは戻っているかもしれない——そんな淡い期待が胸をよぎった。
 しかし、それは単なる期待で終わった。部屋は真っ暗で、人の気配などまるでない。ソファに投げ置かれた鞄に、作りかけのシチュー。それらは、ユールベルが出ていったときと何ら変わらない状態でそこにあった。
 彼女は落胆した表情で、台所を見つめた。
 ジークはソファにごろんと横になった。
「あしたは決戦になるかもしれねぇ。しっかり寝とけよ」
「アンソニーのベッドがあるから使って」
 ユールベルは奥を指さした。ジークは起き上がり、彼女の指先を目で追った。そこには寝室があった。扉は大きく開け放たれている。そのため、明かりは消えていたが、容易に中を窺うことが出来た。寝室としては十分すぎるほどの広さがあるが、飾り気はまるでない。目につくのは両脇にあるベッドくらいだ。彼女は右側を指し示しているので、そちらがアンソニーのものなのだろう。サイズは大人のものと変わらないようだった。
 ジークは遠慮することなく、その上に体を投げ出した。仰向けに寝転がり、両手を上げ大きく伸びをする。ユールベルはうっすらと穏やかな笑顔を見せた。
「俺はもう寝るぜ。おまえも早く寝ろよ」
 ジークはぶっきらぼうにそう言うと、布団にもぐり込んだ。彼女に背を向け、目を閉じる。
「おやすみなさい」
 ユールベルは白いシーツを見下ろしながら、ぽつりと言葉を落とした。

 ——眠れない。
 あれから何時間が過ぎただろうか。ユールベルも自分のベッドに入っていたが、一向に寝つけなかった。何度も無意味に寝返りを打つだけだった。
 眠れない理由のひとつは、左目を覆っている包帯だった。いつもは、就寝時には外しているのだが、今日はジークがいるために外せないでいた。醜い傷跡を見られたくなかったのだ。
 そして、もうひとつの理由は、ジークそのものだった。彼はアンソニーのベッドでぐっすり眠っているようだった。静かに寝息を立てている。
 ユールベルはベッドから下りた。何とかあたりが見渡せるくらいの薄明かりの中、彼女は足音を立てないようジークに近づいていった。ベッド脇で立ち止まり、無防備な寝顔を見下ろす。じっと見つめているうちに、ふいに右目から涙がこぼれ落ちた。あわてて両手で口を押さえ嗚咽を飲み込むと、素早くそっと寝室を出ていった。リビングルームのソファに座り、膝を抱え顔をうずめた。そして、音を立てないよう静かに忍び泣いた。

「そろそろ起きろよ」
 遠くに聞こえたその声に、ユールベルは目を覚ました。あたりはさわやかな明るさに包まれている。ぼんやりとした頭で起き上がり、自分のまわりを見まわした。そこはリビングルームのソファの上だった。泣きながらそのまま眠ってしまったらしい。体の上には毛布が掛けられていた。
「おまえ何でこんなとこで寝てんだ? もしかして俺、いびきとか寝言とかうるさかったか?」
 ジークは、トーストとコーヒーを手に台所から戻ってくると、ソファに座りながら尋ねかけた。不安げに彼女を覗き込む。彼女は目を伏せ、無言で首を横に振った。
「あ、勝手に風呂とかタオルとか借りたぞ」
 その言葉どおり、彼の髪は濡れていたし、首からはタオルが掛かっていた。それだけではなく、彼が手にしていたトーストもコーヒーも、勝手に台所から調達したものだった。
 ユールベルは両手で顔を覆い、すすり泣き始めた。肩を大きく揺らしている。
「え? あ、まずかったか? 悪かった。えっと、どうすればいいんだ?」
 ジークはトーストを片手におろおろした。ソファから腰を浮かせ、困り顔で彼女を覗き込む。彼女は小刻みに首を左右に振った。
「そうじゃない。私、自分のことがとことん嫌になったの!」
 ジークは真面目な表情になった。ゆっくりとソファに腰を下ろす。彼女は小さくしゃくり上げながら話を続けた。
「あなたの良心や優しさにつけ込んで、引き止めてしまった。あなたと一緒にいたかったから……。アンソニーがさらわれたのに、私はこんなことばかり考えて……」
 そこまで言うと、うっと言葉を詰まらせた。大粒の涙が、右目から手の甲にこぼれ落ちた。膝の上の毛布をぎゅっと掴み、こぶしを小さく震わせる。
「私、自分がどれほどひどい人間か思い知ったわ」
 きつく目を閉じ、涙声で吐き捨てるように言った。そして、背中を丸め、さらに深く顔をうつむけた。こんなひどい表情を見られたくなかった。何より彼の反応が怖かった。
「……そんなもんじゃねぇのか」
 ジークはソファの背もたれに深く身を沈め、大きく息を吐いた。
「そんなこと、思ったとしても、普通わざわざ言わねぇよ」
 ユールベルはうつむいたまま、眉根を寄せた。
「俺は気にしてねぇから、おまえも気にするな。それより早く準備しろよ。授業が始まる前にラウルのところに行くからな」
 ジークは淡々とそう言うと、手にしていたトーストにかじりつき、口いっぱいに頬張った。ユールベルは小さくすすり泣きながら、こくりと頷いた。

「おい、ラウル!」
 ジークは医務室の扉を乱暴に叩いた。鍵は締まっている。また留守なのだろうか、それともまだ帰っていないのだろうか。そう思ったが、しつこく叩き続けた。
 ——ガチャ。
 鍵を開く音がした。間髪入れず、引き戸が開かれた。
 戸口にはラウルが立っていた。左手にはまだ包帯が巻かれている。彼は思いきり不機嫌な顔で、上からジークを睨み下ろした。ジークはぎょっとして後ずさった。
「朝早くから何の用だ」
 ラウルはいつもと変わらない冷淡さで尋ねた。ジークは突っかかるように答えた。
「あのジジイの住所を教えろ」
「誰のことだ」
「あいつだ、えーと……」
「ルーファス=ライアン=ラグランジェ」
 後ろに立っていたユールベルが助け舟を出した。ラウルはその名を聞いて、わずかに眉をひそめた。
「聞いてどうする」
「おまえには関係ねぇ」
 ジークは苛立たしげに声を荒げた。
「なら、関係あるやつに訊け」
 ラウルはすげなく言うと、扉を引いた。ジークはあわてて体を挟み込んだ。扉が彼の腕に直撃し、ガシャンと音を立てて止まった。
「どうしても聞かなきゃなんねぇんだ!」
 扉に打ちつけられた痛みに顔をしかめながら、必死に訴えかけた。
「お願い、ラウル」
 ユールベルも後ろからすがるように懇願した。ラウルはじっと彼女を見つめた。
「そこで待っていろ」
 静かにそう言うと、ジークを押し出して扉を閉めた。彼は、今度はおとなしく従った。扉の前で立ち尽くして待った。
 一分ほどすると、再び扉が開いた。戸口に現れたラウルは、二つ折りにされた小さな紙切れを手にしていた。
「それが住所か?!」
「よく考えてから行動しろ」
「わかってる」
 ラウルが差し出したその紙切れを、ジークは引ったくるように受け取った。
「今日は遅刻するからな」
 仏頂面でそう言うと、踵を返し、早足で歩き始めた。
 ユールベルは何か言いたげに、じっとラウルを見つめた。しかし、結局は何も言わず、小走りでジークのあとを追いかけた。

 アカデミーの門を出たところで、ふたりはアンジェリカとばったり出くわした。彼女はこれからアカデミーへ行くところだった。ふたりを見て、一瞬、目を丸くしたが、すぐに無表情に戻り、無言ですれ違った。
 ジークは唇を噛みしめた。そして、彼女の遠ざかる足音を振り切るかのように走った。

 ふたりは住所をたどり、ルーファスの家の前へとやってきた。それなりに立派な家ではあるが、ラグランジェ本家よりはだいぶ小さい。もっとも、非常識に大きい本家と比べること自体が間違っているともいえる。
 ジークはユールベルの様子がおかしいことに気がついた。うろたえながらあたりを見まわしている。
「どうした?」
「あれ、私の住んでいたところ……」
 彼女は斜め裏の家を指さした。ジークは驚いて目を見張った。
「すぐ近所じゃねぇか」
「……ええ」
 彼女はそれだけ答えるのが精一杯だった。ジークと同様に、いや、それ以上に驚いていた。彼女はアカデミー入学前、何年もの間、自宅の二階に幽閉されていた。知らなくても、もしくは忘れていても無理はない。
 彼女は自分が住んでいた家の二階を、目を細めて見つめた。改築のため、窓の形が変わっている。厚い遮光カーテンも引いていない。もうあの頃の面影はなかった。しかし、それでも忘れられるものではない。ふいに過去の出来事が鮮明に蘇ってきた。光のあたらない部屋、湿った不快な匂い、結界の外から冷めた目を向ける父親——。思わず吐き気をもよおし、下を向いて両手で口を押さえた。
「大丈夫か? しばらく休むか?」
 ジークは心配そうに顔を曇らせた。ユールベルは眉を寄せた。冷や汗が、ひたいから頬に伝い、床に落ちた。
「……いいえ、平気よ」
 アンソニーを早く助けなければ。あの子にこんな思いはさせたくない。だから、姉である自分がしっかりしないと——。彼女は胸を押さえ、大きく息を吸い、顔を上げた。気持ちを立て直し、表情を引き締めた。
 ジークも表情を引き締め頷いた。そして、ルーファスの家を見渡した。
「でも、ホントにここにいるのかわかんねぇな。あやしい結界が張られてるようには感じねぇし……」
「いくらでも偽装はできるわ。優秀な魔導士や結界師なら」
 ユールベルは自分の父親のことを思い浮かべていた。彼女の父親も、監禁していた結界を偽装して、外部からわからないようにしていた。
「行ってみるしかねぇか」
 ジークは緊張しながら呼び鈴を鳴らした。すぐに扉が開いた。彼はさっと身構えた。だが、扉を開けたのはルーファスではなく、メイドらしき女性だった。ジークよりやや年上くらいだろうか。地味な黒いドレスに、白のエプロンをつけている。彼女は、ふたりを値踏みするような目でじろりと見た。
「えーと、ルーファス=ライアン=ラグランジェに用があって来た」
 ジークは彼女の視線にたじろぎながら、とりあえず用件を伝えた。
「お約束でしょうか」
 メイドは感情なく尋ねた。
「約束は、ねぇけど……」
「では、お引き取りを」
 彼女は扉を閉めようとした。
「ちょっと待て!」
 ジークは閉まりかけた扉を力づくでこじ開け、中に押し入った。
「な……何を?!」
 弾き飛ばされたメイドは、よろけながら甲高い声を上げた。しかし、素早く体勢を立て直すと、小さな声で呪文を唱え始めた。
「マジかよ!」
 ジークはユールベルの手を引き、後ろにかくまうと、前面に結界を張った。ユールベルも、後ろからふたりの周囲に結界を張った。
 メイドは胸の前で両手を向かい合わせた。その間に強い光が生まれ、あたりを青白く照らした。黒髪がさらさらと波打ち舞い上がる。呪文の詠唱が止まると同時に、彼女はその光をジークたちに放った。
 ——ドン!!
 正面から結界にぶつかり、光は消滅した。その下の大理石の床は、白く凍りついていた。
 彼女は大きく肩で息をしながら、再び呪文を唱えようとした。
「下がっていろ、フラウ」
 低い威厳のある声が、玄関ホールに響いた。その声の主が、カツン、カツンと靴音を響かせながら、ゆったりと歩いてくる。それは、アンジェリカの曾祖父・ルーファスだった。
「はい」
 メイドは一礼すると、すっと奥へ消えていった。
 ルーファスは後ろで手を組み、鋭い目でふたりを見た。ユールベルはびくりと体をこわばらせ、ジークの袖をぎゅっと掴んだ。
「何をしに来たのだ、ユールベル。まさか、もう役目を果たしたなどと言うつもりではないだろうな」
「ああそうだ。だから早く返せよ、弟」
 ユールベルが答える前に、ジークが勝手に答えた。彼女はとまどいがちに彼を見た。彼は刺すような視線をルーファスに向けている。今にも飛びかからんばかりだ。
 だが、ルーファスはまるで動じなかった。
「ならば、証しを立ててもらおうか」
「証し?」
 ジークは怪訝に眉をひそめた。ルーファスは真顔で答えた。
「そうだな、アンジェリカを呼び、あの子の目の前で、おまえたちが口づけをするというのはどうだ」
「てめぇ、バカか! ふざけてんじゃねぇぞ!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、彼の胸ぐらを掴んだ。
「愚かだな」
 ルーファスはそれでも余裕綽々だった。
「アンソニーは私の手中にあるのだ。合図を送るだけで、私の思うように出来るのだぞ」
 ジークは歯噛みした。彼の胸ぐらを掴んだまま、その手を震わせる。
「聞こえた……!」
 ユールベルは、突然はっとして右目を開いた。ジークは驚いて振り返った。
「どうした?」
「アンソニーの声が聞こえたの!」
 そう答えたときには、彼女はすでに走り出していた。屋敷内へと駆け込んでいく。ジークも急いで彼女のあとを追った。

 ——バン!
 彼女は勢いよく扉を開けた。
「アンソニー!」
 彼はいた。そこは台所だった。年輩の女性と向かい合って座り、ボールの中の卵を、泡立て器で撹拌していた。
「ねえさん、どうしたの? そんなに息をきらせて」
 アンソニーは目をぱちくりさせて、戸口の姉を見た。彼女は呆然と彼を見た。
「あなた、ここで何を……」
「ケーキを作ってるんだよ。出来たらねえさんも食べて!」
 アンソニーは無邪気に笑った。
「そうじゃなくて、どうしてここにいるの?!」
 ユールベルは強い口調で問いつめた。アンソニーは、不思議そうな目を彼女に向けながら説明をした。
「ねえさんがまた帰って来られなくなったって、ルーファスさんが僕を迎えに来たんだ」
 ユールベルははっとした。つい先日、ラウルのところに泊まったとき、サイファが彼を迎えに行き、一晩、預かってくれた。それと同じパターンだ。おそらくルーファスは知っていて利用したのだろう。もし、先日のことがなければ、そう簡単についていかなかったのではないか。自分がもっと彼のことを考えていれば……。ユールベルは泣き崩れた。膝をつき、両手で顔を覆って嗚咽する。
「ねえさん、どうしたの?」
 アンソニーは彼女のもとに行き、心配そうに覗き込んだ。

「てめぇ、嘘ついてコイツを連れてきたってわけか」
 ジークは、あとから入ってきたルーファスを睨みつけた。
「私は平和主義者なんでね」
 彼はしれっと言った。
「どこまでふざけた野郎なんだ!」
「今回はほんの挨拶代わりだ。君が折れない限り、今後はこんな生易しいことではすまんぞ。手駒はどこからでも調達できるからな」
「手駒だと?」
 ジークは眉をひそめた。
「人の弱みにつけ込んで脅すなんて、やること汚ねぇんだよ! いいかげんにしやがれ!」
 再びルーファスの胸ぐらを掴み、締め上げる。
「きれいごとだけで守れるものなら、喜んでそうするがな。恨むなら、ラグランジェに関わった自分自身を恨め」
 そう言うと、ルーファスは意味ありげな笑みを浮かべた。
「次は君の親友のリックか、それとも母親のレイラか……」
 ジークはカッとなった。凄まじい形相で、我を忘れて殴りかかる。
「ジーク、駄目っ!!」
 ユールベルは声の限りに叫んだ。ジークはルーファスの顔を外し、後ろの壁にこぶしを打ち込んだ。壁に大きく穴があき、破片がばらばらと落ちていく。それにより舞い上がる粉塵で、足元は何も見えないほどに白く煙っていた。
「フラウ、保安に通報しろ」
「はい、かしこまりました」
 後ろに控えていたメイドは、ルーファスに一礼すると、部屋から出ていった。
 ジークの顔から血の気が失せた。ユールベルは息を呑んで、彼を見上げた。



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