目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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68. 過去から続く未来

「魔導省の最上階に個室をもらうなんて、ずいぶん出世したものね」
 ユリアはとげとげしくそう言うと、腕を組み、ぐるりと部屋を見渡した。広くはないが整然と片付けられ、清掃も隅まで行き届いているようだった。
「まだまだこれからですよ」
 サイファは奥の机でほおづえをつき、ニッと笑った。背後の大きなガラス窓には青空が一面に広がり、そこからの陽光が彼の鮮やかな金髪を煌めかせている。
「あなたをお招きした理由はわかっていますね」
 彼の問いかけに、ユリアは眉をひそめた。
「あの子が告げ口したのね」
 その口調には腹立たしさがにじんでいた。
「私も暇ではありません。仕事を増やさないでもらえますか」
「私を騙しておいてよく言うわ」
 ユリアは怒りをあらわにしながら、半ばあきれたように言った。サイファは目を閉じ、ふっと口元を緩めた。
「嘘は言っていません。私はユールベルのことを信用していますから。あなたよりもずっとね」
 彼女は片眉をぴくりと動かした。
「いちいち頭にくるわね」
 吐き捨てるようにそう言うと、笑顔をたたえたサイファをキッと睨みつけた。
「私は間違ったことはしていないわよ。自分の息子を取り戻したいと思って何が悪いの」
 強い口調でそう主張するユリアに、サイファは余裕の表情を見せた。机にひじをつき、静かに口を開く。
「ユールベルにしたことは、どうなんですか」
 ユリアは口を結び、深くうつむいた。
「……仕方ないじゃない。どうやっても、愛せないのよ」
 左手で右腕をきつく掴み、苦しげに眉間にしわを寄せる。
「気持ち悪い……自分の嫌な部分を見せつけられているような……そう、多分、きっと私と似ているから……」
「似ていませんね」
 サイファは間髪入れずに否定した。ユリアは驚いて顔を上げた。その真意がわからず、困惑した表情で見つめる。彼はにっこり微笑み、答えを口にした。
「ユールベルは優しい子です。あなたと違ってね」
 ユリアは顔を上気させ、サイファを睨んだ。だが、彼は動じることなく言葉を続けた。
「愛せないものを愛せというつもりはありませんが、せめてそっとしておいてくださいませんか」
「アンソニーを返してくれれば、もうあの子に会うこともないわ」
 ユリアはいらついて言った。だが、サイファは悠然と構えたまま、落ち着いた声で答える。
「それはできません」
 まっすぐに彼女を見据え、さらに容赦のない言葉を吐く。
「あなたの元にいては、彼が幸せになれない」
「私は愛しているのよ! あの子を……アンソニーを!」
 ユリアは逆上して、ヒステリックに声を荒げた。
「愛と自己満足を履き違えていませんか。アンソニーは自分の意思を持つひとりの人間だ。あなたの所有物ではない」
 サイファは語調を強めた。ユリアは苦しげに目を細めうつむいた。
「私は……父の道具にすぎなかったわ」
 低く落としたその声は、かすかに震えていた。
「あなたと結婚して本家に入る……父にとって、それだけが私の存在価値だった」
 サイファは無表情で机にひじをついた。ユリアは下を向いたまま、堰を切ったように言葉を溢れさせた。
「本家に気に入られるように、あなたに気に入られるように、私は常にその行動を強いられてきた。でも、レイチェルが生まれ、あなたと婚約をすると、私は父から見向きもされなくなった。私の人生は、あなたが生まれたことで狂い、レイチェルが生まれたことで終わったのよ」
 次第に感情を高ぶらせ、目に涙を浮かべて訴えかけた。
「同情はします」
 サイファは感情なく言った。
「だからといって、自分の子供に手を上げていい理由にはなりませんよ」
 ユリアは目尻を拭って、強気にサイファを睨みつけた。
「手の早いあなたには言われたくないわ」
「はははっ。上手いこと言いますね」
 サイファは軽い調子で、ユリアの攻撃を受け流した。彼女は大きくため息をついた。そして、にこやかに微笑む彼を見つめ、固い表情のまま目を細めた。
「もし、レイチェルが生まれていなかったら、そして、父の望みどおり、私とあなたが結婚していたら……私は幸せになれたのかもしれない」
「それはありえません」
 ユリアの表情が曇った。
「どういう意味?」
「私があなたを愛せたとは思えないからです」
 サイファはにっこりと笑った。
「言ってくれるわね」
 ユリアは顔を赤らめ、キッと彼を睨んだ。
「私は何が何でもアンソニーを連れ帰る。親は私よ。裁判を起こしてあなたの不当を証明してもいい」
「やめた方がいいですよ」
 サイファは片ひじをつきながら、手持ち無沙汰に書類をぱらぱらとめくり始めた。
「ラグランジェ家の人間が騒ぎを起こすことを、極端に嫌う連中がいてね」
 ユリアは怪訝に眉をひそめた。サイファは書類に目を落としたまま、無表情で話を続けた。
「あなたも知っているでしょう。ラグランジェ家では、不可解な事故や行方不明事件が何件も起こっている。いずれも、実に都合のいいタイミングでね」
 ユリアは額に汗をにじませた。ごくりと唾を飲み込む。目には怯えの色が見えた。震えながら口を開く。
「……それは、脅し?」
「忠告ですよ。もっとも、あなたにとってはどちらでも大差はないでしょうが」
 サイファはさらりとそう言うと、顔を上げてにっこりと笑いかけた。
「ユールベルたちの家には、もう二度と行かないでくださいね」
 ユリアは両手で顔を覆い、その場に泣き崩れた。
「アンソニーが会いたいと言えば会わせます。そのときが来るのを待っていてください」
 サイファは淡々と言った。
「そんなこと……言うわけないじゃない……」
 ユリアは肩を震わせすすり泣いた。

「悪いな、急に」
 ラウルは、屈み込むレイチェルの背中に声を掛けた。彼女はルナを抱き上げると、にこやかに微笑みながら振り返った。
「気にしないで。サイファに呼び出されたのでしょう?」
「ルナを預けてこいと言われた。長くなるのかもしれない」
 ルナは嬉しそうにキャッキャと笑い声を上げながら、レイチェルの顔に小さな手を伸ばした。レイチェルは、ルナに顔を近づけ、優しく微笑みかけた。薄地のカーテン越しに広がる柔らかい光が、ふたりをあたたかに包み込んでいる。細く開いた窓から緩やかな風が流れ込み、カーテンをふわりと舞い上げた。同時に、レイチェルの長い金髪をさらさらと揺らした。
 ラウルはその光景を無言で見つめていた。レイチェルがふいに顔を上げると、彼はとっさにどうでもいいことを口走った。
「アルティナはどうした」
「今は会議中」
 そう答えると、彼女は大きな青い瞳を彼に向け、ちょこんと首をかしげた。
「少し、散歩しない?」
「サイファに呼び出されていると言っただろう」
 ラウルはつれない返事をした。しかし、レイチェルは引かなかった。
「私に付き合わされたと言えばいいわ」
 そう言って、にっこりと笑いかけた。
 ラウルは目を閉じ、大きくため息をついた。

 人影もなく、静まり返った校舎内。ジークは大きなあくびをしながら、図書室へと続く廊下を歩いていた。中庭の木々は、太陽の光を浴び、きらきらと照り返している。ふいに足を止めると、窓から青空を見上げた。そのまぶしさに目を細め、ため息をつく。肩に掛けた鞄がずっしりと重い。
 こんな天気のいい休日に、なんで——。
 その元凶である憎らしい担任の顔が頭をよぎり、思わず眉間にしわを寄せた。
 ジークは再びため息をつき、前に向き直ろうとした。そのとき、視界のすみにある人物が映った。はっとして目を向ける。見間違いではない。中庭に立っているのは、まぎれもなくラウルだった。焦茶色の長い髪を風になびかせながら、腕組みをして空を見上げている。そして、その隣にはレイチェルが座っていた。ルナを膝にのせ、柔らかな表情を見せている。
 生徒には鬼のようにレポートを出しておきながら、自分は呑気にひなたぼっこか?
 ジークは舌打ちをした。肩を上げ鞄を担ぎ直すと、腹立たしげに大股で歩き始めた。しかし、彼の足はすぐに止まった。そして、もう一度、中庭に目を向けた。

「休日はアカデミーの方が静かでいいわね」
 芝生の上をトコトコと歩きまわるルナを見て、レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「私もアカデミーに通ってみたいと思ったことがあったのよ」
 ラウルは少し驚いたように瞬きをすると、隣で座る彼女に目を向けた。
「サイファが許さなかっただろう」
「その前に両親に止められたわ」
 レイチェルは肩をすくめてみせた。
 ラウルは再び空を望んだ。風が木々の緑を奏で、それに呼応するかのように小鳥のさえずりが重なる。
「何か、話があるのだろう」
「お見通しなのね」
 レイチェルは笑いながら言った。
「何だ?」
 ラウルが急かすように尋ねると、彼女は小さなルナに目を向けた。そして、少し遠慮がちに口を開いた。
「ルナは、あなたの本当の……血のつながった子供、だったりしない?」
 ゆっくりと尋ねかけると、顔を上げ、ラウルの様子をうかがった。彼は大きな手で額を掴むと、次第に深くうつむいていった。まぶたを閉じ、なんともいえない表情を浮かべている。
「ずっと、疑っていたのか」
「疑うだなんて。そうだったらいいなって思ったのよ」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませた。
「ラウルがこの子を引き取ると言ったとき、様子が普通じゃなかったってサイファが言っていたし、アルティナさんが隠し子じゃないかと尋ねたときも、明確に否定しなかったって」
 ラウルは疲れたように息を吐き、その場に腰を下ろした。長い脚を折り曲げ、その膝の上に腕を投げ出しうなだれた。
「ラウル?」
 レイチェルは首をかしげ、彼を覗き込んだ。
「それはない」
 ラウルは彼女の澄んだ瞳をまっすぐ見つめた。
「誓って言う。断じて隠し子などではない」
 レイチェルはくすりと笑った。
「信じるわ」
 ラウルは安堵の息をつき、後ろの木にもたれかかった。頭上でかすかに若葉がざわめく。
「でも、何か理由があったの?」
 レイチェルは再び彼を覗き込んだ。ラウルは目を細め、遠い空を仰いだ。
「……似ていたのだ。見つけたときの状況が」
 空の彼方に視線を送る彼を見て、レイチェルは確信した。
「例の、忘れられないひと、ね」
 ラウルは固い表情でうつむき、左手で額を押さえた。
「名前も……」
「え? もしかして、ルナってその人の名前?」
 レイチェルは大きな目をぱちくりさせた。
「いや、名前ではない……が、一部でそう呼ばれていた……」
 ラウルは背中を丸め、大きくうなだれた。
「私は愚かだ……そうだ、最初から何もかもおまえに相談するべきだった。おまえなら私を止めてくれただろう」
「そうね。名前は、止めたわね」
 レイチェルは肩をすくめ、少し苦笑いした。
「でも……」
 小さくそう言うと、前に向き直り、陽の当たる芝生に座っている小さな女の子の名前を呼んだ。
「ルナ!」
 小さな彼女は嬉しそうに笑顔で振り返ると、立ち上がってトコトコと走り寄ってきた。レイチェルは彼女を膝に抱き上げた。
「ルナは、もうこの子の名前になってしまったのよ」
 ラウルは無言で背中を丸めたままだった。
「これからできることは、その人を重ねるのではなく、この子はこの子として愛していくこと」
 レイチェルは彼を覗き込み、にっこりと笑いかけた。
「できるのでしょう?」
 ラウルはまいったと言わんばかりに、目を閉じ大きくため息をついた。
 レイチェルは目を細め、日なたの匂いのするルナの頭を優しく撫でた。
「後悔をしては、この子がかわいそう」
 彼女の瞳に強い光が宿った。
「だから、私は後悔をしない。愚かだったけれど、申しわけなかったけれど、それでも嘘はなかったもの」
 ラウルは彼女の横顔を見つめた。光を受けて輝く金の髪が、少し眩しく感じた。彼女はラウルの視線に気づき、瞬きをしながら振り向いた。
「もしかして、少しは後悔しろって思ってる?」
「いや。だが、サイファは……」
 レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「生まれたときから今まで、ずっと変わらず大切にしてくれている。決して私を責めたりしないわ」
 ラウルは後ろの木に身を預けると、腕を組み青空を見上げた。
「おまえにとっては良い夫というわけか」
「あなたにとっては良い教え子だった?」
 レイチェルは茶化して尋ねた。ラウルは空を見たまま、眉をひそめた。
「憎らしい奴だ。だが、今までに会った誰よりも頭がいい」
 端的にそう答えたあと、一拍の間をおいて付け加えた。
「ただ、魔導の潜在的な能力は、おまえの方が上だ」
「そうなの? 嬉しい」
 レイチェルは軽く無邪気に喜んだ。
「もう少し時間があれば、おまえの力を引き出せてやれた。そうすれば……」
「今さら言っても仕方のないことよ」
「……強いな」
 ラウルはぽつりと言った。レイチェルはルナを抱きしめ、空を見上げた。
「守ってくれる人がいるから、かもしれないわね。ラウルもそのひとりよ」
 そう言って、にっこりと笑いかけた。だが、ラウルは素っ気なく否定した。
「私は何もしていない」
「見守ってくれていたでしょう?」
 レイチェルは大きな瞳で彼を覗き込んだ。
 ラウルはうつむきながら頭を押さえると、ため息をついた。
「どうしておまえはそういうことを……」
 ——ガサッ。
 はっとして音のした方に振り返る。一瞬だが、黒っぽい何かが茂みの中に隠れるのが見えた。
「誰だ!」
 迫力のある声で叫びながら、その方に突進する。そして、あわてて逃げようとしていた人物を見つけると、首根っこを掴んで引きずり出した。それは、ジークだった。
「何をしている」
 ラウルは低く唸るように問いつめた。その目は激しい怒りで熱く煮えたぎっている。ジークは芝生に手をついたまま、じりじりと身を引いた。
「レポートを片づけに来ただけだ。おまえが山のように出すからな!」
 彼の額から汗が流れ落ちた。ラウルはギリッと奥歯を噛みしめた。そして、腹の底から声を絞り出す。
「なぜ盗み聞きをしていたのか、と訊いている」
「盗み聞きなんてしてねぇ! 姿が見えたから来てみただけで……いま来たところなんだよ!」
 ラウルはジークの喉をわしづかみにし、体ごと木の幹に叩きつけた。ジークは後頭部を激しく打ちつけ、思いきり顔をしかめた。喉を押さえつけられているため声は出ない。それどころか息さえできない。今にも喉がつぶれそうだ。
「おまえの記憶を封じてやる。成人に施すのは危険だが仕方ない。失敗すれば数年単位で記憶が飛ぶ。最悪は廃人だ」
 ジークは体をよじり逃れようとしたが、びくともしない。首を絞めつける大きな手に爪を立ててみても、その力が緩むことはなかった。
「下世話な好奇心を持った自分を恨め」
 ラウルは冷酷に言い捨てると、開いた右手をジークの額にかざそうとした。
「待って」
 レイチェルはその右手に自分の左手を重ねた。そして、大きな青い瞳をまっすぐ彼に向け、じっと訴えかけた。
 ラウルの手から力が抜けた。ジークは飛び出すようにそこから逃れると、喉を押さえ激しくむせ込んだ。
「ジークさん」
 レイチェルは膝をつき、体を屈めている涙目のジークを覗き込んだ。
「何も、聞いていないのね?」
 真剣な表情で、静かに念押しするように尋ねかける。ジークはごくりと喉を鳴らした。
「……はい」
「わかったわ。行って」
 レイチェルは凛とした声で、突き放すように短く言った。ジークはとまどいがちに何度か振り返りつつ鞄を拾うと、図書室へ向かって足早に歩き出した。

「甘いな」
 ラウルは低い声で言った。
「たいしたことは言っていないでしょう」
「あいつはバカじゃないぞ」
「だったら安心ね」
 レイチェルは後ろで手を組み、にっこり笑って振り向いた。
「彼は私たちの味方だもの」
「だといいがな」
 ラウルはため息をついた。
「使って」
 レイチェルは白いハンカチを差し出した。彼の手の甲からは血が滲んでいた。ジークに爪を立てられたときについた傷だ。それほど深くはないが、長く引っかかれている。
「こんなもの、放っておいても問題はない」
「あら、医者のセリフとは思えないわね」
 レイチェルはからかうように言った。そして、彼の大きな手をとると、ハンカチで傷口をそっと押さえた。赤い血がハンカチに染みていく。
「汚してほしくなかったのよ」
 ぽつりと落とされた彼女の言葉に、ラウルはぴくりと眉を動かした。
「この手は、ルナを抱き上げる手だもの」
 レイチェルは顔を上げ、優しく微笑んだ。彼女の足元に座っていたルナも、無垢な笑顔で見上げていた。

「ジーク! どこ行ってたの! 心配したよ!」
 図書室に入って来た彼を見るなり、リックは大きな声を上げた。隣のアンジェリカは、眉をひそめてリックに振り向き、口の前に人さし指を立てて見せた。図書室には、彼らの他にもレポートをまとめている生徒たちがちらほらいる。
 リックは「あ……」と小さく声をもらして口を押さえると、今度は声をひそめて言った。
「先に行ったはずなのに来てないから、事故にでも遭ったんじゃないかって思ったよ」
 ふたりは一緒にアカデミーに向かっていたが、リックは途中でセリカの家に寄るからと、ジークには先に行ってもらっていたのだった。
「悪りィな」
 ジークはまるで気のない返事をしながら、アンジェリカの隣に座った。リックはこれ以上の追求はしなかった。答える気がなさそうに見えたからだ。無事であればそれでいい。そう思いながら、本に目を落とした。
「何か、ついてるわよ」
 アンジェリカはジークの頭に手を伸ばし、髪に絡まっていた深緑色の欠片を取った。
「葉っぱ? 何をやってたの? こんなものつけて」
 首をかしげ、いぶかしげに尋ねる。ジークは困ったように目を泳がせた。
「天気が良かったから、つい中庭で昼寝……」
「え、昼寝?」
「もう、そんな悠長なことやってる場合?」
 リックとアンジェリカはあきれ顔で口々に言った。しかし、ジークは言い返すこともせず、覇気なくぼうっとしている。考えごとをしているようにも見えるが、どちらにしろ彼の心はここになかった。
「ねぇ、本当にどうしたの?」
 アンジェリカは次第に不安になってきた。どう見てもいつもの彼ではない。何かがあったとしか思えない。しかし、ジークはそれを認めなかった。
「なんでもねぇよ」
 どこか上の空で答える。
「なら、いいけど……」
 引っかかるものを感じてはいたが、彼女もそれ以上は尋ねなかった。
 ジークは鞄からノートと筆記具を取り出すと、席を立ち、奥の書棚へと向かった。

 ラウルは魔導省最上階にあるサイファの個室へやってきた。軽くノックし、返事を待たずに扉を開ける。
 サイファは大きなガラス窓の前に立ち、そこから広がる景色を眺めていた。
「遅かったな。待ちくたびれたよ」
 背を向けたまま、静かに言う。ラウルはぶっきらぼうに言い返した。
「おまえの都合にばかり合わせてはいられない」
 サイファは椅子に腰を下ろし、机に向き直った。
「猫とでもやり合ったのか」
 目ざとくラウルの手の傷を見つけると、引き出しを開けながらさらりと尋ねた。ラウルはわずかに眉をひそめ、一言だけ返した。
「猿だ」
 サイファは小さくふっと笑った。そして、唐突に、小さな何かを投げてよこした。それは弧を描き、ラウルの手の中におさまった。
「あのロッカーの鍵だ」
 サイファは部屋の隅を指さした。ラウルは彼を軽く睨むと、そのロッカーへと足を進めた。スチール製のそれは、表面がでこぼこしており、見るからに古そうだった。ところどころ錆まできている。ラウルは渡された鍵で扉を開けた。中には小さめの段ボール箱がひとつ入っていた。蓋は閉じられていない。多くの紙の束やファイルが無造作に突っ込まれ、あふれ返っている。
「片付けろとでも言うのか」
「ある研究者が発表しようとしていた論文と、その裏付けとなる実験データだ」
 サイファははっきりとよく通る声で言った。ラウルは彼を流し見た。
「揉み消したのか」
「表に出ては都合が悪いのでね」
 サイファはひじをつき、軽く握った手をあごに添えると、不敵な笑みを浮かべた。
「利口なやり方とは思えないな」
「私が関わったことはわからないよう工作はしてある。ラグランジェ家の誰かの仕業だという察しはついているだろうが」
 ラウルはじっとサイファを見つめた。サイファは軽く息をつきながら、肘掛けに手をのせ、背もたれに身を預けた。そして、まっすぐにラウルを見つめ返すと話を続けた。
「おまえに聞きたいのは、その論文の信頼性だ。私が読んだ限りでは、かなり高いとみている」
 ラウルは段ボール箱の中から、論文と思しきファイルを取り出した。パラパラとめくり、ざっと目を通す。
「大筋、間違ってはいないようだ」
 そう言うと、ファイルを閉じた。
「少し見ただけで何故そう言える。根拠は何だ」
 サイファは鋭い視線をラウルに向け、畳み掛けるように問いかけた。
「私のいた世界では、とうに証明されていることだ」
 ラウルは無表情で答えた。サイファは厳しい表情で目を細めた。
「何故、教えなかった」
「一度、言ったことがある」
「私は聞いていない!」
 身を乗り出し語気を強めるサイファに、ラウルは淡々と返した。
「おまえの祖父にだ。おまえが生まれるずっと前にな」
「……聞く耳を持たなかったのだな」
「ああ、一笑に付された」
 サイファは再び背もたれに身を沈めた。椅子が軽い軋み音をたてる。
「私なら、信じたよ」
 ぽつりと言うと、くるりと椅子をまわし、ラウルに背を向けた。ガラス窓の向こうに広がる青い空を、深い蒼の瞳に映す。そして、静かに口を開いた。
「一族の中で婚姻が繰り返されることに、不自然なものは感じていた。血を濃くすることの弊害もあるのではないか、そんな懸念が頭をよぎったこともある。分家がいくつもできた今でこそなくなったが、昔はきょうだい間での婚姻も、当然のように行われてきた」
 サイファは大きく息をついた。
「すでに私たちの遺伝子はかなり損傷している、と考えるべきだろうな。つまり、爆弾を抱えているようなものだ。このままではいつか……」
「どうするつもりだ」
 ラウルが低い声で尋ねると、サイファは椅子をまわし、再び彼に向き直った。
「さて、どうするかな」
 含みを持った言い方をすると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その瞬間、嫌な考えがラウルの頭をかすめた。
「まさか、アンジェリカを……」
「アンジェリカを、何だって?」
 サイファはほおづえをつき、ゆっくりと尋ねかけた。ラウルははっとしてけわしい表情でうつむき、口元を手で覆った。
「いいかげん気づいていないふりをするのはやめてもらえないか」
 サイファは立ち上がり、腕を組むと、ガラス窓にもたれかかった。
「一瞬、アンジェリカが頭に浮かんだのは事実だ。だが、あの子をラグランジェ家に縛りつけるつもりはない。その考えは今でも変わらないよ」
 腕を組んだまま、顔を横に向け、窓の外に視線を流す。
「それに、ラグランジェ家が変わらなければ、外部の者を受け入れることができなければ、結局は同じことさ。ただの延命措置にすぎない」
 光に縁どられた彼の端整な横顔は、寂しげな翳りを落としていた。
「おまえが変えるつもりか」
 ラウルが尋ねると、サイファはわずかに目を伏せた。
「いや、何もしない。滅びればいいさ。閉鎖的に自分たちの優位性を護ってきた、驕慢な一族の末路にはふさわしい最期だ」
 静かにそう言ったあと、少しおどけて付け足した。
「ま、滅びるのは私の子孫ではないしね」
 ラウルはため息をついた。
「あの連中がおとなしくそれを待つとは思えないが」
 サイファは表情を引き締めた。
「おそらく彼らもこの情報を掴んでいる。そうであれば、当然、何らかの対策をとるだろうな。それが正当なものであれば、私も尽力するつもりだ。ただ……」
 彼の目つきが急に鋭くなった。あごを引き、まっすぐ前を見据える。
「アンジェリカに手出しはさせない」
 低く重いその声は、決意に満ちていた。
 ラウルはロッカーの鍵を締め、それをサイファに投げ返した。
「無茶はするな」
 無愛想にそう言うと、背中を向け足早に歩き出した。
「ラウル」
 サイファはその後ろ姿に声を掛けた。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、動きを止めた。
「おまえがいてくれて良かった」
「からかっているのか、それとも嫌みか」
 ラウルは振り返ることなく尋ねた。
「本心だよ」
 サイファはにっこり笑って答えた。
 ラウルは乱暴に扉を開け、勢いよく出て行った。


69. うそつき

「僕たちもとうとう四年生か……」
 前を横切る初々しい新入生を見て、リックは感慨深げにつぶやいた。
 今日はアカデミーの入学式である。授業は午前で終わり、三人は帰り支度をして食堂へ向かうところだった。
「学年が上がった実感はあんまりないけどな。担任、ずっと変わらねぇし」
 ジークは仏頂面でぶっきらぼうに言った。彼の頭にラウルの姿が浮かんでいることは明白だった。リックとアンジェリカは顔を見合わせてくすりと笑いあった。
「なんだよ、おまえら」
 ジークは口をとがらせ、両隣りのふたりを交互に睨んだ。アンジェリカは顔を上げ、にっこりと笑いかけた。
「あと一年ね」
「ああ、さっさと卒業して働きてぇよ」
 ジークは面倒くさそうに、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「そう」
 アンジェリカは無表情で素っ気なく返事をした。彼女のその態度に、ジークはうろたえた。あわてて付け加える。
「少し、寂しいけどな」
 アンジェリカはきょとんと彼を見上げ、大きくまばたきをした。
「ラウルと離れるのが?」
「バカ! おまえだよ!」
 彼女を指さし勢いよく言ったあとで、はっとして目を伏せた。窓から射し込む陽光が、白い廊下に反射して少し眩しい。耳元が次第に赤みを帯びていく。
 アンジェリカは後ろで手を組み、短いスカートをひらめかせながら、彼の前にまわりこんだ。
「卒業したって、会おうと思えばいつだって会えるわ」
 大きな瞳で覗き込み、屈託のない笑顔を見せた。
 ジークは目を見張った。
 ——いつだって会える。
 彼女の言葉を頭の中で反芻すると、照れくさそうにはにかんだ。その様子をリックはにこにこしながら眺めていた。
「なんだよ!」
「別に」
 突っかかってきたジークに、リックは笑顔のままでさらりと答えた。ジークはその余裕たっぷりの態度が気に食わなかった。キッと彼を睨み、指先を突き付けると、威勢よくがなり立てた。
「おまえ人のことばっか気に掛けてねぇで、自分のことを考えろよ!」
「自分のこと?」
 そう聞き返されて、ジークは言葉に詰まった。
「い……いろいろあるだろ! えと……そうだ、進路とかな! ラウルがまともに進路指導なんてやるわけねぇし、自分でしっかり考えねぇとな」
 ほとんどターニャの受け売りだった。だが、ジークは上手く話を繋げられたことに安堵し満足していた。これならリックも悩み出すに違いない。意地悪くそんなことを思ったが、彼の口から発せられた言葉は予想とは違うものだった。
「ああ、それならもう考えてるよ」
「え?」
 聞き返したジークの声は、情けなく裏返っていた。ずり落ちた鞄を肩に担ぎ直す。
「どうするの?」
 アンジェリカはリックに振り返り、興味津々に尋ねた。彼はにっこり笑って答えた。
「先生になろうかと思って」
「アカデミーのか?」
 ジークが尋ねると、リックは両手を前に出して振りながら、焦って否定をした。
「違う、違う、それは無理! 普通の学校のだよ」
「なんか、もったいねぇな。せっかくアカデミーまで来たのによ」
 ジークは腕を組み、不満そうに言った。しかし、アンジェリカは顔を輝かせ、弾んだ声をあげた。
「いいじゃない! リックに合ってると思うわ」
「ありがとう」
 そう言い合って笑顔を交わすふたりを見て、ジークは表情にわずかな影を落とした。
「ジークはどうするの?」
 アンジェリカは不意に彼に話を振った。目をくりっと見開き、いたずらっぽく覗き込む。
「まだ人柱になりたいとか思っているわけ?」
「人柱じゃねぇよ、四大結界師だ!」
 からかうように言ったアンジェリカの言葉を、ジークはむきになって訂正した。
「まあ、なりたいと思ってすぐになれるもんじゃねぇし、とりあえず魔導省に入るのが順当なところらしいけどな」
「ジークがお役人……」
 リックは呆然とつぶやいた。ジークは顔を赤くして言い返した。
「ガラじゃねぇのはわかってるよ!」
 アンジェリカは嬉しそうににっこりと笑いかけた。
「じゃあ、ジークはお父さんの部下になるのね」
「……そこがなぁ」
 ジークはとたんに苦い顔になった。アンジェリカは怪訝に顔を曇らせた。
「お父さんのこと、嫌いなの?」
 不安そうに尋ねる。
「あ、いや、そうじゃねぇよ」
 ジークはあわてて否定した。
「サイファさんのことは尊敬してる。でも、なんていうか、あんまり関わりすぎると……なぁ……いろいろやりづらいっていうか……」
 はっきりしない物言いに、アンジェリカは首を傾げた。
「やりづらいって、何が?」
「何がって言われても困るけどな……」
 ジークは追いつめられ、弱った表情で口ごもった。
「それって、アンジェリカのお父さんだからってこと?」
 リックが横から口をはさんだ。ジークはぎくりと体をこわばらせた。図星であることは、表情にも思いきり表れている。
「それ、どういう意味?」
 アンジェリカは眉根を寄せ、両手を腰にあて問いつめた。
「え、いや、あ、おまえはどうするんだよ、卒業後」
 ジークはしどろもどろになりながらも、必死で話題を変えた。
「え? 私?」
 ジーク自身、こんな手にアンジェリカが引っかかるわけないと思ったが、意外にも彼女は追求をやめ、その話題に乗ってきた。
「実は、私も魔導省に入りたいと思ったの。でもね、年齢制限があったのよ。18歳未満はだめだって。ひどいでしょう?! そんなの関係ないのに!」
 よほどそのことを訴えたかったのか、右手をぐっと握りしめ、勢いよく捲し立てた。そして、口をとがらせると、腕を組んで考え込んだ。
「どこか他にいいところがあればいいんだけど」
「おまえ、無理して就職することもないんじゃねぇのか?」
 ジークは思いつくままにそう言った。年齢のこともあるが、何より彼女の家は裕福である。若いうちから働かなければならない事情は何もないはずだ。
 しかし、アンジェリカはきっぱりと答えた。
「うちでじっとしているなんて嫌よ」
 ジークは苦笑した。
「勉強しながらあと四年待って、それから就職でも遅くねぇだろ」
 彼なりに最良の案を提示したつもりだったが、彼女は納得しなかった。
「そんな時間、ないかもしれないもの」
 ジークは怪訝に首をひねり、尋ねかけた。
「それってどういう……」
 そのとき、アンジェリカの表情が途端にこわばった。体を小刻みに震わせながら、大きく目を見開いた。彼女がその瞳に映しているのはジークではない。彼を通り越し、その向こうを見ているようだ。
「どうした?」
 ジークは彼女の視線をたどった。そこに立っていたのは、ロングコートをまとったひとりの男性だった。そこそこ年輩だと思われるが、体は大きくがっちりとして、背筋もしっかりと伸びている。老人という風情ではない。髪は半分ほど白くなっているが、残った色から元は鮮やかな金髪であったことがうかがえる。そして、瞳は深い青色——。ジークは直感した。この男はラグランジェ家の人間であると。
 ジークはアンジェリカをその男の反対側に寄せ、庇うように肩を抱き、足早に通り過ぎようとした。彼女の体の微かな震えが、手を通し伝わってくる。
 大丈夫だ——。
 ジークは安心させるように、無言でその手に力を込めた。
「ジーク=セドラックだな」
 思いがけない言葉に、ジークははっと息をのみ顔を上げた。なぜ自分の名を……。とまどいを隠せない。
「君とは一度、話をしたいと思っていた」
 男はジークを値踏みするように、上から下までじろりと見まわす。
「ちょうどいい機会だ。来てもらおう」
 有無を言わさぬ威圧的な口調。ジークは得体のしれない恐怖を感じた。同時に、何の話だろうかという興味もあった。しばらく考えたのち、口を結んだまま男の方に足を踏み出した。
「私も行くわ!」
 アンジェリカも彼のあとに続こうとする。そんな彼女を、男は冷たく睨みつけた。
「ジーク=セドラックとふたりで話をしたい。おまえは来るな」
「どうして?! 私の話でしょう? だったら……」
「言うことを聞け、アンジェリカ=ナール」
 迫力のある低音が、体の芯に響く。アンジェリカはびくりと体をこわばらせた。もはや、動くことも言い返すこともできなかった。
「心配すんな」
 ジークはそんな言葉を掛けることくらいしかできなかった。そして、ふたりは連れ立ってその場をあとにした。
「ジーク、図書室で待っているから!!」
 アンジェリカは遠ざかる背中に向かって、乾いた喉から声を絞り出した。ジークはわずかに振り返り、微かな笑顔で応えた。

「誰なの、あの人」
 リックは華奢な背中におずおずと問いかけた。彼女はふたりが消えていった方向をずっと見つめていたが、リックの声を耳にすると、目を細め口を開いた。
「私のひいおじいさまよ」
「ひい……おじいさま?」
 リックは驚いて思わず聞き返した。それにしては若すぎると思ったのだ。アンジェリカはガラス窓にそっと手をつき、中庭の噴水を見つめた。
「昔から、ひいおじいさまの私を見る目はとても冷たかった」
 無表情に、無感情に、淡々と言葉をつなげていく。
「誰よりも厳格で、誰よりもラグランジェ家のことを考えている人だから、異端である私が許せないんだと思う」
「そんな、アンジェリカが悪いわけじゃないのに……」
 リックはそれだけ言うのが精一杯だった。彼女の横顔を見つめ、悲しげに眉をひそめる。
 アンジェリカは彼に振り向き、少し寂しげに笑ってみせた。
「私の存在自体が許せないのよ」
 リックはもう何も言葉が掛けられなかった。彼女がラグランジェ家の中で「呪われた子」などと呼ばれ、蔑まれていることは知っていた。だが、それを目の当たりにすると、やはりショックである。彼女はどんな思いでこれまで生きてきたのだろうか、ふいにそんなことを考えてしまう。
「どうして自分だけこうなんだろうって、何度も考えたし、自分なりに調べもしたわ」
 アンジェリカは目を伏せ、自分の横髪を無造作に掴んだ。リックは胸が詰まった。
「答えは、見つかったの?」
 ゆっくりと滑り落ちる彼女の手を見つめ、静かに尋ねかける。アンジェリカはぽつりと言葉を落とした。
「遺伝子の異常」
「え?」
 リックはぽかんとしてまばたきをした。
「ただの憶測よ。根拠は何もないわ」
 アンジェリカは笑って肩をすくめた。
「色素が作られなくて、肌や髪が白くなるっていうのはあるの。逆のケースは見つけられなかったけれど、ありえないことではないかなって」
 そう言うと、今度は自嘲ぎみに小さく笑った。
「そうだとすると、穢れた血という言われ方も、間違ってはいないわね」
「間違ってるよ!!」
 リックは身を乗り出し、両こぶしを握りしめて言った。アンジェリカはその迫力に驚いて少し身を引いた。目をぱちくりさせて彼を見る。そして、ふいに表情を緩めると、やわらかい笑顔を見せた。
「ありがとう」
 リックはひとまず安堵した。彼女の肩にぽんと手を置き、優しく微笑みかけた。

 ジークと年輩の男は、王宮の外れにある小さな森に来ていた。生い茂った枝葉の隙間から落ちる木漏れ日が、細い散歩道にまだら模様を作る。緩やかな風が吹くたび、模様は形を変え、頭上からは木々のざわめきが降りそそいだ。
 ジークは不安になってきた。こんな人気のない場所に連れ込んで、この男はいったい何を企んでいるのだろうか。もし、何かが起こったとしても、助けを呼ぶこともできない。
「誰なんだよ、おまえは」
 沈黙と不安に耐えかねたジークは、半歩先を歩く男の背中に、無礼な口調で問いかけた。男は振り返ることなく答えた。
「先々代のラグランジェ家当主、それで充分だろう」
「で、今は長老会メンバーか?」
 男の足が止まった。そして、ゆっくりとジークに振り返り、鋭い視線を向けた。瞳の奥には強い光が宿っている。
 ジークはあごを引き、口端を上げ、挑みかけるようにニッと笑った。目はまっすぐ男を捉えている。だが、強気な態度とは裏腹に、額には脂汗が滲んでいた。
「そこまで知っているとはな。今すぐ始末したい気分だよ」
 男は凍てつくような青い瞳でジークを突き刺し、凄みのある低音をゆっくりと響かせた。ジークは背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。小さく身震いをする。
「安心しろ。そんなつもりはない」
 男はふっと笑って前に向き直り、再び歩き始めた。
「だが、他言をすればそうなるかもしれん。気をつけることだな」
「わかってる」
 ジークは少し離れて歩きながら、短く答えた。そして、再び疑問をぶつけた。
「わざわざ俺と話をするためにアカデミーに来たのか?」
 男の背中が笑った。
「自惚れるな。アンジェリカ=ナールの成績をもらうために来たのだ」
 コートの内側からファイルを取り出し、掲げて見せた。その青いファイルはかなりの厚みがあった。成績表だけではなく、試験や内部資料なども収められているのかもしれない。ジークはそう思った。
 男はそれをコートの内側に戻すと、脇にひっそりと佇むベンチに腰を掛けた。古びた木製のそれは、ギィと鈍い軋み音を立てた。
「君の成績もついでに見させてもらった。優秀だな」
「一度もアンジェリカに勝てたことねぇよ」
 ジークは顔をそむけ、吐き捨てるように言った。嫌味を言われているのだと思った。くやしまぎれに足元の小枝を踏みしめる。パキパキと甲高い音が森に響いた。
 男はまぶたを閉じ、ふっと笑った。
「あの子には勝てんよ。君はもちろん、ラグランジェ家の人間でも、敵うものはほとんどいないだろう」
 そう言ってジークを一瞥すると、さらに話を続けた。
「それだけの素質が彼女には備わっている。そういう血を持って生まれてきたということだ」
「やっと認める気になったのか」
 ジークは呆れたように言った。フンと鼻を鳴らす。
「当たらずとも遠からず、といったところだな」
 男はベンチから立ち上がり、コートのポケットに手を入れた。広い背中をジークに向ける。
「彼女は我々にとって必要な存在となった。君には手を引いてほしい」
「は?」
 男は悠然と振り返った。
「君とアンジェリカが懇意にされては、後々、差し障りが出てくるのだ」
 ジークは訝しげに首を傾げた。
「わかるように言えよ。アンジェリカをどうするつもりだ」
「ラグランジェ本家を継いでもらう」
 男はまっすぐジークを見据えて言った。
 来た——。
 ジークは唇を噛みしめうつむいた。いつかそういう話を聞かされるのではないか、心の片隅にずっと不安を抱えていた。同時に、呪われた子と言われている彼女に継がせないのではないか、そんなふうに楽観していた部分もあった。
「まだ正式決定ではないが、近いうちにそうなる予定だ。サイファにも、これ以上、好き勝手させはしない」
「赤ん坊の頃、殺そうとしたのはおまえらだろう。今さら勝手なことを言うな!」
 威勢よく突っかかったあとで、ジークははっとした。わずかに身構えると、上目遣いでじっと睨めつける。
「今度は邪魔になった俺を殺すつもりか?」
 頬を一筋の汗が伝う。そんなジークに、男は冷ややかな視線を送った。
「君は、我々のことを暗殺集団か何かのように聞かされているかもしれないが、そうではない」
 しっかりと言い聞かせるように、緩やかに抑揚をつけながら言葉をつなげる。そして、後ろで手を組み、無防備な背中をジークに見せた。
「部外者を巻き込まないことが、我々の基本方針でね」
「あくまで基本なんだろ」
 ジークはぶっきらぼうに揚げ足をとった。男はゆっくりと振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「すべてを忘れ、ラグランジェ家と距離をおくことを約束してくれれば、悪いようにはしない。君はこれから就職活動を始めるのだろう」
 ジークは顔をしかめた。
「おまえの力なんて借りるつもりはねぇよ。自分の力だけで十分だ」
「わかっていないな」
 男は冷笑した。
「君自身も言っただろう、“あくまで基本”だと」
 ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「裏を読め。手を引かなければどうなるかということを。おまえごときの人生を捻り潰すなど造作もないことだ」
 男は真顔で言った。
 ジークは奥歯を食いしばりうつむいた。爪が食い込むほどにこぶしを強く握り震わせる。ただの脅しではないと思った。彼らにはそれだけの力があり、また、そうすることにためらいもないだろう。いったいどうすれば……。頭が混乱して、まともに考えることもできない。
「なんで……なんでアンジェリカなんだよ。別にアンジェリカでなくてもいいだろう」
 今にも泣き出しそうな声でつぶやくと、顔をしかめ髪を鷲掴みにした。
「残念ながら、そうはいかなくなったのだ。すべてはラグランジェ家を守るためだ」
 その言葉を聞くと、ジークの頭に一気に血がのぼった。
「バカじゃねぇのか! 人があっての家だろう!」
 顔を上げ、大声で食って掛かった。その声に驚いた森の鳥たちは、いっせいに羽ばたき飛び立っていった。木の葉がいくつか、ひらひらと舞い落ちる。だが、男は平然としたまま、ジークを一瞥した。
「おまえのような外部の人間にはわからんだろうな。二千年近く名家として続いてきたラグランジェ家の重みというものを。その伝統の前では、個人など取るに足りないものなのだ」
 ジークはムッとして男を睨みつけた。
「少なくともサイファさんはそう思っていない」
 男は嘲るように小さく笑った。
「君は随分サイファを慕っているようだが、気をつけた方がいい」
「おまえの言うことなんか信じるかよ」
 ジークがそう言ったにもかかわらず、男は構わず話を続けた。
「守りたいものが違うだけで、本質は我々と変わらない。人を利用し、不要になれば排除する。そういうことが平気でできる男だ。嘘をつくのが上手い分、我々よりたちが悪いかもしれんな」
 ジークは反論もせず、複雑な表情で立ち尽くしていた。この男の言うことを信用したわけではない。だが、何か引っかかりのようなものを感じる。些細なこととして気にしなかった、もしくは気にしないようにした、いくつかの小さな記憶。それらが一斉に呼び起こされるような、そんなざわめく感覚がわき上がった。
 男はジークの肩に片手をおき、ぐっと力を込めた。
「君が利口な選択をしてくれることを願っている」
 ジークは、その低音が腹の底にずっしりと沈んでいくのを感じた。額から汗が吹き出す。男はもう一度、ジークの肩においた手に力を込めると、彼を残して森から出ていった。
 男の姿が見えなくなると、ジークは膝から崩れるようにその場にへたり込んだ。肩にはまだごつい手の感触が残っている。
 森のどこかから、小鳥のさえずりが聞こえてきた。

「ジーク!!」
 彼が図書室の扉を開けたとたん、アンジェリカは彼の名を呼び、急いで駆け寄ってきた。不安そうな表情で、じっと彼を見つめる。
「何の話だったの?」
 少し緊張したような固い声。ジークには彼女の気持ちが痛いほど伝わってきた。それでも、あの話を伝えることなど、自分にはできない。彼女から目をそらせる。
「何でもねぇよ」
 精一杯の平静を装い、ぶっきらぼうに答えた。しかし、その答えはなんのごまかしにもなっていなかった。アンジェリカはさらに追求する。
「何でもないわけないじゃない! 私に関係がある話なんでしょう」
「違う」
 ジークは難しい顔でうつむいた。アンジェリカは追求を緩めなかった。
「他に何の話があるっていうのよ」
 ジークは言葉を失った。沈黙するしかすべがなかった。アンジェリカは真剣な表情でジークを見据え、落ち着いた声ではっきりと言った。
「自分のことくらい、自分で受け止められるわ。子供扱いするのはやめて」
「子供じゃねぇかよ!」
 追いつめられ、ついそんな言葉が口をついた。言い過ぎた——。ジークはすぐに後悔した。
 アンジェリカは大きな漆黒の瞳を潤ませ、彼をキッと睨んだ。
「うそつき!」
「うっ……?」
 ジークは尋ね返そうとして、言葉を詰まらせた。
 アンジェリカは机の上に置いてあった鞄を乱暴に掴み、走って図書室を出ていった。
「アンジェリカ! 待って! わっ」
 彼女を追いかけようとしたリックを、ジークはフードを掴んで引き留めた。
「何を言うつもりだ」
 うつむき、喉の奥から乾いた声を絞り出す。
「何って……」
 リックは口ごもった。そこまで考えていなかった。
「でも、あのまま行かせていいの?!」
「これは俺の問題だ」
「じゃあ早く追いかけなよ!」
 リックに急き立てられても、ジークはただうなだれるだけだった。彼が何かに深く悩んでいることは、リックにもわかった。しかし、アンジェリカも同様に悩みと不安を抱えている。そんな彼女にあのような言葉を浴びせ、謝りも弁解もせずそのまま行かせるなど、あってはならないことだと思った。
「ジーク!」
 苛ついて名を呼ぶ。行動を起こさない彼がもどかしかった。
「もう少し、考えさせてくれ……」
 ジークは消え入りそうな声で、ようやくそれだけを口にする。
 リックは目を細めて彼を見つめた。


70. 親子のかたち

「うそつき!」
「そうだよ、ジーク。ひどいよ!!」
 アンジェリカとリックは口々にジークを責め立てた。
「違っ……」
 言葉に詰まり、反論すらできないジークに、ふたりは冷淡な目を向けた。
「こんなヤツのこと、もう忘れなよ」
 リックはわざとらしくため息をついた。
「言われなくても忘れるわ」
 アンジェリカはつんと顔をそむけ、不機嫌に言い捨てた。そして、リックと腕を組むと、ふたりで笑いあいながら去っていった。
「待て! おいっ! おいっ!!」
 引きちぎれるくらいに強く腕を伸ばすが、なぜか足は石のように動かない。追いかけたいのに追いかけられない。みるみるうちに、ふたりの姿は小さくなっていった。
「ジーク、君には手を引いてもらうと言ったはずだ」
 威厳に満ちた、腹の底に響く低音。どこからともなく男が現れた。ラグランジェ家の先々代当主だ。
「我々はリックを正式な後継者と認めた」
「なっ……」
 ジークは目を見開いた。額から汗が流れ落ちる。男は静かに言葉を続けた。
「君も男なら、潔く諦めろ」
「う……嘘だ!!」
 ジークは自分の叫び声で目を覚ました。心臓が痛いくらいに激しく強く打っている。自分の鼓動の音が、自分自身ではっきりと感じとれた。
「……夢……か……」
 見なれた天井の木目を目にし、ようやく状況を把握した。途端に体中から力が抜けた。大きく息をつき、吹き出した額の汗を袖口で拭った。
 ——まったく、何て夢だ。
 きのうの出来事が影響しているのは間違いない。自分の不安な気持ちがあんな夢を見せたのだろう。ただの夢だ——。懸命に自分に言い聞かせた。

 ジークは冴えない顔で、のっそりと体を起こすと、よろよろ階段を降りていった。
「おはよ、ジーク。やっと起きたのね」
 聞きなれない女性の声が、彼を出迎えた。
「へ?」
 ジークは間の抜けた声を上げ、振り向いた。そして、唖然として固まった。口を開けたまま声も出ない。
「ごはん、まだなの。もう少し待ってね」
 再び彼女が声を掛けた。ジークははっとして我にかえると、慌てふためきながらあたりを見回した。間違いなく自分の家だ。もういちど声の主を見る。エプロン姿の彼女は、じゃがいもの皮を剥きながらくすりと笑った。
「おまえ、セリカ……か?」
「そうよ」
 ジークは半信半疑で尋ねたが、彼女は当然のように肯定した。彼はますます混乱した。まだ夢の続きではないかと疑った。思わず頬をつねり確かめてみた。痛みを感じる。夢ではないようだ。わけがわからないといった顔で、唸りながら額を押さえる。
「ちょっと待て。なんでおまえがウチの台所で料理してんだ」
「私がお願いしたのよ」
 隣の部屋で、母親のレイラが声を張った。彼女はダイニングテーブルで、マグカップを片手にくつろいでいた。セリカと視線を交わすと、意味ありげに笑いあった。
 ジークはいまだに状況がさっぱり把握できないでいた。落ち着きなく、母親、セリカと何度も交互に目を向ける。このふたりは知り合いでも何でもないはずだ。なのにどうして——。
 狐につままれたような顔をしている息子を見て、レイラは耐えきれずに吹き出した。
「リックと彼女がウチの前を通りかかったから呼び止めたのよ。パンクしたままだった自転車を修理してもらおうかと思って」
 ジークはようやく合点がいった。しかし——。
「リックはまだいいにしても、なんであいつに昼メシ作らせてんだよ」
 セリカを指さし、呆れ口調で尋ねる。
「ただ待ってもらうのも何だから、ついでにお願いしちゃった」
 年甲斐もなくかわいこぶる母親に、思いきり眉をひそめた。
「ったく、その図々しい性格、なんとかならねぇのかよ」
「人のこと言うまえに、そのカッコなんとかしたら? レディの前でみっともない」
 レイラはすまし顔でそう言うと、お茶を口に運んだ。
 ジークははっとして自分を見た。着古しすぎるほど着古したよれよれのパジャマ。その前のボタンを半分以上はずし、だらしなく胸をはだけさせている。髪も寝癖でぼさぼさになっていることは、容易に想像がつく。
「それを早く言えよ!」
 ジークはカッと顔を赤くして、あわてて二階へと駆け上がっていった。
「顔も洗って来なさいよー」
 レイラは淡々と追い打ちをかけた。
 セリカはそんなふたりのやりとりがおかしくて、くすくすと笑った。

 ジークは一応の身支度を整えると、再び階段を降りていった。ふいにごはんの炊きあがる匂いが鼻をくすぐる。その瞬間、忘れていた空腹を思い出し、急に体から力が抜けるように感じた。ふらつきながら台所に目をやると、リックとセリカが湯気の立ちのぼる鍋をはさみ談笑していた。
「おはよう、ジーク」
 リックは彼に気がつくと、にこやかに挨拶をした。いつもと変わらない穏やかで人懐こい笑顔。ジークは、一瞬、今朝の夢が頭をよぎった。だが、この光景を見ていると、あれはやはりただの夢としか思えなかった。
「悪りィな。なんかこき使って」
「まあ、いつものことだし」
 リックはそう言って笑った。ジークはますます申しわけない気持ちになった。
「リックは手先が器用だから助かるわ。ジークと違って」
 当のレイラはほおづえをつき、呑気にそんなことを言っている。まるで悪びれる様子もない。ジークは腕を組み、白い目を彼女に向けた。
「ジーク、あれからどうしたの? アンジェリカとはあのまま?」
 リックは声をひそめて尋ねた。ジークは途端に顔を曇らせた。
「……ああ」
 沈んだ表情で、沈んだ声を落とす。
「なに、なに? ケンカでもしたの?」
 地獄耳のレイラは、脳天気にはしゃぎながら首を突っ込んできた。
「おまえは黙ってろよ」
 ジークは苛立ちをあらわにした。
「これ、言おうか迷ってたんだけど……」
 リックはそう前置きをして、ジークの目をまっすぐ見つめた。ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「アンジェリカ、すごく悩んでるよ」
「ん? ああ、わかってる」
 それは、リックに言われるまでもないことだ。ジークは肩すかしを喰らったように感じた。アンジェリカが黒い髪と黒い瞳のせいで、親戚たちから蔑まれていたことは、ジークも知っていた。そのことで悩んでいることも、わかっていたつもりだ。ひょっとしたら、そんなこともわからない唐変木だとリックに思われているのだろうか。ジークは怪訝に眉をひそめた。
 しかし、リックが続けて語った話は、ジークが初めて知るものだった。
「自分だけ髪や瞳が黒いのは、遺伝子の異常じゃないかって言ってた。色素がなくて白くなるってのがあるらしくて、自分はその逆なんじゃないかって」
 ジークは腕を組んで首を捻った。
「難しいことを考えるな、あいつ……。どうなんだよ、医学生」
「え? 私?」
 料理を終え、後片づけをしていたセリカは、裏返った声で聞き返した。すぐ背後でなされているふたりの会話に、興味がないふりをしているつもりだった。が、ジークには耳をそばだてていることがばれていたのだろうか。
「おまえ以外に誰がいるんだよ」
 ジークは面倒くさそうに言った。不機嫌に口をへの字に曲げ、彼女を睨む。
「いきなり言われてもわからないけど……」
 セリカは手を拭きながら振り返った。
「役に立たねぇな」
 ジークは顔をしかめ、吐き捨てた。
「ジーク!」
 彼のあまりにあからさまな態度に、温厚なリックも黙ってはいられなかった。
 しかし、それを制したのはセリカだった。
「いいのよ、気にしてないから」
 無理に笑顔を浮かべてそう言うと、話の続きを始めた。
「色素が出来なくて、髪が白かったり瞳が赤いってのは確かにあるわよ。アルビノっていうんだけど。でも、逆は聞いたことないわね」
「アンジェリカもそう言ってたよ」
 リックは頷きながら言った。セリカは口元に人さし指をあて、斜め上に視線を流した。
「でも、たとえ突然変異だったとしても、彼女の場合、問題ないんじゃないかしら。アルビノは色素がないから、光に弱いとか健康上の問題があるけど」
 ジークは目をつぶり、腕を組むと、深く頭を垂れた。懸命に考えを巡らせる。そして、うつむいたまま薄く目を開くと、ぽつりと言葉を落とした。
「違うな」
「え? 何が?」
 リックは大きく瞬きをして尋ねた。だが、ジークは独り言のようにぶつぶつとつぶやくだけだった。
「遺伝子の異常とかだったら、あのジジイがあんなこと言うわけねぇ……」
「あのジジイって、アンジェリカのひいおじいさん? 何を言ったの?」
 リックは眉をひそめて再び尋ねた。ジークを覗き込んでその表情をうかがう。彼は考え込んだ様子で、眉根を寄せ、口をぎゅっと結んでいた。答えようという様子は見られない。
 リックはあきらめたようにため息をついた。
「僕たちに言えないんだったらいいけど、アンジェリカにはちゃんと話した方がいいよ」
 そう言いながら、椅子の上に置いてあった上着に袖を通した。セリカもエプロンを外し、代わりにジャケットを手にとった。
「おい、食ってかねぇのか?」
 リックたちが帰り支度をしていることに気付き、ジークはあわてて尋ねた。リックはにっこりと振り向いて言った。
「うちで母親が待ってるから。もともとそういう予定だったんだよ。ね」
 セリカに同意を求めると、彼女も笑顔で頷いた。
「ふたりともありがとね。また来て」
 レイラは立ち上がり、手を振ってふたりを送り出した。ふたりも手を振りながら去っていった。

「うん、おいしい! 彼女、いいお嫁さんになるわよ」
 セリカの作ったクリームシチューを食べながら、レイラは声を弾ませた。ジークは無反応で黙々と食べ続けた。おいしいとは思ったが、口には出さなかった。
「あのセリカって子、確か、あんたに会いにウチまで来たことあったわよねぇ」
 レイラは記憶をたどるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。ジークはぎくりとして手を止めた。
「だから、何だよ」
 下を向いたまま、つっけんどんに切り返す。しかし、その声には、少しの固さと動揺が感じられた。
 レイラはニヤリと口端を上げた。
「リックにとられちゃったわけね。なっさけない」
「そんなんじゃねぇよ。あいつが勝手につきまとってただけだ」
 ジークは顔を上げることなく反論すると、いらついた様子で白いごはんをかき込んだ。
 そんな息子を見て、レイラはため息をついた。
「ま、本命はがっちり掴んでおくことね」
 軽い調子でそう言うと、彼の鼻先にスプーンを突きつけた。
「ケンカなんてしてる場合じゃないでしょ」
 ジークはどきりとした。レイラはさらにきつい一撃を加えた。
「うかうかしてると、アンジェリカまでリックにとられちゃうわよ」
 ダン!
 ジークは机を叩きつけて立ち上がった。何か言いたげに、瞳を揺らし開いた口を震わせる。しかし、その口から言葉は出てこなかった。
「気にしてたんだ」
 レイラは大きく目を開き、彼を見上げた。ジークは苦々しい顔で目を閉じ、崩れ落ちるように椅子に腰を落とした。顔を隠すように、深くうなだれる。
「あんたがひねくれた態度ばかりとってたら、冗談抜きでそうなっちゃうかもよ。少しは素直になることね」
 母親の冷静で厳しい忠告が、ジークの胸に深く突き刺さった。膝の上にのせたこぶしを、爪が食い込むほどに強く握りしめる。
 レイラはさらりと付け加えた。
「だからって、あちらの親御さんに顔向けできないようなことはするんじゃないわよ」
「するわけねぇだろ!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、大声で言い返した。その一瞬で全身から汗が吹き出した。息を整えながら、冷水が入ったコップを手にとる。
 レイラは両手でほおづえをつき、にこにこして彼を見た。
「なんだよ」
 ジークは少しびくつきながら、訝しげに尋ねた。
「あんたの顔立ちとかさ、だんだんリュークに似てきてるわよね」
 レイラは嬉しそうにそう言った。ジークはそれを聞いて、母親が笑顔で自分を見ていたわけがわかった。リュークとはジークの亡くなった父親のことだ。亡くなってから、もう十年以上になる。確かに似てきているかもしれない——ジーク自身にもそんな自覚はあった。一息ついて、手にしていた水を口に運ぶ。
「だから私、ちょっと心配だったのよ」
 レイラは思い出したように笑った。
「息子に恋しちゃったらどうしようって」
 ジークは飲みかけの水を吹いた。
「でも、内面はいつまでたってもバカなガキンチョのまんまだから、ぜーんぜんそんな気は起こらないけどね」
 そう言って、レイラはカラカラと笑った。ジークは布巾で机を拭きながら、疲れきったようにため息をついた。
「悪かったなバカで。半分は母親の血を引いてんだから仕方ねぇだろ」
「それもそうね、あはははは!」
 思いきり嫌味を言ったつもりだったが、あっさり認められてしまった。どうも調子が狂う。ジークはもう一度ため息をついた。
「リュークか……」
 そうつぶやいたレイラの声には、懐かしさがあふれていた。ジークもつられて父親を懐かしむ。真っ先に思い浮かぶのは、バイクに向かう寡黙な背中と油の匂い。父親の仕事をしている姿を見るのが好きだった。学校帰りにこっそり覗きに行ったりもした。
「生きていれば男どうしでいろんな話ができたのにね」
 レイラはいつになく優しい顔で言った。
「実際生きてたら、あんま話なんてしてねぇと思うけどな」
 ジークは目をそらし、ぶっきらぼうに答えた。だが、聞いてみたいことや話したいことはたくさんある。父親と今の自分が話をしている光景を思い浮かべて、思わず胸が熱くなった。だが——。
「って、こんな話、意味ねぇよ。もう生きてねぇんだし」
 心の幻を打ち消すかのように、冷めた口調でぼそりとつぶやき、仏頂面でほおづえをついた。
「たまにはいいじゃないっ」
 レイラはいつものように、明るい声を張り上げた。
「死んだ人は記憶の中でしか生きられないんだから」
「……それ、ちょっとくさくねぇか?」
 ジークはほおづえをついたままで、じとっと母親に視線を流した。
「やっぱり?」
 レイラはおどけて頭に手をあてた。
「ま、たまにはいいけどよ」
 ジークが無愛想にそう言うと、レイラはにっこりと笑った。両手でほおづえをつき、まっすぐジークの瞳を覗き込む。
「あんたがいてくれて良かった」
「なんだよ、急に」
 柄にもないことを口にする母親に、ジークは少しうろたえた。
「ひとりだったら、とっくに挫けてたわ」
「そうか? ひとりでも結構たくましく生きてくだろ」
 照れくさいものを感じながら、それを見せないようつれない返事をする。レイラは大袈裟に肩をすくめて見せた。
「わかってないわねぇ。女ってものが」
「おまえが女を語るなよ」
 ジークは冷ややかに言った。
「あら、少なくともあんたよりはわかってるつもり……ですわよ?」
 レイラはふざけてそう言うと、自分自身で吹き出した。ジークもそんな彼女につられ、笑顔を見せた。だが、それはすぐに消えた。いつまでこうやって気楽に笑っていられるのだろうか。ふいに表情に翳りを落とすと、ためらいがちに口を開いた。
「あのな……俺、もしかしたら、ヤバい奴を敵にまわすことになるかもしれねぇ」
「なに? ケンカ?」
 レイラは腕まくりしながら身を乗り出した。わくわくして、顔を輝かせている。
「なんで嬉しそうなんだよ! 冗談じゃなくて本当の話だぞ!」
 ジークが呆れたように怒鳴りつけると、レイラは急に真面目な顔になった。
「相手はなんて言ってるの?」
 ジークは返答に困った。どこからどこまで言えばいいのだろうか。少し考えてから、差し障りのない部分をかいつまんで話した。
「手を引かなければ、俺のことを潰すつもりらしい。多分、裏から手をまわして就職できないようにするとか……そんなことじゃねぇかと思う」
「あんたの気持ちは決まってるわけ?」
 レイラはまっすぐにジークを見据えた。ジークは逃げるように視線を外した。
「正直、怖ぇ。でも……」
 そこで言葉が途切れた。そのままうつむき、唇を噛みしめる。
「そうね。よく考えて、後悔の少ない方を選ぶことね」
 レイラはきびきびと言った。
「考えなしにバカやるのは止めるけど、しっかり考えて覚悟のうえでなら、何も言わない」
 めずらしく真剣な母親の言葉が、ジークの心に静かに響く。彼はうつむいたまま目を細めた。
 レイラはぱっといつもの明るい表情に戻った。
「ま、ホントに社会から干されたとしても、あんたひとりくらい私がなんとかしてあげるわ。だてに四十年、生きてないのよ」
 あははと笑いながら、大きく胸を張った。
 ジークはそう言われても、少しも安心できなかった。ラグランジェ家の仕打ちがそんなに生易しいものとは思えなかったのだ。それでも、母親のその気持ちはありがたかった。
「四十二年だろ」
 ジークはいつもの憎まれ口を返した。レイラはニッと笑って彼を見た。
「細かい男は嫌われるわよ」
 そう言って、まだ暗い顔をしている息子の鼻をつまんだ。

 昼食を終え、ジークは自分の部屋に戻ってきた。敷きっぱなしの布団の上に、ごろりと転がる。カーテンは半分だけしか開かれていなかったが、真昼の強い陽射しが差し込み、眩しいくらいだった。光から逃れるように背を向けると、体を丸め、ゆっくりと目を閉じた。
 アンジェリカ——。
 頭の中に広がる暗闇で、小さくその名をつぶやいた。彼女の笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、さまざまな表情が次々と浮かんでくる。
 ——笑うときも怒るときも、あいつはいつもまっすぐ俺を見てたな……。俺は、どうだった。顔をそむけてはいなかったか。
 ジークはゆっくりと目を開いた。仰向けになり、天井を見つめる。
 ——あいつの気持ちはわからない。だけど、もし、俺といることを望んでくれるとしたら……。そうしたら、俺は……。
 その顔に次第に赤みがさしていく。とっさに枕元に落ちていた上着をつかみ、頭に覆い被せた。


 アンジェリカは窓を開け、濃紺色の空を見上げた。かすかな夜風が、ほてった頬を冷まし、薄いレースのカーテンをひらひらと揺らす。
 うそつき——。
 きのう、ジークに言ってしまったひとこと。それが頭から離れない。何度も何度もリフレインする。
 ジークが嘘つきなら、私は卑怯ものね。
 黒髪がさらさらと頬にかかる。潤んだ目を細め、窓枠にもたれかかりながら、今日何度目かのため息をついた。

 アンジェリカは部屋を出ると、階段を降り、リビングルームに向かった。その途中、ダイニングルームの明かりがついていることに気がつき、何気なく覗き込んだ。
「あら、アンジェリカ」
 萌黄色のネグリジェを纏ったレイチェルが、笑顔で振り返った。右手にはコーヒーカップ、左手には牛乳瓶を持っている。
「あなたも飲む? ホットミルク」
「うん」
 アンジェリカは言葉少なにテーブルについた。
「お父さんはまだ帰ってないの?」
「今日は帰れそうもないんですって。最近、また忙しいみたいね」
 レイチェルは牛乳を火にかけながら答えた。
「そう」
 アンジェリカは無表情でほおづえをついた。そして、口をついて出そうになったため息を、ぐっと呑み込んだ。
「どうしたの? 今日はずっと沈んだ顔をしていたけど」
 レイチェルは背を向けたまま尋ねた。アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「そう、だった?」
「ええ、隠しているつもりだった?」
 そう尋ね返されて、困ったような複雑な表情ではにかんだ。

 かすかに甘い匂いが立ちのぼる。レイチェルはカップをふたつ手に持って振り返った。ひとつをアンジェリカに手渡し、自分も席についた。
「ありがとう」
 アンジェリカはそのホットミルクにそっと口をつけた。ほっとするような優しい温かさが体の中から広がる。固かった表情も次第にほぐれていった。
「おいしい」
「そう、よかった」
 レイチェルは大きくにっこりと笑った。そして、自分もホットミルクを口に運んだ。
「ねぇ、お母さん」
 アンジェリカはカップに両手を添え、顔を上げた。
「なぁに?」
 レイチェルは微笑みながら、大きな瞳を彼女に向けた。
「今日、一緒に寝てもいい?」
 アンジェリカは遠慮がちに尋ねた。
 レイチェルは目を見開き、きょとんとした。しかし、すぐに優しい笑顔を浮かべると、あたたかい声で答えた。
「もちろんよ」
 その言葉を聞いて、アンジェリカは少し照れ笑いしながらほっと息をついた。

「さあ、どうぞ」
 レイチェルに促されて、アンジェリカは両親の寝室に足を踏み入れた。もちろん初めてというわけではないが、あまりここに入ることはなかった。前に来たのは数年前——アカデミー入学以前である。だが、そのときに見た光景とほとんど変わっていない。懐かしさを感じながら、彼女はベッドにもぐり込んだ。レイチェルも、明かりを消すと、反対側からベッドに入った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 ふたりは挨拶を交わすと、暗い中でおでこを合わせ、にっこりと笑いあった。

「……きれいな髪」
 アンジェリカは唐突にぽつりとつぶやいた。
「え?」
 もう眠ったかと思っていた娘の声に、レイチェルは少し驚いて振り向いた。アンジェリカは横になったまま、彼女の長い髪を指でなぞった。カーテンの隙間からわずかに漏れ入る月明かりが、その柔らかな金の髪をほんのりと白く光らせる。まるで上品なプラチナを思わせる輝き。それは、神秘的とさえ形容できるものだった。アンジェリカは小さくため息をついた。
「本当にきれい」
「アンジェリカ、あなたの髪もきれいよ」
 レイチェルは感情を込めてそう言うと、彼女の手をとり包み込んだ。だが、その返答は素っ気ないものだった。
「そうかしら?」
 彼女の言葉には否定的な響きが含まれていた。それでもレイチェルはあきらめなかった。黒髪をゆっくりと撫でながら、にっこりと笑いかけた。
「私は好きだわ」
「この髪のせいで、お父さんとお母さんに迷惑を掛けてる」
 アンジェリカは眉根を寄せた。レイチェルは彼女の額に、自らの額をコツンと付けた。
「あなたに迷惑を掛けられたなんて、少しも思っていないわ」
「でも、事実よ」
「あなたのせいじゃない」
 ピシャリと言い放ち、そっとアンジェリカの頭を抱き寄せる。
「誰かのせいにしたいのなら、私を責めて」
 アンジェリカは目を見開き、息を呑んだ。耳元で静かに落とされた母親の声は、何かを深いものを秘めているように感じた。つらいのは自分だけではない。そんなことはわかっていたつもりだったのに。こんなことを言っても困らせるだけなのに——。
「でもね」
 アンジェリカが謝ろうとした矢先に、再びレイチェルが口を開いた。抱えていた娘の頭を離し、まっすぐに黒い瞳を覗き込む。
「私は、あなたが私の……私たちの娘でよかった、心からそう思っているわ。それは信じて」
 アンジェリカの胸に、熱いものがこみ上げてきた。自分が不安になったとき、信じられなくなったとき、黒い気持ちが沸き上がったとき——そんなときはいつだって、父も母も、迷わずそう言ってくれた。何度も何度もこの言葉に救われた。そして、今も——。
「私も、お父さんとお母さんの娘でよかった……って……」
 うっすらと潤んだ目を細め、言葉を詰まらせる。レイチェルは優しく微笑み、娘の頬にそっと手をのせた。
「何か、あったの?」
 そう尋ねられるのも仕方ないとアンジェリカは思った。一緒に寝たいなどと言ったのは初めてだったし、普段は触れないようにしている髪の色の話題を持ち出したり、確かに普通ではなかった。
 そして、実際に“何か”あった。
 きのうの出来事が頭をよぎる。曾祖父のこと、ジークのこと——。
「……私、ジークにひどいことを言ってしまったの」
 天井を見つめ、掛け布団をぎゅっと握りしめた。
「悪いことをしたと思うなら、素直に謝ることね」
 レイチェルは穏やかな口調で、諭すように言った。アンジェリカは口元まで布団を引き寄せた。
「許してくれるかしら」
 横目でちらりと母親を窺う。
「さあ、それはわからないわ。ジークさんが決めることだから」
 穏やかな声だが、その内容は厳しいものだった。アンジェリカはわずかに顔を曇らせた。レイチェルは彼女の前髪を、ゆっくりと掻き上げた。
「でもね、謝るということは、許しを請う行為ではなくて、自分の非を認めてそれを伝える行為なのよ」
 アンジェリカははっと目を見開いた。
「だから、許してくれるかを考えて行動するのは、間違ってるんじゃないかしら」
 レイチェルは淡々と言った。だが、その言葉には優しさがあふれていた。アンジェリカも十分にそれを感じとっていた。
「そうね、そうよね」
 彼女は自らに言い聞かせるように言った。そんな娘を見て、レイチェルは包み込むように笑いかけた。
「お母さん……」
 アンジェリカは母親の胸元に顔を寄せた。あたたかく、柔らかい。
「もっと、こうやって甘えてくればよかった」
「今からでも遅くないんじゃない?」
 レイチェルは彼女の背中に手をまわし抱き寄せた。アンジェリカはぬくもりの中でゆっくりと目を閉じた。

 目の覚めるような冷たい空気が頬を刺す。空が白み始めた中を、サイファは家路についていた。
 さすがに疲れたな——。
 首をまわし、凝り固まった肩をほぐすと、小さく息をついた。このところ仕事が忙しいうえ、ラグランジェ家の雑務や個人的な調べものなどで、帰りの遅い日が続いている。今日のように明け方になることもたびたびあった。普通ならいっそ帰らないという選択肢もあるだろうが、彼には考えられなかった。どんなに短い時間であったとしても帰りたい、帰ってレイチェルの顔を見たいという思いが強かった。
 サイファは裏口から家へ入った。静まり返った広い屋敷に、乾いた靴音が響く。かろうじて足元が見えるくらいの薄明かりの中を、まっすぐ寝室へと歩いていく。
 ギ……。
 サイファはそろそろと扉を押し開けた。音を立てないよう足先に神経を集めながら、そっと中に入る。
 ——アンジェリカ?
 レイチェルに寄り添う黒い頭が目に入り、一瞬、息が止まった。だが、ベッドを覗き込み彼女であることを確認すると、安堵して胸を撫で下ろした。なぜここにいるのかという疑問が頭をかすめたが、すやすやと眠っているふたりを見ていると、そんなことはどうでもよくなった。自然と頬が緩んでくる。疲れさえも忘れてしまう。いつまでもこの光景を見ていたい、そんな思いにとらわれた。
「う……ん……」
 アンジェリカは小さく声を漏らしながら、寝返りを打った。そして、ぼんやりと目を開いた。
「お父さん?」
「ごめんね、起こしてしまったね」
 サイファはしゃがんで彼女を覗き込み、にっこりと笑いかけた。アンジェリカは目をこすりながら、あたりを見回した。
「そうだわ……ここはお父さんとお母さんの寝室……」
 いまだにはっきりしない頭で、確かめるようにつぶやくと、ぼうっとしながら体を起こした。
「ごめんなさい、自分の部屋に戻るわ」
「いや、ここにいてくれ」
 不思議そうな顔を向けるアンジェリカの頬に、サイファは手を添えた。
「ひとつのベッドに三人並んで寝るのも、たまには悪くないだろう? アンジェリカは嫌か?」
「ううん、嬉しい」
 アンジェリカは眠そうな声でゆったり答えると、とろけるように微笑んだ。そして、彼の袖を掴み、自分の方へ引っ張った。
「急かさなくても逃げはしないよ。まずは着替えないと……」
 サイファはそう言いかけて、思い直した。とりあえずはこのままでもいいか。アンジェリカが寝ついてから着替えればいい——。ふっと表情を緩めると、彼女にせがまれるままベッドに入り、その隣に体を横たえた。ふたりは顔を見合わせて、小さく笑いあった。
「お父さん、大好きよ」
 囁くようにそう告げられて、サイファはくすぐったいものを感じた。愛おしげに目を細め、微笑みかける。そして、彼女を抱き寄せると、やわらかな頬にそっと口づけた。

 しばらくすると、アンジェリカは父親の胸の中で、静かに寝息を立て始めた。サイファは優しく彼女の頭に手をまわした。
 いつのまにか目を覚ましていたレイチェルは、そんな彼を見て、にっこり微笑んでいた。それに気づいたサイファも微笑みを返した。言葉はなくとも、ふたりにはそれだけで通じ合うものがあった。


71. 一緒にいたい

 リックは居心地の悪さを感じていた。その原因はジークとアンジェリカである。ふたりはまだ休日前の言い合いを引きずっているようだった。まったく口をきかないということはなかったが、ときどき交わす言葉はぎこちなく、その間には妙な緊張感が漂っていた。互いに思いつめた表情を浮かべ、何か機会をうかがっているように見えた。
 リックにはそれがもどかしかった。よほどおせっかいを焼こうかと思ったが、ふたりで解決すべき問題だと思い直し、この空気に耐えることにした。

「アンジェリカ」
 放課後になり、ジークはようやく切り出した。いつになく固いその声に、彼女はびくりとした。だが、それを悟られないよう平常を装った。
「……なに?」
「話がある。ちょっと付き合ってくれ」
 ジークは視線を外し、ぶっきらぼうに言った。アンジェリカは、彼の横顔を見上げた。
「私も、話があるの」
「あ、ああ……」
 ジークは彼女に背を向け、口ごもりながら返事をした。
 リックはにこにことして、その様子を見守っていた。ジークはそれに気がつくと、後ろから乱暴に彼の首に腕をまわした。そして、ぐっと力をこめ、首を絞めるようにして耳打ちした。
「おまえ、ついて来るなよ。絶対に、来るんじゃねぇぞ」
「そんな野暮なことはしないよ」
 リックは苦しそうに笑いながら、声をひそめて言った。
「おまえには覗きの前科があるからな。クギ刺しとかねぇと」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。あれは出ていくタイミングが掴めなかっただけだって」
 以前、ジークとセリカが話しているときに、リックがこっそりと隠れて聞いていたことがあった。ジークは、そのときのことをまだ根に持っているようだった。大雑把な性格のわりには、細かいことをいつまでも覚えている。リックは苦笑いした。
「とにかく、来るんじゃねぇぞ」
 ジークはもういちど念押しすると、リックを解放した。そして、ポケットに両手を突っ込むと、アンジェリカの前を足早に横切った。
「行くぞ、アンジェリカ」
 扉に手を掛けると、後ろでぼんやりしていた彼女に声を掛けた。
「あ、うん」
 アンジェリカは小走りで彼のあとを追っていった。

 ふたりはアカデミーを出て、無言で歩き続けた。ジークはポケットに手を突っ込んだまま、無表情で歩を進める。アンジェリカは、彼がどこへ向かっているのか気になったが、尋ねることはできなかった。

 突然、視界が広がり、風が吹き上げた。
 アンジェリカは短いスカートを押さえながら、ぐるりと見渡した。
「ここって……前に来たところね」
 下方に広がる白い川原と透明なせせらぎ。上方に広がる青い空。それらが交わる場所を、沈みゆく太陽が朱色に染め上げている。細やかに揺れる水面がきらきらと輝きを放ち、緩やかな流れがさらさらと上品な音を立てている。
「覚えてたのか」
 ジークは薄汚れたガードパイプに手を掛け、振り返った。
「忘れるわけないじゃない」
 彼女も並んでガードパイプに手を置いた。にっこり笑って彼を見上げる。
「試験中だったのに、ジークに言いくるめられて連れてこられたのよね」
「言いくるめてって何だよ」
 ジークは少し頬を赤らめながら言い返した。
「あのときは確か、ふたりとも転んで水をかぶって……」
 アンジェリカはそこまで言うと、急にうつむき口をつぐんだ。ジークも同じようにうつむいた。ガードパイプに掛けた手に、ぐっと力を込める。そして、川原へと続く石段を無言で降り始めた。アンジェリカも黙ってそのあとに続いた。
「座れよ」
 ジークは下から二段目の石段に腰を下ろすと、その隣をパンパンと叩いた。アンジェリカはこくりと頷くと、スカートの後ろを押さえながら素直に座った。しかし、そこは二人が並んで座るには狭い場所だった。少しでも動くと、腰や肩が触れてしまう。ふたりはぎこちなく体をこわばらせた。
「ジーク」
 アンジェリカは下を向き、膝を抱えたまま呼びかけた。彼は、視線だけを彼女に流した。
「私の話から聞いてほしいの。いい?」
「ん、ああ……」
 そういえば、彼女も話したいことがあると言っていた。ジークは自分のことに精一杯で、今まですっかり忘れていた。何の話だろうか、急に不安が湧き上がってきた。
 アンジェリカは意を決したように、ジークに振り向いて言った。
「ごめんなさい、わたし、うそつきなんてひどいことを言ってしまって」
「ああ、そのことか」
 ジークは前を向いたまま、固い声で言った。すぐ横に彼女の顔がある。近い。動くことも目を向けることもできない。
「別にそんな気にしてねぇよ。俺も悪かったし」
「本当に?」
 アンジェリカは首を伸ばし、さらに顔を近づけた。ほとんどジークの肩に寄りかかるような格好になっている。
「ああ」
 ジークは息が止まりそうになりながら、ようやくそれだけの返事をした。
「よかった」
 アンジェリカは短いスカートをひらめかせながら、軽やかに川原におりた。そして、後ろで手を組むと、くるりと振り返った。心のつかえがとれたように、屈託のない笑顔を見せている。
 ジークはほっと息をつき、少し疲れた顔で笑った。それから、斜め下に視線を落とすと、ぽつりと尋ねかけた。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
「なに?」
「うそつきって、どういう意味で言ったんだ?」
「あ、それは……」
 アンジェリカは口ごもりながら目を伏せた。
「ひいおじいさまの話が……私とは関係ないって言ったから……」
 どこか不安定な表情で、自信なさげに訥々と言葉を落としていく。
「だよな、そうだよな」
 ジークは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。膝に腕をつき深くうなだれると、自嘲の表情を浮かべ、声なく笑った。
「じゃあ、次はジークの話」
 アンジェリカは明るい声を作り、少しあわてたように話題を切りかえた。
 ジークは体を起こし、まっすぐ彼女を見つめた。
「おまえがアカデミーに入学したのは、何のためだ」
「え?」
 アンジェリカは首をかしげ、怪訝に彼を見た。怖いくらいの真剣な顔。彼女は気圧されて息を呑んだ。とまどいながら話し始める。
「私のことを認めさせたかったから……。こんな髪で、こんな瞳だけど、私もラグランジェ家の人間だって、呪われた子なんかじゃないって、魔導の実力で証明したかった」
 「証明して、どうするつもりだったんだ」
 ジークは彼女を見据え、静かに尋ねた。アンジェリカは困惑して眉をひそめた。
「どうするって、別に……。ただ、見返したかっただけよ」
 ジークは背中を丸め、大きくため息をついた。
「バカ。もっと考えてから行動しろよな」
「バカって何よ!」
 アンジェリカはカッとして言い返した。腰に手をあて、口をとがらせ、ジークを睨む。だが、彼はうつむいたまま、ぽつりと言った。
「証明……しちまったのかもしれねぇな」
「えっ?」
「認める気になったかって聞いたら、当たらずとも遠からずって言ってたぜ、あのジイさん」
 アンジェリカはきょとんとした。
「ひいおじいさまが……?」
「ああ」
「それってどういう意味かしら」
 ジークは目を細め、暮れかかった空を見上げた。
「おまえの魔導の実力だけは認めたってことかもな」
「…………」
 アンジェリカは複雑な表情で立ちつくした。後ろから風が吹き、黒髪をさらさらと舞い上げる。
 ジークは空を見つめたまま、眉根を寄せた。
「もうすぐ正式決定になるらしいぜ。おまえが本家を継ぐって話」
「……そう」
 彼女はたじろぎもせず、そのひとことだけを口にした。ジークはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「だから、あれ、おまえが言ってたっていう遺伝子がどうとかって話、あれは違うんじゃねぇのか? もし異常があるんだとしたら、本家を継がせたりしねぇだろ」
 アンジェリカは大きく瞬きをした。
「リックに聞いたの?」
「ああ」
 確かに、口止めはしなかった。彼を責めることはできない。ただ、リックが口外するとは思わなかった。アンジェリカは何ともいえない顔で目を伏せた。
「心配してたぜ、あいつも」
 ジークはそう言ってリックをかばった。だが、その表情は浮かないものだった。
「……なんでリックなんだよ。俺ってそんな頼りねぇか?」
 アンジェリカは不思議そうに彼を見た。
「別に相談したわけじゃなくて、話の流れで言ってしまっただけなんだけど……」
「それにしてもだな」
 ジークはそこまで言うと、顔をしかめて自分の額を叩いた。
「悪りィ。言いたいのはそういうことじゃなくてだな、とにかくおまえはどこも悪くなんかねぇってことだ」
「ひいおじいさまたちが気づいていないだけ、かもしれないじゃない」
「そんなに抜けてるヤツじゃねぇだろ」
「……だったらいいんだけど」
 アンジェリカはあまり信じていない様子だった。後ろで手を組むと、敷き詰められた小石に踵を打ちつけた。ジャッ、と濁った和音を奏でる。
 ジークは、彼女の言動に不安を掻き立てられた。
「おまえは望んでねぇんだろ、本家を継ぐなんてこと」
 少し早口で尋ねかける。アンジェリカは目を細め、じっと彼を見つめた。
「……昔は、望んでいたかもしれない」
 不安は現実になった。後頭部を殴られたかのような衝撃。一瞬、めまいがして目の前が暗くなった。
「今は、違うんだろ?」
 乾いた喉から言葉を絞り出す。一縷の望みにすがる気持ちだった。額には汗がにじみ、眉はかすかに震えていた。必死であることは一目瞭然だ。
 だが、アンジェリカはそれには答えず、質問を返した。
「相手のこと、言ってた?」
「いや……」
 はぐらかされた。そう思ったが、もういちど尋ね直すことは怖くて出来なかった。
「ひいおじいさまは、どうして私の話を、わざわざジークにしたのかしら」
 アンジェリカは目を細めて広い空を見上げた。ジークは困ったように顔をしかめた。
「それは……」
 少し言い淀んだあと、慎重に言葉を選び答えていく。
「おまえと仲良くすんな……って言うため、だったんだろうな」
「そう、言ったの?」
「そんなようなことをな。でも、俺は……」
「もう、一緒にいない方がいいわね」
 アンジェリカはぽつりと言った。ジークの顔から一気に血の気が引いた。
「おまえ、本気なのかよ!」
 石段から飛び上がるように立ち上がる。
「なんでだよ! まさか、本当に本家を継ぐ気なのか?!」
 アンジェリカは無言で目を伏せた。ジークはこぶしを握りしめ、彼女に詰め寄った。ジャッ、と小石が耳をつんざく音を立てる。
「おまえはそれでいいのかよ。レオナルドか誰かわかんねぇけど、そんな男と……!」
「これは私の問題なの!」
 アンジェリカはよく通る声で、彼の言葉を遮った。そして、凛とした瞳を向け、静かにはっきりと言った。
「ジークは巻き込めない」
「もう巻き込まれてんだよ!」
 ジークはむきになって言い返した。だが、彼女は冷静だった。淡々と言葉を紡いでいく。
「だから、ここで手を引いて。取り返しがつかなくなる前に」
「冗談じゃねぇぞ。絶対に引かねぇからな」
 ジークは奥歯を噛みしめ、低く唸るように言った。
「ジークがいたって何も変わらない。無駄にひどい目に遭わされるだけよ」
「そんなのわかんねぇだろ!」
 ジークは必死に食らいついた。ここであきらめたら何もかもが終わってしまう。そんなふうに感じていた。
 アンジェリカの表情がわずかに揺れた。
「……私が本家を継ぐことを望んでるって言ったら?」
「うそつきって言葉を返してやるよ」
 ジークは彼女の瞳をまっすぐ見つめた。その大きな漆黒の瞳は、次第に潤んでいった。
「ジークは知らないのよ。ひいおじいさまのことを、ラグランジェ家のことを」
「わかってるさ」
 ジークは実感をこめて言った。もしかしたら、アンジェリカよりも——。そう思ったが、口には出さなかった。真摯なまなざしで、じっと彼女を見つめる。
「覚悟は決めてんだ」
 アンジェリカは泣きそうに目を細めた。
「どうして? いつも私のせいで、かぶらなくていい火の粉をかぶって……。私、そんなのもう耐えられない」
「耐えろよ!」
 ジークは彼女の両肩に手をのせ、ぐっと力をこめた。
「少しでも俺のことを思ってくれるなら……」
「何よそれ、むちゃくちゃよ。ジーク、おかしいわ」
 アンジェリカは顔をゆがめ、ゆっくりと首を振りながら、ジークから逃れようとした。しかし、彼は手を緩めようとはしなかった。
「おまえはさっき自分の問題だって言ってたけど、おまえだけの問題じゃねぇ。俺の問題でもあるんだ」
「なに言ってるの? 全然わからない」
「わかれよ!!」
 もどかしげに眉をしかめながら、大声で叫んだ。彼女の肩を掴む手には、無意識に力が入る。食いしばった奥歯から、くっと小さく声が漏れた。
 限界だった。
 説得する言葉が見つからない。
「俺は……!」
 耐えかねたかのように、彼女を勢いよく引き寄せた。その小さな背中に手をまわすと、力いっぱい抱きしめた。
「わかれよ……ガキじゃ、ねぇんだろ」
 微かに甘い匂いのする黒髪に頬を寄せ、耳元でつぶやくように言葉を落とした。彼女の華奢な体を、腕に、胸に感じる。あたたかく、そして柔らかい。ジークはさらに腕に力をこめた。
「……ジーク、苦しい」
 アンジェリカは小さくかすれた声を漏らした。ジークははっと我にかえると、あわてて腕を離した。顔を赤らめながら横を向き、うつむいて額を押さえた。
「悪かった……でも、俺、おまえに何を言われても、引く気はねぇからな」
 アンジェリカは眉根を寄せ、彼の横顔を見つめた。ぎゅっと握りしめた手を、胸元に押し当てる。冷たい風が吹き抜け、頬の微熱をさらっていった。同時に、落陽の最後の余韻も掻き消した。

「ジーク、まだ寝てるんですか?」
 リックが驚いて尋ねると、レイラは扉にもたれかかり、困り顔で肩をすくめた。
「寝てるっていうか……きのうずいぶん落ち込んで帰ってきたと思ったら、ごはんも食べないで部屋に閉じこもっちゃって。それきりなのよ」
 リックは眉をひそめて顔を曇らせた。
「僕、様子を見てきます!」
 そう言うなり家に駆け込み、二階へと突進していった。
「ジーク!」
 大声とともに、乱暴に扉を開け放つ。彼は狭い部屋で頭から布団をかぶり、体を丸めていた。
「俺、休む……」
 布団からくぐもった弱々しい声が聞こえた。
「きのう、アンジェリカと何があったの?」
 リックは戸口に立ったままで尋ねた。だが、布団がほんの少し動いただけで、返事はなかった。
「売り言葉に買い言葉で、ケンカをこじらせちゃった、とか?」
「……もっと悪い」
 ジークは布団の中でさらに丸まった。膝を抱え、頭をうずめる。
 ——最低だ。自分の気持ちばかり押しつけた。感情が高ぶっていたとはいえ、あれはひどい。怖がられても嫌われても、当然の報いだ。彼女の曾祖父に引き裂かれるまでもなく、もう口もきいてもらえないかもしれない。そう思うと、いくら後悔してもし足りない。そのくせ、彼女を抱きしめた感触を思い出しては胸が熱くなる。顔が赤くなる。本当に最低だ。とことん自分が嫌になる。
「逃げても解決しないよ。悪いと思うなら、謝らなきゃ」
 リックの言うことはもっともだった。わかってはいるが、そうするだけの勇気はなかった。とても顔など会わせられない。
「ジーク!!」
 リックは勢いよく掛け布団を剥ぎ取った。

 ふたりは遅れてアカデミーにやってきた。もうとっくに授業が始まっている時間だ。それでもジークの足どりは重い。リックは、そんな彼を急き立て、引っ張っていった。
 教室まで来ると、ふたりは後ろ側の扉を開け、身を屈めながらそっと入っていった。教壇のラウルはそれに気づいたが、冷たく一瞥しただけで何も言わなかった。アンジェリカもちらりとジークに目を向けた。ジークは彼女の視線を感じたが、顔を向けることは出来なかった。どんな表情をしているのか、見るのが怖かった。

「どうしたの? ふたりとも。遅刻なんて初めてじゃない?」
 授業が終わるなり、アンジェリカはジークの席に駆け寄った。少し心配そうにしているが、怒ったり呆れたりしているようには見えない。リックは拍子抜けした。ジークの様子からすると、取り返しのつかない喧嘩をしたものとばかり思っていた。なのに、彼女の方はいたって普通で、いつもと何ら変わったところはない。どういうことなのだろうと首を傾げながら、ジークに振り向いた。だが、彼もまた驚いていた。その驚き方はリックの比ではない。ぽかんと口を半開きにしたまま、呆然と彼女を見上げている。
「……あ……きのうのこと……」
 うわごとのように声を漏らす。アンジェリカは後ろで手を組み、にっこり笑って彼を覗き込んだ。
「私ね、ジークのことを、もっと信用することにしたの」
「え?」
 ジークは、近すぎる彼女から逃れようと、上体を後ろに引いた。椅子から落ちそうになり、あわてて背もたれに手を掛ける。
 アンジェリカは顔の前で両方のこぶしをぎゅっと握りしめ、ぐっと気合いを入れた。
「だから、ひいおじいさまに負けないでね!」
「あ、ああ……」
 ジークはわけがわからないまま、彼女の勢いに圧されて何となく返事をした。アンジェリカは不満げに口をとがらせた。
「もうっ! もっと強気な返事を聞きたいわ」
「……絶対に、負けねぇ」
 ジークはぽつりと言った。いまだに状況が飲み込めない。
「ちょっと力強さが足りないけど、まあいいわ」
 アンジェリカは顔を弾けさせて笑った。
「おまえ、なんで……」
 ジークはとまどいながら尋ねた。
「わかれよって言ったのはジークじゃない」
 アンジェリカは当然のように言った。
「それに……」
 真顔でジークを見つめる。そして、肩をすくめるとにっこり笑った。
「私も、本当は、ずっとジークと一緒にいたいもの」
 ぎゅるぎゅるぎゅる——。
 ジークのおなかが派手に鳴った。三人は顔を見合わせた。アンジェリカとリックは同時に吹き出し、くすくすと笑った。ジークの顔は、みるみるうちに真っ赤になっていった。
「そういや、今朝もきのうの夜も、何も食ってなかった……」
「じゃあ、早く行きましょう、お昼を食べに。三回分、食べなきゃね」
 アンジェリカは彼の腕を引っ張った。
「そんなに食ったら、ハラ壊すって」
 ジークは頭を掻きながら立ち上がった。
「ジークなら大丈夫よ」
「おまえ、俺を何だと思ってんだよ」
 ふたりは顔を見合わせて、そんな会話をしていた。いつものように、いつもより近い距離で、並んで歩いている。リックは、事情はよくわからなかったが、上手くおさまった様子なのを見て、ほっと安堵した。
「リック、何してるの? 行きましょう」
 足が止まったままの彼に気づき、アンジェリカは笑顔で呼びかけた。その隣で、ジークは照れたような、ばつが悪いような、複雑な笑みを浮かべていた。
「ごめん、いま行く」
 リックはにっこりと笑って駆け出した。あとで、ジークから詳しい話を聞き出そうと心に決めた。


72. あきらめ

 むせ返るような強い消毒液の匂い。
 レオナルドはあからさまな嫌悪を示した。腕を組みながら壁にもたれかかり、うつむき加減に顔をしかめる。
「治らないと言ったくせに、いつまでこんなことを続けるんだ」
 吐き捨てるように言うと、あごを引いたまま、上目づかいで前を凝視した。その先にいたのは、ラウルとユールベルだった。向かい合って椅子に座っている。ラウルは彼女の目を診察すると、手際よく包帯を取り替え始めた。
「嫌なら来なくていい。何度も同じことを言わせるな」
 面倒くさそうに、突き放した答えを返す。レオナルドはますます顔をけわしくした。
「おまえは優秀な医者だという話だが、たいしたことはないんだな。それとも手を抜いているのか?」
 ラウルはまるで取り合わなかった。無言でユールベルの頭に包帯を巻きつけている。しかし、彼女の方が、その言葉に反応した。大きく右目を開き、ラウルを見つめる。
「……治せるの?」
「レオナルドの言葉など真に受けるな」
 ラウルは彼女を引き寄せ、頭の後ろで包帯を結んだ。そして、頬に軽く手を置くと、椅子をまわし机に向かおうとした。だが、彼女が腕をつかみ、それを止めた。
「私のことが嫌いだから手を抜いているの? 私があなたを困らせてばかりだから、その仕返し?」
 張りつめた表情で問いかける。ラウルは目を閉じ、ため息をついた。
「治せないものは治せない」
「お願い、私が悪かったのなら謝るわ。目は見えるようにならなくてもいい。せめて、醜い傷跡だけでも……」
 ユールベルは、彼の腕をつかむ手に力を込めた。細い指がかすかに震えている。それでも、ラウルの心は動かなかった。
「何度言われても答えは変わらない」
 素っ気なく彼女の手を払い、机に向かう。そして、薄く黄ばんだカルテに万年筆を走らせた。さらさらと軽い音が部屋を舞う。ユールベルは目を伏せた。

「アンジェリカは治したんじゃないのか」
 レオナルドが思い出したように口を切った。ラウルが振り向くと、彼は無言で脇腹を指さしてみせた。どうやらセリカに刺されたときのことを言っているらしい。
「わずかに痕が残っているはずだ」
「わずかに、か」
 ラウルの言葉の一部を、レオナルドは嫌みたらしく強調して繰り返した。
「あれとは状況も状態も違う」
 ラウルは冷静に答え、机に向き直った。再び手を動かし始める。レオナルドは腕を組み、口をへの字に曲げ黙り込んだ。

「嘘よ!」
 静寂を裂く叫び声。それはユールベルが発したものだった。椅子から立ち上がり、握りしめたこぶしを震わせている。
「やっぱり私だからなのよ」
 だが、ラウルはカルテに向かったまま、視線を上げようともしなかった。ユールベルは彼の冷淡な横顔をきつく睨みつけた。その目には涙がにじんでいた。
「弁解くらいしたら? それでも医者なの?」
 震える声で責め立てる。それでも、彼はまるで無反応だった。ユールベルは唇を噛みしめうつむいた。そして、ゆっくりと、思いつめた顔を上げた。
 ——シャッ!
 ラウルの頬に冷たい刃が押し当てられた。ユールベルの仕業だった。机の上のペン立てからカッターを取り、その刃をあてがったのだ。
「ユールベル!」
 レオナルドは壁から跳ねるように身を起こした。
「あなたも少しは思い知るといいわ」
 彼女にはレオナルドの声など少しも届いていないようだった。まっすぐにラウルを睨み、カッターを持つ手にぐっと力を入れた。固い頬に、わずかに刃が沈む。
 だが、ラウルは平然として微動だにしなかった。
 ユールベルの顔がこわばった。微かなとまどいの色が浮かぶ。怯えるようにわななく手でゆっくりと刃をずらしていった。彼の頬に赤い一筋が浮かぶ——。
「いいかげんにしろ」
 ラウルは横目でギロリと睨めつけた。彼女が怯んだその瞬間、彼は素手で刃をつかみ、強く握りしめた。手から赤い血が滴り、手首、肘へと伝っていく。そして、さらに力を入れると、刃だけを根元からへし折った。
 ユールベルは青ざめ、呆然と立ち尽くしていた。柄だけになったカッターが手から滑り落ち、床の上で乾いた音を立てた。
 ラウルは血まみれの刃を、机の上に投げ捨てた。そして、おもむろに立ち上がると、真っ赤に染まった手を彼女へと伸ばした。
「い……いや……」
 顔を引きつらせ、震えながら後ずさる。頭をぎこちなく横に振り、精一杯の拒絶を示した。だが、ラウルは容赦なく距離を縮め、流血する手のひらを、彼女の眼前に突きつけた。顔に生温いものが滴り流れる。それは、白いワンピースにも落ちていき、胸元を赤く染めた。
「見ろ。おまえの行動の結果だ」
「違う……私、こんなつもりじゃ……私じゃ……私じゃない!」
 ユールベルは顔をそむけ、目をつむり、声の限りに叫んだ。その直後、糸が切れたように、膝からガクンと崩れた。ラウルは素早くそれを抱きとめた。床に倒れ込むすんでのところだった。意識を失った彼女は、力の抜けた体を、すっかりラウルに預けている。
 レオナルドは動くことも声を発することもできず、ただその光景を目に映すだけだった。顔からは血の気が失せ、足はカクカクと震えている。立っていることさえ危うい状態だ。
「出ていけ」
 ラウルはぞっとするほど冷たい視線を彼に向けた。
「お、おまえ、なんで……」
「出ていけ」
 同じ言葉を、語気を強めて繰り返す。そして、血で染まった手をレオナルドに突き出した。
「うわぁ!」
 彼は情けない悲鳴を上げ、しりもちをついた。ラウルは乱暴に引き戸を開けると、レオナルドを医務室から蹴り出した。間髪入れずに扉を閉め、ガチャリと鍵を下ろす。あっというまの出来事だった。
 レオナルドは蹴られた腹を押さえ、うめきながら立ち上がった。扉を引いてみたが、ガタガタと音を立てるだけで、開くことはなかった。扉に手を掛けたまま、下唇を噛みしめる。そして、怒りをぶつけるように、力いっぱい扉を叩きつけた。

「どいてくれないか」
 頭上から降る高圧的な声。扉を背に座り込んでいたレオナルドは、口を真一文字に結んだ。その一言だけで、嫌悪するに十分だった。間違いなくあいつの声だ——。睨みをきかせながら、ゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは、案の定、サイファだった。大きな黒い紙バッグを脇に抱えている。
「ここに用があるんでね」
 彼は冷たく見下ろしながら、親指で医務室の扉を示した。レオナルドははっとして立ち上がった。
「中に入るなら、俺も一緒に入れてくれ!」
 サイファは詰め寄る彼を制した。
「おまえは追い出されたんだろう。気が立っているときのラウルは何をするかわからないぞ。下手をすると殺されるかもな」
「脅かそうったってそうはいかない。もしそうなら、おまえだって……」
 レオナルドは食い下がった。だが、そんな彼を見て、サイファはふっと口元を緩めた。
「残念ながら私は特別でね。ラウルが私を殺すことはできない」
 レオナルドにはその意味がわからなかった。怪訝に眉をひそめる。しかし、それを追求するよりも、今はもっと重要なことがあった。
「だったら、おまえから俺のことを頼んでくれ。ユールベルに会わせてくれ」
「それが目上の人間に物を頼む態度か?」
 サイファは尊大にそう言うと、レオナルドを押しのけ、扉をノックした。レオナルドはこぶしを震わせながら歯噛みした。怒りで上気した顔を深くうつむけると、押し殺した声で唸るように言った。
「……お……お願いします」
 彼にとっては耐えがたい屈辱だった。よりによって、最も腹立たしく、最も疎ましい相手である。しかし、自尊心をかなぐり捨ててでもユールベルに会いたい。会わなければならない。その思いの方が強かった。
 サイファは冷めた目で彼を見やった。まだ足りないとばかりにあごをしゃくる。レオナルドは切れそうになる自分を必死につなぎ止めた。半ば自棄になりながら、床に手をつき頭を下げた。
 そのとき、中から扉が開いた。薄暗い廊下に光の帯が伸びる。そして、そこにラウルと思われる影が映った。サイファはさっと医務室に入ると、後ろ手で扉を閉め、鍵をかけた。
 レオナルドは土下座したまま、その場に残された。何かを言う間もなかった。ただ、唖然として扉を見つめるだけだった。手から廊下の冷たさが染みてきた。

「着替えだ」
 サイファは黒い紙バッグを机の上に放り投げた。カタンと固い音がした。中にはいくつか箱が入っているようだった。
 ラウルは疲れたように椅子に身を投げた。そして、あきれ口調でため息まじりに言った。
「私は殺人鬼か」
「感謝してほしいくらいだよ」
 サイファはにっこり笑った。
「レオナルドを追い払うためさ。どうせ扉の前でしつこく座り込んで耳をそばだてているだろうが」
 扉がガタンと音を立てた。レオナルドが動揺して体勢を崩したのだろう。サイファは失笑した。
「それに、言ったことは間違っていないと思うがね」
 後ろからラウルの肩に腕をのせ、挑発的な笑みを口元にのせた。
「私を殺せないということも」
 耳元で囁くように言葉を落とす。
「図に乗るな。何もかもどうでも良くなることもある」
 ラウルはむっとしてそう言うと、サイファの頭を押しのけようとした。だが、彼はそれをひょいとかわし、軽い調子で笑った。
「おまえと本気でやりあえるのなら、それはそれで本望だよ」
 ラウルは無言で眉をひそめた。
「それで、ユールベルはどうしている」
 サイファは急に真面目な顔になり尋ねかけた。ラウルは、紙バッグを床に下ろしながら答えた。
「気を失っただけだ。今は私の部屋で休ませている」
「あまり、いじめないでやってくれよ」
 サイファは彼の左手に目を向けて言った。そこには真新しい白い包帯が巻かれていた。
「刃物を持ち出したのはあいつだ。何の覚悟もなくな」
「必死だったんだよ。おまえもそのくらいわかっているだろう。もう少しソフトに受け止めてやってくれよ」
「おまえがやれ。父親代わりはおまえだろう」
 ラウルはいらだたしげに、冷たいまなざしを向けた。
「私に出来ることはやっているよ」
 サイファはパイプベッドに腰を下ろした。
「ただ、彼女がすがるのはいつもおまえなんでね」
「迷惑だ」
 ラウルはすげなく答えた。無表情で背を向ける。そんな彼を見て、サイファはにこりとした。
「私よりおまえのほうが優しいことを、無意識のうちに感じとっているのかもな」
 ラウルはわずかに振り返り、肩ごしに鋭く睨みつけた。しかし、サイファは軽く笑ってそれを受け流した。
「少なくとも、今の彼女に必要なのは、レオナルドではなくおまえだ。落ち着くまで、せめて一晩くらい一緒にいてやってくれ」
「断る」
 ラウルは即座に拒否した。微塵のためらいもない。にもかかわらず、サイファは勝手に話を進めていった。
「ルナのことは心配するな。一晩、預かってくれるよう頼んでおこう。いや、私が預かるか……そうだ、それがいい」
「おまえなどにルナを預けられるか」
「面倒を見るのはレイチェルだぞ」
 ラウルは少し間をおいてから答えた。
「……レイチェルに迷惑は掛けられない」
「やはり優しいな、ラウル先生は」
 サイファは含みをもった口調で、からかうように言った。ラウルは固く口を結んだ。
「たまにはいいだろう? アンジェリカもルナに会いたがっていたよ」
 今度はにっこり微笑んで言った。それでもラウルは無言だった。背を向けたまま、振り返ろうともしない。
 サイファはそれを承諾と受け取った。
「よし、決まりだな。彼女の弟には、私から連絡しておこう」
「おまえはいつも強引だ」
 ラウルはあきれたようにため息をついた。サイファはニヤリとしてパイプベッドから立ち上がった。腰に手をあて、背筋を伸ばす。
「嫌いじゃないんだろう。レイチェルもあれでけっこう強引だからな」
 ラウルは何も答えなかった。前を向いたまま机の上でこぶしを握りしめた。白い包帯が千切れそうなくらいに引っ張られ、微かに音を立てた。
「大丈夫なのか。かなり出血したようだが」
 サイファはそのこぶしに目を落とした。
「たいしたことはない」
「無茶はするな」
 気づかうように言うと、ポンと肩に手をのせた。それから、はたと思い出したように付け加えた。
「そうだ、今度どこかを切ったときは、手当てをする前に私を呼んでくれ」
 ラウルはぴくりと眉を動かした。椅子をまわし、サイファに向き直る。
「まさか、くだらん噂を信じているわけではないだろうな」
「おまえの血は青色だとか、緑色だとか、飲めば不老不死になるとか?」
 サイファはどこか楽しむような声音で、悪戯っぽく尋ねかけた。そして、挑むようにラウルを覗き込んだ。
「血が赤いということは知っているけどね」
 そう言いながら、彼の頬につけられた浅い傷を親指でなぞる。その傷は、わずかに赤黒かった。
「だが、不老不死の方は、試してみないことには、わからないだろう?」
「おまえがそこまで愚かだったとはな」
 ラウルは小さく息をつきながら、彼の手を払いのけた。焦茶色の長髪を大きく波打たせ、再び背を向ける。
 サイファはにっこり笑い、軽く右手を上げると、医務室をあとにした。

 レオナルドは深くうなだれ、扉の脇で座り込んでいた。左右に長く続くガラス窓には、一面紺色の景色が映し出されている。行き交う足音も次第にまばらになっていき、あたりは寂寥としていた。
 鍵の開く音、そして扉の開く音——。
 中から出てきたのはサイファだった。レオナルドは凄まじい形相で睨み上げた。
「俺をいじめてそんなに楽しいか」
「まあな」
 サイファは悪びれもせず、あっさりと肯定した。
「我々の話は聞いていたな」
「…………」
 レオナルドは目をそらせ、口をつぐんだ。聞き耳を立てていたことは、サイファにばれている。それはわかっていた。だが、素直に認めることには抵抗があった。
 サイファはそのことについて、それ以上の追求はしなかった。
「ユールベルはラウルのところに預けた。今日は帰った方がいい」
「冗談じゃない、なぜラウルなんだ!」
 レオナルドは立ち上がり、サイファに噛みついた。サイファは横目で彼を一瞥した。
「今のおまえではユールベルを支えてやれないからだ」
「そんなことはない!」
「おまえは不安定になったユールベルの行動を見ていながら、止めることができなかった」
 レオナルドは何も言い返せなかった。唇を噛みしめうつむく。
「そもそも、おまえが日頃から彼女の悩みを、痛みをわかってやっていれば、それを受け止めてやっていれば、彼女があんな極端な行動には出ることはなかった。違うか?」
 サイファは淡々と追いつめた。
「好きだという気持ちは大切だ。だが、おまえの場合はそれが強すぎる。自分の気持ちを押しつけるばかりで、相手を見ようともしない」
「違う! 俺はいつも見ていた!」
 レオナルドは必死に否定した。サイファは冷めた視線を投げた。
「見ていてわからなかったのなら、なおのこと悪いな」
 レオナルドは完全に負けた。返す言葉などなかった。くやしさと情けなさに肩を震わせた。
「冷静になれ、心にゆとりをもて、そして相手の気持ちを考えろ。そうすれば、今まで見えなかったものが見えてくるはずだ」
 サイファは腕を組んで、壁にもたれかかった。
「彼女を支えるには、多少のことでは動じない精神が必要だ。ラウルのようにというのは無理な話だが、せめてもう少し大人になれ。彼女が安心して寄り掛かれるようにな」
 レオナルドは怪訝に眉をひそめ、彼の端整な横顔を睨みつけた。
「……何を企んでいる。普段のおまえなら、ユールベルと引き離そうとするんじゃないのか?」
「アンジェリカの婚約者を決めろという声が、最近また強くなってきている。おまえの名前も上がるかもしれない」
「そういうことか」
 レオナルドは鼻先で笑った。
「断ってくれるんだろう? 親に逆らっても、何を敵にまわしても」
 サイファは腕を組んだまま、視線を流して尋ねた。レオナルドは真剣な表情で答えた。
「当然だ、見くびるな。おまえのためじゃない。自分自身のためだ」
「固い決意が聞けて良かったよ。おまえが息子だなんてゾッとするからな」
 サイファはそう言って、ニヤリと笑ってみせた。レオナルドも口端をつり上げ、負けじと言い返した。
「それはこっちのセリフだ。おまえが父だなんて、この世の終わりだ」
「この点においては、私とおまえは利害の一致する仲間というわけだ。ただし、私はユールベルの父親代わりでもある。彼女を不幸にするようなことはしないつもりだ。わかるな」
「俺は、不幸になんてしない」
 レオナルドはまっすぐな瞳をサイファに向けた。しかし、不意にあることが頭をよぎった。はっとすると、眉根を寄せ、首を傾げる。
「ちょっと待て。ユールベルの父親代わりってことは……」
「父親代わりであって、父親ではない。そこは流せ」
 確かにそこにこだわるより、もっと大切なことがある。引っかかるものはあったが、そのことについては考えないようにした。
「じゃあな。一晩、頭を冷やしてよく考えろ」
 サイファはレオナルドの額にポンと手をのせ、踵を返した。レオナルドは顔をしかめながら、手の感触の残る額を何度も拭った。そして、小さくなる後ろ姿を、奇妙な面持ちで見送った。

 ユールベルはベッドの中で目を覚ました。見覚えのある天井。
 ここは——。
 首を動かし、あたりを見回す。こじんまりとした飾り気のない部屋。だが、とても懐かしい光景、懐かしい匂い。ラウルの寝室だった。以前と違うのは、ベビーベッドがあることくらいだ。
 彼女はベッドの上で上半身を起こした。そのとき、何も身に纏っていないことに気がついた。それと同時に、医務室での記憶もよみがえった。目の前を滴り落ちる赤い血、体を伝う生温い感触。思わず吐き気をもよおし、口を押さえてうつむいた。
「目が覚めたか」
 ラウルは無遠慮に扉を開け入ってきた。あいかわらずの無表情で、怒っているのかいないのか、推し量ることもできない。
 ユールベルは包帯を巻かれた彼の左手に目を落とした。
「ごめんなさい……」
 目をそらし、力なく謝る。
「謝るくらいなら、初めからするな」
 ラウルは冷淡な言葉を返した。ユールベルの蒼い瞳はじわりと潤んでいった。彼女はまぶたを震わせながら目を細めると、そのまわりの傷跡にそっと指を這わせた。
「本当に治らないのね」
「何度も言ったはずだ」
 どれだけ尋ねても、彼の答えが変わることはなかった。白いシーツをぎゅっと握りしめる。それから、小さな声で訥々と語り始めた。
「初めのうちは平気だと思っていたわ。人に何と思われようと関係ないって。それまでの仕打ちに比べたら、好奇の目で見られたり、陰で何かを言われたりすることなんて、なんてことはないって。なのに、どうしてかしら、次第につらくなっていったのよ。どうして……。もしかしたら、人の優しさを知って、人の冷たさも身にしみるようになったのかもしれないわね」
 そこまで言うと、さらに深く顔をうつむけた。長い金の髪が、彼女の表情を覆い隠す。
「……こんなことなら、ずっと心を閉ざしていればよかった」
 ラウルはじっと黙って聞いていた。そして、彼女が話し終わると、静かに自分の言葉を落とした。
「誰にでも、あきらめるしかないことはある」
 ユールベルは頭をもたげ、潤んだ瞳で彼を見つめた。
「あなたにも?」
「誰にでもだ」
「だったら教えて。あなたは何をあきらめたの?」
 探るように彼の黒い瞳を覗き込む。だが、彼女にはその奥にあるものを掴むことはできなかった。
 ラウルは何も答えず、部屋を出ようとした。
「待って、行かないで。聞かないわ。だから、一緒にいて」
 ユールベルはあわてて懇願した。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、わずかに振り返った。
「誰かにすがりたいのなら、サイファを頼れ。あいつがおまえの父親代わりだろう」
「おじさまには迷惑を掛けたくない」
「ラグランジェの人間は、どいつもこいつも勝手ばかり言う」
 ラウルはその語調に腹立たしさをにじませた。
「勝手ついでに、もうひとつお願いしてもいいかしら」
 そう言ったユールベルを、冷たく刺すように睨めつける。彼女はそれに動じることなく彼を見据え、小さな口を開いた。
「私、あなたと一緒にここで暮らしたい」
「前に断ったはずだ」
 ラウルはにべもなくはねつけた。
「私、なんでもするわ。あなたの役に立てるように頑張る。あの子の世話だってするわ。だから、私をここに置いて」
 ユールベルは必死に訴えかけた。
「おまえは逃げ込もうとしているだけだ」
「逃げて何が悪いの?!」
 表情ひとつ変えないラウルを、涙目で睨みつける。しかし、彼の気持ちが揺らぐことはなかった。徹底的に彼女を突き放す。
「他へ行け。迷惑だ」
「どうしてっ……」
 ユールベルは涙をこぼしながら、両手で顔を覆った。細い肩を震わせ、何度もしゃくり上げている。
「あきらめるしかない。そういうことだ」
「だったらあなたがあきらめて!」
 勢いよく顔を上げ、強い視線を彼に向けた。濡れた頬も濡れたまつげも拭わず、いまだ小さくしゃくり上げてる。
 ラウルはまっすぐに黒い瞳を返した。そして、静かに言った。
「弟はどうするつもりだ」
 ユールベルははっとしてうつむいた。微かに自嘲の笑みを浮かべる。
「忘れていたわ」
 目を細め、奥歯を噛みしめる。
「最低だわ。自分のことしか考えていなかった。姉だなんていう資格ないわね。……いいえ、元からそんなものはなかった」
 膝を引き寄せ、シーツごと抱えると、そこに顔をうずめた。
「それでも……それでも、やっぱり、あの子は私が守るしかない」
 弱々しい声だが、きっぱりと言い切った。おもむろに顔を上げると、細く白い腕を伸ばし、ラウルに手のひらを向けた。
「帰るわ。服と包帯、返して」
 きつい口調で、精一杯、強がってみせる。ラウルは無表情で彼女を見下ろした。
「今晩だけ泊まっていけ。弟にも連絡を入れておく」
 ユールベルの腕から力が抜けた。軽い音を立てて、シーツの上に落ちる。
「優しくするか冷たくするか、どちらかにしてほしいわ」
 伏目がちに複雑な表情を見せると、ぼそりとつぶやいた。
 ラウルは前に向き直り、部屋を出ようとした。
「待って! 行かないで!」
 ユールベルは怯えた声で引き止めた。ラウルは背を向けたまま足を止めた。
「私はおまえと違って暇ではない。……あとで戻る。大人しく寝てろ」
 淡々とそう言うと、部屋を出て、静かに扉を閉めた。

 チチチチ……。
 小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。木々のざわめきがそれに重なる。細く開いた窓から、ひんやりとした空気が流れ込み、薄地の白いカーテンをふわりと舞い上げた。窓からの柔らかな光が大きく揺らめく。机に向かうラウルにもその風は届いた。彼の長い髪がさらさらとなびいた。
 ——ガチャッ。
 奥の部屋からユールベルが姿を現した。真新しい上質な白いワンピースに、黒いエナメルの靴、おろし立ての白い包帯、緩やかなウェーブを描く金色の髪。すっかり身支度を整えている。
 彼女はゆっくりと足を進めていった。
「帰るわね」
 机に向かうラウルに、後ろから声をかける。
「ああ」
 ラウルは振り返らずに返事をした。ユールベルは目を細め、彼の背中をじっと見つめた。
「……また、来てもいいかしら」
「診察にならな」
 素っ気ない答えを返す。ユールベルは後ろから彼に腕をまわした。広い背中に頬を寄せ、そのあたたかさを感じながら目を閉じた。
「さようなら」
 囁くように告げられたその言葉は、微かに震えていた。

 ユールベルは医務室を出て、扉を閉めた。そのとき、脇でレオナルドが座り込んでいることに気がついた。服にも顔にも、血がついたままだった。すでに変色して、赤というよりも黒に近くなっている。
「ずっと、ここにいたの?」
「情けないな。俺ではラウルの代わりにもならないのか」
 レオナルドはうなだれたまま、自嘲ぎみに言った。ユールベルの胸に痛みが走った。何も答えることが出来なかった。ただ、眉根を寄せ、うつむくだけだった。
「おまえはもう俺のことを必要としなくなっていた。それは、だいぶ前からわかっていた」
「……頼んでおきながら、勝手よね」
「勘違いするな。おまえを好きになったのは、頼まれたからじゃない」
 レオナルドは、隣で立ち尽くすユールベルに、ちらりと目を向けた。
「だから、これからも勝手におまえのことを好きでいる」
「私なんかのどこがいいのよ」
 ユールベルは後ろで手を組み、壁にもたれかかると、投げやりに言った。
「理由が欲しいなら、いくらでも挙げてやる。それとも、迷惑ってことなのか?」
 レオナルドは淡々と尋ねた。ユールベルは困惑して顔を曇らせた。
「私は、どうすればいいの?」
 レオナルドはじっと考え込んだ。そして、静かに口を開いた。
「俺を見ていてくれ。きっと、おまえを受け止められるような男になってみせる。ラウルの代わりでなく、ジークの代わりでなく、俺を俺として好きになってくれるまで待つさ」
 穏やかだが、力強さを感じさせる声。いつもの彼にはない落ち着きもあった。
 ユールベルは遠くを見て、目を細めた。
「前にも言ったわ。あなたの気持ちには応えられないかもしれないって」
 レオナルドはふっと笑ってうつむいた。
「前にも言っただろう。それでも俺はあきらめないと。未来のことは誰にもわからない、そうだろう?」
 ユールベルはゆっくりと彼に振り向いた。そして、静かに尋ねかける。
「あなたは、何かをあきらめたことはあるの?」
「……あるさ」
 レオナルドは低い声で短く答えた。頼りなく目を伏せている。しかし、すぐにその表情を引き締めると、瞳に決意をみなぎらせた。
「でも今度は、おまえのことだけは、絶対にあきらめるつもりはない」
「あなたのそういうところ、うらやましいわ」
 ユールベルは足元を見つめながら、少し寂しげに微笑んだ。そして、そっと顔を上げると、窓の外の青い空を遠望した。



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