目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

閉じる


<<最初から読む

66 / 94ページ

66. 若者と権力者

「えー、ルナちゃん、いないの?」
 アンジェリカは不満げに声をあげた。王妃アルティナはティーカップを片手にくすりと笑った。
「アカデミーが休みの間はずっと一緒に過ごすって、ラウルがね」
「ラウルが……」
 アンジェリカは半信半疑でつぶやいた。アルティナを疑っているわけではないが、ラウルがそんなことを言うとは、にわかに信じられなかった。
「あんなヤツでも怖いんじゃないかしら」
 アルティナはやわらかい表情でほおづえをついた。
「娘が自分より私たちに懐くのが、ね」
 ラウルが仕事をしている昼間は、アルティナが彼の娘ルナを預かることになっていた。そのためルナは、ラウルよりアルティナたちと過ごした時間の方が長いという日も少なくなかった。
「久しぶりに会えると思ったのに残念」
 アンジェリカは軽く口をとがらせ、肩を落とした。その隣では、アルティナの息子アルスが、床にあぐらをかき大きなクッションを抱きしめながらむくれていた。
「ルナをとられた気分だぜ。さびしくて仕方ねぇやっ!」
 そう叫びながら、やり場のない怒りをこぶしに込め、そのクッションにぶつけた。
 アンジェリカはぱっと顔を輝かせながら両手を合わせた。
「じゃあ、今からみんなでラウルのところに押しかけない?」
「駄目よ。ラウルには医者としてのお仕事があるんだから」
 アルティナの向かいで紅茶を淹れていたレイチェルは、優しい口調で娘をたしなめた。アンジェリカは無言で口をとがらせた。
「じゃあよ、ジークのところに行くってのは?」
 アルスは無邪気に言った。アンジェリカは目を見開いた。
「あいつ、ちっとも会いに来ないし、こっちから押しかけてやろうぜ。確かナントカ研究所ってところじゃなかったか?」
「え、でも……」
 アンジェリカが何か言いかけたが、アルティナの声がそれを遮った。
「レイチェル、今日の私の予定って、会議ひとつだけだったわよね」
「ええ、行政改革推進委員会の定例会議。午後からね」
 アルティナは腕時計に目を落とした。
「時間はじゅうぶんにあるわね。よし! 行くわよ!」
 気合いの入った声をあげると、勢いよく立ち上がった。
「え?!」
「ホントか!」
 アンジェリカはとまどい、アルスは大喜びした。
「研究所って、ちょっと興味があったのよね」
 アルティナは声を弾ませた。顔はにこにこ足どりは軽やかで、見るからに浮かれている。
 アンジェリカは遠慮がちに切り出した。
「でも、あそこは関係者以外は入れてもらえないって……」
「なーに言ってんのよ。私は王妃よ、王妃! 立派な関係者じゃない」
 言われてみれば確かにそのとおりだ。しかし、彼女にはもうひとつの懸念があった。
「ジークの邪魔になるんじゃ……」
「ちょっと見学するだけよ。心配性ね」
 アルティナは笑顔で彼女を覗き込み、頭を軽くぽんと叩いた。アンジェリカは納得しないまま黙り込んだ。
「外に出るのも久々ね。わくわくするわ!」
 よく通る声でそう言いながら、息子とともにさっそく部屋を出ようとしていた。
「止めないの?」
 アンジェリカは母親に振り返って尋ねた。レイチェルはにっこりと笑った。
「私も見てみたいと思っていたのよ」
「…………」
 アンジェリカは不安な気持ちを抱えたまま、レイチェルとともに、アルティナたちのあとについていった。

「ターニャ=レンブラントに所長のことを教えたんだってな」
 サイファは窓枠にもたれかかり腕を組んだ。背後からの光が、彼の鮮やかな金髪をよりいっそう際立たせている。
 ラウルは机に向かったまま、ペンを持つ手を止めずに答えた。
「口止めされた覚えはない」
「口止めしたところで、上手く取り繕ってくれはしないだろう」
 サイファはふっと小さく笑った。
「長く生きているわりに嘘が下手だからな、おまえは」
 細く開いた窓から緩やかに風が舞い込み、白いカーテンの端を静かにはためかせた。ラウルは無表情で自分の仕事を続けていた。その隣のベビーベッドでは、ルナがすやすやと寝息を立てている。
「教えてやろうか、嘘のつき方」
 ラウルは手を止め、その声の主を鋭く睨みつけた。サイファは挑みかけるように不敵に笑った。その表情を見て、ラウルは眉をひそめた。
「必要ない」
 吐き捨てるようにそう言うと、再び書類に目を向けた。
「必要ない、か……」
 サイファはラウルの言葉を反芻し、目を伏せため息をついた。
「清廉潔白な人間は言うことが違うな」
 ラウルは再び睨みつけた。
「怒らせたいのか」
「怒る?」
 サイファは顔を上げた。組んだ腕をほどき、ラウルに歩み寄る。
「おまえが私を?」
 彼の肩に腕をのせ、もたれかかるように顔を近づけた。
「逆じゃないのか」
 ラウルは何も答えなかった。書類に目を落としたまま、無表情を保っていた。だが、彼の目は文字を追ってはいなかった。
 サイファはふっと笑って体を起こした。
「冗談だよ」
 そう言ってラウルの背中を叩き、後ろのパイプベッドに腰を下ろした。
「しかし、潔癖性だと大変だな。コネなどめずらしいことでもないのに。私は試験すら受けずに魔導省へ入ったぞ」
「何の自慢にもならんな」
 ラウルは背を向けたまま、無愛想に返した。サイファは手を組み、ニッと口端を上げた。
「プライドなど些末なものだということさ。きれいなままでは、泥の河は渡れないんでね」
「おまえはやりすぎる」
「限度はわかっているつもりだよ」
 今度はゆったりと穏やかに笑った。
「さて、と……そろそろ時間だな」
 腕時計を見ながら立ち上がり、ラウルに振り向いた。
「おまえも来るか?」
「仕事中だ」
 彼は顔を上げることもなく、冷ややかに言い放った。
「そうか。では、代わりに謝っておいてやるよ」
「余計なことをするな」
 怒りを含んだ低い声とともに、鋭い視線をサイファに向けた。しかし、サイファはそれを待っていたかのようだった。にっこり笑って小さく右手を上げると、医務室をあとにした。

「ちょっと! どういうことよ! 私は王妃よ!!」
 アルティナは所長に詰め寄った。
「いくら王妃様といえど、関係者以外の方を、ここより先お通しするわけには参りません」
 所長は涼しい顔で受け流した。
 アルティナたちがいるのは、研究所を入ってすぐのところにある簡易応接室である。研究所内で関係者以外の立ち入りが許可されている唯一の場所だ。簡易というわりには広いが、奥の応接室と比べると、机も椅子も簡素なものとなっている。
 アンジェリカとアルスは、椅子に座ってふたりの応酬を見守っていた。
「王立の研究所で、王妃の私が関係者じゃないっていうの?!」
 アルティナはさらに声を荒げた。しかし、所長はまるで動じることはなかった。
「申しわけありませんが……」
「納得のいく説明をしなさいよ!」
 アルティナは彼の胸ぐらを掴み、大きく揺さぶった。
「アルティナさん、落ち着いて!」
 アンジェリカは立ち上がり、あわてて止めようとした
「いいぞ、行けー!」
 アルスはその隣で煽るようにはやし立てた。レイチェルはその状況を見ながら、ただにこにこと微笑んでいた。
「どうしたんだい、こんなところで」
 戸口からひょっこり顔を覗かせたのはサイファだった。アルティナの大きな声は、廊下まで筒抜けだったのだろう。
「え? お父さん?!」
 アンジェリカは少しうろたえた。
「サイファ! いいところに来たわ」
 アルティナは所長を締め上げていた手をようやく放した。
「見学したいってだけなのに、この頑固ジジイが入れてくれないのよ。何とかしなさいよ」
 サイファは所長に振り向いた。
「どうだろう。アルティナさんとレイチェルだけ、入れてやってもらえないだろうか」
「サイファ殿がそうおっしゃるのでしたら」
 所長はあっさり了承した。ほんの数分前の、取りつく島さえなかった、あのかたくなな態度が嘘のようである。アルティナはこめかみの血管が切れる音を聞いた気がした。再び彼の胸ぐらを掴み、猛烈な剣幕で捲し立てた。
「アンタ、私とサイファとどっちが上だと思ってんの?! だいたい所長ともあろう者が、こんな若造にヘーコラしてんじゃないわよ!」
「入りたいのか入りたくないのか、どちらなんですか」
 所長は冷静に尋ねた。
「入るわよ! って、私とレイチェルだけだった?」
「私はダメなの?」
 アンジェリカはかすかな曇り顔でサイファを見上げた。
「俺は王子だぜ」
 アルスは自らを指さし、アピールした。
「すまないね。ここで待っていてくれ」
 サイファはアンジェリカの頭を抱き寄せると、彼女の頬に自分の頬を重ね、なだめるように優しく後頭部を叩いた。すっかり無視されたアルスは、口をとがらせサイファを睨んだ。
 レイチェルはにっこりとアンジェリカに笑いかけた。
「ジークさんを呼んであげるわね」
 アンジェリカはとまどい、困ったような表情を浮かべた。
「でも、仕事中……」
「ホントか?!」
 アルスは、彼女とは対照的に、嬉しそうに目を輝かせた。アンジェリカは苦笑いした。

「へぇ、機械ばっかりなのね。白衣を着てフラスコ振ってるようなのを想像してたんだけど」
 アルティナは一階フロアに入るなり、そう感想を述べた。やや拍子抜けしたような口調である。サイファはにこにこしていたが、隣の所長はため息をついていた。
「皆、少しのあいだ手を止めてこちらに注目してくれ」
 フロアの中央まで進むと、所長は二度手を打ち鳴らし、声を張り上げた。
「突然だが、アルティナ王妃が視察にいらっしゃった」
 フロア内はにわかに色めき立った。胸を張って立つ美しい王妃に、皆の視線が一斉に注がれた。
「お仕事の邪魔をするつもりはないから、構わず続けてちょうだい」
 アルティナは威厳を感じさせる声を遠くまで響かせた。
「くれぐれも失礼のないように」
 所長はスタッフたちに念押しした。そんな彼に、アルティナは白い目を向けた。

「それでは、我々は会議がありますので失礼します」
 所長は淡々と言った。そして、通りがかった女性スタッフを呼び止め、アルティナの前に差し出した。
「あとはこのアンナに任せますので、何かありましたら何なりとお申しつけください」
「……えぇっ?!」
 アンナは突然のことに目を丸くし、裏返った声をあげた。所長に助けを求めようと振り返ったが、すでに彼とサイファは会議室に向かって歩き出していた。ひとり取り残されたアンナは、あたふたしながら勢いよくぺこりと頭を下げた。短いポニーテールがぴょこりと跳ね返った。
「そんなに緊張しなくていいわよ」
 アルティナはカラカラと笑った。そして、思い出したように尋ねた。
「そうだ、ジークいる?」
「ジーク……? えと、ジーク=セドラックですか?」
 アンナは怪訝に尋ね返した。
「そ。アルバイトで来てるって聞いたんだけど」
「はい、こちらです」
 疑問を感じながらも、それを口には出さず、王妃とその付き人をジークの席まで案内した。
「ジーク! 久しぶり!」
 アルティナはまるで旧知の友と再会したかのように大袈裟に呼びかけた。まわりは驚いて振り向いた。当のジークも驚きうろたえていた。困惑した表情で立ち上がり、彼女に一礼した。
「全然顔を見せないから会いに来ちゃったわよ」
 アルティナは無邪気にそう言って笑った。
「すみません」
 ジークは好奇の視線にさらされ、居たたまれない気持ちになっていた。そこへレイチェルが近づいてきて、そっと耳打ちした。
「簡易応接室でアンジェリカが待っているわ。行ってあげて」
 レイチェルはにっこり微笑んだ。アルティナも笑って頷いた。
 ジークは顔を輝かせて再び一礼すると、はやる気持ちのまま飛び出していこうとした。
「仕事中だ。どこへ行く」
 ジョシュが冷たく呼び止めた。ジークはうざったそうに振り向いた。だが、返事をしたのはアルティナだった。両手を腰にあて、ジョシュの横顔を睨みつける。
「いいじゃないの、ちょっとくらい。そんな固いこと言ってんじゃないわよ。ジーク、いいから行きなさい」
 彼女の言葉には、有無を言わさぬ力強さがあった。ジークはこくんと頷いて、その場を離れた。
 ジョシュは椅子から立ち上がり、アルティナに向き直った。
「邪魔するつもりはないと言っていましたが、はっきりいって邪魔です。見学するならもっと静かにしてください!」
「バカっ!!」
 アンナは彼の側頭部をこぶしで思いきり殴りつけた。ジョシュは二、三歩よろけた。
「申しわけありません! コイツ本当にバカで! いつもこんな調子なんです。本当に申しわけありません!」
 アンナは青ざめながら何度も頭を下げた。
 アルティナは口端を上げた。
「私、生意気なガキんちょって嫌いじゃないのよね」
 ジョシュに顔を突きつけ、挑むように笑いかける。彼の額に汗がにじんだ。
「ちょっとつきあいなさい」
 アルティナはジョシュの腕を掴んだ。彼はあわてて逃げようとしたが、彼女の力は思いのほか強かった。
「今は仕事中なんです!」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ!」
 アルティナはそう一喝すると、彼を引きずるように連れ出した。レイチェルは、呆然とするフロアスタッフたちに笑顔でお辞儀をすると、ふたりのあとについていった。
「生きて帰って来られるかしら、アイツ……」
 アンナは不安に顔を曇らせながら、三人の後ろ姿を見送った。

「へぇ、けっこういい食堂じゃない」
 研究所の規模のわりには広い食堂で、テーブルも椅子も安っぽい感じはしない。庭に面した大きなガラス窓からは、さわやかな陽光が射し込んでいた。朝の早い時間帯のためか、他には誰も来ていなかった。かすかに聞こえる鳥のさえずりが、静けさをよりいっそう強調していた。
 アルティナはジョシュに向かって両手をひらひらさせた。
「勢いあまって手ぶらで来ちゃったのよね。コーヒーおごってくれる?」
「王族が平民にたかるのか」
 ジョシュはぼそりとつぶやいた。
「まあまあ、そうとんがらないでよ」
 アルティナは彼の肩をぽんと叩き、人なつこく笑いかけた。彼は疲れたように息をついた。
「そっちの人は何にしますか」
「あら、私にもおごってくださるの?」
 レイチェルはにっこり笑って尋ね返した。
「この状況では仕方ないでしょう」
 ジョシュはため息まじりに言った。
「では、パッションフルーツジュースを」
「あの! メニューから選んでもらえますか!」
「ごめんなさい。それでは紅茶を」
 彼女は謝りながらも、終始にこにこしていた。もしかしたらからかわれているのかもしれないとジョシュは思った。
 カウンターで飲み物を受け取ると、三人は窓際の席に座った。
「それで、私をどうするつもりですか」
 ジョシュはまっすぐアルティナを見据えた。彼女はコーヒーを片手にほおづえをついた。
「別に。ただ話をしてみたかっただけよ。時代が時代なら牢獄にぶち込まれていたかもしれないけど」
 そう言ってニッと笑った。ジョシュはぴくりと眉を動かした。
「権力者のそういうところが嫌いなんです。いつだって偉そうに権力を振りかざして、気に入らないものは徹底的に排除する」
「そうね。確かに権力で横暴なことをする人もいるわ。でも、権力は良いことにだって使えるのよ」
 アルティナは淡々と言った。ジョシュは仏頂面で彼女を見た。
「自分はそうだと言いたいんですか」
「さあ。それを判断するのは私じゃないから」
 彼女は素っ気ない答えを返すと、手にしていたコーヒーを口に流し込んだ。
「あんたも早く出世してみたら? 少しはわかるかもよ」
 難しい顔をしているジョシュに、アルティナは軽く言ってみた。彼はうつむいたままで答えた。
「興味ありません。私はただ、いい仕事がしたいだけです」
「バカね」
 アルティナは呆れたように言うと、コーヒーカップを机の上に置いた。
「下っ端じゃ、いつまでたっても重要な仕事は任されないわよ。自分の裁量で出来ることが少ないんじゃ、いい仕事なんてできやしない。そうじゃない?」
 ジョシュは机の上のコーヒーカップに両手を添え、眉をひそめて黒い液体を見つめた。
「あなたたちに何がわかるっていうんですか。いい暮らしをして、着飾って、毎日楽しく生きているだけのあなたたちに……」
 アルティナは目をぱちくりさせた。そして、ため息をつきながら腕を組むと、椅子にもたれかかった。
「あんたねぇ。それは偏見ってものよ」
 ジョシュは下を向いたまま微動だにしない。アルティナは話を続けた。
「私だって仕事はしているし、思うようにならないこともたくさんある。レイチェルだって大変な目に遭ってきたんだから、ねぇ」
 隣でおとなしく聞いていたレイチェルに振り向き、同意を求めた。彼女は穏やかに微笑んだ。
「でも、そう疎まれるのも仕方ないと思っているわ。言われるとおりですもの。私は、ラグランジェ家に生まれたというだけで、いい暮らしをさせてもらっている。気に入らなくても当然ね」
 ジョシュははっとして顔を上げた。彼女の微笑みはまっすぐ自分に向けられていた。次第にかたくなな心が融けていくのを感じた。体から力が抜けていく。
「熱っ!」
 彼は突然、椅子から飛び上がった。ぼうっとしてカップを倒してしまい、まだ熱いコーヒーが脚にこぼれ落ちたのだ。
「大変!」
 レイチェルもあわてて立ち上がった。
「アルティナさん、ふきんを濡らして持ってきて」
「わかった」
 アルティナは素直に返事をして、走っていった。
 レイチェルはレースをあしらった白いハンカチを取り出し、しゃがみ込んで彼の膝のあたりを拭き始めた。
「いい、自分でやります!」
 ジョシュはうろたえ、思わずきつい調子で言ってしまった。しかし、彼女はまるで気に留めていなかった。
「やけど、しませんでした?」
 顔を上げ、心配そうに尋ねる。
「……はい」
「良かった」
 安堵の息をつき、可憐な笑顔を見せた。
 ジョシュは呆然と彼女を見下ろした。体中が大きく脈を打つかのように感じた。息がつまりそうだ。
「レイチェル、持ってきたわよー……ってアンタそれ!」
 小走りで戻ってきたアルティナは、驚愕してジョシュの顔を指さした。その片方の鼻からは、赤い一筋が伝っていた。彼自身も驚き、あわてて右手で押さえた。だが、押さえきれなかった一部は、あごを伝って制服の胸元に落ちた。
「レイチェルによからぬ感情を抱いたんでしょ!」
「ちっ……違う、誤解だ! 暑かったからで……」
「冷房のきいた部屋でのぼせてんのはアンタだけよ! レイチェル、こんな危ない男から早く離れなさい」
 アルティナはレイチェルを後ろから抱き寄せ、ジョシュから引き離した。
「本当に誤解なんです」
 ジョシュは泣きそうになりながら必死に訴えた。アルティナは濡れふきんを彼の顔面に投げつけた。
「とりあえず、その情けない顔をなんとかしなさい!」
 レイチェルはくすりと笑った。ジョシュはますます恥ずかしくなった。彼女に笑われたことが何よりもショックだった。

 ジークの心臓は早鐘のように鳴っていた。アンジェリカとは一ヶ月間ずっと会っていない。まさか彼女が会いに来てくれるとは思わなかった。
「アンジェリカ!」
 ジークは簡易応接室に駆け込んだ。
「よお、ジーク。久しぶりだなっ!」
 声を掛けてきたのはアルスだった。どういうわけか、アンジェリカの膝の上に座っている。
「テメーどこ座ってやがる!」
 ジークは殴り掛からんばかりの勢いで怒鳴りつけた。あまりの怒りように、アンジェリカが驚いた。
「いいのよ、ジーク。そんなに重くないから」
「そういう問題じゃねぇ!」
「じゃあどういう問題なんだ?」
 アルスは意味ありげに笑った。
「いいから降りろ!」
 ジークは小さな少年を激しく睨みつけた。アルスは彼の本気の怒りを感じて、おとなしく従った。
「いきなり来てごめんね。迷惑だからって止めたんだけど」
 アンジェリカは肩をすくめた。
「あ……」
 ジークは落胆したように、沈んだ声を漏らした。アンジェリカが自分に会いたくて来たわけではなかったのだ。
「でも、来てよかった」
 アンジェリカは屈託なく笑いかけた。ジークの暗い感情は一気に吹き飛んだ。頭をかきながら、顔を赤らめはにかんだ。
「休み中、どうしてるんだ?」
「勉強したり、本を読んだり、のんびりしているわ。ジークは? お仕事大変?」
「ああ、大変なこともあるけど、仕事は楽しいぜ」
 アンジェリカはじっと彼を見つめた。
「仕事は……って? 何か他のことで問題があるの?」
 ジークは顔をしかめて腕を組んだ。
「一緒に仕事しているヤツがな……」
「喧嘩しているのね」
 アンジェリカは呆れたようにため息をついた。ジークはいらつきながら、面倒くさそうに反論した。
「ケンカじゃねぇよ。あいつが俺のことを一方的に嫌ってんだよ」
 彼との間に起きたさまざまなことが、次々と頭をよぎっていく。あからさまに不愉快そうに眉をひそめ、髪をくしゃっとかき上げた。
「この話はもうやめようぜ。せっかく久しぶりに会ったってのに」
「じゃあ、何の話をするの?」
 アンジェリカは黒い大きな瞳を、まっすぐ彼に向けた。
「いきなりそう言われても……」
 ジークは頭に手をあて、何気なく視線を落とした。
「それ、してくれてんだな」
「これ?」
 アンジェリカは首から下げていたシルバーリングを手にとった。昨年の誕生日にジークからもらったもので、サイズが大きかったため、鎖で首から下げネックレス代わりにしているのだ。
「毎日ちゃんと身につけてるわよ。魔除けだもの。アカデミーのときは服の中に入れてるんだけど」
 そう言いながら、リングを中指にはめてみた。
「まだぶかぶかなのよね。はやく指が太くならないかしら」
「……そんなこと願うなよ」
 真顔のアンジェリカを見て、ジークは冷や汗を浮かべた。彼女はきょとんとして彼を見上げた。
「どうして? 指輪なんだから、ちゃんと指にはめたいわ」
 だからといって、指を指輪にあわせることはない。
「次は指にあったやつを買うからよ」
「次って何?」
「えっ」
 ジークは急にどぎまぎした。何も考えずに言ったことだが、そう聞き返されて思わず想像してしまった。耳まで真っ赤になっていく。
「ジーク?」
 アンジェリカは怪訝に覗き込んだ。ジークはまっすぐ彼女に目を向けた。
「まだ、もう少し……だいぶ、先になる、かもしれねぇけど……。その、な、いつか……」
「あのさ、オレがいること忘れてないか」
 アルスは床にあぐらをかき、ふてくされていた。ジークは、思いきり嫌な顔をアルスに向けた。
「最初にここに来たいって言ったの、オレなんだぜ。感謝しろよ」
 彼はふてくされたまま、偉そうに言った。ジークは投げやりに尋ねた。
「どうしてほしいんだよ」
「オレを構えよ」
 それを聞いて、ジークはニヤリと不敵に笑った。
「そう言ったこと、後悔させてやるぜ」

「おまたせー」
 陽気に声を弾ませながら、アルティナはレイチェルとともに簡易応接室へ戻ってきた。
「あら、どうしたの?」
 ジークは部屋の真ん中で、ぜいぜいと息をきらせ、へたり込んでいた。
「アルスの相手をして疲れちゃったみたい」
 アンジェリカは肩をすくめて笑った。アルティナもあははと笑った。
「それは大変だったわね」
「後悔させるとか言って、自分が後悔してちゃ世話ないよな」
 アルスは生意気に腕を組んで、ジークを見下ろした。アルティナは息子の後頭部をはたいた。
「ちゃんとお礼を言いなさいよ」
「楽しかったぜ。ありがとうな」
 アルスは素直に礼を述べた。アルティナは息子の頭に手をおき、ジークににっこり笑いかけた。
「ジーク、今度また遊びに来なさいね。そのときにお礼をするから」
「あ、いや、たいしたことしてないんで……」
「来いっていったら来いよな」
 アルスは命令口調でそう言うと、ニッと白い歯を見せた。ジークは複雑な表情で笑った。
「それじゃあね」
 アルティナは右手を上げた。
「ジーク、またね」
 アンジェリカは明るく笑って手を振った。
「お、おう」
 ジークは頬を染めながら、小さく右手を上げた。

 ジークは自分の席に戻った。ジョシュはいつものように無言でキーボードを打っていた。そんな彼を、ジークは不審な目で見つめた。
「……何だ?」
 ジークの視線を感じ、ジョシュはちらりと顔を向けた。
「制服が新しくなってる」
「細かいことを気にするな」
 ジョシュは無表情で前に向き直り、再び手を動かし始めた。
 あの食堂での出来事のあと、アルティナが無理をいって新しい制服をもらってくれた。こういう規則に反する行動は嫌いなはずだが、今回ばかりはありがたく思った。コーヒーはまだしも、鼻血の染みはあまりにも恥ずかしい。しかし、同時に、信念を通せない自分を情けなく思っていた。
「変わった人たちだな」
 ジークは驚いてジョシュを見た。彼から雑談を持ちかけてくることなど、これまでなかったことだ。アルティナたちと何かよほどのことがあったのだろうか——そんなことを考えながら返事をした。
「でも、いい人たちだぜ」
「そうだな……俺は偏見を持っていたのかもしれない……」
 気味が悪いくらい素直な彼に、ジークは呆気にとられた。

「ジーク」
 サイファが奥の会議室から戻ってきた。
「レイチェルがどこにいるか知らないか?」
「さっき帰りましたけど」
「そうか……昼食くらい一緒にと思ったんだが」
 彼は残念そうに顔を曇らせた。
「サイファ殿」
 フロアの隅から所長が呼びかけた。所長の他にもふたりの男が、ともに彼を待っているようだった。
「それではな」
 サイファは右手を上げ、早足で戻っていった。ジークは軽く頭を下げた。

「やはりあいつは好きになれそうもない」
 ジョシュはぼそりとつぶやいた。
「サイファさんもいい人だぜ」
 ジークのその言葉に、彼は耳を貸さなかった。嫌悪感をあらわにして顔をしかめると、話を続けた。
「あんな若い子に色目をつかって、みっともないと思わないか。来たときも彼女を見つめていたし、今だって人目もはばからず食事に誘っている。愛妻家なんて噂らしいが、とんだデマだな」
 ジークはポカンとした。
「あのな、レイチェルさんが奥さんだ」
「……は?」
「だから、サイファさんとレイチェルさんは夫婦なんだよ」
「……な?!」
 ようやく理解したジョシュは、凄まじい形相で立ち上がった。何かを言いたそうに口をカクカクと動かす。
「やっぱりアイツは嫌いだ!」
 そう叫ぶと、あわててハンカチを取り出し、鼻と口を押さえた。そして、焦ったように背を向け歩き出した。
「どこへ行くんだ?」
「どこでもいいだろう!」
 かすかに涙声まじりで声を荒げると、足早にフロアを出ていった。
「いちばん変わってるのはあいつだよな」
 ジークは彼の出ていった方に目をやりながら、ひとりごとをつぶやいた。


67. パーティ

「決まった! 進級できるんだ!」
 レオナルドはアカデミーの昇降口で待っていたユールベルに駆け寄り、彼女の手を取ると興奮して叫んだ。
「良かった」
 ユールベルは安堵の息をつき、微かに表情を緩めた。レオナルドはじわりと涙ぐんだ。あわててうつむき、手の甲で拭った。
「全部おまえのおかげだ。あきらめずにずっと付き合ってくれて……。本当に何て礼を言ったらいいか……」
 そこまで言うと、はっとして顔を上げた。
「そうだ。今から進級祝いのパーティをやらないか?」
「ごめんなさい。今日は先約が……」
「ユールベルっ!」
 弾けた声がふたりの会話を遮った。
「ターニャ」
 振り返ろうとしたユールベルに、彼女は後ろから飛びかかるように抱きついた。いつもとは違い、黒のブレザーで正装している。
「じゃーん、見て見て、卒業証書!」
 ユールベルにのしかかったままで、手にしていた筒状の紙を開いて見せた。そこには彼女の名前や学科名などとともに、王の直筆サインが入っていた。王の名の入った卒業証書はこのアカデミーでしか手に入らない。優れた才能を備え、努力を惜しまなかった者だけに与えられる栄誉だ。
 だが、ユールベルはほとんど興味を示さなかった。
「式、終わったのね」
 見せられたものに対しては何も述べず、素っ気なく話題を変える。
 だが、ターニャはまるで気にしていなかった。いつものことである。悪気がないのもわかっている。それを気にしているようでは、ユールベルの友達にはなれなかっただろう。
「うん、さっそく行こっか」
「先約って、コイツか?」
 レオナルドはあからさまに嫌そうな顔でターニャを指さした。
「なに? レオナルドも何か?」
「進級祝いのパーティをしようって」
 無言でそっぽを向いた彼の代わりに、ユールベルが答えた。
 ターニャはいい事を思いついたとばかりに、ぱっと顔を輝かせ、両手をパチンと合わせた。
「じゃ、一緒にやっちゃおうよ。私の卒業祝いパーティと」
「誰がおまえなんかと。別の日にあらためてふたりだけでやるさ」
 レオナルドは苦虫を噛み潰した顔で吐き捨てた。
「あ、ジーク!」
 並んで歩くジークとアンジェリカを見つけ、ターニャは大きく手を振った。
「見て! 私、今日で卒業なの」
 彼女は嬉しそうに、再び卒業証書を広げた。
「そうか、良かったな」
 ジークはまるで心のない返事をした。ターニャは腰に手をあて、口をとがらせた。
「そっけないなぁ。そうだ、ふたりとも来ない? 私の卒業パーティ。ユールベルの家でやるんだけど」
「行かねぇよ」
 ジークは即答して、すぐに立ち去ろうとした。
 しかし、アンジェリカはその場に留まったまま動こうとしない。
「どうした? アンジェリカ」
 ジークは足を止めて振り返った。
 彼女は何かを言いたげな表情をしていた。ちらりとユールベルに目を向けたあと、困ったようにジークを見る。
「行きたいんでしょ?」
 ターニャは優しく微笑み、横から助け舟を出した。
「ユールベルが、その、嫌じゃなければ……」
 アンジェリカはそう言って口ごもった。うつむいて、ユールベルの様子を窺う。
 彼女は無表情で口を開いた。
「別に構わないわ。もう、あなたのことを疎ましいとは思っていないもの。今はただ、少し気まずいだけ」
 そう言うと、顔をそらし、肩にかかった髪をはね上げた。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、頭の後ろで結んだ白く柔らかな包帯が、緩やかな風になびいた。
「来たければ来て。……いいきっかけになるかもしれないわ」
 小さいがはっきりとした声だった。
 アンジェリカの顔がぱっと晴れた。
「ありがとう」
 弾んだ声でそう言うと、満面の笑みを見せた。
 ジークはあわてた。
「おまえ本気で行くつもりなのか?!」
「ええ。だって、ユールベルもああ言ってくれてるし」
 アンジェリカはにこっと笑った。
 ジークは弱り顔でため息をついた。彼女がこれほど嬉しそうにしているのに、止めることはできない。止めるだけの決定的な理由もない。ただ、少し心配なだけである。せめて、できることといえば、自分が付き添うことくらいだろう。
「おまえが行くんなら、俺も行くぜ」
 少し疲れたような声で言った。
 それを聞いて、今度はレオナルドがあわてふためいた。
「コイツが行くなら、俺も行く!」
「じゃ、みんな行くってことね」
 ターニャは嬉しそうに笑って、ユールベルの手を引いた。

「おかえり!」
 ユールベルが扉を開けると、エプロン姿のアンソニーが出迎えた。
「人数、だいぶ増えちゃったけど、大丈夫かな?」
 ターニャはうしろのジークたちを指さしながら、少し申しわけなさそうに尋ねた。
「気にしないで。足りなければ買い足してきますから」
「上がって」
 ユールベルは振り返ってジークたちを招き入れた。
「おう」
「お邪魔します」
 ふたりに続いてレオナルドも入ろうとした。だが、アンソニーがそれを許さなかった。レオナルドを蹴り飛ばし、倒れた隙に、扉を閉め鍵をかけた。
「おい!」
 レオナルドは外からドンドンと扉を叩いた。
「おまえは出入り禁止だ! おとなしく帰らないと、今度は火傷くらいじゃすまないぞ!」
 アンソニーは鉄の扉に向かってフライ返しを振り上げた。
「アンソニー、今日はレオナルドの進級パーティを兼ねているの。入れてあげて」
 ユールベルは無表情で頼んだ。アンソニーはもどかしげに眉根を寄せて叫んだ。
「ねえさん! いいかげんあんなヤツ見限ってよ!」
「アンソニー」
 ターニャはユールベルの肩ごしに声を掛けた。
「許せとは言わないけど、今日だけは入れてあげてくれないかな?」
 ね、と両手を合わせて頼み込む。
「……ターニャさんがそう言うなら」
 アンソニーはしぶしぶ鍵を開けた。ガチャッという音がするのとほぼ同時に、レオナルドが扉を開けて入ってきた。アンソニーは目の前を通り過ぎる彼を睨みつけた。
「今日だけだぞ」
「今度はおまえのいないときに来るさ」
「来るな!」
 歯噛みするアンソニーの頭に、ターニャはぽんと手を置いた。

 ジュ——。
 食欲をそそる音と匂いが立ちこめる。アンソニーは料理をしながら、手際よく片づけや盛りつけもこなしていた。
「私も手伝うよ」
 ターニャが台所に入ってきて声を掛けた。
「ありがとう、ターニャさん。じゃあ、これ運んでください」
「オッケー」
 彼女は軽い調子で返事をすると、大皿ふたつを手に取った。

「おまえの弟がひとりで作ってるのか?」
 ジークはソファでくつろぎながら、親指で台所を指さした。ユールベルは淡々と答えた。
「ええ、腕はいいから心配しないで。最近、料理に目覚めたそうよ。作るのが楽しくて仕方ないみたい」
「お待たせっ」
 ターニャは持ってきた大皿ふたつを机の上に置いた。チキンやサンドイッチなどのパーティ料理が、たっぷりときれいに盛り付けられている。ジークとアンジェリカは目を見開いて覗き込んだ。
「すげぇ……ってか、量もすげぇな。これで三人分のつもりだったのかよ」
「だからキミたちを呼んだのよ」
 ターニャはウインクした。ユールベルはため息まじりに補足した。
「あの子、張り切って作りすぎるのよ」
「まだまだあるわよ」
 ターニャは笑いながら台所へ戻っていった。

 次はアンソニーが皿を運んできた。机の上にそれを置くと、アンジェリカをじっと覗き込んだ。
「なに?」
 アンジェリカは少し怯えたように身を引いた。革のソファが小さく音を立てた。
「本家のアンジェリカさんですよね?」
 アンソニーはにこにこしながら尋ねた。
「ええ……」
「間近で見るのは初めてです」
 澄んだ青い瞳で、探るように彼女を見つめる。
「呪われてなんか、いませんよね?」
 その場の空気が一瞬にして張りつめた。あまりに思いがけない言葉に、誰も反応できなかった。当のアンソニーは、その場の雰囲気を察することなく、まだ笑顔のままだった。
「黒いから呪われているなんて、何の根拠もない話ですよね。僕は好きですよ。黒い瞳も、黒い髪も。ターニャさんもそうだし」
 彼は無邪気にそう言うと、台所へ戻っていった。

「何の話?」
 入れ違いにターニャが新しい皿を持ってやってきた。
「ラグランジェ家以外の人間は知らなくてもいいことだ」
 レオナルドは腕組みをして突っぱねた。
「えー、何よそれぇ」
 ターニャは不満げな声を上げた。
「ごめんなさい、本当に話せないことなの」
 ユールベルは固い声で言った。
 何か事情がありそうだ、とターニャは感じた。ラグランジェ家以外の人間に話せないというのは、本当のことなのかもしれない。レオナルドの言葉では信じられなかったが、彼女が言うと素直に信じられた。
「そっか……うん、わかった」
 気にはなったが、それ以上の追求はしなかった。持ってきた皿を机に置くと、再び台所へ戻っていった。

「ごめんなさい。あの子に悪気はないの」
 ユールベルは居たたまれない思いでうつむいた。
「ええ、わかってるわ」
 アンジェリカはぎこちなく笑顔を作った。親に「呪われた子だから近づいてはいけない」とでも教えられてきたのだろう。容易に想像がついた。アンソニーだけでなく、ラグランジェ家の者はほとんどがそうなのだ。
「……帰るか?」
 ジークはアンジェリカの耳元で声をひそめて尋ねた。彼女は頭を小さく横に振った。
「大丈夫。ちょっとビックリしただけ。何でもないわ」
「無理すんなよ」
 ジークは前に向き直り、彼女の背中に手を置いた。アンジェリカははっとした。そして、その手の温かさを感じながら、ゆっくりと目を閉じ小さく頷いた。

「さ、始めましょ!」
 ターニャとアンソニーは缶とスナック類を抱えて戻ってきた。
「はい」
 ターニャは缶を一本、アンジェリカに手渡した。
「……ビール?」
「おい、なに渡してんだよ。ジュースか何かねぇのかよ」
 ジークはターニャに文句を言いながら、そのビールを取り上げようとした。しかし、アンジェリカはそれをかわした。
「これでいいわ。いちど飲んでみたかったの」
 そう言って、にっこり笑った。ジークはあわてた。
「ダメだダメだ! なに言ってんだオマエ」
「いいじゃないの、ちょっとくらい」
「絶対ダメだ!」
 アンジェリカはムッとして口をとがらせた。
「もうっ、ジークがそんなに頭が固いとは思わなかったわ」
 ジークは脱力した。泣きたい気持ちになっていた。自分だってこんな堅物の大人みたいなことを言いたいわけではない。だが、彼女の両親——サイファとレイチェルを裏切るようなことはできない。
「頼むよ。俺に保護者みたいなこと言わせんなよ」
「言いたくなければ、言わなければいいじゃない」
 アンジェリカはますます反抗的な態度をとった。
「俺もジュースにするから、な」
 ほとんど泣き落としの説得に負け、彼女はしぶしぶビールを返した。ターニャはビールとジュースを交換しながら、とぼけた調子でつぶやいた。
「残念。酔ったアンジェリカってかわいいだろうなぁ。見てみたかったなぁ」
 ジークは含み笑いを見せるターニャから顔をそむけた。平静を装っていたが、耳元はほんのり赤みを帯びていた。
 ターニャは缶ビールのプルタブを開け、おもむろに立ち上がった。
「それじゃ、私の卒業と、ついでにレオナルドのギリギリ進級を祝って」
「ギリギリは余計だ!」
 レオナルドはあわてて噛みついたが、ターニャは無視して続けた。
「乾杯!」
 その掛け声とともに高々と缶ビールを掲げた。そして、ささやかなパーティが始まった。

「あら、もう飲み物なくなっちゃったわね」
 ターニャは冷蔵庫を覗き込み奥まで探ったが、一本も残っていなかった。まだパーティを始めてから、それほどの時間はたっていない。料理は多めに作ってあったが、飲み物は三人分しか用意してなかったのだ。
「僕、買ってきます」
 アンソニーは立ち上がった。
「私も行くわ」
「ひとりで大丈夫です。ターニャさんは主賓なんだから、ゆっくりしててください」
 そう言ってにっこり笑いかけると、立ち上がりかけたターニャを座らせ、ひとりで出ていった。
「残念だったな」
 レオナルドは鼻先で笑った。
「下心だらけのキミと一緒にしないでよね」
 ターニャはつんと顔をそむけ、ソファに腰を下ろすと、サンドイッチを手に取りほおばった。
「そうだ、アンジェリカ。お母さんの写真、持ってないかな?」
 彼女は唐突に身を乗り出して尋ねた。
「今は持っていないけど、どうして?」
 アンジェリカは怪訝に尋ね返した。ターニャはぎくりとした。
「あ、その、美人って噂だから見てみたかっただけ」
「レオナルドなら持ってんじゃねぇのか」
 ジークはサンドイッチと唐揚を交互にほおばりながら、しれっと言った。
「なっ……なぜ俺がっ!!」
 レオナルドはバンと机を叩きつけ立ち上がった。顔は上気し、耳まで赤くなっている。
「そうか、アイツか……アイツがしゃべったんだな。人のことをペラペラと……!」
 奥歯をギリギリと噛みしめ、爪が食い込むくらいに強くこぶしを握りしめた。
「え、うそ、そうだったの?」
「知らなかった……」
 ターニャとユールベルはそれの意味することがわかったようだった。ジークの言葉からというよりも、彼の過剰ともいえる反応から察したのだ。ふたりともぽかんとしてレオナルドを見上げている。彼はますます焦った。
「ちっ、違う! 家が近くで、子供のころ遊んでもらったって、それだけだ。それだけなんだよ!」
 必死の言いわけも虚しく空回りする。レオナルドは思いきりジークを睨みつけた。ジークは口いっぱいにほおばりながら、すっとぼけた表情で顔をそむけた。
 アンジェリカは話がわからず、ただきょとんとしていた。

 ガタン——。
 玄関で大きな物音がした。
「もう帰ってきたのかしら。ずいぶん早いけど……」
 ターニャが様子を見に行こうと立ち上がったそのとき、アンソニーが血相を変えて部屋に駆け込んできた。
「助けて!」
 ただならない様子で叫び声をあげると、ターニャの懐に飛び込んだ。
「どうしたの?」
 彼女は目をぱちくりさせながら、すがりつくアンソニーに尋ねた。ユールベルも立ち上がり、心配そうに覗き込んだ。
「待ちなさい、アンソニー」
 威圧的な声を響かせ、女性が勝手に入り込んできた。豊かな巻き毛の金髪、夜の海を思わせる深い青の瞳——。
 ユールベルはその女性を目にしたとたん、顔面蒼白で棒立ちになり固まった。レオナルドは彼女の手を引き座らせると、かばうように頭を抱き寄せた。
 ターニャもその来訪者に睨みをきかせながら、アンソニーを自分の後ろにかばった。
「何の御用ですか? お母さま」
 彼女は皮肉たっぷりに、そう尋ねかけた。顔を知っているわけではなかったが、アンソニーとユールベルの様子から、それがふたりの母親であることは察しがついた。
 その女性——ユリアは、ひととおり全員を見渡すと冷たく口を開いた。
「ラグランジェ家を汚す厄介者たちが、そろいもそろって何をしているの」
「何しに来たんだ! 出ていけよ!」
 ジークは感情的に声をあげた。このままだと、ユールベルとアンソニーだけでなく、アンジェリカにもとばっちりが来そうだ。なんとかして彼女だけでも守らなければ——そう思った。
 ユリアは冷ややかに視線を流した。
「アンソニーを……息子を迎えに来たのよ」
「どうしてここが……」
 ユールベルはレオナルドにもたれかかりながら、うわごとのようにつぶやいた。
 ユリアは勝ち誇ったように笑った。
「いくらサイファに聞いても教えてくれなくて、途方に暮れていたわ。でも、神の御加護かしらね。偶然、この下でアンソニーと出会ったのよ」
 ユールベルは血の気の引いた顔をユリアに向けた。右目を細め、まぶたを震わせながら彼女を睨む。
「出ていって」
 小さく震える声だったが、きっぱりと告げた。
「あなたと議論するつもりはないわ。ここの家主はどこにいるの」
 ユリアは皆の顔を順に見て、答えを求めた。しかし、誰も答えなかった。しんと静まり返る。
「どこにいるの?!」
 彼女はいらついて声を荒げた。
「ここに住んでいるのは、アンソニーと私のふたりだけよ」
 ユールベルは怯えながらも強気に答えた。
 ユリアは目を見開いた。そして、顔をしかめてうつむくと、小さく舌打ちした。
「騙したのね、サイファ……。信用のおける人物に預けているから心配ないなんて言って、よりによっていちばん信用ならないこの子と一緒だなんて!」
 こぶしを震わせ腹立たしげにそう言うと、キッと刺すようにユールベルを睨みつけた。
「そうとわかれば、何が何でも連れて帰るわ」
 ユリアはターニャの背後に隠れているアンソニーに手を伸ばした。彼はターニャの服を握りしめ、きつく目をつぶり身をすくませた。
「嫌がってるじゃないですか!」
 ターニャはユリアの手を払いのけた。ユリアはそのターニャの手を払いのけた。
「無関係の人間が口を出さないで!」
 ユリアは再び手を伸ばした。
「さあ、いらっしゃい」
 アンソニーは懸命に首を横に振った。精一杯の拒絶を示す。ターニャは、彼をかばいながら一歩下がった。
「アンソニー、あなたはユールベルに騙されているのよ」
 それでもアンソニーは、言葉ごと払うかのように首を振り続ける。
 ユリアはわざとらしく大きなため息をついた。
「これだけは言うまいと思っていたけれど……」
 静かに一歩踏み出し、アンソニーとの間を詰める。
 アンソニーはびくりとした。
 ユリアは真剣な表情で彼を見つめ、静かに口を開いた。
「あなたは赤ん坊の頃、ユールベルに殺されかけているのよ」
「……え?」
 アンソニーはきょとんとして聞き返した。
「殺さ……れ……?」
「いいかげんなこと言わないで!」
 ターニャの心臓は大きく打った。額にうっすらと汗がにじむ。まさか、そんなこと、あるはずがない——そう思いつつも、まるきり出まかせを言うだろうかという疑問が頭をもたげる。ユールベルに振り向くと、彼女は青い顔で目を見開き、呆然としていた。
 ユリアは身をかがめ、アンソニーに顔を近づけた。
「まだよちよち歩きのあなたを、ユールベルは階段から突き落としたのよ。私たちはあなたを守るためにユールベルとあなたを引き離したの。ユールベルを閉じ込めていたのはあなたのため。わかるでしょう?」
「違う……」
 ユールベルは頭を抱えながら、首を横に振った。顔にかかる乱れ髪を払おうともせず、何度も何度も首を振った。
「突き落としたんじゃない。私は、助けようと手を伸ばしたの!」
「まだそんな見え透いた嘘を言ってるの?!」
 ユリアは嫌悪感をあらわにして顔をしかめた。
「どうして嘘って……」
 そう尋ねたターニャに、ユリアは冷たく言い放った。
「この子が嘘つきだからよ」
「そんな……! 何の証拠もないのに、決めつけてるの?!」
 ターニャは黒い瞳を潤ませた。
「ユールベルが手に掛けようとしたのは弟だけじゃないわ。そこのお嬢さまもそうよ」
 ユリアはそう言って、目でアンジェリカを指し示した。
 彼女はびくりと体を震わせた。ジークは彼女の肩に手をまわし、力をこめて抱き寄せた。大丈夫だ、その思いを手に込めた。
「そんな子のことを信じろっていうの」
 ユリアは嫌悪感をあらわにしながら、ターニャに尋ねかけた。
「娘なら……」
「娘だなんて思ってないわ」
 反論しかけたターニャを遮り、ユリアは強い調子で言った。
「こんなおぞましい子が、私の子であるはずがない。そもそも生まれたことが何かの間違いだったのよ」
 誰も言葉を返せなかった。あまりの言いように、ただ呆然とするだけだった。
「帰りましょう、アンソニー。お父さんも待っているわ」
 ユリアは急に優しい口調に変わった。まるで別人のようだった。微笑みを浮かべ、細い手を差し出す。
 アンソニーはうつむき下唇を噛みしめていたが、やがて決意したように口を開いた。
「僕は……ねえさんを信じる」
 ユールベルははっとして弟に目を向けた。
「ねえさんはいつだって僕のことを考えてくれている」
「罪滅ぼしのつもりかもしれないわよ」
 ユリアは冷めた口調で言った。
 アンソニーは少し考え込んだあと、顔を上げた。
「昔に何かあっても、何もなくても、僕にとって大切なのは今のねえさんだ」
 怯えたふうにターニャの袖を掴みながらも、はっきりとそう言い切った。
 ユリアはギリッと奥歯を噛みしめた。
「だいぶ……ユールベルに影響されたようね。その反抗的な目……」
 こぶしをぎゅっと握りしめ、眉をひそめる。
「どうして? 私がどんな思いであなたを守ってきたと思ってるの? 今まで育ててあげた恩を忘れてユールベルを選ぶっていうの?! いいかげんにして!」
 彼女はカッと目を見開き、感情を高ぶらせ右手を振り上げた。
 アンソニーは頭を抱え、身をすくませた。
 しかし、それが振り下ろされる前に、ターニャが掴んで止めた。
「離しなさい!」
 ユリアはターニャの手を振りほどこうとしたが、ターニャはそれを許さなかった。ユリアの手を痕がつくほど強く握り、ひねり下ろした。ユリアはよろけながら後ずさった。
「あなたもラグランジェ家の人だから、それなりに魔導は使えるんでしょうけど、五人のアカデミー生が相手では分が悪いわよ。私たちとやりあう? それともおとなしく帰る?」
 ターニャは挑発的に尋ねた。
「……また、来るわ」
 ユリアは右の手首を左手で抱え、足早に出ていった。

「もう大丈夫よ」
 ターニャはアンソニーの肩に両手を置き、安心させるように、にっこり笑いながら覗き込んだ。
 アンソニーは歯を食いしばってうつむいた。
「僕、自分が情けない」
「情けなくなんかないわよ」
 ターニャは優しくそう言ったが、彼自身は納得しなかった。悲しげに首を横に振る。
「僕が逃げ帰ってこなければ、ここを知られることもなかったんだ」
「それは、仕方ないわよ。キミはずっとあの人に抑圧されてきたんだもの。恐怖感は簡単に拭えるものじゃない。それなのに、ホント頑張ったよ」
 アンソニーは目に涙をためた。あふれそうになると、あわてて服の袖でごしごしと拭った。
「でも、このままじゃダメなんです。もっと強くならないと……ねえさんを守れるくらいに」
「うん、キミなら大丈夫。きっと強くなれるよ」
 ターニャは力強く励ました。
 ユールベルは右目から涙をこぼした。それを隠すように下を向き、両手を顔で覆った。
「私の方が……アンソニーを守らなければいけないのに……」
「おまえはあいつよりひどい目にあってきたんだ! 自分を責めるな!!」
 レオナルドはユールベルに向き直り、華奢な肩をつかむと必死になぐさめようとした。だが、その言葉は、彼女の心にはあまり響かなかった。
「守らなきゃ、なんて思わなくても大丈夫よ。アンソニーはしっかりしてるから」
 ターニャはにっこり笑いかけた。
「さ、気を取り直してパーティの続きをしよう!」
 明るく言ってみたが、彼女以外は沈んだままだった。特にユールベルは、顔を上げることすら出来ずにいた。
「ジーク、何か声を掛けてあげてよ」
 ターニャはずっと沈黙していたジークに話を振った。
「何で俺が……」
「なんでもいいから、ほら」
 ターニャはもどかしげに急かした。ジークは眉根にしわを寄せた。この状況では嫌と言うわけにもいかない。さんざん悩んで、頭をかきながら口を開いた。
「あー……この唐揚、うまいぜ。おまえも食って元気出せ」
 そう言って、唐揚の大皿をユールベルに差し出した。しかし、彼女は下を向いたまま微動だにしない。
 ターニャは白い目をジークに向けた。
「もうちょっと気のきいたセリフは言えないわけ?」
「俺に期待する方が間違ってんだよ」
 ジークはふてぶてしくソファの背もたれに両腕を掛けた。すっかり開き直っている。
「それ、自分で言ったら情けないわよ」
 アンジェリカは呆れ顔でため息をついた。
 ユールベルは涙を浮かべたまま、小さく肩を震わせくすくすと笑った。
「おかしな人たち……」
 皆、いっせいに彼女に振り向いた。彼女がこんなふうに声を立てて笑うなど滅多にない。彼女を知る者なら驚くのも当然である。
 アンソニーはジークをじっと見つめた。
「ジークさん!」
「あ?」
 ジークは気の抜けた返事をして顔を上げた。アンソニーは真剣な表情で頭を下げた。
「ねえさんをよろしくお願いします!」
 ジークはソファから半分ずりおちた。
「な、なんだ?! いきなりっ!」
「おまえ何を!」
 レオナルドも同時に声を上げた。飛びかからんばかりの勢いで立ち上がる。
「おまえなんかよりジークさんの方が多分ずっといいよ。きっとねえさんを幸せにしてくれる!!」
 アンソニーは力説した。
「おい待てよ! なに勝手に決めてんだよ」
 ジークは困惑した。本人を目の前にして、あからさまに拒絶するわけにもいかない。だからといって曖昧な返事をしては、誤解されかねない。ここにはアンジェリカもいる。いちばん誤解されたくない相手だ。
「だめよ、アンソニー」
 ユールベルはたしなめるように言った。
「どうして?」
 アンソニーは不満そうに尋ねた。
「だめ……なのよ」
 ユールベルは少し悲しげに笑って見せた。アンソニーは納得したわけではなかったが、その表情を目にすると何も言えなくなった。
 ターニャは目尻をそっと指で拭うと、ぱっと顔を上げた。
「さ、パーティの続き!」
 明るく笑い、ソファに腰を下ろそうとした。
 ピンポーン——。
 来客を告げるチャイムが、その場にいた全員の表情をこわばらせた。
「私が出るわ」
 ターニャは固い声でそう言うと、小走りで玄関へ向かった。皆は固唾を飲んで聞き耳を立てた。かすかに話し声が聞こえる。
 ターニャはすぐに戻ってきた。
「ただのセールスだった」
 皆の緊張が一気に解けた。同時に息をつく。ジークはサンドイッチにかぶりついた。
「ここ、引っ越したほうがいいんじゃねぇのか?」
「そうね。せっかく落ち着いてきたのに残念だけど」
 ターニャもソファに座り、サンドイッチを手にとった。
「でも、逃げまわっているだけじゃ、根本的な解決にはならないわよ」
 アンジェリカは冷静に指摘した。
「そいつを渡せば解決だろう」
 レオナルドはあごでアンソニーを指し示した。
「なに言ってんの!!」
 ターニャは机を叩きつけ立ち上がった。
「それ、自分の都合でしょ! さいってい!!」
「最低ね」
「最低だな」
 アンジェリカとジークも口々に責めた。しかし、レオナルドは腹立たしげに言い返した。
「何か解決方法があるのか? あるなら言ってみろ」
「それを今から考えるの!」
 ターニャはいらついて睨みつけた。レオナルドはふてくされて腕を組んだ。そして、思いつめた顔でうつむくアンソニーに追い打ちをかけた。
「ユールベルのことを思うなら、おまえはさっさと母親のところに帰るんだな」
「やめて、レオナルド」
 ユールベルはレオナルドの袖をつかみ懇願した。
「耳を貸しちゃダメ」
 ターニャはアンソニーの瞳を覗き込んで言い聞かせた。
「でも、確かに僕が戻れば……」
「駄目!」
 ユールベルは立ち上がった。
「行かないで。私にはあなたが必要なの」
「ねえさん……」
 アンソニーは複雑な表情でつぶやいた。
「絶対に、行かないで」
 ユールベルは強く力を込めて言った。
「僕……本当に行かなくてもいいの……?」
「あなたがあの人のところへ行ったら、私は取り戻しに行くわ」
 アンソニーは顔を歪ませ、両手で拭いきれないほどの涙をあふれさせた。
「さ、食べよ! 食べて元気だそ!」
 ターニャは明るく声を張り上げた。

 それからパーティの続きを行った。パーティといっても、主に食べて話をするだけのささやかなものである。暗くなった雰囲気を救ってくれたのは、ターニャの明るさだった。いつも明るい彼女だったが、いつも以上に元気を振りまき、みんなを話に巻き込んでいった。

 パーティが終わり、ジークとアンジェリカは帰ることにした。ターニャに言われ、ジークがアンジェリカを家まで送っていくことになった。もっとも、言われなくても、ジークはそうするつもりだった。

 すっかり暗くなった道を、ふたりは並んで歩いた。月明かりがふたりの後ろにおぼろげな影を作る。
「行かなきゃよかったな。今さら言っても遅いけど」
 ジークは下を向いてポケットに手を突っ込んだ。ひんやりした空気が頬をかすめ、火照りを冷ましていく。
「そんなことないわ。ユールベルやアンソニーのことをいろいろ知ることが出来たもの。上手く言えないけど、なんだか嬉しかった」
 アンジェリカはにこにこして、本当に嬉しそうに言った。
「それに……」
「ん?」
 ためらいがちにそう続けた彼女に、ジークは振り向いた。
「私は幸せだって思ったのよ」
「え?」
「人と比べてこんなことを思うのはいけないのかもしれないけど……私はお母さんにもお父さんにも、ちゃんと愛されている」
 アンジェリカは少し遠慮がちに微笑んだ。
「ああ」
 ジークはやわらかく笑顔を返した。
「それともうひとつ」
 アンジェリカは後ろで手を組み、空を仰いだ。
「呪われた子だってずっと言われ続けてきて、そのことを忘れたことはなかったし、忘れてはいけないと思っていた。いつも見返すことだけを考えていたの」
 ジークは彼女の横顔を見つめた。
「でもね」
 アンジェリカは明るい声でそう言うと、前に飛び出し、くるりと体ごと振り返った。
「アカデミーに入って、ジークたちと出会って、毎日楽しくて……いつのまにか忘れている時間が多くなっていったわ。それって、幸せなことなんじゃないかなって」
「そうだな」
 ジークは大きく息を吸い込んで、濃紺色の空を見上げた。
「でも、これからもっと幸せになれる」
「どうして?」
 アンジェリカはきょとんとしてジークを見上げた。彼はさらに顔を上に向けた。
「どうしてもだっ」
「根拠のない自信って、いちばんあてにならないわ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「根拠がないわけじゃねぇよ」
「じゃあなに? その根拠って」
 ジークはうっすら顔を赤らめた。
「なんでもいいだろ」
「なによそれ。はっきりしないわね」
 アンジェリカはますます口をとがらせた。
「でも……うん、そうなるといいな」
「なるさ」
 ジークは力強く言った。
 アンジェリカは屈託のない笑顔を彼に向けた。


68. 過去から続く未来

「魔導省の最上階に個室をもらうなんて、ずいぶん出世したものね」
 ユリアはとげとげしくそう言うと、腕を組み、ぐるりと部屋を見渡した。広くはないが整然と片付けられ、清掃も隅まで行き届いているようだった。
「まだまだこれからですよ」
 サイファは奥の机でほおづえをつき、ニッと笑った。背後の大きなガラス窓には青空が一面に広がり、そこからの陽光が彼の鮮やかな金髪を煌めかせている。
「あなたをお招きした理由はわかっていますね」
 彼の問いかけに、ユリアは眉をひそめた。
「あの子が告げ口したのね」
 その口調には腹立たしさがにじんでいた。
「私も暇ではありません。仕事を増やさないでもらえますか」
「私を騙しておいてよく言うわ」
 ユリアは怒りをあらわにしながら、半ばあきれたように言った。サイファは目を閉じ、ふっと口元を緩めた。
「嘘は言っていません。私はユールベルのことを信用していますから。あなたよりもずっとね」
 彼女は片眉をぴくりと動かした。
「いちいち頭にくるわね」
 吐き捨てるようにそう言うと、笑顔をたたえたサイファをキッと睨みつけた。
「私は間違ったことはしていないわよ。自分の息子を取り戻したいと思って何が悪いの」
 強い口調でそう主張するユリアに、サイファは余裕の表情を見せた。机にひじをつき、静かに口を開く。
「ユールベルにしたことは、どうなんですか」
 ユリアは口を結び、深くうつむいた。
「……仕方ないじゃない。どうやっても、愛せないのよ」
 左手で右腕をきつく掴み、苦しげに眉間にしわを寄せる。
「気持ち悪い……自分の嫌な部分を見せつけられているような……そう、多分、きっと私と似ているから……」
「似ていませんね」
 サイファは間髪入れずに否定した。ユリアは驚いて顔を上げた。その真意がわからず、困惑した表情で見つめる。彼はにっこり微笑み、答えを口にした。
「ユールベルは優しい子です。あなたと違ってね」
 ユリアは顔を上気させ、サイファを睨んだ。だが、彼は動じることなく言葉を続けた。
「愛せないものを愛せというつもりはありませんが、せめてそっとしておいてくださいませんか」
「アンソニーを返してくれれば、もうあの子に会うこともないわ」
 ユリアはいらついて言った。だが、サイファは悠然と構えたまま、落ち着いた声で答える。
「それはできません」
 まっすぐに彼女を見据え、さらに容赦のない言葉を吐く。
「あなたの元にいては、彼が幸せになれない」
「私は愛しているのよ! あの子を……アンソニーを!」
 ユリアは逆上して、ヒステリックに声を荒げた。
「愛と自己満足を履き違えていませんか。アンソニーは自分の意思を持つひとりの人間だ。あなたの所有物ではない」
 サイファは語調を強めた。ユリアは苦しげに目を細めうつむいた。
「私は……父の道具にすぎなかったわ」
 低く落としたその声は、かすかに震えていた。
「あなたと結婚して本家に入る……父にとって、それだけが私の存在価値だった」
 サイファは無表情で机にひじをついた。ユリアは下を向いたまま、堰を切ったように言葉を溢れさせた。
「本家に気に入られるように、あなたに気に入られるように、私は常にその行動を強いられてきた。でも、レイチェルが生まれ、あなたと婚約をすると、私は父から見向きもされなくなった。私の人生は、あなたが生まれたことで狂い、レイチェルが生まれたことで終わったのよ」
 次第に感情を高ぶらせ、目に涙を浮かべて訴えかけた。
「同情はします」
 サイファは感情なく言った。
「だからといって、自分の子供に手を上げていい理由にはなりませんよ」
 ユリアは目尻を拭って、強気にサイファを睨みつけた。
「手の早いあなたには言われたくないわ」
「はははっ。上手いこと言いますね」
 サイファは軽い調子で、ユリアの攻撃を受け流した。彼女は大きくため息をついた。そして、にこやかに微笑む彼を見つめ、固い表情のまま目を細めた。
「もし、レイチェルが生まれていなかったら、そして、父の望みどおり、私とあなたが結婚していたら……私は幸せになれたのかもしれない」
「それはありえません」
 ユリアの表情が曇った。
「どういう意味?」
「私があなたを愛せたとは思えないからです」
 サイファはにっこりと笑った。
「言ってくれるわね」
 ユリアは顔を赤らめ、キッと彼を睨んだ。
「私は何が何でもアンソニーを連れ帰る。親は私よ。裁判を起こしてあなたの不当を証明してもいい」
「やめた方がいいですよ」
 サイファは片ひじをつきながら、手持ち無沙汰に書類をぱらぱらとめくり始めた。
「ラグランジェ家の人間が騒ぎを起こすことを、極端に嫌う連中がいてね」
 ユリアは怪訝に眉をひそめた。サイファは書類に目を落としたまま、無表情で話を続けた。
「あなたも知っているでしょう。ラグランジェ家では、不可解な事故や行方不明事件が何件も起こっている。いずれも、実に都合のいいタイミングでね」
 ユリアは額に汗をにじませた。ごくりと唾を飲み込む。目には怯えの色が見えた。震えながら口を開く。
「……それは、脅し?」
「忠告ですよ。もっとも、あなたにとってはどちらでも大差はないでしょうが」
 サイファはさらりとそう言うと、顔を上げてにっこりと笑いかけた。
「ユールベルたちの家には、もう二度と行かないでくださいね」
 ユリアは両手で顔を覆い、その場に泣き崩れた。
「アンソニーが会いたいと言えば会わせます。そのときが来るのを待っていてください」
 サイファは淡々と言った。
「そんなこと……言うわけないじゃない……」
 ユリアは肩を震わせすすり泣いた。

「悪いな、急に」
 ラウルは、屈み込むレイチェルの背中に声を掛けた。彼女はルナを抱き上げると、にこやかに微笑みながら振り返った。
「気にしないで。サイファに呼び出されたのでしょう?」
「ルナを預けてこいと言われた。長くなるのかもしれない」
 ルナは嬉しそうにキャッキャと笑い声を上げながら、レイチェルの顔に小さな手を伸ばした。レイチェルは、ルナに顔を近づけ、優しく微笑みかけた。薄地のカーテン越しに広がる柔らかい光が、ふたりをあたたかに包み込んでいる。細く開いた窓から緩やかな風が流れ込み、カーテンをふわりと舞い上げた。同時に、レイチェルの長い金髪をさらさらと揺らした。
 ラウルはその光景を無言で見つめていた。レイチェルがふいに顔を上げると、彼はとっさにどうでもいいことを口走った。
「アルティナはどうした」
「今は会議中」
 そう答えると、彼女は大きな青い瞳を彼に向け、ちょこんと首をかしげた。
「少し、散歩しない?」
「サイファに呼び出されていると言っただろう」
 ラウルはつれない返事をした。しかし、レイチェルは引かなかった。
「私に付き合わされたと言えばいいわ」
 そう言って、にっこりと笑いかけた。
 ラウルは目を閉じ、大きくため息をついた。

 人影もなく、静まり返った校舎内。ジークは大きなあくびをしながら、図書室へと続く廊下を歩いていた。中庭の木々は、太陽の光を浴び、きらきらと照り返している。ふいに足を止めると、窓から青空を見上げた。そのまぶしさに目を細め、ため息をつく。肩に掛けた鞄がずっしりと重い。
 こんな天気のいい休日に、なんで——。
 その元凶である憎らしい担任の顔が頭をよぎり、思わず眉間にしわを寄せた。
 ジークは再びため息をつき、前に向き直ろうとした。そのとき、視界のすみにある人物が映った。はっとして目を向ける。見間違いではない。中庭に立っているのは、まぎれもなくラウルだった。焦茶色の長い髪を風になびかせながら、腕組みをして空を見上げている。そして、その隣にはレイチェルが座っていた。ルナを膝にのせ、柔らかな表情を見せている。
 生徒には鬼のようにレポートを出しておきながら、自分は呑気にひなたぼっこか?
 ジークは舌打ちをした。肩を上げ鞄を担ぎ直すと、腹立たしげに大股で歩き始めた。しかし、彼の足はすぐに止まった。そして、もう一度、中庭に目を向けた。

「休日はアカデミーの方が静かでいいわね」
 芝生の上をトコトコと歩きまわるルナを見て、レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「私もアカデミーに通ってみたいと思ったことがあったのよ」
 ラウルは少し驚いたように瞬きをすると、隣で座る彼女に目を向けた。
「サイファが許さなかっただろう」
「その前に両親に止められたわ」
 レイチェルは肩をすくめてみせた。
 ラウルは再び空を望んだ。風が木々の緑を奏で、それに呼応するかのように小鳥のさえずりが重なる。
「何か、話があるのだろう」
「お見通しなのね」
 レイチェルは笑いながら言った。
「何だ?」
 ラウルが急かすように尋ねると、彼女は小さなルナに目を向けた。そして、少し遠慮がちに口を開いた。
「ルナは、あなたの本当の……血のつながった子供、だったりしない?」
 ゆっくりと尋ねかけると、顔を上げ、ラウルの様子をうかがった。彼は大きな手で額を掴むと、次第に深くうつむいていった。まぶたを閉じ、なんともいえない表情を浮かべている。
「ずっと、疑っていたのか」
「疑うだなんて。そうだったらいいなって思ったのよ」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませた。
「ラウルがこの子を引き取ると言ったとき、様子が普通じゃなかったってサイファが言っていたし、アルティナさんが隠し子じゃないかと尋ねたときも、明確に否定しなかったって」
 ラウルは疲れたように息を吐き、その場に腰を下ろした。長い脚を折り曲げ、その膝の上に腕を投げ出しうなだれた。
「ラウル?」
 レイチェルは首をかしげ、彼を覗き込んだ。
「それはない」
 ラウルは彼女の澄んだ瞳をまっすぐ見つめた。
「誓って言う。断じて隠し子などではない」
 レイチェルはくすりと笑った。
「信じるわ」
 ラウルは安堵の息をつき、後ろの木にもたれかかった。頭上でかすかに若葉がざわめく。
「でも、何か理由があったの?」
 レイチェルは再び彼を覗き込んだ。ラウルは目を細め、遠い空を仰いだ。
「……似ていたのだ。見つけたときの状況が」
 空の彼方に視線を送る彼を見て、レイチェルは確信した。
「例の、忘れられないひと、ね」
 ラウルは固い表情でうつむき、左手で額を押さえた。
「名前も……」
「え? もしかして、ルナってその人の名前?」
 レイチェルは大きな目をぱちくりさせた。
「いや、名前ではない……が、一部でそう呼ばれていた……」
 ラウルは背中を丸め、大きくうなだれた。
「私は愚かだ……そうだ、最初から何もかもおまえに相談するべきだった。おまえなら私を止めてくれただろう」
「そうね。名前は、止めたわね」
 レイチェルは肩をすくめ、少し苦笑いした。
「でも……」
 小さくそう言うと、前に向き直り、陽の当たる芝生に座っている小さな女の子の名前を呼んだ。
「ルナ!」
 小さな彼女は嬉しそうに笑顔で振り返ると、立ち上がってトコトコと走り寄ってきた。レイチェルは彼女を膝に抱き上げた。
「ルナは、もうこの子の名前になってしまったのよ」
 ラウルは無言で背中を丸めたままだった。
「これからできることは、その人を重ねるのではなく、この子はこの子として愛していくこと」
 レイチェルは彼を覗き込み、にっこりと笑いかけた。
「できるのでしょう?」
 ラウルはまいったと言わんばかりに、目を閉じ大きくため息をついた。
 レイチェルは目を細め、日なたの匂いのするルナの頭を優しく撫でた。
「後悔をしては、この子がかわいそう」
 彼女の瞳に強い光が宿った。
「だから、私は後悔をしない。愚かだったけれど、申しわけなかったけれど、それでも嘘はなかったもの」
 ラウルは彼女の横顔を見つめた。光を受けて輝く金の髪が、少し眩しく感じた。彼女はラウルの視線に気づき、瞬きをしながら振り向いた。
「もしかして、少しは後悔しろって思ってる?」
「いや。だが、サイファは……」
 レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「生まれたときから今まで、ずっと変わらず大切にしてくれている。決して私を責めたりしないわ」
 ラウルは後ろの木に身を預けると、腕を組み青空を見上げた。
「おまえにとっては良い夫というわけか」
「あなたにとっては良い教え子だった?」
 レイチェルは茶化して尋ねた。ラウルは空を見たまま、眉をひそめた。
「憎らしい奴だ。だが、今までに会った誰よりも頭がいい」
 端的にそう答えたあと、一拍の間をおいて付け加えた。
「ただ、魔導の潜在的な能力は、おまえの方が上だ」
「そうなの? 嬉しい」
 レイチェルは軽く無邪気に喜んだ。
「もう少し時間があれば、おまえの力を引き出せてやれた。そうすれば……」
「今さら言っても仕方のないことよ」
「……強いな」
 ラウルはぽつりと言った。レイチェルはルナを抱きしめ、空を見上げた。
「守ってくれる人がいるから、かもしれないわね。ラウルもそのひとりよ」
 そう言って、にっこりと笑いかけた。だが、ラウルは素っ気なく否定した。
「私は何もしていない」
「見守ってくれていたでしょう?」
 レイチェルは大きな瞳で彼を覗き込んだ。
 ラウルはうつむきながら頭を押さえると、ため息をついた。
「どうしておまえはそういうことを……」
 ——ガサッ。
 はっとして音のした方に振り返る。一瞬だが、黒っぽい何かが茂みの中に隠れるのが見えた。
「誰だ!」
 迫力のある声で叫びながら、その方に突進する。そして、あわてて逃げようとしていた人物を見つけると、首根っこを掴んで引きずり出した。それは、ジークだった。
「何をしている」
 ラウルは低く唸るように問いつめた。その目は激しい怒りで熱く煮えたぎっている。ジークは芝生に手をついたまま、じりじりと身を引いた。
「レポートを片づけに来ただけだ。おまえが山のように出すからな!」
 彼の額から汗が流れ落ちた。ラウルはギリッと奥歯を噛みしめた。そして、腹の底から声を絞り出す。
「なぜ盗み聞きをしていたのか、と訊いている」
「盗み聞きなんてしてねぇ! 姿が見えたから来てみただけで……いま来たところなんだよ!」
 ラウルはジークの喉をわしづかみにし、体ごと木の幹に叩きつけた。ジークは後頭部を激しく打ちつけ、思いきり顔をしかめた。喉を押さえつけられているため声は出ない。それどころか息さえできない。今にも喉がつぶれそうだ。
「おまえの記憶を封じてやる。成人に施すのは危険だが仕方ない。失敗すれば数年単位で記憶が飛ぶ。最悪は廃人だ」
 ジークは体をよじり逃れようとしたが、びくともしない。首を絞めつける大きな手に爪を立ててみても、その力が緩むことはなかった。
「下世話な好奇心を持った自分を恨め」
 ラウルは冷酷に言い捨てると、開いた右手をジークの額にかざそうとした。
「待って」
 レイチェルはその右手に自分の左手を重ねた。そして、大きな青い瞳をまっすぐ彼に向け、じっと訴えかけた。
 ラウルの手から力が抜けた。ジークは飛び出すようにそこから逃れると、喉を押さえ激しくむせ込んだ。
「ジークさん」
 レイチェルは膝をつき、体を屈めている涙目のジークを覗き込んだ。
「何も、聞いていないのね?」
 真剣な表情で、静かに念押しするように尋ねかける。ジークはごくりと喉を鳴らした。
「……はい」
「わかったわ。行って」
 レイチェルは凛とした声で、突き放すように短く言った。ジークはとまどいがちに何度か振り返りつつ鞄を拾うと、図書室へ向かって足早に歩き出した。

「甘いな」
 ラウルは低い声で言った。
「たいしたことは言っていないでしょう」
「あいつはバカじゃないぞ」
「だったら安心ね」
 レイチェルは後ろで手を組み、にっこり笑って振り向いた。
「彼は私たちの味方だもの」
「だといいがな」
 ラウルはため息をついた。
「使って」
 レイチェルは白いハンカチを差し出した。彼の手の甲からは血が滲んでいた。ジークに爪を立てられたときについた傷だ。それほど深くはないが、長く引っかかれている。
「こんなもの、放っておいても問題はない」
「あら、医者のセリフとは思えないわね」
 レイチェルはからかうように言った。そして、彼の大きな手をとると、ハンカチで傷口をそっと押さえた。赤い血がハンカチに染みていく。
「汚してほしくなかったのよ」
 ぽつりと落とされた彼女の言葉に、ラウルはぴくりと眉を動かした。
「この手は、ルナを抱き上げる手だもの」
 レイチェルは顔を上げ、優しく微笑んだ。彼女の足元に座っていたルナも、無垢な笑顔で見上げていた。

「ジーク! どこ行ってたの! 心配したよ!」
 図書室に入って来た彼を見るなり、リックは大きな声を上げた。隣のアンジェリカは、眉をひそめてリックに振り向き、口の前に人さし指を立てて見せた。図書室には、彼らの他にもレポートをまとめている生徒たちがちらほらいる。
 リックは「あ……」と小さく声をもらして口を押さえると、今度は声をひそめて言った。
「先に行ったはずなのに来てないから、事故にでも遭ったんじゃないかって思ったよ」
 ふたりは一緒にアカデミーに向かっていたが、リックは途中でセリカの家に寄るからと、ジークには先に行ってもらっていたのだった。
「悪りィな」
 ジークはまるで気のない返事をしながら、アンジェリカの隣に座った。リックはこれ以上の追求はしなかった。答える気がなさそうに見えたからだ。無事であればそれでいい。そう思いながら、本に目を落とした。
「何か、ついてるわよ」
 アンジェリカはジークの頭に手を伸ばし、髪に絡まっていた深緑色の欠片を取った。
「葉っぱ? 何をやってたの? こんなものつけて」
 首をかしげ、いぶかしげに尋ねる。ジークは困ったように目を泳がせた。
「天気が良かったから、つい中庭で昼寝……」
「え、昼寝?」
「もう、そんな悠長なことやってる場合?」
 リックとアンジェリカはあきれ顔で口々に言った。しかし、ジークは言い返すこともせず、覇気なくぼうっとしている。考えごとをしているようにも見えるが、どちらにしろ彼の心はここになかった。
「ねぇ、本当にどうしたの?」
 アンジェリカは次第に不安になってきた。どう見てもいつもの彼ではない。何かがあったとしか思えない。しかし、ジークはそれを認めなかった。
「なんでもねぇよ」
 どこか上の空で答える。
「なら、いいけど……」
 引っかかるものを感じてはいたが、彼女もそれ以上は尋ねなかった。
 ジークは鞄からノートと筆記具を取り出すと、席を立ち、奥の書棚へと向かった。

 ラウルは魔導省最上階にあるサイファの個室へやってきた。軽くノックし、返事を待たずに扉を開ける。
 サイファは大きなガラス窓の前に立ち、そこから広がる景色を眺めていた。
「遅かったな。待ちくたびれたよ」
 背を向けたまま、静かに言う。ラウルはぶっきらぼうに言い返した。
「おまえの都合にばかり合わせてはいられない」
 サイファは椅子に腰を下ろし、机に向き直った。
「猫とでもやり合ったのか」
 目ざとくラウルの手の傷を見つけると、引き出しを開けながらさらりと尋ねた。ラウルはわずかに眉をひそめ、一言だけ返した。
「猿だ」
 サイファは小さくふっと笑った。そして、唐突に、小さな何かを投げてよこした。それは弧を描き、ラウルの手の中におさまった。
「あのロッカーの鍵だ」
 サイファは部屋の隅を指さした。ラウルは彼を軽く睨むと、そのロッカーへと足を進めた。スチール製のそれは、表面がでこぼこしており、見るからに古そうだった。ところどころ錆まできている。ラウルは渡された鍵で扉を開けた。中には小さめの段ボール箱がひとつ入っていた。蓋は閉じられていない。多くの紙の束やファイルが無造作に突っ込まれ、あふれ返っている。
「片付けろとでも言うのか」
「ある研究者が発表しようとしていた論文と、その裏付けとなる実験データだ」
 サイファははっきりとよく通る声で言った。ラウルは彼を流し見た。
「揉み消したのか」
「表に出ては都合が悪いのでね」
 サイファはひじをつき、軽く握った手をあごに添えると、不敵な笑みを浮かべた。
「利口なやり方とは思えないな」
「私が関わったことはわからないよう工作はしてある。ラグランジェ家の誰かの仕業だという察しはついているだろうが」
 ラウルはじっとサイファを見つめた。サイファは軽く息をつきながら、肘掛けに手をのせ、背もたれに身を預けた。そして、まっすぐにラウルを見つめ返すと話を続けた。
「おまえに聞きたいのは、その論文の信頼性だ。私が読んだ限りでは、かなり高いとみている」
 ラウルは段ボール箱の中から、論文と思しきファイルを取り出した。パラパラとめくり、ざっと目を通す。
「大筋、間違ってはいないようだ」
 そう言うと、ファイルを閉じた。
「少し見ただけで何故そう言える。根拠は何だ」
 サイファは鋭い視線をラウルに向け、畳み掛けるように問いかけた。
「私のいた世界では、とうに証明されていることだ」
 ラウルは無表情で答えた。サイファは厳しい表情で目を細めた。
「何故、教えなかった」
「一度、言ったことがある」
「私は聞いていない!」
 身を乗り出し語気を強めるサイファに、ラウルは淡々と返した。
「おまえの祖父にだ。おまえが生まれるずっと前にな」
「……聞く耳を持たなかったのだな」
「ああ、一笑に付された」
 サイファは再び背もたれに身を沈めた。椅子が軽い軋み音をたてる。
「私なら、信じたよ」
 ぽつりと言うと、くるりと椅子をまわし、ラウルに背を向けた。ガラス窓の向こうに広がる青い空を、深い蒼の瞳に映す。そして、静かに口を開いた。
「一族の中で婚姻が繰り返されることに、不自然なものは感じていた。血を濃くすることの弊害もあるのではないか、そんな懸念が頭をよぎったこともある。分家がいくつもできた今でこそなくなったが、昔はきょうだい間での婚姻も、当然のように行われてきた」
 サイファは大きく息をついた。
「すでに私たちの遺伝子はかなり損傷している、と考えるべきだろうな。つまり、爆弾を抱えているようなものだ。このままではいつか……」
「どうするつもりだ」
 ラウルが低い声で尋ねると、サイファは椅子をまわし、再び彼に向き直った。
「さて、どうするかな」
 含みを持った言い方をすると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その瞬間、嫌な考えがラウルの頭をかすめた。
「まさか、アンジェリカを……」
「アンジェリカを、何だって?」
 サイファはほおづえをつき、ゆっくりと尋ねかけた。ラウルははっとしてけわしい表情でうつむき、口元を手で覆った。
「いいかげん気づいていないふりをするのはやめてもらえないか」
 サイファは立ち上がり、腕を組むと、ガラス窓にもたれかかった。
「一瞬、アンジェリカが頭に浮かんだのは事実だ。だが、あの子をラグランジェ家に縛りつけるつもりはない。その考えは今でも変わらないよ」
 腕を組んだまま、顔を横に向け、窓の外に視線を流す。
「それに、ラグランジェ家が変わらなければ、外部の者を受け入れることができなければ、結局は同じことさ。ただの延命措置にすぎない」
 光に縁どられた彼の端整な横顔は、寂しげな翳りを落としていた。
「おまえが変えるつもりか」
 ラウルが尋ねると、サイファはわずかに目を伏せた。
「いや、何もしない。滅びればいいさ。閉鎖的に自分たちの優位性を護ってきた、驕慢な一族の末路にはふさわしい最期だ」
 静かにそう言ったあと、少しおどけて付け足した。
「ま、滅びるのは私の子孫ではないしね」
 ラウルはため息をついた。
「あの連中がおとなしくそれを待つとは思えないが」
 サイファは表情を引き締めた。
「おそらく彼らもこの情報を掴んでいる。そうであれば、当然、何らかの対策をとるだろうな。それが正当なものであれば、私も尽力するつもりだ。ただ……」
 彼の目つきが急に鋭くなった。あごを引き、まっすぐ前を見据える。
「アンジェリカに手出しはさせない」
 低く重いその声は、決意に満ちていた。
 ラウルはロッカーの鍵を締め、それをサイファに投げ返した。
「無茶はするな」
 無愛想にそう言うと、背中を向け足早に歩き出した。
「ラウル」
 サイファはその後ろ姿に声を掛けた。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、動きを止めた。
「おまえがいてくれて良かった」
「からかっているのか、それとも嫌みか」
 ラウルは振り返ることなく尋ねた。
「本心だよ」
 サイファはにっこり笑って答えた。
 ラウルは乱暴に扉を開け、勢いよく出て行った。


69. うそつき

「僕たちもとうとう四年生か……」
 前を横切る初々しい新入生を見て、リックは感慨深げにつぶやいた。
 今日はアカデミーの入学式である。授業は午前で終わり、三人は帰り支度をして食堂へ向かうところだった。
「学年が上がった実感はあんまりないけどな。担任、ずっと変わらねぇし」
 ジークは仏頂面でぶっきらぼうに言った。彼の頭にラウルの姿が浮かんでいることは明白だった。リックとアンジェリカは顔を見合わせてくすりと笑いあった。
「なんだよ、おまえら」
 ジークは口をとがらせ、両隣りのふたりを交互に睨んだ。アンジェリカは顔を上げ、にっこりと笑いかけた。
「あと一年ね」
「ああ、さっさと卒業して働きてぇよ」
 ジークは面倒くさそうに、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「そう」
 アンジェリカは無表情で素っ気なく返事をした。彼女のその態度に、ジークはうろたえた。あわてて付け加える。
「少し、寂しいけどな」
 アンジェリカはきょとんと彼を見上げ、大きくまばたきをした。
「ラウルと離れるのが?」
「バカ! おまえだよ!」
 彼女を指さし勢いよく言ったあとで、はっとして目を伏せた。窓から射し込む陽光が、白い廊下に反射して少し眩しい。耳元が次第に赤みを帯びていく。
 アンジェリカは後ろで手を組み、短いスカートをひらめかせながら、彼の前にまわりこんだ。
「卒業したって、会おうと思えばいつだって会えるわ」
 大きな瞳で覗き込み、屈託のない笑顔を見せた。
 ジークは目を見張った。
 ——いつだって会える。
 彼女の言葉を頭の中で反芻すると、照れくさそうにはにかんだ。その様子をリックはにこにこしながら眺めていた。
「なんだよ!」
「別に」
 突っかかってきたジークに、リックは笑顔のままでさらりと答えた。ジークはその余裕たっぷりの態度が気に食わなかった。キッと彼を睨み、指先を突き付けると、威勢よくがなり立てた。
「おまえ人のことばっか気に掛けてねぇで、自分のことを考えろよ!」
「自分のこと?」
 そう聞き返されて、ジークは言葉に詰まった。
「い……いろいろあるだろ! えと……そうだ、進路とかな! ラウルがまともに進路指導なんてやるわけねぇし、自分でしっかり考えねぇとな」
 ほとんどターニャの受け売りだった。だが、ジークは上手く話を繋げられたことに安堵し満足していた。これならリックも悩み出すに違いない。意地悪くそんなことを思ったが、彼の口から発せられた言葉は予想とは違うものだった。
「ああ、それならもう考えてるよ」
「え?」
 聞き返したジークの声は、情けなく裏返っていた。ずり落ちた鞄を肩に担ぎ直す。
「どうするの?」
 アンジェリカはリックに振り返り、興味津々に尋ねた。彼はにっこり笑って答えた。
「先生になろうかと思って」
「アカデミーのか?」
 ジークが尋ねると、リックは両手を前に出して振りながら、焦って否定をした。
「違う、違う、それは無理! 普通の学校のだよ」
「なんか、もったいねぇな。せっかくアカデミーまで来たのによ」
 ジークは腕を組み、不満そうに言った。しかし、アンジェリカは顔を輝かせ、弾んだ声をあげた。
「いいじゃない! リックに合ってると思うわ」
「ありがとう」
 そう言い合って笑顔を交わすふたりを見て、ジークは表情にわずかな影を落とした。
「ジークはどうするの?」
 アンジェリカは不意に彼に話を振った。目をくりっと見開き、いたずらっぽく覗き込む。
「まだ人柱になりたいとか思っているわけ?」
「人柱じゃねぇよ、四大結界師だ!」
 からかうように言ったアンジェリカの言葉を、ジークはむきになって訂正した。
「まあ、なりたいと思ってすぐになれるもんじゃねぇし、とりあえず魔導省に入るのが順当なところらしいけどな」
「ジークがお役人……」
 リックは呆然とつぶやいた。ジークは顔を赤くして言い返した。
「ガラじゃねぇのはわかってるよ!」
 アンジェリカは嬉しそうににっこりと笑いかけた。
「じゃあ、ジークはお父さんの部下になるのね」
「……そこがなぁ」
 ジークはとたんに苦い顔になった。アンジェリカは怪訝に顔を曇らせた。
「お父さんのこと、嫌いなの?」
 不安そうに尋ねる。
「あ、いや、そうじゃねぇよ」
 ジークはあわてて否定した。
「サイファさんのことは尊敬してる。でも、なんていうか、あんまり関わりすぎると……なぁ……いろいろやりづらいっていうか……」
 はっきりしない物言いに、アンジェリカは首を傾げた。
「やりづらいって、何が?」
「何がって言われても困るけどな……」
 ジークは追いつめられ、弱った表情で口ごもった。
「それって、アンジェリカのお父さんだからってこと?」
 リックが横から口をはさんだ。ジークはぎくりと体をこわばらせた。図星であることは、表情にも思いきり表れている。
「それ、どういう意味?」
 アンジェリカは眉根を寄せ、両手を腰にあて問いつめた。
「え、いや、あ、おまえはどうするんだよ、卒業後」
 ジークはしどろもどろになりながらも、必死で話題を変えた。
「え? 私?」
 ジーク自身、こんな手にアンジェリカが引っかかるわけないと思ったが、意外にも彼女は追求をやめ、その話題に乗ってきた。
「実は、私も魔導省に入りたいと思ったの。でもね、年齢制限があったのよ。18歳未満はだめだって。ひどいでしょう?! そんなの関係ないのに!」
 よほどそのことを訴えたかったのか、右手をぐっと握りしめ、勢いよく捲し立てた。そして、口をとがらせると、腕を組んで考え込んだ。
「どこか他にいいところがあればいいんだけど」
「おまえ、無理して就職することもないんじゃねぇのか?」
 ジークは思いつくままにそう言った。年齢のこともあるが、何より彼女の家は裕福である。若いうちから働かなければならない事情は何もないはずだ。
 しかし、アンジェリカはきっぱりと答えた。
「うちでじっとしているなんて嫌よ」
 ジークは苦笑した。
「勉強しながらあと四年待って、それから就職でも遅くねぇだろ」
 彼なりに最良の案を提示したつもりだったが、彼女は納得しなかった。
「そんな時間、ないかもしれないもの」
 ジークは怪訝に首をひねり、尋ねかけた。
「それってどういう……」
 そのとき、アンジェリカの表情が途端にこわばった。体を小刻みに震わせながら、大きく目を見開いた。彼女がその瞳に映しているのはジークではない。彼を通り越し、その向こうを見ているようだ。
「どうした?」
 ジークは彼女の視線をたどった。そこに立っていたのは、ロングコートをまとったひとりの男性だった。そこそこ年輩だと思われるが、体は大きくがっちりとして、背筋もしっかりと伸びている。老人という風情ではない。髪は半分ほど白くなっているが、残った色から元は鮮やかな金髪であったことがうかがえる。そして、瞳は深い青色——。ジークは直感した。この男はラグランジェ家の人間であると。
 ジークはアンジェリカをその男の反対側に寄せ、庇うように肩を抱き、足早に通り過ぎようとした。彼女の体の微かな震えが、手を通し伝わってくる。
 大丈夫だ——。
 ジークは安心させるように、無言でその手に力を込めた。
「ジーク=セドラックだな」
 思いがけない言葉に、ジークははっと息をのみ顔を上げた。なぜ自分の名を……。とまどいを隠せない。
「君とは一度、話をしたいと思っていた」
 男はジークを値踏みするように、上から下までじろりと見まわす。
「ちょうどいい機会だ。来てもらおう」
 有無を言わさぬ威圧的な口調。ジークは得体のしれない恐怖を感じた。同時に、何の話だろうかという興味もあった。しばらく考えたのち、口を結んだまま男の方に足を踏み出した。
「私も行くわ!」
 アンジェリカも彼のあとに続こうとする。そんな彼女を、男は冷たく睨みつけた。
「ジーク=セドラックとふたりで話をしたい。おまえは来るな」
「どうして?! 私の話でしょう? だったら……」
「言うことを聞け、アンジェリカ=ナール」
 迫力のある低音が、体の芯に響く。アンジェリカはびくりと体をこわばらせた。もはや、動くことも言い返すこともできなかった。
「心配すんな」
 ジークはそんな言葉を掛けることくらいしかできなかった。そして、ふたりは連れ立ってその場をあとにした。
「ジーク、図書室で待っているから!!」
 アンジェリカは遠ざかる背中に向かって、乾いた喉から声を絞り出した。ジークはわずかに振り返り、微かな笑顔で応えた。

「誰なの、あの人」
 リックは華奢な背中におずおずと問いかけた。彼女はふたりが消えていった方向をずっと見つめていたが、リックの声を耳にすると、目を細め口を開いた。
「私のひいおじいさまよ」
「ひい……おじいさま?」
 リックは驚いて思わず聞き返した。それにしては若すぎると思ったのだ。アンジェリカはガラス窓にそっと手をつき、中庭の噴水を見つめた。
「昔から、ひいおじいさまの私を見る目はとても冷たかった」
 無表情に、無感情に、淡々と言葉をつなげていく。
「誰よりも厳格で、誰よりもラグランジェ家のことを考えている人だから、異端である私が許せないんだと思う」
「そんな、アンジェリカが悪いわけじゃないのに……」
 リックはそれだけ言うのが精一杯だった。彼女の横顔を見つめ、悲しげに眉をひそめる。
 アンジェリカは彼に振り向き、少し寂しげに笑ってみせた。
「私の存在自体が許せないのよ」
 リックはもう何も言葉が掛けられなかった。彼女がラグランジェ家の中で「呪われた子」などと呼ばれ、蔑まれていることは知っていた。だが、それを目の当たりにすると、やはりショックである。彼女はどんな思いでこれまで生きてきたのだろうか、ふいにそんなことを考えてしまう。
「どうして自分だけこうなんだろうって、何度も考えたし、自分なりに調べもしたわ」
 アンジェリカは目を伏せ、自分の横髪を無造作に掴んだ。リックは胸が詰まった。
「答えは、見つかったの?」
 ゆっくりと滑り落ちる彼女の手を見つめ、静かに尋ねかける。アンジェリカはぽつりと言葉を落とした。
「遺伝子の異常」
「え?」
 リックはぽかんとしてまばたきをした。
「ただの憶測よ。根拠は何もないわ」
 アンジェリカは笑って肩をすくめた。
「色素が作られなくて、肌や髪が白くなるっていうのはあるの。逆のケースは見つけられなかったけれど、ありえないことではないかなって」
 そう言うと、今度は自嘲ぎみに小さく笑った。
「そうだとすると、穢れた血という言われ方も、間違ってはいないわね」
「間違ってるよ!!」
 リックは身を乗り出し、両こぶしを握りしめて言った。アンジェリカはその迫力に驚いて少し身を引いた。目をぱちくりさせて彼を見る。そして、ふいに表情を緩めると、やわらかい笑顔を見せた。
「ありがとう」
 リックはひとまず安堵した。彼女の肩にぽんと手を置き、優しく微笑みかけた。

 ジークと年輩の男は、王宮の外れにある小さな森に来ていた。生い茂った枝葉の隙間から落ちる木漏れ日が、細い散歩道にまだら模様を作る。緩やかな風が吹くたび、模様は形を変え、頭上からは木々のざわめきが降りそそいだ。
 ジークは不安になってきた。こんな人気のない場所に連れ込んで、この男はいったい何を企んでいるのだろうか。もし、何かが起こったとしても、助けを呼ぶこともできない。
「誰なんだよ、おまえは」
 沈黙と不安に耐えかねたジークは、半歩先を歩く男の背中に、無礼な口調で問いかけた。男は振り返ることなく答えた。
「先々代のラグランジェ家当主、それで充分だろう」
「で、今は長老会メンバーか?」
 男の足が止まった。そして、ゆっくりとジークに振り返り、鋭い視線を向けた。瞳の奥には強い光が宿っている。
 ジークはあごを引き、口端を上げ、挑みかけるようにニッと笑った。目はまっすぐ男を捉えている。だが、強気な態度とは裏腹に、額には脂汗が滲んでいた。
「そこまで知っているとはな。今すぐ始末したい気分だよ」
 男は凍てつくような青い瞳でジークを突き刺し、凄みのある低音をゆっくりと響かせた。ジークは背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。小さく身震いをする。
「安心しろ。そんなつもりはない」
 男はふっと笑って前に向き直り、再び歩き始めた。
「だが、他言をすればそうなるかもしれん。気をつけることだな」
「わかってる」
 ジークは少し離れて歩きながら、短く答えた。そして、再び疑問をぶつけた。
「わざわざ俺と話をするためにアカデミーに来たのか?」
 男の背中が笑った。
「自惚れるな。アンジェリカ=ナールの成績をもらうために来たのだ」
 コートの内側からファイルを取り出し、掲げて見せた。その青いファイルはかなりの厚みがあった。成績表だけではなく、試験や内部資料なども収められているのかもしれない。ジークはそう思った。
 男はそれをコートの内側に戻すと、脇にひっそりと佇むベンチに腰を掛けた。古びた木製のそれは、ギィと鈍い軋み音を立てた。
「君の成績もついでに見させてもらった。優秀だな」
「一度もアンジェリカに勝てたことねぇよ」
 ジークは顔をそむけ、吐き捨てるように言った。嫌味を言われているのだと思った。くやしまぎれに足元の小枝を踏みしめる。パキパキと甲高い音が森に響いた。
 男はまぶたを閉じ、ふっと笑った。
「あの子には勝てんよ。君はもちろん、ラグランジェ家の人間でも、敵うものはほとんどいないだろう」
 そう言ってジークを一瞥すると、さらに話を続けた。
「それだけの素質が彼女には備わっている。そういう血を持って生まれてきたということだ」
「やっと認める気になったのか」
 ジークは呆れたように言った。フンと鼻を鳴らす。
「当たらずとも遠からず、といったところだな」
 男はベンチから立ち上がり、コートのポケットに手を入れた。広い背中をジークに向ける。
「彼女は我々にとって必要な存在となった。君には手を引いてほしい」
「は?」
 男は悠然と振り返った。
「君とアンジェリカが懇意にされては、後々、差し障りが出てくるのだ」
 ジークは訝しげに首を傾げた。
「わかるように言えよ。アンジェリカをどうするつもりだ」
「ラグランジェ本家を継いでもらう」
 男はまっすぐジークを見据えて言った。
 来た——。
 ジークは唇を噛みしめうつむいた。いつかそういう話を聞かされるのではないか、心の片隅にずっと不安を抱えていた。同時に、呪われた子と言われている彼女に継がせないのではないか、そんなふうに楽観していた部分もあった。
「まだ正式決定ではないが、近いうちにそうなる予定だ。サイファにも、これ以上、好き勝手させはしない」
「赤ん坊の頃、殺そうとしたのはおまえらだろう。今さら勝手なことを言うな!」
 威勢よく突っかかったあとで、ジークははっとした。わずかに身構えると、上目遣いでじっと睨めつける。
「今度は邪魔になった俺を殺すつもりか?」
 頬を一筋の汗が伝う。そんなジークに、男は冷ややかな視線を送った。
「君は、我々のことを暗殺集団か何かのように聞かされているかもしれないが、そうではない」
 しっかりと言い聞かせるように、緩やかに抑揚をつけながら言葉をつなげる。そして、後ろで手を組み、無防備な背中をジークに見せた。
「部外者を巻き込まないことが、我々の基本方針でね」
「あくまで基本なんだろ」
 ジークはぶっきらぼうに揚げ足をとった。男はゆっくりと振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「すべてを忘れ、ラグランジェ家と距離をおくことを約束してくれれば、悪いようにはしない。君はこれから就職活動を始めるのだろう」
 ジークは顔をしかめた。
「おまえの力なんて借りるつもりはねぇよ。自分の力だけで十分だ」
「わかっていないな」
 男は冷笑した。
「君自身も言っただろう、“あくまで基本”だと」
 ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「裏を読め。手を引かなければどうなるかということを。おまえごときの人生を捻り潰すなど造作もないことだ」
 男は真顔で言った。
 ジークは奥歯を食いしばりうつむいた。爪が食い込むほどにこぶしを強く握り震わせる。ただの脅しではないと思った。彼らにはそれだけの力があり、また、そうすることにためらいもないだろう。いったいどうすれば……。頭が混乱して、まともに考えることもできない。
「なんで……なんでアンジェリカなんだよ。別にアンジェリカでなくてもいいだろう」
 今にも泣き出しそうな声でつぶやくと、顔をしかめ髪を鷲掴みにした。
「残念ながら、そうはいかなくなったのだ。すべてはラグランジェ家を守るためだ」
 その言葉を聞くと、ジークの頭に一気に血がのぼった。
「バカじゃねぇのか! 人があっての家だろう!」
 顔を上げ、大声で食って掛かった。その声に驚いた森の鳥たちは、いっせいに羽ばたき飛び立っていった。木の葉がいくつか、ひらひらと舞い落ちる。だが、男は平然としたまま、ジークを一瞥した。
「おまえのような外部の人間にはわからんだろうな。二千年近く名家として続いてきたラグランジェ家の重みというものを。その伝統の前では、個人など取るに足りないものなのだ」
 ジークはムッとして男を睨みつけた。
「少なくともサイファさんはそう思っていない」
 男は嘲るように小さく笑った。
「君は随分サイファを慕っているようだが、気をつけた方がいい」
「おまえの言うことなんか信じるかよ」
 ジークがそう言ったにもかかわらず、男は構わず話を続けた。
「守りたいものが違うだけで、本質は我々と変わらない。人を利用し、不要になれば排除する。そういうことが平気でできる男だ。嘘をつくのが上手い分、我々よりたちが悪いかもしれんな」
 ジークは反論もせず、複雑な表情で立ち尽くしていた。この男の言うことを信用したわけではない。だが、何か引っかかりのようなものを感じる。些細なこととして気にしなかった、もしくは気にしないようにした、いくつかの小さな記憶。それらが一斉に呼び起こされるような、そんなざわめく感覚がわき上がった。
 男はジークの肩に片手をおき、ぐっと力を込めた。
「君が利口な選択をしてくれることを願っている」
 ジークは、その低音が腹の底にずっしりと沈んでいくのを感じた。額から汗が吹き出す。男はもう一度、ジークの肩においた手に力を込めると、彼を残して森から出ていった。
 男の姿が見えなくなると、ジークは膝から崩れるようにその場にへたり込んだ。肩にはまだごつい手の感触が残っている。
 森のどこかから、小鳥のさえずりが聞こえてきた。

「ジーク!!」
 彼が図書室の扉を開けたとたん、アンジェリカは彼の名を呼び、急いで駆け寄ってきた。不安そうな表情で、じっと彼を見つめる。
「何の話だったの?」
 少し緊張したような固い声。ジークには彼女の気持ちが痛いほど伝わってきた。それでも、あの話を伝えることなど、自分にはできない。彼女から目をそらせる。
「何でもねぇよ」
 精一杯の平静を装い、ぶっきらぼうに答えた。しかし、その答えはなんのごまかしにもなっていなかった。アンジェリカはさらに追求する。
「何でもないわけないじゃない! 私に関係がある話なんでしょう」
「違う」
 ジークは難しい顔でうつむいた。アンジェリカは追求を緩めなかった。
「他に何の話があるっていうのよ」
 ジークは言葉を失った。沈黙するしかすべがなかった。アンジェリカは真剣な表情でジークを見据え、落ち着いた声ではっきりと言った。
「自分のことくらい、自分で受け止められるわ。子供扱いするのはやめて」
「子供じゃねぇかよ!」
 追いつめられ、ついそんな言葉が口をついた。言い過ぎた——。ジークはすぐに後悔した。
 アンジェリカは大きな漆黒の瞳を潤ませ、彼をキッと睨んだ。
「うそつき!」
「うっ……?」
 ジークは尋ね返そうとして、言葉を詰まらせた。
 アンジェリカは机の上に置いてあった鞄を乱暴に掴み、走って図書室を出ていった。
「アンジェリカ! 待って! わっ」
 彼女を追いかけようとしたリックを、ジークはフードを掴んで引き留めた。
「何を言うつもりだ」
 うつむき、喉の奥から乾いた声を絞り出す。
「何って……」
 リックは口ごもった。そこまで考えていなかった。
「でも、あのまま行かせていいの?!」
「これは俺の問題だ」
「じゃあ早く追いかけなよ!」
 リックに急き立てられても、ジークはただうなだれるだけだった。彼が何かに深く悩んでいることは、リックにもわかった。しかし、アンジェリカも同様に悩みと不安を抱えている。そんな彼女にあのような言葉を浴びせ、謝りも弁解もせずそのまま行かせるなど、あってはならないことだと思った。
「ジーク!」
 苛ついて名を呼ぶ。行動を起こさない彼がもどかしかった。
「もう少し、考えさせてくれ……」
 ジークは消え入りそうな声で、ようやくそれだけを口にする。
 リックは目を細めて彼を見つめた。


70. 親子のかたち

「うそつき!」
「そうだよ、ジーク。ひどいよ!!」
 アンジェリカとリックは口々にジークを責め立てた。
「違っ……」
 言葉に詰まり、反論すらできないジークに、ふたりは冷淡な目を向けた。
「こんなヤツのこと、もう忘れなよ」
 リックはわざとらしくため息をついた。
「言われなくても忘れるわ」
 アンジェリカはつんと顔をそむけ、不機嫌に言い捨てた。そして、リックと腕を組むと、ふたりで笑いあいながら去っていった。
「待て! おいっ! おいっ!!」
 引きちぎれるくらいに強く腕を伸ばすが、なぜか足は石のように動かない。追いかけたいのに追いかけられない。みるみるうちに、ふたりの姿は小さくなっていった。
「ジーク、君には手を引いてもらうと言ったはずだ」
 威厳に満ちた、腹の底に響く低音。どこからともなく男が現れた。ラグランジェ家の先々代当主だ。
「我々はリックを正式な後継者と認めた」
「なっ……」
 ジークは目を見開いた。額から汗が流れ落ちる。男は静かに言葉を続けた。
「君も男なら、潔く諦めろ」
「う……嘘だ!!」
 ジークは自分の叫び声で目を覚ました。心臓が痛いくらいに激しく強く打っている。自分の鼓動の音が、自分自身ではっきりと感じとれた。
「……夢……か……」
 見なれた天井の木目を目にし、ようやく状況を把握した。途端に体中から力が抜けた。大きく息をつき、吹き出した額の汗を袖口で拭った。
 ——まったく、何て夢だ。
 きのうの出来事が影響しているのは間違いない。自分の不安な気持ちがあんな夢を見せたのだろう。ただの夢だ——。懸命に自分に言い聞かせた。

 ジークは冴えない顔で、のっそりと体を起こすと、よろよろ階段を降りていった。
「おはよ、ジーク。やっと起きたのね」
 聞きなれない女性の声が、彼を出迎えた。
「へ?」
 ジークは間の抜けた声を上げ、振り向いた。そして、唖然として固まった。口を開けたまま声も出ない。
「ごはん、まだなの。もう少し待ってね」
 再び彼女が声を掛けた。ジークははっとして我にかえると、慌てふためきながらあたりを見回した。間違いなく自分の家だ。もういちど声の主を見る。エプロン姿の彼女は、じゃがいもの皮を剥きながらくすりと笑った。
「おまえ、セリカ……か?」
「そうよ」
 ジークは半信半疑で尋ねたが、彼女は当然のように肯定した。彼はますます混乱した。まだ夢の続きではないかと疑った。思わず頬をつねり確かめてみた。痛みを感じる。夢ではないようだ。わけがわからないといった顔で、唸りながら額を押さえる。
「ちょっと待て。なんでおまえがウチの台所で料理してんだ」
「私がお願いしたのよ」
 隣の部屋で、母親のレイラが声を張った。彼女はダイニングテーブルで、マグカップを片手にくつろいでいた。セリカと視線を交わすと、意味ありげに笑いあった。
 ジークはいまだに状況がさっぱり把握できないでいた。落ち着きなく、母親、セリカと何度も交互に目を向ける。このふたりは知り合いでも何でもないはずだ。なのにどうして——。
 狐につままれたような顔をしている息子を見て、レイラは耐えきれずに吹き出した。
「リックと彼女がウチの前を通りかかったから呼び止めたのよ。パンクしたままだった自転車を修理してもらおうかと思って」
 ジークはようやく合点がいった。しかし——。
「リックはまだいいにしても、なんであいつに昼メシ作らせてんだよ」
 セリカを指さし、呆れ口調で尋ねる。
「ただ待ってもらうのも何だから、ついでにお願いしちゃった」
 年甲斐もなくかわいこぶる母親に、思いきり眉をひそめた。
「ったく、その図々しい性格、なんとかならねぇのかよ」
「人のこと言うまえに、そのカッコなんとかしたら? レディの前でみっともない」
 レイラはすまし顔でそう言うと、お茶を口に運んだ。
 ジークははっとして自分を見た。着古しすぎるほど着古したよれよれのパジャマ。その前のボタンを半分以上はずし、だらしなく胸をはだけさせている。髪も寝癖でぼさぼさになっていることは、容易に想像がつく。
「それを早く言えよ!」
 ジークはカッと顔を赤くして、あわてて二階へと駆け上がっていった。
「顔も洗って来なさいよー」
 レイラは淡々と追い打ちをかけた。
 セリカはそんなふたりのやりとりがおかしくて、くすくすと笑った。

 ジークは一応の身支度を整えると、再び階段を降りていった。ふいにごはんの炊きあがる匂いが鼻をくすぐる。その瞬間、忘れていた空腹を思い出し、急に体から力が抜けるように感じた。ふらつきながら台所に目をやると、リックとセリカが湯気の立ちのぼる鍋をはさみ談笑していた。
「おはよう、ジーク」
 リックは彼に気がつくと、にこやかに挨拶をした。いつもと変わらない穏やかで人懐こい笑顔。ジークは、一瞬、今朝の夢が頭をよぎった。だが、この光景を見ていると、あれはやはりただの夢としか思えなかった。
「悪りィな。なんかこき使って」
「まあ、いつものことだし」
 リックはそう言って笑った。ジークはますます申しわけない気持ちになった。
「リックは手先が器用だから助かるわ。ジークと違って」
 当のレイラはほおづえをつき、呑気にそんなことを言っている。まるで悪びれる様子もない。ジークは腕を組み、白い目を彼女に向けた。
「ジーク、あれからどうしたの? アンジェリカとはあのまま?」
 リックは声をひそめて尋ねた。ジークは途端に顔を曇らせた。
「……ああ」
 沈んだ表情で、沈んだ声を落とす。
「なに、なに? ケンカでもしたの?」
 地獄耳のレイラは、脳天気にはしゃぎながら首を突っ込んできた。
「おまえは黙ってろよ」
 ジークは苛立ちをあらわにした。
「これ、言おうか迷ってたんだけど……」
 リックはそう前置きをして、ジークの目をまっすぐ見つめた。ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「アンジェリカ、すごく悩んでるよ」
「ん? ああ、わかってる」
 それは、リックに言われるまでもないことだ。ジークは肩すかしを喰らったように感じた。アンジェリカが黒い髪と黒い瞳のせいで、親戚たちから蔑まれていたことは、ジークも知っていた。そのことで悩んでいることも、わかっていたつもりだ。ひょっとしたら、そんなこともわからない唐変木だとリックに思われているのだろうか。ジークは怪訝に眉をひそめた。
 しかし、リックが続けて語った話は、ジークが初めて知るものだった。
「自分だけ髪や瞳が黒いのは、遺伝子の異常じゃないかって言ってた。色素がなくて白くなるってのがあるらしくて、自分はその逆なんじゃないかって」
 ジークは腕を組んで首を捻った。
「難しいことを考えるな、あいつ……。どうなんだよ、医学生」
「え? 私?」
 料理を終え、後片づけをしていたセリカは、裏返った声で聞き返した。すぐ背後でなされているふたりの会話に、興味がないふりをしているつもりだった。が、ジークには耳をそばだてていることがばれていたのだろうか。
「おまえ以外に誰がいるんだよ」
 ジークは面倒くさそうに言った。不機嫌に口をへの字に曲げ、彼女を睨む。
「いきなり言われてもわからないけど……」
 セリカは手を拭きながら振り返った。
「役に立たねぇな」
 ジークは顔をしかめ、吐き捨てた。
「ジーク!」
 彼のあまりにあからさまな態度に、温厚なリックも黙ってはいられなかった。
 しかし、それを制したのはセリカだった。
「いいのよ、気にしてないから」
 無理に笑顔を浮かべてそう言うと、話の続きを始めた。
「色素が出来なくて、髪が白かったり瞳が赤いってのは確かにあるわよ。アルビノっていうんだけど。でも、逆は聞いたことないわね」
「アンジェリカもそう言ってたよ」
 リックは頷きながら言った。セリカは口元に人さし指をあて、斜め上に視線を流した。
「でも、たとえ突然変異だったとしても、彼女の場合、問題ないんじゃないかしら。アルビノは色素がないから、光に弱いとか健康上の問題があるけど」
 ジークは目をつぶり、腕を組むと、深く頭を垂れた。懸命に考えを巡らせる。そして、うつむいたまま薄く目を開くと、ぽつりと言葉を落とした。
「違うな」
「え? 何が?」
 リックは大きく瞬きをして尋ねた。だが、ジークは独り言のようにぶつぶつとつぶやくだけだった。
「遺伝子の異常とかだったら、あのジジイがあんなこと言うわけねぇ……」
「あのジジイって、アンジェリカのひいおじいさん? 何を言ったの?」
 リックは眉をひそめて再び尋ねた。ジークを覗き込んでその表情をうかがう。彼は考え込んだ様子で、眉根を寄せ、口をぎゅっと結んでいた。答えようという様子は見られない。
 リックはあきらめたようにため息をついた。
「僕たちに言えないんだったらいいけど、アンジェリカにはちゃんと話した方がいいよ」
 そう言いながら、椅子の上に置いてあった上着に袖を通した。セリカもエプロンを外し、代わりにジャケットを手にとった。
「おい、食ってかねぇのか?」
 リックたちが帰り支度をしていることに気付き、ジークはあわてて尋ねた。リックはにっこりと振り向いて言った。
「うちで母親が待ってるから。もともとそういう予定だったんだよ。ね」
 セリカに同意を求めると、彼女も笑顔で頷いた。
「ふたりともありがとね。また来て」
 レイラは立ち上がり、手を振ってふたりを送り出した。ふたりも手を振りながら去っていった。

「うん、おいしい! 彼女、いいお嫁さんになるわよ」
 セリカの作ったクリームシチューを食べながら、レイラは声を弾ませた。ジークは無反応で黙々と食べ続けた。おいしいとは思ったが、口には出さなかった。
「あのセリカって子、確か、あんたに会いにウチまで来たことあったわよねぇ」
 レイラは記憶をたどるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。ジークはぎくりとして手を止めた。
「だから、何だよ」
 下を向いたまま、つっけんどんに切り返す。しかし、その声には、少しの固さと動揺が感じられた。
 レイラはニヤリと口端を上げた。
「リックにとられちゃったわけね。なっさけない」
「そんなんじゃねぇよ。あいつが勝手につきまとってただけだ」
 ジークは顔を上げることなく反論すると、いらついた様子で白いごはんをかき込んだ。
 そんな息子を見て、レイラはため息をついた。
「ま、本命はがっちり掴んでおくことね」
 軽い調子でそう言うと、彼の鼻先にスプーンを突きつけた。
「ケンカなんてしてる場合じゃないでしょ」
 ジークはどきりとした。レイラはさらにきつい一撃を加えた。
「うかうかしてると、アンジェリカまでリックにとられちゃうわよ」
 ダン!
 ジークは机を叩きつけて立ち上がった。何か言いたげに、瞳を揺らし開いた口を震わせる。しかし、その口から言葉は出てこなかった。
「気にしてたんだ」
 レイラは大きく目を開き、彼を見上げた。ジークは苦々しい顔で目を閉じ、崩れ落ちるように椅子に腰を落とした。顔を隠すように、深くうなだれる。
「あんたがひねくれた態度ばかりとってたら、冗談抜きでそうなっちゃうかもよ。少しは素直になることね」
 母親の冷静で厳しい忠告が、ジークの胸に深く突き刺さった。膝の上にのせたこぶしを、爪が食い込むほどに強く握りしめる。
 レイラはさらりと付け加えた。
「だからって、あちらの親御さんに顔向けできないようなことはするんじゃないわよ」
「するわけねぇだろ!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、大声で言い返した。その一瞬で全身から汗が吹き出した。息を整えながら、冷水が入ったコップを手にとる。
 レイラは両手でほおづえをつき、にこにこして彼を見た。
「なんだよ」
 ジークは少しびくつきながら、訝しげに尋ねた。
「あんたの顔立ちとかさ、だんだんリュークに似てきてるわよね」
 レイラは嬉しそうにそう言った。ジークはそれを聞いて、母親が笑顔で自分を見ていたわけがわかった。リュークとはジークの亡くなった父親のことだ。亡くなってから、もう十年以上になる。確かに似てきているかもしれない——ジーク自身にもそんな自覚はあった。一息ついて、手にしていた水を口に運ぶ。
「だから私、ちょっと心配だったのよ」
 レイラは思い出したように笑った。
「息子に恋しちゃったらどうしようって」
 ジークは飲みかけの水を吹いた。
「でも、内面はいつまでたってもバカなガキンチョのまんまだから、ぜーんぜんそんな気は起こらないけどね」
 そう言って、レイラはカラカラと笑った。ジークは布巾で机を拭きながら、疲れきったようにため息をついた。
「悪かったなバカで。半分は母親の血を引いてんだから仕方ねぇだろ」
「それもそうね、あはははは!」
 思いきり嫌味を言ったつもりだったが、あっさり認められてしまった。どうも調子が狂う。ジークはもう一度ため息をついた。
「リュークか……」
 そうつぶやいたレイラの声には、懐かしさがあふれていた。ジークもつられて父親を懐かしむ。真っ先に思い浮かぶのは、バイクに向かう寡黙な背中と油の匂い。父親の仕事をしている姿を見るのが好きだった。学校帰りにこっそり覗きに行ったりもした。
「生きていれば男どうしでいろんな話ができたのにね」
 レイラはいつになく優しい顔で言った。
「実際生きてたら、あんま話なんてしてねぇと思うけどな」
 ジークは目をそらし、ぶっきらぼうに答えた。だが、聞いてみたいことや話したいことはたくさんある。父親と今の自分が話をしている光景を思い浮かべて、思わず胸が熱くなった。だが——。
「って、こんな話、意味ねぇよ。もう生きてねぇんだし」
 心の幻を打ち消すかのように、冷めた口調でぼそりとつぶやき、仏頂面でほおづえをついた。
「たまにはいいじゃないっ」
 レイラはいつものように、明るい声を張り上げた。
「死んだ人は記憶の中でしか生きられないんだから」
「……それ、ちょっとくさくねぇか?」
 ジークはほおづえをついたままで、じとっと母親に視線を流した。
「やっぱり?」
 レイラはおどけて頭に手をあてた。
「ま、たまにはいいけどよ」
 ジークが無愛想にそう言うと、レイラはにっこりと笑った。両手でほおづえをつき、まっすぐジークの瞳を覗き込む。
「あんたがいてくれて良かった」
「なんだよ、急に」
 柄にもないことを口にする母親に、ジークは少しうろたえた。
「ひとりだったら、とっくに挫けてたわ」
「そうか? ひとりでも結構たくましく生きてくだろ」
 照れくさいものを感じながら、それを見せないようつれない返事をする。レイラは大袈裟に肩をすくめて見せた。
「わかってないわねぇ。女ってものが」
「おまえが女を語るなよ」
 ジークは冷ややかに言った。
「あら、少なくともあんたよりはわかってるつもり……ですわよ?」
 レイラはふざけてそう言うと、自分自身で吹き出した。ジークもそんな彼女につられ、笑顔を見せた。だが、それはすぐに消えた。いつまでこうやって気楽に笑っていられるのだろうか。ふいに表情に翳りを落とすと、ためらいがちに口を開いた。
「あのな……俺、もしかしたら、ヤバい奴を敵にまわすことになるかもしれねぇ」
「なに? ケンカ?」
 レイラは腕まくりしながら身を乗り出した。わくわくして、顔を輝かせている。
「なんで嬉しそうなんだよ! 冗談じゃなくて本当の話だぞ!」
 ジークが呆れたように怒鳴りつけると、レイラは急に真面目な顔になった。
「相手はなんて言ってるの?」
 ジークは返答に困った。どこからどこまで言えばいいのだろうか。少し考えてから、差し障りのない部分をかいつまんで話した。
「手を引かなければ、俺のことを潰すつもりらしい。多分、裏から手をまわして就職できないようにするとか……そんなことじゃねぇかと思う」
「あんたの気持ちは決まってるわけ?」
 レイラはまっすぐにジークを見据えた。ジークは逃げるように視線を外した。
「正直、怖ぇ。でも……」
 そこで言葉が途切れた。そのままうつむき、唇を噛みしめる。
「そうね。よく考えて、後悔の少ない方を選ぶことね」
 レイラはきびきびと言った。
「考えなしにバカやるのは止めるけど、しっかり考えて覚悟のうえでなら、何も言わない」
 めずらしく真剣な母親の言葉が、ジークの心に静かに響く。彼はうつむいたまま目を細めた。
 レイラはぱっといつもの明るい表情に戻った。
「ま、ホントに社会から干されたとしても、あんたひとりくらい私がなんとかしてあげるわ。だてに四十年、生きてないのよ」
 あははと笑いながら、大きく胸を張った。
 ジークはそう言われても、少しも安心できなかった。ラグランジェ家の仕打ちがそんなに生易しいものとは思えなかったのだ。それでも、母親のその気持ちはありがたかった。
「四十二年だろ」
 ジークはいつもの憎まれ口を返した。レイラはニッと笑って彼を見た。
「細かい男は嫌われるわよ」
 そう言って、まだ暗い顔をしている息子の鼻をつまんだ。

 昼食を終え、ジークは自分の部屋に戻ってきた。敷きっぱなしの布団の上に、ごろりと転がる。カーテンは半分だけしか開かれていなかったが、真昼の強い陽射しが差し込み、眩しいくらいだった。光から逃れるように背を向けると、体を丸め、ゆっくりと目を閉じた。
 アンジェリカ——。
 頭の中に広がる暗闇で、小さくその名をつぶやいた。彼女の笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、さまざまな表情が次々と浮かんでくる。
 ——笑うときも怒るときも、あいつはいつもまっすぐ俺を見てたな……。俺は、どうだった。顔をそむけてはいなかったか。
 ジークはゆっくりと目を開いた。仰向けになり、天井を見つめる。
 ——あいつの気持ちはわからない。だけど、もし、俺といることを望んでくれるとしたら……。そうしたら、俺は……。
 その顔に次第に赤みがさしていく。とっさに枕元に落ちていた上着をつかみ、頭に覆い被せた。


 アンジェリカは窓を開け、濃紺色の空を見上げた。かすかな夜風が、ほてった頬を冷まし、薄いレースのカーテンをひらひらと揺らす。
 うそつき——。
 きのう、ジークに言ってしまったひとこと。それが頭から離れない。何度も何度もリフレインする。
 ジークが嘘つきなら、私は卑怯ものね。
 黒髪がさらさらと頬にかかる。潤んだ目を細め、窓枠にもたれかかりながら、今日何度目かのため息をついた。

 アンジェリカは部屋を出ると、階段を降り、リビングルームに向かった。その途中、ダイニングルームの明かりがついていることに気がつき、何気なく覗き込んだ。
「あら、アンジェリカ」
 萌黄色のネグリジェを纏ったレイチェルが、笑顔で振り返った。右手にはコーヒーカップ、左手には牛乳瓶を持っている。
「あなたも飲む? ホットミルク」
「うん」
 アンジェリカは言葉少なにテーブルについた。
「お父さんはまだ帰ってないの?」
「今日は帰れそうもないんですって。最近、また忙しいみたいね」
 レイチェルは牛乳を火にかけながら答えた。
「そう」
 アンジェリカは無表情でほおづえをついた。そして、口をついて出そうになったため息を、ぐっと呑み込んだ。
「どうしたの? 今日はずっと沈んだ顔をしていたけど」
 レイチェルは背を向けたまま尋ねた。アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「そう、だった?」
「ええ、隠しているつもりだった?」
 そう尋ね返されて、困ったような複雑な表情ではにかんだ。

 かすかに甘い匂いが立ちのぼる。レイチェルはカップをふたつ手に持って振り返った。ひとつをアンジェリカに手渡し、自分も席についた。
「ありがとう」
 アンジェリカはそのホットミルクにそっと口をつけた。ほっとするような優しい温かさが体の中から広がる。固かった表情も次第にほぐれていった。
「おいしい」
「そう、よかった」
 レイチェルは大きくにっこりと笑った。そして、自分もホットミルクを口に運んだ。
「ねぇ、お母さん」
 アンジェリカはカップに両手を添え、顔を上げた。
「なぁに?」
 レイチェルは微笑みながら、大きな瞳を彼女に向けた。
「今日、一緒に寝てもいい?」
 アンジェリカは遠慮がちに尋ねた。
 レイチェルは目を見開き、きょとんとした。しかし、すぐに優しい笑顔を浮かべると、あたたかい声で答えた。
「もちろんよ」
 その言葉を聞いて、アンジェリカは少し照れ笑いしながらほっと息をついた。

「さあ、どうぞ」
 レイチェルに促されて、アンジェリカは両親の寝室に足を踏み入れた。もちろん初めてというわけではないが、あまりここに入ることはなかった。前に来たのは数年前——アカデミー入学以前である。だが、そのときに見た光景とほとんど変わっていない。懐かしさを感じながら、彼女はベッドにもぐり込んだ。レイチェルも、明かりを消すと、反対側からベッドに入った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 ふたりは挨拶を交わすと、暗い中でおでこを合わせ、にっこりと笑いあった。

「……きれいな髪」
 アンジェリカは唐突にぽつりとつぶやいた。
「え?」
 もう眠ったかと思っていた娘の声に、レイチェルは少し驚いて振り向いた。アンジェリカは横になったまま、彼女の長い髪を指でなぞった。カーテンの隙間からわずかに漏れ入る月明かりが、その柔らかな金の髪をほんのりと白く光らせる。まるで上品なプラチナを思わせる輝き。それは、神秘的とさえ形容できるものだった。アンジェリカは小さくため息をついた。
「本当にきれい」
「アンジェリカ、あなたの髪もきれいよ」
 レイチェルは感情を込めてそう言うと、彼女の手をとり包み込んだ。だが、その返答は素っ気ないものだった。
「そうかしら?」
 彼女の言葉には否定的な響きが含まれていた。それでもレイチェルはあきらめなかった。黒髪をゆっくりと撫でながら、にっこりと笑いかけた。
「私は好きだわ」
「この髪のせいで、お父さんとお母さんに迷惑を掛けてる」
 アンジェリカは眉根を寄せた。レイチェルは彼女の額に、自らの額をコツンと付けた。
「あなたに迷惑を掛けられたなんて、少しも思っていないわ」
「でも、事実よ」
「あなたのせいじゃない」
 ピシャリと言い放ち、そっとアンジェリカの頭を抱き寄せる。
「誰かのせいにしたいのなら、私を責めて」
 アンジェリカは目を見開き、息を呑んだ。耳元で静かに落とされた母親の声は、何かを深いものを秘めているように感じた。つらいのは自分だけではない。そんなことはわかっていたつもりだったのに。こんなことを言っても困らせるだけなのに——。
「でもね」
 アンジェリカが謝ろうとした矢先に、再びレイチェルが口を開いた。抱えていた娘の頭を離し、まっすぐに黒い瞳を覗き込む。
「私は、あなたが私の……私たちの娘でよかった、心からそう思っているわ。それは信じて」
 アンジェリカの胸に、熱いものがこみ上げてきた。自分が不安になったとき、信じられなくなったとき、黒い気持ちが沸き上がったとき——そんなときはいつだって、父も母も、迷わずそう言ってくれた。何度も何度もこの言葉に救われた。そして、今も——。
「私も、お父さんとお母さんの娘でよかった……って……」
 うっすらと潤んだ目を細め、言葉を詰まらせる。レイチェルは優しく微笑み、娘の頬にそっと手をのせた。
「何か、あったの?」
 そう尋ねられるのも仕方ないとアンジェリカは思った。一緒に寝たいなどと言ったのは初めてだったし、普段は触れないようにしている髪の色の話題を持ち出したり、確かに普通ではなかった。
 そして、実際に“何か”あった。
 きのうの出来事が頭をよぎる。曾祖父のこと、ジークのこと——。
「……私、ジークにひどいことを言ってしまったの」
 天井を見つめ、掛け布団をぎゅっと握りしめた。
「悪いことをしたと思うなら、素直に謝ることね」
 レイチェルは穏やかな口調で、諭すように言った。アンジェリカは口元まで布団を引き寄せた。
「許してくれるかしら」
 横目でちらりと母親を窺う。
「さあ、それはわからないわ。ジークさんが決めることだから」
 穏やかな声だが、その内容は厳しいものだった。アンジェリカはわずかに顔を曇らせた。レイチェルは彼女の前髪を、ゆっくりと掻き上げた。
「でもね、謝るということは、許しを請う行為ではなくて、自分の非を認めてそれを伝える行為なのよ」
 アンジェリカははっと目を見開いた。
「だから、許してくれるかを考えて行動するのは、間違ってるんじゃないかしら」
 レイチェルは淡々と言った。だが、その言葉には優しさがあふれていた。アンジェリカも十分にそれを感じとっていた。
「そうね、そうよね」
 彼女は自らに言い聞かせるように言った。そんな娘を見て、レイチェルは包み込むように笑いかけた。
「お母さん……」
 アンジェリカは母親の胸元に顔を寄せた。あたたかく、柔らかい。
「もっと、こうやって甘えてくればよかった」
「今からでも遅くないんじゃない?」
 レイチェルは彼女の背中に手をまわし抱き寄せた。アンジェリカはぬくもりの中でゆっくりと目を閉じた。

 目の覚めるような冷たい空気が頬を刺す。空が白み始めた中を、サイファは家路についていた。
 さすがに疲れたな——。
 首をまわし、凝り固まった肩をほぐすと、小さく息をついた。このところ仕事が忙しいうえ、ラグランジェ家の雑務や個人的な調べものなどで、帰りの遅い日が続いている。今日のように明け方になることもたびたびあった。普通ならいっそ帰らないという選択肢もあるだろうが、彼には考えられなかった。どんなに短い時間であったとしても帰りたい、帰ってレイチェルの顔を見たいという思いが強かった。
 サイファは裏口から家へ入った。静まり返った広い屋敷に、乾いた靴音が響く。かろうじて足元が見えるくらいの薄明かりの中を、まっすぐ寝室へと歩いていく。
 ギ……。
 サイファはそろそろと扉を押し開けた。音を立てないよう足先に神経を集めながら、そっと中に入る。
 ——アンジェリカ?
 レイチェルに寄り添う黒い頭が目に入り、一瞬、息が止まった。だが、ベッドを覗き込み彼女であることを確認すると、安堵して胸を撫で下ろした。なぜここにいるのかという疑問が頭をかすめたが、すやすやと眠っているふたりを見ていると、そんなことはどうでもよくなった。自然と頬が緩んでくる。疲れさえも忘れてしまう。いつまでもこの光景を見ていたい、そんな思いにとらわれた。
「う……ん……」
 アンジェリカは小さく声を漏らしながら、寝返りを打った。そして、ぼんやりと目を開いた。
「お父さん?」
「ごめんね、起こしてしまったね」
 サイファはしゃがんで彼女を覗き込み、にっこりと笑いかけた。アンジェリカは目をこすりながら、あたりを見回した。
「そうだわ……ここはお父さんとお母さんの寝室……」
 いまだにはっきりしない頭で、確かめるようにつぶやくと、ぼうっとしながら体を起こした。
「ごめんなさい、自分の部屋に戻るわ」
「いや、ここにいてくれ」
 不思議そうな顔を向けるアンジェリカの頬に、サイファは手を添えた。
「ひとつのベッドに三人並んで寝るのも、たまには悪くないだろう? アンジェリカは嫌か?」
「ううん、嬉しい」
 アンジェリカは眠そうな声でゆったり答えると、とろけるように微笑んだ。そして、彼の袖を掴み、自分の方へ引っ張った。
「急かさなくても逃げはしないよ。まずは着替えないと……」
 サイファはそう言いかけて、思い直した。とりあえずはこのままでもいいか。アンジェリカが寝ついてから着替えればいい——。ふっと表情を緩めると、彼女にせがまれるままベッドに入り、その隣に体を横たえた。ふたりは顔を見合わせて、小さく笑いあった。
「お父さん、大好きよ」
 囁くようにそう告げられて、サイファはくすぐったいものを感じた。愛おしげに目を細め、微笑みかける。そして、彼女を抱き寄せると、やわらかな頬にそっと口づけた。

 しばらくすると、アンジェリカは父親の胸の中で、静かに寝息を立て始めた。サイファは優しく彼女の頭に手をまわした。
 いつのまにか目を覚ましていたレイチェルは、そんな彼を見て、にっこり微笑んでいた。それに気づいたサイファも微笑みを返した。言葉はなくとも、ふたりにはそれだけで通じ合うものがあった。



読者登録

瑞原唯子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について