目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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61. 潜在能力

 コン、コン——。
 魔導省の塔。その最上階の一室がゆっくりとノックされた。それに続き、若い男の声が、固く張り上げられた。
「カイル=ハワードです」
「入りたまえ」
 机に向かい書類を眺めていたサイファは、手を止めず静かに答えた。
 一拍ののち、おずおずと扉が開き、カイルと名乗った男が入ってきた。彼は、サイファと同じ濃青色の上下を身につけていた。緊張した面持ちで一礼すると、背筋をすっと伸ばした。そのまま息を止め、次の言葉を待つ。
「君は魔導、医学、工学のいずれにも通じているそうだな」
 サイファは顔を上げ、まっすぐカイルの瞳を見つめた。彼の顔はたちまち上気した。
「はい。すべてアカデミー終了程度です」
「君には今日一日、私と行動をともにしてもらう」
「えっ?」
 思いがけない指示に、カイルは目を見開いて聞き返した。サイファはきびきびと端的に説明を始めた。
「アカデミー魔導全科で、対戦型 VRMを使用し試験を行うことになっているのだが、その VRMの設定と試験の監視を我々が行う」
 カイルは頬を赤らめたまま、ぱっと表情を明るくした。
「はいっ! 光栄です! 頑張ります!」
 鳶色の瞳を輝かせ、力を込めて畳み掛けるように答えた。
 サイファは二枚の書類を差し出した。
「私が作った設定案だ。確認をして、問題があれば指摘してほしい」
 カイルは前に進み、両手で受け取ると、その紙に視線を落とした。赤みがかった茶髪がさらりと頬にかかる。先ほどとは別人のような真剣なまなざしで、ひとつひとつ丁寧に、しかし素早く目を通していった。
「リミット値が若干低めですが、アカデミー生が対象なら妥当な線でしょう。問題はありません」
 そう言って顔を上げ、サイファに書類を返した。
「よし、これで行くとしよう」
 彼は、受け取った書類をファイルにはさみ、小脇に抱えた。
「これから実機に設定をしに行く。ついて来い」
「はい」
 颯爽と歩くサイファの後ろを、カイルは小走りでついていった。

 サイファたちは、アカデミー校舎の隅にある、ヴァーチャルマシンルームへと足を進めた。そこには VRMの白いコクピットがずらりと並んでいた。人間どうしの対戦用ではなく、コンピュータが相手をするものだ。そのうちのいくつかは蓋が閉じていた。まだ始業前だが、生徒が自主訓練をしているらしい。
 ふたりはその間を突っ切り、奥の扉へとやってきた。普段は鍵がかかっていて、立ち入りが禁止されている場所だ。しかし今日は鍵が外れている。サイファは扉を開け、薄暗い部屋へと踏み入った。カイルもすぐあとに続いた。
「遅いぞ」
 狭い部屋の奥で、腕を組んだラウルが待ち構えていた。彼の両隣にはコクピット、頭上には大きな薄型ディスプレイが架かっている。サイファはにっこりと笑顔を見せた。
「そう時間はかからないよ。優秀なパートナーが一緒だからな」
 カイルは後ろで嬉しそうに頬を紅潮させた。前に一歩踏み出し、ラウルを見上げた。
「カイル=ハワードです。よろしくお願いします」
 礼儀正しく挨拶をすると、深々とお辞儀をした。しかし、ラウルは冷たく一瞥しただけで、背を向け歩き出した。
「いつもああだ。気にするな」
「はい……」
 サイファは落ち込むカイルの肩を軽くたたき、ラウルの後に続いた。カイルもしょんぼりしながら、その後についていった。
 三人は、奥にある小さめの扉をくぐり、さらに狭くて暗い部屋へと進んだ。数人がやっと入れるくらいの広さだ。窓はなく、上に小さな電球がひとつあるだけである。部屋の中央には、古めかしい傷だらけの木机が幅を取っていた。その上には旧式の厚ぼったいモニタが鎮座している。机もモニタもまだらに埃を被っているが、画面部分だけは丁寧に拭かれているようだ。向かいには、薄汚れた二人掛けのソファが、取ってつけたように置かれていた。
「急ごしらえだが、一応モニタールームだ。ここで我々が監視を行う」
 サイファはソファの背もたれに手を置いた。
「生徒たちに重圧を与えることのないよう、我々は姿を見せない。いいな」
「はい」
 カイルはうなずきながら返事をした。サイファは、ラウルに振り向き尋ねた。
「設定もここで出来るのか?」
「ああ、そうしておいた」
 ラウルは木机の下の棚からキーボードを取り出し、モニタの前に置いた。サイファは、手にしていたファイルをカイルに渡した。
「設定の方法はわかるか?」
「はい。何度かやったことがありますので」
「では、君に任せるよ」
「はいっ!」
 カイルは顔を輝かせて歯切れよく返事をした。ファイルを机の上に広げ、モニタの電源を入れると、立ったまま中腰でキーボードを打ち始めた。なめらかに動く彼の指とともに、キーボードが軽快な音を立てる。それに連動するように、モニタではウィンドウが次々と開いては消えていった。

「どこへ行く」
 無言で立ち去ろうとしていたラウルを、サイファがきつい口調で呼び止めた。
 ラウルは扉に手を掛けたままわずかに振り向くと、冷たく威圧するような視線を送った。
「そろそろ始業時間だ。戻るまでにセッティングしておけ」
「そういう命令口調は感心しないな」
 サイファは、腕を組んで壁に寄りかかった。そして、含みを持った挑発的な表情を浮かべた。ラウルはムッとして睨みつけた。
「話ならあとで聞く」
 いらついたように言い捨てると、長髪をなびかせながら部屋を出ていった。サイファは眉をひそめて彼の背を見送ると、腕を組んだまま深くうつむいた。小さくため息をつく。
「カイル、手が止まっているぞ」
「あ、すみません! もうすぐ終わります!」
 彼はあわててモニタに向き直り、再びキーボードを叩き始めた。

 設定作業が終わり、ふたりで確認をしていると、多くの足音とざわめきが聞こえてきた。隣に生徒が入ったらしい。
「準備は出来たか」
 ラウルはふたつの部屋をつなぐ扉から顔を覗かせた。サイファは無言で右手を上げ OKサインを作って見せた。ラウルはかすかにうなずいて扉を閉めた。
 サイファはソファに腰を落とした。
「君も座れ」
「えっ……あ、はい! 失礼します!」
 嬉しいような困ったような微妙な表情で、ぎこちなくサイファの隣に腰を下ろした。二人掛けのソファゆえ、否応なく距離は近くなる。いつ肩が触れ合ってもおかしくない状態だ。カイルは口から心臓が飛び出しそうだった。息をひそめ、ちらりと隣に目を向ける。すぐ手の届くところにサイファの横顔があった。モニタからの光が、端整な輪郭をよりくっきりと浮かび上がらせている。
「私の顔に何かついているか?」
「いえっ。何でもありません」
 視線に気づいたサイファが振り向いて尋ねると、彼は逃げるように前に向き直った。
「危険だと判断したら即座に止める。いいな」
 サイファは、まだ何も映っていない白い画面に目を向け、冷静に言った。
「はい。でもあの設定なら、危険な状態なんてなりえませんよね」
 カイルは何気なく思ったことを口にした。しかし、サイファはそれに同意しなかった。
「人も機械も、絶対などということはありえない。気を抜くな」
「すみません……」
 カイルは自らの甘さを素直に反省した。同時に、仕事に対する厳しい姿勢を目の当たりにし、サイファへの尊敬を新たにした。
「始まるぞ」
 サイファがそう注意を促すと、向かい合うふたりの生徒がモニタに映し出された。

 監視を始めてから一時間ほどが過ぎた。問題となるようなことは何も起こっていない。この時点でちょうど半数が試験を終えていた。
「さすがにこの設定だと、早く決着がつきますね」
「そうだな。もう少しリミット値を高くしても良かったのかもしれない」
 カイルの緊張はだいぶほぐれてきていた。サイファとの会話も、次第に自然なものになっていった。
「でも、少しうらやましいです。私がアカデミー生のときは、こんなものがあることすら知りませんでした」
「あとで私と戦ってみるか?」
 サイファは前を向いたまま、まるで表情を動かさずにさらりと言った。カイルは驚いて顔を真っ赤にすると、あたふたと目を泳がせた。
「えっ?! あっ、いや、あの……。力の差がありすぎて、私では相手にならないと……」
「冗談だ」
 サイファは無表情で彼を突き放した。
「……ですよね」
 カイルは乾いた笑いを張りつかせた。安堵の息をつきながらも、どこか残念そうだった。
「次が始まるぞ」
 画面にふたりの生徒の姿が浮かび上がった。互いに身構えると、合図とともに戦い始めた。
「なかなかいいですね、彼。冷静で、防御にもそつがないですし」
 しばらくモニタを眺めていたカイルは、軽く感心したように言った。サイファもうなずいた。
「ああ、ずいぶん成長したな」
 彼のその物言いに反応し、カイルは目をぱちくりさせながら振り向いた。
「お知り合いですか?」
「モニタから目を離すな」
 カイルはあわてて前を向いた。
「娘の友人だ」
 サイファがそう答えたとき、モニタの中では、リックの放った一撃で勝負が決まっていた。
 カイルは横目で様子を窺いながら、遠慮がちに尋ねた。
「まさかこれ、お嬢さんのクラス……ですか?」
「そうだ」
 サイファは短く返事をした。そして、冷静な表情を保ったままで言葉をつなげた。
「問題ないとは思うが、万が一のときは頼む」
 カイルは一瞬きょとんとしたが、すぐにはっとした。
「わかりました! 万が一、気を失われたときは、精いっぱい介抱させていただきます!」
 今度はサイファが驚いた。思わず彼に振り向く。監視を始めて以降、モニタから目をそらせたのはこれが初めてである。ふいに、気が抜けたようにふっと笑ってうつむいた。そして再び顔を上げると、真剣なまなざしでカイルを見た。
「君が見るのは、私ではなくモニタの方だ。私に構わず監視を続けろ」
 そう言うと、一瞬だけ視線を伏せ、すぐに戻した。
「あと、私が正当な理由なく戦いを中止しようとした場合には、君がそれを阻止してくれ。いいな」
「はい」
 カイルは少しばつが悪そうに、しゅんとしていた。

「次が最後だな。ジーク、アンジェリカ」
 試験は順調に進んでいき、とうとう最後の一組となった。ラウルが名を呼ぶと、ふたりはそろって前へ進み出た。そして、互いに顔を見合わせ、何も言わずに強気にニッと笑いあった。左右に分かれて、それぞれコクピットに乗り込む。
 ——絶対に負けないわ。
 アンジェリカは表情を引き締めた。
 ——あの一ヶ月をまるまる活かせるチャンスだ。感謝するぜ、ラウル……!
 ジークははやる気持ちを抑え、大きく深呼吸をした。
 ウィィィ……ン。
 電動音とともに蓋が閉まると、前面の大きなディスプレイにふたりの姿が映し出された。リックは祈るように両手を組み、不安そうにそれを見上げた。
「始め!」
 ラウルはヘッドセットのマイクに向かって合図をした。

 ジークは身構え、呪文を唱え始めた。しかし、アンジェリカは両手を上に向けただけで、呪文の詠唱なしに天から稲妻を落としてきた。ジークは飛び込むように地に臥せ、直撃の寸前で結界を張り、かろうじてそれを防いだ。だが、安堵している暇などなかった。彼女は光の矢を容赦なく雨のように降らせた。彼の頭上とそのまわりに切れ目なく打ち込んでいく。まわりの地面が次第にえぐれていった。
 嘘だろ、もたねぇ……っ!
 身を屈めたまま、ジークはさらに二重に結界を張った。それでも結界ごしに衝撃が伝わってくる。足元も心もとなく揺れる。このままでは上の結界か下の地面か、どちらかが崩れるのは時間の問題だ。
 くそっ! どうすれば……。
 ジークは顔をしかめながら天を仰ぎ、様子をうかがっていた。
 一瞬、わずかに攻撃が途切れた。彼はその好機を逃さなかった。すばやく結界を飛び出し、大きな溝を飛び越え、アンジェリカに突進していく。彼女は冷静に腕を前に突き出すと、手のひらから大きな光球を放った。
 ジークは横に飛び退き、すんでのところでそれをよける。が、完全にはよけきれなかった。熱いものが肩をかすめ、焼けるような痛みが走った。顔を歪ませ倒れ込みながらも、短く呪文を唱え反撃をする。瞬時に彼女の両腕は厚く凍りついた。
 しかし、それよりわずかに早く、彼女は衝撃波を放っていた。ジークは地面を転がりながら攻撃をかわすと、その勢いのまま立ち上がった。そして、呪文を唱えながら、再び彼女に猛突進していく。
 グワッ!!
 アンジェリカを中心に風が起こったかと思うと、大きく渦を巻きながら、彼女を取り囲むように高く火柱が上がった。ジークは踏ん張って足を止めると、あわてて後ろに飛び退いた。あやうく火炎に巻き込まれるところだった。この炎につかまれば、完全にアウトだっただろう。
 どうする……。この炎は防御壁にもなっていて、簡単には貫けそうもない。彼女が次の行動を起こすまで待つか、それとも——。
 ジークは炎の壁の上方を見上げた。そして、決意を固めたように小さくうなずくと、短く助走をつけ強く地面を蹴った。同時に、地面に光球を叩きつけ、その反動を利用し、高く上へ飛び上がった。炎壁の倍ほどの高さで、彼の体は最高点に達した。下方に目をやると、その中央にたたずむアンジェリカの黒い頭がはっきりと見えた。
 やっぱり頭の上はガラ空きだぜ!
 ニッと笑うと、声をひそめて呪文を唱えようとした。しかしそのとき、下方で何かが白く強くキラリと光った。なんだろうと目を凝らした瞬間、その光は凄まじい勢いで自分に向かってきた。光の矢だ! かわそうにも、自由落下中では思うように素早く身動きがとれない。彼は急いで前方に結界を張った。間一髪、間に合った……かに思えたが、光の矢は軽々とその結界を突き破り、彼の腹を串刺しにした。

 ふたりを映していたディスプレイが、そこでブラックアウトした。生徒たちはみな息を呑んだ。声を上げるものは誰もいない。その部屋は、水を打ったように静まり返っていた。
 ウィィィ……ン。
 静寂を切り裂く耳障りな電動音。それとともに、ふたつのコクピットが開いていった。
 リックは固唾を飲んで、組み合わせた両手にぐっと力を込めた。

「作戦大成功!」
 アンジェリカは無邪気に笑いながら、コクピットから飛び降りた。一方、ジークは青ざめた顔で、腹を押さえながら、よろよろと降りた。額には脂汗がにじんでいる。
「ジーク、大丈夫?!」
 リックは大急ぎで駆け寄り、彼の肩に手を掛け覗き込んだ。アンジェリカは彼のただならぬ様子を目にし、顔から血の気が引いた。前回の対戦後のことがフラッシュバックする。
「なっさけねぇ……」
 ジークは引きつりながらも、なんとか笑顔を作って見せた。
「心配すんな。そう痛いわけじゃねぇよ。腹を貫通したような気持ち悪い感触が残ってるだけだ」
 しかし、彼の気分がすぐれない理由はそれだけではなかった。射抜かれる瞬間の激しい恐怖が、くっきりと脳裏に焼きついていたのだ。圧倒的な力に感じた戦慄、本能が予感した死への怯え、そして彼女に対する深い怖れ——。だが、それは言えなかったし、言ってはならないと思った。

「これで今回の試験は終わりだ。解散」
 ラウルは静まったままの生徒たちに、一方的に終了を告げた。そして、ジークに顔を向けると、ゆっくりと腕を組んだ。いつものように冷淡なまなざしで睨むように見つめる。
「来い」
 短く高圧的にそう言うと、あごをしゃくって背を向けた。
「なんだろう?」
 リックは疑問と不安が入り混じり、怪訝につぶやいた。ジークはがっくりと肩を落としていた。
「たぶん説教だ。俺、いいとこなしだったしな。一ヶ月も修業してきて、結果このザマだ。殺されるかも……」
 彼の顔はさらに青ざめていった。
「そんな! ジークだって頑張ってたよ!」
「そうよ、ジークが悪いわけじゃないわ」
 ふたりの慰めも、今のジークには響かなかった。
「おまえらは先に帰ってくれ」
 疲れたように投げやりにそう頼むと、覇気のない足どりでラウルの背中を目指し歩き出した。
 リックとアンジェリカは、心配そうに顔を見合わせた。

「お嬢さん、すごいですね……。学生の戦い方じゃないですよ」
 カイルは呆然としながら言った。
「ああ」
 まさか、ここまでとは——。サイファは前かがみになり、膝にひじをついて手を組んだ。そして、何も映っていない真っ黒のモニタを、思いつめた表情で見つめていた。
 ガチャ——。
 扉が開き、ラウルともうひとりが入ってきた。
「連れてきたぞ」
「やあ、ジーク君」
 サイファはソファから立ち上がり、にっこり笑いながら歩み寄った。暗い顔で視線を落としていたジークは、サイファの登場に思わず目を見開いた。
「サイファさん! どうして……」
「ラウルのお目付役というところかな」
 ラウルが隣で思いきり睨んでいたが、サイファはまるで視界に入っていないかのように話を続けた。
「今の試験、すべて見させてもらったよ」
 ジークはこわばった表情でうつむいた。
「気にすることはない。君は頑張ったよ」
 サイファは彼の肩をポンとたたいた。ラウルは無表情で腕を組み、冷たく付け加えた。
「浅はかな行動や愚かな判断もあったがな」
 ジークはますます落ち込んだ。
「なあ、ジーク君」
 サイファは真剣に、じっと彼を見つめた。ジークはわずかに目線を上げ、不安そうに顔を曇らせた。
「君も感じたと思うが、あの子は成長している。これからもまだ伸びるだろう」
 ジークは無言でわずかにうなずいた。
「こんなことを言うのは酷だが、君はアンジェリカには勝てない。潜在能力が違いすぎる。今日の戦いを見て実感したよ」
 サイファは淡々と語った。そして、どこか遠くを見やるように視線を空に泳がせた。ジークは口をきゅっと結んだ。
「君も知っているだろうが、魔導に関して言えば、持って生まれたものに依るところが大きい。努力だけでは乗り越えられない壁があるんだ」
 サイファの表情がけわしくなった。重く、静かに、言葉をつなげる。
「アンジェリカは計り知れない力を持って生まれてきた。私でも適わないほどの力だ。……そうだろう?」
 そう言って、ラウルに同意を求めた。鋭い視線を彼に流す。
「……そうだな」
 ラウルは眉をひそめ睨み返し、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「そういうことだ」
 サイファはジークに向き直り、急ににっこりと笑顔になった。
「もちろん、可能性を信じて挑戦しつづけるのは君の自由だが、あまり思いつめるとつらいぞ」
「戦いでは勝てないが、それ以外の試験なら可能性もないわけではないだろう。難しいと思うがな」
 ラウルは腕組みをしたままで、横から口をはさんできた。ジークは何も言葉が出なかった。ただ暗い顔でうなだれるだけだった。
「そう落ち込むな。そうだ、昼食をおごるよ」
 サイファはジークの隣に並び、彼の背中に手をまわした。そして、思い出したように、ラウルに振り向いた。
「ラウル、おまえも来るか?」
「おまえに借りを作るのはごめんだ」
「おごるとは言ってないぞ」
 ラウルは怒りをたたえた瞳で、ぞっとするほど冷たく睨みつけると、何も言わず部屋を出ていった。しかし、それに震え上がったのは無関係のジークの方で、当の本人であるサイファは平然としていた。
「カイル、明日までに報告書を作成しておいてくれ」
「あっ、はい!」
 すっかり傍観者となっていたカイルは、突然に話を振られ、少しうろたえた。今が仕事中であることをすっかり忘れていた。
「さ、行こうか、ジーク君」
 サイファは彼の肩を抱き、ふたりで部屋を出ていった。
 カイルはうらやましそうにその光景を眺めながら、いろいろ考えをめぐらせていた。サイファと少年はどういう関係なのだろうか。ラウルとの間には何かあるのだろうか。自分はお昼ごはんに誘われもしなかった……。そして、薄暗いモニタールームにひとり取り残された事実に気がつくと、泣きたい気持ちでため息をついた。


62. 捩れた一途

「こんなところに呼び出して、どういうつもりだ」
 レオナルドは扉に背をくっつけ、こわばった面持ちで前を睨んだ。彼の視線の先には、頬杖をつき、何かの書類に目を落とすサイファがいた。ここは魔導省・最上階にある彼の個室である。背後の大きなガラス窓から見える空は紅に染まり、沈みゆく陽の光は最後の悪あがきのように強い輝きを放っていた。そして、赤みを帯びた逆光が、彼の濃青色の上着をふちどり、鮮やかな金の髪をよりいっそう眩しく煌めかせた。
「ひどいものだな。どれもこれも地を這っている」
 サイファは呆れ顔でため息まじりに言った。レオナルドは、初めは何のことだかわからず怪訝に眉をひそめていたが、しばらくしてはっと気がついた。青ざめたひたいに脂汗がにじんだ。
「まさか、それ……」
「おまえの成績表だ」
 サイファはひじをついたまま、無表情で書面を彼に向けた。レオナルドはカッと顔が熱くなると同時に、全身から血の気が引くのを感じた。
「き……汚いぞ!! 職権濫用だ!! そこまでして俺を馬鹿にしたいのか!!」
 狼狽しながら噛みつくレオナルドに、サイファは鋭く冷たい視線を突き刺した。
「自惚れるな。おまえごときのために、そんな労力を使うと思うか」
 静かだが威圧的な口調。レオナルドは息を詰まらせたじろいだ。ごくりと唾を飲み込む。
「じゃあ、何でそれがおまえの手元にある」
 上目遣いでじっと睨み、低く抑えた声で問いかけた。
 サイファはわずかに右の口端を上げた。
「おまえの担任が持ってきたんだよ」
「なっ……」
 思いもよらない答えに、レオナルドは絶句した。なぜ担任が……。彼には皆目見当がつかなかった。
「親のところに行っても取り合ってもらえず、ラグランジェ家当主である私に泣きついてきたというわけだ」
 サイファは涼しい顔でそう言うと、ゆったりと背もたれに身を沈めた。
「かわいそうに、必死だよ。名門ラグランジェ家の者を留年させるわけにはいかないと重圧を感じているようだ。特別措置で進級させ、補習を受けさせているが、それもずるけることが多い。いつまでたっても一向にやる気を見せない。このままでは、今度こそ留年させざるをえないそうだ」
 レオナルドはいまいましげに歯噛みしてうつむいた。耳元から次第に紅潮していく。それでも精一杯の反発心を口にした。
「ラグランジェの名前に泥を塗るなとでもいいたいのか、ご当主サマ」
「特別扱いせず、遠慮なく落とすよう言っておいた」
 サイファは、レオナルドが言い終わるか終わらないかのうちに、それを打ち消すような強い語調で言った。
「なに?!」
 レオナルドは顔を上げ、目を見開いた。サイファは厳しい視線を彼に向けた。
「当然だろう。アカデミーはすべての生徒が平等であるべき場所だ。ラグランジェの名前に胡座をかく奴など、いるべきではない」
 一分の隙も迷いもない表情で、容赦なく言い放った。
「俺はあぐらなんてかいていない!」
 レオナルドは感情的に言い返した。しかし、それはなんの釈明にもなっていなかった。
「特別措置であることはおまえに伝えてある、担任はそう言っていた。ならば当然ラグランジェの名前に救われている自覚はあったのだろう。そのうえで何の努力もしないというのはどう説明する」
 サイファは論理的に問いつめた。完全に図星をつかれたレオナルドに、反論する余地はなかった。だが、素直に反省をする彼ではない。青い瞳を激しくたぎらせ、燃やし尽くさんばかりの勢いで目の前の当主を睨みつけた。
 しかしサイファはまるで意に介さず、冷淡なくらいに平静だった。レオナルドが何も言い返せないのを確認すると、彼を見据えたまま、さらに別の話題を持ち出した。
「今、ユールベルのところに転がり込んでいるそうだな」
「なっ……おまえには関係ないだろう」
 レオナルドは強気に言い返しつつも、胸の内は大きくざわめいていた。
「出ていけ」
 予想どおりの言葉がサイファの口から発せられた。しかし、予想以上にきつく端的な物言いだった。
 レオナルドは奥歯を噛みしめ、キッと睨みつけた。
「そんなことまで口を出される筋合いはない!」
 自分の気持ちを奮い立たせるように、大きく声を張り上げた。対抗するすべはそのくらいしかなかった。しかし、それもサイファの前では徒労に終わった。
「私は彼女の親代わりだ。彼女のためにならないものは排除するさ。それに、あの部屋は彼女と弟のために用意したものであって、おまえのためではない」
 彼は一気にそう言うと、ぞっとするほど冷酷なまなざしでレオナルドを睨めつけた。
「偉そうに言うのは、一人前になってからにしてもらおうか」
 有無を言わさぬ圧倒的な迫力。レオナルドは背筋に寒気が走り、腹の底に冷たいものが落ち込んだ。額から頬に汗が伝う。怯えたように目をそらし顔を歪ませると、小さくうわごとのようにつぶやいた。
「昔からおまえは嫌な奴だった。俺を目の敵にしていた。今だって俺のことを……」
「ああ、嫌いだよ」
 サイファは事もなげに言った。あまりにはっきり認めたので、レオナルドは思わず動揺した。そして、言いしれぬ不安と恐怖が沸き上がってきた。

 レオナルドは疲弊した心を引きずって帰ってきた。帰るといっても自分の家ではない。ユールベルと彼女の弟アンソニーの住まいである。彼は当然のように自ら鍵を開け、中に入った。
「ユールベル?」
 彼女は窓際の床に座り込み、空を見上げてぼうっとしていた。わずかに開いた窓の隙間から風が流れ込み、緩やかなウェーブを描いた金の髪を揺らす。
「アンソニーは?」
 レオナルドは部屋を見回しながら尋ねた。
「買い物に出ているわ」
 ユールベルは空に目を向けたまま、ぽつりと答えた。レオナルドは彼女に近づき、その隣に腰を下ろそうとした。
「いつまでこんなことを続けるの」
 彼女のかぼそい声が、彼の動きを止めた。中腰のまま、彼女に振り向く。彼女はまだガラス越しの空を見上げていた。
「逃げてばかりでは何の解決にもならないわ。私たちにとっても、こんな……」
 レオナルドの表情が立ち所にけわしくなっていった。
「出ていけっていうのか?」
 ユールベルは何も答えなかった。レオナルドはそれを答えと受け取った。
「そうか、サイファに何か言われたんだろう! 何を言われた?!」
 細い手首をきつく掴み、感情を高ぶらせ迫りかかる。
 ユールベルは顔をそむけ、眉間にしわを寄せた。
「何のこと?! 痛い、離してっ……」
「それともジークか?! まだあいつのことを!」
 レオナルドは激昂し、一方的に問いつめた。ユールベルは両手首を掴まれたまま逃れようともがいた。しかしそれは叶わず、バランスを崩し、後ろに倒れ込んだ。後頭部を打ちつけ、痛みに顔を歪ませる。床には、金の髪と白い包帯が広がった。それでもレオナルドは引かなかった。彼女の上に乗りかかり、我を忘れたかのように責めたてる。
「答えろ! どうなんだ!!」
「何してるんだ!!」
 外から戻ったアンソニーが、目を見張り、大声で叫んだ。部屋に駆け込むと、自分より大きなレオナルドを必死にユールベルから引き離した。まだ幼さの残る顔に、激しい怒りを広げる。
「行くところがないっていうから仕方なく置いてやっていたのに! 恩知らず!! 出ていけっ!!」
「待て、待ってくれ、悪かった」
 ようやく我にかえったレオナルドは、後悔の表情を浮かべ、うろたえながら懇願した。しかし、アンソニーは問答無用で外に押し出すと、扉をばたんと閉めた。それとほぼ同時に、ガチャと鍵をかける音がした。
「おいっ! 待て!!」
 バチッ——ドアに手を伸ばしたレオナルドの手は、すんでのところで弾かれた。その手を抱え込み、よろよろと後ずさる。
「こんな強力な結界まで張りやがって……」
 彼は赤く焼けた手のひらをじっと見つめ、惨めな思いでうなだれた。

「姉さん、大丈夫?」
 アンソニーは手を差しのべて、ユールベルを助け起こした。彼女は無造作な横座りのまま、表情を隠すように、顔をそむけうつむいた。緩くなった左目の包帯を、右手で押さえる。
「レオナルドを怒らないで。……悪いのは、私なの」
「姉さんは悪くない!」
 アンソニーは力を込めてそう言うと、彼女の隣に膝をつき覗き込んだ。
「どんな理由があっても暴力はダメだって、そう教えてくれたのは姉さんじゃないか」
 ユールベルは肩を震わせた。白いワンピースの上に、いくつもの雫を落とす。
「僕が、姉さんを守るから」
 アンソニーはひたむきな瞳を彼女に向けた。しかし、彼女はすすり泣きながら、かすかに首を横に振っていた。

 レオナルドには行くあてがなかった。それでも家へ帰る気は起きない。ぶらぶらとあたりを歩いているうちに、足は無意識にアカデミーへと向かっていた。門をくぐり、閑散とした校庭を歩いていると、聞き覚えのある声が耳に入った。はっとして顔を上げる。そして、苦々しく眉をひそめた。
「いい気なものだな」
 楽しそうに話をしながら歩いていたジーク、アンジェリカ、リックは、いっせいに顔を曇らせた。しかし、ジークは一睨みしただけで、言葉を返すことなく通り過ぎた。
「待て」
 レオナルドはジークの腕を掴んだ。しかし、ジークは間髪入れず振りほどいた。
「おまえと言い争う気分じゃねぇ」
 面倒くさそうにそう言って、アンジェリカの腕を引き、さっさとその場を立ち去ろうとした。だが、レオナルドは肩に手をかけ、再び引き止めた。
「話がある。一緒に来てもらおうか」
「俺はおまえと話なんてしたくねぇんだよ」
 ジークはうっとうしそうに顔をしかめ、肩にのせられた手を払いのけた。レオナルドはニヤリと不敵に笑った。
「ここで話してもいいのか」
 そう言うと、ちらりとアンジェリカに視線を流した。ジークは腹立たしげに眉間にしわを寄せた。
「わかった」
 苦渋に満ちた声で返事をすると、アンジェリカの腕を離した。
「おまえらは先に帰ってろ」
「レオナルドなんか無視すればいいじゃない」
 アンジェリカは、ジークがなぜ承諾したのかがわかっていなかった。ジークは心配をかけまいと、軽く笑顔を作ってみせた。
「心配すんな。適当にあしらってくる」
 さよならの代わりに右手を上げると、レオナルドの後について校庭の向こうへ歩いていった。
「何の話かしら」
「うーん、ただ因縁をつけてきただけじゃないかなぁ」
 リックは、不安そうにしているアンジェリカに、にっこりと笑いかけた。
「気になる?」
「ちょっとね」
 アンジェリカは肩をすくめた。
「でもいいわ。どうせたいしたことじゃないだろうから!」
 軽やかにステップを踏みながら、吹っ切るように明るくそう言い、くるりと振り返ってリックに笑いかけた。彼も笑顔を返した。
「大人になったね」
「何よそれ。誉めてるの? けなしてるの?」
 アンジェリカは顔を赤らめながら口をとがらせた。

 レオナルドとジークは、アカデミーの隅にある小さな教会の前に来ていた。
「懺悔でもするつもりかよ」
「おまえを懺悔させるのさ」
 ふたりはさっそく火花を散らしていた。
 レオナルドは教会の扉を開け、中へ足を踏み入れた。ジークもすぐ後に続く。案の定、中には誰もいなかった。ジークは入口横の壁にもたれかかると、腕を組んだ。
「で、何の話だ。早くしてくれよ。テメーと一緒にいるだけで胸くそわりぃんだ」
 レオナルドの言動からして、アンジェリカに関する話である可能性が高い。不安と緊張を感じつつも、それを見せないようぶっきらぼうな態度を装った。
 レオナルドも愛想なくジークを見た。
「アンジェリカとはどうなっている」
「はぁ?」
 ジークは素頓狂な声をあげた。耳元を赤らめながら困惑する。
「なんでおまえにそんなこと言わなきゃなんねぇんだ!」
「やっぱりな」
 レオナルドはわざとらしく大きくため息をついた。ジークはカッとして、ますます顔を赤くした。
「どういう意味だ」
「おまえがそんな中途半端な態度をとりつづけるせいだ」
 一向に話が見えてこない。ジークは苛立ちを募らせていった。
「わかるように言え!」
「ユールベルだ! いつまで彼女を苦しめれば気がすむ!」
 レオナルドは強い口調で責めたてた。しかし、それを聞いたジークは、気が抜けたようにため息をついた。
「あきれたヤツだ」
 レオナルドはぴくりと眉を動かした。ジークは彼に冷ややかに話を続けた。
「俺を責める前に自分を振り返れ、バカ。ユールベルを苦しめてんのはおまえじゃねぇのかよ」
「なんだと?!」
「おまえと一緒にいて楽しそうに見えたことがねぇぜ」
 事実を突きつけられ、レオナルドはひどくうろたえた。
「そっ……それは、おまえのせいだろう!」
「つきあってられるか」
 ジークは呆れ返って吐き捨てると、レオナルドに背を向けた。
「待て!」
 レオナルドはジークの腕を掴んだ。しかし、ジークは即座にそれを振り払った。そして、顔をしかめ、思いきり睨みつけた。
「俺にどうしろって言うんだ。ユールベルに、おまえには興味がねぇから俺のことはいいかげんに忘れろ、とでも言えば満足なのか?」
 レオナルドは答えに窮した。
「懺悔でもしてろ」
 ジークは捨て台詞を残し、再び踵を返した。レオナルドは歯ぎしりをして、その背中を睨みつけた。
「偉そうに……! おまえにはひとつも懺悔することはないというのか」
「あいにく俺は神なんて信じてねぇんだよ」
 ジークは振り返ることなく答えると、重量感のある扉を押し開けた。教会の中央を光の帯が伸びていき、奥の祭壇を照らす。しかし、すぐにその光は細くなり、バタンという音と同時に消えてなくなった。そして、光とともにジークも消えていた。

「おじさま……」
 ユールベルはおずおずと扉を開けた。サイファは彼女に気がつくと、にっこり穏和な笑顔を見せた。
「やあ、ユールベル。どうした?」
「おじさま、あの……レオナルドが……」
 一瞬、彼の表情に陰が走った。

 サイファはユールベルを隣に座らせ、詳しい話を聞いた。
「そうか、タイミングが悪かったね。私も彼に同じようなことを言ったばかりなんだよ」
 優しくそう言うと、ゆっくりと頭を撫でた。それでも彼女の表情は晴れなかった。
「私、どうしてあんなことを言って……。居場所のなかった私を、レオナルドは助けてくれたのに。恩知らずは私の方だわ」
 彼女はうつむき、自嘲ぎみにつぶやいた。
 サイファは真摯な表情で彼女の肩に手をのせ、ぐっと力を込めた。そして、覗き込みながら、説き伏せるように語りかける。
「君がそう恩義を感じることはないよ。彼が好き好んでやったことだ。第一、彼は君の心までは救えなかった。そうだろう?」
 ユールベルはきつく目を閉じ、何度も首を横に振った。
「でも、レオナルドだけだったのよ、私の話を聞いてくれたのは……私に温もりをくれたのは!」
 白いワンピースの裾をぎゅっとつかむと、細い肩を震わせしゃくり上げた。サイファはやるせない思いで彼女を見つめた。
「すまなかった」
 涙で濡れた彼女の頬にそっと触れ、そして静かに抱き寄せた。ユールベルは温かく緩やかな鼓動を、頬を伝って感じた。自分の鼓動もそれに同調していく。心地よさを感じながら、とめどなく涙があふれた。
「私は、レオナルドの気持ちを利用していたのかもしれない」
 落ち着きを取り戻したユールベルは、サイファに寄りかかりながら、つぶやくように言った。サイファは彼女の頭を片手で抱え込んだ。
「そんなふうに考えるな。君は何も悪くない。彼の方こそ君の気持ちを利用している」
「おじさま……」
「ユールベル、感謝の気持ちと人を好きになる気持ちは別物なんだ」
 彼女は顔を上げ、無垢な子供のような瞳をサイファに向けた。
「君がそれを自覚し、偽りのない気持ちをレオナルドに伝える。そのうえで感謝は感謝として、それなりの態度で示せばいい」
 サイファはにっこり笑って、彼女の頭に手をのせた。

 ガチャ——。
 ノックもなしに扉が開き、ラウルが入ってきた。彼はユールベルを目にしても、少しも反応することはなかった。まるきり眼中にない様子で足を進めた。
「あとにしてくれないか」
 サイファは感情なく言った。しかし、ラウルが返答するより前に、ユールベルが口をはさんだ。
「いいわ、私、帰るから」
 凍てついた表情で立ち上がり、髪をなびかせ早足で扉へ向かった。
「あなたなんか大嫌い」
 すれ違いざま、ラウルをきつく睨み上げた。そして扉を開け外に出ると、振り返りざま、もういちど彼を睨みつけた。そして、怒りをぶつけるようにバタンと大きな音を立てて扉を閉めた。
 サイファは頬杖をつき、にこにこしながらラウルを見た。
「彼女なりの甘え方だな、あれは」
「いや、本気で嫌っているはずだ」
 ラウルは素っ気なく答えると、机の上に書類を投げ置いた。
「彼女の診療記録だ」
 サイファはそれを手に取り、目を落とした。
「長い間、幽閉され人と関わることがなかったんだ。感情のコントロールが出来なかったり、極端な行動に出たり、矛盾した言動をとったりするのも無理はない。まだ小さな子供みたいなものだよ」
 書類を読み進めながら、彼は淡々と言った。
「それだけではないだろう」
 ラウルは腕を組んで、彼を見下ろした。サイファは手を止め、顔を上げた。
「ああ、だがそれも幼く不安定なものだ。おまえはわかっていたのだろう。だから拒絶することも受け入れることもしなかった」
 ラウルは無表情のまま何も答えなかった。サイファは背もたれに寄りかかり、目を細め遠くを見やった。
「もっと、守ってやるべきだったな」
「おまえはよくやっている」
 ラウルの言葉に、サイファはふっと表情を弛めた。
「おまえに慰められるとは、私も落ちたものだな」
 茶化すようにそう言うと、にっこりと笑いかけた。

 レオナルドはひとり教会に残っていた。ここを出ても行くあてがない。途方にくれ、最後列の長椅子に座り、ぼうっとしていた。
 ギィ……。
 かすかな軋み音とともに、中央に光が差し込んできた。誰かが入ってきたらしい。レオナルドは外に出ようと立ち上がった。
「レオナルド?! どうしてここに……」
 レオナルドはその声に敏感に反応し、勢いよく振り返った。
「ユールベル?!」
 彼女はぽかんとして立ち尽くしていた。レオナルドももちろん驚いた。だが、それよりも、とにかく謝らなければという思いが大きかった。
「さっきは悪かった。どうかしていた。許してくれ」
 唐突にそんな言葉が口をついた。ユールベルは思い出したように、表情に暗い陰を落とした。
「私も、ごめんなさい……」
 続けて何かを言おうとしたが、彼女は躊躇して言葉を飲み込んだ。レオナルドはその様子を見逃さなかった。
「もうあんなことはしない。冷静に聞くから言ってくれ」
 落ち着きを見せながらそう言ったものの、心の中は慄然としていた。心臓は早鐘のように打っていた。
 ユールベルはしばらく考え込んだあと、ためらいがちに口を開いた。
「……私、やっぱりあなたの気持ちに応えることは出来ないと思う」
 わかっていた。わかっていたこととはいえ、彼女の口からあらためてはっきり聞かされると、やはりショックだった。
「ジークか」
 感情的にならないよう、抑えた口調で尋ねる。ユールベルは目を伏せた。
「とっくにあきらめている。わかっているわ。でも、気持ちはどうしようもないの」
「それは俺も同じだ。でも俺は……あきらめない」
「……」
 静かに決意を口にするレオナルドを見て、ユールベルは胸が詰まりそうになった。目を細めて彼を見つめる。そして、小さく声を漏らした。
「勉強……そう、一緒に勉強しましょう」
「……勉強?」
 レオナルドは面くらった。話のつながりが見えない。
「レオナルドには、言葉で言い尽くせないほど感謝しているわ。だから、力になりたいと思っているの。だから……」
 ユールベルは真剣に訴えた。だが、彼の表情はみるみるうちに陰っていった。
「サイファに言われたんだな」
「私の意思よ」
 強い光を秘めた右目を彼に向け、きっぱりと言い切った。
「拒絶しておきながら力になりたいなんて、自分勝手だと思うけれど……」
「いや、嬉しいよ」
 レオナルドは穏やかに表情を和らげた。ユールベルは固い面持ちの中に、わずかに安堵を覗かせ、小さく息をついた。
「言っただろう、俺はあきらめていないと。それに……」
 感情を抑えたまなざしを、扉の方に向ける。
「これ以上、ジークに馬鹿にされたくないしな。サイファも見返してやりたい」
 レオナルドは静かに闘志を燃やしていた。
「よろしく頼む」
 差し出された右手を見て、ユールベルはとまどった。自信なさそうに、迷いながら右手を上げていく。レオナルドはその手をとり、優しく握った。
「ユールベル、おまえと一緒なら、おまえがそう言ってくれるなら、やれそうな気がする」
 まっすぐに彼女を見つめ、少し緊張ぎみに、だがしっかりとした口調で言う。ユールベルは胸の中にあたたかいものが広がるのを感じた。傷だらけの乾いた心に沁み込む満ち足りた思い。自分を必要としてくれている——。そのことを初めて実感した。柔らかく、彼の右手を握り返す。
「今まで、近づきすぎて見えなかったのかも」
 彼女はぽつりとつぶやいた。
「なんのことだ?」
 レオナルドは怪訝に尋ねた。彼女はつないだ手に視線を落とした。
「ちょうどいい距離を見つけたかもしれない……ということよ」
「意味がさっぱりわからないが……」
 難しい顔で首をかしげるレオナルドに、ユールベルはそっと微笑みかけた。ややぎこちないものの、作り物ではなく、心からの温かい笑顔。
 レオナルドははっとして顔を上気させた。彼が初めて見る表情だった。その笑顔の理由はわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。とにかく単純に嬉しかった。ずっとこの笑顔を待ち望んでいたのだ。彼は目頭が熱くなっていくのを感じた。
「レオナルド?」
「希望が見えた気がする……勉強、頑張るよ」
 レオナルドはうつむき、かすかに震える声で言った。


63. 譲れないもの

「せっかくですが、今回は他を探します」
 ジークは座ったまま、向かいの男に頭を下げた。茶色い口ひげをたくわえた中年のその男は、難しい顔でため息をついた。コーヒーをひとくち流し込み、紙コップを静かに机の上に置く。
「言っておくが、サイファ殿に頼まれたわけではないぞ」
 閑散とした食堂に、重みのある低音が響いた。ジークは浮かない面持ちで視線を落とした。窓からの光を受けた白いテーブルが眩しくて、思わず目を細める。
「確かに話を持ちかけてきたのは彼だが、あくまでそれは提案にすぎない。私はスタッフと相談し、熟考した。そのうえでの決定だ。我々は君の能力を高く買っている」
 男はまっすぐジークを見据え、はっきりとした口調で話しかけた。だが、それでもジークの表情は晴れなかった。
「ありがとうございます。ですが……」
「そう答えを急くな」
 男は再びコーヒーを口に運んだ。そして一息つくと、真剣なまなざしをジークに向けた。
「長期休暇が始まるまで、よく考えてみてくれないか。気が変わったら連絡をしてほしい」
 ジークは張りつめた固い表情で、再び頭を下げた。

「ジーク!」
 アカデミーの校門の前で、リックとアンジェリカが出迎えた。ふたりともにこにこしながら手を振っている。ジークは目を丸くした。
「おまえら、待ってたのかよ。先に帰ってりゃいいのに」
「何の話か気になっちゃってね」
 アンジェリカは後ろで手を組み、明るく笑いながら彼を覗き込んだ。
「あの人、魔導科学技術研究所の所長さんなんだってね」
 リックも顔を輝かせながら、興味津々に食いついてきた。
 しかし、ジークの態度はつれないものだった。
「たいした話じゃねぇよ」
 ふたりと目も合わさず、仏頂面でそっけなく答えた。そして、目を伏せて少し考えたあと、おもむろに言葉を続けた。
「リック、今年はおまえの趣味のアルバイトにつきあってやるぜ」
「え……? どういうこと?」
 リックはジークの横顔をうかがい見た。精一杯、感情を押し隠しているような表情。どこか思いつめているようにも見える。どう見ても楽しそうではない。
 ジークが「趣味のアルバイト」と呼んでいるのは、子供向けヒーローショーのアルバイトのことである。おととしまではふたりで一緒にやっていた。だが、昨年はジークだけ研究所のアルバイトだった。休暇前に彼がひとりで勝手に決めてきてしまったのだ。今年はまた一緒にやってくれるというのであれば嬉しい。しかし、研究所の所長に会ったすぐあとにこの話題、そしてこの表情である。所長と何かあったのだろうか。リックはそう訝った。
「所長さんとは何の話だったの?」
 アンジェリカも彼と同様の不安を感じていた。
 ジークは答えるべきか悩んでいたが、心配そうなふたりを目にすると、何も言わないわけにはいけないような気になった。
「さっき所長にアルバイト誘われたけど、断ってきた」
「え?! どうしてよ!! もったいないじゃない!!」
 過剰なまでに反応したのはアンジェリカだった。勢いよく捲し立て、ジークに詰め寄った。彼は逃げるように顔をそむけると、ふてくされたようにぽつりと答えた。
「気が乗らなかったんだよ」
「えーっ」
 アンジェリカは不満げに声をあげた。
「赤とか青とかの着ぐるみショーには気乗りするわけ?」
 口をとがらせて彼を見上げ、どこか責めるような口調で尋ねた。
「いいだろ、別に」
 ジークは斜め下に視線を落としながら、ぶっきらぼうに答えた。
「もうっ、ジークがわからないわ」
 アンジェリカは思いきり頬をふくらませ腕を組んだ。彼女にはジークの選択が歯がゆくて仕方なかった。

 校門の前でアンジェリカと別れ、ジークとリックは並んで帰路に就いていた。ふたりともずっと無言のままである。リックは横目で曇り顔のジークをちらりと盗み見ると、前に向き直り口を切った。
「さっきのアルバイトの話さ、何か理由があるんじゃない? アンジェリカの前では言いにくいこと?」
「……おまえ、やたら鋭いな」
 ジークはうつむいたまま、困ったように微妙な苦笑いを浮かべた。リックはにっこり笑いかけた。
「ジークの態度がわかりやすいんだと思うよ」
 ジークはそれでもまだ迷っているようだったが、やがて観念してぽつりぽつりと話し始めた。
「今回は分析とか、俺がやりたがっていた仕事も頼むつもりだって言われた」
「え? いいじゃない」
 リックはきょとんとした。ジークはもともと沈んでいた表情を、さらに深くどんよりと沈ませた。
「でも、全部サイファさんの口添えだったんだ」
 それを聞いて、リックはようやく理由がわかった。納得したように、「ああ」と小さくうなずいてみせた。
 ジークはつっかえがとれたように、勢いづいて話を続けていった。
「サイファさんの知り合いでなければ、絶対に誘ってなんてもらえなかっただろうぜ。俺の力じゃねぇんだよ」
 こぶしを握りしめ、ひとりで熱くなっていく。
「そういうのって、やっぱ自分の実力で勝ちとりてぇし、それが俺のポリシーでプライドで譲れねぇ部分なんだ」
 今までの落ち込みが嘘のように、力を込めて強気に語った。口に出すことで迷いを吹っ切ったようだった。
「そっか」
 威勢のいいジークに戻った——リックは安堵してほっと息をついた。
「それに……」
 ジークは頭の後ろで手を組み、ほんのり暗くなった空を仰いだ。
「あの研究所だと、サイファさんの知り合いってことで、特別扱いされたり、ごますってくるヤツがいたり、逆にやっかむヤツがいたり、いろいろ面倒でよ」
「へぇ、そんなことがあるんだ」
 リックは少し驚いたように声をあげた。それは、彼が初めて聞く話だった。ジークは研究所でのことはあまり話さなかったし、リックもあえて詮索することはしなかったのだ。
 ジークはふいに目を細め、空の彼方を見つめた。
「俺らが思ってる以上にすごい人みたいだぜ、サイファさんは。本来、俺らが軽々しく口をきける相手じゃねぇんだろうな」
「うん……」
 ふたりの会話はそこで途切れ、再び沈黙が訪れた。そのまま、家に着くまでふたりが口を開くことはなかった。

「午前はこれで終わる。午後は図書室だ。遅れずに来い」
 ラウルはいつもの調子で威圧するように言い放つと、教本を脇に抱え、教室を出ようと扉を開けた。
「やあ、ラウル先生」
 そこに待ち構えていたのはサイファだった。軽く右手を上げ、にこにこと人なつこい笑顔を浮かべている。ラウルは思いきり嫌な顔をして睨みつけた。
「わざわざこんなところまで何をしにきた」
「おまえに用があるわけじゃないよ。私は……」
「お父さん?!」
 教室にいたアンジェリカは、戸口にサイファの姿を見つけ、大きく目を見開いた。すぐさま彼に走り寄る。ジークとリックも軽く走りながら、そのあとを追った。
「どうしたの? 何をしにきたの?」
「ラウルと同じことを言うんだね」
 サイファは苦笑いをした。
「誰でもそう思うだろう」
 ラウルは腕組みをして、冷ややかに彼を見下ろした。
「私は彼に話があって来たんだよ」
 そう言って、サイファは顔を上げジークを見た。アンジェリカもラウルも、彼の視線をたどって振り返った。
「オ……俺?」
 ジークは狼狽しながら自分を指さした。三人の視線に気おされ、思わず息を呑む。
 サイファはにっこり笑ってアンジェリカに振り向いた。
「そういうわけだから、ジーク君を借りてもいいかな?」
「私たちがいてはダメなの?」
「頼むよ、ね」
 口をとがらせるアンジェリカをなだめるように、その頭にぽんと手をのせた。

「ランチをふたつ」
 サイファはウエイトレスに告げると、窓際に席を取った。彼に促され、ジークはその向かいに腰を下ろした。
 高級感の漂うレトロなカフェといった装いのその店は、王宮内の奥の方にあった。昼どきにもかかわらず、特に混み合っている様子もなく、ゆったりとした時間が流れている。窓から外を見下ろすと、緑あふれる中庭が目に入った。噴水の水音が心地よく気持ちを和らげていく。
「ここは穴場でね」
 サイファは外を眺めながら、皮張りのソファにもたれかかり腕を組んだ。ジークもつられて外に目をやりながら、かすかにうなずいた。もっと人が入っても良さそうな、いい雰囲気の店なのに……。きっとここは高い店なのだろう、勝手にそう納得した。
「きのうはゴードン所長とランチだったのかい?」
 サイファはにこやかに振り向いた。ジークはぎくりとして体をこわばらせた。しかし、その展開は予想どおりでもあった。サイファが自分を連れ出したのは研究所のアルバイトの一件に関係がある、ということは想像がついていた。
「放課後だったので、食堂でコーヒーだけです」
 そう答えると、うつむいて膝の上でこぶしをぎゅっと握りしめた。
「せっかく気にかけてもらったのにすみません。断ってしまって……」
「謝る必要はないよ。君が決めることだ」
 サイファは優しくにっこりと笑いかけた。
「自分の力で進んでいきたい。君はそう思っているんだろう?」
「はい……」
 ずばりと言い当てられて、ジークは肩をすくめ小さくなった。自分の気持ちはすっかり見透かされているようだ。わずかに視線を上げ、ちらりとサイファの表情をうかがった。機嫌を損ねているようには見えない。先ほどまでと変わらず穏やかな笑顔をたたえている。
「その心掛けは立派だ」
 ジークはとまどいながら顔を上げた。怪訝にサイファを見る。彼は笑顔のまま表情を引き締めた。
「しかし、君の進もうとする道は、そう生やさしいものではない。目の前のチャンスを棒にふる選択をしていては、前に進んでいくことはできないよ」
 ジークは再びうつむいた。暗い顔で口を結ぶ。
「利用できるものは利用し、貪欲に好機を掴み取る。私を踏み台にして伸し上がるくらいの気概がなければね」
 サイファは優しい口調の中に、強さと厳しさを覗かせた。
「機を得たあとは実力次第だ。実力が伴っていなければ、いずれ淘汰される。今いる場所に見合うだけの、いや、それを大きく超える力をつけるよう努力していかなければならない。陰口をたたく者や反発をする者には、何も言えなくなるほどの力を見せつけてやればいい。私は今までそうやってきたよ」
 ジークはずっと下を向いたままだった。
「納得がいかないか」
 サイファに問いかけられても顔を上げられなかった。うつむいたまま、ためらいがちに口を開いた。
「……どうしてそこまでして上を目指すんですか?」
 サイファは目を見張り、少し驚いた表情を見せた。しかし、すぐにふっと表情を緩めた。窓の外に視線を移し、遠き日に思いを馳せるように、目を細め真摯に遥かを見やる。
「私にはプライドより大切なものがある。その大切なものを守るには力が必要だった——そういうことだ」
 そう言ってジークに向き直り、にっこりと笑いかけた。

「ねぇ、何の話だったの? お父さん」
 午後の授業が終わるなり、アンジェリカはジークに駆け寄って尋ねた。だが、彼はどこかうつろで、何か考えごとをしている様子だった。
「ああ……」
 何の答えにもなっていない気の抜けた返事。ゆっくりと鞄を肩に掛け立ち上がると、無言で図書室をあとにした。アンジェリカはムッとしながらも、小走りでそのあとについていった。本の返却に手間どっていたリックも、慌ててあとを追った。
 校門の外に出ると、ジークはふいに口を開いた。
「リック、俺、やっぱり研究所でアルバイトすることにした。悪りィ」
「あ、サイファさんに説得されたんだ」
 早い変わり身だが、相手がサイファでは仕方ないとリックは思った。雄弁なサイファなら、単純なジークを丸め込むくらいわけはないだろう。サイファに連れられていったときから、こうなる予感はしていた。
「説得……っていうんじゃなくて、なんていうか、プライドは譲れないものじゃねぇってことに気づかされたんだ」
 ジークは前を向いて淡々と語った。アンジェリカは怪訝な顔で、彼を覗き込むようにして見上げた。
「なにそれ。わかるように説明してくれる?」
 口をとがらせぎみにして問いかける。
「これ以上、説明しようがねぇよ」
 ジークは顔をそむけ、ぶっきらぼうに言った。アンジェリカは思いきり頬をふくらませた。しかし、すぐにあきらめたように軽くため息をつくと、鞄を胸に抱えて空を見上げた。
「私も研究所でアルバイトしてみたかったわ。どうして年齢制限なんてあるのかしら」
「サイファさんに頼めばなんとかなるんじゃない?」
 リックは思いついたことを軽い気持ちで言ってみた。しかし、アンジェリカは強く反発した。
「それはダメ!」
 けわしい表情で振り返る。
「お父さんの力とか、ラグランジェの名前とか、そういうものに頼りたくないの。自分の力だけでやっていきたいのよ」
 迷いなく、きっぱりと強い決意を口にした。
「そうだね」
 リックは素直に肯定した。にっこりとアンジェリカに笑いかける。ジークはばつが悪そうにうつむいた。
「まあ、私はしっかり勉強しておくことにするわ。ジークに負けないようにね!」
 アンジェリカは明るい声を空に弾けさせた。
「おっまえ……頑張りすぎじゃねぇか。俺、もう勝てる気しねぇ……いや、あきらめたわけじゃねぇけど……」
 ジークは口ごもりながら、あいまいにぼそぼそと言うと、顔をしかめ頭をかいた。
「私にだって譲れないものはあるわ」
 アンジェリカは急に真面目な口調になった。ジークはぽかんとして彼女を見た。彼女も大きな漆黒の瞳を、まっすぐ彼に向けた。
「ジークのことは好きだけど、絶対に負けるわけにはいかないのよ」
 そう言って、にっこりと大きく笑った。
「……あ、ああ、そうかよ」
「それじゃ、またあしたね!」
 彼女はふたりに手を振り、短いスカートをひらめかせ、元気に走り去っていった。
 ジークはその後ろ姿が小さくなるまで呆然と見送った。

「良かったね」
 リックはぽつりと言葉を落とした。
「な、なにがだ」
「好きだって」
 ほとんど点となった彼女を指さしながらさらりと言うと、頬を赤らめているジークに振り向いた。彼はますます顔を上気させ、カッと頭に血をのぼらせた。
「ば……良かねぇよ! 何の気なしに言っただけだろうが!」
「うん、まあそうだろうね」
 声を荒げむきになるなるジークに、リックは苦笑いしながら同意した。
「ったく……なんで俺がこんなうろたえなきゃなんねぇんだ、くっそぅ」
 ジークは手の甲で冷や汗を拭った。
「だいたいあいつは何であんな普通にあんなこと言いやがるんだ。まるっきりガキじゃねぇかよ。きっとあしたには言ったことすら忘れてんだぜ」
 独り言のようにぶつぶつと言いながら、腕組みをして眉間にしわを寄せる。そして、片眉をひそめ、くしゃっと髪をかきあげた。
「あー、なんかだんだん腹立ってきた」
「でも“譲れないもの”なんだよね」
 リックはにっこり笑いかけた。ジークは面くらって彼を見た。口を半開きにしたまま、再び顔が紅潮していった。
「知るかよ」
 ふてくされてぶっきらぼうに言い捨てると、踵を返し早足で歩き始めた。後ろから見ても耳まで赤くなっているのがわかる。
「待ってよ」
 リックは嬉しそうに顔をほころばせながら、駆け足で彼を追った。


64. 忘却の中の再会

「ジーク=セドラックです。よろしくお願いします」
 ジークは前を向いて、ぺこりと頭を下げた。パラパラと寂しい拍手が起こる。ほとんどはちらりと顔を向けただけで、すぐに自分の仕事に戻った。中には手を止めることすらしない者もいた。まるで歓迎されていないようだが、そういうわけではない。この研究所では手が離せないほど忙しい、もしくは仕事中に手を離すことを嫌がる人が多いのだ。昨年も同じ状態だった。
 ジークを連れてきた制服の女性・アンナは、気にすることなく声を張り上げた。
「今年も彼に来てもらうことになりました。今年は第三分析チームを手伝ってもらいます」
「足手まといにならなければいいけどな」
 ジークのすぐ近くにいた若い男が、キーボードを打ちながらつんとして言った。昨年もよく突っかかってきた怒りっぽい男だ。ジークは眉をひそめた。
「ジョシュ!」
 アンナは咎めるように彼の名を呼んだ。彼は仏頂面でモニタに向かったまま、返事をすることなく仕事を続けた。
「気にしない、気にしない」
 アンナは、親しみを感じさせる丸顔でにっこりジークに微笑むと、どこか甘ったるい声で明るく元気づけた。ジークはふいに懐かしさを感じた。昨年は彼女のもとで魔導のデータ提供を行っていた。その際、いつもこんな調子で声を掛けてくれていたのだ。今年も彼女のもとで仕事をすることになるのだろうか。
「君の席はそこね。仕事のことは彼に聞いて」
 ジークの考えはどうやら違ったらしい。彼女はテキパキとそう言って席を指し示すと、忙しそうにフロアから出ていった。
 取り残されたジークは、彼女の指さした方に目を向けた。ひとつの空席がある。そこはジョシュの隣の席だった。「彼」というのはジョシュのことだろう。ジークはわずかに顔を曇らせた。ジョシュはあえて無反応を装っているようだった。ひたすら無言でキーボードを叩き続けていた。

「ジーク!」
 はつらつとした女性の声が、彼の名を呼んだ。アンナとは違う声だ。ジークは顔を上げた。
「こんなところでキミと会うなんてビックリ」
「あ!」
 彼女には見覚えがあった。ユールベルの元ルームメイトだ。アカデミーではジークのひとつ先輩にあたる。だが、名前が思い出せない。
「えーと……」
 彼女を指さしながら、顔をしかめて唸る。
「ターニャ。ターニャ=レンブラントよ。ユールベルのルームメイトだった」
 彼女はそう自己紹介すると、腰に両手をあて呆れ顔で彼を見た。
「頭はいいはずなのに、興味ないことはちっとも覚えないのね」
「ていうか、何でここに……」
 いまだに彼女を指さしたまま、ジークは不思議そうに尋ねた。
「ああ、私? アカデミーを卒業したら、ここに就職するのよ。今は実習期間ってわけ」
 ターニャは首からぶら下げていた職員証を見せた。肩書きは実習生となっている。
「私語は他でやってくれないか」
 隣のジョシュが、モニタを見つめたまま苛ついた声をあげた。ターニャははっとして口を押さえ、肩をすくめながら小さく頭を下げた。ジークもムッとした表情で頭を下げた。
「それじゃ、またあとでね」
 彼女はジークに顔を近づけ小声でそう言うと、小走りで自分の席へ戻っていった。

 時はお昼をまわり、スタッフはばらばらと席を立ち始めた。ジークもひと区切りがついたところで立ち上がった。
「ジーク、お仕事順調?」
 ターニャは軽い足どりで彼の席へやってきた。
「まあまあ、だな」
 ジークがそう答えると、隣のジョシュはあからさまに不愉快な表情で彼を睨んだ。ジークは無言で顔をそむけた。ターニャはジョシュに背を向けるようにしてジークに並ぶと、声をひそめて話しかけた。
「ね、お昼一緒しない? おごるから」
「ん、ああ」
 ジークはとにかく一刻も早くこの場を離れたかった。

「いつからここに来てるんだ?」
 食堂へ向かう道すがら、ジークは何気なく尋ねた。
「つい二日前よ。知った人がいなくて不安だったから、キミを見たときは嬉しかったわ」
 ターニャは屈託なく笑いかけた。ジークは少し照れくさいような気持ちになった。別に自分がどうこうというわけではなく、単に顔見知りだからということは十分に理解している。それでもまっすぐにそう言われて悪い気はしない。
「ね、あそこの人、窓際にひとりで座ってる茶髪の」
 ターニャはトレイを取りながらひじでジークをつつき、視線でひとりの男を指した。その若い男は、まっすぐに背筋を伸ばし、年季の入った分厚い本を読んでいた。どことなく神経質そうな感じがした。
「私と一緒に採用されたもうひとりの人なの。でも、なんか話しづらくて。一応アカデミーで同じクラスなんだけど、ほとんど口をきいたことがないのよね」
 ジークはサラダをトレイに載せながらなんとなく振り返り、もういちど彼を見た。確かに話しづらそうな雰囲気を醸し出している。ジョシュといい勝負だと思った。
「やっぱりここに来る人って、ああいうエリートタイプが多いのかなぁ」
 ターニャはトレイを机に置いて、軽くため息をつきながら座った。
「自分だってここ受かったんだろ?」
 ジークも彼女の向かいに腰を下ろした。
「んー……私は奇跡みたいなものかな」
 ターニャは頬杖をつき視線を落とした。フォークを手にとり、ぼんやりとサラダをつつく。
「私の力じゃとても受かるとは思えないもの。ほんの力試しのつもりだったのに受かっちゃって」
 彼女は申しわけなさそうに、肩をすくめて笑ってみせた。
「難しいのか? ここ」
 ジークはパンをほおばったままで尋ねた。
「そうよ、知らないの?」
 ターニャはレタスを突き刺したフォークを彼の鼻先に向けた。
「魔導省の次くらいじゃないかな。まあキミならここでも魔導省でも行けちゃうだろうけどっ」
 少し突き放したようにそう言うと、フォークの向きを変えレタスにぱくついた。
「キミももうすぐ進路を決めなきゃいけない時期でしょ? 何か考えてるわけ?」
「いや……別に、まだ……」
 ジークは口いっぱにほおばりながら、あまり興味なさそうに返事をした。
「そろそろ考え始めた方がいいわよ。キミのとこの担任、手取り足取り教えてくれるタイプじゃなさそうだし」
「そりゃ、確かに……」
 思わず「優しく指導するラウル」を想像してしまい、ジークは背筋が寒くなった。慌てて温かいスープを流し込み、小さく息をつく。ターニャはそんな彼を見て、あははと笑った。
「悪い人じゃないんだけどね」
「そうかぁ?」
 ジークは思いきり嫌な顔をして、パンにかぶりついた。
「根はいい人だと思うわよ。それに強くて頼りになりそうじゃない?」
「頼ろうなんてしたら、逆にボコボコにされるぜ」
 意地でも認めようとしないジークを見て、ターニャはくすりと笑った。
「ユールベルの担任なんか、かなり気弱そうよ。ずいぶんレオナルドに手こずってるみたい」
 それを聞いて、ジークはようやく笑った。
「あ、そうだ」
 ターニャは手を止めた。
「私、帰りにユールベルのところに寄ってくつもりだけど、せっかくだしキミも一緒に来ない?」
「せっかくの意味がわからねぇよ」
 ジークはサラダにフォークを突き立てた。
「減るもんじゃないんだし、会うくらい会ってあげてもいいんじゃない?」
 ターニャはコーヒーカップを手にとり、軽い調子で言った。浮かない顔でうつむく少年を目に映しながらコーヒーを口に運ぶ。ジークはフォークの先をじっと見つめて顔をしかめた。
「会わねぇ方がいいんだよ」
「そうかなぁ? たとえ望みがなくたって、会えるだけで嬉しいものだと思うけど」
 彼はその考えに納得がいかなかった。眉をひそめて首をひねる。
「あいつがそんなノーテンキだとは思えねぇ」
「悪かったわね、ノーテンキで」
「は?」
 素頓狂な声をあげ、きょとんとして顔を上げた。
「私は嬉しいわよ。ほんのちょっと姿を見られるだけでもね」
 ターニャはにっこりと笑った。ジークはぽかんとして彼女を見つめた。
「言っとくけど、キミじゃないわよ」
「わ、わかってる!!」
 いたずらっぽくからかうターニャに、彼は耳元を紅潮させて言い返した。

 食堂から戻る途中、ふたりは廊下でサイファと出会った。大量の資料を抱えた若い研究員とともに、奥の会議室へ向かうところのようだ。
「やあ、ジーク君」
 サイファは右手を上げ、にっこり笑って声を掛けてきた。
「こんにちは」
 ジークは少し緊張ぎみに、しかしはっきりと挨拶をした。まっすぐサイファと目を合わせる。
「今日からだったな」
「はい」
「ここでの経験は必ず君のためになる。頑張れ」
「はい!」
 サイファはジークの腕を、力づけるように軽く叩いた。そして、一歩後ろで様子を窺っていたターニャに目を向けた。
「君は……ターニャ=レンブラントか?」
「え? あ……はい、そうです!」
 彼女は大きくうろたえながら返事をした。息を詰まらせながらサイファを見つめる。彼はにっこりと笑顔を返した。
「ユールベルが世話になったね」
「世話だなんて、そんなっ! 私たち、友達ですから」
 ターニャは胸元で両手をひらひら振り、頬を赤らめながら慌てて訂正した。サイファは彼女を見つめて優しく微笑みかけた。
「ありがとう」
「サイファさん、急がないと……」
 若い研究員が遠慮がちに口をはさんだ。
「ああ、すまない」
 サイファはとたんに仕事の顔に戻った。
「また今度ゆっくり話そう」
 ジークに振り向きそう言うと、ふたりは奥の会議室へと消えていった。

「嘘みたい。サイファさんが私のことを知っててくれたなんて……」
 ターニャはほんのり頬を染めたまま、夢見心地でつぶやいた。
「声を掛けてくれて、笑いかけてくれて……そのうえありがとうだって!」
 浮かれて嬉しそうに声を弾ませると、ジークの背中をバシッと思いきり叩いた。
「痛ぇな! なんだよ!」
「最近、奇跡つづきで怖いくらい」
 彼女は無邪気にえへへと笑った。ジークはムッとして顔をしかめていたが、彼女のその表情に毒気を抜かれた。疲れたようにふぅとため息をつく。
「あっ」
 彼はふいに短く声をあげた。脳裏にある考えがよぎった。
「まさかとは思うけど……」
 疑いのまなざしを彼女に向ける。
「おまえの好きな人って、サイファさん……なわけないよな、いくらなんでも」
「あら、朴念仁かと思ったけど、意外とするどいのね」
 ターニャはしれっとして言った。
「本気かよ!」
 ジークは廊下の真ん中で叫んだ。あたりにいた何人かが振り返ったが、彼はまるで気に留めなかった。それどころではなかった。
「わかってんのか?! サイファさんは……」
「わかってる、わかってるわよ!」
 ターニャは彼の前で両手を広げ、必死に話をそこで止めた。これ以上、大声で続けられては、内容によってはあらぬ誤解を招きかねない。まわりをちらちら窺いながら、彼に顔を近づけた。
「知ってるわ。結婚してることも、アンジェリカの父親だってことも」
 声をひそめて耳打ちする。
「だから言ったじゃない。姿を見られるだけで嬉しいって。それ以上の希望は持ってないわ」
 ターニャはにっこりと笑ってみせた。
 ジークは口を閉ざしたまま、複雑な表情でうつむいた。
「もうっ、そんな顔しないでよ」
 ターニャは口をとがらせながら、腰に手をあて彼を覗き込んだ。そして、ふと思いついたように尋ねた。
「ね、奥さん見たことある?」
「ああ」
 ジークはレイチェルの笑顔を思い浮かべた。もともと実年齢よりも若く見える彼女だが、笑うとさらに若く見えた。あどけなささえ感じられるほどである。
「すっごい綺麗な人だって噂だけど、本当?」
「ん……ああ」
 ジークは少しのためらいのあと頷いた。綺麗というよりも可愛い感じだと思ったが、それを口に出すのはなんとなく気恥ずかしかった。
「やっぱりそうかぁ」
 彼女は上を向いて、残念そうに声を上げた。
「どのみち私じゃかなわないってことね」
「そうだな」
 ジークはさらりと返事をした。ターニャはぽかんとして彼を見た。そして、我にかえると眉をひそめ腕を組んだ。
「あーもうっ。事実だとしても、そこであっさり同意するかなぁ。傷心の女のコをいたわろうって気持ちはないわけ?」
「なんだよ、自分で言ったんじゃねぇか。わけわかんねぇ」
 ジークはムッとして言い返した。ターニャは彼の鼻先に人さし指を立てた。
「いいわ、今度アイスクリームをおごってね。それで手を打ってあげる」
「なんでだよっ!」
 彼女はあははと笑って、再び歩き出した。

 夕刻も終わりという頃、ジークは仕事を終え、帰り支度を始めた。定時は過ぎていたが、まわりはまだ忙しく仕事を続けていた。誰も帰ろうとしない。自分だけ帰るのは少し気がひけたが、だからといって単なるアルバイトの身では残ることもできない。目立たないように立ち上がりそっとフロアから出た。
「ジーク!」
 廊下を歩いていると、後ろからターニャが声を掛けてきた。実習生である彼女も早く帰らされるようだ。
「ユールベルのところ、寄ってかない?」
「行かねぇって言っただろう」
 ジークは面倒くさそうに答えた。しかし、次の瞬間、はっとして彼女に振り返った。
「もしかして、おまえがユールベルに良くしてるのって、サイファさんに近づくためか?」
 ターニャは大きく目を見張った。そして、弾けたようにあははと笑うと、急に怒った表情になり彼にぐいと顔を近づけた。
「違うわよ!」
 ジークは目をぱちくりさせ、顔を赤くしながら身をそらせた。
「寮で同じ部屋になったのはただの偶然。私がどうこうしたわけじゃない。それに私、ユールベルのことは本当に可愛く思ってるわよ。サイファさんは関係ない」
 一気にそれだけ言うと、彼から離れふぅと小さく息をついた。
「ま、信じてくれなくてもいいけどね。そういう期待もまったくなかったわけじゃないし」
「悪かった、うたぐったりして」
 ジークは神妙な面持ちで素直に詫びた。ターニャはくすりと笑った。
「じゃ、ユールベルのところへ行ってくれる?」
「それとこれとは話が別だ!」
 今度はジークがため息をついた。腕を組み口をとがらせ首をひねる。
「そもそも何で俺なんだ? 俺、あいつに別に何かしてやった覚えもねぇし、まともに話したこともあんまりねぇぞ」
「こら、そんな迷惑そうに言わないの」
 ターニャは先輩ぶった口調でたしなめた。
「うん、でもそーよね。確かに私もすっごく不思議。どうしてよりによってキミなのか」
 そう言うと人さし指をあごにあて、斜め上に視線を向けた。そのとぼけた表情を見ているうちに、ジークは昼休みの彼女の言葉をそっくりそのまま返したい気分になった。
「……なんてね」
 ターニャはいたずらっぽくくりっとした黒い瞳を彼に向けた。
「人を好きになるのに理由なんてないのよ。理由があったとしてもそれはあとづけ。好き嫌いは本能が決めるものよ。そう思わない?」
 ジークは返答に困ってうつむいた。彼女は構わず続けた。
「だいたい理性で人を好きになるんだったら、10歳の女のコなんて好きにならないでしょ?」
「今は 13だ。……あ」
 ジークの顔から血の気が引いた。
「だっ、誰から聞いた?!」
 今度は一気に顔を上気させ後ずさった。ターニャはそんな彼を見てにこにこしていた。
「聞かなくてもわかるわよ。なんとなくね」
 彼女は研究所の外に足を踏み出した。ひんやりとした空気が頬をかすめた。空はすでにほとんどが紺色に塗り替えられ、わずかにその端に赤みを残しているだけである。その濃紺の空に両手を向け、大きく伸びをすると、冷えた空気を思いきり吸い込んだ。体の中からリフレッシュしたような心地よさを感じ、思わず顔もほころぶ。
 だが、ジークはそれとは対極の表情を見せていた。ジーンズのポケットに両手を突っ込み、背中を丸め、恨めしそうに彼女を睨んでいる。先ほどの誘導尋問がよほどくやしかったようだ。
「じゃあね。あしたアイスクリームおごってよね」
 門の外に出たところで、ターニャは陽気にそう言った。
「本気だったのかよ……」
 ジークは呆れたようにつぶやいた。

「ターニャ……?」
 ふいに横から彼女の名前が呼ばれた。弱々しく自信がなさそうな声である。ふたりが振り向くと、中年の女性がおどおどしながら近づいてきた。しっかりした身なりだが、どこかくたびれたような印象を受けた。
 ターニャはきょとんとしてその女性を見た。
「え? はい、ターニャ=レンブラントですけど。どちら様でしょう?」
 女性はじわりと目に涙をにじませた。しかし、それを必死にこらえているようだった。口元を震わせ、喉の奥から乾いた声を絞り出した。
「……覚えてなくても、当然……ね……」
 ターニャはいぶかしげにその女性を見た。彼女はぎこちなく笑って言葉をつなげた。
「私は、ずっと会いたかった……ターニャ……大きくなったわね……」
「まさか……」
 ターニャの表情はみるみるうちにこわばっていった。その瞳はまるで何かに激しく怯えているかのように震えていた。まばたきすら忘れている。
 中年の女性は、そんな彼女を見て顔を曇らせた。ためらいながら口を開く。
「あなたがここで働いてるって聞いて……」
 ターニャはピクリとも動かない。それでも女性は言葉を続ける。
「いきなりごめんなさい。でも、どうしても、ひとこと謝りたくて……」
 そう言いながら、足を踏み出し近づこうとする。ターニャはそれと同時にびくんと体を震わせ、身を庇うように両手と右足を同時に引いた。そして、じりじりと何歩か後ずさると、唇を噛みしめ深くうつむいた。額から汗が滴り落ちる。
「何を……何のことだかわかりません。失礼します」
 感情を殺した声で口早に言うと、踵を返しその場から走り去った。
「ターニャ! ごめんなさい……どう謝れば……どう償えば許してもらえるの?!」
 女性は、彼女の背中に向かって泣きながら叫んだ。
 ジークは何度かその女性とターニャを交互に見た。そして、迷ったすえターニャを追うことに決めた。全速力で駆け出す。
「待てよ!」
 後ろから声を掛け、彼女の腕を掴んで止めた。彼女も本気で走っていたのでなかなか追いつけず、研究所からはだいぶ離れてしまった。もうあの女性の姿も見えない。
「もしかして、母親か? さっきの……」
「知らないって言ったでしょ」
 背中を向けたまま、強気な言葉を返す。しかし、その声は涙まじりだった。掴んだ華奢な腕も不規則に震えている。
「何があったか知らねぇけど……あの人、あやまってたぞ」
「謝れば何をしても許されるって言うの?!」
 ターニャはジークの手を振りほどき、勢いよく振り返った。瞳に涙を浮かべ、彼を睨むように強く見つめる。
「私、あの人に殺されかけたのよ」
「え……?」
 ジークは目を見開いて絶句した。


65. 泡沫の奇跡

「きのうはごめんね」
 昼どきの喧騒の中、明らかに自分に向けられた声。ジークはサンドイッチを持つ手を止め、顔を上げた。そこにはトレイを持ったターニャが立っていた。ぎこちない笑顔を浮かべている。
「ああ」
 ジークは固い声で返事をした。それから、サンドイッチをひとくちかじると、ぼそりと小さな声で言った。
「座れよ」
「うん」
 ターニャは彼の向かいにトレイを置き、音を立てないよう静かに座った。黙々と食べ続ける彼を見ながら、言いにくそうに口を開いた。
「あのね、きのう言ったこと……」
「もういいぜ。あのことは忘れる」
 ターニャは首を横に振った。
「きちんと話すわ。聞いてくれる?」
 ジークの手が止まった。
「無理すんなよ」
「決めたから」
 ターニャは緊張した面持ちできっぱりと言った。そして、かすかに笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「あんまりごはんどきに話すような内容じゃないんだけど」
「気にしねぇよ」
 ——あの人に殺されかけた。ターニャはきのう、そう言って泣いた。どう転んでも楽しい話であるはずがない。言われるまでもなくわかっている。
 ターニャは温かいスープをひとくち流し込み、小さく息をついた。
「私の父はね、私が三歳のときに自殺したの。首をくくってね」
 ジークは繕った無表情で、サラダにフォークを突き刺した。ターニャはうつむき、声のトーンを落とした。
「それを最初に見つけたのが私だった」
 覚悟はしていたものの、思った以上の重さだった。ジークは口を開くことができなかった。
「でね」
 ターニャは気を取り直すように明るい声を作り、ぱっと顔を上げた。
「あの人は……母は、ショックで精神を病んじゃったらしいのよ。それで私は何の世話もしてもらえないまま放置されていたのね。衰弱して死にかけていたところを近所の人が見つけてくれて。そのあと施設……孤児院ね、に預けられたわけ」
 その内容とは不釣り合いなくらいに軽くテンポよく一気に言い切ると、大きく口を開けてサンドイッチにかぶりついた。
「ああ、それで殺されかけたって……」
 ジークは納得したように言った。ターニャはばつが悪そうに笑ってみせた。
「それから三年くらいは口がきけなくなっていたらしいわ。この頃の記憶もあんまりないのよね」
 ジークは掛ける言葉を思いつかなかった。しかし、押し黙っている彼を見て、ターニャは口をとがらせた。
「今はこんなによくしゃべるのに信じられないとか思ってるんでしょ?」
「言ってねぇよ!」
 ジークが怒ったように否定すると、彼女はくすりと笑った。
「本題はここから」
「本題?」
 ジークは怪訝に眉をひそめた。ターニャは真剣な顔で、身を乗り出した。
「母には私の居場所を一切教えないことになっているのよ。だから三歳のとき以来、一度も会ってないし、私がここで働いていることだって知るはずない」
「でも聞いたって言ってたぜ」
「でしょ?」
 彼女は不機嫌に口をとがらせ、ほおづえをついた。空いた方の手でフォークをとり、サラダをつつく。
「どうもおかしいのよ。誰が知らせたのかしら」
「心当たりはねぇのか?」
 ジークはサンドイッチをほおばりながら尋ねた。
「母のことを知ってるのはごく少数よ。施設の先生とユールベルとキミの担任くらいかなぁ」
「ラウルが?」
 ジークは顔をしかめた。ターニャはこくりと頷いた。
「しゃべれなくなってたときに、診てもらったことがあるらしいの」
 彼女はさらりと言ったが、ジークは難しい顔で眉間にしわを寄せた。
「あやしいぜ。あいつが犯人だろ」
 ターニャは首をかしげた。
「どうして? 動機なんてないじゃない。あの先生がそんなにおせっかいとも思えないし」
「そうだな……」
 ジークはどことなく残念そうだった。
「ユールベルは母の居場所なんて知るわけない。とすると、施設の先生じゃないかなって」
「動機はなんだよ」
「うーん……私と母を仲直りさせよう、とか?」
 ターニャは自信なさげに言った。ジークもいまいち納得のいかない表情で首をひねった。
「でね」
 そんな彼を覗き込むように、ターニャは机にひじをついて身を乗り出した。
「帰りに施設に寄ってみようと思うの。確かめるだけ確かめたいし。一緒に行ってくれない?」
「なんでだよ。俺には関係ねぇだろ」
 ジークは無関心にそう言って水を飲んだ。ターニャはにこにこしながら両手でほおづえをついた。
「私の話を聞いたんだから関係なくはないでしょ」
「……」
 ジークは弱ったように頭をかいた。

「じゃあ帰りにね!」
 ターニャはジークの背中をポンと叩くと、軽やかに自席へ戻っていった。
「もう仲直りしたのか、色男。どんな手を使ったんだ?」
 腰を下ろしたジークに、隣のジョシュがとげとげしく毒づいた。モニタを見つめ、無表情でキーボードを叩いている。
 ジークは横目で睨んだ。
「なんの話だ」
 むすっとしてそう言うと、モニタの電源を入れた。ブォンという鈍い音とともに、次第に画面に光が宿っていく。隣ではずっとカタカタと乾いた音が続いていた。
「きのう泣かしただろう、あいつを」
「俺じゃない」
 ジークは小さく舌打ちをした。見られていたのか、よりによってコイツに——。彼は自分の運の悪さを呪った。
「おまえでなければ誰だというんだ」
「それは……」
 本当のことはとても言えない。言ってはならない。言う必要もない。ジークはだんまりを決め込んだ。だが、ジョシュはいいわけを思いつかなかったのだと解釈したようだった。手を止め、冷ややかな視線を流した。
「俺はごまをすってお偉方に取り入る奴や、女を泣かすような奴は信用しない」
「俺がそうだと言いたいのか」
 ジークは眉をひそめ睨み返した。ジョシュは答えなかった。前に向き直り、再び手を動かし始めた。

「ジーク、調子はどうだね」
 ジークは声のする方に振り返った。
「所長!」
 ジークが返事をするより早く、ジョシュが机にバンと手をつき、勢いよく立ち上がった。
「どうして私がこんな使えないアルバイトのお守りをしなければならないんですか!」
 その直訴はフロア中に響きわたった。まわりのスタッフはみな振り返った。遠くでかすかにざわめきが起こった。
 だが、所長は動じることなく平然として言った。
「彼はきちんとこなしているだろう」
「あんなもの、言われたとおりやるだけのサルでもできる仕事です」
「君も最初はそこから入ったはずだが?」
「……」
 ジョシュは言い返すすべを失くした。机に手をつき、苦々しい顔でうつむく。
 所長は悠然と微笑んだ。
「これは君のためでもある。後輩の指導、よろしく頼むぞ」
「……はい」
 ジョシュはうなだれたまま、苦渋に満ちた声で返事をした。
「ジーク、君も先輩と仲良くやってくれたまえ」
「あ、はい」
 ジークは慌てて立ち上がった。所長は後ろで手を組み、満足げにうなずいた。そして、もう一度ふたりに念を押すように視線を送ると、奥へ消えていった。
 ジョシュは机についた手を握りこぶしに変えた。そして、ぽつりと言葉を落とした。
「ひとつ言っておく」
 ジークはその声に振り向いた。
「俺はいい仕事がしたいだけだ。出世欲なんてものはない。だから、いくらおまえが所長やラグランジェ家と懇意にしているといっても、俺には関係ない」
 ジョシュは頭を垂れたまま、淡々と言った。
「そりゃ願ったり叶ったりだぜ」
 ジークは無愛想に答えると、腰を下ろしモニタに向かった。

「お先に失礼しまーす」
 ターニャは定時になるとすぐに仕事を切り上げ、ジークの腕を引っ張りながら研究所をあとにした。
「わかった、逃げねぇから、腕、放せよ」
「ちょっと待っててね」
 あたふたする彼に、ターニャはにこにこしてそう言い残し、どこかへ走っていった。そして、しばらくすると、自転車を引きながら戻ってきた。
「施設までは遠いからこれで行こ!」
「俺はねぇぞ」
 ジークは面倒くさそうに言った。しかし、ターニャはあっけらかんと切り返した。
「ふたり乗りでいいでしょ?」
「大丈夫か? けっこう重いぞ」
 ターニャは目をぱちくりさせた。
「なに言ってんのよ。キミがこぐのよ」
「は? なんでだよ! これおまえのだろ?」
 ジークは面くらって赤い自転車を指さした。
「私のじゃなくて友達のよ。何のためにキミを呼んだと思ってんの。いいからこいで。男でしょ」
 ターニャはにっこり笑って、自転車を強引に押しつけた。
「信じられねぇ」
 ジークはため息まじりにつぶやいた。
「かよわい女のコにこがせようとするキミの方が信じられないわよ」
 かよわいって誰が——そう思ったが、反論する気にもなれなかった。しぶしぶ自転車にまたがる。ターニャは横向きに荷台に乗り、彼の腰に手をまわした。
「ここからだと一時間半くらいかなぁ」
「そんなにか?!」
「だからほら、急がないと帰りが遅くなっちゃう」
 ターニャはジークの背中をポンと叩いた。
「本っ当に信じられねぇ!」
 ジークは歯をくいしばり、やけくそでこぎ始めた。

 もう日は沈み、あたりは薄暗くなっている。汗だくのジークは小さな門の前で足をついた。ぜいぜいと荒い息で、中に目を向ける。細長い平家とこじんまりとしたグラウンドが見えた。家には暖かそうな光が灯っている。
「ここか」
「うん、久しぶりだなぁ」
 ターニャは荷台から降りると、両手を空に向け、大きく伸びをした。
「疲れたぁ。おしりも痛いし」
「人にこがせて吐くセリフかよ」
 ジークは呆れ顔でつぶやいた。聞こえていたのかいないのか、ターニャはそれには反応しなかった。勝手に門を開け、敷地内へと足を進める。ジークもそのあとについていった。
 ターニャは玄関ではなく、どこかの部屋のガラス戸を開けて、中を覗き込んだ。雑然とした部屋の奥に、年輩の女性が座っているのが見えた。
「こんにちは、園長先生」
「……ターニャ?」
 園長と呼ばれた白髪の女性は、目を凝らして立ち上がった。そして、戸口の彼女を確信すると、とたんに顔を輝かせた。
「まあ! ずいぶん久しぶりじゃないの! 三年ぶりくらいかしら」
「えへへっ」
 ターニャは少し照れくさそうに笑った。
「元気そうで良かったわ。今日は彼氏を紹介しに来たの?」
 ターニャの後ろに立っている、落ち着かない様子のジークを見て、園長はにっこり微笑んだ。
「あ、いや、俺は……」
「彼はそういうのじゃないわ」
 しどろもどろのジークをさえぎり、ターニャは冷静に否定した。
「ただの友達。連れてきてもらっただけよ。園長先生、私が面食いだって知ってるでしょ?」
「あら、そうだったわねぇ」
 ふたりは愉快に笑いあった。ジークもつられて引きつりながら笑った。
「今日は母のことを聞きにきたんです」
 ターニャは急に真面目な顔になり尋ねた。園長は心配そうに彼女を覗き込んだ。
「何かあったの?」
「研究所で待ち伏せされてて……。園長先生、誰か私のことを母に伝えましたか?」
 そのしっかりした口調とは裏腹に、彼女の目はどこか怯えているようだった。
 園長は優しく穏やかに答えた。
「いいえ、以前も今も一度もないわ。よほど特別なことでもない限り連絡はしない、それがあなたを預かるときの約束だったから」
「そう……」
 ターニャは落胆したように、しかしどこかほっとしたように声を漏らした。
「でも研究所って? まだアカデミーは卒業していないんでしょう?」
「あ、いま実習期間なんです」
 園長は眼鏡の奥で瞳を輝かせた。
「まあ、就職が決まったのね! でもそれならそうと連絡くらい頂戴よ」
「ごめんなさい」
 ターニャは申しわけなさそうに肩をすくめた。
「研究所のことさえ知らなかったんなら、この人は確実に違うな」
 ジークは後ろから口を挟んだ。
「うん……」
 ターニャはうつむき、軽く握った手を口元に添えた。
「誰か他に、私のこと、母のことを知っている人に心当たりありませんか?」
「そうねぇ」
 園長は首をかしげ遠くを見つめた。
「あなたをここに連れてきたお役人さん、あなたのご近所だった方たち、あとは王宮医師のラウルさんくらいかしら」
「やっぱラウルがあやしいんじゃねぇのか?」
 ジークは何がなんでもラウルを犯人にしたいようだった。ターニャは難しい顔で考え込んだ。
「あ、ちょっと待って。もうひとりいるわ」
 園長は両手を合わせて、うなずきながら言った。
「あなたの親戚よ」
 ターニャは怪訝に眉をひそめた。
「親戚? 誰もいないって聞いたわよ」
「あぁ……ごめんなさいね。そういうことにしてあったの。あなたの引き取りを拒否したものだから」
 園長はそこまで言うと、心配そうに彼女の顔色を窺った。
「誰なんですか? その親戚って」
 声も表情も動揺しているふうでなく、沈んでいるふうでもなく、落ち着いているように見えた。園長は安堵した。
「あなたの父の兄、つまり伯父さんにあたる方ね。名前まではわからないんだけど……。私たちも面識があるわけじゃないから」
 園長は丁寧に答えたあと、思いついたように付け加えた。
「そう、その方の紹介でラウルさんがいらしたのよ」
「えっ?」
「やっぱりラウルがあやしいぜ」
 ジークはそれ見ろと言わんばかりの口調だった。ターニャの表情が曇った。
「あしたにでもラウルのところに行ってみるか?」
「うん……」
 ターニャは重い声でうなずいた。

「ターニャ!」
 廊下からドタドタと子供たちが駆け込んできた。小さな子から 14、5歳の少年少女まで、10人くらいが彼女を取り囲んだ。
「みんな! 久しぶりっ!!」
 ターニャは心から嬉しそうに、子供たちの頭を順番に撫でた。
「大きくなったなぁ」
「それだけ来てなかったんだろ、バカ」
 10歳くらいの少年が腕を組みながら、不機嫌に突っかかってきた。
「お、反抗期? ナマイキになっちゃって」
 ターニャは嫌がる少年の頭を楽しそうに撫でまわした。
「あ、ミナ先生もこんにちは!」
 後方で控えめに立っていたエプロン姿の女性に気づくと、元気よく挨拶をした。
「本当に良かったわ。元気そうで」
 ミナはにこにこと穏やかな笑顔をたたえていた。
「あなたは子供たちの希望なのよ。たまには顔を見せに来て」
「なんか照れちゃうな」
 ターニャは笑いながら肩をすくめた。
「就職も決まったそうよ」
 園長が後ろから声を掛けた。ミナは両手を組んで顔を輝かせた。
「まあ、おめでとう! どこなの?」
「知ってるかな? 王立魔導科学技術研究所ってところ」
「ええっ?! 本当に?!」
 彼女は大きく目を見開き、声を裏返させて驚いた。
「そんなにすごいところなの?」
 いつも冷静なミナの興奮ぶりに、園長は驚いた。
「それはもう! エリート中のエリートが集まってるって話よ」
「まあ!」
「私は運が良かっただけよ」
 あまりの持ち上げられように、ターニャは多少の居心地の悪さを感じた。複雑な笑みを浮かべる。
「運も実力のうちよ。もっと胸を張りなさい」
 園長は骨ばった手で、彼女の背中を優しく押した。

 離れてその様子を眺めていたジークのところに、子供たちがわらわらと集まってきた。ジークは視線を上に逃がし、こわばった表情で腕を組んだ。困惑したように眉をひそめる。
「だれだよ、このにーちゃん」
 男の子はジークを見上げた。髪の長い女の子が首をかしげた。
「ターニャの恋人さん?」
「ちがうよ。ターニャは金髪のかっこいい人にしかきょーみないもん」
 ジークが答えるより早く、男の子が反論した。
「わたしは悪くないと思うけど」
 女の子は背伸びをして人さし指を口にあて、じっとジークを見つめた。ジークはよりいっそう顔を上に向けた。
「微妙ね」
 おかっぱの女の子は、腕組みをしてピシャリと言った。
 ジークは上を向いたまま苦笑した。どうにもこうにも居たたまれない。早くここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

「私、そろそろ帰るわ」
 ターニャのその言葉が、ジークには天からの助けに思えた。
「せわしないわね。もう少しゆっくりしていきなさいよ」
 園長はにっこり微笑んでターニャの肩に手をおいた。
 ——まずい! ジークは群がる子供たちをかき分け、大慌てで飛び出した。
「ここから家まですごく遠いんですっ!! だからもう帰らないと!!」
 こぶしを握りしめ、引き留める園長に思いきり力説した。必死の形相で迫る。
「え、ええ」
 園長は彼の迫力に圧倒され、目を点にしてうなずいた。
「それじゃ、また近いうちにいらっしゃい。用がなくてもね」
 彼女は再びターニャに向き直り、優しく微笑みかけた。ターニャも顔いっぱいの笑顔を返した。
「来たばっかじゃん。もう帰んのかよ」
 少年はむくれて頬をふくらませた。ターニャはいたずらっぽく白い歯を見せながら、少年の頭をぐりぐりと撫でまわした。
「また今度ね。反抗期もほどほどにするんだぞ!」
 少年は頬を赤らめながら、去りゆくターニャの後ろ姿を睨んで口をとがらせた。

 外はすっかり闇に覆われていた。街灯もない暗い道を、自転車の小さな灯りだけで進んでいく。
「今日はありがとね」
 荷台に横座りしているターニャは、前で自転車をこぐジークの背中に話しかけた。
「本当は私、自転車に乗れないの。だから……」
「え? なんだ?」
 ジークは顔半分だけ振り返って尋ね返した。風をきる音に邪魔されたせいか、彼にその言葉は届いていないようだった。
 ターニャは表情を緩めると、左手を口元に添えて声を張り上げた。
「あしたもよろしく! って言ったの!」
「仕方ねぇなっ!」
 ジークも声を張り上げて返事をした。それきりふたりの会話は途切れ、再び静寂が訪れた。誰も通らない田舎道に、発電機の低い唸り音だけが響いていた。

 翌日、ふたりは仕事帰りにラウルのもとへ向かった。ジークは医務室の扉をノックして開けた。
「何の用だ」
 ラウルはふたりの姿を見るなり、つっけんどんに尋ねた。
「わーっ! かわいーっ!!」
 ターニャは、ラウルの質問そっちのけで、彼が膝の上で抱いていた赤ん坊に目を奪われた。小走りで駆け寄ると、にっこり笑って小さな手をとった。
「患者さんですか?」
 ラウルは無表情でぶっきらぼうに答えた。
「娘だ」
「ムスメ……娘っ?!」
「血はつながってないけどな」
 ジークは仏頂面で腕を組みながら補足した。
「あ、そうなんだ。ビックリした……」
 ターニャは落ち着きを取り戻した。
「じゃあこの子の本当の両親は?」
 ふいに浮かんだ疑問がそのまま口をついて出た。
「さあな」
 ラウルは冷たく突き放すように言った。だが、ターニャにはそれが答えなのだとわかった。ふいに寂しげに表情を緩めた。
「お名前は?」
「ルナだ」
 本人の代わりに、ラウルが答えた。
「ルナちゃん、こんにちは。ターニャよ、ターニャ」
 ターニャは赤ん坊の頬を軽くつつきながら優しく笑いかけた。ルナはきょとんとして大きな瞳を向けると、小さな口を開いた。
「……アー……ニャ」
「あはっ! かーわいーっ!」
「だから何の用だ」
 ラウルは苛ついた声を上げた。
「あ、そうだった」
 ターニャは現実に引き戻された。
「おまえに聞きたいことがあって来たんだ。正直に答えろよ」
 ジークはラウルを睨みつけて、命令口調で言った。しかし、ターニャは左手で彼を制した。
「先生は最近、私の母と連絡をとりましたか?」
「お前の母とは面識もないし、連絡先も知らんな」
 ルナを抱え直しながら、淀みなく即答した。
「では、私の父の兄をご存知ですか? 昔、先生に私の診察を頼んだ人らしいんですけど」
 ラウルは顔を上げ、じっと彼女を見た。
「知らないのか」
「え?」
「おまえが働いている研究所の所長だ」
 ターニャは唖然とした。
「……うそ、だって名前が……レンブラントじゃないし……」
「自分で確かめろ」
 ラウルは激しく狼狽する彼女にすげなくそう言うと、くるりと椅子をまわし背を向けた。
「テメー、何かもっと知ってることあるんじゃねぇのか?!」
 ジークはラウルの胸ぐらに掴みかかった。ラウルは凍りつくような冷たい瞳で睨みつけた。ジークも負けじと熱く睨み返した。
「……っ」
 鋭く視線をぶつけあうふたりの下から、小さくしゃくりあげる声が聞こえた。ルナが今にも泣き出しそうに目に涙をため、ジークを見つめていた。
「……行くぞ」
 ジークはくやしそうに顔をしかめながら、踵を返した。呆然とラウルの横顔を見つめていたターニャも、後ろ髪を引かれながら医務室を出た。

「こうなったら所長のところへ行くしかねぇな」
 ジークは左手に右のこぶしを叩きつけた。力づくでも聞き出さんばかりの勢いだ。だが、ターニャは違った。足がすくんでいた。不安におびえた瞳をジークに向けた。
「ジーク、私、こわい……。先生の言うことが事実だったら、もしかして、私……」
「やめるか?」
 ジークは両手を下ろし、静かに尋ねかけた。ターニャは目を閉じ、首を横に振った。
「逃げるわけにはいかない。はっきりさせなきゃ」
 顔にかかる横髪をかき上げ、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 ふたりは研究所に戻り、所長室を訪ねた。開け放たれた扉の奥に視線を送る。書籍と書類の山の谷間に、彼の姿を見つけた。
「所長」
 戸口から、ジークは遠慮がちに呼びかけた。
「ジークにターニャも。帰ったのではなかったのか」
 所長は書類をめくる手を止め、顔を上げた。
「どこか、誰にも聞かれないところで話できませんか」
 ジークはけわしい表情で尋ねた。ターニャは彼の背中に隠れ、不安そうに所長を窺っていた。
「構わないが……」
 所長は怪訝な視線を投げかけながら立ち上がった。

 三人はいちばん奥の小さな会議室で話をすることになった。機密事項に言及するような会議に使う部屋で、しっかりと防音されており、会話が外に洩れることはない。ジークもターニャも入るのは初めてだった。
 所長は内側から鍵を締めた。そして、並んで座っているふたりの向かいに腰を下ろした。
「話とは何だね」
 机の上で手を組み、ふたりを穏やかに見つめる。ジークはターニャをちらりと流し見た。彼女はうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「単刀直入にうかがいます」
 緊張で顔も体もこわばっている。固い声で言葉を続けた。
「所長は、私の父の兄ですか」
 彼の顔から微笑みが消えた。
「誰からそれを聞いた」
「ラウル先生です」
「そうか……」
 所長はふうと息をついた。
「どうなんですか?」
 ジークは問いつめるように答えを急かした。曖昧な態度に少し苛ついていた。所長はゆっくりと目を閉じ、口を開いた。
「そのとおりだ」
 ターニャは膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。予想していたことよ——自分に言い聞かせ、早まる鼓動を懸命に鎮めようとした。
 所長はさらに話を続けた。
「私の昔の名はフランシス=レンブラント。今は妻の姓を名乗っている」
「母に私のことを話したのも所長ですか」
 ターニャの口調は無意識にきついものになっていた。所長はうつむき、表情を曇らせた。
「すまない。あまりに嬉しくて、うっかり口がすべってしまった。彼女、来たのか」
「はい……」
 ターニャの顔が大きく翳った。
「まだ、許す気はないのか」
「許す?!」
 彼女は感情に流され声を荒げた。だが、すぐに我にかえった。意気消沈した様子で、ぽつりぽつりと話し始めた。
「許すも何も、恨んでなんかいません。ただ、思い出したくないだけです」
 所長はつらそうに目を細めた。
「私は君を引き取りたかった。だが、妻の方の家族が反対をしてね。……いいわけだな。本当にすまなかった」
「施設にはいい先生がいて、いい仲間がいて、本当に楽しかった。そのことについては、所長を責めるつもりはありません。むしろ感謝したいくらい。でも……」
 ターニャは目を閉じ、深く息を吸った。
「こういう罪滅ぼしの仕方は許せません」
 バン! 彼女は職員証を机に叩き置いた。所長は目を見開いた。
「私がここに採用されたこと、奇跡だと思いました。でも違った。あなたが私のことを知って、それで……」
「それは違う!」
 ターニャの言葉をさえぎり、血相を変えて否定する。しかし、彼女は止まらなかった。
「何も知らずに浮かれていた自分が恥ずかしい。馬鹿みたい。さぞ滑稽だったでしょう」
 涙声で自嘲した。次第に目が潤んでいく。しかし、泣き出しそうになるのを振り切り、強い視線をまっすぐ彼に向けた。
「今日限りで辞めさせていただきます。私はあなたに情けをかけてもらわなくても生きていけるわ」
 そう言い終えると同時に立ち上がり、職員証を残して戸口に向かった。ジークと所長は同時に立ち上がった。
「待ってくれ!」
「おい!」
 どちらの呼び止めにも彼女は反応しなかった。立ち止まることも振り返ることもなく、無言で会議室を出ていった。
 ジークはすぐに彼女を追って外に出た。しかし、所長は力が抜けたように椅子に崩れ落ちた。そして、机にひじをつき、頭を抱え込んだ。

 研究所を出たところで、ジークは彼女に追いついた。
「待てよ」
 後ろから細い腕をつかみ引き留める。
「所長は違うって言ってるぞ」
「違わないわよ。わかるわ、そのくらい」
 ターニャは顔をそむけたまま冷たく答えた。腕をつかむ手を振り切ろうとしたが、ジークは放さなかった。
「だとしても、このままやめていいのか?」
「そうするしかない」
 彼女はきっぱりと言った。それでもジークはあきらめなかった。
「今は実力が足りないとしても、頑張って力をつけて見返してやればいいじゃねぇか。サイファさんの受け売りだけどよ……」
 彼なりの懸命の説得だったが、ターニャは唐突に肩を震わせ笑い始めた。ジークは唖然とした。だが、次第にその笑いはすすり泣きへと変わっていった。何度も大きくしゃくり上げ、拭いきれない涙が頬から流れ落ちた。
「無理よ、私には」
 彼女は消え入りそうに言葉を落とした。ジークは掴んでいた彼女の腕を放した。
「さよなら。いろいろありがとう」
 ターニャは背中を向けたままそう言うと、振り返ることなく走り去っていった。
 ジークは声を掛けられなかった。彼女の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

 その後、ターニャが研究所に来ることはなかった。フロアスタッフには、彼女は都合により内定を辞退したとだけ伝えられ、その理由についての説明はなかった。ジョシュはジークのせいではないかと勘ぐってきたが、ジークは何も答えなかった。

 そして、一週間がすぎた。もう研究所にターニャのいた痕跡は見つけられない。元々いなかったようにさえ感じられる。しかし、ジークの頭には、あの三日間の出来事がこびりついて離れなかった。

「久しぶり、かな?」
 仕事を終え外に出ると、門の脇からターニャが声を掛けてきた。少し気まずそうに笑顔を浮かべている。
「ああ……」
 ジークもぎこちなく返事をした。突然のことで面くらったというのもあるが、あんな別れ方をした彼女にどう接すればいいのかわからなかった。
「新しい就職先が決まったから、一応キミには報告しとこうと思って」
「早いな」
 ジークが本気で驚いているのを見ると、ターニャはにっこり笑ってVサインを見せた。
「これでもアカデミー生だもん。民間の小さな研究所だけどね。私の力を必要だって言ってくれたわ」
「そうか」
 ジークは安堵の息をついた。ようやく心のつっかえが取れた。
「あと、所長とも仲直りしたから」
 ターニャは腰に手をあて、軽く口をとがらせた。
「問いつめたら白状したわよ。本当はひとり採用の予定だったけど、ふたりに増やして私を採ったんだって」
 そう言って、肩をすくめて見せた。ジークは何とも言えない表情で彼女を見つめた。どう反応すればよいのかわからなかった。
 だが、ターニャは笑いながらおどけて言った。
「公私混同するなって、お説教しておいた」
 ジークは彼女の明るさに救われた思いだった。つられて笑顔になった。
「母親とは?」
「さあ」
 調子にのって尋ねた彼の質問を、ターニャはまるで興味がないかのように素っ気なく流した。
 ジークははっとした。まずいことを訊いてしまったと思った。
「悪りぃ」
 申しわけなさそうにひとこと謝ると、目を伏せた。
「別に……母親とも思ってないし、思い出したくないだけ」
 ターニャは無表情で無感情に言った。ジークは彼女の横顔を目を細めて見つめた。
「それって、寂しくねぇか」
「……そう思える日がきたら、会いに行くわ」
 静かにそう言うと、ジークに向き直りにっこりと笑ってみせた。
「それじゃ、ね」
「ん、ああ……」
 ターニャが手を振ると、ジークも軽く手を上げた。そして、彼女は少し歩くと、振り返って声を張り上げた。
「たまにはユールベルに顔を見せに行ってあげてよ!」
「行かねぇって言ってんだろ!!」
 ジークも大きな声で返事をした。ターニャは無言で大きく手を振ると、今度は振り返ることなく走り去っていった。



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