目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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59. 個人指導

「……勝てねぇ」
 貼り出された試験結果を見て、ジークはがっくりうなだれた。今回は今まで以上に、そしてこれ以上はないくらいに、懸命に取り組んだ。今年こそはアンジェリカに勝ちたい、その一心だった。しかし、結果はいつものように、アンジェリカがトップである。
「そんなに落ち込むことないじゃない。ジークが頑張っていたのは知っているけど、私だって頑張ったんだから」
 アンジェリカは慰めるふうでもなく、さらりと軽く言った。当然と言わんばかりの口調である。ジークは同意することも反論することもなく、無言で肩を落としたままだった。
 ——習ったことばかりやっていても駄目だ。
 いつかのラウルの言葉が、ふいに頭をかすめた。もちろん、習ったことばかりでなく、独学でもいろいろとやってきたつもりだ。しかし、やはり自分ひとりでは限界があるのではないか。
「ジーク?」
 うつむいたまま無反応のジークを、アンジェリカは心配そうに覗き込んだ。
「そうとうショックを受けてるみたいだね」
 リックは苦笑いした。
「よし! 決めた!」
 突然、ジークは右のこぶしをぐっと握りしめ、ぱっと顔を上げた。暗く淀んでいただけの先ほどまでとはまるで違う、何かを吹っ切ったような表情。そして、その瞳には強い決意がみなぎっていた。
「決めたって、何を?」
 アンジェリカは驚いて、少し引きぎみに尋ねた。ジークは彼女の鼻先に、ビシッと人さし指を突きつけた。
「もう勝つためには手段を選ばねぇ! 見てろよ!」
 そんな捨てゼリフを残し、ドタバタとアカデミーの中へ走り去っていった。残された二人は、呆然と彼の背中を見送ると、互いに顔を見合わせた。
「手段を選ばないって、どういうことなの?」
「さぁ。たいしたことじゃないと思うけど……」
 再び廊下の奥ヘ目を向けたが、もう彼の姿は見えなくなっていた。

「ラウル!!」
 ジークは医務室の引き戸を開くと同時に、興奮ぎみに声を上げた。ラウルは机に向かい、カルテの整理をしていた。騒々しいジークの登場にも、まるで反応を示さず、一瞥をくれることすらなかった。
 ジークは医務室に踏み入ると、さらに感情を高ぶらせ、ラウルの横顔に向かって思いつめたように訴えた。
「俺に……俺にもっと魔導を教えてくれ!」
「断る」
 ラウルの返事はにべもないものだった。ジークはしばらく唖然としていたが、次第に沸々と怒りがこみ上げてきた。
「こっちだってテメェなんかに頼りたくねぇよ! でも仕方ねぇから頭を下げて頼んでるんだぜ。もうちょっと考えてくれてもいいじゃねぇか!」
「それはおまえの都合だ」
「ぐっ……」
 ジークは言葉に詰まった。歯を食いしばり、額にうっすらと汗をにじませる。
「そ……それでも引き下がるわけにはいかねぇんだ!」
 ラウルはくるりと椅子をまわし、ジークに向き直った。机に片ひじをつき、長い脚をおもむろに組むと、じっと彼を見上げた。
「なぜそこまで魔導を学びたいと思う」
「……しょ、将来のためだ」
「嘘つきに用はない。帰れ」
 ラウルは再び机に向かうと、カルテ整理の続きを始めた。
 ジークは、頭から熱湯と冷水を一度に浴びせられたかのように感じた。慌てふためき、顔を紅潮させながら、再び訴えかけた。
「待ってくれ! あの、えっと……アンジェリカに勝ちてぇんだよ!!」
「おまえの青くさい理由につきあってやる義理はない。帰れ」
 ラウルは手を止めることもなく、冷たい拒絶の言葉を返すだけだった。
 ジークは怒りでさらに顔を赤くした。まるで無関心のラウルに、声を荒げて噛みつく。
「じゃあどんな理由だったらいいんだよ!!」
「やあ、ラウル」
 突然、聞き覚えのある声が割り込んだ。開き放たれたままの戸口から、サイファが顔を覗かせていた。
「ジーク君も。こんなところで会うとは奇遇だな」
 にこにこと人なつこい笑顔を振りまき、遠慮なく歩み入ってきた。ジークは驚きながらも、わずかに頭を下げた。
「何の用だ」
 ラウルは、笑顔の訪問者を思いきり睨みつけた。
「つれないな。たまには足を運べと言ったのはおまえだろう」
 サイファはおどけたようにそう言うと、立てかけてあった折り畳みパイプ椅子を広げ、ラウルとジークの間に腰を下ろした。ラウルはあからさまに不機嫌な様子で、さらに激しく睨みつけた。
「用もないのに来いとは言っていない」
 それでもサイファはまったく動じることはなかった。余裕の笑顔を崩すことなく、ラウルに向き直った。
「ホット二つ頼むよ」
「喫茶店に行け」
「おまえが淹れたコーヒーが飲みたいんだよ」
 サイファはにっこりと邪気なく笑いかけた。ラウルはため息をついて立ち上がり、奥の自室へと引っ込んでいった。

 あのラウルが、いいようにあしらわれている……。
 ジークはありえないものを見たような不思議な気持ちでいっぱいだった。目の前のことが信じられなかった。
「ジーク、君も座ったらどうだ」
「あ、はい」
 ジークもパイプ椅子を広げ、サイファの隣に座った。
「君はどうしてここへ?」
 サイファに問われて、ジークはぎくりとした。緊張で顔がこわばる。
「ラウルに個人的に指導をしてもらおうと思って……」
「ずいぶん思いきった決断だな。どういう心境の変化だ?」
 彼がラウルを嫌っていることは、サイファも知っていた。そんな嫌いな相手に教えを請うなど、よほどのことに違いない。そう考えるのは当然のことだろう。
「ア……アンジェリカに、どうしても勝ちたくて……」
 ジークはびくつきながらも正直に答えた。ラウル同様、サイファも嘘が通じる相手ではないと感じたからだ。だが、こんなことを言って気を悪くしないだろうか……。彼は不安で息が詰まりそうになった。
「そうか」
 サイファはそう言って笑った。
「君の気持ちはわかるよ。男として」
 ジークは安堵すると同時に、居たたまれない気持ちになった。まるで、自分の気持ちをすっかり見透かされているようである。しかし、この場から逃げることはできない。上気した顔を隠すように、深くうつむくだけだった。

 ガタン。
 ラウルがコーヒーカップをふたつ持って、奥から出てきた。
「飲んだらさっさと帰れ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、机の上にカップを置いた。サイファはその片方をジークに差し出した。
 ふたつって、ひとつは俺の分だったのか……。
 彼は恐縮しつつ受け取った。なんてことはない、ごく普通のコーヒーのようだ。ラウルの淹れたコーヒーか、と奇妙な気分でひとくち飲んでみる。ぴくりと眉が動いた。意外にも、今まで飲んだどのコーヒーよりもおいしかった。
「ジークを教えることにしたんだって?」
 サイファはゆったりと目を閉じ、コーヒーの香りを楽しみながら尋ねた。ラウルはムッとしながら、椅子に身を投げた。
「引き受けた覚えはない」
「引き受ければいいだろう」
「私は暇ではない。軽く言うな」
 ラウルはこれ見よがしにカルテを手に取った。サイファは涼しい顔でコーヒーを口に運び、一息ついて彼を見上げた。
「医者はおまえひとりじゃない。それに、雑用くらいならジークが手伝ってくれるさ。ルナはもう少し長く預かってくれるよう、私からアルティナさんに頼んでおこう。他に何かあるか?」
 一気にそう言うと、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。ラウルは、凍りついた瞳で、刺すように睨みつけた。それから、疲れたようにため息をつくと、カルテを机に投げ置いた。
「一ヶ月だけだ。それに試験対策はしない。完全な実戦訓練だ」
「なるほど。そうでなければ、他の生徒に対して不公平になると考えてだな」
 サイファは真面目な顔でうなずき、ジークに振り返った。
「どうする? この条件でやるか?」
「あ……はい! ありがとうございます!」
 ジークは座ったまま、大きく頭を下げた。
「行くぞ。早く支度をしろ」
 ラウルは立ち上がり、ジークを見下ろした。
「今からかよ?!」
「私が厳しいことくらい知っているだろう」
 ジークはさっそく後悔しそうになっていた。

「頑張れよ、ジーク」
 サイファはジークの肩をポンとたたいた。ジークはペコリと頭を下げた。
「いろいろとありがとうございました」
「暇があれば様子を見に行くよ」
 サイファはにっこり笑いかけると、ラウルに目を移した。
「アルティナさんには話をしておくよ」
 しかし、ラウルは返事をすることなく、サイファを睨みつけただけだった。それでも彼はまったく気にしていない様子だった。にっこりと笑顔を返すと、王宮の奥へと消えていった。

 ラウルは無言で歩き始めた。ジークもそのあとに続く。
「どこへ行くんだ?」
「来ればわかる」
 アカデミーへ入り、渡り廊下を渡りきると、白く四角い建物の前へやってきた。道場だ。魔導耐性に優れた、また物理的にも頑丈な建物である。通常、実際に魔導を使った訓練時に使用する。実戦訓練を行うと宣言したラウルがここを選んだのは当然だろう。
 入口の大きな南京錠を開け、ふたりは中へと足を踏み入れた。何もない真っ白なだけの四角い部屋。拠り所になるものが何もないせいか、不安定な気持ちになる。足元がふわふわとしているような感覚。異空間に来たような錯覚にさえ陥る。
「授業でも言ったことがあるが」
 大きく反響したラウルの声が、ジークを現実に引き戻した。
「魔導と身体能力は関係ないと思われがちだが、身体能力が低くては、実戦では使いものにならない」
 ジークは真剣なまなざしを彼に向けた。
「一対一の戦いでは言うまでもないが、後方支援の場合でも、相手に的確に対応するためには、判断力、瞬発力、動体視力、魔導力のどれが欠けても致命的だ。さらに戦いが長引けば、持久力がものをいう。魔導力が残っていても、体力がなくなれば、攻撃することも防御することもできない」
「ああ」
 ここまでは何度か授業でも聞いた話だった。
「腹筋 200回、背筋 100回、腕立て伏せ 200回、スクワット 100回、ランニング 50周」
「……は?」
 ジークはぽかんとして固まった。ラウルは腕を組み、冷たい視線を送った。
「やるのか、やらないのか」
「やるよ! やりゃいいんだろ!」
 ジークはむくれながら、ただっ広い部屋の真ん中で、ひとりさびしく腹筋を始めた。

「……50周! これで終わったぞ!」
 ぜいぜいと息をきらせながらそう叫ぶと、崩れるようにその場にへたり込んだ。白く冷たい床に、ぽたぽたと汗が流れ落ちる。情けなくへばった少年を、ラウルは冷ややかに見下ろした。
「時間がかかったな」
「るっせー。テメーがやってみろってんだ」
 両手両足を投げ出して仰向けになり、胸を大きく上下させながら真っ白な天井を見つめた。
「次は実戦形式だ」
 ジークはげほげほとむせた。
「今すぐかよ!」
 上体を起こし、すがるようにラウルを見上げる。彼は無表情で視線を返した。
「10分休憩。水分の補給をしておけ」
 感情なくそう言うと、大きな足どりで道場の外へ出ていった。ジークはほっとして息をついた。

 10分が経ち、ふたりは再び道場の中央で向かい合っていた。
「で、どうやるんだよ。実戦形式って」
 ジークは短い休憩で、すっかりやる気を取り戻していた。何よりも魔導を使えるのが嬉しかった。単なる体力づくりよりも、ずっと楽しい。
 ラウルは腕を組んで、まっすぐジークを見据えた。
「私を殺す気でかかって来い。一発でもかすめられたら、今日の訓練は終わりだ」
「願ったり叶ったりだぜ」
 ジークは不敵にニヤリと笑ってみせた。そして、即座に軽いステップで後方に下がり、ラウルとの間合いをとった。彼から目を離すことなく、短く呪文を唱え、両の手を向かい合わせる。すると瞬時に光が集まり、頭の大きさほどの光球になった。
「やぁっ!!」
 気合いを入れて叫び、ラウルに向けそれを放出した。
 しかし、すでに彼は前面に薄い結界を張っていた。
 ドッ——。
 光球が結界に衝突し、鈍い音を立てた。大気が激しく振動する。あたり一面に白煙が巻き上がった。
 ジークは間髪入れずに、次の呪文の詠唱に入った。顔前で両手を向かい合わせ、その間に光を集めていく。
「ぐあっ!!」
 突然、ジークは濁った悲鳴を上げ、吹き飛ばされるように後ろに倒れ込んだ。白煙の中から伸びた光の帯が、彼の左腕を直撃したのだ。焼けるような痛みが彼を襲う。袖が落ち、剥き出しになった上腕部は、真っ赤になり、さらに裂傷をも負っていた。ゆっくりと血が滴り、白い床に赤い点を描いていく。
「攻撃に気をとられ防御をおろそかにするなど、新入生レベルだな」
 次第に煙が晴れていき、その向こうからラウルが姿を現した。あきれ顔でジークを睨みつけている。
 ジークは言い返すことができなかった。ラウルの言うとおりだ。攻撃を当てることばかりに熱くなり、防御のことは完全に思考から抜け落ちていた。しかし、これで頭が冴えてきた。
「テメーも俺を殺すつもりってことか」
「自惚れるな。そのつもりなら、おまえなどとっくに死んでいる」
 ジークは勢いをつけて飛び起き、それと同時に炎を放った。不意打ちのつもりだったが、ラウルは慌てることなく結界を張り、それを防いだ。
 ——正面からじゃ、いくらやっても無理だな。
 ラウルを睨みつけたまま呪文を唱え、右手を前に突き出す。ジークの前面に、かすかに青みがかった結界が張られた。かなり厚い。向こう側が屈折して見える。
 ラウルは腕を組んだまま、無言で成り行きを眺めていた。
 ジークはさらに別の呪文を唱えると、右手を高く大きく掲げた。その手のひらの上で、白い煙をまとった光球が、次第に大きく育っていく。
「行けぇっ!!」
 腕を振り下ろし、頭の三倍ほどの大きさになった光球を前方に放った。
 ジュワッ!!
 水が焼けるような音と同時に、結界も光球も消滅し、その代わりにあたり一面、純白の濃霧で覆われた。
 ——今だ!
 ジークは全速力でラウルの背後にまわり込む。霧の海の上に、彼の焦茶色の頭がうっすらと見えた。こちらに気づいてはいないようだ。
 ——とれる!
 右手に小さな白い光を蓄え、ラウルに襲いかかるべく、身を屈めて飛び出した。
 ゴワッ!!
 奇妙な音がしたその瞬間、ジークは体中に激しい痛みを感じた。いつのまにか、後方の壁に叩きつけられていたのだ。
「うっ……」
 くぐもった声でうめき、壁からはがれるように、その場に倒れ伏した。起き上がろうとしても、わずかに顔を上げるのがやっとだ。頭を打ったために、軽い脳震盪を起こしているらしい。まぶたを震わせながらうっすらと片目を開けると、視界がぐらぐら揺れていた。
「防御をおろそかにするなと言ったはずだ」
 ラウルは腕を組んだまま振り返り、冷たく見下ろした。濃霧はすでにさっぱりと消えていた。
「今日はこれまでだな」
「バ……カやろう……俺は、まだ……」
 倒れたまま右手を上に向け、苦しそうにあえぎながら、小さな声で呪文を唱え始めた。光が集まりかけたその手のひらを、ラウルは上から踏みつけた。
「ぐあっ!」
「ドクターストップだ」
 感情のない声でそう言うと、ジークの体を肩に担ぎ上げた。
「あ……歩け、るっ……!」
「立てもしないくせにどうやって歩く」
「く……そっ……!」
 ジークは目の前の大きなラウルの背中に、こぶしを叩きつけた。だが、それは弱々しいものだった。そして、それきりぐったりとなった。

 苦しい……胸が……息ができな……い……。
 ジークはうっすらと目を開いた。ぼんやりとした彼の視界に、誰かの輪郭が映った。
 母さん……? アンジェリカ……?
 次第に焦点が合ってくる。ぼやけた人影から、次第にはっきりとした形が現れてきた。
「…………?!」
 ジークは驚いて目を見開いた。相手もくりくりした目をさらに丸くして、きょとんと彼を見つめている。ラウルの小さな娘・ルナだ。なぜか自分の胸の上に乗っかっていた。どうりで息苦しかったわけだ。
「動くな」
 ラウルはベッド脇でジークの脈を見ていた。ふいに振り向いた彼の口に、もう片方の手で体温計を突っ込んだ。
 ジークは体温計をくわえたまま、頭を左右に動かし周囲をうかがった。どうやらここはラウルの医務室らしい。あのまま気を失って、ベッドまで運んでこられたのだろう。
「異状なし」
 ラウルはカルテに何かを書き込むと、今度は体温計を引き抜いた。
「熱も平熱だな」
「おい、普通、ケガ人の上に赤ん坊を乗せるかよ」
「目の届くところはそこしかない」
 ラウルはしれっと言って、ルナを抱き上げた。ルナは嬉しそうに声をあげて笑い、ラウルの顔に小さな手を伸ばした。
「それにたいした怪我ではない。左腕の骨折以外は、浅い切り傷、軽い火傷、それに打撲程度だ」
「骨折?!」
 ジークは自分の左腕を見た。上腕部に白い包帯が丁寧に巻かれている。
「少しヒビが入っているだけだ。すぐに治るだろう」
「……これじゃ、当分、修業はお預けだな」
 ジークは天井を見つめ、沈んだ声でつぶやいた。ラウルは、そんな彼を、冷めた目で見下ろした。
「腕など使えなくても、いくらでもやることはある。それとも逃げ出すのか」
「いや……望むところだ」
 ラウルの挑発に、ジークはみるみる生気を取り戻した。挑むようにニッと口角を上げると、ぐっと右手を握りしめ、自分自身に気合いを入れた。
「道場でのことは覚えているか」
 ラウルに問われ、ジークの顔がとたんに曇った。横目ででラウルをうかがいながら、言葉を濁しつつ尋ねかけた。
「ああ、でも何で……っていうか何が……」
「おまえの浅知恵など、誰にでもわかる」
 ジークはムッとしたが、ここは大人しくこらえた。
「ごく簡単に言えば、あの結界は温水、それに冷気の塊をぶつけ、濃霧を発生させた。その霧に身を隠し、私の背後にまわり込む。空気より重い霧は次第に下がり、私の頭が真っ先に視界に現れる。そこを狙い、不意打ちを仕掛ける作戦だった。そんなところだろう」
「……」
 ジークはぐうの音も出なかった。ここまで完全に読まれているとは思わなかった。
「私は全方位に風を起こした。熱や氷では、おまえを死に至らしめてしまうからな。おまえは風に飛ばされ、壁に叩きつけられたということだ」
「全方位……」
 ジークは呆然としてつぶやいた。ラウルは簡単に言っているが、かなり非常識である。暴発ではなく、意図的にこんなことができる人物は、この国に数えるほどしかいないだろう。あらためてラウルの力量を見せつけられた。くやしいが、認めざるをえない。
 ラウルは、腕の中で動きまわるルナを抱え直した。
「家には連絡を入れておいた」
「たいしたケガじゃねぇのに、よけいなことを……って、もう朝か?!」
 ジークは慌てて飛び起き、再びあたりを見まわした。今まで意識してなかったが、確かにすっかり明るくなっていた。細く開いた窓からは、ひんやりとした新鮮な空気が入り込み、薄いカーテン越しの柔らかい光がのどかに揺れている。
「今ごろ気がついたのか」
 ラウルはため息まじりに言った。

「ジーク!!」
 すでに教室で自席についている彼のもとへ、リックとアンジェリカが走り寄ってきた。
「聞いたよ。ずいぶん思いきったね」
「言ったろ。手段は選ばねぇって」
 ジークはぶっきらぼうに返事をした。
「その腕、大丈夫なの? 軽いヒビって聞いたのに」
 三角巾で首から吊るされた腕を見て、アンジェリカは心配そうに覗き込んだ。
「ああ、たいしたことねぇよ。念のためっていうか、あいつが大袈裟なだけだ」
 ジークは左腕を軽く上げてアピールし、彼女を安心させるよう笑顔を作ってみせた。それでも、アンジェリカの不安は拭えなかった。
「でも初日からこれじゃ、あと一ヶ月も耐えられるの? 泊まり込みで修業なんて」
「……泊まり込み?」
 ジークは怪訝な表情で聞き返した。
「あれ? そう聞いたけど? はい、これ」
 横から口をはさんできたリックが、かさばる大きなリュックサックをジークに差し出した。ジークはますます怪訝に眉をひそめた。
「何だ?」
「おばさんから預かってきたんだよ。着替えだって言ってたけど」
「おい、どうなってんだよ。俺は泊まり込むなんて言ってねぇぞ!」
 そこまで言って、ジークははっとした。思いきり顔をしかめて舌打ちをする。
「アイツの仕業か」
 アンジェリカはその様子を眺めながら、わずかに顔を曇らせた。

「じゃあな」
 授業が終わると、ジークは元気いっぱいに、張り切ってラウルの後についていった。あれだけラウルを嫌っている人間とはとても思えない。
 アンジェリカは複雑な思いでふたりを見送った。次第に小さくなるふたつの後ろ姿を、ずっと目で追っていた。
「さ、帰ろっか」
 リックは優しく声を掛け、にっこりと微笑んだ。
「ええ」
 アンジェリカは虚ろに返事をし、うつむいて踵を返した。しかし、数歩進んだだけで、すぐにその足を止めた。
「どうしたの?」
「やっぱり私、お父さんのところに寄っていくわ」
 そう言って王宮の方を指さし、再び方向転換した。

「お父さん!」
「アンジェリカ?!」
 思いつめた表情で部屋に駆け込んできたアンジェリカに、サイファは驚いて立ち上がった。彼女が魔導省の塔まで訪ねてくることなど、今までなかったことだ。早足で歩み寄りながら、急く気持ちを抑えつつ尋ねる。
「どうした? 何かあったのか?」
「私に魔導を教えて! 厳しく鍛えてほしいの!」
 サイファは呆気にとられた。
「ジークはラウルのところに泊まり込んで、厳しい修業をしているの。このままじゃ、私、負けてしまうかも……」
「泊まり込んで?」
「ええ、そう。お父さんが忙しいのは知っているわ。だから、無理は言わない。休みの日とか、空いた時間だけでいいから。お願い!」
 アンジェリカは漆黒の大きな瞳で、真摯にサイファを見上げた。
「まいったな」
 彼は腰に手を当てうつむくと、困惑したように笑った。かわいい娘に厳しく指導することなど、自分にはできそうもない。いや、そもそも魔導を使っての戦いなど、本当はさせたくないのだ。しかし、引き受けるまで彼女は引き下がらないだろう。そういう頑固な性格だ。とりあえず、この場は承諾しておくしかない。
「わかったよ。厳しくとはいかないだろうけどね」
 アンジェリカの頭に手をのせると、にっこりと笑いかけた。彼女も安心したように、表情を緩めて笑った。
「うんと厳しくしてね!」
 無邪気にそう言うと、小走りで部屋を後にした。
 ——ジーク、君はずいぶんと大変な相手を選んだものだな。
 サイファは小さくふっと笑うと、椅子に身をしずめ、天井を仰いだ。

「50周! 終わった!」
 ジークは体を折り曲げ、はあはあと息をきらせた。
「座れ」
 ラウルに言われ、ジークは白く冷たい床に腰を下ろした。そして、目の前のラウルを見上げた。無表情で腕を組み、まっすぐに立っている。ただでさえ大きい彼が、よりいっそう大きく見えた。まさにそびえ立つといった表現がふさわしい。
 ジークは息を呑んだ。
「おまえの最大の弱点は精神面だ。魔導を扱う際の集中力が足りない。無駄が多く、うまく魔導力を高められていない」
 ラウルは顔を前に向けたまま、視線だけを落とした。ジークは彼と目が合うと、背筋に冷たいものが走った。思わず身震いをする。
 ラウルは目を閉じ、息をついた。
「感情にとらわれやすいのも問題だな。感情を高ぶらせることがあっても、常に冷静な部分を残しておかなければならない。感情に支配されるのではなく、感情を利用しろ」
 ジークは難しい顔で、彼を見上げた。
「……だから、どうすればいいんだよ」
「まずは瞑想で精神を鍛える」
「瞑想か……」
 ジークは苦虫を噛み潰したように、思いきり顔をしかめた。体を動かし魔導を使うことは楽しい。そのための勉強も嫌いではない。だが、瞑想だけはどうしても好きになれない。何もしない、何も考えないという状態が、どうにも耐えられないのだ。
「身体の緊張を弛め、雑念をなくし、眉間あたりに意識を集中させろ。あとはひたすらその状態を持続し、少しづつ高めていく」
「んなこと、わかってるよ!」
 ジークはその場であぐらをかき、背筋を伸ばして目を閉じた。
「……なぁ、何分くらいやるつもりなんだ?」
 三分と経たないうちに、ジークは口を開いた。
「雑念は捨てろ」
「……」
 ラウルの言葉により、ジークの心にさらなる雑念が沸き上がった。

 頭が……熱い……そうか、意識を集中させているから……ってか、痛っ!
 ジークははっとして目を開き、勢いよく頭を上げた。目の前には、はじきとばされるようにして尻もちをついたルナがいた。大きく澄んだ瞳を思いきり丸くして、ジークをじっと見つめている。彼女の小さな指には、ジークの髪が数本、絡みついていた。
「おまえの仕業か」
 ジークは軽くため息をついた。
「昼寝にしては遅すぎるな」
 頭上から重い声が降ってきた。
「うっ……」
 ジークはおそるおそる顔を上げた。仁王立ちのラウルが、無表情でこちらを見下ろしている。ジークの顔から血の気が引いた。
「瞑想と睡眠の違いはわかっているのか」
「悪かったよ! そんなイヤミな言い方しなくてもいいだろ!」
 そう突っかかりながらも、ばつが悪そうに顔を赤らめた。
 ラウルは、ジークの膝の上に這い上がろうとしていたルナを抱き上げた。
「状態としては、ふたつは非常に近い。違いは意識の集中があるかないか、それだけだ。だが、そこが肝心だ」
「やあ、ここにいたのか」
 入口からひょっこりサイファが姿を現した。右手を上げ、人なつこい笑顔を見せている。
「医務室にいなかったから探したよ」
「何をしに来た」
 軽い調子で入ってきたサイファを、ラウルは冷たく睨みつけた。
「仕事帰りに寄ってみただけだよ。ジークを泊まり込みで修業させると聞いたんで、どういう風の吹きまわしかと思ってね」
 サイファは、意味ありげにニッと笑ってラウルを見た。
「なんのことだ。そんなつもりはない」
 ラウルは素っ気なく答えた。しかし、ジークはこの言葉に驚いた。
「は? おまえが俺の母親に言ったんだろう? だから着替えまで用意して……」
「知らんな。私は、腕を骨折したこと、今夜はこちらに泊まらせること、一ヶ月修業することを伝えたまでだ」
 ジークはなんとなくわかった気がした。おそらく母親の方が勘違いをしたのだ。早とちりはレイラの得意技である。その結論にたどり着くと、思いきり脱力し、一気に疲労感が襲ってきた。
「まあ、今さら帰るのも何だし、今日は泊めてくれよ」
 ジークはぐったりした声で言った。しかし、ラウルの返事はつれないものだった。
「野宿でもしろ」
「なっ……! ユールベルは泊めてやったくせに、俺はダメなのかよ!」
「状況が違う」
 ラウルは冷たくあしらうと、ふいにサイファを見た。
「おまえのところに泊めてやれ。元はといえば、おまえが口出ししたのが原因だ」
「私は構わないが、どうだ? ジーク」
「えっ……」
 ジークは少し気が引けていた。何から何までサイファの世話になりっぱなしである。それに、アンジェリカに勝つための修業なのに、そのために彼女の家に泊めてもらうなど、何か間違ってはいないだろうか。
「遠慮はするな。ゲストルームはたくさんあるんだ」
 サイファは、迷いを見せるジークを後押しした。
「あ……はい……」
 ジークは流されるように、あいまいな返事をした。
「決まりだな」
 サイファはにっこりと笑った。

「様子を見にきてよかったよ」
 サイファとジークは、薄暗い廊下を並んで歩いていた。夜も遅いため、王宮内はすっかり静寂に包まれている。人の姿もほとんどなく、要所に見張りの衛兵が立っているくらいだ。
「そんなことだろうと思ったんだ。ラウルが君を泊めてやるなど、考えられなかったからね」
 ジークは怪訝な顔をサイファに向けた。
「いや、気を悪くしないでくれ。あいつが自分の部屋に招き入れるのは、よほど気を許した相手だけなんだよ」
 サイファは安心させるように、ジークの背中に手を置いた。
「まあ、ユールベルは別だろうけどね。彼女に関しては、ラウルも責任を感じていたようだし、そういう意味合いだろう」
 ジークは、サイファの端整な横顔を見つめた。
「サイファさんは?」
「ないよ」
 驚くくらい素っ気なく答えた。そして、それ以上、その話題を広げることはなかった。

「おはよう」
 アンジェリカがいつものようにダイニングに入ると、そこにはなぜかジークがいた。ものすごい勢いで、パンにかぶりついている。彼女は我が目を疑った。戸口で固まったまま、呆然としている。
「おう」
 口にものを入れたままで、ジークが声を掛けてきた。三角巾で吊った左手を軽く上げる。やはり、どう見てもジークである。
「どうして? どうしてジークがウチにいるの?」
「まあ、成り行きだ」
 アンジェリカは、不思議そうにぼうっと彼を見つめながら、その隣に座った。近くで見ても、やはりジークである。
 レイチェルは、紅茶をカップに注ぎながら、静かに言った。
「これから一ヶ月、ジークさんにはウチに泊まってもらうことにしたのよ」
「ええっ? ずっと?!」
「……嫌なのか?」
 ジークは手を止め、不安そうに尋ねた。
「そうじゃないけど……なんかヘンな感じ」
 アンジェリカは両手でほおづえをつくと、複雑な表情で頬をふくらませた。
「言っておくけど、私は負ける気ないから」
「俺だって!」
 レイチェルはそんなふたりを見ながら、くすくすと笑っていた。


60. 最後の夜

 それから毎日、ジークは個人指導を受けていた。アカデミーが終わると、ラウルとともに道場へ行き、夜遅くまで修業をする。その合間や終了後に、ルナの世話や雑用を押しつけられることもあった。そして、日付けが変わるころ、こっそりとラグランジェ家へ戻って休み、朝になるとアンジェリカとともに朝食をとり、アカデミーへ向かう。そんな繰り返しだった。
 ラウルの厳しさは、ジークの体を見れば一目瞭然だった。大きな怪我は初日の骨折のみだが、細かい生傷が絶えることはなかった。連日、違う場所に絆創膏が貼られていった。
 ジークは何かにつけラウルへの不平不満を口にしていたが、それでもどこか楽しそうだった。

「これで約束の一ヶ月は終わりだ」
 ラウルは無表情で言い放った。
 ジークは道場の中央に汗だくで座り込んだ。そして、うなだれるように声なくうなずいた。
「……そういや、すげぇ呪文とか、何も教えてくれなかったよな」
 肩を揺らし、荒く呼吸をしながら、ふいに思い出したようにつぶやいた。
 外に出ようとしていたラウルは、戸口で足を止めた。わずかに振り返り、ジークを冷たく一瞥した。
「おまえには無理だからだ。そういうことは基礎ができてから言え」
「ほんっとーに頭にくるな、オマエ」
 ジークは力なく笑った。
「魔導力もないくせに、無理に高等呪文を使えば、下手をすると体が吹っ飛ぶ。欲張らないことだ」
 ラウルは、背を向けたまま淡々と忠告をすると、再び歩き始めた。
「ラウル!」
 ジークは顔を上げ、呼びかけた。しかし、彼は少しも振り返ることなく、長い髪をなびかせ道場を出ていった。
「お、おいっ!」
 ジークは慌てて立ち上がり、後を追った。
「ラウル!!」
 外に飛び出し、彼の後ろ姿を見つけると、さらに大きな声で呼び止めた。
「俺……この一ヶ月……感謝してる」
 振り向かないその背中に、少し照れくさそうにしながら、真顔で不器用な言葉を送った。
 ラウルは一呼吸ののち、静かにつぶやいた。
「あしたは雨だな」
「……っんだと?!」
 ジークの怒号が闇に響いた。

「お疲れさま、ラウル先生」
 からかい口調でにこにこと医務室へ入ってきたサイファに、ラウルは冷ややかな視線を送った。だが、ため息ひとつついただけで、すぐに机に向き直り、書類整理の続きを始めた。
「追い返そうとしないところを見ると、何か話したいことがあるんだな?」
 サイファはにやりと笑いながら机にひじをつき、身を屈めてラウルを覗き込んだ。ラウルはわずかに眉をひそめると、間近に迫った端整な顔を、容赦なくファイルで払いのけた。それでも懲りない彼を見て、呆れたようにため息をつくと、静かに口を切った。
「今度の試験で対戦型 VRMを使いたい」
 サイファの顔から笑みが消えた。
「馬鹿を言うな。あれはすでに禁じた。おまえも忘れたわけではないだろう」
 早口でそう捲し立てると、けわしい表情でじっとラウルを見つめた。彼はゆっくりと振り向き、まっすぐに視線を返した。
「だからおまえに相談している」
 ふたりは強く睨むように、目で探り合った。互いに譲らない。無言の長い対峙が続く。そこに流れていたものは、時を刻むかすかな音だけだった。
 先に視線をそらせたのはサイファだった。小さく息をつき、窓際へと足を進めた。細く開いたカーテンの隙間から、外へと目を向ける。あたりはすっかり闇に包まれ、木々の枝葉は黒く不気味にざわめいていた。
「彼がアンジェリカに勝てるとでも?」
 腕を組み、窓枠に寄りかかりながら、冷静な口調で尋ねた。
「それを試したい」
 ラウルは即答した。サイファは目を細め、冷たく彼を流し見た。
「悪趣味だな。アンジェリカを戦わせるために、おまえに預けたわけではない」
「アカデミーとはそういうところだ」
 ラウルは机に向かったまま、悪びれずに答えた。サイファは睨みつけはしたが、反論することはなかった。いや、できなかったのだ。なぜアカデミーが設立されたのか、彼はそれを知っていた。
 アカデミーとは、国中から才能のある者を集め、無償で高度な教育を施す、唯一無二の王立校である。その目的のひとつは、国による優秀な人材の育成、そして囲い込みだ。ほとんどの卒業生が国の機関で働いているという事実が、そのことを物語っている。そしてもうひとつ。一般には知られていないことだが、有事のときの人材確保である。兵器開発のために工学科が作られ、兵士に最先端医療を施すために医学科が作られ、そして、前線で戦う魔導士を育成するために魔導全科が作られた。それが、そもそもの成り立ちである。つまり、魔導全科の者は、本来、戦うことが義務づけられているのだ。
 ただ、平和が長く続いているこの国で、有事のことを真剣に考えているものなど、今はほとんどいない。サイファも楽観しているわけではなかったが、特に憂慮しているわけでもなかった。そうでなければ、いくら本人の強い希望とはいえ、アンジェリカを受験させたりはしなかっただろう。
「……リミット値の設定はこちらで行う。それと、試験の様子はモニターさせてもらう。いいな」
 多少の動揺を心の内側に押し隠し、感情を見せず条件のみを突きつけた。静かだが、有無を言わさない強い口調である。
「好きにしろ」
 ラウルも冷静に無表情で答えた。
 しかし、サイファはその答えに不快感を示した。一瞬、ムッとした表情を浮かべ、疲れたようにため息をついた。
「好き嫌いではなく仕事だ。ヴァーチャルとはいえ、娘が戦っているところなど、目にしたくないよ。趣味の悪いおまえと一緒にするな」
「気になってはいるのだろう」
 ラウルの問いかけに、サイファはわずかに眉をひそめた。
「多少はな」
 抑えた声でそう答えると、自嘲ぎみにふっと笑いながらうつむいた。そして、小さくぽつりとつぶやいた。
「私もおまえのことは言えないか」

 修業が終わり、ジークはラグランジェ家へ戻ってきた。ここに世話になるのも、今晩が最後である。足音を立てないよう廊下を歩きながら、この一ヶ月のことを思い返していた。ラグランジェ家の人たちと顔をあわせるのは、基本的に朝食のときだけだったが、それでも今までより多くの面を知ることができた。
 当然といえば当然なのかもしれないが、ラグランジェ家には家政婦と料理人、そして庭師が雇われているようだった。考えてみれば、これほど広い家のことをレイチェルとサイファだけでこなすなどということはありえない。ただ、住み込みではなく通ってきているようで、ほとんど姿を見たことはなかった。
 サイファの仕事が大変そうだということもわかった。サイファは魔導省に勤めており、かなり上の役職に就いている。だが、どうやら早番というものがあるらしく、週の半分はジークが起きるよりも早く家を出ていた。帰りが遅くなることも、たびたびあるらしい。
 そして、サイファとレイチェルは本当に仲が良かった。ジークがいることも気にせずに、サイファはレイチェルを抱きしめたり、頬に口づけしたりしていた。初めのうちは、そんなふたりを見ていちいち照れていたジークだったが、そのうち次第に馴れてきた。もちろん、不快に感じたことはなく、むしろ微笑ましく羨ましく思えた。あるとき、アンジェリカにちらりとその話題を振ってみたところ、「普通じゃないの?」ときょとんとして聞き返されてしまった。幼いころから見なれていれば、普通だと思うのは当然だろう。
 ジークはそんなふうに考えごとをしながら、彼が借りているゲストルームへと入っていった。特別に広いわけではないが、彼にとっては十分すぎるくらいだった。自分の家よりも広く、きれいで、清潔で、とても快適だった。

 ——トントン。
 ジークが着替えようと服に手を掛けたところで、部屋の扉がノックされた。こんな時間に……サイファさんか? ジークは不思議に思いながら扉を開けた。
「おまえ……まだ起きていたのか」
 そこに立っていたのはアンジェリカだった。薄桜色のネグリジェを見にまとい、かすかに笑みを浮かべていた。
「帰ってくるのを待っていたのよ。今日で最後でしょう? せっかくだから話でもしない?」
「あっ……ああ」
 思いがけないことだった。ジークはうろたえて声がうわずった。
「よかった」
 アンジェリカはにっこり笑って部屋に入ろうとした。しかし、ジークは彼女の前に腕を伸ばし、それを阻んだ。
「何よ?」
 アンジェリカは口をとがらせて、ジークを見上げた。彼は、困ったような弱ったような顔で、目を泳がせていた。
「部屋ん中はまずいだろ」
「どうして?」
「ベランダに出よう、なっ?」
 焦りながらなだめすかすジークを見て、アンジェリカはいぶかしげに眉をひそめた。
「なにか変よ、ジーク。まさか部屋の中に変なものを持ち込んだりしていないわよね」
 彼女の的外れな勘ぐりに、ジークは気が抜けた。
「んなわけねーだろ!」
「ふーん……まあいいけど」
 まだ完全に疑惑は晴れていないようだが、とりあえずこれ以上の追求はなさそうだった。ジークはほっと胸を撫で下ろした。

 廊下の突き当たりにあるガラス戸を開け、ふたりはベランダへと出た。大きな屋敷だけあって、さすがにベランダも広い。ジークは一通り見渡して、感嘆の息をついた。
 前へと進んでいき、ふたりは並んで手すりにひじをのせた。真夜中ではあったが、ほのかな月の光に照らされて、互いの表情は十分に識別できる。顔を上げると、生け垣の向こうに王宮が見えた。ここからごく近くにあるように感じる。実際に近いのかもしれない。ジークは頭の中で地図を描き始めた。
「冷えるわね」
 夜風が頬を撫でると、アンジェリカは肩をすくめ、小さく身震いした。ジークは彼女に振り向き、あらためてその格好を目にした。薄地のネグリジェ一枚である。
「そんな薄着で来るからだろ」
「だって外に出るつもりなんてなかったのよ」
 アンジェリカはムッとして言い返し、頬をふくらませた。確かに、外に出るつもりのなかった彼女を、外に連れ出したのはジークである。彼女の言い分はもっともだった。
 ジークは自分の上着を脱ぐと、顔をそむけたまま、無言でアンジェリカに差し出した。
「え? ……ありがとう」
 少し面くらった様子だったが、彼女は素直に受け取った。
「ちょっと汗くさいかもしれねぇけど……って、ニオイ嗅ぐなよ!」
「このくらいなら大丈夫よ」
 焦るジークを後目に笑顔でそう言うと、その上着に腕を通した。やはり、小柄なアンジェリカにはかなり大きかった。肩が落ちているうえ、袖から指先さえも出ていない。それを見て、彼女はくすりと笑った。ジークもつられて笑った。
「ぶかぶかね」
 どこか嬉しそうにそう言うと、袖をまくり上げ、手先を出した。
「それで、どうだったの? ラウルの修業」
「ああ……大技とか必殺技とかは教えてくれなかった」
 アンジェリカは目をぱちくりさせて、彼を見上げた。
「そんなのを期待していたの?」
「もともとそういうつもりだったんだよ」
 ジークは恥ずかしそうにしながら、ぶっきらぼうに答えた。
「まあでも基本をみっちりやったし、少しは力がついたと思うぜ。試験でも少しは役立てばいいけどな」
「うん。きっと役に立つわよ。でも、私は負けないけど」
 アンジェリカはにっこりと無邪気に笑いかけた。ジークの胸はドクンと強く打った。彼女の顔をまともに見ていられなかった。
「サイファさんに指導してもらったんだって?」
 前に向き直り、視線を空に逃がしつつ尋ねた。
「ええ、でも三回だけよ」
「俺もサイファさんに教わりたかったぜ。ラウルよりよっぽどまともそうだし」
 しかし、アンジェリカは何か思うことがあるようだった。軽く首をひねり、難しい顔を見せる。
「どうかしら? 教えるのには向いてないかも……」
「どういうことだ?」
 意外な評価に驚き、ジークは瞬きをしながら振り向いた。彼女は眉尻を下げて、弱ったように肩をすくめて笑った。
「優しすぎるのよ」
「あ、それは相手がおまえだからだろ。娘だから」
 サイファはいかにも娘に甘そうだった。しかし、他の人には厳しく的確に指導してくれるのではないか。ジークはそんな期待を抱いていた。ただ、忙しそうなので、実際に教えを請うことは無理だろう。
「どうして? 私は厳しくしてって言ったわよ」
 彼女は不満げに言い返した。
「そう言われても、できなかったんじゃねぇか? かわいい娘なわけだし」
 ジークの答えに、彼女はまるで納得できなかった。ますます不機嫌になり、頬をふくらませてむくれた。
「なによそれ。私のためを思うなら、言うとおりに厳しくしてくれてもいいじゃない」
 ジークは苦笑いするしかなかった。しかし、一息つくと急に真面目な顔になり、空を見上げて静かに切り出した。
「俺、サイファさんには感謝してる」
 アンジェリカはそっと振り向き、彼の横顔を見つめた。ジークは遠くを見ていたかと思うと、ふいに目を伏せ、小さく息を吐いた。
「何から何まで世話になりっぱなしだ。今回だって一ヶ月も……。帰ろうと思えば帰れるのに、なんか甘えちまって」
「だって、ジークの家は遠いんだもの。毎日、遅くまで修業をして、それから帰ったんじゃ大変よ」
 アンジェリカにそう言ってもらえて、ジークは少し救われたように感じた。わずかに表情を弛める。
「ね? いっそずっとうちに住んじゃうってのはどう?」
 アンジェリカは無邪気に大胆な提案をした。いいことを思いついたといわんばかりに、顔を輝かせている。
 せっかく弛んだジークの表情は、一瞬で固まってしまった。
「お父さんもジークのことを気に入ってるみたいだし、きっと賛成してくれるわ」
 ジークの様子に気づいていないのか、彼女は満面の笑みで話を続けた。
「あ、いや……さすがにそういうわけにはいかねぇよ」
 ジークは落ち着かない様子で、引きぎみに口を開いた。これ以上、サイファやレイチェルに迷惑をかけるわけにはいかない。第一、サイファが賛成してくれるとも思えない。自分が気に入ってもらえているかどうかも自信がない。
「どうして? いい話だと思うけど」
 アンジェリカは不思議そうに尋ねた。ジークは弱った。
「母親をひとりにしとくのも心配だし……」
 つい、そんないいわけが口をついた。嘘ではない。確かにそれもあるんだ。そう自分に言い聞かせた。
「そう、残念」
 アンジェリカは少し沈んだ声で答えると、顔を上げ、にこっと笑った。
 ジークの脳天に痺れが走った。笑顔を返そうとしたが、後めたさがブレーキをかけた。なんともいえない表情のまま、ただ立ちつくしていた。
「風邪、ひいたの?」
 アンジェリカは、心配そうにジークを覗き込んだ。
「えっ?」
「さっきからぼうっとしてるし、顔も赤いわよ。熱があるんじゃない?」
「あ……ああ、そうかもな」
 ジークはわざとらしく鼻をすすってみせた。
「修業が大変だったから、疲れが出たのよ。もうゆっくり寝た方がいいわね」
 アンジェリカは身を翻し、中へ戻ろうとした。しかし、ジークは彼女の腕をつかんで止めた。
「え?」
「あ……」
 突然、腕をつかまれたアンジェリカは、驚いて彼を見上げた。だが、彼の方も自分自身の行動に驚いていた。考えるより先に、体が動いていたのだ。しかし、なぜその行動を起こしたのか、その理由ならわかる。
「ここで熱を冷ますよ。もう少し……今日は最後、だろ?」
「もう、悪化しても知らないわよ」
 アンジェリカは口をとがらせながら、たしなめるように言った。しかし、そのあとくすりと笑って、屈託のない笑顔を見せた。

 サイファはようやく帰ってきた。もう零時を回っている。玄関の扉を開けて中に入ると、正面階段を忍び足で降りてくるレイチェルと目が合った。
「ただいま。どうしたんだい?」
 レイチェルは人さし指を立てて口に当て、声を出さないよう注意を促すと、彼のもとに駆け寄った。
「お帰りなさい」
 にっこり笑って彼を見上げながら、声をひそめて言った。サイファは笑顔で彼女を抱きしめ、髪を撫でた。
「ただいま。でも本当にどうしたんだ? 何かあったのか?」
 彼も、声をひそめつつ尋ねた。
「上で何か音がするから、様子を見に行ったの」
「それで?」
 レイチェルは、彼の腕の中でくすりと笑った。
「ふたりがベランダで話をしていたわ」
「こんな時間に起きているのか、アンジェリカ」
 サイファは目を丸くし、思わず二階を見上げた。
 レイチェルは彼の頬を両手で包み、自分の方へ向き直らせた。
「固いことを言わないで。アンジェリカだって、いつまでも小さな子供じゃないわ」
 そう言って、にっこりと笑いかけた。サイファもふっと表情を弛めた。
「そうだな。今日くらいは」
 そして、彼女の肩に手をまわし、並んで歩き始めた。
「そういえば、私たちもあったな、ベランダで」
「私は、今のアンジェリカと同じ年齢だったわ」
「そうだったな」
 サイファは少しばつが悪そうに笑った。
「あのころに戻りたい?」
 ふいにレイチェルはそんなことを尋ねかけた。大きな青い瞳で、不安そうにサイファを見上げている。
 サイファは彼女の頭を抱き寄せた。
「今が幸せだよ」
「……ありがとう」
 レイチェルはそっと彼に寄りかかった。


61. 潜在能力

 コン、コン——。
 魔導省の塔。その最上階の一室がゆっくりとノックされた。それに続き、若い男の声が、固く張り上げられた。
「カイル=ハワードです」
「入りたまえ」
 机に向かい書類を眺めていたサイファは、手を止めず静かに答えた。
 一拍ののち、おずおずと扉が開き、カイルと名乗った男が入ってきた。彼は、サイファと同じ濃青色の上下を身につけていた。緊張した面持ちで一礼すると、背筋をすっと伸ばした。そのまま息を止め、次の言葉を待つ。
「君は魔導、医学、工学のいずれにも通じているそうだな」
 サイファは顔を上げ、まっすぐカイルの瞳を見つめた。彼の顔はたちまち上気した。
「はい。すべてアカデミー終了程度です」
「君には今日一日、私と行動をともにしてもらう」
「えっ?」
 思いがけない指示に、カイルは目を見開いて聞き返した。サイファはきびきびと端的に説明を始めた。
「アカデミー魔導全科で、対戦型 VRMを使用し試験を行うことになっているのだが、その VRMの設定と試験の監視を我々が行う」
 カイルは頬を赤らめたまま、ぱっと表情を明るくした。
「はいっ! 光栄です! 頑張ります!」
 鳶色の瞳を輝かせ、力を込めて畳み掛けるように答えた。
 サイファは二枚の書類を差し出した。
「私が作った設定案だ。確認をして、問題があれば指摘してほしい」
 カイルは前に進み、両手で受け取ると、その紙に視線を落とした。赤みがかった茶髪がさらりと頬にかかる。先ほどとは別人のような真剣なまなざしで、ひとつひとつ丁寧に、しかし素早く目を通していった。
「リミット値が若干低めですが、アカデミー生が対象なら妥当な線でしょう。問題はありません」
 そう言って顔を上げ、サイファに書類を返した。
「よし、これで行くとしよう」
 彼は、受け取った書類をファイルにはさみ、小脇に抱えた。
「これから実機に設定をしに行く。ついて来い」
「はい」
 颯爽と歩くサイファの後ろを、カイルは小走りでついていった。

 サイファたちは、アカデミー校舎の隅にある、ヴァーチャルマシンルームへと足を進めた。そこには VRMの白いコクピットがずらりと並んでいた。人間どうしの対戦用ではなく、コンピュータが相手をするものだ。そのうちのいくつかは蓋が閉じていた。まだ始業前だが、生徒が自主訓練をしているらしい。
 ふたりはその間を突っ切り、奥の扉へとやってきた。普段は鍵がかかっていて、立ち入りが禁止されている場所だ。しかし今日は鍵が外れている。サイファは扉を開け、薄暗い部屋へと踏み入った。カイルもすぐあとに続いた。
「遅いぞ」
 狭い部屋の奥で、腕を組んだラウルが待ち構えていた。彼の両隣にはコクピット、頭上には大きな薄型ディスプレイが架かっている。サイファはにっこりと笑顔を見せた。
「そう時間はかからないよ。優秀なパートナーが一緒だからな」
 カイルは後ろで嬉しそうに頬を紅潮させた。前に一歩踏み出し、ラウルを見上げた。
「カイル=ハワードです。よろしくお願いします」
 礼儀正しく挨拶をすると、深々とお辞儀をした。しかし、ラウルは冷たく一瞥しただけで、背を向け歩き出した。
「いつもああだ。気にするな」
「はい……」
 サイファは落ち込むカイルの肩を軽くたたき、ラウルの後に続いた。カイルもしょんぼりしながら、その後についていった。
 三人は、奥にある小さめの扉をくぐり、さらに狭くて暗い部屋へと進んだ。数人がやっと入れるくらいの広さだ。窓はなく、上に小さな電球がひとつあるだけである。部屋の中央には、古めかしい傷だらけの木机が幅を取っていた。その上には旧式の厚ぼったいモニタが鎮座している。机もモニタもまだらに埃を被っているが、画面部分だけは丁寧に拭かれているようだ。向かいには、薄汚れた二人掛けのソファが、取ってつけたように置かれていた。
「急ごしらえだが、一応モニタールームだ。ここで我々が監視を行う」
 サイファはソファの背もたれに手を置いた。
「生徒たちに重圧を与えることのないよう、我々は姿を見せない。いいな」
「はい」
 カイルはうなずきながら返事をした。サイファは、ラウルに振り向き尋ねた。
「設定もここで出来るのか?」
「ああ、そうしておいた」
 ラウルは木机の下の棚からキーボードを取り出し、モニタの前に置いた。サイファは、手にしていたファイルをカイルに渡した。
「設定の方法はわかるか?」
「はい。何度かやったことがありますので」
「では、君に任せるよ」
「はいっ!」
 カイルは顔を輝かせて歯切れよく返事をした。ファイルを机の上に広げ、モニタの電源を入れると、立ったまま中腰でキーボードを打ち始めた。なめらかに動く彼の指とともに、キーボードが軽快な音を立てる。それに連動するように、モニタではウィンドウが次々と開いては消えていった。

「どこへ行く」
 無言で立ち去ろうとしていたラウルを、サイファがきつい口調で呼び止めた。
 ラウルは扉に手を掛けたままわずかに振り向くと、冷たく威圧するような視線を送った。
「そろそろ始業時間だ。戻るまでにセッティングしておけ」
「そういう命令口調は感心しないな」
 サイファは、腕を組んで壁に寄りかかった。そして、含みを持った挑発的な表情を浮かべた。ラウルはムッとして睨みつけた。
「話ならあとで聞く」
 いらついたように言い捨てると、長髪をなびかせながら部屋を出ていった。サイファは眉をひそめて彼の背を見送ると、腕を組んだまま深くうつむいた。小さくため息をつく。
「カイル、手が止まっているぞ」
「あ、すみません! もうすぐ終わります!」
 彼はあわててモニタに向き直り、再びキーボードを叩き始めた。

 設定作業が終わり、ふたりで確認をしていると、多くの足音とざわめきが聞こえてきた。隣に生徒が入ったらしい。
「準備は出来たか」
 ラウルはふたつの部屋をつなぐ扉から顔を覗かせた。サイファは無言で右手を上げ OKサインを作って見せた。ラウルはかすかにうなずいて扉を閉めた。
 サイファはソファに腰を落とした。
「君も座れ」
「えっ……あ、はい! 失礼します!」
 嬉しいような困ったような微妙な表情で、ぎこちなくサイファの隣に腰を下ろした。二人掛けのソファゆえ、否応なく距離は近くなる。いつ肩が触れ合ってもおかしくない状態だ。カイルは口から心臓が飛び出しそうだった。息をひそめ、ちらりと隣に目を向ける。すぐ手の届くところにサイファの横顔があった。モニタからの光が、端整な輪郭をよりくっきりと浮かび上がらせている。
「私の顔に何かついているか?」
「いえっ。何でもありません」
 視線に気づいたサイファが振り向いて尋ねると、彼は逃げるように前に向き直った。
「危険だと判断したら即座に止める。いいな」
 サイファは、まだ何も映っていない白い画面に目を向け、冷静に言った。
「はい。でもあの設定なら、危険な状態なんてなりえませんよね」
 カイルは何気なく思ったことを口にした。しかし、サイファはそれに同意しなかった。
「人も機械も、絶対などということはありえない。気を抜くな」
「すみません……」
 カイルは自らの甘さを素直に反省した。同時に、仕事に対する厳しい姿勢を目の当たりにし、サイファへの尊敬を新たにした。
「始まるぞ」
 サイファがそう注意を促すと、向かい合うふたりの生徒がモニタに映し出された。

 監視を始めてから一時間ほどが過ぎた。問題となるようなことは何も起こっていない。この時点でちょうど半数が試験を終えていた。
「さすがにこの設定だと、早く決着がつきますね」
「そうだな。もう少しリミット値を高くしても良かったのかもしれない」
 カイルの緊張はだいぶほぐれてきていた。サイファとの会話も、次第に自然なものになっていった。
「でも、少しうらやましいです。私がアカデミー生のときは、こんなものがあることすら知りませんでした」
「あとで私と戦ってみるか?」
 サイファは前を向いたまま、まるで表情を動かさずにさらりと言った。カイルは驚いて顔を真っ赤にすると、あたふたと目を泳がせた。
「えっ?! あっ、いや、あの……。力の差がありすぎて、私では相手にならないと……」
「冗談だ」
 サイファは無表情で彼を突き放した。
「……ですよね」
 カイルは乾いた笑いを張りつかせた。安堵の息をつきながらも、どこか残念そうだった。
「次が始まるぞ」
 画面にふたりの生徒の姿が浮かび上がった。互いに身構えると、合図とともに戦い始めた。
「なかなかいいですね、彼。冷静で、防御にもそつがないですし」
 しばらくモニタを眺めていたカイルは、軽く感心したように言った。サイファもうなずいた。
「ああ、ずいぶん成長したな」
 彼のその物言いに反応し、カイルは目をぱちくりさせながら振り向いた。
「お知り合いですか?」
「モニタから目を離すな」
 カイルはあわてて前を向いた。
「娘の友人だ」
 サイファがそう答えたとき、モニタの中では、リックの放った一撃で勝負が決まっていた。
 カイルは横目で様子を窺いながら、遠慮がちに尋ねた。
「まさかこれ、お嬢さんのクラス……ですか?」
「そうだ」
 サイファは短く返事をした。そして、冷静な表情を保ったままで言葉をつなげた。
「問題ないとは思うが、万が一のときは頼む」
 カイルは一瞬きょとんとしたが、すぐにはっとした。
「わかりました! 万が一、気を失われたときは、精いっぱい介抱させていただきます!」
 今度はサイファが驚いた。思わず彼に振り向く。監視を始めて以降、モニタから目をそらせたのはこれが初めてである。ふいに、気が抜けたようにふっと笑ってうつむいた。そして再び顔を上げると、真剣なまなざしでカイルを見た。
「君が見るのは、私ではなくモニタの方だ。私に構わず監視を続けろ」
 そう言うと、一瞬だけ視線を伏せ、すぐに戻した。
「あと、私が正当な理由なく戦いを中止しようとした場合には、君がそれを阻止してくれ。いいな」
「はい」
 カイルは少しばつが悪そうに、しゅんとしていた。

「次が最後だな。ジーク、アンジェリカ」
 試験は順調に進んでいき、とうとう最後の一組となった。ラウルが名を呼ぶと、ふたりはそろって前へ進み出た。そして、互いに顔を見合わせ、何も言わずに強気にニッと笑いあった。左右に分かれて、それぞれコクピットに乗り込む。
 ——絶対に負けないわ。
 アンジェリカは表情を引き締めた。
 ——あの一ヶ月をまるまる活かせるチャンスだ。感謝するぜ、ラウル……!
 ジークははやる気持ちを抑え、大きく深呼吸をした。
 ウィィィ……ン。
 電動音とともに蓋が閉まると、前面の大きなディスプレイにふたりの姿が映し出された。リックは祈るように両手を組み、不安そうにそれを見上げた。
「始め!」
 ラウルはヘッドセットのマイクに向かって合図をした。

 ジークは身構え、呪文を唱え始めた。しかし、アンジェリカは両手を上に向けただけで、呪文の詠唱なしに天から稲妻を落としてきた。ジークは飛び込むように地に臥せ、直撃の寸前で結界を張り、かろうじてそれを防いだ。だが、安堵している暇などなかった。彼女は光の矢を容赦なく雨のように降らせた。彼の頭上とそのまわりに切れ目なく打ち込んでいく。まわりの地面が次第にえぐれていった。
 嘘だろ、もたねぇ……っ!
 身を屈めたまま、ジークはさらに二重に結界を張った。それでも結界ごしに衝撃が伝わってくる。足元も心もとなく揺れる。このままでは上の結界か下の地面か、どちらかが崩れるのは時間の問題だ。
 くそっ! どうすれば……。
 ジークは顔をしかめながら天を仰ぎ、様子をうかがっていた。
 一瞬、わずかに攻撃が途切れた。彼はその好機を逃さなかった。すばやく結界を飛び出し、大きな溝を飛び越え、アンジェリカに突進していく。彼女は冷静に腕を前に突き出すと、手のひらから大きな光球を放った。
 ジークは横に飛び退き、すんでのところでそれをよける。が、完全にはよけきれなかった。熱いものが肩をかすめ、焼けるような痛みが走った。顔を歪ませ倒れ込みながらも、短く呪文を唱え反撃をする。瞬時に彼女の両腕は厚く凍りついた。
 しかし、それよりわずかに早く、彼女は衝撃波を放っていた。ジークは地面を転がりながら攻撃をかわすと、その勢いのまま立ち上がった。そして、呪文を唱えながら、再び彼女に猛突進していく。
 グワッ!!
 アンジェリカを中心に風が起こったかと思うと、大きく渦を巻きながら、彼女を取り囲むように高く火柱が上がった。ジークは踏ん張って足を止めると、あわてて後ろに飛び退いた。あやうく火炎に巻き込まれるところだった。この炎につかまれば、完全にアウトだっただろう。
 どうする……。この炎は防御壁にもなっていて、簡単には貫けそうもない。彼女が次の行動を起こすまで待つか、それとも——。
 ジークは炎の壁の上方を見上げた。そして、決意を固めたように小さくうなずくと、短く助走をつけ強く地面を蹴った。同時に、地面に光球を叩きつけ、その反動を利用し、高く上へ飛び上がった。炎壁の倍ほどの高さで、彼の体は最高点に達した。下方に目をやると、その中央にたたずむアンジェリカの黒い頭がはっきりと見えた。
 やっぱり頭の上はガラ空きだぜ!
 ニッと笑うと、声をひそめて呪文を唱えようとした。しかしそのとき、下方で何かが白く強くキラリと光った。なんだろうと目を凝らした瞬間、その光は凄まじい勢いで自分に向かってきた。光の矢だ! かわそうにも、自由落下中では思うように素早く身動きがとれない。彼は急いで前方に結界を張った。間一髪、間に合った……かに思えたが、光の矢は軽々とその結界を突き破り、彼の腹を串刺しにした。

 ふたりを映していたディスプレイが、そこでブラックアウトした。生徒たちはみな息を呑んだ。声を上げるものは誰もいない。その部屋は、水を打ったように静まり返っていた。
 ウィィィ……ン。
 静寂を切り裂く耳障りな電動音。それとともに、ふたつのコクピットが開いていった。
 リックは固唾を飲んで、組み合わせた両手にぐっと力を込めた。

「作戦大成功!」
 アンジェリカは無邪気に笑いながら、コクピットから飛び降りた。一方、ジークは青ざめた顔で、腹を押さえながら、よろよろと降りた。額には脂汗がにじんでいる。
「ジーク、大丈夫?!」
 リックは大急ぎで駆け寄り、彼の肩に手を掛け覗き込んだ。アンジェリカは彼のただならぬ様子を目にし、顔から血の気が引いた。前回の対戦後のことがフラッシュバックする。
「なっさけねぇ……」
 ジークは引きつりながらも、なんとか笑顔を作って見せた。
「心配すんな。そう痛いわけじゃねぇよ。腹を貫通したような気持ち悪い感触が残ってるだけだ」
 しかし、彼の気分がすぐれない理由はそれだけではなかった。射抜かれる瞬間の激しい恐怖が、くっきりと脳裏に焼きついていたのだ。圧倒的な力に感じた戦慄、本能が予感した死への怯え、そして彼女に対する深い怖れ——。だが、それは言えなかったし、言ってはならないと思った。

「これで今回の試験は終わりだ。解散」
 ラウルは静まったままの生徒たちに、一方的に終了を告げた。そして、ジークに顔を向けると、ゆっくりと腕を組んだ。いつものように冷淡なまなざしで睨むように見つめる。
「来い」
 短く高圧的にそう言うと、あごをしゃくって背を向けた。
「なんだろう?」
 リックは疑問と不安が入り混じり、怪訝につぶやいた。ジークはがっくりと肩を落としていた。
「たぶん説教だ。俺、いいとこなしだったしな。一ヶ月も修業してきて、結果このザマだ。殺されるかも……」
 彼の顔はさらに青ざめていった。
「そんな! ジークだって頑張ってたよ!」
「そうよ、ジークが悪いわけじゃないわ」
 ふたりの慰めも、今のジークには響かなかった。
「おまえらは先に帰ってくれ」
 疲れたように投げやりにそう頼むと、覇気のない足どりでラウルの背中を目指し歩き出した。
 リックとアンジェリカは、心配そうに顔を見合わせた。

「お嬢さん、すごいですね……。学生の戦い方じゃないですよ」
 カイルは呆然としながら言った。
「ああ」
 まさか、ここまでとは——。サイファは前かがみになり、膝にひじをついて手を組んだ。そして、何も映っていない真っ黒のモニタを、思いつめた表情で見つめていた。
 ガチャ——。
 扉が開き、ラウルともうひとりが入ってきた。
「連れてきたぞ」
「やあ、ジーク君」
 サイファはソファから立ち上がり、にっこり笑いながら歩み寄った。暗い顔で視線を落としていたジークは、サイファの登場に思わず目を見開いた。
「サイファさん! どうして……」
「ラウルのお目付役というところかな」
 ラウルが隣で思いきり睨んでいたが、サイファはまるで視界に入っていないかのように話を続けた。
「今の試験、すべて見させてもらったよ」
 ジークはこわばった表情でうつむいた。
「気にすることはない。君は頑張ったよ」
 サイファは彼の肩をポンとたたいた。ラウルは無表情で腕を組み、冷たく付け加えた。
「浅はかな行動や愚かな判断もあったがな」
 ジークはますます落ち込んだ。
「なあ、ジーク君」
 サイファは真剣に、じっと彼を見つめた。ジークはわずかに目線を上げ、不安そうに顔を曇らせた。
「君も感じたと思うが、あの子は成長している。これからもまだ伸びるだろう」
 ジークは無言でわずかにうなずいた。
「こんなことを言うのは酷だが、君はアンジェリカには勝てない。潜在能力が違いすぎる。今日の戦いを見て実感したよ」
 サイファは淡々と語った。そして、どこか遠くを見やるように視線を空に泳がせた。ジークは口をきゅっと結んだ。
「君も知っているだろうが、魔導に関して言えば、持って生まれたものに依るところが大きい。努力だけでは乗り越えられない壁があるんだ」
 サイファの表情がけわしくなった。重く、静かに、言葉をつなげる。
「アンジェリカは計り知れない力を持って生まれてきた。私でも適わないほどの力だ。……そうだろう?」
 そう言って、ラウルに同意を求めた。鋭い視線を彼に流す。
「……そうだな」
 ラウルは眉をひそめ睨み返し、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「そういうことだ」
 サイファはジークに向き直り、急ににっこりと笑顔になった。
「もちろん、可能性を信じて挑戦しつづけるのは君の自由だが、あまり思いつめるとつらいぞ」
「戦いでは勝てないが、それ以外の試験なら可能性もないわけではないだろう。難しいと思うがな」
 ラウルは腕組みをしたままで、横から口をはさんできた。ジークは何も言葉が出なかった。ただ暗い顔でうなだれるだけだった。
「そう落ち込むな。そうだ、昼食をおごるよ」
 サイファはジークの隣に並び、彼の背中に手をまわした。そして、思い出したように、ラウルに振り向いた。
「ラウル、おまえも来るか?」
「おまえに借りを作るのはごめんだ」
「おごるとは言ってないぞ」
 ラウルは怒りをたたえた瞳で、ぞっとするほど冷たく睨みつけると、何も言わず部屋を出ていった。しかし、それに震え上がったのは無関係のジークの方で、当の本人であるサイファは平然としていた。
「カイル、明日までに報告書を作成しておいてくれ」
「あっ、はい!」
 すっかり傍観者となっていたカイルは、突然に話を振られ、少しうろたえた。今が仕事中であることをすっかり忘れていた。
「さ、行こうか、ジーク君」
 サイファは彼の肩を抱き、ふたりで部屋を出ていった。
 カイルはうらやましそうにその光景を眺めながら、いろいろ考えをめぐらせていた。サイファと少年はどういう関係なのだろうか。ラウルとの間には何かあるのだろうか。自分はお昼ごはんに誘われもしなかった……。そして、薄暗いモニタールームにひとり取り残された事実に気がつくと、泣きたい気持ちでため息をついた。


62. 捩れた一途

「こんなところに呼び出して、どういうつもりだ」
 レオナルドは扉に背をくっつけ、こわばった面持ちで前を睨んだ。彼の視線の先には、頬杖をつき、何かの書類に目を落とすサイファがいた。ここは魔導省・最上階にある彼の個室である。背後の大きなガラス窓から見える空は紅に染まり、沈みゆく陽の光は最後の悪あがきのように強い輝きを放っていた。そして、赤みを帯びた逆光が、彼の濃青色の上着をふちどり、鮮やかな金の髪をよりいっそう眩しく煌めかせた。
「ひどいものだな。どれもこれも地を這っている」
 サイファは呆れ顔でため息まじりに言った。レオナルドは、初めは何のことだかわからず怪訝に眉をひそめていたが、しばらくしてはっと気がついた。青ざめたひたいに脂汗がにじんだ。
「まさか、それ……」
「おまえの成績表だ」
 サイファはひじをついたまま、無表情で書面を彼に向けた。レオナルドはカッと顔が熱くなると同時に、全身から血の気が引くのを感じた。
「き……汚いぞ!! 職権濫用だ!! そこまでして俺を馬鹿にしたいのか!!」
 狼狽しながら噛みつくレオナルドに、サイファは鋭く冷たい視線を突き刺した。
「自惚れるな。おまえごときのために、そんな労力を使うと思うか」
 静かだが威圧的な口調。レオナルドは息を詰まらせたじろいだ。ごくりと唾を飲み込む。
「じゃあ、何でそれがおまえの手元にある」
 上目遣いでじっと睨み、低く抑えた声で問いかけた。
 サイファはわずかに右の口端を上げた。
「おまえの担任が持ってきたんだよ」
「なっ……」
 思いもよらない答えに、レオナルドは絶句した。なぜ担任が……。彼には皆目見当がつかなかった。
「親のところに行っても取り合ってもらえず、ラグランジェ家当主である私に泣きついてきたというわけだ」
 サイファは涼しい顔でそう言うと、ゆったりと背もたれに身を沈めた。
「かわいそうに、必死だよ。名門ラグランジェ家の者を留年させるわけにはいかないと重圧を感じているようだ。特別措置で進級させ、補習を受けさせているが、それもずるけることが多い。いつまでたっても一向にやる気を見せない。このままでは、今度こそ留年させざるをえないそうだ」
 レオナルドはいまいましげに歯噛みしてうつむいた。耳元から次第に紅潮していく。それでも精一杯の反発心を口にした。
「ラグランジェの名前に泥を塗るなとでもいいたいのか、ご当主サマ」
「特別扱いせず、遠慮なく落とすよう言っておいた」
 サイファは、レオナルドが言い終わるか終わらないかのうちに、それを打ち消すような強い語調で言った。
「なに?!」
 レオナルドは顔を上げ、目を見開いた。サイファは厳しい視線を彼に向けた。
「当然だろう。アカデミーはすべての生徒が平等であるべき場所だ。ラグランジェの名前に胡座をかく奴など、いるべきではない」
 一分の隙も迷いもない表情で、容赦なく言い放った。
「俺はあぐらなんてかいていない!」
 レオナルドは感情的に言い返した。しかし、それはなんの釈明にもなっていなかった。
「特別措置であることはおまえに伝えてある、担任はそう言っていた。ならば当然ラグランジェの名前に救われている自覚はあったのだろう。そのうえで何の努力もしないというのはどう説明する」
 サイファは論理的に問いつめた。完全に図星をつかれたレオナルドに、反論する余地はなかった。だが、素直に反省をする彼ではない。青い瞳を激しくたぎらせ、燃やし尽くさんばかりの勢いで目の前の当主を睨みつけた。
 しかしサイファはまるで意に介さず、冷淡なくらいに平静だった。レオナルドが何も言い返せないのを確認すると、彼を見据えたまま、さらに別の話題を持ち出した。
「今、ユールベルのところに転がり込んでいるそうだな」
「なっ……おまえには関係ないだろう」
 レオナルドは強気に言い返しつつも、胸の内は大きくざわめいていた。
「出ていけ」
 予想どおりの言葉がサイファの口から発せられた。しかし、予想以上にきつく端的な物言いだった。
 レオナルドは奥歯を噛みしめ、キッと睨みつけた。
「そんなことまで口を出される筋合いはない!」
 自分の気持ちを奮い立たせるように、大きく声を張り上げた。対抗するすべはそのくらいしかなかった。しかし、それもサイファの前では徒労に終わった。
「私は彼女の親代わりだ。彼女のためにならないものは排除するさ。それに、あの部屋は彼女と弟のために用意したものであって、おまえのためではない」
 彼は一気にそう言うと、ぞっとするほど冷酷なまなざしでレオナルドを睨めつけた。
「偉そうに言うのは、一人前になってからにしてもらおうか」
 有無を言わさぬ圧倒的な迫力。レオナルドは背筋に寒気が走り、腹の底に冷たいものが落ち込んだ。額から頬に汗が伝う。怯えたように目をそらし顔を歪ませると、小さくうわごとのようにつぶやいた。
「昔からおまえは嫌な奴だった。俺を目の敵にしていた。今だって俺のことを……」
「ああ、嫌いだよ」
 サイファは事もなげに言った。あまりにはっきり認めたので、レオナルドは思わず動揺した。そして、言いしれぬ不安と恐怖が沸き上がってきた。

 レオナルドは疲弊した心を引きずって帰ってきた。帰るといっても自分の家ではない。ユールベルと彼女の弟アンソニーの住まいである。彼は当然のように自ら鍵を開け、中に入った。
「ユールベル?」
 彼女は窓際の床に座り込み、空を見上げてぼうっとしていた。わずかに開いた窓の隙間から風が流れ込み、緩やかなウェーブを描いた金の髪を揺らす。
「アンソニーは?」
 レオナルドは部屋を見回しながら尋ねた。
「買い物に出ているわ」
 ユールベルは空に目を向けたまま、ぽつりと答えた。レオナルドは彼女に近づき、その隣に腰を下ろそうとした。
「いつまでこんなことを続けるの」
 彼女のかぼそい声が、彼の動きを止めた。中腰のまま、彼女に振り向く。彼女はまだガラス越しの空を見上げていた。
「逃げてばかりでは何の解決にもならないわ。私たちにとっても、こんな……」
 レオナルドの表情が立ち所にけわしくなっていった。
「出ていけっていうのか?」
 ユールベルは何も答えなかった。レオナルドはそれを答えと受け取った。
「そうか、サイファに何か言われたんだろう! 何を言われた?!」
 細い手首をきつく掴み、感情を高ぶらせ迫りかかる。
 ユールベルは顔をそむけ、眉間にしわを寄せた。
「何のこと?! 痛い、離してっ……」
「それともジークか?! まだあいつのことを!」
 レオナルドは激昂し、一方的に問いつめた。ユールベルは両手首を掴まれたまま逃れようともがいた。しかしそれは叶わず、バランスを崩し、後ろに倒れ込んだ。後頭部を打ちつけ、痛みに顔を歪ませる。床には、金の髪と白い包帯が広がった。それでもレオナルドは引かなかった。彼女の上に乗りかかり、我を忘れたかのように責めたてる。
「答えろ! どうなんだ!!」
「何してるんだ!!」
 外から戻ったアンソニーが、目を見張り、大声で叫んだ。部屋に駆け込むと、自分より大きなレオナルドを必死にユールベルから引き離した。まだ幼さの残る顔に、激しい怒りを広げる。
「行くところがないっていうから仕方なく置いてやっていたのに! 恩知らず!! 出ていけっ!!」
「待て、待ってくれ、悪かった」
 ようやく我にかえったレオナルドは、後悔の表情を浮かべ、うろたえながら懇願した。しかし、アンソニーは問答無用で外に押し出すと、扉をばたんと閉めた。それとほぼ同時に、ガチャと鍵をかける音がした。
「おいっ! 待て!!」
 バチッ——ドアに手を伸ばしたレオナルドの手は、すんでのところで弾かれた。その手を抱え込み、よろよろと後ずさる。
「こんな強力な結界まで張りやがって……」
 彼は赤く焼けた手のひらをじっと見つめ、惨めな思いでうなだれた。

「姉さん、大丈夫?」
 アンソニーは手を差しのべて、ユールベルを助け起こした。彼女は無造作な横座りのまま、表情を隠すように、顔をそむけうつむいた。緩くなった左目の包帯を、右手で押さえる。
「レオナルドを怒らないで。……悪いのは、私なの」
「姉さんは悪くない!」
 アンソニーは力を込めてそう言うと、彼女の隣に膝をつき覗き込んだ。
「どんな理由があっても暴力はダメだって、そう教えてくれたのは姉さんじゃないか」
 ユールベルは肩を震わせた。白いワンピースの上に、いくつもの雫を落とす。
「僕が、姉さんを守るから」
 アンソニーはひたむきな瞳を彼女に向けた。しかし、彼女はすすり泣きながら、かすかに首を横に振っていた。

 レオナルドには行くあてがなかった。それでも家へ帰る気は起きない。ぶらぶらとあたりを歩いているうちに、足は無意識にアカデミーへと向かっていた。門をくぐり、閑散とした校庭を歩いていると、聞き覚えのある声が耳に入った。はっとして顔を上げる。そして、苦々しく眉をひそめた。
「いい気なものだな」
 楽しそうに話をしながら歩いていたジーク、アンジェリカ、リックは、いっせいに顔を曇らせた。しかし、ジークは一睨みしただけで、言葉を返すことなく通り過ぎた。
「待て」
 レオナルドはジークの腕を掴んだ。しかし、ジークは間髪入れず振りほどいた。
「おまえと言い争う気分じゃねぇ」
 面倒くさそうにそう言って、アンジェリカの腕を引き、さっさとその場を立ち去ろうとした。だが、レオナルドは肩に手をかけ、再び引き止めた。
「話がある。一緒に来てもらおうか」
「俺はおまえと話なんてしたくねぇんだよ」
 ジークはうっとうしそうに顔をしかめ、肩にのせられた手を払いのけた。レオナルドはニヤリと不敵に笑った。
「ここで話してもいいのか」
 そう言うと、ちらりとアンジェリカに視線を流した。ジークは腹立たしげに眉間にしわを寄せた。
「わかった」
 苦渋に満ちた声で返事をすると、アンジェリカの腕を離した。
「おまえらは先に帰ってろ」
「レオナルドなんか無視すればいいじゃない」
 アンジェリカは、ジークがなぜ承諾したのかがわかっていなかった。ジークは心配をかけまいと、軽く笑顔を作ってみせた。
「心配すんな。適当にあしらってくる」
 さよならの代わりに右手を上げると、レオナルドの後について校庭の向こうへ歩いていった。
「何の話かしら」
「うーん、ただ因縁をつけてきただけじゃないかなぁ」
 リックは、不安そうにしているアンジェリカに、にっこりと笑いかけた。
「気になる?」
「ちょっとね」
 アンジェリカは肩をすくめた。
「でもいいわ。どうせたいしたことじゃないだろうから!」
 軽やかにステップを踏みながら、吹っ切るように明るくそう言い、くるりと振り返ってリックに笑いかけた。彼も笑顔を返した。
「大人になったね」
「何よそれ。誉めてるの? けなしてるの?」
 アンジェリカは顔を赤らめながら口をとがらせた。

 レオナルドとジークは、アカデミーの隅にある小さな教会の前に来ていた。
「懺悔でもするつもりかよ」
「おまえを懺悔させるのさ」
 ふたりはさっそく火花を散らしていた。
 レオナルドは教会の扉を開け、中へ足を踏み入れた。ジークもすぐ後に続く。案の定、中には誰もいなかった。ジークは入口横の壁にもたれかかると、腕を組んだ。
「で、何の話だ。早くしてくれよ。テメーと一緒にいるだけで胸くそわりぃんだ」
 レオナルドの言動からして、アンジェリカに関する話である可能性が高い。不安と緊張を感じつつも、それを見せないようぶっきらぼうな態度を装った。
 レオナルドも愛想なくジークを見た。
「アンジェリカとはどうなっている」
「はぁ?」
 ジークは素頓狂な声をあげた。耳元を赤らめながら困惑する。
「なんでおまえにそんなこと言わなきゃなんねぇんだ!」
「やっぱりな」
 レオナルドはわざとらしく大きくため息をついた。ジークはカッとして、ますます顔を赤くした。
「どういう意味だ」
「おまえがそんな中途半端な態度をとりつづけるせいだ」
 一向に話が見えてこない。ジークは苛立ちを募らせていった。
「わかるように言え!」
「ユールベルだ! いつまで彼女を苦しめれば気がすむ!」
 レオナルドは強い口調で責めたてた。しかし、それを聞いたジークは、気が抜けたようにため息をついた。
「あきれたヤツだ」
 レオナルドはぴくりと眉を動かした。ジークは彼に冷ややかに話を続けた。
「俺を責める前に自分を振り返れ、バカ。ユールベルを苦しめてんのはおまえじゃねぇのかよ」
「なんだと?!」
「おまえと一緒にいて楽しそうに見えたことがねぇぜ」
 事実を突きつけられ、レオナルドはひどくうろたえた。
「そっ……それは、おまえのせいだろう!」
「つきあってられるか」
 ジークは呆れ返って吐き捨てると、レオナルドに背を向けた。
「待て!」
 レオナルドはジークの腕を掴んだ。しかし、ジークは即座にそれを振り払った。そして、顔をしかめ、思いきり睨みつけた。
「俺にどうしろって言うんだ。ユールベルに、おまえには興味がねぇから俺のことはいいかげんに忘れろ、とでも言えば満足なのか?」
 レオナルドは答えに窮した。
「懺悔でもしてろ」
 ジークは捨て台詞を残し、再び踵を返した。レオナルドは歯ぎしりをして、その背中を睨みつけた。
「偉そうに……! おまえにはひとつも懺悔することはないというのか」
「あいにく俺は神なんて信じてねぇんだよ」
 ジークは振り返ることなく答えると、重量感のある扉を押し開けた。教会の中央を光の帯が伸びていき、奥の祭壇を照らす。しかし、すぐにその光は細くなり、バタンという音と同時に消えてなくなった。そして、光とともにジークも消えていた。

「おじさま……」
 ユールベルはおずおずと扉を開けた。サイファは彼女に気がつくと、にっこり穏和な笑顔を見せた。
「やあ、ユールベル。どうした?」
「おじさま、あの……レオナルドが……」
 一瞬、彼の表情に陰が走った。

 サイファはユールベルを隣に座らせ、詳しい話を聞いた。
「そうか、タイミングが悪かったね。私も彼に同じようなことを言ったばかりなんだよ」
 優しくそう言うと、ゆっくりと頭を撫でた。それでも彼女の表情は晴れなかった。
「私、どうしてあんなことを言って……。居場所のなかった私を、レオナルドは助けてくれたのに。恩知らずは私の方だわ」
 彼女はうつむき、自嘲ぎみにつぶやいた。
 サイファは真摯な表情で彼女の肩に手をのせ、ぐっと力を込めた。そして、覗き込みながら、説き伏せるように語りかける。
「君がそう恩義を感じることはないよ。彼が好き好んでやったことだ。第一、彼は君の心までは救えなかった。そうだろう?」
 ユールベルはきつく目を閉じ、何度も首を横に振った。
「でも、レオナルドだけだったのよ、私の話を聞いてくれたのは……私に温もりをくれたのは!」
 白いワンピースの裾をぎゅっとつかむと、細い肩を震わせしゃくり上げた。サイファはやるせない思いで彼女を見つめた。
「すまなかった」
 涙で濡れた彼女の頬にそっと触れ、そして静かに抱き寄せた。ユールベルは温かく緩やかな鼓動を、頬を伝って感じた。自分の鼓動もそれに同調していく。心地よさを感じながら、とめどなく涙があふれた。
「私は、レオナルドの気持ちを利用していたのかもしれない」
 落ち着きを取り戻したユールベルは、サイファに寄りかかりながら、つぶやくように言った。サイファは彼女の頭を片手で抱え込んだ。
「そんなふうに考えるな。君は何も悪くない。彼の方こそ君の気持ちを利用している」
「おじさま……」
「ユールベル、感謝の気持ちと人を好きになる気持ちは別物なんだ」
 彼女は顔を上げ、無垢な子供のような瞳をサイファに向けた。
「君がそれを自覚し、偽りのない気持ちをレオナルドに伝える。そのうえで感謝は感謝として、それなりの態度で示せばいい」
 サイファはにっこり笑って、彼女の頭に手をのせた。

 ガチャ——。
 ノックもなしに扉が開き、ラウルが入ってきた。彼はユールベルを目にしても、少しも反応することはなかった。まるきり眼中にない様子で足を進めた。
「あとにしてくれないか」
 サイファは感情なく言った。しかし、ラウルが返答するより前に、ユールベルが口をはさんだ。
「いいわ、私、帰るから」
 凍てついた表情で立ち上がり、髪をなびかせ早足で扉へ向かった。
「あなたなんか大嫌い」
 すれ違いざま、ラウルをきつく睨み上げた。そして扉を開け外に出ると、振り返りざま、もういちど彼を睨みつけた。そして、怒りをぶつけるようにバタンと大きな音を立てて扉を閉めた。
 サイファは頬杖をつき、にこにこしながらラウルを見た。
「彼女なりの甘え方だな、あれは」
「いや、本気で嫌っているはずだ」
 ラウルは素っ気なく答えると、机の上に書類を投げ置いた。
「彼女の診療記録だ」
 サイファはそれを手に取り、目を落とした。
「長い間、幽閉され人と関わることがなかったんだ。感情のコントロールが出来なかったり、極端な行動に出たり、矛盾した言動をとったりするのも無理はない。まだ小さな子供みたいなものだよ」
 書類を読み進めながら、彼は淡々と言った。
「それだけではないだろう」
 ラウルは腕を組んで、彼を見下ろした。サイファは手を止め、顔を上げた。
「ああ、だがそれも幼く不安定なものだ。おまえはわかっていたのだろう。だから拒絶することも受け入れることもしなかった」
 ラウルは無表情のまま何も答えなかった。サイファは背もたれに寄りかかり、目を細め遠くを見やった。
「もっと、守ってやるべきだったな」
「おまえはよくやっている」
 ラウルの言葉に、サイファはふっと表情を弛めた。
「おまえに慰められるとは、私も落ちたものだな」
 茶化すようにそう言うと、にっこりと笑いかけた。

 レオナルドはひとり教会に残っていた。ここを出ても行くあてがない。途方にくれ、最後列の長椅子に座り、ぼうっとしていた。
 ギィ……。
 かすかな軋み音とともに、中央に光が差し込んできた。誰かが入ってきたらしい。レオナルドは外に出ようと立ち上がった。
「レオナルド?! どうしてここに……」
 レオナルドはその声に敏感に反応し、勢いよく振り返った。
「ユールベル?!」
 彼女はぽかんとして立ち尽くしていた。レオナルドももちろん驚いた。だが、それよりも、とにかく謝らなければという思いが大きかった。
「さっきは悪かった。どうかしていた。許してくれ」
 唐突にそんな言葉が口をついた。ユールベルは思い出したように、表情に暗い陰を落とした。
「私も、ごめんなさい……」
 続けて何かを言おうとしたが、彼女は躊躇して言葉を飲み込んだ。レオナルドはその様子を見逃さなかった。
「もうあんなことはしない。冷静に聞くから言ってくれ」
 落ち着きを見せながらそう言ったものの、心の中は慄然としていた。心臓は早鐘のように打っていた。
 ユールベルはしばらく考え込んだあと、ためらいがちに口を開いた。
「……私、やっぱりあなたの気持ちに応えることは出来ないと思う」
 わかっていた。わかっていたこととはいえ、彼女の口からあらためてはっきり聞かされると、やはりショックだった。
「ジークか」
 感情的にならないよう、抑えた口調で尋ねる。ユールベルは目を伏せた。
「とっくにあきらめている。わかっているわ。でも、気持ちはどうしようもないの」
「それは俺も同じだ。でも俺は……あきらめない」
「……」
 静かに決意を口にするレオナルドを見て、ユールベルは胸が詰まりそうになった。目を細めて彼を見つめる。そして、小さく声を漏らした。
「勉強……そう、一緒に勉強しましょう」
「……勉強?」
 レオナルドは面くらった。話のつながりが見えない。
「レオナルドには、言葉で言い尽くせないほど感謝しているわ。だから、力になりたいと思っているの。だから……」
 ユールベルは真剣に訴えた。だが、彼の表情はみるみるうちに陰っていった。
「サイファに言われたんだな」
「私の意思よ」
 強い光を秘めた右目を彼に向け、きっぱりと言い切った。
「拒絶しておきながら力になりたいなんて、自分勝手だと思うけれど……」
「いや、嬉しいよ」
 レオナルドは穏やかに表情を和らげた。ユールベルは固い面持ちの中に、わずかに安堵を覗かせ、小さく息をついた。
「言っただろう、俺はあきらめていないと。それに……」
 感情を抑えたまなざしを、扉の方に向ける。
「これ以上、ジークに馬鹿にされたくないしな。サイファも見返してやりたい」
 レオナルドは静かに闘志を燃やしていた。
「よろしく頼む」
 差し出された右手を見て、ユールベルはとまどった。自信なさそうに、迷いながら右手を上げていく。レオナルドはその手をとり、優しく握った。
「ユールベル、おまえと一緒なら、おまえがそう言ってくれるなら、やれそうな気がする」
 まっすぐに彼女を見つめ、少し緊張ぎみに、だがしっかりとした口調で言う。ユールベルは胸の中にあたたかいものが広がるのを感じた。傷だらけの乾いた心に沁み込む満ち足りた思い。自分を必要としてくれている——。そのことを初めて実感した。柔らかく、彼の右手を握り返す。
「今まで、近づきすぎて見えなかったのかも」
 彼女はぽつりとつぶやいた。
「なんのことだ?」
 レオナルドは怪訝に尋ねた。彼女はつないだ手に視線を落とした。
「ちょうどいい距離を見つけたかもしれない……ということよ」
「意味がさっぱりわからないが……」
 難しい顔で首をかしげるレオナルドに、ユールベルはそっと微笑みかけた。ややぎこちないものの、作り物ではなく、心からの温かい笑顔。
 レオナルドははっとして顔を上気させた。彼が初めて見る表情だった。その笑顔の理由はわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。とにかく単純に嬉しかった。ずっとこの笑顔を待ち望んでいたのだ。彼は目頭が熱くなっていくのを感じた。
「レオナルド?」
「希望が見えた気がする……勉強、頑張るよ」
 レオナルドはうつむき、かすかに震える声で言った。


63. 譲れないもの

「せっかくですが、今回は他を探します」
 ジークは座ったまま、向かいの男に頭を下げた。茶色い口ひげをたくわえた中年のその男は、難しい顔でため息をついた。コーヒーをひとくち流し込み、紙コップを静かに机の上に置く。
「言っておくが、サイファ殿に頼まれたわけではないぞ」
 閑散とした食堂に、重みのある低音が響いた。ジークは浮かない面持ちで視線を落とした。窓からの光を受けた白いテーブルが眩しくて、思わず目を細める。
「確かに話を持ちかけてきたのは彼だが、あくまでそれは提案にすぎない。私はスタッフと相談し、熟考した。そのうえでの決定だ。我々は君の能力を高く買っている」
 男はまっすぐジークを見据え、はっきりとした口調で話しかけた。だが、それでもジークの表情は晴れなかった。
「ありがとうございます。ですが……」
「そう答えを急くな」
 男は再びコーヒーを口に運んだ。そして一息つくと、真剣なまなざしをジークに向けた。
「長期休暇が始まるまで、よく考えてみてくれないか。気が変わったら連絡をしてほしい」
 ジークは張りつめた固い表情で、再び頭を下げた。

「ジーク!」
 アカデミーの校門の前で、リックとアンジェリカが出迎えた。ふたりともにこにこしながら手を振っている。ジークは目を丸くした。
「おまえら、待ってたのかよ。先に帰ってりゃいいのに」
「何の話か気になっちゃってね」
 アンジェリカは後ろで手を組み、明るく笑いながら彼を覗き込んだ。
「あの人、魔導科学技術研究所の所長さんなんだってね」
 リックも顔を輝かせながら、興味津々に食いついてきた。
 しかし、ジークの態度はつれないものだった。
「たいした話じゃねぇよ」
 ふたりと目も合わさず、仏頂面でそっけなく答えた。そして、目を伏せて少し考えたあと、おもむろに言葉を続けた。
「リック、今年はおまえの趣味のアルバイトにつきあってやるぜ」
「え……? どういうこと?」
 リックはジークの横顔をうかがい見た。精一杯、感情を押し隠しているような表情。どこか思いつめているようにも見える。どう見ても楽しそうではない。
 ジークが「趣味のアルバイト」と呼んでいるのは、子供向けヒーローショーのアルバイトのことである。おととしまではふたりで一緒にやっていた。だが、昨年はジークだけ研究所のアルバイトだった。休暇前に彼がひとりで勝手に決めてきてしまったのだ。今年はまた一緒にやってくれるというのであれば嬉しい。しかし、研究所の所長に会ったすぐあとにこの話題、そしてこの表情である。所長と何かあったのだろうか。リックはそう訝った。
「所長さんとは何の話だったの?」
 アンジェリカも彼と同様の不安を感じていた。
 ジークは答えるべきか悩んでいたが、心配そうなふたりを目にすると、何も言わないわけにはいけないような気になった。
「さっき所長にアルバイト誘われたけど、断ってきた」
「え?! どうしてよ!! もったいないじゃない!!」
 過剰なまでに反応したのはアンジェリカだった。勢いよく捲し立て、ジークに詰め寄った。彼は逃げるように顔をそむけると、ふてくされたようにぽつりと答えた。
「気が乗らなかったんだよ」
「えーっ」
 アンジェリカは不満げに声をあげた。
「赤とか青とかの着ぐるみショーには気乗りするわけ?」
 口をとがらせて彼を見上げ、どこか責めるような口調で尋ねた。
「いいだろ、別に」
 ジークは斜め下に視線を落としながら、ぶっきらぼうに答えた。
「もうっ、ジークがわからないわ」
 アンジェリカは思いきり頬をふくらませ腕を組んだ。彼女にはジークの選択が歯がゆくて仕方なかった。

 校門の前でアンジェリカと別れ、ジークとリックは並んで帰路に就いていた。ふたりともずっと無言のままである。リックは横目で曇り顔のジークをちらりと盗み見ると、前に向き直り口を切った。
「さっきのアルバイトの話さ、何か理由があるんじゃない? アンジェリカの前では言いにくいこと?」
「……おまえ、やたら鋭いな」
 ジークはうつむいたまま、困ったように微妙な苦笑いを浮かべた。リックはにっこり笑いかけた。
「ジークの態度がわかりやすいんだと思うよ」
 ジークはそれでもまだ迷っているようだったが、やがて観念してぽつりぽつりと話し始めた。
「今回は分析とか、俺がやりたがっていた仕事も頼むつもりだって言われた」
「え? いいじゃない」
 リックはきょとんとした。ジークはもともと沈んでいた表情を、さらに深くどんよりと沈ませた。
「でも、全部サイファさんの口添えだったんだ」
 それを聞いて、リックはようやく理由がわかった。納得したように、「ああ」と小さくうなずいてみせた。
 ジークはつっかえがとれたように、勢いづいて話を続けていった。
「サイファさんの知り合いでなければ、絶対に誘ってなんてもらえなかっただろうぜ。俺の力じゃねぇんだよ」
 こぶしを握りしめ、ひとりで熱くなっていく。
「そういうのって、やっぱ自分の実力で勝ちとりてぇし、それが俺のポリシーでプライドで譲れねぇ部分なんだ」
 今までの落ち込みが嘘のように、力を込めて強気に語った。口に出すことで迷いを吹っ切ったようだった。
「そっか」
 威勢のいいジークに戻った——リックは安堵してほっと息をついた。
「それに……」
 ジークは頭の後ろで手を組み、ほんのり暗くなった空を仰いだ。
「あの研究所だと、サイファさんの知り合いってことで、特別扱いされたり、ごますってくるヤツがいたり、逆にやっかむヤツがいたり、いろいろ面倒でよ」
「へぇ、そんなことがあるんだ」
 リックは少し驚いたように声をあげた。それは、彼が初めて聞く話だった。ジークは研究所でのことはあまり話さなかったし、リックもあえて詮索することはしなかったのだ。
 ジークはふいに目を細め、空の彼方を見つめた。
「俺らが思ってる以上にすごい人みたいだぜ、サイファさんは。本来、俺らが軽々しく口をきける相手じゃねぇんだろうな」
「うん……」
 ふたりの会話はそこで途切れ、再び沈黙が訪れた。そのまま、家に着くまでふたりが口を開くことはなかった。

「午前はこれで終わる。午後は図書室だ。遅れずに来い」
 ラウルはいつもの調子で威圧するように言い放つと、教本を脇に抱え、教室を出ようと扉を開けた。
「やあ、ラウル先生」
 そこに待ち構えていたのはサイファだった。軽く右手を上げ、にこにこと人なつこい笑顔を浮かべている。ラウルは思いきり嫌な顔をして睨みつけた。
「わざわざこんなところまで何をしにきた」
「おまえに用があるわけじゃないよ。私は……」
「お父さん?!」
 教室にいたアンジェリカは、戸口にサイファの姿を見つけ、大きく目を見開いた。すぐさま彼に走り寄る。ジークとリックも軽く走りながら、そのあとを追った。
「どうしたの? 何をしにきたの?」
「ラウルと同じことを言うんだね」
 サイファは苦笑いをした。
「誰でもそう思うだろう」
 ラウルは腕組みをして、冷ややかに彼を見下ろした。
「私は彼に話があって来たんだよ」
 そう言って、サイファは顔を上げジークを見た。アンジェリカもラウルも、彼の視線をたどって振り返った。
「オ……俺?」
 ジークは狼狽しながら自分を指さした。三人の視線に気おされ、思わず息を呑む。
 サイファはにっこり笑ってアンジェリカに振り向いた。
「そういうわけだから、ジーク君を借りてもいいかな?」
「私たちがいてはダメなの?」
「頼むよ、ね」
 口をとがらせるアンジェリカをなだめるように、その頭にぽんと手をのせた。

「ランチをふたつ」
 サイファはウエイトレスに告げると、窓際に席を取った。彼に促され、ジークはその向かいに腰を下ろした。
 高級感の漂うレトロなカフェといった装いのその店は、王宮内の奥の方にあった。昼どきにもかかわらず、特に混み合っている様子もなく、ゆったりとした時間が流れている。窓から外を見下ろすと、緑あふれる中庭が目に入った。噴水の水音が心地よく気持ちを和らげていく。
「ここは穴場でね」
 サイファは外を眺めながら、皮張りのソファにもたれかかり腕を組んだ。ジークもつられて外に目をやりながら、かすかにうなずいた。もっと人が入っても良さそうな、いい雰囲気の店なのに……。きっとここは高い店なのだろう、勝手にそう納得した。
「きのうはゴードン所長とランチだったのかい?」
 サイファはにこやかに振り向いた。ジークはぎくりとして体をこわばらせた。しかし、その展開は予想どおりでもあった。サイファが自分を連れ出したのは研究所のアルバイトの一件に関係がある、ということは想像がついていた。
「放課後だったので、食堂でコーヒーだけです」
 そう答えると、うつむいて膝の上でこぶしをぎゅっと握りしめた。
「せっかく気にかけてもらったのにすみません。断ってしまって……」
「謝る必要はないよ。君が決めることだ」
 サイファは優しくにっこりと笑いかけた。
「自分の力で進んでいきたい。君はそう思っているんだろう?」
「はい……」
 ずばりと言い当てられて、ジークは肩をすくめ小さくなった。自分の気持ちはすっかり見透かされているようだ。わずかに視線を上げ、ちらりとサイファの表情をうかがった。機嫌を損ねているようには見えない。先ほどまでと変わらず穏やかな笑顔をたたえている。
「その心掛けは立派だ」
 ジークはとまどいながら顔を上げた。怪訝にサイファを見る。彼は笑顔のまま表情を引き締めた。
「しかし、君の進もうとする道は、そう生やさしいものではない。目の前のチャンスを棒にふる選択をしていては、前に進んでいくことはできないよ」
 ジークは再びうつむいた。暗い顔で口を結ぶ。
「利用できるものは利用し、貪欲に好機を掴み取る。私を踏み台にして伸し上がるくらいの気概がなければね」
 サイファは優しい口調の中に、強さと厳しさを覗かせた。
「機を得たあとは実力次第だ。実力が伴っていなければ、いずれ淘汰される。今いる場所に見合うだけの、いや、それを大きく超える力をつけるよう努力していかなければならない。陰口をたたく者や反発をする者には、何も言えなくなるほどの力を見せつけてやればいい。私は今までそうやってきたよ」
 ジークはずっと下を向いたままだった。
「納得がいかないか」
 サイファに問いかけられても顔を上げられなかった。うつむいたまま、ためらいがちに口を開いた。
「……どうしてそこまでして上を目指すんですか?」
 サイファは目を見張り、少し驚いた表情を見せた。しかし、すぐにふっと表情を緩めた。窓の外に視線を移し、遠き日に思いを馳せるように、目を細め真摯に遥かを見やる。
「私にはプライドより大切なものがある。その大切なものを守るには力が必要だった——そういうことだ」
 そう言ってジークに向き直り、にっこりと笑いかけた。

「ねぇ、何の話だったの? お父さん」
 午後の授業が終わるなり、アンジェリカはジークに駆け寄って尋ねた。だが、彼はどこかうつろで、何か考えごとをしている様子だった。
「ああ……」
 何の答えにもなっていない気の抜けた返事。ゆっくりと鞄を肩に掛け立ち上がると、無言で図書室をあとにした。アンジェリカはムッとしながらも、小走りでそのあとについていった。本の返却に手間どっていたリックも、慌ててあとを追った。
 校門の外に出ると、ジークはふいに口を開いた。
「リック、俺、やっぱり研究所でアルバイトすることにした。悪りィ」
「あ、サイファさんに説得されたんだ」
 早い変わり身だが、相手がサイファでは仕方ないとリックは思った。雄弁なサイファなら、単純なジークを丸め込むくらいわけはないだろう。サイファに連れられていったときから、こうなる予感はしていた。
「説得……っていうんじゃなくて、なんていうか、プライドは譲れないものじゃねぇってことに気づかされたんだ」
 ジークは前を向いて淡々と語った。アンジェリカは怪訝な顔で、彼を覗き込むようにして見上げた。
「なにそれ。わかるように説明してくれる?」
 口をとがらせぎみにして問いかける。
「これ以上、説明しようがねぇよ」
 ジークは顔をそむけ、ぶっきらぼうに言った。アンジェリカは思いきり頬をふくらませた。しかし、すぐにあきらめたように軽くため息をつくと、鞄を胸に抱えて空を見上げた。
「私も研究所でアルバイトしてみたかったわ。どうして年齢制限なんてあるのかしら」
「サイファさんに頼めばなんとかなるんじゃない?」
 リックは思いついたことを軽い気持ちで言ってみた。しかし、アンジェリカは強く反発した。
「それはダメ!」
 けわしい表情で振り返る。
「お父さんの力とか、ラグランジェの名前とか、そういうものに頼りたくないの。自分の力だけでやっていきたいのよ」
 迷いなく、きっぱりと強い決意を口にした。
「そうだね」
 リックは素直に肯定した。にっこりとアンジェリカに笑いかける。ジークはばつが悪そうにうつむいた。
「まあ、私はしっかり勉強しておくことにするわ。ジークに負けないようにね!」
 アンジェリカは明るい声を空に弾けさせた。
「おっまえ……頑張りすぎじゃねぇか。俺、もう勝てる気しねぇ……いや、あきらめたわけじゃねぇけど……」
 ジークは口ごもりながら、あいまいにぼそぼそと言うと、顔をしかめ頭をかいた。
「私にだって譲れないものはあるわ」
 アンジェリカは急に真面目な口調になった。ジークはぽかんとして彼女を見た。彼女も大きな漆黒の瞳を、まっすぐ彼に向けた。
「ジークのことは好きだけど、絶対に負けるわけにはいかないのよ」
 そう言って、にっこりと大きく笑った。
「……あ、ああ、そうかよ」
「それじゃ、またあしたね!」
 彼女はふたりに手を振り、短いスカートをひらめかせ、元気に走り去っていった。
 ジークはその後ろ姿が小さくなるまで呆然と見送った。

「良かったね」
 リックはぽつりと言葉を落とした。
「な、なにがだ」
「好きだって」
 ほとんど点となった彼女を指さしながらさらりと言うと、頬を赤らめているジークに振り向いた。彼はますます顔を上気させ、カッと頭に血をのぼらせた。
「ば……良かねぇよ! 何の気なしに言っただけだろうが!」
「うん、まあそうだろうね」
 声を荒げむきになるなるジークに、リックは苦笑いしながら同意した。
「ったく……なんで俺がこんなうろたえなきゃなんねぇんだ、くっそぅ」
 ジークは手の甲で冷や汗を拭った。
「だいたいあいつは何であんな普通にあんなこと言いやがるんだ。まるっきりガキじゃねぇかよ。きっとあしたには言ったことすら忘れてんだぜ」
 独り言のようにぶつぶつと言いながら、腕組みをして眉間にしわを寄せる。そして、片眉をひそめ、くしゃっと髪をかきあげた。
「あー、なんかだんだん腹立ってきた」
「でも“譲れないもの”なんだよね」
 リックはにっこり笑いかけた。ジークは面くらって彼を見た。口を半開きにしたまま、再び顔が紅潮していった。
「知るかよ」
 ふてくされてぶっきらぼうに言い捨てると、踵を返し早足で歩き始めた。後ろから見ても耳まで赤くなっているのがわかる。
「待ってよ」
 リックは嬉しそうに顔をほころばせながら、駆け足で彼を追った。



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