57. 臆病なすれ違い
「ごめんね。今日はセリカと約束があるから」
リックは鞄を肩に掛けながら、ジークの席にやってきてそう言った。セリカの入学以来、放課後は彼女とふたりで図書室や食堂に寄ったり、一緒に帰ったりすることが多くなっていた。
「ああ」
「またあしたね」
ジークは座ったまま軽く返事をし、アンジェリカは小さく手を振って見送った。リックは笑顔で手を振り返すと、そそくさと教室を出ていった。アンジェリカは、彼の姿が見えなくなったあとも、ずっとその戸口を見つめていた。そして、ジークは、そんな彼女の横顔を見つめていた。
「図書室、寄ってくか?」
彼は不安を押し隠し、明るい声を作って誘い掛けると、椅子から立ち上がった。彼女は振り向くことなく、その場で目を伏せた。
「今日は帰るわ」
「そうか」
まただ——。最近、アンジェリカが自分を避けている。ジークはそう感じていた。三人一緒のときは、今までと何ら変わりなく接してくれているが、ふたりきりになろうとはしないのだ。しかし、確信があるわけではない。気のせいかもしれない。
「送ってく」
「あ、私、お母さんのところに寄っていくからいいわ」
アンジェリカは王宮の方を指さした。彼女の母レイチェルは、付き人として王妃の部屋にいる。誘われでもしない限り、ジークには行くことのできない場所だ。
「それじゃ、ね」
「ああ」
アンジェリカはぎこちなくはにかんで手を振ると、小走りで教室をあとにした。
「っくしょう……!」
ひとり教室に残されたジークは、顔をしかめながら、両手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
なんだって俺は、あんなこと——。
ジークは頭を抱え込み、がっくりと大きくうなだれた。
「アンジェリカ!」
リックはアカデミーの門の脇に立っているアンジェリカに走り寄った。
「休みの日に呼び出したりしてごめんね」
彼女は口元で両手を合わせ、申しわけなさそうにリックを見上げた。
「うん、それはいいけど、どうしたの?」
彼はにっこりと笑顔を返した。本当はセリカとの約束をキャンセルしてここへ来たのだが、それは言わないことにした。彼女がジーク抜きで自分だけをこんなふうに呼び出すなんて、今までなかったことだ。何か、よほどのことがあるに違いない。リックはそう思った。
「うん……こんな話、リックは困るだけだと思うんだけど……」
アンジェリカは歯切れ悪く口ごもった。いつもはっきりとした物言いの彼女にしてはめずらしい。
「気にしないでよ。言うだけでアンジェリカの気持ちが楽になるんだったらさ」
彼女が負担に感じないよう、リックは軽い調子で笑って返した。アンジェリカもつられるようにかすかに笑った。
「え? ジークが怖い?」
ガタン——。
バスケットボールがバックボードに当たり、リングをかすめ、外側へ跳ね落ちた。人気のない休日の校庭に、ジャッと砂をこする濁った音が鳴る。アンジェリカは小走りで跳ねるボールを追いかけていった。
「どういうこと?」
リックは彼女の背中に問いかけた。しかし返事はない。ボールをつかまえた彼女は、ドリブルで方向転換をすると、再びバスケットに向けて放った。大きなボールが、青空に大きく弧を描いていく。
ダン——。
今度はリングにぶつかり跳ね返った。ワンバウンドでキャッチすると、砂ぼこりのついたそれをぎゅっと抱え込む。
「自分でもよくわからないの」
彼女は顔に陰りを落とし、かぼそい声でつぶやいた。
「三人一緒だと平気なんだけどね。ふたりになると、急に怖くなっちゃって」
「何か、あったの?」
うつむく彼女の横顔を見つめながら、リックはできる限りの平静を装って尋ねた。
「そういうわけじゃ……だから、よくわからないのよ」
そう言って顔を上げると、困ったように肩をすくめて笑ってみせた。リックは目を伏せ、口元に手を添えると、真剣な表情で考え込んだ。
「やっぱり困らせちゃったわね」
彼女は苦笑いしながら、ゆるくチェストパスをした。
「困ってるわけじゃないよ」
リックは両手でパスを受け取ると、安心させるようににっこりと笑顔を作った。しかし、彼女は申しわけなさそうに、再び小さく肩をすくめた。
「そんなに悩んでくれなくてもいいわ。聞いてくれただけでありがたいもの」
リックは、そんなふうに気を遣う彼女がよけいに心配だった。ボールを脇に抱え、じっと彼女を見つめる。
「これからどうするの?」
「うん、いつまでも逃げているわけにはいかないわよね。とりあえずジークに謝るわ。あからさまに避けちゃったから、傷つけたかもしれないし」
じっくり考えながら、気丈にしっかりと答える。それでもリックの不安は拭えなかった。
「大丈夫なの? 根本的な解決になってないけど」
「なんとかなるわ、きっと」
アンジェリカは笑ってみせた。しかし、どこか強がりを含んでいるようにも感じられた。
リックはバスケットに向き直ると、膝のバネを使って全身でボールを投げた。まっすぐバックボードに当たり、リングを半回転すると、白いネットに吸い込まれていった。勢いを失ったボールが地面に落ちて弾む。しだいに小刻みになるバウンドを、アンジェリカはぼんやりと眺めていた。
リックは静かに口を開いた。
「ねぇ、ジークのことが嫌いになったわけじゃないよね」
「もちろんよ」
彼女ははっきりと自信を持って答えた。彼はさらに畳み掛ける。
「ジークを怖いと思う理由はわからないんだよね」
「……ええ」
今度は目を伏せ、とまどいがちに顔を曇らせた。リックはあごに手をあてると、小さく首をかしげた。
「もしかしたらさ、怖いのはジークじゃなくて、自分の気持ちなんじゃない?」
「え? 自分の気持ち?」
アンジェリカはきょとんとした顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「それが何なのか、僕にはわからないけどね」
リックはにっこりと微笑んだ。彼女は呆然とした。風が黒髪をさらさらと吹き流し、くすぐるように頬を撫でる。
自分の気持ち——。
そう思うだけで、なぜか鼓動が強く打つ。
「ジークが怖いなんて、そんなはずないよ。そう思わない?」
そう付け足したリックの言葉に、彼女ははっとした。
「……そうよね。そうなのよ。そんなことあるはずないのよ。どうして私がジークを怖がらなきゃいけないわけ?!」
次第に自分の中で怒りがエスカレートしていき、リックに向かってこぶしを握りまくし立てた。彼女の勢いにやや気押されながらも、彼は冷静に返事をした。
「でしょ? もう一度、ジークのことをよく見てみるといいと思うよ」
「……うん、そうね」
アンジェリカはにこっと笑った。ふいに足元にコツンと何かが当たった。風に吹かれてゆっくりと転がり戻ってきたバスケットボールだった。彼女はそれを拾い上げると、額のあたりからバスケットに狙いをつけ、両手で押し出すように放った。オレンジ色のボールは大きく弧を描き、まっすぐ白いネットに吸い込まれていった。
ダン——。
ボールが地面を打つと同時に、彼女はぱっと顔を輝かせ、リックに振り返った。彼も笑顔で応えた。
「入ったね」
「リックに負けられないもの」
アンジェリカは軽快な足どりで彼に駆け寄り、隣に並んだ。
「ありがとう」
後ろで手を組み、うつむいてはにかむ。
「私、リックに大丈夫だって言ってほしかったのかもしれない」
そう言って彼を見上げると、屈託なく笑いかけた。
「きのうはセリカと一緒だったのか? 何度か連絡したんだぜ」
ジークは、爽やかな朝に似つかわしくない仏頂面で小石を蹴った。
「何か用だったの?」
並んで歩くリックが振り向くと、ジークは逃げるように視線をそらせた。
「……相談ていうか……ちょっとな」
小さな声でぼそりと答える。
「なに?」
リックははっきりしないジークに、答えを促した。追い詰められた彼は、うつむいたまま目を細める。
「やっぱりいい……なんでもねぇよ!」
拒絶するように、半ば投げやりに言い捨てた。リックは迷いながらも、思ったことをぶつけてみる。
「もしかして、アンジェリカのこと?」
「……なんでだよ」
平静を装ったつもりだったが、明らかに動揺がにじんでいた。
「やっぱりそうなんだ」
リックがぽつりとつぶやいた言葉を、ジークは否定しなかった。思いつめた表情でアスファルトの地面を見つめる。
「実はさ、僕、きのうアンジェリカと会ってたんだ」
「なに?」
思いがけないリックの話に、ジークは驚きを隠せなかった。彼に振り向き、足を止める。リックもその場に立ち止まった。
「相談を受けてたんだよ。もしかして、そのことと関係があるんじゃない?」
ジークははっとした。歯をくいしばり、顔をしかめ、頭をおさえる。そして、絞り出すように声を発した。
「アンジェリカ、なんて……」
「うん……ジークが怖い、って。何かあったわけじゃなく、そう思う理由もわからないんだって」
リックは淡々と答えながらも、頭を抱える彼を、心配そうに見ていた。
「ねぇ、何があったの?」
眉根を寄せ、けわしい顔で、ジークはしばらく考え込んでいた。そして、迷いながら口を開いた。
「あいつが、転びかけたとき……とっさに後ろから抱きとめた。そしたら、なんか妙な空気になっちまって……」
「それだけ? ……じゃないみたいだね」
リックは、彼のこわばった顔を見て悟った。しかし、ジークは口を閉ざしたまま、自分から語ろうとはしなかった。
「そのとき思わず抱きしめちゃった、とか?」
「おまえっ、なんで……!」
リックの当てずっぽうを聞いたとたん、ジークは顔を真っ赤にして後ろに飛び退いた。
「あ、そうなんだ」
「ちっ、違う! ほんの一瞬なんだ! そんなつもりはなくて、本当についっていうか」
これ以上ないくらいに顔を赤らめ、あたふたとちぐはぐな言い訳をする。そのみっともなさに、自分自身ですぐに気がついた。両手でぐしゃっと髪を掴み、その場に崩れるように座り込んだ。
「俺、自分のバカさ加減がほとほと嫌になった……。何も言わねぇって決めたのに……これじゃ……」
頭を抱え込んだまま、背中を丸め、力なく消え入りそうにつぶやいた。
「それでわかったよ。アンジェリカはそのことを無意識に感じとってとまどってたんだね」
「そうじゃねぇ!」
リックが納得しかけたところで、ジークは急に強く否定した。
「そうじゃねぇんだ。あいつは、おまえのことが好きなんだよ……だから……」
「……え?」
リックは本気で聞き違えたと思った。ジークはいらついて、アスファルトにこぶしを叩きつける。
「だから! あいつが好きなのはおまえなんだよ!」
「……それ、本気で言ってるの?」
「冗談でこんなことが言えるか!」
再び地面を叩きつけ、膝に顔をうずめた。リックは怪訝な表情で、空を見上げた。
「ジークの勘違いだと思うけどなぁ」
「おまえは知らねぇだろ! おまえがセリカに会いに行くときの、あいつの寂しい顔を!」
あくまで信じようとしないリックに、ジークの怒りは高まっていく。それでも、リックはどうしても納得がいかなかった。首をかしげ、考えを巡らせた。
「思うんだけどさ、アンジェリカって、恋愛とかまだよくわかってないんじゃないかな。そういう部分、きっとすごく子供なんだと思う」
「…………」
ジークは反論できなかった。言われてみれば、確かにそういう気もする。
「だから、まだ誰のこともそんなふうに思ってるわけじゃないんだよ、きっと」
リックはそう言って、ジークににっこり笑いかけた。だが、ジークはうなだれて、こぶしを膝の上で震わせていた。
「だとしても、もう……ダメだ……」
たとえリックの言うとおりだとしても、自分が避けられているという事実は変わらない。自分の軽率な行動が招いた結果だ。すべてが終わった——。ジークは目の前が真っ暗になっていた。
「大丈夫だよ」
リックはそう言って、再びにっこりと笑いかけた。
「そんなに簡単に壊れたりしないって」
ジークの前に手を差しのべる。
「行こう。遅刻するよ」
いっそこのままどこかへ逃げ出してしまいたい。そう思ったが、ジークには逃げ出す度胸すらなかった。暗い気持ちのままリックの手をとり、重い腰を上げ、鉛の足を引きずるように歩き出した。
「おはよう」
ふたりが教室に入ると、アンジェリカが駆け寄ってきた。
「今日はちょっと遅かったわね」
「ジークがもたついちゃってね」
リックは軽く陽気に言った。からかわれているのか、責められているのか、ごまかしてくれているのか、ジークにはわからなかった。だが、本当のことを言われるよりは、はるかにいい。
「……悪かったな」
無愛想にぽつりとそうつぶやいた。
「どうしたの? 元気がないみたいだけど。体調でも悪いの?」
アンジェリカは、いつもよりおとなしいジークを見て、心配そうに顔を覗き込んだ。
「別に、普通だ」
顔をそむけ素っ気なく返事をすると、すたすたと自分の席へ足を進めた。アンジェリカはきょとんとして、彼の背中を見つめた。
「ごめんね。ちょっと機嫌が悪いみたい」
「そう……」
リックは気づかってくれたが、彼女の不安は拭えなかった。
きっと、私のせい——。
アンジェリカは顔を上げ、泣き出しそうな気持ちを胸の奥へ仕舞い込んだ。
キーンコーン——。
終業のチャイムが鳴った。
「じゃ、僕はこれで」
リックは素早く帰り支度を整えると、ふたりに手を振り教室を出ていった。
ジークは小さく舌打ちした。今朝あんな話をしたばかりなのに、何の配慮も遠慮もなく、さっさとセリカのところへ行ってしまったリックを苦々しく思った。そして、アンジェリカとの橋渡しをしてくれるのではないかと期待をしてしまった自分の甘さに腹が立った。
「ジーク」
いつのまにか、アンジェリカが席の前に立っていた。ジークは椅子に座ったまま、顔を上げることさえ出来なかった。机の上の鞄に乗せた手には、じわりと汗がにじんできた。
「図書室に寄っていかない?」
思いがけない言葉だった。とっさに顔を上げ、彼女の表情を確かめた。快活な笑顔は、まっすぐ自分へと向けられている。
「ね?」
アンジェリカはさらににっこり笑うと、ジークの瞳をじっと見つめ、腰をかがめて顔を近づけた。
「な……な……」
ジークがうろたえた声をあげると、アンジェリカは両手ではさむように、彼の両頬をビタンと叩いた。彼は呆然としたが、ヒリヒリする頬の痛みで、すぐに我にかえった。
「な、なにしやがる!!」
アンジェリカはあははと笑いながら、くるりとまわってジークから離れた。短いスカートがひらりと舞い、ふわりと落ち着く。
「ごめんね」
その一瞬、ふいに真面目な表情をのぞかせたが、すぐににっこりと柔らかい笑顔に変わった。
「……ああ」
ジークはそれだけの返事をするのが精一杯だった。
……もう、平気だから。アンジェリカは心の中で小さくつぶやいた。そして、ぱっと晴れやかな顔を上げる。
「行くんでしょ? 図書室」
はつらつと問いかけてくる彼女を見て、ジークもようやく表情を和らげた。
「ああ」
安堵の息をつき、鞄を肩に掛けながら立ち上がった。その顔には、もう暗い陰はなかった。
58. 弟
「二階の改修、完了しました」
作業着姿の若い男が、帽子をとり、ひょっこりと顔をのぞかせた。その部屋では、三人がダイニングテーブルを囲み、静かに食事をとっていた。
「ご苦労さま」
その中のひとり、ユリアは、微笑みを浮かべて立ち上がり、玄関まで彼を見送りに行った。残ったふたり、バルタスとその息子アンソニーは、黙々と食事を続けた。玄関からユリアの笑い声がかすかに聞こえた。
「アンソニー、あなたの部屋、二階に移してもいいわよ。行きたがっていたでしょう?」
ユリアは戻ってくるなり上機嫌でそう言いながら席についた。
アンソニーは、まだあどけない顔に、暗く思いつめた表情を浮かべ、沈むようにうつむいた。そして、手を止めると、重々しく口を開いた。
「二階にいた人は、どうなったんですか」
——ガシャン。
ユリアはフォークを皿の上に取り落とした。顔から血の気が引いていた。手はわななき、視線は空を泳いでいる。その表情に浮かんでいたのは、明らかに怯えだった。
「……誰も、いなかったわよ」
乾いた喉の奥から言葉を絞り出した。平静を装ったつもりだったが、その声はわずかに震えていた。
バルタスは無反応だった。ユリアを気に掛ける素振りも見せず、無言で新聞を広げた。
アンソニーは両親の態度に、ますます不信感を募らせた。顔に苦悩の色を浮かべると、ためらいながらも、心の中に秘めていた疑念を切り出した。
「あのとき、二階の部屋を壊して出てきた包帯の人……僕の姉なんじゃ……」
「黙りなさい」
ユリアは冷たくピシャリと言い放ち、刺すように睨みつけた。
アンソニーはびくりと体をこわばらせた。それでも母親の言いなりにはならなかった。おそるおそる言葉を紡いでいく。
「僕には、姉がいた。そんな記憶がかすかにあります」
「うるさい!!」
彼女はまるで悲鳴のような叫び声をあげて立ち上がると、大きく手を振り上げ、アンソニーの頭をなぎ払った。彼の華奢な体は、吹っ飛ぶように椅子から転げ落ち、床に倒れ込んだ。
「いないったらいないのよ!!」
ユリアは怒りまかせに机のへりにグラスを叩きつけ、次々と割っていった。バリン、ガシャン、と派手な音が部屋中に響いた。
アンソニーは軽い脳震盪で起き上がることができないでいた。その上に、容赦なくガラスの破片が降り注いでいく。鋭利な破片のいくつかは、彼を切り、血をにじませた。
「うっ……」
倒れ伏したままの少年から、わずかに苦悶のうめきが漏れた。
ユリアはそれを耳にすると、はっと我にかえった。自分が起こした行動の結果を目の当たりにし、息をのんだ。
「く……うっ……!」
喉を詰まらせたような唸り声を発すると、彼女は両手で顔を覆い、嗚咽を始めた。
「お願い……お願いだから、いい子でいて……! こんなことさせないで!!」
膝から崩れ落ち、体を折り曲げ、背中を震わせる。
「あなたを愛しているわ。だから——」
アンソニーは薄れゆく意識の中で、ぼんやりと母親の言葉を反芻した。
バルタスの新聞をめくる音が、静まった部屋に響いた。
外から聞こえる小鳥のさえずりが、気持ちを晴れやかにさせる。その日はそんな朝から始まった。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
レイチェルは愛くるしい笑顔でサイファを見上げた。彼は、薄桜色の頬に軽く口づけし、重い扉を押し開けた。
——ゴン。
鈍い音と同時に、扉を開ける手に抵抗を感じた。向こう側で何かがぶつかったらしい。ふたりは顔を見合わせた。
サイファは薄く開いた隙間から首を出し、用心しながら外を窺った。
「君は……!」
そこには、額を押さえた少年がうずくまっていた。
「こんな朝早くに、お客さん?」
二階から降りてきたアンジェリカは、来客用のティーカップにお茶を注ぐ母親を見て、不思議そうに尋ねた。
「ええ、ほら、早く行かないと遅れるわよ」
レイチェルは動揺することなく答え、さりげなく会話をそらせた。アンジェリカは掛時計に目をやると、小さくあっと声を漏らした。
「行ってきます!」
「気をつけて」
「え?」
玄関に向かおうと急いでいたアンジェリカは、思わず足を止め振り返った。気をつけて、という言葉に引っかかりを感じたのだ。普段はこんなことを言わないのに……。怪訝な顔で母親を見つめた。
「行ってらっしゃい」
レイチェルはにっこりとして言い直した。アンジェリカは少しとまどっていたが、もう一度「行ってきます」と言い、玄関へ走っていった。
レイチェルがサイファの書斎に入ると、少年はあわてて額の濡れタオルを取り、ソファから立ち上がった。
「すみません」
「いいえ」
ペコリと頭を下げた少年に、レイチェルは穏やかに微笑みかけ、お茶を差し出した。そして、再び座るよう促した。
サイファは、皮張りの柔らかい椅子に腰掛け、大きなデスクにひじをついた。ソファに座る少年をじっと見つめる。彼は行儀よく背筋をぴんと伸ばし、緊張した面持ちでサイファを窺っていた。
「念のため確認するが、バルタスの息子、アンソニーだな」
「はい。すみません、こんな時間に……」
アンソニーは畏縮し、肩をすくませ小さくなった。
サイファはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「おかげで仕事には遅刻だよ」
「すみません……」
「もう、サイファったら」
レイチェルはサイファをたしなめた。彼女にはいたずら心からの言葉だとわかるが、この少年にはそのような余裕はないだろう。
サイファは笑いながらすぐに撤回した。
「ごめんごめん、気にしてないよ。それより……」
声のトーンが真剣なものに変わった。アンソニーはびくりとした。
「何か話があって来たのだろう?」
サイファは、身をすくめる少年の瞳を探った。だが、アンソニーは無言でうろたえるばかりだった。覚悟も決まらないまま、ここに来てしまった。そして、この場でもまだ迷っていた。額にうっすら汗がにじんできた。
レイチェルは、後ろから彼の肩に優しく手をのせた。
「緊張しなくてもいいのよ。それとも、私は出てましょうか?」
「いえ! いてください!」
少年はあわてて振り返り、幼さの残る顔で、すがるようにレイチェルを見上げた。サイファとふたりきりにされては、ますます何も言えなくなってしまいそうだった。
「わかったわ」
彼女はアンソニーの隣に腰を下ろし、覗き込むようにしてにっこりと笑いかけた。
彼は再びうつむいた。固く口を結び、何かを懸命に考えているようだった。やがて、意を決したように顔を上げると、まっすぐサイファに目を向けた。
「僕は、真実を知りたいんです」
サイファは冷静な表情で彼を見つめた。続きを促しているようだった。
アンソニーはもう逃げなかった。サイファの視線を受け止め、しっかりとした口調で話し始める。
「一年前、僕の家の二階を壊して出てきた人がいるんです。誰なんですか? なぜあそこにいたんですか? もし、何か知っていたら教えてください。両親は何も話してくれません。でも、様子がおかしくて……何かを隠していると思うんです」
一気にそれだけ話しきると、強い光を宿した瞳で訴えた。
サイファはため息をつき、物憂げに遠くを見やると、噛みしめるように静かに言った。
「真実か……」
そして、厳しい表情をアンソニーに向けた。
「真実は時として残酷なものだよ。知らない方が良かった、ということもあるかもしれない」
隣で聞いていたレイチェルの表情に、一瞬、翳りが落ちた。
「君にはそれを受け止める覚悟があるか?」
サイファは少年の瞳の奥に問いかけた。蛇に睨まれた蛙のように、アンソニーは身がすくんで動けなくなった。恐怖心が彼を呑み込む。喉はからからに乾燥し、手先足先は感覚をなくしていた。それでも、真実を知りたいという強い思いが、彼をつき動かした。膝にのせたこぶしをぎゅっと握りしめた。
「僕の家で起こったことだから……知らなければいけないんじゃないかって……」
「知ってどうする」
ようやくの返答を即座に切り返され、今度こそ答えに窮した。うつむき、眉根にしわを寄せ、唇をきつく噛みしめた。膝にのせたこぶしは、小刻みに震えていた。何か答えなければ……そう思うものの、頭が真っ白になり、何も考えられなかった。
サイファは紙とペンを取り、さらさらと走り書きをした。そして、それを二つに折ると、アンソニーに差し出した。
「君が探し求める人は、ここにいる」
アンソニーは顔を上げ、きょとんとした。
「私がしてやれるのはここまでだ。あとは君次第だよ」
「ありがとうございます!」
顔をぱっと輝かせ、デスクに走り寄った。サイファの手から紙切れを受け取ると、ペコリと頭を下げた。震える手でそっと紙を開く。そこには、どこかの住所が書かれていた。
「ひとつ言っておくが、そこは男子禁制だ。気をつけるんだぞ」
「男の子は入っちゃダメってことよ」
目をぱちくりさせているアンソニーを見て、レイチェルがくすりと笑って付け加えた。
「アンソニー」
「はい」
サイファの呼びかけに、アンソニーはしっかりと返事をした。
「両親とは仲良くやっているか」
その質問に一瞬ぽかんとしたが、すぐににっこりと微笑んで見せた。
「はい、僕のことを愛してると言ってくれます」
「そうか」
サイファもにっこりと微笑み返した。
「ユールベルっ!」
寮の門をくぐろうとしていたユールベルは、無言で振り返った。それと同時に、呼びかけたターニャが、後ろから飛びつくように腕を絡ませてきた。からりと笑顔を弾けさせている。ユールベルもつられてかすかに口元を緩めた。
「今日はひとり? レオナルドは?」
たいていは一緒にいるはずの彼がいないことに気がつき、ターニャはあたりを見回しながら尋ねた。ユールベルは前を向いたまま、ぽつりと言った。
「補習」
「補習っ?!」
ターニャの声は裏返った。アカデミーで補習など、今まで聞いたことがなかった。
「進級がやばかったとか?」
「そうみたいね」
ユールベルは淡々と答えた。
「じゃあさ、久しぶりにふたりでアイス食べに行こっか」
「あなた、本当にアイスクリームが好きね」
ユールベルの声は、少し呆れたような調子だったが、ターニャは気にしなかった。断らなかったことを、肯定の返事と捉えた。
「決まりね! 鞄だけ置いてこよ!」
明るく笑って強引に話を進めると、ふたりで腕を組んだまま門をくぐった。
玄関ポーチに差しかかったところで、突然、脇の植え込みから何かが飛び出してきた。ふたりはとっさに飛び退いて、防御の姿勢をとった。
「だ、誰?!」
ターニャが少しうろたえたように呼びかけた。
それは、猫や犬ではなく、人間だった。まだあどけない顔の少年である。澄んだ青の瞳は、まるで疑うことを知らない子供のようだった。そして、細く柔らかい金髪には、いくつもの木の葉が絡みついている。植え込みのものだろう。
ユールベルは息を止め、目を見開いた。
「君! 男の子は入ってきちゃダメなのよ。そんなところで何してたの」
ターニャは叱るようにそう言った。
しかし、少年の耳にはまるで届いていないようだった。彼はユールベルだけを見ていた。彼女に向かって、一歩、前に進み出る。
「僕は、アンソニー=ウィル=ラグランジェです。あなたは?」
ユールベルは固まった表情のまま、何も答えなかった。
「あなたは、僕の姉ではないんですか?」
「……私に、家族はいない」
こわばった口元から、小さな声を漏らした。
アンソニーは、その答えに納得しなかった。
「僕は二階に行ってはいけないと、ずっと言われてきました。その二階を壊して出てきたのはあなただった。そのときのことは覚えています」
「知らない……」
「なぜなんですか? 何があったんですか? どうなっていたんですか?」
「やめて! 関係ないわ!」
次々とに畳み掛けてくるアンソニーの勢いに、ユールベルは取り繕う余裕をなくした。おびえたように頭を抱え込み、小刻みに何度も横に振り続けた。
「待って、待って!」
ターニャがふたりの間に割って入った。
「君たちの間に何があったか知らないけど、ここで言い争うのはまずいわ」
ふたりの肩を軽く叩き、交互に目を見ると、ねっ、と同意を求め、落ち着かせた。
「君が必死なのはわかるけど……」
そう言いながら、アンソニーを見てくすりと笑い、髪に絡みついた葉っぱを取ろうと手を伸ばした。
そのとたん、彼は顔をこわばらせ、固く目をつぶり、肩をすくませ、体を硬直させた。
ユールベルははっとした。
——まさか、この反応。
どくんと強く心臓が打った。嫌な予感に、体中から汗がにじんだ。
「見せて!」
短くそう言うと、唐突にアンソニーに掴みかかった。
「ちょっと、ユールベル?!」
ターニャの制止も聞かず、ユールベルは乱暴に彼の上衣をまくり上げた。そして、あらわになった背中に目を落とす。
——やっぱり……!
ぎゅっと服を掴んだ彼女の右手は、小刻みに震え出した。
「どう……して……あなたは幸せなはずだと……」
「これって、まさか……」
ターニャは眉をひそめた。
彼の背中や脇腹には、いくつかの古い傷跡、そして最近のものと思われる切り傷と打撲の痕があった。
アンソニーは困惑して、上目づかいでふたりを見た。
「あの、これは……僕が良い子じゃなかったから……」
「違う! 良い子とか良い子じゃないとか……誰にもこんなことをする権利なんてない!」
ユールベルは唇を噛みしめ、涙をにじませた。しかし、すぐに手の甲でそれを拭い、表情をキッと引き締めると、アンソニーの手を引き走り出した。
「どこ行くの?! ねぇ、ユールベルっ!」
「来ないで!」
あとを追おうとするターニャを、強い語調で牽制すると、そのまま走り去って行った。
「どこへ行くんですか」
不安がるアンソニーの質問にも答えず、ユールベルは彼の手を引き走り続けた。アカデミーを突っ切り、王宮へと駆け込んでいく。
「ラウル!」
医務室の扉を開くなり、声の限りに叫んだ。そして、アンソニーを中へ押しやり、背中をまくって見せた。
「この子を助けて」
真摯にまっすぐラウルを見つめる。
「そういうことか」
彼はそれを見るなり、彼女の言わんとすることを悟った。机にひじをのせ、小さくため息をついた。
「その傷と打撲の手当てはする」
ユールベルは眉をひそめた。彼は無表情で言葉を続けた。
「だが、それ以上のことは求めるな。サイファに頼め」
「いまさら、おじさまにどんな顔をして会えっていうの。あなたしかいないから、だから頼んでいるのに!」
「だったら、あきらめるんだな」
——パン!
ユールベルは、彼の頬に大きく平手打ちをした。奥歯を噛みしめ、激しく睨みつける。
「勝手に助けたかと思えば、冷たく突き放したり……いつも勝手で気まぐれで……」
唸るようにそう言うと、目に溢れんばかりの涙をため、浅い呼吸を繰り返す。
「やっぱりあなたなんて大嫌い!」
精一杯の声で叫ぶと、大粒の涙をこぼしながら、もういちど平手打ちをした。ラウルはなすがままでそれを受け止めた。左頬にはわずかに赤みがさしていた。
ユールベルはくるりと踵を返すと、アンソニーの手を引き、走って出ていった。
——どうしよう。
ラウルの医務室から離れると、途方に暮れて壁を背に座り込み、ぐったりとうなだれた。
アンソニーはその隣に膝をつき、心配そうに覗き込んだ。
「姉さん……」
「違う」
彼女は否定した。しかし、アンソニーはそれを信じなかった。
「だって、僕のことでこんなに一生懸命になってくれている」
ユールベルはさらに頭を沈めた。
「……あなたのことを憎んでさえいたのに……あなたひとり幸せだと……」
アンソニーは当惑した。彼女の言うことがよくわからなかった。しかし、なんとか元気づけようと笑ってみせた。
「僕は大丈夫。怒られたのは僕が悪かったからなんです。母さんは僕を愛してくれているって」
「違うわ。愛していたら、そんなことはしない」
ユールベルはゆっくりと静かに、だが、はっきりと言い切った。
アンソニーの顔に怯えたような色が浮かんだ。彼も、今まで何の疑問も持たなかったわけではない。ただ、そう信じることで耐えてきたのだ。しかし、それも今、崩れ去ろうとしていた。
ユールベルは彼をじっと見つめると、立ち上がり、その手を強く握った。
「おじさま……」
ユールベルはおそるおそる扉を開けた。魔導省の塔、最上階の一室にあるサイファの部屋。広くはないが、整然と片付けられている。その奥に彼は座っていた。訪問者に気がつくと、立ち上がって出迎えた。
「やあ、ユールベル。久しぶりだね。アンソニーも一緒か」
サイファの、以前と少しも変わらない笑顔に、ユールベルの胸は締めつけられた。アンソニーはぎこちなくおじぎをした。今朝、押し掛けたばかりのサイファに、成り行きとはいえ再び助けを求めることになってしまい、アンソニーはばつの悪さを感じていた。
「私が今さらおじさまに会わす顔なんてないってことは、わかっているわ」
ユールベルはうつむき、つらそうに顔を歪ませた。
「でも、この子を助けてほしくて……この子は私と同じなの!」
必死にそう訴えかけると、再度アンソニーの上衣をまくって背中を見せた。
サイファは驚いたように目を見開いた。
「まさか……」
思わずそんな言葉が口をついた。今まで少しも気がつかなかった。彼とは滅多に顔を会わすことはないが、少なくとも今朝は対面して話もした。両親のことも尋ねた。それなのに気づけなかったのは、不覚といわざるをえない。
「あの、これは、僕が言うことをきかなかったからで……」
「そんなの関係ないって言ってるでしょう?!」
ユールベルは涙声で叫んだ。
サイファは片膝をつき、アンソニーの小さな肩に手をのせた。そして、まっすぐに彼と視線を合わせた。
「母親につけられた傷なんだな?」
「……はい」
アンソニーはとまどいながらも、わずかに頷いた。
「おじさま……」
ユールベルはすがるようにサイファを見つめた。彼女にとって、頼る人はもう彼しかいない。断られたら——そう思うと怖くてたまらなかった。
サイファは立ち上がり、腕を組むと、ゆっくりと彼女に顔を向けた。
「君が、守るんだ」
「え……?」
「アンソニーが家を出る。君が寮を出る。そして君たちがふたりで暮らす」
「えっ?!」
「ユールベルがアカデミーに行っている間は、そうだな、アンソニー、君も学校へ通うか。なに、生活費の心配はいらないよ。両親にきっちりと出させるからね」
サイファは大きくにっこりと笑いかけた。
呆気にとられていたユールベルは、我にかえると必死で訴えた。
「無理! そんなのできないわ!! 私がこの子の面倒を見るなんて!!」
目をきつくつぶり、首を大きく横に振った。
サイファは彼女の頬を両手で包み込み、自分に顔を向けさせた。真剣な表情で、彼女の瞳を覗き込む。
「私もできうる限りの助力はする。しかし、彼を守ってやれるのは君しかいないんだよ、ユールベル」
頬から沁み入る優しい温もりが、彼女の心を落ち着けた。少し考えたあと、静かに尋ねた。
「私ができないって言ったら、どうなるの?」
「施設へ預けることになるだろう」
「…………」
その方が彼のために良いのではないか、ユールベルはそう考え始めていた。何もできない自分よりも、施設の方が適切にケアをしてくれるはず……。
「あの、僕は、どうしても家を出なくてはいけないんだったら、施設へ行くよりも、姉さんと暮らしたい」
横からアンソニーがおずおずと話しかけてきた。ユールベルは表情を凍らせた。
「私に家族はいないわ。何度言わせるの」
「あなたが姉でないというなら、それでもいいです。でも、僕は、あなたといたいです」
まっすぐに自分を見つめてくる、まっすぐなアンソニーの言葉に、ユールベルは押しつぶされそうだった。
「……どうして……今日、会ったばかりじゃない……」
うわ言のようにつぶやいた。
アンソニーは無邪気な顔で笑った。
「僕のことにこんなに一生懸命になってくれている。だから、姉さんはいい人に違いないです」
ユールベルは、一瞬、言葉をなくした。
「……バカよ。どこまでお人好しなのよ。なんにも知らないくせに……。それに私は姉さんじゃないって……」
そこで言葉が途切れた。そして、うっと小さくうめき声をあげたかと思うと、両手に顔をうずめ、泣き崩れた。サイファは彼女の前に膝をつき、震える細い両肩に手をのせた。
「ユールベル、君ならできるよ。君は優しくて強い子だ」
「おじさまっ!!」
ユールベルはサイファにすがりついて泣いた。まるで子供のように、大声をあげて泣きじゃくった。サイファは彼女を優しく撫でた。
やがて、ユールベルは泣き疲れ、次第にすすり泣きへと変わっていった。その間、サイファはずっと彼女を支え、頭を抱いていた。
「何かあったら、些細なことでも、遠慮なく相談しにおいで。アンソニー、君もだ」
ユールベルは彼の腕の中で小さくうなずいた。アンソニーも、その隣でこくりと頷いた。
「私、おじさまの子供に生まれてきたかった」
「父親と思ってくれて構わないよ」
ユールベルは涙が止まらなかった。
大きな窓の外では、紅の空に沈みゆく斜陽が、一筋の輝きを放っていた。それは、部屋の中にも差し込み、三人の姿を赤く照らすと、長い長い影を作った。
「あ……」
ジークは小さく声をあげ、足を止めた。アンジェリカとリックには、すぐにその理由がわかった。
「久しぶりに嫌なヤツに会っちまったぜ」
ジークは、思いきりしかめた顔を、相手に見せつけた。
「それはこっちのセリフだ」
向かいから歩いてきたレオナルドも、同じく顔をしかめて言い返した。隣のユールベルは、無表情で三人を見ていた。
「おまえが同学年でなくてつくづく良かったぜ。毎日、顔を会わすなんて反吐が出る」
ジークは虫の居所が悪いのか、いつになく突っかかり毒づいた。レオナルドも負けじと応戦する。
「同感だ。せいぜい留年しないよう気をつけてくれよ」
「あら、知らないの?」
アンジェリカが割り込んだ。
「ジークは、こう見えても優秀なのよ。意外と真面目だし。心配しなくても留年なんてしないわよ」
ジークは複雑な顔で腕を組んだ。
「おまえ……フォローはありがてぇけど、その言い方、なんか引っかかる……」
「え? なにが?」
彼女に他意はないようだった。
「ねぇさーん!!」
アンジェリカよりもやや小さいくらいの少年が、大きく手を振り玄関から入ってきた。そして、ユールベルのもとへ走り寄った。
「勝手に入ってきちゃダメって言ってるじゃない」
「じゃあ早く帰ろう」
少年は、にこにこしながら彼女の手を引いた。
「それに姉さんて呼ぶのはやめてって」
「だって、姉さんは姉さんだし」
そんな会話をしながら、ふたりは外へ出ていった。
「弟……いたの?」
呆気にとられていたリックが、アンジェリカに振り向いて尋ねた。
「あの子、見たことある気はするけど……」
彼女も驚いていたようだった。
「なんだ、テメーは一緒に帰らねぇのかよ。弟にとられたか」
ジークはレオナルドを意地悪くからかった。彼はムッとして睨みつけた。
「バカを言うな。俺は……他の用があるだけだ」
「おーい!」
ターニャが廊下の向こうから、手を振ってやってきた。そして、あたりを見回しながら尋ねた。
「ユールベルは?」
レオナルドはむっとしたまま、親指で外を指した。その方向に目をやると、ユールベルの後ろ姿が遠くに小さく見えた。ちょうどアンソニーに手を引かれて門を出るところだった。
「あーもう。せっかく一緒に帰ろうと思ったのに。せっかちだなぁ、弟クンは」
「どうなっているの?」
アンジェリカはターニャを見上げた。
「ああ、君たちは知らなかったんだっけ。ユールベルは寮を出て、弟と一緒に住んでるのよ」
「えぇっ?!」
「どうして?」
「大丈夫なのかよ!」
三人は口々に尋ねた。ターニャはくすりと笑った。
「詳しいいきさつは聞いてないけどね。でも元気にやってるわよ。寮のすぐ近くだから、ウチの寮母さんがまめに面倒を見に行ってるみたいだし、私たちもしょっちゅう遊びに行ってるから」
そう言うと、ふと表情を和らげた。
「私はさびしくなったけど、あの子にとっては良かったんじゃないかなって思う。表情が明るくなったもの」
「自分の気持ちを押しつけるだけじゃ、ダメだったってことだな」
ジークはあさっての方を向き、とぼけた調子でしれっと言った。誰とは言わなかったが、レオナルドのことを指しているのは明らかだった。彼は耳元を赤らめ、奥歯を軋ませると、ジークをキッと睨みつけた。しかし、返す言葉はなかった。
ターニャはふいにレオナルドに振り返った。
「そういえば、こんなところでのんびりしてていいの? 君、補習でしょ?」
「……補習?!」
三人はいっせいに声をあげ、レオナルドを見た。彼は思いきり狼狽し、ますます顔を上気させると、逃げるように走り去っていった。
59. 個人指導
「……勝てねぇ」
貼り出された試験結果を見て、ジークはがっくりうなだれた。今回は今まで以上に、そしてこれ以上はないくらいに、懸命に取り組んだ。今年こそはアンジェリカに勝ちたい、その一心だった。しかし、結果はいつものように、アンジェリカがトップである。
「そんなに落ち込むことないじゃない。ジークが頑張っていたのは知っているけど、私だって頑張ったんだから」
アンジェリカは慰めるふうでもなく、さらりと軽く言った。当然と言わんばかりの口調である。ジークは同意することも反論することもなく、無言で肩を落としたままだった。
——習ったことばかりやっていても駄目だ。
いつかのラウルの言葉が、ふいに頭をかすめた。もちろん、習ったことばかりでなく、独学でもいろいろとやってきたつもりだ。しかし、やはり自分ひとりでは限界があるのではないか。
「ジーク?」
うつむいたまま無反応のジークを、アンジェリカは心配そうに覗き込んだ。
「そうとうショックを受けてるみたいだね」
リックは苦笑いした。
「よし! 決めた!」
突然、ジークは右のこぶしをぐっと握りしめ、ぱっと顔を上げた。暗く淀んでいただけの先ほどまでとはまるで違う、何かを吹っ切ったような表情。そして、その瞳には強い決意がみなぎっていた。
「決めたって、何を?」
アンジェリカは驚いて、少し引きぎみに尋ねた。ジークは彼女の鼻先に、ビシッと人さし指を突きつけた。
「もう勝つためには手段を選ばねぇ! 見てろよ!」
そんな捨てゼリフを残し、ドタバタとアカデミーの中へ走り去っていった。残された二人は、呆然と彼の背中を見送ると、互いに顔を見合わせた。
「手段を選ばないって、どういうことなの?」
「さぁ。たいしたことじゃないと思うけど……」
再び廊下の奥ヘ目を向けたが、もう彼の姿は見えなくなっていた。
「ラウル!!」
ジークは医務室の引き戸を開くと同時に、興奮ぎみに声を上げた。ラウルは机に向かい、カルテの整理をしていた。騒々しいジークの登場にも、まるで反応を示さず、一瞥をくれることすらなかった。
ジークは医務室に踏み入ると、さらに感情を高ぶらせ、ラウルの横顔に向かって思いつめたように訴えた。
「俺に……俺にもっと魔導を教えてくれ!」
「断る」
ラウルの返事はにべもないものだった。ジークはしばらく唖然としていたが、次第に沸々と怒りがこみ上げてきた。
「こっちだってテメェなんかに頼りたくねぇよ! でも仕方ねぇから頭を下げて頼んでるんだぜ。もうちょっと考えてくれてもいいじゃねぇか!」
「それはおまえの都合だ」
「ぐっ……」
ジークは言葉に詰まった。歯を食いしばり、額にうっすらと汗をにじませる。
「そ……それでも引き下がるわけにはいかねぇんだ!」
ラウルはくるりと椅子をまわし、ジークに向き直った。机に片ひじをつき、長い脚をおもむろに組むと、じっと彼を見上げた。
「なぜそこまで魔導を学びたいと思う」
「……しょ、将来のためだ」
「嘘つきに用はない。帰れ」
ラウルは再び机に向かうと、カルテ整理の続きを始めた。
ジークは、頭から熱湯と冷水を一度に浴びせられたかのように感じた。慌てふためき、顔を紅潮させながら、再び訴えかけた。
「待ってくれ! あの、えっと……アンジェリカに勝ちてぇんだよ!!」
「おまえの青くさい理由につきあってやる義理はない。帰れ」
ラウルは手を止めることもなく、冷たい拒絶の言葉を返すだけだった。
ジークは怒りでさらに顔を赤くした。まるで無関心のラウルに、声を荒げて噛みつく。
「じゃあどんな理由だったらいいんだよ!!」
「やあ、ラウル」
突然、聞き覚えのある声が割り込んだ。開き放たれたままの戸口から、サイファが顔を覗かせていた。
「ジーク君も。こんなところで会うとは奇遇だな」
にこにこと人なつこい笑顔を振りまき、遠慮なく歩み入ってきた。ジークは驚きながらも、わずかに頭を下げた。
「何の用だ」
ラウルは、笑顔の訪問者を思いきり睨みつけた。
「つれないな。たまには足を運べと言ったのはおまえだろう」
サイファはおどけたようにそう言うと、立てかけてあった折り畳みパイプ椅子を広げ、ラウルとジークの間に腰を下ろした。ラウルはあからさまに不機嫌な様子で、さらに激しく睨みつけた。
「用もないのに来いとは言っていない」
それでもサイファはまったく動じることはなかった。余裕の笑顔を崩すことなく、ラウルに向き直った。
「ホット二つ頼むよ」
「喫茶店に行け」
「おまえが淹れたコーヒーが飲みたいんだよ」
サイファはにっこりと邪気なく笑いかけた。ラウルはため息をついて立ち上がり、奥の自室へと引っ込んでいった。
あのラウルが、いいようにあしらわれている……。
ジークはありえないものを見たような不思議な気持ちでいっぱいだった。目の前のことが信じられなかった。
「ジーク、君も座ったらどうだ」
「あ、はい」
ジークもパイプ椅子を広げ、サイファの隣に座った。
「君はどうしてここへ?」
サイファに問われて、ジークはぎくりとした。緊張で顔がこわばる。
「ラウルに個人的に指導をしてもらおうと思って……」
「ずいぶん思いきった決断だな。どういう心境の変化だ?」
彼がラウルを嫌っていることは、サイファも知っていた。そんな嫌いな相手に教えを請うなど、よほどのことに違いない。そう考えるのは当然のことだろう。
「ア……アンジェリカに、どうしても勝ちたくて……」
ジークはびくつきながらも正直に答えた。ラウル同様、サイファも嘘が通じる相手ではないと感じたからだ。だが、こんなことを言って気を悪くしないだろうか……。彼は不安で息が詰まりそうになった。
「そうか」
サイファはそう言って笑った。
「君の気持ちはわかるよ。男として」
ジークは安堵すると同時に、居たたまれない気持ちになった。まるで、自分の気持ちをすっかり見透かされているようである。しかし、この場から逃げることはできない。上気した顔を隠すように、深くうつむくだけだった。
ガタン。
ラウルがコーヒーカップをふたつ持って、奥から出てきた。
「飲んだらさっさと帰れ」
ぶっきらぼうにそう言うと、机の上にカップを置いた。サイファはその片方をジークに差し出した。
ふたつって、ひとつは俺の分だったのか……。
彼は恐縮しつつ受け取った。なんてことはない、ごく普通のコーヒーのようだ。ラウルの淹れたコーヒーか、と奇妙な気分でひとくち飲んでみる。ぴくりと眉が動いた。意外にも、今まで飲んだどのコーヒーよりもおいしかった。
「ジークを教えることにしたんだって?」
サイファはゆったりと目を閉じ、コーヒーの香りを楽しみながら尋ねた。ラウルはムッとしながら、椅子に身を投げた。
「引き受けた覚えはない」
「引き受ければいいだろう」
「私は暇ではない。軽く言うな」
ラウルはこれ見よがしにカルテを手に取った。サイファは涼しい顔でコーヒーを口に運び、一息ついて彼を見上げた。
「医者はおまえひとりじゃない。それに、雑用くらいならジークが手伝ってくれるさ。ルナはもう少し長く預かってくれるよう、私からアルティナさんに頼んでおこう。他に何かあるか?」
一気にそう言うと、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。ラウルは、凍りついた瞳で、刺すように睨みつけた。それから、疲れたようにため息をつくと、カルテを机に投げ置いた。
「一ヶ月だけだ。それに試験対策はしない。完全な実戦訓練だ」
「なるほど。そうでなければ、他の生徒に対して不公平になると考えてだな」
サイファは真面目な顔でうなずき、ジークに振り返った。
「どうする? この条件でやるか?」
「あ……はい! ありがとうございます!」
ジークは座ったまま、大きく頭を下げた。
「行くぞ。早く支度をしろ」
ラウルは立ち上がり、ジークを見下ろした。
「今からかよ?!」
「私が厳しいことくらい知っているだろう」
ジークはさっそく後悔しそうになっていた。
「頑張れよ、ジーク」
サイファはジークの肩をポンとたたいた。ジークはペコリと頭を下げた。
「いろいろとありがとうございました」
「暇があれば様子を見に行くよ」
サイファはにっこり笑いかけると、ラウルに目を移した。
「アルティナさんには話をしておくよ」
しかし、ラウルは返事をすることなく、サイファを睨みつけただけだった。それでも彼はまったく気にしていない様子だった。にっこりと笑顔を返すと、王宮の奥へと消えていった。
ラウルは無言で歩き始めた。ジークもそのあとに続く。
「どこへ行くんだ?」
「来ればわかる」
アカデミーへ入り、渡り廊下を渡りきると、白く四角い建物の前へやってきた。道場だ。魔導耐性に優れた、また物理的にも頑丈な建物である。通常、実際に魔導を使った訓練時に使用する。実戦訓練を行うと宣言したラウルがここを選んだのは当然だろう。
入口の大きな南京錠を開け、ふたりは中へと足を踏み入れた。何もない真っ白なだけの四角い部屋。拠り所になるものが何もないせいか、不安定な気持ちになる。足元がふわふわとしているような感覚。異空間に来たような錯覚にさえ陥る。
「授業でも言ったことがあるが」
大きく反響したラウルの声が、ジークを現実に引き戻した。
「魔導と身体能力は関係ないと思われがちだが、身体能力が低くては、実戦では使いものにならない」
ジークは真剣なまなざしを彼に向けた。
「一対一の戦いでは言うまでもないが、後方支援の場合でも、相手に的確に対応するためには、判断力、瞬発力、動体視力、魔導力のどれが欠けても致命的だ。さらに戦いが長引けば、持久力がものをいう。魔導力が残っていても、体力がなくなれば、攻撃することも防御することもできない」
「ああ」
ここまでは何度か授業でも聞いた話だった。
「腹筋 200回、背筋 100回、腕立て伏せ 200回、スクワット 100回、ランニング 50周」
「……は?」
ジークはぽかんとして固まった。ラウルは腕を組み、冷たい視線を送った。
「やるのか、やらないのか」
「やるよ! やりゃいいんだろ!」
ジークはむくれながら、ただっ広い部屋の真ん中で、ひとりさびしく腹筋を始めた。
「……50周! これで終わったぞ!」
ぜいぜいと息をきらせながらそう叫ぶと、崩れるようにその場にへたり込んだ。白く冷たい床に、ぽたぽたと汗が流れ落ちる。情けなくへばった少年を、ラウルは冷ややかに見下ろした。
「時間がかかったな」
「るっせー。テメーがやってみろってんだ」
両手両足を投げ出して仰向けになり、胸を大きく上下させながら真っ白な天井を見つめた。
「次は実戦形式だ」
ジークはげほげほとむせた。
「今すぐかよ!」
上体を起こし、すがるようにラウルを見上げる。彼は無表情で視線を返した。
「10分休憩。水分の補給をしておけ」
感情なくそう言うと、大きな足どりで道場の外へ出ていった。ジークはほっとして息をついた。
10分が経ち、ふたりは再び道場の中央で向かい合っていた。
「で、どうやるんだよ。実戦形式って」
ジークは短い休憩で、すっかりやる気を取り戻していた。何よりも魔導を使えるのが嬉しかった。単なる体力づくりよりも、ずっと楽しい。
ラウルは腕を組んで、まっすぐジークを見据えた。
「私を殺す気でかかって来い。一発でもかすめられたら、今日の訓練は終わりだ」
「願ったり叶ったりだぜ」
ジークは不敵にニヤリと笑ってみせた。そして、即座に軽いステップで後方に下がり、ラウルとの間合いをとった。彼から目を離すことなく、短く呪文を唱え、両の手を向かい合わせる。すると瞬時に光が集まり、頭の大きさほどの光球になった。
「やぁっ!!」
気合いを入れて叫び、ラウルに向けそれを放出した。
しかし、すでに彼は前面に薄い結界を張っていた。
ドッ——。
光球が結界に衝突し、鈍い音を立てた。大気が激しく振動する。あたり一面に白煙が巻き上がった。
ジークは間髪入れずに、次の呪文の詠唱に入った。顔前で両手を向かい合わせ、その間に光を集めていく。
「ぐあっ!!」
突然、ジークは濁った悲鳴を上げ、吹き飛ばされるように後ろに倒れ込んだ。白煙の中から伸びた光の帯が、彼の左腕を直撃したのだ。焼けるような痛みが彼を襲う。袖が落ち、剥き出しになった上腕部は、真っ赤になり、さらに裂傷をも負っていた。ゆっくりと血が滴り、白い床に赤い点を描いていく。
「攻撃に気をとられ防御をおろそかにするなど、新入生レベルだな」
次第に煙が晴れていき、その向こうからラウルが姿を現した。あきれ顔でジークを睨みつけている。
ジークは言い返すことができなかった。ラウルの言うとおりだ。攻撃を当てることばかりに熱くなり、防御のことは完全に思考から抜け落ちていた。しかし、これで頭が冴えてきた。
「テメーも俺を殺すつもりってことか」
「自惚れるな。そのつもりなら、おまえなどとっくに死んでいる」
ジークは勢いをつけて飛び起き、それと同時に炎を放った。不意打ちのつもりだったが、ラウルは慌てることなく結界を張り、それを防いだ。
——正面からじゃ、いくらやっても無理だな。
ラウルを睨みつけたまま呪文を唱え、右手を前に突き出す。ジークの前面に、かすかに青みがかった結界が張られた。かなり厚い。向こう側が屈折して見える。
ラウルは腕を組んだまま、無言で成り行きを眺めていた。
ジークはさらに別の呪文を唱えると、右手を高く大きく掲げた。その手のひらの上で、白い煙をまとった光球が、次第に大きく育っていく。
「行けぇっ!!」
腕を振り下ろし、頭の三倍ほどの大きさになった光球を前方に放った。
ジュワッ!!
水が焼けるような音と同時に、結界も光球も消滅し、その代わりにあたり一面、純白の濃霧で覆われた。
——今だ!
ジークは全速力でラウルの背後にまわり込む。霧の海の上に、彼の焦茶色の頭がうっすらと見えた。こちらに気づいてはいないようだ。
——とれる!
右手に小さな白い光を蓄え、ラウルに襲いかかるべく、身を屈めて飛び出した。
ゴワッ!!
奇妙な音がしたその瞬間、ジークは体中に激しい痛みを感じた。いつのまにか、後方の壁に叩きつけられていたのだ。
「うっ……」
くぐもった声でうめき、壁からはがれるように、その場に倒れ伏した。起き上がろうとしても、わずかに顔を上げるのがやっとだ。頭を打ったために、軽い脳震盪を起こしているらしい。まぶたを震わせながらうっすらと片目を開けると、視界がぐらぐら揺れていた。
「防御をおろそかにするなと言ったはずだ」
ラウルは腕を組んだまま振り返り、冷たく見下ろした。濃霧はすでにさっぱりと消えていた。
「今日はこれまでだな」
「バ……カやろう……俺は、まだ……」
倒れたまま右手を上に向け、苦しそうにあえぎながら、小さな声で呪文を唱え始めた。光が集まりかけたその手のひらを、ラウルは上から踏みつけた。
「ぐあっ!」
「ドクターストップだ」
感情のない声でそう言うと、ジークの体を肩に担ぎ上げた。
「あ……歩け、るっ……!」
「立てもしないくせにどうやって歩く」
「く……そっ……!」
ジークは目の前の大きなラウルの背中に、こぶしを叩きつけた。だが、それは弱々しいものだった。そして、それきりぐったりとなった。
苦しい……胸が……息ができな……い……。
ジークはうっすらと目を開いた。ぼんやりとした彼の視界に、誰かの輪郭が映った。
母さん……? アンジェリカ……?
次第に焦点が合ってくる。ぼやけた人影から、次第にはっきりとした形が現れてきた。
「…………?!」
ジークは驚いて目を見開いた。相手もくりくりした目をさらに丸くして、きょとんと彼を見つめている。ラウルの小さな娘・ルナだ。なぜか自分の胸の上に乗っかっていた。どうりで息苦しかったわけだ。
「動くな」
ラウルはベッド脇でジークの脈を見ていた。ふいに振り向いた彼の口に、もう片方の手で体温計を突っ込んだ。
ジークは体温計をくわえたまま、頭を左右に動かし周囲をうかがった。どうやらここはラウルの医務室らしい。あのまま気を失って、ベッドまで運んでこられたのだろう。
「異状なし」
ラウルはカルテに何かを書き込むと、今度は体温計を引き抜いた。
「熱も平熱だな」
「おい、普通、ケガ人の上に赤ん坊を乗せるかよ」
「目の届くところはそこしかない」
ラウルはしれっと言って、ルナを抱き上げた。ルナは嬉しそうに声をあげて笑い、ラウルの顔に小さな手を伸ばした。
「それにたいした怪我ではない。左腕の骨折以外は、浅い切り傷、軽い火傷、それに打撲程度だ」
「骨折?!」
ジークは自分の左腕を見た。上腕部に白い包帯が丁寧に巻かれている。
「少しヒビが入っているだけだ。すぐに治るだろう」
「……これじゃ、当分、修業はお預けだな」
ジークは天井を見つめ、沈んだ声でつぶやいた。ラウルは、そんな彼を、冷めた目で見下ろした。
「腕など使えなくても、いくらでもやることはある。それとも逃げ出すのか」
「いや……望むところだ」
ラウルの挑発に、ジークはみるみる生気を取り戻した。挑むようにニッと口角を上げると、ぐっと右手を握りしめ、自分自身に気合いを入れた。
「道場でのことは覚えているか」
ラウルに問われ、ジークの顔がとたんに曇った。横目ででラウルをうかがいながら、言葉を濁しつつ尋ねかけた。
「ああ、でも何で……っていうか何が……」
「おまえの浅知恵など、誰にでもわかる」
ジークはムッとしたが、ここは大人しくこらえた。
「ごく簡単に言えば、あの結界は温水、それに冷気の塊をぶつけ、濃霧を発生させた。その霧に身を隠し、私の背後にまわり込む。空気より重い霧は次第に下がり、私の頭が真っ先に視界に現れる。そこを狙い、不意打ちを仕掛ける作戦だった。そんなところだろう」
「……」
ジークはぐうの音も出なかった。ここまで完全に読まれているとは思わなかった。
「私は全方位に風を起こした。熱や氷では、おまえを死に至らしめてしまうからな。おまえは風に飛ばされ、壁に叩きつけられたということだ」
「全方位……」
ジークは呆然としてつぶやいた。ラウルは簡単に言っているが、かなり非常識である。暴発ではなく、意図的にこんなことができる人物は、この国に数えるほどしかいないだろう。あらためてラウルの力量を見せつけられた。くやしいが、認めざるをえない。
ラウルは、腕の中で動きまわるルナを抱え直した。
「家には連絡を入れておいた」
「たいしたケガじゃねぇのに、よけいなことを……って、もう朝か?!」
ジークは慌てて飛び起き、再びあたりを見まわした。今まで意識してなかったが、確かにすっかり明るくなっていた。細く開いた窓からは、ひんやりとした新鮮な空気が入り込み、薄いカーテン越しの柔らかい光がのどかに揺れている。
「今ごろ気がついたのか」
ラウルはため息まじりに言った。
「ジーク!!」
すでに教室で自席についている彼のもとへ、リックとアンジェリカが走り寄ってきた。
「聞いたよ。ずいぶん思いきったね」
「言ったろ。手段は選ばねぇって」
ジークはぶっきらぼうに返事をした。
「その腕、大丈夫なの? 軽いヒビって聞いたのに」
三角巾で首から吊るされた腕を見て、アンジェリカは心配そうに覗き込んだ。
「ああ、たいしたことねぇよ。念のためっていうか、あいつが大袈裟なだけだ」
ジークは左腕を軽く上げてアピールし、彼女を安心させるよう笑顔を作ってみせた。それでも、アンジェリカの不安は拭えなかった。
「でも初日からこれじゃ、あと一ヶ月も耐えられるの? 泊まり込みで修業なんて」
「……泊まり込み?」
ジークは怪訝な表情で聞き返した。
「あれ? そう聞いたけど? はい、これ」
横から口をはさんできたリックが、かさばる大きなリュックサックをジークに差し出した。ジークはますます怪訝に眉をひそめた。
「何だ?」
「おばさんから預かってきたんだよ。着替えだって言ってたけど」
「おい、どうなってんだよ。俺は泊まり込むなんて言ってねぇぞ!」
そこまで言って、ジークははっとした。思いきり顔をしかめて舌打ちをする。
「アイツの仕業か」
アンジェリカはその様子を眺めながら、わずかに顔を曇らせた。
「じゃあな」
授業が終わると、ジークは元気いっぱいに、張り切ってラウルの後についていった。あれだけラウルを嫌っている人間とはとても思えない。
アンジェリカは複雑な思いでふたりを見送った。次第に小さくなるふたつの後ろ姿を、ずっと目で追っていた。
「さ、帰ろっか」
リックは優しく声を掛け、にっこりと微笑んだ。
「ええ」
アンジェリカは虚ろに返事をし、うつむいて踵を返した。しかし、数歩進んだだけで、すぐにその足を止めた。
「どうしたの?」
「やっぱり私、お父さんのところに寄っていくわ」
そう言って王宮の方を指さし、再び方向転換した。
「お父さん!」
「アンジェリカ?!」
思いつめた表情で部屋に駆け込んできたアンジェリカに、サイファは驚いて立ち上がった。彼女が魔導省の塔まで訪ねてくることなど、今までなかったことだ。早足で歩み寄りながら、急く気持ちを抑えつつ尋ねる。
「どうした? 何かあったのか?」
「私に魔導を教えて! 厳しく鍛えてほしいの!」
サイファは呆気にとられた。
「ジークはラウルのところに泊まり込んで、厳しい修業をしているの。このままじゃ、私、負けてしまうかも……」
「泊まり込んで?」
「ええ、そう。お父さんが忙しいのは知っているわ。だから、無理は言わない。休みの日とか、空いた時間だけでいいから。お願い!」
アンジェリカは漆黒の大きな瞳で、真摯にサイファを見上げた。
「まいったな」
彼は腰に手を当てうつむくと、困惑したように笑った。かわいい娘に厳しく指導することなど、自分にはできそうもない。いや、そもそも魔導を使っての戦いなど、本当はさせたくないのだ。しかし、引き受けるまで彼女は引き下がらないだろう。そういう頑固な性格だ。とりあえず、この場は承諾しておくしかない。
「わかったよ。厳しくとはいかないだろうけどね」
アンジェリカの頭に手をのせると、にっこりと笑いかけた。彼女も安心したように、表情を緩めて笑った。
「うんと厳しくしてね!」
無邪気にそう言うと、小走りで部屋を後にした。
——ジーク、君はずいぶんと大変な相手を選んだものだな。
サイファは小さくふっと笑うと、椅子に身をしずめ、天井を仰いだ。
「50周! 終わった!」
ジークは体を折り曲げ、はあはあと息をきらせた。
「座れ」
ラウルに言われ、ジークは白く冷たい床に腰を下ろした。そして、目の前のラウルを見上げた。無表情で腕を組み、まっすぐに立っている。ただでさえ大きい彼が、よりいっそう大きく見えた。まさにそびえ立つといった表現がふさわしい。
ジークは息を呑んだ。
「おまえの最大の弱点は精神面だ。魔導を扱う際の集中力が足りない。無駄が多く、うまく魔導力を高められていない」
ラウルは顔を前に向けたまま、視線だけを落とした。ジークは彼と目が合うと、背筋に冷たいものが走った。思わず身震いをする。
ラウルは目を閉じ、息をついた。
「感情にとらわれやすいのも問題だな。感情を高ぶらせることがあっても、常に冷静な部分を残しておかなければならない。感情に支配されるのではなく、感情を利用しろ」
ジークは難しい顔で、彼を見上げた。
「……だから、どうすればいいんだよ」
「まずは瞑想で精神を鍛える」
「瞑想か……」
ジークは苦虫を噛み潰したように、思いきり顔をしかめた。体を動かし魔導を使うことは楽しい。そのための勉強も嫌いではない。だが、瞑想だけはどうしても好きになれない。何もしない、何も考えないという状態が、どうにも耐えられないのだ。
「身体の緊張を弛め、雑念をなくし、眉間あたりに意識を集中させろ。あとはひたすらその状態を持続し、少しづつ高めていく」
「んなこと、わかってるよ!」
ジークはその場であぐらをかき、背筋を伸ばして目を閉じた。
「……なぁ、何分くらいやるつもりなんだ?」
三分と経たないうちに、ジークは口を開いた。
「雑念は捨てろ」
「……」
ラウルの言葉により、ジークの心にさらなる雑念が沸き上がった。
頭が……熱い……そうか、意識を集中させているから……ってか、痛っ!
ジークははっとして目を開き、勢いよく頭を上げた。目の前には、はじきとばされるようにして尻もちをついたルナがいた。大きく澄んだ瞳を思いきり丸くして、ジークをじっと見つめている。彼女の小さな指には、ジークの髪が数本、絡みついていた。
「おまえの仕業か」
ジークは軽くため息をついた。
「昼寝にしては遅すぎるな」
頭上から重い声が降ってきた。
「うっ……」
ジークはおそるおそる顔を上げた。仁王立ちのラウルが、無表情でこちらを見下ろしている。ジークの顔から血の気が引いた。
「瞑想と睡眠の違いはわかっているのか」
「悪かったよ! そんなイヤミな言い方しなくてもいいだろ!」
そう突っかかりながらも、ばつが悪そうに顔を赤らめた。
ラウルは、ジークの膝の上に這い上がろうとしていたルナを抱き上げた。
「状態としては、ふたつは非常に近い。違いは意識の集中があるかないか、それだけだ。だが、そこが肝心だ」
「やあ、ここにいたのか」
入口からひょっこりサイファが姿を現した。右手を上げ、人なつこい笑顔を見せている。
「医務室にいなかったから探したよ」
「何をしに来た」
軽い調子で入ってきたサイファを、ラウルは冷たく睨みつけた。
「仕事帰りに寄ってみただけだよ。ジークを泊まり込みで修業させると聞いたんで、どういう風の吹きまわしかと思ってね」
サイファは、意味ありげにニッと笑ってラウルを見た。
「なんのことだ。そんなつもりはない」
ラウルは素っ気なく答えた。しかし、ジークはこの言葉に驚いた。
「は? おまえが俺の母親に言ったんだろう? だから着替えまで用意して……」
「知らんな。私は、腕を骨折したこと、今夜はこちらに泊まらせること、一ヶ月修業することを伝えたまでだ」
ジークはなんとなくわかった気がした。おそらく母親の方が勘違いをしたのだ。早とちりはレイラの得意技である。その結論にたどり着くと、思いきり脱力し、一気に疲労感が襲ってきた。
「まあ、今さら帰るのも何だし、今日は泊めてくれよ」
ジークはぐったりした声で言った。しかし、ラウルの返事はつれないものだった。
「野宿でもしろ」
「なっ……! ユールベルは泊めてやったくせに、俺はダメなのかよ!」
「状況が違う」
ラウルは冷たくあしらうと、ふいにサイファを見た。
「おまえのところに泊めてやれ。元はといえば、おまえが口出ししたのが原因だ」
「私は構わないが、どうだ? ジーク」
「えっ……」
ジークは少し気が引けていた。何から何までサイファの世話になりっぱなしである。それに、アンジェリカに勝つための修業なのに、そのために彼女の家に泊めてもらうなど、何か間違ってはいないだろうか。
「遠慮はするな。ゲストルームはたくさんあるんだ」
サイファは、迷いを見せるジークを後押しした。
「あ……はい……」
ジークは流されるように、あいまいな返事をした。
「決まりだな」
サイファはにっこりと笑った。
「様子を見にきてよかったよ」
サイファとジークは、薄暗い廊下を並んで歩いていた。夜も遅いため、王宮内はすっかり静寂に包まれている。人の姿もほとんどなく、要所に見張りの衛兵が立っているくらいだ。
「そんなことだろうと思ったんだ。ラウルが君を泊めてやるなど、考えられなかったからね」
ジークは怪訝な顔をサイファに向けた。
「いや、気を悪くしないでくれ。あいつが自分の部屋に招き入れるのは、よほど気を許した相手だけなんだよ」
サイファは安心させるように、ジークの背中に手を置いた。
「まあ、ユールベルは別だろうけどね。彼女に関しては、ラウルも責任を感じていたようだし、そういう意味合いだろう」
ジークは、サイファの端整な横顔を見つめた。
「サイファさんは?」
「ないよ」
驚くくらい素っ気なく答えた。そして、それ以上、その話題を広げることはなかった。
「おはよう」
アンジェリカがいつものようにダイニングに入ると、そこにはなぜかジークがいた。ものすごい勢いで、パンにかぶりついている。彼女は我が目を疑った。戸口で固まったまま、呆然としている。
「おう」
口にものを入れたままで、ジークが声を掛けてきた。三角巾で吊った左手を軽く上げる。やはり、どう見てもジークである。
「どうして? どうしてジークがウチにいるの?」
「まあ、成り行きだ」
アンジェリカは、不思議そうにぼうっと彼を見つめながら、その隣に座った。近くで見ても、やはりジークである。
レイチェルは、紅茶をカップに注ぎながら、静かに言った。
「これから一ヶ月、ジークさんにはウチに泊まってもらうことにしたのよ」
「ええっ? ずっと?!」
「……嫌なのか?」
ジークは手を止め、不安そうに尋ねた。
「そうじゃないけど……なんかヘンな感じ」
アンジェリカは両手でほおづえをつくと、複雑な表情で頬をふくらませた。
「言っておくけど、私は負ける気ないから」
「俺だって!」
レイチェルはそんなふたりを見ながら、くすくすと笑っていた。
60. 最後の夜
それから毎日、ジークは個人指導を受けていた。アカデミーが終わると、ラウルとともに道場へ行き、夜遅くまで修業をする。その合間や終了後に、ルナの世話や雑用を押しつけられることもあった。そして、日付けが変わるころ、こっそりとラグランジェ家へ戻って休み、朝になるとアンジェリカとともに朝食をとり、アカデミーへ向かう。そんな繰り返しだった。
ラウルの厳しさは、ジークの体を見れば一目瞭然だった。大きな怪我は初日の骨折のみだが、細かい生傷が絶えることはなかった。連日、違う場所に絆創膏が貼られていった。
ジークは何かにつけラウルへの不平不満を口にしていたが、それでもどこか楽しそうだった。
「これで約束の一ヶ月は終わりだ」
ラウルは無表情で言い放った。
ジークは道場の中央に汗だくで座り込んだ。そして、うなだれるように声なくうなずいた。
「……そういや、すげぇ呪文とか、何も教えてくれなかったよな」
肩を揺らし、荒く呼吸をしながら、ふいに思い出したようにつぶやいた。
外に出ようとしていたラウルは、戸口で足を止めた。わずかに振り返り、ジークを冷たく一瞥した。
「おまえには無理だからだ。そういうことは基礎ができてから言え」
「ほんっとーに頭にくるな、オマエ」
ジークは力なく笑った。
「魔導力もないくせに、無理に高等呪文を使えば、下手をすると体が吹っ飛ぶ。欲張らないことだ」
ラウルは、背を向けたまま淡々と忠告をすると、再び歩き始めた。
「ラウル!」
ジークは顔を上げ、呼びかけた。しかし、彼は少しも振り返ることなく、長い髪をなびかせ道場を出ていった。
「お、おいっ!」
ジークは慌てて立ち上がり、後を追った。
「ラウル!!」
外に飛び出し、彼の後ろ姿を見つけると、さらに大きな声で呼び止めた。
「俺……この一ヶ月……感謝してる」
振り向かないその背中に、少し照れくさそうにしながら、真顔で不器用な言葉を送った。
ラウルは一呼吸ののち、静かにつぶやいた。
「あしたは雨だな」
「……っんだと?!」
ジークの怒号が闇に響いた。
「お疲れさま、ラウル先生」
からかい口調でにこにこと医務室へ入ってきたサイファに、ラウルは冷ややかな視線を送った。だが、ため息ひとつついただけで、すぐに机に向き直り、書類整理の続きを始めた。
「追い返そうとしないところを見ると、何か話したいことがあるんだな?」
サイファはにやりと笑いながら机にひじをつき、身を屈めてラウルを覗き込んだ。ラウルはわずかに眉をひそめると、間近に迫った端整な顔を、容赦なくファイルで払いのけた。それでも懲りない彼を見て、呆れたようにため息をつくと、静かに口を切った。
「今度の試験で対戦型 VRMを使いたい」
サイファの顔から笑みが消えた。
「馬鹿を言うな。あれはすでに禁じた。おまえも忘れたわけではないだろう」
早口でそう捲し立てると、けわしい表情でじっとラウルを見つめた。彼はゆっくりと振り向き、まっすぐに視線を返した。
「だからおまえに相談している」
ふたりは強く睨むように、目で探り合った。互いに譲らない。無言の長い対峙が続く。そこに流れていたものは、時を刻むかすかな音だけだった。
先に視線をそらせたのはサイファだった。小さく息をつき、窓際へと足を進めた。細く開いたカーテンの隙間から、外へと目を向ける。あたりはすっかり闇に包まれ、木々の枝葉は黒く不気味にざわめいていた。
「彼がアンジェリカに勝てるとでも?」
腕を組み、窓枠に寄りかかりながら、冷静な口調で尋ねた。
「それを試したい」
ラウルは即答した。サイファは目を細め、冷たく彼を流し見た。
「悪趣味だな。アンジェリカを戦わせるために、おまえに預けたわけではない」
「アカデミーとはそういうところだ」
ラウルは机に向かったまま、悪びれずに答えた。サイファは睨みつけはしたが、反論することはなかった。いや、できなかったのだ。なぜアカデミーが設立されたのか、彼はそれを知っていた。
アカデミーとは、国中から才能のある者を集め、無償で高度な教育を施す、唯一無二の王立校である。その目的のひとつは、国による優秀な人材の育成、そして囲い込みだ。ほとんどの卒業生が国の機関で働いているという事実が、そのことを物語っている。そしてもうひとつ。一般には知られていないことだが、有事のときの人材確保である。兵器開発のために工学科が作られ、兵士に最先端医療を施すために医学科が作られ、そして、前線で戦う魔導士を育成するために魔導全科が作られた。それが、そもそもの成り立ちである。つまり、魔導全科の者は、本来、戦うことが義務づけられているのだ。
ただ、平和が長く続いているこの国で、有事のことを真剣に考えているものなど、今はほとんどいない。サイファも楽観しているわけではなかったが、特に憂慮しているわけでもなかった。そうでなければ、いくら本人の強い希望とはいえ、アンジェリカを受験させたりはしなかっただろう。
「……リミット値の設定はこちらで行う。それと、試験の様子はモニターさせてもらう。いいな」
多少の動揺を心の内側に押し隠し、感情を見せず条件のみを突きつけた。静かだが、有無を言わさない強い口調である。
「好きにしろ」
ラウルも冷静に無表情で答えた。
しかし、サイファはその答えに不快感を示した。一瞬、ムッとした表情を浮かべ、疲れたようにため息をついた。
「好き嫌いではなく仕事だ。ヴァーチャルとはいえ、娘が戦っているところなど、目にしたくないよ。趣味の悪いおまえと一緒にするな」
「気になってはいるのだろう」
ラウルの問いかけに、サイファはわずかに眉をひそめた。
「多少はな」
抑えた声でそう答えると、自嘲ぎみにふっと笑いながらうつむいた。そして、小さくぽつりとつぶやいた。
「私もおまえのことは言えないか」
修業が終わり、ジークはラグランジェ家へ戻ってきた。ここに世話になるのも、今晩が最後である。足音を立てないよう廊下を歩きながら、この一ヶ月のことを思い返していた。ラグランジェ家の人たちと顔をあわせるのは、基本的に朝食のときだけだったが、それでも今までより多くの面を知ることができた。
当然といえば当然なのかもしれないが、ラグランジェ家には家政婦と料理人、そして庭師が雇われているようだった。考えてみれば、これほど広い家のことをレイチェルとサイファだけでこなすなどということはありえない。ただ、住み込みではなく通ってきているようで、ほとんど姿を見たことはなかった。
サイファの仕事が大変そうだということもわかった。サイファは魔導省に勤めており、かなり上の役職に就いている。だが、どうやら早番というものがあるらしく、週の半分はジークが起きるよりも早く家を出ていた。帰りが遅くなることも、たびたびあるらしい。
そして、サイファとレイチェルは本当に仲が良かった。ジークがいることも気にせずに、サイファはレイチェルを抱きしめたり、頬に口づけしたりしていた。初めのうちは、そんなふたりを見ていちいち照れていたジークだったが、そのうち次第に馴れてきた。もちろん、不快に感じたことはなく、むしろ微笑ましく羨ましく思えた。あるとき、アンジェリカにちらりとその話題を振ってみたところ、「普通じゃないの?」ときょとんとして聞き返されてしまった。幼いころから見なれていれば、普通だと思うのは当然だろう。
ジークはそんなふうに考えごとをしながら、彼が借りているゲストルームへと入っていった。特別に広いわけではないが、彼にとっては十分すぎるくらいだった。自分の家よりも広く、きれいで、清潔で、とても快適だった。
——トントン。
ジークが着替えようと服に手を掛けたところで、部屋の扉がノックされた。こんな時間に……サイファさんか? ジークは不思議に思いながら扉を開けた。
「おまえ……まだ起きていたのか」
そこに立っていたのはアンジェリカだった。薄桜色のネグリジェを見にまとい、かすかに笑みを浮かべていた。
「帰ってくるのを待っていたのよ。今日で最後でしょう? せっかくだから話でもしない?」
「あっ……ああ」
思いがけないことだった。ジークはうろたえて声がうわずった。
「よかった」
アンジェリカはにっこり笑って部屋に入ろうとした。しかし、ジークは彼女の前に腕を伸ばし、それを阻んだ。
「何よ?」
アンジェリカは口をとがらせて、ジークを見上げた。彼は、困ったような弱ったような顔で、目を泳がせていた。
「部屋ん中はまずいだろ」
「どうして?」
「ベランダに出よう、なっ?」
焦りながらなだめすかすジークを見て、アンジェリカはいぶかしげに眉をひそめた。
「なにか変よ、ジーク。まさか部屋の中に変なものを持ち込んだりしていないわよね」
彼女の的外れな勘ぐりに、ジークは気が抜けた。
「んなわけねーだろ!」
「ふーん……まあいいけど」
まだ完全に疑惑は晴れていないようだが、とりあえずこれ以上の追求はなさそうだった。ジークはほっと胸を撫で下ろした。
廊下の突き当たりにあるガラス戸を開け、ふたりはベランダへと出た。大きな屋敷だけあって、さすがにベランダも広い。ジークは一通り見渡して、感嘆の息をついた。
前へと進んでいき、ふたりは並んで手すりにひじをのせた。真夜中ではあったが、ほのかな月の光に照らされて、互いの表情は十分に識別できる。顔を上げると、生け垣の向こうに王宮が見えた。ここからごく近くにあるように感じる。実際に近いのかもしれない。ジークは頭の中で地図を描き始めた。
「冷えるわね」
夜風が頬を撫でると、アンジェリカは肩をすくめ、小さく身震いした。ジークは彼女に振り向き、あらためてその格好を目にした。薄地のネグリジェ一枚である。
「そんな薄着で来るからだろ」
「だって外に出るつもりなんてなかったのよ」
アンジェリカはムッとして言い返し、頬をふくらませた。確かに、外に出るつもりのなかった彼女を、外に連れ出したのはジークである。彼女の言い分はもっともだった。
ジークは自分の上着を脱ぐと、顔をそむけたまま、無言でアンジェリカに差し出した。
「え? ……ありがとう」
少し面くらった様子だったが、彼女は素直に受け取った。
「ちょっと汗くさいかもしれねぇけど……って、ニオイ嗅ぐなよ!」
「このくらいなら大丈夫よ」
焦るジークを後目に笑顔でそう言うと、その上着に腕を通した。やはり、小柄なアンジェリカにはかなり大きかった。肩が落ちているうえ、袖から指先さえも出ていない。それを見て、彼女はくすりと笑った。ジークもつられて笑った。
「ぶかぶかね」
どこか嬉しそうにそう言うと、袖をまくり上げ、手先を出した。
「それで、どうだったの? ラウルの修業」
「ああ……大技とか必殺技とかは教えてくれなかった」
アンジェリカは目をぱちくりさせて、彼を見上げた。
「そんなのを期待していたの?」
「もともとそういうつもりだったんだよ」
ジークは恥ずかしそうにしながら、ぶっきらぼうに答えた。
「まあでも基本をみっちりやったし、少しは力がついたと思うぜ。試験でも少しは役立てばいいけどな」
「うん。きっと役に立つわよ。でも、私は負けないけど」
アンジェリカはにっこりと無邪気に笑いかけた。ジークの胸はドクンと強く打った。彼女の顔をまともに見ていられなかった。
「サイファさんに指導してもらったんだって?」
前に向き直り、視線を空に逃がしつつ尋ねた。
「ええ、でも三回だけよ」
「俺もサイファさんに教わりたかったぜ。ラウルよりよっぽどまともそうだし」
しかし、アンジェリカは何か思うことがあるようだった。軽く首をひねり、難しい顔を見せる。
「どうかしら? 教えるのには向いてないかも……」
「どういうことだ?」
意外な評価に驚き、ジークは瞬きをしながら振り向いた。彼女は眉尻を下げて、弱ったように肩をすくめて笑った。
「優しすぎるのよ」
「あ、それは相手がおまえだからだろ。娘だから」
サイファはいかにも娘に甘そうだった。しかし、他の人には厳しく的確に指導してくれるのではないか。ジークはそんな期待を抱いていた。ただ、忙しそうなので、実際に教えを請うことは無理だろう。
「どうして? 私は厳しくしてって言ったわよ」
彼女は不満げに言い返した。
「そう言われても、できなかったんじゃねぇか? かわいい娘なわけだし」
ジークの答えに、彼女はまるで納得できなかった。ますます不機嫌になり、頬をふくらませてむくれた。
「なによそれ。私のためを思うなら、言うとおりに厳しくしてくれてもいいじゃない」
ジークは苦笑いするしかなかった。しかし、一息つくと急に真面目な顔になり、空を見上げて静かに切り出した。
「俺、サイファさんには感謝してる」
アンジェリカはそっと振り向き、彼の横顔を見つめた。ジークは遠くを見ていたかと思うと、ふいに目を伏せ、小さく息を吐いた。
「何から何まで世話になりっぱなしだ。今回だって一ヶ月も……。帰ろうと思えば帰れるのに、なんか甘えちまって」
「だって、ジークの家は遠いんだもの。毎日、遅くまで修業をして、それから帰ったんじゃ大変よ」
アンジェリカにそう言ってもらえて、ジークは少し救われたように感じた。わずかに表情を弛める。
「ね? いっそずっとうちに住んじゃうってのはどう?」
アンジェリカは無邪気に大胆な提案をした。いいことを思いついたといわんばかりに、顔を輝かせている。
せっかく弛んだジークの表情は、一瞬で固まってしまった。
「お父さんもジークのことを気に入ってるみたいだし、きっと賛成してくれるわ」
ジークの様子に気づいていないのか、彼女は満面の笑みで話を続けた。
「あ、いや……さすがにそういうわけにはいかねぇよ」
ジークは落ち着かない様子で、引きぎみに口を開いた。これ以上、サイファやレイチェルに迷惑をかけるわけにはいかない。第一、サイファが賛成してくれるとも思えない。自分が気に入ってもらえているかどうかも自信がない。
「どうして? いい話だと思うけど」
アンジェリカは不思議そうに尋ねた。ジークは弱った。
「母親をひとりにしとくのも心配だし……」
つい、そんないいわけが口をついた。嘘ではない。確かにそれもあるんだ。そう自分に言い聞かせた。
「そう、残念」
アンジェリカは少し沈んだ声で答えると、顔を上げ、にこっと笑った。
ジークの脳天に痺れが走った。笑顔を返そうとしたが、後めたさがブレーキをかけた。なんともいえない表情のまま、ただ立ちつくしていた。
「風邪、ひいたの?」
アンジェリカは、心配そうにジークを覗き込んだ。
「えっ?」
「さっきからぼうっとしてるし、顔も赤いわよ。熱があるんじゃない?」
「あ……ああ、そうかもな」
ジークはわざとらしく鼻をすすってみせた。
「修業が大変だったから、疲れが出たのよ。もうゆっくり寝た方がいいわね」
アンジェリカは身を翻し、中へ戻ろうとした。しかし、ジークは彼女の腕をつかんで止めた。
「え?」
「あ……」
突然、腕をつかまれたアンジェリカは、驚いて彼を見上げた。だが、彼の方も自分自身の行動に驚いていた。考えるより先に、体が動いていたのだ。しかし、なぜその行動を起こしたのか、その理由ならわかる。
「ここで熱を冷ますよ。もう少し……今日は最後、だろ?」
「もう、悪化しても知らないわよ」
アンジェリカは口をとがらせながら、たしなめるように言った。しかし、そのあとくすりと笑って、屈託のない笑顔を見せた。
サイファはようやく帰ってきた。もう零時を回っている。玄関の扉を開けて中に入ると、正面階段を忍び足で降りてくるレイチェルと目が合った。
「ただいま。どうしたんだい?」
レイチェルは人さし指を立てて口に当て、声を出さないよう注意を促すと、彼のもとに駆け寄った。
「お帰りなさい」
にっこり笑って彼を見上げながら、声をひそめて言った。サイファは笑顔で彼女を抱きしめ、髪を撫でた。
「ただいま。でも本当にどうしたんだ? 何かあったのか?」
彼も、声をひそめつつ尋ねた。
「上で何か音がするから、様子を見に行ったの」
「それで?」
レイチェルは、彼の腕の中でくすりと笑った。
「ふたりがベランダで話をしていたわ」
「こんな時間に起きているのか、アンジェリカ」
サイファは目を丸くし、思わず二階を見上げた。
レイチェルは彼の頬を両手で包み、自分の方へ向き直らせた。
「固いことを言わないで。アンジェリカだって、いつまでも小さな子供じゃないわ」
そう言って、にっこりと笑いかけた。サイファもふっと表情を弛めた。
「そうだな。今日くらいは」
そして、彼女の肩に手をまわし、並んで歩き始めた。
「そういえば、私たちもあったな、ベランダで」
「私は、今のアンジェリカと同じ年齢だったわ」
「そうだったな」
サイファは少しばつが悪そうに笑った。
「あのころに戻りたい?」
ふいにレイチェルはそんなことを尋ねかけた。大きな青い瞳で、不安そうにサイファを見上げている。
サイファは彼女の頭を抱き寄せた。
「今が幸せだよ」
「……ありがとう」
レイチェルはそっと彼に寄りかかった。
61. 潜在能力
コン、コン——。
魔導省の塔。その最上階の一室がゆっくりとノックされた。それに続き、若い男の声が、固く張り上げられた。
「カイル=ハワードです」
「入りたまえ」
机に向かい書類を眺めていたサイファは、手を止めず静かに答えた。
一拍ののち、おずおずと扉が開き、カイルと名乗った男が入ってきた。彼は、サイファと同じ濃青色の上下を身につけていた。緊張した面持ちで一礼すると、背筋をすっと伸ばした。そのまま息を止め、次の言葉を待つ。
「君は魔導、医学、工学のいずれにも通じているそうだな」
サイファは顔を上げ、まっすぐカイルの瞳を見つめた。彼の顔はたちまち上気した。
「はい。すべてアカデミー終了程度です」
「君には今日一日、私と行動をともにしてもらう」
「えっ?」
思いがけない指示に、カイルは目を見開いて聞き返した。サイファはきびきびと端的に説明を始めた。
「アカデミー魔導全科で、対戦型 VRMを使用し試験を行うことになっているのだが、その VRMの設定と試験の監視を我々が行う」
カイルは頬を赤らめたまま、ぱっと表情を明るくした。
「はいっ! 光栄です! 頑張ります!」
鳶色の瞳を輝かせ、力を込めて畳み掛けるように答えた。
サイファは二枚の書類を差し出した。
「私が作った設定案だ。確認をして、問題があれば指摘してほしい」
カイルは前に進み、両手で受け取ると、その紙に視線を落とした。赤みがかった茶髪がさらりと頬にかかる。先ほどとは別人のような真剣なまなざしで、ひとつひとつ丁寧に、しかし素早く目を通していった。
「リミット値が若干低めですが、アカデミー生が対象なら妥当な線でしょう。問題はありません」
そう言って顔を上げ、サイファに書類を返した。
「よし、これで行くとしよう」
彼は、受け取った書類をファイルにはさみ、小脇に抱えた。
「これから実機に設定をしに行く。ついて来い」
「はい」
颯爽と歩くサイファの後ろを、カイルは小走りでついていった。
サイファたちは、アカデミー校舎の隅にある、ヴァーチャルマシンルームへと足を進めた。そこには VRMの白いコクピットがずらりと並んでいた。人間どうしの対戦用ではなく、コンピュータが相手をするものだ。そのうちのいくつかは蓋が閉じていた。まだ始業前だが、生徒が自主訓練をしているらしい。
ふたりはその間を突っ切り、奥の扉へとやってきた。普段は鍵がかかっていて、立ち入りが禁止されている場所だ。しかし今日は鍵が外れている。サイファは扉を開け、薄暗い部屋へと踏み入った。カイルもすぐあとに続いた。
「遅いぞ」
狭い部屋の奥で、腕を組んだラウルが待ち構えていた。彼の両隣にはコクピット、頭上には大きな薄型ディスプレイが架かっている。サイファはにっこりと笑顔を見せた。
「そう時間はかからないよ。優秀なパートナーが一緒だからな」
カイルは後ろで嬉しそうに頬を紅潮させた。前に一歩踏み出し、ラウルを見上げた。
「カイル=ハワードです。よろしくお願いします」
礼儀正しく挨拶をすると、深々とお辞儀をした。しかし、ラウルは冷たく一瞥しただけで、背を向け歩き出した。
「いつもああだ。気にするな」
「はい……」
サイファは落ち込むカイルの肩を軽くたたき、ラウルの後に続いた。カイルもしょんぼりしながら、その後についていった。
三人は、奥にある小さめの扉をくぐり、さらに狭くて暗い部屋へと進んだ。数人がやっと入れるくらいの広さだ。窓はなく、上に小さな電球がひとつあるだけである。部屋の中央には、古めかしい傷だらけの木机が幅を取っていた。その上には旧式の厚ぼったいモニタが鎮座している。机もモニタもまだらに埃を被っているが、画面部分だけは丁寧に拭かれているようだ。向かいには、薄汚れた二人掛けのソファが、取ってつけたように置かれていた。
「急ごしらえだが、一応モニタールームだ。ここで我々が監視を行う」
サイファはソファの背もたれに手を置いた。
「生徒たちに重圧を与えることのないよう、我々は姿を見せない。いいな」
「はい」
カイルはうなずきながら返事をした。サイファは、ラウルに振り向き尋ねた。
「設定もここで出来るのか?」
「ああ、そうしておいた」
ラウルは木机の下の棚からキーボードを取り出し、モニタの前に置いた。サイファは、手にしていたファイルをカイルに渡した。
「設定の方法はわかるか?」
「はい。何度かやったことがありますので」
「では、君に任せるよ」
「はいっ!」
カイルは顔を輝かせて歯切れよく返事をした。ファイルを机の上に広げ、モニタの電源を入れると、立ったまま中腰でキーボードを打ち始めた。なめらかに動く彼の指とともに、キーボードが軽快な音を立てる。それに連動するように、モニタではウィンドウが次々と開いては消えていった。
「どこへ行く」
無言で立ち去ろうとしていたラウルを、サイファがきつい口調で呼び止めた。
ラウルは扉に手を掛けたままわずかに振り向くと、冷たく威圧するような視線を送った。
「そろそろ始業時間だ。戻るまでにセッティングしておけ」
「そういう命令口調は感心しないな」
サイファは、腕を組んで壁に寄りかかった。そして、含みを持った挑発的な表情を浮かべた。ラウルはムッとして睨みつけた。
「話ならあとで聞く」
いらついたように言い捨てると、長髪をなびかせながら部屋を出ていった。サイファは眉をひそめて彼の背を見送ると、腕を組んだまま深くうつむいた。小さくため息をつく。
「カイル、手が止まっているぞ」
「あ、すみません! もうすぐ終わります!」
彼はあわててモニタに向き直り、再びキーボードを叩き始めた。
設定作業が終わり、ふたりで確認をしていると、多くの足音とざわめきが聞こえてきた。隣に生徒が入ったらしい。
「準備は出来たか」
ラウルはふたつの部屋をつなぐ扉から顔を覗かせた。サイファは無言で右手を上げ OKサインを作って見せた。ラウルはかすかにうなずいて扉を閉めた。
サイファはソファに腰を落とした。
「君も座れ」
「えっ……あ、はい! 失礼します!」
嬉しいような困ったような微妙な表情で、ぎこちなくサイファの隣に腰を下ろした。二人掛けのソファゆえ、否応なく距離は近くなる。いつ肩が触れ合ってもおかしくない状態だ。カイルは口から心臓が飛び出しそうだった。息をひそめ、ちらりと隣に目を向ける。すぐ手の届くところにサイファの横顔があった。モニタからの光が、端整な輪郭をよりくっきりと浮かび上がらせている。
「私の顔に何かついているか?」
「いえっ。何でもありません」
視線に気づいたサイファが振り向いて尋ねると、彼は逃げるように前に向き直った。
「危険だと判断したら即座に止める。いいな」
サイファは、まだ何も映っていない白い画面に目を向け、冷静に言った。
「はい。でもあの設定なら、危険な状態なんてなりえませんよね」
カイルは何気なく思ったことを口にした。しかし、サイファはそれに同意しなかった。
「人も機械も、絶対などということはありえない。気を抜くな」
「すみません……」
カイルは自らの甘さを素直に反省した。同時に、仕事に対する厳しい姿勢を目の当たりにし、サイファへの尊敬を新たにした。
「始まるぞ」
サイファがそう注意を促すと、向かい合うふたりの生徒がモニタに映し出された。
監視を始めてから一時間ほどが過ぎた。問題となるようなことは何も起こっていない。この時点でちょうど半数が試験を終えていた。
「さすがにこの設定だと、早く決着がつきますね」
「そうだな。もう少しリミット値を高くしても良かったのかもしれない」
カイルの緊張はだいぶほぐれてきていた。サイファとの会話も、次第に自然なものになっていった。
「でも、少しうらやましいです。私がアカデミー生のときは、こんなものがあることすら知りませんでした」
「あとで私と戦ってみるか?」
サイファは前を向いたまま、まるで表情を動かさずにさらりと言った。カイルは驚いて顔を真っ赤にすると、あたふたと目を泳がせた。
「えっ?! あっ、いや、あの……。力の差がありすぎて、私では相手にならないと……」
「冗談だ」
サイファは無表情で彼を突き放した。
「……ですよね」
カイルは乾いた笑いを張りつかせた。安堵の息をつきながらも、どこか残念そうだった。
「次が始まるぞ」
画面にふたりの生徒の姿が浮かび上がった。互いに身構えると、合図とともに戦い始めた。
「なかなかいいですね、彼。冷静で、防御にもそつがないですし」
しばらくモニタを眺めていたカイルは、軽く感心したように言った。サイファもうなずいた。
「ああ、ずいぶん成長したな」
彼のその物言いに反応し、カイルは目をぱちくりさせながら振り向いた。
「お知り合いですか?」
「モニタから目を離すな」
カイルはあわてて前を向いた。
「娘の友人だ」
サイファがそう答えたとき、モニタの中では、リックの放った一撃で勝負が決まっていた。
カイルは横目で様子を窺いながら、遠慮がちに尋ねた。
「まさかこれ、お嬢さんのクラス……ですか?」
「そうだ」
サイファは短く返事をした。そして、冷静な表情を保ったままで言葉をつなげた。
「問題ないとは思うが、万が一のときは頼む」
カイルは一瞬きょとんとしたが、すぐにはっとした。
「わかりました! 万が一、気を失われたときは、精いっぱい介抱させていただきます!」
今度はサイファが驚いた。思わず彼に振り向く。監視を始めて以降、モニタから目をそらせたのはこれが初めてである。ふいに、気が抜けたようにふっと笑ってうつむいた。そして再び顔を上げると、真剣なまなざしでカイルを見た。
「君が見るのは、私ではなくモニタの方だ。私に構わず監視を続けろ」
そう言うと、一瞬だけ視線を伏せ、すぐに戻した。
「あと、私が正当な理由なく戦いを中止しようとした場合には、君がそれを阻止してくれ。いいな」
「はい」
カイルは少しばつが悪そうに、しゅんとしていた。
「次が最後だな。ジーク、アンジェリカ」
試験は順調に進んでいき、とうとう最後の一組となった。ラウルが名を呼ぶと、ふたりはそろって前へ進み出た。そして、互いに顔を見合わせ、何も言わずに強気にニッと笑いあった。左右に分かれて、それぞれコクピットに乗り込む。
——絶対に負けないわ。
アンジェリカは表情を引き締めた。
——あの一ヶ月をまるまる活かせるチャンスだ。感謝するぜ、ラウル……!
ジークははやる気持ちを抑え、大きく深呼吸をした。
ウィィィ……ン。
電動音とともに蓋が閉まると、前面の大きなディスプレイにふたりの姿が映し出された。リックは祈るように両手を組み、不安そうにそれを見上げた。
「始め!」
ラウルはヘッドセットのマイクに向かって合図をした。
ジークは身構え、呪文を唱え始めた。しかし、アンジェリカは両手を上に向けただけで、呪文の詠唱なしに天から稲妻を落としてきた。ジークは飛び込むように地に臥せ、直撃の寸前で結界を張り、かろうじてそれを防いだ。だが、安堵している暇などなかった。彼女は光の矢を容赦なく雨のように降らせた。彼の頭上とそのまわりに切れ目なく打ち込んでいく。まわりの地面が次第にえぐれていった。
嘘だろ、もたねぇ……っ!
身を屈めたまま、ジークはさらに二重に結界を張った。それでも結界ごしに衝撃が伝わってくる。足元も心もとなく揺れる。このままでは上の結界か下の地面か、どちらかが崩れるのは時間の問題だ。
くそっ! どうすれば……。
ジークは顔をしかめながら天を仰ぎ、様子をうかがっていた。
一瞬、わずかに攻撃が途切れた。彼はその好機を逃さなかった。すばやく結界を飛び出し、大きな溝を飛び越え、アンジェリカに突進していく。彼女は冷静に腕を前に突き出すと、手のひらから大きな光球を放った。
ジークは横に飛び退き、すんでのところでそれをよける。が、完全にはよけきれなかった。熱いものが肩をかすめ、焼けるような痛みが走った。顔を歪ませ倒れ込みながらも、短く呪文を唱え反撃をする。瞬時に彼女の両腕は厚く凍りついた。
しかし、それよりわずかに早く、彼女は衝撃波を放っていた。ジークは地面を転がりながら攻撃をかわすと、その勢いのまま立ち上がった。そして、呪文を唱えながら、再び彼女に猛突進していく。
グワッ!!
アンジェリカを中心に風が起こったかと思うと、大きく渦を巻きながら、彼女を取り囲むように高く火柱が上がった。ジークは踏ん張って足を止めると、あわてて後ろに飛び退いた。あやうく火炎に巻き込まれるところだった。この炎につかまれば、完全にアウトだっただろう。
どうする……。この炎は防御壁にもなっていて、簡単には貫けそうもない。彼女が次の行動を起こすまで待つか、それとも——。
ジークは炎の壁の上方を見上げた。そして、決意を固めたように小さくうなずくと、短く助走をつけ強く地面を蹴った。同時に、地面に光球を叩きつけ、その反動を利用し、高く上へ飛び上がった。炎壁の倍ほどの高さで、彼の体は最高点に達した。下方に目をやると、その中央にたたずむアンジェリカの黒い頭がはっきりと見えた。
やっぱり頭の上はガラ空きだぜ!
ニッと笑うと、声をひそめて呪文を唱えようとした。しかしそのとき、下方で何かが白く強くキラリと光った。なんだろうと目を凝らした瞬間、その光は凄まじい勢いで自分に向かってきた。光の矢だ! かわそうにも、自由落下中では思うように素早く身動きがとれない。彼は急いで前方に結界を張った。間一髪、間に合った……かに思えたが、光の矢は軽々とその結界を突き破り、彼の腹を串刺しにした。
ふたりを映していたディスプレイが、そこでブラックアウトした。生徒たちはみな息を呑んだ。声を上げるものは誰もいない。その部屋は、水を打ったように静まり返っていた。
ウィィィ……ン。
静寂を切り裂く耳障りな電動音。それとともに、ふたつのコクピットが開いていった。
リックは固唾を飲んで、組み合わせた両手にぐっと力を込めた。
「作戦大成功!」
アンジェリカは無邪気に笑いながら、コクピットから飛び降りた。一方、ジークは青ざめた顔で、腹を押さえながら、よろよろと降りた。額には脂汗がにじんでいる。
「ジーク、大丈夫?!」
リックは大急ぎで駆け寄り、彼の肩に手を掛け覗き込んだ。アンジェリカは彼のただならぬ様子を目にし、顔から血の気が引いた。前回の対戦後のことがフラッシュバックする。
「なっさけねぇ……」
ジークは引きつりながらも、なんとか笑顔を作って見せた。
「心配すんな。そう痛いわけじゃねぇよ。腹を貫通したような気持ち悪い感触が残ってるだけだ」
しかし、彼の気分がすぐれない理由はそれだけではなかった。射抜かれる瞬間の激しい恐怖が、くっきりと脳裏に焼きついていたのだ。圧倒的な力に感じた戦慄、本能が予感した死への怯え、そして彼女に対する深い怖れ——。だが、それは言えなかったし、言ってはならないと思った。
「これで今回の試験は終わりだ。解散」
ラウルは静まったままの生徒たちに、一方的に終了を告げた。そして、ジークに顔を向けると、ゆっくりと腕を組んだ。いつものように冷淡なまなざしで睨むように見つめる。
「来い」
短く高圧的にそう言うと、あごをしゃくって背を向けた。
「なんだろう?」
リックは疑問と不安が入り混じり、怪訝につぶやいた。ジークはがっくりと肩を落としていた。
「たぶん説教だ。俺、いいとこなしだったしな。一ヶ月も修業してきて、結果このザマだ。殺されるかも……」
彼の顔はさらに青ざめていった。
「そんな! ジークだって頑張ってたよ!」
「そうよ、ジークが悪いわけじゃないわ」
ふたりの慰めも、今のジークには響かなかった。
「おまえらは先に帰ってくれ」
疲れたように投げやりにそう頼むと、覇気のない足どりでラウルの背中を目指し歩き出した。
リックとアンジェリカは、心配そうに顔を見合わせた。
「お嬢さん、すごいですね……。学生の戦い方じゃないですよ」
カイルは呆然としながら言った。
「ああ」
まさか、ここまでとは——。サイファは前かがみになり、膝にひじをついて手を組んだ。そして、何も映っていない真っ黒のモニタを、思いつめた表情で見つめていた。
ガチャ——。
扉が開き、ラウルともうひとりが入ってきた。
「連れてきたぞ」
「やあ、ジーク君」
サイファはソファから立ち上がり、にっこり笑いながら歩み寄った。暗い顔で視線を落としていたジークは、サイファの登場に思わず目を見開いた。
「サイファさん! どうして……」
「ラウルのお目付役というところかな」
ラウルが隣で思いきり睨んでいたが、サイファはまるで視界に入っていないかのように話を続けた。
「今の試験、すべて見させてもらったよ」
ジークはこわばった表情でうつむいた。
「気にすることはない。君は頑張ったよ」
サイファは彼の肩をポンとたたいた。ラウルは無表情で腕を組み、冷たく付け加えた。
「浅はかな行動や愚かな判断もあったがな」
ジークはますます落ち込んだ。
「なあ、ジーク君」
サイファは真剣に、じっと彼を見つめた。ジークはわずかに目線を上げ、不安そうに顔を曇らせた。
「君も感じたと思うが、あの子は成長している。これからもまだ伸びるだろう」
ジークは無言でわずかにうなずいた。
「こんなことを言うのは酷だが、君はアンジェリカには勝てない。潜在能力が違いすぎる。今日の戦いを見て実感したよ」
サイファは淡々と語った。そして、どこか遠くを見やるように視線を空に泳がせた。ジークは口をきゅっと結んだ。
「君も知っているだろうが、魔導に関して言えば、持って生まれたものに依るところが大きい。努力だけでは乗り越えられない壁があるんだ」
サイファの表情がけわしくなった。重く、静かに、言葉をつなげる。
「アンジェリカは計り知れない力を持って生まれてきた。私でも適わないほどの力だ。……そうだろう?」
そう言って、ラウルに同意を求めた。鋭い視線を彼に流す。
「……そうだな」
ラウルは眉をひそめ睨み返し、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「そういうことだ」
サイファはジークに向き直り、急ににっこりと笑顔になった。
「もちろん、可能性を信じて挑戦しつづけるのは君の自由だが、あまり思いつめるとつらいぞ」
「戦いでは勝てないが、それ以外の試験なら可能性もないわけではないだろう。難しいと思うがな」
ラウルは腕組みをしたままで、横から口をはさんできた。ジークは何も言葉が出なかった。ただ暗い顔でうなだれるだけだった。
「そう落ち込むな。そうだ、昼食をおごるよ」
サイファはジークの隣に並び、彼の背中に手をまわした。そして、思い出したように、ラウルに振り向いた。
「ラウル、おまえも来るか?」
「おまえに借りを作るのはごめんだ」
「おごるとは言ってないぞ」
ラウルは怒りをたたえた瞳で、ぞっとするほど冷たく睨みつけると、何も言わず部屋を出ていった。しかし、それに震え上がったのは無関係のジークの方で、当の本人であるサイファは平然としていた。
「カイル、明日までに報告書を作成しておいてくれ」
「あっ、はい!」
すっかり傍観者となっていたカイルは、突然に話を振られ、少しうろたえた。今が仕事中であることをすっかり忘れていた。
「さ、行こうか、ジーク君」
サイファは彼の肩を抱き、ふたりで部屋を出ていった。
カイルはうらやましそうにその光景を眺めながら、いろいろ考えをめぐらせていた。サイファと少年はどういう関係なのだろうか。ラウルとの間には何かあるのだろうか。自分はお昼ごはんに誘われもしなかった……。そして、薄暗いモニタールームにひとり取り残された事実に気がつくと、泣きたい気持ちでため息をついた。