目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

閉じる


<<最初から読む

54 / 94ページ

54. 小さなライバル

「なんだったんだよ、今日の試験」
 ジークは思いきり疲れた声をあげながら、手を伸ばし机に突っ伏した。隣にやってきたリックは乾いた笑いを張りつけている。
「うん、やたら難しかったよね」
「一応、全部埋めたけど、合っている自信はないわ」
 アンジェリカもめずらしく不安そうだった。三人はそろってため息をついた。
「ラウルのやつ、難しい問題で俺たちが苦しむのを見て、憂さ晴らしでもしてんじゃねぇか?」
 ジークは体を起こし、ほおづえをついた。口をとがらせ、眉をひそめ、不愉快感をあらわにしている。
「まさか」
 笑いながらリックはそう答えたが、強く否定することは出来なかった。いつもだったら真っ先に反論するはずのアンジェリカは、口を閉ざしたままだ。頭の中で試験問題のことを考えているらしく、ジークたちの会話はうわの空だった。
「帰るか!」
 ジークは嫌な気持ちを払拭するかのように声を張り上げ、勢いよく立ち上がった。鞄をつかんで肩に引っ掛けると、戸口に向かって歩き出した。リックもそのあとに続く。
「あ、待って」
 我にかえったアンジェリカが、後ろからふたりを呼び止めた。
「ルナちゃんのところへ行かない?」
 振り返ったふたりに、小首を傾げながら尋ねた。しかし、ジークの反応はつれないものだった。
「この時間じゃ、まだラウルのところにはいないだろ」
「だからお母さんたちのところに行くの。ちゃんと許可ももらったし」
 アンジェリカは、うきうきした笑顔を見せた。それでもジークの反応は鈍かった。
 リックは少し考えたあと、はっとして口を開いた。
「それってまさか、王妃様のところ……ってこと?」
「そう。大丈夫よ、話は通しておいてくれるって」
「でも、僕たちが行ってもいいのかなぁ」
「気にしなくてもいいわよ」
 アンジェリカは事も無げにさらりと言った。しかし、リックは笑いながら顔をこわばらせていた。名門ラグランジェ家のアンジェリカと違って、ただの一般民間人の自分が王妃様の部屋に行くなんて、本当に許されるのだろうか。そのことだけが心配だった。しかし、よく考えてみると、王妃様も元一般民間人である。もしかしたら、だから、そのあたりのことには寛大なのかもしれない。リックは必死の理由づけをして、そう思うことにした。
「俺、パス」
 一生懸命に考えを巡らせていたリックの隣で、ジークはあっさりと断った。あからさまに気がのっていない声だ。アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「どうしてよ」
「あしたも試験があるだろ。そんなことしてる場合じゃねぇよ」
 彼が本当にそう思っているかどうかはわからない。だが、少なくともアンジェリカには言いわけじみた理由に聞こえた。彼女はますます不機嫌になっていった。ほほを限界までふくらませる。しかし、それ以上、強く誘うことはしなかった。
「……まあいいけど。行きましょう、リック」
「そうだね」
 リックがにっこり笑うと、アンジェリカもつられて笑顔になった。ふたり並んで廊下へと出ていく。振り返りもせずに遠ざかる後ろ姿を、ジークはじっと見つめていた。
「……待て。やっぱり俺も行く」
 ジークはふたりに駆け寄り、無理やり間に割って入った。
「もうっ! ジーク、ちょっと変よ」
 彼に弾かれたアンジェリカは、眉をひそめ、彼を睨みつけた。
「気が変わったんだよ」
 ジークはあさっての方向を見たまま、ぶっきらぼうに言い返した。

 三人は並んで王宮を歩いていた。その道すがら、アンジェリカはユールベルのことをふたりに話した。長期休暇中のことだったので、ふたりは知らなかったのだ。彼女も詳しいことを知っているわけではなかったので、話せたのは睡眠薬で自殺を図ったことと、寮に戻ったという事実だけだった。
「そっか……」
 リックは言葉少なにあいづちを打った。多少、ショックを受けている様子がうかがえた。ジークもけわしい顔つきでうつむいた。
「今はどうしてるんだ?」
「うん。ちゃんとアカデミーには来ているみたいよ。何回か見かけたわ」
「まあ、良かったじゃねぇか」
 しかし、アンジェリカは納得していないようだった。
「さあ、どうかしら。心の傷なんて治るものじゃないわ。一生、抱えていくのよ」
 感情を見せないように、無表情で淡々と語った。リックはそんな彼女の横顔をじっと見つめた。
「でも、上手くつきあっていくことは出来るよね?」
 彼が自分のことを言っているのだと、アンジェリカはすぐにわかった。顔を曇らせ目を伏せる。
「私だって、どうなるかわからないわ」
「おまえは大丈夫だ」
 ジークはきっぱりと言い切った。アンジェリカはそれが気に入らなかった。
「簡単に言わないでくれる?」
「大丈夫だ」
 ジークはもういちど言い切った。それからポケットに手を突っ込んでうつむく。
「俺……ら、がいるだろ」
 ぎこちなく言葉をつなげる。アンジェリカはとまどいながら、複雑な表情を浮かべた。そう言われても自信がなかった。怖かった。それでも、彼の気持ちに応えるように、なんとか微笑みを作ってみせた。
「そういえば、レオナルドはどうしてるの?」
 ジークの話を聞いて、リックはふいにレオナルドのことを思い出した。ジークはその名前を耳にすると、露骨に嫌な顔をした。
「どうでもいいだろ、あんな奴のこと」
 アンジェリカが口を開くより早く、ジークは不機嫌に吐きすてた。一刻も早くその話題を打ち切りたいようだった。その徹底した嫌い方がおかしくて、リックはこっそりと笑った。
「なんか他に楽しい話はねぇのかよ」
「あ、そうだわ」
 ジークが話題の催促をすると、アンジェリカはふいに何かを思い出し、ぱっと顔を輝かせた。首にかかっていた細い銀の鎖を引っ張り、服の中から小さなリングを取り出す。彼女はそれを親指と人さし指でつまみ、ほほに軽くくっつけると、無邪気な笑顔を見せた。ジークは困惑して顔を赤らめながら、目を泳がせていた。
「まだお礼を言っていなかったわね。ありがとう」
「あ、あぁ……」
「え? なになに? それどうしたの?」
 リックが興味津々で首を伸ばしてきた。
「ジークからの誕生日プレゼントよ。サイズがちょっと大きかったからネックレスにしてみたの」
 アンジェリカは屈託なく嬉しそうに話した。隣でジークは大きく口を開け、声にならない叫びをあげながら動きを止めた。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
 リックは驚いたように、しげしげとジークを見た。
「へぇ、そうだったんだ」
 ジークは彼の視線から逃れるように顔をそむけた。そうする以外になかった。
 ふいに、アンジェリカの前に、無言で手のひらが差し出された。ジークのものだ。何かを催促しているようだが、アンジェリカには彼の意図がわからなかった。目をそらせている彼に、きょとんとした表情を向ける。
「それ、貸せよ。サイズを直してきてやる」
 彼女を見ようともせず、ぶっきらぼうにぼそぼそと言った。そんな彼に、アンジェリカはにっこりと笑いかけた。
「いいわよ、このままで。いつかちょうど良くなると思うから」
 ジークは思わず彼女に振り向いた。まっすぐに視線が合うと、慌ててすぐに目を伏せた。

 ラウルの医務室を通り過ぎ、さらに王宮の奥へと向かった。ジークもリックも、ここまで来るのは初めてである。途中には何人もの衛兵がいたが、皆、アンジェリカに一礼し、すんなりと通してくれた。アカデミーにいると忘れてしまうが、やはりアンジェリカは名門ラグランジェ家の娘なのだと思い知らされる。だが、彼女自身はそういう目でみられることを快く思っていない。ジークたちはそのことを知っていたので、あえて口には出さなかった。
 奥に進むにしたがって、次第にあたりは格調高くなっていく。柱は荘厳で存在感があり、それでいて繊細な装飾が施されている。階段は幅広く緩やかなカーブを描き、手すりにはやはり細やかな模様が彫り込まれている。そして、なんといっても圧巻なのが、空間の使い方である。横にも縦にも壮大に広がる、贅沢でただっ広い空間。そこにたたずむ人間を圧倒させるには十分すぎるスケールだ。足音が高く遠い天井に大きく反響する。ふたりの緊張感は否が応にも高まっていった。
 階段を上がり突きあたったところに、大きな重量感のある扉があった。もちろんここにも優美な装飾が一面に施されている。両脇には、槍を持ち、剣を携えた厳い衛兵がひとりづつ、背筋を伸ばして立っていた。アンジェリカが現れるとふたりそろって一礼したが、すぐに元の姿勢に戻り、それ以降は微動だにしなかった。
 アンジェリカは扉についた丸い鉄輪を打ちつけ、応答を待った。
「いらっしゃい」
 ゆっくりと開いた扉から、レイチェルが姿を現した。いつも通りのドレス、いつも通りの笑顔。ジークもリックも、少しだけ緊張がほどけた。ふたりがぺこりと頭を下げると、彼女は優しく微笑み返した。
「ルナちゃん、いる?」
「ええ」
 レイチェルが招き入れると、アンジェリカは小走りで駆け込んでいった。ジークもリックも、緊張しながらぎこちなく足を踏み入れた。
「こんにちは!」
「そんなに急がなくても逃げやしないわよ」
 王妃アルティナはテーブルにひじをつき、軽快に走るアンジェリカを眺めながら目を細めた。
「今日は賑やかになりそうね」
「すみません、僕たちまで来てしまって」
 遅れてやってきたリックは、申しわけなさそうに頭を下げた。ジークも続いて頭を下げる。
「いいのよ。私は賑やかな方が好きなんだから」
 アルティナは白い歯を見せた。

「……寝ているのね」
 ルナのベッドを覗き込んで、アンジェリカは少し落胆した声を出した。ルナはベッドの中央で、すやすやと寝息を立てて眠っていた。できれば目を開いたところが見たかった。そして、いろんな反応が見たかった。それでも、ひとまわり大きくなった赤ん坊を目にして、嬉しそうに顔をほころばせた。隣にやってきたリックも、にっこりしながら見下ろした。
「だいぶ大きくなったわよね」
「うん」
 ふたりは笑顔を見合わせた。
「ほっぺぷくぷく」
 アンジェリカはルナの丸い頬を、人さし指で軽くつついた。その感触の柔らかさに、ますます表情が弛んでいく。
「あんまり触ると起こしちゃうよ」
 リックは優しくたしなめた。アンジェリカは素直に手を引っ込めた。

「ん?」
 リックはふくらはぎに何かが当たったのを感じて振り返った。
「おまえがジークか?」
 むっつりと不機嫌顔の小さな男の子が、腕組みをしながらリックを睨み上げていた。
「あら、アルス。久しぶりね」
 アンジェリカがにっこりと笑いかけたが、少年はちらりと彼女を見ただけで、笑顔を返さない。
「アルスって……王子様?」
 リックは目をぱちくりさせながら、アンジェリカに問いかけた。
「そうよ。アルティナさんと似ているでしょう?」
 確かに銀の髪は、アルティナと同じ輝きを放っている。だが、目つきは王子の方がかなり悪い。
「おい、おまえがジークかって聞いてるんだよ」
 返答もせずふたりで話していることにいらついているようだった。ますますふてぶてしい態度で再び尋ねる。リックは屈み込んで、小さな王子に人なつこい笑顔を近づけた。
「ジークは僕じゃなくて、あっちの人だよ」
 リックは離れたところで窓の外を眺めているジークを指さした。
 アルスはてくてくと歩いていくと、背後からジークのふくらはぎあたりに蹴りを入れた。
「てっ……何だテメーは」
 ジークは振り返り、むっつり顔の小さな少年を目にすると、思いきり睨みつけた。しかし少年も負けてはいない。口をヘの字に曲げ、睨み返す。
「ぜんぶおまえのせいだ!」
 そう言って、再びジークを蹴り上げた。
「ってーな! いきなり何なんだよ!」
 その様子を眺めていたアルティナは、愉快にあははと笑った。
「そのくらいは許してやって。アンジェリカがめったに来なくなって、寂しい思いをしてたんだから」
 ジークは目を見開いて、少年とアルティナを交互に見比べた。
「え、こいつ……いや、えっと……王子ですか? でも何で俺……オイ、蹴るな!」
「おまえがアンジェリカをひとりじめにしてたんだろう!」
「は?」
 そうか、こいつ、アンジェリカのことが……。ジークはふとサイファから聞いた昔話を思い出した。なんとなく似ている。幼い日のレオナルドがこのチビ王子、レイチェルさんがアンジェリカ、そして、サイファさんが俺……。ジークはそこまで考えて、一気に顔を上気させた。
「あ、なんか顔が赤いぞ。変な想像してたんだろう! ア……んんっ!」
 ジークは騒ぎだした王子の口を手でふさぎ、体ごと抱えて、部屋の隅へと走っていった。
「なにをするんだ!」
 口をふさぐ手が離れると同時に、王子は勢いよく噛みついた。
「おまえが変なことを言い出すからだ!」
 ジークは壁を背にしゃがみこみ、アルスと同じ目線で言い返した。アルスはじとっとジークを見つめた。
「おまえ、アンジェリカのことが好きなんだろ?」
「……おまえみたいなガキんちょには関係ねぇ」
 あまりにもストレートな問いかけに、ジークは絶句し動揺した。しかし、それを悟られないよう平静を装って、ぶっきらぼうに返事をした。だが、アルスはごまかされなかった。いたずらな顔をのぞかせてニッと笑う。
「認めたら譲ってやってもいいぜ」
「バーカ。譲るとか譲らなねぇとか、アンジェリカはモノじゃねぇだろ」
 ジークはアルスのおでこを人さし指で軽く弾いた。

「あ、デコピンした」
 離れたところからふたりの様子をうかがっていたリックが、ぽつりとつぶやいた。だいぶ遠いため、ジークたちの会話は聞こえない。
「あの、いいんですか? 放っておいて」
 アルティナに振り返り、不安そうに尋ねた。彼女は椅子の背もたれにゆったりと身を預け、余裕の笑顔を見せている。
「いいの、いいの。懐かしいわね、デコピン」
「なに? デコピンって」
 アンジェリカはリックを見上げた。彼は苦笑いしながら首を傾げた。そんなくだらないことを彼女に教えていいものかどうか迷った。

「けっ、えらそうに。おまえよりオレの方が、アンジェリカと長いつきあいなんだよ」
 アルスはひたいをさすりながら強がり、くやしまぎれに変な対抗意識を見せた。ジークはむっとして眉根を寄せた。
「笑わせんな。たいして違わねぇだろ。それに俺の方が一緒にいた時間は長いはずだぜ。アカデミーにいる間、ずーっと一緒なんだからな!」
 最後は勝ち誇ったように言い放った。そんな大人げない彼に、小さな王子は冷めた目を向けた。
「なんだ、やっぱり好きなんじゃん」
「……黙れよ、ませガキ」
 ジークは顔を赤らめながら睨みつけた。すっかりアルスのペースである。
「うわさのジークがこんな男らしくないヤツだとは思わなかった。好きなら好きって言えよな」
 頭の後ろで手を組み、あきれたようにわざとらしくため息をついた。その小憎たらしい態度に、ジークは逆さ吊りにしてやりたい衝動に駆られた。だが、もちろんそんなことは出来ない。
「おまえみたいなガキんちょにはわからねぇだろうが、大人には複雑な事情ってモンがあるんだよ」
 そう言いわけをするのが精一杯だった。しかし、自分で自分のことを「大人」と言ったことに、違和感とむずがゆさを覚えた。微妙に身体をよじらせる。
「オトナの事情ってなんだよ」
 アルスは横柄に腕を組み、ジークを睨んだ。
「ガキにはわからねぇって言ったろ」
 ジークはそっけなく答えた。アルスはさらに目つきを悪くして睨みつける。
「ガキって言うな」
「ガキはガキだろ」
「……アンジェリカに洗いざらいぶちまけるぞ」
「ぐっ……」
 アルスが切り札を出すと、ジークは言葉に窮した。完全にジークの負けである。
「ガキじゃなくてアルスって呼べよな」
 小さな王子は、楽しそうに白い歯を見せた。

「お茶が入っているわよ」
 部屋の中央に戻ってきたジークとアルスに、レイチェルはにっこり微笑んで声を掛けた。
「あ、すみません」
 ジークはティーカップが用意された席についた。座るなり喉を潤すようにひとくち流し込むと、ふうとため息をついた。アルティナは隣でひじをつき、にこにこしながら彼を見つめていた。向かいにはアンジェリカとリックも座っている。
「ふたりで何の話だったの?」
 レイチェルは、席につかず通り過ぎようとするアルスに声を掛けた。
「男と男のひみつの話だ。な、ジーク」
「……ああ」
 なぜか得意げにそう言うアルスに、ジークは素直に同意した。その言い方に多少の不満はあったものの、秘密にしておいてくれるのはありがたかった。
「なによそれ」
 アンジェリカは冷めた声でつぶやいた。しかし、それ以上、詮索することはしなかった。ジークは心の中で、そっと胸を撫で下ろしていた。
 アルスは駆け足でルナのベッドへ向かった。木の格子の隙間から、ルナの様子をうかがう。
「あ、目を覚ましたぞ」
「本当?!」
 アンジェリカとリックも慌てて駆け寄り、上から覗き込んだ。ルナの青い大きな瞳が、見なれないふたりを捉えて止まった。
「あ、こっちを見ているわ!」
 アンジェリカが歓喜の声をあげた。
「ね、抱き上げてもいい?」
 アンジェリカはレイチェルに振り返って許可を求めた。
「重いわよ? リックさん、手伝ってあげてもらえるかしら」
「はい」
 レイチェルは少し不安そうだったが、アンジェリカはうきうきしていた。リックの服を引っ張り、早くと急かす。リックはルナを抱き上げると、そっと彼女に手渡した。細い腕にずっしりと重みがかかる。
「ん……けっこう重たいわね」
「大丈夫?」
 リックが手を差し出したまま、心配そうに尋ねる。アンジェリカはにっこりと笑顔を返した。
 ルナはくりっとした瞳で、アンジェリカをじっと見つめた。不思議なものでも見るかのように、ずっと目を離さない。アンジェリカはそれが可愛くてたまらなかった。自然と顔がほころぶ。アルスは背伸びをしていたが、届くはずもなく、ルナの背中しか見えない。
「ジーク、俺を持ち上げてくれ」
「めんどくせぇなぁ」
 お茶を飲んですっかり落ち着いていたジークは、やる気のない声を漏らした。アルスは横目でジークを非難するようなまなざしを送った。
「アンジェリカ、あのな、ジークが……」
「わーー!! わかったって!!」
 転げ落ちるように椅子から飛び降り、王子の元へ駆け寄る。そして、彼の希望どおり後ろから抱え上げ、ルナの顔が見えるようにしてやる。
「おまえ性格わるいぞ」
 ジークが小声でそう言うと、アルスはにっと笑った。
「ルナ、オレだぞ」
 アルスが優しく声をかけると、ルナは彼に目を向け、小さな手を伸ばした。彼はその手をつかまえて、そっと柔らかく握った。ルナの表情が動き、かすかに笑顔を見せた。
「へへっ、かわいいよな」
「ああそうだな」
 ジークは気のない返事をした。

 ギィ……。
 扉の開く音に、皆が振り向く。そこから姿を現したのはラウルだった。彼は無言で部屋へ進み入ってきた。まっすぐにルナを抱いたアンジェリカの元へと向かう。
「アンジェリカ」
「うん……バイバイ」
 彼女は腕の中の赤ん坊に別れをささやいた。名残惜しそうにしながらも、素直にラウルに手渡した。ルナはラウルと目が合うと、はっきりと笑顔になり、嬉しそうに手足をばたつかせた。「あーうー」と何かを伝えたがっているような声も発していた。
「おまえたち、あしたの試験の準備は出来ているのか」
 ルナの様子に目を奪われていた三人は、ラウルのその言葉で急に現実に引き戻された。
「今日の試験はなんだったんだよ。あんなもん習ってねぇぞ」
 ジークは抱えていた王子を下ろしながら文句を言った。ラウルの返答は、案の定すげないものだった。
「習ったことばかりやっていても駄目だ」
「なんだそりゃ」
 反抗心からそんな反応をとってみたが、ラウルの言うことも一理あるとジークは思った。だが、素直に認めるのはくやしいので、そんな素振りは見せないようにした。
「世話になったな」
 ラウルはレイチェルとアルティナに振り返った。レイチェルはにっこり笑った。
「もう少しゆっくりしていったら?」
「いや、今日は帰ることにする」
 ラウルは早々に立ち去ろうとしたが、レイチェルが立ち上がるのを見て、その場にとどまった。ラウルの前まで来ると、彼女は背伸びをしてルナを覗き込んだ。笑顔で小さく手を振って、別れの挨拶をする。
「もう帰っちゃうの?」
 アンジェリカは寂しそうに尋ねた。
「おまえたちも、もう帰れ」
「そうだね、ジーク、帰ろうか」
「ああ」
 ジークは考えごとをしながら虚ろに返事をした。
「私はお母さんと帰るから」
 アンジェリカはそう言って、ふたりに手を振った。リックとジークも小さく手を振り返した。
「ジーク、また来るんだろ?」
 アルスは一歩進み出て、ジークを見上げた。
「さぁな。そんなに暇じゃねぇからな」
 ジークは王子と目を合わさずにそっけなく言った。本当は、身分不相応なところに何度も出入りなど出来ないという思いがあったが、それは口には出せなかった。出してはいけないような気がした。

 ルナを抱いたラウルと、ジーク、リックは並んで歩いていた。互いに、一緒に帰りたいと思っているわけではなかったが、方向が同じなので必然的にそうなってしまった。燃えるようなオレンジ色の空がジークたちを照らし、廊下に長い影を作る。
「ジーク、王子様になつかれちゃったみたいだね」
「俺が来ればアンジェリカも来るとでも思ってんだろ」
 ジークは無感情に言った。リックはあごに人さし指をあて、首をひねった。
「そうかなぁ。ジークに来てほしそうだったけど」
 それについてのジークの返答はなかった。
 話が途切れ、沈黙が三人をつつむ。ルナもなぜかおとなしい。バラバラな靴音が、不安定なリズムを刻む。リックは何か気まずいものを感じていた。ジークとふたりなら、話が途切れても沈黙が続いても平気だが、ラウルがいることで、いつもと違う空気が流れていた。
 ラウルの医務室の前まで来ると、リックは内心ほっとした。無言で扉を開けるラウルに、リックは小さく礼をした。ジークは前を向いたまま、あえて視線をそらせている。
「あまり深く関わるな」
 背中を向けたまま、ラウルは唐突にそう言った。忠告とも脅しともとれる言葉。ジークは驚いて振り向く。
「どういうことだ」
 低い声でうなるように問いつめる。しかし、ラウルは答えることなく医務室へ入っていった。ジークがあとを追おうとすると、ピシャリと扉が閉められた。残されたふたりは、とまどう顔を見合わせた。


55. 新たな再会

「ジーク、早く!!」
「なんでそんなに急いでんだよ」
 小走りで急かすリックを面倒くさそうに見ると、ジークは大きな口を開けてあくびをした。
 この日はいつもより1時間も早くリックに叩き起こされ、朝食も口にしないまま家を出た。なぜこんなに急ぐのか、ジークにはまったく理由がわからなかった。リックに尋ねても、ごまかされたり、はぐらかされたりするだけで、まともに答えてくれない。彼のそわそわした落ち着かない様子を見ると、何かあるのだろうとは思ったが、そのうちわかるだろうと、しつこく問いつめることはしなかった。

 アカデミーの近くまで来ると、いつになく賑やかなことに気がついた。始業時間よりだいぶ早いにもかかわらず、人だかりが出来ている。
「そうか、今日は合格発表か。知り合いが受験したのか?」
「ん……まあね」
 リックは歯切れ悪く認めた。
「ジーク! リック!」
 人だかりの中から出てきたアンジェリカが、手を振りながら駆け寄ってきた。
「おう、おまえも早いな」
「また変なのが入ってくるんじゃないかって、心配で落ち着かなくって」
 アンジェリカは笑いながら肩をすくめた。「変なの」とは、ラグランジェ家の人間を指しているのだと、ふたりにはすぐにわかった。去年はレオナルドとユールベルのふたりが入学してきた。そのせいで、いろいろな騒動に巻き込まれた。彼女が心配するのも無理はない。
「いたのか?」
 ジークは緊張した面持ちで尋ねた。しかし、彼女は小さく笑って、首を横に振った。
「今年は知った人間はいなかったわ」
「そうか、良かったな」
 ジークはほっと息をついて胸を撫で下ろした。
「ジークたちは?」
「ああ、リックの知り合いが受験したらしい……だろ?」
 同意を求めてリックを振り返ったが、すでに彼は合格発表を見に向かっていた。人だかりにもぐり込んでいく背中が見えた。しかし、そこはアンジェリカが出てきたのとは違うところだ。
「あっちは確か、医学科ね」
 彼の消えていった方に目をやりながら、彼女はぽつりとつぶやいた。
 ジークは不意をつかれたように感じた。リックの知り合いも、自分たちと同じ魔導全科だと勝手に思い込んでいたのだ。医学に興味のあるリックの知り合いとなると、ますます見当がつかない。怪訝な顔で軽く首をひねると、小走りでリックの後を追った。アンジェリカもその後に続いて走り出した。

 医学科の合格発表を見ている群衆は、魔導全科より少なく、かき分けるのもまだ楽な方だった。
「よかったね、おめでとう!」
 リックの声が聞こえる。彼は誰かと手を取りあって喜んでいるようだった。相手は人垣に阻まれてよく見えない。
「ありがとう!」
 返ってきたのは女性の声だった。どこかで聞き覚えのある声。まさか、と思いながら、ジークは乱暴に目の前の人を押しのける。そして、目に飛び込んできたのは、明るい栗色の髪、濃青色の瞳、すらりと伸びた手足の……。
「セリカ?!」
 ジークとアンジェリカは同時に声を発した。ふたりとも驚いて目を見開き、呆然とした。セリカは一年生のときに事件を起こし、自主退学した元クラスメイトだ。それがなぜ再びアカデミーに、しかも魔導全科ではなく医学科に……。
「あら、久しぶりっ」
 ふたりに気がついたセリカは、にっこりと笑いかけた。リックも振り返ると、照れたような笑顔を見せた。
 ジークは腕を組んで、リックの背中に蹴りを入れた。
「どういうこった」
「説明すると長くなるんだけど……」
 リックはごまかし笑いを浮かべながら逃げようとしたが、ジークは容赦しなかった。青筋を立て、引きつった顔でニヤリと笑い、逃げ腰の彼にぐいと迫った。
「幸い時間はたっぷりあるぜ」
 リックは早く来てしまったことを少し後悔した。

 ジーク、リック、アンジェリカ、セリカの四人は、アカデミーの食堂に来ていた。アンジェリカとセリカは紅茶だけだったが、朝食がまだだったジークとリックはサンドイッチも頼んでいた。窓際の丸テーブルに席をとり、腰を下ろす。始業前という時間のため、食堂内は昼どきの喧噪が嘘のような静けさだった。ジークたちの他には、奥に数人いるだけである。
「で、どういうことなんだよ」
 ジークは憮然として切り出すと、さっそくサンドイッチにかぶりついた。
「うーん、どこから話したらいいのかな……」
「アカデミーを辞めてから、私、花屋でアルバイトしてたの」
 リックが悩んでいると、隣のセリカが切り出した。
「その花屋で感動の再会ってか」
 ジークはたっぷりサンドイッチをほおばったまま、皮肉めいた調子で口をはさんだ。
「もう、ジーク。とりあえずおとなしく聞いてよ」
 大人げない彼を、アンジェリカがたしなめた。ジークはムッとしながらも、反論はしなかった。無言でサンドイッチを口に運ぶ。
 セリカは多少とまどいながらも、話を続けることにした。
「私は主に配達の仕事だったの。ときどきアカデミーや王宮にも行くことがあって、ものすごく嫌だったんだけど、仕事だから仕方ないでしょ? 帽子を目深にかぶって、ばれないようにこそこそ行ってたわけ」
 セリカはそこまで言うと、紅茶を手にとり一息ついた。彼女の話を受けて、今度はリックが説明を始めた。
「で、一年くらい前だったかな。僕たちが二年になってしばらくした頃だね。図書室に行く途中で、そんな彼女を見かけて後を追ったんだ。ジークたちには、忘れ物をしたからって先に行ってもらったと思う」
「そういえばあったわね、そんなこと。リックが忘れ物なんてめずらしいと思ったもの」
 アンジェリカは、忘れかけていた過去の疑問が解決して、すっきりした顔を見せていた。一方のジークは相変わらず不機嫌なままだった。腕を組み、リックを横目で睨む。
「なんでそんな嘘をついたんだよ」
「……だって、ジークやアンジェリカとは、顔をあわせづらいかなと思って」
 少し遠慮がちに、しかしはっきりとそう言った。確かにリックの言うとおりだ。ジークには思い当たることがあった。目を伏せ、口をつぐむ。
 リックは紅茶をひとくち飲むと、話を続けた。
「それから、セリカと会うようになったんだ。お互いの悩みとかを相談しあったりね」
「リックの母親のことも聞いたわ」
 セリカはそう言いつつ、不安そうにちらりとリックをうかがった。彼はその不安を払拭するように、にっこりと頷いた。彼女も頷き返して話を続けようとしたが、そのときふいに割り込みが入った。
「母親のことって?」
 アンジェリカが疑問を投げかけた。リックはまっすぐ彼女に顔を向けて答える。
「ジークは知ってるんだけど、僕の母親、倒れて入院してたんだ」
「そういえば、ジークがそんなこと言っていたかしら」
 アンジェリカは独り言のようにつぶやくと、口元に手を添えて、遠い記憶を探った。ジークは自分が話したかどうか覚えていなかったので、だんまりを決めこんだ。彼女から逃げるように、そっと視線をそらす。
 リックはそんな彼を見て小さく笑った。それから再び彼女に向き直ると、少し補足をした。
「もともと体が弱くて入院することが多かったんだけど、このときの入院は長引いちゃってね」
 セリカはその後を引き継いで、話を続けた。
「リック、アカデミーの勉強とお母さんの世話で、だいぶ参っているみたいだったのよね。だから、私がお母さんのことをお手伝いすることにしたの。アルバイトは夕方早くに終わっちゃうし、時間は持て余してたから」
 少し照れくさそうに笑って肩をすくめた。リックは彼女に優しく笑いかけた。
「本当にすごく助かったよ」
「お母さん優しい方だし、いろんな話も聞けて、私も楽しかったわよ」
 ふたりは顔を見合わせて笑顔を交わした。
「おいっ、続き!」
 いらついたように急かすと、ジークはサンドイッチを口いっぱいにほおばった。ふたりはきょとんとして彼に目をやり、再び顔を見合わせると、くすりと笑いあった。
「続きよね。えっと……それで病院に通うようになって、医療現場を間近で見るうちに、こういうのもいいなって思うようになったの」
 セリカはジークを眺めながら、昔を懐かしむように目を細め、微かに笑みを浮かべた。
「おまえには世界を任せられない、なんてジークには言われちゃったけど、目の前の人を助けるのなら、私にもできるんじゃないかってね」
 ジークはげほげほとむせ、涙目になりながら、慌ててティーカップを手にとった。
「ジーク、ずいぶんきついことを言ったわね」
 アンジェリカが驚いてジークを見た。彼は目尻を拭いながら、しきりに首をかしげていた。
「……言ったか? 俺」
「ひっどーい、忘れたの?!」
 セリカはわざと怒ったような顔を作ったが、すぐに吹き出してあははと笑った。その様子からすると、自分を責めているわけではないようだ。ジークは安堵してほっと息をついた。
「それから半年くらいかな。一生懸命、必死で勉強したわ。母とふたりきりだし、アカデミー以外に行く金銭的余裕はないのよね。魔導全科を受けたときより、ずっと真面目にやったんじゃないかなぁ」
 ゆっくりとほおづえをつき、遠くを見やる。いろいろと大変だったはずだが、それを思い返す彼女の表情はすがすがしいものだった。
「で、合格よ」
 ほおづえをVサインに変えウインクする。そして、真面目な顔でリックに向き直ると、穏やかに微笑んだ。
「リックが支えてくれたおかげよ」
「ううん、セリカが努力した結果だよ」
 ジークは冷めた目でふたりを見ながら、リックのサンドイッチを奪ってかぶりついた。
「親友だと思ってたのに、俺らにはまったくの秘密かよ」
 口にサンドイッチを入れたまま、行儀悪く文句をつける。
「ごめんね」
「リックを責めないで。私が頼んだのよ、言わないでって」
 申しわけなさそうに弱い声で謝るリックを、セリカが慌ててかばった。そして、淡々と語り出す。
「まだ気持ちの整理がついてなかったし、あなたたちがどんな反応をするのかも怖かったのよ」
 ふいにジークとアンジェリカの表情に翳りがさした。それを見て、セリカは焦って追加した。
「あっ、今はもう大丈夫よ」
 そう言ったあと、今度は彼女の顔に陰が落ちた。
「アンジェリカにはまだ恨まれてるかもしれないけど……」
「初めから恨んでなんかいないわ」
 アンジェリカは少しムッとしてセリカを見た。そしてきっぱりと言い放つ。
「ただ、あなたのことが苦手なだけよ」
 セリカは一瞬、唖然としたが、すぐにくすくすと笑い出した。
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ」
 机に両ひじをつき、アンジェリカをじっと見つめる。
「ずいぶん大人っぽくなったわね」
「えっ?」
 唐突に思いがけないことを言われて、アンジェリカはきょとんとした。セリカは組んだ両手の上にあごを乗せ、意味ありげな笑みを口元に浮かべた。
「あなたにはいい女になってもらわなきゃって思ってたけど、心配なかったわね」
「どういう意味?」
「ふふっ、私のプライドの話。詳しいことはジークに聞いてみて」
 紅茶を飲んでいたジークは思いきりむせ込んだ。
「……テメー、それ仕返しのつもりか」
 ジークは半分困ったように眉をひそめると、顔を紅潮させながら、上目づかいでセリカを睨んだ。彼女は楽しそうに屈託なく笑った。
「どういうこと?」
 何がなんだかわからないアンジェリカは、いらついた様子で、ジークとセリカを交互に見た。ジークは片手で頭を抱え込み、セリカはただにこにこと笑っている。ふたりとも答えてくれそうもない。もっと強い調子で問いつめようとした、そのとき。
 キーン、コーン——。
 始業のチャイムが鳴った。
「えっ?! もうこんな時間?!」
 リックは腕時計を見て、顔から血の気が引いた。ジークは飛び上がるように立ち上がった。
「行くぞ! おいっ」
「あ、うん」
 釈然としないまま、アンジェリカも席を立った。
「じゃ、セリカ、またあとでね」
 リックは軽く右手を上げた。
「ええ」
 セリカは手を振って、三人を見送った。

 キーン、コーン——。
 終業のチャイムが鳴った。ラウルは教本を閉じ、机の上に叩きつけるように置いた。
「今日はここまでだ。レポートは今週中に提出だ。忘れるな」
 鋭い目で、静まり返った教室を見渡す。返事がないのはいつものことだ。それを要求しているわけではない。ひととおり睨みをきかせると、教本と資料を小脇に抱え、大きな足どりで教室をあとにした。

「レポート多すぎなんだよ」
 ジークはぶつくさと文句を言いながら、鞄の中に筆記具と教本、ノートを放り込む。リックとアンジェリカは、いつものようにジークの席にやってきた。
「図書室、寄ってくだろ? レポートやらねぇとな」
「そうね。今回は量が多いから、早めにやっておかなきゃ」
 アンジェリカは小さく肩をすくめた。ジークは軽くため息をつくと、鞄を閉じて立ち上がった。
「ごめん、僕はちょっと……」
 リックは申しわけなさそうに眉根を寄せ、顔の前で両手を合わせた。ジークはすぐにピンと来た。
「ああ、セリカか?」
「うん、ホントごめんね」
 焦ったように早口でそう言うと、手を振りながら、いそいそと小走りで出ていった。

「……なんかショックよね」
「何がだ?」
 ジークはアンジェリカに振り向いた。彼女は不機嫌に、そしてどこか寂しげに、顔を曇らせた。
「私たちといるより、セリカといる方が楽しいみたい」
「楽しいんだろ」
 ジークはさも当然という調子でさらりと言った。しかし、アンジェリカは納得がいかない。むっとして口をとがらせる。
「ジークはそれでいいの?」
「仕方ねぇだろ」
「セリカのこともずっと内緒にされていたのよ?」
「そりゃ初めは頭にきたけどな。セリカに頼まれたから言えねぇって事情もあったわけだし」
 確かに彼の言うとおりである。それでもアンジェリカの気はおさまらなかった。頬をふくらませ、八つ当たりぎみに彼を睨み上げる。
 ジークは鞄を肩にかけ、わずかにうつむいた。
「やきもち、焼いてるのか?」
「……そうかも」
 彼が静かに問いかけると、アンジェリカは真面目な顔で考え、短くぽつりと返事をした。
「行くぞ」
 ジークは突然にそう言って、教室を出ようと歩き出した。
「え?」
 彼女が思わずもらしたその声に、彼の足が止まった。しかし、振り返ることなく、平静を保った声で言葉を落とした。
「図書室、行くんだろ」
「あ、うん」
 彼女は我にかえったように頷くと、鞄を抱えて、ジークの元まで駆けていった。

「ジーク」
 開け放たれた扉から、リックがひょいと顔をのぞかせた。ジークは狭い部屋の中央で横になり、教本を眺めていた。まわりにはうずたかく積まれた本や雑誌の山、散乱した服、食べかけのスナック菓子などで、足の踏み場もない。
「ああ、入れよ」
 ジークは気の抜けた声で返事をすると、起き上がってあぐらをかいた。
「ごめんね、今日は。セリカが合格したらお祝いしてあげるって約束だったんだ」
 リックはそんなことを言いながら、靴を脱いで、部屋に足を踏み入れた。脱ぎ散らかした服を脇にどけ、自分が座るスペースを作る。いつものことなので、もうすっかり手慣れている。
「気にしてねぇよ」
「だよね」
 予想外の反応に、ジークは面くらった。唖然としてリックを見上げる。彼はにこにこしながら腰を下ろした。
「たまには僕がいないのもいいでしょ?」
「どういう意味だ」
 けわしい目つきでリックを睨む。しかし、彼はとぼけた調子で返した。
「あれ? 説明してほしいの?」
「……いや、いい」
 ジークは耳元を赤らめながら目をそらせ、複雑な表情でうつむいた。
「アンジェリカは……けっこうショックだったみたいだぜ」
「うん、もともとセリカのことを良く思ってなかったもんね」
 リックは寂しげな笑顔を浮かべた。ジークは下を向いたまま、難しい顔で考え込んでいた。
「いや、もしかしたら、あいつは……」
「なに?」
 言葉を詰まらせたジークに、続きを促す。しかし、彼は額に手をあて顔をしかめた。
「何でもねぇよ」
 ぼそりとそう言い、ふいに缶ジュースを放り投げた。リックはゆるい放物線を描いたそれを受け取ると、ジークの横顔をうかがった。何か思い悩んでいる様子が見て取れる。しかし、尋ねても機嫌が悪くなるだけで、答えてはくれないだろう。過去の経験上、そのあたりのことはよくわかっていた。気にはなったが、この場はそっとしておくことにした。
「それじゃ、もう帰るね。レポートやらなくちゃ」
「ああ、頑張れよ」
 立ち上がるリックにちらりと目を向け、けだるそうに右手を上げた。リックは靴をはきながら、缶ジュースを持った右手を上げて答えた。
「ジークもね」
 にっこり笑いかけてくるリックの顔を、ジークはまともに見ることが出来なかった。


56. ふたり

「賑やかだね」
 リックは鞄を手に、ジークの席へとやってきた。明るい窓の外で、たくさんのはしゃいだ声が弾けている。
「ああ、今日は入学式だからな」
 ジークは鞄に教本を投げ込みながら、たいして興味なさそうに答えた。
「なんかいいよね。こういうはつらつとした元気な声って。新鮮な気持ちになれるよ」
「なにじじくさいこと言ってんだよ、おまえ」
 ジークが呆れた視線を送ると、リックは少し恥ずかしそうに、ごまかし笑いを浮かべた。
「なに? 私の声じゃ元気になれないっていうの?」
 アンジェリカが口をとがらせながら、後ろからひょっこり顔をのぞかせた。しかし、目は怒っていない。すぐに、にっこりと笑顔に変わった。リックも優しく笑顔を返した。
「メシ、食ってくだろ?」
 ジークは立ち上がり、鞄を肩にかけると、ふたりに振り向いた。今日は試験のため、午前のみとなっている。ジークとリックの家は遠いため、こういうときは食べてから帰ることが多いのだ。
 しかし、今日のリックはいつもと反応が違った。
「ごめん、僕はセリカと約束してるんだ」
 少し申しわけなさそうに、しかしどこか浮かれた声を返す。そのとき、アンジェリカの顔がわずかに曇ったのを、ジークは見逃さなかった。目を伏せ、少し考えると、静かに返事をする。
「……なら、仕方ねぇな」
 アンジェリカの表情がさらに曇った。
「ごめんね」
 リックは軽く右手を上げると、そそくさと出ていった。

「そんな暗い顔してんじゃねぇよ」
「別に、してないわよ」
 アンジェリカはムッとしてジークを見上げた。彼も不機嫌さを顔中に広げている。
「鏡、見てみろよ」
「……」
 ぶっきらぼうに言い放った彼のセリフに、彼女は言葉を失い、わずかにうつむいた。強がってはみたが、彼の言うとおりであることに、彼女自身も気がついていた。
「そんなに嫌なら、行くなって言えばよかっただろ」
 感情を抑えた低い声が、追いうちをかける。彼女はカッとして、彼を睨み上げた。
「そんなの言えるわけないじゃない」
「だったらあきらめろ」
 冷静をよそおったその声は、わずかに震えていた。だが、彼女はそれに気づく余裕はなかった。怒りまかせに声を張り上げる。
「どうしてそんなに冷たいことを言うの?!」
「ばっかやろう! そんな顔を見せられるこっちの身にもなってみろ!」
 アンジェリカの感情的な責め言葉が、ジークの壁を崩した。抑えていた感情を一気に噴出させる。
「なに、そんなことで怒っているの?! わけがわからない!」
 彼女は少しうろたえながらも、負けじと甲高い声をあげた。そして、激しく彼を睨みつけると、ぷいと背を向け、教室を出ていこうとした。
 ジークはとっさに彼女の手首をつかんだ。
「なによ!」
「俺が、悪かった」
 ジークは深くうつむき、噛み殺すように言った。
 アンジェリカは大きく目を見開いて、彼を見上げた。ジークがこんなにすぐに自分から折れるなどめずらしい。いや、めずらしいどころか、今までなかったことだ。その衝撃が、彼女の怒りを吹き飛ばした。
「私も……ごめんなさい」
 どまどったような小さな声で、彼女も謝った。
 ジークは顔を上げ、ぎこちなく笑いかけた。アンジェリカも安堵して、表情を緩めた。
「気晴らしに、どっか外に行かねぇか? いま食堂に行っても、リックたちと鉢合わせるだろうし」
 勢いづくジークに、アンジェリカは軽く首をかしげる。
「でも、あしたも試験よ」
「実技だけだろ」
 ジークは引かなかった。
「まあ、そうだけど……」
 アンジェリカはあいまいに答えながら、うつむき迷っている。ジークは、じっと彼女の返事を待った。
「……そうね、行くわ」
 迷いを吹っ切ってそう答えると、にっこりと笑顔を見せた。

「ジークたちを放ってきて良かったの?」
 セリカとリックは、食堂の窓際の席で、向かい合って昼食をとっていた。ちょうど昼どきということもあり、食堂内は空席が見つけられないほど混み合っている。それはいつもの光景だが、騒がしさはいつも以上だった。しかし、嫌な騒がしさではない。元気の良い新入生たちが、食堂内を歩き回りながら見学しているのが原因のようだ。
 リックは、いつもより心持ち声を張って答える。
「悪いとは思ってるけど、でも正直、僕がいない方がいいのかなって思うときもあるんだ」
「そうなの?」
 セリカはロールパンを持った手を止め、驚いたように彼に目を向けた。彼は少し寂しそうに笑ってうつむいた。
「ジークは人一倍、人目を気にするんだ。僕がいたんじゃ、ちょっとしたことでも、なかなか行動を起こせないんだよね」
「なんか、わかる気がするわ」
 セリカがそうあいづちを打つと、リックは下を向いたまま小さく笑った。フォークでサラダをつつきながら、話を続ける。
「この前も、アンジェリカに誕生日プレゼントを渡すだけなのに、僕に隠れてこそこそやってたみたいだし」
 セリカはその光景を想像し、ふふっと笑った。いかにもジークらしくて微笑ましい。
「だからときどきは、ふたりきりにしてあげるのも、いいんじゃないかなって」
「あら、なあに? それじゃ、私と一緒にいるのはジークのため?」
 セリカはいたずらっぽい笑みを浮かべ、下から覗き込みながら、からかうように問いかけた。リックはたじろぎもせず、にこりと笑いかけた。
「まさか。もちろんセリカと一緒にいたいからだよ」
 セリカは欲しかった答えをもらって、嬉しそうに、幸せそうに笑った。

「ジーク、もうずいぶん歩いたんだけど、どこまで行く気?」
 アンジェリカは不審がって尋ねた。アカデミーを出てから、すでに一時間は歩いている。
「もうすぐだ」
 ジークは茶色の紙袋を掲げ、にっと笑ってみせた。その紙袋には、途中で買ったサンドイッチが入っている。空腹を煽るその行為に、アンジェリカはムッとした。頬をふくらませ、うらめしそうに睨み上げる。
「着いたぜ」
 ジークは細い道を渡り、薄汚れたガードパイプに手をかけた。アンジェリカも、彼の隣で、そっとガードパイプに手をのせた。下から涼風が吹き上がる。彼女はとっさに目を閉じ、再びゆっくりと開いた。開けた視界に飛び込んできたものは、その先に広がる光景。驚いたように大きく目を見開き、そして次第に笑顔へと変わっていく。
「いい景色だろ」
 ジークはアンジェリカに振り向き、白い歯を見せ笑いかけた。下方には、白い川原と透明なせせらぎが、遠くまで広がっていた。水面に光が反射してきらきらと輝きを放ち、緩やかな流れはさらさらと軽やかな音を立てている。
 ここは以前、レオナルドとジークがふたりきりで話し合ったところである。ジークにとって、いい思い出の場所とはいいがたい。しかし、それでもここへ来たのは、単純にこの風景が好きだったからだ。このせせらぎの音を聞きたいと思ったのだ。
 アンジェリカは屈託なくジークに笑いかけた。
「あっちの階段から降りよう」
 彼は、ガードパイプの切れ目を指さした。ふたりはそこからのびる幅の狭い石段を伝って、川原へと降りていった。
 ジャ……。
 砂利というには少し大きすぎる白い小石が、濁った音を響かせる。
「うわ、ぐらぐらして足がとられるわ」
 スニーカーのジークと違って、革靴を履いているアンジェリカは、よりいっそう歩きづらいのだろう。こわごわと慎重に、でも楽しそうに、足を進めていく。
「もしかして、川原を歩くの、初めてか?」
「そうよ、悪い?」
「別に悪かねぇよ」
 世間知らずのお嬢さんと馬鹿にされた気がして、アンジェリカは不機嫌になりジークにつっかかる。彼は慌ててそれを否定した。
 ふたりは、安定の良い大きめの岩を選んで、それを椅子がわりにすることにした。腰を下ろし、買ってきたサンドイッチにかぶりつく。
「外で食べるのもいいわよね。こういうの、ピクニックっていうのかしら」
「ま、そんなもんだな」
 ふたりは顔を見合わせて笑いあった。澄んだ空気が、気持ちも明るく爽快にさせる。
 サンドイッチを食べ終わると、ジークは岩の上で仰向けに寝転がった。アンジェリカもそれを見て、同じように寝転がり、息を大きく吸い込んだ。適度に温まった岩肌が、心地よく眠りを誘う。ジークは大きくあくびをしながら伸びをした。アンジェリカは横目でそれを見ながら、くすりと笑った。
「試験はどうだった?」
 アンジェリカはぽつりと尋ねた。ジークは上を向いたままで答えた。
「まあまあ、だな」
「私も」
 ジークは頭の後ろで手を組み、大きく深呼吸をした。目を細めて空を見つめる。
「あいかわらず、あいつの試験はパターンが読めねぇっていうか、パターンがねぇっていうか……」
「きっと私たち、すごく鍛えられているわね」
「だろうな」
 アンジェリカは笑いながら言ったが、ジークはため息まじりに返事をした。そして、再び目を細めて遠くを見やる。
「入学してから二年間、おまえには一度も勝ててねぇけど……」
 アンジェリカは、ゆっくりジークに振り向いた。彼は、決意を秘めた瞳を、まっすぐ空に向けていた。
「今年こそは勝つつもりだぜ」
 静かに、しかし強気に、そう言い切った。
「年下の女に負けるのが許せないとか、まだ思ってるの?」
 それは最初に会ったときにジークが言っていたことだった。彼は自分に対してずっと対抗意識を燃やしていたが、根底にはそういう気持ちがあるからではないか。そんなこと、今さらどうでもいいことかもしれない。だが、アンジェリカは少し気になっていた。
「そんなんじゃねぇよ。一回くらい勝っとかないと、格好がつかねぇっていうか……」
「かっこつけたいから勝ちたいの?」
「あー、そういう意味じゃなくて、なんていうか……」
「私、手は抜かないわよ」
 アンジェリカのその言葉に反応して、ジークは思わず振り向いた。彼女は体ごと横向きになり、大きな漆黒の瞳でじっと彼を見つめていた。かすかに挑発的な表情。ジークはどきりとして、慌てて空に向き直った。
「あったりめぇだ。そんなんで勝っても、意味ねぇからな」
 わずかに声がうわずっていた。彼は赤みのさした顔を隠すように、頭の後ろで手を組んだまま、顔の横でひじを立てた。
「うん」
 アンジェリカも再び仰向けになり、まぶたを閉じて大きく空を吸い込んだ。

 遠くで子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。アンジェリカは起き上がって、声のする方に目をやった。数人の子供たちが、浅瀬を素足で走り回ったり、水を掛け合ったりしている。
「気持ち良さそう。私も裸足になろうかしら」
「危ねぇぞ。何が落ちてるかわからねぇし」
 ジークも体を起こした。
「じゃ、手だけひたしてくるわ」
 アンジェリカは右手を広げてにっこり笑うと、岩から飛び降り、川辺に向かって走り出した。
「おい、走ると危ねぇぞ!」
 ジークは慌てて追いかけた。
「平気よ。もう慣れたわ」
 そう言って振り返ったとたん、足元が不安定に滑り、体のバランスを失った。
「あっ」
「おい!」
 ジークは地面を強く蹴り、彼女に手を伸ばした。が、それと同時に、足を滑らせ、前につんのめった。そして、助けるつもりだった彼女の足に蹴つまずき、派手な音を立て、頭から浅瀬に突っ込んだ。全身を水流が飲み込み、あっというまにずぶ濡れになってしまった。
 一方のアンジェリカは、水の中に手と膝をついただけで、体はほとんど濡れずにすんでいた。顔についた水滴を腕で拭いながら立ち上がる。そして前を向くと、ジークの惨状が目に入ってきた。すぐには声が掛けられず、しばらく呆然と眺めていた。
「大丈夫……?」
 ジークはざぶざぶと音を立てながら立ち上がった。全身から雫が流れ落ちる。
「……っ……あははっ!」
「誰のせいだと思ってんだよ」
 耐えきれずに吹き出したアンジェリカを、ジークはじとっと睨んだ。
「ごめんなさい。でもあんまり情けない顔をしてるから……ふふふっ」
 謝りながらも笑いを止められない。
「あったまきた」
 ジークは小さくつぶやくようにそう言うと、うつむいてその場にしゃがみ込んだ。アンジェリカは怪訝な顔で近づき、そっと覗き込んだ。
「ジーク?」
 彼女の呼びかけに、彼はわずかに顔を上げた。上目づかいで不敵に笑う。アンジェリカは嫌な予感がして、後ろに下がろうとした。そのとき——。
「くらえっ!」
 ジークは両手で水をすくい、彼女に向け、思いきり放った。
「やっ……ちょっ……ジーク!」
 とっさに手で防いだものの、かなりの量を顔に浴びてしまった。再び水を掛けようとするジークから逃れようと、背を向け一歩踏み出そうとした。そのとき、再び小石に足をとられ、彼女の体が傾いた。
「きゃっ」
 ジークは倒れそうな彼女の体を、後ろから抱きとめた。
「だから走るなって!」
「だってジークが!」
 彼女は水滴を振りまきながら、勢いよく振り返った。
「……」
 思ったよりずっと近くにジークの顔があった。驚いて無言で前に向き直る。彼女は気まずいものを感じ、彼から離れようとした。しかし、彼女にまわされた彼の腕が、それを阻んだ。気のせいか、さらに力が込められたように感じた。背中には服ごしに水がしみてきた。冷たくはない。体温と鼓動が伝わってくる。早い鼓動。それに呼応するかのように、彼女の鼓動も強く早くなっていく。息苦しくて、声を出すこともできない。沈黙が続く——。
「さ、そろそろ帰るか!」
 ジークは明るく声を張り上げると、アンジェリカから手を放した。
「風邪ひかねぇうちにな」
 そう言いながら、彼女を残し、さっさと岸へ上がっていった。上着を脱ぎ、ねじって絞ると、ザッと音を立てて水が流れ落ちた。靴と靴下も脱ぎ、同様に水を絞る。
 アンジェリカは、まだ水辺で呆然と立ち尽くしていた。軽く握った左手で、胸を押さえる。
 なんだったの、今の——。
 ジークのいなくなった背中に、冷たい風が吹きつけ、熱を奪い去っていった。

 ラウルが扉を開けようとすると、中から初老の男が出てきた。白髪まじりの金髪をこざっぱりと刈りそろえ、濃青色のローブを品よく着こなしている。背筋をピンと伸ばし、青い瞳をラウルに向け、鋭く睨みつけた。
 しかし、ラウルは気にとめることなく、入れ違いにサイファの部屋へ入っていった。魔導省の塔。その最上階の個室だ。広くはないが、きちんと整理されている。ただ、机の上には、書類やファイルが乱雑に広げられていた。
「たまにはおまえの方から出向いたらどうだ」
「誰かさんにやっかいごとを頼まれたせいで忙しくてね」
 サイファは立ち上がり、ラウルの前に歩いていくと、書類の束で彼の肩を軽く叩いた。
「おまえの娘に関する手続きはこれで全てのはずだ。一部希望どおりにはいかなかったが、これが精一杯だ。あとで確認しておいてくれ」
 ラウルはそれを受け取ると、パラパラと目を通した。
「ずいぶん時間がかかったな」
「これでも嫌みを言われながら、強引に押し通したんだぞ。もう少しいたわりの言葉が欲しいところだよ」
 サイファは笑いながら肩をすくめた。しかし、すぐに真面目な顔になり、腕を組んだ。一歩前に出て、ラウルと反対向きで肩を並べる。
「入口ですれ違った男を見たか?」
「ラグランジェ家分家の隠居だろう」
 ラウルには質問の意図がわからなかった。隣のサイファに視線を流す。彼は、無表情でまっすぐ前を向いたまま、わずかに目を細めた。
「私の母方の祖父。そして、長老会との連絡係だ」
 長老会という言葉をきいて、ラウルの瞳に強い光が宿った。けわしい顔をサイファに向ける。
「何を言ってきた」
「くだらないお小言だよ。アンジェリカの婚約者を早く決めろ、ここ最近はこればかりだ」
 サイファはラウルに振り向き、まいったというふうに両手を広げ、おどけて見せた。しかし、彼の真意を、ラウルは見抜いていた。
「不満そうだな」
「動きがないのが不気味だ」
「ジークたちを餌にして、長老たちをおびき出すつもりか」
 核心をついた質問に、サイファは驚きの表情を見せた。しかし、すぐに顎を引き、挑みかけるようにニヤリと笑った。
「おまえにしては気づくのが遅かったな」
 ラウルは彼を冷たく睨んだ。その無言の問いかけに、サイファは冷静に答える。
「初めて会ったときから、いや、会う前から、利用させてもらうつもりだったよ。そうでなければ、会ったばかりの彼らに長老会のことを話したりはしなかった」
「レイチェルを……アンジェリカを悲しませることになってもか」
「私が利用しなくても、いずれは目をつけられるさ。万が一のとき、早い方が傷は浅くてすむ」
 真剣な顔でそう言ったあと、にっこり笑って追加した。
「彼がアンジェリカを託すに足る男か試す意味合いもあったんだがね」
 それから再び張りつめた表情に戻った。
「しかし、動きがないのではどうしようもない」
「おまえが思うほど、彼らは愚かではないということだ」
 ラウルは諭すように言った。サイファは上を仰いで、軽くため息をついた。
「だが、このままおとなしくしているとも思えない。私が彼らを無視し続ければ、いずれ実力行使に出るだろう」
 強く前を見据え、淡々と語った。
「おまえの目的は復讐か」
 ラウルは腕を組み、目を細めて視線を流した。サイファはふっと笑って目を閉じた。
「だとすれば……」
 後ろの机に右手をつく。
「最初のターゲットはおまえだ」
 シュッ——。
 空を切る音。サイファは机の上のペーパーナイフをとり、ラウルの喉を目がけて突き出した。先端が喉に当たるか当たらないかのギリギリのところで、ピタリと止まる。彼は眉をひそめ、ラウルを睨みつけた。だが、ラウルは微動だにしなかった。眉ひとつ動かさず、サイファを見下ろす。ふたりは、そのまま無言で相対した。
 先に動いたのはサイファだった。ふいに目を閉じ、表情をやわらげると、手を下ろした。
「私は復讐ではなく、幸せになるための行動を選んだ。それはこれからも変わらないよ」
 ナイフを机の上に置き、にっこりと笑った。
「では、私も餌か」
 ラウルは無表情で尋ねた。サイファは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「獲物より強くては、餌にならないだろう」
 笑いながら、ラウルの肩をポンと叩いた。
「おまえは、私が遠慮も気遣いも心配もしなくていい、唯一の存在だ」
「少しは遠慮くらいしてほしいがな」
 ラウルは冷たい視線を送った。しかし、サイファはにっこりと笑顔を返した。
「おまえがいてくれて良かったよ」
 深く気持ちを込めてそう言うと、ラウルの肩に手をかけ、ぐっと力をこめた。
 傾いた陽の光は、空と街並みを紅く染める。そして、大きなガラス窓を通して、ふたりの横顔をも彩った。


57. 臆病なすれ違い

「ごめんね。今日はセリカと約束があるから」
 リックは鞄を肩に掛けながら、ジークの席にやってきてそう言った。セリカの入学以来、放課後は彼女とふたりで図書室や食堂に寄ったり、一緒に帰ったりすることが多くなっていた。
「ああ」
「またあしたね」
 ジークは座ったまま軽く返事をし、アンジェリカは小さく手を振って見送った。リックは笑顔で手を振り返すと、そそくさと教室を出ていった。アンジェリカは、彼の姿が見えなくなったあとも、ずっとその戸口を見つめていた。そして、ジークは、そんな彼女の横顔を見つめていた。
「図書室、寄ってくか?」
 彼は不安を押し隠し、明るい声を作って誘い掛けると、椅子から立ち上がった。彼女は振り向くことなく、その場で目を伏せた。
「今日は帰るわ」
「そうか」
 まただ——。最近、アンジェリカが自分を避けている。ジークはそう感じていた。三人一緒のときは、今までと何ら変わりなく接してくれているが、ふたりきりになろうとはしないのだ。しかし、確信があるわけではない。気のせいかもしれない。
「送ってく」
「あ、私、お母さんのところに寄っていくからいいわ」
 アンジェリカは王宮の方を指さした。彼女の母レイチェルは、付き人として王妃の部屋にいる。誘われでもしない限り、ジークには行くことのできない場所だ。
「それじゃ、ね」
「ああ」
 アンジェリカはぎこちなくはにかんで手を振ると、小走りで教室をあとにした。
「っくしょう……!」
 ひとり教室に残されたジークは、顔をしかめながら、両手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
 なんだって俺は、あんなこと——。
 ジークは頭を抱え込み、がっくりと大きくうなだれた。

「アンジェリカ!」
 リックはアカデミーの門の脇に立っているアンジェリカに走り寄った。
「休みの日に呼び出したりしてごめんね」
 彼女は口元で両手を合わせ、申しわけなさそうにリックを見上げた。
「うん、それはいいけど、どうしたの?」
 彼はにっこりと笑顔を返した。本当はセリカとの約束をキャンセルしてここへ来たのだが、それは言わないことにした。彼女がジーク抜きで自分だけをこんなふうに呼び出すなんて、今までなかったことだ。何か、よほどのことがあるに違いない。リックはそう思った。
「うん……こんな話、リックは困るだけだと思うんだけど……」
 アンジェリカは歯切れ悪く口ごもった。いつもはっきりとした物言いの彼女にしてはめずらしい。
「気にしないでよ。言うだけでアンジェリカの気持ちが楽になるんだったらさ」
 彼女が負担に感じないよう、リックは軽い調子で笑って返した。アンジェリカもつられるようにかすかに笑った。

「え? ジークが怖い?」
 ガタン——。
 バスケットボールがバックボードに当たり、リングをかすめ、外側へ跳ね落ちた。人気のない休日の校庭に、ジャッと砂をこする濁った音が鳴る。アンジェリカは小走りで跳ねるボールを追いかけていった。
「どういうこと?」
 リックは彼女の背中に問いかけた。しかし返事はない。ボールをつかまえた彼女は、ドリブルで方向転換をすると、再びバスケットに向けて放った。大きなボールが、青空に大きく弧を描いていく。
 ダン——。
 今度はリングにぶつかり跳ね返った。ワンバウンドでキャッチすると、砂ぼこりのついたそれをぎゅっと抱え込む。
「自分でもよくわからないの」
 彼女は顔に陰りを落とし、かぼそい声でつぶやいた。
「三人一緒だと平気なんだけどね。ふたりになると、急に怖くなっちゃって」
「何か、あったの?」
 うつむく彼女の横顔を見つめながら、リックはできる限りの平静を装って尋ねた。
「そういうわけじゃ……だから、よくわからないのよ」
 そう言って顔を上げると、困ったように肩をすくめて笑ってみせた。リックは目を伏せ、口元に手を添えると、真剣な表情で考え込んだ。
「やっぱり困らせちゃったわね」
 彼女は苦笑いしながら、ゆるくチェストパスをした。
「困ってるわけじゃないよ」
 リックは両手でパスを受け取ると、安心させるようににっこりと笑顔を作った。しかし、彼女は申しわけなさそうに、再び小さく肩をすくめた。
「そんなに悩んでくれなくてもいいわ。聞いてくれただけでありがたいもの」
 リックは、そんなふうに気を遣う彼女がよけいに心配だった。ボールを脇に抱え、じっと彼女を見つめる。
「これからどうするの?」
「うん、いつまでも逃げているわけにはいかないわよね。とりあえずジークに謝るわ。あからさまに避けちゃったから、傷つけたかもしれないし」
 じっくり考えながら、気丈にしっかりと答える。それでもリックの不安は拭えなかった。
「大丈夫なの? 根本的な解決になってないけど」
「なんとかなるわ、きっと」
 アンジェリカは笑ってみせた。しかし、どこか強がりを含んでいるようにも感じられた。
 リックはバスケットに向き直ると、膝のバネを使って全身でボールを投げた。まっすぐバックボードに当たり、リングを半回転すると、白いネットに吸い込まれていった。勢いを失ったボールが地面に落ちて弾む。しだいに小刻みになるバウンドを、アンジェリカはぼんやりと眺めていた。
 リックは静かに口を開いた。
「ねぇ、ジークのことが嫌いになったわけじゃないよね」
「もちろんよ」
 彼女ははっきりと自信を持って答えた。彼はさらに畳み掛ける。
「ジークを怖いと思う理由はわからないんだよね」
「……ええ」
 今度は目を伏せ、とまどいがちに顔を曇らせた。リックはあごに手をあてると、小さく首をかしげた。
「もしかしたらさ、怖いのはジークじゃなくて、自分の気持ちなんじゃない?」
「え? 自分の気持ち?」
 アンジェリカはきょとんとした顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「それが何なのか、僕にはわからないけどね」
 リックはにっこりと微笑んだ。彼女は呆然とした。風が黒髪をさらさらと吹き流し、くすぐるように頬を撫でる。
 自分の気持ち——。
 そう思うだけで、なぜか鼓動が強く打つ。
「ジークが怖いなんて、そんなはずないよ。そう思わない?」
 そう付け足したリックの言葉に、彼女ははっとした。
「……そうよね。そうなのよ。そんなことあるはずないのよ。どうして私がジークを怖がらなきゃいけないわけ?!」
 次第に自分の中で怒りがエスカレートしていき、リックに向かってこぶしを握りまくし立てた。彼女の勢いにやや気押されながらも、彼は冷静に返事をした。
「でしょ? もう一度、ジークのことをよく見てみるといいと思うよ」
「……うん、そうね」
 アンジェリカはにこっと笑った。ふいに足元にコツンと何かが当たった。風に吹かれてゆっくりと転がり戻ってきたバスケットボールだった。彼女はそれを拾い上げると、額のあたりからバスケットに狙いをつけ、両手で押し出すように放った。オレンジ色のボールは大きく弧を描き、まっすぐ白いネットに吸い込まれていった。
 ダン——。
 ボールが地面を打つと同時に、彼女はぱっと顔を輝かせ、リックに振り返った。彼も笑顔で応えた。
「入ったね」
「リックに負けられないもの」
 アンジェリカは軽快な足どりで彼に駆け寄り、隣に並んだ。
「ありがとう」
 後ろで手を組み、うつむいてはにかむ。
「私、リックに大丈夫だって言ってほしかったのかもしれない」
 そう言って彼を見上げると、屈託なく笑いかけた。

「きのうはセリカと一緒だったのか? 何度か連絡したんだぜ」
 ジークは、爽やかな朝に似つかわしくない仏頂面で小石を蹴った。
「何か用だったの?」
 並んで歩くリックが振り向くと、ジークは逃げるように視線をそらせた。
「……相談ていうか……ちょっとな」
 小さな声でぼそりと答える。
「なに?」
 リックははっきりしないジークに、答えを促した。追い詰められた彼は、うつむいたまま目を細める。
「やっぱりいい……なんでもねぇよ!」
 拒絶するように、半ば投げやりに言い捨てた。リックは迷いながらも、思ったことをぶつけてみる。
「もしかして、アンジェリカのこと?」
「……なんでだよ」
 平静を装ったつもりだったが、明らかに動揺がにじんでいた。
「やっぱりそうなんだ」
 リックがぽつりとつぶやいた言葉を、ジークは否定しなかった。思いつめた表情でアスファルトの地面を見つめる。
「実はさ、僕、きのうアンジェリカと会ってたんだ」
「なに?」
 思いがけないリックの話に、ジークは驚きを隠せなかった。彼に振り向き、足を止める。リックもその場に立ち止まった。
「相談を受けてたんだよ。もしかして、そのことと関係があるんじゃない?」
 ジークははっとした。歯をくいしばり、顔をしかめ、頭をおさえる。そして、絞り出すように声を発した。
「アンジェリカ、なんて……」
「うん……ジークが怖い、って。何かあったわけじゃなく、そう思う理由もわからないんだって」
 リックは淡々と答えながらも、頭を抱える彼を、心配そうに見ていた。
「ねぇ、何があったの?」
 眉根を寄せ、けわしい顔で、ジークはしばらく考え込んでいた。そして、迷いながら口を開いた。
「あいつが、転びかけたとき……とっさに後ろから抱きとめた。そしたら、なんか妙な空気になっちまって……」
「それだけ? ……じゃないみたいだね」
 リックは、彼のこわばった顔を見て悟った。しかし、ジークは口を閉ざしたまま、自分から語ろうとはしなかった。
「そのとき思わず抱きしめちゃった、とか?」
「おまえっ、なんで……!」
 リックの当てずっぽうを聞いたとたん、ジークは顔を真っ赤にして後ろに飛び退いた。
「あ、そうなんだ」
「ちっ、違う! ほんの一瞬なんだ! そんなつもりはなくて、本当についっていうか」
 これ以上ないくらいに顔を赤らめ、あたふたとちぐはぐな言い訳をする。そのみっともなさに、自分自身ですぐに気がついた。両手でぐしゃっと髪を掴み、その場に崩れるように座り込んだ。
「俺、自分のバカさ加減がほとほと嫌になった……。何も言わねぇって決めたのに……これじゃ……」
 頭を抱え込んだまま、背中を丸め、力なく消え入りそうにつぶやいた。
「それでわかったよ。アンジェリカはそのことを無意識に感じとってとまどってたんだね」
「そうじゃねぇ!」
 リックが納得しかけたところで、ジークは急に強く否定した。
「そうじゃねぇんだ。あいつは、おまえのことが好きなんだよ……だから……」
「……え?」
 リックは本気で聞き違えたと思った。ジークはいらついて、アスファルトにこぶしを叩きつける。
「だから! あいつが好きなのはおまえなんだよ!」
「……それ、本気で言ってるの?」
「冗談でこんなことが言えるか!」
 再び地面を叩きつけ、膝に顔をうずめた。リックは怪訝な表情で、空を見上げた。
「ジークの勘違いだと思うけどなぁ」
「おまえは知らねぇだろ! おまえがセリカに会いに行くときの、あいつの寂しい顔を!」
 あくまで信じようとしないリックに、ジークの怒りは高まっていく。それでも、リックはどうしても納得がいかなかった。首をかしげ、考えを巡らせた。
「思うんだけどさ、アンジェリカって、恋愛とかまだよくわかってないんじゃないかな。そういう部分、きっとすごく子供なんだと思う」
「…………」
 ジークは反論できなかった。言われてみれば、確かにそういう気もする。
「だから、まだ誰のこともそんなふうに思ってるわけじゃないんだよ、きっと」
 リックはそう言って、ジークににっこり笑いかけた。だが、ジークはうなだれて、こぶしを膝の上で震わせていた。
「だとしても、もう……ダメだ……」
 たとえリックの言うとおりだとしても、自分が避けられているという事実は変わらない。自分の軽率な行動が招いた結果だ。すべてが終わった——。ジークは目の前が真っ暗になっていた。
「大丈夫だよ」
 リックはそう言って、再びにっこりと笑いかけた。
「そんなに簡単に壊れたりしないって」
 ジークの前に手を差しのべる。
「行こう。遅刻するよ」
 いっそこのままどこかへ逃げ出してしまいたい。そう思ったが、ジークには逃げ出す度胸すらなかった。暗い気持ちのままリックの手をとり、重い腰を上げ、鉛の足を引きずるように歩き出した。

「おはよう」
 ふたりが教室に入ると、アンジェリカが駆け寄ってきた。
「今日はちょっと遅かったわね」
「ジークがもたついちゃってね」
 リックは軽く陽気に言った。からかわれているのか、責められているのか、ごまかしてくれているのか、ジークにはわからなかった。だが、本当のことを言われるよりは、はるかにいい。
「……悪かったな」
 無愛想にぽつりとそうつぶやいた。
「どうしたの? 元気がないみたいだけど。体調でも悪いの?」
 アンジェリカは、いつもよりおとなしいジークを見て、心配そうに顔を覗き込んだ。
「別に、普通だ」
 顔をそむけ素っ気なく返事をすると、すたすたと自分の席へ足を進めた。アンジェリカはきょとんとして、彼の背中を見つめた。
「ごめんね。ちょっと機嫌が悪いみたい」
「そう……」
 リックは気づかってくれたが、彼女の不安は拭えなかった。
 きっと、私のせい——。
 アンジェリカは顔を上げ、泣き出しそうな気持ちを胸の奥へ仕舞い込んだ。

 キーンコーン——。
 終業のチャイムが鳴った。
「じゃ、僕はこれで」
 リックは素早く帰り支度を整えると、ふたりに手を振り教室を出ていった。
 ジークは小さく舌打ちした。今朝あんな話をしたばかりなのに、何の配慮も遠慮もなく、さっさとセリカのところへ行ってしまったリックを苦々しく思った。そして、アンジェリカとの橋渡しをしてくれるのではないかと期待をしてしまった自分の甘さに腹が立った。
「ジーク」
 いつのまにか、アンジェリカが席の前に立っていた。ジークは椅子に座ったまま、顔を上げることさえ出来なかった。机の上の鞄に乗せた手には、じわりと汗がにじんできた。
「図書室に寄っていかない?」
 思いがけない言葉だった。とっさに顔を上げ、彼女の表情を確かめた。快活な笑顔は、まっすぐ自分へと向けられている。
「ね?」
 アンジェリカはさらににっこり笑うと、ジークの瞳をじっと見つめ、腰をかがめて顔を近づけた。
「な……な……」
 ジークがうろたえた声をあげると、アンジェリカは両手ではさむように、彼の両頬をビタンと叩いた。彼は呆然としたが、ヒリヒリする頬の痛みで、すぐに我にかえった。
「な、なにしやがる!!」
 アンジェリカはあははと笑いながら、くるりとまわってジークから離れた。短いスカートがひらりと舞い、ふわりと落ち着く。
「ごめんね」
 その一瞬、ふいに真面目な表情をのぞかせたが、すぐににっこりと柔らかい笑顔に変わった。
「……ああ」
 ジークはそれだけの返事をするのが精一杯だった。
 ……もう、平気だから。アンジェリカは心の中で小さくつぶやいた。そして、ぱっと晴れやかな顔を上げる。
「行くんでしょ? 図書室」
 はつらつと問いかけてくる彼女を見て、ジークもようやく表情を和らげた。
「ああ」
 安堵の息をつき、鞄を肩に掛けながら立ち上がった。その顔には、もう暗い陰はなかった。


58. 弟

「二階の改修、完了しました」
 作業着姿の若い男が、帽子をとり、ひょっこりと顔をのぞかせた。その部屋では、三人がダイニングテーブルを囲み、静かに食事をとっていた。
「ご苦労さま」
 その中のひとり、ユリアは、微笑みを浮かべて立ち上がり、玄関まで彼を見送りに行った。残ったふたり、バルタスとその息子アンソニーは、黙々と食事を続けた。玄関からユリアの笑い声がかすかに聞こえた。
「アンソニー、あなたの部屋、二階に移してもいいわよ。行きたがっていたでしょう?」
 ユリアは戻ってくるなり上機嫌でそう言いながら席についた。
 アンソニーは、まだあどけない顔に、暗く思いつめた表情を浮かべ、沈むようにうつむいた。そして、手を止めると、重々しく口を開いた。
「二階にいた人は、どうなったんですか」
 ——ガシャン。
 ユリアはフォークを皿の上に取り落とした。顔から血の気が引いていた。手はわななき、視線は空を泳いでいる。その表情に浮かんでいたのは、明らかに怯えだった。
「……誰も、いなかったわよ」
 乾いた喉の奥から言葉を絞り出した。平静を装ったつもりだったが、その声はわずかに震えていた。
 バルタスは無反応だった。ユリアを気に掛ける素振りも見せず、無言で新聞を広げた。
 アンソニーは両親の態度に、ますます不信感を募らせた。顔に苦悩の色を浮かべると、ためらいながらも、心の中に秘めていた疑念を切り出した。
「あのとき、二階の部屋を壊して出てきた包帯の人……僕の姉なんじゃ……」
「黙りなさい」
 ユリアは冷たくピシャリと言い放ち、刺すように睨みつけた。
 アンソニーはびくりと体をこわばらせた。それでも母親の言いなりにはならなかった。おそるおそる言葉を紡いでいく。
「僕には、姉がいた。そんな記憶がかすかにあります」
「うるさい!!」
 彼女はまるで悲鳴のような叫び声をあげて立ち上がると、大きく手を振り上げ、アンソニーの頭をなぎ払った。彼の華奢な体は、吹っ飛ぶように椅子から転げ落ち、床に倒れ込んだ。
「いないったらいないのよ!!」
 ユリアは怒りまかせに机のへりにグラスを叩きつけ、次々と割っていった。バリン、ガシャン、と派手な音が部屋中に響いた。
 アンソニーは軽い脳震盪で起き上がることができないでいた。その上に、容赦なくガラスの破片が降り注いでいく。鋭利な破片のいくつかは、彼を切り、血をにじませた。
「うっ……」
 倒れ伏したままの少年から、わずかに苦悶のうめきが漏れた。
 ユリアはそれを耳にすると、はっと我にかえった。自分が起こした行動の結果を目の当たりにし、息をのんだ。
「く……うっ……!」
 喉を詰まらせたような唸り声を発すると、彼女は両手で顔を覆い、嗚咽を始めた。
「お願い……お願いだから、いい子でいて……! こんなことさせないで!!」
 膝から崩れ落ち、体を折り曲げ、背中を震わせる。
「あなたを愛しているわ。だから——」
 アンソニーは薄れゆく意識の中で、ぼんやりと母親の言葉を反芻した。
 バルタスの新聞をめくる音が、静まった部屋に響いた。

 外から聞こえる小鳥のさえずりが、気持ちを晴れやかにさせる。その日はそんな朝から始まった。

「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
 レイチェルは愛くるしい笑顔でサイファを見上げた。彼は、薄桜色の頬に軽く口づけし、重い扉を押し開けた。
 ——ゴン。
 鈍い音と同時に、扉を開ける手に抵抗を感じた。向こう側で何かがぶつかったらしい。ふたりは顔を見合わせた。
 サイファは薄く開いた隙間から首を出し、用心しながら外を窺った。
「君は……!」
 そこには、額を押さえた少年がうずくまっていた。

「こんな朝早くに、お客さん?」
 二階から降りてきたアンジェリカは、来客用のティーカップにお茶を注ぐ母親を見て、不思議そうに尋ねた。
「ええ、ほら、早く行かないと遅れるわよ」
 レイチェルは動揺することなく答え、さりげなく会話をそらせた。アンジェリカは掛時計に目をやると、小さくあっと声を漏らした。
「行ってきます!」
「気をつけて」
「え?」
 玄関に向かおうと急いでいたアンジェリカは、思わず足を止め振り返った。気をつけて、という言葉に引っかかりを感じたのだ。普段はこんなことを言わないのに……。怪訝な顔で母親を見つめた。
「行ってらっしゃい」
 レイチェルはにっこりとして言い直した。アンジェリカは少しとまどっていたが、もう一度「行ってきます」と言い、玄関へ走っていった。

 レイチェルがサイファの書斎に入ると、少年はあわてて額の濡れタオルを取り、ソファから立ち上がった。
「すみません」
「いいえ」
 ペコリと頭を下げた少年に、レイチェルは穏やかに微笑みかけ、お茶を差し出した。そして、再び座るよう促した。
 サイファは、皮張りの柔らかい椅子に腰掛け、大きなデスクにひじをついた。ソファに座る少年をじっと見つめる。彼は行儀よく背筋をぴんと伸ばし、緊張した面持ちでサイファを窺っていた。
「念のため確認するが、バルタスの息子、アンソニーだな」
「はい。すみません、こんな時間に……」
 アンソニーは畏縮し、肩をすくませ小さくなった。
 サイファはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「おかげで仕事には遅刻だよ」
「すみません……」
「もう、サイファったら」
 レイチェルはサイファをたしなめた。彼女にはいたずら心からの言葉だとわかるが、この少年にはそのような余裕はないだろう。
 サイファは笑いながらすぐに撤回した。
「ごめんごめん、気にしてないよ。それより……」
 声のトーンが真剣なものに変わった。アンソニーはびくりとした。
「何か話があって来たのだろう?」
 サイファは、身をすくめる少年の瞳を探った。だが、アンソニーは無言でうろたえるばかりだった。覚悟も決まらないまま、ここに来てしまった。そして、この場でもまだ迷っていた。額にうっすら汗がにじんできた。
 レイチェルは、後ろから彼の肩に優しく手をのせた。
「緊張しなくてもいいのよ。それとも、私は出てましょうか?」
「いえ! いてください!」
 少年はあわてて振り返り、幼さの残る顔で、すがるようにレイチェルを見上げた。サイファとふたりきりにされては、ますます何も言えなくなってしまいそうだった。
「わかったわ」
 彼女はアンソニーの隣に腰を下ろし、覗き込むようにしてにっこりと笑いかけた。
 彼は再びうつむいた。固く口を結び、何かを懸命に考えているようだった。やがて、意を決したように顔を上げると、まっすぐサイファに目を向けた。
「僕は、真実を知りたいんです」
 サイファは冷静な表情で彼を見つめた。続きを促しているようだった。
 アンソニーはもう逃げなかった。サイファの視線を受け止め、しっかりとした口調で話し始める。
「一年前、僕の家の二階を壊して出てきた人がいるんです。誰なんですか? なぜあそこにいたんですか? もし、何か知っていたら教えてください。両親は何も話してくれません。でも、様子がおかしくて……何かを隠していると思うんです」
 一気にそれだけ話しきると、強い光を宿した瞳で訴えた。
 サイファはため息をつき、物憂げに遠くを見やると、噛みしめるように静かに言った。
「真実か……」
 そして、厳しい表情をアンソニーに向けた。
「真実は時として残酷なものだよ。知らない方が良かった、ということもあるかもしれない」
 隣で聞いていたレイチェルの表情に、一瞬、翳りが落ちた。
「君にはそれを受け止める覚悟があるか?」
 サイファは少年の瞳の奥に問いかけた。蛇に睨まれた蛙のように、アンソニーは身がすくんで動けなくなった。恐怖心が彼を呑み込む。喉はからからに乾燥し、手先足先は感覚をなくしていた。それでも、真実を知りたいという強い思いが、彼をつき動かした。膝にのせたこぶしをぎゅっと握りしめた。
「僕の家で起こったことだから……知らなければいけないんじゃないかって……」
「知ってどうする」
 ようやくの返答を即座に切り返され、今度こそ答えに窮した。うつむき、眉根にしわを寄せ、唇をきつく噛みしめた。膝にのせたこぶしは、小刻みに震えていた。何か答えなければ……そう思うものの、頭が真っ白になり、何も考えられなかった。
 サイファは紙とペンを取り、さらさらと走り書きをした。そして、それを二つに折ると、アンソニーに差し出した。
「君が探し求める人は、ここにいる」
 アンソニーは顔を上げ、きょとんとした。
「私がしてやれるのはここまでだ。あとは君次第だよ」
「ありがとうございます!」
 顔をぱっと輝かせ、デスクに走り寄った。サイファの手から紙切れを受け取ると、ペコリと頭を下げた。震える手でそっと紙を開く。そこには、どこかの住所が書かれていた。
「ひとつ言っておくが、そこは男子禁制だ。気をつけるんだぞ」
「男の子は入っちゃダメってことよ」
 目をぱちくりさせているアンソニーを見て、レイチェルがくすりと笑って付け加えた。
「アンソニー」
「はい」
 サイファの呼びかけに、アンソニーはしっかりと返事をした。
「両親とは仲良くやっているか」
 その質問に一瞬ぽかんとしたが、すぐににっこりと微笑んで見せた。
「はい、僕のことを愛してると言ってくれます」
「そうか」
 サイファもにっこりと微笑み返した。

「ユールベルっ!」
 寮の門をくぐろうとしていたユールベルは、無言で振り返った。それと同時に、呼びかけたターニャが、後ろから飛びつくように腕を絡ませてきた。からりと笑顔を弾けさせている。ユールベルもつられてかすかに口元を緩めた。
「今日はひとり? レオナルドは?」
 たいていは一緒にいるはずの彼がいないことに気がつき、ターニャはあたりを見回しながら尋ねた。ユールベルは前を向いたまま、ぽつりと言った。
「補習」
「補習っ?!」
 ターニャの声は裏返った。アカデミーで補習など、今まで聞いたことがなかった。
「進級がやばかったとか?」
「そうみたいね」
 ユールベルは淡々と答えた。
「じゃあさ、久しぶりにふたりでアイス食べに行こっか」
「あなた、本当にアイスクリームが好きね」
 ユールベルの声は、少し呆れたような調子だったが、ターニャは気にしなかった。断らなかったことを、肯定の返事と捉えた。
「決まりね! 鞄だけ置いてこよ!」
 明るく笑って強引に話を進めると、ふたりで腕を組んだまま門をくぐった。
 玄関ポーチに差しかかったところで、突然、脇の植え込みから何かが飛び出してきた。ふたりはとっさに飛び退いて、防御の姿勢をとった。
「だ、誰?!」
 ターニャが少しうろたえたように呼びかけた。
 それは、猫や犬ではなく、人間だった。まだあどけない顔の少年である。澄んだ青の瞳は、まるで疑うことを知らない子供のようだった。そして、細く柔らかい金髪には、いくつもの木の葉が絡みついている。植え込みのものだろう。
 ユールベルは息を止め、目を見開いた。
「君! 男の子は入ってきちゃダメなのよ。そんなところで何してたの」
 ターニャは叱るようにそう言った。
 しかし、少年の耳にはまるで届いていないようだった。彼はユールベルだけを見ていた。彼女に向かって、一歩、前に進み出る。
「僕は、アンソニー=ウィル=ラグランジェです。あなたは?」
 ユールベルは固まった表情のまま、何も答えなかった。
「あなたは、僕の姉ではないんですか?」
「……私に、家族はいない」
 こわばった口元から、小さな声を漏らした。
 アンソニーは、その答えに納得しなかった。
「僕は二階に行ってはいけないと、ずっと言われてきました。その二階を壊して出てきたのはあなただった。そのときのことは覚えています」
「知らない……」
「なぜなんですか? 何があったんですか? どうなっていたんですか?」
「やめて! 関係ないわ!」
 次々とに畳み掛けてくるアンソニーの勢いに、ユールベルは取り繕う余裕をなくした。おびえたように頭を抱え込み、小刻みに何度も横に振り続けた。
「待って、待って!」
 ターニャがふたりの間に割って入った。
「君たちの間に何があったか知らないけど、ここで言い争うのはまずいわ」
 ふたりの肩を軽く叩き、交互に目を見ると、ねっ、と同意を求め、落ち着かせた。
「君が必死なのはわかるけど……」
 そう言いながら、アンソニーを見てくすりと笑い、髪に絡みついた葉っぱを取ろうと手を伸ばした。
 そのとたん、彼は顔をこわばらせ、固く目をつぶり、肩をすくませ、体を硬直させた。
 ユールベルははっとした。
 ——まさか、この反応。
 どくんと強く心臓が打った。嫌な予感に、体中から汗がにじんだ。
「見せて!」
 短くそう言うと、唐突にアンソニーに掴みかかった。
「ちょっと、ユールベル?!」
 ターニャの制止も聞かず、ユールベルは乱暴に彼の上衣をまくり上げた。そして、あらわになった背中に目を落とす。
 ——やっぱり……!
 ぎゅっと服を掴んだ彼女の右手は、小刻みに震え出した。
「どう……して……あなたは幸せなはずだと……」
「これって、まさか……」
 ターニャは眉をひそめた。
 彼の背中や脇腹には、いくつかの古い傷跡、そして最近のものと思われる切り傷と打撲の痕があった。
 アンソニーは困惑して、上目づかいでふたりを見た。
「あの、これは……僕が良い子じゃなかったから……」
「違う! 良い子とか良い子じゃないとか……誰にもこんなことをする権利なんてない!」
 ユールベルは唇を噛みしめ、涙をにじませた。しかし、すぐに手の甲でそれを拭い、表情をキッと引き締めると、アンソニーの手を引き走り出した。
「どこ行くの?! ねぇ、ユールベルっ!」
「来ないで!」
 あとを追おうとするターニャを、強い語調で牽制すると、そのまま走り去って行った。

「どこへ行くんですか」
 不安がるアンソニーの質問にも答えず、ユールベルは彼の手を引き走り続けた。アカデミーを突っ切り、王宮へと駆け込んでいく。
「ラウル!」
 医務室の扉を開くなり、声の限りに叫んだ。そして、アンソニーを中へ押しやり、背中をまくって見せた。
「この子を助けて」
 真摯にまっすぐラウルを見つめる。
「そういうことか」
 彼はそれを見るなり、彼女の言わんとすることを悟った。机にひじをのせ、小さくため息をついた。
「その傷と打撲の手当てはする」
 ユールベルは眉をひそめた。彼は無表情で言葉を続けた。
「だが、それ以上のことは求めるな。サイファに頼め」
「いまさら、おじさまにどんな顔をして会えっていうの。あなたしかいないから、だから頼んでいるのに!」
「だったら、あきらめるんだな」
 ——パン!
 ユールベルは、彼の頬に大きく平手打ちをした。奥歯を噛みしめ、激しく睨みつける。
「勝手に助けたかと思えば、冷たく突き放したり……いつも勝手で気まぐれで……」
 唸るようにそう言うと、目に溢れんばかりの涙をため、浅い呼吸を繰り返す。
「やっぱりあなたなんて大嫌い!」
 精一杯の声で叫ぶと、大粒の涙をこぼしながら、もういちど平手打ちをした。ラウルはなすがままでそれを受け止めた。左頬にはわずかに赤みがさしていた。
 ユールベルはくるりと踵を返すと、アンソニーの手を引き、走って出ていった。

 ——どうしよう。
 ラウルの医務室から離れると、途方に暮れて壁を背に座り込み、ぐったりとうなだれた。
 アンソニーはその隣に膝をつき、心配そうに覗き込んだ。
「姉さん……」
「違う」
 彼女は否定した。しかし、アンソニーはそれを信じなかった。
「だって、僕のことでこんなに一生懸命になってくれている」
 ユールベルはさらに頭を沈めた。
「……あなたのことを憎んでさえいたのに……あなたひとり幸せだと……」
 アンソニーは当惑した。彼女の言うことがよくわからなかった。しかし、なんとか元気づけようと笑ってみせた。
「僕は大丈夫。怒られたのは僕が悪かったからなんです。母さんは僕を愛してくれているって」
「違うわ。愛していたら、そんなことはしない」
 ユールベルはゆっくりと静かに、だが、はっきりと言い切った。
 アンソニーの顔に怯えたような色が浮かんだ。彼も、今まで何の疑問も持たなかったわけではない。ただ、そう信じることで耐えてきたのだ。しかし、それも今、崩れ去ろうとしていた。
 ユールベルは彼をじっと見つめると、立ち上がり、その手を強く握った。

「おじさま……」
 ユールベルはおそるおそる扉を開けた。魔導省の塔、最上階の一室にあるサイファの部屋。広くはないが、整然と片付けられている。その奥に彼は座っていた。訪問者に気がつくと、立ち上がって出迎えた。
「やあ、ユールベル。久しぶりだね。アンソニーも一緒か」
 サイファの、以前と少しも変わらない笑顔に、ユールベルの胸は締めつけられた。アンソニーはぎこちなくおじぎをした。今朝、押し掛けたばかりのサイファに、成り行きとはいえ再び助けを求めることになってしまい、アンソニーはばつの悪さを感じていた。
「私が今さらおじさまに会わす顔なんてないってことは、わかっているわ」
 ユールベルはうつむき、つらそうに顔を歪ませた。
「でも、この子を助けてほしくて……この子は私と同じなの!」
 必死にそう訴えかけると、再度アンソニーの上衣をまくって背中を見せた。
 サイファは驚いたように目を見開いた。
「まさか……」
 思わずそんな言葉が口をついた。今まで少しも気がつかなかった。彼とは滅多に顔を会わすことはないが、少なくとも今朝は対面して話もした。両親のことも尋ねた。それなのに気づけなかったのは、不覚といわざるをえない。
「あの、これは、僕が言うことをきかなかったからで……」
「そんなの関係ないって言ってるでしょう?!」
 ユールベルは涙声で叫んだ。
 サイファは片膝をつき、アンソニーの小さな肩に手をのせた。そして、まっすぐに彼と視線を合わせた。
「母親につけられた傷なんだな?」
「……はい」
 アンソニーはとまどいながらも、わずかに頷いた。
「おじさま……」
 ユールベルはすがるようにサイファを見つめた。彼女にとって、頼る人はもう彼しかいない。断られたら——そう思うと怖くてたまらなかった。
 サイファは立ち上がり、腕を組むと、ゆっくりと彼女に顔を向けた。
「君が、守るんだ」
「え……?」
「アンソニーが家を出る。君が寮を出る。そして君たちがふたりで暮らす」
「えっ?!」
「ユールベルがアカデミーに行っている間は、そうだな、アンソニー、君も学校へ通うか。なに、生活費の心配はいらないよ。両親にきっちりと出させるからね」
 サイファは大きくにっこりと笑いかけた。
 呆気にとられていたユールベルは、我にかえると必死で訴えた。
「無理! そんなのできないわ!! 私がこの子の面倒を見るなんて!!」
 目をきつくつぶり、首を大きく横に振った。
 サイファは彼女の頬を両手で包み込み、自分に顔を向けさせた。真剣な表情で、彼女の瞳を覗き込む。
「私もできうる限りの助力はする。しかし、彼を守ってやれるのは君しかいないんだよ、ユールベル」
 頬から沁み入る優しい温もりが、彼女の心を落ち着けた。少し考えたあと、静かに尋ねた。
「私ができないって言ったら、どうなるの?」
「施設へ預けることになるだろう」
「…………」
 その方が彼のために良いのではないか、ユールベルはそう考え始めていた。何もできない自分よりも、施設の方が適切にケアをしてくれるはず……。
「あの、僕は、どうしても家を出なくてはいけないんだったら、施設へ行くよりも、姉さんと暮らしたい」
 横からアンソニーがおずおずと話しかけてきた。ユールベルは表情を凍らせた。
「私に家族はいないわ。何度言わせるの」
「あなたが姉でないというなら、それでもいいです。でも、僕は、あなたといたいです」
 まっすぐに自分を見つめてくる、まっすぐなアンソニーの言葉に、ユールベルは押しつぶされそうだった。
「……どうして……今日、会ったばかりじゃない……」
 うわ言のようにつぶやいた。
 アンソニーは無邪気な顔で笑った。
「僕のことにこんなに一生懸命になってくれている。だから、姉さんはいい人に違いないです」
 ユールベルは、一瞬、言葉をなくした。
「……バカよ。どこまでお人好しなのよ。なんにも知らないくせに……。それに私は姉さんじゃないって……」
 そこで言葉が途切れた。そして、うっと小さくうめき声をあげたかと思うと、両手に顔をうずめ、泣き崩れた。サイファは彼女の前に膝をつき、震える細い両肩に手をのせた。
「ユールベル、君ならできるよ。君は優しくて強い子だ」
「おじさまっ!!」
 ユールベルはサイファにすがりついて泣いた。まるで子供のように、大声をあげて泣きじゃくった。サイファは彼女を優しく撫でた。

 やがて、ユールベルは泣き疲れ、次第にすすり泣きへと変わっていった。その間、サイファはずっと彼女を支え、頭を抱いていた。
「何かあったら、些細なことでも、遠慮なく相談しにおいで。アンソニー、君もだ」
 ユールベルは彼の腕の中で小さくうなずいた。アンソニーも、その隣でこくりと頷いた。
「私、おじさまの子供に生まれてきたかった」
「父親と思ってくれて構わないよ」
 ユールベルは涙が止まらなかった。

 大きな窓の外では、紅の空に沈みゆく斜陽が、一筋の輝きを放っていた。それは、部屋の中にも差し込み、三人の姿を赤く照らすと、長い長い影を作った。

「あ……」
 ジークは小さく声をあげ、足を止めた。アンジェリカとリックには、すぐにその理由がわかった。
「久しぶりに嫌なヤツに会っちまったぜ」
 ジークは、思いきりしかめた顔を、相手に見せつけた。
「それはこっちのセリフだ」
 向かいから歩いてきたレオナルドも、同じく顔をしかめて言い返した。隣のユールベルは、無表情で三人を見ていた。
「おまえが同学年でなくてつくづく良かったぜ。毎日、顔を会わすなんて反吐が出る」
 ジークは虫の居所が悪いのか、いつになく突っかかり毒づいた。レオナルドも負けじと応戦する。
「同感だ。せいぜい留年しないよう気をつけてくれよ」
「あら、知らないの?」
 アンジェリカが割り込んだ。
「ジークは、こう見えても優秀なのよ。意外と真面目だし。心配しなくても留年なんてしないわよ」
 ジークは複雑な顔で腕を組んだ。
「おまえ……フォローはありがてぇけど、その言い方、なんか引っかかる……」
「え? なにが?」
 彼女に他意はないようだった。

「ねぇさーん!!」
 アンジェリカよりもやや小さいくらいの少年が、大きく手を振り玄関から入ってきた。そして、ユールベルのもとへ走り寄った。
「勝手に入ってきちゃダメって言ってるじゃない」
「じゃあ早く帰ろう」
 少年は、にこにこしながら彼女の手を引いた。
「それに姉さんて呼ぶのはやめてって」
「だって、姉さんは姉さんだし」
 そんな会話をしながら、ふたりは外へ出ていった。
「弟……いたの?」
 呆気にとられていたリックが、アンジェリカに振り向いて尋ねた。
「あの子、見たことある気はするけど……」
 彼女も驚いていたようだった。
「なんだ、テメーは一緒に帰らねぇのかよ。弟にとられたか」
 ジークはレオナルドを意地悪くからかった。彼はムッとして睨みつけた。
「バカを言うな。俺は……他の用があるだけだ」
「おーい!」
 ターニャが廊下の向こうから、手を振ってやってきた。そして、あたりを見回しながら尋ねた。
「ユールベルは?」
 レオナルドはむっとしたまま、親指で外を指した。その方向に目をやると、ユールベルの後ろ姿が遠くに小さく見えた。ちょうどアンソニーに手を引かれて門を出るところだった。
「あーもう。せっかく一緒に帰ろうと思ったのに。せっかちだなぁ、弟クンは」
「どうなっているの?」
 アンジェリカはターニャを見上げた。
「ああ、君たちは知らなかったんだっけ。ユールベルは寮を出て、弟と一緒に住んでるのよ」
「えぇっ?!」
「どうして?」
「大丈夫なのかよ!」
 三人は口々に尋ねた。ターニャはくすりと笑った。
「詳しいいきさつは聞いてないけどね。でも元気にやってるわよ。寮のすぐ近くだから、ウチの寮母さんがまめに面倒を見に行ってるみたいだし、私たちもしょっちゅう遊びに行ってるから」
 そう言うと、ふと表情を和らげた。
「私はさびしくなったけど、あの子にとっては良かったんじゃないかなって思う。表情が明るくなったもの」
「自分の気持ちを押しつけるだけじゃ、ダメだったってことだな」
 ジークはあさっての方を向き、とぼけた調子でしれっと言った。誰とは言わなかったが、レオナルドのことを指しているのは明らかだった。彼は耳元を赤らめ、奥歯を軋ませると、ジークをキッと睨みつけた。しかし、返す言葉はなかった。
 ターニャはふいにレオナルドに振り返った。
「そういえば、こんなところでのんびりしてていいの? 君、補習でしょ?」
「……補習?!」
 三人はいっせいに声をあげ、レオナルドを見た。彼は思いきり狼狽し、ますます顔を上気させると、逃げるように走り去っていった。



読者登録

瑞原唯子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について