目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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53. 辿り着く場所

「そろそろ支度しなければ遅刻だぞ」
 自室に戻ってきたレオナルドは、いまだベッドで布団をかぶるユールベルに声をかけた。丸テーブルに置かれた朝食は手つかずのままである。
「どうした。気分でも悪いのか」
 レオナルドは顔色をうかがおうと覗き込むが、彼女は顔をそむけ、より深く布団にもぐり込んだ。
「今日は休むわ」
 布団の中からくぐもった声が聞こえた。
「体調が悪いのか。だったら俺も休むよ」
 わずかにのぞいた後頭部の金髪をそっとなでる。
「いいの。あなたは行って」
「放っておけるか」
「お願い。ひとりになりたい気分なの」
 静かに懇願する。レオナルドは目を細め、じっと彼女を見つめた。
「……わかった」
 しばしの沈黙のあと、ぽつりとそのひとことを落とした。そして、布団をわずかに下げると、彼女のほほに軽く口づけた。
「何かあったら下の母親に遠慮なく言うんだ」
 返事はなかった。しかし、それを求めることはしなかった。再び彼女の頭に手を置いた。
「行ってくる」
 レオナルドは後ろ髪を引かれる思いで部屋をあとにした。

「今日はあの子どうしたの?」
 ひとり階段を降りるレオナルドに、階下を通りかかった母親が尋ねた。
「彼女、体調が悪いようなんだ。面倒を見てやってほしい」
「まったくやっかいなことばかり……」
 母親は顔をしかめてため息をついた。その態度にレオナルドはむっとしたが、彼女の機嫌を損ねないようぐっとこらえた。
「仕方ないだろう」
 リビングルームから野太い声が響いてきた。レオナルドは無意識に眉をひそめ、開いていた扉から中に目を向けた。そこにはどっしりとソファに腰を下ろし、大きく新聞を広げる父親がいた。気難しい横顔に冷徹な瞳。いつもどおりの表情である。
「サイファに頼まれたんだからな」
 レオナルドははっと目を見開き、とたんに顔を曇らせた。
「あんな若造でもラグランジェ家当主だ。命令には逆らえん。そうでなければ、とっくに放っぽり出している」
 父親は苦々しげに顔をしかめると、二つ折にした新聞をテーブルに叩きつけた。
「おまえは昔からやっかいごとばかり持ち込むな」
 ソファにもたれかかり腕を組むと、戸口に立つ息子に冷めた視線を投げつけた。
「だいたいバルタスのところの娘は死んだという噂だったろう。足はついているのか?」
 そのひとことで、レオナルドは一気に頭に血をのぼらせた。父親を激しく睨みつけ、奥歯をぎりぎりと軋ませる。しかし、彼には何の効力もなかった。むしろ怒らせただけである。
「なんだ、その態度は。文句があるなら一人前になってから言え!」
 迫力のある低音に威圧され、レオナルドは身をすくませる。くやしいが、何も言い返せなかった。

 ユールベルはベッドから降り、ふらふらと光の差し込む窓に歩み寄った。まぶしさに右目を細めながら、窓枠に指を掛け、外を見下ろした。レオナルドの後ろ姿が見える。彼は門の手前で振り返り、大きく右手を振った。彼女もつられて手を上げかけたが、すぐに元に戻してうつむいた。
 ギィ……。
 ユールベルは音のする方を見た。扉がゆっくりと開く。そこから姿を現したのは、レオナルドのふたりの弟だった。彼女はほとんどをレオナルドの部屋で過ごしている。そのため、同じ家に住んでいるものの、他の家族とはときどきすれ違うくらいで言葉を交わしたこともない。大きい方のロルフはユールベルと同じくらいの年頃だ。なぜか敵意をむき出しにして、彼女を睨みつけている。小さい方のマックスは、そんな兄の後ろでただおろおろしている。
 ロルフは意を決したようにごくりと喉を鳴らすと、ずかずかと部屋に入ってきた。まっすぐにユールベルへと向かう。そして勢いよく彼女の胸ぐらを掴み上げた。ブチブチッという鈍い音とともにボタンがはじけ飛び、薄地のネグリジェの襟ぐりが大きく開いた。
「おまえが来てから兄貴がおかしくなったんだよ。何を企んでいるんだ」
「別に、何も」
 冷静に答える彼女を見て、ロルフはさらにカッとなった。胸ぐらを掴んだ手を振りおろし、床に叩きつけるように倒した。そして、彼女に馬乗りになると、細い首に手を掛けた。
「返せよ、兄貴を……。昔の兄貴を!」
 歯をくいしばり、額に汗をにじませ、ギリギリと指に力をこめる。ユールベルは苦しそうに眉根にしわを寄せるが、抵抗もせず声も発しない。
「ロルフ兄さん!」
 マックスの呼びかけで我にかえり、はっとして手を緩めた。彼女の白い首には、くっきりと指の跡が残っていた。彼女はゆっくりと右目を開き、無表情でじっと彼を見つめた。
「き……気味わるいんだよ!」
 彼女の視線にうろたえながら叫ぶと、左目の包帯に手を掛け、乱暴にむしり取り始めた。
「この包帯も怪しいんだ!!」
 ユールベルは無抵抗だった。ゆるく結ばれていた包帯はすぐに頭から外れた。左目があらわになる。
「……っ!!」
 焦点の定まらない瞳、焼けただれた跡。ロルフはぎょっとして後ろに飛び退いた。マックスも息をのんで後ずさった。
「包帯の下に傷があるのは当たり前だ……。レオナルドはそう言ったわ」
 ユールベルは仰向けのまま、虚ろに天井を見つめてつぶやいた。弟たちは言葉に詰まり、口を真一文字に結んだ。
「言われなくても、もうすぐ消える」
 ユールベルは、かぼそく息をするように言葉を吐いた。ロルフは腹立たしげに顔を歪ませた。
「とっとと出ていけ!」
 精一杯、気張ってそう吠えると、走って部屋を出ていった。マックスも、おろおろしながらロルフのあとを追った。
 ドタン。
 再び扉が閉じられ、ユールベルはひとりになった。仰向けになったまま、少しあごを上げ、ガラス越しの四角い空を見上げる。
 ——すぐに、消えるわ。
 そのままの姿勢でベッドの下に手を伸ばし、そこに隠してあった茶色の小瓶を握りしめた。

 アンジェリカはひとりでアカデミーに来ていた。長期休暇中だが、図書室で自主学習をするためである。
「あ、アンジェリカ!」
 玄関を抜けるとすぐに、後ろから呼び止められた。怪訝な顔で振り返る。
「えーっと……ターニャ、だったかしら」
「覚えていてくれてありがとう」
 彼女は人なつこくにっこりと笑いかけてきた。
「二年生は長期休暇中じゃなかったの? あ、そっか。あなたもユールベルの様子を見に来たのね」
 返事を待たずに勝手に決めつける彼女に、アンジェリカはあきれ顔を向けた。
「私は図書室に用があって……」
「あ、レオナルド!!」
 アンジェリカの話をさえぎり、ターニャは大きな声をあげた。彼女の視線は、アンジェリカを通り越した向こう側に向けられていた。アンジェリカも彼女の視線をたどり、振り返った。
「またおまえか……」
 レオナルドはあからさまにうんざりした様子で、沈んだ声を発した。しかし、ターニャはそんなことは一向におかまいなしだ。にこにこと笑顔で彼に近づいた。
「あら、ユールベルは?」
 あたりを見回しながら尋ねる。
「今日は休みだ」
「どうして?」
「おまえに会いたくなかったのかもな」
 ターニャはむくれて唇をとがらせた。
「それで、放ってきちゃったわけ?」
「仕方ないだろう。ひとりになりたいと言っているんだ。母親に面倒を見てくれるよう頼んである」
 そこまで言うと、深くため息をついた。
「いいかげん俺たちのことは放っておいてくれないか」
 しかしターニャは引き下がらなかった。
「私はユールベルが心配なの! キミと傷をなめあうような関係を続けても彼女のためにならない。もっと明るい場所に出て、生きてると楽しいことがいっぱいあるんだってこと、教えてあげるべきよ」
 オーバーに両手を広げて力説した。そんな彼女に、レオナルドは嫌悪感をあらわにした。片眉をひそめ睨みつける。
「おまえに何がわかる。勝手な思い込みで毎日つきまとうのはやめてくれ」
「少し、同情するわね」
 アンジェリカはぽつりと言った。
「ちょっとアンジェリカ! あなたどっちの味方なのよ!」
 ターニャは驚いた声をあげ振り返った。まるで裏切られたといわんばかりの勢いだ。
 しかしアンジェリカは冷静を保ったままだった。
「どっちでもないわ。それじゃ、私は図書室に行くから」
 そっけなく返事をして背中を向けようとすると、レオナルドが腕を掴んで止めた。
「……なによ」
 むっとして見上げると、彼は困ったような、とまどったような、複雑な表情を見せた。
「一緒に来てくれ……ラウルのところへ」
「ひとりで行けばいいじゃない」
「ユールベルの薬をもらいに行くんだ」
「だから、ひとりで行きなさいよ」
 アンジェリカがレオナルドの瞳を探ろうとすると、彼は視線をそらせ、ばつが悪そうにうつむいた。
「もしかして、怖いの?」
「ばっ……バカを言うな! 怖いんじゃない。苦手なだけだ!」
 必死の彼を、アンジェリカは冷ややかに見つめた。
「ふーん、まあいいけど」
 勝手なレオナルドの頼みなど断ってもよかったが、彼女自身、久しぶりにラウルの顔が見たい気持ちになっていた。
「私もついていっちゃおっと」
 ターニャは目一杯かわいらしく言ってみたが、レオナルドは冷ややかだった。
「おまえは来るな」
 それでも彼女はめげなかった。いたずらっぽくにっと笑う。
「ついて行くんじゃなくて、私も先生に用があるって言ったら?」
 レオナルドはチッと舌打ちした。何を言っても無駄だと思った。逃れるように背を向け歩き出す。
「痛っ! 手を放してよ。逃げやしないわ」
 アンジェリカはレオナルドの手を振りほどいた。彼は一瞬、寂しげな表情を浮かべた。

「鍵がかかっているわね」
 ラウルの医務室の前まで来たが、通常の鍵に加え、外からも南京錠が掛けられている。中にいないことは明らかだ。レオナルドは軽く舌打ちした。
「どこへ行ってるんだ」
「仕方ないじゃない。ラウルだって暇じゃないんだから。出直すしかないわね」
 淡々とそう言って振り返ると、何かを見つけ、驚いたように前方を指さした。
「レオナルドのお母さんよね?」
 彼は白く細い指を目でたどった。その先にいたのは確かに彼の母親だった。階段から降りてきたところのようだ。
「なんでこんなところに……」
 彼女が王宮に来ることなどめったにない。よりによって、ユールベルの面倒を見るように頼んだ日になぜ……。そんな疑問が頭をもたげた。そして、それは次第に怒りへと変わっていった。
 母親はレオナルドに気がつくと、無言で近づいてきた。少し離れたところで足を止め、疲れきった表情で目を伏せた。
「ユールベルを放っておいて、こんなところで何をしてるんだ」
 レオナルドは責めるように語気を強くした。
「違うのよ……ユールベルが……」
 三人は怪訝な顔を彼女に向けた。

「くっ……! いつまで待てばいいんだ!!」
 レオナルドは苛立ち叫びながら、白く大きな扉にこぶしを叩き込んだ。
「状況だけでも教えてくれ!!」
 再びドンドンと扉を叩く。
「待つしかないわ」
 アンジェリカは小さくつぶやいた。彼女の顔は暗い。隣では、壁にもたれて座り込んだターニャが、浅くしゃくり上げている。
「あなたはもう行っていいわよ。授業が始まっているし」
 アンジェリカは横目で彼女を見下ろした。
「放って行けるわけないじゃない!」
 ターニャは感情的に声をあげると、激しく嗚咽を始めた。

 ガチャン。
 金属音があたりに響いた。ターニャははっとして立ち上がった。レオナルドは睨むように扉を凝視した。
「静にしろ。ここをどこだと思っている」
 ゆっくりと開いた扉から姿を現したラウルは、開口一番そう言った。レオナルドは返事をすることなく、ラウルの脇をすり抜けて中に駆け込んでいった。ターニャもすぐあとに続いた。アンジェリカも少し遅れ、歩いて中に入っていった。
「ユールベル! 大丈夫か?! ユールベル!」
「ユールベル!」
 レオナルドとターニャは何度も呼びかけた。アンジェリカは少し離れたところから、その様子を黙って見ていた。彼女は今朝のネグリジェのままで、白いパイプベッドに横たわっていた。胸元のボタンがいくつかなくなっていたが、今のレオナルドにはそれに気づく余裕はなかった。顔の左側には白いタオルが無造作にかぶせられていた。左目の傷を隠すための配慮だろう。顔色はまるで血が通っていないかのように白い。それがふたりの不安を煽る。
「ユールベル!」
 何度目かの呼びかけで、彼女はうっすら右目を開いた。数度まばたきをする。そして、必死のふたりを瞳に映すと、そこから視線をそらせた。
「睡眠薬20錠や30錠では死ねない」
 ラウルは腕を組み、淡々と言った。レオナルドとターニャは驚いて振り返る。ラウルはさらに言葉を続けた。
「死にたいのならもっと確実な方法を選ぶんだな」
「おまえ! それが医者のいうことか!!」
 レオナルドはラウルに向き直り、激しく非難した。両こぶしを強く握りしめ震わせながら、掴みかかりたい衝動をぎりぎりで抑え込んだ。しかし、ラウルは眉ひとつ動かさなかった。
「生きることが幸せとは限らない。本人が死にたいと言うなら、勝手にすればいい」
 平然とそんなことを言ってのける。レオナルドは歯ぎしりをしながら睨みつけた。
「……だったら……どうして、私を助けたの……」
 ようやく聞き取れるほどの小さなかすれた声。ターニャははっとして、ユールベルに視線を戻した。彼女は薄暗がりの白い天井を、無表情で見つめていた。
「本気かどうかは本人にしかわからないからだ。だから確実な方法を選べると言っている」
 ラウルは腕を組んだまま、横たわる彼女を見下ろした。
「私は医者だ。目の前に患者がいれば治療をする。それだけだ」
 レオナルドはずっとラウルを睨み上げていた。しかし、言葉は出てこなかった。
 ターニャは黒く濡れた瞳で、ユールベルを覗き込んだ。
「ねぇ、ユールベル。あなた……本当に、死のうとしたの?」
 まばたきをするだけでこぼれ落ちそうなほどの涙をたたえ、震える声で問いかける。ユールベルは目をそらせたまま、小さな口を開いた。
「そうしなければ、いけなかったから」
「……バカ!!」
 ターニャは大きな声で叫ぶと同時に、彼女の頬をパシンと思いきりはたいた。左目にかぶせられていたタオルが床に落ちる。レオナルドとアンジェリカは目を見開いて息を止めた。
「わけわかんないこと言わないでよ!!」
 涙をあふれさせながら、目一杯の声で叫び、再び手を上げる。レオナルドは我にかえり、慌てて彼女を後ろから羽交い締めにした。
「おまえ! 何をするんだ!!」
「自分から死を選ぶなんて、絶対に許せないんだから!!」
 おかっぱの黒髪を振り乱し、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、狂ったように泣き叫ぶ。レオナルドは暴れる彼女を押さえつけたまま、外に連れ出した。
 ラウルはユールベルの左目に新しいタオルを掛けた。

 しばらくしてレオナルドはひとりで戻ってきた。疲れたように小さくため息をつく。壁に立て掛けてあったパイプ椅子をユールベルの隣で広げ、ゆっくりと腰を下ろした。
「大丈夫か?」
 彼女の少し赤くなったほほに、そっと手をあてる。わずかに熱を帯びている。
「ユールベル、どうしてだ」
 無反応のままの彼女の細い手をとり、そっと問いかける。感情をおさえた静かな声。刺激をしないように細心の注意をはらう。
「何か、あったのか? ……それとも……俺、か?」
 わずかに顔を曇らせると、ぎゅっと彼女の手を握り、じっと顔色をうかがった。
「あなたには感謝している」
 細くかすれた声が、血の気をなくした唇からこぼれた。
「でもやっぱり、私は生きていてはいけない人間……。いつか、消えようと思っていた」
「なんでそうなるんだよ……。昔のことなんてもう忘れろよ。間違っていたのはあいつらなんだ!」
 つぶやきから次第に感情的になっていき、ついには涙声まじりで訴えた。潤んだ瞳を隠すように、慌ててうつむく。
「やっぱり、俺じゃ、駄目なのか……」
 引き寄せた彼女の手に、祈るように自らの額をつけた。冷たさがしみた。シーツの上にひとつぶがこぼれ落ちた。
「あきらめるの?」
 アンジェリカが後ろから声を掛けた。何も答えないレオナルドの背中を見つめ、さらに静かに言葉をつなげる。
「ターニャはあきらめないわよ、きっと」
 彼の背中はみっともないくらい小さく丸められ、いつもの偉そうな態度は影をひそめている。
 アンジェリカは気配を感じ、何気なくユールベルに目を移した。ふたりの視線がぶつかる。ユールベルはふいに目をそらせた。アンジェリカの顔がわずかに曇る。しかし、すぐに元の表情に戻った。
「ごめんなさい。私の顔なんて見たくないわね。出ていくわ」
 平静にそう言うと、踵をひるがえし、まっすぐ出口へ向かった。

 アンジェリカは内側の鍵を開け、大きな扉を引き廊下に出た。ターニャは扉を背に膝をかかえ、ときどき大きく肩を震わせしゃくり上げている。
「笑ったり怒ったり泣いたり、忙しいわね」
 アンジェリカは扉を閉めながら、彼女を見下ろした。
「と……とんでもないことしちゃった……私、わたし……」
 ターニャは言葉を詰まらせ、より強くしゃくり上げた。
「悪くないかもしれない。あなたの気持ちが伝われば……」
「違う……違うのよ!」
 泣きながら声を震わせ、必死に訴える。
「何が?」
 アンジェリカは壁にもたれかかり、再び彼女を見下ろした。
「彼女のためじゃない……我を失っただけ……」
 ようやく聞き取れるくらいのはっきりしない声でぼそりと言うと、それきり口をつぐんでしまった。ただ肩を揺らし、すすり上げるだけだった。

 ガラガラガラ——。
 処置室からラウルを出てきた。アンジェリカは顔を上げ、彼を見つめた。ラウルもまっすぐ視線を返す。
「アンジェリカ、おまえは帰れ」
「……そうね」
 彼女はひとことそう言うと、ためらいなく背を向け歩き去った。
 彼女の姿が見えなくなると、ラウルは隣で膝を抱えるターニャに視線を移した。
「ターニャ=レンブラント。思い出した」
 彼女は口を半開きにして顔を上げた。泣きはらした目で彼を見上げる。何かを聞きたそうな表情。ラウルは淡々と答えた。
「十数年前に会っている」
 彼女ははっとして、さらに大きく目を見開いた。それから苦しげに顔をしかめると、ゆっくりとうつむいた。
「……あの頃のことは、あまり覚えていません」
 ラウルは前を向き、腕を組んだ。
「ユールベルにおまえのことを話そうと思う」
 彼女は膝に顔をうずめた。
「同情を引くようなまねは、嫌……です……」
 ぽつりぽつりと言葉を落とす。そして小さく鼻をすする。ラウルは前を向いたまま、わずかに目を伏せた。
「おまえのためではない。ユールベルのためだ」
 ターニャは膝を抱えたまま動かなかった。ラウルも返事を求めなかった。静寂が広がる。まるで時間が止まったかのような光景。窓の外を流れる雲だけが、現実であることを示している。かすかに遠くの笑い声が届いては消えた。

「……先……生」
 長い沈黙を破ったのは、かすれたターニャの声だった。ラウルは視線だけを彼女に落とした。黒髪のつやが形を変え流れる。
「先生に、おまかせします……」
 彼女は思いつめたようにそう言うと、さらに深く顔を沈めた。

 パイプベッドに横たわったままのユールベルと、その隣で椅子に座りうつむくレオナルド。ふたりは無言でラウルの話を聞いていた。彼は淡々と事実のみを話した。
「——そういうことだ」
 長くはない話をそう結ぶと、再び処置室から出ていった。
 残されたふたりは、無言のまま口を開こうとはしなかった。ユールベルは無表情で天井を見つめ、レオナルドは暗い顔でうつむく。背中に感じる冷たい空気、無機質なただっ広さ、薄暗い明かり。それらが彼の不安を呼び起こす。無造作に放り出された彼女の手に、温もりを求めるように自らの手を重ねた。彼女は無反応だった。

 長い長い沈黙のあと、ユールベルはぽつりとつぶやくように言った。
「寮に戻るわ」
「!!」
 レオナルドはものすごい形相で、椅子から立ち上がった。大きく口を開けるものの、とっさに声が出なかった。口をパクパクさせる。
「なっ……なんでだ!!」
 乾いた喉から絞り出すように叫ぶと、片膝をつき、彼女を覗き込んだ。不安に押しつぶされそうな、今にも泣きそうな顔を隠しもしない。
「もっと、彼女のことが知りたくなったのよ」
 ユールベルの声はしっかりとしていた。
「俺はどうなるんだ! ひとりにしないでくれ!」
 彼女の手にすがりつき、必死に訴えた。しかし、彼女は表情を変えることはなかった。ゆっくり目を閉じる。
「あなたはひとりじゃない……」
 レオナルドは顔をしかめ、首を横に振り、ベッドに突っ伏した。

 翌日——。
 ユールベルは小さな鞄を持って、寮へと向かった。隣にはレオナルドが付き添っている。門の前で、ふたり並んで古びた建物を見上げた。
「ユールベル!!」
 寮から出てきたターニャが大きく手を振りながら走り寄ってきた。そして、ユールベルにとびつくと、泣きながら抱きしめた。
「きのうはごめんね……! 痛かったよね」
「あなたのこと、聞いたわ」
 ユールベルはまっすぐ前を見つめながら言った。ターニャは彼女の肩の上でこくりとうなずいた。わずかに顔がこわばった。ユールベルの背中にまわした手に力をこめる。
「楽しそうに笑っている人はみんな、幸せに生きてきた人だと思っていた」
 ユールベルは落ち着いた声でそう言うと、ひと息ついてさらに続けた。
「私も、あなたみたいに笑えるようになるかしら」
 ターニャは彼女から体を離すと、涙を残したままでにっこり笑った。
「うん、大丈夫。焦らずゆっくりとね。みんなでいっぱい楽しいことしよう!」
 ユールベルはとまどいながらも、かすかに目でうなずいた。そして、彼女の顔をじっと見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「……それと……嬉しいときに、泣いてみたいわ」
 ターニャはきょとんとしたあと、恥ずかしそうに笑いながら涙をぬぐった。

「ユールベル!」
 今度は寮母が大きな体を揺らして走ってきた。
「心配させるんじゃないよ! この不良娘が!!」
 腰に手をあて、口をふくらませ、怒り顔を作る。だが、すぐに表情をやわらげ、優しくにっこり笑った。
「おかえり」
 あたたかい声でそう言うと、ぎゅっと抱きしめた。彼女のふくよかな体に、細身のユールベルはうずもれた。
「おい、おばさん。ユールベルが苦しがっている」
 寮母はユールベルを放すと、いぶかしげにレオナルドを見た。
「あんたかい、ユールベルをたぶらかした男は」
「人聞きの悪いことを言うな」
 レオナルドはむっとして睨みつけた。
「言っておくが、俺はあきらめないからな」
「言っておくけど、寮内は男子禁制だからね」
 ターニャはいたずらっぽく白い歯を見せて、にっと笑った。レオナルドは彼女に振り向き、うざったそうに顔をしかめた。
「そのくらいわかっている」
 あからさまに不機嫌でぶっきらぼうな言葉。それでもターニャと寮母は、なぜかにこにこしていた。
「レオナルド」
 ユールベルは一歩前に出た。レオナルドの鼓動はドクンと強く打った。彼女に振り返り、じっと見つめる。白いワンピースが風を受けふわりと舞い、金髪の緩やかなウェーブが波を打つ。
「ありがとう。それと、ごめんなさい」
 彼女はまっすぐに彼を見据えた。左目は包帯に覆われているが、右の瞳は強い光を宿している。ゆっくりまばたきをすると、再び彼と目を合わせ、レオナルドに向かって足を進めた。そして、彼の肩に手を掛け、踵を上げると、軽く口づけた。
「ありがとう」
 彼女は感謝の言葉を繰り返した。
 レオナルドは彼女の背中に手をまわし、そっと抱きしめた。
「アカデミーには来いよ」
 柔らかい日ざしがふたりを包む。ターニャは目を細めてその光景を眺めていた。

「そうか、寮に戻ったのか」
 サイファは椅子の背もたれに身を沈め、目を閉じた。
「私はレオナルドが救ってくれることを期待していたんだがな」
 肘掛けにひじをつき、手にあごをのせる。その後ろで、ラウルは窓枠に手をつき、大きなガラス越しに外を見下ろしていた。
「そうすれば、あいつのレイチェルへの想いも完全に消滅するだろう、ということか」
「あいかわらず鋭いな」
 サイファは前を向いたまま、悪びれずにはははと笑った。ラウルは彼に向き直ると、窓に寄りかかった。背もたれからのぞく金色の髪を見つめる。そして、腕を組むと、小さくため息をついた。
「レイチェルのこととなると、おまえはいつも身勝手になる」
「……いつも、でもないだろう?」
 顔半分だけ振り返り、冷たい視線を流す。ラウルはそれを無表情で受け止めた。だが、答えは返さなかった。
 サイファは急ににっこり笑顔を作ると、話題を変えた。
「で、おまえはどんな手を使ったんだ」
 ラウルは顔をそむけ、窓の外に目を逃した。
「昔の患者を利用した。卑怯な方法だ」
「昔の患者?」
 サイファは椅子を回し、ラウルに向き直った。しかし、彼はガラスの向こう側をじっと見つめたままだった。
「守秘義務がある」
 サイファはそれ以上の追求はしなかった。椅子から立ち上がり、ラウルの隣に足を進め、窓から外を眺めた。ラウルは窓を背にしたまま、腕を組んでいる。
「何にせよ、これでひと安心だな」
 サイファはラウルににっこりと笑いかけた。しかし、ラウルは厳しい表情を崩さない。
「まだ立ち上がっただけにすぎない。歩き出すのはこれからだ」
「確かに、立ち止まったり、つまずいたり、転んだりすることもあるだろう」
 真剣な顔でそう言ったあと、ふっと表情を和らげた。
「だが、人の優しさを素直に受け入れられるようになったのなら心配はない。彼女には支えてくれる人もいるだろう」
「おまえがそんな青臭いことを言うとはな」
 ラウルがサイファを流し見ると、彼は再びにっこりと笑った。
「たまにはいいだろう。希望を持つのも悪くないよ」
 開けた視界に広がる青い空。そこに流れる白い雲。サイファは、幾度となく見ているはずのその光景を、まぶしそうに眺めていた。そして、ラウルの肩に手をのせると、ぐっと力をこめた。


54. 小さなライバル

「なんだったんだよ、今日の試験」
 ジークは思いきり疲れた声をあげながら、手を伸ばし机に突っ伏した。隣にやってきたリックは乾いた笑いを張りつけている。
「うん、やたら難しかったよね」
「一応、全部埋めたけど、合っている自信はないわ」
 アンジェリカもめずらしく不安そうだった。三人はそろってため息をついた。
「ラウルのやつ、難しい問題で俺たちが苦しむのを見て、憂さ晴らしでもしてんじゃねぇか?」
 ジークは体を起こし、ほおづえをついた。口をとがらせ、眉をひそめ、不愉快感をあらわにしている。
「まさか」
 笑いながらリックはそう答えたが、強く否定することは出来なかった。いつもだったら真っ先に反論するはずのアンジェリカは、口を閉ざしたままだ。頭の中で試験問題のことを考えているらしく、ジークたちの会話はうわの空だった。
「帰るか!」
 ジークは嫌な気持ちを払拭するかのように声を張り上げ、勢いよく立ち上がった。鞄をつかんで肩に引っ掛けると、戸口に向かって歩き出した。リックもそのあとに続く。
「あ、待って」
 我にかえったアンジェリカが、後ろからふたりを呼び止めた。
「ルナちゃんのところへ行かない?」
 振り返ったふたりに、小首を傾げながら尋ねた。しかし、ジークの反応はつれないものだった。
「この時間じゃ、まだラウルのところにはいないだろ」
「だからお母さんたちのところに行くの。ちゃんと許可ももらったし」
 アンジェリカは、うきうきした笑顔を見せた。それでもジークの反応は鈍かった。
 リックは少し考えたあと、はっとして口を開いた。
「それってまさか、王妃様のところ……ってこと?」
「そう。大丈夫よ、話は通しておいてくれるって」
「でも、僕たちが行ってもいいのかなぁ」
「気にしなくてもいいわよ」
 アンジェリカは事も無げにさらりと言った。しかし、リックは笑いながら顔をこわばらせていた。名門ラグランジェ家のアンジェリカと違って、ただの一般民間人の自分が王妃様の部屋に行くなんて、本当に許されるのだろうか。そのことだけが心配だった。しかし、よく考えてみると、王妃様も元一般民間人である。もしかしたら、だから、そのあたりのことには寛大なのかもしれない。リックは必死の理由づけをして、そう思うことにした。
「俺、パス」
 一生懸命に考えを巡らせていたリックの隣で、ジークはあっさりと断った。あからさまに気がのっていない声だ。アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「どうしてよ」
「あしたも試験があるだろ。そんなことしてる場合じゃねぇよ」
 彼が本当にそう思っているかどうかはわからない。だが、少なくともアンジェリカには言いわけじみた理由に聞こえた。彼女はますます不機嫌になっていった。ほほを限界までふくらませる。しかし、それ以上、強く誘うことはしなかった。
「……まあいいけど。行きましょう、リック」
「そうだね」
 リックがにっこり笑うと、アンジェリカもつられて笑顔になった。ふたり並んで廊下へと出ていく。振り返りもせずに遠ざかる後ろ姿を、ジークはじっと見つめていた。
「……待て。やっぱり俺も行く」
 ジークはふたりに駆け寄り、無理やり間に割って入った。
「もうっ! ジーク、ちょっと変よ」
 彼に弾かれたアンジェリカは、眉をひそめ、彼を睨みつけた。
「気が変わったんだよ」
 ジークはあさっての方向を見たまま、ぶっきらぼうに言い返した。

 三人は並んで王宮を歩いていた。その道すがら、アンジェリカはユールベルのことをふたりに話した。長期休暇中のことだったので、ふたりは知らなかったのだ。彼女も詳しいことを知っているわけではなかったので、話せたのは睡眠薬で自殺を図ったことと、寮に戻ったという事実だけだった。
「そっか……」
 リックは言葉少なにあいづちを打った。多少、ショックを受けている様子がうかがえた。ジークもけわしい顔つきでうつむいた。
「今はどうしてるんだ?」
「うん。ちゃんとアカデミーには来ているみたいよ。何回か見かけたわ」
「まあ、良かったじゃねぇか」
 しかし、アンジェリカは納得していないようだった。
「さあ、どうかしら。心の傷なんて治るものじゃないわ。一生、抱えていくのよ」
 感情を見せないように、無表情で淡々と語った。リックはそんな彼女の横顔をじっと見つめた。
「でも、上手くつきあっていくことは出来るよね?」
 彼が自分のことを言っているのだと、アンジェリカはすぐにわかった。顔を曇らせ目を伏せる。
「私だって、どうなるかわからないわ」
「おまえは大丈夫だ」
 ジークはきっぱりと言い切った。アンジェリカはそれが気に入らなかった。
「簡単に言わないでくれる?」
「大丈夫だ」
 ジークはもういちど言い切った。それからポケットに手を突っ込んでうつむく。
「俺……ら、がいるだろ」
 ぎこちなく言葉をつなげる。アンジェリカはとまどいながら、複雑な表情を浮かべた。そう言われても自信がなかった。怖かった。それでも、彼の気持ちに応えるように、なんとか微笑みを作ってみせた。
「そういえば、レオナルドはどうしてるの?」
 ジークの話を聞いて、リックはふいにレオナルドのことを思い出した。ジークはその名前を耳にすると、露骨に嫌な顔をした。
「どうでもいいだろ、あんな奴のこと」
 アンジェリカが口を開くより早く、ジークは不機嫌に吐きすてた。一刻も早くその話題を打ち切りたいようだった。その徹底した嫌い方がおかしくて、リックはこっそりと笑った。
「なんか他に楽しい話はねぇのかよ」
「あ、そうだわ」
 ジークが話題の催促をすると、アンジェリカはふいに何かを思い出し、ぱっと顔を輝かせた。首にかかっていた細い銀の鎖を引っ張り、服の中から小さなリングを取り出す。彼女はそれを親指と人さし指でつまみ、ほほに軽くくっつけると、無邪気な笑顔を見せた。ジークは困惑して顔を赤らめながら、目を泳がせていた。
「まだお礼を言っていなかったわね。ありがとう」
「あ、あぁ……」
「え? なになに? それどうしたの?」
 リックが興味津々で首を伸ばしてきた。
「ジークからの誕生日プレゼントよ。サイズがちょっと大きかったからネックレスにしてみたの」
 アンジェリカは屈託なく嬉しそうに話した。隣でジークは大きく口を開け、声にならない叫びをあげながら動きを止めた。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
 リックは驚いたように、しげしげとジークを見た。
「へぇ、そうだったんだ」
 ジークは彼の視線から逃れるように顔をそむけた。そうする以外になかった。
 ふいに、アンジェリカの前に、無言で手のひらが差し出された。ジークのものだ。何かを催促しているようだが、アンジェリカには彼の意図がわからなかった。目をそらせている彼に、きょとんとした表情を向ける。
「それ、貸せよ。サイズを直してきてやる」
 彼女を見ようともせず、ぶっきらぼうにぼそぼそと言った。そんな彼に、アンジェリカはにっこりと笑いかけた。
「いいわよ、このままで。いつかちょうど良くなると思うから」
 ジークは思わず彼女に振り向いた。まっすぐに視線が合うと、慌ててすぐに目を伏せた。

 ラウルの医務室を通り過ぎ、さらに王宮の奥へと向かった。ジークもリックも、ここまで来るのは初めてである。途中には何人もの衛兵がいたが、皆、アンジェリカに一礼し、すんなりと通してくれた。アカデミーにいると忘れてしまうが、やはりアンジェリカは名門ラグランジェ家の娘なのだと思い知らされる。だが、彼女自身はそういう目でみられることを快く思っていない。ジークたちはそのことを知っていたので、あえて口には出さなかった。
 奥に進むにしたがって、次第にあたりは格調高くなっていく。柱は荘厳で存在感があり、それでいて繊細な装飾が施されている。階段は幅広く緩やかなカーブを描き、手すりにはやはり細やかな模様が彫り込まれている。そして、なんといっても圧巻なのが、空間の使い方である。横にも縦にも壮大に広がる、贅沢でただっ広い空間。そこにたたずむ人間を圧倒させるには十分すぎるスケールだ。足音が高く遠い天井に大きく反響する。ふたりの緊張感は否が応にも高まっていった。
 階段を上がり突きあたったところに、大きな重量感のある扉があった。もちろんここにも優美な装飾が一面に施されている。両脇には、槍を持ち、剣を携えた厳い衛兵がひとりづつ、背筋を伸ばして立っていた。アンジェリカが現れるとふたりそろって一礼したが、すぐに元の姿勢に戻り、それ以降は微動だにしなかった。
 アンジェリカは扉についた丸い鉄輪を打ちつけ、応答を待った。
「いらっしゃい」
 ゆっくりと開いた扉から、レイチェルが姿を現した。いつも通りのドレス、いつも通りの笑顔。ジークもリックも、少しだけ緊張がほどけた。ふたりがぺこりと頭を下げると、彼女は優しく微笑み返した。
「ルナちゃん、いる?」
「ええ」
 レイチェルが招き入れると、アンジェリカは小走りで駆け込んでいった。ジークもリックも、緊張しながらぎこちなく足を踏み入れた。
「こんにちは!」
「そんなに急がなくても逃げやしないわよ」
 王妃アルティナはテーブルにひじをつき、軽快に走るアンジェリカを眺めながら目を細めた。
「今日は賑やかになりそうね」
「すみません、僕たちまで来てしまって」
 遅れてやってきたリックは、申しわけなさそうに頭を下げた。ジークも続いて頭を下げる。
「いいのよ。私は賑やかな方が好きなんだから」
 アルティナは白い歯を見せた。

「……寝ているのね」
 ルナのベッドを覗き込んで、アンジェリカは少し落胆した声を出した。ルナはベッドの中央で、すやすやと寝息を立てて眠っていた。できれば目を開いたところが見たかった。そして、いろんな反応が見たかった。それでも、ひとまわり大きくなった赤ん坊を目にして、嬉しそうに顔をほころばせた。隣にやってきたリックも、にっこりしながら見下ろした。
「だいぶ大きくなったわよね」
「うん」
 ふたりは笑顔を見合わせた。
「ほっぺぷくぷく」
 アンジェリカはルナの丸い頬を、人さし指で軽くつついた。その感触の柔らかさに、ますます表情が弛んでいく。
「あんまり触ると起こしちゃうよ」
 リックは優しくたしなめた。アンジェリカは素直に手を引っ込めた。

「ん?」
 リックはふくらはぎに何かが当たったのを感じて振り返った。
「おまえがジークか?」
 むっつりと不機嫌顔の小さな男の子が、腕組みをしながらリックを睨み上げていた。
「あら、アルス。久しぶりね」
 アンジェリカがにっこりと笑いかけたが、少年はちらりと彼女を見ただけで、笑顔を返さない。
「アルスって……王子様?」
 リックは目をぱちくりさせながら、アンジェリカに問いかけた。
「そうよ。アルティナさんと似ているでしょう?」
 確かに銀の髪は、アルティナと同じ輝きを放っている。だが、目つきは王子の方がかなり悪い。
「おい、おまえがジークかって聞いてるんだよ」
 返答もせずふたりで話していることにいらついているようだった。ますますふてぶてしい態度で再び尋ねる。リックは屈み込んで、小さな王子に人なつこい笑顔を近づけた。
「ジークは僕じゃなくて、あっちの人だよ」
 リックは離れたところで窓の外を眺めているジークを指さした。
 アルスはてくてくと歩いていくと、背後からジークのふくらはぎあたりに蹴りを入れた。
「てっ……何だテメーは」
 ジークは振り返り、むっつり顔の小さな少年を目にすると、思いきり睨みつけた。しかし少年も負けてはいない。口をヘの字に曲げ、睨み返す。
「ぜんぶおまえのせいだ!」
 そう言って、再びジークを蹴り上げた。
「ってーな! いきなり何なんだよ!」
 その様子を眺めていたアルティナは、愉快にあははと笑った。
「そのくらいは許してやって。アンジェリカがめったに来なくなって、寂しい思いをしてたんだから」
 ジークは目を見開いて、少年とアルティナを交互に見比べた。
「え、こいつ……いや、えっと……王子ですか? でも何で俺……オイ、蹴るな!」
「おまえがアンジェリカをひとりじめにしてたんだろう!」
「は?」
 そうか、こいつ、アンジェリカのことが……。ジークはふとサイファから聞いた昔話を思い出した。なんとなく似ている。幼い日のレオナルドがこのチビ王子、レイチェルさんがアンジェリカ、そして、サイファさんが俺……。ジークはそこまで考えて、一気に顔を上気させた。
「あ、なんか顔が赤いぞ。変な想像してたんだろう! ア……んんっ!」
 ジークは騒ぎだした王子の口を手でふさぎ、体ごと抱えて、部屋の隅へと走っていった。
「なにをするんだ!」
 口をふさぐ手が離れると同時に、王子は勢いよく噛みついた。
「おまえが変なことを言い出すからだ!」
 ジークは壁を背にしゃがみこみ、アルスと同じ目線で言い返した。アルスはじとっとジークを見つめた。
「おまえ、アンジェリカのことが好きなんだろ?」
「……おまえみたいなガキんちょには関係ねぇ」
 あまりにもストレートな問いかけに、ジークは絶句し動揺した。しかし、それを悟られないよう平静を装って、ぶっきらぼうに返事をした。だが、アルスはごまかされなかった。いたずらな顔をのぞかせてニッと笑う。
「認めたら譲ってやってもいいぜ」
「バーカ。譲るとか譲らなねぇとか、アンジェリカはモノじゃねぇだろ」
 ジークはアルスのおでこを人さし指で軽く弾いた。

「あ、デコピンした」
 離れたところからふたりの様子をうかがっていたリックが、ぽつりとつぶやいた。だいぶ遠いため、ジークたちの会話は聞こえない。
「あの、いいんですか? 放っておいて」
 アルティナに振り返り、不安そうに尋ねた。彼女は椅子の背もたれにゆったりと身を預け、余裕の笑顔を見せている。
「いいの、いいの。懐かしいわね、デコピン」
「なに? デコピンって」
 アンジェリカはリックを見上げた。彼は苦笑いしながら首を傾げた。そんなくだらないことを彼女に教えていいものかどうか迷った。

「けっ、えらそうに。おまえよりオレの方が、アンジェリカと長いつきあいなんだよ」
 アルスはひたいをさすりながら強がり、くやしまぎれに変な対抗意識を見せた。ジークはむっとして眉根を寄せた。
「笑わせんな。たいして違わねぇだろ。それに俺の方が一緒にいた時間は長いはずだぜ。アカデミーにいる間、ずーっと一緒なんだからな!」
 最後は勝ち誇ったように言い放った。そんな大人げない彼に、小さな王子は冷めた目を向けた。
「なんだ、やっぱり好きなんじゃん」
「……黙れよ、ませガキ」
 ジークは顔を赤らめながら睨みつけた。すっかりアルスのペースである。
「うわさのジークがこんな男らしくないヤツだとは思わなかった。好きなら好きって言えよな」
 頭の後ろで手を組み、あきれたようにわざとらしくため息をついた。その小憎たらしい態度に、ジークは逆さ吊りにしてやりたい衝動に駆られた。だが、もちろんそんなことは出来ない。
「おまえみたいなガキんちょにはわからねぇだろうが、大人には複雑な事情ってモンがあるんだよ」
 そう言いわけをするのが精一杯だった。しかし、自分で自分のことを「大人」と言ったことに、違和感とむずがゆさを覚えた。微妙に身体をよじらせる。
「オトナの事情ってなんだよ」
 アルスは横柄に腕を組み、ジークを睨んだ。
「ガキにはわからねぇって言ったろ」
 ジークはそっけなく答えた。アルスはさらに目つきを悪くして睨みつける。
「ガキって言うな」
「ガキはガキだろ」
「……アンジェリカに洗いざらいぶちまけるぞ」
「ぐっ……」
 アルスが切り札を出すと、ジークは言葉に窮した。完全にジークの負けである。
「ガキじゃなくてアルスって呼べよな」
 小さな王子は、楽しそうに白い歯を見せた。

「お茶が入っているわよ」
 部屋の中央に戻ってきたジークとアルスに、レイチェルはにっこり微笑んで声を掛けた。
「あ、すみません」
 ジークはティーカップが用意された席についた。座るなり喉を潤すようにひとくち流し込むと、ふうとため息をついた。アルティナは隣でひじをつき、にこにこしながら彼を見つめていた。向かいにはアンジェリカとリックも座っている。
「ふたりで何の話だったの?」
 レイチェルは、席につかず通り過ぎようとするアルスに声を掛けた。
「男と男のひみつの話だ。な、ジーク」
「……ああ」
 なぜか得意げにそう言うアルスに、ジークは素直に同意した。その言い方に多少の不満はあったものの、秘密にしておいてくれるのはありがたかった。
「なによそれ」
 アンジェリカは冷めた声でつぶやいた。しかし、それ以上、詮索することはしなかった。ジークは心の中で、そっと胸を撫で下ろしていた。
 アルスは駆け足でルナのベッドへ向かった。木の格子の隙間から、ルナの様子をうかがう。
「あ、目を覚ましたぞ」
「本当?!」
 アンジェリカとリックも慌てて駆け寄り、上から覗き込んだ。ルナの青い大きな瞳が、見なれないふたりを捉えて止まった。
「あ、こっちを見ているわ!」
 アンジェリカが歓喜の声をあげた。
「ね、抱き上げてもいい?」
 アンジェリカはレイチェルに振り返って許可を求めた。
「重いわよ? リックさん、手伝ってあげてもらえるかしら」
「はい」
 レイチェルは少し不安そうだったが、アンジェリカはうきうきしていた。リックの服を引っ張り、早くと急かす。リックはルナを抱き上げると、そっと彼女に手渡した。細い腕にずっしりと重みがかかる。
「ん……けっこう重たいわね」
「大丈夫?」
 リックが手を差し出したまま、心配そうに尋ねる。アンジェリカはにっこりと笑顔を返した。
 ルナはくりっとした瞳で、アンジェリカをじっと見つめた。不思議なものでも見るかのように、ずっと目を離さない。アンジェリカはそれが可愛くてたまらなかった。自然と顔がほころぶ。アルスは背伸びをしていたが、届くはずもなく、ルナの背中しか見えない。
「ジーク、俺を持ち上げてくれ」
「めんどくせぇなぁ」
 お茶を飲んですっかり落ち着いていたジークは、やる気のない声を漏らした。アルスは横目でジークを非難するようなまなざしを送った。
「アンジェリカ、あのな、ジークが……」
「わーー!! わかったって!!」
 転げ落ちるように椅子から飛び降り、王子の元へ駆け寄る。そして、彼の希望どおり後ろから抱え上げ、ルナの顔が見えるようにしてやる。
「おまえ性格わるいぞ」
 ジークが小声でそう言うと、アルスはにっと笑った。
「ルナ、オレだぞ」
 アルスが優しく声をかけると、ルナは彼に目を向け、小さな手を伸ばした。彼はその手をつかまえて、そっと柔らかく握った。ルナの表情が動き、かすかに笑顔を見せた。
「へへっ、かわいいよな」
「ああそうだな」
 ジークは気のない返事をした。

 ギィ……。
 扉の開く音に、皆が振り向く。そこから姿を現したのはラウルだった。彼は無言で部屋へ進み入ってきた。まっすぐにルナを抱いたアンジェリカの元へと向かう。
「アンジェリカ」
「うん……バイバイ」
 彼女は腕の中の赤ん坊に別れをささやいた。名残惜しそうにしながらも、素直にラウルに手渡した。ルナはラウルと目が合うと、はっきりと笑顔になり、嬉しそうに手足をばたつかせた。「あーうー」と何かを伝えたがっているような声も発していた。
「おまえたち、あしたの試験の準備は出来ているのか」
 ルナの様子に目を奪われていた三人は、ラウルのその言葉で急に現実に引き戻された。
「今日の試験はなんだったんだよ。あんなもん習ってねぇぞ」
 ジークは抱えていた王子を下ろしながら文句を言った。ラウルの返答は、案の定すげないものだった。
「習ったことばかりやっていても駄目だ」
「なんだそりゃ」
 反抗心からそんな反応をとってみたが、ラウルの言うことも一理あるとジークは思った。だが、素直に認めるのはくやしいので、そんな素振りは見せないようにした。
「世話になったな」
 ラウルはレイチェルとアルティナに振り返った。レイチェルはにっこり笑った。
「もう少しゆっくりしていったら?」
「いや、今日は帰ることにする」
 ラウルは早々に立ち去ろうとしたが、レイチェルが立ち上がるのを見て、その場にとどまった。ラウルの前まで来ると、彼女は背伸びをしてルナを覗き込んだ。笑顔で小さく手を振って、別れの挨拶をする。
「もう帰っちゃうの?」
 アンジェリカは寂しそうに尋ねた。
「おまえたちも、もう帰れ」
「そうだね、ジーク、帰ろうか」
「ああ」
 ジークは考えごとをしながら虚ろに返事をした。
「私はお母さんと帰るから」
 アンジェリカはそう言って、ふたりに手を振った。リックとジークも小さく手を振り返した。
「ジーク、また来るんだろ?」
 アルスは一歩進み出て、ジークを見上げた。
「さぁな。そんなに暇じゃねぇからな」
 ジークは王子と目を合わさずにそっけなく言った。本当は、身分不相応なところに何度も出入りなど出来ないという思いがあったが、それは口には出せなかった。出してはいけないような気がした。

 ルナを抱いたラウルと、ジーク、リックは並んで歩いていた。互いに、一緒に帰りたいと思っているわけではなかったが、方向が同じなので必然的にそうなってしまった。燃えるようなオレンジ色の空がジークたちを照らし、廊下に長い影を作る。
「ジーク、王子様になつかれちゃったみたいだね」
「俺が来ればアンジェリカも来るとでも思ってんだろ」
 ジークは無感情に言った。リックはあごに人さし指をあて、首をひねった。
「そうかなぁ。ジークに来てほしそうだったけど」
 それについてのジークの返答はなかった。
 話が途切れ、沈黙が三人をつつむ。ルナもなぜかおとなしい。バラバラな靴音が、不安定なリズムを刻む。リックは何か気まずいものを感じていた。ジークとふたりなら、話が途切れても沈黙が続いても平気だが、ラウルがいることで、いつもと違う空気が流れていた。
 ラウルの医務室の前まで来ると、リックは内心ほっとした。無言で扉を開けるラウルに、リックは小さく礼をした。ジークは前を向いたまま、あえて視線をそらせている。
「あまり深く関わるな」
 背中を向けたまま、ラウルは唐突にそう言った。忠告とも脅しともとれる言葉。ジークは驚いて振り向く。
「どういうことだ」
 低い声でうなるように問いつめる。しかし、ラウルは答えることなく医務室へ入っていった。ジークがあとを追おうとすると、ピシャリと扉が閉められた。残されたふたりは、とまどう顔を見合わせた。


55. 新たな再会

「ジーク、早く!!」
「なんでそんなに急いでんだよ」
 小走りで急かすリックを面倒くさそうに見ると、ジークは大きな口を開けてあくびをした。
 この日はいつもより1時間も早くリックに叩き起こされ、朝食も口にしないまま家を出た。なぜこんなに急ぐのか、ジークにはまったく理由がわからなかった。リックに尋ねても、ごまかされたり、はぐらかされたりするだけで、まともに答えてくれない。彼のそわそわした落ち着かない様子を見ると、何かあるのだろうとは思ったが、そのうちわかるだろうと、しつこく問いつめることはしなかった。

 アカデミーの近くまで来ると、いつになく賑やかなことに気がついた。始業時間よりだいぶ早いにもかかわらず、人だかりが出来ている。
「そうか、今日は合格発表か。知り合いが受験したのか?」
「ん……まあね」
 リックは歯切れ悪く認めた。
「ジーク! リック!」
 人だかりの中から出てきたアンジェリカが、手を振りながら駆け寄ってきた。
「おう、おまえも早いな」
「また変なのが入ってくるんじゃないかって、心配で落ち着かなくって」
 アンジェリカは笑いながら肩をすくめた。「変なの」とは、ラグランジェ家の人間を指しているのだと、ふたりにはすぐにわかった。去年はレオナルドとユールベルのふたりが入学してきた。そのせいで、いろいろな騒動に巻き込まれた。彼女が心配するのも無理はない。
「いたのか?」
 ジークは緊張した面持ちで尋ねた。しかし、彼女は小さく笑って、首を横に振った。
「今年は知った人間はいなかったわ」
「そうか、良かったな」
 ジークはほっと息をついて胸を撫で下ろした。
「ジークたちは?」
「ああ、リックの知り合いが受験したらしい……だろ?」
 同意を求めてリックを振り返ったが、すでに彼は合格発表を見に向かっていた。人だかりにもぐり込んでいく背中が見えた。しかし、そこはアンジェリカが出てきたのとは違うところだ。
「あっちは確か、医学科ね」
 彼の消えていった方に目をやりながら、彼女はぽつりとつぶやいた。
 ジークは不意をつかれたように感じた。リックの知り合いも、自分たちと同じ魔導全科だと勝手に思い込んでいたのだ。医学に興味のあるリックの知り合いとなると、ますます見当がつかない。怪訝な顔で軽く首をひねると、小走りでリックの後を追った。アンジェリカもその後に続いて走り出した。

 医学科の合格発表を見ている群衆は、魔導全科より少なく、かき分けるのもまだ楽な方だった。
「よかったね、おめでとう!」
 リックの声が聞こえる。彼は誰かと手を取りあって喜んでいるようだった。相手は人垣に阻まれてよく見えない。
「ありがとう!」
 返ってきたのは女性の声だった。どこかで聞き覚えのある声。まさか、と思いながら、ジークは乱暴に目の前の人を押しのける。そして、目に飛び込んできたのは、明るい栗色の髪、濃青色の瞳、すらりと伸びた手足の……。
「セリカ?!」
 ジークとアンジェリカは同時に声を発した。ふたりとも驚いて目を見開き、呆然とした。セリカは一年生のときに事件を起こし、自主退学した元クラスメイトだ。それがなぜ再びアカデミーに、しかも魔導全科ではなく医学科に……。
「あら、久しぶりっ」
 ふたりに気がついたセリカは、にっこりと笑いかけた。リックも振り返ると、照れたような笑顔を見せた。
 ジークは腕を組んで、リックの背中に蹴りを入れた。
「どういうこった」
「説明すると長くなるんだけど……」
 リックはごまかし笑いを浮かべながら逃げようとしたが、ジークは容赦しなかった。青筋を立て、引きつった顔でニヤリと笑い、逃げ腰の彼にぐいと迫った。
「幸い時間はたっぷりあるぜ」
 リックは早く来てしまったことを少し後悔した。

 ジーク、リック、アンジェリカ、セリカの四人は、アカデミーの食堂に来ていた。アンジェリカとセリカは紅茶だけだったが、朝食がまだだったジークとリックはサンドイッチも頼んでいた。窓際の丸テーブルに席をとり、腰を下ろす。始業前という時間のため、食堂内は昼どきの喧噪が嘘のような静けさだった。ジークたちの他には、奥に数人いるだけである。
「で、どういうことなんだよ」
 ジークは憮然として切り出すと、さっそくサンドイッチにかぶりついた。
「うーん、どこから話したらいいのかな……」
「アカデミーを辞めてから、私、花屋でアルバイトしてたの」
 リックが悩んでいると、隣のセリカが切り出した。
「その花屋で感動の再会ってか」
 ジークはたっぷりサンドイッチをほおばったまま、皮肉めいた調子で口をはさんだ。
「もう、ジーク。とりあえずおとなしく聞いてよ」
 大人げない彼を、アンジェリカがたしなめた。ジークはムッとしながらも、反論はしなかった。無言でサンドイッチを口に運ぶ。
 セリカは多少とまどいながらも、話を続けることにした。
「私は主に配達の仕事だったの。ときどきアカデミーや王宮にも行くことがあって、ものすごく嫌だったんだけど、仕事だから仕方ないでしょ? 帽子を目深にかぶって、ばれないようにこそこそ行ってたわけ」
 セリカはそこまで言うと、紅茶を手にとり一息ついた。彼女の話を受けて、今度はリックが説明を始めた。
「で、一年くらい前だったかな。僕たちが二年になってしばらくした頃だね。図書室に行く途中で、そんな彼女を見かけて後を追ったんだ。ジークたちには、忘れ物をしたからって先に行ってもらったと思う」
「そういえばあったわね、そんなこと。リックが忘れ物なんてめずらしいと思ったもの」
 アンジェリカは、忘れかけていた過去の疑問が解決して、すっきりした顔を見せていた。一方のジークは相変わらず不機嫌なままだった。腕を組み、リックを横目で睨む。
「なんでそんな嘘をついたんだよ」
「……だって、ジークやアンジェリカとは、顔をあわせづらいかなと思って」
 少し遠慮がちに、しかしはっきりとそう言った。確かにリックの言うとおりだ。ジークには思い当たることがあった。目を伏せ、口をつぐむ。
 リックは紅茶をひとくち飲むと、話を続けた。
「それから、セリカと会うようになったんだ。お互いの悩みとかを相談しあったりね」
「リックの母親のことも聞いたわ」
 セリカはそう言いつつ、不安そうにちらりとリックをうかがった。彼はその不安を払拭するように、にっこりと頷いた。彼女も頷き返して話を続けようとしたが、そのときふいに割り込みが入った。
「母親のことって?」
 アンジェリカが疑問を投げかけた。リックはまっすぐ彼女に顔を向けて答える。
「ジークは知ってるんだけど、僕の母親、倒れて入院してたんだ」
「そういえば、ジークがそんなこと言っていたかしら」
 アンジェリカは独り言のようにつぶやくと、口元に手を添えて、遠い記憶を探った。ジークは自分が話したかどうか覚えていなかったので、だんまりを決めこんだ。彼女から逃げるように、そっと視線をそらす。
 リックはそんな彼を見て小さく笑った。それから再び彼女に向き直ると、少し補足をした。
「もともと体が弱くて入院することが多かったんだけど、このときの入院は長引いちゃってね」
 セリカはその後を引き継いで、話を続けた。
「リック、アカデミーの勉強とお母さんの世話で、だいぶ参っているみたいだったのよね。だから、私がお母さんのことをお手伝いすることにしたの。アルバイトは夕方早くに終わっちゃうし、時間は持て余してたから」
 少し照れくさそうに笑って肩をすくめた。リックは彼女に優しく笑いかけた。
「本当にすごく助かったよ」
「お母さん優しい方だし、いろんな話も聞けて、私も楽しかったわよ」
 ふたりは顔を見合わせて笑顔を交わした。
「おいっ、続き!」
 いらついたように急かすと、ジークはサンドイッチを口いっぱいにほおばった。ふたりはきょとんとして彼に目をやり、再び顔を見合わせると、くすりと笑いあった。
「続きよね。えっと……それで病院に通うようになって、医療現場を間近で見るうちに、こういうのもいいなって思うようになったの」
 セリカはジークを眺めながら、昔を懐かしむように目を細め、微かに笑みを浮かべた。
「おまえには世界を任せられない、なんてジークには言われちゃったけど、目の前の人を助けるのなら、私にもできるんじゃないかってね」
 ジークはげほげほとむせ、涙目になりながら、慌ててティーカップを手にとった。
「ジーク、ずいぶんきついことを言ったわね」
 アンジェリカが驚いてジークを見た。彼は目尻を拭いながら、しきりに首をかしげていた。
「……言ったか? 俺」
「ひっどーい、忘れたの?!」
 セリカはわざと怒ったような顔を作ったが、すぐに吹き出してあははと笑った。その様子からすると、自分を責めているわけではないようだ。ジークは安堵してほっと息をついた。
「それから半年くらいかな。一生懸命、必死で勉強したわ。母とふたりきりだし、アカデミー以外に行く金銭的余裕はないのよね。魔導全科を受けたときより、ずっと真面目にやったんじゃないかなぁ」
 ゆっくりとほおづえをつき、遠くを見やる。いろいろと大変だったはずだが、それを思い返す彼女の表情はすがすがしいものだった。
「で、合格よ」
 ほおづえをVサインに変えウインクする。そして、真面目な顔でリックに向き直ると、穏やかに微笑んだ。
「リックが支えてくれたおかげよ」
「ううん、セリカが努力した結果だよ」
 ジークは冷めた目でふたりを見ながら、リックのサンドイッチを奪ってかぶりついた。
「親友だと思ってたのに、俺らにはまったくの秘密かよ」
 口にサンドイッチを入れたまま、行儀悪く文句をつける。
「ごめんね」
「リックを責めないで。私が頼んだのよ、言わないでって」
 申しわけなさそうに弱い声で謝るリックを、セリカが慌ててかばった。そして、淡々と語り出す。
「まだ気持ちの整理がついてなかったし、あなたたちがどんな反応をするのかも怖かったのよ」
 ふいにジークとアンジェリカの表情に翳りがさした。それを見て、セリカは焦って追加した。
「あっ、今はもう大丈夫よ」
 そう言ったあと、今度は彼女の顔に陰が落ちた。
「アンジェリカにはまだ恨まれてるかもしれないけど……」
「初めから恨んでなんかいないわ」
 アンジェリカは少しムッとしてセリカを見た。そしてきっぱりと言い放つ。
「ただ、あなたのことが苦手なだけよ」
 セリカは一瞬、唖然としたが、すぐにくすくすと笑い出した。
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ」
 机に両ひじをつき、アンジェリカをじっと見つめる。
「ずいぶん大人っぽくなったわね」
「えっ?」
 唐突に思いがけないことを言われて、アンジェリカはきょとんとした。セリカは組んだ両手の上にあごを乗せ、意味ありげな笑みを口元に浮かべた。
「あなたにはいい女になってもらわなきゃって思ってたけど、心配なかったわね」
「どういう意味?」
「ふふっ、私のプライドの話。詳しいことはジークに聞いてみて」
 紅茶を飲んでいたジークは思いきりむせ込んだ。
「……テメー、それ仕返しのつもりか」
 ジークは半分困ったように眉をひそめると、顔を紅潮させながら、上目づかいでセリカを睨んだ。彼女は楽しそうに屈託なく笑った。
「どういうこと?」
 何がなんだかわからないアンジェリカは、いらついた様子で、ジークとセリカを交互に見た。ジークは片手で頭を抱え込み、セリカはただにこにこと笑っている。ふたりとも答えてくれそうもない。もっと強い調子で問いつめようとした、そのとき。
 キーン、コーン——。
 始業のチャイムが鳴った。
「えっ?! もうこんな時間?!」
 リックは腕時計を見て、顔から血の気が引いた。ジークは飛び上がるように立ち上がった。
「行くぞ! おいっ」
「あ、うん」
 釈然としないまま、アンジェリカも席を立った。
「じゃ、セリカ、またあとでね」
 リックは軽く右手を上げた。
「ええ」
 セリカは手を振って、三人を見送った。

 キーン、コーン——。
 終業のチャイムが鳴った。ラウルは教本を閉じ、机の上に叩きつけるように置いた。
「今日はここまでだ。レポートは今週中に提出だ。忘れるな」
 鋭い目で、静まり返った教室を見渡す。返事がないのはいつものことだ。それを要求しているわけではない。ひととおり睨みをきかせると、教本と資料を小脇に抱え、大きな足どりで教室をあとにした。

「レポート多すぎなんだよ」
 ジークはぶつくさと文句を言いながら、鞄の中に筆記具と教本、ノートを放り込む。リックとアンジェリカは、いつものようにジークの席にやってきた。
「図書室、寄ってくだろ? レポートやらねぇとな」
「そうね。今回は量が多いから、早めにやっておかなきゃ」
 アンジェリカは小さく肩をすくめた。ジークは軽くため息をつくと、鞄を閉じて立ち上がった。
「ごめん、僕はちょっと……」
 リックは申しわけなさそうに眉根を寄せ、顔の前で両手を合わせた。ジークはすぐにピンと来た。
「ああ、セリカか?」
「うん、ホントごめんね」
 焦ったように早口でそう言うと、手を振りながら、いそいそと小走りで出ていった。

「……なんかショックよね」
「何がだ?」
 ジークはアンジェリカに振り向いた。彼女は不機嫌に、そしてどこか寂しげに、顔を曇らせた。
「私たちといるより、セリカといる方が楽しいみたい」
「楽しいんだろ」
 ジークはさも当然という調子でさらりと言った。しかし、アンジェリカは納得がいかない。むっとして口をとがらせる。
「ジークはそれでいいの?」
「仕方ねぇだろ」
「セリカのこともずっと内緒にされていたのよ?」
「そりゃ初めは頭にきたけどな。セリカに頼まれたから言えねぇって事情もあったわけだし」
 確かに彼の言うとおりである。それでもアンジェリカの気はおさまらなかった。頬をふくらませ、八つ当たりぎみに彼を睨み上げる。
 ジークは鞄を肩にかけ、わずかにうつむいた。
「やきもち、焼いてるのか?」
「……そうかも」
 彼が静かに問いかけると、アンジェリカは真面目な顔で考え、短くぽつりと返事をした。
「行くぞ」
 ジークは突然にそう言って、教室を出ようと歩き出した。
「え?」
 彼女が思わずもらしたその声に、彼の足が止まった。しかし、振り返ることなく、平静を保った声で言葉を落とした。
「図書室、行くんだろ」
「あ、うん」
 彼女は我にかえったように頷くと、鞄を抱えて、ジークの元まで駆けていった。

「ジーク」
 開け放たれた扉から、リックがひょいと顔をのぞかせた。ジークは狭い部屋の中央で横になり、教本を眺めていた。まわりにはうずたかく積まれた本や雑誌の山、散乱した服、食べかけのスナック菓子などで、足の踏み場もない。
「ああ、入れよ」
 ジークは気の抜けた声で返事をすると、起き上がってあぐらをかいた。
「ごめんね、今日は。セリカが合格したらお祝いしてあげるって約束だったんだ」
 リックはそんなことを言いながら、靴を脱いで、部屋に足を踏み入れた。脱ぎ散らかした服を脇にどけ、自分が座るスペースを作る。いつものことなので、もうすっかり手慣れている。
「気にしてねぇよ」
「だよね」
 予想外の反応に、ジークは面くらった。唖然としてリックを見上げる。彼はにこにこしながら腰を下ろした。
「たまには僕がいないのもいいでしょ?」
「どういう意味だ」
 けわしい目つきでリックを睨む。しかし、彼はとぼけた調子で返した。
「あれ? 説明してほしいの?」
「……いや、いい」
 ジークは耳元を赤らめながら目をそらせ、複雑な表情でうつむいた。
「アンジェリカは……けっこうショックだったみたいだぜ」
「うん、もともとセリカのことを良く思ってなかったもんね」
 リックは寂しげな笑顔を浮かべた。ジークは下を向いたまま、難しい顔で考え込んでいた。
「いや、もしかしたら、あいつは……」
「なに?」
 言葉を詰まらせたジークに、続きを促す。しかし、彼は額に手をあて顔をしかめた。
「何でもねぇよ」
 ぼそりとそう言い、ふいに缶ジュースを放り投げた。リックはゆるい放物線を描いたそれを受け取ると、ジークの横顔をうかがった。何か思い悩んでいる様子が見て取れる。しかし、尋ねても機嫌が悪くなるだけで、答えてはくれないだろう。過去の経験上、そのあたりのことはよくわかっていた。気にはなったが、この場はそっとしておくことにした。
「それじゃ、もう帰るね。レポートやらなくちゃ」
「ああ、頑張れよ」
 立ち上がるリックにちらりと目を向け、けだるそうに右手を上げた。リックは靴をはきながら、缶ジュースを持った右手を上げて答えた。
「ジークもね」
 にっこり笑いかけてくるリックの顔を、ジークはまともに見ることが出来なかった。


56. ふたり

「賑やかだね」
 リックは鞄を手に、ジークの席へとやってきた。明るい窓の外で、たくさんのはしゃいだ声が弾けている。
「ああ、今日は入学式だからな」
 ジークは鞄に教本を投げ込みながら、たいして興味なさそうに答えた。
「なんかいいよね。こういうはつらつとした元気な声って。新鮮な気持ちになれるよ」
「なにじじくさいこと言ってんだよ、おまえ」
 ジークが呆れた視線を送ると、リックは少し恥ずかしそうに、ごまかし笑いを浮かべた。
「なに? 私の声じゃ元気になれないっていうの?」
 アンジェリカが口をとがらせながら、後ろからひょっこり顔をのぞかせた。しかし、目は怒っていない。すぐに、にっこりと笑顔に変わった。リックも優しく笑顔を返した。
「メシ、食ってくだろ?」
 ジークは立ち上がり、鞄を肩にかけると、ふたりに振り向いた。今日は試験のため、午前のみとなっている。ジークとリックの家は遠いため、こういうときは食べてから帰ることが多いのだ。
 しかし、今日のリックはいつもと反応が違った。
「ごめん、僕はセリカと約束してるんだ」
 少し申しわけなさそうに、しかしどこか浮かれた声を返す。そのとき、アンジェリカの顔がわずかに曇ったのを、ジークは見逃さなかった。目を伏せ、少し考えると、静かに返事をする。
「……なら、仕方ねぇな」
 アンジェリカの表情がさらに曇った。
「ごめんね」
 リックは軽く右手を上げると、そそくさと出ていった。

「そんな暗い顔してんじゃねぇよ」
「別に、してないわよ」
 アンジェリカはムッとしてジークを見上げた。彼も不機嫌さを顔中に広げている。
「鏡、見てみろよ」
「……」
 ぶっきらぼうに言い放った彼のセリフに、彼女は言葉を失い、わずかにうつむいた。強がってはみたが、彼の言うとおりであることに、彼女自身も気がついていた。
「そんなに嫌なら、行くなって言えばよかっただろ」
 感情を抑えた低い声が、追いうちをかける。彼女はカッとして、彼を睨み上げた。
「そんなの言えるわけないじゃない」
「だったらあきらめろ」
 冷静をよそおったその声は、わずかに震えていた。だが、彼女はそれに気づく余裕はなかった。怒りまかせに声を張り上げる。
「どうしてそんなに冷たいことを言うの?!」
「ばっかやろう! そんな顔を見せられるこっちの身にもなってみろ!」
 アンジェリカの感情的な責め言葉が、ジークの壁を崩した。抑えていた感情を一気に噴出させる。
「なに、そんなことで怒っているの?! わけがわからない!」
 彼女は少しうろたえながらも、負けじと甲高い声をあげた。そして、激しく彼を睨みつけると、ぷいと背を向け、教室を出ていこうとした。
 ジークはとっさに彼女の手首をつかんだ。
「なによ!」
「俺が、悪かった」
 ジークは深くうつむき、噛み殺すように言った。
 アンジェリカは大きく目を見開いて、彼を見上げた。ジークがこんなにすぐに自分から折れるなどめずらしい。いや、めずらしいどころか、今までなかったことだ。その衝撃が、彼女の怒りを吹き飛ばした。
「私も……ごめんなさい」
 どまどったような小さな声で、彼女も謝った。
 ジークは顔を上げ、ぎこちなく笑いかけた。アンジェリカも安堵して、表情を緩めた。
「気晴らしに、どっか外に行かねぇか? いま食堂に行っても、リックたちと鉢合わせるだろうし」
 勢いづくジークに、アンジェリカは軽く首をかしげる。
「でも、あしたも試験よ」
「実技だけだろ」
 ジークは引かなかった。
「まあ、そうだけど……」
 アンジェリカはあいまいに答えながら、うつむき迷っている。ジークは、じっと彼女の返事を待った。
「……そうね、行くわ」
 迷いを吹っ切ってそう答えると、にっこりと笑顔を見せた。

「ジークたちを放ってきて良かったの?」
 セリカとリックは、食堂の窓際の席で、向かい合って昼食をとっていた。ちょうど昼どきということもあり、食堂内は空席が見つけられないほど混み合っている。それはいつもの光景だが、騒がしさはいつも以上だった。しかし、嫌な騒がしさではない。元気の良い新入生たちが、食堂内を歩き回りながら見学しているのが原因のようだ。
 リックは、いつもより心持ち声を張って答える。
「悪いとは思ってるけど、でも正直、僕がいない方がいいのかなって思うときもあるんだ」
「そうなの?」
 セリカはロールパンを持った手を止め、驚いたように彼に目を向けた。彼は少し寂しそうに笑ってうつむいた。
「ジークは人一倍、人目を気にするんだ。僕がいたんじゃ、ちょっとしたことでも、なかなか行動を起こせないんだよね」
「なんか、わかる気がするわ」
 セリカがそうあいづちを打つと、リックは下を向いたまま小さく笑った。フォークでサラダをつつきながら、話を続ける。
「この前も、アンジェリカに誕生日プレゼントを渡すだけなのに、僕に隠れてこそこそやってたみたいだし」
 セリカはその光景を想像し、ふふっと笑った。いかにもジークらしくて微笑ましい。
「だからときどきは、ふたりきりにしてあげるのも、いいんじゃないかなって」
「あら、なあに? それじゃ、私と一緒にいるのはジークのため?」
 セリカはいたずらっぽい笑みを浮かべ、下から覗き込みながら、からかうように問いかけた。リックはたじろぎもせず、にこりと笑いかけた。
「まさか。もちろんセリカと一緒にいたいからだよ」
 セリカは欲しかった答えをもらって、嬉しそうに、幸せそうに笑った。

「ジーク、もうずいぶん歩いたんだけど、どこまで行く気?」
 アンジェリカは不審がって尋ねた。アカデミーを出てから、すでに一時間は歩いている。
「もうすぐだ」
 ジークは茶色の紙袋を掲げ、にっと笑ってみせた。その紙袋には、途中で買ったサンドイッチが入っている。空腹を煽るその行為に、アンジェリカはムッとした。頬をふくらませ、うらめしそうに睨み上げる。
「着いたぜ」
 ジークは細い道を渡り、薄汚れたガードパイプに手をかけた。アンジェリカも、彼の隣で、そっとガードパイプに手をのせた。下から涼風が吹き上がる。彼女はとっさに目を閉じ、再びゆっくりと開いた。開けた視界に飛び込んできたものは、その先に広がる光景。驚いたように大きく目を見開き、そして次第に笑顔へと変わっていく。
「いい景色だろ」
 ジークはアンジェリカに振り向き、白い歯を見せ笑いかけた。下方には、白い川原と透明なせせらぎが、遠くまで広がっていた。水面に光が反射してきらきらと輝きを放ち、緩やかな流れはさらさらと軽やかな音を立てている。
 ここは以前、レオナルドとジークがふたりきりで話し合ったところである。ジークにとって、いい思い出の場所とはいいがたい。しかし、それでもここへ来たのは、単純にこの風景が好きだったからだ。このせせらぎの音を聞きたいと思ったのだ。
 アンジェリカは屈託なくジークに笑いかけた。
「あっちの階段から降りよう」
 彼は、ガードパイプの切れ目を指さした。ふたりはそこからのびる幅の狭い石段を伝って、川原へと降りていった。
 ジャ……。
 砂利というには少し大きすぎる白い小石が、濁った音を響かせる。
「うわ、ぐらぐらして足がとられるわ」
 スニーカーのジークと違って、革靴を履いているアンジェリカは、よりいっそう歩きづらいのだろう。こわごわと慎重に、でも楽しそうに、足を進めていく。
「もしかして、川原を歩くの、初めてか?」
「そうよ、悪い?」
「別に悪かねぇよ」
 世間知らずのお嬢さんと馬鹿にされた気がして、アンジェリカは不機嫌になりジークにつっかかる。彼は慌ててそれを否定した。
 ふたりは、安定の良い大きめの岩を選んで、それを椅子がわりにすることにした。腰を下ろし、買ってきたサンドイッチにかぶりつく。
「外で食べるのもいいわよね。こういうの、ピクニックっていうのかしら」
「ま、そんなもんだな」
 ふたりは顔を見合わせて笑いあった。澄んだ空気が、気持ちも明るく爽快にさせる。
 サンドイッチを食べ終わると、ジークは岩の上で仰向けに寝転がった。アンジェリカもそれを見て、同じように寝転がり、息を大きく吸い込んだ。適度に温まった岩肌が、心地よく眠りを誘う。ジークは大きくあくびをしながら伸びをした。アンジェリカは横目でそれを見ながら、くすりと笑った。
「試験はどうだった?」
 アンジェリカはぽつりと尋ねた。ジークは上を向いたままで答えた。
「まあまあ、だな」
「私も」
 ジークは頭の後ろで手を組み、大きく深呼吸をした。目を細めて空を見つめる。
「あいかわらず、あいつの試験はパターンが読めねぇっていうか、パターンがねぇっていうか……」
「きっと私たち、すごく鍛えられているわね」
「だろうな」
 アンジェリカは笑いながら言ったが、ジークはため息まじりに返事をした。そして、再び目を細めて遠くを見やる。
「入学してから二年間、おまえには一度も勝ててねぇけど……」
 アンジェリカは、ゆっくりジークに振り向いた。彼は、決意を秘めた瞳を、まっすぐ空に向けていた。
「今年こそは勝つつもりだぜ」
 静かに、しかし強気に、そう言い切った。
「年下の女に負けるのが許せないとか、まだ思ってるの?」
 それは最初に会ったときにジークが言っていたことだった。彼は自分に対してずっと対抗意識を燃やしていたが、根底にはそういう気持ちがあるからではないか。そんなこと、今さらどうでもいいことかもしれない。だが、アンジェリカは少し気になっていた。
「そんなんじゃねぇよ。一回くらい勝っとかないと、格好がつかねぇっていうか……」
「かっこつけたいから勝ちたいの?」
「あー、そういう意味じゃなくて、なんていうか……」
「私、手は抜かないわよ」
 アンジェリカのその言葉に反応して、ジークは思わず振り向いた。彼女は体ごと横向きになり、大きな漆黒の瞳でじっと彼を見つめていた。かすかに挑発的な表情。ジークはどきりとして、慌てて空に向き直った。
「あったりめぇだ。そんなんで勝っても、意味ねぇからな」
 わずかに声がうわずっていた。彼は赤みのさした顔を隠すように、頭の後ろで手を組んだまま、顔の横でひじを立てた。
「うん」
 アンジェリカも再び仰向けになり、まぶたを閉じて大きく空を吸い込んだ。

 遠くで子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。アンジェリカは起き上がって、声のする方に目をやった。数人の子供たちが、浅瀬を素足で走り回ったり、水を掛け合ったりしている。
「気持ち良さそう。私も裸足になろうかしら」
「危ねぇぞ。何が落ちてるかわからねぇし」
 ジークも体を起こした。
「じゃ、手だけひたしてくるわ」
 アンジェリカは右手を広げてにっこり笑うと、岩から飛び降り、川辺に向かって走り出した。
「おい、走ると危ねぇぞ!」
 ジークは慌てて追いかけた。
「平気よ。もう慣れたわ」
 そう言って振り返ったとたん、足元が不安定に滑り、体のバランスを失った。
「あっ」
「おい!」
 ジークは地面を強く蹴り、彼女に手を伸ばした。が、それと同時に、足を滑らせ、前につんのめった。そして、助けるつもりだった彼女の足に蹴つまずき、派手な音を立て、頭から浅瀬に突っ込んだ。全身を水流が飲み込み、あっというまにずぶ濡れになってしまった。
 一方のアンジェリカは、水の中に手と膝をついただけで、体はほとんど濡れずにすんでいた。顔についた水滴を腕で拭いながら立ち上がる。そして前を向くと、ジークの惨状が目に入ってきた。すぐには声が掛けられず、しばらく呆然と眺めていた。
「大丈夫……?」
 ジークはざぶざぶと音を立てながら立ち上がった。全身から雫が流れ落ちる。
「……っ……あははっ!」
「誰のせいだと思ってんだよ」
 耐えきれずに吹き出したアンジェリカを、ジークはじとっと睨んだ。
「ごめんなさい。でもあんまり情けない顔をしてるから……ふふふっ」
 謝りながらも笑いを止められない。
「あったまきた」
 ジークは小さくつぶやくようにそう言うと、うつむいてその場にしゃがみ込んだ。アンジェリカは怪訝な顔で近づき、そっと覗き込んだ。
「ジーク?」
 彼女の呼びかけに、彼はわずかに顔を上げた。上目づかいで不敵に笑う。アンジェリカは嫌な予感がして、後ろに下がろうとした。そのとき——。
「くらえっ!」
 ジークは両手で水をすくい、彼女に向け、思いきり放った。
「やっ……ちょっ……ジーク!」
 とっさに手で防いだものの、かなりの量を顔に浴びてしまった。再び水を掛けようとするジークから逃れようと、背を向け一歩踏み出そうとした。そのとき、再び小石に足をとられ、彼女の体が傾いた。
「きゃっ」
 ジークは倒れそうな彼女の体を、後ろから抱きとめた。
「だから走るなって!」
「だってジークが!」
 彼女は水滴を振りまきながら、勢いよく振り返った。
「……」
 思ったよりずっと近くにジークの顔があった。驚いて無言で前に向き直る。彼女は気まずいものを感じ、彼から離れようとした。しかし、彼女にまわされた彼の腕が、それを阻んだ。気のせいか、さらに力が込められたように感じた。背中には服ごしに水がしみてきた。冷たくはない。体温と鼓動が伝わってくる。早い鼓動。それに呼応するかのように、彼女の鼓動も強く早くなっていく。息苦しくて、声を出すこともできない。沈黙が続く——。
「さ、そろそろ帰るか!」
 ジークは明るく声を張り上げると、アンジェリカから手を放した。
「風邪ひかねぇうちにな」
 そう言いながら、彼女を残し、さっさと岸へ上がっていった。上着を脱ぎ、ねじって絞ると、ザッと音を立てて水が流れ落ちた。靴と靴下も脱ぎ、同様に水を絞る。
 アンジェリカは、まだ水辺で呆然と立ち尽くしていた。軽く握った左手で、胸を押さえる。
 なんだったの、今の——。
 ジークのいなくなった背中に、冷たい風が吹きつけ、熱を奪い去っていった。

 ラウルが扉を開けようとすると、中から初老の男が出てきた。白髪まじりの金髪をこざっぱりと刈りそろえ、濃青色のローブを品よく着こなしている。背筋をピンと伸ばし、青い瞳をラウルに向け、鋭く睨みつけた。
 しかし、ラウルは気にとめることなく、入れ違いにサイファの部屋へ入っていった。魔導省の塔。その最上階の個室だ。広くはないが、きちんと整理されている。ただ、机の上には、書類やファイルが乱雑に広げられていた。
「たまにはおまえの方から出向いたらどうだ」
「誰かさんにやっかいごとを頼まれたせいで忙しくてね」
 サイファは立ち上がり、ラウルの前に歩いていくと、書類の束で彼の肩を軽く叩いた。
「おまえの娘に関する手続きはこれで全てのはずだ。一部希望どおりにはいかなかったが、これが精一杯だ。あとで確認しておいてくれ」
 ラウルはそれを受け取ると、パラパラと目を通した。
「ずいぶん時間がかかったな」
「これでも嫌みを言われながら、強引に押し通したんだぞ。もう少しいたわりの言葉が欲しいところだよ」
 サイファは笑いながら肩をすくめた。しかし、すぐに真面目な顔になり、腕を組んだ。一歩前に出て、ラウルと反対向きで肩を並べる。
「入口ですれ違った男を見たか?」
「ラグランジェ家分家の隠居だろう」
 ラウルには質問の意図がわからなかった。隣のサイファに視線を流す。彼は、無表情でまっすぐ前を向いたまま、わずかに目を細めた。
「私の母方の祖父。そして、長老会との連絡係だ」
 長老会という言葉をきいて、ラウルの瞳に強い光が宿った。けわしい顔をサイファに向ける。
「何を言ってきた」
「くだらないお小言だよ。アンジェリカの婚約者を早く決めろ、ここ最近はこればかりだ」
 サイファはラウルに振り向き、まいったというふうに両手を広げ、おどけて見せた。しかし、彼の真意を、ラウルは見抜いていた。
「不満そうだな」
「動きがないのが不気味だ」
「ジークたちを餌にして、長老たちをおびき出すつもりか」
 核心をついた質問に、サイファは驚きの表情を見せた。しかし、すぐに顎を引き、挑みかけるようにニヤリと笑った。
「おまえにしては気づくのが遅かったな」
 ラウルは彼を冷たく睨んだ。その無言の問いかけに、サイファは冷静に答える。
「初めて会ったときから、いや、会う前から、利用させてもらうつもりだったよ。そうでなければ、会ったばかりの彼らに長老会のことを話したりはしなかった」
「レイチェルを……アンジェリカを悲しませることになってもか」
「私が利用しなくても、いずれは目をつけられるさ。万が一のとき、早い方が傷は浅くてすむ」
 真剣な顔でそう言ったあと、にっこり笑って追加した。
「彼がアンジェリカを託すに足る男か試す意味合いもあったんだがね」
 それから再び張りつめた表情に戻った。
「しかし、動きがないのではどうしようもない」
「おまえが思うほど、彼らは愚かではないということだ」
 ラウルは諭すように言った。サイファは上を仰いで、軽くため息をついた。
「だが、このままおとなしくしているとも思えない。私が彼らを無視し続ければ、いずれ実力行使に出るだろう」
 強く前を見据え、淡々と語った。
「おまえの目的は復讐か」
 ラウルは腕を組み、目を細めて視線を流した。サイファはふっと笑って目を閉じた。
「だとすれば……」
 後ろの机に右手をつく。
「最初のターゲットはおまえだ」
 シュッ——。
 空を切る音。サイファは机の上のペーパーナイフをとり、ラウルの喉を目がけて突き出した。先端が喉に当たるか当たらないかのギリギリのところで、ピタリと止まる。彼は眉をひそめ、ラウルを睨みつけた。だが、ラウルは微動だにしなかった。眉ひとつ動かさず、サイファを見下ろす。ふたりは、そのまま無言で相対した。
 先に動いたのはサイファだった。ふいに目を閉じ、表情をやわらげると、手を下ろした。
「私は復讐ではなく、幸せになるための行動を選んだ。それはこれからも変わらないよ」
 ナイフを机の上に置き、にっこりと笑った。
「では、私も餌か」
 ラウルは無表情で尋ねた。サイファは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「獲物より強くては、餌にならないだろう」
 笑いながら、ラウルの肩をポンと叩いた。
「おまえは、私が遠慮も気遣いも心配もしなくていい、唯一の存在だ」
「少しは遠慮くらいしてほしいがな」
 ラウルは冷たい視線を送った。しかし、サイファはにっこりと笑顔を返した。
「おまえがいてくれて良かったよ」
 深く気持ちを込めてそう言うと、ラウルの肩に手をかけ、ぐっと力をこめた。
 傾いた陽の光は、空と街並みを紅く染める。そして、大きなガラス窓を通して、ふたりの横顔をも彩った。


57. 臆病なすれ違い

「ごめんね。今日はセリカと約束があるから」
 リックは鞄を肩に掛けながら、ジークの席にやってきてそう言った。セリカの入学以来、放課後は彼女とふたりで図書室や食堂に寄ったり、一緒に帰ったりすることが多くなっていた。
「ああ」
「またあしたね」
 ジークは座ったまま軽く返事をし、アンジェリカは小さく手を振って見送った。リックは笑顔で手を振り返すと、そそくさと教室を出ていった。アンジェリカは、彼の姿が見えなくなったあとも、ずっとその戸口を見つめていた。そして、ジークは、そんな彼女の横顔を見つめていた。
「図書室、寄ってくか?」
 彼は不安を押し隠し、明るい声を作って誘い掛けると、椅子から立ち上がった。彼女は振り向くことなく、その場で目を伏せた。
「今日は帰るわ」
「そうか」
 まただ——。最近、アンジェリカが自分を避けている。ジークはそう感じていた。三人一緒のときは、今までと何ら変わりなく接してくれているが、ふたりきりになろうとはしないのだ。しかし、確信があるわけではない。気のせいかもしれない。
「送ってく」
「あ、私、お母さんのところに寄っていくからいいわ」
 アンジェリカは王宮の方を指さした。彼女の母レイチェルは、付き人として王妃の部屋にいる。誘われでもしない限り、ジークには行くことのできない場所だ。
「それじゃ、ね」
「ああ」
 アンジェリカはぎこちなくはにかんで手を振ると、小走りで教室をあとにした。
「っくしょう……!」
 ひとり教室に残されたジークは、顔をしかめながら、両手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
 なんだって俺は、あんなこと——。
 ジークは頭を抱え込み、がっくりと大きくうなだれた。

「アンジェリカ!」
 リックはアカデミーの門の脇に立っているアンジェリカに走り寄った。
「休みの日に呼び出したりしてごめんね」
 彼女は口元で両手を合わせ、申しわけなさそうにリックを見上げた。
「うん、それはいいけど、どうしたの?」
 彼はにっこりと笑顔を返した。本当はセリカとの約束をキャンセルしてここへ来たのだが、それは言わないことにした。彼女がジーク抜きで自分だけをこんなふうに呼び出すなんて、今までなかったことだ。何か、よほどのことがあるに違いない。リックはそう思った。
「うん……こんな話、リックは困るだけだと思うんだけど……」
 アンジェリカは歯切れ悪く口ごもった。いつもはっきりとした物言いの彼女にしてはめずらしい。
「気にしないでよ。言うだけでアンジェリカの気持ちが楽になるんだったらさ」
 彼女が負担に感じないよう、リックは軽い調子で笑って返した。アンジェリカもつられるようにかすかに笑った。

「え? ジークが怖い?」
 ガタン——。
 バスケットボールがバックボードに当たり、リングをかすめ、外側へ跳ね落ちた。人気のない休日の校庭に、ジャッと砂をこする濁った音が鳴る。アンジェリカは小走りで跳ねるボールを追いかけていった。
「どういうこと?」
 リックは彼女の背中に問いかけた。しかし返事はない。ボールをつかまえた彼女は、ドリブルで方向転換をすると、再びバスケットに向けて放った。大きなボールが、青空に大きく弧を描いていく。
 ダン——。
 今度はリングにぶつかり跳ね返った。ワンバウンドでキャッチすると、砂ぼこりのついたそれをぎゅっと抱え込む。
「自分でもよくわからないの」
 彼女は顔に陰りを落とし、かぼそい声でつぶやいた。
「三人一緒だと平気なんだけどね。ふたりになると、急に怖くなっちゃって」
「何か、あったの?」
 うつむく彼女の横顔を見つめながら、リックはできる限りの平静を装って尋ねた。
「そういうわけじゃ……だから、よくわからないのよ」
 そう言って顔を上げると、困ったように肩をすくめて笑ってみせた。リックは目を伏せ、口元に手を添えると、真剣な表情で考え込んだ。
「やっぱり困らせちゃったわね」
 彼女は苦笑いしながら、ゆるくチェストパスをした。
「困ってるわけじゃないよ」
 リックは両手でパスを受け取ると、安心させるようににっこりと笑顔を作った。しかし、彼女は申しわけなさそうに、再び小さく肩をすくめた。
「そんなに悩んでくれなくてもいいわ。聞いてくれただけでありがたいもの」
 リックは、そんなふうに気を遣う彼女がよけいに心配だった。ボールを脇に抱え、じっと彼女を見つめる。
「これからどうするの?」
「うん、いつまでも逃げているわけにはいかないわよね。とりあえずジークに謝るわ。あからさまに避けちゃったから、傷つけたかもしれないし」
 じっくり考えながら、気丈にしっかりと答える。それでもリックの不安は拭えなかった。
「大丈夫なの? 根本的な解決になってないけど」
「なんとかなるわ、きっと」
 アンジェリカは笑ってみせた。しかし、どこか強がりを含んでいるようにも感じられた。
 リックはバスケットに向き直ると、膝のバネを使って全身でボールを投げた。まっすぐバックボードに当たり、リングを半回転すると、白いネットに吸い込まれていった。勢いを失ったボールが地面に落ちて弾む。しだいに小刻みになるバウンドを、アンジェリカはぼんやりと眺めていた。
 リックは静かに口を開いた。
「ねぇ、ジークのことが嫌いになったわけじゃないよね」
「もちろんよ」
 彼女ははっきりと自信を持って答えた。彼はさらに畳み掛ける。
「ジークを怖いと思う理由はわからないんだよね」
「……ええ」
 今度は目を伏せ、とまどいがちに顔を曇らせた。リックはあごに手をあてると、小さく首をかしげた。
「もしかしたらさ、怖いのはジークじゃなくて、自分の気持ちなんじゃない?」
「え? 自分の気持ち?」
 アンジェリカはきょとんとした顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「それが何なのか、僕にはわからないけどね」
 リックはにっこりと微笑んだ。彼女は呆然とした。風が黒髪をさらさらと吹き流し、くすぐるように頬を撫でる。
 自分の気持ち——。
 そう思うだけで、なぜか鼓動が強く打つ。
「ジークが怖いなんて、そんなはずないよ。そう思わない?」
 そう付け足したリックの言葉に、彼女ははっとした。
「……そうよね。そうなのよ。そんなことあるはずないのよ。どうして私がジークを怖がらなきゃいけないわけ?!」
 次第に自分の中で怒りがエスカレートしていき、リックに向かってこぶしを握りまくし立てた。彼女の勢いにやや気押されながらも、彼は冷静に返事をした。
「でしょ? もう一度、ジークのことをよく見てみるといいと思うよ」
「……うん、そうね」
 アンジェリカはにこっと笑った。ふいに足元にコツンと何かが当たった。風に吹かれてゆっくりと転がり戻ってきたバスケットボールだった。彼女はそれを拾い上げると、額のあたりからバスケットに狙いをつけ、両手で押し出すように放った。オレンジ色のボールは大きく弧を描き、まっすぐ白いネットに吸い込まれていった。
 ダン——。
 ボールが地面を打つと同時に、彼女はぱっと顔を輝かせ、リックに振り返った。彼も笑顔で応えた。
「入ったね」
「リックに負けられないもの」
 アンジェリカは軽快な足どりで彼に駆け寄り、隣に並んだ。
「ありがとう」
 後ろで手を組み、うつむいてはにかむ。
「私、リックに大丈夫だって言ってほしかったのかもしれない」
 そう言って彼を見上げると、屈託なく笑いかけた。

「きのうはセリカと一緒だったのか? 何度か連絡したんだぜ」
 ジークは、爽やかな朝に似つかわしくない仏頂面で小石を蹴った。
「何か用だったの?」
 並んで歩くリックが振り向くと、ジークは逃げるように視線をそらせた。
「……相談ていうか……ちょっとな」
 小さな声でぼそりと答える。
「なに?」
 リックははっきりしないジークに、答えを促した。追い詰められた彼は、うつむいたまま目を細める。
「やっぱりいい……なんでもねぇよ!」
 拒絶するように、半ば投げやりに言い捨てた。リックは迷いながらも、思ったことをぶつけてみる。
「もしかして、アンジェリカのこと?」
「……なんでだよ」
 平静を装ったつもりだったが、明らかに動揺がにじんでいた。
「やっぱりそうなんだ」
 リックがぽつりとつぶやいた言葉を、ジークは否定しなかった。思いつめた表情でアスファルトの地面を見つめる。
「実はさ、僕、きのうアンジェリカと会ってたんだ」
「なに?」
 思いがけないリックの話に、ジークは驚きを隠せなかった。彼に振り向き、足を止める。リックもその場に立ち止まった。
「相談を受けてたんだよ。もしかして、そのことと関係があるんじゃない?」
 ジークははっとした。歯をくいしばり、顔をしかめ、頭をおさえる。そして、絞り出すように声を発した。
「アンジェリカ、なんて……」
「うん……ジークが怖い、って。何かあったわけじゃなく、そう思う理由もわからないんだって」
 リックは淡々と答えながらも、頭を抱える彼を、心配そうに見ていた。
「ねぇ、何があったの?」
 眉根を寄せ、けわしい顔で、ジークはしばらく考え込んでいた。そして、迷いながら口を開いた。
「あいつが、転びかけたとき……とっさに後ろから抱きとめた。そしたら、なんか妙な空気になっちまって……」
「それだけ? ……じゃないみたいだね」
 リックは、彼のこわばった顔を見て悟った。しかし、ジークは口を閉ざしたまま、自分から語ろうとはしなかった。
「そのとき思わず抱きしめちゃった、とか?」
「おまえっ、なんで……!」
 リックの当てずっぽうを聞いたとたん、ジークは顔を真っ赤にして後ろに飛び退いた。
「あ、そうなんだ」
「ちっ、違う! ほんの一瞬なんだ! そんなつもりはなくて、本当についっていうか」
 これ以上ないくらいに顔を赤らめ、あたふたとちぐはぐな言い訳をする。そのみっともなさに、自分自身ですぐに気がついた。両手でぐしゃっと髪を掴み、その場に崩れるように座り込んだ。
「俺、自分のバカさ加減がほとほと嫌になった……。何も言わねぇって決めたのに……これじゃ……」
 頭を抱え込んだまま、背中を丸め、力なく消え入りそうにつぶやいた。
「それでわかったよ。アンジェリカはそのことを無意識に感じとってとまどってたんだね」
「そうじゃねぇ!」
 リックが納得しかけたところで、ジークは急に強く否定した。
「そうじゃねぇんだ。あいつは、おまえのことが好きなんだよ……だから……」
「……え?」
 リックは本気で聞き違えたと思った。ジークはいらついて、アスファルトにこぶしを叩きつける。
「だから! あいつが好きなのはおまえなんだよ!」
「……それ、本気で言ってるの?」
「冗談でこんなことが言えるか!」
 再び地面を叩きつけ、膝に顔をうずめた。リックは怪訝な表情で、空を見上げた。
「ジークの勘違いだと思うけどなぁ」
「おまえは知らねぇだろ! おまえがセリカに会いに行くときの、あいつの寂しい顔を!」
 あくまで信じようとしないリックに、ジークの怒りは高まっていく。それでも、リックはどうしても納得がいかなかった。首をかしげ、考えを巡らせた。
「思うんだけどさ、アンジェリカって、恋愛とかまだよくわかってないんじゃないかな。そういう部分、きっとすごく子供なんだと思う」
「…………」
 ジークは反論できなかった。言われてみれば、確かにそういう気もする。
「だから、まだ誰のこともそんなふうに思ってるわけじゃないんだよ、きっと」
 リックはそう言って、ジークににっこり笑いかけた。だが、ジークはうなだれて、こぶしを膝の上で震わせていた。
「だとしても、もう……ダメだ……」
 たとえリックの言うとおりだとしても、自分が避けられているという事実は変わらない。自分の軽率な行動が招いた結果だ。すべてが終わった——。ジークは目の前が真っ暗になっていた。
「大丈夫だよ」
 リックはそう言って、再びにっこりと笑いかけた。
「そんなに簡単に壊れたりしないって」
 ジークの前に手を差しのべる。
「行こう。遅刻するよ」
 いっそこのままどこかへ逃げ出してしまいたい。そう思ったが、ジークには逃げ出す度胸すらなかった。暗い気持ちのままリックの手をとり、重い腰を上げ、鉛の足を引きずるように歩き出した。

「おはよう」
 ふたりが教室に入ると、アンジェリカが駆け寄ってきた。
「今日はちょっと遅かったわね」
「ジークがもたついちゃってね」
 リックは軽く陽気に言った。からかわれているのか、責められているのか、ごまかしてくれているのか、ジークにはわからなかった。だが、本当のことを言われるよりは、はるかにいい。
「……悪かったな」
 無愛想にぽつりとそうつぶやいた。
「どうしたの? 元気がないみたいだけど。体調でも悪いの?」
 アンジェリカは、いつもよりおとなしいジークを見て、心配そうに顔を覗き込んだ。
「別に、普通だ」
 顔をそむけ素っ気なく返事をすると、すたすたと自分の席へ足を進めた。アンジェリカはきょとんとして、彼の背中を見つめた。
「ごめんね。ちょっと機嫌が悪いみたい」
「そう……」
 リックは気づかってくれたが、彼女の不安は拭えなかった。
 きっと、私のせい——。
 アンジェリカは顔を上げ、泣き出しそうな気持ちを胸の奥へ仕舞い込んだ。

 キーンコーン——。
 終業のチャイムが鳴った。
「じゃ、僕はこれで」
 リックは素早く帰り支度を整えると、ふたりに手を振り教室を出ていった。
 ジークは小さく舌打ちした。今朝あんな話をしたばかりなのに、何の配慮も遠慮もなく、さっさとセリカのところへ行ってしまったリックを苦々しく思った。そして、アンジェリカとの橋渡しをしてくれるのではないかと期待をしてしまった自分の甘さに腹が立った。
「ジーク」
 いつのまにか、アンジェリカが席の前に立っていた。ジークは椅子に座ったまま、顔を上げることさえ出来なかった。机の上の鞄に乗せた手には、じわりと汗がにじんできた。
「図書室に寄っていかない?」
 思いがけない言葉だった。とっさに顔を上げ、彼女の表情を確かめた。快活な笑顔は、まっすぐ自分へと向けられている。
「ね?」
 アンジェリカはさらににっこり笑うと、ジークの瞳をじっと見つめ、腰をかがめて顔を近づけた。
「な……な……」
 ジークがうろたえた声をあげると、アンジェリカは両手ではさむように、彼の両頬をビタンと叩いた。彼は呆然としたが、ヒリヒリする頬の痛みで、すぐに我にかえった。
「な、なにしやがる!!」
 アンジェリカはあははと笑いながら、くるりとまわってジークから離れた。短いスカートがひらりと舞い、ふわりと落ち着く。
「ごめんね」
 その一瞬、ふいに真面目な表情をのぞかせたが、すぐににっこりと柔らかい笑顔に変わった。
「……ああ」
 ジークはそれだけの返事をするのが精一杯だった。
 ……もう、平気だから。アンジェリカは心の中で小さくつぶやいた。そして、ぱっと晴れやかな顔を上げる。
「行くんでしょ? 図書室」
 はつらつと問いかけてくる彼女を見て、ジークもようやく表情を和らげた。
「ああ」
 安堵の息をつき、鞄を肩に掛けながら立ち上がった。その顔には、もう暗い陰はなかった。



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