目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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50. リング

「ようこそ、いらっしゃいませ」
 レイチェルが門まで、レイラ、ジーク、リックを出迎えた。
 今日はアンジェリカの誕生パーティである。三人は連れ立ってやってきた。ジークとリックはまるきり普段着だが、レイラはひとり気合いを入れて、ワインレッドのベロア調ワンピースで若づくりをしている。
「約束のモノ、ちゃーんと持ってきたわよ」
 レイラはウインクをしながら、底の広い白無地の紙袋をゆっくりと掲げた。がさつな彼女にしてはめずらしく丁寧に扱っている。レイチェルはにっこり微笑みながらそれを受け取った。
「ありがとうございます。面倒なことを頼んでしまってすみません」
「なんの、なんの。こっちも楽しかったし、ね!」
 レイラはジークとリックに振り返り、同意を求めた。
「はいっ!」
 リックは元気よく返事をした。だがジークはむすっとして顔をそむけた。
「どうしたんです?」
 レイチェルはきょとんとして尋ねた。
「いいの、いいの、気にしないで。自分の不甲斐なさにへこんでるだけだから」
「え? 不甲斐なさって?」
「ふふっ、あとでわかるわよ」
 レイラは白い歯を見せて、いたずらっぽくニッと笑った。

 重厚な扉を開け、レイチェルは三人を中に招き入れた。ジークの家がすっぽり入るのではないかというほどの玄関ホール、緩やかなカーブを描く幅広の白い階段、それと対照的な赤い絨毯、きらびやかなシャンデリア。いつもながら圧倒される光景だ。
「アンジェリカ? みなさんがいらしたわよ」
 レイチェルが声をかけると、アンジェリカは応接間の扉から、ちょこんと顔だけ出した。少し困ったような顔で、恥ずかしそうに笑っている。
「大丈夫だよ、ほら」
 サイファは優しくそう言うと、後ろからアンジェリカの肩を抱き、玄関ホールに連れ出した。
「…………」
 三人は目を見開いて、呆けたように見つめた。
 彼女は深紅のロングドレスをまとっていた。腰からふんわりと広がったベルライン、肩を柔らかく包み込むパブスリーブは、レイチェルと同じシルエットである。黒いチョーカーについた小さなバラが、可愛らしいアクセントになっている。いつも身軽なミニスカートやミニのワンピースばかり着ている彼女のドレス姿に、三人は思いきり意表をつかれた。
「やっぱり変よね。着替えてくる!」
 無言の視線に耐えきれなくなったアンジェリカは、顔を真っ赤にして逃げようとした。
「かわいいわ! すっごいかわいい!!」
「うん、似合ってるよ!」
 レイラとリックは我にかえり、顔をぱっと明るくすると、口々にそう言った。しかし、ジークはいまだ無言のままである。
「ジーク、あんたもそう思うでしょ」
「え……ああ、まぁ……」
 レイラは気を利かせてジークに振ったが、彼は目を伏せ、曖昧に口ごもった。アンジェリカは顔を曇らせうつむいた。
「やっぱり変なのね……」
「あははっ、気にしないで。あのバカ照れてるだけなのよ。かわいいってくらい素直に言えばいいのに。なーに意識しちゃってんだか」
「てっ……テメーなに言ってんだ!!」
 ジークの顔は一瞬にして上気した。
「さっ、バカは放っといて行きましょ」
 レイラは先頭を切って、すたすたと応接間に向かった。まるで自分の家のような所作である。サイファとリックは笑いながらそのあとに続いた。
 アンジェリカは不安そうにジークに振り向いた。彼はまだ火照った顔を下に向けたままである。しかしわずかに顔を上げ、ちらりと彼女を見ると、右手で OKのサインを送った。アンジェリカはハッとしたあと、安堵したように表情を緩めた。長いドレスの裾を少し上げ、小走りで応接間に駆けていくと、戸口で振り返った。
「ジークも早く!」
 弾んだ声で呼び掛けると、屈託のない笑顔を彼に向けた。ジークは表情が崩れそうになるのを抑えながら、早足で応接間に向かった。
 レイチェルは後方で、見守るようにあたたかく微笑んでいた。

 広い応接間には、大きな長方形のテーブルがセッティングされ、その上には数々のごちそうが並んでいた。
「まずは、乾杯ね!」
 レイラは勝手に仕切り始めた。いつものことである。ジークはあきれて突っ込む気にもなれなかった。
 全員に飲み物が行き渡ると、レイラは高々とシャンパングラスを掲げた。
「それでは、アンジェリカちゃんの 12歳の誕生日を祝して……かんぱーい!!」
 ひときわ高い声を張り上げて、嬉しそうにみんなとグラスを合わせてまわった。
「ったく、本人よりはしゃいでどうするんだ」
 ジークはため息をつくと、やけっぱちで大きな骨付き肉にかぶりついた。レイラはそう言われても気になどしない。ただ、そんな息子を眺めながらふとつぶやいた。
「12歳かぁ……。ジークが 12のときって何やってたかしら」
「……頼むから何も思い出すなよ」
 いつかの悪夢がよみがえり、ジークは額に冷や汗をにじませた。その隣でアンジェリカはくすりと笑った。そして、グラスを置くと、レイラに走り寄った。
「レイラさん、これ」
 彼女はスカートを持ち上げ、赤い革靴を見せた。
「あ、去年プレゼントした靴ね! 良かった、似合って! もうサイズはピッタリ?」
「まだ少しだけ大きいんだけど、せっかくだから。この靴に合わせてドレスを作ったの」
 ほんのりと頬を染めながら、照れたようにはにかんだ。
「靴に合わせて作るんなら、スカートは短い方が良かったんじゃねぇのか? そんだけ長かったら隠れちまうだろ」
 ジークは口に食べ物を入れモゴモゴさせたまま、後ろから冷静に突っ込んだ。レイラはキッと彼を睨んだ。
「もう、アンジェリカちゃんの生足が見たいからって、いやらしい子ね!」
 茶化したようにそう言うと、肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。
 ジークは喉に食べ物をつまらせ、げほげほと激しくむせた。
「言ってねーだろ!」
 顔を赤くしながら涙目で必死に叫んだ。みんなどっと笑った。ただ、アンジェリカだけはひとりぽかんとしていた。
「ねぇ、ナマアシって何?」
「……えっ?!」
 尋ねられたリックは、驚いて言葉を詰まらせた。
「うーん、まあ、足とおんなじ意味じゃないのかな」
 困ったように笑いながら、そう言ってお茶を濁した。その様子をレイラはにこにこしながら眺めていた。
「ほーんと、かわいいわぁ。ね、ウチの娘にならない?」
 落ち着こうとしてお茶を飲んでいたジークは、再びむせ返った。
「む……むちゃくちゃ言うな!!」
「そんなに無茶かしら、ねぇ?」
 レイラは含み笑いをしながら、サイファとレイチェルに振り向いた。
「まだしばらくは手元に置いておきたいですよ」
「将来はわかりませんけれどね」
 ふたりはくすくす笑いながら返事をした。ジークはその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。アンジェリカがどんな反応を示しているのかも気になった。しかし、ただ紅潮した顔を隠すようにうつむくことしかできなかった。
「私、養子に出されちゃうの?」
 アンジェリカはきょとんとしてそう言った。それを聞いて、今度はまわりがぽかんとした。そして次の瞬間、どっと笑いが起こった。ひときわ大きな声で笑っているのがレイラであることは言うまでもない。
「上、行くぞ!」
 たまりかねたジークは、とまどうアンジェリカの腕をつかみ、戸口へ走っていった。
「おい、リック!」
「え? 僕も?」
 ソファに座ってくつろいでいたリックは、嫌な顔もせず立ち上がり、呼ばれるまま彼のあとを追った。

 三人は二階のアンジェリカの部屋にやってきた。あいかわらず広い部屋である。ジークの部屋が 10個は入るかもしれない。何度か来ているが、久々だったせいか、ジークもリックも少し驚いていた。
「ねぇ、さっきの話だけど」
 アンジェリカの声が呆けていたジークを現実に引き戻す。
「あれはただの冗談だ。悪ノリって言うか……とにかく気にすんな! な!」
「そんなので納得できるわけないじゃない」
 頬をふくらませ、ジークを睨んだ。そしてふいにリックに目を移した。
「僕に聞かないでよ。言ったらジークに殺されちゃうから」
 彼は笑顔であっさり拒否をした。
「まあ、なんていうか、あいつらは俺をからかってるわけで、おまえが気にすることはねぇってことだ」
「そうかしら? 私が笑われているみたいだったけど」
 アンジェリカは疑いのまなざしを送る。ジークは逃げるように目をそらせた。策もつき困り果てているところに、リックが助け舟を出した。
「ジークの言っていることは本当だよ。それは保証する」
「まあ、リックがそう言うなら」
 多少の疑念を残しつつも、アンジェリカは引き下がった。

「来たばっかりなのに、なんかもうぐったりだぜ」
 ジークはそう言って、出窓の飾り棚に手をつきうなだれた。
「ごめんね」
 アンジェリカは後ろからぽつりと言った。
「なんでおまえが謝るんだよ。どっちかっていうと、謝らなきゃいけねぇのは俺の方だろ。俺の母親が引っかきまわしてんだからよ」
 ジークは母親の所業を思い出して、苦々しく顔をしかめた。ある程度のことは覚悟をしていたが、彼女はその一歩先を行っていた。
「ふたりともそんな渋い顔しないで、ぱっと楽しくやろうよ!」
 リックは急に明るい声を張り上げた。
「大変なこともいっぱいあるけど、今日くらいは全部忘れてさ」
 付け加えたその一言に、ジークが過敏に反応した。キッときつく睨みつける。あえて「大変なこと」を思い出させるような配慮のない言い方が許せなかった。リックもようやく自分の失言に気がついた。
「あ、僕、食べるものでも取ってくるねっ!」
 焦ったようにそう言うと、リックはすばやく部屋から逃げ出した。パタンと扉の閉まる音がすると、ジークは腕を組み、深くため息をついた。
「……ったくよ」
 そっとアンジェリカに振り向くと、彼女は少しとまどったように肩をすくめて笑った。
「そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに」
「……平気なのか?」
 ジークはためらいがちに声を掛けた。
「いろいろ考えちゃうことはあるけどね」
 そう言ってかすかに笑ってみせると、窓の外に視線を流した。どこか遠くを見ているような、どこも見ていないような、捉えどころのない表情。笑みは消えていたが、無表情というのとはどこか違う。
「この前、ラグランジェ家が集まるパーティがあったの。毎年開催しているものなんだけど」
 ガラス窓に手を伸ばし、そっと目を伏せる。
「レオナルド、今年は来なかった」
「良かったじゃねぇか」
 ジークは軽く言った。しかし、アンジェリカは不満そうに口をとがらせた。
「基本的に一族の者はみんな参加する義務があるのよ。今までレオナルドは毎年来てたし。そう、いつも私をいじめるのを楽しみにしてたわね」
「ちったぁマシな人間になったってことだろ。おまえをいじめるより、もっと大切なことを見つけたんじゃねぇか?」
 ジークは飾り棚に手をつき、背筋を伸ばすと、真剣な顔を外に向けた。昼下がりの柔らかい光が彼を包む。
「それって、ユールベル?」
 アンジェリカは彼の横顔を見上げた。
「多分な」
 ジークは外を見つめたままで答えた。
「そういえば、ユールベルの家族は来てたわよ。あのお母さん、普通に楽しそうに笑ってた。なんだか、やりきれなかったわ」
 つらそうに目を細め、うつむく。
「ユールベル、幸せになってくれるといいんだけど」
「レオナルドに頑張ってもらうしかねぇだろうな」
 ジークは投げやりな感じでそう言うと、ため息をつき視線を落とした。アンジェリカはそっと顔を上げ、じっと彼を見つめた。
「でも、ユールベルはジークのことが好きだって……」
 とたんにジークは表情をけわしくして振り向き、彼女を睨みつけた。
「だから何なんだ」
「え?」
「おまえ、俺にどうしろっていうんだ。俺の気持ちはどうなるんだよ。人の気も知らねぇで!」
 ジークの突然の感情の高ぶりに、アンジェリカはわけがわからずぽかんとしていた。
「あ……悪かった」
 ジークは冷静を取り戻すと、ばつが悪そうに彼女から顔をそむけた。そのとき、ふいにミニサボテンが目に入った。もっとも窓に近いところに置かれ、太陽の光をたっぷり浴びている。濃い緑のピンと伸びたとげが、元気であることを主張していた。ジークの表情はふっと和らいだ。ジャケットのポケットに右手を突っ込み下を向いた。
「ねぇ、俺の気持ちって? ユールベルのことが嫌いなの?」
 アンジェリカは無遠慮に覗き込んできた。ジークは慌てて顔をそむけ、ポケットから手を出した。
「そうじゃねぇよ。どうでもいいだろう。蒸し返すなって」
 冷静を装って、その話題から逃げようとしていたが、アンジェリカがそう簡単に許すはずはない。
「いきなり怒鳴っておいて、それはないんじゃない?」
 腰に手をあて口をとがらせながら、わざと怒ったようにそう言うと、小さくくすりと笑った。
「ホント悪かったって。ったく……」
 ジークはちらりと彼女を見て、耳元を赤らめた。そして小さく口を開いた。
「………………れよ」
「えっ? なに? 聞こえなかった、もう一回」
 アンジェリカは顔を上げ、背伸びをしながら彼に踏み込んだ。大きな黒い瞳をまっすぐ彼に向ける。
「バっ……! そんな近づくなっ!」
 ボリュームのあるドレスのスカートに、彼の脚が埋もれていく。ジークは逃げるように上体をそらせ、片足を引いた。

「ジーク! アンジェリカ!!」
「うわぁっ!!」
 扉を開けリックが元気よく戻ってきた。ジークは焦って妙な叫び声をあげた。
「どうしたの?」
 リックはぜいぜいと息の荒いジークを、不思議そうに見た。
「ノックくらいしろ!!」
「あ、ごめん」
 あまり悪いとは思っていないような、軽い調子で答えた。
「食べるものを取りに行ったんじゃなかったの?」
 アンジェリカは手ぶらの彼を見て尋ねた。
「うん、今からケーキを出すから、ふたりとも降りてこいって」
「……俺はいいよ」
 ジークは目をそらせ、小声でぼそっとつぶやくように言った。
「なに言ってるの!」
 アンジェリカはにっこり笑いかけると、彼の手をとり駆け出した。

「お待たせしました」
 レイチェルは白い箱を手に載せて、応接間に入ってきた。
「私のわがまま、きいてくれてありがとう」
 アンジェリカは嬉しそうに、ジークとリックに礼を述べた。ケーキはふたりが作ったものだった。今年の誕生日プレゼントは手作りケーキがいい、アンジェリカがそうリクエストしたのだ。ジークがプレゼントのことで悩まなくてもいいようにという彼女なりの配慮でもあった。
「私が付きっきりでみっちり監修したから、味は保証するわよ」
 レイラは人さし指を立ててウインクした。
「見た目はちょっとアレだけどね」
「仕上げはジークに任せちゃったからね」
 リックも同調して苦笑いした。ジークは背を向けたまま、何も言わなかった。
「さあ、開けますよ」
 レイチェルは机の上に白い箱を置き、そっと蓋を上に持ち上げた。
「……」
「……持ってくるときに崩れてしまったのかしら?」
「いやいや、元々こうだったのよ」
 レイラは腕を組み、笑いながら言った。
 そのケーキはデコレーションと呼ぶには、あまりにもお粗末な状態だった。まわりには生クリームが無造作に塗りたくられ、ぼってりと厚い部分もあれば、スポンジが見えている部分もある。そして、やはり無造作にイチゴが載せられている。立っていたり転がっていたり統一がとれていない。そして、どれも中途半端に生クリームにまみれていた。とてもおいしそうには見えない。
「でも大丈夫よ。絶対においしいから」
 レイラは自信たっぷりに胸をはった。
「そうよね。見た目じゃないわよね」
 アンジェリカはケーキを眺めながらぽつりと言った。
「ろうそくは立てる?」
 レイチェルが尋ねると、アンジェリカは恥ずかしそうに首を横に振った。
「いいわ。もう子供じゃないんだし」
 ジークは何か言いたげに彼女を見た。
「なに?」
「なんでもねぇよ」
 ジークは再び顔をそむけた。
 レイチェルはケーキを六つに切り分け皿に取り、みんなにひとつづつ渡していった。
「まずはアンジェリカから食べてね」
 レイラがにっこり笑ってそう言うと、アンジェリカはこくんと頷き、緊張ぎみにケーキのひとかけらを口に運んだ。
「あ! おいしい!」
「でしょ!」
 レイラは腰に手をあて、背筋を伸ばすと、満足げに笑った。
「疑ってただろ、おまえ」
「ちょっと、ね」
 ジークがじとっと睨むと、彼女は肩をすくめて笑った。
「本当においしいわ、これ」
「味だけなら、パティシエ顔負けだな」
 レイチェルとサイファは、見た目の悪いケーキを口々に褒めた。ジークとリックは顔を見合わせて、ほっとしたように胸をなで下ろした。
「しっかし、この子の不器用は誰に似たのかしら。両親とも手先は器用なのに」
 レイラはケーキを口に放り込みながら、あきれたようにつぶやいた。
 彼女の言うことは間違っていない。ジークの母親、つまりレイラは、内職で服や靴を作っていて、細かい作業はお手のものだ。ああ見えて料理も上手い。ジークの父親は、もう亡くなっているが、生前は腕のいい二輪車修理工だった。
 しかし、ジークも負けてはいない。彼女に振り向くと、にっと笑ってみせた。
「じゃあおまえの自己中な性格は誰に似たんだよ。じいさんもばあさんも、物腰の柔らかい人だったのにな!」
「ほほう、言うようになったじゃない?」
 レイラはなぜか嬉しそうだった。

 はしゃぎながらたっぷりごちそうを食べたあと、ジークたちはソファでゆったりとくつろいでいた。サイファのピアノの音色が心地よく眠気を誘う。まどろむアンジェリカの隣で、ジークは大口を開けてあくびをしている。さらにその隣では、リックが目を閉じピアノの音色に耳を傾けている。
「アンジェリカ」
 レイチェルが小さな箱を持ってやってきた。
「ん……なあに?」
 彼女は眠そうな目をこすりながら座り直した。
「プレゼントってわけじゃないんだけど」
 レイチェルはそう言うと、手にしていた小さな箱の蓋を開け、彼女に差し出した。その中には、白く光るごつごつしたリングがおさまっていた。きれいに輝いていはいるが、デザインはかなり古めかしい。アンジェリカは不思議そうに母親を見上げた。
「……指輪?」
 隣でぼんやりしていたジークは、その一言でばっと勢いよく飛び起きた。
「どうしたの?」
 アンジェリカは目を丸くした。ジークは彼女の持っているものを見て、とまどったような表情を浮かべた。
「12歳の女の子にシルバーリングを贈るならわしがあることは知っているかしら?」
 レイチェルはにこにこしながら、ふたりに尋ねた。アンジェリカは首を横に振った。
「僕、知ってます」
 リックが隣から口をはさんできた。
「確か、魔よけと幸福のお守りとして贈るんでしたよね。今はもうすたれかかっているとか」
 レイチェルはにっこり笑った。
「じゃあこの指輪はそのならわし?」
 アンジェリカは指輪を取り出し、光にかざした。表面の模様が乱反射を起こし、きらきらと煌めきを放つ。
「そう。私が 12歳のときに受け継いだものよ。ずっと代々受け継がれてきたの。こんな仰々しい指輪、毎日はめているわけにはいかないと思うけど、大切に保管はしておいてね」
 レイチェルの話を聞きながら、左手の中指にその指輪をはめてみた。引っかかることなく、すっぽりと奥まで滑っていった。どうやら彼女の指には大きすぎるらしい。
「わかったわ。そういえば、シルバーには魔よけの力があるって聞いたことがあるわね」
「あっ、それ、シルバーじゃなくてプラチナなのよ」
 レイチェルは肩をすくめた。
「え? でもさっきシルバーリングを贈るって……」
 アンジェリカは目をぱちくりさせた。
「本来はそうなんだけど、どうしてかしらね。多分、シルバーより変質しにくいからだと思うけど」
「ふーん、案外いいかげんなのね」
 指を広げて指輪を眺めながら、ぽつりと言った。レイチェルとリックは苦笑いをした。しかし、ジークは思いつめたような難しい顔でうつむいていた。

 ピアノの音がやみ、サイファが近づいてきた。
「楽しそうだな」
 にっこりと微笑むと、ジークの前のソファに腰を下ろした。レイチェルもその隣に寄り添うように座った。
「ジーク君は今、魔導科学技術研究所で働いているんだって?」
 サイファは含み笑いをジークに向けた。ジークに不安と緊張が走った。
「はい、そうですけど……」
「いろいろ噂は聞いているよ。やんちゃな子が入ってきて、手を焼いているって」
「えっ?」
 ジークは驚いて短く声をあげた。しかし、考えてみれば、あの研究所は魔導省の管轄にある。魔導省に勤めているサイファとつながりがあっても不思議ではない。
「ジーク、いったい何をやらかしたわけ?」
 アンジェリカは笑いながら彼を覗き込んだ。ジークは少し身を引いた。
「別に何もやってねぇよ。ただ、そっちの仕事をやらせてくれとか、他の部屋や施設を見せてくれとか頼んだだけだ。全部、断られたけどな」
「月払いの給料を週払いに変更させたとも聞いたぞ。無断で制限区域に立ち入ろうとしたこともあったらしいじゃないか」
 サイファはニッと口角を上げた。
「え、あ、すみません……」
 ジークは少しびくつきながら謝った。だが、サイファは別に彼を責めるつもりはなかった。
「今度、連れていってあげるよ。制限区域の施設。簡単な見学くらいになると思うが」
「本当ですか?!」
 ジークは身を乗り出した。
「私も行きたい!」
 アンジェリカも続いて身を乗り出した。サイファはすまなさそうに笑うと、彼女の頭にそっと手を乗せた。
「さすがにまったくの部外者を入れるわけにはいかないよ」
「そう……」
 あからさまに落胆した様子でうなだれ、ソファの背もたれに身を沈めた。
「おまえ、まだまだこれからいくらでもチャンスはあるだろ。そんな顔するなって」
 ジークは右手を上げかけて、そっと戻した。
「うん、そうね」
 アンジェリカは沈んだ声で返事をした。

「さて、そろそろ帰るか」
 ジークはリックに振り向いた。リックもこくりとうなずいた。
「あれ? レイラさんは?」
「あ、そういえば……」
 ジークはすっかり忘れていた。
「レイラさんでしたら、あちらですわ」
 レイチェルがにっこり笑って指し示した方を見てみると、長いソファで横になり、ぐっすり眠っているレイラがいた。体に掛けられたタオルケットは、おそらくレイチェルが気をきかせてくれたものだろう。ジークはカッと顔が熱くなるのを感じた。
「どうりで静かだと思ったぜ」
 ズボンのポケットに手を突っ込み、やや背中を丸めて、母親のもとへ近づいていった。
「おい、起きろよ。ひとんちでくつろぎすぎだぞ」
「……もう、朝?」
 レイラは大きくあくびをして目をこすりながら起き上がった。まだ目は虚ろで、ぼんやりとしているようだ。
「寝ぼけてんじゃねぇぞ。そろそろ帰るぜ」
「ジークさん、まだゆっくりしていってくださっても良いのですよ」
「これ以上、迷惑をかけるわけには……ていうか、本当にすみません……」
 ジークは申しわけなさそうに背中を丸めて、レイチェルに頭を下げた。彼女は首を横に振ると、にっこり笑って彼を見上げた。アンジェリカとサイファも、その光景を眺めながら微笑んでいた。

「いろいろありがとう。楽しかったわ」
 アンジェリカは両親の間に立ち、来客に最後の礼を述べた。
「僕らの方こそ楽しかったよ。ね、ジーク」
「あぁ」
 ジークはふいにアンジェリカから目をそらせた。頬をなでる冷たい風が、頭の芯をはっきりとさせる。そして、それは、夢のようなひとときの終わりを自覚させた。まだかすかに明るさの残る空に、カラスの鳴き声が寂しげに響く。
「また、今度ね」
 アンジェリカは寂しさを押し隠し、にっこり笑ってみせた。
「……あんまり水やりすぎんなよ」
「えっ?」
「またなっ」
 ジークはぶっきらぼうに右手を上げると、背を向け歩き出した。リックも彼女に手を振りながら、ジークのあとを追った。
「来年もまた呼んでね!」
 レイラも大きく手を振りながら去っていった。

「水って何の話?」
 レイチェルはちょこんと首をかしげてアンジェリカを見た。
「さぁ? 何なのかしら」
 アンジェリカは本当にわけがわからないといった様子で、口を軽くとがらせ腕を組むと首を傾げた。

 水、水、水……。
 心の中でつぶやきながら、後ろで手を組み、アンジェリカは自分の部屋へ戻っていった。
「水をやるなっていったらサボテンだけど、何かおかしくなっていたのかしら。今朝は元気だったはずだけど」
 うーんと唸って首を傾げながら窓際に歩いていった。そして出窓の飾り棚を覗き込む。
「なに、これ」
 ミニサボテンの鉢の隣に、見覚えのない小さな箱が無造作に転がっていた。手に取り、そっと蓋を開く。
「……えっ?」
 その中に入っていたものはリングだった。レイチェルからもらった指輪とは明らかに別のものだ。なんの飾りもない、シンプルで細い銀色の輪。
「これだったのね」
 アンジェリカはくすりと笑った。彼のいくつかの不可解な言動がひとつにつながった。
「もう、まわりくどすぎよ」
 半ばあきれたようにそう言うと、左手の中指にそのリングをはめてみた。彼女の指には少し大きかったが、それでも満足そうだった。スカートをひらめかせ、くるりと一回転し、ふかふかのベッドに背中から倒れ込んだ。そして、くすくす笑いながら、まっすぐ上に左手を掲げた。
「宝物がもうひとつ増えた」
 アンジェリカは目を閉じ、大切そうに銀の指輪を胸元に抱えた。

51. 国家機密

「はーい、それじゃ 10分の休憩ね」
 甘ったるい女性の声が、スピーカーを通し狭いブース内に響いた。ジークはヘルメットを取り、それを足元に置くと、扉を押し開けた。
「いいデータが取れてるわ。君を採用したのは正解みたいね」
 今度はスピーカー越しではなく生の声。髪をアップにし、ヘッドセットをつけた女性が、にこにこしながら近づいてきた。かっちりとしたパンツスタイルのユニフォームだが、その声のせいか、丸顔のせいか、不思議と柔らかい印象を受ける。彼女はジークに冷えた缶コーヒーを差し出した。
「あ、どうも」
 ジークはそれを受け取ると、その場ですぐにプルタブを起こし開け、立ったままごくごくと飲みだした。そして、ふうと一息つくと、額ににじんだ汗を手の甲で拭った。
「ごめんね。ブース内は冷房がきかなくて」
 彼女はヘッドセットを外し、首にかけると、打ち合わせ用の白い机にもたれかかった。ジークは椅子を引き、横向きに腰を下ろした。
「気が散るので静かにしてください!」
 少し離れたところでモニタに向かっていた若い男が、怒りを含んだ声を発した。ジークがうんざりしたように振り向くと、その男は無言で睨みつけてきた。
「うるさいのはあなたの方でしょ! ったく、いつもいつも……」
 彼女はむっとして言い返した。腕を組み、口をとがらせ、彼を睨みつける。そしてジークに振り向くと、申しわけなさそうに笑ってみせた。
「ごめんね。気にしないで」
 その瞬間、ガコンとスチール机を蹴飛ばす音が聞こえた。

「やあ、ジーク君。頑張っているか?」
 聞き覚えのある声に、彼ははっとして顔を上げた。
「サイファさん!」
 ジークは椅子から立ち上がり、小さくペコリとおじぎをした。隣の彼女も、慌てて机から飛び下り、勢いよく頭を下げた。短い栗色のポニーテールがひょこりと飛び跳ねる。
「この前の約束を果たしに来たよ」
「本当ですか?!」
 ジークの顔がぱっと輝いた。そんな彼を、彼女は驚いたように見つめていた。彼女だけではない。フロア内の人間すべてが注目していた。遠くでかすかなざわめきが起こる。
「サイファ殿、今日はどのようなご用件ですかな?」
 茶色い口ひげをたくわえた中年の男が、後ろで手を組み、ゆっくりと近づいてきた。
「突然ですみません、ゴードン所長」
「あなたはいつも突然ですな」
 サイファがにっこり笑いかけると、所長はもともと細い目をさらに細くした。
「今日は彼に下を見学させようと思いまして。構いませんか? もちろん私が同伴します」
 ジークの肩にサイファの手がのせられた。こんなにも注目を浴びてしまっていることに、ジークは少なからぬとまどいを感じていた。驚嘆のまなざし、羨望のまなざし、嫉妬のまなざし、嫌悪のまなざし。さまざまな感情が突き刺さる。彼はそれらから逃れるようにうつむいた。
「ジークとお知り合いで?」
「娘の友達なんですよ」
 サイファは屈託なくそう言った。ジークは顔を上げることができなかった。サイファの言っていることは間違っていない。だがこの流れでは、娘の友達だから特別扱いをされているように聞こえる。いや、実際そうかもしれない。しかし、そう思われることには抵抗があった。
「彼を信用できますか?」
 所長はちらりとジークを一瞥すると、サイファに耳打ちをした。
「あなたはどう思います?」
 サイファはジークから少し離れると、声をひそめて聞き返した。
「人間にはどんな裏があるかわかりませんからな」
 所長は慎重にそう言うと、再びジークを見た。しかし、サイファは軽く笑い飛ばした。
「彼はそんなに器用ではありませんよ」
「あなたがそうおっしゃるのでしたら」
 ジークにはその会話はところどころしか聞こえなかった。だが、自分についての話であることは、ふたりの素振りでわかる。気にはなったが、尋ねられる雰囲気ではない。
「私もついていって構いませんかな」
 所長はサイファから体を離し背筋を伸ばすと、よく通る声を張り上げた。
「もちろんです」
 サイファもそれに呼応するような、少し大きめの声で答えた。そしてジークに振り返ると、にっこり笑って手招きで呼んだ。
「あなたは規則を何だと思っているんですか!」
 突然、若い声がサイファをなじった。その声の主は、先ほどジークに難癖をつけてきた男だった。彼はサイファを激しく睨みつけたが、笑顔で軽く受け流された。
「そう固いことを言うな。なんだったら君も来るか?」
「行きません!」
 若い男はむきになって拒絶した。
「そうか、残念だな」
 サイファはそれだけ言うと、あっさり彼に背を向けた。

 サイファ、所長、ジークの三人は、研究所をあとにし、薄暗い廊下に出た。
「彼にはずいぶんと嫌われているようですね」
「優秀だが、神経質で頭が固いのが難点で」
 前を歩くサイファと所長は、笑いながら話をしていた。
 ジークは少し後ろめたい気持ちになっていた。ただのアルバイトである自分がこんなに特別扱いされても良いのだろうか。他のみんなが不快に思っていないだろうか。そんなことを、もやもやした気持ちで考え込んでいた。
 やがて、地下へと続く階段に辿り着いた。階段の前には黄色の線が引かれ、それより向こう側は立入禁止区域であることを示している。
 ふいにサイファが振り返った。真剣なまなざしでジークに問いかける。
「ジーク、ここで見たことは他言無用だ。もちろんアンジェリカやリックにもだ。守ることができるか?」
「はい」
 緊張しながらも、まっすぐ視線を返す。サイファは探るように彼の瞳を見つめていたが、しばらくするとにっこり微笑んだ。
「よし、じゃあ行こう」
 ジークは顔をこわばらせながら、黄色の線をまたいだ。

 薄暗い階段を降りると、そこにはいかにも頑丈そうな扉があった。サイファはココンと軽くノックし、ドアノブをまわし開けた。煌々とした明かりとともに視界が開ける。ジークの目に中の光景が飛び込んできた。
「……上と変わらないですね」
 ジークは拍子抜けしたようにぽつりとつぶやいた。たくさん並んだコンピュータ、実験ブース、会議用の机。すべて上の研究室にあるものと同じだ。ただし、部屋自体は上よりも狭く、かなり雑多な印象を受ける。彼にはどのあたりが機密なのか理解できなかった。
「扱っている研究の内容が、上より機密レベルの高いものなんだよ。コンピュータの処理能力も上とは比べものにならない」
 ジークの心を見透かしたかのように、サイファはそう説明をした。それでもジークは落胆の色を隠せなかった。見た目からしてもっとインパクトのある何かを期待してしまっていたのだ。
「サイファさん、今日はどのようなご用件ですか?」
 チーフの襟章をつけた男が声を掛けてきた。見た感じではサイファと同じくらいの年齢だろうか。こざっぱりと白衣を着こなしたさわやかなその姿は、散らかった研究室には不釣り合いに見える。
「今日はただの見学ですよ。気にせず仕事を続けてください」
 サイファはにっこり笑いかけると、ゆっくり見回り始めた。所長はチーフと仕事の話を始めたようだった。黙って突っ立っていても仕方がないので、ジークもサイファについて見てまわることにした。彼の後ろから邪魔にならない程度に覗き込む。モニタを見てもジークに研究の内容はわからない。だが、サイファはそれについて研究員と議論をし、指示を出したりしている。優れた魔導士でありながら、科学技術にも精通しているようだ。ジークは研究所より、彼のことの方が気になり始めていた。
「すまない、退屈していたか?」
 サイファは、ジークがぼうっとしているのに気がつくと、振り向いて声を掛けた。
「いえ……」
 ジークは少し耳元を赤らめると、うつむいて言葉を濁した。
「次へ行くとするか」
 サイファは振り返り、軽く右手を上げ、離れたところにいる所長に合図を送った。
「……え?」
 ジークは意味がわからず聞き返した。
「行くだろう? レベルA区域」
 サイファは、逆に不思議そうに聞き返してきた。
「レベルA区域……?」
「知らなかったのか。セキュリティレベルによって、フロアが分かれているんだ。上がレベルC区域、ここがレベルB、この下がレベルAだ。下はここよりさらに機密レベルが高くなっている」
 彼は淡々と説明をした。
 所長はチーフとの話を切り上げ、サイファの方へやってきた。
「行きますか」
「ええ」
 ジークは、並んで歩くふたりのあとをついていった。

 サイファは入ってきた方とは反対側の扉を開けた。そこには暗く細い下り階段だけがあった。階段の前には橙色の線が引かれている。ここから先がレベルA区域という印のようだ。一歩踏み出すと、ひんやりした空気が肌にしみてきた。
「足元に気をつけて」
 サイファは初めてのジークを気づかうと、靴音を響かせながら、暗闇へと降りていった。所長はジークを先に行かせると、そのすぐあとをついていった。
 階段を降りきると、鉄製の物々しい扉が行く手をふさいでいた。サイファは体重をかけ、ゆっくりと押し開けた。
「あっ、VRMですね!」
 ジークは開きかけた扉の奥にある機械を見つけ、弾んだ声をあげた。
「そう。ここでVRMを作り、魔導発動の仕組みを研究している」
 三人は煌々と光のともったレベルA研究室へ足を踏み入れた。上の研究室とはかなり趣きが違う。未完成のVRMが二体中央に置かれ、そこから多数のケーブルが伸び、絡み合い、大小さまざまなコンピュータにつながれていた。床には工具や計測器が雑然と転がり、足の踏み場もないほどだ。奥の大きなマシンが轟々と唸りを上げている。ひとりはチーフの襟章をつけ、デスクトップコンピュータに向かっている。ひとりは右手に持った小さな機械で何かを計測している。そして、もうひとりは、絡み合ったケーブルの上に寝そべり、VRMの下部にコードを接続しようとしていた。
「あっ、サイファさん!」
 コンピュータに向かっていたチーフが驚いた声をあげ立ち上がると、他のふたりも慌てて立ち上がろうとした。だが、サイファはそれを制した。
「今日は見学に来ただけだ。そのまま続けて」
 そう言うと、三人に向かってにっこりと笑いかけた。
「アカデミーのもここで作ったんですか?」
 ジークは後ろから尋ねた。
「ああ」
 サイファは前を向いたまま、腕を組んで答えた。
「神経、脳波、血流、細胞の変化から、体の動きと魔導の発動と制御を的確にシミュレートする。君たちは何気なく使っているだろうが、すさまじい技術の結晶だよ、これは。それゆえ一般に販売することも、他で作らせることも一切ない」
 サイファに指摘されたとおり、ジークは深く考えず何気なく使っていた。言われてみれば、確かにすごそうな技術である。だが、彼には難しすぎて理解できそうもない。
「実はこれ、ラウルの理論に基づいて作られたんだよ」
「ラウルの?!」
 思わぬところで思わぬ人の名前が出てきたことに、ジークはとまどいを感じた。
「彼の理論は私たちの何十年も先を行っているものだったよ。彼が我々の科学水準を20年、30年引き上げたといっても過言ではないだろう」
 VRMを見下ろしながら、サイファは淡々と語った。ジークは眉をひそめ、けわしい表情を作った。
「何者なんですか。いろいろ怪しすぎませんか」
「さあ、何者なんだろうね。この国ではない、遠いところからやって来たらしいが」
 サイファはVRMに片手をかけながら、ケーブルを踏みしめ、ゆっくりそのまわりを歩き始めた。
「しかし何かを企むには長すぎるだろう、300年は」
「300年?!」
 ジークは素っ頓狂な声をあげた。サイファは足を止め、少し驚いたような顔で振り返った。
「知らなかったのか? ラウルがこの国にやって来て、およそ300年だそうだ。その間、姿はまるで変わっていないらしい」
 若く見えるがかなり年がいっているという噂は聞いたことがあったが、まさか300年とは思いもしなかった。ジークはただただ驚くばかりで、声も出なかった。
「何を考えてやって来たのかはわからないが、悪いやつではないと思っているよ」
 サイファはそう付け加え、にっこり笑ってみせた。VRMを挟んだ向こう側から、所長がさらに一押しした。
「私もその意見に賛成だ。金にも地位にも名誉にも、まるで揺るがされることのない、数少ない人間だよ」
 ジークはうつむき口を結んだ。
「だいたい何かを企てようとしている男が、赤ん坊を引き取って育てようとするか?」
 サイファは軽く笑いながら言った。それでもジークは深く考え込んだままだった。思いつめたように眉根にしわを寄せる。
「洗脳して何かをさせようとか……」
 真面目な顔でふいにぽつりとつぶやいた。サイファはきょとんとして彼を見た。そして、次の瞬間、上を向いて大笑いした。
「あっははははは。そんなまわりくどいことをする必要があると思うか? ラウルが本気を出せば、こんな国などあっというまに崩壊させられるよ」
「サイファさんは……」
「足元にも及ばないさ。みんなで束になってかかっても無理だろうね」
 確かにラウルが強大な魔導力を持っていることはわかる。しかし、いくらなんでもそれは言いすぎなのではないかとジークは疑っていた。サイファでさえ足元にも及ばない力など想像もつかない。自己の謙遜なのだろうか、相手の過大評価なのだろうか。それとも事実なのだろうか……。そんなことを考えていると、サイファは優しく、しかしどこかはかなげに、ふっと笑いかけてきた。
「君も本当は感じているのだろう? ラウルが悪い人間ではないと。好き嫌いは別にして」
 そう問いかけられると、ジークはうつむき、ぎゅっと結んだ口を歪ませた。そして、そのまま何も答えることができなかった。

「さあ、次へ行こうか」
 サイファは明るく声を弾ませると、ジークの背中をポンと叩いた。
「レベルS区域へも行くおつもりで?」
 所長は重々しく声を低め、鋭い視線をサイファに向けた。しかし、彼は笑顔でそれを受け止めた。
「ついでですからね。何かあれば、責任は私が負いますよ」
 そう言って、ジークの肩に手をかけた。
「まだ先があるんですか?」
 ジークはサイファに視線を流しながら尋ねた。先ほどの話では、レベルA区域の話までしか出てこなかった。
「そうだよ。ごく限られた者しか立ち入りを許可されていない区域だ」
 サイファはジークの肩を抱えたまま、奥の鉄壁の前までやってきた。ドアノブも、手に掛けるものも、何もない。これは扉なのだろうか。ジークはぐるりと見回しながらいぶかった。サイファは、そんな彼ににっこり笑いかけると、その鉄壁の端に埋め込まれた、四角く黒いプラスティック板のようなものに親指を押しあてた。ピピッと小さな電子音が聞こえたかと思うと、プシューという空気音がそれに重なった。次の瞬間、鉄の塊が唸りを上げ、中央から上下に分かれていった。
「さあ行こう」
 サイファは呆気にとられているジークの背中を軽く押した。呆然としながらも、彼は促されるままに足を前に進めた。三人が奥に入ると、再び鉄壁が轟音を上げ、元に戻った。

「あんな若い子を連れていって、どうするつもりなんですかね」
 レベルA区域で、研究員のひとりが、閉じられた壁を見つめながら首をひねった。そういう彼自身もまだけっこう若いように見える。
「サイファさんのことだ。何か考えがあってのことだろう」
 コンピュータに向かったまま、チーフは冷静に答えた。

 鉄壁の奥には、レベルBからレベルAへ向かうときと同じように、細く暗い下り階段があった。今度もやはり線が引かれていた。色は赤のようである。暗みに沈んでしまって、いまいちわかりづらい。
 サイファが先頭になって下り、その後ろにジーク、最後に所長と続いた。一段ごとに空気が冷え込んでいく。サイファが下りきると、それに呼応するかのように、明かりがともった。明るすぎるくらいの蛍光灯の光。ジークは反射的に右手をかざすと、顔をしかめながら目を細めた。
「これは……」
 目が慣れてきたジークの視界に映ったものは、オレンジ色の液体が入った巨大な円筒だった。人間がひとり中で泳げるくらいの大きさはある。自分たちを取り囲むように、四体がそびえ立っていた。中の液体は静かに循環しているようだった。モーターの低い振動音が腹に響いてくる。
「魔導の源となる物質、エネルギー増幅素子だよ」
 サイファはさらりと言った。ジークは圧倒され、口を半開きにして、そのオレンジ色の円筒を見上げていた。概念としてしか知らなかった物質が、目の前に、それも大量にその存在を示している。なぜだか得体の知れない恐怖を感じた。畏怖の念に近いかもしれない。なぜ、どうして、どうやって……。いろんな疑問が矢継ぎ早に頭を駆け巡るが、まったく言葉が出てこなかった。
「我々は純度99.75%まで精製することに成功している」
 サイファは感情なくそう言うと、円筒のガラス面に軽く手を置いた。手のひらがオレンジ色の光に染まる。
「アカデミーで習っただろう。体内のエネルギーをこの素子で増幅させ放出するのが魔導の基本。この素子を持たずに生まれた者は、いくら努力をしても魔導を使えるようにはならない」
「何のために、これ……」
 ジークはようやくそれだけの言葉を絞り出した。背中に寒気を感じながら、額には汗がにじむ。サイファは顔だけわずかに振り返った。真剣な表情で、鋭い視線を突きつける。
「この国を守らなければならない。来たる脅威に備え、出来うる限りの対抗手段を準備する。それが私たちの仕事だ」
「これを、どうやって……」
 ジークの声はかすかに震えていた。
「体内に注入すれば、一時的に強大な魔導を発動できるようになるだろう。理論上はね」
 オレンジ色の液体を見上げ、サイファは淡々と語った。
「理論上……」
 ジークはおうむ返しにつぶやいた。
「誰も試したことがないんだ。拒絶反応や副作用が起こる可能性が未知数でね。人体実験が禁止されているんだよ」
 サイファは再び振り返ると、意味ありげに小さく笑った。ジークの心臓は飛び出しそうなほどに強く打った。そして、次第に鼓動が速くなっていった。
 ——まさか、俺に?
 こんなに楽なのに、こんなに時給がいいなんて、よく考えるとおかしな話だ。何か裏がある、どうしてそう思わなかったのか。いつかのアンジェリカの言葉がフラッシュバックする。
 ——モルモットってこと?
 ジークは小刻みに震える唇から、声にならない息を漏らすと、おびえるように瞳を揺らした。そんな彼をさらなる深みへ突き落とすように、サイファは冷たい視線を送った。
「決めるのは君だ。我々の未来のためにその身を捧げるか、それとも今日のことをすべて記憶から抹消しここから出ていくか……。たとえ君が後者を選んでも、私は君を責めはしない」
 いつもの柔和な表情からは想像もつかないほどの冷酷で厳しい瞳。
「さあ、どうする?」
 無表情で決断を迫る。彼の言葉がぐらぐら頭に響く。何も考えられない。ただひたすら恐怖を感じていた。でも何か……何かを言わなければ……。
「サイファ殿、少々悪ふざけが過ぎやしませんか?」
 沈黙を打ち破ったのは所長だった。細い目をさらに細くして、ややあきれたような顔をサイファに向ける。サイファはにっこりと笑った。
「あまりに彼が怯えるもので、つい調子にのってしまいました」
 所長もつられて笑い出す。
「いやしかし、なかなか見事な演技でしたぞ。いつ首を切られても安心ですな」
「主演男優賞でも狙いましょうか」
 ふたりは顔を見合わせて笑いあった。
「……え……あ……」
 ジークは話が飲み込めずにとまどった。
「すまない。冗談だったんだよ」
 サイファはにこにこしながら振り返った。ジークは呆然としたまま、目をぱちくりさせた。
「……どこ、から?」
「君に実験台を頼んだくだりからだよ。今はこれを結晶化して使用できないか、またハンドオン装置を作成できないかという方向で進められている」
 ジークはようやく安堵した。強く打つ鼓動を鎮めようと小さく息をつく。しかし、そう簡単に落ち着かせてはもらえないようだ。
「いずれ人体実験を行うときが来るかもしれないが……」
 サイファは不吉な言葉を付け加えた。茶化しているふうではない。今度の言葉は本心なのではないか。ジークに再び緊張が走った。
「そういえば君は四大結界師を目指しているそうだな」
「目指してるっていうか、そうなれたらいいっていうくらいですけど……」
 ジークは突然、自分のことに話を振られてどきりとした。自信なさげにおそるおそる答える。普段、リックやアンジェリカの前では大口を叩いているが、さすがにサイファの前では畏縮してしまうらしい。
「だったら、いい予行演習になったかもしれないな」
 サイファはニッと笑いかけた。オレンジ色の円柱にもたれかかり腕を組む。
「案外、知られていないことだが、四大結界師は物理的、環境的だけでなく、政治的にも国を支えている」
 ジークもそのことは知らなかった。少し驚いたような顔を見せると、サイファはさらに説明を続けた。
「王族に次ぐ大きな権限を与えられていてね。単に魔導力を注ぎ込むだけの楽な仕事ではないんだよ。仕事の大部分は政治的なものだといってもいい」
 サイファは淡々と話を続ける。
「それゆえ、こういった残酷な選択を突きつけられることも、少なからずあるだろう」
 ジークは呆然としていた。
「君には度胸とハッタリと決断力が足りないな。これから少しづつ身につけていくといいだろう」
 サイファはにっこり笑って、ジークの肩にぽんと手をのせた。その瞬間、ジークは膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。


52. 遺恨

「本当に悪かったね」
 サイファはジークの肩を抱き、笑いながら謝った。
 サイファ、所長、ジークの三人は、一階の研究室に戻ってきていた。サイファが現れたときと同様、他の研究員たちの注目を浴びている。ジークは気になって仕方なかったが、サイファはまるで気にしていないかのように、平然と話を続ける。
「そうだ。今から飲みに行かないか。もちろん私のおごりだ」
 チャンスかもしれない、ジークはとっさにそう思った。以前レオナルドが言っていたことを尋ねる絶好の機会だ。
「はい」
「よし、さっそく行くか」
 サイファはジークの肩にのせた手を、力を込めて揺らした。
「定時まであと30分ありますけどぉ?」
 やたらジークやサイファに突っかかってくる若い研究員が、今回も嫌みたらしくけちをつけてきた。しかし所長がそれを制した。
「いいんだ。サイファ殿、どうぞ連れていってください」
「感謝します。この埋め合わせはまた」
 サイファはにっこり笑うと、とまどうジークの肩を抱いて外へ出ていった。

 ふたりの背中を睨みつけるようにして見送ると、若い研究員は所長にくってかかった。
「どうしていつも好き勝手やらせておくんですか! ラグランジェ家の当主だからですか?! それとも魔導省のお偉いさんだからですか?」
 所長はおだやかに目を細めて答えた。
「おまえは知らないだけだ、彼のことを。我々が彼の家や地位にかしずいていると思うか?」
 若者は複雑な表情で下唇を噛みしめた。そんな彼を見て、所長は真面目な顔で付け加えた。
「いずれ、おまえにもわかるときがくるだろう」

 陽の落ちかけた寂れた路地裏を、サイファとジークは並んで歩く。ジークがここに来たのはずいぶんと久しぶりだった。不安からか、ついあたりを見回してしまう。あいかわらず人の姿はほとんどない。
 看板すら出ていない、薄汚れた建物。その地下がフェイの酒場だ。サイファ、ジークと続いて扉をくぐった。
「お久しぶりです、フェイさん」
 サイファは、カウンターにひじをついている黒髪の女性に声を掛けた。
「あら、ずいぶんと久しぶりじゃない。娘は元気なの?」
「ええ、元気すぎるほどですよ。たまには会いに来てください」
「あんなところ、冗談じゃないよ」
 彼女はほおづえをついたまま、けだるそうに吐き捨てた。この人がこの酒場の女主人フェイである。彼女は王妃アルティナの母親だ。雰囲気は似ているが、フェイの方がだいぶくたびれた感じである。
 まだ早い時間のためか、客は誰もいない。
 サイファはつかつかと店の中に入っていき、カウンターの丸椅子に腰を掛けた。ジークもその隣に座った。
「おすすめのブランデーをいただけますか?」
「そう言うと、いちばん高いやつにするよ。ストレートでいいね」
 およそ客相手とは思えないほどぶっきらぼうなフェイに、サイファはにっこり笑顔で答えた。
「ジーク、君は?」
「えーと、じゃあ、スクリュードライバーで」
 フェイは返事をすることなく背を向けた。棚から取り出したボトルを開け、ブランデーグラスに深みのある濃い琥珀色の液体を注ぐ。そして、今度はカラカラと音をさせながら、手慣れた様子でスクリュードライバーを作り始めた。
 ジークは何とはなしにそれを眺めていた。
 彼女は手早く作り終わると、二つのグラスをふたりの前に置いた。そしてつまみを一皿、ふたりの間に置いた。サイファはグラスを手のひらで包み込むように持つと、それをジークに向けた。ジークも細長いカクテルグラスを手にとった。ふたりは互いに目を見合わせると、無言でグラスを軽く合わせた。
「今日はどうだった?」
 サイファは一口つけたあと、ジークに向かいにっこりと笑いかけた。
「知らない世界を見たような気分です。あんなに科学技術が進んでいるなんて、思いもしませんでした」
 ジークはふいに思いつめたような顔でうつむいた。
「いずれは、誰でも道具の助けを借りながら、魔導が使えるようになるってことですか」
 グラスを持つ手に力を込め、眉をひそめる。そんな彼を見て、サイファはふっと小さく笑った。
「そうはならない。というか、させないつもりだ。少なくとも私の生きている間はね」
 彼は右手のブランデーグラスをそっと揺らした。芳醇な香りが立ちのぼる。
「剣や弓とはわけが違う。新しい力を手に入れ、暴走する愚か者がわんさと出てくることは想像に固くない。我々のような魔導を扱える者は、真っ先に標的になるだろうね。秩序は崩壊し、混沌がこの国を覆うだろう。悪くすれば国がつぶれかねない」
 ジークは下を向いたまま、はっとした。彼はそこまでのことを考えていたわけではなかった。単に魔導が使えることの価値が薄れていくのではないか、つまり、自分の価値がなくなってしまうことを懸念していた。言われてみれば、確かにサイファの言うとおりだ。彼は自分の小ささを痛感した。
「研究はあくまで有事のときのだめだ。何も起こらなければ使うつもりもない。だから厳重に管理しているんだよ」
 サイファはジークを安心させるように、にっこりと笑いかけた。

 ——カランカラン。
 扉が開き、中年の男三人が連れ立って入ってきた。三人ともサイファと同じ濃青色の服を着ている。
「おお、サイファ殿。こんなところで会うとはめずらしいですな」
 その中のひとりが、サイファを見つけると親しげに声を掛けてきた。
「いつも誘ってもめったに来ないだろう」
「サイファ殿は愛妻家ですからなぁ」
「あれだけ若くて可愛い嫁をもらえば、それも仕方ないだろう」
 三人は口々に勝手なことを言い出した。
「いえ、仕事が忙しいんですよ」
 サイファはうろたえることなく、冷静に笑顔で切り返した。
「そういうことにしておきますよ」
 三人は彼を見ながら少しにやつくと、奥の丸テーブルについた。
「誰ですか?」
 ジークは後ろをこっそり盗み見た。
「魔導省育成科の連中だ。毎日のように飲んでばかりだよ」
 サイファは感情なくそう言うと、ブランデーに口をつけた。
 レイチェルの話題が出てきたことで、ジークは目的を思い出した。
「……聞きたいことが、あるんですけど」
 こわごわと切り出し、サイファの反応をうかがった。彼はまるで顔色を変えることなく、ジークに振り向いた。
「なんだ?」
 ジークは少しためらったが、やはり思いきって尋ねる決心を固めた。
「レオナルドが言っていたことで、俺は信じてるわけじゃないんですけど、少し気になって」
 レオナルドの名前が出ると、サイファの瞳に一瞬、鋭い光が宿った。ジークは気押されそうになりながらも話を続けた。
「アンジェリカが呪われた子と言われているのも、家族を不幸にしているのも、全部サイファさんのせいだと……」
 まわりを気にしながら声をひそめる。サイファは目を伏せ、思いつめたような顔で考え込んだ。
「レオナルドがそう言ったんだな」
 彼は視線を落としたまま、落ち着いたしっかりした声で念を押した。
「はい」
 ジークは首を縦に振った。サイファの言動に不安を覚えつつも、否定してくれることを期待していた。期待というより強い希望といった方がいいかもしれない。レオナルドの言うようなことが事実であるはずがない。ずっとそう思ってきた。今はその確証が欲しかった。
 しかし、サイファが口にしたのは望んでいたものとは違う言葉だった。
「彼が言っていることには心当たりがある」
 ジークの頭に、ガツンと衝撃が走った。

 ——カランカラン。
 再び扉が開き、ふたり連れが入ってきた。服装からすると、今度も役人のようだ。
 サイファはカウンターの向こうのフェイに声を掛けた。
「フェイさん。個室を貸していただけますか」
「特別料金を上乗せするわよ」
 彼女はため息をつきながらも、親指で奥を指した。
「行こう」
 サイファはグラスを持ったまま立ち上がり、ジークの肩に手をおいた。ジークの鼓動は心臓を突き破りそうなほど強く打っていた。奥に行くということは、まわりに聞かれたくない話ということだ。真実は知りたい。だが怖い。ただ否定をしてほしかっただけなのに、こんなことになるなんて……。しかしもう後戻りはできない。彼は覚悟を決め、無言でサイファのあとをついていった。

 サイファが個室と呼ぶ部屋、すなわちフェイの応接間兼リビングルームへやってきた。サイファはためらいなく奥へ進み、古びたソファに腰を下ろす。そして、ジークにも向かいのソファをすすめた。彼は気後れしながらも、それを悟られないようにと必死だった。だが、その努力も虚しく、あからさまに動きがぎこちない。なんとかソファに座り、顔だけは平静を取り繕ってみせた。
「レオナルドが言っていたことだが……」
 サイファはためらったように言葉を詰まらせた。ジークの緊張は一気に高まった。ごくりと喉を鳴らす。
「結婚する前に子供が出来たんだよ」
「……はい?」
 あまりにも予想を超えた答えに、ジークは素頓狂な声を上げ、唖然としていた。その内容にも驚いたが、今までの話とどうつながっているのかまるでわからない。
 サイファは琥珀色の小さな水面に目を落とし、自嘲ぎみに小さく笑うと話を続けた。
「当時、親戚たちに、まことしやかに言われたものだよ。モラルに反する行いが、神の怒りを買い、子供が呪われてしまったんだとね」
 ようやくつながりが見えてきた。レオナルドはこのことを言っていたのだ。ジークはようやく納得した。
 サイファは顔を上げると、グラスを持ったまま両手を広げ、肩をすくめてみせた。
「おかしいだろう? 魔導でさえ科学で解明されようとするこの時代に、呪いなどバカバカしいにもほどがある。アンジェリカは呪われてなどいない」
 サイファはいつになく感情的にまくしたてた。
「レイチェルを苦しい立場に追い込んでしまったのは、私のせいだと言えるかもしれないがね」
 ふいに寂しげな表情を浮かべると、ブランデーを一気に飲み干した。
「そう、ですか」
 ジークは何と言っていいかわからなかった。複雑な顔で目を伏せる。だが、少しほっとしていた。サイファがレイチェルたちを裏切るようなことをしていたわけではなかったのだ。家族を想う気持ちはきっと本物だろう。
 サイファは立ち上がり、戸口へ向かうと、ブランデーのボトルを持って戻ってきた。ソファにどっかりと腰を下ろすと、ボトルの蓋を開け、自分でグラスに注ぎ始めた。
「しかしいまだにそんなことを言っているとは、そうとう根にもたれているようだな」
 ふっと軽く笑い、グラスに口をつけ傾けた。
「レオナルドに、ですか?」
「ああ、君は知らないんだな」
 ふと気づいたようにそう言うと、右手にのせたグラスを揺らし、琥珀色の波を立てた。
「レオナルドはレイチェルのことが好きだったんだよ。小さいころから、おそらくつい最近までずっとね」
 表情ひとつ動かさずに説明をする。そして、残りのブランデーを一気にあおった。
 ジークは驚いて声も出なかった。今日は驚きっぱなしである。
「家が近かったこともあって、レイチェルはよくレオナルドと遊んでやっていたんだ」
 サイファは再びボトルを手にとりグラスに注いだ。
「その頃には、すでに私とレイチェルが結婚することは決まっていたし、レオナルドもそれを知っていたはずだが、幼さゆえに実感できなかったんだろう」
 右手の上にグラスをのせると、それを目の高さに掲げ、蛍光灯にかざした。郷愁を誘うセピア色が、彼の顔を彩る。
「それが、16の若さでいきなり結婚だ。引き離されたように感じて、ショックを受けたんだろうな」
 右手をゆっくりとまわし、グラスの中でブランデーを転がす。立ちのぼる深く豊かな香りに包まれながら、そっと目を伏せると微かに自嘲した。
「それからだよ、彼がひねくれだしたのは。私を目の敵にし、その矛先はアンジェリカにも向けられたよ。私に対しては構わないが、アンジェリカを傷つけることだけは別だ。許すわけにはいかない」
 きっぱりと言い切ると、再び一気に飲み干した。
 ——カラン。
 スクリュードライバーの氷が崩れて音を立てた。ジークはすっかりその存在を忘れていた。水滴に覆われたグラスを手にとり、一口、二口、流し込んだ。上の方は氷が融けて、やや水っぽくなっていた。
「今、ユールベルはレオナルドのところに住んでいるらしいな」
「はい。きっと今はユールベルのことが……」
「少し、心配だな。けっこう思いつめるタイプでね」
 サイファの話を聞くにつれ、ジークがレオナルドに対して抱いていたイメージが変わってきた。彼にもいろいろと抱えているものがあり、理由があった。それでもやはり好きにはなれないと思うが、少しは理解できたような気がした。
 サイファはほおづえをつき、ジークを見つめながら、目を細めてかすかに笑みを浮かべた。
「君は素直だな」
「え?」
「少しは疑うことを覚えた方がいい」
 ジークははっとした。
「あ……すみません。レオナルドの言葉を真に受けたわけじゃなかったんですけど」
 彼は申しわけなさそうに頭を下げた。しかしサイファは、彼ではなくどこか遠くを見ているようだった。
「私が真実を言っているとは限らないぞ」
 意味ありげなその言葉が、ジークを不安に陥れた。彼は何を意図しているのだろうか。自分を試しているのだろうか。彼の表情からは何も読み取れない。
「……どういうことですか?」
 息が詰まりそうになりながら尋ねる。
「簡単に人を信用しない方がいいということだ」
 サイファは真面目な顔でそう言いながら、ブランデーのボトルに手を掛けた。
「嘘をついているわけじゃないんですよね?」
「どうかな」
 少しも表情を動かすことなくはぐらかす。ジークには、彼が何を考えているのかまるでわからなかった。しかし、もうこれ以上の追求などできない。どうすればいいのかわからない。すっかり困り果て、うつむいて口をつぐんでしまった。
「悪い、飲み過ぎたようだ」
 サイファはブランデーに手を掛けたまま、深々と頭を下げた。そして、ゆっくりソファの背もたれに身を預けると、天井を仰ぎ、額に手の甲をのせた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
 ジークが立ち上がろうとしたそのとき、フェイが両手に皿を持って入ってきた。サイファの様子を目にしたあと、机の上に視線を移す。
「あきれた。この短時間でこんなに飲むなんて」
 半分以下になったボトルを覗き込み、ため息まじりに言った。
「何があったか知らないけど、いい大人なんだから自制しなさい。君も止めなさい」
 料理が盛られた皿を机の上に置きながら、母親のようにふたりをたしなめた。
「すみません」
 ジークは小さく頭を下げ、素直に謝った。しかし、いいわけしたい気持ちも少しはあった。サイファは顔色が変わらないので、酔っているかどうか見た目ではわかりづらい。どう止めたらいいというのだろう。そう思ったが、口には出さなかった。
「水を持ってくるわ」
 フェイはその言葉を残し、戻っていった。
「サイファさん……」
 ジークは遠慮がちにそっと声を掛けた。目を閉じている彼を見て、眠ってしまったのではないかと思った。だが、彼はしっかり意識を保っていた。
「大丈夫だよ、心配ない」
 目を閉じたままだったが、いつものはっきりした口調だった。
「俺のせい、ですか?」
 ジークはよくわからないまま、そう尋ねていた。不安そうに顔を曇らせる。
「君は悪くないよ」
 サイファはなだめるように優しく答えた。

 フェイが水を持って戻ってきた。
「あのときみたいなのはごめんだからね」
 そう言いながら、サイファにグラスを差し出した。彼は体を起こすと、にっこり笑ってそれを両手で受け取った。
「もうあんな昔のことは忘れてください」
「思い出させるようなことをするからよ」
 フェイはブランデーのボトルとグラスを手にとった。
「これはおあずけ。料理はどうする? 食べられるようなら持ってくるけど」
「ええ、お願いします」
 サイファがにこやかにそう言うと、フェイは小さく笑って再び戻っていった。彼女のこんな表情を見たのは、ジークは初めてだった。

「昔ね、一度だけ酔いつぶれたことがあったんだよ。みっともない話さ」
 サイファはひとくち水を飲むと、笑いながら自ら語った。気になっているけれど聞きづらそうなジークの素振りを察してくれたようだった。
「サイファさんでもそんなことあるんですね」
 ジークは驚いたような、妙に感心したような様子で、そんな言葉を漏らした。
「失望したか?」
「いえ、なんだか安心しました」
 安心したというのが適切な表現かどうかはわからない。だが、それはジークの本心だった。非の打ちどころのない人だと思っていたサイファにも、こんな失敗があったのだ。それを知ることで、ほっとしたと同時に親しみもわいてきた。
「ジーク、君にお願いがある。今日の話はアンジェリカには内緒にしておいてくれ。レオナルドのこともな」
「……言えませんよ」
 ジークは少し耳元を赤らめて目をそらせた。たとえ言えといわれても、自分の口からはとても言えない。
「そうか、そうだな」
 サイファは下を向き、愉快そうに吹き出して笑うと、フォークを手にとりサラダをつついた。


53. 辿り着く場所

「そろそろ支度しなければ遅刻だぞ」
 自室に戻ってきたレオナルドは、いまだベッドで布団をかぶるユールベルに声をかけた。丸テーブルに置かれた朝食は手つかずのままである。
「どうした。気分でも悪いのか」
 レオナルドは顔色をうかがおうと覗き込むが、彼女は顔をそむけ、より深く布団にもぐり込んだ。
「今日は休むわ」
 布団の中からくぐもった声が聞こえた。
「体調が悪いのか。だったら俺も休むよ」
 わずかにのぞいた後頭部の金髪をそっとなでる。
「いいの。あなたは行って」
「放っておけるか」
「お願い。ひとりになりたい気分なの」
 静かに懇願する。レオナルドは目を細め、じっと彼女を見つめた。
「……わかった」
 しばしの沈黙のあと、ぽつりとそのひとことを落とした。そして、布団をわずかに下げると、彼女のほほに軽く口づけた。
「何かあったら下の母親に遠慮なく言うんだ」
 返事はなかった。しかし、それを求めることはしなかった。再び彼女の頭に手を置いた。
「行ってくる」
 レオナルドは後ろ髪を引かれる思いで部屋をあとにした。

「今日はあの子どうしたの?」
 ひとり階段を降りるレオナルドに、階下を通りかかった母親が尋ねた。
「彼女、体調が悪いようなんだ。面倒を見てやってほしい」
「まったくやっかいなことばかり……」
 母親は顔をしかめてため息をついた。その態度にレオナルドはむっとしたが、彼女の機嫌を損ねないようぐっとこらえた。
「仕方ないだろう」
 リビングルームから野太い声が響いてきた。レオナルドは無意識に眉をひそめ、開いていた扉から中に目を向けた。そこにはどっしりとソファに腰を下ろし、大きく新聞を広げる父親がいた。気難しい横顔に冷徹な瞳。いつもどおりの表情である。
「サイファに頼まれたんだからな」
 レオナルドははっと目を見開き、とたんに顔を曇らせた。
「あんな若造でもラグランジェ家当主だ。命令には逆らえん。そうでなければ、とっくに放っぽり出している」
 父親は苦々しげに顔をしかめると、二つ折にした新聞をテーブルに叩きつけた。
「おまえは昔からやっかいごとばかり持ち込むな」
 ソファにもたれかかり腕を組むと、戸口に立つ息子に冷めた視線を投げつけた。
「だいたいバルタスのところの娘は死んだという噂だったろう。足はついているのか?」
 そのひとことで、レオナルドは一気に頭に血をのぼらせた。父親を激しく睨みつけ、奥歯をぎりぎりと軋ませる。しかし、彼には何の効力もなかった。むしろ怒らせただけである。
「なんだ、その態度は。文句があるなら一人前になってから言え!」
 迫力のある低音に威圧され、レオナルドは身をすくませる。くやしいが、何も言い返せなかった。

 ユールベルはベッドから降り、ふらふらと光の差し込む窓に歩み寄った。まぶしさに右目を細めながら、窓枠に指を掛け、外を見下ろした。レオナルドの後ろ姿が見える。彼は門の手前で振り返り、大きく右手を振った。彼女もつられて手を上げかけたが、すぐに元に戻してうつむいた。
 ギィ……。
 ユールベルは音のする方を見た。扉がゆっくりと開く。そこから姿を現したのは、レオナルドのふたりの弟だった。彼女はほとんどをレオナルドの部屋で過ごしている。そのため、同じ家に住んでいるものの、他の家族とはときどきすれ違うくらいで言葉を交わしたこともない。大きい方のロルフはユールベルと同じくらいの年頃だ。なぜか敵意をむき出しにして、彼女を睨みつけている。小さい方のマックスは、そんな兄の後ろでただおろおろしている。
 ロルフは意を決したようにごくりと喉を鳴らすと、ずかずかと部屋に入ってきた。まっすぐにユールベルへと向かう。そして勢いよく彼女の胸ぐらを掴み上げた。ブチブチッという鈍い音とともにボタンがはじけ飛び、薄地のネグリジェの襟ぐりが大きく開いた。
「おまえが来てから兄貴がおかしくなったんだよ。何を企んでいるんだ」
「別に、何も」
 冷静に答える彼女を見て、ロルフはさらにカッとなった。胸ぐらを掴んだ手を振りおろし、床に叩きつけるように倒した。そして、彼女に馬乗りになると、細い首に手を掛けた。
「返せよ、兄貴を……。昔の兄貴を!」
 歯をくいしばり、額に汗をにじませ、ギリギリと指に力をこめる。ユールベルは苦しそうに眉根にしわを寄せるが、抵抗もせず声も発しない。
「ロルフ兄さん!」
 マックスの呼びかけで我にかえり、はっとして手を緩めた。彼女の白い首には、くっきりと指の跡が残っていた。彼女はゆっくりと右目を開き、無表情でじっと彼を見つめた。
「き……気味わるいんだよ!」
 彼女の視線にうろたえながら叫ぶと、左目の包帯に手を掛け、乱暴にむしり取り始めた。
「この包帯も怪しいんだ!!」
 ユールベルは無抵抗だった。ゆるく結ばれていた包帯はすぐに頭から外れた。左目があらわになる。
「……っ!!」
 焦点の定まらない瞳、焼けただれた跡。ロルフはぎょっとして後ろに飛び退いた。マックスも息をのんで後ずさった。
「包帯の下に傷があるのは当たり前だ……。レオナルドはそう言ったわ」
 ユールベルは仰向けのまま、虚ろに天井を見つめてつぶやいた。弟たちは言葉に詰まり、口を真一文字に結んだ。
「言われなくても、もうすぐ消える」
 ユールベルは、かぼそく息をするように言葉を吐いた。ロルフは腹立たしげに顔を歪ませた。
「とっとと出ていけ!」
 精一杯、気張ってそう吠えると、走って部屋を出ていった。マックスも、おろおろしながらロルフのあとを追った。
 ドタン。
 再び扉が閉じられ、ユールベルはひとりになった。仰向けになったまま、少しあごを上げ、ガラス越しの四角い空を見上げる。
 ——すぐに、消えるわ。
 そのままの姿勢でベッドの下に手を伸ばし、そこに隠してあった茶色の小瓶を握りしめた。

 アンジェリカはひとりでアカデミーに来ていた。長期休暇中だが、図書室で自主学習をするためである。
「あ、アンジェリカ!」
 玄関を抜けるとすぐに、後ろから呼び止められた。怪訝な顔で振り返る。
「えーっと……ターニャ、だったかしら」
「覚えていてくれてありがとう」
 彼女は人なつこくにっこりと笑いかけてきた。
「二年生は長期休暇中じゃなかったの? あ、そっか。あなたもユールベルの様子を見に来たのね」
 返事を待たずに勝手に決めつける彼女に、アンジェリカはあきれ顔を向けた。
「私は図書室に用があって……」
「あ、レオナルド!!」
 アンジェリカの話をさえぎり、ターニャは大きな声をあげた。彼女の視線は、アンジェリカを通り越した向こう側に向けられていた。アンジェリカも彼女の視線をたどり、振り返った。
「またおまえか……」
 レオナルドはあからさまにうんざりした様子で、沈んだ声を発した。しかし、ターニャはそんなことは一向におかまいなしだ。にこにこと笑顔で彼に近づいた。
「あら、ユールベルは?」
 あたりを見回しながら尋ねる。
「今日は休みだ」
「どうして?」
「おまえに会いたくなかったのかもな」
 ターニャはむくれて唇をとがらせた。
「それで、放ってきちゃったわけ?」
「仕方ないだろう。ひとりになりたいと言っているんだ。母親に面倒を見てくれるよう頼んである」
 そこまで言うと、深くため息をついた。
「いいかげん俺たちのことは放っておいてくれないか」
 しかしターニャは引き下がらなかった。
「私はユールベルが心配なの! キミと傷をなめあうような関係を続けても彼女のためにならない。もっと明るい場所に出て、生きてると楽しいことがいっぱいあるんだってこと、教えてあげるべきよ」
 オーバーに両手を広げて力説した。そんな彼女に、レオナルドは嫌悪感をあらわにした。片眉をひそめ睨みつける。
「おまえに何がわかる。勝手な思い込みで毎日つきまとうのはやめてくれ」
「少し、同情するわね」
 アンジェリカはぽつりと言った。
「ちょっとアンジェリカ! あなたどっちの味方なのよ!」
 ターニャは驚いた声をあげ振り返った。まるで裏切られたといわんばかりの勢いだ。
 しかしアンジェリカは冷静を保ったままだった。
「どっちでもないわ。それじゃ、私は図書室に行くから」
 そっけなく返事をして背中を向けようとすると、レオナルドが腕を掴んで止めた。
「……なによ」
 むっとして見上げると、彼は困ったような、とまどったような、複雑な表情を見せた。
「一緒に来てくれ……ラウルのところへ」
「ひとりで行けばいいじゃない」
「ユールベルの薬をもらいに行くんだ」
「だから、ひとりで行きなさいよ」
 アンジェリカがレオナルドの瞳を探ろうとすると、彼は視線をそらせ、ばつが悪そうにうつむいた。
「もしかして、怖いの?」
「ばっ……バカを言うな! 怖いんじゃない。苦手なだけだ!」
 必死の彼を、アンジェリカは冷ややかに見つめた。
「ふーん、まあいいけど」
 勝手なレオナルドの頼みなど断ってもよかったが、彼女自身、久しぶりにラウルの顔が見たい気持ちになっていた。
「私もついていっちゃおっと」
 ターニャは目一杯かわいらしく言ってみたが、レオナルドは冷ややかだった。
「おまえは来るな」
 それでも彼女はめげなかった。いたずらっぽくにっと笑う。
「ついて行くんじゃなくて、私も先生に用があるって言ったら?」
 レオナルドはチッと舌打ちした。何を言っても無駄だと思った。逃れるように背を向け歩き出す。
「痛っ! 手を放してよ。逃げやしないわ」
 アンジェリカはレオナルドの手を振りほどいた。彼は一瞬、寂しげな表情を浮かべた。

「鍵がかかっているわね」
 ラウルの医務室の前まで来たが、通常の鍵に加え、外からも南京錠が掛けられている。中にいないことは明らかだ。レオナルドは軽く舌打ちした。
「どこへ行ってるんだ」
「仕方ないじゃない。ラウルだって暇じゃないんだから。出直すしかないわね」
 淡々とそう言って振り返ると、何かを見つけ、驚いたように前方を指さした。
「レオナルドのお母さんよね?」
 彼は白く細い指を目でたどった。その先にいたのは確かに彼の母親だった。階段から降りてきたところのようだ。
「なんでこんなところに……」
 彼女が王宮に来ることなどめったにない。よりによって、ユールベルの面倒を見るように頼んだ日になぜ……。そんな疑問が頭をもたげた。そして、それは次第に怒りへと変わっていった。
 母親はレオナルドに気がつくと、無言で近づいてきた。少し離れたところで足を止め、疲れきった表情で目を伏せた。
「ユールベルを放っておいて、こんなところで何をしてるんだ」
 レオナルドは責めるように語気を強くした。
「違うのよ……ユールベルが……」
 三人は怪訝な顔を彼女に向けた。

「くっ……! いつまで待てばいいんだ!!」
 レオナルドは苛立ち叫びながら、白く大きな扉にこぶしを叩き込んだ。
「状況だけでも教えてくれ!!」
 再びドンドンと扉を叩く。
「待つしかないわ」
 アンジェリカは小さくつぶやいた。彼女の顔は暗い。隣では、壁にもたれて座り込んだターニャが、浅くしゃくり上げている。
「あなたはもう行っていいわよ。授業が始まっているし」
 アンジェリカは横目で彼女を見下ろした。
「放って行けるわけないじゃない!」
 ターニャは感情的に声をあげると、激しく嗚咽を始めた。

 ガチャン。
 金属音があたりに響いた。ターニャははっとして立ち上がった。レオナルドは睨むように扉を凝視した。
「静にしろ。ここをどこだと思っている」
 ゆっくりと開いた扉から姿を現したラウルは、開口一番そう言った。レオナルドは返事をすることなく、ラウルの脇をすり抜けて中に駆け込んでいった。ターニャもすぐあとに続いた。アンジェリカも少し遅れ、歩いて中に入っていった。
「ユールベル! 大丈夫か?! ユールベル!」
「ユールベル!」
 レオナルドとターニャは何度も呼びかけた。アンジェリカは少し離れたところから、その様子を黙って見ていた。彼女は今朝のネグリジェのままで、白いパイプベッドに横たわっていた。胸元のボタンがいくつかなくなっていたが、今のレオナルドにはそれに気づく余裕はなかった。顔の左側には白いタオルが無造作にかぶせられていた。左目の傷を隠すための配慮だろう。顔色はまるで血が通っていないかのように白い。それがふたりの不安を煽る。
「ユールベル!」
 何度目かの呼びかけで、彼女はうっすら右目を開いた。数度まばたきをする。そして、必死のふたりを瞳に映すと、そこから視線をそらせた。
「睡眠薬20錠や30錠では死ねない」
 ラウルは腕を組み、淡々と言った。レオナルドとターニャは驚いて振り返る。ラウルはさらに言葉を続けた。
「死にたいのならもっと確実な方法を選ぶんだな」
「おまえ! それが医者のいうことか!!」
 レオナルドはラウルに向き直り、激しく非難した。両こぶしを強く握りしめ震わせながら、掴みかかりたい衝動をぎりぎりで抑え込んだ。しかし、ラウルは眉ひとつ動かさなかった。
「生きることが幸せとは限らない。本人が死にたいと言うなら、勝手にすればいい」
 平然とそんなことを言ってのける。レオナルドは歯ぎしりをしながら睨みつけた。
「……だったら……どうして、私を助けたの……」
 ようやく聞き取れるほどの小さなかすれた声。ターニャははっとして、ユールベルに視線を戻した。彼女は薄暗がりの白い天井を、無表情で見つめていた。
「本気かどうかは本人にしかわからないからだ。だから確実な方法を選べると言っている」
 ラウルは腕を組んだまま、横たわる彼女を見下ろした。
「私は医者だ。目の前に患者がいれば治療をする。それだけだ」
 レオナルドはずっとラウルを睨み上げていた。しかし、言葉は出てこなかった。
 ターニャは黒く濡れた瞳で、ユールベルを覗き込んだ。
「ねぇ、ユールベル。あなた……本当に、死のうとしたの?」
 まばたきをするだけでこぼれ落ちそうなほどの涙をたたえ、震える声で問いかける。ユールベルは目をそらせたまま、小さな口を開いた。
「そうしなければ、いけなかったから」
「……バカ!!」
 ターニャは大きな声で叫ぶと同時に、彼女の頬をパシンと思いきりはたいた。左目にかぶせられていたタオルが床に落ちる。レオナルドとアンジェリカは目を見開いて息を止めた。
「わけわかんないこと言わないでよ!!」
 涙をあふれさせながら、目一杯の声で叫び、再び手を上げる。レオナルドは我にかえり、慌てて彼女を後ろから羽交い締めにした。
「おまえ! 何をするんだ!!」
「自分から死を選ぶなんて、絶対に許せないんだから!!」
 おかっぱの黒髪を振り乱し、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、狂ったように泣き叫ぶ。レオナルドは暴れる彼女を押さえつけたまま、外に連れ出した。
 ラウルはユールベルの左目に新しいタオルを掛けた。

 しばらくしてレオナルドはひとりで戻ってきた。疲れたように小さくため息をつく。壁に立て掛けてあったパイプ椅子をユールベルの隣で広げ、ゆっくりと腰を下ろした。
「大丈夫か?」
 彼女の少し赤くなったほほに、そっと手をあてる。わずかに熱を帯びている。
「ユールベル、どうしてだ」
 無反応のままの彼女の細い手をとり、そっと問いかける。感情をおさえた静かな声。刺激をしないように細心の注意をはらう。
「何か、あったのか? ……それとも……俺、か?」
 わずかに顔を曇らせると、ぎゅっと彼女の手を握り、じっと顔色をうかがった。
「あなたには感謝している」
 細くかすれた声が、血の気をなくした唇からこぼれた。
「でもやっぱり、私は生きていてはいけない人間……。いつか、消えようと思っていた」
「なんでそうなるんだよ……。昔のことなんてもう忘れろよ。間違っていたのはあいつらなんだ!」
 つぶやきから次第に感情的になっていき、ついには涙声まじりで訴えた。潤んだ瞳を隠すように、慌ててうつむく。
「やっぱり、俺じゃ、駄目なのか……」
 引き寄せた彼女の手に、祈るように自らの額をつけた。冷たさがしみた。シーツの上にひとつぶがこぼれ落ちた。
「あきらめるの?」
 アンジェリカが後ろから声を掛けた。何も答えないレオナルドの背中を見つめ、さらに静かに言葉をつなげる。
「ターニャはあきらめないわよ、きっと」
 彼の背中はみっともないくらい小さく丸められ、いつもの偉そうな態度は影をひそめている。
 アンジェリカは気配を感じ、何気なくユールベルに目を移した。ふたりの視線がぶつかる。ユールベルはふいに目をそらせた。アンジェリカの顔がわずかに曇る。しかし、すぐに元の表情に戻った。
「ごめんなさい。私の顔なんて見たくないわね。出ていくわ」
 平静にそう言うと、踵をひるがえし、まっすぐ出口へ向かった。

 アンジェリカは内側の鍵を開け、大きな扉を引き廊下に出た。ターニャは扉を背に膝をかかえ、ときどき大きく肩を震わせしゃくり上げている。
「笑ったり怒ったり泣いたり、忙しいわね」
 アンジェリカは扉を閉めながら、彼女を見下ろした。
「と……とんでもないことしちゃった……私、わたし……」
 ターニャは言葉を詰まらせ、より強くしゃくり上げた。
「悪くないかもしれない。あなたの気持ちが伝われば……」
「違う……違うのよ!」
 泣きながら声を震わせ、必死に訴える。
「何が?」
 アンジェリカは壁にもたれかかり、再び彼女を見下ろした。
「彼女のためじゃない……我を失っただけ……」
 ようやく聞き取れるくらいのはっきりしない声でぼそりと言うと、それきり口をつぐんでしまった。ただ肩を揺らし、すすり上げるだけだった。

 ガラガラガラ——。
 処置室からラウルを出てきた。アンジェリカは顔を上げ、彼を見つめた。ラウルもまっすぐ視線を返す。
「アンジェリカ、おまえは帰れ」
「……そうね」
 彼女はひとことそう言うと、ためらいなく背を向け歩き去った。
 彼女の姿が見えなくなると、ラウルは隣で膝を抱えるターニャに視線を移した。
「ターニャ=レンブラント。思い出した」
 彼女は口を半開きにして顔を上げた。泣きはらした目で彼を見上げる。何かを聞きたそうな表情。ラウルは淡々と答えた。
「十数年前に会っている」
 彼女ははっとして、さらに大きく目を見開いた。それから苦しげに顔をしかめると、ゆっくりとうつむいた。
「……あの頃のことは、あまり覚えていません」
 ラウルは前を向き、腕を組んだ。
「ユールベルにおまえのことを話そうと思う」
 彼女は膝に顔をうずめた。
「同情を引くようなまねは、嫌……です……」
 ぽつりぽつりと言葉を落とす。そして小さく鼻をすする。ラウルは前を向いたまま、わずかに目を伏せた。
「おまえのためではない。ユールベルのためだ」
 ターニャは膝を抱えたまま動かなかった。ラウルも返事を求めなかった。静寂が広がる。まるで時間が止まったかのような光景。窓の外を流れる雲だけが、現実であることを示している。かすかに遠くの笑い声が届いては消えた。

「……先……生」
 長い沈黙を破ったのは、かすれたターニャの声だった。ラウルは視線だけを彼女に落とした。黒髪のつやが形を変え流れる。
「先生に、おまかせします……」
 彼女は思いつめたようにそう言うと、さらに深く顔を沈めた。

 パイプベッドに横たわったままのユールベルと、その隣で椅子に座りうつむくレオナルド。ふたりは無言でラウルの話を聞いていた。彼は淡々と事実のみを話した。
「——そういうことだ」
 長くはない話をそう結ぶと、再び処置室から出ていった。
 残されたふたりは、無言のまま口を開こうとはしなかった。ユールベルは無表情で天井を見つめ、レオナルドは暗い顔でうつむく。背中に感じる冷たい空気、無機質なただっ広さ、薄暗い明かり。それらが彼の不安を呼び起こす。無造作に放り出された彼女の手に、温もりを求めるように自らの手を重ねた。彼女は無反応だった。

 長い長い沈黙のあと、ユールベルはぽつりとつぶやくように言った。
「寮に戻るわ」
「!!」
 レオナルドはものすごい形相で、椅子から立ち上がった。大きく口を開けるものの、とっさに声が出なかった。口をパクパクさせる。
「なっ……なんでだ!!」
 乾いた喉から絞り出すように叫ぶと、片膝をつき、彼女を覗き込んだ。不安に押しつぶされそうな、今にも泣きそうな顔を隠しもしない。
「もっと、彼女のことが知りたくなったのよ」
 ユールベルの声はしっかりとしていた。
「俺はどうなるんだ! ひとりにしないでくれ!」
 彼女の手にすがりつき、必死に訴えた。しかし、彼女は表情を変えることはなかった。ゆっくり目を閉じる。
「あなたはひとりじゃない……」
 レオナルドは顔をしかめ、首を横に振り、ベッドに突っ伏した。

 翌日——。
 ユールベルは小さな鞄を持って、寮へと向かった。隣にはレオナルドが付き添っている。門の前で、ふたり並んで古びた建物を見上げた。
「ユールベル!!」
 寮から出てきたターニャが大きく手を振りながら走り寄ってきた。そして、ユールベルにとびつくと、泣きながら抱きしめた。
「きのうはごめんね……! 痛かったよね」
「あなたのこと、聞いたわ」
 ユールベルはまっすぐ前を見つめながら言った。ターニャは彼女の肩の上でこくりとうなずいた。わずかに顔がこわばった。ユールベルの背中にまわした手に力をこめる。
「楽しそうに笑っている人はみんな、幸せに生きてきた人だと思っていた」
 ユールベルは落ち着いた声でそう言うと、ひと息ついてさらに続けた。
「私も、あなたみたいに笑えるようになるかしら」
 ターニャは彼女から体を離すと、涙を残したままでにっこり笑った。
「うん、大丈夫。焦らずゆっくりとね。みんなでいっぱい楽しいことしよう!」
 ユールベルはとまどいながらも、かすかに目でうなずいた。そして、彼女の顔をじっと見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「……それと……嬉しいときに、泣いてみたいわ」
 ターニャはきょとんとしたあと、恥ずかしそうに笑いながら涙をぬぐった。

「ユールベル!」
 今度は寮母が大きな体を揺らして走ってきた。
「心配させるんじゃないよ! この不良娘が!!」
 腰に手をあて、口をふくらませ、怒り顔を作る。だが、すぐに表情をやわらげ、優しくにっこり笑った。
「おかえり」
 あたたかい声でそう言うと、ぎゅっと抱きしめた。彼女のふくよかな体に、細身のユールベルはうずもれた。
「おい、おばさん。ユールベルが苦しがっている」
 寮母はユールベルを放すと、いぶかしげにレオナルドを見た。
「あんたかい、ユールベルをたぶらかした男は」
「人聞きの悪いことを言うな」
 レオナルドはむっとして睨みつけた。
「言っておくが、俺はあきらめないからな」
「言っておくけど、寮内は男子禁制だからね」
 ターニャはいたずらっぽく白い歯を見せて、にっと笑った。レオナルドは彼女に振り向き、うざったそうに顔をしかめた。
「そのくらいわかっている」
 あからさまに不機嫌でぶっきらぼうな言葉。それでもターニャと寮母は、なぜかにこにこしていた。
「レオナルド」
 ユールベルは一歩前に出た。レオナルドの鼓動はドクンと強く打った。彼女に振り返り、じっと見つめる。白いワンピースが風を受けふわりと舞い、金髪の緩やかなウェーブが波を打つ。
「ありがとう。それと、ごめんなさい」
 彼女はまっすぐに彼を見据えた。左目は包帯に覆われているが、右の瞳は強い光を宿している。ゆっくりまばたきをすると、再び彼と目を合わせ、レオナルドに向かって足を進めた。そして、彼の肩に手を掛け、踵を上げると、軽く口づけた。
「ありがとう」
 彼女は感謝の言葉を繰り返した。
 レオナルドは彼女の背中に手をまわし、そっと抱きしめた。
「アカデミーには来いよ」
 柔らかい日ざしがふたりを包む。ターニャは目を細めてその光景を眺めていた。

「そうか、寮に戻ったのか」
 サイファは椅子の背もたれに身を沈め、目を閉じた。
「私はレオナルドが救ってくれることを期待していたんだがな」
 肘掛けにひじをつき、手にあごをのせる。その後ろで、ラウルは窓枠に手をつき、大きなガラス越しに外を見下ろしていた。
「そうすれば、あいつのレイチェルへの想いも完全に消滅するだろう、ということか」
「あいかわらず鋭いな」
 サイファは前を向いたまま、悪びれずにはははと笑った。ラウルは彼に向き直ると、窓に寄りかかった。背もたれからのぞく金色の髪を見つめる。そして、腕を組むと、小さくため息をついた。
「レイチェルのこととなると、おまえはいつも身勝手になる」
「……いつも、でもないだろう?」
 顔半分だけ振り返り、冷たい視線を流す。ラウルはそれを無表情で受け止めた。だが、答えは返さなかった。
 サイファは急ににっこり笑顔を作ると、話題を変えた。
「で、おまえはどんな手を使ったんだ」
 ラウルは顔をそむけ、窓の外に目を逃した。
「昔の患者を利用した。卑怯な方法だ」
「昔の患者?」
 サイファは椅子を回し、ラウルに向き直った。しかし、彼はガラスの向こう側をじっと見つめたままだった。
「守秘義務がある」
 サイファはそれ以上の追求はしなかった。椅子から立ち上がり、ラウルの隣に足を進め、窓から外を眺めた。ラウルは窓を背にしたまま、腕を組んでいる。
「何にせよ、これでひと安心だな」
 サイファはラウルににっこりと笑いかけた。しかし、ラウルは厳しい表情を崩さない。
「まだ立ち上がっただけにすぎない。歩き出すのはこれからだ」
「確かに、立ち止まったり、つまずいたり、転んだりすることもあるだろう」
 真剣な顔でそう言ったあと、ふっと表情を和らげた。
「だが、人の優しさを素直に受け入れられるようになったのなら心配はない。彼女には支えてくれる人もいるだろう」
「おまえがそんな青臭いことを言うとはな」
 ラウルがサイファを流し見ると、彼は再びにっこりと笑った。
「たまにはいいだろう。希望を持つのも悪くないよ」
 開けた視界に広がる青い空。そこに流れる白い雲。サイファは、幾度となく見ているはずのその光景を、まぶしそうに眺めていた。そして、ラウルの肩に手をのせると、ぐっと力をこめた。


54. 小さなライバル

「なんだったんだよ、今日の試験」
 ジークは思いきり疲れた声をあげながら、手を伸ばし机に突っ伏した。隣にやってきたリックは乾いた笑いを張りつけている。
「うん、やたら難しかったよね」
「一応、全部埋めたけど、合っている自信はないわ」
 アンジェリカもめずらしく不安そうだった。三人はそろってため息をついた。
「ラウルのやつ、難しい問題で俺たちが苦しむのを見て、憂さ晴らしでもしてんじゃねぇか?」
 ジークは体を起こし、ほおづえをついた。口をとがらせ、眉をひそめ、不愉快感をあらわにしている。
「まさか」
 笑いながらリックはそう答えたが、強く否定することは出来なかった。いつもだったら真っ先に反論するはずのアンジェリカは、口を閉ざしたままだ。頭の中で試験問題のことを考えているらしく、ジークたちの会話はうわの空だった。
「帰るか!」
 ジークは嫌な気持ちを払拭するかのように声を張り上げ、勢いよく立ち上がった。鞄をつかんで肩に引っ掛けると、戸口に向かって歩き出した。リックもそのあとに続く。
「あ、待って」
 我にかえったアンジェリカが、後ろからふたりを呼び止めた。
「ルナちゃんのところへ行かない?」
 振り返ったふたりに、小首を傾げながら尋ねた。しかし、ジークの反応はつれないものだった。
「この時間じゃ、まだラウルのところにはいないだろ」
「だからお母さんたちのところに行くの。ちゃんと許可ももらったし」
 アンジェリカは、うきうきした笑顔を見せた。それでもジークの反応は鈍かった。
 リックは少し考えたあと、はっとして口を開いた。
「それってまさか、王妃様のところ……ってこと?」
「そう。大丈夫よ、話は通しておいてくれるって」
「でも、僕たちが行ってもいいのかなぁ」
「気にしなくてもいいわよ」
 アンジェリカは事も無げにさらりと言った。しかし、リックは笑いながら顔をこわばらせていた。名門ラグランジェ家のアンジェリカと違って、ただの一般民間人の自分が王妃様の部屋に行くなんて、本当に許されるのだろうか。そのことだけが心配だった。しかし、よく考えてみると、王妃様も元一般民間人である。もしかしたら、だから、そのあたりのことには寛大なのかもしれない。リックは必死の理由づけをして、そう思うことにした。
「俺、パス」
 一生懸命に考えを巡らせていたリックの隣で、ジークはあっさりと断った。あからさまに気がのっていない声だ。アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「どうしてよ」
「あしたも試験があるだろ。そんなことしてる場合じゃねぇよ」
 彼が本当にそう思っているかどうかはわからない。だが、少なくともアンジェリカには言いわけじみた理由に聞こえた。彼女はますます不機嫌になっていった。ほほを限界までふくらませる。しかし、それ以上、強く誘うことはしなかった。
「……まあいいけど。行きましょう、リック」
「そうだね」
 リックがにっこり笑うと、アンジェリカもつられて笑顔になった。ふたり並んで廊下へと出ていく。振り返りもせずに遠ざかる後ろ姿を、ジークはじっと見つめていた。
「……待て。やっぱり俺も行く」
 ジークはふたりに駆け寄り、無理やり間に割って入った。
「もうっ! ジーク、ちょっと変よ」
 彼に弾かれたアンジェリカは、眉をひそめ、彼を睨みつけた。
「気が変わったんだよ」
 ジークはあさっての方向を見たまま、ぶっきらぼうに言い返した。

 三人は並んで王宮を歩いていた。その道すがら、アンジェリカはユールベルのことをふたりに話した。長期休暇中のことだったので、ふたりは知らなかったのだ。彼女も詳しいことを知っているわけではなかったので、話せたのは睡眠薬で自殺を図ったことと、寮に戻ったという事実だけだった。
「そっか……」
 リックは言葉少なにあいづちを打った。多少、ショックを受けている様子がうかがえた。ジークもけわしい顔つきでうつむいた。
「今はどうしてるんだ?」
「うん。ちゃんとアカデミーには来ているみたいよ。何回か見かけたわ」
「まあ、良かったじゃねぇか」
 しかし、アンジェリカは納得していないようだった。
「さあ、どうかしら。心の傷なんて治るものじゃないわ。一生、抱えていくのよ」
 感情を見せないように、無表情で淡々と語った。リックはそんな彼女の横顔をじっと見つめた。
「でも、上手くつきあっていくことは出来るよね?」
 彼が自分のことを言っているのだと、アンジェリカはすぐにわかった。顔を曇らせ目を伏せる。
「私だって、どうなるかわからないわ」
「おまえは大丈夫だ」
 ジークはきっぱりと言い切った。アンジェリカはそれが気に入らなかった。
「簡単に言わないでくれる?」
「大丈夫だ」
 ジークはもういちど言い切った。それからポケットに手を突っ込んでうつむく。
「俺……ら、がいるだろ」
 ぎこちなく言葉をつなげる。アンジェリカはとまどいながら、複雑な表情を浮かべた。そう言われても自信がなかった。怖かった。それでも、彼の気持ちに応えるように、なんとか微笑みを作ってみせた。
「そういえば、レオナルドはどうしてるの?」
 ジークの話を聞いて、リックはふいにレオナルドのことを思い出した。ジークはその名前を耳にすると、露骨に嫌な顔をした。
「どうでもいいだろ、あんな奴のこと」
 アンジェリカが口を開くより早く、ジークは不機嫌に吐きすてた。一刻も早くその話題を打ち切りたいようだった。その徹底した嫌い方がおかしくて、リックはこっそりと笑った。
「なんか他に楽しい話はねぇのかよ」
「あ、そうだわ」
 ジークが話題の催促をすると、アンジェリカはふいに何かを思い出し、ぱっと顔を輝かせた。首にかかっていた細い銀の鎖を引っ張り、服の中から小さなリングを取り出す。彼女はそれを親指と人さし指でつまみ、ほほに軽くくっつけると、無邪気な笑顔を見せた。ジークは困惑して顔を赤らめながら、目を泳がせていた。
「まだお礼を言っていなかったわね。ありがとう」
「あ、あぁ……」
「え? なになに? それどうしたの?」
 リックが興味津々で首を伸ばしてきた。
「ジークからの誕生日プレゼントよ。サイズがちょっと大きかったからネックレスにしてみたの」
 アンジェリカは屈託なく嬉しそうに話した。隣でジークは大きく口を開け、声にならない叫びをあげながら動きを止めた。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
 リックは驚いたように、しげしげとジークを見た。
「へぇ、そうだったんだ」
 ジークは彼の視線から逃れるように顔をそむけた。そうする以外になかった。
 ふいに、アンジェリカの前に、無言で手のひらが差し出された。ジークのものだ。何かを催促しているようだが、アンジェリカには彼の意図がわからなかった。目をそらせている彼に、きょとんとした表情を向ける。
「それ、貸せよ。サイズを直してきてやる」
 彼女を見ようともせず、ぶっきらぼうにぼそぼそと言った。そんな彼に、アンジェリカはにっこりと笑いかけた。
「いいわよ、このままで。いつかちょうど良くなると思うから」
 ジークは思わず彼女に振り向いた。まっすぐに視線が合うと、慌ててすぐに目を伏せた。

 ラウルの医務室を通り過ぎ、さらに王宮の奥へと向かった。ジークもリックも、ここまで来るのは初めてである。途中には何人もの衛兵がいたが、皆、アンジェリカに一礼し、すんなりと通してくれた。アカデミーにいると忘れてしまうが、やはりアンジェリカは名門ラグランジェ家の娘なのだと思い知らされる。だが、彼女自身はそういう目でみられることを快く思っていない。ジークたちはそのことを知っていたので、あえて口には出さなかった。
 奥に進むにしたがって、次第にあたりは格調高くなっていく。柱は荘厳で存在感があり、それでいて繊細な装飾が施されている。階段は幅広く緩やかなカーブを描き、手すりにはやはり細やかな模様が彫り込まれている。そして、なんといっても圧巻なのが、空間の使い方である。横にも縦にも壮大に広がる、贅沢でただっ広い空間。そこにたたずむ人間を圧倒させるには十分すぎるスケールだ。足音が高く遠い天井に大きく反響する。ふたりの緊張感は否が応にも高まっていった。
 階段を上がり突きあたったところに、大きな重量感のある扉があった。もちろんここにも優美な装飾が一面に施されている。両脇には、槍を持ち、剣を携えた厳い衛兵がひとりづつ、背筋を伸ばして立っていた。アンジェリカが現れるとふたりそろって一礼したが、すぐに元の姿勢に戻り、それ以降は微動だにしなかった。
 アンジェリカは扉についた丸い鉄輪を打ちつけ、応答を待った。
「いらっしゃい」
 ゆっくりと開いた扉から、レイチェルが姿を現した。いつも通りのドレス、いつも通りの笑顔。ジークもリックも、少しだけ緊張がほどけた。ふたりがぺこりと頭を下げると、彼女は優しく微笑み返した。
「ルナちゃん、いる?」
「ええ」
 レイチェルが招き入れると、アンジェリカは小走りで駆け込んでいった。ジークもリックも、緊張しながらぎこちなく足を踏み入れた。
「こんにちは!」
「そんなに急がなくても逃げやしないわよ」
 王妃アルティナはテーブルにひじをつき、軽快に走るアンジェリカを眺めながら目を細めた。
「今日は賑やかになりそうね」
「すみません、僕たちまで来てしまって」
 遅れてやってきたリックは、申しわけなさそうに頭を下げた。ジークも続いて頭を下げる。
「いいのよ。私は賑やかな方が好きなんだから」
 アルティナは白い歯を見せた。

「……寝ているのね」
 ルナのベッドを覗き込んで、アンジェリカは少し落胆した声を出した。ルナはベッドの中央で、すやすやと寝息を立てて眠っていた。できれば目を開いたところが見たかった。そして、いろんな反応が見たかった。それでも、ひとまわり大きくなった赤ん坊を目にして、嬉しそうに顔をほころばせた。隣にやってきたリックも、にっこりしながら見下ろした。
「だいぶ大きくなったわよね」
「うん」
 ふたりは笑顔を見合わせた。
「ほっぺぷくぷく」
 アンジェリカはルナの丸い頬を、人さし指で軽くつついた。その感触の柔らかさに、ますます表情が弛んでいく。
「あんまり触ると起こしちゃうよ」
 リックは優しくたしなめた。アンジェリカは素直に手を引っ込めた。

「ん?」
 リックはふくらはぎに何かが当たったのを感じて振り返った。
「おまえがジークか?」
 むっつりと不機嫌顔の小さな男の子が、腕組みをしながらリックを睨み上げていた。
「あら、アルス。久しぶりね」
 アンジェリカがにっこりと笑いかけたが、少年はちらりと彼女を見ただけで、笑顔を返さない。
「アルスって……王子様?」
 リックは目をぱちくりさせながら、アンジェリカに問いかけた。
「そうよ。アルティナさんと似ているでしょう?」
 確かに銀の髪は、アルティナと同じ輝きを放っている。だが、目つきは王子の方がかなり悪い。
「おい、おまえがジークかって聞いてるんだよ」
 返答もせずふたりで話していることにいらついているようだった。ますますふてぶてしい態度で再び尋ねる。リックは屈み込んで、小さな王子に人なつこい笑顔を近づけた。
「ジークは僕じゃなくて、あっちの人だよ」
 リックは離れたところで窓の外を眺めているジークを指さした。
 アルスはてくてくと歩いていくと、背後からジークのふくらはぎあたりに蹴りを入れた。
「てっ……何だテメーは」
 ジークは振り返り、むっつり顔の小さな少年を目にすると、思いきり睨みつけた。しかし少年も負けてはいない。口をヘの字に曲げ、睨み返す。
「ぜんぶおまえのせいだ!」
 そう言って、再びジークを蹴り上げた。
「ってーな! いきなり何なんだよ!」
 その様子を眺めていたアルティナは、愉快にあははと笑った。
「そのくらいは許してやって。アンジェリカがめったに来なくなって、寂しい思いをしてたんだから」
 ジークは目を見開いて、少年とアルティナを交互に見比べた。
「え、こいつ……いや、えっと……王子ですか? でも何で俺……オイ、蹴るな!」
「おまえがアンジェリカをひとりじめにしてたんだろう!」
「は?」
 そうか、こいつ、アンジェリカのことが……。ジークはふとサイファから聞いた昔話を思い出した。なんとなく似ている。幼い日のレオナルドがこのチビ王子、レイチェルさんがアンジェリカ、そして、サイファさんが俺……。ジークはそこまで考えて、一気に顔を上気させた。
「あ、なんか顔が赤いぞ。変な想像してたんだろう! ア……んんっ!」
 ジークは騒ぎだした王子の口を手でふさぎ、体ごと抱えて、部屋の隅へと走っていった。
「なにをするんだ!」
 口をふさぐ手が離れると同時に、王子は勢いよく噛みついた。
「おまえが変なことを言い出すからだ!」
 ジークは壁を背にしゃがみこみ、アルスと同じ目線で言い返した。アルスはじとっとジークを見つめた。
「おまえ、アンジェリカのことが好きなんだろ?」
「……おまえみたいなガキんちょには関係ねぇ」
 あまりにもストレートな問いかけに、ジークは絶句し動揺した。しかし、それを悟られないよう平静を装って、ぶっきらぼうに返事をした。だが、アルスはごまかされなかった。いたずらな顔をのぞかせてニッと笑う。
「認めたら譲ってやってもいいぜ」
「バーカ。譲るとか譲らなねぇとか、アンジェリカはモノじゃねぇだろ」
 ジークはアルスのおでこを人さし指で軽く弾いた。

「あ、デコピンした」
 離れたところからふたりの様子をうかがっていたリックが、ぽつりとつぶやいた。だいぶ遠いため、ジークたちの会話は聞こえない。
「あの、いいんですか? 放っておいて」
 アルティナに振り返り、不安そうに尋ねた。彼女は椅子の背もたれにゆったりと身を預け、余裕の笑顔を見せている。
「いいの、いいの。懐かしいわね、デコピン」
「なに? デコピンって」
 アンジェリカはリックを見上げた。彼は苦笑いしながら首を傾げた。そんなくだらないことを彼女に教えていいものかどうか迷った。

「けっ、えらそうに。おまえよりオレの方が、アンジェリカと長いつきあいなんだよ」
 アルスはひたいをさすりながら強がり、くやしまぎれに変な対抗意識を見せた。ジークはむっとして眉根を寄せた。
「笑わせんな。たいして違わねぇだろ。それに俺の方が一緒にいた時間は長いはずだぜ。アカデミーにいる間、ずーっと一緒なんだからな!」
 最後は勝ち誇ったように言い放った。そんな大人げない彼に、小さな王子は冷めた目を向けた。
「なんだ、やっぱり好きなんじゃん」
「……黙れよ、ませガキ」
 ジークは顔を赤らめながら睨みつけた。すっかりアルスのペースである。
「うわさのジークがこんな男らしくないヤツだとは思わなかった。好きなら好きって言えよな」
 頭の後ろで手を組み、あきれたようにわざとらしくため息をついた。その小憎たらしい態度に、ジークは逆さ吊りにしてやりたい衝動に駆られた。だが、もちろんそんなことは出来ない。
「おまえみたいなガキんちょにはわからねぇだろうが、大人には複雑な事情ってモンがあるんだよ」
 そう言いわけをするのが精一杯だった。しかし、自分で自分のことを「大人」と言ったことに、違和感とむずがゆさを覚えた。微妙に身体をよじらせる。
「オトナの事情ってなんだよ」
 アルスは横柄に腕を組み、ジークを睨んだ。
「ガキにはわからねぇって言ったろ」
 ジークはそっけなく答えた。アルスはさらに目つきを悪くして睨みつける。
「ガキって言うな」
「ガキはガキだろ」
「……アンジェリカに洗いざらいぶちまけるぞ」
「ぐっ……」
 アルスが切り札を出すと、ジークは言葉に窮した。完全にジークの負けである。
「ガキじゃなくてアルスって呼べよな」
 小さな王子は、楽しそうに白い歯を見せた。

「お茶が入っているわよ」
 部屋の中央に戻ってきたジークとアルスに、レイチェルはにっこり微笑んで声を掛けた。
「あ、すみません」
 ジークはティーカップが用意された席についた。座るなり喉を潤すようにひとくち流し込むと、ふうとため息をついた。アルティナは隣でひじをつき、にこにこしながら彼を見つめていた。向かいにはアンジェリカとリックも座っている。
「ふたりで何の話だったの?」
 レイチェルは、席につかず通り過ぎようとするアルスに声を掛けた。
「男と男のひみつの話だ。な、ジーク」
「……ああ」
 なぜか得意げにそう言うアルスに、ジークは素直に同意した。その言い方に多少の不満はあったものの、秘密にしておいてくれるのはありがたかった。
「なによそれ」
 アンジェリカは冷めた声でつぶやいた。しかし、それ以上、詮索することはしなかった。ジークは心の中で、そっと胸を撫で下ろしていた。
 アルスは駆け足でルナのベッドへ向かった。木の格子の隙間から、ルナの様子をうかがう。
「あ、目を覚ましたぞ」
「本当?!」
 アンジェリカとリックも慌てて駆け寄り、上から覗き込んだ。ルナの青い大きな瞳が、見なれないふたりを捉えて止まった。
「あ、こっちを見ているわ!」
 アンジェリカが歓喜の声をあげた。
「ね、抱き上げてもいい?」
 アンジェリカはレイチェルに振り返って許可を求めた。
「重いわよ? リックさん、手伝ってあげてもらえるかしら」
「はい」
 レイチェルは少し不安そうだったが、アンジェリカはうきうきしていた。リックの服を引っ張り、早くと急かす。リックはルナを抱き上げると、そっと彼女に手渡した。細い腕にずっしりと重みがかかる。
「ん……けっこう重たいわね」
「大丈夫?」
 リックが手を差し出したまま、心配そうに尋ねる。アンジェリカはにっこりと笑顔を返した。
 ルナはくりっとした瞳で、アンジェリカをじっと見つめた。不思議なものでも見るかのように、ずっと目を離さない。アンジェリカはそれが可愛くてたまらなかった。自然と顔がほころぶ。アルスは背伸びをしていたが、届くはずもなく、ルナの背中しか見えない。
「ジーク、俺を持ち上げてくれ」
「めんどくせぇなぁ」
 お茶を飲んですっかり落ち着いていたジークは、やる気のない声を漏らした。アルスは横目でジークを非難するようなまなざしを送った。
「アンジェリカ、あのな、ジークが……」
「わーー!! わかったって!!」
 転げ落ちるように椅子から飛び降り、王子の元へ駆け寄る。そして、彼の希望どおり後ろから抱え上げ、ルナの顔が見えるようにしてやる。
「おまえ性格わるいぞ」
 ジークが小声でそう言うと、アルスはにっと笑った。
「ルナ、オレだぞ」
 アルスが優しく声をかけると、ルナは彼に目を向け、小さな手を伸ばした。彼はその手をつかまえて、そっと柔らかく握った。ルナの表情が動き、かすかに笑顔を見せた。
「へへっ、かわいいよな」
「ああそうだな」
 ジークは気のない返事をした。

 ギィ……。
 扉の開く音に、皆が振り向く。そこから姿を現したのはラウルだった。彼は無言で部屋へ進み入ってきた。まっすぐにルナを抱いたアンジェリカの元へと向かう。
「アンジェリカ」
「うん……バイバイ」
 彼女は腕の中の赤ん坊に別れをささやいた。名残惜しそうにしながらも、素直にラウルに手渡した。ルナはラウルと目が合うと、はっきりと笑顔になり、嬉しそうに手足をばたつかせた。「あーうー」と何かを伝えたがっているような声も発していた。
「おまえたち、あしたの試験の準備は出来ているのか」
 ルナの様子に目を奪われていた三人は、ラウルのその言葉で急に現実に引き戻された。
「今日の試験はなんだったんだよ。あんなもん習ってねぇぞ」
 ジークは抱えていた王子を下ろしながら文句を言った。ラウルの返答は、案の定すげないものだった。
「習ったことばかりやっていても駄目だ」
「なんだそりゃ」
 反抗心からそんな反応をとってみたが、ラウルの言うことも一理あるとジークは思った。だが、素直に認めるのはくやしいので、そんな素振りは見せないようにした。
「世話になったな」
 ラウルはレイチェルとアルティナに振り返った。レイチェルはにっこり笑った。
「もう少しゆっくりしていったら?」
「いや、今日は帰ることにする」
 ラウルは早々に立ち去ろうとしたが、レイチェルが立ち上がるのを見て、その場にとどまった。ラウルの前まで来ると、彼女は背伸びをしてルナを覗き込んだ。笑顔で小さく手を振って、別れの挨拶をする。
「もう帰っちゃうの?」
 アンジェリカは寂しそうに尋ねた。
「おまえたちも、もう帰れ」
「そうだね、ジーク、帰ろうか」
「ああ」
 ジークは考えごとをしながら虚ろに返事をした。
「私はお母さんと帰るから」
 アンジェリカはそう言って、ふたりに手を振った。リックとジークも小さく手を振り返した。
「ジーク、また来るんだろ?」
 アルスは一歩進み出て、ジークを見上げた。
「さぁな。そんなに暇じゃねぇからな」
 ジークは王子と目を合わさずにそっけなく言った。本当は、身分不相応なところに何度も出入りなど出来ないという思いがあったが、それは口には出せなかった。出してはいけないような気がした。

 ルナを抱いたラウルと、ジーク、リックは並んで歩いていた。互いに、一緒に帰りたいと思っているわけではなかったが、方向が同じなので必然的にそうなってしまった。燃えるようなオレンジ色の空がジークたちを照らし、廊下に長い影を作る。
「ジーク、王子様になつかれちゃったみたいだね」
「俺が来ればアンジェリカも来るとでも思ってんだろ」
 ジークは無感情に言った。リックはあごに人さし指をあて、首をひねった。
「そうかなぁ。ジークに来てほしそうだったけど」
 それについてのジークの返答はなかった。
 話が途切れ、沈黙が三人をつつむ。ルナもなぜかおとなしい。バラバラな靴音が、不安定なリズムを刻む。リックは何か気まずいものを感じていた。ジークとふたりなら、話が途切れても沈黙が続いても平気だが、ラウルがいることで、いつもと違う空気が流れていた。
 ラウルの医務室の前まで来ると、リックは内心ほっとした。無言で扉を開けるラウルに、リックは小さく礼をした。ジークは前を向いたまま、あえて視線をそらせている。
「あまり深く関わるな」
 背中を向けたまま、ラウルは唐突にそう言った。忠告とも脅しともとれる言葉。ジークは驚いて振り向く。
「どういうことだ」
 低い声でうなるように問いつめる。しかし、ラウルは答えることなく医務室へ入っていった。ジークがあとを追おうとすると、ピシャリと扉が閉められた。残されたふたりは、とまどう顔を見合わせた。



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