45. 一ヶ月
煌々としたした蛍光灯の下。レイチェル、サイファ、ジークは、長椅子に並んで座り、祈るようにガラス越しのアンジェリカを見守っていた。彼女はまだ一度も目を覚ましていない。
サイファは腕時計をちらりと見た。
隣のジークも、つられるように掛け時計に目を走らせた。そのとき初めて朝になっていたことに気がついた。窓のないこの部屋では、時間を感じる術はない。いつもならそろそろ家を出ようかという時間。だが、まるで実感がない。当たり前の日常が、遠い昔のことのように思える。
「レイチェルを頼む」
ぼんやりしていたジークの耳もとで、サイファがささやいた。
ジークは我にかえり、小さく「え?」と聞き返したが、それと同時に彼は立ち上がり、出ていってしまった。
こんなときに……。
ジークは冷たく遠ざかる靴音を聞きながら、わずかに顔をしかめた。
「サイファは自分のやるべきことがわかっているのよ」
長椅子の端に座っていたレイチェルが、にっこり笑いかけてきた。まるで心を見透かされているような言葉。ジークはとまどいながら目を伏せた。
「そう、ですよね」
彼女が正しい、サイファが正しい。そんなことはすぐにわかった。感情論だけでは何も解決しない。一瞬でもサイファを責めてしまった自分は、アンジェリカのために何ができるというのか。情けなさに顔を歪め、深くうなだれる。
「俺には……ここにいることしかできない」
責められるべきは自分だ。膝の上で握りしめたこぶしが、小刻みに震えた。
「私もよ」
レイチェルも短い言葉で同調した。
ジークははっとして顔を上げた。あまりに声が沈んでいたので驚いたのだ。だが、声だけではなかった。疲れきった表情、血の気のない真っ白な顔。今にも倒れそうに見えた。
「レイチェルさん……少し、休んだ方がいいですよ」
ジークが心配そうに声を掛けると、彼女は急に笑顔を取りつくろった。
「私はまだ平気です。ジークさんこそ休んでください」
努めて明るく返事をしたが、やはり疲れは隠せない。声にいつもの張りがなかった。
「……毛布か何か、もらってきます」
ジークは微かに笑みを見せると立ち上がった。
「ジーク!」
大きな声、大きな足音とともに、リックが緊急医療室に駆け込んできた。
「シッ! 声でけぇよ! ようやく寝たんだ」
ジークは人さし指を口の前に当て、声をひそめてたしなめた。
彼の肩には、毛布を羽織ったレイチェルが寄りかかり、静かに寝息を立てていた。
「あ、ごめん」
リックも声をひそめて謝ると、長椅子に腰を下ろした。ガラス窓の向こうに目を向ける。そこには、酸素吸入マスクや点滴、検査用の器具をつけたアンジェリカが横たわっていた。
「アンジェリカ、どうなの?」
「まだ一度も目を覚ましてねぇ」
ジークは暗く沈んだ声で返答した。彼女を見つめながら、苦しげに目を細める。
「でも大丈夫さ、あいつなら、きっと……」
自分に言い聞かせるようなジークの言葉に、リックも無言で力強く頷いた。
ジークは、肩に寄りかかるレイチェルに、同意を求めるような気持ちで視線を送った。だが、血の気のない顔をした彼女を見ていると、自分が彼女を安心させるくらいでないといけないと思い直した。
コンコン——。
急かすようなノックのあと、返事を待たず、即座に扉が開かれた。サイファがあたりを見渡しながら医務室に入ってきた。
「ユールベルは?」
「奥だ」
机でカルテを眺めていたラウルは、そのままの姿勢で親指を立て、肩ごしに後ろを示した。
サイファは無言で歩み寄り、隣の丸椅子に腰掛けた。
「入寮の件だが、やはり頼んでも無理だった。アカデミーは平等でなければならないという原則がある以上、特別扱いはできないそうだ」
ラウルは机に向かったまま、小さくため息をついた。
「能書きはいい。それで引き下がったわけではないんだろう」
サイファはわずかに口の端を上げた。
「彼女の住民票を遠隔地に移すことにした。移す先は知り合いに頼んで、すでに快諾を得ている。あとは手続きだけだ。役人たちは嫌な顔をしていたが、拒否することもできないだろう」
「明日には入寮できるんだな」
「いや……」
歯切れの悪いサイファの返事に、ラウルは初めて顔を上げた。
「一ヶ月たたないと、空きがないらしい」
「一ヶ月か」
ラウルは続けて何かを言おうとしたが、サイファがすばやくそれを遮った。
「安心しろ。事情を話して相談したら、その間は、寮長さんが個人的に預かってくれることになった」
ラウルは腕を組み、静かに考え始めた。
「他に方法はないだろう」
いつになく悩む彼を見て、サイファは後押しするように付け加えた。すると、ラウルは急に立ち上がり、何も言わず奥の部屋へと消えていった。
「いやっ! 私を見捨てないで! ここにいさせて!」
話を聞いたユールベルは、泣きじゃくりながらラウルに縋り付いた。彼の上衣を引きちぎらんばかりにきつく握り、顔をうずめ、細い肩を大きく上下させている。ラウルはそんな彼女の様子を、ただ黙って見下ろしていた。
ユールベルはしばらく嗚咽を続けていたが、やがてすすり泣きへと変わっていった。
「おね……がい……」
下を向いたまま、泣き疲れた声で、無反応のラウルに最後の哀願をする。もう声も出す力も残っていない。
ラウルはようやく口を開いた。
「一ヶ月だけだ。そのあとは寮へ入れ。それ以上の我が侭は聞かない」
ユールベルはおそるおそる顔を上げた。いつもと同じ、感情のない厳しい顔。考えの読めない顔。急に受け入れる気になったのは、憐憫からだろうか。だが、理由などどうでもよかった。小さくこくんと頷いた。
ラウルが医務室に戻ると、サイファはカルテを手に取り眺めていた。机の上に置きっぱなしにしていたアンジェリカのものだ。ラウルは背後からそれを取り上げた。
「それで?」
サイファは何事もなかったかのように振り返り、短く尋ねた。
ラウルは机の上にカルテを投げ置くと、その場で腕を組んだ。
「一ヶ月、私が預かる。そのあと寮へ入れる」
サイファは目を見開いてラウルを見上げた。
「何を考えている」
椅子から立ち上がり、厳しく問いつめるように彼を睨んだ。
しかし、ラウルは平然としていた。
「ユールベルが了承しなかった。こうするしかない」
それでもサイファは納得できないでいた。眉をひそめ、ためらいがちに口を開く。
「……彼女は、15歳だったな」
「それがどうした」
ラウルは冷たく睨み返した。
しかし、サイファは怯むことなく、真正面からそれを受け止めた。
「入院ということにしておく」
事務的な口調でそう言うと、背を向け戸口へと歩いていった。扉に手を掛けたところで、顔だけわずかに振り返った。腕を組んだままのラウルに視線を流す。
「昨日のことも問題になっている。これ以上、騒ぎが大きくなると庇いきれない」
淡々と忠告を残し、サイファは医務室をあとにした。
ラウルはいったん部屋に戻って着替えると、ユールベルを残したまま外へ出て行った。アンジェリカの治療のためなのか、アカデミーの仕事のためなのか、ユールベルにはわからなかった。
彼女は一日中、ソファの上で膝を抱えていた。用意されていた食事にも手をつけなかった。
夜もだいぶ更けてきた頃、ようやくラウルが戻ってきた。じっと座ったままのユールベルに、冷たい一瞥を送る。そのまま、何も言わずに寝室へ入っていった。
ユールベルは声を掛けてくれることを期待していた。だが、それは叶わなかった。そんなことを期待した自分が情けなく思えた。ただ、憐れんで置いてくれただけなのに——抱えた膝に顔を埋め、小さくなる。
「おまえはそこで寝ろ」
背後から声が聞こえた。ラウルが寝室から毛布を持って戻ってきていた。驚いて振り返ったユールベルに、その毛布を投げてよこした。
ユールベルはそれをそっと抱きしめた。あたたかかった。少し、泣きそうになった。
バタン、と扉を閉める音がした。
ユールベルは思わず振り返った。彼の後ろ姿を目で追った。しかし、もう振り返ってはくれなかった。彼はリビングの明かりを消し、書斎へと入っていった。扉の隙間から細い光が漏れる。暗い部屋の片隅で、ユールベルはぼんやりとその光を見ていた。
それから数時間が過ぎた。
ユールベルはまだ眠っていなかった。いや、眠れなかった。ソファの上で毛布にくるまり、あいかわらず膝を抱えている。
ガチャッ——。
書斎の扉が開き、中からラウルが出てきた。そして、すぐに隣の寝室に入っていった。ユールベルのことなどまったく気に掛けていないようだ。寝室の明かりは、いったんついて、すぐに消えた。
ユールベルは自分の肩を抱きしめながら、膝に顔をうずめた。
音も光もない世界、ひとりぼっちの私。何も変わらない……。
彼女は耐えきれなくなって立ち上がった。毛布を抱え、寝室の扉をそっと開く。
暗い中、ラウルはベッドの上にいた。しかし、眠ってはいなかった。頭の後ろで手を組み、天井を見つめている。
ユールベルは目を細め、毛布をぎゅっと強く抱きしめた。足音を立てないように、そっと近づく。毛布を引きずるこもった音だけが奇妙に広がる。ラウルは彼女に気付いていないわけではなかったが、彼女に顔を向けることはなかった。ずっと天井を見つめたまま、まったく動かない。
ユールベルは毛布を落とし、おずおずとベッドへ入り込んだ。大きな体の隣で、小さく体を丸める。
「寝るときくらい包帯をとったらどうだ」
ふいに、思いがけない言葉が降ってきた。目が熱くなり、鼻の奥がつんとした。頭を彼の脇腹にそっと寄せる。ラウルは片手で彼女の包帯をほどいた。
7日が経った。
アンジェリカはまだ目を覚ましていなかった。しかし、もう峠は越えている。緊急医療室から一般病室へ移されていた。
ジークとリックは、アカデミーが終わると、毎日様子を見に来ていた。もちろん今日も来ている。レイチェルとともに、白いパイプベッドを囲んで座っていた。その中央で、小さな体を横たえ、アンジェリカは静かに目を閉じている。まだ点滴は受けているが、酸素吸入マスクはすでに外されていた。本当にただ眠っているようにしか見えない。
ガラガラ——。
勢いよく扉が開き、ラウルが入ってきた。彼はジークたちを下がらせると、慣れた手つきで点滴パックの交換を始めた。
「先日の検査でも異状はなかった。原因はやはり心的なものだろう」
手を動かしながら、淡々と結果報告をする。
「目を覚ますのを待つしかないってことね」
レイチェルは冷静に受け止めた。
ジークとリックはうつむいて陰を落とした。以前にもこんなことが何度かあったと、サイファから聞いたことがある。だが、一週間も目覚めないのは今回が初めてではないか。
「暗くならないで」
ふたりの様子を察知したレイチェルが、声を掛けてきた。
「怪我が原因でないのなら、きっといつか目覚めてくれるわ。この子はそんなに弱くないもの」
そう言って、にっこり笑ってみせた。
ふたりは驚いてレイチェルを見た。そして、つられるように、少しぎこちなく笑った。ジークは彼女の強さを、心底うらやましく思った。
「おまえたち、最近、課題の提出率が悪いぞ」
ラウルの低い声が、穏やかな雰囲気を壊した。
ジークはムッとして眉間にしわを寄せた。
「おまえだって、最近、自習が多いじゃねぇか」
怒りまかせに、ついそう言い返したが、言ったとたんに後悔した。それはすべてアンジェリカの診察のためである。そんなことはわかっていたはずだった。
レイチェルは申しわけなさそうに目を伏せた。そんな彼女を見て、ジークはますます強く後悔した。
「あ、でも、みんな自習で喜んでるし」
リックは慌てて取り繕おうとした。しかし、あまりフォローにはなっていない。病室がしんと静まり返った。
「あしたは提出しろ」
ジークたちの言葉は無視し、端的に要求のみを告げると、ラウルは病室をあとにした。
「課題、ここでなさって」
レイチェルはにっこり微笑みかけた。とまどうふたりに畳み掛ける。
「たくさんあるのでしょう?」
「でも……」
ジークは口ごもりながら、眠ったままのアンジェリカをちらりと見た。
「机もあることだし、じっとしているだけなら、ここで課題をやったほうがいいでしょう? アンジェリカも、ジークさんたちに負けられないって、目を覚ますかもしれないわ」
同意を求めるようにちょこんと首を傾けると、屈託なく笑ってみせた。少なくとも、ふたりにはそう見えた。
ジークは彼女の明るさに救われた思いだった。
「今日の分だ」
ラウルは、部屋の隅に座るユールベルの前に、プリントの束をバサリと投げ置いた。そして、ソファに腰を下ろし、ゆったりと背もたれに身を預けると、彼女をじっと見下ろした。
「少しはやっているのか」
ユールベルは膝を抱えてうつむき、固い顔で首を横に振った。
「アカデミー、やめようかしら」
「駄目だ」
ぽつりと落とされたかぼそい言葉を、ラウルは間髪入れずはねつけた。
「どうして」
ユールベルは顔を上げ、苦しげに目を細めた。
それでも彼はまったく表情を変えない。
「寮に入れなくなる」
そんな何の温度も感じさせない言葉を返すだけだった。
ユールベルは泣き出すのをこらえるように顔を歪めた。
「……ずっとここにいたい」
震える声で訴えかける。
「私には私の都合がある」
ラウルは冷たく突き放すように答えた。
「お願い、何でもするから」
ユールベルは揺れる瞳で、すがるように食い下がる。
「駄目だ」
取りつく島もなかった。再びうつむき、膝に顔をうずめる。
「もう、アカデミーにいる意味なんてないのに」
「復讐だったのか」
ラウルはソファにもたれかかり、顎を上げ、小さくなった彼女を冷ややかに見下ろした。だが、彼の口調からは、見下した気持ちや、責める意味合いは感じられなかった。
「……わからない。アンジェリカがいるって知って、私も行かなければって思ったの。何がしたかったのか、自分でもわからない」
ユールベルは膝から少し顔を離すと、記憶をたどるように言葉を紡いでいった。
「でも、アカデミーで楽しそうに笑うアンジェリカを見たとき、思ったのよ」
膝を抱える手を震わせ、指が食い込まんばかりに力を込めた。
「うらやましい、くやしい、憎い、って」
強く、静かに言葉を並べた。昂る感情を、喉の奥で抑え込んでいた。
「それで復讐か」
ラウルの声のトーンは、先ほどとまったく変わっていなかった。
「……そう、かもしれない……わからない」
ユールベルは下を向いたまま、眉根を寄せた。
それきり、ふたりの会話は途切れた。
音のない空間、動かないふたり。時間の感覚さえ失われていく。
どれくらいの間、そうしていただろう。長かったかもしれないし、短かったかもしれない。
ユールベルはそろりと立ち上がり、静かにラウルの元へ歩いていった。真正面からじっと見つめながら、地べたに足を放り投げて座り込んだ。
ラウルはソファに大きくもたれかかったまま、両脚の間の彼女に目を落とした。
「私、まだ言っていないことがある」
ユールベルは、一度ゆっくりと目を伏せてから、再び視線を上げた。
「……アンジェリカに、嘘をついたの。私が閉じ込められていた理由」
怯えるように瞳が震える。それでも、逃げずにラウルと向かい合った。
「あなたのせいだ……って。あなたの犠牲になったんだって責めたわ」
「そうか」
ラウルは聞き返すこともなく、ただそれだけ言った。
しかし、ユールベルはまだ何か言いたそうにしていた。苦しそうに目を細める。
「それに、もしかしたら……」
彼女はためらいながら言葉を続けた。
「アンジェリカが階段を踏み外すように、私が追いつめたのかもしれない。そういう気持ちがあったのかもしれない。やっぱり私のせいなのかもしれない」
そこまで言うと、首を深く曲げうつむいた。横髪が肩から落ち、顔に陰を作る。
「なぜ私に言う。サイファに話すかもしれないぞ」
「……苦しかったから」
ユールベルは消え入りそうな声でそう言った。
8日目。
授業が終わり、ジークはいつものように病室へ走ってきた。勢いよくガラガラと扉を開け、中に飛び込む。
「こんにちは。今日はリックは来られなくて……」
そこまで言って気がついた。レイチェルの向こうに見覚えのない人が座っている。流れる長い銀の髪に白い肌。そして、強い目元に凛とした強さを感じさせる、きれいな女の人だ。レイチェルよりも年上に見えるが、彼女が若く見えることを考えると、実際は同じくらいなのかもしれない。
「この子がジーク君? 想像どおりだわ」
彼女は身を乗り出し、興味深げにジークを観察した。
「え……と」
ジークは困惑したようにレイチェルに目を向け、助けを求めた。彼女はにっこり微笑んだ。
「こちらは……」
「アルティナよ。レイチェルの仕事仲間ってところね。よろしく」
銀髪の女性は、紹介される前に自ら名乗った。そして、立ち上がってすっと前に出ると、ジークに右手を差し出した。身の丈はジークと同じくらいある。女性にしてはかなり高い。
「よろしくお願いします……」
彼女の勢いに押されつつ、ジークも右手を差し出し、握手を交わした。
「レイチェルからキミの話をよく聞いていて、いつか会いたいと思っていたのよね」
アルティナと名乗った女性は、嬉々としてそう言った。レイチェルも後ろでにこにこ笑っている。
ジークはなんとなく居たたまれないような気持ちになった。いったい自分について、どんな話をしていたのだろうか。気になって仕方がなかったが、尋ねることはできなかった。
コンコン。
その音に三人は振り向いた。
そこにいたのはラウルだった。全開になったままの扉をノックし、戸口に立っていた。その後ろには、白い人影が見え隠れする。ユールベルだ。ジークは驚いて声も出なかった。
「すまないが、アンジェリカと話をさせてやってほしい」
ラウルは目線で後ろのユールベルを指し示した。さすがのレイチェルも動揺を隠せない。視線を泳がせ、返答に困っている。
「私がついている。心配するな」
彼女の不安を察し、ラウルはそう付け加えた。
レイチェルはしばらく彼を見つめると、ふっと表情を緩めた。
「私たちは外で待っていればいいのね」
「レイチェル!」
アルティナは長い銀髪を振り乱して振り向いた。
しかし、レイチェルはにっこり笑って受け止めた。
「出ましょう。ジークさんも」
うつむいて顔をしかめるジークに、レイチェルは明るく声を掛けた。アンジェリカに優しい笑顔を向けると、腰を上げ、病室を出ていく。彼女に続き、アルティナとジークもしぶしぶ戸口へ向かった。
ジークはラウルを思いきり睨みつけた。しかし、前を歩いていたアルティナの行動は、もっとわかりやすかった。前を向いたまま、すれ違いざまにこぶしを一発、彼の脇腹に勢いよくねじ込んだ。
「無神経」
小さな声でそうつぶやくと、腕を引っ込め、何事もなかったかのように歩いていった。ラウルも眉ひとつ動かさず、何事もなかったかのように平然としている。
ジークは睨むことも忘れ、呆然とその光景を目にしていた。あのラウルにこんなことができる人間がいるなど信じられなかった。
「ジーク!」
アルティナの不機嫌な声に呼ばれ、ジークは我にかえった。慌てながら小走りで外へ出た。すれ違いぎわ、ちらりと横を見ると、ユールベルが顔を背けてうつむいているのが見えた。頭の後ろで結ばれた白い包帯が、微かに揺れていた。
ラウルが彼女の華奢な背中を押し、ふたりで中に入ると扉が閉められた。
ジークは納得のいかない顔で窓枠に手を掛け、ガラス越しに中庭を見下ろした。手入れが行き届いた豊かな緑の草木に、中央の噴水が輝きを与えている。穏やかな安らぎの空間。しかし今は、その美しい風景もはるか遠く、別世界のように感じる。
「……ずいぶん信用しているんですね、ラウルのこと」
レイチェルはきょとんとしたが、すぐににっこりと笑顔になった。
「ええ」
自信を持って返事をする。そして、ジークの隣に並び、窓ガラスに手を置くと、まだ青い空を見上げた。
「レイチェルは人が良すぎるのよ」
アルティナは彼らの後ろで壁にもたれかかり、腕を組むと、大きくため息をついた。
「あいつが何か悪いことを企んでいるとは思わないけどさ。なーんか気にくわないのよね、いろいろと」
まるで自分の気持ちを代弁しているかのような彼女の言葉。ジークは急に親近感を覚えた。
「それ、すっごくわかります」
ありったけの実感をこめて同意した。
「お、なかなかワカルね、キミは」
アルティナは身を乗り出し、ジークに人さし指を向けると、にやりと笑った。
「アカデミーでもあいつはいっつも偉そうに命令口調で」
「どう見ても教師に向いているとは思えないわよね」
ふたりはラウルの話で盛り上がっていった。レイチェルは会話に加わらなかったが、止めることもせず、にこにこしながらそのやりとりを聞いていた。
ガラガラ——。
扉が開き、中からラウルが姿を現した。その後ろには、隠れるようにユールベルがくっついている。誰とも目を合わそうとせず、怯えたようにうつむいていた。
「すまなかったな」
ラウルはレイチェルの瞳をじっと見据えて言った。彼女は言葉の代わりに笑顔を返した。
ユールベルはラウルの腕をそっと引っ張った。ラウルは彼女の肩に手を回し、三人の視線から庇うようにして立ち去った。
「さ、気を取り直して戻りましょ」
「あ、あの……」
ジークは病室に戻ろうとするアルティナとレイチェルを、遠慮がちに呼び止めた。言いにくそうにためらっていたが、決意を固めると、思いきって切り出した。
「ついでっていうか……俺もアンジェリカとふたりで話をさせてもらえませんか」
レイチェルは驚いたように、ぽかんとして動きを止めた。
ジークは、言わなければよかったと後悔した。耳が熱くなっていく。今すぐここから逃げ出したい気持ちになった。
「どうぞ」
レイチェルは穏やかににっこり笑って答えた。その後ろで、アルティナは意味ありげににやりと笑っていた。とてつもなく恥ずかしかったが、今さら引き返せない。ジークはほてった顔を隠すように、急いで病室に入り、扉を閉めた。
ふぅ——。
大きく息をつくと、ベッド横の椅子に腰掛けた。アンジェリカの顔をじっと覗き込む。眠っているだけのような安らかな表情。手の甲で、彼女の頬にそっと触れてみる。温かい、生きている。当たり前のことだが、それを感じることでようやく安心できた。
「約束、おぼえてるか?」
そっと語りかける。当然だが、返事はない。寂しさを感じながら、一方的に話を続けた。
「あれだけ威勢のいいこと言ってたんだからな、守れよ」
彼の耳は再び赤味を帯びていく。少しためらったあと、言葉を続けた。
「俺の願いは……」
「何を話しているのかしら、ジークさん」
「さ、何かしらね」
レイチェルとアルティナは、並んで窓の外を眺めながら、弾んだ声で楽しそうに言葉を交わす。外はもうだいぶ暗くなってきている。
「話か……話だけじゃなかったりして」
「えっ?!」
「冗談だって」
ふたりは顔を見合わせると笑いあった。
9日目。
この日はリックも一緒だった。授業が終わったあと、ふたりで病室へと駆けて行った。
ガラガラ——。
「こんにちは」
ふたりは口をそろえて挨拶をした。しかし、中に目をやった瞬間、ジークは固まった。
「やっと来たわね、バカ息子」
椅子に座るレイチェルの隣に立っている黒髪の女。それは、まぎれもなくジークの母親、レイラだった。息子たちに向かって軽く右手を上げている。
「……なっ……なんでおまえが来てんだよっ!」
「ジーク、声、大きすぎ!」
思わず力一杯の声で叫んだジークを、リックが後ろからたしなめた。しかし、ジークはそれどころではない。
「アンジェリカちゃんのお見舞いに決まってんでしょ。あと、レイチェルにも会いたかったしねっ」
レイラは嬉しそうにそう言うと、レイチェルを後ろからぎゅっと抱きしめた。レイチェルはにっこり笑顔でなすがままだった。
「離れろ!」
ジークは青筋を立てて叫んだ。
「あーやだね、男の嫉妬は。みっともない」
「だーれが嫉妬だ、コノヤロウ」
握りこぶしを震わせ、顔を引きつらせながら母親を睨みつける。
「だいたいどうやって入ってきたんだ。ここ、王宮だぜ」
「ほっほっほ。あんたに行けて、私に行けないところなんて、あるわけないでしょ」
高笑いをして、答えになっていない答えを返す母親に、ジークの苛立ちはさらに募った。
「ふたりとも、中に入ってください」
まだ戸口に立ったままのふたりに、レイチェルが優しく声を掛けた。
ジークはすでに疲れきった様子で、ため息をつきながらベッドに近づいていった。うつむいたり、顔をそらしたり、なるべく母親とは目を合わせないようにしている。しかし、あるものを目にして、再びがっくり疲れが襲ってきた。
「……その非常識なモノ。持ってきたのオマエだろ」
呆れ顔で指さした白いプランターには、色とりどりのチューリップが植わっていた。
「あら、よくわかったわね」
レイラはきょとんとして、ジークを見た。
「オマエ以外ありえねぇだろ!」
「やぁねぇ。カルシウム不足かしら」
力いっぱい怒鳴るジークを、母親は軽く受け流した。彼はますます頭に血をのぼらせた。
「根の生えたものは、お見舞いには縁起が悪いって知らねぇのか?!」
「へぇ、意外と物知りねぇ。でも、私はそんなこと気にしないし」
レイラはカラッと笑った。
「見舞われた方が気にすんだよ!!」
「いえ、私も気にしていませんから」
レイチェルが割って入った。
ジークの勢いは一気にそがれた。彼女は優しいのでそう言ってくれているだけだとは思ったが、その気持ちを無駄にすることもできない。彼は押し黙るしかなかった。不完全燃焼である。
「ほれみなさい。これなら文句もないでしょ」
レイラは気分よさげに胸を張った。
「だいたい切り花なんて、命を切り取ったものでしょ? そんなものを持ってくる方がよっぽど縁起でもないと思うわよ。土に根を下ろしてこその命。その生命力が人間にも活力を与えるわけよ」
独自の論理を展開する母親を、ジークはもう相手にする気にはなれなかった。ふてくされて適当に聞き流していた。しかし、リックは目を輝かせて、大きく頷きながら聞いていた。
「それに、そっちのサボテンの方がどうかと思うけど?」
レイラの目線をたどると、プランターの横にミニサボテンがちょこんと鎮座していた。
——あれは……。
ジークの鼓動がどくんと強く打った。
「それはお見舞いではないんです。アンジェリカが大切にしているものなので、家から持ってきたんですよ」
レイチェルはにっこり笑った。
「へぇ……意外と変な趣味があるのね」
レイラはまじまじとミニサボテンを覗き込んだ。
「うるさいな! 帰れよ!」
ジークは顔を真っ赤にしてわめいた。
レイチェルは下を向いてくすくす笑っていた。その様子からすると、彼女はサボテンの出所をわかっているらしい。
「アンタには関係ないでしょ。何でそんなに顔が赤いわけ?」
「っ……」
レイラの素朴な質問に、ジークは言葉を詰まらせた。くやしさを顔いっぱいに広げる。
「ごめんね、アンジェリカちゃん。このバカがうるさくって」
レイラはジークの後頭部をバシッとはたいた。
ジークは完全に負けた。
「それにしても……。本当に眠っているだけみたいに見えるわね」
レイラは体をかがめて覗き込んだ。
「ええ、眠っている状態とまったく同じなんです。どこかが悪いから目覚めないというわけでもないそうです」
「まさに眠り姫ね。こっちは王子様なんてガラじゃないけど」
その場にいた三人は、いっせいにジークに振り向いた。
「な、なんだよそれ」
ジークは三人の視線に気圧されて、わけもわからずうろたえていた。
「アンタ、眠り姫の話、知ってる?」
レイラは静かに問いかけた。
「おとぎ話か? んなもん知らねーよ」
「ふーん……」
いつもはああいえばこういうレイラが、このときに限っては、意味ありげな相づちを打っただけだった。気味が悪い。ジークは妙な不安に襲われた。
「じゃ、私はそろそろ帰るわ。また来るわね」
「おい待てよ! 何が言いたかったんだよ!」
「それじゃ!」
ジークの呼びかけを、レイラはにこやかに無視した。戸口で大きく手を振ると、元気よく去っていった。
「……リック」
ジークは低い声で呼んだ。
「え? 僕もあんまり知らないよ。100年間眠り続けたお姫様を、通りすがりの王子様が助けたって話だと思うけど」
「100年?! あのバカまた縁起でもねぇことを!」
本気で驚いたらしく、素頓狂な声を上げた。
「いや、言いたいのはそこじゃなくて……」
リックとレイチェルは、顔を見合わせて、少し困ったように笑った。
「俺が通りすがりっていいたいのか?」
「それもちょっと……」
ジークは腕を組んで考え込んだ。
「……王子はどうやってお姫さまを目覚めさせたんだ?」
「それは……知らないよ」
リックはしれっとして言った。
「おまえ、本当に知らないのか?」
疑いの眼差しを向け、ぐいっと顔を近づける。リックは焦りながら、逃げるように身を引いた。
「自分で調べればいいじゃない。ね、レイチェルさん」
「ええ」
にこにこと笑顔を交わすふたりを見て、ジークは確信した。リックもレイチェルも知っている。知っていて教えないのだ。相手がリックひとりだったら詰問するところだが、レイチェルの手前、それも気が引ける。
——自分で調べるか。
疲れたようにため息をつき、静かに眠るアンジェリカの姿をそっと見つめた。もし俺に出来ることがあるのなら、どんなことだって……。ジークは決意を新たにした。
10日目。
「ジーク、遅いよ!」
振り返ったリックを、ジークは恨みがましく睨みつけた。足どりが重い。走る気にはなれなかった。
「こんにちは!」
リックは元気よく病室の扉を開けた。その後ろから、疲れた様子のジークが続く。だが、ふたりは中を見て足を止めた。
「……なんでおまえが来てんだよ!」
ジークは昨日と同じセリフを吐いた。しかし、向けられた相手は、昨日とは違う。金髪細身の後ろ姿。レオナルドだ。短い髪をさらりと流しながら、不機嫌な表情で振り返った。
「親戚の見舞いに来たらいけないのか」
「……」
ジークは言葉に詰まった。くやしさいっぱいに睨みつける。そんな彼を、レオナルドは顎を上げ、冷たく見下ろした。
「おまえこそ、よくレイチェルさんに会わす顔があるな」
「なに?」
ジークの額に冷たい汗がにじんだ。
「いい気になって、ナイトぶっておきながら、このザマだ。女の子ひとり守れない奴が、偉そうにしないでもらいたいものだ」
「レオナルド!!」
レイチェルは立ち上がり、彼の背中に厳しい顔を向けた。
「よしなさい。ジークさんに非はありません!」
凛とした声で、きっぱりと言い放った。
レオナルドはうつむいて振り返り、彼女に深々と頭を下げた。そして、無言で部屋をあとにした。
「すみません、不快な思いをさせてしまって」
レイチェルは申しわけなさそうに、ジークを気づかった。しかし、彼は顔に影を落とし、うなだれていた。リックも心配そうに見ていたが、かける言葉が見つからなかった。
「言われて当然のことです」
ジークは力なく自嘲した。
レイチェルはまっすぐ彼に近づいていった。光をたたえた強い瞳を向ける。そして、彼の右手をとり、自らの両手で包み込んだ。
「私たちは、ジークさんのせいだとは思っていません。そんなふうに自分を責めないで」
絹の手袋ごしだったが、彼女の温かさがほんのり伝わってきた。しかし、それでも彼の心は融けなかった。
「でも、レオナルドに言われたことは事実です」
かたくななジークに、レイチェルはふっと柔らかく笑いかけた。
「もしそう思うのでしたら、アンジェリカが目覚めるように、たくさん祈ってください」
彼女はジークの手を引き、椅子に座らせた。リックもほっとした様子で、隣に腰かけた。
「それで、王子様はどうするのか、わかりました?」
レイチェルは椅子に腰を下ろしながら、笑顔で問いかけた。ジークの顔は一気に上気した。思わず目の前で眠るアンジェリカから目をそらす。
「俺、からかわれてただけなんですよね……」
「僕、図書館に付きあわされたあげく、げんこつで殴られちゃいました」
リックはそう言いながら、とても楽しそうだった。レイチェルも楽しげに、ふふっと笑った。
「でもわかりませんよ。何がきっかけになるかなんて」
ジークは困り顔で、ますます赤くなっていった。
「そんなこと言って、サイファさんが聞いたら……」
ココン。ノックと同時に扉が開いた。
ジークは何気なく振り返った。そのとたん、彼は派手な音を立てて椅子から転げ落ちた。
「大丈夫か? ジーク君」
扉を開けたサイファは、驚いて歩み寄ると、手を差し伸べて助け起こした。
ジークは顔を赤くしたまま、彼を見ようとしなかった。
リックとレイチェルは、顔を見合わせて笑っていた。
「どうしたんだ?」
サイファはふたりをかわるがわる見ると、不思議そうに尋ねた。レイチェルは、彼を見上げてにっこりとした。
「サイファは親バカだって話をしていたところだったのよ」
「今さらそんな話か」
さも当然のようにそう言うと、彼女の隣に腰を下ろした。
「サイファさん、よく仕事を抜け出してきているみたいですけど、大丈夫なんですか?」
リック自身、ここでサイファとときどき顔を合わせていたし、レイチェルの話からすると昼間もよく来ているらしい。彼が心配することではないが、気にはなった。
「仕事はきちんとやっているよ。それに、抜け出しているわけではなく、ちょっと立ち寄っているだけだ」
そう言って、いたずらっぽくにっと笑ってみせた。
「ずいぶん遠まわりしているみたいだけどね」
レイチェルも笑って付け加えた。
「それにしても……」
サイファは、ベッドで眠り続けるアンジェリカに目を移した。
「もう10日になるのか」
彼女の額に手をのせ、なでるようにそっと前髪をかきあげる。サイファはそれ以上何も言わなかったが、彼の気持ちはその場にいる全員に痛いほど伝わっていた。伝わっていたというよりも、それがみんなの共通の思いであった。
29日目。
暗い寝室。ラウルはベッドの上で仰向けになっていた。頭の後ろで手を組み、天井を見つめている。その隣には、膝を曲げたユールベルが、そっと寄り添うように、体を横たえていた。
「まだ、意識が戻らないの?」
「ああ」
ユールベルは肩をすくめ、背中を丸めた。
「ずっと、このままだったら……」
「そうはならない」
ラウルはきっぱりと言った。
「どうして……?」
「私は医者だ」
ジリリリリリリ——。
けたたましいベルの音が、静寂を切り裂く。ラウルは手を伸ばし、枕元の受話器を取った。
「……わかった。今行く」
それだけ言って受話器を置くと、ユールベルをまたいでベッドを降りた。暗いままの部屋で、手早く着替え始める。
「どこへ行くの?」
ユールベルは手をついて体を起こすと、彼の後ろ姿に問いかけた。その声は小さく、どこか怯えているようだった。
ラウルは無表情で振り返った。
「アンジェリカのところだ」
30日目。
「いいのかなぁ、自習さぼって」
「いいんだよ。朝から自習にするアイツが悪いんだ」
ジークとリックは、アンジェリカの病室に向かっていた。
「……ていうか、気になるんだよ。最近は自習もなくなってたってのに、もしかしたら、アンジェリカに何か……」
それ以上、言葉を続けられなかった。嫌な予感が止まらない。
「そんな、考えすぎじゃないの?」
そう言いながらも、リックは不安に顔を曇らせた。
「だったら、いいんだけどな」
ジークは足を速めた。
コンコン。
ノックをしたが、返事はなかった。
「誰もいないのかな。面会時間外だし……」
リックは嫌な想像を、必死で抑え込んだ。
コンコンコン。
ジークは再びノックをする。やはり返事はない。
「チッ」
小さく舌打ちすると、耐えきれなくなって、勢いよく扉を開けた。
ガラガラガラ——。
扉がレールを走る音が、いつもより大きく感じた。そして、病室がいつもより眩しく感じた。
「おはよう」
「…………」
「ちょっと、寝過ごしちゃったみたい」
「……アンジェリカっ?!」
ふたりは同時に叫んだ。白いパイプベッドで上半身を起こし、少し恥ずかしそうにはにかんでいる黒髪の少女。それは間違いなくアンジェリカだった。声はところどころかすれていたが、久しぶりに見た黒い大きな瞳は、少しも変わっていない。
ふたりは我にかえると、慌ててベッドに駆け寄った。
「お……起きて大丈夫なのか?」
「無理しないで」
「うん、平気。腕はまだ治っていないみたいだけど」
アンジェリカは、ギプスの腕を少し持ち上げ、にっこり答えた。それから、少しの笑顔を残したまま、真面目な表情になり、ふたりをじっと見つめた。
「……ごめんね」
「ああ」
「うん」
それ以上の言葉はなかったが、それだけで十分だった。
「おまえたち、自習はどうした」
ラウルは隅の椅子で足を組み、カルテに記入をしながら淡々と尋ねた。ふたりとも、彼がいたことにまったく気がついていなかった。そして、レイチェルとサイファがいたことにも、そのとき初めて気がついた。
レイチェルは本当に嬉しそうに、ほっとしたように、心から幸せそうな顔をしていた。大きく光る瞳に涙をたたえながら目を細めている。サイファは彼女の肩に手を回し、やはり幸せそうに目を細めていた。
「今日くらい堅いことを言うなよ」
「おまえはいつでも融通を利かせすぎだ」
ラウルはカルテを小脇に抱えて立ち上がり、笑顔のサイファとちらりと視線を合わせると、無表情で病室から出ていった。
ココン。
軽いノックのあと、サイファは返事を待たずに扉を開き、勝手に医務室の中へと入っていった。そして、いつものように、ラウルの隣の丸椅子に腰を掛けた。
「アンジェリカと一緒にいなくていいのか」
ラウルは机に向かったまま、ペンを走らせる手を止めずに言った。
「時間なら、これからいくらでもあるよ」
サイファは伸びやかな表情で、晴れ晴れと笑った。それから、急に真剣な顔になると、奥の部屋へ続く扉に目をやった。
「……彼女は元気にしているのか」
その質問に、ラウルは手を止めた。
「少しは落ち着いた。アンジェリカの意識が戻って安堵しているようだ」
「あしたで約束のひと月だ。朝に迎えに来るが、いいな?」
サイファは事務的に確認の言葉を口にすると、ラウルの横顔をじっと見つめた。
「もう我が侭を言わせはしない」
ラウルはそう言って振り向き、真正面からサイファと目を合わせた。
夜が深まった頃、ラウルは明かりの消えた寝室へ入っていった。
彼のベッドには、当たり前のようにユールベルが眠っていた。背中を丸め、膝を抱えるようにしている。許可したわけでもないのに、彼女はいつも勝手に入り込んでいた。しかし、それを咎めたこともなかった。
彼女を起こさないように、そっとまたいで奥へと移動し、仰向けに寝ようとした。ベッドがかすかに軋み音を立てる。
「……今晩が最後なの?」
目を覚ましたのか、もともと眠っていなかったのか、ユールベルが突然声を掛けてきた。彼女は体を丸め、頭を下げていたため、その表情を窺うことはできなかった。
「ああ、そうだ」
ラウルは頭の後ろで手を組み、その身をベッドに投げ出した。反動で、ベッドは大きく数回弾んだ。
「私、どうしても寮に入らなければいけないの?」
「もう決めたことだ」
ユールベルはあきらめたのか、それ以上しつこくは言わなかった。
「一度も、笑わなかったわね」
「互いにな」
「……でも、ありがとう」
ぽつりと静寂の水面に言葉を落とす。ラウルは何も答えなかった。
「最後にひとつだけ、お願いをしてもいい?」
「おまえの我が侭はもう何も聞かない」
ラウルは天井を見つめたまま、静かにはねつけた。
「そう……」
それきりユールベルは口をつぐんだ。
アンジェリカが目覚めてから7日が経った。一週間、弱った身体をリハビリし、今日が初登校である。まだ完全には回復していないが、彼女自身が強く希望して、なんとかラウルの許可をもらったのだ。右腕はまだギプスで固められ、白い布で首から吊り下げられている。
「頑張って遅れを取り戻さないとね!」
彼女は上機嫌でギプスを振り回した。
「ほんっとーに無理すんなよな」
「わかってるわ」
無邪気な笑顔を見せるアンジェリカに、ジークは疑いの眼差しを向けた。リックは、そんなジークを見て、こっそり小さく笑っていた。
「あれ? ユールベル、よね」
アンジェリカはふいに目を止めた。自分たちの教室とは逆方向へ行く、金髪の後ろ姿。頭には白い包帯が巻かれている。
「おいっ!!」
ジークが止めるより早く、アンジェリカは駆け出していた。病み上がりとは思えないほど素早い。残されたふたりも、慌ててあとを追った。
「ずいぶん感じが変わったわね」
後ろから声を掛けられたユールベルは、ゆっくりと振り返った。いつもの素っ気ない白いワンピースではなく、シャツにベスト、プリーツのミニスカートという出で立ちだった。
「先輩……寮の先輩が、これにしなさいって言ったから……」
視線が服に集中しているのを察し、彼女はいいわけめいたことを口にした。
「私もこっちの方がいいと思うわ」
にっこり笑うと、アンジェリカは左手を差し出した。ユールベルはその手と顔を交互に見つめた。表情には出さなかったが、明らかにとまどっているのがわかった。
「安心して。今さら仲良くしましょうっていうんじゃないのよ。おあいこってことで、どうかしら」
それでも彼女はまだ呆然としたままで、差し出された手に応えようとはしない。アンジェリカは手を下ろした。
「本当の話、聞いたわ。あなたのことも」
その言葉に、ユールベルの顔が一瞬こわばった。
「自分のせいではなくてほっとした? それとも同情?」
目を伏せ、自嘲ぎみに吐き捨てる。
「そうね。両方とも、かしら」
アンジェリカは淡々と答えた。ユールベルは、はっとして視線を上げた。まさか認めるとは思わなかった。
「あなたの目を傷つけたのは私だけど」
彼女は真剣な表情で、そう付け加えた。
「それと……。思い出したのよ、少しだけ。昔のことをね」
ユールベルの鼓動はドクンと強く打った。
「あなたと私、楽しそうに笑っていた。あなたはどうだったかわからないけれど、私にとってはたったひとりの友達だった」
まっすぐユールベルを見つめてそう言うと、ふっと寂しそうに笑った。ユールベルは口を開きかけてうつむいた。
「それじゃ」
アンジェリカはにっこり笑うと踵を返し、ジーク、リックとともに去っていった。
「いつか、わだかまりが融けるといいね」
リックは優しく声を掛けた。しかし、アンジェリカはあまり聞いていないようだった。何か難しい顔で考えごとをしている。
「あっ、思い出した」
「何だ?」
ジークは隣のアンジェリカに振り向いた。
「ユールベルと対決したときの約束。ほら、ジークの言うことをひとつ、何でも聞くって言ってたでしょう?」
アンジェリカは、ずっと何か忘れている気がして引っかかっていた。ようやく思い出せて、すっきりした顔をしている。
しかし、ジークはとたんに困り顔になった。
「あ……あれはいいんだよ、もう……」
歯切れ悪く口ごもった。
「よくないわよ。約束は守らなきゃ」
「じゃなくて。もう終わったんだよ」
面倒くさそうにうつむき、無造作に頭をかいた。
「終わった? どういうこと?」
そう言って下から覗き込んでくるアンジェリカに、ジークは耳を赤らめた。
「うるせぇな! 覚えてねぇオマエが悪いんだよ!」
顔まで赤くなっていくのを感じ、彼は慌てて話を切り上げようとした。
アンジェリカはわけがわからず、リックに助けを求めて振り向いた。しかし、彼もさっぱりわからない。首をかしげ、肩をすくめて見せた。
「いいわ。よくわからないけれど、そういうことにしてあげる。今日は特別ね」
アンジェリカは、にっこりジークに笑いかけた。彼はほっとして息をついた。
「さ、早く教室に行かなきゃ」
「おいっ! だから病み上がりで走るなって!」
ジークは駆け出した彼女を追いかけながら声を掛けた。
「いいの。これもリハビリよ」
アンジェリカは短いスカートをひらめかせながら、くるりと振り返った。屈託のない満面の笑み。ジークの心に温かい光が広がっていった。
46. 月の女神
「落ち着いてください」
何度かその言葉を繰り返し、サイファは受話器の向こうの相手を懸命になだめていた。冷静な声だが、やや疲れが滲んでいる。
レイチェルは少し離れたソファに浅く腰掛け、心配そうに彼の後ろ姿を見つめていた。
「とにかくそちらへ向かいます……はい、すぐに」
静かにそう言うと、軽くため息をつきながら受話器を戻した。仕事が長引き、ようやく帰って来られたと思ったら、息つく間もなくこの電話である。彼のため息も当然のことだった。
「何があったの?」
レイチェルは早足で彼に歩み寄った。そっと腕に手を置き、端整な横顔をまっすぐ見上げる。
サイファは難しい表情で考えを巡らせていた。わずかにうつむくと、顎に手をあてる。
「状況がつかめないんだ。アルティナさんの言うことも、興奮していて要領を得ない」
レイチェルは首を傾げ、顔を曇らせた。
そのことに気がつくと、サイファはにっこりと笑顔を向けた。彼女の細く白い手をとり、安心させるように軽く握る。
「とにかく行ってくるよ」
「私も行きましょうか?」
レイチェルは、まだ不安顔で、彼を見つめていた。
「いや、君はここにいてくれ。こんな夜中にアンジェリカをひとり家に残すわけにもいかないだろう」
サイファは彼女の頬に手を置くと、再び笑顔を見せた。それに、どれほどの効果があるかはわからなかった。
「まさか、本当だったとは……」
サイファは目の前の光景に唖然としながら、ようやくその一言をつぶやいた。
「なによ、私の言うことを信じてなかったわけ?!」
感情的な甲高い声が、彼を責める。声の主はアルティナ。彼をこの広間に呼びつけた張本人だ。
「いや、しかし……」
サイファは彼女の怒りを受け流すと、前を見つめながら言葉を詰まらせた。彼の視線の先にいたのはラウルだった。そして、その腕の中には、まだ生後まもないと思われる赤子が眠っていた。
「本当に、おまえが育てるつもりなのか」
サイファは動揺を心の中に押し隠し、静かに問いかけた。
「問題はないだろう」
ラウルは突っぱねるように短く言った。うんざりしているように見える。すでにアルティナに何度も訊かれたのだろう。
「大アリよ!」
アルティナは頭に血を上らせると、大声で怒鳴りつけた。長い銀髪を艶やかに煌かせながら、今にも掴みかからんばかりの勢いで足を踏み出す。
サイファは興奮する彼女の前に右手を広げ、無言でその動きを制した。ラウルを庇ったわけではない。彼が締め上げられようが殴られようが知ったことではないが、それより今は状況を把握するのが先だと思ったのだ。
彼女は苦々しい顔をしながらも、おとなしく従った。
「確認したいのだが、本当に捨てられていたのか?」
「こんなものとともに籠に入れられていたら、捨てられているとしか考えられないだろう」
ラウルは赤子を抱えたまま、手にしていたものをサイファに示した。
それは、二つ折にされた小さな紙切れだった。薄いクリーム色で、安っぽいメモ用紙のように見える。
サイファはラウルの手からそれを抜き取り、慎重に広げた。その中央には、短く一文だけ走り書きがしてあった。
「この子をよろしくお願いします……か。誰か特定の人物に宛てた手紙とも考えられるな」
「まさか、あなたの隠し子ってわけじゃないでしょうね」
アルティナは腕を組み、思いきり疑いのまなざしでラウルを睨み上げた。しかし、彼はまったく動じなかった。いつもどおりの冷たい瞳で睨み返す。
「この子が置かれていたのは養護施設の前だ」
「じゃあ養護施設に頼んだってことじゃない! なに勝手に連れてきてるのよ!」
アルティナは大きな声を張り上げた。
「養護施設の前であろうと公道だ。親から育てることを放棄され、公道に放置されたこの子は誰のものでもない。拾う拾わないは私の自由だ」
屁理屈をこねるラウルに苛つきながら、アルティナは反論をぶつける。
「あなたの気まぐれで、その子の将来を台なしにするわけにはいかないわ! あなたにまともな子育てができるわけないじゃない!」
彼女の感情はますます昂っていった。
一方のラウルはいたって冷静だった。
「私は医者だ」
あまりに単純で素っ気ない返答に、アルティナの怒りは沸点に達した。
「そういう問題じゃない!! あんたがまともに愛情を注いであげられるとは思えないって言ってんのよ!!」
感情を爆発させたあと、顔をしかめ、深くため息をついた。疲れたように前髪を掻きあげる。長い銀髪がさらりと頬を撫でた。そして、落ち着きを取り戻すと、今度は諭すように静かに語りかけた。
「悪いことはいわない。その子のためを思うなら養護施設に預けた方がいいわ」
しかし、ラウルはそれを聞き入れようとはしなかった。
「養護施設なら幸せに育つという保証がどこにある」
「あなたが育てたら不幸せになることなら私が保証してあげる」
アルティナは間髪入れずに言い返した。腕を組み、あごを斜めに上げ、挑戦的な目で彼を睨みつける。
ラウルも一歩も引かず、鋭い視線を返した。
「ちょっと待てラウル」
激しく火花を散らすふたりの間に、サイファが割って入った。
「私との約束はどうするつもりなんだ。アンジェリカが卒業するまで担任を引き受けてくれると言っただろう」
背筋を伸ばしてラウルと向かい合い、はっきりとした口調で問いつめる。
「まさか、その子を背負って教壇に立つつもりか?」
「ぷっ……あはははは!」
アルティナは突然吹き出すと、腰に手をあて、上体を折り曲げながら豪快に笑った。
サイファはその声に驚いて振り向いた。
「アルティナさん、私は真面目に……」
「ごめんごめん。でも想像したらおかしくて」
彼女は軽い調子で謝ったが、いまだに笑ったままだった。少し息苦しそうにしながら、目尻を拭う。
しかし、彼女につられ、サイファもその様子を思い浮かべてしまった。耐えきれず、鼻先で小さく吹き出す。
そんなふたりを、ラウルはムッとしながら冷たく見下ろした。
「心配するな。昼間は人を雇うつもりだ」
「ベビーシッターをか?」
サイファは真面目な表情に戻り、ラウルと目を合わせた。
「バカね。自分ひとりで世話できないんだったらやめなさいよ」
アルティナは呆れたように、そう切り返した。そして、真剣なまなざしをラウルに向けると、さらに言葉を続ける。
「人を雇うくらいなら、養護施設の方がよっぽどましだわ」
ラウルもサイファも何も返さなかった。その場に静かな緊張が広がっていった。
「ふ……ぎゃぁあ!」
突然の、悲鳴にも似た泣き声。ラウルの腕の中からその静寂は切り裂かれた。金縛りから解き放たれたかのように、アルティナは大きく数回まばたきをした。そして、ため息まじりにふっと笑うと、表情を和らげた。
「一時休戦ね」
「ふふ、かわいー。やっぱりいいわね、女の子」
アルティナは赤子を抱きかかえ、哺乳瓶でミルクを飲ませていた。いつもの気の強そうな表情からは想像がつかないほど、緊張感なく顔を緩ませている。彼女にも母性本能は備わっているようだ。
サイファとラウルは、その隣で木製のベビーベッドを組み立てていた。以前、アルティナの息子が使っていたものである。彼女に頼まれて倉庫から引っ張り出してきたのだ。
「ねぇ、ラウル。私、いいこと思いついちゃった」
片膝を立て、木枠をはめ込む後ろ姿に向かって、アルティナは、いたずらっぽく笑いかけた。しかし、ラウルは振り返ることも手を止めることもなく作業を続けた。
アルティナは、構わず一方的に語りかける。
「あなたがアカデミーに行ってるあいだ、私がこの子を預かることにするわ」
これにはさすがのラウルも驚いた。息を呑んで彼女に振り向く。
「おまえ、何を……」
「アルティナさん、何を言ってるんですか」
ラウルの言葉を遮ったのはサイファだった。
「クレフザードに無断で、またそんな勝手なことを……」
「平気、平気。何も養子にしようってんじゃないのよ」
彼女はあっけらかんと笑うと、軽く受け流した。腕に抱いた赤ん坊の顔を覗き込み、小さな指を優しく包み込む。
「アルスにも友達が欲しいと思っていたところだし、ちょうどいいわ」
赤ん坊に向かって同意を求めるように「ねっ」と言うと、小さく首を傾けた。その表情は、優しい母親のそれだった。
ラウルは腕を組んで眉をひそめると、冷たく彼女を見下ろした。
「断る。願い下げだ。生意気なおまえの息子のおもちゃにされるのはごめんだ」
アルティナは顔を上げ、ニヤリと口の端を上げた。
「さっそく過保護な親を気取ってるってわけ?」
ラウルは何も言い返さず、じっと睨みつけた。
しかし、アルティナは急に真剣な顔になると、まっすぐ彼の瞳を見返した。
「冷静に考えてみて。悪い話じゃないと思うけど? ここなら何ひとつ不自由させない」
自信を持ってキッパリと言い切る。
ラウルはそれでも微動だにせず、ただじっと彼女を見つめるだけだった。
「私が気に入らないのなら、レイチェルに預けると思えばいいわ。実際はふたりで面倒を見るようなものだし」
アルティナは挑発的な口調で、さらに畳み掛ける。
「雇われベビーシッターより、私たちの方が愛情をもって育てられる。自信はあるわよ」
ラウルは腕を組んだまま考え込んでいた。いちど目蓋を閉じ、再びゆっくりと開く。そして、静かに口を開いた。
「……わかった」
「決まりね!」
アルティナはぱっと顔を輝かせた。しかし、すぐに申しわけなさそうにはにかむと、サイファに振り向いた。
「サイファ、レイチェルに事情を話しておいて。それと、勝手に決めてごめんねって」
そう言うと、小さく肩をすくめて見せた。
サイファは大きくため息をついた。
「レイチェルはともかく、クレフザードはどうするんですか」
「あっちは大丈夫。拗ねたらテキトーになだめておくから」
アルティナは余裕たっぷりの笑顔で、右手をひらひら上下にはためかせた。
「もう少し大切にしてくださいよ。あなたの夫でしょう」
サイファは半ば呆れたように、再びため息をついた。
アルティナは聞こえなかったのか聞こえないふりなのか、返事をすることなく歩き出した。そして、ラウルに赤ん坊をそっと手渡すと、さらにその先へ向かって足を進めた。
「ベッドは出来たわね」
組み立てられたベビーベッドを覗き込み、強度を確かめるように力を込めて揺らした。
「うん、まだ十分使えるわね」
そうつぶやくと、にっこり笑ってラウルに振り向いた。
「ラウル、これあげるわ。あとで届けるから」
静まり返った薄暗い廊下に、ふたつの足音が大きく響く。並んで歩くふたりと、腕の中の小さなひとり。白い月の光が、無彩色にその姿を照らし、ぼんやり浮かび上がらせる。
「アルティナが何を考えているのか、まるでわからない」
ラウルは淡々とつぶやいた。
サイファはラウルの腕の中の赤ん坊に目を向けた。表情を緩めながら、同時に疲れたように小さく息を吐いた。
「私はおまえの方がわからないよ。何をそんなに執着してるんだ」
ラウルはそれに対し何も答えなかった。前を向いたまま、無表情で歩き続ける。
サイファはうつむき、考え込んだ様子で黙り込んだ。やがて、再び顔を上げると、まっすぐ遠くを見つめた。
「あのときユールベルを救えなかったことに対する贖罪か? それとも今さら寂しくなって家族がほしくなったとでも?」
「理由などない」
はっきりそう言い切る彼の横顔を、サイファはちらりと盗み見た。
「深く追及はしない。だが、一時の気まぐれだった、で済むことではないんだ。もう一度、慎重に考えてみろ」
「慎重に考えての結論だ」
ラウルは感情なく言い放った。
そこで、ちょうど彼の医務室に着いた。ふたりは足を止めた。
「またな」
サイファはラウルと目を合わせ、それから赤ん坊に視線を移し、柔らかく笑いかけた。
「レイチェルにまで迷惑をかけることになった。すまない」
ラウルはサイファを見つめ、わずかに目を細めると、静かに詫びの言葉を口にした。ラウルにしてはめずらしいことだった。
サイファは小さく笑ってうつむいた。
「本当にな」
そう言うと、彼から顔をそむけ、窓の外を見上げた。ほのかに青く光る月が浮かんでいた。それほどの光量があるわけでもないが、なぜか眩しく感じられた。思わず目を細める。
「レイチェルは、迷惑とは思わないだろうけどね」
ふいに言い足された言葉。
ラウルはわずかに目を伏せた。何かを言おうと口を開きかける。
だが、その瞬間、サイファがにっこり微笑みかけて尋ねた。
「その子の名前は考えたのか?」
ラウルは少し間を置いて「ああ」と言うと、赤ん坊の寝顔を見つめ、それから窓の外を見上げた。
「ルナ、にしようと思っている。月の女神の名だ」
「ルナか。いい名だ」
サイファは再びにっこりと笑って見せた。
「なんだって?!!」
ジークは廊下の真ん中で目を大きく見開き、顎が外れんばかりの勢いで叫んだ。近くを通りかかった数人が、彼の声に驚いて振り向いた。
ジークと同様に、隣のリックも目を見開いていた。彼は何も言葉を発せず、ただぽかんとしていた。
「やっぱりびっくりするわよね。私もいまだに信じられないもの」
アンジェリカは、ふたりの反応を冷静に受け止めた。
「ど……どういうこと、だ?」
ジークは混乱と焦りで、言葉を詰まらせながら聞き返した。
「だから、ラウルに娘ができたって。捨てられてた子らしいんだけど」
「あ……養子ってこと?」
リックが拍子抜けしたように尋ねた。
「そうよ。えっ……どうしたの?」
アンジェリカは不思議そうにきょとんとしてジークを見た。彼は壁に手をつき、崩れそうな体をなんとか支えていた。
「まぎらわしい言い方すんなよな!」
顔を少し赤らめ、八つ当たりぎみにそう言うと、体勢を立て直して壁にもたれかかった。うつむきながら腕を組み、眉間にしわを寄せる。
「いや、でも、それにしても、信じられねぇな。あいつが子育てしてるところなんて、想像もつかねぇ……」
彼は難しい顔で考え込んだ。次第に上体を折り曲げ、小刻みに体を震わせ始める。そして、一気に体を起こして天井を仰ぐと、額を手のひらで押さえた。笑いながら苦い顔をしている。
「なにやってるの、ジーク」
アンジェリカは怪訝な顔で、その百面相の様子を眺めていた。
「想像しちまった」
彼はそのままの姿勢で、噛みしめるようにつぶやいた。
「なんとなく、わからなくもないよ」
リックも同調して苦笑いした。
「ラウルってまったく生活感がないもんね。ごはんなんて絶対に作ってなさそうだし」
「そんなことないみたいよ」
アンジェリカはリックに振り向いた。
「すごく上手だってお母さんが言ってたわ」
「本当に?」
「嘘だろ?」
ふたりは逆の言葉で同時に聞き返した。
「うん、私は知らないんだけどね」
彼女もあまり実感はないという口ぶりだったが、疑っているわけではなさそうだった。
ジークは苦々しげに奥歯を軋ませた。
「あのやろう、料理まで出来るのか。あったま来るな。とことん嫌味なやつだぜ」
それから急に顔を上げ、ぱっと表情を明るくすると、弾んだ声をあげた。
「よし! 医務室までからかいに行くか!」
「え?」
アンジェリカの口からついて出た小さな声に、とまどいの色が滲んでいたことを、リックは聞き逃さなかった。
「どうしたの?」
「うん……なんかちょっと複雑っていうか、心の準備が出来てないっていうか……」
微妙に顔を曇らせながら言葉を詰まらせていたが、やがてそれを笑顔で掻き消した。
「でも行くわ。赤ちゃん、見てみたいし」
ジークとリックは、お互い疑問を含んだ顔で、視線を送りあった。ふたりとも、彼女のとまどいが何なのか気になっているようだ。
それに気づいたアンジェリカは、うろたえてほんのり顔を上気させた。
「行きましょう!」
彼女は早口でそう言うと、ふたりの腕を軽く引っ張って急かした。
ガラガラガラ——。
「おい、ラウル。娘を見に来たぜ!」
扉を開けると同時に、ジークは楽しげに元気よく呼びかけた。からかってやろうという意気込みがありありとわかる。その後ろから、リックとアンジェリカも中を覗き込む。
だが、医務室にいたのはラウルではなかった。
「あら? ジーク君じゃない」
「あ、どうも、こんにちは」
「赤ちゃんを見にいらしたのね」
白いパイプベッドの上に、アルティナとレイチェルが並んで座っていた。アルティナはスタンドカラーで膝下まである細身の青い上衣に幅広の白いパンツ、レイチェルはいつもと同じでスカート部分がふっくらと広がったドレスを身につけていた。レイチェルの腕には小さな赤ん坊が抱かれている。ふたりは笑顔でジークたちを迎え入れた。
まわりの騒がしさに、赤ん坊が目を覚ましたようだった。小さな口を大きく開けて、あくびをしているような仕種が見てとれた。
ジークはめずらしいものを見るかのように、目を大きく見開き、口を半開きにし、呆けた状態で眺めている。アンジェリカはその隣で、顔をほころばせていた。
しかし、リックだけは、いまだに扉付近で棒立ちになり、顔をこわばらせていた。
「どうしたの? リック」
彼の異変に気づいたアンジェリカが声を掛けた。ジークもつられて振り返った。
「そうか、おまえは初めてだったな。アルティナさんだ」
リックに彼女を示し紹介する。紹介されたアルティナは、にこにこしながら、顔の横で小さく手をひらひらさせた。
「レイチェルさんと一緒に王宮で働いてるんでしたよね?」
「ええ、そうよ」
ジークが確認すると、彼女は笑いながら返事をした。レイチェルも隣でくすくす笑っていた。
「王妃様……ですよね」
リックはごくりと息を呑んで、ようやく口を開いた。
「はぁ? なに言ってんだ、おまえ」
「ジークこそ何を言っているの? 王妃アルティナ=ランカスターよ。知らなかったの?」
アンジェリカは訝しげにそう言った。
今度はジークが固まった。
「う……うそ……だ、って、こないだは……」
ぎこちなく、アルティナへと振り向く。鳩が豆鉄砲を食ったような顔。彼女はおなかを抱えて笑い出した。
「ごめんね、隠してて。王妃様扱いされるのがあんまり好きじゃないから、ついね。でもレイチェルと一緒に働いてるっていうのは嘘じゃないのよ」
そういえば、レイチェルは王妃の付き人をやっていると聞いたことがある。ジークは今になってようやく思い出した。
アルティナはひとしきり笑ったあと、背筋を伸ばして立ち上がり、右手を差し出した。
「あらためてよろしくね。アルティナ=ランカスターよ」
彼女はジーク、リックと力強く握手を交わした。
「全然、気がつかなかった……」
ぼそりとつぶやいたジークに、リックは呆れ顔で冷たい視線を送った。
「自分の国の王妃様だよ? 顔も知らないなんて信じられないよ」
「うるせぇ! 俺はラジオ派なんだ!」
ジークは顔を赤らめながら、必死のいいわけをした。
「でも王妃様ともあろう方が、どうしてこんなところへ?」
リックは、再び腰を下ろしたアルティナに視線を向けた。
「こんなところで悪かったな。一応ここも王宮の敷地内だ」
馴染みのある冷たい声が、背後から降りかかる。
リックはどきりとして振り返った。いつのまにか奥からラウルが出てきていた。まっすぐ自分の机に向かい、書類を投げ置くと、椅子にどっかりと座った。
「ラウル、赤ちゃん、触ってもいい?」
「ああ」
アンジェリカは体を屈め、胸を高鳴らせながら覗き込んだ。赤ん坊はぱっちりと目を開き、レイチェルの腕の中で軽く握った手をパタパタ動かした。
「わぁ……」
感嘆の声をあげながら、アンジェリカはそっと手を近づける。
「すごーい! 柔らかい! この手ちっちゃい……あ、ほら、私の指を握ってるわ!」
彼女はいつになく興奮ぎみに実況をした。
レイチェルはそんな娘を愛おしげに目を細めて見つめていた。
「ルナっていうのよ」
「かわいい名前ね」
アンジェリカは屈託のない笑顔を見せた。隣のリックも、赤ん坊の頬をつつきながら、和やかに笑った。
「うん、ホントかわいいね。ジークもおいでよ」
数歩下がって眺めている彼を、手招きで呼んだ。しかし、彼は困ったような顔で立ち尽くしたままだった。
「いや、俺はいい……」
消え入りそうな弱々しい声。リックはきょとんとして見上げた。
「どうして?」
ジークはリックの視線から逃れるように、顔をそむけた。
「……怖ぇんだよ」
「はぁ??」
思いもしなかったジークの返答に、リックは思いきり素頓狂な声をあげた。
ジークは耳を真っ赤にしてうつむき、口をとがらせた。
「どう扱ったらいいか、わかんねぇんだよ。なんか、触ったら壊れそうじゃねぇか」
ぼそぼそとはっきりしない声で言う。
リックは深くため息をつくと、背中を丸め、肩を大きく落としてみせた。
「なんか、僕、情けなくて涙が出そうだよ」
「撫でるくらいじゃ、壊れたりしないわよ」
ふたりのやりとりを聞いていたアルティナが、笑いながら口を挟んできた。
「いらっしゃい。これは命令よ」
いたずらっぽくウインクをしてニッと笑うと、人さし指でくいっとジークを呼びつけた。
王妃に命令と言われては、拒絶するわけにもいかない。ジークはしぶしぶ近づき、おそるおそる手を伸ばした。まわりの興味津々な視線を受け、よけいに緊張が高まってきた。ごくりとのどを鳴らす。そして、赤ん坊のほほにそっと触れた。
その瞬間、ジークははっとして目を見開いた。口をすぼめ、細く息をもらす。
「どう? 抱っこしてみる?」
「やめろ。そんなへっぴり腰で出来るわけないだろう。落とされでもしたら取り返しがつかない」
アルティナの提案を、ラウルは間髪入れずに却下した。
ジークはさすがに何も言い返せなかった。ラウルの言うとおりだ。言い返す余地もない。それに、そんな恐ろしいことをせずに済んで、ほっとしている部分も大きかった。
ガラガラガラ——。
再び医務室の扉が勢いよく開いた。その場にいた全員が、いっせいに振り向いた。
「本当だったのね……」
ユールベルは赤ん坊に目を向けると、落胆したようにつぶやいた。息をきらせながら、思いつめた表情で、まっすぐラウルへと足を進める。他の人の存在は、目にも入っていないらしい。
「ひどいわ! 私のことは追い出したのに、どうして?!」
緩やかにウェーブを描いた長い金髪を揺らし、激しく詰め寄る。しかし、ラウルは椅子の背もたれに身を預けたまま、少しも動かなかった。ただ、彼女を冷たく見つめるだけである。
「おまえにとやかく言われる筋合いはない」
まったく感情を感じさせない口調で、そう言い捨てた。
ユールベルの、包帯で覆われていない方の瞳が、大きく光を反射する。
「……私より、その子を選んだってこと?」
ラウルは何も答えなかった。
ユールベルは、肩を、腕を、唇を、瞳を震わせた。そして、細い腕を大きく振りかぶると、力いっぱい平手打ちを喰らわせた。ラウルの顔が横向きになり、赤味を帯びたほほに、焦茶の髪がさらさらと掛かった。
ユールベルは急に怯えたように顔を歪ませると、二、三歩、じりじりと後ずさった。そして、潤んだ目でキッとひと睨みし、背を向け一気に走り去っていった。
ジークたちは、突然巻き起こった嵐を、ただ呆然と見ていた。
「あーあ、泣かしちゃった。追いかけなくていいの? 可愛らしいコイビト」
アルティナは含み笑いをした。
「からかうな」
ラウルは椅子を回し、机に向かうと、書類整理を始めた。
「あ、まずい!」
腕時計を見たとたん、アルティナが大声をあげた。
「もう会議が始まっちゃってる!」
パイプベッドから跳び降り、銀の髪を振り乱しながら扉へと駆け出す。
「じゃ、私は行くから。あとはよろしく!」
戸口で振り返り、早口でまくし立てながら敬礼のポーズをとると、返事も待たず慌ただしく走って出ていった。
「王妃様が会議……ですか?」
リックは軽く驚きながら、レイチェルに尋ねた。
「自主的に行っているのよ。煙たがられているみたいだけど」
彼女は寂しげに笑い、肩をすくめる代わりに首を傾けてみせた。
「それでもアルティナさんはあきらめないの。腐った王宮を叩き直すんだって息巻いてるわ。とってもまっすぐで素敵な人よ」
「王宮、腐ってるんですか?」
ジークの率直な疑問に、レイチェルは何も答えず、ただ笑顔を返すだけだった。その笑顔に物憂げなものを感じ、それ以上、追求することは出来なかった。
「おまえたちももう帰れ。そんなに暇なら課題を追加するぞ」
ラウルは椅子から立ち上がり、腕を組むと、威嚇するように三人を見下ろした。
「言われなくても帰るぜ!」
ジークは反発心をあらわにすると、踵を返し、扉に向かっていった。肩をいからせ、わざとドタドタと足音をさせる。リックとアンジェリカも苦笑いしながらそれに続いた。アンジェリカは後ろ手で扉を閉めかけて、ちらりと顔半分振り返った。
「また見に来てもいい?」
「たまにならな」
ラウルはぶっきらぼうに答えた。
彼女はほっとしたように、にっこりとした。
「私もそろそろ帰るわ」
レイチェルはパイプベッドから立ち上がると、ラウルに赤ん坊を手渡した。
「月の女神の名前なのね」
その小さな女神ににっこり笑いかけると、柔らかいほっぺを指でつついた。小さな手が空を舞う。喜んでいるのかどうかはわからないが、反応があったことが嬉しかった。
彼女はふいに少し真面目な顔になった。じっとラウルを見上げて尋ねる。
「ふるさとが恋しくなったの?」
透きとおった蒼い大きな瞳で、彼の濃色の瞳をつかまえる。
「いや……」
ラウルは彼女を見つめたまま、うわごとのようにつぶやいた。体を動かすことも、視線をそらすこともできない。息が止まる。意識のすべてが蒼の瞳に捕えられていた。それは、あのときと同じ感覚——。
レイチェルはやわらかく微笑んだ。
そのことで、彼の見えない拘束は解けた。気づかれないように小さく息をつく。
「お茶でも飲んでいかないか」
ふと、そんな言葉が自然と口をついて出た。昔のように——と続けようとしたが、それは声にせず呑み込んだ。理性は消えていなかった。
「ラウルが誘ってくれるなんてめずらしい」
彼女は嬉しそうに無邪気な笑顔を見せる。こういう表情は、子供のときとほとんど変わっていない。
「……でも、やっぱり帰るわ。ありがとう」
そう言って、もう一度、穏やかににっこり笑うと、背を向けて歩き出した。
「レイチェル」
ラウルは彼女の小さな背中に呼びかけた。
「おまえにまで迷惑をかけることになってしまって、すまない」
レイチェルは扉に手を掛け、静かに振り返る。
「もし、ほんの少しでもあなたを救う手助けになるのなら、私は嬉しいわ」
そして、包み込むように、優しく微笑んだ。
「その子がラウルの女神になってくれるといいわね」
その言葉を残し、レイチェルはそっと扉を閉めた。すりガラスの向こうの影が、揺れて流れた。
ラウルの瞳には、まだ彼女の残像が焼きついていた。
47. 彷徨う心
「どうせ治らないんでしょう」
ユールベルは床に視線を落とし、投げやりにそう言った。彼女はラウルに呼ばれ、医務室に来ていた。左目まわりの治療のためである。
「目は見えるようにはならないが、目のまわりの傷跡は、きちんと治療を続ければ、多少ましになるだろう」
ラウルは真新しい白い包帯を、彼女の左目から頭にぐるぐると巻きつけ、後頭部で手早く結んだ。そして、長く柔らかい金髪に、手ぐしを通して整えた。
「完全に治らないのなら、どっちでも同じことよ」
悲観的な発言をやめない彼女に、ラウルはもう何も言わなかった。椅子を回転させ、机に向かうとカルテを書き始めた。
「……あのひとたちは、どうしているの」
ユールベルは下を向き、ぽつりとつぶやいた。
「気になるのか」
ラウルは机に向かったまま、手を止めずに尋ねた。
「忘れたいから訊いているのよ。答えてくれないのなら別にいいわ」
ムッとしたように彼を睨み、それでも努めて冷静に答えた。
「ユリアたちは家に戻った」
ラウルは静かに口を開いた。ユールベルは目を伏せ、自嘲ぎみに薄笑いを浮かべた。
「仲良く三人で暮らしているってわけね。私の存在なんて、初めからなかったかのように……。想像がつくわ」
ラウルはペンを置くと、ギィと軋み音を立てて椅子を回し、再びユールベルに体を向けた。
「バルタスは、おまえには申しわけないことをしたと言っていた」
「しらじらしい言葉ね」
うつむいたまま小さくつぶやく。
「昔も今も、私ではなくユリアを選んだくせに」
顔にかかるウェーブを描いた髪、華奢な細い肩。ラウルはうなだれる彼女をじっと見下ろした。
「でも勘違いしないで」
ふいに早口でそう言うと、ユールベルは顔を上げ、ラウルと目を合わせた。
「ひとりになってほっとしているのよ。殴られることも、すべてを否定されることも、恐怖に怯えることもないもの」
無表情で淡々と言葉をつなぐ。
「でも……私がいらない人間であることに変わりはない。誰も私のことなんて選ばないのよ」
揺れる蒼い瞳、濡れた小さな唇を、まっすぐラウルに向ける。助けを求めるような、拒絶するような、矛盾した表情。彼はそれを正面から受け止めた。
「今はそうでも、今後はわからないだろう」
「下手な慰めだわ」
ユールベルはわずかに目を伏せた。
「事実を言っているだけだ」
ラウルは感情なく言った。
「あなたが私を選ばないというのも事実ね」
「そうだな」
それきり言葉が途切れ、沈黙が続いた。互いに向かい合って座っているが、顔を合わせてはいない。ユールベルはうつむき、ラウルはそれをじっと見下ろしている。ふたりはそのまま動こうとしない。長い静寂。木々のざわめきが遥か遠くに聞こえる。
ユールベルは膝の上でスカートの裾をきつく握りしめた。こぶしが小刻みに震える。
「……もっ、と……優しくしてくれてもいいじゃない!」
唐突に悲痛な叫び声をあげると、勢いよく立ち上がった。丸椅子がガシャンと大きな音を立てて倒れた。
それでもラウルは眉ひとつ動かさなかった。
「偽りの優しさに何の価値もない」
「偽りでも、何もないよりはましよ!」
ユールベルは泣きそうに眉をひそめながら、再び叫んだ。体の横でこぶしを作り震わせる。ラウルは冷たい目で彼女を見つめた。
「だったら他の奴に頼むんだな」
——パン!
ラウルのほほにユールベルの平手打ちがとんだ。じわりと赤味が差していく。それでも彼の表情は動かなかった。
ユールベルは顔を歪ませ、ラウルの足元に泣き崩れた。
「追い返されると思うぜ」
ジークは顔をしかめた。
「この前から一週間たってるじゃない」
アンジェリカは反論した。
「一週間じゃ“たまに”ってことにはならないと思うけど……」
リックは遠慮がちに口を挟んだ。
三人は並んで歩きながらラウルの医務室に向かっていた。アンジェリカの希望である。またラウルの娘に会いたいと言い出したのだ。あれから一週間しか経っていない。ジークとリックは気が進まなかったが、アンジェリカは言い出したらきかない。ふたりは仕方なく付き合うことにしたのだった。
「いいわよ。私ひとりで行くから。ふたりは帰って」
明らかに乗り気でないふたりを見て、アンジェリカはふてくされた。
「そういうわけにはいかねーんだよ」
ジークはたしなめるように、アンジェリカの頭を軽く小突いた。彼女は一瞬カッとなり彼を睨んだが、同時にその言葉の重みを理解し、押し黙ってしまった。
三人は無言のまま医務室の前まで来た。ジークはためらいなくガラガラと扉を引いた。が、半分のところで手を返し、そのまま扉を閉めてしまった。
「え?! 何?!」
後ろにいたアンジェリカは、何が起こったのかわからず、とまどいの声をあげた。大きな黒い瞳を瞬かせる。そして、彼の背中に手を置き、横顔を不安そうに見上げた。
「先客がいた。帰るぞ」
ジークはぶっきらぼうに、しかし、わずかに声をひそめてそう言った。
「先客ってだれ?」
アンジェリカが尋ねても、ジークは表情を固めたまま答えようとはしない。
「……なんか変よ、ジーク。何を隠しているの?」
「別に何も隠してねぇって! いいから帰るぞ。あしたまた来ればいいだろ」
扉の前に立ちはだかり、むきになって彼女を遠ざけようとする。そしてやはり自分の声の音量を気にしながら話している様子だった。明らかに彼の行動は不自然である。
「うそ! 絶対なにか隠しているわ! どうして?! 何なの?!」
アンジェリカは手を伸ばし、強引に扉に手を掛けようとした。だが、ジークに手首を掴まれ、阻まれた。彼女はキッときつく睨みつけた。彼はうつむいて下唇を噛んだ。
「アンジェリカ、今日は帰ろうよ。何も今日じゃなきゃダメってわけじゃないんだし」
リックはなんとか彼女をなだめようと、にっこり笑顔を作って、穏やかに説得を始めた。
ガラガラガラ——。
そのとき突然、内側から扉が開いた。
「別に気を遣ってくれなくてもいいのよ」
そこから姿を現したのはユールベルだった。泣きはらした右目、涙の跡、乱れた髪。三人は言葉を発することが出来なかった。
「もっとも、どっちに気を遣ったのかわからないけど」
そう言って、ジークに手首を掴まれたままのアンジェリカに視線を送った。彼女の鼓動は大きくドクンと打った。
「出ろ」
ユールベルの後ろに大きな影が現れた。ラウルである。彼は彼女の背中を押して外に出すと、彼自身も医務室から出た。ユールベルが睨んでいたが、構うことなくポケットから鍵を取り出した。
「何をしに来た」
扉に鍵をかけながら、後ろの三人に問いかける。
「ルナちゃんに会いに来たのよ」
アンジェリカは、ジークの手を振り切り、はっきりした声で答えた。しかし、ラウルは背を向けたまま、振り返ろうとしなかった。
「これから迎えに行くところだ。今日は帰れ」
にべもなく突き放す。そして、王宮の奥へと足を踏み出した。
ユールベルは去りゆく彼の袖を、すがるようにそっと掴んだ。しかし彼は冷淡に振り払うと、大きな足どりで遠ざかっていった。ユールベルはその後ろ姿を、目を細めながら見つめていた。
「もしかして、おまえ……」
ジークは彼女の横顔を見ながら、怪訝な表情で切り出した。
「ラウルのことが好きなのか?」
「冗談じゃないわ。どうしてあんな冷たい人を」
ユールベルは即座に否定した。
「私が好きなのは……」
ゆっくりとジークに振り向き、まだ涙の乾ききっていない瞳で彼を捉える。
「あなただけよ」
彼女は静かに言葉を落とした。ジークはその瞬間、体に痺れが走り、動くことも声を出すことも出来なかった。
「まだそんなことを言っているの? いったい何を企んでいるわけ?!」
アンジェリカはいらついた様子で食ってかかった。
「別にあなたに信じてもらえなくても構わないわ」
ユールベルは目を閉じ軽く受け流した。そして再びジークに目を向ける。
「ジーク、あなたにだけ信じてもらえれば」
まっすぐに向けられた、強くはかなげなまなざし。ジークには、何かを企んでいるようにはとても思えなかった。
「でも……」
ユールベルはうつむき、かぼそい声で続けた。
「あなたが私を選ばないことはわかっているわ」
「なに勝手に決めてんだよ」
ジークはとっさに言い返した。ユールベルはかすかに寂しげに笑ってみせた。
「少しは希望を持っていいってこと?」
そう言うと顔を上げ、再び彼を見つめた。しかし、彼は答えることが出来なかった。とまどい、逃げるように、視線をそらせる。
ユールベルは目を伏せると、無表情で足を踏み出した。ジークと腕が触れ合わんばかりの距離ですれ違う。彼女の髪がふわりと揺れ、甘い匂いが彼の鼻をくすぐった。
ジークははっとして振り返り、小さくなる彼女の後ろ姿を目で追った。
「ジーク、まさか本気にしているんじゃないでしょうね」
アンジェリカは眉をひそめてジークを覗き込んだ。しかし、彼は困惑したように目をそらせた。
「俺にはわからねぇよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、目を閉じ深くうつむいた。それからゆっくりと顔を上げると、じっとアンジェリカを見つめた。真剣な、不安そうな、思いつめたような、何か言いたげな表情。
「なに?」
アンジェリカは少し驚いたように、きょとんとして尋ねた。
「いや、何でもねぇ」
ジークはぼそりとつぶやくように言うと、ポケットに手を突っ込み歩き始めた。
ラウルは預けたルナを迎えに、アルティナの部屋に来ていた。王妃の部屋だけあって、落ち着きがあり格調高い内装だ。床には繊細な模様が織り込まれた厚みのある絨毯が全面にひかれ、壁や家具には細やかな装飾が施されている。中央には白い丸テーブルが置かれ、そのまわりには三脚の椅子が囲んでいた。どれもかなりの年代物ではあるが、しっかりと手入れは行き届いている。
「待ってて。いまお茶を入れるわ」
レイチェルはにっこり微笑んで、奥へ引っ込んだ。
ラウルはルナを抱きかかえ、白い椅子に座った。ルナはすやすやと無垢な顔で眠っている。彼はその表情をじっと見つめた。
レイチェルがトレイを持って戻ってきた。トレイの上にはティーポットとティーカップ三つが載せられていた。テーブルの中央にそれを置くと、ラウルの隣に腰を下ろした。
「偽りの優しさは必要だと思うか」
ラウルの突然の問いかけに、レイチェルは驚いて目をぱちくりさせた。しかし、すぐに元の穏やかで優しい表情に戻った。
「私は必要ないと思っているわ。そんなの悲しいだけだもの。でも、それでも必要としている人もいるのかもしれないわね」
ラウルの瞳を正面から見据えて答える。そして、さらに見透かすように、濃色の瞳の奥深くを探った。
「……ユールベル?」
その短い問いに、ラウルは何も答えなかった。しかし、それが答えに他ならない。
「あなたは医者としての役目は果たしているわ。じゅうぶんすぎるほどよ」
レイチェルはティーポットを手に取り、カップに注ぎ始めた。
「彼女のことを特別に想っていないのなら、これ以上深入りすべきではないんじゃないかしら。人の心はそう簡単に救えるものではない……あなたがいちばんよく知っているでしょう?」
そう言った彼女の顔に、ふいに影がさした。しかし、すぐにそれを掻き消すように笑顔を作ると、ティーカップのひとつをラウルに差し出した。彼は無言で受け取ると、その中の透きとおる紅い水に目を落とした。水面に映った自分の姿が細かに波打った。
「……私は感謝している」
静かだが、はっきりした声。レイチェルは目を大きく見開いて彼を見た。
「本当……? 信じていいの?」
ラウルは言葉の代わりに、まっすぐなまなざしを送った。レイチェルは胸に手を当て、ほっとしたように、にっこりと微笑んだ。
「お待たせー!」
明るい声を張り上げて、アルティナが入ってきた。
「楽しそうね。何の話?」
彼女は空いている椅子に腰かけて脚を組んだ。
「昔話よ」
レイチェルはにっこり笑うと、紅茶の入ったティーカップを差し出した。
「そっか。ラウルってレイチェルの家庭教師だったんだっけ」
アルティナは横目でラウルを見ながら、ティーカップを手にとり口をつけた。ラウルはアルティナを無視し、腕の中のルナに目を向けた。
「サイファの家庭教師をやっていたこともあるのよ、ね」
レイチェルはちょこんと首を傾けて、ラウルに笑いかけた。
「ああ」
ラウルは顔を上げると、無表情のままで返事をした。アルティナは興味津々で身を乗り出した。
「へぇー。それは初耳だわ。いったい何人の教え子がいるわけ?」
「ふたりだけだ」
「あとアカデミーの子たちね」
レイチェルはにっこり笑って付け加えた。
「いっそ本格的に転職しちゃえば?」
アルティナは机にひじをついて、いたずらっぽく白い歯を見せた。ラウルは少しムッとしたように、彼女を見下ろした。
「好きで教師をやっているわけではない」
「医者は好きでやっているの?」
「ああ。ここに来てからずっとだ」
ラウルがこんなふうに自分のことを語るのはめずらしい。どこか遠くを見やり、昔を思い返しているようにも見える。アルティナはほおづえをついたまま、ぐいと顔を突き出し、上目遣いでじとっと見つめた。
「噂じゃ、300年くらい前からここに居座ってるって聞いたけど?」
「だいたいそんなものだ」
ラウルにためらいはなかった。前を向いたまま、たいしたことではないかのようにさらりと答える。
アルティナはふいに真顔になった。
「……あなたは、どこから来たの?」
身を起こし、静かに言葉を落とす。しかし、今度は何も答えてはくれなかった。
「つらくはないの?」
彼女は質問を変えた。ラウルはわずかに視線を向けた。
「だって教え子や子供が自分より先に老けていって死んじゃうわけでしょ?」
彼の視線を捉えると、アルティナは急に勢いづいて語りかけた。
「仕方のないことだ」
ラウルはただ感情なくそう言った。レイチェルは寂しそうに微笑んだ。
「あなたより……その子の方がつらいのかもしれないわね」
彼女はラウルの腕の中で眠る赤ん坊に視線を落とした。そして、小さな彼女の小さな手をとり、そっと握手を交わした。
「それ以前に問題はいろいろあるわよ」
アルティナはあごに手をあて、難しい顔をした。そして、下からラウルを覗き込み、人さし指を突きつけた。
「親のことを訊かれたらどうするつもり?」
声を低めて問いかける。しかし、彼はまったく動じることはなかった。
「正直に答えるだけだ」
「おまえは捨てられていたんだ……って?」
「下手に隠しだてするよりはいいだろう」
ラウルは、もぞもぞと動き出したルナを抱え直し、額をなでた。
「まあ、そうだけど……」
アルティナは不安を顔いっぱいに広げると、ほおづえをつき口をとがらせた。
「あなた子供相手でも容赦なさそうだから心配なのよね」
「きっと大丈夫よ」
レイチェルはにっこり大きく微笑んだ。
「それでも今は愛されているんだって実感できるくらい、たくさん愛情を注いであげればね」
ガラス窓から差し込んだ斜陽が、人通りの少なくなった廊下を紅く染める。ユールベルはうつむいて、逃げるように早足で歩いていた。金の髪が紅の光に照らされ、歩調に合わせてきらきら煌めく。
カツーン、カツーン——。
正面から響く靴音。ユールベルはその音につられて顔を上げた。廊下の先には、小脇に本を抱えたレオナルドがいた。図書館帰りのようだ。彼の方も彼女の存在に気づいたが、ちらりと目をあわせただけで、特に気を留めるわけでもなく足を進めた。
しかし、ユールベルは彼に向かって一直線に駆けていくと、両手を伸ばして飛びついた。彼の首に腕をまわし、しがみつくように顔をうずめる。
レオナルドは突然の出来事に対処できず、棒立ちになったままだった。彼女の甘い匂いが嗅覚を刺激する。彼女のあたたかい吐息が首筋にかかる。そして、彼女の胸の柔らかさが、数枚の服を通して感じられる……。頭のてっぺんから背中にかけて、痺れが駆け抜けていった。
「私のことを、好きになって」
体を通して、彼女の震える声が伝わってきた。
「おまえのことは、よく知らない」
レオナルドは精一杯の理性を総動員し、冷静を装った。しかし、ユールベルはさらに腕に力を込めた。
「私もあなたのことはよく知らないわ」
静かに、無感情に、虚ろに、かぼそい声でつぶやく。レオナルドは、彼女の中に、限りなく深い闇を見たような気がした。
48. 幸せの虚像
「ジーク君!」
馴染みのない声が、後ろから彼を呼んだ。透き通った可愛らしい感じの声である。
並んで歩いていた三人はいっせいに振り返った。そこに立っていたいたのは、横だけ長めの黒髪ショートボブ風の少女だった。くりっとした黒い瞳をジークに向け、はつらつとした笑顔を見せている。アカデミーの生徒らしいが、クラスメイトではない。
「誰だ? なんで俺の名前……」
ジークは眉をひそめ、怪訝なまなざしを送った。アンジェリカが知らない人に声を掛けられることはよくあるが、ジークにはほとんどない。彼がいぶかしがるのも当然だった。
「あははっ。君、けっこうな有名人よ。行動派手だもん」
彼女は軽く笑い飛ばした。行動が派手ということには、ジークにもいろいろと心当たりはあった。入学早々ラウルに楯突いて腕を折ったり、VRMで気を失いかつぎこまれたり、ところ構わずアンジェリカと大声で言い合ったり、何かと目立つことは多かったかもしれない。しかし、まだ不信感は拭えない。
「で、おまえは誰なんだよ」
じとっと睨みながら、ぶっきらぼうに尋ねた。彼女はにっこりと笑った。
「君らの1コ上のターニャ=レンブラント。ユールベルのルームメイトよ」
三人の顔に緊張が走った。
「何の用……ですか?」
ジークの口調が変わった。ひとつ上の先輩と聞き、丁寧になった。しかしそれだけではない。明らかにこわばっている様子が見受けられた。
「あの子、ここ三日、寮に帰ってきてないのよ」
「えっ?」
アンジェリカは思わず聞き返した。ターニャは彼女に視線を移し、困ったように笑いながら肩をすくめた。
「アカデミーには来てるんだけどね。どこにいるのか、どうしてなのか、きいても何も答えてくれないの」
そこまで言うと、ふいに彼女の顔に影が落ちた。それでもためらいがちに言葉を続ける。
「ただ、あなたのせいじゃないの……って言うだけで」
わずかに目を伏せ、軽く数回まばたきをした。アンジェリカはその姿を無表情でじっと見つめていた。
「ラウルのところじゃねぇのか?」
ジークは隣のアンジェリカに向かって、同意を求めるように軽くそう言った。
「それはないんじゃない? ルナちゃんがいるんだし」
彼女はちらりと視線を返し、淡々と否定した。
「そうか、そうだよな」
ジークは引きつり笑いを浮かべると、焦ったように同意した。
「でも、じゃあ、どこだっていうんだ? あいつ他に行くあてなんて……」
「それを知りたいわけじゃないのよ」
ターニャが口をはさんだ。三人は驚いて彼女に顔を向けた。
「ただ帰ってきてほしいだけ」
小さく肩をすくめると、さびしそうに笑ってみせた。
「でね、ジーク君。キミにお願いしたいのよ」
急に元気な声になると、腰に手をあて少し前かがみになり、ジークを下から覗き込んだ。ジークは勢いに押され、わずかに身を引いた。
「ユールベルに帰ってきてくれるように頼んでくれないかな。キミの言うことならきくんじゃないかと思うから」
「……なんで俺なんだよ」
ジークはターニャから目をそらし、はっきりしない声でごにょごにょと口ごもった。彼女に向かってというよりも、ほとんどぼやきである。
しかし、彼女は意味ありげにニッと笑った。
「とぼけたって無駄よ、知ってるんだから。ユールベルがキミのこと好きだって。キミ自身も聞いてるはずよね」
「関係ない……ですよ」
ジークは顔をそらせたまま、ますます表情を暗くした。アンジェリカのことが気になったが、振り向くことはできなかった。
「そんな冷たいこと言わないの!」
ターニャは両手でジークの顔をはさみ、強引に自分の方へ向けた。軽く口をとがらせ、わざと怒ったような顔を作ると、まっすぐ彼の目を見つめた。
「いいでしょ、そのくらい。お願いね!」
言い終わると同時にパチンと彼の両頬を叩くと、にっこりと笑いかけた。ジークは突然のことに、ただ驚いて呆然とするだけだった。鼓動の高鳴りはまだ鎮まらない。
「じゃね」
ターニャが踵を返そうとしたところで、ジークはようやく口を開いた。
「どうしてそんなに一生懸命なんですか?」
ターニャは黒い瞳をくりっとさせて、不思議そうに彼を見た。
「だって仲間だもん。それ以上の理由が必要?」
立ち去るターニャの後ろ姿を見送りながら、三人は廊下に立ち尽くしていた。
「ジーク、どうするつもり?」
アンジェリカは冷静な口調で尋ねた。
「どうって言われてもなぁ……」
考えあぐねた苦い顔で腕を組み、そっとアンジェリカを盗み見た。彼女は心情の読めない表情で、廊下の先を見つめていた。
「……どうしたらいいと思う?」
ジークは恐る恐る、だがそれを悟られないように尋ねた。
「私にきかれても……」
アンジェリカは少しとまどったように口ごもった。
「いいんじゃないの? 言うだけ言ってみれば」
リックは軽い調子でさらりと言った。ジークは不満そうな目つきを彼に流しながら、ため息をついた。
「まぁ気が重いけど仕方ないか」
「じゃあ、これから会いに行く?」
「いや、そのうちどこかでばったり会うだろ」
「やる気ないね」
リックは苦笑いした。
「でもどうしてユールベルは家を出ていっちゃったんだろう。何かあったのかな」
「さっきの彼女のせい……かも」
アンジェリカはぽつりぽつりとつぶやいた。
「え? いい人そうに見えたけど」
「そうじゃなくて」
そう言ったあと、顔を曇らせて一瞬ためらいを見せた。だが、すぐに気を取り直し、冷静に言葉をつなげた。
「ほら、黒い髪に黒い瞳だったでしょう。私と同じで」
感情を表に出さず、何も気にしていないかのように装う。そんな彼女を見て、ジークは胸が締めつけられた。
「バーカ、考えすぎだっ」
つっかえを吹き飛ばすように声を張り上げると、アンジェリカの頭をコツンと軽く小突いた。
カツン、カツン——。
ひときわ耳につく靴音につられ、三人は顔を上げ前方を見やった。その靴音の持ち主はレオナルドだった。そして、彼の隣にはユールベルがいた。彼女はすがるように彼の袖をつかみ、一緒に歩いている。
三人は一様にぽかんとして彼らを見た。向こうもこちらに気づいたらしい。レオナルドは冷たい視線を送りながら、そのまままっすぐ歩き続ける。
「さっそくばったり会っちゃったね」
リックはなんとか平静を取り戻した。
「ていうかよ……」
ジークはレオナルドを睨みつけた。レオナルドはジークの前まで来ると足を止めた。彼もジークを睨みつけている。リックとアンジェリカは不安そうにふたりを見守っていた。
「めずらしい取り合わせだな。テメー、ユールベルのことはよく知らないとか言ってなかったか?」
ジークは腕を組みあごを上げ、ふてぶてしい態度で疑念を突きつけた。レオナルドは小馬鹿にしたように、鼻先でせせら笑った。
「知らなかったさ。三日前まではな」
ジークははっとした。三日という言葉で、ふたつの事柄がつながった。眉をしかめ、信じたくないという顔で、ユールベルに視線を移す。
「……まさか、コイツのところにいるのか?」
彼女は無反応で、ただ彼を静かに見つめるだけだった。
「おまえには関係のないことだ」
レオナルドはユールベルの肩を引き寄せ、反対の手でジークを払いのけようとした。
「待てよ」
ジークはその手首を素早くつかむと、ギリギリときつく力をこめた。
「どういうことだ。何を考えてる。説明しろ」
レオナルドは顔をしかめながら、ジークの手を振りほどいた。彼の手首には指の形が白くくっきりと残っていた。ムッとして不機嫌をあらわにし、冷たく一瞥した。
「みっともないな。嫉妬か?」
「そんなんじゃねぇよ」
ジークは少しむきになって否定した。そして、レオナルドにかばわれるようにして身を寄せているユールベルに目を移した。真剣な表情で語りかける。
「ユールベル、なんとかいう寮の先輩が心配してたぞ」
「ターニャさんだよ」
リックは間髪入れずに補足した。ジークはユールベルに向かったまま話を続けた。
「帰れよ。こんなヤツのところにいたってロクなことにならねぇ。自棄になんな」
真摯で静かな説得。それでもユールベルは眉ひとつ動かさない。ただじっと視線を返すだけだった。
「何も知らないくせに、いいかげんなことを言うな」
レオナルドはユールベルを背中に隠し、ジークを鋭く睨みつけた。ジークもカチンときて睨み返した。
「テメーこそユールベルの何を知ってるってんだ」
それを聞くと、レオナルドはうつむいて目を閉じ、ふっと小さく笑った。
「おまえよりは知っているかもな」
彼の余裕の態度と意味ありげな言い方が、ジークを不快にさせた。しかし、それ以上の深い追求の言葉は、なぜか出てこなかった。ただ苦い顔を見せることしかできない。
レオナルドは再び顔を上げた。まっすぐジークの目を見つめ、小さく口を開く。
「ふたりだけで話をしたい」
思いもかけない言葉に、一瞬ジークは目を見開いた。しかし、すぐにニッと口端を上げ、挑むように不敵に笑いかけた。
「いいぜ。テメェとは一度じっくり話をつけたかったんだ」
「ちょ……ジーク!!」
アンジェリカは慌てふためいた。ジークの背に軽く握った手をのせ、後ろから見上げる。それでも彼は振り返らない。真剣な表情で何かを考えている。
「リック、アンジェリカを送ってやれ。家までだぞ」
ジークは静かな低い声で、背後のリックに告げた。
「うん、わかった」
リックは身を引き締めて答えた。しかし、アンジェリカがそんなことを素直にきくはずがない。
「勝手に決めないでよ!」
甲高い声をあげ、ジークの正面にまわり込んだ。
「私も行くわよ」
強気な瞳を彼に向ける。しかし、彼も少しも引かない。
「それじゃ意味ねぇだろ! これは俺とヤツとの問題なんだ」
ジークは親指でレオナルドを指さした。
そのレオナルドは、ジークに背を見せ、ユールベルと向き合っていた。彼女の頬を手で包み込み、何かを耳打ちする。そして、無表情の彼女の口元に、自分の唇を軽く重ねた。
三人は唖然として言葉を失った。
レオナルドはユールベルから離れ、ジークに向き直るとあごで彼を促した。ジークはその横柄な態度にムッとして舌打ちした。互いに嫌な顔を作りながら、ふたりは連れ立ってどこかへ歩いていった。
リックは、いまだ呆然としているアンジェリカの肩にポンと手を置いた。彼女はようやく我にかえった。
「で、あなたは何を企んでいるわけ?」
アンジェリカはユールベルに振り向くと、腕を組み強気な態度で挑んだ。ユールベルはまだジークたちの消えていった方を眺めていた。
「ジークが駄目だとわかると、今度はレオナルドに好きだとか言って味方につけた。それで、どうするつもり?」
問いつめるように語気を強める。額に冷たい汗がにじむ。
「アンジェリカ、帰ろう」
リックは焦ったように口をはさんだ。しかし、アンジェリカは彼を無視し、彼女の答えを待った。
ユールベルは右目を細め、ゆっくりとアンジェリカに振り向いた。
「言ってないわよ。レオナルドに好きだなんて」
「えっ……」
アンジェリカは小さく声をもらす。
「私が好きなのはジークだけ。何度も言わせないで」
透き通った蒼い瞳をアンジェリカに向け、淡々とそう言った。無表情で何を考えているのかわからないが、少なくとも嘘を言っているようには聞こえなかった。アンジェリカは何も返すことができず、黙り込んでしまった。
沈黙が続く。
アンジェリカがこらえきれず目を伏せると、それを契機にしてユールベルは歩き去っていった。
「帰ろうよ、アンジェリカ」
リックは後ろから声をかけた。あたたかく包み込むような声。アンジェリカはこくんと頷いた。
「なんだか何もかもよくわからなくなってきたわ」
アンジェリカはオレンジがかった空を仰いで、口をとがらせた。冷たくなってきた空気が頬を撫で、黒い髪をさらさらと流す。家まではまだ遠い。
「何もかもって?」
並んで歩いていたリックが、彼女に目を移しながら尋ねた。
「ユールベルのことも、レオナルドのことも、自分のことも、よ」
「自分?」
アンジェリカはうつむき顔を曇らせた。
「ユールベルと仲良くしたいと思っていたわ。昔のように、また笑いあえたらって」
ふっと小さくため息をつく。
「でも実際彼女を目の前にすると、なんだか頭にきてばかり」
リックを見上げ、寂しそうに笑うと肩をすくめた。リックはそんな彼女を見て、ふいに表情を和らげた。
「仕方ないよ。彼女、ジークのこと好きだとか言ってるしね」
「……? どういうこと?」
アンジェリカはきょとんとして目をぱちくりさせた。リックはその反応に驚いた。それと同時に、どうやら自分は口を滑らせてしまったらしいことに気がついた。
「え……と、うーんと、なんて言ったらいいのかな」
あたふたしながら、どうやって取り繕おうかと言葉を探す。しかし、アンジェリカはそんなリックに構うことなく、さっさと話題を変えた。
「でも、ユールベルが言っている好きって、何か少し違う気がするの。リックはどう思う?」
「難しいことを訊くね」
リックは答えに困って、ごまかし笑いをした。アンジェリカは再び空を仰いだ。
「好きとか嫌いって、いちばん単純でわかりやすい感情だと思っていたのに……」
リックはそんな彼女を優しく見守るように、にっこりと笑顔を浮かべた。
「そうだね。単純だから奥が深いのかもしれないね」
「おい、どこまで行く気だ」
ジークはむすっとして言った。もうアカデミーを出てから 30分近く歩き続けている。しかも、彼の家とは正反対の来たこともない道だ。紅く染まった空を、藍色の闇が侵食していく。不安と不満が募る。
「誰にも聞かれないところだ。もう歩き疲れたのか?」
レオナルドは嫌味たらしくニヤリと笑った。ジークは一瞬カッと頭に血がのぼったが、なんとか自制し、掴みかかろうとする衝動を抑えた。
「やわなおぼっちゃんと一緒にすんな」
うつむいて小石を蹴り、吐き捨てるように言った。
やがて視界の開けたT字路に差しかかった。ところどころ薄汚れた白いガードパイプが、道にそって長く続いている。レオナルドはその切れ目から幅の狭い石段を通り、下へ降りて行った。ジークも後に続いた。急に視界が白くなり、まぶしさに目を細める。そこにはさらさらと音を立てる清流と、白い川原が広がっていた。歩きながらあたりを見回す。片側は川、片側は土手、あとは川原が広がるのみ。確かにここなら誰かが近づいて来れば、砂利を踏みしめる音ですぐにわかるだろう。ジークは悔しいが納得した。
レオナルドは川原の真ん中まで来ると立ち止まった。ジークもその後ろで足を止めた。ふたりの影は土手近くまで長く伸びている。
「さて……」
レオナルドは腰に手をあてうつむくと、面倒くさそうにゆっくり振り返った。ジークは体中に緊張を走らせ、小さく身構えた。
「困ったことに、ユールベルはおまえのことが好きらしい」
「は??」
思いきり対決する気になっていたジークは、肩すかしを喰らわされたように感じた。
「こんなバカでがさつで品性のかけらもない奴のどこがいいのか、まるで理解できないがな」
「んだと?!」
レオナルドが冷たい顔で淡々と畳みかけると、ジークはカッとして声を荒げた。しかしすぐにはっとして眉をひそめた。
「って、ちょっと待て。じゃあ、おまえとユールベルの関係はなんなんだ」
「さあな。何なんだろうな」
レオナルドはズボンのポケットに手を突っ込み、深くうつむくと、足元の小石を蹴りつけた。とぼけているのか、本心なのか、ジークには判断がつかなかった。ただ、まだ聞かなければならないことはある。キッと顔を引き締めた。
「おまえら、三日前まではほとんど面識もなかったとか言ってたな。それが……」
レオナルドの瞳の奥を探るように、じっと鋭く睨めつける。
「この三日間に何があった。何を企んでやがる」
声を低めて問いつめた。レオナルドは冷たく睨み返した。
「おまえは消えろ」
答えの代わりに、唐突の命令。
「な……に?!」
「二度とユールベルの前に現れるな。おまえのことを忘れない限り、あいつは幸せにはなれない」
ふたりの間を冷たい風が通り抜けた。互いに目をそらそうとはしない。レオナルドはさらに付け加えた。
「あいつは俺が救ってやる」
どこか思いつめたような言葉。いつものような刺々しさはない。ジークには、それが嘘や出任せだとは思えなかった。
「俺だって、会うつもりなんかねぇよ。仕方ねぇだろ。同じアカデミーに通ってんだぜ」
困ったように眉をひそめる。いつものように喧嘩腰で突っかかる気にはなれなかった。だが、レオナルドには歩み寄るつもりはなかった。
「ならアカデミーを辞めろ」
ひどく短絡的に命令する。ジークは途端にいきり立った。
「テメー勝手なこと言ってんじゃねぇ! そっちこそ辞めろ!」
「おまえのせいで辞めるなんて、まっぴらだ」
「言い出したのはそっちだろ!」
わがままに噛み合わない受け答えをするレオナルドに、ジークはますます憤激して大声をあげた。
互いに、熱く冷たく睨み合う。
やがてジークは目を伏せ、ふうっとわざとらしくため息をついた。それから再び顔を上げると、厳しい視線を突きつける。
「ユールベルが好きなら、テメー自身でなんとかするんだな。勝ち目がねぇからって、俺に消えろだなんて、甘ったれんな」
レオナルドは絶句した。歯をぎりぎりと軋ませ、悔しそうにジークを睨みつける。そして、低く唸るように言った。
「……おまえは首を突っ込みすぎなんだよ。ラグランジェ家にな」
ジークは少し驚いたように目を見開いた。
「アンジェリカのことも、ユールベルのことも、俺たち一族の問題だ。よそ者が関わるべきことじゃない」
抑えきれない嫌悪感と激しい拒絶を表情で示す。ジークは腕を組み、冷たく睨み返しながら、小さく息をついた。
「別に首を突っ込むつもりはなかったぜ。結果的にそうなっちまっただけだ」
「どうせあいつがペラペラしゃべったんだろう」
レオナルドは顔をしかめて、吐き捨てるように言った。ジークは目を瞬かせた。
「あいつ?」
「能天気なご当主サマさ」
いらつきを隠さず、蔑むように言った。
「……サイファさんのことか?」
「あいつには当主としての自覚がない。ラグランジェ家内部のことを軽々しく部外者に口外して、それがどれほど危険なことか考えもしない」
ズボンのポケットに手を突っ込み、ジークに背を向けると、川原の小石を蹴り飛ばした。いくつか飛び散ったうちのひとつが小さく弧を描き、ぽとんと清流に飛び込む。乱された水面は、すぐに緩やかな流れに呑み込まれた。
「ラグランジェ家が、名門としてこれだけ長く続いてきたのは、なぜだかわかるか」
川面を見つめながら、ジークに問いかける。ジークには答えがわからなかった。口を結び、ただ沈黙を返す。レオナルドは顔半分だけ振り返り、鋭い視線を流した。
「保守的で閉鎖的だったからだ」
ジークの背筋に冷たいものが走った。
「家の不祥事は内々で処理する。決して部外者には口外しない。それが厳格なルール。それをあいつは……」
のどから絞り出すような声でそこまで言うと、言葉を詰まらせた。柔らかな金髪が、風を受け緩やかに波打つ。
ジークは額に汗をにじませ、レオナルドの後ろ姿をじっと見据えた。
「俺にはサイファさんの方が、よっぽど正しく思えるぜ」
レオナルドは鼻先で笑った。
「正しいか正しくないかなんて意味がないさ。家を守ることがすべてなんだからな」
ジークは眉をひそめた。その言葉に対する嫌悪感、レオナルドに対する不快感、得体の知れない恐怖感がわき上がる。
「サイファさんが守りたいのは、家じゃなくて、家族なんだろ」
「笑わせるな! その家族を不幸にしたのは、あいつ自身なんだぞ!!」
突如、大声をあげると、感情まかせにジークに振り返った。その瞳には、激しい怒りが宿っていた。ジークは目を見張り、絶句した。
「アンジェリカが呪われた子と言われているのも、あいつが……」
レオナルドはそこまで言って口をつぐんだ。ふいに目をそむける。
「な……に? なんだオイ!」
ジークは彼に詰め寄った。
「しゃべりすぎたな」
レオナルドはそう言って再び背を向けようとしたが、ジークがそれを許さなかった。胸ぐらに掴みかかり、乱暴に引き寄せる。
「最後まで言えよ! 力づくでも吐かせるぞ!」
さらにじりじりと顔を近づけていく。そして、右のこぶしを彼の視界にねじ込んだ。
「おまえにはこぶしでも魔導でも、負ける気がしねぇぜ」
しかしレオナルドは平然としていた。胸ぐらをつかまれたまま冷笑する。
「やれるものならやってみろ。この暴力野郎」
「……くっ」
ジークは奥歯を軋ませながら、やり場のないこぶしを震わせた。
「くそっ!!」
空に向かい叫び声をあげると、レオナルドを川に突き飛ばした。彼はバランスを崩し、背中から浅瀬に倒れ込んだ。その体の上をせせらぎが走り、あっというまに全身ずぶ濡れになった。水は身を切るように冷たい。顔をしかめながら、川底に手をつき、重々しく上体を起こした。柔らかくカールした髪から水滴が滴り落ちる。ゆっくりと顔を上げると、ジークを睨み上げた。
ジークは不機嫌な顔で睨み返した。そして、小さく舌打ちすると、背を向け歩き出した。
「バカが、一生ひとりで悩んでろ!!」
レオナルドは去りゆく後ろ姿に言葉を吐き捨てた。
ジークは重い足どりで石段をのぼっていった。ふいに気配を感じ、顔を上げると、上の道路にユールベルの姿を見つけた。なぜ彼女がここに……。ジークは一瞬どまどったが、レオナルドが彼女に何かを耳打ちしていたことを思い出した。どういうつもりかはわからないが、おそらくあのときに行き先を告げたのだろう。
彼女はためらうことなくトントンと細い石段を降りてきた。ふたりは向かい合い、足を止めた。
「レオナルドのところに行くのか? ……やめろよ」
複雑な表情で、疲れたように力なく言った。ユールベルは無表情でジークを見下ろした。
「そう思うのなら止めて」
「止めてるじゃねぇか」
「行動で示して」
まっすぐジークを見つめる。彼女が何を望んでいるのか、だいたいの察しはついた。
「悪い……」
ジークは逃げるように目をそらした。
ユールベルはそれ以上、何も言わなかった。狭い石段で、腕をぶつけながらすれ違うと、小走りで駆け降りていった。頭の後ろで結ばれた白い包帯を揺らしながら、岸に上がろうとしたレオナルドに走り寄っていく。ザプザプと靴のまま、水際に踏み入れる。
「濡れるぞ」
「そういう気分よ」
ユールベルはレオナルドの首に腕をまわし、すがるように抱きついた。レオナルドから滴る水とびしょ濡れの服が、彼女をじわりと濡らす。彼女の体温が、冷えた彼の体に安堵をもたらす。レオナルドは彼女の背中に手をまわし、その手に力を込めた。
49. 光と闇
「今回こそは、絶対に勝てると思ったのによ」
ジークは張り出された成績を覗き込み、納得のいかない面持ちで口をとがらせた。リックとアンジェリカは顔を見合わせ、互いに肩をすくめて笑った。
「何度見たって結果は変わらないって」
「そうよ。朝もあれだけしつこく見てたじゃない」
「わかってるよ!」
ふたりから逃れるように背を向けると、ジーンズのポケットに手を突っ込み歩き出した。ふたりも小走りでジークについていった。柔らかな日の射す廊下を、三人は並んで歩く。今日はテスト結果の発表のみで授業はない。まだ昼前だが、すでに帰った生徒も多く、人影はまばらである。
「だいたいおまえ、一ヶ月もアカデミー休んだくせに、なんであんな点とれんだよ」
ジークは半ば呆れたような口ぶりでそう言った。
「もちろん、頑張ったからよ。ジークに負けるわけにはいかないし」
アンジェリカは彼を見上げてにっこりと笑いかけた。ジークは慌てて目をそらせた。
「おっ……俺だって、まだあきらめたわけじゃねぇぞ! 卒業までには、おまえに勝ってやるからな!」
耳のあたりを赤らめながら、こぶしを握りしめ、早口でまくし立てた。
「うん」
アンジェリカは再びにっこりと笑いかけた。
三人は食堂まで来ると、カウンターで飲み物を買い、窓際のテーブルに席を取った。広い食堂内はがらんとしていた。ジークたちの他には数組いるだけである。聞こえるのは遠くのかすかな話し声と、木々のざわめきくらいだった。
「あしたから長期休暇だな」
ジークはほおづえをつき、窓の外に目をやった。青葉の深い緑が、風に揺れながら光を受け、きらきらと輝いている。
「ふたりとも、今年もまた働くの?」
アンジェリカはジークの視線を追いかけながら尋ねた。
「あっ、そうだ……」
ジークは鞄を開け、中をかきまわしながら何かを探し始めた。
「あった、これ」
そう言って、しわだらけのチラシを机の上に置いた。白い紙に黒い文字が打たれただけの、そっけないものである。アンジェリカとリックは顔を近づけて覗き込んだ。
「俺、ここに採用されたんだ。時給いいんだぜ」
ジークは嬉しそうに白い歯を見せてニッと笑った。
「王立魔導科学技術研究所……? ああ、魔導を科学的に解明しようとしているところね!」
アンジェリカはぱっと顔を上げた。しかし、リックはまだチラシを目で追っていた。小さく書かれた文字を指さす。
「この仕事内容、必要データの提供……って何?」
アンジェリカも指で示された部分に目を落とした。
「要はモルモットってこと?」
「い、嫌な言い方すんなよ」
ジークは顔を引きつらせながら苦笑いした。
「でも、面白そうなところよね」
アンジェリカはめずらしくはっきりと興味を示した。リックはコーヒーを飲みながら、少し驚いたように彼女を見た。
「だろ? 普通に入ろうとしても、入れてもらえねぇからな。アルバイトついでに、いろいろ見学してこようって魂胆だ」
ジークはわくわくした様子で、子供のように無邪気に笑った。
「……私も、行こうかな」
アンジェリカは目を伏せ、ほほをほんのり赤らめながら、ためらいがちに言った。ジークは目をぱちくりさせながら彼女を見た。
「もう遅ぇぜ。応募期間は過ぎてるし、募集はひとりだし。ま、どっちにしろ、おまえは年齢制限で引っかかるけどな」
淡々とそう言うと、ジークはチラシの下の方を指さした。アンジェリカとリックは同時に覗き込んだ。そこにははっきり「18〜22歳」と書かれていた。アンジェリカは口をとがらせ、ほほをふくらませた。ジークに振り向いたリックも、なぜか怒ったような顔をしている。
「ジーク、ちょっとひどくない? アルバイトのこと、何も言ってくれないなんて」
「悪かったよ」
ジークは少し体を引くと、バツが悪そうに笑った。そして、少し恥ずかしそうに目をそらし、声のトーンを落として続けた。
「前もって言って、落とされたらみっともねぇだろ」
ふたりは呆れ顔をジークに向けた。
「でも残念だよ。今年もジークとショーをやるのを楽しみにしてたのに」
「俺はほっとしてるぜ。おまえと違って好きでやってたわけじゃねぇし。あんな恥ずかしい、なんとかレンジャーなんてよ」
ジークは去年のことを思い出し、苦い顔をした。
「冷たいなぁ」
本気で落胆しているリックを見て、アンジェリカはくすりと笑った。
「まあ、今年はひとりで頑張れよな。俺は俺でバリバリ働くからよ」
ジークはリックの背中をポンと叩いた。リックはため息をついて、コーヒーを口に運んだ。
「ねぇ、二ヶ月間ずっと働くつもりなの?」
「ん? ああ。休日はあるけどな」
「そう……」
アンジェリカは下を向き、ティーカップを両手でとった。そして、緩やかに揺れる琥珀色の水面をじっと見つめた。
「少し、寂しいわね」
ジークははっとして彼女を見た。それから慌てたようにうつむくと、ブラックのコーヒーをスプーンでかきまぜ始めた。
「と、ときどきは連絡するから、よ」
「うん」
アンジェリカは顔を上げ、にっこりと笑った。そしてふいに何かを思いついた様子で、ティーカップを机に置くと身を乗り出した。
「ねぇ。今年も誕生パーティやるんだけど、来てくれるわよね? 休暇中になっちゃうんだけど、ふたりの都合のいい日に合わせるから」
長期休暇の時期は学年によって異なる。昨年は休暇後だったが、今年は休暇中にあたるのだ。
「うん、もちろん!」
リックは即答した。しかしジークは暗い顔でうつむいていた。彼はレオナルドの言葉を思い出していた。家族を不幸にしたのはサイファ自身だと……。レオナルドを信用しているわけではない。だが、気になるのも事実だ。心のどこかでサイファを疑っている自分がいる。アンジェリカの家に行けば、当然、彼と顔をあわすことになるだろう。普通に振る舞えるのだろうか。
「……嫌なの? プレゼントとかはいいから、来てくれるだけでいいんだけど……」
アンジェリカはだんだんと声を小さくしながらそう言うと、不安を顔いっぱいに広げた。ジークはその声で我にかえった。慌てて返事をする。
「行く、行くぜ、もちろん。悪い、考えごとしてた」
彼女を安心させるようににっと笑顔を作って見せた。ややぎこちなかったが、それでもアンジェリカはほっとしたように表情を和らげた。
「そういや、今年も呼ぶつもりか? アイツ……」
「あいつって、レイラさん?」
ジークはけわしい表情でうなずいた。
「もちろんよ。お見舞いに来てもらったお礼もちゃんとしたいし」
嬉しそうに弾んだ声で答えた。反対に、ジークはますます沈んでいった。レイラは自分勝手で自己中心的で、おまけに非常識だ。しかし問題はそれだけではない。息子、つまりジークの恥ずかしい過去をたっぷり握っているのである。そのうえ彼をからかって楽しむという悪趣味だ。リックはまだしも、アンジェリカと会わすことはなるべく避けたい。だからといって、呼びたがっているのにやめろとは言えない。ジークは無理だと思いつつも、何事もないよう祈るしかなかった。
「そうだ、ラウルにも声を掛けなきゃ」
アンジェリカは軽く言った。
「なっ……! 呼ぶつもりか?!」
ジークは思わず声を張り上げた。目を見開き、口を開けっ放しにして、彼女を見つめる。
「たぶん来てくれないけど、一応ね。去年も断られちゃったし」
アンジェリカは冷静に答えると、ティーカップを手にとり、だいぶぬるくなった紅茶を一気に飲み干した。
「今から行ってくるわね、ラウルのところ」
にっこり笑って立ち上がり、空のティーカップを持って返却口に向かった。
「待てよ、オイ!」
ジークとリックは慌てて残りのコーヒーをあおり、彼女のあとを追った。
「ジーク、どうするの? 万が一、ラウルが来ることになったら」
リックは、前を行くアンジェリカを気にしながら、声をひそめて尋ねた。ジークは顔をしかめて頭をかいた。
「だからって、行かねぇわけにはいかないだろ」
「よかった」
リックはにっこりと笑った。
「レオナルド、おまえは外で待っていろ」
ラウルは戸棚から包帯を取り出しながら、窓際で腕を組んでいるレオナルドに命令した。
「いいのよ、彼は」
丸椅子に座ってラウルを待ちながら、ユールベルは感情なく言った。ラウルはそれ以上、何も言わなかった。新しい包帯と薬瓶を手に取ると、ユールベルの前に腰を下ろした。彼女の頭の後ろに手を伸ばし、左目を覆っている包帯をほどきにかかる。
レオナルドは窓枠に手をつき、外に顔を向けた。樹々の深緑が風に揺れ、ざわざわと複雑な音を掻き鳴らす。
「今、レオナルドのところにいるのか」
「そうよ」
ラウルはユールベルの包帯を取り外し、彼女の見えない目をあらわにすると、そのまわりの消毒を始めた。オキシドールの匂いがあたりに広がる。彼女はそのくらくらするような匂いが好きだった。無意識に深く吸い込む。胸を少し上下させただけで、背筋はピンと伸ばし、前を向いたまま微動だにしない。ラウルは新しい包帯を手に取ると、彼女に巻きつけ始めた。
「寮を引き払え。入寮待ちの生徒は山ほどいる。おまえが一ヶ月で入れたのは、サイファが裏で手をまわしたからだ」
それを言い終わると同時に、包帯の方も結び終わった。彼女の髪に手ぐしを通し、軽く整える。ユールベルは目を細めてじっと彼の瞳を見つめたが、彼はそれに応じることなく片づけを始めた。
「どうしてあなたはいつも、そんなに冷たいことしか言えないの?」
「だったらひとつ忠告しておく。レオナルドはやめておけ」
ラウルは手を止めず、淡々となんの感情も見せずに言った。レオナルドは驚いて振り向き、彼の背中を睨みつけた。
「どういう意味だ」
「おまえには荷が重すぎる。ユールベルを受け止めるだけの器ではないということだ」
ラウルは背を向けたまま、冷たく言い放った。
「そう言うのなら、あなたが私を受け止めてよ」
レオナルドが答えるより早く、ユールベルは抑揚のない声でそう言った。レオナルドは目を見開いて彼女を見た。彼の表情にははっきりと動揺の色がにじんでいた。そんな彼の様子を気にかけることもせず、ユールベルはラウルの膝に横向きに座り、彼の首に手をまわした。
「受け止めて、くれる……?」
じっと目を見合わせると、彼と唇と軽く重ね合わせる。それから彼の耳に口づけし、吐息とともに何かをささやいた。ラウルはまったく表情を動かさない。ユールベルは再び彼の瞳を見つめると、今度は深く長い口づけをした。互いが触れ合うかすかな音だけが静かに流れる。やがてゆっくりと顔を離すと、彼の広い胸にそっと身を預け、彼の肩ごしにレオナルドを冷たく一瞥した。
レオナルドはようやく我にかえった。目の前で起きていることは夢ではない。現実だ。
「やめろ!!」
ふたりに駆け寄ると、乱暴に引き離した。ユールベルはよろけて床に倒れこんだ。
「なぜだ……どうしてなんだ!!」
体をこわばらせ両こぶしを握りしめ、大声で叫ぶと彼女に振り返った。彼女は倒れこんだままの姿勢で、床を見つめていた。
「俺よりもラウルの方がましということか? それとも、俺を試しているのか?」
レオナルドは喉の奥で息を詰まらせたように、不安定に震えた声で問いつめた。ユールベルははっとして顔を上げかけたが途中でやめ、逆にさらに深くうなだれた。緩やかなウェーブを描いた長い髪が床に落ちる。
「やっぱり、私、だめみたい」
ぽつりぽつりと短い言葉をつなぐ。レオナルドは怪訝な表情を浮かべた。
「あのひとの言うように、どうしようもない人間だわ」
彼女は吐き捨てるようにそう言うと、床についた手をぎゅっと強く握りしめた。そのこぶしも肩も、小刻みに震えている。
「違う! そんなことは……」
レオナルドは慌てて否定した。しかし、彼女はより大きく肩を震わせた。
「もう、見放していいわよ、私なんか……」
隠そうとしても隠しきれない涙声。レオナルドはうつむき顔をしかめた。
「……見放してほしいのか?」
苦しそうにそう尋ねると、ユールベルは小さな声ですすり泣き始めた。静かな医務室の中、彼女の嗚咽のみが響く。レオナルドは何かをこらえるようにきつく目を閉じていたが、やがて決意を固めたように、ゆっくりと目を開いた。そして彼女の体を起こし、ぎゅっと強く抱きしめた。
「たとえどんなに拒絶されたとしても、俺はあきらめない。やっと見つけたんだ。あきらめてたまるか!」
震える彼女を抱き上げて立たせると、向かい合ってしっかりと手をつないだ。そして、もう一方の手で、彼女の頭を自分の肩に引き寄せた。
「見てろ、ラウル。おまえが間違っていたことを、いつか証明してやる」
ラウルを睨みつけ、低く静かにそう言った。そして、ユールベルの手を引き、戸口へ足を進めた。
レオナルドが扉を開けると、そこに黒髪の少女が立っていた。
「あなた……」
ユールベルは驚き、まだ涙が乾ききっていない右目を大きく見開いた。その少女はユールベルのルームメイト、ターニャだった。泣きそうな、怯えたような顔をしている。何か言いたそうに口を開けるが、言葉が出てこない。代わりにユールベルが端的な一言を突きつける。
「つけてきたのね」
図星をつかれたターニャはますます言葉をなくした。逃げるようにうつむき、目を閉じまぶたを震わせた。
レオナルドはユールベルの手を引き、戸口をまたいで廊下に出ると、後ろ手で扉を閉めた。もうラウルと面倒な話はしたくない。彼が出しゃばってこないことを祈った。
「聞いてたんでしょう」
ユールベルは返事を待たずに、さらに冷たく尋ねた。
「……ぬ、盗み聞きなんてするつもりじゃなかった……けど……ごめんなさい、悪かったわ」
ターニャはこわばった顔で、無理やり笑顔を作った。しかしユールベルはそれを受け入れなかった。突き放すような冷たい瞳を向ける。
「もう私には構わないで」
「私は、あなたが心配で……!」
「放っておいて! あなたもわかったでしょう、私がどんな人間か。もう構わないで!!」
ユールベルはむきになって言い返した。こんな感情的な彼女を見たのは、ターニャは初めてだった。しかし、それに驚いている場合ではない。
「あんなの聞いたら放っておけるわけないじゃない!!」
ターニャも負けずに言い返した。そして、ユールベルにまっすぐな黒い瞳を向け、悲しげに顔を歪ませた。
「どうして……? どうしてそんなに自分を傷つけるの? どうしてそんなに近づく人を拒絶するの?」
その言葉はユールベルを突き刺した。青い顔でターニャを睨みつける。
「あなたにはわからないわ!!」
レオナルドの手を引っ張り、アカデミーの方へ駆けていった。遠ざかるふたりの足音を聞きながら、ターニャは両手で顔を覆い、肩を震わせ、その場に崩れ落ちた。
「ねぇ、あれ……」
「あ、こないだの」
アンジェリカが指さした先には、黒髪の少女が座り込んでいた。顔は見えなかったが、おそらくターニャに間違いない。三人は急いで走り寄った。ジークは、うつむきないている彼女の肩を揺すった。
「どうした、オイ! ラウルに何かされたのか?!」
「ちょっと、どうしてラウルを疑うわけ?!」
アンジェリカはジークに突っかかった。しかし、ジークがそう思うのも無理はなかった。ここはラウルの医務室の前である。こんなところで泣いていれば、ラウルが何かしら関わっていると考えるのも当然だろう。
しかし、ターニャは首を横に振った。
「私が悪いの……ユールベルを傷つけちゃった……」
三人は互いに顔を見合わせた。彼女のその言葉だけでは、どういうことなのかよくわからない。しかし、それ以上、彼女に話をきける雰囲気ではなかった。
リックはハンカチを差し出した。ターニャは驚いたように彼を見上げた。しかし、泣いてぼろぼろの顔を手の甲で隠しながら、慌ててうつむいた。
「……持ってる、から……」
しゃくりあげながらそう言うと、スカートのポケットから薄い桜色のハンカチを取り出し、無造作に顔に押しあてた。三人はどうすればいいかわからず、ただ黙って彼女を見下ろしていた。
「君たち、ユールベルの事情に詳しいの?」
涙を拭って落ち着きを取り戻したターニャは、うつむいたまま冷静に尋ねた。三人の表情に緊張が走った。
「まあ、ある程度は……」
ジークはためらいがちに答えた。
「私は、寮に入るのは家庭の事情としか聞いてないんだけど、あの子の心には、そうとう深い闇があるような気がするの」
ターニャは沈んだ声でそう言うと、ハンカチを握りしめた。
「虐待……でも受けていたんじゃないのかな。背中にもおなかにも古傷があったし、あの目だってきっと……」
アンジェリカは頭から一気に血の気の引いていくのを感じた。青白くこわばった顔でうつむく。額には冷たい汗がにじんでいる。ジークとリックも無言でうつむいた。
ターニャはそれを肯定の返事ととったようだった。
「やっぱり放ってなんておけない……! でも、どうすれば……」
両手でハンカチをきつく握りしめ、下唇を噛みしめた。そして眉根にしわを寄せ、目をきつくつぶった。ひざの上に涙が数滴こぼれ落ちた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
レオナルドの手を引き走るユールベルは、泣きながらつぶやくように繰り返した。レオナルドは逆にユールベルの手を引き、抱き寄せた。
「何も言うな」
彼女の背中にまわす手に力を込め、彼女の頭に頬を寄せた。全身で彼女を感じようと、彼女を包み込もうとする。しかし、彼女は小刻みに震えたまま、頬に涙を伝わせた。
「私、自分がわからない……こわい……」
怯えたように消え入りそうな声で、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「おまえが見失ったら、俺が見つけてやる。だから、安心しろ」
思いつめたふうにそう言うと、歯をくいしばり、眉間にしわを寄せた。しかし、それを悟られないように、彼女の肩に顔をうずめた。そのまま小さく呼吸をして息を整える。ユールベルは、彼のあたたかい吐息を感じ、いくぶん落ち着いてきたようだった。いつものように無感情な声で、ぽつりぽつりと話し始めた。
「彼女にだけは、知られたくなかった……あんな私……」
「誰だ。あのおせっかいの偽善者は」
レオナルドは思い出しながら顔をしかめ、嫌悪感をあらわにした。
「寮のルームメイトよ。いいひとだわ。とても良くしてくれた」
ユールベルはそこまで言うと、レオナルドの背中に細い腕をまわした。どこか迷ったように、ぎこちなく力を込める。
「でも、私には眩しすぎる。彼女の光が、私の闇を深くするのよ」
「関わらなければいいさ」
レオナルドはきっぱりとそう言うと、ユールベルを強く抱きしめた。