目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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47. 彷徨う心

「どうせ治らないんでしょう」
 ユールベルは床に視線を落とし、投げやりにそう言った。彼女はラウルに呼ばれ、医務室に来ていた。左目まわりの治療のためである。
「目は見えるようにはならないが、目のまわりの傷跡は、きちんと治療を続ければ、多少ましになるだろう」
 ラウルは真新しい白い包帯を、彼女の左目から頭にぐるぐると巻きつけ、後頭部で手早く結んだ。そして、長く柔らかい金髪に、手ぐしを通して整えた。
「完全に治らないのなら、どっちでも同じことよ」
 悲観的な発言をやめない彼女に、ラウルはもう何も言わなかった。椅子を回転させ、机に向かうとカルテを書き始めた。
「……あのひとたちは、どうしているの」
 ユールベルは下を向き、ぽつりとつぶやいた。
「気になるのか」
 ラウルは机に向かったまま、手を止めずに尋ねた。
「忘れたいから訊いているのよ。答えてくれないのなら別にいいわ」
 ムッとしたように彼を睨み、それでも努めて冷静に答えた。
「ユリアたちは家に戻った」
 ラウルは静かに口を開いた。ユールベルは目を伏せ、自嘲ぎみに薄笑いを浮かべた。
「仲良く三人で暮らしているってわけね。私の存在なんて、初めからなかったかのように……。想像がつくわ」
 ラウルはペンを置くと、ギィと軋み音を立てて椅子を回し、再びユールベルに体を向けた。
「バルタスは、おまえには申しわけないことをしたと言っていた」
「しらじらしい言葉ね」
 うつむいたまま小さくつぶやく。
「昔も今も、私ではなくユリアを選んだくせに」
 顔にかかるウェーブを描いた髪、華奢な細い肩。ラウルはうなだれる彼女をじっと見下ろした。
「でも勘違いしないで」
 ふいに早口でそう言うと、ユールベルは顔を上げ、ラウルと目を合わせた。
「ひとりになってほっとしているのよ。殴られることも、すべてを否定されることも、恐怖に怯えることもないもの」
 無表情で淡々と言葉をつなぐ。
「でも……私がいらない人間であることに変わりはない。誰も私のことなんて選ばないのよ」
 揺れる蒼い瞳、濡れた小さな唇を、まっすぐラウルに向ける。助けを求めるような、拒絶するような、矛盾した表情。彼はそれを正面から受け止めた。
「今はそうでも、今後はわからないだろう」
「下手な慰めだわ」
 ユールベルはわずかに目を伏せた。
「事実を言っているだけだ」
 ラウルは感情なく言った。
「あなたが私を選ばないというのも事実ね」
「そうだな」
 それきり言葉が途切れ、沈黙が続いた。互いに向かい合って座っているが、顔を合わせてはいない。ユールベルはうつむき、ラウルはそれをじっと見下ろしている。ふたりはそのまま動こうとしない。長い静寂。木々のざわめきが遥か遠くに聞こえる。
 ユールベルは膝の上でスカートの裾をきつく握りしめた。こぶしが小刻みに震える。
「……もっ、と……優しくしてくれてもいいじゃない!」
 唐突に悲痛な叫び声をあげると、勢いよく立ち上がった。丸椅子がガシャンと大きな音を立てて倒れた。
 それでもラウルは眉ひとつ動かさなかった。
「偽りの優しさに何の価値もない」
「偽りでも、何もないよりはましよ!」
 ユールベルは泣きそうに眉をひそめながら、再び叫んだ。体の横でこぶしを作り震わせる。ラウルは冷たい目で彼女を見つめた。
「だったら他の奴に頼むんだな」
 ——パン!
 ラウルのほほにユールベルの平手打ちがとんだ。じわりと赤味が差していく。それでも彼の表情は動かなかった。
 ユールベルは顔を歪ませ、ラウルの足元に泣き崩れた。

「追い返されると思うぜ」
 ジークは顔をしかめた。
「この前から一週間たってるじゃない」
 アンジェリカは反論した。
「一週間じゃ“たまに”ってことにはならないと思うけど……」
 リックは遠慮がちに口を挟んだ。
 三人は並んで歩きながらラウルの医務室に向かっていた。アンジェリカの希望である。またラウルの娘に会いたいと言い出したのだ。あれから一週間しか経っていない。ジークとリックは気が進まなかったが、アンジェリカは言い出したらきかない。ふたりは仕方なく付き合うことにしたのだった。
「いいわよ。私ひとりで行くから。ふたりは帰って」
 明らかに乗り気でないふたりを見て、アンジェリカはふてくされた。
「そういうわけにはいかねーんだよ」
 ジークはたしなめるように、アンジェリカの頭を軽く小突いた。彼女は一瞬カッとなり彼を睨んだが、同時にその言葉の重みを理解し、押し黙ってしまった。

 三人は無言のまま医務室の前まで来た。ジークはためらいなくガラガラと扉を引いた。が、半分のところで手を返し、そのまま扉を閉めてしまった。
「え?! 何?!」
 後ろにいたアンジェリカは、何が起こったのかわからず、とまどいの声をあげた。大きな黒い瞳を瞬かせる。そして、彼の背中に手を置き、横顔を不安そうに見上げた。
「先客がいた。帰るぞ」
 ジークはぶっきらぼうに、しかし、わずかに声をひそめてそう言った。
「先客ってだれ?」
 アンジェリカが尋ねても、ジークは表情を固めたまま答えようとはしない。
「……なんか変よ、ジーク。何を隠しているの?」
「別に何も隠してねぇって! いいから帰るぞ。あしたまた来ればいいだろ」
 扉の前に立ちはだかり、むきになって彼女を遠ざけようとする。そしてやはり自分の声の音量を気にしながら話している様子だった。明らかに彼の行動は不自然である。
「うそ! 絶対なにか隠しているわ! どうして?! 何なの?!」
 アンジェリカは手を伸ばし、強引に扉に手を掛けようとした。だが、ジークに手首を掴まれ、阻まれた。彼女はキッときつく睨みつけた。彼はうつむいて下唇を噛んだ。
「アンジェリカ、今日は帰ろうよ。何も今日じゃなきゃダメってわけじゃないんだし」
 リックはなんとか彼女をなだめようと、にっこり笑顔を作って、穏やかに説得を始めた。

 ガラガラガラ——。
 そのとき突然、内側から扉が開いた。
「別に気を遣ってくれなくてもいいのよ」
 そこから姿を現したのはユールベルだった。泣きはらした右目、涙の跡、乱れた髪。三人は言葉を発することが出来なかった。
「もっとも、どっちに気を遣ったのかわからないけど」
 そう言って、ジークに手首を掴まれたままのアンジェリカに視線を送った。彼女の鼓動は大きくドクンと打った。
「出ろ」
 ユールベルの後ろに大きな影が現れた。ラウルである。彼は彼女の背中を押して外に出すと、彼自身も医務室から出た。ユールベルが睨んでいたが、構うことなくポケットから鍵を取り出した。
「何をしに来た」
 扉に鍵をかけながら、後ろの三人に問いかける。
「ルナちゃんに会いに来たのよ」
 アンジェリカは、ジークの手を振り切り、はっきりした声で答えた。しかし、ラウルは背を向けたまま、振り返ろうとしなかった。
「これから迎えに行くところだ。今日は帰れ」
 にべもなく突き放す。そして、王宮の奥へと足を踏み出した。
 ユールベルは去りゆく彼の袖を、すがるようにそっと掴んだ。しかし彼は冷淡に振り払うと、大きな足どりで遠ざかっていった。ユールベルはその後ろ姿を、目を細めながら見つめていた。

「もしかして、おまえ……」
 ジークは彼女の横顔を見ながら、怪訝な表情で切り出した。
「ラウルのことが好きなのか?」
「冗談じゃないわ。どうしてあんな冷たい人を」
 ユールベルは即座に否定した。
「私が好きなのは……」
 ゆっくりとジークに振り向き、まだ涙の乾ききっていない瞳で彼を捉える。
「あなただけよ」
 彼女は静かに言葉を落とした。ジークはその瞬間、体に痺れが走り、動くことも声を出すことも出来なかった。
「まだそんなことを言っているの? いったい何を企んでいるわけ?!」
 アンジェリカはいらついた様子で食ってかかった。
「別にあなたに信じてもらえなくても構わないわ」
 ユールベルは目を閉じ軽く受け流した。そして再びジークに目を向ける。
「ジーク、あなたにだけ信じてもらえれば」
 まっすぐに向けられた、強くはかなげなまなざし。ジークには、何かを企んでいるようにはとても思えなかった。
「でも……」
 ユールベルはうつむき、かぼそい声で続けた。
「あなたが私を選ばないことはわかっているわ」
「なに勝手に決めてんだよ」
 ジークはとっさに言い返した。ユールベルはかすかに寂しげに笑ってみせた。
「少しは希望を持っていいってこと?」
 そう言うと顔を上げ、再び彼を見つめた。しかし、彼は答えることが出来なかった。とまどい、逃げるように、視線をそらせる。
 ユールベルは目を伏せると、無表情で足を踏み出した。ジークと腕が触れ合わんばかりの距離ですれ違う。彼女の髪がふわりと揺れ、甘い匂いが彼の鼻をくすぐった。
 ジークははっとして振り返り、小さくなる彼女の後ろ姿を目で追った。
「ジーク、まさか本気にしているんじゃないでしょうね」
 アンジェリカは眉をひそめてジークを覗き込んだ。しかし、彼は困惑したように目をそらせた。
「俺にはわからねぇよ」
 ぶっきらぼうに吐き捨てると、目を閉じ深くうつむいた。それからゆっくりと顔を上げると、じっとアンジェリカを見つめた。真剣な、不安そうな、思いつめたような、何か言いたげな表情。
「なに?」
 アンジェリカは少し驚いたように、きょとんとして尋ねた。
「いや、何でもねぇ」
 ジークはぼそりとつぶやくように言うと、ポケットに手を突っ込み歩き始めた。

 ラウルは預けたルナを迎えに、アルティナの部屋に来ていた。王妃の部屋だけあって、落ち着きがあり格調高い内装だ。床には繊細な模様が織り込まれた厚みのある絨毯が全面にひかれ、壁や家具には細やかな装飾が施されている。中央には白い丸テーブルが置かれ、そのまわりには三脚の椅子が囲んでいた。どれもかなりの年代物ではあるが、しっかりと手入れは行き届いている。
「待ってて。いまお茶を入れるわ」
 レイチェルはにっこり微笑んで、奥へ引っ込んだ。
 ラウルはルナを抱きかかえ、白い椅子に座った。ルナはすやすやと無垢な顔で眠っている。彼はその表情をじっと見つめた。
 レイチェルがトレイを持って戻ってきた。トレイの上にはティーポットとティーカップ三つが載せられていた。テーブルの中央にそれを置くと、ラウルの隣に腰を下ろした。
「偽りの優しさは必要だと思うか」
 ラウルの突然の問いかけに、レイチェルは驚いて目をぱちくりさせた。しかし、すぐに元の穏やかで優しい表情に戻った。
「私は必要ないと思っているわ。そんなの悲しいだけだもの。でも、それでも必要としている人もいるのかもしれないわね」
 ラウルの瞳を正面から見据えて答える。そして、さらに見透かすように、濃色の瞳の奥深くを探った。
「……ユールベル?」
 その短い問いに、ラウルは何も答えなかった。しかし、それが答えに他ならない。
「あなたは医者としての役目は果たしているわ。じゅうぶんすぎるほどよ」
 レイチェルはティーポットを手に取り、カップに注ぎ始めた。
「彼女のことを特別に想っていないのなら、これ以上深入りすべきではないんじゃないかしら。人の心はそう簡単に救えるものではない……あなたがいちばんよく知っているでしょう?」
 そう言った彼女の顔に、ふいに影がさした。しかし、すぐにそれを掻き消すように笑顔を作ると、ティーカップのひとつをラウルに差し出した。彼は無言で受け取ると、その中の透きとおる紅い水に目を落とした。水面に映った自分の姿が細かに波打った。
「……私は感謝している」
 静かだが、はっきりした声。レイチェルは目を大きく見開いて彼を見た。
「本当……? 信じていいの?」
 ラウルは言葉の代わりに、まっすぐなまなざしを送った。レイチェルは胸に手を当て、ほっとしたように、にっこりと微笑んだ。

「お待たせー!」
 明るい声を張り上げて、アルティナが入ってきた。
「楽しそうね。何の話?」
 彼女は空いている椅子に腰かけて脚を組んだ。
「昔話よ」
 レイチェルはにっこり笑うと、紅茶の入ったティーカップを差し出した。
「そっか。ラウルってレイチェルの家庭教師だったんだっけ」
 アルティナは横目でラウルを見ながら、ティーカップを手にとり口をつけた。ラウルはアルティナを無視し、腕の中のルナに目を向けた。
「サイファの家庭教師をやっていたこともあるのよ、ね」
 レイチェルはちょこんと首を傾けて、ラウルに笑いかけた。
「ああ」
 ラウルは顔を上げると、無表情のままで返事をした。アルティナは興味津々で身を乗り出した。
「へぇー。それは初耳だわ。いったい何人の教え子がいるわけ?」
「ふたりだけだ」
「あとアカデミーの子たちね」
 レイチェルはにっこり笑って付け加えた。
「いっそ本格的に転職しちゃえば?」
 アルティナは机にひじをついて、いたずらっぽく白い歯を見せた。ラウルは少しムッとしたように、彼女を見下ろした。
「好きで教師をやっているわけではない」
「医者は好きでやっているの?」
「ああ。ここに来てからずっとだ」
 ラウルがこんなふうに自分のことを語るのはめずらしい。どこか遠くを見やり、昔を思い返しているようにも見える。アルティナはほおづえをついたまま、ぐいと顔を突き出し、上目遣いでじとっと見つめた。
「噂じゃ、300年くらい前からここに居座ってるって聞いたけど?」
「だいたいそんなものだ」
 ラウルにためらいはなかった。前を向いたまま、たいしたことではないかのようにさらりと答える。
 アルティナはふいに真顔になった。
「……あなたは、どこから来たの?」
 身を起こし、静かに言葉を落とす。しかし、今度は何も答えてはくれなかった。
「つらくはないの?」
 彼女は質問を変えた。ラウルはわずかに視線を向けた。
「だって教え子や子供が自分より先に老けていって死んじゃうわけでしょ?」
 彼の視線を捉えると、アルティナは急に勢いづいて語りかけた。
「仕方のないことだ」
 ラウルはただ感情なくそう言った。レイチェルは寂しそうに微笑んだ。
「あなたより……その子の方がつらいのかもしれないわね」
 彼女はラウルの腕の中で眠る赤ん坊に視線を落とした。そして、小さな彼女の小さな手をとり、そっと握手を交わした。
「それ以前に問題はいろいろあるわよ」
 アルティナはあごに手をあて、難しい顔をした。そして、下からラウルを覗き込み、人さし指を突きつけた。
「親のことを訊かれたらどうするつもり?」
 声を低めて問いかける。しかし、彼はまったく動じることはなかった。
「正直に答えるだけだ」
「おまえは捨てられていたんだ……って?」
「下手に隠しだてするよりはいいだろう」
 ラウルは、もぞもぞと動き出したルナを抱え直し、額をなでた。
「まあ、そうだけど……」
 アルティナは不安を顔いっぱいに広げると、ほおづえをつき口をとがらせた。
「あなた子供相手でも容赦なさそうだから心配なのよね」
「きっと大丈夫よ」
 レイチェルはにっこり大きく微笑んだ。
「それでも今は愛されているんだって実感できるくらい、たくさん愛情を注いであげればね」

 ガラス窓から差し込んだ斜陽が、人通りの少なくなった廊下を紅く染める。ユールベルはうつむいて、逃げるように早足で歩いていた。金の髪が紅の光に照らされ、歩調に合わせてきらきら煌めく。
 カツーン、カツーン——。
 正面から響く靴音。ユールベルはその音につられて顔を上げた。廊下の先には、小脇に本を抱えたレオナルドがいた。図書館帰りのようだ。彼の方も彼女の存在に気づいたが、ちらりと目をあわせただけで、特に気を留めるわけでもなく足を進めた。
 しかし、ユールベルは彼に向かって一直線に駆けていくと、両手を伸ばして飛びついた。彼の首に腕をまわし、しがみつくように顔をうずめる。
 レオナルドは突然の出来事に対処できず、棒立ちになったままだった。彼女の甘い匂いが嗅覚を刺激する。彼女のあたたかい吐息が首筋にかかる。そして、彼女の胸の柔らかさが、数枚の服を通して感じられる……。頭のてっぺんから背中にかけて、痺れが駆け抜けていった。
「私のことを、好きになって」
 体を通して、彼女の震える声が伝わってきた。
「おまえのことは、よく知らない」
 レオナルドは精一杯の理性を総動員し、冷静を装った。しかし、ユールベルはさらに腕に力を込めた。
「私もあなたのことはよく知らないわ」
 静かに、無感情に、虚ろに、かぼそい声でつぶやく。レオナルドは、彼女の中に、限りなく深い闇を見たような気がした。

48. 幸せの虚像

「ジーク君!」
 馴染みのない声が、後ろから彼を呼んだ。透き通った可愛らしい感じの声である。
 並んで歩いていた三人はいっせいに振り返った。そこに立っていたいたのは、横だけ長めの黒髪ショートボブ風の少女だった。くりっとした黒い瞳をジークに向け、はつらつとした笑顔を見せている。アカデミーの生徒らしいが、クラスメイトではない。
「誰だ? なんで俺の名前……」
 ジークは眉をひそめ、怪訝なまなざしを送った。アンジェリカが知らない人に声を掛けられることはよくあるが、ジークにはほとんどない。彼がいぶかしがるのも当然だった。
「あははっ。君、けっこうな有名人よ。行動派手だもん」
 彼女は軽く笑い飛ばした。行動が派手ということには、ジークにもいろいろと心当たりはあった。入学早々ラウルに楯突いて腕を折ったり、VRMで気を失いかつぎこまれたり、ところ構わずアンジェリカと大声で言い合ったり、何かと目立つことは多かったかもしれない。しかし、まだ不信感は拭えない。
「で、おまえは誰なんだよ」
 じとっと睨みながら、ぶっきらぼうに尋ねた。彼女はにっこりと笑った。
「君らの1コ上のターニャ=レンブラント。ユールベルのルームメイトよ」
 三人の顔に緊張が走った。
「何の用……ですか?」
 ジークの口調が変わった。ひとつ上の先輩と聞き、丁寧になった。しかしそれだけではない。明らかにこわばっている様子が見受けられた。
「あの子、ここ三日、寮に帰ってきてないのよ」
「えっ?」
 アンジェリカは思わず聞き返した。ターニャは彼女に視線を移し、困ったように笑いながら肩をすくめた。
「アカデミーには来てるんだけどね。どこにいるのか、どうしてなのか、きいても何も答えてくれないの」
 そこまで言うと、ふいに彼女の顔に影が落ちた。それでもためらいがちに言葉を続ける。
「ただ、あなたのせいじゃないの……って言うだけで」
 わずかに目を伏せ、軽く数回まばたきをした。アンジェリカはその姿を無表情でじっと見つめていた。
「ラウルのところじゃねぇのか?」
 ジークは隣のアンジェリカに向かって、同意を求めるように軽くそう言った。
「それはないんじゃない? ルナちゃんがいるんだし」
 彼女はちらりと視線を返し、淡々と否定した。
「そうか、そうだよな」
 ジークは引きつり笑いを浮かべると、焦ったように同意した。
「でも、じゃあ、どこだっていうんだ? あいつ他に行くあてなんて……」
「それを知りたいわけじゃないのよ」
 ターニャが口をはさんだ。三人は驚いて彼女に顔を向けた。
「ただ帰ってきてほしいだけ」
 小さく肩をすくめると、さびしそうに笑ってみせた。
「でね、ジーク君。キミにお願いしたいのよ」
 急に元気な声になると、腰に手をあて少し前かがみになり、ジークを下から覗き込んだ。ジークは勢いに押され、わずかに身を引いた。
「ユールベルに帰ってきてくれるように頼んでくれないかな。キミの言うことならきくんじゃないかと思うから」
「……なんで俺なんだよ」
 ジークはターニャから目をそらし、はっきりしない声でごにょごにょと口ごもった。彼女に向かってというよりも、ほとんどぼやきである。
 しかし、彼女は意味ありげにニッと笑った。
「とぼけたって無駄よ、知ってるんだから。ユールベルがキミのこと好きだって。キミ自身も聞いてるはずよね」
「関係ない……ですよ」
 ジークは顔をそらせたまま、ますます表情を暗くした。アンジェリカのことが気になったが、振り向くことはできなかった。
「そんな冷たいこと言わないの!」
 ターニャは両手でジークの顔をはさみ、強引に自分の方へ向けた。軽く口をとがらせ、わざと怒ったような顔を作ると、まっすぐ彼の目を見つめた。
「いいでしょ、そのくらい。お願いね!」
 言い終わると同時にパチンと彼の両頬を叩くと、にっこりと笑いかけた。ジークは突然のことに、ただ驚いて呆然とするだけだった。鼓動の高鳴りはまだ鎮まらない。
「じゃね」
 ターニャが踵を返そうとしたところで、ジークはようやく口を開いた。
「どうしてそんなに一生懸命なんですか?」
 ターニャは黒い瞳をくりっとさせて、不思議そうに彼を見た。
「だって仲間だもん。それ以上の理由が必要?」

 立ち去るターニャの後ろ姿を見送りながら、三人は廊下に立ち尽くしていた。
「ジーク、どうするつもり?」
 アンジェリカは冷静な口調で尋ねた。
「どうって言われてもなぁ……」
 考えあぐねた苦い顔で腕を組み、そっとアンジェリカを盗み見た。彼女は心情の読めない表情で、廊下の先を見つめていた。
「……どうしたらいいと思う?」
 ジークは恐る恐る、だがそれを悟られないように尋ねた。
「私にきかれても……」
 アンジェリカは少しとまどったように口ごもった。
「いいんじゃないの? 言うだけ言ってみれば」
 リックは軽い調子でさらりと言った。ジークは不満そうな目つきを彼に流しながら、ため息をついた。
「まぁ気が重いけど仕方ないか」
「じゃあ、これから会いに行く?」
「いや、そのうちどこかでばったり会うだろ」
「やる気ないね」
 リックは苦笑いした。
「でもどうしてユールベルは家を出ていっちゃったんだろう。何かあったのかな」
「さっきの彼女のせい……かも」
 アンジェリカはぽつりぽつりとつぶやいた。
「え? いい人そうに見えたけど」
「そうじゃなくて」
 そう言ったあと、顔を曇らせて一瞬ためらいを見せた。だが、すぐに気を取り直し、冷静に言葉をつなげた。
「ほら、黒い髪に黒い瞳だったでしょう。私と同じで」
 感情を表に出さず、何も気にしていないかのように装う。そんな彼女を見て、ジークは胸が締めつけられた。
「バーカ、考えすぎだっ」
 つっかえを吹き飛ばすように声を張り上げると、アンジェリカの頭をコツンと軽く小突いた。

 カツン、カツン——。
 ひときわ耳につく靴音につられ、三人は顔を上げ前方を見やった。その靴音の持ち主はレオナルドだった。そして、彼の隣にはユールベルがいた。彼女はすがるように彼の袖をつかみ、一緒に歩いている。
 三人は一様にぽかんとして彼らを見た。向こうもこちらに気づいたらしい。レオナルドは冷たい視線を送りながら、そのまままっすぐ歩き続ける。
「さっそくばったり会っちゃったね」
 リックはなんとか平静を取り戻した。
「ていうかよ……」
 ジークはレオナルドを睨みつけた。レオナルドはジークの前まで来ると足を止めた。彼もジークを睨みつけている。リックとアンジェリカは不安そうにふたりを見守っていた。
「めずらしい取り合わせだな。テメー、ユールベルのことはよく知らないとか言ってなかったか?」
 ジークは腕を組みあごを上げ、ふてぶてしい態度で疑念を突きつけた。レオナルドは小馬鹿にしたように、鼻先でせせら笑った。
「知らなかったさ。三日前まではな」
 ジークははっとした。三日という言葉で、ふたつの事柄がつながった。眉をしかめ、信じたくないという顔で、ユールベルに視線を移す。
「……まさか、コイツのところにいるのか?」
 彼女は無反応で、ただ彼を静かに見つめるだけだった。
「おまえには関係のないことだ」
 レオナルドはユールベルの肩を引き寄せ、反対の手でジークを払いのけようとした。
「待てよ」
 ジークはその手首を素早くつかむと、ギリギリときつく力をこめた。
「どういうことだ。何を考えてる。説明しろ」
 レオナルドは顔をしかめながら、ジークの手を振りほどいた。彼の手首には指の形が白くくっきりと残っていた。ムッとして不機嫌をあらわにし、冷たく一瞥した。
「みっともないな。嫉妬か?」
「そんなんじゃねぇよ」
 ジークは少しむきになって否定した。そして、レオナルドにかばわれるようにして身を寄せているユールベルに目を移した。真剣な表情で語りかける。
「ユールベル、なんとかいう寮の先輩が心配してたぞ」
「ターニャさんだよ」
 リックは間髪入れずに補足した。ジークはユールベルに向かったまま話を続けた。
「帰れよ。こんなヤツのところにいたってロクなことにならねぇ。自棄になんな」
 真摯で静かな説得。それでもユールベルは眉ひとつ動かさない。ただじっと視線を返すだけだった。
「何も知らないくせに、いいかげんなことを言うな」
 レオナルドはユールベルを背中に隠し、ジークを鋭く睨みつけた。ジークもカチンときて睨み返した。
「テメーこそユールベルの何を知ってるってんだ」
 それを聞くと、レオナルドはうつむいて目を閉じ、ふっと小さく笑った。
「おまえよりは知っているかもな」
 彼の余裕の態度と意味ありげな言い方が、ジークを不快にさせた。しかし、それ以上の深い追求の言葉は、なぜか出てこなかった。ただ苦い顔を見せることしかできない。
 レオナルドは再び顔を上げた。まっすぐジークの目を見つめ、小さく口を開く。
「ふたりだけで話をしたい」
 思いもかけない言葉に、一瞬ジークは目を見開いた。しかし、すぐにニッと口端を上げ、挑むように不敵に笑いかけた。
「いいぜ。テメェとは一度じっくり話をつけたかったんだ」
「ちょ……ジーク!!」
 アンジェリカは慌てふためいた。ジークの背に軽く握った手をのせ、後ろから見上げる。それでも彼は振り返らない。真剣な表情で何かを考えている。
「リック、アンジェリカを送ってやれ。家までだぞ」
 ジークは静かな低い声で、背後のリックに告げた。
「うん、わかった」
 リックは身を引き締めて答えた。しかし、アンジェリカがそんなことを素直にきくはずがない。
「勝手に決めないでよ!」
 甲高い声をあげ、ジークの正面にまわり込んだ。
「私も行くわよ」
 強気な瞳を彼に向ける。しかし、彼も少しも引かない。
「それじゃ意味ねぇだろ! これは俺とヤツとの問題なんだ」
 ジークは親指でレオナルドを指さした。
 そのレオナルドは、ジークに背を見せ、ユールベルと向き合っていた。彼女の頬を手で包み込み、何かを耳打ちする。そして、無表情の彼女の口元に、自分の唇を軽く重ねた。
 三人は唖然として言葉を失った。
 レオナルドはユールベルから離れ、ジークに向き直るとあごで彼を促した。ジークはその横柄な態度にムッとして舌打ちした。互いに嫌な顔を作りながら、ふたりは連れ立ってどこかへ歩いていった。
 リックは、いまだ呆然としているアンジェリカの肩にポンと手を置いた。彼女はようやく我にかえった。

「で、あなたは何を企んでいるわけ?」
 アンジェリカはユールベルに振り向くと、腕を組み強気な態度で挑んだ。ユールベルはまだジークたちの消えていった方を眺めていた。
「ジークが駄目だとわかると、今度はレオナルドに好きだとか言って味方につけた。それで、どうするつもり?」
 問いつめるように語気を強める。額に冷たい汗がにじむ。
「アンジェリカ、帰ろう」
 リックは焦ったように口をはさんだ。しかし、アンジェリカは彼を無視し、彼女の答えを待った。
 ユールベルは右目を細め、ゆっくりとアンジェリカに振り向いた。
「言ってないわよ。レオナルドに好きだなんて」
「えっ……」
 アンジェリカは小さく声をもらす。
「私が好きなのはジークだけ。何度も言わせないで」
 透き通った蒼い瞳をアンジェリカに向け、淡々とそう言った。無表情で何を考えているのかわからないが、少なくとも嘘を言っているようには聞こえなかった。アンジェリカは何も返すことができず、黙り込んでしまった。
 沈黙が続く。
 アンジェリカがこらえきれず目を伏せると、それを契機にしてユールベルは歩き去っていった。
「帰ろうよ、アンジェリカ」
 リックは後ろから声をかけた。あたたかく包み込むような声。アンジェリカはこくんと頷いた。

「なんだか何もかもよくわからなくなってきたわ」
 アンジェリカはオレンジがかった空を仰いで、口をとがらせた。冷たくなってきた空気が頬を撫で、黒い髪をさらさらと流す。家まではまだ遠い。
「何もかもって?」
 並んで歩いていたリックが、彼女に目を移しながら尋ねた。
「ユールベルのことも、レオナルドのことも、自分のことも、よ」
「自分?」
 アンジェリカはうつむき顔を曇らせた。
「ユールベルと仲良くしたいと思っていたわ。昔のように、また笑いあえたらって」
 ふっと小さくため息をつく。
「でも実際彼女を目の前にすると、なんだか頭にきてばかり」
 リックを見上げ、寂しそうに笑うと肩をすくめた。リックはそんな彼女を見て、ふいに表情を和らげた。
「仕方ないよ。彼女、ジークのこと好きだとか言ってるしね」
「……? どういうこと?」
 アンジェリカはきょとんとして目をぱちくりさせた。リックはその反応に驚いた。それと同時に、どうやら自分は口を滑らせてしまったらしいことに気がついた。
「え……と、うーんと、なんて言ったらいいのかな」
 あたふたしながら、どうやって取り繕おうかと言葉を探す。しかし、アンジェリカはそんなリックに構うことなく、さっさと話題を変えた。
「でも、ユールベルが言っている好きって、何か少し違う気がするの。リックはどう思う?」
「難しいことを訊くね」
 リックは答えに困って、ごまかし笑いをした。アンジェリカは再び空を仰いだ。
「好きとか嫌いって、いちばん単純でわかりやすい感情だと思っていたのに……」
 リックはそんな彼女を優しく見守るように、にっこりと笑顔を浮かべた。
「そうだね。単純だから奥が深いのかもしれないね」

「おい、どこまで行く気だ」
 ジークはむすっとして言った。もうアカデミーを出てから 30分近く歩き続けている。しかも、彼の家とは正反対の来たこともない道だ。紅く染まった空を、藍色の闇が侵食していく。不安と不満が募る。
「誰にも聞かれないところだ。もう歩き疲れたのか?」
 レオナルドは嫌味たらしくニヤリと笑った。ジークは一瞬カッと頭に血がのぼったが、なんとか自制し、掴みかかろうとする衝動を抑えた。
「やわなおぼっちゃんと一緒にすんな」
 うつむいて小石を蹴り、吐き捨てるように言った。
 やがて視界の開けたT字路に差しかかった。ところどころ薄汚れた白いガードパイプが、道にそって長く続いている。レオナルドはその切れ目から幅の狭い石段を通り、下へ降りて行った。ジークも後に続いた。急に視界が白くなり、まぶしさに目を細める。そこにはさらさらと音を立てる清流と、白い川原が広がっていた。歩きながらあたりを見回す。片側は川、片側は土手、あとは川原が広がるのみ。確かにここなら誰かが近づいて来れば、砂利を踏みしめる音ですぐにわかるだろう。ジークは悔しいが納得した。
 レオナルドは川原の真ん中まで来ると立ち止まった。ジークもその後ろで足を止めた。ふたりの影は土手近くまで長く伸びている。
「さて……」
 レオナルドは腰に手をあてうつむくと、面倒くさそうにゆっくり振り返った。ジークは体中に緊張を走らせ、小さく身構えた。
「困ったことに、ユールベルはおまえのことが好きらしい」
「は??」
 思いきり対決する気になっていたジークは、肩すかしを喰らわされたように感じた。
「こんなバカでがさつで品性のかけらもない奴のどこがいいのか、まるで理解できないがな」
「んだと?!」
 レオナルドが冷たい顔で淡々と畳みかけると、ジークはカッとして声を荒げた。しかしすぐにはっとして眉をひそめた。
「って、ちょっと待て。じゃあ、おまえとユールベルの関係はなんなんだ」
「さあな。何なんだろうな」
 レオナルドはズボンのポケットに手を突っ込み、深くうつむくと、足元の小石を蹴りつけた。とぼけているのか、本心なのか、ジークには判断がつかなかった。ただ、まだ聞かなければならないことはある。キッと顔を引き締めた。
「おまえら、三日前まではほとんど面識もなかったとか言ってたな。それが……」
 レオナルドの瞳の奥を探るように、じっと鋭く睨めつける。
「この三日間に何があった。何を企んでやがる」
 声を低めて問いつめた。レオナルドは冷たく睨み返した。
「おまえは消えろ」
 答えの代わりに、唐突の命令。
「な……に?!」
「二度とユールベルの前に現れるな。おまえのことを忘れない限り、あいつは幸せにはなれない」
 ふたりの間を冷たい風が通り抜けた。互いに目をそらそうとはしない。レオナルドはさらに付け加えた。
「あいつは俺が救ってやる」
 どこか思いつめたような言葉。いつものような刺々しさはない。ジークには、それが嘘や出任せだとは思えなかった。
「俺だって、会うつもりなんかねぇよ。仕方ねぇだろ。同じアカデミーに通ってんだぜ」
 困ったように眉をひそめる。いつものように喧嘩腰で突っかかる気にはなれなかった。だが、レオナルドには歩み寄るつもりはなかった。
「ならアカデミーを辞めろ」
 ひどく短絡的に命令する。ジークは途端にいきり立った。
「テメー勝手なこと言ってんじゃねぇ! そっちこそ辞めろ!」
「おまえのせいで辞めるなんて、まっぴらだ」
「言い出したのはそっちだろ!」
 わがままに噛み合わない受け答えをするレオナルドに、ジークはますます憤激して大声をあげた。
 互いに、熱く冷たく睨み合う。
 やがてジークは目を伏せ、ふうっとわざとらしくため息をついた。それから再び顔を上げると、厳しい視線を突きつける。
「ユールベルが好きなら、テメー自身でなんとかするんだな。勝ち目がねぇからって、俺に消えろだなんて、甘ったれんな」
 レオナルドは絶句した。歯をぎりぎりと軋ませ、悔しそうにジークを睨みつける。そして、低く唸るように言った。
「……おまえは首を突っ込みすぎなんだよ。ラグランジェ家にな」
 ジークは少し驚いたように目を見開いた。
「アンジェリカのことも、ユールベルのことも、俺たち一族の問題だ。よそ者が関わるべきことじゃない」
 抑えきれない嫌悪感と激しい拒絶を表情で示す。ジークは腕を組み、冷たく睨み返しながら、小さく息をついた。
「別に首を突っ込むつもりはなかったぜ。結果的にそうなっちまっただけだ」
「どうせあいつがペラペラしゃべったんだろう」
 レオナルドは顔をしかめて、吐き捨てるように言った。ジークは目を瞬かせた。
「あいつ?」
「能天気なご当主サマさ」
 いらつきを隠さず、蔑むように言った。
「……サイファさんのことか?」
「あいつには当主としての自覚がない。ラグランジェ家内部のことを軽々しく部外者に口外して、それがどれほど危険なことか考えもしない」
 ズボンのポケットに手を突っ込み、ジークに背を向けると、川原の小石を蹴り飛ばした。いくつか飛び散ったうちのひとつが小さく弧を描き、ぽとんと清流に飛び込む。乱された水面は、すぐに緩やかな流れに呑み込まれた。
「ラグランジェ家が、名門としてこれだけ長く続いてきたのは、なぜだかわかるか」
 川面を見つめながら、ジークに問いかける。ジークには答えがわからなかった。口を結び、ただ沈黙を返す。レオナルドは顔半分だけ振り返り、鋭い視線を流した。
「保守的で閉鎖的だったからだ」
 ジークの背筋に冷たいものが走った。
「家の不祥事は内々で処理する。決して部外者には口外しない。それが厳格なルール。それをあいつは……」
 のどから絞り出すような声でそこまで言うと、言葉を詰まらせた。柔らかな金髪が、風を受け緩やかに波打つ。
 ジークは額に汗をにじませ、レオナルドの後ろ姿をじっと見据えた。
「俺にはサイファさんの方が、よっぽど正しく思えるぜ」
 レオナルドは鼻先で笑った。
「正しいか正しくないかなんて意味がないさ。家を守ることがすべてなんだからな」
 ジークは眉をひそめた。その言葉に対する嫌悪感、レオナルドに対する不快感、得体の知れない恐怖感がわき上がる。
「サイファさんが守りたいのは、家じゃなくて、家族なんだろ」
「笑わせるな! その家族を不幸にしたのは、あいつ自身なんだぞ!!」
 突如、大声をあげると、感情まかせにジークに振り返った。その瞳には、激しい怒りが宿っていた。ジークは目を見張り、絶句した。
「アンジェリカが呪われた子と言われているのも、あいつが……」
 レオナルドはそこまで言って口をつぐんだ。ふいに目をそむける。
「な……に? なんだオイ!」
 ジークは彼に詰め寄った。
「しゃべりすぎたな」
 レオナルドはそう言って再び背を向けようとしたが、ジークがそれを許さなかった。胸ぐらに掴みかかり、乱暴に引き寄せる。
「最後まで言えよ! 力づくでも吐かせるぞ!」
 さらにじりじりと顔を近づけていく。そして、右のこぶしを彼の視界にねじ込んだ。
「おまえにはこぶしでも魔導でも、負ける気がしねぇぜ」
 しかしレオナルドは平然としていた。胸ぐらをつかまれたまま冷笑する。
「やれるものならやってみろ。この暴力野郎」
「……くっ」
 ジークは奥歯を軋ませながら、やり場のないこぶしを震わせた。
「くそっ!!」
 空に向かい叫び声をあげると、レオナルドを川に突き飛ばした。彼はバランスを崩し、背中から浅瀬に倒れ込んだ。その体の上をせせらぎが走り、あっというまに全身ずぶ濡れになった。水は身を切るように冷たい。顔をしかめながら、川底に手をつき、重々しく上体を起こした。柔らかくカールした髪から水滴が滴り落ちる。ゆっくりと顔を上げると、ジークを睨み上げた。
 ジークは不機嫌な顔で睨み返した。そして、小さく舌打ちすると、背を向け歩き出した。
「バカが、一生ひとりで悩んでろ!!」
 レオナルドは去りゆく後ろ姿に言葉を吐き捨てた。

 ジークは重い足どりで石段をのぼっていった。ふいに気配を感じ、顔を上げると、上の道路にユールベルの姿を見つけた。なぜ彼女がここに……。ジークは一瞬どまどったが、レオナルドが彼女に何かを耳打ちしていたことを思い出した。どういうつもりかはわからないが、おそらくあのときに行き先を告げたのだろう。
 彼女はためらうことなくトントンと細い石段を降りてきた。ふたりは向かい合い、足を止めた。
「レオナルドのところに行くのか? ……やめろよ」
 複雑な表情で、疲れたように力なく言った。ユールベルは無表情でジークを見下ろした。
「そう思うのなら止めて」
「止めてるじゃねぇか」
「行動で示して」
 まっすぐジークを見つめる。彼女が何を望んでいるのか、だいたいの察しはついた。
「悪い……」
 ジークは逃げるように目をそらした。
 ユールベルはそれ以上、何も言わなかった。狭い石段で、腕をぶつけながらすれ違うと、小走りで駆け降りていった。頭の後ろで結ばれた白い包帯を揺らしながら、岸に上がろうとしたレオナルドに走り寄っていく。ザプザプと靴のまま、水際に踏み入れる。
「濡れるぞ」
「そういう気分よ」
 ユールベルはレオナルドの首に腕をまわし、すがるように抱きついた。レオナルドから滴る水とびしょ濡れの服が、彼女をじわりと濡らす。彼女の体温が、冷えた彼の体に安堵をもたらす。レオナルドは彼女の背中に手をまわし、その手に力を込めた。


49. 光と闇

「今回こそは、絶対に勝てると思ったのによ」
 ジークは張り出された成績を覗き込み、納得のいかない面持ちで口をとがらせた。リックとアンジェリカは顔を見合わせ、互いに肩をすくめて笑った。
「何度見たって結果は変わらないって」
「そうよ。朝もあれだけしつこく見てたじゃない」
「わかってるよ!」
 ふたりから逃れるように背を向けると、ジーンズのポケットに手を突っ込み歩き出した。ふたりも小走りでジークについていった。柔らかな日の射す廊下を、三人は並んで歩く。今日はテスト結果の発表のみで授業はない。まだ昼前だが、すでに帰った生徒も多く、人影はまばらである。
「だいたいおまえ、一ヶ月もアカデミー休んだくせに、なんであんな点とれんだよ」
 ジークは半ば呆れたような口ぶりでそう言った。
「もちろん、頑張ったからよ。ジークに負けるわけにはいかないし」
 アンジェリカは彼を見上げてにっこりと笑いかけた。ジークは慌てて目をそらせた。
「おっ……俺だって、まだあきらめたわけじゃねぇぞ! 卒業までには、おまえに勝ってやるからな!」
 耳のあたりを赤らめながら、こぶしを握りしめ、早口でまくし立てた。
「うん」
 アンジェリカは再びにっこりと笑いかけた。

 三人は食堂まで来ると、カウンターで飲み物を買い、窓際のテーブルに席を取った。広い食堂内はがらんとしていた。ジークたちの他には数組いるだけである。聞こえるのは遠くのかすかな話し声と、木々のざわめきくらいだった。
「あしたから長期休暇だな」
 ジークはほおづえをつき、窓の外に目をやった。青葉の深い緑が、風に揺れながら光を受け、きらきらと輝いている。
「ふたりとも、今年もまた働くの?」
 アンジェリカはジークの視線を追いかけながら尋ねた。
「あっ、そうだ……」
 ジークは鞄を開け、中をかきまわしながら何かを探し始めた。
「あった、これ」
 そう言って、しわだらけのチラシを机の上に置いた。白い紙に黒い文字が打たれただけの、そっけないものである。アンジェリカとリックは顔を近づけて覗き込んだ。
「俺、ここに採用されたんだ。時給いいんだぜ」
 ジークは嬉しそうに白い歯を見せてニッと笑った。
「王立魔導科学技術研究所……? ああ、魔導を科学的に解明しようとしているところね!」
 アンジェリカはぱっと顔を上げた。しかし、リックはまだチラシを目で追っていた。小さく書かれた文字を指さす。
「この仕事内容、必要データの提供……って何?」
 アンジェリカも指で示された部分に目を落とした。
「要はモルモットってこと?」
「い、嫌な言い方すんなよ」
 ジークは顔を引きつらせながら苦笑いした。
「でも、面白そうなところよね」
 アンジェリカはめずらしくはっきりと興味を示した。リックはコーヒーを飲みながら、少し驚いたように彼女を見た。
「だろ? 普通に入ろうとしても、入れてもらえねぇからな。アルバイトついでに、いろいろ見学してこようって魂胆だ」
 ジークはわくわくした様子で、子供のように無邪気に笑った。
「……私も、行こうかな」
 アンジェリカは目を伏せ、ほほをほんのり赤らめながら、ためらいがちに言った。ジークは目をぱちくりさせながら彼女を見た。
「もう遅ぇぜ。応募期間は過ぎてるし、募集はひとりだし。ま、どっちにしろ、おまえは年齢制限で引っかかるけどな」
 淡々とそう言うと、ジークはチラシの下の方を指さした。アンジェリカとリックは同時に覗き込んだ。そこにははっきり「18〜22歳」と書かれていた。アンジェリカは口をとがらせ、ほほをふくらませた。ジークに振り向いたリックも、なぜか怒ったような顔をしている。
「ジーク、ちょっとひどくない? アルバイトのこと、何も言ってくれないなんて」
「悪かったよ」
 ジークは少し体を引くと、バツが悪そうに笑った。そして、少し恥ずかしそうに目をそらし、声のトーンを落として続けた。
「前もって言って、落とされたらみっともねぇだろ」
 ふたりは呆れ顔をジークに向けた。
「でも残念だよ。今年もジークとショーをやるのを楽しみにしてたのに」
「俺はほっとしてるぜ。おまえと違って好きでやってたわけじゃねぇし。あんな恥ずかしい、なんとかレンジャーなんてよ」
 ジークは去年のことを思い出し、苦い顔をした。
「冷たいなぁ」
 本気で落胆しているリックを見て、アンジェリカはくすりと笑った。
「まあ、今年はひとりで頑張れよな。俺は俺でバリバリ働くからよ」
 ジークはリックの背中をポンと叩いた。リックはため息をついて、コーヒーを口に運んだ。
「ねぇ、二ヶ月間ずっと働くつもりなの?」
「ん? ああ。休日はあるけどな」
「そう……」
 アンジェリカは下を向き、ティーカップを両手でとった。そして、緩やかに揺れる琥珀色の水面をじっと見つめた。
「少し、寂しいわね」
 ジークははっとして彼女を見た。それから慌てたようにうつむくと、ブラックのコーヒーをスプーンでかきまぜ始めた。
「と、ときどきは連絡するから、よ」
「うん」
 アンジェリカは顔を上げ、にっこりと笑った。そしてふいに何かを思いついた様子で、ティーカップを机に置くと身を乗り出した。
「ねぇ。今年も誕生パーティやるんだけど、来てくれるわよね? 休暇中になっちゃうんだけど、ふたりの都合のいい日に合わせるから」
 長期休暇の時期は学年によって異なる。昨年は休暇後だったが、今年は休暇中にあたるのだ。
「うん、もちろん!」
 リックは即答した。しかしジークは暗い顔でうつむいていた。彼はレオナルドの言葉を思い出していた。家族を不幸にしたのはサイファ自身だと……。レオナルドを信用しているわけではない。だが、気になるのも事実だ。心のどこかでサイファを疑っている自分がいる。アンジェリカの家に行けば、当然、彼と顔をあわすことになるだろう。普通に振る舞えるのだろうか。
「……嫌なの? プレゼントとかはいいから、来てくれるだけでいいんだけど……」
 アンジェリカはだんだんと声を小さくしながらそう言うと、不安を顔いっぱいに広げた。ジークはその声で我にかえった。慌てて返事をする。
「行く、行くぜ、もちろん。悪い、考えごとしてた」
 彼女を安心させるようににっと笑顔を作って見せた。ややぎこちなかったが、それでもアンジェリカはほっとしたように表情を和らげた。
「そういや、今年も呼ぶつもりか? アイツ……」
「あいつって、レイラさん?」
 ジークはけわしい表情でうなずいた。
「もちろんよ。お見舞いに来てもらったお礼もちゃんとしたいし」
 嬉しそうに弾んだ声で答えた。反対に、ジークはますます沈んでいった。レイラは自分勝手で自己中心的で、おまけに非常識だ。しかし問題はそれだけではない。息子、つまりジークの恥ずかしい過去をたっぷり握っているのである。そのうえ彼をからかって楽しむという悪趣味だ。リックはまだしも、アンジェリカと会わすことはなるべく避けたい。だからといって、呼びたがっているのにやめろとは言えない。ジークは無理だと思いつつも、何事もないよう祈るしかなかった。
「そうだ、ラウルにも声を掛けなきゃ」
 アンジェリカは軽く言った。
「なっ……! 呼ぶつもりか?!」
 ジークは思わず声を張り上げた。目を見開き、口を開けっ放しにして、彼女を見つめる。
「たぶん来てくれないけど、一応ね。去年も断られちゃったし」
 アンジェリカは冷静に答えると、ティーカップを手にとり、だいぶぬるくなった紅茶を一気に飲み干した。
「今から行ってくるわね、ラウルのところ」
 にっこり笑って立ち上がり、空のティーカップを持って返却口に向かった。
「待てよ、オイ!」
 ジークとリックは慌てて残りのコーヒーをあおり、彼女のあとを追った。
「ジーク、どうするの? 万が一、ラウルが来ることになったら」
 リックは、前を行くアンジェリカを気にしながら、声をひそめて尋ねた。ジークは顔をしかめて頭をかいた。
「だからって、行かねぇわけにはいかないだろ」
「よかった」
 リックはにっこりと笑った。

「レオナルド、おまえは外で待っていろ」
 ラウルは戸棚から包帯を取り出しながら、窓際で腕を組んでいるレオナルドに命令した。
「いいのよ、彼は」
 丸椅子に座ってラウルを待ちながら、ユールベルは感情なく言った。ラウルはそれ以上、何も言わなかった。新しい包帯と薬瓶を手に取ると、ユールベルの前に腰を下ろした。彼女の頭の後ろに手を伸ばし、左目を覆っている包帯をほどきにかかる。
 レオナルドは窓枠に手をつき、外に顔を向けた。樹々の深緑が風に揺れ、ざわざわと複雑な音を掻き鳴らす。
「今、レオナルドのところにいるのか」
「そうよ」
 ラウルはユールベルの包帯を取り外し、彼女の見えない目をあらわにすると、そのまわりの消毒を始めた。オキシドールの匂いがあたりに広がる。彼女はそのくらくらするような匂いが好きだった。無意識に深く吸い込む。胸を少し上下させただけで、背筋はピンと伸ばし、前を向いたまま微動だにしない。ラウルは新しい包帯を手に取ると、彼女に巻きつけ始めた。
「寮を引き払え。入寮待ちの生徒は山ほどいる。おまえが一ヶ月で入れたのは、サイファが裏で手をまわしたからだ」
 それを言い終わると同時に、包帯の方も結び終わった。彼女の髪に手ぐしを通し、軽く整える。ユールベルは目を細めてじっと彼の瞳を見つめたが、彼はそれに応じることなく片づけを始めた。
「どうしてあなたはいつも、そんなに冷たいことしか言えないの?」
「だったらひとつ忠告しておく。レオナルドはやめておけ」
 ラウルは手を止めず、淡々となんの感情も見せずに言った。レオナルドは驚いて振り向き、彼の背中を睨みつけた。
「どういう意味だ」
「おまえには荷が重すぎる。ユールベルを受け止めるだけの器ではないということだ」
 ラウルは背を向けたまま、冷たく言い放った。
「そう言うのなら、あなたが私を受け止めてよ」
 レオナルドが答えるより早く、ユールベルは抑揚のない声でそう言った。レオナルドは目を見開いて彼女を見た。彼の表情にははっきりと動揺の色がにじんでいた。そんな彼の様子を気にかけることもせず、ユールベルはラウルの膝に横向きに座り、彼の首に手をまわした。
「受け止めて、くれる……?」
 じっと目を見合わせると、彼と唇と軽く重ね合わせる。それから彼の耳に口づけし、吐息とともに何かをささやいた。ラウルはまったく表情を動かさない。ユールベルは再び彼の瞳を見つめると、今度は深く長い口づけをした。互いが触れ合うかすかな音だけが静かに流れる。やがてゆっくりと顔を離すと、彼の広い胸にそっと身を預け、彼の肩ごしにレオナルドを冷たく一瞥した。
 レオナルドはようやく我にかえった。目の前で起きていることは夢ではない。現実だ。
「やめろ!!」
 ふたりに駆け寄ると、乱暴に引き離した。ユールベルはよろけて床に倒れこんだ。
「なぜだ……どうしてなんだ!!」
 体をこわばらせ両こぶしを握りしめ、大声で叫ぶと彼女に振り返った。彼女は倒れこんだままの姿勢で、床を見つめていた。
「俺よりもラウルの方がましということか? それとも、俺を試しているのか?」
 レオナルドは喉の奥で息を詰まらせたように、不安定に震えた声で問いつめた。ユールベルははっとして顔を上げかけたが途中でやめ、逆にさらに深くうなだれた。緩やかなウェーブを描いた長い髪が床に落ちる。
「やっぱり、私、だめみたい」
 ぽつりぽつりと短い言葉をつなぐ。レオナルドは怪訝な表情を浮かべた。
「あのひとの言うように、どうしようもない人間だわ」
 彼女は吐き捨てるようにそう言うと、床についた手をぎゅっと強く握りしめた。そのこぶしも肩も、小刻みに震えている。
「違う! そんなことは……」
 レオナルドは慌てて否定した。しかし、彼女はより大きく肩を震わせた。
「もう、見放していいわよ、私なんか……」
 隠そうとしても隠しきれない涙声。レオナルドはうつむき顔をしかめた。
「……見放してほしいのか?」
 苦しそうにそう尋ねると、ユールベルは小さな声ですすり泣き始めた。静かな医務室の中、彼女の嗚咽のみが響く。レオナルドは何かをこらえるようにきつく目を閉じていたが、やがて決意を固めたように、ゆっくりと目を開いた。そして彼女の体を起こし、ぎゅっと強く抱きしめた。
「たとえどんなに拒絶されたとしても、俺はあきらめない。やっと見つけたんだ。あきらめてたまるか!」
 震える彼女を抱き上げて立たせると、向かい合ってしっかりと手をつないだ。そして、もう一方の手で、彼女の頭を自分の肩に引き寄せた。
「見てろ、ラウル。おまえが間違っていたことを、いつか証明してやる」
 ラウルを睨みつけ、低く静かにそう言った。そして、ユールベルの手を引き、戸口へ足を進めた。

 レオナルドが扉を開けると、そこに黒髪の少女が立っていた。
「あなた……」
 ユールベルは驚き、まだ涙が乾ききっていない右目を大きく見開いた。その少女はユールベルのルームメイト、ターニャだった。泣きそうな、怯えたような顔をしている。何か言いたそうに口を開けるが、言葉が出てこない。代わりにユールベルが端的な一言を突きつける。
「つけてきたのね」
 図星をつかれたターニャはますます言葉をなくした。逃げるようにうつむき、目を閉じまぶたを震わせた。
 レオナルドはユールベルの手を引き、戸口をまたいで廊下に出ると、後ろ手で扉を閉めた。もうラウルと面倒な話はしたくない。彼が出しゃばってこないことを祈った。
「聞いてたんでしょう」
 ユールベルは返事を待たずに、さらに冷たく尋ねた。
「……ぬ、盗み聞きなんてするつもりじゃなかった……けど……ごめんなさい、悪かったわ」
 ターニャはこわばった顔で、無理やり笑顔を作った。しかしユールベルはそれを受け入れなかった。突き放すような冷たい瞳を向ける。
「もう私には構わないで」
「私は、あなたが心配で……!」
「放っておいて! あなたもわかったでしょう、私がどんな人間か。もう構わないで!!」
 ユールベルはむきになって言い返した。こんな感情的な彼女を見たのは、ターニャは初めてだった。しかし、それに驚いている場合ではない。
「あんなの聞いたら放っておけるわけないじゃない!!」
 ターニャも負けずに言い返した。そして、ユールベルにまっすぐな黒い瞳を向け、悲しげに顔を歪ませた。
「どうして……? どうしてそんなに自分を傷つけるの? どうしてそんなに近づく人を拒絶するの?」
 その言葉はユールベルを突き刺した。青い顔でターニャを睨みつける。
「あなたにはわからないわ!!」
 レオナルドの手を引っ張り、アカデミーの方へ駆けていった。遠ざかるふたりの足音を聞きながら、ターニャは両手で顔を覆い、肩を震わせ、その場に崩れ落ちた。

「ねぇ、あれ……」
「あ、こないだの」
 アンジェリカが指さした先には、黒髪の少女が座り込んでいた。顔は見えなかったが、おそらくターニャに間違いない。三人は急いで走り寄った。ジークは、うつむきないている彼女の肩を揺すった。
「どうした、オイ! ラウルに何かされたのか?!」
「ちょっと、どうしてラウルを疑うわけ?!」
 アンジェリカはジークに突っかかった。しかし、ジークがそう思うのも無理はなかった。ここはラウルの医務室の前である。こんなところで泣いていれば、ラウルが何かしら関わっていると考えるのも当然だろう。
 しかし、ターニャは首を横に振った。
「私が悪いの……ユールベルを傷つけちゃった……」
 三人は互いに顔を見合わせた。彼女のその言葉だけでは、どういうことなのかよくわからない。しかし、それ以上、彼女に話をきける雰囲気ではなかった。
 リックはハンカチを差し出した。ターニャは驚いたように彼を見上げた。しかし、泣いてぼろぼろの顔を手の甲で隠しながら、慌ててうつむいた。
「……持ってる、から……」
 しゃくりあげながらそう言うと、スカートのポケットから薄い桜色のハンカチを取り出し、無造作に顔に押しあてた。三人はどうすればいいかわからず、ただ黙って彼女を見下ろしていた。

「君たち、ユールベルの事情に詳しいの?」
 涙を拭って落ち着きを取り戻したターニャは、うつむいたまま冷静に尋ねた。三人の表情に緊張が走った。
「まあ、ある程度は……」
 ジークはためらいがちに答えた。
「私は、寮に入るのは家庭の事情としか聞いてないんだけど、あの子の心には、そうとう深い闇があるような気がするの」
 ターニャは沈んだ声でそう言うと、ハンカチを握りしめた。
「虐待……でも受けていたんじゃないのかな。背中にもおなかにも古傷があったし、あの目だってきっと……」
 アンジェリカは頭から一気に血の気の引いていくのを感じた。青白くこわばった顔でうつむく。額には冷たい汗がにじんでいる。ジークとリックも無言でうつむいた。
 ターニャはそれを肯定の返事ととったようだった。
「やっぱり放ってなんておけない……! でも、どうすれば……」
 両手でハンカチをきつく握りしめ、下唇を噛みしめた。そして眉根にしわを寄せ、目をきつくつぶった。ひざの上に涙が数滴こぼれ落ちた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 レオナルドの手を引き走るユールベルは、泣きながらつぶやくように繰り返した。レオナルドは逆にユールベルの手を引き、抱き寄せた。
「何も言うな」
 彼女の背中にまわす手に力を込め、彼女の頭に頬を寄せた。全身で彼女を感じようと、彼女を包み込もうとする。しかし、彼女は小刻みに震えたまま、頬に涙を伝わせた。
「私、自分がわからない……こわい……」
 怯えたように消え入りそうな声で、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「おまえが見失ったら、俺が見つけてやる。だから、安心しろ」
 思いつめたふうにそう言うと、歯をくいしばり、眉間にしわを寄せた。しかし、それを悟られないように、彼女の肩に顔をうずめた。そのまま小さく呼吸をして息を整える。ユールベルは、彼のあたたかい吐息を感じ、いくぶん落ち着いてきたようだった。いつものように無感情な声で、ぽつりぽつりと話し始めた。
「彼女にだけは、知られたくなかった……あんな私……」
「誰だ。あのおせっかいの偽善者は」
 レオナルドは思い出しながら顔をしかめ、嫌悪感をあらわにした。
「寮のルームメイトよ。いいひとだわ。とても良くしてくれた」
 ユールベルはそこまで言うと、レオナルドの背中に細い腕をまわした。どこか迷ったように、ぎこちなく力を込める。
「でも、私には眩しすぎる。彼女の光が、私の闇を深くするのよ」
「関わらなければいいさ」
 レオナルドはきっぱりとそう言うと、ユールベルを強く抱きしめた。


50. リング

「ようこそ、いらっしゃいませ」
 レイチェルが門まで、レイラ、ジーク、リックを出迎えた。
 今日はアンジェリカの誕生パーティである。三人は連れ立ってやってきた。ジークとリックはまるきり普段着だが、レイラはひとり気合いを入れて、ワインレッドのベロア調ワンピースで若づくりをしている。
「約束のモノ、ちゃーんと持ってきたわよ」
 レイラはウインクをしながら、底の広い白無地の紙袋をゆっくりと掲げた。がさつな彼女にしてはめずらしく丁寧に扱っている。レイチェルはにっこり微笑みながらそれを受け取った。
「ありがとうございます。面倒なことを頼んでしまってすみません」
「なんの、なんの。こっちも楽しかったし、ね!」
 レイラはジークとリックに振り返り、同意を求めた。
「はいっ!」
 リックは元気よく返事をした。だがジークはむすっとして顔をそむけた。
「どうしたんです?」
 レイチェルはきょとんとして尋ねた。
「いいの、いいの、気にしないで。自分の不甲斐なさにへこんでるだけだから」
「え? 不甲斐なさって?」
「ふふっ、あとでわかるわよ」
 レイラは白い歯を見せて、いたずらっぽくニッと笑った。

 重厚な扉を開け、レイチェルは三人を中に招き入れた。ジークの家がすっぽり入るのではないかというほどの玄関ホール、緩やかなカーブを描く幅広の白い階段、それと対照的な赤い絨毯、きらびやかなシャンデリア。いつもながら圧倒される光景だ。
「アンジェリカ? みなさんがいらしたわよ」
 レイチェルが声をかけると、アンジェリカは応接間の扉から、ちょこんと顔だけ出した。少し困ったような顔で、恥ずかしそうに笑っている。
「大丈夫だよ、ほら」
 サイファは優しくそう言うと、後ろからアンジェリカの肩を抱き、玄関ホールに連れ出した。
「…………」
 三人は目を見開いて、呆けたように見つめた。
 彼女は深紅のロングドレスをまとっていた。腰からふんわりと広がったベルライン、肩を柔らかく包み込むパブスリーブは、レイチェルと同じシルエットである。黒いチョーカーについた小さなバラが、可愛らしいアクセントになっている。いつも身軽なミニスカートやミニのワンピースばかり着ている彼女のドレス姿に、三人は思いきり意表をつかれた。
「やっぱり変よね。着替えてくる!」
 無言の視線に耐えきれなくなったアンジェリカは、顔を真っ赤にして逃げようとした。
「かわいいわ! すっごいかわいい!!」
「うん、似合ってるよ!」
 レイラとリックは我にかえり、顔をぱっと明るくすると、口々にそう言った。しかし、ジークはいまだ無言のままである。
「ジーク、あんたもそう思うでしょ」
「え……ああ、まぁ……」
 レイラは気を利かせてジークに振ったが、彼は目を伏せ、曖昧に口ごもった。アンジェリカは顔を曇らせうつむいた。
「やっぱり変なのね……」
「あははっ、気にしないで。あのバカ照れてるだけなのよ。かわいいってくらい素直に言えばいいのに。なーに意識しちゃってんだか」
「てっ……テメーなに言ってんだ!!」
 ジークの顔は一瞬にして上気した。
「さっ、バカは放っといて行きましょ」
 レイラは先頭を切って、すたすたと応接間に向かった。まるで自分の家のような所作である。サイファとリックは笑いながらそのあとに続いた。
 アンジェリカは不安そうにジークに振り向いた。彼はまだ火照った顔を下に向けたままである。しかしわずかに顔を上げ、ちらりと彼女を見ると、右手で OKのサインを送った。アンジェリカはハッとしたあと、安堵したように表情を緩めた。長いドレスの裾を少し上げ、小走りで応接間に駆けていくと、戸口で振り返った。
「ジークも早く!」
 弾んだ声で呼び掛けると、屈託のない笑顔を彼に向けた。ジークは表情が崩れそうになるのを抑えながら、早足で応接間に向かった。
 レイチェルは後方で、見守るようにあたたかく微笑んでいた。

 広い応接間には、大きな長方形のテーブルがセッティングされ、その上には数々のごちそうが並んでいた。
「まずは、乾杯ね!」
 レイラは勝手に仕切り始めた。いつものことである。ジークはあきれて突っ込む気にもなれなかった。
 全員に飲み物が行き渡ると、レイラは高々とシャンパングラスを掲げた。
「それでは、アンジェリカちゃんの 12歳の誕生日を祝して……かんぱーい!!」
 ひときわ高い声を張り上げて、嬉しそうにみんなとグラスを合わせてまわった。
「ったく、本人よりはしゃいでどうするんだ」
 ジークはため息をつくと、やけっぱちで大きな骨付き肉にかぶりついた。レイラはそう言われても気になどしない。ただ、そんな息子を眺めながらふとつぶやいた。
「12歳かぁ……。ジークが 12のときって何やってたかしら」
「……頼むから何も思い出すなよ」
 いつかの悪夢がよみがえり、ジークは額に冷や汗をにじませた。その隣でアンジェリカはくすりと笑った。そして、グラスを置くと、レイラに走り寄った。
「レイラさん、これ」
 彼女はスカートを持ち上げ、赤い革靴を見せた。
「あ、去年プレゼントした靴ね! 良かった、似合って! もうサイズはピッタリ?」
「まだ少しだけ大きいんだけど、せっかくだから。この靴に合わせてドレスを作ったの」
 ほんのりと頬を染めながら、照れたようにはにかんだ。
「靴に合わせて作るんなら、スカートは短い方が良かったんじゃねぇのか? そんだけ長かったら隠れちまうだろ」
 ジークは口に食べ物を入れモゴモゴさせたまま、後ろから冷静に突っ込んだ。レイラはキッと彼を睨んだ。
「もう、アンジェリカちゃんの生足が見たいからって、いやらしい子ね!」
 茶化したようにそう言うと、肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。
 ジークは喉に食べ物をつまらせ、げほげほと激しくむせた。
「言ってねーだろ!」
 顔を赤くしながら涙目で必死に叫んだ。みんなどっと笑った。ただ、アンジェリカだけはひとりぽかんとしていた。
「ねぇ、ナマアシって何?」
「……えっ?!」
 尋ねられたリックは、驚いて言葉を詰まらせた。
「うーん、まあ、足とおんなじ意味じゃないのかな」
 困ったように笑いながら、そう言ってお茶を濁した。その様子をレイラはにこにこしながら眺めていた。
「ほーんと、かわいいわぁ。ね、ウチの娘にならない?」
 落ち着こうとしてお茶を飲んでいたジークは、再びむせ返った。
「む……むちゃくちゃ言うな!!」
「そんなに無茶かしら、ねぇ?」
 レイラは含み笑いをしながら、サイファとレイチェルに振り向いた。
「まだしばらくは手元に置いておきたいですよ」
「将来はわかりませんけれどね」
 ふたりはくすくす笑いながら返事をした。ジークはその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。アンジェリカがどんな反応を示しているのかも気になった。しかし、ただ紅潮した顔を隠すようにうつむくことしかできなかった。
「私、養子に出されちゃうの?」
 アンジェリカはきょとんとしてそう言った。それを聞いて、今度はまわりがぽかんとした。そして次の瞬間、どっと笑いが起こった。ひときわ大きな声で笑っているのがレイラであることは言うまでもない。
「上、行くぞ!」
 たまりかねたジークは、とまどうアンジェリカの腕をつかみ、戸口へ走っていった。
「おい、リック!」
「え? 僕も?」
 ソファに座ってくつろいでいたリックは、嫌な顔もせず立ち上がり、呼ばれるまま彼のあとを追った。

 三人は二階のアンジェリカの部屋にやってきた。あいかわらず広い部屋である。ジークの部屋が 10個は入るかもしれない。何度か来ているが、久々だったせいか、ジークもリックも少し驚いていた。
「ねぇ、さっきの話だけど」
 アンジェリカの声が呆けていたジークを現実に引き戻す。
「あれはただの冗談だ。悪ノリって言うか……とにかく気にすんな! な!」
「そんなので納得できるわけないじゃない」
 頬をふくらませ、ジークを睨んだ。そしてふいにリックに目を移した。
「僕に聞かないでよ。言ったらジークに殺されちゃうから」
 彼は笑顔であっさり拒否をした。
「まあ、なんていうか、あいつらは俺をからかってるわけで、おまえが気にすることはねぇってことだ」
「そうかしら? 私が笑われているみたいだったけど」
 アンジェリカは疑いのまなざしを送る。ジークは逃げるように目をそらせた。策もつき困り果てているところに、リックが助け舟を出した。
「ジークの言っていることは本当だよ。それは保証する」
「まあ、リックがそう言うなら」
 多少の疑念を残しつつも、アンジェリカは引き下がった。

「来たばっかりなのに、なんかもうぐったりだぜ」
 ジークはそう言って、出窓の飾り棚に手をつきうなだれた。
「ごめんね」
 アンジェリカは後ろからぽつりと言った。
「なんでおまえが謝るんだよ。どっちかっていうと、謝らなきゃいけねぇのは俺の方だろ。俺の母親が引っかきまわしてんだからよ」
 ジークは母親の所業を思い出して、苦々しく顔をしかめた。ある程度のことは覚悟をしていたが、彼女はその一歩先を行っていた。
「ふたりともそんな渋い顔しないで、ぱっと楽しくやろうよ!」
 リックは急に明るい声を張り上げた。
「大変なこともいっぱいあるけど、今日くらいは全部忘れてさ」
 付け加えたその一言に、ジークが過敏に反応した。キッときつく睨みつける。あえて「大変なこと」を思い出させるような配慮のない言い方が許せなかった。リックもようやく自分の失言に気がついた。
「あ、僕、食べるものでも取ってくるねっ!」
 焦ったようにそう言うと、リックはすばやく部屋から逃げ出した。パタンと扉の閉まる音がすると、ジークは腕を組み、深くため息をついた。
「……ったくよ」
 そっとアンジェリカに振り向くと、彼女は少しとまどったように肩をすくめて笑った。
「そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに」
「……平気なのか?」
 ジークはためらいがちに声を掛けた。
「いろいろ考えちゃうことはあるけどね」
 そう言ってかすかに笑ってみせると、窓の外に視線を流した。どこか遠くを見ているような、どこも見ていないような、捉えどころのない表情。笑みは消えていたが、無表情というのとはどこか違う。
「この前、ラグランジェ家が集まるパーティがあったの。毎年開催しているものなんだけど」
 ガラス窓に手を伸ばし、そっと目を伏せる。
「レオナルド、今年は来なかった」
「良かったじゃねぇか」
 ジークは軽く言った。しかし、アンジェリカは不満そうに口をとがらせた。
「基本的に一族の者はみんな参加する義務があるのよ。今までレオナルドは毎年来てたし。そう、いつも私をいじめるのを楽しみにしてたわね」
「ちったぁマシな人間になったってことだろ。おまえをいじめるより、もっと大切なことを見つけたんじゃねぇか?」
 ジークは飾り棚に手をつき、背筋を伸ばすと、真剣な顔を外に向けた。昼下がりの柔らかい光が彼を包む。
「それって、ユールベル?」
 アンジェリカは彼の横顔を見上げた。
「多分な」
 ジークは外を見つめたままで答えた。
「そういえば、ユールベルの家族は来てたわよ。あのお母さん、普通に楽しそうに笑ってた。なんだか、やりきれなかったわ」
 つらそうに目を細め、うつむく。
「ユールベル、幸せになってくれるといいんだけど」
「レオナルドに頑張ってもらうしかねぇだろうな」
 ジークは投げやりな感じでそう言うと、ため息をつき視線を落とした。アンジェリカはそっと顔を上げ、じっと彼を見つめた。
「でも、ユールベルはジークのことが好きだって……」
 とたんにジークは表情をけわしくして振り向き、彼女を睨みつけた。
「だから何なんだ」
「え?」
「おまえ、俺にどうしろっていうんだ。俺の気持ちはどうなるんだよ。人の気も知らねぇで!」
 ジークの突然の感情の高ぶりに、アンジェリカはわけがわからずぽかんとしていた。
「あ……悪かった」
 ジークは冷静を取り戻すと、ばつが悪そうに彼女から顔をそむけた。そのとき、ふいにミニサボテンが目に入った。もっとも窓に近いところに置かれ、太陽の光をたっぷり浴びている。濃い緑のピンと伸びたとげが、元気であることを主張していた。ジークの表情はふっと和らいだ。ジャケットのポケットに右手を突っ込み下を向いた。
「ねぇ、俺の気持ちって? ユールベルのことが嫌いなの?」
 アンジェリカは無遠慮に覗き込んできた。ジークは慌てて顔をそむけ、ポケットから手を出した。
「そうじゃねぇよ。どうでもいいだろう。蒸し返すなって」
 冷静を装って、その話題から逃げようとしていたが、アンジェリカがそう簡単に許すはずはない。
「いきなり怒鳴っておいて、それはないんじゃない?」
 腰に手をあて口をとがらせながら、わざと怒ったようにそう言うと、小さくくすりと笑った。
「ホント悪かったって。ったく……」
 ジークはちらりと彼女を見て、耳元を赤らめた。そして小さく口を開いた。
「………………れよ」
「えっ? なに? 聞こえなかった、もう一回」
 アンジェリカは顔を上げ、背伸びをしながら彼に踏み込んだ。大きな黒い瞳をまっすぐ彼に向ける。
「バっ……! そんな近づくなっ!」
 ボリュームのあるドレスのスカートに、彼の脚が埋もれていく。ジークは逃げるように上体をそらせ、片足を引いた。

「ジーク! アンジェリカ!!」
「うわぁっ!!」
 扉を開けリックが元気よく戻ってきた。ジークは焦って妙な叫び声をあげた。
「どうしたの?」
 リックはぜいぜいと息の荒いジークを、不思議そうに見た。
「ノックくらいしろ!!」
「あ、ごめん」
 あまり悪いとは思っていないような、軽い調子で答えた。
「食べるものを取りに行ったんじゃなかったの?」
 アンジェリカは手ぶらの彼を見て尋ねた。
「うん、今からケーキを出すから、ふたりとも降りてこいって」
「……俺はいいよ」
 ジークは目をそらせ、小声でぼそっとつぶやくように言った。
「なに言ってるの!」
 アンジェリカはにっこり笑いかけると、彼の手をとり駆け出した。

「お待たせしました」
 レイチェルは白い箱を手に載せて、応接間に入ってきた。
「私のわがまま、きいてくれてありがとう」
 アンジェリカは嬉しそうに、ジークとリックに礼を述べた。ケーキはふたりが作ったものだった。今年の誕生日プレゼントは手作りケーキがいい、アンジェリカがそうリクエストしたのだ。ジークがプレゼントのことで悩まなくてもいいようにという彼女なりの配慮でもあった。
「私が付きっきりでみっちり監修したから、味は保証するわよ」
 レイラは人さし指を立ててウインクした。
「見た目はちょっとアレだけどね」
「仕上げはジークに任せちゃったからね」
 リックも同調して苦笑いした。ジークは背を向けたまま、何も言わなかった。
「さあ、開けますよ」
 レイチェルは机の上に白い箱を置き、そっと蓋を上に持ち上げた。
「……」
「……持ってくるときに崩れてしまったのかしら?」
「いやいや、元々こうだったのよ」
 レイラは腕を組み、笑いながら言った。
 そのケーキはデコレーションと呼ぶには、あまりにもお粗末な状態だった。まわりには生クリームが無造作に塗りたくられ、ぼってりと厚い部分もあれば、スポンジが見えている部分もある。そして、やはり無造作にイチゴが載せられている。立っていたり転がっていたり統一がとれていない。そして、どれも中途半端に生クリームにまみれていた。とてもおいしそうには見えない。
「でも大丈夫よ。絶対においしいから」
 レイラは自信たっぷりに胸をはった。
「そうよね。見た目じゃないわよね」
 アンジェリカはケーキを眺めながらぽつりと言った。
「ろうそくは立てる?」
 レイチェルが尋ねると、アンジェリカは恥ずかしそうに首を横に振った。
「いいわ。もう子供じゃないんだし」
 ジークは何か言いたげに彼女を見た。
「なに?」
「なんでもねぇよ」
 ジークは再び顔をそむけた。
 レイチェルはケーキを六つに切り分け皿に取り、みんなにひとつづつ渡していった。
「まずはアンジェリカから食べてね」
 レイラがにっこり笑ってそう言うと、アンジェリカはこくんと頷き、緊張ぎみにケーキのひとかけらを口に運んだ。
「あ! おいしい!」
「でしょ!」
 レイラは腰に手をあて、背筋を伸ばすと、満足げに笑った。
「疑ってただろ、おまえ」
「ちょっと、ね」
 ジークがじとっと睨むと、彼女は肩をすくめて笑った。
「本当においしいわ、これ」
「味だけなら、パティシエ顔負けだな」
 レイチェルとサイファは、見た目の悪いケーキを口々に褒めた。ジークとリックは顔を見合わせて、ほっとしたように胸をなで下ろした。
「しっかし、この子の不器用は誰に似たのかしら。両親とも手先は器用なのに」
 レイラはケーキを口に放り込みながら、あきれたようにつぶやいた。
 彼女の言うことは間違っていない。ジークの母親、つまりレイラは、内職で服や靴を作っていて、細かい作業はお手のものだ。ああ見えて料理も上手い。ジークの父親は、もう亡くなっているが、生前は腕のいい二輪車修理工だった。
 しかし、ジークも負けてはいない。彼女に振り向くと、にっと笑ってみせた。
「じゃあおまえの自己中な性格は誰に似たんだよ。じいさんもばあさんも、物腰の柔らかい人だったのにな!」
「ほほう、言うようになったじゃない?」
 レイラはなぜか嬉しそうだった。

 はしゃぎながらたっぷりごちそうを食べたあと、ジークたちはソファでゆったりとくつろいでいた。サイファのピアノの音色が心地よく眠気を誘う。まどろむアンジェリカの隣で、ジークは大口を開けてあくびをしている。さらにその隣では、リックが目を閉じピアノの音色に耳を傾けている。
「アンジェリカ」
 レイチェルが小さな箱を持ってやってきた。
「ん……なあに?」
 彼女は眠そうな目をこすりながら座り直した。
「プレゼントってわけじゃないんだけど」
 レイチェルはそう言うと、手にしていた小さな箱の蓋を開け、彼女に差し出した。その中には、白く光るごつごつしたリングがおさまっていた。きれいに輝いていはいるが、デザインはかなり古めかしい。アンジェリカは不思議そうに母親を見上げた。
「……指輪?」
 隣でぼんやりしていたジークは、その一言でばっと勢いよく飛び起きた。
「どうしたの?」
 アンジェリカは目を丸くした。ジークは彼女の持っているものを見て、とまどったような表情を浮かべた。
「12歳の女の子にシルバーリングを贈るならわしがあることは知っているかしら?」
 レイチェルはにこにこしながら、ふたりに尋ねた。アンジェリカは首を横に振った。
「僕、知ってます」
 リックが隣から口をはさんできた。
「確か、魔よけと幸福のお守りとして贈るんでしたよね。今はもうすたれかかっているとか」
 レイチェルはにっこり笑った。
「じゃあこの指輪はそのならわし?」
 アンジェリカは指輪を取り出し、光にかざした。表面の模様が乱反射を起こし、きらきらと煌めきを放つ。
「そう。私が 12歳のときに受け継いだものよ。ずっと代々受け継がれてきたの。こんな仰々しい指輪、毎日はめているわけにはいかないと思うけど、大切に保管はしておいてね」
 レイチェルの話を聞きながら、左手の中指にその指輪をはめてみた。引っかかることなく、すっぽりと奥まで滑っていった。どうやら彼女の指には大きすぎるらしい。
「わかったわ。そういえば、シルバーには魔よけの力があるって聞いたことがあるわね」
「あっ、それ、シルバーじゃなくてプラチナなのよ」
 レイチェルは肩をすくめた。
「え? でもさっきシルバーリングを贈るって……」
 アンジェリカは目をぱちくりさせた。
「本来はそうなんだけど、どうしてかしらね。多分、シルバーより変質しにくいからだと思うけど」
「ふーん、案外いいかげんなのね」
 指を広げて指輪を眺めながら、ぽつりと言った。レイチェルとリックは苦笑いをした。しかし、ジークは思いつめたような難しい顔でうつむいていた。

 ピアノの音がやみ、サイファが近づいてきた。
「楽しそうだな」
 にっこりと微笑むと、ジークの前のソファに腰を下ろした。レイチェルもその隣に寄り添うように座った。
「ジーク君は今、魔導科学技術研究所で働いているんだって?」
 サイファは含み笑いをジークに向けた。ジークに不安と緊張が走った。
「はい、そうですけど……」
「いろいろ噂は聞いているよ。やんちゃな子が入ってきて、手を焼いているって」
「えっ?」
 ジークは驚いて短く声をあげた。しかし、考えてみれば、あの研究所は魔導省の管轄にある。魔導省に勤めているサイファとつながりがあっても不思議ではない。
「ジーク、いったい何をやらかしたわけ?」
 アンジェリカは笑いながら彼を覗き込んだ。ジークは少し身を引いた。
「別に何もやってねぇよ。ただ、そっちの仕事をやらせてくれとか、他の部屋や施設を見せてくれとか頼んだだけだ。全部、断られたけどな」
「月払いの給料を週払いに変更させたとも聞いたぞ。無断で制限区域に立ち入ろうとしたこともあったらしいじゃないか」
 サイファはニッと口角を上げた。
「え、あ、すみません……」
 ジークは少しびくつきながら謝った。だが、サイファは別に彼を責めるつもりはなかった。
「今度、連れていってあげるよ。制限区域の施設。簡単な見学くらいになると思うが」
「本当ですか?!」
 ジークは身を乗り出した。
「私も行きたい!」
 アンジェリカも続いて身を乗り出した。サイファはすまなさそうに笑うと、彼女の頭にそっと手を乗せた。
「さすがにまったくの部外者を入れるわけにはいかないよ」
「そう……」
 あからさまに落胆した様子でうなだれ、ソファの背もたれに身を沈めた。
「おまえ、まだまだこれからいくらでもチャンスはあるだろ。そんな顔するなって」
 ジークは右手を上げかけて、そっと戻した。
「うん、そうね」
 アンジェリカは沈んだ声で返事をした。

「さて、そろそろ帰るか」
 ジークはリックに振り向いた。リックもこくりとうなずいた。
「あれ? レイラさんは?」
「あ、そういえば……」
 ジークはすっかり忘れていた。
「レイラさんでしたら、あちらですわ」
 レイチェルがにっこり笑って指し示した方を見てみると、長いソファで横になり、ぐっすり眠っているレイラがいた。体に掛けられたタオルケットは、おそらくレイチェルが気をきかせてくれたものだろう。ジークはカッと顔が熱くなるのを感じた。
「どうりで静かだと思ったぜ」
 ズボンのポケットに手を突っ込み、やや背中を丸めて、母親のもとへ近づいていった。
「おい、起きろよ。ひとんちでくつろぎすぎだぞ」
「……もう、朝?」
 レイラは大きくあくびをして目をこすりながら起き上がった。まだ目は虚ろで、ぼんやりとしているようだ。
「寝ぼけてんじゃねぇぞ。そろそろ帰るぜ」
「ジークさん、まだゆっくりしていってくださっても良いのですよ」
「これ以上、迷惑をかけるわけには……ていうか、本当にすみません……」
 ジークは申しわけなさそうに背中を丸めて、レイチェルに頭を下げた。彼女は首を横に振ると、にっこり笑って彼を見上げた。アンジェリカとサイファも、その光景を眺めながら微笑んでいた。

「いろいろありがとう。楽しかったわ」
 アンジェリカは両親の間に立ち、来客に最後の礼を述べた。
「僕らの方こそ楽しかったよ。ね、ジーク」
「あぁ」
 ジークはふいにアンジェリカから目をそらせた。頬をなでる冷たい風が、頭の芯をはっきりとさせる。そして、それは、夢のようなひとときの終わりを自覚させた。まだかすかに明るさの残る空に、カラスの鳴き声が寂しげに響く。
「また、今度ね」
 アンジェリカは寂しさを押し隠し、にっこり笑ってみせた。
「……あんまり水やりすぎんなよ」
「えっ?」
「またなっ」
 ジークはぶっきらぼうに右手を上げると、背を向け歩き出した。リックも彼女に手を振りながら、ジークのあとを追った。
「来年もまた呼んでね!」
 レイラも大きく手を振りながら去っていった。

「水って何の話?」
 レイチェルはちょこんと首をかしげてアンジェリカを見た。
「さぁ? 何なのかしら」
 アンジェリカは本当にわけがわからないといった様子で、口を軽くとがらせ腕を組むと首を傾げた。

 水、水、水……。
 心の中でつぶやきながら、後ろで手を組み、アンジェリカは自分の部屋へ戻っていった。
「水をやるなっていったらサボテンだけど、何かおかしくなっていたのかしら。今朝は元気だったはずだけど」
 うーんと唸って首を傾げながら窓際に歩いていった。そして出窓の飾り棚を覗き込む。
「なに、これ」
 ミニサボテンの鉢の隣に、見覚えのない小さな箱が無造作に転がっていた。手に取り、そっと蓋を開く。
「……えっ?」
 その中に入っていたものはリングだった。レイチェルからもらった指輪とは明らかに別のものだ。なんの飾りもない、シンプルで細い銀色の輪。
「これだったのね」
 アンジェリカはくすりと笑った。彼のいくつかの不可解な言動がひとつにつながった。
「もう、まわりくどすぎよ」
 半ばあきれたようにそう言うと、左手の中指にそのリングをはめてみた。彼女の指には少し大きかったが、それでも満足そうだった。スカートをひらめかせ、くるりと一回転し、ふかふかのベッドに背中から倒れ込んだ。そして、くすくす笑いながら、まっすぐ上に左手を掲げた。
「宝物がもうひとつ増えた」
 アンジェリカは目を閉じ、大切そうに銀の指輪を胸元に抱えた。

51. 国家機密

「はーい、それじゃ 10分の休憩ね」
 甘ったるい女性の声が、スピーカーを通し狭いブース内に響いた。ジークはヘルメットを取り、それを足元に置くと、扉を押し開けた。
「いいデータが取れてるわ。君を採用したのは正解みたいね」
 今度はスピーカー越しではなく生の声。髪をアップにし、ヘッドセットをつけた女性が、にこにこしながら近づいてきた。かっちりとしたパンツスタイルのユニフォームだが、その声のせいか、丸顔のせいか、不思議と柔らかい印象を受ける。彼女はジークに冷えた缶コーヒーを差し出した。
「あ、どうも」
 ジークはそれを受け取ると、その場ですぐにプルタブを起こし開け、立ったままごくごくと飲みだした。そして、ふうと一息つくと、額ににじんだ汗を手の甲で拭った。
「ごめんね。ブース内は冷房がきかなくて」
 彼女はヘッドセットを外し、首にかけると、打ち合わせ用の白い机にもたれかかった。ジークは椅子を引き、横向きに腰を下ろした。
「気が散るので静かにしてください!」
 少し離れたところでモニタに向かっていた若い男が、怒りを含んだ声を発した。ジークがうんざりしたように振り向くと、その男は無言で睨みつけてきた。
「うるさいのはあなたの方でしょ! ったく、いつもいつも……」
 彼女はむっとして言い返した。腕を組み、口をとがらせ、彼を睨みつける。そしてジークに振り向くと、申しわけなさそうに笑ってみせた。
「ごめんね。気にしないで」
 その瞬間、ガコンとスチール机を蹴飛ばす音が聞こえた。

「やあ、ジーク君。頑張っているか?」
 聞き覚えのある声に、彼ははっとして顔を上げた。
「サイファさん!」
 ジークは椅子から立ち上がり、小さくペコリとおじぎをした。隣の彼女も、慌てて机から飛び下り、勢いよく頭を下げた。短い栗色のポニーテールがひょこりと飛び跳ねる。
「この前の約束を果たしに来たよ」
「本当ですか?!」
 ジークの顔がぱっと輝いた。そんな彼を、彼女は驚いたように見つめていた。彼女だけではない。フロア内の人間すべてが注目していた。遠くでかすかなざわめきが起こる。
「サイファ殿、今日はどのようなご用件ですかな?」
 茶色い口ひげをたくわえた中年の男が、後ろで手を組み、ゆっくりと近づいてきた。
「突然ですみません、ゴードン所長」
「あなたはいつも突然ですな」
 サイファがにっこり笑いかけると、所長はもともと細い目をさらに細くした。
「今日は彼に下を見学させようと思いまして。構いませんか? もちろん私が同伴します」
 ジークの肩にサイファの手がのせられた。こんなにも注目を浴びてしまっていることに、ジークは少なからぬとまどいを感じていた。驚嘆のまなざし、羨望のまなざし、嫉妬のまなざし、嫌悪のまなざし。さまざまな感情が突き刺さる。彼はそれらから逃れるようにうつむいた。
「ジークとお知り合いで?」
「娘の友達なんですよ」
 サイファは屈託なくそう言った。ジークは顔を上げることができなかった。サイファの言っていることは間違っていない。だがこの流れでは、娘の友達だから特別扱いをされているように聞こえる。いや、実際そうかもしれない。しかし、そう思われることには抵抗があった。
「彼を信用できますか?」
 所長はちらりとジークを一瞥すると、サイファに耳打ちをした。
「あなたはどう思います?」
 サイファはジークから少し離れると、声をひそめて聞き返した。
「人間にはどんな裏があるかわかりませんからな」
 所長は慎重にそう言うと、再びジークを見た。しかし、サイファは軽く笑い飛ばした。
「彼はそんなに器用ではありませんよ」
「あなたがそうおっしゃるのでしたら」
 ジークにはその会話はところどころしか聞こえなかった。だが、自分についての話であることは、ふたりの素振りでわかる。気にはなったが、尋ねられる雰囲気ではない。
「私もついていって構いませんかな」
 所長はサイファから体を離し背筋を伸ばすと、よく通る声を張り上げた。
「もちろんです」
 サイファもそれに呼応するような、少し大きめの声で答えた。そしてジークに振り返ると、にっこり笑って手招きで呼んだ。
「あなたは規則を何だと思っているんですか!」
 突然、若い声がサイファをなじった。その声の主は、先ほどジークに難癖をつけてきた男だった。彼はサイファを激しく睨みつけたが、笑顔で軽く受け流された。
「そう固いことを言うな。なんだったら君も来るか?」
「行きません!」
 若い男はむきになって拒絶した。
「そうか、残念だな」
 サイファはそれだけ言うと、あっさり彼に背を向けた。

 サイファ、所長、ジークの三人は、研究所をあとにし、薄暗い廊下に出た。
「彼にはずいぶんと嫌われているようですね」
「優秀だが、神経質で頭が固いのが難点で」
 前を歩くサイファと所長は、笑いながら話をしていた。
 ジークは少し後ろめたい気持ちになっていた。ただのアルバイトである自分がこんなに特別扱いされても良いのだろうか。他のみんなが不快に思っていないだろうか。そんなことを、もやもやした気持ちで考え込んでいた。
 やがて、地下へと続く階段に辿り着いた。階段の前には黄色の線が引かれ、それより向こう側は立入禁止区域であることを示している。
 ふいにサイファが振り返った。真剣なまなざしでジークに問いかける。
「ジーク、ここで見たことは他言無用だ。もちろんアンジェリカやリックにもだ。守ることができるか?」
「はい」
 緊張しながらも、まっすぐ視線を返す。サイファは探るように彼の瞳を見つめていたが、しばらくするとにっこり微笑んだ。
「よし、じゃあ行こう」
 ジークは顔をこわばらせながら、黄色の線をまたいだ。

 薄暗い階段を降りると、そこにはいかにも頑丈そうな扉があった。サイファはココンと軽くノックし、ドアノブをまわし開けた。煌々とした明かりとともに視界が開ける。ジークの目に中の光景が飛び込んできた。
「……上と変わらないですね」
 ジークは拍子抜けしたようにぽつりとつぶやいた。たくさん並んだコンピュータ、実験ブース、会議用の机。すべて上の研究室にあるものと同じだ。ただし、部屋自体は上よりも狭く、かなり雑多な印象を受ける。彼にはどのあたりが機密なのか理解できなかった。
「扱っている研究の内容が、上より機密レベルの高いものなんだよ。コンピュータの処理能力も上とは比べものにならない」
 ジークの心を見透かしたかのように、サイファはそう説明をした。それでもジークは落胆の色を隠せなかった。見た目からしてもっとインパクトのある何かを期待してしまっていたのだ。
「サイファさん、今日はどのようなご用件ですか?」
 チーフの襟章をつけた男が声を掛けてきた。見た感じではサイファと同じくらいの年齢だろうか。こざっぱりと白衣を着こなしたさわやかなその姿は、散らかった研究室には不釣り合いに見える。
「今日はただの見学ですよ。気にせず仕事を続けてください」
 サイファはにっこり笑いかけると、ゆっくり見回り始めた。所長はチーフと仕事の話を始めたようだった。黙って突っ立っていても仕方がないので、ジークもサイファについて見てまわることにした。彼の後ろから邪魔にならない程度に覗き込む。モニタを見てもジークに研究の内容はわからない。だが、サイファはそれについて研究員と議論をし、指示を出したりしている。優れた魔導士でありながら、科学技術にも精通しているようだ。ジークは研究所より、彼のことの方が気になり始めていた。
「すまない、退屈していたか?」
 サイファは、ジークがぼうっとしているのに気がつくと、振り向いて声を掛けた。
「いえ……」
 ジークは少し耳元を赤らめると、うつむいて言葉を濁した。
「次へ行くとするか」
 サイファは振り返り、軽く右手を上げ、離れたところにいる所長に合図を送った。
「……え?」
 ジークは意味がわからず聞き返した。
「行くだろう? レベルA区域」
 サイファは、逆に不思議そうに聞き返してきた。
「レベルA区域……?」
「知らなかったのか。セキュリティレベルによって、フロアが分かれているんだ。上がレベルC区域、ここがレベルB、この下がレベルAだ。下はここよりさらに機密レベルが高くなっている」
 彼は淡々と説明をした。
 所長はチーフとの話を切り上げ、サイファの方へやってきた。
「行きますか」
「ええ」
 ジークは、並んで歩くふたりのあとをついていった。

 サイファは入ってきた方とは反対側の扉を開けた。そこには暗く細い下り階段だけがあった。階段の前には橙色の線が引かれている。ここから先がレベルA区域という印のようだ。一歩踏み出すと、ひんやりした空気が肌にしみてきた。
「足元に気をつけて」
 サイファは初めてのジークを気づかうと、靴音を響かせながら、暗闇へと降りていった。所長はジークを先に行かせると、そのすぐあとをついていった。
 階段を降りきると、鉄製の物々しい扉が行く手をふさいでいた。サイファは体重をかけ、ゆっくりと押し開けた。
「あっ、VRMですね!」
 ジークは開きかけた扉の奥にある機械を見つけ、弾んだ声をあげた。
「そう。ここでVRMを作り、魔導発動の仕組みを研究している」
 三人は煌々と光のともったレベルA研究室へ足を踏み入れた。上の研究室とはかなり趣きが違う。未完成のVRMが二体中央に置かれ、そこから多数のケーブルが伸び、絡み合い、大小さまざまなコンピュータにつながれていた。床には工具や計測器が雑然と転がり、足の踏み場もないほどだ。奥の大きなマシンが轟々と唸りを上げている。ひとりはチーフの襟章をつけ、デスクトップコンピュータに向かっている。ひとりは右手に持った小さな機械で何かを計測している。そして、もうひとりは、絡み合ったケーブルの上に寝そべり、VRMの下部にコードを接続しようとしていた。
「あっ、サイファさん!」
 コンピュータに向かっていたチーフが驚いた声をあげ立ち上がると、他のふたりも慌てて立ち上がろうとした。だが、サイファはそれを制した。
「今日は見学に来ただけだ。そのまま続けて」
 そう言うと、三人に向かってにっこりと笑いかけた。
「アカデミーのもここで作ったんですか?」
 ジークは後ろから尋ねた。
「ああ」
 サイファは前を向いたまま、腕を組んで答えた。
「神経、脳波、血流、細胞の変化から、体の動きと魔導の発動と制御を的確にシミュレートする。君たちは何気なく使っているだろうが、すさまじい技術の結晶だよ、これは。それゆえ一般に販売することも、他で作らせることも一切ない」
 サイファに指摘されたとおり、ジークは深く考えず何気なく使っていた。言われてみれば、確かにすごそうな技術である。だが、彼には難しすぎて理解できそうもない。
「実はこれ、ラウルの理論に基づいて作られたんだよ」
「ラウルの?!」
 思わぬところで思わぬ人の名前が出てきたことに、ジークはとまどいを感じた。
「彼の理論は私たちの何十年も先を行っているものだったよ。彼が我々の科学水準を20年、30年引き上げたといっても過言ではないだろう」
 VRMを見下ろしながら、サイファは淡々と語った。ジークは眉をひそめ、けわしい表情を作った。
「何者なんですか。いろいろ怪しすぎませんか」
「さあ、何者なんだろうね。この国ではない、遠いところからやって来たらしいが」
 サイファはVRMに片手をかけながら、ケーブルを踏みしめ、ゆっくりそのまわりを歩き始めた。
「しかし何かを企むには長すぎるだろう、300年は」
「300年?!」
 ジークは素っ頓狂な声をあげた。サイファは足を止め、少し驚いたような顔で振り返った。
「知らなかったのか? ラウルがこの国にやって来て、およそ300年だそうだ。その間、姿はまるで変わっていないらしい」
 若く見えるがかなり年がいっているという噂は聞いたことがあったが、まさか300年とは思いもしなかった。ジークはただただ驚くばかりで、声も出なかった。
「何を考えてやって来たのかはわからないが、悪いやつではないと思っているよ」
 サイファはそう付け加え、にっこり笑ってみせた。VRMを挟んだ向こう側から、所長がさらに一押しした。
「私もその意見に賛成だ。金にも地位にも名誉にも、まるで揺るがされることのない、数少ない人間だよ」
 ジークはうつむき口を結んだ。
「だいたい何かを企てようとしている男が、赤ん坊を引き取って育てようとするか?」
 サイファは軽く笑いながら言った。それでもジークは深く考え込んだままだった。思いつめたように眉根にしわを寄せる。
「洗脳して何かをさせようとか……」
 真面目な顔でふいにぽつりとつぶやいた。サイファはきょとんとして彼を見た。そして、次の瞬間、上を向いて大笑いした。
「あっははははは。そんなまわりくどいことをする必要があると思うか? ラウルが本気を出せば、こんな国などあっというまに崩壊させられるよ」
「サイファさんは……」
「足元にも及ばないさ。みんなで束になってかかっても無理だろうね」
 確かにラウルが強大な魔導力を持っていることはわかる。しかし、いくらなんでもそれは言いすぎなのではないかとジークは疑っていた。サイファでさえ足元にも及ばない力など想像もつかない。自己の謙遜なのだろうか、相手の過大評価なのだろうか。それとも事実なのだろうか……。そんなことを考えていると、サイファは優しく、しかしどこかはかなげに、ふっと笑いかけてきた。
「君も本当は感じているのだろう? ラウルが悪い人間ではないと。好き嫌いは別にして」
 そう問いかけられると、ジークはうつむき、ぎゅっと結んだ口を歪ませた。そして、そのまま何も答えることができなかった。

「さあ、次へ行こうか」
 サイファは明るく声を弾ませると、ジークの背中をポンと叩いた。
「レベルS区域へも行くおつもりで?」
 所長は重々しく声を低め、鋭い視線をサイファに向けた。しかし、彼は笑顔でそれを受け止めた。
「ついでですからね。何かあれば、責任は私が負いますよ」
 そう言って、ジークの肩に手をかけた。
「まだ先があるんですか?」
 ジークはサイファに視線を流しながら尋ねた。先ほどの話では、レベルA区域の話までしか出てこなかった。
「そうだよ。ごく限られた者しか立ち入りを許可されていない区域だ」
 サイファはジークの肩を抱えたまま、奥の鉄壁の前までやってきた。ドアノブも、手に掛けるものも、何もない。これは扉なのだろうか。ジークはぐるりと見回しながらいぶかった。サイファは、そんな彼ににっこり笑いかけると、その鉄壁の端に埋め込まれた、四角く黒いプラスティック板のようなものに親指を押しあてた。ピピッと小さな電子音が聞こえたかと思うと、プシューという空気音がそれに重なった。次の瞬間、鉄の塊が唸りを上げ、中央から上下に分かれていった。
「さあ行こう」
 サイファは呆気にとられているジークの背中を軽く押した。呆然としながらも、彼は促されるままに足を前に進めた。三人が奥に入ると、再び鉄壁が轟音を上げ、元に戻った。

「あんな若い子を連れていって、どうするつもりなんですかね」
 レベルA区域で、研究員のひとりが、閉じられた壁を見つめながら首をひねった。そういう彼自身もまだけっこう若いように見える。
「サイファさんのことだ。何か考えがあってのことだろう」
 コンピュータに向かったまま、チーフは冷静に答えた。

 鉄壁の奥には、レベルBからレベルAへ向かうときと同じように、細く暗い下り階段があった。今度もやはり線が引かれていた。色は赤のようである。暗みに沈んでしまって、いまいちわかりづらい。
 サイファが先頭になって下り、その後ろにジーク、最後に所長と続いた。一段ごとに空気が冷え込んでいく。サイファが下りきると、それに呼応するかのように、明かりがともった。明るすぎるくらいの蛍光灯の光。ジークは反射的に右手をかざすと、顔をしかめながら目を細めた。
「これは……」
 目が慣れてきたジークの視界に映ったものは、オレンジ色の液体が入った巨大な円筒だった。人間がひとり中で泳げるくらいの大きさはある。自分たちを取り囲むように、四体がそびえ立っていた。中の液体は静かに循環しているようだった。モーターの低い振動音が腹に響いてくる。
「魔導の源となる物質、エネルギー増幅素子だよ」
 サイファはさらりと言った。ジークは圧倒され、口を半開きにして、そのオレンジ色の円筒を見上げていた。概念としてしか知らなかった物質が、目の前に、それも大量にその存在を示している。なぜだか得体の知れない恐怖を感じた。畏怖の念に近いかもしれない。なぜ、どうして、どうやって……。いろんな疑問が矢継ぎ早に頭を駆け巡るが、まったく言葉が出てこなかった。
「我々は純度99.75%まで精製することに成功している」
 サイファは感情なくそう言うと、円筒のガラス面に軽く手を置いた。手のひらがオレンジ色の光に染まる。
「アカデミーで習っただろう。体内のエネルギーをこの素子で増幅させ放出するのが魔導の基本。この素子を持たずに生まれた者は、いくら努力をしても魔導を使えるようにはならない」
「何のために、これ……」
 ジークはようやくそれだけの言葉を絞り出した。背中に寒気を感じながら、額には汗がにじむ。サイファは顔だけわずかに振り返った。真剣な表情で、鋭い視線を突きつける。
「この国を守らなければならない。来たる脅威に備え、出来うる限りの対抗手段を準備する。それが私たちの仕事だ」
「これを、どうやって……」
 ジークの声はかすかに震えていた。
「体内に注入すれば、一時的に強大な魔導を発動できるようになるだろう。理論上はね」
 オレンジ色の液体を見上げ、サイファは淡々と語った。
「理論上……」
 ジークはおうむ返しにつぶやいた。
「誰も試したことがないんだ。拒絶反応や副作用が起こる可能性が未知数でね。人体実験が禁止されているんだよ」
 サイファは再び振り返ると、意味ありげに小さく笑った。ジークの心臓は飛び出しそうなほどに強く打った。そして、次第に鼓動が速くなっていった。
 ——まさか、俺に?
 こんなに楽なのに、こんなに時給がいいなんて、よく考えるとおかしな話だ。何か裏がある、どうしてそう思わなかったのか。いつかのアンジェリカの言葉がフラッシュバックする。
 ——モルモットってこと?
 ジークは小刻みに震える唇から、声にならない息を漏らすと、おびえるように瞳を揺らした。そんな彼をさらなる深みへ突き落とすように、サイファは冷たい視線を送った。
「決めるのは君だ。我々の未来のためにその身を捧げるか、それとも今日のことをすべて記憶から抹消しここから出ていくか……。たとえ君が後者を選んでも、私は君を責めはしない」
 いつもの柔和な表情からは想像もつかないほどの冷酷で厳しい瞳。
「さあ、どうする?」
 無表情で決断を迫る。彼の言葉がぐらぐら頭に響く。何も考えられない。ただひたすら恐怖を感じていた。でも何か……何かを言わなければ……。
「サイファ殿、少々悪ふざけが過ぎやしませんか?」
 沈黙を打ち破ったのは所長だった。細い目をさらに細くして、ややあきれたような顔をサイファに向ける。サイファはにっこりと笑った。
「あまりに彼が怯えるもので、つい調子にのってしまいました」
 所長もつられて笑い出す。
「いやしかし、なかなか見事な演技でしたぞ。いつ首を切られても安心ですな」
「主演男優賞でも狙いましょうか」
 ふたりは顔を見合わせて笑いあった。
「……え……あ……」
 ジークは話が飲み込めずにとまどった。
「すまない。冗談だったんだよ」
 サイファはにこにこしながら振り返った。ジークは呆然としたまま、目をぱちくりさせた。
「……どこ、から?」
「君に実験台を頼んだくだりからだよ。今はこれを結晶化して使用できないか、またハンドオン装置を作成できないかという方向で進められている」
 ジークはようやく安堵した。強く打つ鼓動を鎮めようと小さく息をつく。しかし、そう簡単に落ち着かせてはもらえないようだ。
「いずれ人体実験を行うときが来るかもしれないが……」
 サイファは不吉な言葉を付け加えた。茶化しているふうではない。今度の言葉は本心なのではないか。ジークに再び緊張が走った。
「そういえば君は四大結界師を目指しているそうだな」
「目指してるっていうか、そうなれたらいいっていうくらいですけど……」
 ジークは突然、自分のことに話を振られてどきりとした。自信なさげにおそるおそる答える。普段、リックやアンジェリカの前では大口を叩いているが、さすがにサイファの前では畏縮してしまうらしい。
「だったら、いい予行演習になったかもしれないな」
 サイファはニッと笑いかけた。オレンジ色の円柱にもたれかかり腕を組む。
「案外、知られていないことだが、四大結界師は物理的、環境的だけでなく、政治的にも国を支えている」
 ジークもそのことは知らなかった。少し驚いたような顔を見せると、サイファはさらに説明を続けた。
「王族に次ぐ大きな権限を与えられていてね。単に魔導力を注ぎ込むだけの楽な仕事ではないんだよ。仕事の大部分は政治的なものだといってもいい」
 サイファは淡々と話を続ける。
「それゆえ、こういった残酷な選択を突きつけられることも、少なからずあるだろう」
 ジークは呆然としていた。
「君には度胸とハッタリと決断力が足りないな。これから少しづつ身につけていくといいだろう」
 サイファはにっこり笑って、ジークの肩にぽんと手をのせた。その瞬間、ジークは膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。



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