目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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43. 過去への扉

「いつまで寝ているつもりだ」
 すっかり身支度を整えたラウルが、奥の部屋から出てきた。そのまま足を止めず窓ぎわまで進むと、ガラス戸をガラガラと開ける。ひんやりした空気が、柔らかな光をかきわけ流れ込んできた。ふわりと揺らめいた白い仕切りカーテンには薄い影が映っていた。返事はなかったが、ユールベルがそのベッドで寝ていることは間違いない。
 シャッ——。
 ラウルはカーテンを半分だけ開いた。ユールベルは布団も掛けず、髪も服も乱したままで横たわっていた。両手両足は無造作に投げ出され、まくれ上がった白いワンピースから、白い上腿があらわになっている。そして、虚ろに開かれた右目は、何も映していないかのように生気をなくしていた。
 ラウルは彼女の体の上に、大きな白いタオルを落とした。冷たくなった肌を包み込む、暖かく柔らかな感触。ユールベルはゆっくりとラウルに顔を向けた。
 チャリン。
 彼の手から枕元に何かが投げ置かれた。ユールベルはラウルを見つめたまま、そろそろと手を伸ばす。冷たく固い、小さなもの。それは輪につながれた鍵ふたつだった。
「私はアカデミーへ行く。食事をとるなり、シャワーを浴びるなり好きにしろ。出るときは鍵を閉めていけ」
 ラウルはそれだけ言うと、医務室の扉を開け出ていった。
 ユールベルは手にした二つの鍵をじっと見つめた。ひとつは医務室の鍵、もうひとつは……ラウルの部屋の鍵? ラウルの部屋は医務室の奥にある。ほとんど壁と同化している目立たない扉が入口らしい。ラウルがそこから出入りするのを何度か見かけたことがあった。しかし、一度も入ったことはない。
 ユールベルは鍵を軽く握り、気だるそうに身を起こした。そして奥の扉をじっと見つめた。

 キーン、コーン——。
「午前はここまでだ」
 ラウルは教本を閉じ、机の上でトンとそろえると、小脇に抱え教室をあとにした。彼が歩く間にも、次第に廊下は賑やかになっていく。喧噪から逃れるように角を曲がると、そこにはユールベルが待ちかまえていたかのように立っていた。
 ラウルは彼女を一瞥し、そのまま通り過ぎようとした。だが、ユールベルは彼の前に飛び出し、行く手を阻んだ。顔を上げ、深い茶色の瞳をじっと見つめる。そして、チャランと小さな音をさせながら、二つの鍵をラウルの鼻先に掲げた。
「机の上のサンドイッチ、食べてしまったわよ」
「好きにしろと言った」
 ラウルは目の前の鍵をひったくるように奪い取った。
「もしかして、私のために作っておいてくれたの?」
 ユールベルは無表情で尋ねた。ラウルも無表情で彼女を見下ろした。
「用がないのならもう行くぞ」
 冷たくそう言うと、左足を横に踏み出し、彼女を通り過ぎようとした。
 その瞬間、白いワンピースが風を受けふわりと舞い上がる。ユールベルはラウルに飛び込んでいた。彼の胸に顔をうずめ、背中に手をまわす。そのとき、彼女の長い髪が、ラウルの手に触れた。冷たい。まだ生乾きだった。
「やっぱりあなたのことは嫌い」
 ユールベルはラウルの胸元で、淡々とつぶやくように言った。
「そうか」
 ラウルは感情のない声で短く返した。

 ふたりのまわりがざわつき始めた。遠まきに見ている生徒たちは、興奮しつつ声をひそめて話し合ったりしている。ここはアカデミーの廊下、ふたりは教師と生徒。騒がれるのも当然である。
 しかし、ユールベルはまったく意に介していないように見えた。顔を上げ、ラウルを見つめる。そのまま焦茶の長い横髪をぐいと下にひっぱり、彼の顔をすぐ近くまで引き寄せた。甘い匂いがラウルの鼻をくすぐる。それでも彼はまるで表情を変えない。
 ユールベルはわずかに眉をぴくりと動かし睨みつけた。そして、つま先立ちして首を伸ばすと、唇を触れ合わせた。
 まわりからどよめきが起こった。
 彼女はすぐに顔を離し、今度は平手打ちをくらわせた。パンと軽い音が響く。それと同時にあたりは静まった。
 しかし、ラウルはまったく動じていなかった。
 ユールベルは手の甲で口を拭いながら後ずさりし、彼を睨みつけた。
「さようなら」
 小さな声でそう言うと、踵を返し去っていった。

「なんか外が騒がしくねぇか?」
 ジークはざわめく廊下に目を向けた。しかし、席に座ったままでは、ほとんど外は見えず、何が起こったのか確認することは出来なかった。
「ちょっと話をそらさないでよ!」
 アンジェリカはジークの机に両手をつき、身を乗り出した。軽く口をとがらせた顔を、ぐいっと近づける。
「あ、ああ、ユールベル、な」
 ジークは体を引き、背もたれに寄りかかりながら、しどろもどろに言葉を返した。
「負けを認めてなかったみたいだし、難しいかもしれないね」
 言葉の続かないジークの代わりに、リックが横から冷静に答えた。
 アンジェリカは彼に顔を向け、小さく首をかしげた。
「悔しいのはわかるけど、いきなり暴走したり泣き出したり、わけがわからないわ、彼女」
「……きっと」
 リックは目を伏せた。
「寂しくて、情緒不安定、なんじゃないかな。なんか……わかるんだ」
 ぽつり、ぽつりと言葉を落とし繋いでいく。感情を押し隠したような表情。しかし、すぐに我にかえったように微笑みを作ってみせた。
 ジークは腕を組んでうつむいた。
「ふーん」
 アンジェリカはあまり納得していないような薄い返事をした。
「でも!」
 一転、今度は力を込めて切り出した。腰のあたりで握りこぶしを作り、気合いを入れる。
「何がなんでも約束は守ってもらうんだから」
「…………」
 ジークはうつむいたまま考え込んだ。彼女とユールベルの間に何があったのかは知らない。彼自身も気にはなる。だが、サイファがひた隠しにしていることを考えると、やはり知らない方がいいのではないか。いや、知ってはいけないのではないか。そんなふうに思えてくる。しかし、それではアンジェリカが納得するはずはない。今までもさんざん止めようとしてきたが、すべて無駄に終わった。頑固で、強情で、言い出したらきかない。ただ、今回の件に関しては、彼女の気持ちもわかる。だから、つらい。
「私は守るわよ、約束」
 アンジェリカの弾んだ声が、ジークを現実に引き戻した。とっさに顔を上げると、彼女はにっこりと笑いかけてきた。
「約束?」
 ジークが聞き返すと、アンジェリカは目を丸くした。
「忘れたの? ほら、ジークのいうことをなんでもきくって言ったでしょう?」
「ああ、あれか」
 ジークは気の抜けた声で返事をした。そんなことはすっかり忘れていた。
「俺はおまえに頼みたいことなんて何もねえって」
「だめよ! 私はちゃんと約束を守りたいの」
 アンジェリカは腰に手をあて、前かがみにジークを覗き込むと、少し怒ったように口をとがらせてみせた。
「約束っておまえが勝手に決めただけだろ!」
 ジークは食ってかかった。
 またふたりの言い合いが始まる——リックはそわそわし始めた。だが、アンジェリカは反論することなく、再びにっこりと笑いかけた。
「考えておいてね」
 ジークの胸はドクンと強く打った。少し耳を赤くしながら、腕を組んで、困ったようにうつむいた。
「さ、食堂へ行きましょう」
 アンジェリカは背筋を伸ばして明るくそう言うと、扉に向かって歩き始めた。ジークも立ち上がり、リックとともにあとを追った。

「あっ……」
 アンジェリカは教室を出たところで、小さく声を上げ足を止めた。続いて出てきたふたりも、はっとして足を止めた。三人の視線の先には、壁に寄りかかり、じっとこちらを見つめるユールベルがいた。あいかわらず左目は包帯で覆われている。彼女は壁から背を離すと、そっと歩み寄ってきた。ジークは右足をわずかに後ろに引き、小さく身構えた。
「きのうは取り乱してしまってごめんなさい」
 ユールベルは無表情で詫びの言葉を口にした。だが、アンジェリカはそれを信じようとしなかった。疑いのまなざしを彼女に向けた。
「約束は守ってくれるんでしょうね」
「ええ、負けは負けだもの。仕方ないわ」
 意外なほどあっさりしていた。あっさりしすぎている。
「そう、良かった」
 アンジェリカは固い声で返事をした。疑いはまだ拭えない。
「ついて来て。見せたいものがあるの。それから話をするわ」
 ユールベルは踵を返そうとした。
「今から?」
 驚きを含んだアンジェリカの問いに、ユールベルは足を止め、彼女を見つめた。
「そうよ」
 素っ気なく答えると、背中を向け歩き始めた。アンジェリカは彼女の後ろ姿を見つめていたが、やがて黙って足を踏み出した。
「午後の授業はどうすんだよ」
 ジークが後ろから声を掛けたが、何の反応もなかった。無視をして歩き続けている。こうなったらもう止められない。
「しょうがねぇなぁ」
 困ったように眉根を寄せ、ため息をつく。そして、リックとともに彼女についていこうとした。
 すると、ユールベルが振り返り、ふたりに鋭い視線を向けた。
「あなたたちは駄目よ」
「は?」
 ジークとリックは顔を見合わせた。
「私が約束したのはアンジェリカだけ。あなたたちに話すとは言ってないわ」
「なっ……」
 ジークは口を開けたまま、カクカクと震わせた。
「じゃ、アンジェリカも行かせねぇぞ! 一人だなんて危険だ。行かせられるか!」
 大声でまくし立てるジークに、アンジェリカはむっとして振り返った。
「勝手なこと言わないでよ! せっかく手に入れたチャンスなのよ。ふいになんてしないわ」
 彼女は強気に言い放った。ジークはますます頭に血がのぼった。
「少しは自覚しろ! 今までどれだけ危険な目に遭ってきたと思ってんだ!」
 アンジェリカを指さしながら、怒り顔をつきつける。しかし、彼女は引くどころか、さらに顔を近づけた。
「わかってるわよ。それでも行かなきゃならないの。絶対にゆずれない」
 強い意志を秘めた目を彼に向ける。ジークはその漆黒の瞳をじっと見つめると、何かをこらえるように奥歯を食いしばった。彼女は微動だにしない。
「勝手にしろ!」
 ジークは吐き捨てるようにそう言うと、背を向け腕を組んだ。
「ジーク!」
 はらはらしながら二人のやりとりを聞いていたリックは、投げやりになったジークを見て、たまらず叫んだ。しかし、彼に反応はない。
「アンジェリカ!」
 今度は彼女に振り向き、声を掛けた。アンジェリカは微笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。心配しないで」
 その言葉を残し、ユールベルとともに歩き去っていった。
「行かせちゃっていいの?!」
 リックはジークに詰め寄った。彼は腕を組んでうつむき、唇を噛みしめていた。
「俺には、止められねぇよ」
 ジークの声には、隠せない悔しさがにじんでいた。

 午後の始まりを告げるベルが鳴った。
 ふたりは暗い顔で席についていた。ジークは無意識に、アンジェリカの席に目を向ける。しかし、何度見ても、そこは空いたままだった。
 ラウルがガラガラと引き戸を開け入ってきた。教壇に立ち、教本を机に置くと、無言で教室を見渡した。
「自習にする」
 唐突にそう言うと教壇を降り、まっすぐジークのもとへ歩いてきた。彼にはその理由がわかった。体中に緊張が走る。
「来い」
 そして、今度は反対側のリックに顔を向けた。
「おまえもだ」
 ふたりはこわばった顔を見合わせて、立ち上がった。

 教室から目の届かないところまで来ると、ラウルは足を止め振り返った。
「アンジェリカはどこへ行った」
 腕を組み、ふたりを見下ろす。
「知らねぇよ」
 ジークは顔をそむけ、ふてくされながら言った。リックは慌てて一歩前へ出た。
「ユールベルと一緒に出ていきました。でも行き先は知りません」
「なぜ止めなかった」
 ラウルの低い声に、リックはびくっと体を震わせた。
「と……止めました。でも……」
「俺らのいうことをきくようなヤツじゃねぇよ」
 ジークは後ろから吐き捨てるように言った。だが、その奥には自嘲の色が滲んでいた。
 ラウルは陰の落ちたジークの横顔を見て、軽くため息をついた。
「何か手がかりになるようなことは言っていなかったか」
 リックはうつむいて考え込んだ。
「……あ、なんか、見せたいものがあるとか」
 ラウルの目が鋭く光った。
「ユールベルがそう言ったのか?」
「はい、多分……」
 迫力に押され、自信なく答える。
「わかった。おまえたちは戻れ」
 ふたりは何も言えず、黙ってとぼとぼと戻っていった。

 アンジェリカとユールベルは並んで歩いていた。お互い何も言葉を交わそうとしない。広めの道だが、人通りは少なく、ただふたりの単調な足音だけが耳に響いていた。
「どこへ行くの? けっこう歩いたけど」
 アンジェリカが沈黙を破った。不安を悟られないようにまっすぐ前を向き、平静を装っている。
「私の家よ」
 ユールベルも前を向いたままで静かに答えた。アンジェリカは彼女の横顔をちらりと見て、すぐに前に向き直った。
「私とあなたが友達だったって、本当なの?」
 小さいが凛とした声で尋ねる。
「しつこいわね、あなたも」
 ユールベルは淡々と返した。アンジェリカはわずかに眉をひそめた。
「ピンと来ないのよ」
 ユールベルは目を閉じうつむくと、小さく笑った。
「そうね」
 ゆっくりと顔を上げ、遠くを見つめる。
「最初にあなたに近づいたのは、あなたが『呪われた子』だったから。両親を困らせたかったというところかしら」
「……そう」
 別に何かを期待していたわけではない。だが、そんなことに利用されたのだとは思いもしなかった。やりきれない気持ちが胸にわだかまる。
「それからあなたの家にたびたび遊びに行くようになったわ。あなたの家に行けば、おじさまに会えたもの」
 ユールベルはあごを上げ、遠くを見たまま微笑んだ。
「なるほど、そういうことだったのね」
 アンジェリカは精一杯、強気に答えた。

「さあ、ここよ」
 そこには、二階建ての屋敷があった。アンジェリカの家と比べると、はるかに小さいが、それでも世間一般からすれば大きい方である。
 ユールベルは門を開き、中へと進んでいった。アンジェリカもあとに続く。小鳥のさえずり、草の匂い、風の音、ふたりの足音。外界とは切り離された場所に来てしまったようで、彼女は落ち着かない気持ちになった。
 石畳を歩き、玄関まで来ると、ユールベルは鍵を取り出した。鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。ガチャリという音を確認すると、扉を引き開けた。重量感のある扉が、ギィと音を立てる。
「どうぞ」
 ユールベルは右手を家の中に向け、アンジェリカを促した。アンジェリカは緊張しながら、足を踏み入れた。
「お茶でも飲む?」
 ユールベルは扉を閉めながら尋ねた。しかし、アンジェリカにそんな余裕はなかった。
「私に見せたいものって何?」
 顎を引き、上目づかいで睨みながら、抑えた声で尋ね返した。
「急かすわね。まあいいわ」
 無表情でそう言うと、家の中へと進んでいく。そして、脇の階段を数段上がると、顔だけ振り向いた。
「こっちよ」
 アンジェリカは喉が渇いていくのを感じながら、ユールベルに続き、階段をのぼっていった。薄暗く、空気は湿っている。おまけに妙な匂いもする。息がつまりそうだ。嫌な予感が胸をよぎった。
 階段を上がりきり、そのまままっすぐ歩いて、突き当たりの部屋の前までやってきた。部屋といっても扉はない。元々はあったと思われるが、その付近がまわりの壁もろとも崩れ、あたり一面に瓦礫が散乱している。中は暗くてよく見えない。
「入って」
 ユールベルの声に押され、アンジェリカは足元を見ながら、おそるおそる歩み入った。
「……っ」
 つんと鼻をつく匂い。思わず鼻と口を手でふさいだ。窓はすべて厚手の遮光カーテンで覆われ、さらにその内側には、鉄格子がはめられている。床には、本や服らしきものが一面に散乱していた。他には小さなテレビと本棚、ボロボロに破れた布団くらいだ。
 アンジェリカは絶句した。
「ようこそ私の部屋へ」
 ユールベルの冷たい声が、後ろから突き刺さる。
「私は7年間、ずっとここにいた。閉じ込められていたのよ」
 瓦礫を踏みしめ、部屋の中へ歩み入ると、隅にひっそりと置かれていたぬいぐるみを手にとった。
 アンジェリカははっとした。薄茶色の柔らかな毛並み、愛らしい表情、足裏の刺繍。薄汚れてはいるが、自分が持っているものと同じテディベアに間違いない。
「おじさまにもらったものよ。これだけが私の心の支えだった」
 ユールベルは愛おしげに抱きしめた。
「閉じ込められていたって、どうして……」
 アンジェリカは混乱する頭から言葉を探る。
 ユールベルはテディベアのほこりを軽くはらうと、壁を背にして座らせた。
「きっかけは7年前。私とあなたの間に起きたこと」
 屈めた上体をゆっくり起こし、アンジェリカに顔を向ける。そして一歩、二歩、静かに近づいていった。
 アンジェリカは息をひそめた。額に汗がにじむ。
 ユールベルは頭の後ろに手を回し、包帯をほどき始めた。頭のまわりでくるくると手をまわす。やがて、はらりと白い布が床に落ち、左目があらわになった。
 アンジェリカは息をのみ、引きつった顔であとずさった。
「こわい? あなたがやったのよ」
 焦点の合わない蒼い瞳、まぶたから目尻にかけての焼けただれたような痕。ユールベルは見せつけるように、さらに間をつめた。
「わ、たし……が? うそ、そんな、こと……」
 アンジェリカはとぎれとぎれに言葉を絞り出した。渇いた喉に、声がつっかえる。
「事実よ」
 ユールベルは感情のない声で言った。
「そんな……私が……どう、して……」
 アンジェリカは瓦礫に蹴つまずきながら後ずさり、部屋から出ていった。しかし、ユールベルは手を後ろで組み、軽いステップで瓦礫を踏み越え、あっというまに距離を縮めた。
「あなた馬鹿? 考えてもみなさいよ。どうしておじさまがそんなに隠したがっていたのか」
 彼女はさらににじり寄った。
「おじさまは、毎月、律儀に謝りに来ていたわよ」
 アンジェリカは目を見開いた。
「……うそ」
 額からにじんだ汗が、頬を伝い流れ落ちる。
「嘘だと思うなら、おじさまにきいてみれば」
 ユールベルは足を踏み出した。アンジェリカはさらに後ずさる。その足は、ガクガクと震えていた。
「私もおじさまも苦しんできたのに、当のあなただけ、全部忘れて楽しく生きている。いい気なものね」
 淡々とした口調だが、右の瞳は鋭く光り、アンジェリカをとらえていた。
「ラグランジェ本家の娘が、他人に一生消えない傷を負わせた。そんな醜聞、公にすることなんて出来ない。私はその証拠となるもの。だから、隠された」
 ユールベルは顔を突き出し、アンジェリカを覗き込んだ。
「わかる? 私はあなたの犠牲になったのよ」
 アンジェリカの体は小刻みに震えていた。うっすらと開かれた口からは、何の言葉も出てこない。浅く息をするのが精一杯だった。
「返して、私の7年、私の目、私の顔……」
 ユールベルは両手を伸ばし、アンジェリカの首に指を這わせた。細く冷たい感触。背筋に痺れが走る。もう何も考えられない。アンジェリカは本能だけで、ほとんど無意識に、足を後ろに引いた。
 しかし、そこには床は続いていなかった。
 足を踏み外し、後ろに倒れていく。ユールベルはとっさに手を伸ばした。しかし、それも間に合わず、アンジェリカの体は、頭や体を打ちつけながら、階下へと落ちていった。彼女はピクリとも動かない。
 ユールベルは呆然として、その場にへたりこんだ。焦点の合わない虚ろな瞳が、空をさまよう。
「あなたが、悪いのよ……」
 彼女はうわごとのようにつぶやいた。


44. 血のつながり

 ギィ……。
 重いきしみ音を立てながら、玄関の扉が開いた。薄暗い家の中に、光の帯が伸びる。そして、その光を遮る大きな影。
「いるのか、ユールベ……」
 一歩、足を踏み入れるなり、バルタスは絶句した。彼の視線の先には、仰向けに倒れたアンジェリカの小さな体があった。そのまわりには、どす黒い血だまりが広がっている。
 彼は慌てて駆け寄り、彼女の白い首筋に手を当てた。そして、こわばった顔で立ち上がると、そこから続く階段をゆっくりと見上げていった。
 最上段の、動かない白い小さな影。ユールベルが呆然として座り込んでいた。その左目にいつもの包帯はなく、焼けただれたまぶたがあらわになっている。
「……おまえが、やったのか」
 バルタスは、喉の奥から乾いた声を絞り出した。
「……違う」
 ユールベルはかすかに首を横に振り、小さな声をもらした。
「違う」
 今度ははっきりとした声でそう言うと、おびえた顔で、強く首を横に振った。
「私じゃない、私はやってない!! 違うわ!!」
 ひきつった叫び声をあげながら、両手で頭を抱え込み、肩を震わせた。

 王宮内の緊急医療室。その扉の前でバルタスはうつむき、こぶしを握りしめ、仁王立ちをしていた。ユールベルは彼の足元で膝を抱え、小さく座っている。左目はいつものように、白い包帯で覆われていた。
 長い廊下の向こう側から、カッカッと鋭い靴音を響かせながら、サイファが走ってきた。
「申しわけない」
 バルタスは、息をきらせたサイファに頭を下げ、大きな背中を丸めた。
「アンジェリカは、どうなんだ」
 焦る気持ちを抑え、呼吸を整えながら、極力冷静に尋ねる。
「入ったきりで、まだ何もわからない」
「そうか……」
 サイファは苦しそうに目を細め、緊急医療室の頑丈そうな扉を見つめた。
「本当に、申しわけない……」
「それより経緯を聞かせてくれ」
 大きな体を萎縮させ、弱々しくうつむくバルタスに、サイファは強い視線を向けた。バルタスは下を向いたまま、訥々と話し始めた。
「昼すぎ、ラウルから連絡が入った。ユールベルとアンジェリカが、家に向かったらしいので、念のため見てきてくれ、と」
 ラウルの名を聞いて、サイファはぴくりと眉を動かした。
「それで、行ってみたら、お嬢さまが階段の下で倒れていた。二階にはユールベルが座り込んでいた……。あの子の左目の包帯は、ほどかれていたよ」
 バルタスは眉根を寄せ、口を真一文字に結んだ。
 サイファは、大きな体の後ろで、小さくうずくまっているユールベルに目をやった。
「彼女が突き落としたのか?」
 ぎりぎりまで声をひそめて尋ねる。
「状況から考えればそうだろう。だが、あの子はやっていないの一点張りだ」
 バルタスも声のトーンを落とした。そして、顔だけわずかに振り返り、ユールベルを流し見た。彼女はその視線から逃れるように、両手で頭を抱え込み、体を小刻みに震わせ始めた。
「ユールベル」
 サイファが静かに声を掛けた。ユールベルの体がびくりと揺れた。
「君は……」
「サイファ!!」
 廊下に響いた高い声が、彼の言葉を遮った。
「レイチェル!」
 サイファが振り返ると、彼女は息をきらせ、苦しそうに走り込んできた。
「アンジェリカは?!」
 彼の胸にすがりつき、潤んだ瞳で見上げる。サイファは優しく彼女の肩を抱いた。
「まだわからない。でも、きっと大丈夫だよ」
 力を込めてそう言うと、かすかに笑いかけた。しかし、無理をしていることは明らかだった。レイチェルはうつむいて、何かをこらえたような小さな声を漏らした。

 カツーン、カツーン。
 冷たく無機質な靴音が、あたりに響いた。
 サイファは顔を上げ、レイチェルは振り返り、その音のする方を見た。細身で背の高い女性が、ボリュームのある巻き毛のブロンドを揺らしながら、ゆっくりとしたペースで近づいてきた。膝丈のタイトスカートが、彼女のすらりとした脚をよりいっそう強調する。
「ユリア……」
 そうつぶやいたサイファの脇を通りすぎ、バルタスの前で足を止めた。そして、腕を組み、冷ややかに彼の足元を見下ろした。
「あなた、お嬢さまを突き落としたんですって?」
 ユールベルは驚き、顔を上げた。彼女はその女性を見たとたん、激しくおびえ、壁に身を寄せ震え出した。
「ユリア、やめないか」
「どれだけみんなを不幸にすれば気が済むの、この厄病神!」
 バルタスの制止を無視し、彼女はおびえるユールベルに言葉を突き刺した。
「違う! 私はやってない!!」
 ユールベルは震えながら声を張り上げた。頬に涙が伝い落ちる。それでもユリアは容赦なかった。
「いくら泣いたって、あなたの言うことなんて誰も信じないわよ!」
「本当に、やってない……のに……どう、して……」
 ユールベルはしゃくりあげながら、切れ切れの言葉を並べた。そんな彼女を、ユリアは顔をしかめてにらみつけた。
「泣きたいのはこっちよ。どうしておとなしく閉じ込められててくれなかったのよ。あなたが出てきたせいで、家族はめちゃくちゃだわ」
 ユリアはいらついて、左足で床を蹴りつけた。ユールベルはびくっとして体をこわばらせた。
「生きる価値のない人間のくせに……。それどころか生きていてはみんなの迷惑なのよ! わかってるの?!」
 ユールベルは顔を歪ませ、目をつぶり、幾筋もの涙を流した。
「私だって、好きで生まれてきたわけじゃない……」
 震える小さな声でそう言ったあと、苦しそうに浅い息を繰り返す。
「こんな……こと、なら、生まれてきたくなんかなかったわよ!!」
 壁に寄りかかり、顔を伏せたまま、精一杯の声で悲痛に訴えた。
 しかし、それでもユリアの冷酷な態度に変わりはなかった。
「こっちだって、あなたみたいな子だとわかっていれば、生まなかったわよ」
 小さく舌打ちして、吐き捨てるように言った。ユールベルは耳をふさぎ、体を丸め、床にうずくまった。
「そこまで言うんだったら、いっそ殺してくれればよかったのよ」
 虚ろにそう言うユールベルに、ユリアはさらに追いうちをかける。
「死にたかったらね、勝手にひとりで死になさい!」
 身を屈め、彼女の頭の上から大声を浴びせかける。耳をふさいでも、それを防ぐことはできなかった。手から力が抜け、床に落ちる。
「何度も死のうと思った。でも、死ねなかった……」
 小さなうめき声とともに、すすり泣き始めた。
「度胸もないくせに、偉そうに言ってるんじゃないわよ」
 ユリアは嫌悪感を丸出しにした。威嚇するように激しく右足を踏み出し、白いワンピースの裾を踏みつける。
 ユールベルの肩がぴくりと動いた。それと同時にすすり泣きがやんだ。ゆっくりと体を起こし、顔を上げると、泣き腫らした右目でユリアを睨み上げた。
「度胸がないのは、そっちだって同じじゃない」
 今までとは違う、落ち着いた静かな声。だが、その奥には、激しい怒りが渦巻いているのが感じられた。ユールベルはワンピースの裾を引っ張り、ユリアの足から引き抜いた。ふたりの鋭い視線がぶつかりあう。
「私を殺さなかったのは、あなたが臆病だったから。罪を背負いたくなかったから。だから、私を閉じ込めた」
 ゆらり体を揺らしながらスローモーションで立ち上がると、ふらつきながら一歩前へ踏み出した。顔を上げ、ありったけの怒りをこめた瞳を、まっすぐユリアにぶつける。ユリアに初めて動揺の色が浮かんだ。
 ユールベルは高鳴る鼓動を感じながら、意を決して口を開いた。
「手を汚さず、自分が楽になれる方法を選んだ卑怯者なのよ、あなたは!!」
「うるさい!!」
 逆上したユリアは、握りこぶしを振り上げた。ユールベルは声にならない悲鳴をあげた。逃げるように後ろによろめくと、壁にぶつかり、頭を抱えて崩れ落ちた。
 振り上げられたユリアの腕を、後ろからサイファが掴んだ。
「精神的、肉体的虐待、あげくの果ての監禁だったのか……」
 その声には、やりきれなさがにじんでいた。
「あなたは、あの子のことを、何も知らないのよ!」
 ユリアはサイファの手を振りほどいた。彼に掴まれていた部分を見つめながら、深くうつむいた。
「あの子のことを知れば、誰だってこうするわ」
 淡々と、うわごとのように言う。そして、急に勢いよく振り返ると、声のトーンを上げた。
「ご存知?!」
 サイファを激しく睨み、眉間にしわを寄せた。
「あの子はね、自分の弟さえも手に掛けようとしたのよ。まだ伝い歩きしかできない幼い弟を、階段から突き落としたのよ!!」
「違う! 私はやっていない!!」
 後ろでユールベルは再び泣き叫んだ。
「……どうして、私たちに相談してくれなかったのですか」
 黙って顔をそむけているバルタスに、サイファは悲しい眼差しを送った。しかし、その言葉に反応したのはユリアだった。
「きれいごとを言わないで! あなただって憎いでしょう?!」
 一歩サイファに踏み込み、顔を突きつける。しかし、彼はまったく動じることはなかった。
「彼女はやっていないと言っています」
 冷静に、まっすぐユリアの瞳を見つめる。そのことが、よけいに彼女の頭に血をのぼらせた。
「そんなたわごと! 信じているの?!」
 サイファは後ろで小さくうずくまるユールベルに、そっと目を向けた。
「君は、アンジェリカに真実を話した。アンジェリカはその話に驚いて、階段を踏み外した。そうだとすれば、君を責める理由はない」
 ユールベルは驚いて顔を上げた。呆然とサイファを見つめる。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 ユリアは眉をひそめ、サイファを睨んだ。そして、短く投げやりなため息をついた。
「どこまでお人好しなの、あなたは。万が一、それが事実だとしても、あなたの娘をこんな目に遭わせたのは、あの子のせいに違いはないでしょう」
 サイファの顔つきが険しくなった。
「彼女を追いつめたのは、我々、そして、あなた方だ」
 ユリアは反抗的な視線を返した。しかし、サイファは真っ向からそれを受け止めた。
「申しわけありませんが、お帰りいただけますか」
 丁寧だが、有無をいわせない強い口調。ユリアは一瞬たじろいだ。しかしすぐにサイファをキッと睨みつけた。
「私だって、来たくて来たわけではありませんから」
 そう言うと背中を向け、ヒールの音を響かせた。しかしすぐに足を止め、顔だけ振り返った。その視線は、バルタスに向けられていた。
「さっさとあの子を追い出してちょうだい。そうしない限り、私もアンソニーも戻りませんから」
 一方的に言い放つと、返事を待たずに早足で去っていった。

「すまない。君たちに謝罪させようと思って呼んだのだが……」
 覇気のない声。バルタスは、サイファとレイチェルに頭を下げた。疲れきったように肩を落とし、大きな背中を丸めている。
「ひどい……実の……血のつながった親子なんでしょう?」
 レイチェルは小刻みに震える唇から、かぼそい声を漏らした。その顔は透き通るほどに青白く、今にも倒れそうだ。
 サイファはうつむいた。
「血のつながりなんて、関係ないさ」
 かすかな声で、早口につぶやく。レイチェルははっとして振り向いた。しかし、さらりと流れる金の髪が、彼の横顔を隠し、表情をうかがうことはできなかった。
「血がつながっているからこそ、よけいに憎しみが深くなる、ということもある」
 バルタスは重々しくそう言った。うなだれたままで顔を見せない。レイチェルはくたびれた彼の姿を、寂しげに見つめた。
 サイファは、膝を抱えうずくまっているユールベルのもとへ歩いていった。彼女の前まで来ると、片膝をつき、目線を合わせた。
「すまない。君にはずいぶんつらい思いをさせてしまった」
 ユールベルの瞳にあたたかいものがじわっとにじんだ。目を閉じうつむくと、手の甲にぽたりと雫が落ちた。
「おじ……さま……」
 震える声でそう言うと、大きくしゃくりあげた。
「ごめん……なさい……約束、やぶってしまって……」
 サイファはそっと微笑みかけると、泣き続けるユールベルの頬に手を置いた。

 プシュー。
 空気の抜けるような音とともに扉が開き、中からラウルが現れた。後ろで数人の医療スタッフが、慌ただしく動き回っている。
「アンジェリカは?!」
 レイチェルはラウルに駆け寄り、すがるように白衣を掴むと、泣き出しそうな顔で見上げた。ラウルはなだめるように、レイチェルの細い肩に両手を置いた。そして、真剣な眼差しをサイファに向けた。
「肩、腕と肋骨2本の骨折、それと頭部外傷だ。骨折はたいしたことはないが、問題は、頭の方だ。脳挫傷を起こしている」
「脳挫傷……」
 レイチェルはかすれた声で、聞き慣れない単語を繰り返す。鼓動がしだいに速く、強くなっていく。
「助かるのか」
 サイファが抑えた声で尋ねた。口調は冷静だったが、表情からは抑えきれない焦りがにじんでいた。
「私を信じろ」
 ラウルは、強い漆黒の瞳をサイファに向けた。彼はまっすぐにそれを受け止め、小さくうなずいた。
「アンジェリカに会わせて!」
 レイチェルは再びラウルの白衣を掴むと、大きな澄んだ瞳で必死に訴えた。
「入れ」
 ラウルがそう言うや否や、彼女は小走りで医療室に駆け込んでいった。サイファとラウルも、続いて入っていった。
 アンジェリカは大きなガラス窓の向こう側にいた。天井も床も白い、真っ白な部屋。白いパイプベッドと白いシーツの間に、黒髪の少女は横たわっていた。右腕にはギプスと包帯、左腕には点滴、頭には包帯とネット、口は酸素吸入マスクで覆われている。その他、心電図の装置などが彼女を取り囲んでいた。物々しく、痛々しいその状態を見て、サイファもレイチェルも言葉をなくした。
 しばらくふたりはガラスに張りつくようにして見ていた。
「中へは、入れないの?」
 レイチェルがふいにポツリと言った。
「今は刺激を与えたくない」
 ラウルは間髪入れずに返事をした。レイチェルは、ウェーブを描いた長い髪を舞い上がらせながら振り返ると、潤んだ瞳で彼を見つめた。
「おとなしくするわ、だから……」
 彼女は涙で揺らぐ声で懇願した。しかし、ラウルは無言で背を向け、次の点滴の準備を始めた。レイチェルは、ゆっくりと目を伏せながら、うつむいていった。
「ここから見守ろう」
 サイファは後ろから彼女の肩を抱き寄せた。

 数時間が過ぎた。
 ふたりは長椅子に腰掛け、アンジェリカの様子をガラス越しに見つめていた。彼女はまだ一度も目を開いていないし、微動さえしていない。
「アンジェリカは?!」
 静寂を切り裂く切迫した声が、入口の方から響いてきた。続いて小刻みな足音。ジークとリックが姿を現した。彼らはあたりを見渡し、サイファとレイチェルと見つけると、その前のガラス窓に、一目散に駆け寄った。痛々しいアンジェリカの姿。リックは呆然と立ち尽くした。ジークはガラスに両手をつき、肩を震わせながらうなだれた。
「頭を打っているそうだ。だが、ラウルは大丈夫だと言っている。信じよう」
 サイファは静かに口を開いた。だが、その言葉も、ジークたちの慰めにはならなかった。
「俺のせいだ……。俺が止めてれば……!!」
「僕も、何も出来なかった……」
 ふたりの顔が歪んだ。ジークは、ガラスの上で握りしめたこぶしを震わせた。
「君たちの責任ではないよ」
 サイファは長椅子から立ち上がると、ふたりの間に並び、それぞれの背中に手を置いた。
「真実を隠そうとした、私が悪かったんだ」
 ガラスの向こう側を見つめながら、自らを責めるように、アンジェリカに詫びるように、そう言った。
「責任なら私にもある」
 奥から歩いてきたラウルが、後ろから口を挟んだ。
「ユールベルは……」
「やめて!!」
 突然、レイチェルが悲鳴のような叫び声をあげた。サイファたちが驚いて振り返ると、彼女は固く目を閉じ、頭を小さく横に振っていた。
「誰のせいとか、そんなことより……」
 顔を上げ、揺れる瞳で四人を見つめる。
「今は祈ってください。アンジェリカの回復を……」
 胸の前で両手を組み、震えるまぶたを閉じた。

 さらに数時間が過ぎた。
 それでも状況は何一つ変わらなかった。四人は長椅子に座り、ただ見守ることしかできない。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
 ジークは隣のサイファを気にしながら、反対側のリックに耳打ちした。
「リック、おまえはそろそろ帰れ」
「でも……」
 リックは声をひそめて口ごもる。彼との間をつめ、ジークはさらに畳みかける。
「ここにおまえがいてもいなくても、何も変わらねぇんだ。でも家の方は、そうはいかねぇだろ」
 リックは難しい顔で考え始めた。
「帰りなさい、リック君」
 ジークの向こう側に座っているサイファが、少し身を屈め、リックに微笑みかけた。どうやらふたりの会話は、彼に筒抜けだったらしい。ジークの声が大きかったわけではなく、この場が静かすぎたのだ。ジークは少しばつが悪そうに目を伏せた。
 その隣で、リックはためらいがちに口を開いた。
「……はい。すみません」
 少しの迷いはあったが、彼は素直に甘えることにした。
「ジーク君も」
「俺は帰りません」
 サイファの言葉を遮り、きっぱりと言い切った。強い意志を秘めた瞳を彼に向ける。しばらく、互いの視線の探り合いが続いた。
「……わかった」
 サイファは前を向き、長椅子から立ち上がった。ジークもつられるようにして立ち上がり、彼の端整な横顔を、不安そうに見つめた。サイファは恐いくらいの真剣な表情で振り向いた。
「だが、家に連絡だけは入れておくんだ」
 ジークは、その静かな迫力に押され、無言でこくりとうなずいた。サイファは少し笑顔を見せて、彼の肩に優しく手を置いた。

 サイファ、レイチェル、ジーク、リックの四人は、連れ立って緊急医療室から出てきた。そこには、入る前と同じように、扉の前で仁王立ちをしているバルタスと、その足元で膝を抱えるユールベルがいた。サイファとレイチェルは、彼らを目にするなり、はっと息をのんで目を見開いた。まだここにいるとは思っていなかった。それどころか、存在を忘れていたといってもいい。
 ジークとリックは、ユールベルの姿をなるべく目に映さないようにして避けていた。
「それではリック君、気をつけて。今日はありがとう」
 サイファが礼を述べると、レイチェルはその隣で深々とおじぎをした。
「また、あしたの朝に来ます」
 申しわけなさを顔いっぱいに広げ、リックはぺこりと頭を下げた。
「アカデミーまで一緒に行くぜ。家に連絡しないといけねぇし」
 リックにそう言ったあと、ジークはサイファに振り向き、目を合わせた。
「家に連絡したら、すぐ戻ります」
「心強いよ」
 サイファは柔らかい笑顔を返した。

 去り行く少年たちの後ろ姿が小さくなると、サイファはバルタスに振り向いた。
「あなたももう結構です。お帰りください」
 感情のない、淡々とした口調。銅像のように動かなかったバルタスが、じわりと首を動かし下を向いた。
「すまない……」
 喉の奥で声がかすれた。組んでいた両腕をほどき、足元で小さくなっている娘に目をやった。
「ユールベル、行こう」
 自分の名が呼ばれると、彼女はぴくんと体を揺らした。
「彼女は私が預かる」
 突然の背後からの声。サイファもレイチェルも、驚いて声のする方に振り返った。
「ラウル……おまえ何を……」
 いつのまにか扉の奥に立っていたラウルを見つめ、サイファは言葉を詰まらせた。ラウルは大股で歩いて出てきた。バルタスを冷たく一瞥すると、腕を組み、サイファと向かい合った。
「2、3日だけだ。おまえはその間に、入寮の手続きを済ませろ」
「アカデミーの寮か」
 サイファはようやく合点がいった。独り言のようにそう言うと、顎に手を当て考え込んだ。
「だがあそこには、遠隔地の者しか入れないはずだ」
「なんとかしろ」
 ラウルは、たいした問題ではないかのように、あっさり言ってのけた。
「……わかった」
 サイファは深刻な顔で考えを巡らせながら、小さくうなずいた。レイチェルは心配そうに彼を見上げた。それに気がつくと、彼はにっこり笑いかけ、彼女の肩に手を回した。
「そういうことだ」
 ラウルはバルタスに向き直り、短く言った。その声には、一切の反論を受けつけない強さがあった。
「娘を……よろしく頼む……」
 バルタスは力なく言った。
 ラウルはユールベルの前まで歩いていき、かがみ込むと、彼女の華奢な体を軽々と抱き上げた。ユールベルは細い腕を伸ばし、すがりつくようにラウルの首に手を回した。そして、何かにおびえるように、彼の肩に顔をうずめた。金の髪と白い包帯が緩やかに揺れる。ラウルは彼女を庇うようにして三人とすれ違うと、長い廊下を歩いていった。


45. 一ヶ月

 煌々としたした蛍光灯の下。レイチェル、サイファ、ジークは、長椅子に並んで座り、祈るようにガラス越しのアンジェリカを見守っていた。彼女はまだ一度も目を覚ましていない。
 サイファは腕時計をちらりと見た。
 隣のジークも、つられるように掛け時計に目を走らせた。そのとき初めて朝になっていたことに気がついた。窓のないこの部屋では、時間を感じる術はない。いつもならそろそろ家を出ようかという時間。だが、まるで実感がない。当たり前の日常が、遠い昔のことのように思える。
「レイチェルを頼む」
 ぼんやりしていたジークの耳もとで、サイファがささやいた。
 ジークは我にかえり、小さく「え?」と聞き返したが、それと同時に彼は立ち上がり、出ていってしまった。
 こんなときに……。
 ジークは冷たく遠ざかる靴音を聞きながら、わずかに顔をしかめた。
「サイファは自分のやるべきことがわかっているのよ」
 長椅子の端に座っていたレイチェルが、にっこり笑いかけてきた。まるで心を見透かされているような言葉。ジークはとまどいながら目を伏せた。
「そう、ですよね」
 彼女が正しい、サイファが正しい。そんなことはすぐにわかった。感情論だけでは何も解決しない。一瞬でもサイファを責めてしまった自分は、アンジェリカのために何ができるというのか。情けなさに顔を歪め、深くうなだれる。
「俺には……ここにいることしかできない」
 責められるべきは自分だ。膝の上で握りしめたこぶしが、小刻みに震えた。
「私もよ」
 レイチェルも短い言葉で同調した。
 ジークははっとして顔を上げた。あまりに声が沈んでいたので驚いたのだ。だが、声だけではなかった。疲れきった表情、血の気のない真っ白な顔。今にも倒れそうに見えた。
「レイチェルさん……少し、休んだ方がいいですよ」
 ジークが心配そうに声を掛けると、彼女は急に笑顔を取りつくろった。
「私はまだ平気です。ジークさんこそ休んでください」
 努めて明るく返事をしたが、やはり疲れは隠せない。声にいつもの張りがなかった。
「……毛布か何か、もらってきます」
 ジークは微かに笑みを見せると立ち上がった。

「ジーク!」
 大きな声、大きな足音とともに、リックが緊急医療室に駆け込んできた。
「シッ! 声でけぇよ! ようやく寝たんだ」
 ジークは人さし指を口の前に当て、声をひそめてたしなめた。
 彼の肩には、毛布を羽織ったレイチェルが寄りかかり、静かに寝息を立てていた。
「あ、ごめん」
 リックも声をひそめて謝ると、長椅子に腰を下ろした。ガラス窓の向こうに目を向ける。そこには、酸素吸入マスクや点滴、検査用の器具をつけたアンジェリカが横たわっていた。
「アンジェリカ、どうなの?」
「まだ一度も目を覚ましてねぇ」
 ジークは暗く沈んだ声で返答した。彼女を見つめながら、苦しげに目を細める。
「でも大丈夫さ、あいつなら、きっと……」
 自分に言い聞かせるようなジークの言葉に、リックも無言で力強く頷いた。
 ジークは、肩に寄りかかるレイチェルに、同意を求めるような気持ちで視線を送った。だが、血の気のない顔をした彼女を見ていると、自分が彼女を安心させるくらいでないといけないと思い直した。

 コンコン——。
 急かすようなノックのあと、返事を待たず、即座に扉が開かれた。サイファがあたりを見渡しながら医務室に入ってきた。
「ユールベルは?」
「奥だ」
 机でカルテを眺めていたラウルは、そのままの姿勢で親指を立て、肩ごしに後ろを示した。
 サイファは無言で歩み寄り、隣の丸椅子に腰掛けた。
「入寮の件だが、やはり頼んでも無理だった。アカデミーは平等でなければならないという原則がある以上、特別扱いはできないそうだ」
 ラウルは机に向かったまま、小さくため息をついた。
「能書きはいい。それで引き下がったわけではないんだろう」
 サイファはわずかに口の端を上げた。
「彼女の住民票を遠隔地に移すことにした。移す先は知り合いに頼んで、すでに快諾を得ている。あとは手続きだけだ。役人たちは嫌な顔をしていたが、拒否することもできないだろう」
「明日には入寮できるんだな」
「いや……」
 歯切れの悪いサイファの返事に、ラウルは初めて顔を上げた。
「一ヶ月たたないと、空きがないらしい」
「一ヶ月か」
 ラウルは続けて何かを言おうとしたが、サイファがすばやくそれを遮った。
「安心しろ。事情を話して相談したら、その間は、寮長さんが個人的に預かってくれることになった」
 ラウルは腕を組み、静かに考え始めた。
「他に方法はないだろう」
 いつになく悩む彼を見て、サイファは後押しするように付け加えた。すると、ラウルは急に立ち上がり、何も言わず奥の部屋へと消えていった。

「いやっ! 私を見捨てないで! ここにいさせて!」
 話を聞いたユールベルは、泣きじゃくりながらラウルに縋り付いた。彼の上衣を引きちぎらんばかりにきつく握り、顔をうずめ、細い肩を大きく上下させている。ラウルはそんな彼女の様子を、ただ黙って見下ろしていた。
 ユールベルはしばらく嗚咽を続けていたが、やがてすすり泣きへと変わっていった。
「おね……がい……」
 下を向いたまま、泣き疲れた声で、無反応のラウルに最後の哀願をする。もう声も出す力も残っていない。
 ラウルはようやく口を開いた。
「一ヶ月だけだ。そのあとは寮へ入れ。それ以上の我が侭は聞かない」
 ユールベルはおそるおそる顔を上げた。いつもと同じ、感情のない厳しい顔。考えの読めない顔。急に受け入れる気になったのは、憐憫からだろうか。だが、理由などどうでもよかった。小さくこくんと頷いた。

 ラウルが医務室に戻ると、サイファはカルテを手に取り眺めていた。机の上に置きっぱなしにしていたアンジェリカのものだ。ラウルは背後からそれを取り上げた。
「それで?」
 サイファは何事もなかったかのように振り返り、短く尋ねた。
 ラウルは机の上にカルテを投げ置くと、その場で腕を組んだ。
「一ヶ月、私が預かる。そのあと寮へ入れる」
 サイファは目を見開いてラウルを見上げた。
「何を考えている」
 椅子から立ち上がり、厳しく問いつめるように彼を睨んだ。
 しかし、ラウルは平然としていた。
「ユールベルが了承しなかった。こうするしかない」
 それでもサイファは納得できないでいた。眉をひそめ、ためらいがちに口を開く。
「……彼女は、15歳だったな」
「それがどうした」
 ラウルは冷たく睨み返した。
 しかし、サイファは怯むことなく、真正面からそれを受け止めた。
「入院ということにしておく」
 事務的な口調でそう言うと、背を向け戸口へと歩いていった。扉に手を掛けたところで、顔だけわずかに振り返った。腕を組んだままのラウルに視線を流す。
「昨日のことも問題になっている。これ以上、騒ぎが大きくなると庇いきれない」
 淡々と忠告を残し、サイファは医務室をあとにした。

 ラウルはいったん部屋に戻って着替えると、ユールベルを残したまま外へ出て行った。アンジェリカの治療のためなのか、アカデミーの仕事のためなのか、ユールベルにはわからなかった。
 彼女は一日中、ソファの上で膝を抱えていた。用意されていた食事にも手をつけなかった。

 夜もだいぶ更けてきた頃、ようやくラウルが戻ってきた。じっと座ったままのユールベルに、冷たい一瞥を送る。そのまま、何も言わずに寝室へ入っていった。
 ユールベルは声を掛けてくれることを期待していた。だが、それは叶わなかった。そんなことを期待した自分が情けなく思えた。ただ、憐れんで置いてくれただけなのに——抱えた膝に顔を埋め、小さくなる。
「おまえはそこで寝ろ」
 背後から声が聞こえた。ラウルが寝室から毛布を持って戻ってきていた。驚いて振り返ったユールベルに、その毛布を投げてよこした。
 ユールベルはそれをそっと抱きしめた。あたたかかった。少し、泣きそうになった。
 バタン、と扉を閉める音がした。
 ユールベルは思わず振り返った。彼の後ろ姿を目で追った。しかし、もう振り返ってはくれなかった。彼はリビングの明かりを消し、書斎へと入っていった。扉の隙間から細い光が漏れる。暗い部屋の片隅で、ユールベルはぼんやりとその光を見ていた。

 それから数時間が過ぎた。
 ユールベルはまだ眠っていなかった。いや、眠れなかった。ソファの上で毛布にくるまり、あいかわらず膝を抱えている。

 ガチャッ——。
 書斎の扉が開き、中からラウルが出てきた。そして、すぐに隣の寝室に入っていった。ユールベルのことなどまったく気に掛けていないようだ。寝室の明かりは、いったんついて、すぐに消えた。
 ユールベルは自分の肩を抱きしめながら、膝に顔をうずめた。
 音も光もない世界、ひとりぼっちの私。何も変わらない……。
 彼女は耐えきれなくなって立ち上がった。毛布を抱え、寝室の扉をそっと開く。
 暗い中、ラウルはベッドの上にいた。しかし、眠ってはいなかった。頭の後ろで手を組み、天井を見つめている。
 ユールベルは目を細め、毛布をぎゅっと強く抱きしめた。足音を立てないように、そっと近づく。毛布を引きずるこもった音だけが奇妙に広がる。ラウルは彼女に気付いていないわけではなかったが、彼女に顔を向けることはなかった。ずっと天井を見つめたまま、まったく動かない。
 ユールベルは毛布を落とし、おずおずとベッドへ入り込んだ。大きな体の隣で、小さく体を丸める。
「寝るときくらい包帯をとったらどうだ」
 ふいに、思いがけない言葉が降ってきた。目が熱くなり、鼻の奥がつんとした。頭を彼の脇腹にそっと寄せる。ラウルは片手で彼女の包帯をほどいた。

 7日が経った。
 アンジェリカはまだ目を覚ましていなかった。しかし、もう峠は越えている。緊急医療室から一般病室へ移されていた。
 ジークとリックは、アカデミーが終わると、毎日様子を見に来ていた。もちろん今日も来ている。レイチェルとともに、白いパイプベッドを囲んで座っていた。その中央で、小さな体を横たえ、アンジェリカは静かに目を閉じている。まだ点滴は受けているが、酸素吸入マスクはすでに外されていた。本当にただ眠っているようにしか見えない。
 ガラガラ——。
 勢いよく扉が開き、ラウルが入ってきた。彼はジークたちを下がらせると、慣れた手つきで点滴パックの交換を始めた。
「先日の検査でも異状はなかった。原因はやはり心的なものだろう」
 手を動かしながら、淡々と結果報告をする。
「目を覚ますのを待つしかないってことね」
 レイチェルは冷静に受け止めた。
 ジークとリックはうつむいて陰を落とした。以前にもこんなことが何度かあったと、サイファから聞いたことがある。だが、一週間も目覚めないのは今回が初めてではないか。
「暗くならないで」
 ふたりの様子を察知したレイチェルが、声を掛けてきた。
「怪我が原因でないのなら、きっといつか目覚めてくれるわ。この子はそんなに弱くないもの」
 そう言って、にっこり笑ってみせた。
 ふたりは驚いてレイチェルを見た。そして、つられるように、少しぎこちなく笑った。ジークは彼女の強さを、心底うらやましく思った。
「おまえたち、最近、課題の提出率が悪いぞ」
 ラウルの低い声が、穏やかな雰囲気を壊した。
 ジークはムッとして眉間にしわを寄せた。
「おまえだって、最近、自習が多いじゃねぇか」
 怒りまかせに、ついそう言い返したが、言ったとたんに後悔した。それはすべてアンジェリカの診察のためである。そんなことはわかっていたはずだった。
 レイチェルは申しわけなさそうに目を伏せた。そんな彼女を見て、ジークはますます強く後悔した。
「あ、でも、みんな自習で喜んでるし」
 リックは慌てて取り繕おうとした。しかし、あまりフォローにはなっていない。病室がしんと静まり返った。
「あしたは提出しろ」
 ジークたちの言葉は無視し、端的に要求のみを告げると、ラウルは病室をあとにした。
「課題、ここでなさって」
 レイチェルはにっこり微笑みかけた。とまどうふたりに畳み掛ける。
「たくさんあるのでしょう?」
「でも……」
 ジークは口ごもりながら、眠ったままのアンジェリカをちらりと見た。
「机もあることだし、じっとしているだけなら、ここで課題をやったほうがいいでしょう? アンジェリカも、ジークさんたちに負けられないって、目を覚ますかもしれないわ」
 同意を求めるようにちょこんと首を傾けると、屈託なく笑ってみせた。少なくとも、ふたりにはそう見えた。
 ジークは彼女の明るさに救われた思いだった。

「今日の分だ」
 ラウルは、部屋の隅に座るユールベルの前に、プリントの束をバサリと投げ置いた。そして、ソファに腰を下ろし、ゆったりと背もたれに身を預けると、彼女をじっと見下ろした。
「少しはやっているのか」
 ユールベルは膝を抱えてうつむき、固い顔で首を横に振った。
「アカデミー、やめようかしら」
「駄目だ」
 ぽつりと落とされたかぼそい言葉を、ラウルは間髪入れずはねつけた。
「どうして」
 ユールベルは顔を上げ、苦しげに目を細めた。
 それでも彼はまったく表情を変えない。
「寮に入れなくなる」
 そんな何の温度も感じさせない言葉を返すだけだった。
 ユールベルは泣き出すのをこらえるように顔を歪めた。
「……ずっとここにいたい」
 震える声で訴えかける。
「私には私の都合がある」
 ラウルは冷たく突き放すように答えた。
「お願い、何でもするから」
 ユールベルは揺れる瞳で、すがるように食い下がる。
「駄目だ」
 取りつく島もなかった。再びうつむき、膝に顔をうずめる。
「もう、アカデミーにいる意味なんてないのに」
「復讐だったのか」
 ラウルはソファにもたれかかり、顎を上げ、小さくなった彼女を冷ややかに見下ろした。だが、彼の口調からは、見下した気持ちや、責める意味合いは感じられなかった。
「……わからない。アンジェリカがいるって知って、私も行かなければって思ったの。何がしたかったのか、自分でもわからない」
 ユールベルは膝から少し顔を離すと、記憶をたどるように言葉を紡いでいった。
「でも、アカデミーで楽しそうに笑うアンジェリカを見たとき、思ったのよ」
 膝を抱える手を震わせ、指が食い込まんばかりに力を込めた。
「うらやましい、くやしい、憎い、って」
 強く、静かに言葉を並べた。昂る感情を、喉の奥で抑え込んでいた。
「それで復讐か」
 ラウルの声のトーンは、先ほどとまったく変わっていなかった。
「……そう、かもしれない……わからない」
 ユールベルは下を向いたまま、眉根を寄せた。
 それきり、ふたりの会話は途切れた。
 音のない空間、動かないふたり。時間の感覚さえ失われていく。
 どれくらいの間、そうしていただろう。長かったかもしれないし、短かったかもしれない。
 ユールベルはそろりと立ち上がり、静かにラウルの元へ歩いていった。真正面からじっと見つめながら、地べたに足を放り投げて座り込んだ。
 ラウルはソファに大きくもたれかかったまま、両脚の間の彼女に目を落とした。
「私、まだ言っていないことがある」
 ユールベルは、一度ゆっくりと目を伏せてから、再び視線を上げた。
「……アンジェリカに、嘘をついたの。私が閉じ込められていた理由」
 怯えるように瞳が震える。それでも、逃げずにラウルと向かい合った。
「あなたのせいだ……って。あなたの犠牲になったんだって責めたわ」
「そうか」
 ラウルは聞き返すこともなく、ただそれだけ言った。
 しかし、ユールベルはまだ何か言いたそうにしていた。苦しそうに目を細める。
「それに、もしかしたら……」
 彼女はためらいながら言葉を続けた。
「アンジェリカが階段を踏み外すように、私が追いつめたのかもしれない。そういう気持ちがあったのかもしれない。やっぱり私のせいなのかもしれない」
 そこまで言うと、首を深く曲げうつむいた。横髪が肩から落ち、顔に陰を作る。
「なぜ私に言う。サイファに話すかもしれないぞ」
「……苦しかったから」
 ユールベルは消え入りそうな声でそう言った。

 8日目。
 授業が終わり、ジークはいつものように病室へ走ってきた。勢いよくガラガラと扉を開け、中に飛び込む。
「こんにちは。今日はリックは来られなくて……」
 そこまで言って気がついた。レイチェルの向こうに見覚えのない人が座っている。流れる長い銀の髪に白い肌。そして、強い目元に凛とした強さを感じさせる、きれいな女の人だ。レイチェルよりも年上に見えるが、彼女が若く見えることを考えると、実際は同じくらいなのかもしれない。
「この子がジーク君? 想像どおりだわ」
 彼女は身を乗り出し、興味深げにジークを観察した。
「え……と」
 ジークは困惑したようにレイチェルに目を向け、助けを求めた。彼女はにっこり微笑んだ。
「こちらは……」
「アルティナよ。レイチェルの仕事仲間ってところね。よろしく」
 銀髪の女性は、紹介される前に自ら名乗った。そして、立ち上がってすっと前に出ると、ジークに右手を差し出した。身の丈はジークと同じくらいある。女性にしてはかなり高い。
「よろしくお願いします……」
 彼女の勢いに押されつつ、ジークも右手を差し出し、握手を交わした。
「レイチェルからキミの話をよく聞いていて、いつか会いたいと思っていたのよね」
 アルティナと名乗った女性は、嬉々としてそう言った。レイチェルも後ろでにこにこ笑っている。
 ジークはなんとなく居たたまれないような気持ちになった。いったい自分について、どんな話をしていたのだろうか。気になって仕方がなかったが、尋ねることはできなかった。
 コンコン。
 その音に三人は振り向いた。
 そこにいたのはラウルだった。全開になったままの扉をノックし、戸口に立っていた。その後ろには、白い人影が見え隠れする。ユールベルだ。ジークは驚いて声も出なかった。
「すまないが、アンジェリカと話をさせてやってほしい」
 ラウルは目線で後ろのユールベルを指し示した。さすがのレイチェルも動揺を隠せない。視線を泳がせ、返答に困っている。
「私がついている。心配するな」
 彼女の不安を察し、ラウルはそう付け加えた。
 レイチェルはしばらく彼を見つめると、ふっと表情を緩めた。
「私たちは外で待っていればいいのね」
「レイチェル!」
 アルティナは長い銀髪を振り乱して振り向いた。
 しかし、レイチェルはにっこり笑って受け止めた。
「出ましょう。ジークさんも」
 うつむいて顔をしかめるジークに、レイチェルは明るく声を掛けた。アンジェリカに優しい笑顔を向けると、腰を上げ、病室を出ていく。彼女に続き、アルティナとジークもしぶしぶ戸口へ向かった。
 ジークはラウルを思いきり睨みつけた。しかし、前を歩いていたアルティナの行動は、もっとわかりやすかった。前を向いたまま、すれ違いざまにこぶしを一発、彼の脇腹に勢いよくねじ込んだ。
「無神経」
 小さな声でそうつぶやくと、腕を引っ込め、何事もなかったかのように歩いていった。ラウルも眉ひとつ動かさず、何事もなかったかのように平然としている。
 ジークは睨むことも忘れ、呆然とその光景を目にしていた。あのラウルにこんなことができる人間がいるなど信じられなかった。
「ジーク!」
 アルティナの不機嫌な声に呼ばれ、ジークは我にかえった。慌てながら小走りで外へ出た。すれ違いぎわ、ちらりと横を見ると、ユールベルが顔を背けてうつむいているのが見えた。頭の後ろで結ばれた白い包帯が、微かに揺れていた。
 ラウルが彼女の華奢な背中を押し、ふたりで中に入ると扉が閉められた。

 ジークは納得のいかない顔で窓枠に手を掛け、ガラス越しに中庭を見下ろした。手入れが行き届いた豊かな緑の草木に、中央の噴水が輝きを与えている。穏やかな安らぎの空間。しかし今は、その美しい風景もはるか遠く、別世界のように感じる。
「……ずいぶん信用しているんですね、ラウルのこと」
 レイチェルはきょとんとしたが、すぐににっこりと笑顔になった。
「ええ」
 自信を持って返事をする。そして、ジークの隣に並び、窓ガラスに手を置くと、まだ青い空を見上げた。
「レイチェルは人が良すぎるのよ」
 アルティナは彼らの後ろで壁にもたれかかり、腕を組むと、大きくため息をついた。
「あいつが何か悪いことを企んでいるとは思わないけどさ。なーんか気にくわないのよね、いろいろと」
 まるで自分の気持ちを代弁しているかのような彼女の言葉。ジークは急に親近感を覚えた。
「それ、すっごくわかります」
 ありったけの実感をこめて同意した。
「お、なかなかワカルね、キミは」
 アルティナは身を乗り出し、ジークに人さし指を向けると、にやりと笑った。
「アカデミーでもあいつはいっつも偉そうに命令口調で」
「どう見ても教師に向いているとは思えないわよね」
 ふたりはラウルの話で盛り上がっていった。レイチェルは会話に加わらなかったが、止めることもせず、にこにこしながらそのやりとりを聞いていた。
 ガラガラ——。
 扉が開き、中からラウルが姿を現した。その後ろには、隠れるようにユールベルがくっついている。誰とも目を合わそうとせず、怯えたようにうつむいていた。
「すまなかったな」
 ラウルはレイチェルの瞳をじっと見据えて言った。彼女は言葉の代わりに笑顔を返した。
 ユールベルはラウルの腕をそっと引っ張った。ラウルは彼女の肩に手を回し、三人の視線から庇うようにして立ち去った。
「さ、気を取り直して戻りましょ」
「あ、あの……」
 ジークは病室に戻ろうとするアルティナとレイチェルを、遠慮がちに呼び止めた。言いにくそうにためらっていたが、決意を固めると、思いきって切り出した。
「ついでっていうか……俺もアンジェリカとふたりで話をさせてもらえませんか」
 レイチェルは驚いたように、ぽかんとして動きを止めた。
 ジークは、言わなければよかったと後悔した。耳が熱くなっていく。今すぐここから逃げ出したい気持ちになった。
「どうぞ」
 レイチェルは穏やかににっこり笑って答えた。その後ろで、アルティナは意味ありげににやりと笑っていた。とてつもなく恥ずかしかったが、今さら引き返せない。ジークはほてった顔を隠すように、急いで病室に入り、扉を閉めた。
 ふぅ——。
 大きく息をつくと、ベッド横の椅子に腰掛けた。アンジェリカの顔をじっと覗き込む。眠っているだけのような安らかな表情。手の甲で、彼女の頬にそっと触れてみる。温かい、生きている。当たり前のことだが、それを感じることでようやく安心できた。
「約束、おぼえてるか?」
 そっと語りかける。当然だが、返事はない。寂しさを感じながら、一方的に話を続けた。
「あれだけ威勢のいいこと言ってたんだからな、守れよ」
 彼の耳は再び赤味を帯びていく。少しためらったあと、言葉を続けた。
「俺の願いは……」

「何を話しているのかしら、ジークさん」
「さ、何かしらね」
 レイチェルとアルティナは、並んで窓の外を眺めながら、弾んだ声で楽しそうに言葉を交わす。外はもうだいぶ暗くなってきている。
「話か……話だけじゃなかったりして」
「えっ?!」
「冗談だって」
 ふたりは顔を見合わせると笑いあった。

 9日目。
 この日はリックも一緒だった。授業が終わったあと、ふたりで病室へと駆けて行った。
 ガラガラ——。
「こんにちは」
 ふたりは口をそろえて挨拶をした。しかし、中に目をやった瞬間、ジークは固まった。
「やっと来たわね、バカ息子」
 椅子に座るレイチェルの隣に立っている黒髪の女。それは、まぎれもなくジークの母親、レイラだった。息子たちに向かって軽く右手を上げている。
「……なっ……なんでおまえが来てんだよっ!」
「ジーク、声、大きすぎ!」
 思わず力一杯の声で叫んだジークを、リックが後ろからたしなめた。しかし、ジークはそれどころではない。
「アンジェリカちゃんのお見舞いに決まってんでしょ。あと、レイチェルにも会いたかったしねっ」
 レイラは嬉しそうにそう言うと、レイチェルを後ろからぎゅっと抱きしめた。レイチェルはにっこり笑顔でなすがままだった。
「離れろ!」
 ジークは青筋を立てて叫んだ。
「あーやだね、男の嫉妬は。みっともない」
「だーれが嫉妬だ、コノヤロウ」
 握りこぶしを震わせ、顔を引きつらせながら母親を睨みつける。
「だいたいどうやって入ってきたんだ。ここ、王宮だぜ」
「ほっほっほ。あんたに行けて、私に行けないところなんて、あるわけないでしょ」
 高笑いをして、答えになっていない答えを返す母親に、ジークの苛立ちはさらに募った。
「ふたりとも、中に入ってください」
 まだ戸口に立ったままのふたりに、レイチェルが優しく声を掛けた。
 ジークはすでに疲れきった様子で、ため息をつきながらベッドに近づいていった。うつむいたり、顔をそらしたり、なるべく母親とは目を合わせないようにしている。しかし、あるものを目にして、再びがっくり疲れが襲ってきた。
「……その非常識なモノ。持ってきたのオマエだろ」
 呆れ顔で指さした白いプランターには、色とりどりのチューリップが植わっていた。
「あら、よくわかったわね」
 レイラはきょとんとして、ジークを見た。
「オマエ以外ありえねぇだろ!」
「やぁねぇ。カルシウム不足かしら」
 力いっぱい怒鳴るジークを、母親は軽く受け流した。彼はますます頭に血をのぼらせた。
「根の生えたものは、お見舞いには縁起が悪いって知らねぇのか?!」
「へぇ、意外と物知りねぇ。でも、私はそんなこと気にしないし」
 レイラはカラッと笑った。
「見舞われた方が気にすんだよ!!」
「いえ、私も気にしていませんから」
 レイチェルが割って入った。
 ジークの勢いは一気にそがれた。彼女は優しいのでそう言ってくれているだけだとは思ったが、その気持ちを無駄にすることもできない。彼は押し黙るしかなかった。不完全燃焼である。
「ほれみなさい。これなら文句もないでしょ」
 レイラは気分よさげに胸を張った。
「だいたい切り花なんて、命を切り取ったものでしょ? そんなものを持ってくる方がよっぽど縁起でもないと思うわよ。土に根を下ろしてこその命。その生命力が人間にも活力を与えるわけよ」
 独自の論理を展開する母親を、ジークはもう相手にする気にはなれなかった。ふてくされて適当に聞き流していた。しかし、リックは目を輝かせて、大きく頷きながら聞いていた。
「それに、そっちのサボテンの方がどうかと思うけど?」
 レイラの目線をたどると、プランターの横にミニサボテンがちょこんと鎮座していた。
 ——あれは……。
 ジークの鼓動がどくんと強く打った。
「それはお見舞いではないんです。アンジェリカが大切にしているものなので、家から持ってきたんですよ」
 レイチェルはにっこり笑った。
「へぇ……意外と変な趣味があるのね」
 レイラはまじまじとミニサボテンを覗き込んだ。
「うるさいな! 帰れよ!」
 ジークは顔を真っ赤にしてわめいた。
 レイチェルは下を向いてくすくす笑っていた。その様子からすると、彼女はサボテンの出所をわかっているらしい。
「アンタには関係ないでしょ。何でそんなに顔が赤いわけ?」
「っ……」
 レイラの素朴な質問に、ジークは言葉を詰まらせた。くやしさを顔いっぱいに広げる。
「ごめんね、アンジェリカちゃん。このバカがうるさくって」
 レイラはジークの後頭部をバシッとはたいた。
 ジークは完全に負けた。
「それにしても……。本当に眠っているだけみたいに見えるわね」
 レイラは体をかがめて覗き込んだ。
「ええ、眠っている状態とまったく同じなんです。どこかが悪いから目覚めないというわけでもないそうです」
「まさに眠り姫ね。こっちは王子様なんてガラじゃないけど」
 その場にいた三人は、いっせいにジークに振り向いた。
「な、なんだよそれ」
 ジークは三人の視線に気圧されて、わけもわからずうろたえていた。
「アンタ、眠り姫の話、知ってる?」
 レイラは静かに問いかけた。
「おとぎ話か? んなもん知らねーよ」
「ふーん……」
 いつもはああいえばこういうレイラが、このときに限っては、意味ありげな相づちを打っただけだった。気味が悪い。ジークは妙な不安に襲われた。
「じゃ、私はそろそろ帰るわ。また来るわね」
「おい待てよ! 何が言いたかったんだよ!」
「それじゃ!」
 ジークの呼びかけを、レイラはにこやかに無視した。戸口で大きく手を振ると、元気よく去っていった。

「……リック」
 ジークは低い声で呼んだ。
「え? 僕もあんまり知らないよ。100年間眠り続けたお姫様を、通りすがりの王子様が助けたって話だと思うけど」
「100年?! あのバカまた縁起でもねぇことを!」
 本気で驚いたらしく、素頓狂な声を上げた。
「いや、言いたいのはそこじゃなくて……」
 リックとレイチェルは、顔を見合わせて、少し困ったように笑った。
「俺が通りすがりっていいたいのか?」
「それもちょっと……」
 ジークは腕を組んで考え込んだ。
「……王子はどうやってお姫さまを目覚めさせたんだ?」
「それは……知らないよ」
 リックはしれっとして言った。
「おまえ、本当に知らないのか?」
 疑いの眼差しを向け、ぐいっと顔を近づける。リックは焦りながら、逃げるように身を引いた。
「自分で調べればいいじゃない。ね、レイチェルさん」
「ええ」
 にこにこと笑顔を交わすふたりを見て、ジークは確信した。リックもレイチェルも知っている。知っていて教えないのだ。相手がリックひとりだったら詰問するところだが、レイチェルの手前、それも気が引ける。
 ——自分で調べるか。
 疲れたようにため息をつき、静かに眠るアンジェリカの姿をそっと見つめた。もし俺に出来ることがあるのなら、どんなことだって……。ジークは決意を新たにした。

 10日目。
「ジーク、遅いよ!」
 振り返ったリックを、ジークは恨みがましく睨みつけた。足どりが重い。走る気にはなれなかった。
「こんにちは!」
 リックは元気よく病室の扉を開けた。その後ろから、疲れた様子のジークが続く。だが、ふたりは中を見て足を止めた。
「……なんでおまえが来てんだよ!」
 ジークは昨日と同じセリフを吐いた。しかし、向けられた相手は、昨日とは違う。金髪細身の後ろ姿。レオナルドだ。短い髪をさらりと流しながら、不機嫌な表情で振り返った。
「親戚の見舞いに来たらいけないのか」
「……」
 ジークは言葉に詰まった。くやしさいっぱいに睨みつける。そんな彼を、レオナルドは顎を上げ、冷たく見下ろした。
「おまえこそ、よくレイチェルさんに会わす顔があるな」
「なに?」
 ジークの額に冷たい汗がにじんだ。
「いい気になって、ナイトぶっておきながら、このザマだ。女の子ひとり守れない奴が、偉そうにしないでもらいたいものだ」
「レオナルド!!」
 レイチェルは立ち上がり、彼の背中に厳しい顔を向けた。
「よしなさい。ジークさんに非はありません!」
 凛とした声で、きっぱりと言い放った。
 レオナルドはうつむいて振り返り、彼女に深々と頭を下げた。そして、無言で部屋をあとにした。
「すみません、不快な思いをさせてしまって」
 レイチェルは申しわけなさそうに、ジークを気づかった。しかし、彼は顔に影を落とし、うなだれていた。リックも心配そうに見ていたが、かける言葉が見つからなかった。
「言われて当然のことです」
 ジークは力なく自嘲した。
 レイチェルはまっすぐ彼に近づいていった。光をたたえた強い瞳を向ける。そして、彼の右手をとり、自らの両手で包み込んだ。
「私たちは、ジークさんのせいだとは思っていません。そんなふうに自分を責めないで」
 絹の手袋ごしだったが、彼女の温かさがほんのり伝わってきた。しかし、それでも彼の心は融けなかった。
「でも、レオナルドに言われたことは事実です」
 かたくななジークに、レイチェルはふっと柔らかく笑いかけた。
「もしそう思うのでしたら、アンジェリカが目覚めるように、たくさん祈ってください」
 彼女はジークの手を引き、椅子に座らせた。リックもほっとした様子で、隣に腰かけた。
「それで、王子様はどうするのか、わかりました?」
 レイチェルは椅子に腰を下ろしながら、笑顔で問いかけた。ジークの顔は一気に上気した。思わず目の前で眠るアンジェリカから目をそらす。
「俺、からかわれてただけなんですよね……」
「僕、図書館に付きあわされたあげく、げんこつで殴られちゃいました」
 リックはそう言いながら、とても楽しそうだった。レイチェルも楽しげに、ふふっと笑った。
「でもわかりませんよ。何がきっかけになるかなんて」
 ジークは困り顔で、ますます赤くなっていった。
「そんなこと言って、サイファさんが聞いたら……」
 ココン。ノックと同時に扉が開いた。
 ジークは何気なく振り返った。そのとたん、彼は派手な音を立てて椅子から転げ落ちた。
「大丈夫か? ジーク君」
 扉を開けたサイファは、驚いて歩み寄ると、手を差し伸べて助け起こした。
 ジークは顔を赤くしたまま、彼を見ようとしなかった。
 リックとレイチェルは、顔を見合わせて笑っていた。
「どうしたんだ?」
 サイファはふたりをかわるがわる見ると、不思議そうに尋ねた。レイチェルは、彼を見上げてにっこりとした。
「サイファは親バカだって話をしていたところだったのよ」
「今さらそんな話か」
 さも当然のようにそう言うと、彼女の隣に腰を下ろした。
「サイファさん、よく仕事を抜け出してきているみたいですけど、大丈夫なんですか?」
 リック自身、ここでサイファとときどき顔を合わせていたし、レイチェルの話からすると昼間もよく来ているらしい。彼が心配することではないが、気にはなった。
「仕事はきちんとやっているよ。それに、抜け出しているわけではなく、ちょっと立ち寄っているだけだ」
 そう言って、いたずらっぽくにっと笑ってみせた。
「ずいぶん遠まわりしているみたいだけどね」
 レイチェルも笑って付け加えた。
「それにしても……」
 サイファは、ベッドで眠り続けるアンジェリカに目を移した。
「もう10日になるのか」
 彼女の額に手をのせ、なでるようにそっと前髪をかきあげる。サイファはそれ以上何も言わなかったが、彼の気持ちはその場にいる全員に痛いほど伝わっていた。伝わっていたというよりも、それがみんなの共通の思いであった。

 29日目。
 暗い寝室。ラウルはベッドの上で仰向けになっていた。頭の後ろで手を組み、天井を見つめている。その隣には、膝を曲げたユールベルが、そっと寄り添うように、体を横たえていた。
「まだ、意識が戻らないの?」
「ああ」
 ユールベルは肩をすくめ、背中を丸めた。
「ずっと、このままだったら……」
「そうはならない」
 ラウルはきっぱりと言った。
「どうして……?」
「私は医者だ」
 ジリリリリリリ——。
 けたたましいベルの音が、静寂を切り裂く。ラウルは手を伸ばし、枕元の受話器を取った。
「……わかった。今行く」
 それだけ言って受話器を置くと、ユールベルをまたいでベッドを降りた。暗いままの部屋で、手早く着替え始める。
「どこへ行くの?」
 ユールベルは手をついて体を起こすと、彼の後ろ姿に問いかけた。その声は小さく、どこか怯えているようだった。
 ラウルは無表情で振り返った。
「アンジェリカのところだ」

 30日目。
「いいのかなぁ、自習さぼって」
「いいんだよ。朝から自習にするアイツが悪いんだ」
 ジークとリックは、アンジェリカの病室に向かっていた。
「……ていうか、気になるんだよ。最近は自習もなくなってたってのに、もしかしたら、アンジェリカに何か……」
 それ以上、言葉を続けられなかった。嫌な予感が止まらない。
「そんな、考えすぎじゃないの?」
 そう言いながらも、リックは不安に顔を曇らせた。
「だったら、いいんだけどな」
 ジークは足を速めた。

 コンコン。
 ノックをしたが、返事はなかった。
「誰もいないのかな。面会時間外だし……」
 リックは嫌な想像を、必死で抑え込んだ。
 コンコンコン。
 ジークは再びノックをする。やはり返事はない。
「チッ」
 小さく舌打ちすると、耐えきれなくなって、勢いよく扉を開けた。
 ガラガラガラ——。
 扉がレールを走る音が、いつもより大きく感じた。そして、病室がいつもより眩しく感じた。

「おはよう」
「…………」
「ちょっと、寝過ごしちゃったみたい」
「……アンジェリカっ?!」
 ふたりは同時に叫んだ。白いパイプベッドで上半身を起こし、少し恥ずかしそうにはにかんでいる黒髪の少女。それは間違いなくアンジェリカだった。声はところどころかすれていたが、久しぶりに見た黒い大きな瞳は、少しも変わっていない。
 ふたりは我にかえると、慌ててベッドに駆け寄った。
「お……起きて大丈夫なのか?」
「無理しないで」
「うん、平気。腕はまだ治っていないみたいだけど」
 アンジェリカは、ギプスの腕を少し持ち上げ、にっこり答えた。それから、少しの笑顔を残したまま、真面目な表情になり、ふたりをじっと見つめた。
「……ごめんね」
「ああ」
「うん」
 それ以上の言葉はなかったが、それだけで十分だった。

「おまえたち、自習はどうした」
 ラウルは隅の椅子で足を組み、カルテに記入をしながら淡々と尋ねた。ふたりとも、彼がいたことにまったく気がついていなかった。そして、レイチェルとサイファがいたことにも、そのとき初めて気がついた。
 レイチェルは本当に嬉しそうに、ほっとしたように、心から幸せそうな顔をしていた。大きく光る瞳に涙をたたえながら目を細めている。サイファは彼女の肩に手を回し、やはり幸せそうに目を細めていた。
「今日くらい堅いことを言うなよ」
「おまえはいつでも融通を利かせすぎだ」
 ラウルはカルテを小脇に抱えて立ち上がり、笑顔のサイファとちらりと視線を合わせると、無表情で病室から出ていった。

 ココン。
 軽いノックのあと、サイファは返事を待たずに扉を開き、勝手に医務室の中へと入っていった。そして、いつものように、ラウルの隣の丸椅子に腰を掛けた。
「アンジェリカと一緒にいなくていいのか」
 ラウルは机に向かったまま、ペンを走らせる手を止めずに言った。
「時間なら、これからいくらでもあるよ」
 サイファは伸びやかな表情で、晴れ晴れと笑った。それから、急に真剣な顔になると、奥の部屋へ続く扉に目をやった。
「……彼女は元気にしているのか」
 その質問に、ラウルは手を止めた。
「少しは落ち着いた。アンジェリカの意識が戻って安堵しているようだ」
「あしたで約束のひと月だ。朝に迎えに来るが、いいな?」
 サイファは事務的に確認の言葉を口にすると、ラウルの横顔をじっと見つめた。
「もう我が侭を言わせはしない」
 ラウルはそう言って振り向き、真正面からサイファと目を合わせた。

 夜が深まった頃、ラウルは明かりの消えた寝室へ入っていった。
 彼のベッドには、当たり前のようにユールベルが眠っていた。背中を丸め、膝を抱えるようにしている。許可したわけでもないのに、彼女はいつも勝手に入り込んでいた。しかし、それを咎めたこともなかった。
 彼女を起こさないように、そっとまたいで奥へと移動し、仰向けに寝ようとした。ベッドがかすかに軋み音を立てる。
「……今晩が最後なの?」
 目を覚ましたのか、もともと眠っていなかったのか、ユールベルが突然声を掛けてきた。彼女は体を丸め、頭を下げていたため、その表情を窺うことはできなかった。
「ああ、そうだ」
 ラウルは頭の後ろで手を組み、その身をベッドに投げ出した。反動で、ベッドは大きく数回弾んだ。
「私、どうしても寮に入らなければいけないの?」
「もう決めたことだ」
 ユールベルはあきらめたのか、それ以上しつこくは言わなかった。
「一度も、笑わなかったわね」
「互いにな」
「……でも、ありがとう」
 ぽつりと静寂の水面に言葉を落とす。ラウルは何も答えなかった。
「最後にひとつだけ、お願いをしてもいい?」
「おまえの我が侭はもう何も聞かない」
 ラウルは天井を見つめたまま、静かにはねつけた。
「そう……」
 それきりユールベルは口をつぐんだ。

 アンジェリカが目覚めてから7日が経った。一週間、弱った身体をリハビリし、今日が初登校である。まだ完全には回復していないが、彼女自身が強く希望して、なんとかラウルの許可をもらったのだ。右腕はまだギプスで固められ、白い布で首から吊り下げられている。
「頑張って遅れを取り戻さないとね!」
 彼女は上機嫌でギプスを振り回した。
「ほんっとーに無理すんなよな」
「わかってるわ」
 無邪気な笑顔を見せるアンジェリカに、ジークは疑いの眼差しを向けた。リックは、そんなジークを見て、こっそり小さく笑っていた。
「あれ? ユールベル、よね」
 アンジェリカはふいに目を止めた。自分たちの教室とは逆方向へ行く、金髪の後ろ姿。頭には白い包帯が巻かれている。
「おいっ!!」
 ジークが止めるより早く、アンジェリカは駆け出していた。病み上がりとは思えないほど素早い。残されたふたりも、慌ててあとを追った。
「ずいぶん感じが変わったわね」
 後ろから声を掛けられたユールベルは、ゆっくりと振り返った。いつもの素っ気ない白いワンピースではなく、シャツにベスト、プリーツのミニスカートという出で立ちだった。
「先輩……寮の先輩が、これにしなさいって言ったから……」
 視線が服に集中しているのを察し、彼女はいいわけめいたことを口にした。
「私もこっちの方がいいと思うわ」
 にっこり笑うと、アンジェリカは左手を差し出した。ユールベルはその手と顔を交互に見つめた。表情には出さなかったが、明らかにとまどっているのがわかった。
「安心して。今さら仲良くしましょうっていうんじゃないのよ。おあいこってことで、どうかしら」
 それでも彼女はまだ呆然としたままで、差し出された手に応えようとはしない。アンジェリカは手を下ろした。
「本当の話、聞いたわ。あなたのことも」
 その言葉に、ユールベルの顔が一瞬こわばった。
「自分のせいではなくてほっとした? それとも同情?」
 目を伏せ、自嘲ぎみに吐き捨てる。
「そうね。両方とも、かしら」
 アンジェリカは淡々と答えた。ユールベルは、はっとして視線を上げた。まさか認めるとは思わなかった。
「あなたの目を傷つけたのは私だけど」
 彼女は真剣な表情で、そう付け加えた。
「それと……。思い出したのよ、少しだけ。昔のことをね」
 ユールベルの鼓動はドクンと強く打った。
「あなたと私、楽しそうに笑っていた。あなたはどうだったかわからないけれど、私にとってはたったひとりの友達だった」
 まっすぐユールベルを見つめてそう言うと、ふっと寂しそうに笑った。ユールベルは口を開きかけてうつむいた。
「それじゃ」
 アンジェリカはにっこり笑うと踵を返し、ジーク、リックとともに去っていった。

「いつか、わだかまりが融けるといいね」
 リックは優しく声を掛けた。しかし、アンジェリカはあまり聞いていないようだった。何か難しい顔で考えごとをしている。
「あっ、思い出した」
「何だ?」
 ジークは隣のアンジェリカに振り向いた。
「ユールベルと対決したときの約束。ほら、ジークの言うことをひとつ、何でも聞くって言ってたでしょう?」
 アンジェリカは、ずっと何か忘れている気がして引っかかっていた。ようやく思い出せて、すっきりした顔をしている。
 しかし、ジークはとたんに困り顔になった。
「あ……あれはいいんだよ、もう……」
 歯切れ悪く口ごもった。
「よくないわよ。約束は守らなきゃ」
「じゃなくて。もう終わったんだよ」
 面倒くさそうにうつむき、無造作に頭をかいた。
「終わった? どういうこと?」
 そう言って下から覗き込んでくるアンジェリカに、ジークは耳を赤らめた。
「うるせぇな! 覚えてねぇオマエが悪いんだよ!」
 顔まで赤くなっていくのを感じ、彼は慌てて話を切り上げようとした。
 アンジェリカはわけがわからず、リックに助けを求めて振り向いた。しかし、彼もさっぱりわからない。首をかしげ、肩をすくめて見せた。
「いいわ。よくわからないけれど、そういうことにしてあげる。今日は特別ね」
 アンジェリカは、にっこりジークに笑いかけた。彼はほっとして息をついた。
「さ、早く教室に行かなきゃ」
「おいっ! だから病み上がりで走るなって!」
 ジークは駆け出した彼女を追いかけながら声を掛けた。
「いいの。これもリハビリよ」
 アンジェリカは短いスカートをひらめかせながら、くるりと振り返った。屈託のない満面の笑み。ジークの心に温かい光が広がっていった。


46. 月の女神

「落ち着いてください」
 何度かその言葉を繰り返し、サイファは受話器の向こうの相手を懸命になだめていた。冷静な声だが、やや疲れが滲んでいる。
 レイチェルは少し離れたソファに浅く腰掛け、心配そうに彼の後ろ姿を見つめていた。
「とにかくそちらへ向かいます……はい、すぐに」
 静かにそう言うと、軽くため息をつきながら受話器を戻した。仕事が長引き、ようやく帰って来られたと思ったら、息つく間もなくこの電話である。彼のため息も当然のことだった。
「何があったの?」
 レイチェルは早足で彼に歩み寄った。そっと腕に手を置き、端整な横顔をまっすぐ見上げる。
 サイファは難しい表情で考えを巡らせていた。わずかにうつむくと、顎に手をあてる。
「状況がつかめないんだ。アルティナさんの言うことも、興奮していて要領を得ない」
 レイチェルは首を傾げ、顔を曇らせた。
 そのことに気がつくと、サイファはにっこりと笑顔を向けた。彼女の細く白い手をとり、安心させるように軽く握る。
「とにかく行ってくるよ」
「私も行きましょうか?」
 レイチェルは、まだ不安顔で、彼を見つめていた。
「いや、君はここにいてくれ。こんな夜中にアンジェリカをひとり家に残すわけにもいかないだろう」
 サイファは彼女の頬に手を置くと、再び笑顔を見せた。それに、どれほどの効果があるかはわからなかった。

「まさか、本当だったとは……」
 サイファは目の前の光景に唖然としながら、ようやくその一言をつぶやいた。
「なによ、私の言うことを信じてなかったわけ?!」
 感情的な甲高い声が、彼を責める。声の主はアルティナ。彼をこの広間に呼びつけた張本人だ。
「いや、しかし……」
 サイファは彼女の怒りを受け流すと、前を見つめながら言葉を詰まらせた。彼の視線の先にいたのはラウルだった。そして、その腕の中には、まだ生後まもないと思われる赤子が眠っていた。
「本当に、おまえが育てるつもりなのか」
 サイファは動揺を心の中に押し隠し、静かに問いかけた。
「問題はないだろう」
 ラウルは突っぱねるように短く言った。うんざりしているように見える。すでにアルティナに何度も訊かれたのだろう。
「大アリよ!」
 アルティナは頭に血を上らせると、大声で怒鳴りつけた。長い銀髪を艶やかに煌かせながら、今にも掴みかからんばかりの勢いで足を踏み出す。
 サイファは興奮する彼女の前に右手を広げ、無言でその動きを制した。ラウルを庇ったわけではない。彼が締め上げられようが殴られようが知ったことではないが、それより今は状況を把握するのが先だと思ったのだ。
 彼女は苦々しい顔をしながらも、おとなしく従った。
「確認したいのだが、本当に捨てられていたのか?」
「こんなものとともに籠に入れられていたら、捨てられているとしか考えられないだろう」
 ラウルは赤子を抱えたまま、手にしていたものをサイファに示した。
 それは、二つ折にされた小さな紙切れだった。薄いクリーム色で、安っぽいメモ用紙のように見える。
 サイファはラウルの手からそれを抜き取り、慎重に広げた。その中央には、短く一文だけ走り書きがしてあった。
「この子をよろしくお願いします……か。誰か特定の人物に宛てた手紙とも考えられるな」
「まさか、あなたの隠し子ってわけじゃないでしょうね」
 アルティナは腕を組み、思いきり疑いのまなざしでラウルを睨み上げた。しかし、彼はまったく動じなかった。いつもどおりの冷たい瞳で睨み返す。
「この子が置かれていたのは養護施設の前だ」
「じゃあ養護施設に頼んだってことじゃない! なに勝手に連れてきてるのよ!」
 アルティナは大きな声を張り上げた。
「養護施設の前であろうと公道だ。親から育てることを放棄され、公道に放置されたこの子は誰のものでもない。拾う拾わないは私の自由だ」
 屁理屈をこねるラウルに苛つきながら、アルティナは反論をぶつける。
「あなたの気まぐれで、その子の将来を台なしにするわけにはいかないわ! あなたにまともな子育てができるわけないじゃない!」
 彼女の感情はますます昂っていった。
 一方のラウルはいたって冷静だった。
「私は医者だ」
 あまりに単純で素っ気ない返答に、アルティナの怒りは沸点に達した。
「そういう問題じゃない!! あんたがまともに愛情を注いであげられるとは思えないって言ってんのよ!!」
 感情を爆発させたあと、顔をしかめ、深くため息をついた。疲れたように前髪を掻きあげる。長い銀髪がさらりと頬を撫でた。そして、落ち着きを取り戻すと、今度は諭すように静かに語りかけた。
「悪いことはいわない。その子のためを思うなら養護施設に預けた方がいいわ」
 しかし、ラウルはそれを聞き入れようとはしなかった。
「養護施設なら幸せに育つという保証がどこにある」
「あなたが育てたら不幸せになることなら私が保証してあげる」
 アルティナは間髪入れずに言い返した。腕を組み、あごを斜めに上げ、挑戦的な目で彼を睨みつける。
 ラウルも一歩も引かず、鋭い視線を返した。
「ちょっと待てラウル」
 激しく火花を散らすふたりの間に、サイファが割って入った。
「私との約束はどうするつもりなんだ。アンジェリカが卒業するまで担任を引き受けてくれると言っただろう」
 背筋を伸ばしてラウルと向かい合い、はっきりとした口調で問いつめる。
「まさか、その子を背負って教壇に立つつもりか?」
「ぷっ……あはははは!」
 アルティナは突然吹き出すと、腰に手をあて、上体を折り曲げながら豪快に笑った。
 サイファはその声に驚いて振り向いた。
「アルティナさん、私は真面目に……」
「ごめんごめん。でも想像したらおかしくて」
 彼女は軽い調子で謝ったが、いまだに笑ったままだった。少し息苦しそうにしながら、目尻を拭う。
 しかし、彼女につられ、サイファもその様子を思い浮かべてしまった。耐えきれず、鼻先で小さく吹き出す。
 そんなふたりを、ラウルはムッとしながら冷たく見下ろした。
「心配するな。昼間は人を雇うつもりだ」
「ベビーシッターをか?」
 サイファは真面目な表情に戻り、ラウルと目を合わせた。
「バカね。自分ひとりで世話できないんだったらやめなさいよ」
 アルティナは呆れたように、そう切り返した。そして、真剣なまなざしをラウルに向けると、さらに言葉を続ける。
「人を雇うくらいなら、養護施設の方がよっぽどましだわ」
 ラウルもサイファも何も返さなかった。その場に静かな緊張が広がっていった。

「ふ……ぎゃぁあ!」
 突然の、悲鳴にも似た泣き声。ラウルの腕の中からその静寂は切り裂かれた。金縛りから解き放たれたかのように、アルティナは大きく数回まばたきをした。そして、ため息まじりにふっと笑うと、表情を和らげた。
「一時休戦ね」

「ふふ、かわいー。やっぱりいいわね、女の子」
 アルティナは赤子を抱きかかえ、哺乳瓶でミルクを飲ませていた。いつもの気の強そうな表情からは想像がつかないほど、緊張感なく顔を緩ませている。彼女にも母性本能は備わっているようだ。
 サイファとラウルは、その隣で木製のベビーベッドを組み立てていた。以前、アルティナの息子が使っていたものである。彼女に頼まれて倉庫から引っ張り出してきたのだ。
「ねぇ、ラウル。私、いいこと思いついちゃった」
 片膝を立て、木枠をはめ込む後ろ姿に向かって、アルティナは、いたずらっぽく笑いかけた。しかし、ラウルは振り返ることも手を止めることもなく作業を続けた。
 アルティナは、構わず一方的に語りかける。
「あなたがアカデミーに行ってるあいだ、私がこの子を預かることにするわ」
 これにはさすがのラウルも驚いた。息を呑んで彼女に振り向く。
「おまえ、何を……」
「アルティナさん、何を言ってるんですか」
 ラウルの言葉を遮ったのはサイファだった。
「クレフザードに無断で、またそんな勝手なことを……」
「平気、平気。何も養子にしようってんじゃないのよ」
 彼女はあっけらかんと笑うと、軽く受け流した。腕に抱いた赤ん坊の顔を覗き込み、小さな指を優しく包み込む。
「アルスにも友達が欲しいと思っていたところだし、ちょうどいいわ」
 赤ん坊に向かって同意を求めるように「ねっ」と言うと、小さく首を傾けた。その表情は、優しい母親のそれだった。
 ラウルは腕を組んで眉をひそめると、冷たく彼女を見下ろした。
「断る。願い下げだ。生意気なおまえの息子のおもちゃにされるのはごめんだ」
 アルティナは顔を上げ、ニヤリと口の端を上げた。
「さっそく過保護な親を気取ってるってわけ?」
 ラウルは何も言い返さず、じっと睨みつけた。
 しかし、アルティナは急に真剣な顔になると、まっすぐ彼の瞳を見返した。
「冷静に考えてみて。悪い話じゃないと思うけど? ここなら何ひとつ不自由させない」
 自信を持ってキッパリと言い切る。
 ラウルはそれでも微動だにせず、ただじっと彼女を見つめるだけだった。
「私が気に入らないのなら、レイチェルに預けると思えばいいわ。実際はふたりで面倒を見るようなものだし」
 アルティナは挑発的な口調で、さらに畳み掛ける。
「雇われベビーシッターより、私たちの方が愛情をもって育てられる。自信はあるわよ」
 ラウルは腕を組んだまま考え込んでいた。いちど目蓋を閉じ、再びゆっくりと開く。そして、静かに口を開いた。
「……わかった」
「決まりね!」
 アルティナはぱっと顔を輝かせた。しかし、すぐに申しわけなさそうにはにかむと、サイファに振り向いた。
「サイファ、レイチェルに事情を話しておいて。それと、勝手に決めてごめんねって」
 そう言うと、小さく肩をすくめて見せた。
 サイファは大きくため息をついた。
「レイチェルはともかく、クレフザードはどうするんですか」
「あっちは大丈夫。拗ねたらテキトーになだめておくから」
 アルティナは余裕たっぷりの笑顔で、右手をひらひら上下にはためかせた。
「もう少し大切にしてくださいよ。あなたの夫でしょう」
 サイファは半ば呆れたように、再びため息をついた。
 アルティナは聞こえなかったのか聞こえないふりなのか、返事をすることなく歩き出した。そして、ラウルに赤ん坊をそっと手渡すと、さらにその先へ向かって足を進めた。
「ベッドは出来たわね」
 組み立てられたベビーベッドを覗き込み、強度を確かめるように力を込めて揺らした。
「うん、まだ十分使えるわね」
 そうつぶやくと、にっこり笑ってラウルに振り向いた。
「ラウル、これあげるわ。あとで届けるから」

 静まり返った薄暗い廊下に、ふたつの足音が大きく響く。並んで歩くふたりと、腕の中の小さなひとり。白い月の光が、無彩色にその姿を照らし、ぼんやり浮かび上がらせる。
「アルティナが何を考えているのか、まるでわからない」
 ラウルは淡々とつぶやいた。
 サイファはラウルの腕の中の赤ん坊に目を向けた。表情を緩めながら、同時に疲れたように小さく息を吐いた。
「私はおまえの方がわからないよ。何をそんなに執着してるんだ」
 ラウルはそれに対し何も答えなかった。前を向いたまま、無表情で歩き続ける。
 サイファはうつむき、考え込んだ様子で黙り込んだ。やがて、再び顔を上げると、まっすぐ遠くを見つめた。
「あのときユールベルを救えなかったことに対する贖罪か? それとも今さら寂しくなって家族がほしくなったとでも?」
「理由などない」
 はっきりそう言い切る彼の横顔を、サイファはちらりと盗み見た。
「深く追及はしない。だが、一時の気まぐれだった、で済むことではないんだ。もう一度、慎重に考えてみろ」
「慎重に考えての結論だ」
 ラウルは感情なく言い放った。
 そこで、ちょうど彼の医務室に着いた。ふたりは足を止めた。
「またな」
 サイファはラウルと目を合わせ、それから赤ん坊に視線を移し、柔らかく笑いかけた。
「レイチェルにまで迷惑をかけることになった。すまない」
 ラウルはサイファを見つめ、わずかに目を細めると、静かに詫びの言葉を口にした。ラウルにしてはめずらしいことだった。
 サイファは小さく笑ってうつむいた。
「本当にな」
 そう言うと、彼から顔をそむけ、窓の外を見上げた。ほのかに青く光る月が浮かんでいた。それほどの光量があるわけでもないが、なぜか眩しく感じられた。思わず目を細める。
「レイチェルは、迷惑とは思わないだろうけどね」
 ふいに言い足された言葉。
 ラウルはわずかに目を伏せた。何かを言おうと口を開きかける。
 だが、その瞬間、サイファがにっこり微笑みかけて尋ねた。
「その子の名前は考えたのか?」
 ラウルは少し間を置いて「ああ」と言うと、赤ん坊の寝顔を見つめ、それから窓の外を見上げた。
「ルナ、にしようと思っている。月の女神の名だ」
「ルナか。いい名だ」
 サイファは再びにっこりと笑って見せた。

「なんだって?!!」
 ジークは廊下の真ん中で目を大きく見開き、顎が外れんばかりの勢いで叫んだ。近くを通りかかった数人が、彼の声に驚いて振り向いた。
 ジークと同様に、隣のリックも目を見開いていた。彼は何も言葉を発せず、ただぽかんとしていた。
「やっぱりびっくりするわよね。私もいまだに信じられないもの」
 アンジェリカは、ふたりの反応を冷静に受け止めた。
「ど……どういうこと、だ?」
 ジークは混乱と焦りで、言葉を詰まらせながら聞き返した。
「だから、ラウルに娘ができたって。捨てられてた子らしいんだけど」
「あ……養子ってこと?」
 リックが拍子抜けしたように尋ねた。
「そうよ。えっ……どうしたの?」
 アンジェリカは不思議そうにきょとんとしてジークを見た。彼は壁に手をつき、崩れそうな体をなんとか支えていた。
「まぎらわしい言い方すんなよな!」
 顔を少し赤らめ、八つ当たりぎみにそう言うと、体勢を立て直して壁にもたれかかった。うつむきながら腕を組み、眉間にしわを寄せる。
「いや、でも、それにしても、信じられねぇな。あいつが子育てしてるところなんて、想像もつかねぇ……」
 彼は難しい顔で考え込んだ。次第に上体を折り曲げ、小刻みに体を震わせ始める。そして、一気に体を起こして天井を仰ぐと、額を手のひらで押さえた。笑いながら苦い顔をしている。
「なにやってるの、ジーク」
 アンジェリカは怪訝な顔で、その百面相の様子を眺めていた。
「想像しちまった」
 彼はそのままの姿勢で、噛みしめるようにつぶやいた。
「なんとなく、わからなくもないよ」
 リックも同調して苦笑いした。
「ラウルってまったく生活感がないもんね。ごはんなんて絶対に作ってなさそうだし」
「そんなことないみたいよ」
 アンジェリカはリックに振り向いた。
「すごく上手だってお母さんが言ってたわ」
「本当に?」
「嘘だろ?」
 ふたりは逆の言葉で同時に聞き返した。
「うん、私は知らないんだけどね」
 彼女もあまり実感はないという口ぶりだったが、疑っているわけではなさそうだった。
 ジークは苦々しげに奥歯を軋ませた。
「あのやろう、料理まで出来るのか。あったま来るな。とことん嫌味なやつだぜ」
 それから急に顔を上げ、ぱっと表情を明るくすると、弾んだ声をあげた。
「よし! 医務室までからかいに行くか!」
「え?」
 アンジェリカの口からついて出た小さな声に、とまどいの色が滲んでいたことを、リックは聞き逃さなかった。
「どうしたの?」
「うん……なんかちょっと複雑っていうか、心の準備が出来てないっていうか……」
 微妙に顔を曇らせながら言葉を詰まらせていたが、やがてそれを笑顔で掻き消した。
「でも行くわ。赤ちゃん、見てみたいし」
 ジークとリックは、お互い疑問を含んだ顔で、視線を送りあった。ふたりとも、彼女のとまどいが何なのか気になっているようだ。
 それに気づいたアンジェリカは、うろたえてほんのり顔を上気させた。
「行きましょう!」
 彼女は早口でそう言うと、ふたりの腕を軽く引っ張って急かした。

 ガラガラガラ——。
「おい、ラウル。娘を見に来たぜ!」
 扉を開けると同時に、ジークは楽しげに元気よく呼びかけた。からかってやろうという意気込みがありありとわかる。その後ろから、リックとアンジェリカも中を覗き込む。
 だが、医務室にいたのはラウルではなかった。
「あら? ジーク君じゃない」
「あ、どうも、こんにちは」
「赤ちゃんを見にいらしたのね」
 白いパイプベッドの上に、アルティナとレイチェルが並んで座っていた。アルティナはスタンドカラーで膝下まである細身の青い上衣に幅広の白いパンツ、レイチェルはいつもと同じでスカート部分がふっくらと広がったドレスを身につけていた。レイチェルの腕には小さな赤ん坊が抱かれている。ふたりは笑顔でジークたちを迎え入れた。
 まわりの騒がしさに、赤ん坊が目を覚ましたようだった。小さな口を大きく開けて、あくびをしているような仕種が見てとれた。
 ジークはめずらしいものを見るかのように、目を大きく見開き、口を半開きにし、呆けた状態で眺めている。アンジェリカはその隣で、顔をほころばせていた。
 しかし、リックだけは、いまだに扉付近で棒立ちになり、顔をこわばらせていた。
「どうしたの? リック」
 彼の異変に気づいたアンジェリカが声を掛けた。ジークもつられて振り返った。
「そうか、おまえは初めてだったな。アルティナさんだ」
 リックに彼女を示し紹介する。紹介されたアルティナは、にこにこしながら、顔の横で小さく手をひらひらさせた。
「レイチェルさんと一緒に王宮で働いてるんでしたよね?」
「ええ、そうよ」
 ジークが確認すると、彼女は笑いながら返事をした。レイチェルも隣でくすくす笑っていた。
「王妃様……ですよね」
 リックはごくりと息を呑んで、ようやく口を開いた。
「はぁ? なに言ってんだ、おまえ」
「ジークこそ何を言っているの? 王妃アルティナ=ランカスターよ。知らなかったの?」
 アンジェリカは訝しげにそう言った。
 今度はジークが固まった。
「う……うそ……だ、って、こないだは……」
 ぎこちなく、アルティナへと振り向く。鳩が豆鉄砲を食ったような顔。彼女はおなかを抱えて笑い出した。
「ごめんね、隠してて。王妃様扱いされるのがあんまり好きじゃないから、ついね。でもレイチェルと一緒に働いてるっていうのは嘘じゃないのよ」
 そういえば、レイチェルは王妃の付き人をやっていると聞いたことがある。ジークは今になってようやく思い出した。
 アルティナはひとしきり笑ったあと、背筋を伸ばして立ち上がり、右手を差し出した。
「あらためてよろしくね。アルティナ=ランカスターよ」
 彼女はジーク、リックと力強く握手を交わした。
「全然、気がつかなかった……」
 ぼそりとつぶやいたジークに、リックは呆れ顔で冷たい視線を送った。
「自分の国の王妃様だよ? 顔も知らないなんて信じられないよ」
「うるせぇ! 俺はラジオ派なんだ!」
 ジークは顔を赤らめながら、必死のいいわけをした。
「でも王妃様ともあろう方が、どうしてこんなところへ?」
 リックは、再び腰を下ろしたアルティナに視線を向けた。
「こんなところで悪かったな。一応ここも王宮の敷地内だ」
 馴染みのある冷たい声が、背後から降りかかる。
 リックはどきりとして振り返った。いつのまにか奥からラウルが出てきていた。まっすぐ自分の机に向かい、書類を投げ置くと、椅子にどっかりと座った。
「ラウル、赤ちゃん、触ってもいい?」
「ああ」
 アンジェリカは体を屈め、胸を高鳴らせながら覗き込んだ。赤ん坊はぱっちりと目を開き、レイチェルの腕の中で軽く握った手をパタパタ動かした。
「わぁ……」
 感嘆の声をあげながら、アンジェリカはそっと手を近づける。
「すごーい! 柔らかい! この手ちっちゃい……あ、ほら、私の指を握ってるわ!」
 彼女はいつになく興奮ぎみに実況をした。
 レイチェルはそんな娘を愛おしげに目を細めて見つめていた。
「ルナっていうのよ」
「かわいい名前ね」
 アンジェリカは屈託のない笑顔を見せた。隣のリックも、赤ん坊の頬をつつきながら、和やかに笑った。
「うん、ホントかわいいね。ジークもおいでよ」
 数歩下がって眺めている彼を、手招きで呼んだ。しかし、彼は困ったような顔で立ち尽くしたままだった。
「いや、俺はいい……」
 消え入りそうな弱々しい声。リックはきょとんとして見上げた。
「どうして?」
 ジークはリックの視線から逃れるように、顔をそむけた。
「……怖ぇんだよ」
「はぁ??」
 思いもしなかったジークの返答に、リックは思いきり素頓狂な声をあげた。
 ジークは耳を真っ赤にしてうつむき、口をとがらせた。
「どう扱ったらいいか、わかんねぇんだよ。なんか、触ったら壊れそうじゃねぇか」
 ぼそぼそとはっきりしない声で言う。
 リックは深くため息をつくと、背中を丸め、肩を大きく落としてみせた。
「なんか、僕、情けなくて涙が出そうだよ」
「撫でるくらいじゃ、壊れたりしないわよ」
 ふたりのやりとりを聞いていたアルティナが、笑いながら口を挟んできた。
「いらっしゃい。これは命令よ」
 いたずらっぽくウインクをしてニッと笑うと、人さし指でくいっとジークを呼びつけた。
 王妃に命令と言われては、拒絶するわけにもいかない。ジークはしぶしぶ近づき、おそるおそる手を伸ばした。まわりの興味津々な視線を受け、よけいに緊張が高まってきた。ごくりとのどを鳴らす。そして、赤ん坊のほほにそっと触れた。
 その瞬間、ジークははっとして目を見開いた。口をすぼめ、細く息をもらす。
「どう? 抱っこしてみる?」
「やめろ。そんなへっぴり腰で出来るわけないだろう。落とされでもしたら取り返しがつかない」
 アルティナの提案を、ラウルは間髪入れずに却下した。
 ジークはさすがに何も言い返せなかった。ラウルの言うとおりだ。言い返す余地もない。それに、そんな恐ろしいことをせずに済んで、ほっとしている部分も大きかった。

 ガラガラガラ——。
 再び医務室の扉が勢いよく開いた。その場にいた全員が、いっせいに振り向いた。
「本当だったのね……」
 ユールベルは赤ん坊に目を向けると、落胆したようにつぶやいた。息をきらせながら、思いつめた表情で、まっすぐラウルへと足を進める。他の人の存在は、目にも入っていないらしい。
「ひどいわ! 私のことは追い出したのに、どうして?!」
 緩やかにウェーブを描いた長い金髪を揺らし、激しく詰め寄る。しかし、ラウルは椅子の背もたれに身を預けたまま、少しも動かなかった。ただ、彼女を冷たく見つめるだけである。
「おまえにとやかく言われる筋合いはない」
 まったく感情を感じさせない口調で、そう言い捨てた。
 ユールベルの、包帯で覆われていない方の瞳が、大きく光を反射する。
「……私より、その子を選んだってこと?」
 ラウルは何も答えなかった。
 ユールベルは、肩を、腕を、唇を、瞳を震わせた。そして、細い腕を大きく振りかぶると、力いっぱい平手打ちを喰らわせた。ラウルの顔が横向きになり、赤味を帯びたほほに、焦茶の髪がさらさらと掛かった。
 ユールベルは急に怯えたように顔を歪ませると、二、三歩、じりじりと後ずさった。そして、潤んだ目でキッとひと睨みし、背を向け一気に走り去っていった。
 ジークたちは、突然巻き起こった嵐を、ただ呆然と見ていた。
「あーあ、泣かしちゃった。追いかけなくていいの? 可愛らしいコイビト」
 アルティナは含み笑いをした。
「からかうな」
 ラウルは椅子を回し、机に向かうと、書類整理を始めた。
「あ、まずい!」
 腕時計を見たとたん、アルティナが大声をあげた。
「もう会議が始まっちゃってる!」
 パイプベッドから跳び降り、銀の髪を振り乱しながら扉へと駆け出す。
「じゃ、私は行くから。あとはよろしく!」
 戸口で振り返り、早口でまくし立てながら敬礼のポーズをとると、返事も待たず慌ただしく走って出ていった。
「王妃様が会議……ですか?」
 リックは軽く驚きながら、レイチェルに尋ねた。
「自主的に行っているのよ。煙たがられているみたいだけど」
 彼女は寂しげに笑い、肩をすくめる代わりに首を傾けてみせた。
「それでもアルティナさんはあきらめないの。腐った王宮を叩き直すんだって息巻いてるわ。とってもまっすぐで素敵な人よ」
「王宮、腐ってるんですか?」
 ジークの率直な疑問に、レイチェルは何も答えず、ただ笑顔を返すだけだった。その笑顔に物憂げなものを感じ、それ以上、追求することは出来なかった。
「おまえたちももう帰れ。そんなに暇なら課題を追加するぞ」
 ラウルは椅子から立ち上がり、腕を組むと、威嚇するように三人を見下ろした。
「言われなくても帰るぜ!」
 ジークは反発心をあらわにすると、踵を返し、扉に向かっていった。肩をいからせ、わざとドタドタと足音をさせる。リックとアンジェリカも苦笑いしながらそれに続いた。アンジェリカは後ろ手で扉を閉めかけて、ちらりと顔半分振り返った。
「また見に来てもいい?」
「たまにならな」
 ラウルはぶっきらぼうに答えた。
 彼女はほっとしたように、にっこりとした。

「私もそろそろ帰るわ」
 レイチェルはパイプベッドから立ち上がると、ラウルに赤ん坊を手渡した。
「月の女神の名前なのね」
 その小さな女神ににっこり笑いかけると、柔らかいほっぺを指でつついた。小さな手が空を舞う。喜んでいるのかどうかはわからないが、反応があったことが嬉しかった。
 彼女はふいに少し真面目な顔になった。じっとラウルを見上げて尋ねる。
「ふるさとが恋しくなったの?」
 透きとおった蒼い大きな瞳で、彼の濃色の瞳をつかまえる。
「いや……」
 ラウルは彼女を見つめたまま、うわごとのようにつぶやいた。体を動かすことも、視線をそらすこともできない。息が止まる。意識のすべてが蒼の瞳に捕えられていた。それは、あのときと同じ感覚——。
 レイチェルはやわらかく微笑んだ。
 そのことで、彼の見えない拘束は解けた。気づかれないように小さく息をつく。
「お茶でも飲んでいかないか」
 ふと、そんな言葉が自然と口をついて出た。昔のように——と続けようとしたが、それは声にせず呑み込んだ。理性は消えていなかった。
「ラウルが誘ってくれるなんてめずらしい」
 彼女は嬉しそうに無邪気な笑顔を見せる。こういう表情は、子供のときとほとんど変わっていない。
「……でも、やっぱり帰るわ。ありがとう」
 そう言って、もう一度、穏やかににっこり笑うと、背を向けて歩き出した。
「レイチェル」
 ラウルは彼女の小さな背中に呼びかけた。
「おまえにまで迷惑をかけることになってしまって、すまない」
 レイチェルは扉に手を掛け、静かに振り返る。
「もし、ほんの少しでもあなたを救う手助けになるのなら、私は嬉しいわ」
 そして、包み込むように、優しく微笑んだ。
「その子がラウルの女神になってくれるといいわね」
 その言葉を残し、レイチェルはそっと扉を閉めた。すりガラスの向こうの影が、揺れて流れた。
 ラウルの瞳には、まだ彼女の残像が焼きついていた。


47. 彷徨う心

「どうせ治らないんでしょう」
 ユールベルは床に視線を落とし、投げやりにそう言った。彼女はラウルに呼ばれ、医務室に来ていた。左目まわりの治療のためである。
「目は見えるようにはならないが、目のまわりの傷跡は、きちんと治療を続ければ、多少ましになるだろう」
 ラウルは真新しい白い包帯を、彼女の左目から頭にぐるぐると巻きつけ、後頭部で手早く結んだ。そして、長く柔らかい金髪に、手ぐしを通して整えた。
「完全に治らないのなら、どっちでも同じことよ」
 悲観的な発言をやめない彼女に、ラウルはもう何も言わなかった。椅子を回転させ、机に向かうとカルテを書き始めた。
「……あのひとたちは、どうしているの」
 ユールベルは下を向き、ぽつりとつぶやいた。
「気になるのか」
 ラウルは机に向かったまま、手を止めずに尋ねた。
「忘れたいから訊いているのよ。答えてくれないのなら別にいいわ」
 ムッとしたように彼を睨み、それでも努めて冷静に答えた。
「ユリアたちは家に戻った」
 ラウルは静かに口を開いた。ユールベルは目を伏せ、自嘲ぎみに薄笑いを浮かべた。
「仲良く三人で暮らしているってわけね。私の存在なんて、初めからなかったかのように……。想像がつくわ」
 ラウルはペンを置くと、ギィと軋み音を立てて椅子を回し、再びユールベルに体を向けた。
「バルタスは、おまえには申しわけないことをしたと言っていた」
「しらじらしい言葉ね」
 うつむいたまま小さくつぶやく。
「昔も今も、私ではなくユリアを選んだくせに」
 顔にかかるウェーブを描いた髪、華奢な細い肩。ラウルはうなだれる彼女をじっと見下ろした。
「でも勘違いしないで」
 ふいに早口でそう言うと、ユールベルは顔を上げ、ラウルと目を合わせた。
「ひとりになってほっとしているのよ。殴られることも、すべてを否定されることも、恐怖に怯えることもないもの」
 無表情で淡々と言葉をつなぐ。
「でも……私がいらない人間であることに変わりはない。誰も私のことなんて選ばないのよ」
 揺れる蒼い瞳、濡れた小さな唇を、まっすぐラウルに向ける。助けを求めるような、拒絶するような、矛盾した表情。彼はそれを正面から受け止めた。
「今はそうでも、今後はわからないだろう」
「下手な慰めだわ」
 ユールベルはわずかに目を伏せた。
「事実を言っているだけだ」
 ラウルは感情なく言った。
「あなたが私を選ばないというのも事実ね」
「そうだな」
 それきり言葉が途切れ、沈黙が続いた。互いに向かい合って座っているが、顔を合わせてはいない。ユールベルはうつむき、ラウルはそれをじっと見下ろしている。ふたりはそのまま動こうとしない。長い静寂。木々のざわめきが遥か遠くに聞こえる。
 ユールベルは膝の上でスカートの裾をきつく握りしめた。こぶしが小刻みに震える。
「……もっ、と……優しくしてくれてもいいじゃない!」
 唐突に悲痛な叫び声をあげると、勢いよく立ち上がった。丸椅子がガシャンと大きな音を立てて倒れた。
 それでもラウルは眉ひとつ動かさなかった。
「偽りの優しさに何の価値もない」
「偽りでも、何もないよりはましよ!」
 ユールベルは泣きそうに眉をひそめながら、再び叫んだ。体の横でこぶしを作り震わせる。ラウルは冷たい目で彼女を見つめた。
「だったら他の奴に頼むんだな」
 ——パン!
 ラウルのほほにユールベルの平手打ちがとんだ。じわりと赤味が差していく。それでも彼の表情は動かなかった。
 ユールベルは顔を歪ませ、ラウルの足元に泣き崩れた。

「追い返されると思うぜ」
 ジークは顔をしかめた。
「この前から一週間たってるじゃない」
 アンジェリカは反論した。
「一週間じゃ“たまに”ってことにはならないと思うけど……」
 リックは遠慮がちに口を挟んだ。
 三人は並んで歩きながらラウルの医務室に向かっていた。アンジェリカの希望である。またラウルの娘に会いたいと言い出したのだ。あれから一週間しか経っていない。ジークとリックは気が進まなかったが、アンジェリカは言い出したらきかない。ふたりは仕方なく付き合うことにしたのだった。
「いいわよ。私ひとりで行くから。ふたりは帰って」
 明らかに乗り気でないふたりを見て、アンジェリカはふてくされた。
「そういうわけにはいかねーんだよ」
 ジークはたしなめるように、アンジェリカの頭を軽く小突いた。彼女は一瞬カッとなり彼を睨んだが、同時にその言葉の重みを理解し、押し黙ってしまった。

 三人は無言のまま医務室の前まで来た。ジークはためらいなくガラガラと扉を引いた。が、半分のところで手を返し、そのまま扉を閉めてしまった。
「え?! 何?!」
 後ろにいたアンジェリカは、何が起こったのかわからず、とまどいの声をあげた。大きな黒い瞳を瞬かせる。そして、彼の背中に手を置き、横顔を不安そうに見上げた。
「先客がいた。帰るぞ」
 ジークはぶっきらぼうに、しかし、わずかに声をひそめてそう言った。
「先客ってだれ?」
 アンジェリカが尋ねても、ジークは表情を固めたまま答えようとはしない。
「……なんか変よ、ジーク。何を隠しているの?」
「別に何も隠してねぇって! いいから帰るぞ。あしたまた来ればいいだろ」
 扉の前に立ちはだかり、むきになって彼女を遠ざけようとする。そしてやはり自分の声の音量を気にしながら話している様子だった。明らかに彼の行動は不自然である。
「うそ! 絶対なにか隠しているわ! どうして?! 何なの?!」
 アンジェリカは手を伸ばし、強引に扉に手を掛けようとした。だが、ジークに手首を掴まれ、阻まれた。彼女はキッときつく睨みつけた。彼はうつむいて下唇を噛んだ。
「アンジェリカ、今日は帰ろうよ。何も今日じゃなきゃダメってわけじゃないんだし」
 リックはなんとか彼女をなだめようと、にっこり笑顔を作って、穏やかに説得を始めた。

 ガラガラガラ——。
 そのとき突然、内側から扉が開いた。
「別に気を遣ってくれなくてもいいのよ」
 そこから姿を現したのはユールベルだった。泣きはらした右目、涙の跡、乱れた髪。三人は言葉を発することが出来なかった。
「もっとも、どっちに気を遣ったのかわからないけど」
 そう言って、ジークに手首を掴まれたままのアンジェリカに視線を送った。彼女の鼓動は大きくドクンと打った。
「出ろ」
 ユールベルの後ろに大きな影が現れた。ラウルである。彼は彼女の背中を押して外に出すと、彼自身も医務室から出た。ユールベルが睨んでいたが、構うことなくポケットから鍵を取り出した。
「何をしに来た」
 扉に鍵をかけながら、後ろの三人に問いかける。
「ルナちゃんに会いに来たのよ」
 アンジェリカは、ジークの手を振り切り、はっきりした声で答えた。しかし、ラウルは背を向けたまま、振り返ろうとしなかった。
「これから迎えに行くところだ。今日は帰れ」
 にべもなく突き放す。そして、王宮の奥へと足を踏み出した。
 ユールベルは去りゆく彼の袖を、すがるようにそっと掴んだ。しかし彼は冷淡に振り払うと、大きな足どりで遠ざかっていった。ユールベルはその後ろ姿を、目を細めながら見つめていた。

「もしかして、おまえ……」
 ジークは彼女の横顔を見ながら、怪訝な表情で切り出した。
「ラウルのことが好きなのか?」
「冗談じゃないわ。どうしてあんな冷たい人を」
 ユールベルは即座に否定した。
「私が好きなのは……」
 ゆっくりとジークに振り向き、まだ涙の乾ききっていない瞳で彼を捉える。
「あなただけよ」
 彼女は静かに言葉を落とした。ジークはその瞬間、体に痺れが走り、動くことも声を出すことも出来なかった。
「まだそんなことを言っているの? いったい何を企んでいるわけ?!」
 アンジェリカはいらついた様子で食ってかかった。
「別にあなたに信じてもらえなくても構わないわ」
 ユールベルは目を閉じ軽く受け流した。そして再びジークに目を向ける。
「ジーク、あなたにだけ信じてもらえれば」
 まっすぐに向けられた、強くはかなげなまなざし。ジークには、何かを企んでいるようにはとても思えなかった。
「でも……」
 ユールベルはうつむき、かぼそい声で続けた。
「あなたが私を選ばないことはわかっているわ」
「なに勝手に決めてんだよ」
 ジークはとっさに言い返した。ユールベルはかすかに寂しげに笑ってみせた。
「少しは希望を持っていいってこと?」
 そう言うと顔を上げ、再び彼を見つめた。しかし、彼は答えることが出来なかった。とまどい、逃げるように、視線をそらせる。
 ユールベルは目を伏せると、無表情で足を踏み出した。ジークと腕が触れ合わんばかりの距離ですれ違う。彼女の髪がふわりと揺れ、甘い匂いが彼の鼻をくすぐった。
 ジークははっとして振り返り、小さくなる彼女の後ろ姿を目で追った。
「ジーク、まさか本気にしているんじゃないでしょうね」
 アンジェリカは眉をひそめてジークを覗き込んだ。しかし、彼は困惑したように目をそらせた。
「俺にはわからねぇよ」
 ぶっきらぼうに吐き捨てると、目を閉じ深くうつむいた。それからゆっくりと顔を上げると、じっとアンジェリカを見つめた。真剣な、不安そうな、思いつめたような、何か言いたげな表情。
「なに?」
 アンジェリカは少し驚いたように、きょとんとして尋ねた。
「いや、何でもねぇ」
 ジークはぼそりとつぶやくように言うと、ポケットに手を突っ込み歩き始めた。

 ラウルは預けたルナを迎えに、アルティナの部屋に来ていた。王妃の部屋だけあって、落ち着きがあり格調高い内装だ。床には繊細な模様が織り込まれた厚みのある絨毯が全面にひかれ、壁や家具には細やかな装飾が施されている。中央には白い丸テーブルが置かれ、そのまわりには三脚の椅子が囲んでいた。どれもかなりの年代物ではあるが、しっかりと手入れは行き届いている。
「待ってて。いまお茶を入れるわ」
 レイチェルはにっこり微笑んで、奥へ引っ込んだ。
 ラウルはルナを抱きかかえ、白い椅子に座った。ルナはすやすやと無垢な顔で眠っている。彼はその表情をじっと見つめた。
 レイチェルがトレイを持って戻ってきた。トレイの上にはティーポットとティーカップ三つが載せられていた。テーブルの中央にそれを置くと、ラウルの隣に腰を下ろした。
「偽りの優しさは必要だと思うか」
 ラウルの突然の問いかけに、レイチェルは驚いて目をぱちくりさせた。しかし、すぐに元の穏やかで優しい表情に戻った。
「私は必要ないと思っているわ。そんなの悲しいだけだもの。でも、それでも必要としている人もいるのかもしれないわね」
 ラウルの瞳を正面から見据えて答える。そして、さらに見透かすように、濃色の瞳の奥深くを探った。
「……ユールベル?」
 その短い問いに、ラウルは何も答えなかった。しかし、それが答えに他ならない。
「あなたは医者としての役目は果たしているわ。じゅうぶんすぎるほどよ」
 レイチェルはティーポットを手に取り、カップに注ぎ始めた。
「彼女のことを特別に想っていないのなら、これ以上深入りすべきではないんじゃないかしら。人の心はそう簡単に救えるものではない……あなたがいちばんよく知っているでしょう?」
 そう言った彼女の顔に、ふいに影がさした。しかし、すぐにそれを掻き消すように笑顔を作ると、ティーカップのひとつをラウルに差し出した。彼は無言で受け取ると、その中の透きとおる紅い水に目を落とした。水面に映った自分の姿が細かに波打った。
「……私は感謝している」
 静かだが、はっきりした声。レイチェルは目を大きく見開いて彼を見た。
「本当……? 信じていいの?」
 ラウルは言葉の代わりに、まっすぐなまなざしを送った。レイチェルは胸に手を当て、ほっとしたように、にっこりと微笑んだ。

「お待たせー!」
 明るい声を張り上げて、アルティナが入ってきた。
「楽しそうね。何の話?」
 彼女は空いている椅子に腰かけて脚を組んだ。
「昔話よ」
 レイチェルはにっこり笑うと、紅茶の入ったティーカップを差し出した。
「そっか。ラウルってレイチェルの家庭教師だったんだっけ」
 アルティナは横目でラウルを見ながら、ティーカップを手にとり口をつけた。ラウルはアルティナを無視し、腕の中のルナに目を向けた。
「サイファの家庭教師をやっていたこともあるのよ、ね」
 レイチェルはちょこんと首を傾けて、ラウルに笑いかけた。
「ああ」
 ラウルは顔を上げると、無表情のままで返事をした。アルティナは興味津々で身を乗り出した。
「へぇー。それは初耳だわ。いったい何人の教え子がいるわけ?」
「ふたりだけだ」
「あとアカデミーの子たちね」
 レイチェルはにっこり笑って付け加えた。
「いっそ本格的に転職しちゃえば?」
 アルティナは机にひじをついて、いたずらっぽく白い歯を見せた。ラウルは少しムッとしたように、彼女を見下ろした。
「好きで教師をやっているわけではない」
「医者は好きでやっているの?」
「ああ。ここに来てからずっとだ」
 ラウルがこんなふうに自分のことを語るのはめずらしい。どこか遠くを見やり、昔を思い返しているようにも見える。アルティナはほおづえをついたまま、ぐいと顔を突き出し、上目遣いでじとっと見つめた。
「噂じゃ、300年くらい前からここに居座ってるって聞いたけど?」
「だいたいそんなものだ」
 ラウルにためらいはなかった。前を向いたまま、たいしたことではないかのようにさらりと答える。
 アルティナはふいに真顔になった。
「……あなたは、どこから来たの?」
 身を起こし、静かに言葉を落とす。しかし、今度は何も答えてはくれなかった。
「つらくはないの?」
 彼女は質問を変えた。ラウルはわずかに視線を向けた。
「だって教え子や子供が自分より先に老けていって死んじゃうわけでしょ?」
 彼の視線を捉えると、アルティナは急に勢いづいて語りかけた。
「仕方のないことだ」
 ラウルはただ感情なくそう言った。レイチェルは寂しそうに微笑んだ。
「あなたより……その子の方がつらいのかもしれないわね」
 彼女はラウルの腕の中で眠る赤ん坊に視線を落とした。そして、小さな彼女の小さな手をとり、そっと握手を交わした。
「それ以前に問題はいろいろあるわよ」
 アルティナはあごに手をあて、難しい顔をした。そして、下からラウルを覗き込み、人さし指を突きつけた。
「親のことを訊かれたらどうするつもり?」
 声を低めて問いかける。しかし、彼はまったく動じることはなかった。
「正直に答えるだけだ」
「おまえは捨てられていたんだ……って?」
「下手に隠しだてするよりはいいだろう」
 ラウルは、もぞもぞと動き出したルナを抱え直し、額をなでた。
「まあ、そうだけど……」
 アルティナは不安を顔いっぱいに広げると、ほおづえをつき口をとがらせた。
「あなた子供相手でも容赦なさそうだから心配なのよね」
「きっと大丈夫よ」
 レイチェルはにっこり大きく微笑んだ。
「それでも今は愛されているんだって実感できるくらい、たくさん愛情を注いであげればね」

 ガラス窓から差し込んだ斜陽が、人通りの少なくなった廊下を紅く染める。ユールベルはうつむいて、逃げるように早足で歩いていた。金の髪が紅の光に照らされ、歩調に合わせてきらきら煌めく。
 カツーン、カツーン——。
 正面から響く靴音。ユールベルはその音につられて顔を上げた。廊下の先には、小脇に本を抱えたレオナルドがいた。図書館帰りのようだ。彼の方も彼女の存在に気づいたが、ちらりと目をあわせただけで、特に気を留めるわけでもなく足を進めた。
 しかし、ユールベルは彼に向かって一直線に駆けていくと、両手を伸ばして飛びついた。彼の首に腕をまわし、しがみつくように顔をうずめる。
 レオナルドは突然の出来事に対処できず、棒立ちになったままだった。彼女の甘い匂いが嗅覚を刺激する。彼女のあたたかい吐息が首筋にかかる。そして、彼女の胸の柔らかさが、数枚の服を通して感じられる……。頭のてっぺんから背中にかけて、痺れが駆け抜けていった。
「私のことを、好きになって」
 体を通して、彼女の震える声が伝わってきた。
「おまえのことは、よく知らない」
 レオナルドは精一杯の理性を総動員し、冷静を装った。しかし、ユールベルはさらに腕に力を込めた。
「私もあなたのことはよく知らないわ」
 静かに、無感情に、虚ろに、かぼそい声でつぶやく。レオナルドは、彼女の中に、限りなく深い闇を見たような気がした。


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