目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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40. 不条理な交渉

「来たよ!」
 リックは目を凝らして遠くを見ながら声をあげた。そして、アカデミーの門柱に寄りかかっているジークの肩を、急かすように軽く二度たたいた。ジークは腕組みをしながら暗い顔でうつむいていたが、彼に促されると、顔を上げその視線を追った。朝靄の中に小さな影がふたつ、だんだんと近づいてくる。ひとつはアンジェリカ、そしてもうひとつは……。

「あら、おはよう、ジーク」
 恐い顔で仁王立ちしているジークを見上げて、アンジェリカは少しとぼけたようにあいさつをした。
「なんでコイツと一緒なんだ。まさかきのうおまえが泊まったのって、コイツのところじゃねぇだろうな」
 ジークはアンジェリカと並んで歩いていたレオナルドを指さしながら彼女に詰め寄った。レオナルドは眉をひそめて、鼻先に突きつけられた指を払いのけた。ジークはあからさまにむっとして、レオナルドを睨みつけた。
「そうよ。いいでしょう、別に」
 アンジェリカはつんとしてそう答えた。しかし、それと同時にふと疑問を感じた。ジークの口ぶりは、まるで自分が家出をしたことを知っているかのようだった。父親に聞かされたのかもしれない。だが、それならなぜレオナルドのところにいたことは知らなかったのだろう。
「良くねぇよ!」
 ジークの大きな声がアンジェリカの思考を現実に引き戻した。
「なんでよりによってコイツなんだよ! ラウルならまだわかる……いや、アイツも良くねぇが……」
 出だしの勢いはどこへいったのか、次第に歯切れ悪く口ごもっていった。アンジェリカは呆れ顔で彼を眺めていた。
 レオナルドは何かを思いつき、小さくニヤリと笑った。
「こんなやつらは放っておいて早く行こうか、アンジェリカ」
 優しさを装ってそう言いながら、アンジェリカの肩を強く引き寄せた。彼女は不意をくらい、よろけてレオナルドの胸に寄りかかる格好になった。
 ジークは目を大きく見開き、息をのんだ。言葉は出てこなかった。リックも隣で目をぱちくりさせていた。
「ふざけないで」
 アンジェリカは体勢を立て直すと、レオナルドの手を冷たく払いのけた。
 彼の小さな悪だくみはあっさりと崩れ去った。ジークに反発している今の彼女なら乗ってくるかもしれないと思ったが、にべもなく拒絶された。ジークへ精神的なダメージを与えたかったのだが、逆に自分の方が軽くダメージを受けてしまった。
 少し寂しそうな彼を残し、アンジェリカは早足で歩き出した。無表情でジークとリックの間を突っ切っていく。ふたりは慌てて彼女を追った。レオナルドもその後ろからついていった。
「きのうのこと、怒ってるんだろ」
 ジークは神妙な面持ちで、後ろから静かに声を掛けた。「きのうのこと」とは、図書室でアンジェリカを残しユールベルに会いに行ったことだ。そのときに彼女はいなくなった。だから、それが原因としか考えられなかった。わずかに見える彼女の横顔をちらりと窺う。その表情から感情は読み取れなかった。
「怒っているわけじゃないわ」
 アンジェリカは前を向いたまま答えた。小さいがはっきりとした声だった。それでもジークはその言葉を素直に受け取っていいものか迷っていた。
 彼女は淡々と話を続けた。
「ただ少しショックだっただけ。ジークのことだけじゃなくて……いろいろあったのよ」
 ジークは強く締めつけられる思いがした。
「裏切ったわけじゃない。わけを話す」
 耐えきれなくなった彼は、思わず弁解めいたことを口にした。
「いいわもう。だいたいわかったから」
「わかったって……」
 そこまで言って、ジークははっとした。眉をひそめ、嫌な顔で後ろを振り返る。
「まさかおまえが言ったのか、あのときのこと……」
 押し殺した声でそう言い、レオナルドを苦々しげに睨みつけた。ユールベルにハンカチを返しに行ったとき、レオナルドは一部始終を見ていた。そして、そのことをアンジェリカに言いかねない様子だった。自分を嫌っている彼のことだ。あることないことを吹き込み、アンジェリカと自分を引き離そうとしても不思議ではない。
「あのときのことって? レオナルドが何か知ってるの?」
 アンジェリカは足を止め振り向いた。ふたりを眺めながら、きょとんとして尋ねた。
「え?」
 今度はジークがきょとんとした。
「くっ……はっはははは! 自爆とは愚かな奴だ」
 レオナルドは空に向かい、はじけたように高笑いをした。
 彼の言うとおり自爆だった。レオナルドは何も言ってはいなかったようだ。ジークはやり場のない悔しさを抱え、歯をくいしばり耳を赤くした。目の前の嫌味な男を、ただ恨めしく睨むことしかできない。
「なんだ、逆恨みか?」
 レオナルドはせせら笑いながらジークを挑発した。斜めにあごを上げ、ニヤニヤした目を流す。ジークはこぶしをぐっと握りしめ、煮えたぎる気持ちを抑え込んだ。
「話してくれなくてもいいわよ」
 アンジェリカは無表情で言った。
「え?」
 ジークは驚いて振り返った。さっきからどうもアンジェリカの様子がおかしい。まるで自分にまったく興味がないかのようだ。もしかしたら、もう愛想をつかされてしまったのだろうか。ほんの一瞬のうちにそんな考えが頭を駆け巡った。
 アンジェリカはジークから目をそらせた。
「だいたい見当がつくもの」
 ため息まじりにそう言うと、腕を組んだ。
「どうせユールベルに振り回されたって話なんでしょう?」
 ジークは彼女がそう考えていることに驚いた。口調からして、怒りの矛先は自分ではなくユールベルに向いているようだ。何か知っているのだろうか。それともユールベルとの間に何かあったのだろうか。
「……いや、そうじゃなくてな」
 なんと説明しようか迷いつつ、口を切った。振り回されたといえばそうだが、それだけではない。だが、下手にユールベルを弁護するようなことを言っては、アンジェリカの機嫌を損ねてしまうだろう。
 アンジェリカは視線を戻し、大きな瞳を彼に向けた。何かを秘めたような真剣な表情。彼はごくりと息を呑み、言葉を失った。
「ジークのことは信じてる。それでいいじゃない」
 アンジェリカは真顔でそう言ったあと微かに笑った。そして、ジークに背中を向け、アカデミーへと駆けていった。

 夕方になり、終業を告げるベルが鳴った。
 アンジェリカは帰り支度をすると、ジークの席へと小走りで向かった。しかし、彼はだらしなく大口を開けてあくびをすると、机の上に腕を投げ出し突っ伏した。
「ずいぶん眠そうね」
 アンジェリカはこんなジークを見るのは初めてだった。彼は机の上で、再び大あくびをした。
「さっきの授業、ずっと寝てたよね。ラウルに気づかれてたよ」
 リックは彼を見下ろして笑いかけた。ジークもつられて表情を緩めた。
「まあ、あいつも今日くらいは大目に見てくれるだろ」
「今日くらいって?」
 アンジェリカはきょとんとして尋ねた。
「あ……」
 今日のジークは口を滑らせてばかりだった。リックは肩をすくめ苦笑いした。
「実は、きのう、アンジェリカがいなくなったことで大騒ぎだったんだよ。ラウルもあまり寝てないんじゃないかな。クラスメイト全部に連絡してるはずだし。ジークも責任を感じてずっと……」
「リック!」
 ジークの強い制止により、リックはそこで言葉を止めた。大まかな説明は仕方ないにしても、彼女の負担になるだけの余計な話はしてほしくない——ジークはそう思った。しかし、アンジェリカはそれだけ聞けば十分だった。
「……ごめんなさい」
 下を向き小さな声でぼそりと謝った。急にまわりからの視線が気になり始めた。落ち着かない。今すぐこの教室を出たい、そんな衝動に駆られた。
 しかし、ふたりはそのことに気がつかなかった。彼女が真摯に謝っているのだとしか思っていなかった。リックはにっこり笑いかけた。ジークも机に伏せたまま顔だけ横に向け、ほんの少し笑ってみせた。アンジェリカはとまどいながらぎこちない笑顔を作って返した。

「でもよりによってレオナルドのところだったとは思わなかったよ」
 リックは意外だということを強調するように、大げさな抑揚をつけて言った。
「ああ、でもおかしいとは思ったぜ。サイファさん、教えてくれなかったからな。アンジェリカを見つけた場所」
 ジークは体を起こし、帰り支度を始めた。教本を無造作に鞄に放り込む。
「そりゃ、言えないよね」
 そう言ってリックはくすくす笑った。ジークは何がそんなにおかしいのかと思いながらも、つられてなんとなく笑った。
 アンジェリカはその会話を聞いて、ようやく今朝の謎が解けた。家出をしたことは知っていたのに、レオナルドのところにいたことは知らなかった——。それはこういうことだったのだ。ただ、なぜサイファが黙っていたのかということまでは、彼女には理解できなかった。

「今日はちゃんと帰るんだろ」
 ジークはアンジェリカに振り向いて尋ねた。
「ええ、そのつもりよ」
 アンジェリカは鞄を後ろ手に持ちかえた。一晩の家出だけでだいぶ気は済んだ。これ以上、両親やジークたちに心配や迷惑をかけるわけにもいかない。それに、逃げたところで何も解決などしない。冷静になってそのことがよくわかった。
「送っていく」
 ジークは立ち上がり、鞄を肩に引っ掛けた。
「え? いいわよ別に。眠いんでしょう?」
 アンジェリカは少しあせったように、早口でそう言った。しかし、ジークは彼女に顔を向けると、にっと白い歯を見せた。
「またいなくなられたら、それこそ眠れねぇからな」
 アンジェリカには返す言葉がなかった。観念したようにため息をつくと、暗い声でぼそぼそと言った。
「帰る前に、寄るところがあるんだけど……」
「どこだ? 一緒に行くぜ」
 アンジェリカは上目遣いでじっとジークを見つめた。
「……ユールベルのところ」
「え?」
 ジークの笑顔が凍りついた。

「ジーク、本当についてくるわけ? ジークがいると話がしづらいんだけど……」
 アンジェリカは眉をひそめて困ったような顔を見せた。
「ひとりで行かせるわけにはいかねぇよ」
 ジークは前を向いたまま冷静にそう言った。だが、内心は穏やかではなかった。アンジェリカはともかく、ユールベルはどういう言動をとるのか読めないだけに怖い。アンジェリカの前で、また抱きつかれでもしたら、自分はどういう態度をとればいいのだろうか。考えると頭が痛くなった。
 リックも一緒なのが唯一の救いだった。いてくれるだけでありがたい。ユールベルとアンジェリカの間にひとりなど、とてもいたたまれない。ジークはすがるような気持ちで彼を見た。リックがその視線に気がつき振り向くと、ジークは慌てて目をそらせた。

 一年生の教室に着いた。授業が終わってから時間が経っているせいか、残っている生徒はもう半分以下になっていた。
 三人は戸口から覗き込んでユールベルを探した。しかし、姿は見当たらない。
「なんだ?」
 教室に残っていたレオナルドが、立ち上がって声を掛けた。
「あなたに用なんてないわよ。私が探しているのはユールベル」
 アンジェリカは目もあわさず冷たくあしらった。レオナルドはむっとして、恨めしそうな視線をジークとリックに向けた。ジークも負けじと睨み返した。
「彼女なら帰ったはずだ」
 レオナルド再び席につくと、ぶっきらぼうに言った。
 ジークは拍子抜けした。もっと嫌味を言ったり、突っかかったりしてくるかと思った。それどころか、頼んでもいないのに、彼女のことを親切に教えてくれた。素直にそれを信じていいものか疑問に思ったが、どちらにしろジークにとって嬉しい情報だった。ユールベルが帰ったと聞けば、アンジェリカもあきらめるだろう。ほっとして安堵の息をもらした。
 アンジェリカは踵を返し、玄関へと向かった。
「帰るんだな?」
 ジークの声は弾んでいた。
「居場所の見当はついているわ」
 アンジェリカはまっすぐ前を見据えて言った。そして、さらに足を速め、迷いなく進んでいった。

 三人はアカデミーの外れにある小さな礼拝堂へやってきた。ジークもリックも、ここへはほとんど来たことがない。ふたりはさびれた建物を眺めまわした。
「こんなところにいるのか? そもそもなんでそう思うんだ?」
 アンジェリカはジークの問いに答えず、無言で扉を押し開けた。
「ユールベル、いるんでしょう」
 アンジェリカの声が小さな礼拝堂の中に反響した。しかし返事はなかった。それきり静まり返った。
「いないんじゃないの?」
 リックが後ろから覗き込んで、あたりを見渡した。
「もう帰ろうぜ」
 ジークはいらついた様子で急かした。
 ——コトン。
 どこかで小さな音がした。アンジェリカに緊張が走った。
 ——ギギ……。
 いちばん後ろの長椅子から、金の髪がむくりと現れた。そして、合間からのぞく白い包帯。ユールベルだ。彼女は顔を上げ、三人を虚ろに見つめた。
「ジーク、来てくれたのね」
 ユールベルはぼうっとした調子でそう言うと、長椅子の上に立ち上がった。さらに背もたれに素足を掛けてのぼり、まっすぐに背筋を伸ばしたままつま先立ちをした。薄地の白いワンピースとウェーブを描いた金色の髪が、風を受け、緩やかに舞う。そして左から差し込むステンドグラスの光は、彼女を色とりどりに輝かせた。風が吹くたびに形を変え、きらめきを放っている。
 ——天……使……。
 そんな言葉がふとジークの脳裏をよぎった。彼はだらしなく口を開けて彼女を見上げている。リックも惚けた顔で、彼女を瞳に映している。アンジェリカだけが固唾を飲んで、ユールベルの次の行動にそなえ身構えた。
 ユールベルは目を細めてジークを見下ろすと、わずかに表情を緩めた。そして、顔を天に向け瞳を閉じると、体を伸ばしたまま、前に倒れていった。
 ジークは吸い込まれるようにそれを見ていた。しかし、彼女の足が背もたれから離れたのを目にすると、はっと我にかえった。
「危ねぇ!」
 ジークは彼女の落下地点に滑り込み、ぎりぎりで彼女を受け止めた。冷たい床の上でふたりは重なった。
「げほっ」
 ジークは苦しそうにむせた。
「ジーク!」
 アンジェリカとリックが同時に叫び、駆け寄った。
「な……なんでもねぇ。ちょっと打っただけだ」
 ジークはまだ苦しそうに顔をしかめ、つぶれた声で言った。
 ユールベルは彼の胸の上で肩を震わせくすくすと小さく笑っていた。そして、かぼそい指を彼の頬に這わせ、小さな声でささやいた。
「あなたなら、助けてくれると思った」
 喉元にかかる熱い息、鼻をくすぐる甘い匂い。平静を装ってはいたが、耳元が紅潮していくのは止められなかった。
「ユールベル、あなたどういうつもり?!」
 アンジェリカは耐えかねて叫んだ。しかし、ユールベルは答えなかった。
 ジークはユールベルを抱きかかえながら体を起こして座った。そして、小さく息をつくと、脚の上の彼女をそこから下ろそうとした。しかし、彼女はジークの背中に手をまわし、離してはくれなかった。彼はそれを振り切るほど非情にはなれなかった。
「あ……あのな……」
 そんな困りきった弱々しい声をもらすのが精一杯だった。
「あなたに用があってここに来たのは私よ」
 アンジェリカは今度は冷静に言った。腕を組み、ユールベルを冷たく見下ろした。
 ユールベルはジークの肩ごしにアンジェリカを見上げて、うっすらと不敵に笑った。アンジェリカは一気にカッと頭に血が上った。組んだ腕の中で強くこぶしを握りしめ、きゅっと下くちびるを噛んだ。
 ジークは背中に妙な空気を感じ、冷や汗がにじんできた。
「あのな、ユールベル……」
 彼は再びそう切り出した。だが、彼女はまわした手の力をよりいっそう強めた。無言の返事。ジークは言葉を続けられなかった。
「ユールベル、私の話を聞いて」
 アンジェリカは低く抑えた声で言った。しかし、そこからは隠しきれない苛立たしさがにじんでいた。
「聞いているわよ」
 ユールベルはジークに寄りかかったまま返事をした。その声はどこか愉しげで、まるで挑発しているかのようだった。
 アンジェリカは軽く目を閉じため息をついた。それからゆっくりとまぶたを上げ、強いまなざしをユールベルに向けた。
「私と対戦してほしいの、VRMで」
 ユールベルの瞳に鈍い光が宿った。
「た……対戦?!」
「なに言ってんだおまえ!」
 リックとジークは驚いた声をあげながら、アンジェリカに振り向いた。

 VRM(ヴァーチャル・リアリティ・マシン)は仮想空間を作り出し、そこへ現実世界の人間を投影させる機械である。神経信号を読みとり仮想空間に即時に反映させる。また、仮想空間で受けた刺激は、そのまま神経信号として脳に送られる。それにより触覚も痛覚もリアルに感じることができるのだ。以前、アンジェリカとジークが戦ったとき、許容を超える信号によりジークが失神するという事件があった。ヴァーチャルとはいえ危険な代物であることは間違いない。

 ユールベルは動じていなかった。
「目的は何?」
 彼女がそう言うと同時に突風が吹き込み、アンジェリカの髪を後ろからさらさらと舞い上がらせた。そして、スカートのはためく音があたりに広がった。やがて風がやみ、もとの静けさを取り戻すと、アンジェリカはゆっくりと口を開いた。
「私が勝ったら……昔、私たちの間に起こったことを教えて」
 その真剣なまなざしに、ユールベルは意味ありげな笑顔を返した。
「私におじさまとの約束を破れというの?」
「ええ。あなたも相応の望みを出してくれていいわ」
 アンジェリカは負けじと強気な態度を示した。
「そうね……」
 ユールベルはそう言いながら、アンジェリカの反応を愉しむかのようにもったいつけた。
「私は……ジークをもらうわ」
 彼の肩に口を押し当て、上目遣いでアンジェリカを見つめた。明らかにアンジェリカを挑発している。
 しかし、アンジェリカは冷静だった。その挑発にはのらなかった。
「ジークは関係ないでしょう。他のことにして」
 あきれたと言わんばかりに、わざと大きくため息をついて見せた。だが、ユールベルは引かなかった。
「関係あるかどうかなんて知ったことじゃない。ジークがほしい、ただそれだけ。他の条件では受けないわよ。どうするの?」
 アンジェリカはきゅっと口を結び、難しい顔で考え込んだ。そして、ひとつの結論を出した。
「……わかったわ」
「おい! 『わかったわ』って何だよ! 俺の意思はどうなるんだ!!」
 ジークは振り返り、焦って大声でまくしたてた。彼女がそんな条件を受けるとは微塵も思わなかった。驚くと同時にどこか寂しい気持ちになった。
「悪いけどジーク、条件をのんで。絶対に私が勝つから」
 強い意志を秘めた瞳をまっすぐジークに向ける。彼は困ったように目をそらせた。
「随分な自信ね。私のことなんて何も知らないのに」
 ユールベルは冷たい笑顔を浮かべた。しかし、アンジェリカは眉ひとつ動かさなかった。
「あなたがどんな力を持っていようと私が勝つ。それだけよ」
 自らに言い聞かせるようにその言葉を噛みしめると、ユールベルをじっと見下ろした。
「待てよ。俺は取引の道具に使われるなんてゴメンだぜ。俺にはなんのメリットもねぇしな!」
 ジークはやってられないとばかりに、床に手をついて上を向き、投げやり口調で言った。アンジェリカは一瞬きょとんとして、それから緩く頷きながら考え込んだ。
「じゃあこうするわ。私が勝ったら、何でもひとつジークの言うことをきく。それでどう?」
「そんなの不公平よ」
 ユールベルは間髪入れずにアンジェリカのあとに続けた。そして、ジークに顔を近づけた。
「私が勝ったら、私がジークの願いをかなえるわ」
「お、おまえらに頼みたいことなんてなんもねーよ!」
 ジークはユールベルから逃れるように体を後ろにそらせた。
「……お願い、ジーク」
 今までとは違うアンジェリカの弱々しい声。ジークは思わず振り向いた。
「私、どうしても自分の過去を知りたいの。なくした記憶を埋めたいの」
 思いつめた表情、泣きそうな声、哀願する瞳。こんなものを見せられては拒否することなどできない。どうすればいい……。ジークはくちびるを噛みしめた。
「あの、取り込み中、悪いんだけど」
 リックが遠慮がちに口をはさんできた。
「大事なことを忘れてない? VRMでの人間と人間の対戦はもう禁止されてるんだよ」
 リックの言うとおりだった。アンジェリカとジークの一件が原因なのかはわからないが、それからしばらくして通達が出た。VRMの使用は対プログラム(仮想人間)のみに限定するというものだ。
 アンジェリカはそれを忘れていたわけではなかった。
「ラウルに頼めばなんとかなるわ」
 彼女はしれっとして言った。
「ならなかったら?」
「……そのときは、そのときよ」
 何か、彼女には思うところがありそうだった。リックの心に不安が広がった。
「いいわね、そういうことで」
 アンジェリカはユールベルとジークに向き直り、強く念押しした。ユールベルは返事の代わりに挑戦的な笑みを返した。ジークは相変わらず困り顔で返答に迷っていた。
「それじゃ、ユールベル」
 アンジェリカは冷たく無表情にそう言うと、背を向け外へと出ていった。
 リックはジークに目配せした。ジークは我にかえり、脚の上のユールベルを下ろそうとした。それを察知した彼女はまた腕を伸ばしてきたが、今度はそれを阻止した。
「悪いな」
 短くそう言うと、さっと立ち上がり、リックと連れ立って走り去った。
 ユールベルはオレンジ色に照らされたジークの後ろ姿を無言で見送った。

 ザッ、ザッと砂を踏みしめながら、三人は校庭を横切り門へと向かう。空は赤く染まり、三つの長い影を地面に映し出していた。
「本気……なんだよね?」
 リックは横からアンジェリカを覗き込みながら、おそるおそる尋ねた。
「もちろんよ」
 彼女は前を向いたまま、きっぱりと言い放った。
「おっまえなぁ……。どうしてくれるんだよ。意味わかってねぇんだろ。ユールベ……」
「ジークをひとりじめにしたいってことでしょう? まったく子供じみたことを言ってくれるわ」
 アンジェリカはジークの言葉を遮り、やや感情的にまくしたてた。
「……まぁ……そう……だな」
 歯切れ悪く、ジークはあいまいな返事をした。彼女の考えはどこかずれているような気がしたが、それを指摘するだけの確信が、彼の側にもなかった。ユールベルが何を考えているか、それは彼女自身にしかわからないことだ。
「だいたいジークがついてきたから、ややこしいことになったんじゃない」
 アンジェリカはおさまらない怒りの矛先をジークに向けた。
「俺が悪いってのかよ!!」
「私にはこんなにえらそうなのに、どうしてユールベルには強気に出ないのよ」
「そ……そんなことねぇだろ!」
「自覚がないわけ?!」
「関係ねーだろ!!」
 リックは隣であきれたように苦笑いしていた。このくらいの言い合いは日常茶飯事である。そして、こんなことではふたりの絆は壊れないということを、リックはわかっていた。
 ひとしきり言い合いをしたあとで、アンジェリカは思いついたように、小さく「あっ」と声をもらした。
「お父さんやお母さんには言わないでよね」
 ジーク、そしてリックへと、念を押すように視線を送った。
「さあな。サイファさんに問いつめられたらしゃべっちまうぜ、俺は」
 ジークは頭の後ろで手を組んで、空を見上げた。
「僕たちが黙ってても、ラウルが黙ってないと思うよ。頼むんでしょ? VRMのこと」
 リックはアンジェリカの横顔を見つめた。
「もちろんラウルには口止めするわ。何がなんでもね」
 強い決意を秘めた表情。それを見たふたりは、もう彼女を止めることはできない、そう思った。
 ジークの心には不安が渦巻いていた。戦い自体はもちろんだが、それ以上に彼女の望みが心配だった。サイファが過去のことをひた隠しにしているのは、アンジェリカのことを思ってのことだろう。それを彼女が知ってしまうのは、果たして彼女のためになるのだろうか。だからといって彼女の負けを望むわけにはいかない。
「大丈夫よ、ジーク。絶対に勝つから。私を信じて」
 アンジェリカはジークを見上げてにっこり笑った。
「……ああ」
 ジークは複雑な顔でそう返事をすることしかできなかった。


41. 迷走

「どうして?!」
 アンジェリカはそう叫んで一歩前へ踏み出した。
「当たり前だ。そう決まっている」
 ラウルは彼女を見ようともせず、机に向かったまま書類にペンを走らせていた。窓からの赤みがかった光が、彼の端整な横顔を照らす。何の感情もない表情。ユールベルは眉をひそめた。その後ろで、ジークとリックは曇った顔を見合わせた。
 しかし、アンジェリカは、これくらいでは諦めなかった。
「そんなのわかっているわよ。だからラウルにお願いしているの」
 強い視線を向け、強い口調で食い下がる。ラウルは横目で彼女を一瞥すると、あきれたようにため息をついた。
「おまえたち親子は、よほど私をクビにしたいらしいな」
「ラウルならうまくやってくれるって信じているわ」
 アンジェリカはにっこりと満面の笑みを浮かべた。ラウルの手が止まった。机に向かったまま、再び小さくため息をついた。
「サイファに似てきたな」
 アンジェリカはきょとんとして瞬きをした。だが、再びにっこりと笑って、照れたように肩をすくめた。
「使わせてくれるわよね、VRM」
 彼女の口調は、ほとんど確信しているかのようだった。だが、ラウルの返答によって、その確信はあっさりと打ち砕かれた。
「駄目だ」
 彼は迷いなくきっぱりと言い放った。
 アンジェリカは口をとがらせ、不満げに彼を睨みつけた。しかし、やがてその瞳は決意を秘めた鋭いものへと変わっていった。
「だったらリアルで戦うまでよ」
「リアルって、おまえ何いってんだ!」
 後ろからジークがうろたえながら叫んだ。リックも同様に驚き、大きく見開いた目を彼女に向けた。ユールベルは少しうつむいて、不敵にふっと笑った。
 しかし、肝心のラウルは何の反応も示さなかった。アンジェリカは彼を覗き込むと、さらに畳み掛けた。
「私は本気よ。どちらかが死ぬかもしれないわ」
 冷静に、重々しく言葉をつなげた。
「いいのね?」
 それでもラウルが動じることはなかった。
「私には関係のないことだ」
 冷たく突き放した言葉。机に向かったまま、アンジェリカに視線を向けもしない。
 アンジェリカは目を閉じ、唇をかみしめた。
「わかったわ」
 かすかに揺らぐ声。抑え込んだ怒りがにじんでいる。彼女はくるりと背を向けると、ジークとリックの間をすり抜け、大股で戸口へと歩いていった。引き戸を怒りまかせにガシャンと開け、そのまま医務室をあとにした。
 ユールベルもそのあとに続き、静かに外へと出ていった。
 ジークはけわしい目つきで、ラウルをじっと睨んでいた。
「おい、アンジェリカは本気だぜ」
 低く、静かな声でうなった。
「おまえに言われなくてもわかっている」
 ラウルは相変わらず書類に向かったまま、そっけなく答えた。
「だったらなんとかしろよ!」
 ジークはそう言うと同時に、机にこぶしを叩きつけた。ゴッ、とスチールの机が鈍い音を立てる。机との接点から腕へと一気に痺れが駆け抜けた。ジークの目にうっすら涙が浮かんだ。しかし、歯を食いしばり必死でこらえた。ここで痛がっては格好がつかない。
 ラウルはゆっくり腕から顔へとジークを見上げた。彼は怒りと痛みをすべて瞳に込め、まっすぐにぶつけてきていた。ラウルも逃げることなく、鋭く凍りつくような視線を返した。
「おまえは他人に頼るだけか」
 ジークはカッと頭に血が上った。
「見損なったぜ!」
「それは元からだろう」
 ラウルの冷静な態度と反比例するかのように、ジークはますます熱を帯びていった。
「今までよりもっと見損なったってことだ!!」
 大声でそう叫び、足早に医務室を飛び出した。
「ジーク!!」
 リックは慌てて彼のあとを追っていった。
「待ってよ、ジーク!」
 ジークはリックの呼びかけを無視し、逃げるように足を進めた。彼には自らの逆上の理由がわかっていた。もちろんラウルは腹立たしい。しかし、それ以上に、何も出来ない自分自身に腹を立てているのだ。ラウルの指摘でそのことに気づかされたことが、さらに許せなかった。奥歯をかみしめ、爪が食い込むほどにこぶしを握りしめる。
「アンジェリカとユールベルがどこへ行ったかわかってるの?!」
「……あ」
 背後からのリックの問いかけに、ジークははっとして足を止めた。

 アンジェリカとユールベルは並んで廊下を歩いていた。
「リアルでの戦いに変更するけど、異存はないわね」
 アンジェリカは前を向いたまま、はっきりとした声で尋ねた。
「ヴァーチャルでは物足りないと思っていたくらいよ」
 ユールベルは目を細め、遠くを見つめると小さく笑った。
「いつのまにか、ずいぶん笑うようになったじゃない」
 隣の彼女をちらりと盗み見ると、アンジェリカはつんとして言った。しかし、ユールベルはにっこりと顔いっぱいで笑ってみせた。
「ジークのおかげよ」
 アンジェリカは目を見開いて足を止めた。動けなかった。言葉が出なかった。
 ユールベルも少し先で足を止め、振り返った。そのときにはすでにいつもの冷たい顔に戻っていた。
「だから、私にはジークが必要なの」
 淡々とそう言うと、再び前を向いて歩き出した。
 アンジェリカの額には生ぬるい汗がにじんでいた。

 渡り廊下を歩ききると、白い立方体状の建物に辿り着いた。側面に窓はなく、一面コンクリートで覆われている。
 アンジェリカは白い扉にかけられた古びた南京錠を手にとった。小さく呪文を唱える。手の内側が光り、一瞬でその錠は砕け落ちた。
 重量感のある両開きの扉を、アンジェリカ、ユールベルが片方づつ手にとり、ゆっくりと開いた。さらに内扉を押し開くと、まぶしいくらいの真っ白な空間があらわれた。白い壁、白い床、白い天井、それ以外は何もない。
「この道場なら心置きなく戦えるでしょう」
「そうね」
 道場と呼ばれたこの建物は内側に強い結界が張ってあり、魔導の力が外にもれない仕組みになっている。また、そもそもが特別に丈夫に作られているため、物理的な力にも極めて強いという特性も持ち合わせている。まさに道場と呼ぶにふさわしい建物なのだ。
 だがここは、教師の監視下でなければ使用してはならない。アンジェリカとユールベルも当然そのことは知っていた。しかし、今の彼女たちには、そのような規則を気にかける余裕などなかった。
「決着は、降参かテンカウントでどう?」
 アンジェリカはまっすぐユールベルを見据えた。彼女は頭の後ろで包帯を固結びにしながら、けだるく答えた。
「誰がカウントをとるの? それに降参する気なんてないでしょう?」
「気絶するか、死ぬまでね」
 アンジェリカはユールベルの言葉に被せるように訂正した。ユールベルは口端を上げ、挑むような目を向けた。

 ガタン!
 大きな音を立て、内扉が弾けるように開いた。
「やっぱりここか!」
 ジークは入り口でけつまづきながら、慌ててアンジェリカに駆け寄った。そして、彼女の両手首をきつく掴み上げると、覆いかぶさるように顔を近づけにじり寄った。
「なによ!」
 アンジェリカは手を振り払おうと力を入れたがびくともしない。視線を上げると、ぶつかりそうなくらい近くに、ジークのけわしい顔があった。
「俺が認めるのは VRMまでだ。現実世界での決闘なんて絶対やらせねぇ。力づくでも止めてやる」
 アンジェリカは大きな瞳を見開き、顔を上げ首を伸ばした。お互いのひたいが髪の毛ごしに触れ合った。ジークは少し身をひいた。
「ジークに止められる?」
 静かだが凛とした声。そして冷たく鋭い表情。ジークの背中に痺れが走った。その一瞬をつかれ、アンジェリカに手を振りほどかれた。彼女は手が放れると素早く後方に飛び退き、ジークから離れた。
「始めるわよ、ユールベル!」
 ユールベルはその声に呼応するかのように、両手を高々と上げ、呪文を紡ぎ始めた。それとほぼ同時に、アンジェリカも両手を前方に突き出し、口を開いた。
「くそっ!」
 ジークは短く叫ぶと、早口で呪文を唱え始めた。
「ちょっと、三人とも!」
 もはやリックに為すすべはなかった。ただそう叫ぶのが精一杯だった。
 三つ巴の戦いが始まる——。
 緊張が高まったその瞬間、三人はそれぞれ呪文をフェードアウトさせた。静寂があたりに広がる。怪訝な表情で、かわるがわる視線を合わせた。リックの制止を受け入れたわけではなさそうだった。
「どうしたの?」
 リックは後ろからおそるおそるジークに声を掛けた。
「……全然、使えねぇんだ、魔導の力が」
 ジークはわけがわからないといった様子で手のひらを見つめ、ひたすら首を傾げていた。
「どうやらこの空間は魔導を無効化するみたいね」
 アンジェリカがまわりを大きく見渡しながら、ジークとリックの元に戻ってきた。
「そんなことできんのかよ」
 ジークは眉をひそめた。
「実際ここがそうなんだから、できるんでしょうね。すべての魔導を無効にするなんて、ただのおとぎ話かと思っていたけど……」
「食えない男ね」
 ユールベルもそう言いながら、ジークたちのところへ歩いてきた。
「え?」
 アンジェリカが振り向いた。
「こんなことができるのはラウルくらいよ。どうりで落ち着きはらっていたわけだわ」
 ユールベルの声は淡々としていたが、どこか楽しんでいるかのようにも聞こえた。
 ジークは、ラウルの態度と言葉を思い出すにつけ、ふつふつと怒りが沸き上がってきた。
「あいつ……ふざけやがって……。ホントに食えねえヤツだぜ」
 うつむいて歯ぎしりをしながら小さくうなり、こぶしを強く握りしめた。
「どうするの?」
 ユールベルは腕を組み、アンジェリカに向き直った。
「とりあえず、ここを出ましょう。なんだか落ち着かないわ」
 アンジェリカはひじを抱え、肩をすくめた。
「もう決闘はあきらめた方がいいんじゃない?」
 リックが後ろから声を掛けた。しかし、ふたりの少女は彼を一瞥しただけで、扉に向かって歩き始めた。彼の寂しげな背中に、ジークはため息をつきながら手を置いた。

 空は道場に入る前より赤みを増していた。ジークとリックは顔を上げ、大きく腕を伸ばし深呼吸した。しかし、アンジェリカとユールベルは、気を緩めることなく話し始めた。
「結界なんかなくても外で戦えばいいでしょう。他に被害が及ぶことを恐れているわけ?」
「すぐにばれるからダメね。あっさり止められて、こってりお説教よ」
「じゃあ、やっぱり VRMしかないのかしら」
「ええ」
 ふたりの意見が一致したところで、そろって足を踏み出した。その後ろを、ジークとリックはついて歩いた。

 四人はヴァーチャルマシンルームにやってきた。対戦用ではない、通常の VRMがずらりと並んでいる。そのうちいくつかはコクピットが閉じられ、実際に作動しているようだった。
 その部屋を突っ切り、奥の古びた扉へと足を進めた。この向こう側に、対戦用 VRMが置かれている。
「当たり前だけど、鍵がかかってるよ」
 リックはそう言ったあとで、道場の壊されていた鍵を思い出した。嫌な予感がした。だが、止める間もなくユールベルが呪文を唱え、鍵を砕いてしまった。壊れた鍵を床に落とし、ぽつりと言った。
「これでおあいこね」
「え……ああ」
 アンジェリカは生返事をした。おそらくはアンジェリカが道場の鍵を壊したことに対して言っているのだろうとは思ったが、彼女にはユールベルがそんなことにこだわる理由がよくわからなかった。
 ギィ——。
 アンジェリカはそろりと扉を開いた。そのとたん、顔をしかめて激しく咳き込んだ。他の三人も思わず後ずさりをした。
 その部屋が長い間使われていないことは一目瞭然だった。つんとカビくさい匂い、床やマシンを覆うほこり、天井からぶら下がる蜘蛛の巣の残骸、虫の死骸……。部屋の中央に置かれているふたつのコクピットは、まるで骨董品のように見える。
「一年も経ってねぇのにこれかよ! いくらなんでもたまりすぎだろ、ほこり!」
 ジークはやけになり、勢いよくどかどかと踏み入った。足を下ろすたび、白いものが床から舞い上がった。
「ジーク、やめてよ!」
 アンジェリカは両手で鼻と口をふさぎ、眉根にしわをよせた。窓のないこの部屋では、簡単に換気もできない。
 ジーク以外の三人も、彼に続きこわごわと部屋に入っていった。アンジェリカはずっと口をふさいだままである。目にはうっすら涙さえ浮かんでいた。
「本当に動くのかよ。腐ってんじゃねぇのか?」
 ジークはコクピットの外側をバンと平手打ちした。すると再びあたりにほこりが舞い上がった。アンジェリカは無言で彼をうらめしそうに睨んだ。
 ユールベルはふたつのコクピットのまわりを、ゆっくりとまわって観察していた。
「このコードをここにさして、そっちのコードはそこ」
 指をさしながら、誰にともなく指示を送る。しかし、誰も反応しない。ジークとリックはゆっくり顔を見合わせると、同時にため息をついた。ふたりはしぶしぶしゃがみこみ、言われたとおり配線していった。ほこりだらけの床に這いつくばっての作業で、手もひざも白く汚れてしまった。
「ふたつのコクピットをつなげるメインケーブルがないんじゃない?」
 アンジェリカが口を手で覆いながら、コクピットの下方を覗き込んで言った。
「どこかにあるはずよ、探して」
 ユールベルは腕を組み、命令口調で言った。
「はいはい」
 ジークは投げやりに答えた。コクピットの下に手を伸ばしまさぐる。
「これ、そうかなぁ」
 ジークの反対側で、リックが声を上げた。彼が掲げた手には丸めた太いケーブルが握られていた。
「ちょっと切れてるみたいだけど」
 彼の言うとおり、被覆部が破れ導線がむき出しになり、切れかかっている部分がある。アンジェリカはコネクタ部分を手にとり、コクピットのそれと見比べた。
「形状的にはピッタリね。他にないならこれでやってみましょう」
「大丈夫なのかよ」
 ジークは文句を言いながらもケーブルを受け取り、リックとともにふたつのコクピットに差し込んでいった。
「いいかしら?」
 ユールベルが確認をとり、電源ボタンに手を伸ばした。

「そのボタンを押したら爆発するぞ」
「ラウル?!」
 戸口から腕組みをしたラウルがあらわれた。
「あれで諦めるわけはないと思ったが」
「だったら協力して!」
 アンジェリカはラウルへと駆け寄った。
「これ以上、物を壊されても困るからな」
 ラウルは足元の砕けた南京錠に目を落とした。
「じゃあ!」
 アンジェリカはぱっと顔を輝かせた。
「メインケーブルは私の部屋にある」
「部屋のどこ?!」
 アンジェリカはすぐにでも飛び出していきそうな勢いで、返事を急かした。
「私がとってくる」
 ラウルはアンジェリカの肩に手を置き、落ち着かせた。そして、奥にいる、ほこりまみれのジークに目を移した。
「その間にここをなんとかしておけ」
「なんとかって、どうすんだよ」
 ジークは彼を睨みつけながら、いつもの調子で食ってかかった。ラウルは涼しい顔で廊下を指さした。
「清掃道具はあっちだ」

 ラウルが出ていったあと、四人は言われたとおり素直に掃除を始めた。ユールベルとアンジェリカがほうきで掃き、ジークとリックはぞうきんがけをする。
「なんか、うまくこき使われてるような気がする……」
 ジークは納得がいかない表情で、ぶつぶつと独り言を口にした。
「文句を言ってないで手を動かしてよ。ラウルの機嫌を損ねたら終わりなんだから」
 アンジェリカにたしなめられると、ムッとして、むきになって床を拭き始めた。そんな彼の様子をリックはにこにこ笑いながら見ていた。
「いいんじゃないの? 掃除くらい」
「俺はあいつのやり方が気にいらねぇんだよ!」
 ジークはぞうきんを持つ手に怒りを込め、ますます勢いよく拭いていった。

 アンジェリカとユールベルは、ほうきをぞうきんに持ち替えた。アンジェリカは右側の、ユールベルは左側のコクピット内部を拭き始めた。
 ここが自分の戦場になる——。アンジェリカは手に力を込めた。
 ふいに顔を上げると、コクピットの向こう側のユールベルと目が合った。彼女は何も言わなかったが、負けないという強い意志がその瞳から感じられた。しかし、アンジェリカも負けるわけにはいかない。その思いを瞳に込め、強い視線を返した。

 扉を開けラウルが入ってきた。ケーブルとキーボード、そしてヘッドセットを小脇に抱えている。
「てめぇ、わざとのんびりしてたんじゃねぇだろうな!」
 ジークは黒く汚れたぞうきんを握りしめて立ち上がった。
「まだ隅の方にほこりが残っているぞ」
 ラウルは彼に顔を向けることなく、まっすぐ正面の VRMへ向かった。ジークはラウルの背中を睨みつけた。
「しばらく調整をする。その間、掃除を続けていろ」
 ラウルはメインケーブルを繋ぎ替え、電源を入れた。キーボードを本体に繋ぎ、軽快にキーを叩く。前方の大型ディスプレイに、見たこともない画面があらわれた。ラウルの指に連動して画面に文字が表示され、ウィンドウが次々と開いては閉じていった。
「見てないで手を動かせ」
 ラウルはディスプレイを見たままで、後ろの四人に言った。四人は慌てて掃除を再開した。
 狭い部屋にカタカタとキーボードの音が響く。
「完了だ」
「本当?!」
 アンジェリカはぞうきんを間に両手を組んだ。
「対戦は私のルールに従ってもらう。それが条件だ」
 ラウルはアンジェリカに振り向き、無表情でそう言った。彼女はあごを引き、表情を引き締めた。ユールベルも後ろでじっと彼を見つめていた。
 ラウルは言葉を続けた。
「決着がつくのは以下の三つのとき」
 リックは張りつめた空気を感じ、ごくりと喉を鳴らした。
「一つ目は、どちらかが降参の意思を示したとき。二つ目はスリーカウントダウン。カウントは私がとる。三つ目はリミッターが働いたとき」
 ユールベルの眉がぴくりと動いた。
 VRMでは仮想空間で受けた刺激を、神経信号として脳に送る仕組みになっている。リミッターは制限値を超える信号がきたときに、超過分をカットする役割を担う。すなわち、一度の攻撃で強いダメージを受け、この装置が働いたとき負けとするというのが、ラウルのルールだった。
「制限値はどのくらいにセットしてあるの?」
 ユールベルは上目遣いでラウルを睨んだ。ラウルは彼女の視線を真正面から受け止めた。
「適正値だ。現実世界で受ければ間違いなく意識をなくす」
 その回答を聞きしばらく考えていたが、やがて彼女は強気な微笑みを浮かべた。
「リミッターなんて納得いかないけど、仕方ないわね」
 そう言って、アンジェリカに振り向いた。
「私もそれでいいわ」
 アンジェリカはラウルを見上げて、真剣な表情を見せた。
「よし、準備だ」
 ラウルの声を合図に、ふたりはコクピットに乗り込んだ。
 ジークはアンジェリカのコクピットに駆け寄った。
「頑張れよ! アンジェリカ!」
 白い歯を見せ、ガッツポーズを送る。アンジェリカも勝ち気な笑顔でガッツポーズを作り、ジークのこぶしとコツンと合わせた。
 ユールベルは隣のコクピットからその様子をじっと見ていた。無表情でただ見つめるだけ。リックにはそれが無性に悲しく映った。しかし、彼女に「頑張って」などと声をかけるわけにもいかない。彼は、ただ見送ることしか出来なかった。
 コクピットのふたが閉まり、ディスプレイにふたりの姿が映し出された。ラウルはヘッドセットを手にとった。
「ラウル……。それ、もうひとつないのか?」
 ジークはめずらしく穏やかに尋ねた。
「ない」
 ラウルはそっけなく返事をすると、ヘッドセットを装着した。仮想空間への音声入出力ができるのは、このヘッドセットだけである。ジークは諦めずにしつこく詰め寄った。
「せめて外部スピーカーとかねぇのか?」
「ない」
 再びそっけない返事。ジークは目の前の大きな背中を、突き刺さんばかりに睨みつけた。
 ラウルはヘッドセットのマイクを口元に固定した。
「始め!」
 短い掛け声が狭い部屋に響いた。ジークとリックは息を呑み、複雑な気持ちで大きなディスプレイを見上げた。


42. 騙し合い、そして

「始め!」
 ラウルのその声と同時に、アンジェリカとユールベルは距離をとって身構えた。白い空に果てなく広がる薄茶色の地面。他には何もない。

 ユールベルは短く呪文を唱えると、両手を揃えて前に突き出した。手のひらが白く光り、そこから頭くらいの大きさの光球が飛び出した。アンジェリカは後ろに飛びのきながら、両手を前へと伸ばし、同じ呪文で応戦した。
 ——ドン!
 ふたりの真ん中で、互いの光球がぶつかった。爆発が起こったかのように、あたり一面を白い光が飲み込んだ。
 その光に乗じて、アンジェリカは素早くユールベルの後ろに回り込んだ。気を集中させると、小さな声で長い呪文を唱え始めた。ユールベルはまだ無防備な背中を見せている。
 ——勝てる!
 アンジェリカがそう思ったとき、ユールベルは左脇下から右手を突き出し、白い光を放射した。後ろ向きだったにもかかわらず、その光は少しのずれもなくまっすぐ目標へと突き進んだ。思いがけない攻撃に、呪文詠唱中だったアンジェリカは反応が遅れた。とっさに結界を張ることができなかった。両腕で身をかばったが、体ごとはじきとばされ宙を舞った。数メートル後方の地面に背中から叩きつけられると、そこからさらに数メートル、砂ぼこりを巻き上げながら滑っていった。アンジェリカの顔が苦痛に歪んだ。
「ワン、ツー」
 ラウルはすかさずカウントを取り始めた。
「おいっ!」
 彼女に聞こえないとは知りつつも、ジークは思わず声を上げた。
 ラウルが三つ目のカウントを口にするより早く、アンジェリカは勢いよく飛び起きた。そして、その勢いのまま即座に反撃をしかけた。しかし、ユールベルは余裕だった。予測していたかのように、青白く光る結界を張り、向かってくる赤い炎を消滅させた。
 アンジェリカに驚きと焦りの色が浮かんだ。まだしびれる左腕を押さえながら、息を荒くしていた。

「なに押されてんだよ、おまえ!」
 ジークはディスプレイに向かってわめき立てた。だが、もちろん彼女には届かない。
「スリーカウントなんて短すぎるじゃねえか!」
 今度はラウルに食ってかかった。しかし、ラウルはディスプレイに目を向けたままで、ジークのことなど完全に無視していた。
「ユールベル、かなり手強そうだね」
 リックはなぜか声をひそめてジークに近寄った。
「ああ……。アンジェリカの行動がまるきり読まれているみたいだったぜ」
「うん、頭が良さそうだし、耳もいいんだろうね」
 ふたりの口から出た言葉は、さらに自分たちを不安の深みへと落とし入れた。ジークは下唇を噛みしめ、祈るような気持ちでディスプレイを見上げた。
「俺はまだ、信じてるぜ」
 その言葉はリックに向けられたものであり、アンジェリカに向けられたものであり、同時にジーク自身に言い聞かせるものでもあった。

 ユールベルは青白い光に守られたまま、その内側で呪文を唱え始めた。指先までピンと伸ばした左手をまっすぐアンジェリカに向け、右手は大きく弧を描きながら後方へと引いた。
 あれは——。
 アンジェリカはピンときた。ユールベルの声は聞き取れなかったが、彼女のポーズには見覚えがある。アンジェリカもすぐに呪文を唱え始めた。両手を上空に向け、高々と掲げる。静かな緊迫感が一面に張りつめた。ジークもリックも、ディスプレイを見上げながら固唾を飲んだ。
 先に唱え終わったのはアンジェリカだった。掲げた手の上に集めた魔導の力を、ゆっくりとユールベルに向け、勢いよく放った。白い帯がすさまじい速度で伸びる。だが彼女に届く一歩手前で結界にはじきとばされた。しかし、同時に結界も消滅した。
 ユールベルは右目を見開き、明らかに驚きの表情を見せた。それでも呪文の詠唱を止めることはなかった。
 アンジェリカはもう次の呪文の詠唱に入っていた。今度はさらに短い呪文だった。またしてもユールベルより早く唱え終わり、再び彼女に向けて放った。
 しかし、どういうわけかユールベルはよけようとも防ごうともせず、目を閉じ呪文を唱え続けていた。白い光球が彼女に迫る。それでも動かない。ついに無防備な状態のユールベルに直撃した。白い光に飲み込まれ、はじきとばされるのが見えた。が、それと同時に砂ぼこりが巻き上がり、その後の彼女の姿は見えなくなった。だが直撃したことは間違いない。防ぐこともなくまともに受けたのでは、無事であるはずはない。アンジェリカは目を凝らして、砂ぼこりの奥を見つめた。
 薄曇りの向こう側で、何かが光った。
 ——何?
 アンジェリカが目を細めたその瞬間。薄茶色に濁った空間から、彼女の胸を目がけ、白い光の矢が飛び出してきた。とっさに上体をねじり、間一髪でかわした。——かに見えたが、完全にはよけきれず、白い閃光は彼女の左肩をかすめていった。
「ぅうああぁあーーー!!!」
 アンジェリカは絞り出すような悲鳴を上げ、肩を押さえてうずくまった。

「アンジェリカ!!」
 ジークとリックは同時に叫んだ。ふたりの顔から一気に血の気が引いていった。彼らにアンジェリカの声は聞こえない。しかし、彼女の表情や様子を見ているだけで、つんざくような叫び声が聞こえてくるようだった。
 ジークは居ても立ってもいられず、後ろからラウルに突進し、ヘッドセットに手を伸ばした。どうにかしてアンジェリカに声を届かせたい、その一心だった。しかし、あと少しというところで、ラウルのひじがジークのみぞおちにめり込んだ。
「うっ……」
 ジークは冷や汗をにじませうずくまった。ラウルに一撃をくらわされたところを押さえ、歯を食いしばる。
「おとなしく見ていろ」
 ラウルはディスプレイに目を向けたまま、振り返ることもなく、冷たく言い放った。
「大丈夫?」
 リックはジークを心配そうに覗き込み、彼の背中に手を置いた。ジークはリックの顔を目にすると、徐々に落ち着きを取り戻した。
「俺よりもアンジェリカだ。やばいかもしれねぇな」
 ジークは声をひそめた。リックは重々しくうつむいた。
「アンジェリカの攻撃をまともに受けて、それでも呪文を唱え続けるなんて、普通できないよ。それにユールベルのあの呪文て……」
「通常レベルの結界なら簡単に貫くほど強大な威力はあるが、その分、バカ長い呪文と、半端ねぇ集中力と、強大な魔導力に耐えられるだけの身体がいるとかいう、あんまり使えねぇヤツだな」
 ジークは言葉にすればするほど絶望が近づいてくるように感じ、それ以上は何も言えなくなった。リックも同じように感じたのか、口をつぐんで黙りこくってしまった。ジークはみぞおちを押さえながら立ち上がり、再びディスプレイを見上げた。

 砂ぼこりがおさまり、ユールベルの姿が次第にあらわになった。彼女もまったく平気というわけではなさそうだった。足元はふらつき、息もあらい。
 ユールベルはこわばった表情で、茶色い靄にうっすらと浮かんだ人影をじっと見つめた。それがアンジェリカと判別できるようになるまで、そう時間はかからなかった。アンジェリカは片膝をつき、左肩を押さえ、頭をガクンと垂れ下げていた。肩を上下に揺らしているところから察すると、まだ意識はなくしていないらしい。
 外した——。
 ユールベルは右目を細め、焦りの色を見せた。
 アンジェリカはその表情を見逃さなかった。痛みをこらえて立ち上がり、強気にユールベルに挑みかけるようににやりと笑ってみせた。
「あてが外れて残念そうね」
 息苦しさをごまかすように、早口で一気に言った。彼女の額から頬へと、幾筋もの汗が伝った。
「あなたこそ」
 ユールベルはあごを上げ、目一杯の余裕を装った。実際アンジェリカより、かなり余裕はあったのだろう。
 アンジェリカはあごを引き、ユールベルを上目遣いで一睨みすると、自分のまわりに白く光る結界を張った。そして、その内側で攻撃呪文を唱え始めた。ユールベルも同じように結界を張り、呪文を唱え始めた。
 ガクン。
 アンジェリカはその途中で膝を折り、前のめりに倒れると、地面に手をついた。集まりかけていた魔導力も拡散し、結界も消滅した。
「アンジェリカ!!」
 ジークは声の限り叫んだ。しかし、どんなに叫んでも彼女には届かない。
 ユールベルは勝ち誇ったように口角を上げると、目を閉じ、よりいっそう魔導に集中した。彼女の両手の中の光球がぐんぐん大きくなっていく。
 アンジェリカは片膝を立て、地面に手をつき、前傾姿勢でユールベルの様子をうかがっていた。彼女が目を閉じているのを確認すると、突然、地面を強く蹴って駆け出し、一気に加速した。一瞬のうちに結界をすり抜け、ユールベルの懐まで入り込む。そして、右手を彼女の脇腹に押し当て、短く呪文を唱えた。アンジェリカの指の間から白い閃光がもれる。
 ユールベルは目を見開いて息を止めた。だが、その攻撃を防ごうとはしなかった。ぎゅっと唇を噛みしめると、すぐに呪文の続きを唱え始めた。
 ——効かない?!
 アンジェリカは焦った。手を離さず、もういちど同じ呪文を口にした。ユールベルの腹部に、再び白い閃光が押しつけられる。同時に、ユールベルは両手を振り上げ、白い光球をアンジェリカの背中に勢いよく振り下ろした。アンジェリカは間一髪で薄く結界を張ったものの、それも弾き飛ばされ、光球ごと地面に叩きつけられた。
「アンジェリカ!!」
 ジークが叫ぶと同時に、ラウルはカウントを取り始めた。
「ワン、ツー」
 ユールベルは容赦なく二発目を撃ち込んだ。だがアンジェリカは地面を転がり、ぎりぎりでかわした。その勢いで立ち上がると、後ろへ飛び下がって身構えた。
 ユールベルは脇腹の痛みをこらえながら、鼻先で軽く笑った。
「わかったかしら。私の体は人並み外れて魔導を受け付けにくいのよ。あなたの何倍もね」
「目に見えない薄い結界でもまとっているのかと思ったけど、なるほど、種も仕掛けもなかったわけね」
 アンジェリカも余裕の笑顔で返そうと思ったが、その瞬間、背中に痛みが走り、逆に顔をしかめることになってしまった。深呼吸をして息を整えると、今度はかすかに笑ってみせた。
「だったら話は早いわ」
 アンジェリカはユールベルに背を向けた。
「どういうつもり?!」
 ユールベルはきつい口調で問いつめた。それは戸惑いからきているということは明らかだった。アンジェリカが降参するとはとても思えない。だとしたらなぜ背中を見せるのか。何か彼女に考えがあるのだろうか。でもそれがなんなのか、わからない……。ユールベルは次第に手のひらが湿ってくるのを感じた。
 アンジェリカは自分の目の前、すなわちユールベルとは反対側に四角い板状の結界を作った。結界は通常、対象物(自分であることが多い)のまわりを囲うように張るものである。こんな奇妙な結界はあまり見ない。
 ユールベルは、アンジェリカの挙動のすべてに目を奪われていた。それでも冷静さは失っていなかった。彼女の後ろ姿を見ながら、自分のまわりに静かに結界を張った。
 アンジェリカはユールベルに向き直った。彼女の目をまっすぐ見据えながら、腕を伸ばし、呪文を唱え始めた。向かい合わせた手のひらが白く光り、その間に魔導力が集まる。かなり大きい。
 ユールベルは内側にもう一つ結界を張り二重化した。アンジェリカの背後の四角い結界が不気味に白く光る。ユールベルの額に汗がにじんだ。これだけ念を入れても落ち着かない。
 アンジェリカは頭よりも大きくなった光球を、自分の体に引きつけた。
 ——来る!
 ユールベルの緊張が高まったそのとき、アンジェリカは地面を蹴り、体を半回転させた。そして、結界で作った四角い壁に向かって全魔導力を放射する。白い光はアンジェリカと結界の間で大きく膨張し、その反動で彼女の小さな体は弾丸のように吹き飛んだ。まっすぐ、ユールベルへと向かう。アンジェリカは彼女に体ごとぶつかり、腹部にひじを突き立てた。

 その瞬間、ヒューンという音とともにディスプレイがブラックアウトした。続いて静電気がパチパチと軽い音を立てた。

「て……停電か?」
 ジークは自信なさげにそう言って、あたりを見渡した。しかし、部屋の明かりは消えていない。
 ラウルはヘッドセットを外し、振り返った。
 両側のコクピットのふたがウィーンと機械音を立てながら、ゆっくりと開いていった。中から姿を現したアンジェリカとユールベルは、ポカンとした顔でラウルを見ている。
「ユールベル側のリミッターが働いて、システムが停止した」
 ラウルの説明に反応する者は誰もいなかった。全員がきょとんとして彼を見つめている。ラウルは言葉を付け足した。
「つまり、アンジェリカの勝ちだ」

 ジークの表情がパッと輝いた。
「やったな!」
 ゆっくりと身を起こそうとしているアンジェリカに駆け寄り、コクピットから抱え上げると外に降ろした。
「ヒヤヒヤさせやがって!」
 その言葉とはうらはらの思いきりの笑顔。ジークはアンジェリカの額に、軽くこぶしをねじ込んだ。
「もう! けっこう体中痛いんだから、ちょっとはいたわってよ」
 そう言って頬をふくらませたアンジェリカも、やはり笑っていた。
「……納得いかない」
 ユールベルはコクピットのふちに手を掛け、体を起こしながら声を震わせた。
「あんなの……魔導じゃないじゃない!」
 彼女はラウルを見上げ、必死に訴えた。
「戦いにルールはない」
 ラウルは腕を組み、冷めた声で言った。
「魔導以外の要素を軽視したのが、おまえの敗因だ。魔導耐性は高いが、身体的な能力は低い。その自覚があるのなら、魔導のみを遮る通常結界ではなく、あらゆる物質を遮断する高度な結界を使うべきだった」
 ユールベルに返す言葉はなかった。それでも、やはり納得はできない。身をかがめ腹部を押さえながら、よろよろとコクピットから降りると、アンジェリカを鋭く睨み上げた。
「えっ?!」
 リックはユールベルのポーズを見て、驚きの声を上げた。彼女は両手を前に突き出していた。そして、リックの懸念どおり、呪文を唱え始めた。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、後ろで結ばれた白い包帯が、空気の対流を受けて舞い上がる。
「やめろ!」
 ジークとリックはアンジェリカをかばうように立ちはだかった。ふたりは同時に結界を張り、さらにアンジェリカも結界を張り、三人のまわりに三重化した結界ができた。
 ユールベルの手に魔導の力が集まり、白い光を放つ光球がふくらんでいく。
「大丈夫なの?」
 リックは不安げに尋ねた。
「部屋までは守れねぇな」
 ジークは前を向いたまま、いたずらっぽくニッと笑ってみせた。
 ラウルは無表情でユールベルへと近づいていった。無言で彼女を冷たく見下ろした。そして、右手で光球を握りつぶし消滅させると、左手で彼女の腕をひねり上げた。
 あっというまの出来事に、ジークとリックは呆気にとられた。
「……ぅ……ぁあああーーー!!!」
 ユールベルはラウルに腕をつかまれたまま、うつむき、絶叫して泣いた。喉の奥から絞り出すような激しい慟哭が、ジークたちを揺さぶった。
「おまえたちは行け」
 ラウルは後ろで立ち尽くす三人に言った。しかし、誰も動かない。
「行け!」
 今度は振り向き、凄みをきかせた低音で命令した。
 ジークはアンジェリカの肩に手をまわすと、渋る彼女を促し、三人で連れ立って部屋から出た。ユールベルの泣き叫ぶ声が、次第に遠くなっていった。

 ユールベルの号泣は、徐々にすすり泣きへと変わっていった。そして、膝から崩れ落ちるようにぺたんと床に座り込んだ。ラウルは彼女を抱き上げ、ヴァーチャルマシンルームをあとにした。

 ラウルは自分の医務室に戻ると、ユールベルをパイプベッドの白いシーツの上に降ろした。
「落ち着いたら帰れ」
 ユールベルはうなだれたまま、首を小さく横に振った。肩から髪が落ち、合間から折れそうな白い首筋がのぞいた。
「勝手にしろ」
 ラウルは無表情でそう言って立ち去ろうとした。だが、ユールベルの細い腕が、彼の長い髪をつかみ、引き止めた。
「……私を……救って……」
 消え入りそうな儚い声。ラウルは彼女の腕を、肩を、首筋を、背中を、じっと見つめた。
「私におまえは救えない」
 ユールベルの手から力が抜け、ぱたんとベッドの上に落ちた。それきり彼女は動かなかった。
 ラウルは背中を向け、後ろ手で仕切りの白いカーテンを閉めた。そして、立ち止まることなく奥へと消えていった。


43. 過去への扉

「いつまで寝ているつもりだ」
 すっかり身支度を整えたラウルが、奥の部屋から出てきた。そのまま足を止めず窓ぎわまで進むと、ガラス戸をガラガラと開ける。ひんやりした空気が、柔らかな光をかきわけ流れ込んできた。ふわりと揺らめいた白い仕切りカーテンには薄い影が映っていた。返事はなかったが、ユールベルがそのベッドで寝ていることは間違いない。
 シャッ——。
 ラウルはカーテンを半分だけ開いた。ユールベルは布団も掛けず、髪も服も乱したままで横たわっていた。両手両足は無造作に投げ出され、まくれ上がった白いワンピースから、白い上腿があらわになっている。そして、虚ろに開かれた右目は、何も映していないかのように生気をなくしていた。
 ラウルは彼女の体の上に、大きな白いタオルを落とした。冷たくなった肌を包み込む、暖かく柔らかな感触。ユールベルはゆっくりとラウルに顔を向けた。
 チャリン。
 彼の手から枕元に何かが投げ置かれた。ユールベルはラウルを見つめたまま、そろそろと手を伸ばす。冷たく固い、小さなもの。それは輪につながれた鍵ふたつだった。
「私はアカデミーへ行く。食事をとるなり、シャワーを浴びるなり好きにしろ。出るときは鍵を閉めていけ」
 ラウルはそれだけ言うと、医務室の扉を開け出ていった。
 ユールベルは手にした二つの鍵をじっと見つめた。ひとつは医務室の鍵、もうひとつは……ラウルの部屋の鍵? ラウルの部屋は医務室の奥にある。ほとんど壁と同化している目立たない扉が入口らしい。ラウルがそこから出入りするのを何度か見かけたことがあった。しかし、一度も入ったことはない。
 ユールベルは鍵を軽く握り、気だるそうに身を起こした。そして奥の扉をじっと見つめた。

 キーン、コーン——。
「午前はここまでだ」
 ラウルは教本を閉じ、机の上でトンとそろえると、小脇に抱え教室をあとにした。彼が歩く間にも、次第に廊下は賑やかになっていく。喧噪から逃れるように角を曲がると、そこにはユールベルが待ちかまえていたかのように立っていた。
 ラウルは彼女を一瞥し、そのまま通り過ぎようとした。だが、ユールベルは彼の前に飛び出し、行く手を阻んだ。顔を上げ、深い茶色の瞳をじっと見つめる。そして、チャランと小さな音をさせながら、二つの鍵をラウルの鼻先に掲げた。
「机の上のサンドイッチ、食べてしまったわよ」
「好きにしろと言った」
 ラウルは目の前の鍵をひったくるように奪い取った。
「もしかして、私のために作っておいてくれたの?」
 ユールベルは無表情で尋ねた。ラウルも無表情で彼女を見下ろした。
「用がないのならもう行くぞ」
 冷たくそう言うと、左足を横に踏み出し、彼女を通り過ぎようとした。
 その瞬間、白いワンピースが風を受けふわりと舞い上がる。ユールベルはラウルに飛び込んでいた。彼の胸に顔をうずめ、背中に手をまわす。そのとき、彼女の長い髪が、ラウルの手に触れた。冷たい。まだ生乾きだった。
「やっぱりあなたのことは嫌い」
 ユールベルはラウルの胸元で、淡々とつぶやくように言った。
「そうか」
 ラウルは感情のない声で短く返した。

 ふたりのまわりがざわつき始めた。遠まきに見ている生徒たちは、興奮しつつ声をひそめて話し合ったりしている。ここはアカデミーの廊下、ふたりは教師と生徒。騒がれるのも当然である。
 しかし、ユールベルはまったく意に介していないように見えた。顔を上げ、ラウルを見つめる。そのまま焦茶の長い横髪をぐいと下にひっぱり、彼の顔をすぐ近くまで引き寄せた。甘い匂いがラウルの鼻をくすぐる。それでも彼はまるで表情を変えない。
 ユールベルはわずかに眉をぴくりと動かし睨みつけた。そして、つま先立ちして首を伸ばすと、唇を触れ合わせた。
 まわりからどよめきが起こった。
 彼女はすぐに顔を離し、今度は平手打ちをくらわせた。パンと軽い音が響く。それと同時にあたりは静まった。
 しかし、ラウルはまったく動じていなかった。
 ユールベルは手の甲で口を拭いながら後ずさりし、彼を睨みつけた。
「さようなら」
 小さな声でそう言うと、踵を返し去っていった。

「なんか外が騒がしくねぇか?」
 ジークはざわめく廊下に目を向けた。しかし、席に座ったままでは、ほとんど外は見えず、何が起こったのか確認することは出来なかった。
「ちょっと話をそらさないでよ!」
 アンジェリカはジークの机に両手をつき、身を乗り出した。軽く口をとがらせた顔を、ぐいっと近づける。
「あ、ああ、ユールベル、な」
 ジークは体を引き、背もたれに寄りかかりながら、しどろもどろに言葉を返した。
「負けを認めてなかったみたいだし、難しいかもしれないね」
 言葉の続かないジークの代わりに、リックが横から冷静に答えた。
 アンジェリカは彼に顔を向け、小さく首をかしげた。
「悔しいのはわかるけど、いきなり暴走したり泣き出したり、わけがわからないわ、彼女」
「……きっと」
 リックは目を伏せた。
「寂しくて、情緒不安定、なんじゃないかな。なんか……わかるんだ」
 ぽつり、ぽつりと言葉を落とし繋いでいく。感情を押し隠したような表情。しかし、すぐに我にかえったように微笑みを作ってみせた。
 ジークは腕を組んでうつむいた。
「ふーん」
 アンジェリカはあまり納得していないような薄い返事をした。
「でも!」
 一転、今度は力を込めて切り出した。腰のあたりで握りこぶしを作り、気合いを入れる。
「何がなんでも約束は守ってもらうんだから」
「…………」
 ジークはうつむいたまま考え込んだ。彼女とユールベルの間に何があったのかは知らない。彼自身も気にはなる。だが、サイファがひた隠しにしていることを考えると、やはり知らない方がいいのではないか。いや、知ってはいけないのではないか。そんなふうに思えてくる。しかし、それではアンジェリカが納得するはずはない。今までもさんざん止めようとしてきたが、すべて無駄に終わった。頑固で、強情で、言い出したらきかない。ただ、今回の件に関しては、彼女の気持ちもわかる。だから、つらい。
「私は守るわよ、約束」
 アンジェリカの弾んだ声が、ジークを現実に引き戻した。とっさに顔を上げると、彼女はにっこりと笑いかけてきた。
「約束?」
 ジークが聞き返すと、アンジェリカは目を丸くした。
「忘れたの? ほら、ジークのいうことをなんでもきくって言ったでしょう?」
「ああ、あれか」
 ジークは気の抜けた声で返事をした。そんなことはすっかり忘れていた。
「俺はおまえに頼みたいことなんて何もねえって」
「だめよ! 私はちゃんと約束を守りたいの」
 アンジェリカは腰に手をあて、前かがみにジークを覗き込むと、少し怒ったように口をとがらせてみせた。
「約束っておまえが勝手に決めただけだろ!」
 ジークは食ってかかった。
 またふたりの言い合いが始まる——リックはそわそわし始めた。だが、アンジェリカは反論することなく、再びにっこりと笑いかけた。
「考えておいてね」
 ジークの胸はドクンと強く打った。少し耳を赤くしながら、腕を組んで、困ったようにうつむいた。
「さ、食堂へ行きましょう」
 アンジェリカは背筋を伸ばして明るくそう言うと、扉に向かって歩き始めた。ジークも立ち上がり、リックとともにあとを追った。

「あっ……」
 アンジェリカは教室を出たところで、小さく声を上げ足を止めた。続いて出てきたふたりも、はっとして足を止めた。三人の視線の先には、壁に寄りかかり、じっとこちらを見つめるユールベルがいた。あいかわらず左目は包帯で覆われている。彼女は壁から背を離すと、そっと歩み寄ってきた。ジークは右足をわずかに後ろに引き、小さく身構えた。
「きのうは取り乱してしまってごめんなさい」
 ユールベルは無表情で詫びの言葉を口にした。だが、アンジェリカはそれを信じようとしなかった。疑いのまなざしを彼女に向けた。
「約束は守ってくれるんでしょうね」
「ええ、負けは負けだもの。仕方ないわ」
 意外なほどあっさりしていた。あっさりしすぎている。
「そう、良かった」
 アンジェリカは固い声で返事をした。疑いはまだ拭えない。
「ついて来て。見せたいものがあるの。それから話をするわ」
 ユールベルは踵を返そうとした。
「今から?」
 驚きを含んだアンジェリカの問いに、ユールベルは足を止め、彼女を見つめた。
「そうよ」
 素っ気なく答えると、背中を向け歩き始めた。アンジェリカは彼女の後ろ姿を見つめていたが、やがて黙って足を踏み出した。
「午後の授業はどうすんだよ」
 ジークが後ろから声を掛けたが、何の反応もなかった。無視をして歩き続けている。こうなったらもう止められない。
「しょうがねぇなぁ」
 困ったように眉根を寄せ、ため息をつく。そして、リックとともに彼女についていこうとした。
 すると、ユールベルが振り返り、ふたりに鋭い視線を向けた。
「あなたたちは駄目よ」
「は?」
 ジークとリックは顔を見合わせた。
「私が約束したのはアンジェリカだけ。あなたたちに話すとは言ってないわ」
「なっ……」
 ジークは口を開けたまま、カクカクと震わせた。
「じゃ、アンジェリカも行かせねぇぞ! 一人だなんて危険だ。行かせられるか!」
 大声でまくし立てるジークに、アンジェリカはむっとして振り返った。
「勝手なこと言わないでよ! せっかく手に入れたチャンスなのよ。ふいになんてしないわ」
 彼女は強気に言い放った。ジークはますます頭に血がのぼった。
「少しは自覚しろ! 今までどれだけ危険な目に遭ってきたと思ってんだ!」
 アンジェリカを指さしながら、怒り顔をつきつける。しかし、彼女は引くどころか、さらに顔を近づけた。
「わかってるわよ。それでも行かなきゃならないの。絶対にゆずれない」
 強い意志を秘めた目を彼に向ける。ジークはその漆黒の瞳をじっと見つめると、何かをこらえるように奥歯を食いしばった。彼女は微動だにしない。
「勝手にしろ!」
 ジークは吐き捨てるようにそう言うと、背を向け腕を組んだ。
「ジーク!」
 はらはらしながら二人のやりとりを聞いていたリックは、投げやりになったジークを見て、たまらず叫んだ。しかし、彼に反応はない。
「アンジェリカ!」
 今度は彼女に振り向き、声を掛けた。アンジェリカは微笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。心配しないで」
 その言葉を残し、ユールベルとともに歩き去っていった。
「行かせちゃっていいの?!」
 リックはジークに詰め寄った。彼は腕を組んでうつむき、唇を噛みしめていた。
「俺には、止められねぇよ」
 ジークの声には、隠せない悔しさがにじんでいた。

 午後の始まりを告げるベルが鳴った。
 ふたりは暗い顔で席についていた。ジークは無意識に、アンジェリカの席に目を向ける。しかし、何度見ても、そこは空いたままだった。
 ラウルがガラガラと引き戸を開け入ってきた。教壇に立ち、教本を机に置くと、無言で教室を見渡した。
「自習にする」
 唐突にそう言うと教壇を降り、まっすぐジークのもとへ歩いてきた。彼にはその理由がわかった。体中に緊張が走る。
「来い」
 そして、今度は反対側のリックに顔を向けた。
「おまえもだ」
 ふたりはこわばった顔を見合わせて、立ち上がった。

 教室から目の届かないところまで来ると、ラウルは足を止め振り返った。
「アンジェリカはどこへ行った」
 腕を組み、ふたりを見下ろす。
「知らねぇよ」
 ジークは顔をそむけ、ふてくされながら言った。リックは慌てて一歩前へ出た。
「ユールベルと一緒に出ていきました。でも行き先は知りません」
「なぜ止めなかった」
 ラウルの低い声に、リックはびくっと体を震わせた。
「と……止めました。でも……」
「俺らのいうことをきくようなヤツじゃねぇよ」
 ジークは後ろから吐き捨てるように言った。だが、その奥には自嘲の色が滲んでいた。
 ラウルは陰の落ちたジークの横顔を見て、軽くため息をついた。
「何か手がかりになるようなことは言っていなかったか」
 リックはうつむいて考え込んだ。
「……あ、なんか、見せたいものがあるとか」
 ラウルの目が鋭く光った。
「ユールベルがそう言ったのか?」
「はい、多分……」
 迫力に押され、自信なく答える。
「わかった。おまえたちは戻れ」
 ふたりは何も言えず、黙ってとぼとぼと戻っていった。

 アンジェリカとユールベルは並んで歩いていた。お互い何も言葉を交わそうとしない。広めの道だが、人通りは少なく、ただふたりの単調な足音だけが耳に響いていた。
「どこへ行くの? けっこう歩いたけど」
 アンジェリカが沈黙を破った。不安を悟られないようにまっすぐ前を向き、平静を装っている。
「私の家よ」
 ユールベルも前を向いたままで静かに答えた。アンジェリカは彼女の横顔をちらりと見て、すぐに前に向き直った。
「私とあなたが友達だったって、本当なの?」
 小さいが凛とした声で尋ねる。
「しつこいわね、あなたも」
 ユールベルは淡々と返した。アンジェリカはわずかに眉をひそめた。
「ピンと来ないのよ」
 ユールベルは目を閉じうつむくと、小さく笑った。
「そうね」
 ゆっくりと顔を上げ、遠くを見つめる。
「最初にあなたに近づいたのは、あなたが『呪われた子』だったから。両親を困らせたかったというところかしら」
「……そう」
 別に何かを期待していたわけではない。だが、そんなことに利用されたのだとは思いもしなかった。やりきれない気持ちが胸にわだかまる。
「それからあなたの家にたびたび遊びに行くようになったわ。あなたの家に行けば、おじさまに会えたもの」
 ユールベルはあごを上げ、遠くを見たまま微笑んだ。
「なるほど、そういうことだったのね」
 アンジェリカは精一杯、強気に答えた。

「さあ、ここよ」
 そこには、二階建ての屋敷があった。アンジェリカの家と比べると、はるかに小さいが、それでも世間一般からすれば大きい方である。
 ユールベルは門を開き、中へと進んでいった。アンジェリカもあとに続く。小鳥のさえずり、草の匂い、風の音、ふたりの足音。外界とは切り離された場所に来てしまったようで、彼女は落ち着かない気持ちになった。
 石畳を歩き、玄関まで来ると、ユールベルは鍵を取り出した。鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。ガチャリという音を確認すると、扉を引き開けた。重量感のある扉が、ギィと音を立てる。
「どうぞ」
 ユールベルは右手を家の中に向け、アンジェリカを促した。アンジェリカは緊張しながら、足を踏み入れた。
「お茶でも飲む?」
 ユールベルは扉を閉めながら尋ねた。しかし、アンジェリカにそんな余裕はなかった。
「私に見せたいものって何?」
 顎を引き、上目づかいで睨みながら、抑えた声で尋ね返した。
「急かすわね。まあいいわ」
 無表情でそう言うと、家の中へと進んでいく。そして、脇の階段を数段上がると、顔だけ振り向いた。
「こっちよ」
 アンジェリカは喉が渇いていくのを感じながら、ユールベルに続き、階段をのぼっていった。薄暗く、空気は湿っている。おまけに妙な匂いもする。息がつまりそうだ。嫌な予感が胸をよぎった。
 階段を上がりきり、そのまままっすぐ歩いて、突き当たりの部屋の前までやってきた。部屋といっても扉はない。元々はあったと思われるが、その付近がまわりの壁もろとも崩れ、あたり一面に瓦礫が散乱している。中は暗くてよく見えない。
「入って」
 ユールベルの声に押され、アンジェリカは足元を見ながら、おそるおそる歩み入った。
「……っ」
 つんと鼻をつく匂い。思わず鼻と口を手でふさいだ。窓はすべて厚手の遮光カーテンで覆われ、さらにその内側には、鉄格子がはめられている。床には、本や服らしきものが一面に散乱していた。他には小さなテレビと本棚、ボロボロに破れた布団くらいだ。
 アンジェリカは絶句した。
「ようこそ私の部屋へ」
 ユールベルの冷たい声が、後ろから突き刺さる。
「私は7年間、ずっとここにいた。閉じ込められていたのよ」
 瓦礫を踏みしめ、部屋の中へ歩み入ると、隅にひっそりと置かれていたぬいぐるみを手にとった。
 アンジェリカははっとした。薄茶色の柔らかな毛並み、愛らしい表情、足裏の刺繍。薄汚れてはいるが、自分が持っているものと同じテディベアに間違いない。
「おじさまにもらったものよ。これだけが私の心の支えだった」
 ユールベルは愛おしげに抱きしめた。
「閉じ込められていたって、どうして……」
 アンジェリカは混乱する頭から言葉を探る。
 ユールベルはテディベアのほこりを軽くはらうと、壁を背にして座らせた。
「きっかけは7年前。私とあなたの間に起きたこと」
 屈めた上体をゆっくり起こし、アンジェリカに顔を向ける。そして一歩、二歩、静かに近づいていった。
 アンジェリカは息をひそめた。額に汗がにじむ。
 ユールベルは頭の後ろに手を回し、包帯をほどき始めた。頭のまわりでくるくると手をまわす。やがて、はらりと白い布が床に落ち、左目があらわになった。
 アンジェリカは息をのみ、引きつった顔であとずさった。
「こわい? あなたがやったのよ」
 焦点の合わない蒼い瞳、まぶたから目尻にかけての焼けただれたような痕。ユールベルは見せつけるように、さらに間をつめた。
「わ、たし……が? うそ、そんな、こと……」
 アンジェリカはとぎれとぎれに言葉を絞り出した。渇いた喉に、声がつっかえる。
「事実よ」
 ユールベルは感情のない声で言った。
「そんな……私が……どう、して……」
 アンジェリカは瓦礫に蹴つまずきながら後ずさり、部屋から出ていった。しかし、ユールベルは手を後ろで組み、軽いステップで瓦礫を踏み越え、あっというまに距離を縮めた。
「あなた馬鹿? 考えてもみなさいよ。どうしておじさまがそんなに隠したがっていたのか」
 彼女はさらににじり寄った。
「おじさまは、毎月、律儀に謝りに来ていたわよ」
 アンジェリカは目を見開いた。
「……うそ」
 額からにじんだ汗が、頬を伝い流れ落ちる。
「嘘だと思うなら、おじさまにきいてみれば」
 ユールベルは足を踏み出した。アンジェリカはさらに後ずさる。その足は、ガクガクと震えていた。
「私もおじさまも苦しんできたのに、当のあなただけ、全部忘れて楽しく生きている。いい気なものね」
 淡々とした口調だが、右の瞳は鋭く光り、アンジェリカをとらえていた。
「ラグランジェ本家の娘が、他人に一生消えない傷を負わせた。そんな醜聞、公にすることなんて出来ない。私はその証拠となるもの。だから、隠された」
 ユールベルは顔を突き出し、アンジェリカを覗き込んだ。
「わかる? 私はあなたの犠牲になったのよ」
 アンジェリカの体は小刻みに震えていた。うっすらと開かれた口からは、何の言葉も出てこない。浅く息をするのが精一杯だった。
「返して、私の7年、私の目、私の顔……」
 ユールベルは両手を伸ばし、アンジェリカの首に指を這わせた。細く冷たい感触。背筋に痺れが走る。もう何も考えられない。アンジェリカは本能だけで、ほとんど無意識に、足を後ろに引いた。
 しかし、そこには床は続いていなかった。
 足を踏み外し、後ろに倒れていく。ユールベルはとっさに手を伸ばした。しかし、それも間に合わず、アンジェリカの体は、頭や体を打ちつけながら、階下へと落ちていった。彼女はピクリとも動かない。
 ユールベルは呆然として、その場にへたりこんだ。焦点の合わない虚ろな瞳が、空をさまよう。
「あなたが、悪いのよ……」
 彼女はうわごとのようにつぶやいた。


44. 血のつながり

 ギィ……。
 重いきしみ音を立てながら、玄関の扉が開いた。薄暗い家の中に、光の帯が伸びる。そして、その光を遮る大きな影。
「いるのか、ユールベ……」
 一歩、足を踏み入れるなり、バルタスは絶句した。彼の視線の先には、仰向けに倒れたアンジェリカの小さな体があった。そのまわりには、どす黒い血だまりが広がっている。
 彼は慌てて駆け寄り、彼女の白い首筋に手を当てた。そして、こわばった顔で立ち上がると、そこから続く階段をゆっくりと見上げていった。
 最上段の、動かない白い小さな影。ユールベルが呆然として座り込んでいた。その左目にいつもの包帯はなく、焼けただれたまぶたがあらわになっている。
「……おまえが、やったのか」
 バルタスは、喉の奥から乾いた声を絞り出した。
「……違う」
 ユールベルはかすかに首を横に振り、小さな声をもらした。
「違う」
 今度ははっきりとした声でそう言うと、おびえた顔で、強く首を横に振った。
「私じゃない、私はやってない!! 違うわ!!」
 ひきつった叫び声をあげながら、両手で頭を抱え込み、肩を震わせた。

 王宮内の緊急医療室。その扉の前でバルタスはうつむき、こぶしを握りしめ、仁王立ちをしていた。ユールベルは彼の足元で膝を抱え、小さく座っている。左目はいつものように、白い包帯で覆われていた。
 長い廊下の向こう側から、カッカッと鋭い靴音を響かせながら、サイファが走ってきた。
「申しわけない」
 バルタスは、息をきらせたサイファに頭を下げ、大きな背中を丸めた。
「アンジェリカは、どうなんだ」
 焦る気持ちを抑え、呼吸を整えながら、極力冷静に尋ねる。
「入ったきりで、まだ何もわからない」
「そうか……」
 サイファは苦しそうに目を細め、緊急医療室の頑丈そうな扉を見つめた。
「本当に、申しわけない……」
「それより経緯を聞かせてくれ」
 大きな体を萎縮させ、弱々しくうつむくバルタスに、サイファは強い視線を向けた。バルタスは下を向いたまま、訥々と話し始めた。
「昼すぎ、ラウルから連絡が入った。ユールベルとアンジェリカが、家に向かったらしいので、念のため見てきてくれ、と」
 ラウルの名を聞いて、サイファはぴくりと眉を動かした。
「それで、行ってみたら、お嬢さまが階段の下で倒れていた。二階にはユールベルが座り込んでいた……。あの子の左目の包帯は、ほどかれていたよ」
 バルタスは眉根を寄せ、口を真一文字に結んだ。
 サイファは、大きな体の後ろで、小さくうずくまっているユールベルに目をやった。
「彼女が突き落としたのか?」
 ぎりぎりまで声をひそめて尋ねる。
「状況から考えればそうだろう。だが、あの子はやっていないの一点張りだ」
 バルタスも声のトーンを落とした。そして、顔だけわずかに振り返り、ユールベルを流し見た。彼女はその視線から逃れるように、両手で頭を抱え込み、体を小刻みに震わせ始めた。
「ユールベル」
 サイファが静かに声を掛けた。ユールベルの体がびくりと揺れた。
「君は……」
「サイファ!!」
 廊下に響いた高い声が、彼の言葉を遮った。
「レイチェル!」
 サイファが振り返ると、彼女は息をきらせ、苦しそうに走り込んできた。
「アンジェリカは?!」
 彼の胸にすがりつき、潤んだ瞳で見上げる。サイファは優しく彼女の肩を抱いた。
「まだわからない。でも、きっと大丈夫だよ」
 力を込めてそう言うと、かすかに笑いかけた。しかし、無理をしていることは明らかだった。レイチェルはうつむいて、何かをこらえたような小さな声を漏らした。

 カツーン、カツーン。
 冷たく無機質な靴音が、あたりに響いた。
 サイファは顔を上げ、レイチェルは振り返り、その音のする方を見た。細身で背の高い女性が、ボリュームのある巻き毛のブロンドを揺らしながら、ゆっくりとしたペースで近づいてきた。膝丈のタイトスカートが、彼女のすらりとした脚をよりいっそう強調する。
「ユリア……」
 そうつぶやいたサイファの脇を通りすぎ、バルタスの前で足を止めた。そして、腕を組み、冷ややかに彼の足元を見下ろした。
「あなた、お嬢さまを突き落としたんですって?」
 ユールベルは驚き、顔を上げた。彼女はその女性を見たとたん、激しくおびえ、壁に身を寄せ震え出した。
「ユリア、やめないか」
「どれだけみんなを不幸にすれば気が済むの、この厄病神!」
 バルタスの制止を無視し、彼女はおびえるユールベルに言葉を突き刺した。
「違う! 私はやってない!!」
 ユールベルは震えながら声を張り上げた。頬に涙が伝い落ちる。それでもユリアは容赦なかった。
「いくら泣いたって、あなたの言うことなんて誰も信じないわよ!」
「本当に、やってない……のに……どう、して……」
 ユールベルはしゃくりあげながら、切れ切れの言葉を並べた。そんな彼女を、ユリアは顔をしかめてにらみつけた。
「泣きたいのはこっちよ。どうしておとなしく閉じ込められててくれなかったのよ。あなたが出てきたせいで、家族はめちゃくちゃだわ」
 ユリアはいらついて、左足で床を蹴りつけた。ユールベルはびくっとして体をこわばらせた。
「生きる価値のない人間のくせに……。それどころか生きていてはみんなの迷惑なのよ! わかってるの?!」
 ユールベルは顔を歪ませ、目をつぶり、幾筋もの涙を流した。
「私だって、好きで生まれてきたわけじゃない……」
 震える小さな声でそう言ったあと、苦しそうに浅い息を繰り返す。
「こんな……こと、なら、生まれてきたくなんかなかったわよ!!」
 壁に寄りかかり、顔を伏せたまま、精一杯の声で悲痛に訴えた。
 しかし、それでもユリアの冷酷な態度に変わりはなかった。
「こっちだって、あなたみたいな子だとわかっていれば、生まなかったわよ」
 小さく舌打ちして、吐き捨てるように言った。ユールベルは耳をふさぎ、体を丸め、床にうずくまった。
「そこまで言うんだったら、いっそ殺してくれればよかったのよ」
 虚ろにそう言うユールベルに、ユリアはさらに追いうちをかける。
「死にたかったらね、勝手にひとりで死になさい!」
 身を屈め、彼女の頭の上から大声を浴びせかける。耳をふさいでも、それを防ぐことはできなかった。手から力が抜け、床に落ちる。
「何度も死のうと思った。でも、死ねなかった……」
 小さなうめき声とともに、すすり泣き始めた。
「度胸もないくせに、偉そうに言ってるんじゃないわよ」
 ユリアは嫌悪感を丸出しにした。威嚇するように激しく右足を踏み出し、白いワンピースの裾を踏みつける。
 ユールベルの肩がぴくりと動いた。それと同時にすすり泣きがやんだ。ゆっくりと体を起こし、顔を上げると、泣き腫らした右目でユリアを睨み上げた。
「度胸がないのは、そっちだって同じじゃない」
 今までとは違う、落ち着いた静かな声。だが、その奥には、激しい怒りが渦巻いているのが感じられた。ユールベルはワンピースの裾を引っ張り、ユリアの足から引き抜いた。ふたりの鋭い視線がぶつかりあう。
「私を殺さなかったのは、あなたが臆病だったから。罪を背負いたくなかったから。だから、私を閉じ込めた」
 ゆらり体を揺らしながらスローモーションで立ち上がると、ふらつきながら一歩前へ踏み出した。顔を上げ、ありったけの怒りをこめた瞳を、まっすぐユリアにぶつける。ユリアに初めて動揺の色が浮かんだ。
 ユールベルは高鳴る鼓動を感じながら、意を決して口を開いた。
「手を汚さず、自分が楽になれる方法を選んだ卑怯者なのよ、あなたは!!」
「うるさい!!」
 逆上したユリアは、握りこぶしを振り上げた。ユールベルは声にならない悲鳴をあげた。逃げるように後ろによろめくと、壁にぶつかり、頭を抱えて崩れ落ちた。
 振り上げられたユリアの腕を、後ろからサイファが掴んだ。
「精神的、肉体的虐待、あげくの果ての監禁だったのか……」
 その声には、やりきれなさがにじんでいた。
「あなたは、あの子のことを、何も知らないのよ!」
 ユリアはサイファの手を振りほどいた。彼に掴まれていた部分を見つめながら、深くうつむいた。
「あの子のことを知れば、誰だってこうするわ」
 淡々と、うわごとのように言う。そして、急に勢いよく振り返ると、声のトーンを上げた。
「ご存知?!」
 サイファを激しく睨み、眉間にしわを寄せた。
「あの子はね、自分の弟さえも手に掛けようとしたのよ。まだ伝い歩きしかできない幼い弟を、階段から突き落としたのよ!!」
「違う! 私はやっていない!!」
 後ろでユールベルは再び泣き叫んだ。
「……どうして、私たちに相談してくれなかったのですか」
 黙って顔をそむけているバルタスに、サイファは悲しい眼差しを送った。しかし、その言葉に反応したのはユリアだった。
「きれいごとを言わないで! あなただって憎いでしょう?!」
 一歩サイファに踏み込み、顔を突きつける。しかし、彼はまったく動じることはなかった。
「彼女はやっていないと言っています」
 冷静に、まっすぐユリアの瞳を見つめる。そのことが、よけいに彼女の頭に血をのぼらせた。
「そんなたわごと! 信じているの?!」
 サイファは後ろで小さくうずくまるユールベルに、そっと目を向けた。
「君は、アンジェリカに真実を話した。アンジェリカはその話に驚いて、階段を踏み外した。そうだとすれば、君を責める理由はない」
 ユールベルは驚いて顔を上げた。呆然とサイファを見つめる。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 ユリアは眉をひそめ、サイファを睨んだ。そして、短く投げやりなため息をついた。
「どこまでお人好しなの、あなたは。万が一、それが事実だとしても、あなたの娘をこんな目に遭わせたのは、あの子のせいに違いはないでしょう」
 サイファの顔つきが険しくなった。
「彼女を追いつめたのは、我々、そして、あなた方だ」
 ユリアは反抗的な視線を返した。しかし、サイファは真っ向からそれを受け止めた。
「申しわけありませんが、お帰りいただけますか」
 丁寧だが、有無をいわせない強い口調。ユリアは一瞬たじろいだ。しかしすぐにサイファをキッと睨みつけた。
「私だって、来たくて来たわけではありませんから」
 そう言うと背中を向け、ヒールの音を響かせた。しかしすぐに足を止め、顔だけ振り返った。その視線は、バルタスに向けられていた。
「さっさとあの子を追い出してちょうだい。そうしない限り、私もアンソニーも戻りませんから」
 一方的に言い放つと、返事を待たずに早足で去っていった。

「すまない。君たちに謝罪させようと思って呼んだのだが……」
 覇気のない声。バルタスは、サイファとレイチェルに頭を下げた。疲れきったように肩を落とし、大きな背中を丸めている。
「ひどい……実の……血のつながった親子なんでしょう?」
 レイチェルは小刻みに震える唇から、かぼそい声を漏らした。その顔は透き通るほどに青白く、今にも倒れそうだ。
 サイファはうつむいた。
「血のつながりなんて、関係ないさ」
 かすかな声で、早口につぶやく。レイチェルははっとして振り向いた。しかし、さらりと流れる金の髪が、彼の横顔を隠し、表情をうかがうことはできなかった。
「血がつながっているからこそ、よけいに憎しみが深くなる、ということもある」
 バルタスは重々しくそう言った。うなだれたままで顔を見せない。レイチェルはくたびれた彼の姿を、寂しげに見つめた。
 サイファは、膝を抱えうずくまっているユールベルのもとへ歩いていった。彼女の前まで来ると、片膝をつき、目線を合わせた。
「すまない。君にはずいぶんつらい思いをさせてしまった」
 ユールベルの瞳にあたたかいものがじわっとにじんだ。目を閉じうつむくと、手の甲にぽたりと雫が落ちた。
「おじ……さま……」
 震える声でそう言うと、大きくしゃくりあげた。
「ごめん……なさい……約束、やぶってしまって……」
 サイファはそっと微笑みかけると、泣き続けるユールベルの頬に手を置いた。

 プシュー。
 空気の抜けるような音とともに扉が開き、中からラウルが現れた。後ろで数人の医療スタッフが、慌ただしく動き回っている。
「アンジェリカは?!」
 レイチェルはラウルに駆け寄り、すがるように白衣を掴むと、泣き出しそうな顔で見上げた。ラウルはなだめるように、レイチェルの細い肩に両手を置いた。そして、真剣な眼差しをサイファに向けた。
「肩、腕と肋骨2本の骨折、それと頭部外傷だ。骨折はたいしたことはないが、問題は、頭の方だ。脳挫傷を起こしている」
「脳挫傷……」
 レイチェルはかすれた声で、聞き慣れない単語を繰り返す。鼓動がしだいに速く、強くなっていく。
「助かるのか」
 サイファが抑えた声で尋ねた。口調は冷静だったが、表情からは抑えきれない焦りがにじんでいた。
「私を信じろ」
 ラウルは、強い漆黒の瞳をサイファに向けた。彼はまっすぐにそれを受け止め、小さくうなずいた。
「アンジェリカに会わせて!」
 レイチェルは再びラウルの白衣を掴むと、大きな澄んだ瞳で必死に訴えた。
「入れ」
 ラウルがそう言うや否や、彼女は小走りで医療室に駆け込んでいった。サイファとラウルも、続いて入っていった。
 アンジェリカは大きなガラス窓の向こう側にいた。天井も床も白い、真っ白な部屋。白いパイプベッドと白いシーツの間に、黒髪の少女は横たわっていた。右腕にはギプスと包帯、左腕には点滴、頭には包帯とネット、口は酸素吸入マスクで覆われている。その他、心電図の装置などが彼女を取り囲んでいた。物々しく、痛々しいその状態を見て、サイファもレイチェルも言葉をなくした。
 しばらくふたりはガラスに張りつくようにして見ていた。
「中へは、入れないの?」
 レイチェルがふいにポツリと言った。
「今は刺激を与えたくない」
 ラウルは間髪入れずに返事をした。レイチェルは、ウェーブを描いた長い髪を舞い上がらせながら振り返ると、潤んだ瞳で彼を見つめた。
「おとなしくするわ、だから……」
 彼女は涙で揺らぐ声で懇願した。しかし、ラウルは無言で背を向け、次の点滴の準備を始めた。レイチェルは、ゆっくりと目を伏せながら、うつむいていった。
「ここから見守ろう」
 サイファは後ろから彼女の肩を抱き寄せた。

 数時間が過ぎた。
 ふたりは長椅子に腰掛け、アンジェリカの様子をガラス越しに見つめていた。彼女はまだ一度も目を開いていないし、微動さえしていない。
「アンジェリカは?!」
 静寂を切り裂く切迫した声が、入口の方から響いてきた。続いて小刻みな足音。ジークとリックが姿を現した。彼らはあたりを見渡し、サイファとレイチェルと見つけると、その前のガラス窓に、一目散に駆け寄った。痛々しいアンジェリカの姿。リックは呆然と立ち尽くした。ジークはガラスに両手をつき、肩を震わせながらうなだれた。
「頭を打っているそうだ。だが、ラウルは大丈夫だと言っている。信じよう」
 サイファは静かに口を開いた。だが、その言葉も、ジークたちの慰めにはならなかった。
「俺のせいだ……。俺が止めてれば……!!」
「僕も、何も出来なかった……」
 ふたりの顔が歪んだ。ジークは、ガラスの上で握りしめたこぶしを震わせた。
「君たちの責任ではないよ」
 サイファは長椅子から立ち上がると、ふたりの間に並び、それぞれの背中に手を置いた。
「真実を隠そうとした、私が悪かったんだ」
 ガラスの向こう側を見つめながら、自らを責めるように、アンジェリカに詫びるように、そう言った。
「責任なら私にもある」
 奥から歩いてきたラウルが、後ろから口を挟んだ。
「ユールベルは……」
「やめて!!」
 突然、レイチェルが悲鳴のような叫び声をあげた。サイファたちが驚いて振り返ると、彼女は固く目を閉じ、頭を小さく横に振っていた。
「誰のせいとか、そんなことより……」
 顔を上げ、揺れる瞳で四人を見つめる。
「今は祈ってください。アンジェリカの回復を……」
 胸の前で両手を組み、震えるまぶたを閉じた。

 さらに数時間が過ぎた。
 それでも状況は何一つ変わらなかった。四人は長椅子に座り、ただ見守ることしかできない。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
 ジークは隣のサイファを気にしながら、反対側のリックに耳打ちした。
「リック、おまえはそろそろ帰れ」
「でも……」
 リックは声をひそめて口ごもる。彼との間をつめ、ジークはさらに畳みかける。
「ここにおまえがいてもいなくても、何も変わらねぇんだ。でも家の方は、そうはいかねぇだろ」
 リックは難しい顔で考え始めた。
「帰りなさい、リック君」
 ジークの向こう側に座っているサイファが、少し身を屈め、リックに微笑みかけた。どうやらふたりの会話は、彼に筒抜けだったらしい。ジークの声が大きかったわけではなく、この場が静かすぎたのだ。ジークは少しばつが悪そうに目を伏せた。
 その隣で、リックはためらいがちに口を開いた。
「……はい。すみません」
 少しの迷いはあったが、彼は素直に甘えることにした。
「ジーク君も」
「俺は帰りません」
 サイファの言葉を遮り、きっぱりと言い切った。強い意志を秘めた瞳を彼に向ける。しばらく、互いの視線の探り合いが続いた。
「……わかった」
 サイファは前を向き、長椅子から立ち上がった。ジークもつられるようにして立ち上がり、彼の端整な横顔を、不安そうに見つめた。サイファは恐いくらいの真剣な表情で振り向いた。
「だが、家に連絡だけは入れておくんだ」
 ジークは、その静かな迫力に押され、無言でこくりとうなずいた。サイファは少し笑顔を見せて、彼の肩に優しく手を置いた。

 サイファ、レイチェル、ジーク、リックの四人は、連れ立って緊急医療室から出てきた。そこには、入る前と同じように、扉の前で仁王立ちをしているバルタスと、その足元で膝を抱えるユールベルがいた。サイファとレイチェルは、彼らを目にするなり、はっと息をのんで目を見開いた。まだここにいるとは思っていなかった。それどころか、存在を忘れていたといってもいい。
 ジークとリックは、ユールベルの姿をなるべく目に映さないようにして避けていた。
「それではリック君、気をつけて。今日はありがとう」
 サイファが礼を述べると、レイチェルはその隣で深々とおじぎをした。
「また、あしたの朝に来ます」
 申しわけなさを顔いっぱいに広げ、リックはぺこりと頭を下げた。
「アカデミーまで一緒に行くぜ。家に連絡しないといけねぇし」
 リックにそう言ったあと、ジークはサイファに振り向き、目を合わせた。
「家に連絡したら、すぐ戻ります」
「心強いよ」
 サイファは柔らかい笑顔を返した。

 去り行く少年たちの後ろ姿が小さくなると、サイファはバルタスに振り向いた。
「あなたももう結構です。お帰りください」
 感情のない、淡々とした口調。銅像のように動かなかったバルタスが、じわりと首を動かし下を向いた。
「すまない……」
 喉の奥で声がかすれた。組んでいた両腕をほどき、足元で小さくなっている娘に目をやった。
「ユールベル、行こう」
 自分の名が呼ばれると、彼女はぴくんと体を揺らした。
「彼女は私が預かる」
 突然の背後からの声。サイファもレイチェルも、驚いて声のする方に振り返った。
「ラウル……おまえ何を……」
 いつのまにか扉の奥に立っていたラウルを見つめ、サイファは言葉を詰まらせた。ラウルは大股で歩いて出てきた。バルタスを冷たく一瞥すると、腕を組み、サイファと向かい合った。
「2、3日だけだ。おまえはその間に、入寮の手続きを済ませろ」
「アカデミーの寮か」
 サイファはようやく合点がいった。独り言のようにそう言うと、顎に手を当て考え込んだ。
「だがあそこには、遠隔地の者しか入れないはずだ」
「なんとかしろ」
 ラウルは、たいした問題ではないかのように、あっさり言ってのけた。
「……わかった」
 サイファは深刻な顔で考えを巡らせながら、小さくうなずいた。レイチェルは心配そうに彼を見上げた。それに気がつくと、彼はにっこり笑いかけ、彼女の肩に手を回した。
「そういうことだ」
 ラウルはバルタスに向き直り、短く言った。その声には、一切の反論を受けつけない強さがあった。
「娘を……よろしく頼む……」
 バルタスは力なく言った。
 ラウルはユールベルの前まで歩いていき、かがみ込むと、彼女の華奢な体を軽々と抱き上げた。ユールベルは細い腕を伸ばし、すがりつくようにラウルの首に手を回した。そして、何かにおびえるように、彼の肩に顔をうずめた。金の髪と白い包帯が緩やかに揺れる。ラウルは彼女を庇うようにして三人とすれ違うと、長い廊下を歩いていった。



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