目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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38. 仕組まれた孤独

「見えるようになる見込みはないな」
 ラウルは新しい包帯をユールベルに巻きつけながら、淡々と診察結果を述べた。
「そう」
 彼女は無表情に返事をした。
 ラウルは包帯を巻き終わると椅子に座り、正面から彼女と視線を合わせた。互いに無言で見つめ合い、目をそらそうとしない。沈黙が続く。
「……何か、言いたいことでもあるの?」
 先に口を開いたのはユールベルだった。
「あなたのことは嫌いだわ。その目……。すべてを見透かされているみたい」
「見透かされて困ることでもあるのか」
 ユールベルの表情がわずかに険しくなった。
「あなたにもあるんじゃないの? 秘密の多いひと……」
 そう言いながらゆっくりと立ち上がり、横からラウルの膝の上へ腰を下ろした。彼の首に手をまわし、ぐいと顔を近づける。息の触れ合う距離で、ふたりは互いの瞳をまっすぐに見つめた。
 ユールベルは腕に力を入れ、体を伸ばすと、ふいにラウルと軽く唇を触れ合わせた。
「私のことは嫌いではなかったのか」
 ラウルに驚いた様子はなかった。声に少しの乱れもなかった。
「大嫌いよ」
 ユールベルは手の甲で唇を拭いつつ、ラウルの膝から降りた。そして、少し走って足を止めると、包帯で隠れていない側から顔半分だけ振り返った。
「……あなたは?」
「さあな」
 ラウルは彼女に背を向けたまま、感情なく言った。
 ユールベルはしばらく彼の後ろ姿を見つめていた。しかし、それ以上なにも言わず、静かに部屋をあとにした。

 昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。
「あ、鳴っちゃったわ」
「おい、早くしろよ!」
 ジークはもたつくリックを急かした。
「ごめん!」
 リックはあたふたと準備をして立ち上がった。そして、三人そろって教室から廊下へバタバタと飛び出した。
「午後からは図書室だ。早く行け」
 突如、背後から降りかかる低い声。ジークは顔をしかめた。その声を聞くだけで無条件に腹が立った。
「今から行こうとしてんだよ!」
 反抗心をむき出しにして、わめきながら振り返った。だがその瞬間、ラウルは三人の間をすり抜け、颯爽と通り過ぎていった。
「くっそ、本当に頭にくるヤツだぜ」
 ジークは苦々しげに顔をしかめた。
 その横で、アンジェリカは呆然とラウルの後ろ姿を目で追っていた。息をすることも、瞬きをすることも忘れているかのようだった。
 彼女のただならぬ様子に気がついたのはリックだった。
「アンジェリカ、どうしたの?」
 なるべく刺激をしないよう優しく声を掛けた。
「え、あ……別にどうもしてないわ。急がなきゃ」
 アンジェリカは我にかえると、小さな声でそう言った。そして、その場から逃げるように、慌てて早足で歩き始めた。
 ジークとリックは目を見合わせ、怪訝に首を傾げた。
 ——また、あの匂い……どうして?
 アンジェリカは息が詰まりそうだった。胸の鼓動が次第に早くなった。不安でたまらなかった。今の自分の表情をふたりに見せないよう早足で歩き続けた。

 その後のアンジェリカは、ずっとうわの空だった。ラウルが何かを言っても、まるで耳に届いていない。本をパラパラめくっても、内容はまったく頭に入っていない。
「アンジェリカ、帰らないの?」
 リックが覗き込んで声を掛けた。ジークはその横で腕を組んで立っていた。
 アンジェリカははっとしてあたりを見た。気がつかないうちに授業時間が終わっていたようだった。まわりがざわついていることに、そのときようやく気がついた。
「あ……帰るわ」
 そう言って立ち上がろうとしたアンジェリカの肩に、リックはそっと手をのせた。そして穏やかに微笑みかけた。
「いいよ、座ってて。本は僕が返してくるから」
「ごめんなさい。……ありがとう」
 奥の本棚へ向かっていく背中に、アンジェリカはとまどいがちに感謝の言葉を送った。
 残されたジークとアンジェリカの間には、どことなく気まずい空気が流れていた。ふたりとも無言のまま、リックが帰ってくるのを待った。

「一年のかわいい子、なんていったっけ。あの包帯の」
「ああ、確かユールベルとかいう名前だったな」
 隣の机での会話が、聞くともなしに耳に入ってきた。話しているのはクラスメイトたちだった。授業が終わり、そのまま雑談に興じているようだった。
「出よう」
 ジークは身をかがめ、アンジェリカに耳打ちした。しかし、アンジェリカはそれには反応を示さなかった。ユールベルのうわさ話から耳が離せなかったのだ。
「そうそう、その子と担任が昼休みに並んで歩いてるのを見たんだよ」
「担任って、ラウル?」
 アンジェリカは立ち上がり、唐突にその会話に割って入った。
「おい!」
 ジークは慌てて止めようとしたが、アンジェリカは無視して隣の机へと駆けていった。
 会話をしていた三人は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になり、手招きをして彼女を迎え入れた。
「そうだよ。王宮の方に行ったから、ラウルの医務室に行ったんじゃないかな」
 黒髪の少年が、アンジェリカに席を譲りながら答えた。その後ろから、茶髪の少年が身を乗り出してきた。
「そういえば君もアイツと親しいようだけど、ラグランジェ家ってみんなそうなのか?」
「……そんなことはない、けど」
 アンジェリカは目を伏せ、言葉を濁した。
「な、ユールベルってどんな子なんだ?」
 今度は反対側の少年が身を乗り出し、浮かれた声で尋ねた。
「俺も気になる、それ。すごい不思議な感じの子だよな」
「あの包帯も気にならないか?」
「おまえ包帯好きだよなぁ」
 三人はアンジェリカをほったらかし、興奮ぎみにユールベルのことで盛り上がった。アンジェリカは逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、立ち上がるきっかけをつかめないでいた。
 ふいに彼女の腕が、後ろから引っ張られた。
「帰るぞ」
 ジークは低い声でぶっきらぼうに言った。
 アンジェリカはそんな彼を見て、ほっとしたように表情を緩めた。彼女は腕を引かれるまま椅子を降りた。そのとき——。
「ジーク! 金髪の女の子が外で待ってるぜ!」
 戸口からクラスメイトが大声でジークを呼んだ。図書室にいたほとんどが声の方に振り向いた。大声で呼んだ彼は、いたずらっぽく白い歯を見せて笑っている。ジークをからかうためにわざと大声で言ったのだろう。開かれた扉の向こうに、金髪と白いワンピースの後ろ姿がちらりとのぞいた。
「ジーク! 今のユールベルだろ?!」
「おまえら知り合いなのか?」
「紹介してくれよ、ていうか、もしかしておまえら……」
 ジークはアンジェリカの腕をつかんだまま動きを止めていた。
 ——どうすればいいんだ。
 野次馬連中はどうでもよかった。ただ、アンジェリカのことだけが心配だった。ここで誤解されるくらいなら、初めから本当のことを話しておけばよかった。そう強く後悔した。
 アンジェリカは表情を隠すかのように、深くうつむいた。
「待ってろよ。すぐに戻ってくるから」
 ジークはアンジェリカの腕を放した。
「いいな、待ってろよ」
 彼女に言い聞かせるように念を押すと、ジークは走って出ていった。
 だが、アンジェリカはジークの言葉に従わなかった。彼の姿が見えなくなると、乱暴に鞄をつかみ、反対側の扉から出ていった。長い廊下を駆け抜け、角を曲がったところで足を止めた。窓に手をつき、肩で大きく息をする。ガラス越しのずっと先に、ジークと彼に寄り添うユールベルの姿が小さく見えた。
 ——あの甘い匂い……。ユールベル、だったの?
 アンジェリカの熱い吐息でガラスは白く曇った。そして、ふたりの姿はその霞に掻き消され見えなくなった。

 ジークは野次馬に睨みをきかせながら、図書室に戻った。ユールベルの方は特に何もなかった。ただ会いたかったというだけだった。彼女が何を考えているのか、ジークにはさっぱりわからなかった。
 ジークはアンジェリカがいたはずの場所に戻った。だが、そこに彼女の姿はなかった。代わりにリックが腕組みをして立っていた。
「……アンジェリカは?」
 嫌な予感を胸いっぱいに膨らませながら、ジークはおそるおそる尋ねた。
「出ていったらしいよ」
 リックはそっけなく答えた。
「あのバカ……待ってろって言ったのに」
 顔をしかめてそう言うジークを、リックは冷ややかに見つめた。
「バカはどっちだよ。さっき来てたのってユールベルなんでしょ」
 彼にしてはめずらしく辛辣な言葉。ジークは図星をつかれた恥ずかしさと、いいわけをしたい焦りとで、顔を真っ赤に上気させた。
「勝手に来たんだよ! ほっとくわけにもいかねぇだろ! アンジェリカにはあとでちゃんと話すつもりだったんだよ。この前のこともな」
 この前のことというのは、ハンカチを返すためにユールベルに会いに行ったことである。リックには事後ではあったが話をしてあった。もちろん、こと細かにすべてを伝えたわけではない。それは誰にも言っていないし、言うつもりもなかった。知っているのは覗いていたレオナルドだけ……。
「どうしたの?」
 思いきり眉をひそめたジークに、リックはいぶかしげな視線を送った。
「いや。一応、教室の方を見に行ってみようぜ」
 ジークは鞄をつかんで早足で図書室を出ていった。

 アンジェリカは帰る気になれず、ふらふらと当てもなくアカデミー内をさまよっていた。そして気がつくと、アカデミーの隅にある小さな礼拝堂の前へと来ていた。
 顔を上げ、全体を見渡す。木々に囲まれ、こじんまりとした三角屋根の建物。もともと古びてはいたが、気のせいかよりいっそう寂れたように感じられた。以前はよくここへ祈りに来ていたが、最近は足を運ぶこともめっきり少なくなっていた。
 ——こんなときだけ頼ろうなんて、虫が良すぎるかしら。
 ほんの少し罪悪感を感じながら、木製の重い扉をゆっくり押し開けた。ひんやりとした空気に、礼拝堂独特の静けさ。彼女はそれが好きだった。
 カツーン、カツーン。靴音を響かせ、中に足を踏み入れた。
「え……?」
 彼女はあるものを目にし、小さく驚きの声を上げた。そして、即座に体を引いて身構えた。
 最後列の長椅子。そこに少女が横たわって眠っていた。白いワンピース、長く緩やかなウェーブを描いた金の髪、頭に巻きつけられた白い包帯。間違いなくユールベルだ。白地のワンピースの上には、ステンドグラスの色とりどりの光が落ち、幻想的な模様を映し出していた。
 アンジェリカは息が止まりそうだった。しかし、彼女にはどうしても確かめたいことがあった。おそるおそる、そっと近づく。
 ドッ、ドッ、ドッ……。
 体中が脈打つのを感じながら、それでも近づくのをやめない。
 ドッ、ドッ、ドッ……。
 ユールベルの上で身をかがめ、彼女の首筋に顔を近づける。
 ドクン!!
 心臓が飛び出しそうなほど強く打った。顔をこわばらせて、後ずさりをする。
 ——やっぱり、あの匂い、この人のだった……。
 アンジェリカは呆然として立ち尽くした。
 気配を感じたのか、ユールベルが目を覚ました。長椅子にうつぶせになったまま、目の前の少女の足元をじっと見つめた。徐々に顔を上げていく。そして、ふたりの視線がぶつかった。冷たい蒼い光。アンジェリカは凍りついたように動けなかった。
「アンジェリカ、どうしてここへ」
 ユールベルは気だるくぼんやりと言った。アンジェリカは引きつったように息を吸った。
「あ……あなたこそ、どうしてこんなところで」
 唇を震わせ、渇いたのどから擦れた声を絞り出した。
 ユールベルはゆっくり身を起こした。
「なるべく家にいたくないから。あなたは?」
「……祈りに来ただけよ」
 アンジェリカは次第に落ち着きを取り戻した。冷静になると、今度は不愉快な気持ちがこみ上げてきた。眉をひそめてユールベルを睨みつける。
 しかし、ユールベルはまるで表情を変えなかった。
「あなたとふたりきりなんて、何年ぶりかしら」
 楽しむような口調でそう言い、かすかに笑いかけた。アンジェリカはますます表情を硬くした。
「いったい何を企んでいるの? 私と仲良くしたいなんて嘘なんでしょう」
「どうしてそんなことを」
 かすかな笑顔を保ったまま聞き返す。アンジェリカにはそれがかえって薄気味悪く思えた。
「ジークやお父さんやラウルに近づいている」
 責めるようなきつい口調。それでもユールベルの顔色は変わらなかった。
「私が仲良くしてはいけないの? どうして? あなたのものってわけではないでしょう」
「私が言ってるのはそういうことじゃない!」
 アンジェリカは一気に頭に血がのぼり、こぶしを握りしめて叫んだ。ユールベルは無表情で彼女を見上げた。
「欲張りなひと」
 一瞬、その瞳に鋭い光が宿った。アンジェリカは斬りつけられたかのように身がすくんだ。額に薄く汗がにじんだ。
「……質問を、変えるわ」
 アンジェリカは息を整え、気持ちを立て直すと、静かに言葉を続けた。
「私とあなたの間に何があったのか、教えて」
 ユールベルを正面にとらえ、まっすぐ彼女の瞳を見つめる。額ににじんだ汗が頬を伝った。
 ユールベルは不敵にうっすらと笑みを浮かべた。
「教えたいのはやまやまだけど、おじさまとの約束があるから」
「おじさま……お父さん?」
「そうよ」
 ユールベルはさらに畳み掛ける。
「私たちふたりの秘密の約束」
 アンジェリカの鼓動がドクンと強く打った。ユールベルは無表情のまま顔を上げ、どこか遠くを見つめた。
「おじさま、今度はいつ来てくださるのかしら。楽しみだわ。ピアノも聴かせてくださるって。でも、頻繁に会えないのが残念ね」
 夢見ごこちにそう言ったあと、急に冷たい表情になりアンジェリカを見据えた。
「あなたのせいよ」
 アンジェリカは彼女の迫力にたじろぎ、あとずさりをした。ユールベルはすぐに元の無表情に戻った。
「でもまあいいわ。ジークとは毎日でも会えるんだから」
 アンジェリカは胸を押さえ、再びじりじりとあとずさった。半開きにした口をわずかに動かし何かを言おうとしているようだったが、声が出てこなかった。やがて踵を返しユールベルに背を向けると、その場から走り去っていった。
 ユールベルは外に飛び出したアンジェリカの後ろ姿を、虚ろな目で見送った。

 アンジェリカは走った。脇目も振らず走った。校庭を一直線に横切り、門から飛び出した。
「あっ……!」
 彼女は門の外で立ち止まっていた男の背中にぶつかった。
「ごめんなさい」
 慌てて謝り、顔を上げる。その瞬間、彼女ははっとして目を見開いた。
「レオナルド!」
 アンジェリカがぶつかった男はレオナルドだった。彼の方も少し驚いていたようだった。
「ひとりとはめずらしいな」
「ちょうど良かった」
 アンジェリカは深く息をして、呼吸を落ち着けた。
「私、家出したいんだけど、どこかいいところはない?」
「……は?」
 レオナルドの声が素っ頓狂に裏返った。


39. 家出

「ここって、あなたの家じゃないの」
 アンジェリカの目の前には、彼女の家ほどではないが、かなり立派な邸宅が広がっていた。レオナルドの家である。拍子抜けしたような、あきれたような顔で彼を見上げた。
「他にあてはない」
「なるほどね」
 アンジェリカはため息まじりに言った。レオナルドはムッとして彼女を見下ろした。
「嫌なら帰るんだな」
「この際、仕方ないわね」
 アンジェリカは腕を組みながら再びため息をついた。お願いする立場であるはずの彼女が、なぜか偉そうな態度をとっていた。ケンカを売っているも同然な物言い。レオナルドにとっては面白いはずがない。
「本当に可愛げのないやつだな」
 顔をしかめて彼女をひと睨みすると、玄関へと歩き始めた。

 アンジェリカは玄関先で足を止めた。少し怯えたような表情で中を見渡す。彼女がここに入るのは初めてだった。自分のことを疎ましく思う人たちの家。いわば敵の本拠地である。彼女が躊躇するのも無理はない。
「どうした。入らないのか?」
「入るわよ」
 レオナルドに弱味を見せるわけにはいかない。アンジェリカは精一杯、突っ張った。不安な気持ちを押し隠し、前方を睨みつけながら、堂々と見えるよう大きな足どりで歩いていった。
「二階だ」
 ふたりが階段をのぼっていると、下でガチャンと大きな音がした。驚いて振り向くと、下で女の人が青い顔でこちらを見上げていた。レオナルドの母親だった。彼女の足元には壊れたティーポットやカップが散らばっていた。
「どうして、その子……」
 彼女は震える声でつぶやいた。アンジェリカの顔が曇った。
「何をしに来たの! うちまで呪われるわ、出ていってちょうだい! レオナルドあなた何を考えているの?!」
 金切り声でまくしたてる。レオナルドは母親に冷たい視線を送ると、無視して階段を上がろうとした。しかし、アンジェリカが呆然と立ちつくしていることに気がつき、彼女の手を引き、声を掛けた。
「行くぞ」
「でも……」
 アンジェリカは横目で階下を見下ろしながら口ごもった。
「気にするな」
 レオナルドは吐き捨てるようにそういうと、アンジェリカの手を強く引いて二階へと駆け上がっていった。
「レオナルド!」
 ヒステリックな声が背中に突き刺さったが、ふたりはもう振り返らなかった。

 レオナルドに促されて、アンジェリカは二階の奥の部屋へ入った。彼女の部屋には及ばないが、それでもかなり広めの部屋。全体に白が基調となっている。本棚に机、ベッド、ソファなどがゆとりをもって配置され、すっきりと清潔感にあふれていた。これがレオナルドの部屋であるとは、アンジェリカには意外に思えた。
「座れよ」
 レオナルドはベッドに腰を下ろしながら、アンジェリカにソファを勧めた。
「勘違いするなよ、さっきのこと。おまえを庇ったわけじゃない」
「反抗期ってわけ?」
 アンジェリカはソファの背もたれに体重を預けた。レオナルドは疲れたように息をつき、顔をしかめながら頭をかいた。
「反抗期は向こうの方だ。アカデミーに入ったのが気に入らないらしくてな。ますますヒステリックになってきている」
 アンジェリカはあの金切り声を思い出し、少しレオナルドに同情した。同時に、ふと疑問がよぎった。
「そもそもどうしてアカデミーに行こうなんて思ったわけ? 前に訊いたときははぐらかされたけど」
「はぐらかしてなんかいないさ」
 レオナルドはベッドに手をつき、胸をそらして上を仰いだ。
「あのとき言ったとおりだ。子供じみた強がりはやめにして、事実を受け入れることにしたのさ。から威張りしている自分が情けなく思えたんだな」
 そこでいったん言葉を切り、軽く一息ついた。そして、アンジェリカに視線を流し、さらに話を続けた。
「正直、今はおまえにはかなわないだろう。だが、いつか正々堂々とおまえを負かしてやろうと思ってな。そのために同じ舞台を選んだのさ」
「はぁ……」
 アンジェリカは気の抜けた相槌を打った。あまりに意外で呆然とした。彼が語ったことは、彼女にとって想像もしないことだった。
 しかし、どこかで聞き覚えのある話だと思った。彼女は瞬きをしながら考えを巡らせた。ふとジークの顔が、声が、頭をかすめた。
 アンジェリカはそれを打ち消すように、激しく頭を横に振った。
「何をやっているんだ」
「……別に」
 不思議そうに尋ねるレオナルドから目をそらし、軽く口をとがらせた。
「思えばおまえとまともに会話をしたことなんてなかったな」
 レオナルドはニッと笑った。アンジェリカは無表情で、彼にちらりと目を向けた。
「そうね、妙な感じだわ。……そうだわ」
 急に何かを思いついたようにレオナルドに振り向いた。
「一度あなたに訊いてみたかったんだけど」
「何でしょうか、お嬢さま」
 レオナルドはこの状況を楽しむようにニヤリとし、からかうような口調で言った。
 しかし、アンジェリカは真剣な表情で彼を見据えていた。
「私のどこが嫌い?」
「は?」
 今度はレオナルドが驚き、素頓狂な声をあげた。
「嫌いなんでしょう? 私のこと」
 さも当然のように、冷静にくり返す。レオナルドは答えに窮し、渋い顔をして首を傾げた。
「嫌いというか……話していると頭にくるのは事実だが……」
「はっきりしないわね」
 アンジェリカは冷ややかな視線を向けた。レオナルドは焦りから頬を紅潮させ、彼女を睨み返した。
「自分はどうなんだ」
「私はあなたのことが嫌いよ」
 アンジェリカは事もなげに、さらりと言った。
「……ずいぶんはっきり言うな」
 レオナルドは言葉を失い、とっさに返事ができなかった。好かれていると思っていたわけではないが、面と向かって言われるとさすがに動揺してしまう。
「当然よ。あれだけ嫌なことを言われ、嫌なことをされれば、誰だって嫌いになるわ。肩のやけどだって痛かったんだから」
 眉間にしわを寄せ、口をとがらせながらそう言うと、レオナルドに焼かれた肩を手で押さえて見せた。
「あー、悪かったと言っただろう」
 思いきり顔をしかめ頭をかくと、面倒くさそうに言った。
「でも……」
 憂いを含んだアンジェリカの声に反応して、レオナルドは手を止めた。
「今は嫌いなあなたと一緒にいる方が気が楽だわ」
 誰に向けるともなく、寂しげな儚い笑顔を浮かべる。
「これ以上、裏切られなくてすむもの」
 レオナルドは複雑な面持ちで、彼女の横顔を見つめた。

 夜も遅くなり、ふたりは部屋を暗くして寝ていた。レオナルドは自分のベッドで、アンジェリカはソファで、それぞれ静かに寝息を立てている。
「レオナルド! レオナルド!!」
 部屋の外から金切り声が響き、扉が勢いよく開けられた。廊下から明かりが広がり、部屋を薄く照らす。
「……んだよ」
 レオナルドは半分寝ぼけて、目をほとんど閉じたまま上体を起こした。白いシルクのパジャマが薄明かりに反射した。
「お嬢さまのお迎えが……」
 レオナルドの母親が震える声で言いかけた。と同時に、後ろから怖い顔をした男性が姿を現した。サイファだった。彼は無遠慮に部屋に踏み入り、ぐるりとあたりを見まわした。そして、奥のソファにアンジェリカを見つけると、早足で歩み寄った。静かに膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。その寝顔を目にすると、表情を和らげ、小さく安堵の息をもらした。
「帰るよ、アンジェリカ」
 サイファは彼女の耳もとで優しくささやいた。アンジェリカはようやく目を覚ました。
「……どうして……ここは、どこ……?」
 ぼんやりした頭でサイファの顔を確認する。そして、ゆっくりとあたりを見まわした。見慣れない天井、見慣れない部屋。ようやく思い出してきた。ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか——。
「わたし、家出したのよ。だから帰らない……帰りたくないの]
 横になったまま体を丸め、サイファから視線をそらせた。
「言いたいことがあるのなら聞くよ」
 優しい声、穏やかな表情。だが、その中にどことなくつらそうなものを感じて、アンジェリカの胸に痛みが走った。しかし、彼女にも意地があった。素直に帰るわけにはいかない。目をきつく閉じ、首を横に振った。
「とりあえず帰ろう」
 サイファはにっこりと笑いかけ、アンジェリカへと手を伸ばした。だが、彼女はその手をピシャリと払いのけた。
「帰らない」
 震える声で思いつめたように言うと、毛布を頭からかぶり背中を向けた。
「本人が帰らないと言っているだろう」
 今まで黙って見ていたレオナルドが、ベッドの上から口をはさんだ。サイファは勢いよく振り返ると、激しく彼を睨みつけた。
「おまえは黙っていろ」
 ぞっとするほど冷たい瞳、冷たい声。レオナルドはすくみ上がり、言葉をなくした。
 サイファは再びアンジェリカに向き直った。毛布ごしの背中にそっと手を置き、顔を近づけ哀願した。
「お願いだ、一緒に帰ってくれ」
 アンジェリカは毛布の奥で首を横に振った。
「お願い、しばらくそっとしておいて」
 感情のないその声に、サイファは拒絶を感じた。今は何を言っても無駄かもしれない。引き裂かれるような胸の痛みをこらえながら、彼女の背中からそっと手を引いた。
「……わかった。あしたは帰っておいで。待っているから」
 サイファは無理に笑顔を作り、穏やかに言った。そのあと、真剣な表情になると、まっすぐ彼女の後ろ姿に目をやった。
「これだけは信じてほしい。私たちは誰よりもアンジェリカのことを大切に思っている」
 そう言うと、もういちど彼女の背中に手を置いた。そして、静かに立ち上がり、その場をあとにした。
 アンジェリカは遠ざかる足音を耳にして、急に不安に襲われた。だが、振り返ることはしなかった。
 サイファは部屋を出る間際、目とあごでレオナルドを呼びつけた。彼は一瞬、躊躇したが、素直に従った。音を立てないようベッドを降り、サイファに続いて部屋を出ていった。

 サイファ、レオナルド、彼の母親の三人は、階段を降りたところで足を止めた。
「理解ある父親を演じるのは大変ですね」
 レオナルドは鼻先で笑いながら言った。
「何を企んでいる」
 サイファはレオナルドに振り向くと、低くうなるような声で詰め寄った。
 レオナルドは背筋に寒気を感じ、ごくりと息をのんだ。宴の日のことが彼の脳裏によみがえった。額に汗がにじむ。それでも不敵ににやりと笑って見せた。
「行くあてもなく困っていたお嬢さまをお助けしただけですよ」
 サイファはレオナルドの胸ぐらに掴みかかりたい衝動に駆られた。だが、理性でそれを堪えた。手のひらに爪が食い込むほど、強くこぶしを握りしめた。
「わかっているだろうな。娘に何かしてみろ。ただではおかない」
 こみ上げてくるものを抑えながらそう言うと、冷たく切りつけるような視線でレオナルドを睨みつけた。レオナルドの心臓はぎゅっと縮みあがった。体全体に寒気と痺れが走り、額からは冷や汗が吹き出した。それでも彼はサイファに挑むことをやめなかった。
「何もするつもりはありませんよ。あなたとは違いますから」
「な……に?」
「レオナルド!! いいかげんにしなさい!!」
 金切り声がふたりの会話を遮った。
「サイファさんも、今日のところはお引き取り願います。お嬢さまは丁重にお預かりしておきますから」
 彼女は疲れた顔で、突き放すように言った。サイファはその言葉を耳にして、ようやくいつもの冷静さを取り戻した。そして、彼女に深々と頭を下げた。
「夜分にお騒がせして申しわけありませんでした。アンジェリカのこと、よろしくお願いいたします」
 丁寧にそう言うと、扉を開け外へと出ていった。

 レオナルドが部屋に戻ると、アンジェリカは両膝を抱え、毛布にくるまり、ちょこんとソファに座っていた。不安そうな表情で、おずおずと尋ねかける。
「お父さんは?」
「帰った」
「そう……」
 安堵と落胆の入り混じった息をつき、目を伏せた。そして、曇った顔を膝の上にのせると、小さくひとりごとをつぶやいた。
「やっぱり帰ればよかったかしら」
 レオナルドは扉を閉めた。部屋はたちまち真っ暗になった。カーテンの隙間からのぼんやりしたわずかな光で、なんとかお互いの姿を確認することだけはできる。
「そんなことでは、なめられるぞ。一日くらいまともに家出をしてみろ」
 レオナルドはそう言いながらベッドに入った。
「そうね」
 アンジェリカは寂しげに目を細めた。
「おやすみなさい」
 彼女は深めに布団をかぶっているレオナルドに声を掛けた。だが、彼からの返事はなかった。


40. 不条理な交渉

「来たよ!」
 リックは目を凝らして遠くを見ながら声をあげた。そして、アカデミーの門柱に寄りかかっているジークの肩を、急かすように軽く二度たたいた。ジークは腕組みをしながら暗い顔でうつむいていたが、彼に促されると、顔を上げその視線を追った。朝靄の中に小さな影がふたつ、だんだんと近づいてくる。ひとつはアンジェリカ、そしてもうひとつは……。

「あら、おはよう、ジーク」
 恐い顔で仁王立ちしているジークを見上げて、アンジェリカは少しとぼけたようにあいさつをした。
「なんでコイツと一緒なんだ。まさかきのうおまえが泊まったのって、コイツのところじゃねぇだろうな」
 ジークはアンジェリカと並んで歩いていたレオナルドを指さしながら彼女に詰め寄った。レオナルドは眉をひそめて、鼻先に突きつけられた指を払いのけた。ジークはあからさまにむっとして、レオナルドを睨みつけた。
「そうよ。いいでしょう、別に」
 アンジェリカはつんとしてそう答えた。しかし、それと同時にふと疑問を感じた。ジークの口ぶりは、まるで自分が家出をしたことを知っているかのようだった。父親に聞かされたのかもしれない。だが、それならなぜレオナルドのところにいたことは知らなかったのだろう。
「良くねぇよ!」
 ジークの大きな声がアンジェリカの思考を現実に引き戻した。
「なんでよりによってコイツなんだよ! ラウルならまだわかる……いや、アイツも良くねぇが……」
 出だしの勢いはどこへいったのか、次第に歯切れ悪く口ごもっていった。アンジェリカは呆れ顔で彼を眺めていた。
 レオナルドは何かを思いつき、小さくニヤリと笑った。
「こんなやつらは放っておいて早く行こうか、アンジェリカ」
 優しさを装ってそう言いながら、アンジェリカの肩を強く引き寄せた。彼女は不意をくらい、よろけてレオナルドの胸に寄りかかる格好になった。
 ジークは目を大きく見開き、息をのんだ。言葉は出てこなかった。リックも隣で目をぱちくりさせていた。
「ふざけないで」
 アンジェリカは体勢を立て直すと、レオナルドの手を冷たく払いのけた。
 彼の小さな悪だくみはあっさりと崩れ去った。ジークに反発している今の彼女なら乗ってくるかもしれないと思ったが、にべもなく拒絶された。ジークへ精神的なダメージを与えたかったのだが、逆に自分の方が軽くダメージを受けてしまった。
 少し寂しそうな彼を残し、アンジェリカは早足で歩き出した。無表情でジークとリックの間を突っ切っていく。ふたりは慌てて彼女を追った。レオナルドもその後ろからついていった。
「きのうのこと、怒ってるんだろ」
 ジークは神妙な面持ちで、後ろから静かに声を掛けた。「きのうのこと」とは、図書室でアンジェリカを残しユールベルに会いに行ったことだ。そのときに彼女はいなくなった。だから、それが原因としか考えられなかった。わずかに見える彼女の横顔をちらりと窺う。その表情から感情は読み取れなかった。
「怒っているわけじゃないわ」
 アンジェリカは前を向いたまま答えた。小さいがはっきりとした声だった。それでもジークはその言葉を素直に受け取っていいものか迷っていた。
 彼女は淡々と話を続けた。
「ただ少しショックだっただけ。ジークのことだけじゃなくて……いろいろあったのよ」
 ジークは強く締めつけられる思いがした。
「裏切ったわけじゃない。わけを話す」
 耐えきれなくなった彼は、思わず弁解めいたことを口にした。
「いいわもう。だいたいわかったから」
「わかったって……」
 そこまで言って、ジークははっとした。眉をひそめ、嫌な顔で後ろを振り返る。
「まさかおまえが言ったのか、あのときのこと……」
 押し殺した声でそう言い、レオナルドを苦々しげに睨みつけた。ユールベルにハンカチを返しに行ったとき、レオナルドは一部始終を見ていた。そして、そのことをアンジェリカに言いかねない様子だった。自分を嫌っている彼のことだ。あることないことを吹き込み、アンジェリカと自分を引き離そうとしても不思議ではない。
「あのときのことって? レオナルドが何か知ってるの?」
 アンジェリカは足を止め振り向いた。ふたりを眺めながら、きょとんとして尋ねた。
「え?」
 今度はジークがきょとんとした。
「くっ……はっはははは! 自爆とは愚かな奴だ」
 レオナルドは空に向かい、はじけたように高笑いをした。
 彼の言うとおり自爆だった。レオナルドは何も言ってはいなかったようだ。ジークはやり場のない悔しさを抱え、歯をくいしばり耳を赤くした。目の前の嫌味な男を、ただ恨めしく睨むことしかできない。
「なんだ、逆恨みか?」
 レオナルドはせせら笑いながらジークを挑発した。斜めにあごを上げ、ニヤニヤした目を流す。ジークはこぶしをぐっと握りしめ、煮えたぎる気持ちを抑え込んだ。
「話してくれなくてもいいわよ」
 アンジェリカは無表情で言った。
「え?」
 ジークは驚いて振り返った。さっきからどうもアンジェリカの様子がおかしい。まるで自分にまったく興味がないかのようだ。もしかしたら、もう愛想をつかされてしまったのだろうか。ほんの一瞬のうちにそんな考えが頭を駆け巡った。
 アンジェリカはジークから目をそらせた。
「だいたい見当がつくもの」
 ため息まじりにそう言うと、腕を組んだ。
「どうせユールベルに振り回されたって話なんでしょう?」
 ジークは彼女がそう考えていることに驚いた。口調からして、怒りの矛先は自分ではなくユールベルに向いているようだ。何か知っているのだろうか。それともユールベルとの間に何かあったのだろうか。
「……いや、そうじゃなくてな」
 なんと説明しようか迷いつつ、口を切った。振り回されたといえばそうだが、それだけではない。だが、下手にユールベルを弁護するようなことを言っては、アンジェリカの機嫌を損ねてしまうだろう。
 アンジェリカは視線を戻し、大きな瞳を彼に向けた。何かを秘めたような真剣な表情。彼はごくりと息を呑み、言葉を失った。
「ジークのことは信じてる。それでいいじゃない」
 アンジェリカは真顔でそう言ったあと微かに笑った。そして、ジークに背中を向け、アカデミーへと駆けていった。

 夕方になり、終業を告げるベルが鳴った。
 アンジェリカは帰り支度をすると、ジークの席へと小走りで向かった。しかし、彼はだらしなく大口を開けてあくびをすると、机の上に腕を投げ出し突っ伏した。
「ずいぶん眠そうね」
 アンジェリカはこんなジークを見るのは初めてだった。彼は机の上で、再び大あくびをした。
「さっきの授業、ずっと寝てたよね。ラウルに気づかれてたよ」
 リックは彼を見下ろして笑いかけた。ジークもつられて表情を緩めた。
「まあ、あいつも今日くらいは大目に見てくれるだろ」
「今日くらいって?」
 アンジェリカはきょとんとして尋ねた。
「あ……」
 今日のジークは口を滑らせてばかりだった。リックは肩をすくめ苦笑いした。
「実は、きのう、アンジェリカがいなくなったことで大騒ぎだったんだよ。ラウルもあまり寝てないんじゃないかな。クラスメイト全部に連絡してるはずだし。ジークも責任を感じてずっと……」
「リック!」
 ジークの強い制止により、リックはそこで言葉を止めた。大まかな説明は仕方ないにしても、彼女の負担になるだけの余計な話はしてほしくない——ジークはそう思った。しかし、アンジェリカはそれだけ聞けば十分だった。
「……ごめんなさい」
 下を向き小さな声でぼそりと謝った。急にまわりからの視線が気になり始めた。落ち着かない。今すぐこの教室を出たい、そんな衝動に駆られた。
 しかし、ふたりはそのことに気がつかなかった。彼女が真摯に謝っているのだとしか思っていなかった。リックはにっこり笑いかけた。ジークも机に伏せたまま顔だけ横に向け、ほんの少し笑ってみせた。アンジェリカはとまどいながらぎこちない笑顔を作って返した。

「でもよりによってレオナルドのところだったとは思わなかったよ」
 リックは意外だということを強調するように、大げさな抑揚をつけて言った。
「ああ、でもおかしいとは思ったぜ。サイファさん、教えてくれなかったからな。アンジェリカを見つけた場所」
 ジークは体を起こし、帰り支度を始めた。教本を無造作に鞄に放り込む。
「そりゃ、言えないよね」
 そう言ってリックはくすくす笑った。ジークは何がそんなにおかしいのかと思いながらも、つられてなんとなく笑った。
 アンジェリカはその会話を聞いて、ようやく今朝の謎が解けた。家出をしたことは知っていたのに、レオナルドのところにいたことは知らなかった——。それはこういうことだったのだ。ただ、なぜサイファが黙っていたのかということまでは、彼女には理解できなかった。

「今日はちゃんと帰るんだろ」
 ジークはアンジェリカに振り向いて尋ねた。
「ええ、そのつもりよ」
 アンジェリカは鞄を後ろ手に持ちかえた。一晩の家出だけでだいぶ気は済んだ。これ以上、両親やジークたちに心配や迷惑をかけるわけにもいかない。それに、逃げたところで何も解決などしない。冷静になってそのことがよくわかった。
「送っていく」
 ジークは立ち上がり、鞄を肩に引っ掛けた。
「え? いいわよ別に。眠いんでしょう?」
 アンジェリカは少しあせったように、早口でそう言った。しかし、ジークは彼女に顔を向けると、にっと白い歯を見せた。
「またいなくなられたら、それこそ眠れねぇからな」
 アンジェリカには返す言葉がなかった。観念したようにため息をつくと、暗い声でぼそぼそと言った。
「帰る前に、寄るところがあるんだけど……」
「どこだ? 一緒に行くぜ」
 アンジェリカは上目遣いでじっとジークを見つめた。
「……ユールベルのところ」
「え?」
 ジークの笑顔が凍りついた。

「ジーク、本当についてくるわけ? ジークがいると話がしづらいんだけど……」
 アンジェリカは眉をひそめて困ったような顔を見せた。
「ひとりで行かせるわけにはいかねぇよ」
 ジークは前を向いたまま冷静にそう言った。だが、内心は穏やかではなかった。アンジェリカはともかく、ユールベルはどういう言動をとるのか読めないだけに怖い。アンジェリカの前で、また抱きつかれでもしたら、自分はどういう態度をとればいいのだろうか。考えると頭が痛くなった。
 リックも一緒なのが唯一の救いだった。いてくれるだけでありがたい。ユールベルとアンジェリカの間にひとりなど、とてもいたたまれない。ジークはすがるような気持ちで彼を見た。リックがその視線に気がつき振り向くと、ジークは慌てて目をそらせた。

 一年生の教室に着いた。授業が終わってから時間が経っているせいか、残っている生徒はもう半分以下になっていた。
 三人は戸口から覗き込んでユールベルを探した。しかし、姿は見当たらない。
「なんだ?」
 教室に残っていたレオナルドが、立ち上がって声を掛けた。
「あなたに用なんてないわよ。私が探しているのはユールベル」
 アンジェリカは目もあわさず冷たくあしらった。レオナルドはむっとして、恨めしそうな視線をジークとリックに向けた。ジークも負けじと睨み返した。
「彼女なら帰ったはずだ」
 レオナルド再び席につくと、ぶっきらぼうに言った。
 ジークは拍子抜けした。もっと嫌味を言ったり、突っかかったりしてくるかと思った。それどころか、頼んでもいないのに、彼女のことを親切に教えてくれた。素直にそれを信じていいものか疑問に思ったが、どちらにしろジークにとって嬉しい情報だった。ユールベルが帰ったと聞けば、アンジェリカもあきらめるだろう。ほっとして安堵の息をもらした。
 アンジェリカは踵を返し、玄関へと向かった。
「帰るんだな?」
 ジークの声は弾んでいた。
「居場所の見当はついているわ」
 アンジェリカはまっすぐ前を見据えて言った。そして、さらに足を速め、迷いなく進んでいった。

 三人はアカデミーの外れにある小さな礼拝堂へやってきた。ジークもリックも、ここへはほとんど来たことがない。ふたりはさびれた建物を眺めまわした。
「こんなところにいるのか? そもそもなんでそう思うんだ?」
 アンジェリカはジークの問いに答えず、無言で扉を押し開けた。
「ユールベル、いるんでしょう」
 アンジェリカの声が小さな礼拝堂の中に反響した。しかし返事はなかった。それきり静まり返った。
「いないんじゃないの?」
 リックが後ろから覗き込んで、あたりを見渡した。
「もう帰ろうぜ」
 ジークはいらついた様子で急かした。
 ——コトン。
 どこかで小さな音がした。アンジェリカに緊張が走った。
 ——ギギ……。
 いちばん後ろの長椅子から、金の髪がむくりと現れた。そして、合間からのぞく白い包帯。ユールベルだ。彼女は顔を上げ、三人を虚ろに見つめた。
「ジーク、来てくれたのね」
 ユールベルはぼうっとした調子でそう言うと、長椅子の上に立ち上がった。さらに背もたれに素足を掛けてのぼり、まっすぐに背筋を伸ばしたままつま先立ちをした。薄地の白いワンピースとウェーブを描いた金色の髪が、風を受け、緩やかに舞う。そして左から差し込むステンドグラスの光は、彼女を色とりどりに輝かせた。風が吹くたびに形を変え、きらめきを放っている。
 ——天……使……。
 そんな言葉がふとジークの脳裏をよぎった。彼はだらしなく口を開けて彼女を見上げている。リックも惚けた顔で、彼女を瞳に映している。アンジェリカだけが固唾を飲んで、ユールベルの次の行動にそなえ身構えた。
 ユールベルは目を細めてジークを見下ろすと、わずかに表情を緩めた。そして、顔を天に向け瞳を閉じると、体を伸ばしたまま、前に倒れていった。
 ジークは吸い込まれるようにそれを見ていた。しかし、彼女の足が背もたれから離れたのを目にすると、はっと我にかえった。
「危ねぇ!」
 ジークは彼女の落下地点に滑り込み、ぎりぎりで彼女を受け止めた。冷たい床の上でふたりは重なった。
「げほっ」
 ジークは苦しそうにむせた。
「ジーク!」
 アンジェリカとリックが同時に叫び、駆け寄った。
「な……なんでもねぇ。ちょっと打っただけだ」
 ジークはまだ苦しそうに顔をしかめ、つぶれた声で言った。
 ユールベルは彼の胸の上で肩を震わせくすくすと小さく笑っていた。そして、かぼそい指を彼の頬に這わせ、小さな声でささやいた。
「あなたなら、助けてくれると思った」
 喉元にかかる熱い息、鼻をくすぐる甘い匂い。平静を装ってはいたが、耳元が紅潮していくのは止められなかった。
「ユールベル、あなたどういうつもり?!」
 アンジェリカは耐えかねて叫んだ。しかし、ユールベルは答えなかった。
 ジークはユールベルを抱きかかえながら体を起こして座った。そして、小さく息をつくと、脚の上の彼女をそこから下ろそうとした。しかし、彼女はジークの背中に手をまわし、離してはくれなかった。彼はそれを振り切るほど非情にはなれなかった。
「あ……あのな……」
 そんな困りきった弱々しい声をもらすのが精一杯だった。
「あなたに用があってここに来たのは私よ」
 アンジェリカは今度は冷静に言った。腕を組み、ユールベルを冷たく見下ろした。
 ユールベルはジークの肩ごしにアンジェリカを見上げて、うっすらと不敵に笑った。アンジェリカは一気にカッと頭に血が上った。組んだ腕の中で強くこぶしを握りしめ、きゅっと下くちびるを噛んだ。
 ジークは背中に妙な空気を感じ、冷や汗がにじんできた。
「あのな、ユールベル……」
 彼は再びそう切り出した。だが、彼女はまわした手の力をよりいっそう強めた。無言の返事。ジークは言葉を続けられなかった。
「ユールベル、私の話を聞いて」
 アンジェリカは低く抑えた声で言った。しかし、そこからは隠しきれない苛立たしさがにじんでいた。
「聞いているわよ」
 ユールベルはジークに寄りかかったまま返事をした。その声はどこか愉しげで、まるで挑発しているかのようだった。
 アンジェリカは軽く目を閉じため息をついた。それからゆっくりとまぶたを上げ、強いまなざしをユールベルに向けた。
「私と対戦してほしいの、VRMで」
 ユールベルの瞳に鈍い光が宿った。
「た……対戦?!」
「なに言ってんだおまえ!」
 リックとジークは驚いた声をあげながら、アンジェリカに振り向いた。

 VRM(ヴァーチャル・リアリティ・マシン)は仮想空間を作り出し、そこへ現実世界の人間を投影させる機械である。神経信号を読みとり仮想空間に即時に反映させる。また、仮想空間で受けた刺激は、そのまま神経信号として脳に送られる。それにより触覚も痛覚もリアルに感じることができるのだ。以前、アンジェリカとジークが戦ったとき、許容を超える信号によりジークが失神するという事件があった。ヴァーチャルとはいえ危険な代物であることは間違いない。

 ユールベルは動じていなかった。
「目的は何?」
 彼女がそう言うと同時に突風が吹き込み、アンジェリカの髪を後ろからさらさらと舞い上がらせた。そして、スカートのはためく音があたりに広がった。やがて風がやみ、もとの静けさを取り戻すと、アンジェリカはゆっくりと口を開いた。
「私が勝ったら……昔、私たちの間に起こったことを教えて」
 その真剣なまなざしに、ユールベルは意味ありげな笑顔を返した。
「私におじさまとの約束を破れというの?」
「ええ。あなたも相応の望みを出してくれていいわ」
 アンジェリカは負けじと強気な態度を示した。
「そうね……」
 ユールベルはそう言いながら、アンジェリカの反応を愉しむかのようにもったいつけた。
「私は……ジークをもらうわ」
 彼の肩に口を押し当て、上目遣いでアンジェリカを見つめた。明らかにアンジェリカを挑発している。
 しかし、アンジェリカは冷静だった。その挑発にはのらなかった。
「ジークは関係ないでしょう。他のことにして」
 あきれたと言わんばかりに、わざと大きくため息をついて見せた。だが、ユールベルは引かなかった。
「関係あるかどうかなんて知ったことじゃない。ジークがほしい、ただそれだけ。他の条件では受けないわよ。どうするの?」
 アンジェリカはきゅっと口を結び、難しい顔で考え込んだ。そして、ひとつの結論を出した。
「……わかったわ」
「おい! 『わかったわ』って何だよ! 俺の意思はどうなるんだ!!」
 ジークは振り返り、焦って大声でまくしたてた。彼女がそんな条件を受けるとは微塵も思わなかった。驚くと同時にどこか寂しい気持ちになった。
「悪いけどジーク、条件をのんで。絶対に私が勝つから」
 強い意志を秘めた瞳をまっすぐジークに向ける。彼は困ったように目をそらせた。
「随分な自信ね。私のことなんて何も知らないのに」
 ユールベルは冷たい笑顔を浮かべた。しかし、アンジェリカは眉ひとつ動かさなかった。
「あなたがどんな力を持っていようと私が勝つ。それだけよ」
 自らに言い聞かせるようにその言葉を噛みしめると、ユールベルをじっと見下ろした。
「待てよ。俺は取引の道具に使われるなんてゴメンだぜ。俺にはなんのメリットもねぇしな!」
 ジークはやってられないとばかりに、床に手をついて上を向き、投げやり口調で言った。アンジェリカは一瞬きょとんとして、それから緩く頷きながら考え込んだ。
「じゃあこうするわ。私が勝ったら、何でもひとつジークの言うことをきく。それでどう?」
「そんなの不公平よ」
 ユールベルは間髪入れずにアンジェリカのあとに続けた。そして、ジークに顔を近づけた。
「私が勝ったら、私がジークの願いをかなえるわ」
「お、おまえらに頼みたいことなんてなんもねーよ!」
 ジークはユールベルから逃れるように体を後ろにそらせた。
「……お願い、ジーク」
 今までとは違うアンジェリカの弱々しい声。ジークは思わず振り向いた。
「私、どうしても自分の過去を知りたいの。なくした記憶を埋めたいの」
 思いつめた表情、泣きそうな声、哀願する瞳。こんなものを見せられては拒否することなどできない。どうすればいい……。ジークはくちびるを噛みしめた。
「あの、取り込み中、悪いんだけど」
 リックが遠慮がちに口をはさんできた。
「大事なことを忘れてない? VRMでの人間と人間の対戦はもう禁止されてるんだよ」
 リックの言うとおりだった。アンジェリカとジークの一件が原因なのかはわからないが、それからしばらくして通達が出た。VRMの使用は対プログラム(仮想人間)のみに限定するというものだ。
 アンジェリカはそれを忘れていたわけではなかった。
「ラウルに頼めばなんとかなるわ」
 彼女はしれっとして言った。
「ならなかったら?」
「……そのときは、そのときよ」
 何か、彼女には思うところがありそうだった。リックの心に不安が広がった。
「いいわね、そういうことで」
 アンジェリカはユールベルとジークに向き直り、強く念押しした。ユールベルは返事の代わりに挑戦的な笑みを返した。ジークは相変わらず困り顔で返答に迷っていた。
「それじゃ、ユールベル」
 アンジェリカは冷たく無表情にそう言うと、背を向け外へと出ていった。
 リックはジークに目配せした。ジークは我にかえり、脚の上のユールベルを下ろそうとした。それを察知した彼女はまた腕を伸ばしてきたが、今度はそれを阻止した。
「悪いな」
 短くそう言うと、さっと立ち上がり、リックと連れ立って走り去った。
 ユールベルはオレンジ色に照らされたジークの後ろ姿を無言で見送った。

 ザッ、ザッと砂を踏みしめながら、三人は校庭を横切り門へと向かう。空は赤く染まり、三つの長い影を地面に映し出していた。
「本気……なんだよね?」
 リックは横からアンジェリカを覗き込みながら、おそるおそる尋ねた。
「もちろんよ」
 彼女は前を向いたまま、きっぱりと言い放った。
「おっまえなぁ……。どうしてくれるんだよ。意味わかってねぇんだろ。ユールベ……」
「ジークをひとりじめにしたいってことでしょう? まったく子供じみたことを言ってくれるわ」
 アンジェリカはジークの言葉を遮り、やや感情的にまくしたてた。
「……まぁ……そう……だな」
 歯切れ悪く、ジークはあいまいな返事をした。彼女の考えはどこかずれているような気がしたが、それを指摘するだけの確信が、彼の側にもなかった。ユールベルが何を考えているか、それは彼女自身にしかわからないことだ。
「だいたいジークがついてきたから、ややこしいことになったんじゃない」
 アンジェリカはおさまらない怒りの矛先をジークに向けた。
「俺が悪いってのかよ!!」
「私にはこんなにえらそうなのに、どうしてユールベルには強気に出ないのよ」
「そ……そんなことねぇだろ!」
「自覚がないわけ?!」
「関係ねーだろ!!」
 リックは隣であきれたように苦笑いしていた。このくらいの言い合いは日常茶飯事である。そして、こんなことではふたりの絆は壊れないということを、リックはわかっていた。
 ひとしきり言い合いをしたあとで、アンジェリカは思いついたように、小さく「あっ」と声をもらした。
「お父さんやお母さんには言わないでよね」
 ジーク、そしてリックへと、念を押すように視線を送った。
「さあな。サイファさんに問いつめられたらしゃべっちまうぜ、俺は」
 ジークは頭の後ろで手を組んで、空を見上げた。
「僕たちが黙ってても、ラウルが黙ってないと思うよ。頼むんでしょ? VRMのこと」
 リックはアンジェリカの横顔を見つめた。
「もちろんラウルには口止めするわ。何がなんでもね」
 強い決意を秘めた表情。それを見たふたりは、もう彼女を止めることはできない、そう思った。
 ジークの心には不安が渦巻いていた。戦い自体はもちろんだが、それ以上に彼女の望みが心配だった。サイファが過去のことをひた隠しにしているのは、アンジェリカのことを思ってのことだろう。それを彼女が知ってしまうのは、果たして彼女のためになるのだろうか。だからといって彼女の負けを望むわけにはいかない。
「大丈夫よ、ジーク。絶対に勝つから。私を信じて」
 アンジェリカはジークを見上げてにっこり笑った。
「……ああ」
 ジークは複雑な顔でそう返事をすることしかできなかった。


41. 迷走

「どうして?!」
 アンジェリカはそう叫んで一歩前へ踏み出した。
「当たり前だ。そう決まっている」
 ラウルは彼女を見ようともせず、机に向かったまま書類にペンを走らせていた。窓からの赤みがかった光が、彼の端整な横顔を照らす。何の感情もない表情。ユールベルは眉をひそめた。その後ろで、ジークとリックは曇った顔を見合わせた。
 しかし、アンジェリカは、これくらいでは諦めなかった。
「そんなのわかっているわよ。だからラウルにお願いしているの」
 強い視線を向け、強い口調で食い下がる。ラウルは横目で彼女を一瞥すると、あきれたようにため息をついた。
「おまえたち親子は、よほど私をクビにしたいらしいな」
「ラウルならうまくやってくれるって信じているわ」
 アンジェリカはにっこりと満面の笑みを浮かべた。ラウルの手が止まった。机に向かったまま、再び小さくため息をついた。
「サイファに似てきたな」
 アンジェリカはきょとんとして瞬きをした。だが、再びにっこりと笑って、照れたように肩をすくめた。
「使わせてくれるわよね、VRM」
 彼女の口調は、ほとんど確信しているかのようだった。だが、ラウルの返答によって、その確信はあっさりと打ち砕かれた。
「駄目だ」
 彼は迷いなくきっぱりと言い放った。
 アンジェリカは口をとがらせ、不満げに彼を睨みつけた。しかし、やがてその瞳は決意を秘めた鋭いものへと変わっていった。
「だったらリアルで戦うまでよ」
「リアルって、おまえ何いってんだ!」
 後ろからジークがうろたえながら叫んだ。リックも同様に驚き、大きく見開いた目を彼女に向けた。ユールベルは少しうつむいて、不敵にふっと笑った。
 しかし、肝心のラウルは何の反応も示さなかった。アンジェリカは彼を覗き込むと、さらに畳み掛けた。
「私は本気よ。どちらかが死ぬかもしれないわ」
 冷静に、重々しく言葉をつなげた。
「いいのね?」
 それでもラウルが動じることはなかった。
「私には関係のないことだ」
 冷たく突き放した言葉。机に向かったまま、アンジェリカに視線を向けもしない。
 アンジェリカは目を閉じ、唇をかみしめた。
「わかったわ」
 かすかに揺らぐ声。抑え込んだ怒りがにじんでいる。彼女はくるりと背を向けると、ジークとリックの間をすり抜け、大股で戸口へと歩いていった。引き戸を怒りまかせにガシャンと開け、そのまま医務室をあとにした。
 ユールベルもそのあとに続き、静かに外へと出ていった。
 ジークはけわしい目つきで、ラウルをじっと睨んでいた。
「おい、アンジェリカは本気だぜ」
 低く、静かな声でうなった。
「おまえに言われなくてもわかっている」
 ラウルは相変わらず書類に向かったまま、そっけなく答えた。
「だったらなんとかしろよ!」
 ジークはそう言うと同時に、机にこぶしを叩きつけた。ゴッ、とスチールの机が鈍い音を立てる。机との接点から腕へと一気に痺れが駆け抜けた。ジークの目にうっすら涙が浮かんだ。しかし、歯を食いしばり必死でこらえた。ここで痛がっては格好がつかない。
 ラウルはゆっくり腕から顔へとジークを見上げた。彼は怒りと痛みをすべて瞳に込め、まっすぐにぶつけてきていた。ラウルも逃げることなく、鋭く凍りつくような視線を返した。
「おまえは他人に頼るだけか」
 ジークはカッと頭に血が上った。
「見損なったぜ!」
「それは元からだろう」
 ラウルの冷静な態度と反比例するかのように、ジークはますます熱を帯びていった。
「今までよりもっと見損なったってことだ!!」
 大声でそう叫び、足早に医務室を飛び出した。
「ジーク!!」
 リックは慌てて彼のあとを追っていった。
「待ってよ、ジーク!」
 ジークはリックの呼びかけを無視し、逃げるように足を進めた。彼には自らの逆上の理由がわかっていた。もちろんラウルは腹立たしい。しかし、それ以上に、何も出来ない自分自身に腹を立てているのだ。ラウルの指摘でそのことに気づかされたことが、さらに許せなかった。奥歯をかみしめ、爪が食い込むほどにこぶしを握りしめる。
「アンジェリカとユールベルがどこへ行ったかわかってるの?!」
「……あ」
 背後からのリックの問いかけに、ジークははっとして足を止めた。

 アンジェリカとユールベルは並んで廊下を歩いていた。
「リアルでの戦いに変更するけど、異存はないわね」
 アンジェリカは前を向いたまま、はっきりとした声で尋ねた。
「ヴァーチャルでは物足りないと思っていたくらいよ」
 ユールベルは目を細め、遠くを見つめると小さく笑った。
「いつのまにか、ずいぶん笑うようになったじゃない」
 隣の彼女をちらりと盗み見ると、アンジェリカはつんとして言った。しかし、ユールベルはにっこりと顔いっぱいで笑ってみせた。
「ジークのおかげよ」
 アンジェリカは目を見開いて足を止めた。動けなかった。言葉が出なかった。
 ユールベルも少し先で足を止め、振り返った。そのときにはすでにいつもの冷たい顔に戻っていた。
「だから、私にはジークが必要なの」
 淡々とそう言うと、再び前を向いて歩き出した。
 アンジェリカの額には生ぬるい汗がにじんでいた。

 渡り廊下を歩ききると、白い立方体状の建物に辿り着いた。側面に窓はなく、一面コンクリートで覆われている。
 アンジェリカは白い扉にかけられた古びた南京錠を手にとった。小さく呪文を唱える。手の内側が光り、一瞬でその錠は砕け落ちた。
 重量感のある両開きの扉を、アンジェリカ、ユールベルが片方づつ手にとり、ゆっくりと開いた。さらに内扉を押し開くと、まぶしいくらいの真っ白な空間があらわれた。白い壁、白い床、白い天井、それ以外は何もない。
「この道場なら心置きなく戦えるでしょう」
「そうね」
 道場と呼ばれたこの建物は内側に強い結界が張ってあり、魔導の力が外にもれない仕組みになっている。また、そもそもが特別に丈夫に作られているため、物理的な力にも極めて強いという特性も持ち合わせている。まさに道場と呼ぶにふさわしい建物なのだ。
 だがここは、教師の監視下でなければ使用してはならない。アンジェリカとユールベルも当然そのことは知っていた。しかし、今の彼女たちには、そのような規則を気にかける余裕などなかった。
「決着は、降参かテンカウントでどう?」
 アンジェリカはまっすぐユールベルを見据えた。彼女は頭の後ろで包帯を固結びにしながら、けだるく答えた。
「誰がカウントをとるの? それに降参する気なんてないでしょう?」
「気絶するか、死ぬまでね」
 アンジェリカはユールベルの言葉に被せるように訂正した。ユールベルは口端を上げ、挑むような目を向けた。

 ガタン!
 大きな音を立て、内扉が弾けるように開いた。
「やっぱりここか!」
 ジークは入り口でけつまづきながら、慌ててアンジェリカに駆け寄った。そして、彼女の両手首をきつく掴み上げると、覆いかぶさるように顔を近づけにじり寄った。
「なによ!」
 アンジェリカは手を振り払おうと力を入れたがびくともしない。視線を上げると、ぶつかりそうなくらい近くに、ジークのけわしい顔があった。
「俺が認めるのは VRMまでだ。現実世界での決闘なんて絶対やらせねぇ。力づくでも止めてやる」
 アンジェリカは大きな瞳を見開き、顔を上げ首を伸ばした。お互いのひたいが髪の毛ごしに触れ合った。ジークは少し身をひいた。
「ジークに止められる?」
 静かだが凛とした声。そして冷たく鋭い表情。ジークの背中に痺れが走った。その一瞬をつかれ、アンジェリカに手を振りほどかれた。彼女は手が放れると素早く後方に飛び退き、ジークから離れた。
「始めるわよ、ユールベル!」
 ユールベルはその声に呼応するかのように、両手を高々と上げ、呪文を紡ぎ始めた。それとほぼ同時に、アンジェリカも両手を前方に突き出し、口を開いた。
「くそっ!」
 ジークは短く叫ぶと、早口で呪文を唱え始めた。
「ちょっと、三人とも!」
 もはやリックに為すすべはなかった。ただそう叫ぶのが精一杯だった。
 三つ巴の戦いが始まる——。
 緊張が高まったその瞬間、三人はそれぞれ呪文をフェードアウトさせた。静寂があたりに広がる。怪訝な表情で、かわるがわる視線を合わせた。リックの制止を受け入れたわけではなさそうだった。
「どうしたの?」
 リックは後ろからおそるおそるジークに声を掛けた。
「……全然、使えねぇんだ、魔導の力が」
 ジークはわけがわからないといった様子で手のひらを見つめ、ひたすら首を傾げていた。
「どうやらこの空間は魔導を無効化するみたいね」
 アンジェリカがまわりを大きく見渡しながら、ジークとリックの元に戻ってきた。
「そんなことできんのかよ」
 ジークは眉をひそめた。
「実際ここがそうなんだから、できるんでしょうね。すべての魔導を無効にするなんて、ただのおとぎ話かと思っていたけど……」
「食えない男ね」
 ユールベルもそう言いながら、ジークたちのところへ歩いてきた。
「え?」
 アンジェリカが振り向いた。
「こんなことができるのはラウルくらいよ。どうりで落ち着きはらっていたわけだわ」
 ユールベルの声は淡々としていたが、どこか楽しんでいるかのようにも聞こえた。
 ジークは、ラウルの態度と言葉を思い出すにつけ、ふつふつと怒りが沸き上がってきた。
「あいつ……ふざけやがって……。ホントに食えねえヤツだぜ」
 うつむいて歯ぎしりをしながら小さくうなり、こぶしを強く握りしめた。
「どうするの?」
 ユールベルは腕を組み、アンジェリカに向き直った。
「とりあえず、ここを出ましょう。なんだか落ち着かないわ」
 アンジェリカはひじを抱え、肩をすくめた。
「もう決闘はあきらめた方がいいんじゃない?」
 リックが後ろから声を掛けた。しかし、ふたりの少女は彼を一瞥しただけで、扉に向かって歩き始めた。彼の寂しげな背中に、ジークはため息をつきながら手を置いた。

 空は道場に入る前より赤みを増していた。ジークとリックは顔を上げ、大きく腕を伸ばし深呼吸した。しかし、アンジェリカとユールベルは、気を緩めることなく話し始めた。
「結界なんかなくても外で戦えばいいでしょう。他に被害が及ぶことを恐れているわけ?」
「すぐにばれるからダメね。あっさり止められて、こってりお説教よ」
「じゃあ、やっぱり VRMしかないのかしら」
「ええ」
 ふたりの意見が一致したところで、そろって足を踏み出した。その後ろを、ジークとリックはついて歩いた。

 四人はヴァーチャルマシンルームにやってきた。対戦用ではない、通常の VRMがずらりと並んでいる。そのうちいくつかはコクピットが閉じられ、実際に作動しているようだった。
 その部屋を突っ切り、奥の古びた扉へと足を進めた。この向こう側に、対戦用 VRMが置かれている。
「当たり前だけど、鍵がかかってるよ」
 リックはそう言ったあとで、道場の壊されていた鍵を思い出した。嫌な予感がした。だが、止める間もなくユールベルが呪文を唱え、鍵を砕いてしまった。壊れた鍵を床に落とし、ぽつりと言った。
「これでおあいこね」
「え……ああ」
 アンジェリカは生返事をした。おそらくはアンジェリカが道場の鍵を壊したことに対して言っているのだろうとは思ったが、彼女にはユールベルがそんなことにこだわる理由がよくわからなかった。
 ギィ——。
 アンジェリカはそろりと扉を開いた。そのとたん、顔をしかめて激しく咳き込んだ。他の三人も思わず後ずさりをした。
 その部屋が長い間使われていないことは一目瞭然だった。つんとカビくさい匂い、床やマシンを覆うほこり、天井からぶら下がる蜘蛛の巣の残骸、虫の死骸……。部屋の中央に置かれているふたつのコクピットは、まるで骨董品のように見える。
「一年も経ってねぇのにこれかよ! いくらなんでもたまりすぎだろ、ほこり!」
 ジークはやけになり、勢いよくどかどかと踏み入った。足を下ろすたび、白いものが床から舞い上がった。
「ジーク、やめてよ!」
 アンジェリカは両手で鼻と口をふさぎ、眉根にしわをよせた。窓のないこの部屋では、簡単に換気もできない。
 ジーク以外の三人も、彼に続きこわごわと部屋に入っていった。アンジェリカはずっと口をふさいだままである。目にはうっすら涙さえ浮かんでいた。
「本当に動くのかよ。腐ってんじゃねぇのか?」
 ジークはコクピットの外側をバンと平手打ちした。すると再びあたりにほこりが舞い上がった。アンジェリカは無言で彼をうらめしそうに睨んだ。
 ユールベルはふたつのコクピットのまわりを、ゆっくりとまわって観察していた。
「このコードをここにさして、そっちのコードはそこ」
 指をさしながら、誰にともなく指示を送る。しかし、誰も反応しない。ジークとリックはゆっくり顔を見合わせると、同時にため息をついた。ふたりはしぶしぶしゃがみこみ、言われたとおり配線していった。ほこりだらけの床に這いつくばっての作業で、手もひざも白く汚れてしまった。
「ふたつのコクピットをつなげるメインケーブルがないんじゃない?」
 アンジェリカが口を手で覆いながら、コクピットの下方を覗き込んで言った。
「どこかにあるはずよ、探して」
 ユールベルは腕を組み、命令口調で言った。
「はいはい」
 ジークは投げやりに答えた。コクピットの下に手を伸ばしまさぐる。
「これ、そうかなぁ」
 ジークの反対側で、リックが声を上げた。彼が掲げた手には丸めた太いケーブルが握られていた。
「ちょっと切れてるみたいだけど」
 彼の言うとおり、被覆部が破れ導線がむき出しになり、切れかかっている部分がある。アンジェリカはコネクタ部分を手にとり、コクピットのそれと見比べた。
「形状的にはピッタリね。他にないならこれでやってみましょう」
「大丈夫なのかよ」
 ジークは文句を言いながらもケーブルを受け取り、リックとともにふたつのコクピットに差し込んでいった。
「いいかしら?」
 ユールベルが確認をとり、電源ボタンに手を伸ばした。

「そのボタンを押したら爆発するぞ」
「ラウル?!」
 戸口から腕組みをしたラウルがあらわれた。
「あれで諦めるわけはないと思ったが」
「だったら協力して!」
 アンジェリカはラウルへと駆け寄った。
「これ以上、物を壊されても困るからな」
 ラウルは足元の砕けた南京錠に目を落とした。
「じゃあ!」
 アンジェリカはぱっと顔を輝かせた。
「メインケーブルは私の部屋にある」
「部屋のどこ?!」
 アンジェリカはすぐにでも飛び出していきそうな勢いで、返事を急かした。
「私がとってくる」
 ラウルはアンジェリカの肩に手を置き、落ち着かせた。そして、奥にいる、ほこりまみれのジークに目を移した。
「その間にここをなんとかしておけ」
「なんとかって、どうすんだよ」
 ジークは彼を睨みつけながら、いつもの調子で食ってかかった。ラウルは涼しい顔で廊下を指さした。
「清掃道具はあっちだ」

 ラウルが出ていったあと、四人は言われたとおり素直に掃除を始めた。ユールベルとアンジェリカがほうきで掃き、ジークとリックはぞうきんがけをする。
「なんか、うまくこき使われてるような気がする……」
 ジークは納得がいかない表情で、ぶつぶつと独り言を口にした。
「文句を言ってないで手を動かしてよ。ラウルの機嫌を損ねたら終わりなんだから」
 アンジェリカにたしなめられると、ムッとして、むきになって床を拭き始めた。そんな彼の様子をリックはにこにこ笑いながら見ていた。
「いいんじゃないの? 掃除くらい」
「俺はあいつのやり方が気にいらねぇんだよ!」
 ジークはぞうきんを持つ手に怒りを込め、ますます勢いよく拭いていった。

 アンジェリカとユールベルは、ほうきをぞうきんに持ち替えた。アンジェリカは右側の、ユールベルは左側のコクピット内部を拭き始めた。
 ここが自分の戦場になる——。アンジェリカは手に力を込めた。
 ふいに顔を上げると、コクピットの向こう側のユールベルと目が合った。彼女は何も言わなかったが、負けないという強い意志がその瞳から感じられた。しかし、アンジェリカも負けるわけにはいかない。その思いを瞳に込め、強い視線を返した。

 扉を開けラウルが入ってきた。ケーブルとキーボード、そしてヘッドセットを小脇に抱えている。
「てめぇ、わざとのんびりしてたんじゃねぇだろうな!」
 ジークは黒く汚れたぞうきんを握りしめて立ち上がった。
「まだ隅の方にほこりが残っているぞ」
 ラウルは彼に顔を向けることなく、まっすぐ正面の VRMへ向かった。ジークはラウルの背中を睨みつけた。
「しばらく調整をする。その間、掃除を続けていろ」
 ラウルはメインケーブルを繋ぎ替え、電源を入れた。キーボードを本体に繋ぎ、軽快にキーを叩く。前方の大型ディスプレイに、見たこともない画面があらわれた。ラウルの指に連動して画面に文字が表示され、ウィンドウが次々と開いては閉じていった。
「見てないで手を動かせ」
 ラウルはディスプレイを見たままで、後ろの四人に言った。四人は慌てて掃除を再開した。
 狭い部屋にカタカタとキーボードの音が響く。
「完了だ」
「本当?!」
 アンジェリカはぞうきんを間に両手を組んだ。
「対戦は私のルールに従ってもらう。それが条件だ」
 ラウルはアンジェリカに振り向き、無表情でそう言った。彼女はあごを引き、表情を引き締めた。ユールベルも後ろでじっと彼を見つめていた。
 ラウルは言葉を続けた。
「決着がつくのは以下の三つのとき」
 リックは張りつめた空気を感じ、ごくりと喉を鳴らした。
「一つ目は、どちらかが降参の意思を示したとき。二つ目はスリーカウントダウン。カウントは私がとる。三つ目はリミッターが働いたとき」
 ユールベルの眉がぴくりと動いた。
 VRMでは仮想空間で受けた刺激を、神経信号として脳に送る仕組みになっている。リミッターは制限値を超える信号がきたときに、超過分をカットする役割を担う。すなわち、一度の攻撃で強いダメージを受け、この装置が働いたとき負けとするというのが、ラウルのルールだった。
「制限値はどのくらいにセットしてあるの?」
 ユールベルは上目遣いでラウルを睨んだ。ラウルは彼女の視線を真正面から受け止めた。
「適正値だ。現実世界で受ければ間違いなく意識をなくす」
 その回答を聞きしばらく考えていたが、やがて彼女は強気な微笑みを浮かべた。
「リミッターなんて納得いかないけど、仕方ないわね」
 そう言って、アンジェリカに振り向いた。
「私もそれでいいわ」
 アンジェリカはラウルを見上げて、真剣な表情を見せた。
「よし、準備だ」
 ラウルの声を合図に、ふたりはコクピットに乗り込んだ。
 ジークはアンジェリカのコクピットに駆け寄った。
「頑張れよ! アンジェリカ!」
 白い歯を見せ、ガッツポーズを送る。アンジェリカも勝ち気な笑顔でガッツポーズを作り、ジークのこぶしとコツンと合わせた。
 ユールベルは隣のコクピットからその様子をじっと見ていた。無表情でただ見つめるだけ。リックにはそれが無性に悲しく映った。しかし、彼女に「頑張って」などと声をかけるわけにもいかない。彼は、ただ見送ることしか出来なかった。
 コクピットのふたが閉まり、ディスプレイにふたりの姿が映し出された。ラウルはヘッドセットを手にとった。
「ラウル……。それ、もうひとつないのか?」
 ジークはめずらしく穏やかに尋ねた。
「ない」
 ラウルはそっけなく返事をすると、ヘッドセットを装着した。仮想空間への音声入出力ができるのは、このヘッドセットだけである。ジークは諦めずにしつこく詰め寄った。
「せめて外部スピーカーとかねぇのか?」
「ない」
 再びそっけない返事。ジークは目の前の大きな背中を、突き刺さんばかりに睨みつけた。
 ラウルはヘッドセットのマイクを口元に固定した。
「始め!」
 短い掛け声が狭い部屋に響いた。ジークとリックは息を呑み、複雑な気持ちで大きなディスプレイを見上げた。


42. 騙し合い、そして

「始め!」
 ラウルのその声と同時に、アンジェリカとユールベルは距離をとって身構えた。白い空に果てなく広がる薄茶色の地面。他には何もない。

 ユールベルは短く呪文を唱えると、両手を揃えて前に突き出した。手のひらが白く光り、そこから頭くらいの大きさの光球が飛び出した。アンジェリカは後ろに飛びのきながら、両手を前へと伸ばし、同じ呪文で応戦した。
 ——ドン!
 ふたりの真ん中で、互いの光球がぶつかった。爆発が起こったかのように、あたり一面を白い光が飲み込んだ。
 その光に乗じて、アンジェリカは素早くユールベルの後ろに回り込んだ。気を集中させると、小さな声で長い呪文を唱え始めた。ユールベルはまだ無防備な背中を見せている。
 ——勝てる!
 アンジェリカがそう思ったとき、ユールベルは左脇下から右手を突き出し、白い光を放射した。後ろ向きだったにもかかわらず、その光は少しのずれもなくまっすぐ目標へと突き進んだ。思いがけない攻撃に、呪文詠唱中だったアンジェリカは反応が遅れた。とっさに結界を張ることができなかった。両腕で身をかばったが、体ごとはじきとばされ宙を舞った。数メートル後方の地面に背中から叩きつけられると、そこからさらに数メートル、砂ぼこりを巻き上げながら滑っていった。アンジェリカの顔が苦痛に歪んだ。
「ワン、ツー」
 ラウルはすかさずカウントを取り始めた。
「おいっ!」
 彼女に聞こえないとは知りつつも、ジークは思わず声を上げた。
 ラウルが三つ目のカウントを口にするより早く、アンジェリカは勢いよく飛び起きた。そして、その勢いのまま即座に反撃をしかけた。しかし、ユールベルは余裕だった。予測していたかのように、青白く光る結界を張り、向かってくる赤い炎を消滅させた。
 アンジェリカに驚きと焦りの色が浮かんだ。まだしびれる左腕を押さえながら、息を荒くしていた。

「なに押されてんだよ、おまえ!」
 ジークはディスプレイに向かってわめき立てた。だが、もちろん彼女には届かない。
「スリーカウントなんて短すぎるじゃねえか!」
 今度はラウルに食ってかかった。しかし、ラウルはディスプレイに目を向けたままで、ジークのことなど完全に無視していた。
「ユールベル、かなり手強そうだね」
 リックはなぜか声をひそめてジークに近寄った。
「ああ……。アンジェリカの行動がまるきり読まれているみたいだったぜ」
「うん、頭が良さそうだし、耳もいいんだろうね」
 ふたりの口から出た言葉は、さらに自分たちを不安の深みへと落とし入れた。ジークは下唇を噛みしめ、祈るような気持ちでディスプレイを見上げた。
「俺はまだ、信じてるぜ」
 その言葉はリックに向けられたものであり、アンジェリカに向けられたものであり、同時にジーク自身に言い聞かせるものでもあった。

 ユールベルは青白い光に守られたまま、その内側で呪文を唱え始めた。指先までピンと伸ばした左手をまっすぐアンジェリカに向け、右手は大きく弧を描きながら後方へと引いた。
 あれは——。
 アンジェリカはピンときた。ユールベルの声は聞き取れなかったが、彼女のポーズには見覚えがある。アンジェリカもすぐに呪文を唱え始めた。両手を上空に向け、高々と掲げる。静かな緊迫感が一面に張りつめた。ジークもリックも、ディスプレイを見上げながら固唾を飲んだ。
 先に唱え終わったのはアンジェリカだった。掲げた手の上に集めた魔導の力を、ゆっくりとユールベルに向け、勢いよく放った。白い帯がすさまじい速度で伸びる。だが彼女に届く一歩手前で結界にはじきとばされた。しかし、同時に結界も消滅した。
 ユールベルは右目を見開き、明らかに驚きの表情を見せた。それでも呪文の詠唱を止めることはなかった。
 アンジェリカはもう次の呪文の詠唱に入っていた。今度はさらに短い呪文だった。またしてもユールベルより早く唱え終わり、再び彼女に向けて放った。
 しかし、どういうわけかユールベルはよけようとも防ごうともせず、目を閉じ呪文を唱え続けていた。白い光球が彼女に迫る。それでも動かない。ついに無防備な状態のユールベルに直撃した。白い光に飲み込まれ、はじきとばされるのが見えた。が、それと同時に砂ぼこりが巻き上がり、その後の彼女の姿は見えなくなった。だが直撃したことは間違いない。防ぐこともなくまともに受けたのでは、無事であるはずはない。アンジェリカは目を凝らして、砂ぼこりの奥を見つめた。
 薄曇りの向こう側で、何かが光った。
 ——何?
 アンジェリカが目を細めたその瞬間。薄茶色に濁った空間から、彼女の胸を目がけ、白い光の矢が飛び出してきた。とっさに上体をねじり、間一髪でかわした。——かに見えたが、完全にはよけきれず、白い閃光は彼女の左肩をかすめていった。
「ぅうああぁあーーー!!!」
 アンジェリカは絞り出すような悲鳴を上げ、肩を押さえてうずくまった。

「アンジェリカ!!」
 ジークとリックは同時に叫んだ。ふたりの顔から一気に血の気が引いていった。彼らにアンジェリカの声は聞こえない。しかし、彼女の表情や様子を見ているだけで、つんざくような叫び声が聞こえてくるようだった。
 ジークは居ても立ってもいられず、後ろからラウルに突進し、ヘッドセットに手を伸ばした。どうにかしてアンジェリカに声を届かせたい、その一心だった。しかし、あと少しというところで、ラウルのひじがジークのみぞおちにめり込んだ。
「うっ……」
 ジークは冷や汗をにじませうずくまった。ラウルに一撃をくらわされたところを押さえ、歯を食いしばる。
「おとなしく見ていろ」
 ラウルはディスプレイに目を向けたまま、振り返ることもなく、冷たく言い放った。
「大丈夫?」
 リックはジークを心配そうに覗き込み、彼の背中に手を置いた。ジークはリックの顔を目にすると、徐々に落ち着きを取り戻した。
「俺よりもアンジェリカだ。やばいかもしれねぇな」
 ジークは声をひそめた。リックは重々しくうつむいた。
「アンジェリカの攻撃をまともに受けて、それでも呪文を唱え続けるなんて、普通できないよ。それにユールベルのあの呪文て……」
「通常レベルの結界なら簡単に貫くほど強大な威力はあるが、その分、バカ長い呪文と、半端ねぇ集中力と、強大な魔導力に耐えられるだけの身体がいるとかいう、あんまり使えねぇヤツだな」
 ジークは言葉にすればするほど絶望が近づいてくるように感じ、それ以上は何も言えなくなった。リックも同じように感じたのか、口をつぐんで黙りこくってしまった。ジークはみぞおちを押さえながら立ち上がり、再びディスプレイを見上げた。

 砂ぼこりがおさまり、ユールベルの姿が次第にあらわになった。彼女もまったく平気というわけではなさそうだった。足元はふらつき、息もあらい。
 ユールベルはこわばった表情で、茶色い靄にうっすらと浮かんだ人影をじっと見つめた。それがアンジェリカと判別できるようになるまで、そう時間はかからなかった。アンジェリカは片膝をつき、左肩を押さえ、頭をガクンと垂れ下げていた。肩を上下に揺らしているところから察すると、まだ意識はなくしていないらしい。
 外した——。
 ユールベルは右目を細め、焦りの色を見せた。
 アンジェリカはその表情を見逃さなかった。痛みをこらえて立ち上がり、強気にユールベルに挑みかけるようににやりと笑ってみせた。
「あてが外れて残念そうね」
 息苦しさをごまかすように、早口で一気に言った。彼女の額から頬へと、幾筋もの汗が伝った。
「あなたこそ」
 ユールベルはあごを上げ、目一杯の余裕を装った。実際アンジェリカより、かなり余裕はあったのだろう。
 アンジェリカはあごを引き、ユールベルを上目遣いで一睨みすると、自分のまわりに白く光る結界を張った。そして、その内側で攻撃呪文を唱え始めた。ユールベルも同じように結界を張り、呪文を唱え始めた。
 ガクン。
 アンジェリカはその途中で膝を折り、前のめりに倒れると、地面に手をついた。集まりかけていた魔導力も拡散し、結界も消滅した。
「アンジェリカ!!」
 ジークは声の限り叫んだ。しかし、どんなに叫んでも彼女には届かない。
 ユールベルは勝ち誇ったように口角を上げると、目を閉じ、よりいっそう魔導に集中した。彼女の両手の中の光球がぐんぐん大きくなっていく。
 アンジェリカは片膝を立て、地面に手をつき、前傾姿勢でユールベルの様子をうかがっていた。彼女が目を閉じているのを確認すると、突然、地面を強く蹴って駆け出し、一気に加速した。一瞬のうちに結界をすり抜け、ユールベルの懐まで入り込む。そして、右手を彼女の脇腹に押し当て、短く呪文を唱えた。アンジェリカの指の間から白い閃光がもれる。
 ユールベルは目を見開いて息を止めた。だが、その攻撃を防ごうとはしなかった。ぎゅっと唇を噛みしめると、すぐに呪文の続きを唱え始めた。
 ——効かない?!
 アンジェリカは焦った。手を離さず、もういちど同じ呪文を口にした。ユールベルの腹部に、再び白い閃光が押しつけられる。同時に、ユールベルは両手を振り上げ、白い光球をアンジェリカの背中に勢いよく振り下ろした。アンジェリカは間一髪で薄く結界を張ったものの、それも弾き飛ばされ、光球ごと地面に叩きつけられた。
「アンジェリカ!!」
 ジークが叫ぶと同時に、ラウルはカウントを取り始めた。
「ワン、ツー」
 ユールベルは容赦なく二発目を撃ち込んだ。だがアンジェリカは地面を転がり、ぎりぎりでかわした。その勢いで立ち上がると、後ろへ飛び下がって身構えた。
 ユールベルは脇腹の痛みをこらえながら、鼻先で軽く笑った。
「わかったかしら。私の体は人並み外れて魔導を受け付けにくいのよ。あなたの何倍もね」
「目に見えない薄い結界でもまとっているのかと思ったけど、なるほど、種も仕掛けもなかったわけね」
 アンジェリカも余裕の笑顔で返そうと思ったが、その瞬間、背中に痛みが走り、逆に顔をしかめることになってしまった。深呼吸をして息を整えると、今度はかすかに笑ってみせた。
「だったら話は早いわ」
 アンジェリカはユールベルに背を向けた。
「どういうつもり?!」
 ユールベルはきつい口調で問いつめた。それは戸惑いからきているということは明らかだった。アンジェリカが降参するとはとても思えない。だとしたらなぜ背中を見せるのか。何か彼女に考えがあるのだろうか。でもそれがなんなのか、わからない……。ユールベルは次第に手のひらが湿ってくるのを感じた。
 アンジェリカは自分の目の前、すなわちユールベルとは反対側に四角い板状の結界を作った。結界は通常、対象物(自分であることが多い)のまわりを囲うように張るものである。こんな奇妙な結界はあまり見ない。
 ユールベルは、アンジェリカの挙動のすべてに目を奪われていた。それでも冷静さは失っていなかった。彼女の後ろ姿を見ながら、自分のまわりに静かに結界を張った。
 アンジェリカはユールベルに向き直った。彼女の目をまっすぐ見据えながら、腕を伸ばし、呪文を唱え始めた。向かい合わせた手のひらが白く光り、その間に魔導力が集まる。かなり大きい。
 ユールベルは内側にもう一つ結界を張り二重化した。アンジェリカの背後の四角い結界が不気味に白く光る。ユールベルの額に汗がにじんだ。これだけ念を入れても落ち着かない。
 アンジェリカは頭よりも大きくなった光球を、自分の体に引きつけた。
 ——来る!
 ユールベルの緊張が高まったそのとき、アンジェリカは地面を蹴り、体を半回転させた。そして、結界で作った四角い壁に向かって全魔導力を放射する。白い光はアンジェリカと結界の間で大きく膨張し、その反動で彼女の小さな体は弾丸のように吹き飛んだ。まっすぐ、ユールベルへと向かう。アンジェリカは彼女に体ごとぶつかり、腹部にひじを突き立てた。

 その瞬間、ヒューンという音とともにディスプレイがブラックアウトした。続いて静電気がパチパチと軽い音を立てた。

「て……停電か?」
 ジークは自信なさげにそう言って、あたりを見渡した。しかし、部屋の明かりは消えていない。
 ラウルはヘッドセットを外し、振り返った。
 両側のコクピットのふたがウィーンと機械音を立てながら、ゆっくりと開いていった。中から姿を現したアンジェリカとユールベルは、ポカンとした顔でラウルを見ている。
「ユールベル側のリミッターが働いて、システムが停止した」
 ラウルの説明に反応する者は誰もいなかった。全員がきょとんとして彼を見つめている。ラウルは言葉を付け足した。
「つまり、アンジェリカの勝ちだ」

 ジークの表情がパッと輝いた。
「やったな!」
 ゆっくりと身を起こそうとしているアンジェリカに駆け寄り、コクピットから抱え上げると外に降ろした。
「ヒヤヒヤさせやがって!」
 その言葉とはうらはらの思いきりの笑顔。ジークはアンジェリカの額に、軽くこぶしをねじ込んだ。
「もう! けっこう体中痛いんだから、ちょっとはいたわってよ」
 そう言って頬をふくらませたアンジェリカも、やはり笑っていた。
「……納得いかない」
 ユールベルはコクピットのふちに手を掛け、体を起こしながら声を震わせた。
「あんなの……魔導じゃないじゃない!」
 彼女はラウルを見上げ、必死に訴えた。
「戦いにルールはない」
 ラウルは腕を組み、冷めた声で言った。
「魔導以外の要素を軽視したのが、おまえの敗因だ。魔導耐性は高いが、身体的な能力は低い。その自覚があるのなら、魔導のみを遮る通常結界ではなく、あらゆる物質を遮断する高度な結界を使うべきだった」
 ユールベルに返す言葉はなかった。それでも、やはり納得はできない。身をかがめ腹部を押さえながら、よろよろとコクピットから降りると、アンジェリカを鋭く睨み上げた。
「えっ?!」
 リックはユールベルのポーズを見て、驚きの声を上げた。彼女は両手を前に突き出していた。そして、リックの懸念どおり、呪文を唱え始めた。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、後ろで結ばれた白い包帯が、空気の対流を受けて舞い上がる。
「やめろ!」
 ジークとリックはアンジェリカをかばうように立ちはだかった。ふたりは同時に結界を張り、さらにアンジェリカも結界を張り、三人のまわりに三重化した結界ができた。
 ユールベルの手に魔導の力が集まり、白い光を放つ光球がふくらんでいく。
「大丈夫なの?」
 リックは不安げに尋ねた。
「部屋までは守れねぇな」
 ジークは前を向いたまま、いたずらっぽくニッと笑ってみせた。
 ラウルは無表情でユールベルへと近づいていった。無言で彼女を冷たく見下ろした。そして、右手で光球を握りつぶし消滅させると、左手で彼女の腕をひねり上げた。
 あっというまの出来事に、ジークとリックは呆気にとられた。
「……ぅ……ぁあああーーー!!!」
 ユールベルはラウルに腕をつかまれたまま、うつむき、絶叫して泣いた。喉の奥から絞り出すような激しい慟哭が、ジークたちを揺さぶった。
「おまえたちは行け」
 ラウルは後ろで立ち尽くす三人に言った。しかし、誰も動かない。
「行け!」
 今度は振り向き、凄みをきかせた低音で命令した。
 ジークはアンジェリカの肩に手をまわすと、渋る彼女を促し、三人で連れ立って部屋から出た。ユールベルの泣き叫ぶ声が、次第に遠くなっていった。

 ユールベルの号泣は、徐々にすすり泣きへと変わっていった。そして、膝から崩れ落ちるようにぺたんと床に座り込んだ。ラウルは彼女を抱き上げ、ヴァーチャルマシンルームをあとにした。

 ラウルは自分の医務室に戻ると、ユールベルをパイプベッドの白いシーツの上に降ろした。
「落ち着いたら帰れ」
 ユールベルはうなだれたまま、首を小さく横に振った。肩から髪が落ち、合間から折れそうな白い首筋がのぞいた。
「勝手にしろ」
 ラウルは無表情でそう言って立ち去ろうとした。だが、ユールベルの細い腕が、彼の長い髪をつかみ、引き止めた。
「……私を……救って……」
 消え入りそうな儚い声。ラウルは彼女の腕を、肩を、首筋を、背中を、じっと見つめた。
「私におまえは救えない」
 ユールベルの手から力が抜け、ぱたんとベッドの上に落ちた。それきり彼女は動かなかった。
 ラウルは背中を向け、後ろ手で仕切りの白いカーテンを閉めた。そして、立ち止まることなく奥へと消えていった。



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