目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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36. 甘い憂鬱

「おはよう」
 背後からの晴れやかな声が、ジークとリックの足を止めた。ふたりははっとして同時に振り返った。
「アンジェリカ! 良かった、元気そうで」
 リックは彼女の笑顔を目にすると、ほっとして言った。
「全然たいしたことなかったみたい。ラウルも大丈夫だって」
 アンジェリカは肩をすくめて明るく笑った。だが、そんな彼女を見ても、ジークの心配は拭えなかった。
 アンジェリカは三日間、アカデミーを休んでいた。「全然たいしたことない」のなら、三日間も休む必要があるだろうか。念のためといわれればそうかもしれない。だが、そうではないかもしれない。
 気がかりなことは他にもあった。アンジェリカが明るすぎる、ジークはそう思った。あんなことがあったばかりなのに、彼女に不安はないのだろうか。なぜそんなに屈託なく笑えるのだろうか。
「ジーク? どうしたの?」
 ふたりの間に滑り込んできたアンジェリカが、難しい顔のジークを不思議そうに見上げた。ジークはその声で我にかえった。ふいに、下から覗き込むアンジェリカと目があった。近くで見ても彼女の顔色は良かった。肌は白いが、頬はほんのり桜色。そしてバラ色の可憐な唇はつややかに輝いている。
「いや、元気そうでよかった」
 顔をそらし、そっけなく言うと、ジークは再び歩き始めた。
「なに、あれ」
 アンジェリカは彼の後ろ姿にまばたきを送りながら、きょとんとつぶやいた。リックは小さく笑った。
「多分、照れてるんだと思うよ」
「ふーん……?」
 アンジェリカはよくわからないままそう返事をして、軽く首を傾げた。
「おい! 何やってんだ!! 遅刻するぞ!!」
 ジークは振り返り、一向についてこないふたりに向かって叫んだ。
「ごめん、いま行く!」
 リックは笑顔で手を振り答えると、アンジェリカとともに小走りで駆け出した。

 終業のベルが鳴り、一時間目が終わった。
 アンジェリカはノート、教本をトントンと揃えると、それらを机の中にしまいこんだ。それから、いつものように後方のジークに目をやった。しかし、その席には誰もいない。そのまわりにもジークはいない。今までそんなことは一度もなかったのに——。彼女に不安がよぎった。
「あれ? ジークはどこ行ったの?」
 リックも教室をきょろきょろ眺めまわしながら、アンジェリカに近づいてきた。
「さあ……授業中はいたと思うんだけど」
 彼女は目を伏せて、小さな声で答えた。隠そうとしても隠しきれない不安感が、その声に滲んでいた。
 リックはそれに気がつき、急に笑顔を作った。
「きっとお手洗いだよ。そんなに心配することはないって」
「別に心配なんてしてないわ」
 アンジェリカは精一杯の強がりを見せた。

 ジークは一年生の教室へ来ていた。後ろの扉から中を窺うと、近くでしゃべっていた女の子ふたりに声を掛けた。
「悪い。ユールベルを呼んできてもらえるか」
 そう言って、窓際の席でひとり外を眺めているユールベルの後ろ姿を指さした。ふたりの女の子は、頬を赤らめながら少しとまどったように返事をすると、連れ立ってユールベルのもとへ駆けて行った。
 ジークは壁にもたれ掛かり、腕を組んでため息をついた。別に悪いことをしているわけではない。そう自分に言い聞かせても、若干の後ろめたさは拭えない。
「あなたが会いに来てくれるとは思わなかったわ」
 ユールベルの声が、ジークを現実に引き戻した。白いワンピースのユールベルは、棒立ちでジークをじっと見つめた。相変わらず彼女の左目は白い包帯に覆われている。
 ジークは話を切り出そうとしたが、まわりの注目を浴びていることに気がつき、口をつぐんだ。そして、場所を探すため、あたりをぐるりと見渡した。
「あっちで話そう」
 好奇の目を向ける一年生に睨みをきかせながら、ユールベルを階段の裏へと連れて行った。
「腕は大丈夫?」
 先に話しかけたのはユールベルだった。彼女は、ジークの長そでの上からそっと手をのせた。包帯の感触を感じとると、顔を上げ、ジークの目を見つめた。
「ごめんなさい」
「いや、平気だ。傷は浅い」
 スピードを上げた心拍に急き立てられるように、ジークは短く早口で言った。ユールベルはゆっくりと目を細めた。
「私のことを嫌いにならないで」
 前回の別れ際と同じ言葉。だが、あのときとは違って、ほんの少しだが感情がこもっているように感じられた。
 ユールベルは両腕をジークの背中にまわし、彼の胸に顔をうずめた。
 突然のことに驚いたジークは、不格好に両肘を張ったまま、行き場をなくした手を宙にさまよわせていた。背中に置かれた細い腕、細い指、腕をくすぐる柔らかな金髪、鼻をくすぐる甘い匂い、薄地の服を通して感じられる微かな体温、押しつけられた柔らかな胸、胸にかかる熱い吐息……。ジークは全身でユールベルを感じた。だんだんと遠のく現実。それでも正気を保とうと、彼の頭は必死でもがいた。そして、ようやく思い出した。自分がなぜここに来たのかを。
「ハンカチ……」
 ジークはつぶやくように言うと、ズボンのポケットから手のひら大の紙包みを取り出した。
 ユールベルはそれに目を移した。それから顔を上げ、ジークの瞳をじっと見つめた。彼が下を向けば息が触れ合いそうな距離。ジークは少しでも離れようと、背筋を伸ばして顔を前に向けた。
「このまえ借りたやつ、ダメにしちまったんだ。悪い。なるべく似たやつを選んだつもりだ」
 ジークは平静を装い、低いトーンで言った。しかし、速いスピードで打つ鼓動までは隠し切れない。彼女には伝わってしまっているだろう。そう意識すると、心臓はますます強く活動する。
「私のせいだから、そんなことは気にしなくても良かったのに。優しい人ね」
 ユールベルはジークの手から紙包みを受け取ると、ようやく体を離した。ジークはほっとして小さく息を吐いた。「借りを作りたくなかっただけだ」——ジークがそう言おうとした、そのとき。
 ユールベルはぎこちなく笑いかけた。ジークは目を見開いた。先日、彼女が笑っていると主張しても、見た目はずっと無表情だった。笑えないのかと思った。だが、今は確かに笑っている。
「あなたの言ったとおりだったわ。私は笑えてなかった」
 彼女は目を伏せてそういうと、大きくまばたきをしてジークと視線を合わせた。
「だから、今、きちんと笑えるように練習しているの」
 ジークは彼女の蒼の瞳に強い意志を感じた。少なくともそのことに関しては、疑う気になれなかった。
「そうか、頑張れよ」
 ジークも微かな笑顔を返した。
「ありがとう」
 ユールベルは大事そうにハンカチを両手で握りしめ、再び笑ってみせた。まだ少しぎこちない。だが、ジークの目には、さっきよりも表情が柔らかくなっているように映った。

 ジークは自分の教室に戻るために、階段をのぼっていた。
「どんな手を使ったんだ。教えてくれないか」
 その声にジークが顔を上げると、踊り場から男が見下ろしていた。レオナルドだった。腕を組んで壁にもたれかかり、嫌みたらしくニヤリと笑っている。ユールベルと話していたところを覗いていたに違いない。
 ジークはひと睨みすると、無視をして通り過ぎようとした。だが、レオナルドは素直に逃がしはしなかった。
「ユールベルまでこんなに早く手なずけるとはな。アンジェリカだけでは物足りないか。それともラグランジェ家を乗っ取るつもりか」
 レオナルドは挑発的に畳み掛ける。それでもジークは必死に気持ちを抑えていた。だが、その壁も次のレオナルドの言葉で弾け飛んだ。レオナルドはニヤリと笑い、身を乗り出すと、ジークの耳もとでささやくように言った。
「さっきのこと、アンジェリカに言ったらどうなる?」
 ジークはレオナルドの胸ぐらに掴みかかり、そのまま壁に叩きつけた。レオナルドは後頭部を打ち顔をしかめた。だが、歯を食いしばったジークのくやしそうな表情を見ると、満足げにせせら笑った。
「悪いのはこっちか? 言われて困るようなことをしていた自分はどうなんだ」
 レオナルドはさらに追いつめた。
 ジークは何も言葉が出なかった。レオナルドから手を離すと、背を向けこぶしを握りしめた。
「言いたきゃ勝手に言えよ」
 吐き捨てるようにそう言ったあと、少しの間をおいて続けた。
「俺は何も悪いことはしてねぇ」
 今度は自分に言い聞かせるように、言葉を噛みしめながら言った。しかし、それと同時に、後ろめたさを感じていたのも事実だった。

「あ、ジーク!」
 アンジェリカは教室に入ってきたジークと目が合い、声を上げた。ジークはアンジェリカに応えることなく、むすっとしたまま黙って席についた。
「どこへ行っていたの……?」
 アンジェリカはおずおずと尋ねた。
「トイレだ」
 ジークはぶっきらぼうにそう答えた。だが、その目は明らかに彼女から逃げていた。アンジェリカは不安そうに目をしばたたかせながら、遠慮がちに覗き込もうとした。
「だめだよアンジェリカ。あんまりジークを追いつめちゃ」
 リックが優しく彼女を諭した。
 ジークはどきりとした。リックが何を言い出すつもりなのかと気が気でなかった。しかし、下手に口出しするのも恐い。彼は成り行きを見守るしかなかった。
 リックはアンジェリカににっこり笑いかけて言った。
「おなかの調子が悪いなんて、恥ずかしくて言えないんだから」
「違っ……! リックおまえ何言い出すんだ!!」
 ジークは一気に顔を上気させて、椅子から立ち上がった。リックがなぜそう言い出したのかわからず、頭が混乱していた。そんなふうに推測しただけなのだろうか。それとも自分をからかっているだけなのだろうか。
 リックは頭に手を置き、明るく笑った。
 アンジェリカはそんなふたりを見て、腕を組み、呆れたようにため息をついた。しかし、その表情は安堵で和らいでいた。
 ジークはそこで初めて気がついた。リックが自分のためにひと芝居打ってくれたのだということに。リックにも何も言ってはいなかったのだが、アンジェリカより付き合いの長い彼には、何か察するものがあったのだろう。そのごまかし方には納得がいかなかったが、それでもジークは感謝した。
 キーン、コーン——。
 始業のベルが鳴った。
「始まったぞ。おまえら席に戻れ」
 ジークは照れ隠しに、大袈裟に手を振って追いはらった。その拍子に、シャツの袖口から白い包帯がチラリとのぞいた。アンジェリカはそれを目ざとく見つけた。
「どうしたの、それ」
 彼女は指さしながら近づいた。
「ああ……」
 ジークは一瞬、腕を隠そうとしたが、すぐに思いとどまった。隠した方が不自然であることに気がついたからだ。
「割れたコップで切った。たいしたことねぇよ」
 努めて冷静に言ったが、アンジェリカの反応はなかった。
「アンジェリカ?」
「……え? ううん、なんでもない」
 彼女は早口でそう言うと、パタパタと小走りで席に戻っていった。
 甘い、におい——。
 ジークに近づいたとき、微かにふわりと甘い匂いがした。懐かしいような、それでいて落ち着かない気分にさせられる。
 何の匂い——?
 アンジェリカは得体のしれない不安が静かに胸に広がっていくのを感じた。


37. 渇いた心

 その日は休日だった。
 厚手のカーテンの隙間から光の帯が差し込み、さわやかに朝を告げる。こんな日は小鳥のさえずりが目覚ましがわりだ。
 アンジェリカは、淡いピンクのネグリジェのまま階段を下りた。
「おはよう、アンジェリカ」
 レイチェルはミルクティーを入れながら、にこやかに笑いかけた。
「お父さんは?」
 アンジェリカは広いダイニングを見渡しながら、椅子に座った。
「用があるって、少し前に出かけたわよ」
 レイチェルはカップを載せたソーサーを、アンジェリカの前に差し出した。アンジェリカはそれを手に取り、ミルクティーを口に運んだ。ほっとする香りと温かさ。頬を緩ませ、ふぅと小さく息をついた。
 レイチェルは隣に腰を下ろしながら、その様子を愛おしそうに見つめた。それから少し身を乗り出し、彼女を覗き込んで口を開いた。
「ね、アルティナさんが久しぶりにあなたに会いたがっているの」
「王妃様が?」
 そう聞き返したが、たいして驚いた様子でもなかった。レイチェルが王妃アルティナの付き人をしていることもあり、彼女は小さい頃からよく王宮へ遊びに行っていた。だが、アカデミーに入学してからは、ほとんどアルティナとも会っていない。
「一緒に行かない? 小さな王子様も待っているわ」
 暗い気持ちさえ吹き飛ばすような、レイチェルの明るい声と笑顔。
 この人が私のお母さんで良かった——。
 そんな思いが、アンジェリカの胸にじわりと広がった。

 サイファはひとりバルタスの家へ来ていた。門前で立ち止まり、屋敷の二階を見上げてみる。だがもうそこからは、偽装結界も、通常の結界も感じられなかった。
 扉の前まで進み、呼び鈴を鳴らす。奥で重みのある音が鳴り響いた。やがて軽い足音が聞こえ、扉が開いた。
「おじさま、来てくださって嬉しいわ」
 中から飛び出してきたユールベルが、サイファに抱きついた。ノースリーブの白いワンピースが風を受け、ふわりと丸みを作る。
「何度も訪ねてくれていたのに、いつもあの人が追い返してしまってごめんなさい。もう来てもらえないかと思っていたわ」
 そう言うと、サイファの胸に頬を押し当て、目を閉じた。サイファは彼女の頭を軽くなでると、少し離れて立っているバルタスに会釈した。ユールベルはそれに気がつくと、冷たく固いまなざしをバルタスに流した。彼の顔には疲労の色が浮かんでいた。
「行きましょう」
 ユールベルは再びサイファに向き直ると、彼の手を取り、軽い足取りで応接間へと駆けて行った。そして二人掛けのソファにサイファを座らせると、彼女もその隣に腰を下ろした。体半分をサイファに向け、甘えるように寄りかかる。サイファはよけることも突き返すこともせずに、自然なままでそこにいた。
「おじさま、コーヒーと紅茶、どちらがいい?」
「紅茶をお願いするよ」
 サイファはユールベルの顔を見て、にっこり笑いかけた。ユールベルも微かに笑顔を返した。だが、それはほんの一瞬のことだった。すぐにいつもの無表情に戻った。
「バルタス、紅茶ふたつ」
 召使いにでも言うかのような命令口調。それでもバルタスは何の反論もせず、黙って奥へと姿を消した。大きな背中には何の威厳もない。仕事中とは別人のようだった。
「ユールベル」
「なあに、おじさま」
 ユールベルは体を伸ばし、サイファに顔を近づけた。サイファはユールベルの瞳を見つめて、真剣な表情になった。
「私たちのことを恨んではいないのかい?」
 その言葉を聞くと、ユールベルはぱちくりと瞬きをした。
「恨むだなんて」
 彼女は細い腕をたどたどしく伸ばす。ぎこちなくサイファの首へとまわし引き寄せると、彼の肩に顔をうずめた。そして、彼の耳もとでささやくように言った。
「あれは事故だったのよ」
 サイファは複雑な面持ちで、彼女のゆるやかに流れるブロンドを見つめていた。

 バルタスが無言で戻ってきた。カタカタと小刻みな音を鳴らしながら、カップがふたつ乗せられたプレートを、慣れない手つきで運ぶ。
 ユールベルはサイファから離れ、向かいのソファに座り直した。
 上品で繊細な花柄のカップとソーサーを、それに似つかわしくない大きな手でふたりに差し出す。
 ユールベルは冷めた目で、その様子を眺めていた。
「終わったら出ていって」
 驚くほど冷たい声だった。
 バルタスは背中を丸めて立ち上がった。無愛想なままサイファに会釈をすると、プレートを小わきに抱えて応接間をあとにした。
 サイファはカップに手を伸ばそうとした。だが、ユールベルはそれを遮るように、横からサイファに抱きついた。
「私、おじさまのピアノが聴きたい」
 サイファはにっこり笑って答えた。ユールベルもつられてわずかに笑顔になった。
「おじさまこっち」
 サイファの手を引っ張り、部屋の隅に置いてあるアップライトピアノへと誘う。彼女の軽い足どりから、浮かれているさまが見てとれた。
 ユールベルが黒塗りの椅子を引くと、サイファはそこに腰を下ろした。鍵盤の蓋を開け、音と感触を確かめるように軽く鳴らしてみる。だが、その手はすぐに止まった。
「ユールベル、このピアノ、調律が出来ていないよ」
 サイファはユールベルを振り返る。ユールベルは少しの間、動きを止めていたが、やがて扉の方へ走っていった。
「バルタス、どういうこと? 調律が出来ていないって」
 部屋の外に向かって大きめの声で問いつめる。
 バルタスはすぐに戸口に姿を現わした。彼はユールベルを静かに見下ろして言った。
「ピアノは七年間一度も触っていない」
 次の瞬間、ユールベルの平手打ちがとんだ。細腕を思いきり伸ばし、背伸びをしての平手打ち。たいした威力はないだろう。それでも、サイファを驚かせるには十分だった。それでも彼は動じた様子は見せなかった。
「道具さえ貸していただければ、私が調律しますよ」
 サイファは立ち上がり、バルタスに声をかけた。
「道具もない」
 バルタスはにべもない返事をした。
「最低」
 ユールベルは冷たく彼を見上げた。
「それでは来週、私が道具持参でうかがいますよ」
 サイファはバルタスににっこり笑いかけた。
「おじさまにそんなことさせられない。バルタス、調律師を呼んでおいて」
 その命令を残し、ユールベルはサイファのもとへ戻っていった。そして再びサイファの背中に手をまわし抱きついた。
「ごめんなさい。ピアノはまた今度聴かせてくださる?」
「もちろんだよ」
 サイファは優しくユールベルの頭をなでた。

 ユールベルはサイファから少しも離れようとはしなかった。ソファに座った彼の膝に頭をのせ、彼の脚を指でたどり、その感触を確かめていく。
「おじさまが私のお父さまだったら良かったのに」
 ユールベルはポツリともらした。サイファから彼女の表情は見えなかった。横顔には長い金髪が無造作にかかり、さらに包帯が邪魔をしていた。
「私、アンジェリカがうらやましくて仕方がない」
 再び彼女はポツリと言った。
「君も知っているだろう、あの子の立場は」
「でもアンジェリカにはおじさまがいる。私には何もない」
 彼女のあらわになった細い肩が、ほんの少し揺れた。
「そういえば、アンジェリカ。私のことをすっかり忘れていたわ。寂しかった……」
 サイファの顔がけわしくなった。だが、それは一瞬。すぐに元の表情に戻った。ユールベルの頭に優しく手を置き、もう片方の手で彼女の顔にかかった髪をそっとかきあげる。
「申しわけない。あれはあの子にとっては辛すぎる過去なんだ。勝手を言うようだが……そっとしておいてほしい」
 ユールベルはだるそうに体を起こし、サイファの膝の上に、横向きに座った。体をねじり、彼の首に腕をまわすと、額が付きそうな距離でまっすぐ見つめた。
「彼女だけずるい」
 そう言ったあと、サイファを引き寄せ、頬と頬を触れ合わせた。
「でも、おじさまがそういうなら、私はそうするわ」
「ありがとう」
 サイファは彼女の華奢な背中に手をまわした。

「さて、私はそろそろおいとまするよ」
 サイファの膝の上に身を投げ出しまどろんでいたユールベルは、驚いて身を起こした。
「そんな、行かないで。ずっとここにいて」
 彼に顔を突きつけ懇願する。サイファはにっこり微笑んだ。
「そういうわけにはいかないよ」
 彼の右手がユールベルの頬を包み込んだ。
「また来るから」
 そう言うと、サイファは立ち上がった。だが、その右手をユールベルがつかむ。すがりつくような右の瞳。
「また来るから」
 サイファは同じ言葉を繰り返し、にっこりと笑った。ユールベルの手から力が抜け、サイファの手はするりと抜けた。
 サイファは少し歩くと振り返った。
「その目、一度きちんと診てもらった方がいい。今度、ラウルのところへ行っておいで」
 それだけ言うと、今度は立ち止まらずに部屋を出ていった。

 玄関でバルタスが扉を開け待ちかまえていた。
「すっかり迷惑をかけてしまった」
 気力のない低い声。彼が疲れ切っていることは明らかだった。
「いいえ。こちらこそお邪魔いたしました」
 サイファは会釈をして外へと出た。まだずいぶん明るく、日没までは時間があるようだ。風もなく穏やかで静かな空に、小鳥が弧を描いて飛んでいった。
「……あまりあの子の言うことを信用しない方がいい」
 バルタスは声をひそめてそう言うと、間髪入れずに扉を閉めた。
 サイファはしばらく扉を見つめていた。それから顔を上げ二階を見上げた。窓にはすべて暗色のカーテンが掛けられていた。

「おかえりなさい!」
 扉の開く音を聞きつけ、アンジェリカが二階から駆け下りてきた。
「ただいま、アンジェリカ」
 サイファは優しい笑顔を見せた、
「今日は何をしていたんだい?」
「王妃様と王子様に会ってきたわ」
 アンジェリカは嬉しそうに軽いステップを踏みながら、サイファの横に並んだ。だが、その途端、彼女の顔から笑みが消えた。とまどい、怯えたようにうつむき、体をこわばらせる。
「アンジェリカ?」
「ううん、なんでもない」
 彼女は首を横に振りながらそう答え、小走りで二階へ戻っていった。
「お帰りなさい」
 今度はレイチェルが笑顔で迎えた。
「あら? アンジェリカが降りて来なかった?」
「降りてきてたんだが……。また戻っていったよ」
「そう。王子様のお相手で疲れたのかしら」
 レイチェルは首をかしげた。

 ふたりは奥の書斎に場所を移した。扉には内側から鍵をかけた。それからテーブルを挟み、向かい合わせに座った。
「それで、どうだったの? 彼女」
 レイチェルが静かに尋ねた。
「アンジェリカをどうこうする気はなさそうに見えた。だが……」
 サイファは机にひじをつき、口元で両手を組むと、わずかに目を伏せた。
「バルタスには信用するなと言われたよ」
 レイチェルは少し身を乗り出して、サイファを覗き込む。
「サイファは大丈夫だと思ったのでしょう?」
「自信はない。嘘を言っているようには見えなかった。ただ……」
 彼は言葉を切った。そして、少しの間をおいて続けた。
「彼女の精神状態はまともとはいいがたいからな」
「そうでしょうね」
 レイチェルは顔を曇らせた。
「やはりしばらく様子を見るしかないだろう」
 サイファはそう言ったきり口をつぐんだ。レイチェルも同じく暗い表情で目を伏せた。重い空気がふたりにまとわりつき、動きを封じているかのようだった。

「ラウルにも言っておかなければな」
 サイファは唐突に切り出した。
「え?」
 レイチェルは顔を上げた。サイファもゆっくりと顔を上げ、彼女と視線を合わせた。
「ラウルにも関わりがあることだろう、多少はね」
「そう、ね」
「ユールベルには言っておいた。ラウルに目を診てもらうようにとね。それが吉と出るか凶と出るかはわからないが、もしかしたら……」
 レイチェルの表情に、ふいに陰が落ちた。
「心配かい?」
 サイファは優しい笑顔で尋ねた。レイチェルは目を伏せ、ぽつりと言った。
「そんなこと、聞かないで」
「そうだね」
 サイファは彼女の頭にそっと手を置いた。
 レイチェルは、突然はっとして目を見開いた。自分の頭を撫でているサイファの手を取り、袖口を鼻に近づけた。
「サイファ、この甘い匂い……」
 彼女は悲しげにそう言うと、小さくため息をついた。
「彼女の匂いが移ったのね」
 サイファは焦ったように匂いを嗅いだ。だが、自分ではよくわからなかった。困惑した顔をレイチェルに向ける。
「君にはわかるのか?」
「ええ、自分では気がつきにくいのかしら」
「アンジェリカが急に二階へ戻っていったのはこれが原因、ということか」
 サイファは自分のしでかした大きな失敗に顔をしかめた。後悔を隠すことなく、その表情にあわらにする。
「思い出してはいないと思うが……」
 彼は祈るように両手を組んだ。
「でも、匂いとそれに結びついた感情というものは、なかなか切り離せないものだわ。こういうことが続けば、もしかしたら記憶もよみがえってしまうかもしれない」
 少し沈んだ声で、レイチェルは冷静に述べた。
 サイファは立ち上がった。
「シャワーを浴びてくる」
 そう言うと、扉へ向かって歩き出した。
「サイファ」
 レイチェルは憂いを含んだ瞳を向け、気遣わしげに呼びかけた。サイファはドアノブに手をかけたまま、顔だけ振り返り、にっこりと笑ってみせた。いつもとなんら変わることのない笑顔。だが、レイチェルはその裏に隠された自嘲と自責を見逃さなかった。いたたまれなさに、思わず立ち上がり駆け出した。そして、後ろから彼をぎゅっと抱きしめた。
 サイファは突然のことに驚いたが、その表情はすぐに和らいだ。愛おしげに、彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
 サイファはふいに幼い日々を思い出した。自分が落ち込んでいたときは、何も言わずとも、いつも彼女はこうやって抱きしめてくれた。どんなに表面を取り繕っても、彼女だけは本当の自分を見透かしていた。彼女がいるからこそ、自分を見失わずにいられる——そんな気さえしていた。
「ありがとう」
 そう言った彼の声は、とても穏やかであたたかかった。


38. 仕組まれた孤独

「見えるようになる見込みはないな」
 ラウルは新しい包帯をユールベルに巻きつけながら、淡々と診察結果を述べた。
「そう」
 彼女は無表情に返事をした。
 ラウルは包帯を巻き終わると椅子に座り、正面から彼女と視線を合わせた。互いに無言で見つめ合い、目をそらそうとしない。沈黙が続く。
「……何か、言いたいことでもあるの?」
 先に口を開いたのはユールベルだった。
「あなたのことは嫌いだわ。その目……。すべてを見透かされているみたい」
「見透かされて困ることでもあるのか」
 ユールベルの表情がわずかに険しくなった。
「あなたにもあるんじゃないの? 秘密の多いひと……」
 そう言いながらゆっくりと立ち上がり、横からラウルの膝の上へ腰を下ろした。彼の首に手をまわし、ぐいと顔を近づける。息の触れ合う距離で、ふたりは互いの瞳をまっすぐに見つめた。
 ユールベルは腕に力を入れ、体を伸ばすと、ふいにラウルと軽く唇を触れ合わせた。
「私のことは嫌いではなかったのか」
 ラウルに驚いた様子はなかった。声に少しの乱れもなかった。
「大嫌いよ」
 ユールベルは手の甲で唇を拭いつつ、ラウルの膝から降りた。そして、少し走って足を止めると、包帯で隠れていない側から顔半分だけ振り返った。
「……あなたは?」
「さあな」
 ラウルは彼女に背を向けたまま、感情なく言った。
 ユールベルはしばらく彼の後ろ姿を見つめていた。しかし、それ以上なにも言わず、静かに部屋をあとにした。

 昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。
「あ、鳴っちゃったわ」
「おい、早くしろよ!」
 ジークはもたつくリックを急かした。
「ごめん!」
 リックはあたふたと準備をして立ち上がった。そして、三人そろって教室から廊下へバタバタと飛び出した。
「午後からは図書室だ。早く行け」
 突如、背後から降りかかる低い声。ジークは顔をしかめた。その声を聞くだけで無条件に腹が立った。
「今から行こうとしてんだよ!」
 反抗心をむき出しにして、わめきながら振り返った。だがその瞬間、ラウルは三人の間をすり抜け、颯爽と通り過ぎていった。
「くっそ、本当に頭にくるヤツだぜ」
 ジークは苦々しげに顔をしかめた。
 その横で、アンジェリカは呆然とラウルの後ろ姿を目で追っていた。息をすることも、瞬きをすることも忘れているかのようだった。
 彼女のただならぬ様子に気がついたのはリックだった。
「アンジェリカ、どうしたの?」
 なるべく刺激をしないよう優しく声を掛けた。
「え、あ……別にどうもしてないわ。急がなきゃ」
 アンジェリカは我にかえると、小さな声でそう言った。そして、その場から逃げるように、慌てて早足で歩き始めた。
 ジークとリックは目を見合わせ、怪訝に首を傾げた。
 ——また、あの匂い……どうして?
 アンジェリカは息が詰まりそうだった。胸の鼓動が次第に早くなった。不安でたまらなかった。今の自分の表情をふたりに見せないよう早足で歩き続けた。

 その後のアンジェリカは、ずっとうわの空だった。ラウルが何かを言っても、まるで耳に届いていない。本をパラパラめくっても、内容はまったく頭に入っていない。
「アンジェリカ、帰らないの?」
 リックが覗き込んで声を掛けた。ジークはその横で腕を組んで立っていた。
 アンジェリカははっとしてあたりを見た。気がつかないうちに授業時間が終わっていたようだった。まわりがざわついていることに、そのときようやく気がついた。
「あ……帰るわ」
 そう言って立ち上がろうとしたアンジェリカの肩に、リックはそっと手をのせた。そして穏やかに微笑みかけた。
「いいよ、座ってて。本は僕が返してくるから」
「ごめんなさい。……ありがとう」
 奥の本棚へ向かっていく背中に、アンジェリカはとまどいがちに感謝の言葉を送った。
 残されたジークとアンジェリカの間には、どことなく気まずい空気が流れていた。ふたりとも無言のまま、リックが帰ってくるのを待った。

「一年のかわいい子、なんていったっけ。あの包帯の」
「ああ、確かユールベルとかいう名前だったな」
 隣の机での会話が、聞くともなしに耳に入ってきた。話しているのはクラスメイトたちだった。授業が終わり、そのまま雑談に興じているようだった。
「出よう」
 ジークは身をかがめ、アンジェリカに耳打ちした。しかし、アンジェリカはそれには反応を示さなかった。ユールベルのうわさ話から耳が離せなかったのだ。
「そうそう、その子と担任が昼休みに並んで歩いてるのを見たんだよ」
「担任って、ラウル?」
 アンジェリカは立ち上がり、唐突にその会話に割って入った。
「おい!」
 ジークは慌てて止めようとしたが、アンジェリカは無視して隣の机へと駆けていった。
 会話をしていた三人は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になり、手招きをして彼女を迎え入れた。
「そうだよ。王宮の方に行ったから、ラウルの医務室に行ったんじゃないかな」
 黒髪の少年が、アンジェリカに席を譲りながら答えた。その後ろから、茶髪の少年が身を乗り出してきた。
「そういえば君もアイツと親しいようだけど、ラグランジェ家ってみんなそうなのか?」
「……そんなことはない、けど」
 アンジェリカは目を伏せ、言葉を濁した。
「な、ユールベルってどんな子なんだ?」
 今度は反対側の少年が身を乗り出し、浮かれた声で尋ねた。
「俺も気になる、それ。すごい不思議な感じの子だよな」
「あの包帯も気にならないか?」
「おまえ包帯好きだよなぁ」
 三人はアンジェリカをほったらかし、興奮ぎみにユールベルのことで盛り上がった。アンジェリカは逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、立ち上がるきっかけをつかめないでいた。
 ふいに彼女の腕が、後ろから引っ張られた。
「帰るぞ」
 ジークは低い声でぶっきらぼうに言った。
 アンジェリカはそんな彼を見て、ほっとしたように表情を緩めた。彼女は腕を引かれるまま椅子を降りた。そのとき——。
「ジーク! 金髪の女の子が外で待ってるぜ!」
 戸口からクラスメイトが大声でジークを呼んだ。図書室にいたほとんどが声の方に振り向いた。大声で呼んだ彼は、いたずらっぽく白い歯を見せて笑っている。ジークをからかうためにわざと大声で言ったのだろう。開かれた扉の向こうに、金髪と白いワンピースの後ろ姿がちらりとのぞいた。
「ジーク! 今のユールベルだろ?!」
「おまえら知り合いなのか?」
「紹介してくれよ、ていうか、もしかしておまえら……」
 ジークはアンジェリカの腕をつかんだまま動きを止めていた。
 ——どうすればいいんだ。
 野次馬連中はどうでもよかった。ただ、アンジェリカのことだけが心配だった。ここで誤解されるくらいなら、初めから本当のことを話しておけばよかった。そう強く後悔した。
 アンジェリカは表情を隠すかのように、深くうつむいた。
「待ってろよ。すぐに戻ってくるから」
 ジークはアンジェリカの腕を放した。
「いいな、待ってろよ」
 彼女に言い聞かせるように念を押すと、ジークは走って出ていった。
 だが、アンジェリカはジークの言葉に従わなかった。彼の姿が見えなくなると、乱暴に鞄をつかみ、反対側の扉から出ていった。長い廊下を駆け抜け、角を曲がったところで足を止めた。窓に手をつき、肩で大きく息をする。ガラス越しのずっと先に、ジークと彼に寄り添うユールベルの姿が小さく見えた。
 ——あの甘い匂い……。ユールベル、だったの?
 アンジェリカの熱い吐息でガラスは白く曇った。そして、ふたりの姿はその霞に掻き消され見えなくなった。

 ジークは野次馬に睨みをきかせながら、図書室に戻った。ユールベルの方は特に何もなかった。ただ会いたかったというだけだった。彼女が何を考えているのか、ジークにはさっぱりわからなかった。
 ジークはアンジェリカがいたはずの場所に戻った。だが、そこに彼女の姿はなかった。代わりにリックが腕組みをして立っていた。
「……アンジェリカは?」
 嫌な予感を胸いっぱいに膨らませながら、ジークはおそるおそる尋ねた。
「出ていったらしいよ」
 リックはそっけなく答えた。
「あのバカ……待ってろって言ったのに」
 顔をしかめてそう言うジークを、リックは冷ややかに見つめた。
「バカはどっちだよ。さっき来てたのってユールベルなんでしょ」
 彼にしてはめずらしく辛辣な言葉。ジークは図星をつかれた恥ずかしさと、いいわけをしたい焦りとで、顔を真っ赤に上気させた。
「勝手に来たんだよ! ほっとくわけにもいかねぇだろ! アンジェリカにはあとでちゃんと話すつもりだったんだよ。この前のこともな」
 この前のことというのは、ハンカチを返すためにユールベルに会いに行ったことである。リックには事後ではあったが話をしてあった。もちろん、こと細かにすべてを伝えたわけではない。それは誰にも言っていないし、言うつもりもなかった。知っているのは覗いていたレオナルドだけ……。
「どうしたの?」
 思いきり眉をひそめたジークに、リックはいぶかしげな視線を送った。
「いや。一応、教室の方を見に行ってみようぜ」
 ジークは鞄をつかんで早足で図書室を出ていった。

 アンジェリカは帰る気になれず、ふらふらと当てもなくアカデミー内をさまよっていた。そして気がつくと、アカデミーの隅にある小さな礼拝堂の前へと来ていた。
 顔を上げ、全体を見渡す。木々に囲まれ、こじんまりとした三角屋根の建物。もともと古びてはいたが、気のせいかよりいっそう寂れたように感じられた。以前はよくここへ祈りに来ていたが、最近は足を運ぶこともめっきり少なくなっていた。
 ——こんなときだけ頼ろうなんて、虫が良すぎるかしら。
 ほんの少し罪悪感を感じながら、木製の重い扉をゆっくり押し開けた。ひんやりとした空気に、礼拝堂独特の静けさ。彼女はそれが好きだった。
 カツーン、カツーン。靴音を響かせ、中に足を踏み入れた。
「え……?」
 彼女はあるものを目にし、小さく驚きの声を上げた。そして、即座に体を引いて身構えた。
 最後列の長椅子。そこに少女が横たわって眠っていた。白いワンピース、長く緩やかなウェーブを描いた金の髪、頭に巻きつけられた白い包帯。間違いなくユールベルだ。白地のワンピースの上には、ステンドグラスの色とりどりの光が落ち、幻想的な模様を映し出していた。
 アンジェリカは息が止まりそうだった。しかし、彼女にはどうしても確かめたいことがあった。おそるおそる、そっと近づく。
 ドッ、ドッ、ドッ……。
 体中が脈打つのを感じながら、それでも近づくのをやめない。
 ドッ、ドッ、ドッ……。
 ユールベルの上で身をかがめ、彼女の首筋に顔を近づける。
 ドクン!!
 心臓が飛び出しそうなほど強く打った。顔をこわばらせて、後ずさりをする。
 ——やっぱり、あの匂い、この人のだった……。
 アンジェリカは呆然として立ち尽くした。
 気配を感じたのか、ユールベルが目を覚ました。長椅子にうつぶせになったまま、目の前の少女の足元をじっと見つめた。徐々に顔を上げていく。そして、ふたりの視線がぶつかった。冷たい蒼い光。アンジェリカは凍りついたように動けなかった。
「アンジェリカ、どうしてここへ」
 ユールベルは気だるくぼんやりと言った。アンジェリカは引きつったように息を吸った。
「あ……あなたこそ、どうしてこんなところで」
 唇を震わせ、渇いたのどから擦れた声を絞り出した。
 ユールベルはゆっくり身を起こした。
「なるべく家にいたくないから。あなたは?」
「……祈りに来ただけよ」
 アンジェリカは次第に落ち着きを取り戻した。冷静になると、今度は不愉快な気持ちがこみ上げてきた。眉をひそめてユールベルを睨みつける。
 しかし、ユールベルはまるで表情を変えなかった。
「あなたとふたりきりなんて、何年ぶりかしら」
 楽しむような口調でそう言い、かすかに笑いかけた。アンジェリカはますます表情を硬くした。
「いったい何を企んでいるの? 私と仲良くしたいなんて嘘なんでしょう」
「どうしてそんなことを」
 かすかな笑顔を保ったまま聞き返す。アンジェリカにはそれがかえって薄気味悪く思えた。
「ジークやお父さんやラウルに近づいている」
 責めるようなきつい口調。それでもユールベルの顔色は変わらなかった。
「私が仲良くしてはいけないの? どうして? あなたのものってわけではないでしょう」
「私が言ってるのはそういうことじゃない!」
 アンジェリカは一気に頭に血がのぼり、こぶしを握りしめて叫んだ。ユールベルは無表情で彼女を見上げた。
「欲張りなひと」
 一瞬、その瞳に鋭い光が宿った。アンジェリカは斬りつけられたかのように身がすくんだ。額に薄く汗がにじんだ。
「……質問を、変えるわ」
 アンジェリカは息を整え、気持ちを立て直すと、静かに言葉を続けた。
「私とあなたの間に何があったのか、教えて」
 ユールベルを正面にとらえ、まっすぐ彼女の瞳を見つめる。額ににじんだ汗が頬を伝った。
 ユールベルは不敵にうっすらと笑みを浮かべた。
「教えたいのはやまやまだけど、おじさまとの約束があるから」
「おじさま……お父さん?」
「そうよ」
 ユールベルはさらに畳み掛ける。
「私たちふたりの秘密の約束」
 アンジェリカの鼓動がドクンと強く打った。ユールベルは無表情のまま顔を上げ、どこか遠くを見つめた。
「おじさま、今度はいつ来てくださるのかしら。楽しみだわ。ピアノも聴かせてくださるって。でも、頻繁に会えないのが残念ね」
 夢見ごこちにそう言ったあと、急に冷たい表情になりアンジェリカを見据えた。
「あなたのせいよ」
 アンジェリカは彼女の迫力にたじろぎ、あとずさりをした。ユールベルはすぐに元の無表情に戻った。
「でもまあいいわ。ジークとは毎日でも会えるんだから」
 アンジェリカは胸を押さえ、再びじりじりとあとずさった。半開きにした口をわずかに動かし何かを言おうとしているようだったが、声が出てこなかった。やがて踵を返しユールベルに背を向けると、その場から走り去っていった。
 ユールベルは外に飛び出したアンジェリカの後ろ姿を、虚ろな目で見送った。

 アンジェリカは走った。脇目も振らず走った。校庭を一直線に横切り、門から飛び出した。
「あっ……!」
 彼女は門の外で立ち止まっていた男の背中にぶつかった。
「ごめんなさい」
 慌てて謝り、顔を上げる。その瞬間、彼女ははっとして目を見開いた。
「レオナルド!」
 アンジェリカがぶつかった男はレオナルドだった。彼の方も少し驚いていたようだった。
「ひとりとはめずらしいな」
「ちょうど良かった」
 アンジェリカは深く息をして、呼吸を落ち着けた。
「私、家出したいんだけど、どこかいいところはない?」
「……は?」
 レオナルドの声が素っ頓狂に裏返った。


39. 家出

「ここって、あなたの家じゃないの」
 アンジェリカの目の前には、彼女の家ほどではないが、かなり立派な邸宅が広がっていた。レオナルドの家である。拍子抜けしたような、あきれたような顔で彼を見上げた。
「他にあてはない」
「なるほどね」
 アンジェリカはため息まじりに言った。レオナルドはムッとして彼女を見下ろした。
「嫌なら帰るんだな」
「この際、仕方ないわね」
 アンジェリカは腕を組みながら再びため息をついた。お願いする立場であるはずの彼女が、なぜか偉そうな態度をとっていた。ケンカを売っているも同然な物言い。レオナルドにとっては面白いはずがない。
「本当に可愛げのないやつだな」
 顔をしかめて彼女をひと睨みすると、玄関へと歩き始めた。

 アンジェリカは玄関先で足を止めた。少し怯えたような表情で中を見渡す。彼女がここに入るのは初めてだった。自分のことを疎ましく思う人たちの家。いわば敵の本拠地である。彼女が躊躇するのも無理はない。
「どうした。入らないのか?」
「入るわよ」
 レオナルドに弱味を見せるわけにはいかない。アンジェリカは精一杯、突っ張った。不安な気持ちを押し隠し、前方を睨みつけながら、堂々と見えるよう大きな足どりで歩いていった。
「二階だ」
 ふたりが階段をのぼっていると、下でガチャンと大きな音がした。驚いて振り向くと、下で女の人が青い顔でこちらを見上げていた。レオナルドの母親だった。彼女の足元には壊れたティーポットやカップが散らばっていた。
「どうして、その子……」
 彼女は震える声でつぶやいた。アンジェリカの顔が曇った。
「何をしに来たの! うちまで呪われるわ、出ていってちょうだい! レオナルドあなた何を考えているの?!」
 金切り声でまくしたてる。レオナルドは母親に冷たい視線を送ると、無視して階段を上がろうとした。しかし、アンジェリカが呆然と立ちつくしていることに気がつき、彼女の手を引き、声を掛けた。
「行くぞ」
「でも……」
 アンジェリカは横目で階下を見下ろしながら口ごもった。
「気にするな」
 レオナルドは吐き捨てるようにそういうと、アンジェリカの手を強く引いて二階へと駆け上がっていった。
「レオナルド!」
 ヒステリックな声が背中に突き刺さったが、ふたりはもう振り返らなかった。

 レオナルドに促されて、アンジェリカは二階の奥の部屋へ入った。彼女の部屋には及ばないが、それでもかなり広めの部屋。全体に白が基調となっている。本棚に机、ベッド、ソファなどがゆとりをもって配置され、すっきりと清潔感にあふれていた。これがレオナルドの部屋であるとは、アンジェリカには意外に思えた。
「座れよ」
 レオナルドはベッドに腰を下ろしながら、アンジェリカにソファを勧めた。
「勘違いするなよ、さっきのこと。おまえを庇ったわけじゃない」
「反抗期ってわけ?」
 アンジェリカはソファの背もたれに体重を預けた。レオナルドは疲れたように息をつき、顔をしかめながら頭をかいた。
「反抗期は向こうの方だ。アカデミーに入ったのが気に入らないらしくてな。ますますヒステリックになってきている」
 アンジェリカはあの金切り声を思い出し、少しレオナルドに同情した。同時に、ふと疑問がよぎった。
「そもそもどうしてアカデミーに行こうなんて思ったわけ? 前に訊いたときははぐらかされたけど」
「はぐらかしてなんかいないさ」
 レオナルドはベッドに手をつき、胸をそらして上を仰いだ。
「あのとき言ったとおりだ。子供じみた強がりはやめにして、事実を受け入れることにしたのさ。から威張りしている自分が情けなく思えたんだな」
 そこでいったん言葉を切り、軽く一息ついた。そして、アンジェリカに視線を流し、さらに話を続けた。
「正直、今はおまえにはかなわないだろう。だが、いつか正々堂々とおまえを負かしてやろうと思ってな。そのために同じ舞台を選んだのさ」
「はぁ……」
 アンジェリカは気の抜けた相槌を打った。あまりに意外で呆然とした。彼が語ったことは、彼女にとって想像もしないことだった。
 しかし、どこかで聞き覚えのある話だと思った。彼女は瞬きをしながら考えを巡らせた。ふとジークの顔が、声が、頭をかすめた。
 アンジェリカはそれを打ち消すように、激しく頭を横に振った。
「何をやっているんだ」
「……別に」
 不思議そうに尋ねるレオナルドから目をそらし、軽く口をとがらせた。
「思えばおまえとまともに会話をしたことなんてなかったな」
 レオナルドはニッと笑った。アンジェリカは無表情で、彼にちらりと目を向けた。
「そうね、妙な感じだわ。……そうだわ」
 急に何かを思いついたようにレオナルドに振り向いた。
「一度あなたに訊いてみたかったんだけど」
「何でしょうか、お嬢さま」
 レオナルドはこの状況を楽しむようにニヤリとし、からかうような口調で言った。
 しかし、アンジェリカは真剣な表情で彼を見据えていた。
「私のどこが嫌い?」
「は?」
 今度はレオナルドが驚き、素頓狂な声をあげた。
「嫌いなんでしょう? 私のこと」
 さも当然のように、冷静にくり返す。レオナルドは答えに窮し、渋い顔をして首を傾げた。
「嫌いというか……話していると頭にくるのは事実だが……」
「はっきりしないわね」
 アンジェリカは冷ややかな視線を向けた。レオナルドは焦りから頬を紅潮させ、彼女を睨み返した。
「自分はどうなんだ」
「私はあなたのことが嫌いよ」
 アンジェリカは事もなげに、さらりと言った。
「……ずいぶんはっきり言うな」
 レオナルドは言葉を失い、とっさに返事ができなかった。好かれていると思っていたわけではないが、面と向かって言われるとさすがに動揺してしまう。
「当然よ。あれだけ嫌なことを言われ、嫌なことをされれば、誰だって嫌いになるわ。肩のやけどだって痛かったんだから」
 眉間にしわを寄せ、口をとがらせながらそう言うと、レオナルドに焼かれた肩を手で押さえて見せた。
「あー、悪かったと言っただろう」
 思いきり顔をしかめ頭をかくと、面倒くさそうに言った。
「でも……」
 憂いを含んだアンジェリカの声に反応して、レオナルドは手を止めた。
「今は嫌いなあなたと一緒にいる方が気が楽だわ」
 誰に向けるともなく、寂しげな儚い笑顔を浮かべる。
「これ以上、裏切られなくてすむもの」
 レオナルドは複雑な面持ちで、彼女の横顔を見つめた。

 夜も遅くなり、ふたりは部屋を暗くして寝ていた。レオナルドは自分のベッドで、アンジェリカはソファで、それぞれ静かに寝息を立てている。
「レオナルド! レオナルド!!」
 部屋の外から金切り声が響き、扉が勢いよく開けられた。廊下から明かりが広がり、部屋を薄く照らす。
「……んだよ」
 レオナルドは半分寝ぼけて、目をほとんど閉じたまま上体を起こした。白いシルクのパジャマが薄明かりに反射した。
「お嬢さまのお迎えが……」
 レオナルドの母親が震える声で言いかけた。と同時に、後ろから怖い顔をした男性が姿を現した。サイファだった。彼は無遠慮に部屋に踏み入り、ぐるりとあたりを見まわした。そして、奥のソファにアンジェリカを見つけると、早足で歩み寄った。静かに膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。その寝顔を目にすると、表情を和らげ、小さく安堵の息をもらした。
「帰るよ、アンジェリカ」
 サイファは彼女の耳もとで優しくささやいた。アンジェリカはようやく目を覚ました。
「……どうして……ここは、どこ……?」
 ぼんやりした頭でサイファの顔を確認する。そして、ゆっくりとあたりを見まわした。見慣れない天井、見慣れない部屋。ようやく思い出してきた。ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか——。
「わたし、家出したのよ。だから帰らない……帰りたくないの]
 横になったまま体を丸め、サイファから視線をそらせた。
「言いたいことがあるのなら聞くよ」
 優しい声、穏やかな表情。だが、その中にどことなくつらそうなものを感じて、アンジェリカの胸に痛みが走った。しかし、彼女にも意地があった。素直に帰るわけにはいかない。目をきつく閉じ、首を横に振った。
「とりあえず帰ろう」
 サイファはにっこりと笑いかけ、アンジェリカへと手を伸ばした。だが、彼女はその手をピシャリと払いのけた。
「帰らない」
 震える声で思いつめたように言うと、毛布を頭からかぶり背中を向けた。
「本人が帰らないと言っているだろう」
 今まで黙って見ていたレオナルドが、ベッドの上から口をはさんだ。サイファは勢いよく振り返ると、激しく彼を睨みつけた。
「おまえは黙っていろ」
 ぞっとするほど冷たい瞳、冷たい声。レオナルドはすくみ上がり、言葉をなくした。
 サイファは再びアンジェリカに向き直った。毛布ごしの背中にそっと手を置き、顔を近づけ哀願した。
「お願いだ、一緒に帰ってくれ」
 アンジェリカは毛布の奥で首を横に振った。
「お願い、しばらくそっとしておいて」
 感情のないその声に、サイファは拒絶を感じた。今は何を言っても無駄かもしれない。引き裂かれるような胸の痛みをこらえながら、彼女の背中からそっと手を引いた。
「……わかった。あしたは帰っておいで。待っているから」
 サイファは無理に笑顔を作り、穏やかに言った。そのあと、真剣な表情になると、まっすぐ彼女の後ろ姿に目をやった。
「これだけは信じてほしい。私たちは誰よりもアンジェリカのことを大切に思っている」
 そう言うと、もういちど彼女の背中に手を置いた。そして、静かに立ち上がり、その場をあとにした。
 アンジェリカは遠ざかる足音を耳にして、急に不安に襲われた。だが、振り返ることはしなかった。
 サイファは部屋を出る間際、目とあごでレオナルドを呼びつけた。彼は一瞬、躊躇したが、素直に従った。音を立てないようベッドを降り、サイファに続いて部屋を出ていった。

 サイファ、レオナルド、彼の母親の三人は、階段を降りたところで足を止めた。
「理解ある父親を演じるのは大変ですね」
 レオナルドは鼻先で笑いながら言った。
「何を企んでいる」
 サイファはレオナルドに振り向くと、低くうなるような声で詰め寄った。
 レオナルドは背筋に寒気を感じ、ごくりと息をのんだ。宴の日のことが彼の脳裏によみがえった。額に汗がにじむ。それでも不敵ににやりと笑って見せた。
「行くあてもなく困っていたお嬢さまをお助けしただけですよ」
 サイファはレオナルドの胸ぐらに掴みかかりたい衝動に駆られた。だが、理性でそれを堪えた。手のひらに爪が食い込むほど、強くこぶしを握りしめた。
「わかっているだろうな。娘に何かしてみろ。ただではおかない」
 こみ上げてくるものを抑えながらそう言うと、冷たく切りつけるような視線でレオナルドを睨みつけた。レオナルドの心臓はぎゅっと縮みあがった。体全体に寒気と痺れが走り、額からは冷や汗が吹き出した。それでも彼はサイファに挑むことをやめなかった。
「何もするつもりはありませんよ。あなたとは違いますから」
「な……に?」
「レオナルド!! いいかげんにしなさい!!」
 金切り声がふたりの会話を遮った。
「サイファさんも、今日のところはお引き取り願います。お嬢さまは丁重にお預かりしておきますから」
 彼女は疲れた顔で、突き放すように言った。サイファはその言葉を耳にして、ようやくいつもの冷静さを取り戻した。そして、彼女に深々と頭を下げた。
「夜分にお騒がせして申しわけありませんでした。アンジェリカのこと、よろしくお願いいたします」
 丁寧にそう言うと、扉を開け外へと出ていった。

 レオナルドが部屋に戻ると、アンジェリカは両膝を抱え、毛布にくるまり、ちょこんとソファに座っていた。不安そうな表情で、おずおずと尋ねかける。
「お父さんは?」
「帰った」
「そう……」
 安堵と落胆の入り混じった息をつき、目を伏せた。そして、曇った顔を膝の上にのせると、小さくひとりごとをつぶやいた。
「やっぱり帰ればよかったかしら」
 レオナルドは扉を閉めた。部屋はたちまち真っ暗になった。カーテンの隙間からのぼんやりしたわずかな光で、なんとかお互いの姿を確認することだけはできる。
「そんなことでは、なめられるぞ。一日くらいまともに家出をしてみろ」
 レオナルドはそう言いながらベッドに入った。
「そうね」
 アンジェリカは寂しげに目を細めた。
「おやすみなさい」
 彼女は深めに布団をかぶっているレオナルドに声を掛けた。だが、彼からの返事はなかった。


40. 不条理な交渉

「来たよ!」
 リックは目を凝らして遠くを見ながら声をあげた。そして、アカデミーの門柱に寄りかかっているジークの肩を、急かすように軽く二度たたいた。ジークは腕組みをしながら暗い顔でうつむいていたが、彼に促されると、顔を上げその視線を追った。朝靄の中に小さな影がふたつ、だんだんと近づいてくる。ひとつはアンジェリカ、そしてもうひとつは……。

「あら、おはよう、ジーク」
 恐い顔で仁王立ちしているジークを見上げて、アンジェリカは少しとぼけたようにあいさつをした。
「なんでコイツと一緒なんだ。まさかきのうおまえが泊まったのって、コイツのところじゃねぇだろうな」
 ジークはアンジェリカと並んで歩いていたレオナルドを指さしながら彼女に詰め寄った。レオナルドは眉をひそめて、鼻先に突きつけられた指を払いのけた。ジークはあからさまにむっとして、レオナルドを睨みつけた。
「そうよ。いいでしょう、別に」
 アンジェリカはつんとしてそう答えた。しかし、それと同時にふと疑問を感じた。ジークの口ぶりは、まるで自分が家出をしたことを知っているかのようだった。父親に聞かされたのかもしれない。だが、それならなぜレオナルドのところにいたことは知らなかったのだろう。
「良くねぇよ!」
 ジークの大きな声がアンジェリカの思考を現実に引き戻した。
「なんでよりによってコイツなんだよ! ラウルならまだわかる……いや、アイツも良くねぇが……」
 出だしの勢いはどこへいったのか、次第に歯切れ悪く口ごもっていった。アンジェリカは呆れ顔で彼を眺めていた。
 レオナルドは何かを思いつき、小さくニヤリと笑った。
「こんなやつらは放っておいて早く行こうか、アンジェリカ」
 優しさを装ってそう言いながら、アンジェリカの肩を強く引き寄せた。彼女は不意をくらい、よろけてレオナルドの胸に寄りかかる格好になった。
 ジークは目を大きく見開き、息をのんだ。言葉は出てこなかった。リックも隣で目をぱちくりさせていた。
「ふざけないで」
 アンジェリカは体勢を立て直すと、レオナルドの手を冷たく払いのけた。
 彼の小さな悪だくみはあっさりと崩れ去った。ジークに反発している今の彼女なら乗ってくるかもしれないと思ったが、にべもなく拒絶された。ジークへ精神的なダメージを与えたかったのだが、逆に自分の方が軽くダメージを受けてしまった。
 少し寂しそうな彼を残し、アンジェリカは早足で歩き出した。無表情でジークとリックの間を突っ切っていく。ふたりは慌てて彼女を追った。レオナルドもその後ろからついていった。
「きのうのこと、怒ってるんだろ」
 ジークは神妙な面持ちで、後ろから静かに声を掛けた。「きのうのこと」とは、図書室でアンジェリカを残しユールベルに会いに行ったことだ。そのときに彼女はいなくなった。だから、それが原因としか考えられなかった。わずかに見える彼女の横顔をちらりと窺う。その表情から感情は読み取れなかった。
「怒っているわけじゃないわ」
 アンジェリカは前を向いたまま答えた。小さいがはっきりとした声だった。それでもジークはその言葉を素直に受け取っていいものか迷っていた。
 彼女は淡々と話を続けた。
「ただ少しショックだっただけ。ジークのことだけじゃなくて……いろいろあったのよ」
 ジークは強く締めつけられる思いがした。
「裏切ったわけじゃない。わけを話す」
 耐えきれなくなった彼は、思わず弁解めいたことを口にした。
「いいわもう。だいたいわかったから」
「わかったって……」
 そこまで言って、ジークははっとした。眉をひそめ、嫌な顔で後ろを振り返る。
「まさかおまえが言ったのか、あのときのこと……」
 押し殺した声でそう言い、レオナルドを苦々しげに睨みつけた。ユールベルにハンカチを返しに行ったとき、レオナルドは一部始終を見ていた。そして、そのことをアンジェリカに言いかねない様子だった。自分を嫌っている彼のことだ。あることないことを吹き込み、アンジェリカと自分を引き離そうとしても不思議ではない。
「あのときのことって? レオナルドが何か知ってるの?」
 アンジェリカは足を止め振り向いた。ふたりを眺めながら、きょとんとして尋ねた。
「え?」
 今度はジークがきょとんとした。
「くっ……はっはははは! 自爆とは愚かな奴だ」
 レオナルドは空に向かい、はじけたように高笑いをした。
 彼の言うとおり自爆だった。レオナルドは何も言ってはいなかったようだ。ジークはやり場のない悔しさを抱え、歯をくいしばり耳を赤くした。目の前の嫌味な男を、ただ恨めしく睨むことしかできない。
「なんだ、逆恨みか?」
 レオナルドはせせら笑いながらジークを挑発した。斜めにあごを上げ、ニヤニヤした目を流す。ジークはこぶしをぐっと握りしめ、煮えたぎる気持ちを抑え込んだ。
「話してくれなくてもいいわよ」
 アンジェリカは無表情で言った。
「え?」
 ジークは驚いて振り返った。さっきからどうもアンジェリカの様子がおかしい。まるで自分にまったく興味がないかのようだ。もしかしたら、もう愛想をつかされてしまったのだろうか。ほんの一瞬のうちにそんな考えが頭を駆け巡った。
 アンジェリカはジークから目をそらせた。
「だいたい見当がつくもの」
 ため息まじりにそう言うと、腕を組んだ。
「どうせユールベルに振り回されたって話なんでしょう?」
 ジークは彼女がそう考えていることに驚いた。口調からして、怒りの矛先は自分ではなくユールベルに向いているようだ。何か知っているのだろうか。それともユールベルとの間に何かあったのだろうか。
「……いや、そうじゃなくてな」
 なんと説明しようか迷いつつ、口を切った。振り回されたといえばそうだが、それだけではない。だが、下手にユールベルを弁護するようなことを言っては、アンジェリカの機嫌を損ねてしまうだろう。
 アンジェリカは視線を戻し、大きな瞳を彼に向けた。何かを秘めたような真剣な表情。彼はごくりと息を呑み、言葉を失った。
「ジークのことは信じてる。それでいいじゃない」
 アンジェリカは真顔でそう言ったあと微かに笑った。そして、ジークに背中を向け、アカデミーへと駆けていった。

 夕方になり、終業を告げるベルが鳴った。
 アンジェリカは帰り支度をすると、ジークの席へと小走りで向かった。しかし、彼はだらしなく大口を開けてあくびをすると、机の上に腕を投げ出し突っ伏した。
「ずいぶん眠そうね」
 アンジェリカはこんなジークを見るのは初めてだった。彼は机の上で、再び大あくびをした。
「さっきの授業、ずっと寝てたよね。ラウルに気づかれてたよ」
 リックは彼を見下ろして笑いかけた。ジークもつられて表情を緩めた。
「まあ、あいつも今日くらいは大目に見てくれるだろ」
「今日くらいって?」
 アンジェリカはきょとんとして尋ねた。
「あ……」
 今日のジークは口を滑らせてばかりだった。リックは肩をすくめ苦笑いした。
「実は、きのう、アンジェリカがいなくなったことで大騒ぎだったんだよ。ラウルもあまり寝てないんじゃないかな。クラスメイト全部に連絡してるはずだし。ジークも責任を感じてずっと……」
「リック!」
 ジークの強い制止により、リックはそこで言葉を止めた。大まかな説明は仕方ないにしても、彼女の負担になるだけの余計な話はしてほしくない——ジークはそう思った。しかし、アンジェリカはそれだけ聞けば十分だった。
「……ごめんなさい」
 下を向き小さな声でぼそりと謝った。急にまわりからの視線が気になり始めた。落ち着かない。今すぐこの教室を出たい、そんな衝動に駆られた。
 しかし、ふたりはそのことに気がつかなかった。彼女が真摯に謝っているのだとしか思っていなかった。リックはにっこり笑いかけた。ジークも机に伏せたまま顔だけ横に向け、ほんの少し笑ってみせた。アンジェリカはとまどいながらぎこちない笑顔を作って返した。

「でもよりによってレオナルドのところだったとは思わなかったよ」
 リックは意外だということを強調するように、大げさな抑揚をつけて言った。
「ああ、でもおかしいとは思ったぜ。サイファさん、教えてくれなかったからな。アンジェリカを見つけた場所」
 ジークは体を起こし、帰り支度を始めた。教本を無造作に鞄に放り込む。
「そりゃ、言えないよね」
 そう言ってリックはくすくす笑った。ジークは何がそんなにおかしいのかと思いながらも、つられてなんとなく笑った。
 アンジェリカはその会話を聞いて、ようやく今朝の謎が解けた。家出をしたことは知っていたのに、レオナルドのところにいたことは知らなかった——。それはこういうことだったのだ。ただ、なぜサイファが黙っていたのかということまでは、彼女には理解できなかった。

「今日はちゃんと帰るんだろ」
 ジークはアンジェリカに振り向いて尋ねた。
「ええ、そのつもりよ」
 アンジェリカは鞄を後ろ手に持ちかえた。一晩の家出だけでだいぶ気は済んだ。これ以上、両親やジークたちに心配や迷惑をかけるわけにもいかない。それに、逃げたところで何も解決などしない。冷静になってそのことがよくわかった。
「送っていく」
 ジークは立ち上がり、鞄を肩に引っ掛けた。
「え? いいわよ別に。眠いんでしょう?」
 アンジェリカは少しあせったように、早口でそう言った。しかし、ジークは彼女に顔を向けると、にっと白い歯を見せた。
「またいなくなられたら、それこそ眠れねぇからな」
 アンジェリカには返す言葉がなかった。観念したようにため息をつくと、暗い声でぼそぼそと言った。
「帰る前に、寄るところがあるんだけど……」
「どこだ? 一緒に行くぜ」
 アンジェリカは上目遣いでじっとジークを見つめた。
「……ユールベルのところ」
「え?」
 ジークの笑顔が凍りついた。

「ジーク、本当についてくるわけ? ジークがいると話がしづらいんだけど……」
 アンジェリカは眉をひそめて困ったような顔を見せた。
「ひとりで行かせるわけにはいかねぇよ」
 ジークは前を向いたまま冷静にそう言った。だが、内心は穏やかではなかった。アンジェリカはともかく、ユールベルはどういう言動をとるのか読めないだけに怖い。アンジェリカの前で、また抱きつかれでもしたら、自分はどういう態度をとればいいのだろうか。考えると頭が痛くなった。
 リックも一緒なのが唯一の救いだった。いてくれるだけでありがたい。ユールベルとアンジェリカの間にひとりなど、とてもいたたまれない。ジークはすがるような気持ちで彼を見た。リックがその視線に気がつき振り向くと、ジークは慌てて目をそらせた。

 一年生の教室に着いた。授業が終わってから時間が経っているせいか、残っている生徒はもう半分以下になっていた。
 三人は戸口から覗き込んでユールベルを探した。しかし、姿は見当たらない。
「なんだ?」
 教室に残っていたレオナルドが、立ち上がって声を掛けた。
「あなたに用なんてないわよ。私が探しているのはユールベル」
 アンジェリカは目もあわさず冷たくあしらった。レオナルドはむっとして、恨めしそうな視線をジークとリックに向けた。ジークも負けじと睨み返した。
「彼女なら帰ったはずだ」
 レオナルド再び席につくと、ぶっきらぼうに言った。
 ジークは拍子抜けした。もっと嫌味を言ったり、突っかかったりしてくるかと思った。それどころか、頼んでもいないのに、彼女のことを親切に教えてくれた。素直にそれを信じていいものか疑問に思ったが、どちらにしろジークにとって嬉しい情報だった。ユールベルが帰ったと聞けば、アンジェリカもあきらめるだろう。ほっとして安堵の息をもらした。
 アンジェリカは踵を返し、玄関へと向かった。
「帰るんだな?」
 ジークの声は弾んでいた。
「居場所の見当はついているわ」
 アンジェリカはまっすぐ前を見据えて言った。そして、さらに足を速め、迷いなく進んでいった。

 三人はアカデミーの外れにある小さな礼拝堂へやってきた。ジークもリックも、ここへはほとんど来たことがない。ふたりはさびれた建物を眺めまわした。
「こんなところにいるのか? そもそもなんでそう思うんだ?」
 アンジェリカはジークの問いに答えず、無言で扉を押し開けた。
「ユールベル、いるんでしょう」
 アンジェリカの声が小さな礼拝堂の中に反響した。しかし返事はなかった。それきり静まり返った。
「いないんじゃないの?」
 リックが後ろから覗き込んで、あたりを見渡した。
「もう帰ろうぜ」
 ジークはいらついた様子で急かした。
 ——コトン。
 どこかで小さな音がした。アンジェリカに緊張が走った。
 ——ギギ……。
 いちばん後ろの長椅子から、金の髪がむくりと現れた。そして、合間からのぞく白い包帯。ユールベルだ。彼女は顔を上げ、三人を虚ろに見つめた。
「ジーク、来てくれたのね」
 ユールベルはぼうっとした調子でそう言うと、長椅子の上に立ち上がった。さらに背もたれに素足を掛けてのぼり、まっすぐに背筋を伸ばしたままつま先立ちをした。薄地の白いワンピースとウェーブを描いた金色の髪が、風を受け、緩やかに舞う。そして左から差し込むステンドグラスの光は、彼女を色とりどりに輝かせた。風が吹くたびに形を変え、きらめきを放っている。
 ——天……使……。
 そんな言葉がふとジークの脳裏をよぎった。彼はだらしなく口を開けて彼女を見上げている。リックも惚けた顔で、彼女を瞳に映している。アンジェリカだけが固唾を飲んで、ユールベルの次の行動にそなえ身構えた。
 ユールベルは目を細めてジークを見下ろすと、わずかに表情を緩めた。そして、顔を天に向け瞳を閉じると、体を伸ばしたまま、前に倒れていった。
 ジークは吸い込まれるようにそれを見ていた。しかし、彼女の足が背もたれから離れたのを目にすると、はっと我にかえった。
「危ねぇ!」
 ジークは彼女の落下地点に滑り込み、ぎりぎりで彼女を受け止めた。冷たい床の上でふたりは重なった。
「げほっ」
 ジークは苦しそうにむせた。
「ジーク!」
 アンジェリカとリックが同時に叫び、駆け寄った。
「な……なんでもねぇ。ちょっと打っただけだ」
 ジークはまだ苦しそうに顔をしかめ、つぶれた声で言った。
 ユールベルは彼の胸の上で肩を震わせくすくすと小さく笑っていた。そして、かぼそい指を彼の頬に這わせ、小さな声でささやいた。
「あなたなら、助けてくれると思った」
 喉元にかかる熱い息、鼻をくすぐる甘い匂い。平静を装ってはいたが、耳元が紅潮していくのは止められなかった。
「ユールベル、あなたどういうつもり?!」
 アンジェリカは耐えかねて叫んだ。しかし、ユールベルは答えなかった。
 ジークはユールベルを抱きかかえながら体を起こして座った。そして、小さく息をつくと、脚の上の彼女をそこから下ろそうとした。しかし、彼女はジークの背中に手をまわし、離してはくれなかった。彼はそれを振り切るほど非情にはなれなかった。
「あ……あのな……」
 そんな困りきった弱々しい声をもらすのが精一杯だった。
「あなたに用があってここに来たのは私よ」
 アンジェリカは今度は冷静に言った。腕を組み、ユールベルを冷たく見下ろした。
 ユールベルはジークの肩ごしにアンジェリカを見上げて、うっすらと不敵に笑った。アンジェリカは一気にカッと頭に血が上った。組んだ腕の中で強くこぶしを握りしめ、きゅっと下くちびるを噛んだ。
 ジークは背中に妙な空気を感じ、冷や汗がにじんできた。
「あのな、ユールベル……」
 彼は再びそう切り出した。だが、彼女はまわした手の力をよりいっそう強めた。無言の返事。ジークは言葉を続けられなかった。
「ユールベル、私の話を聞いて」
 アンジェリカは低く抑えた声で言った。しかし、そこからは隠しきれない苛立たしさがにじんでいた。
「聞いているわよ」
 ユールベルはジークに寄りかかったまま返事をした。その声はどこか愉しげで、まるで挑発しているかのようだった。
 アンジェリカは軽く目を閉じため息をついた。それからゆっくりとまぶたを上げ、強いまなざしをユールベルに向けた。
「私と対戦してほしいの、VRMで」
 ユールベルの瞳に鈍い光が宿った。
「た……対戦?!」
「なに言ってんだおまえ!」
 リックとジークは驚いた声をあげながら、アンジェリカに振り向いた。

 VRM(ヴァーチャル・リアリティ・マシン)は仮想空間を作り出し、そこへ現実世界の人間を投影させる機械である。神経信号を読みとり仮想空間に即時に反映させる。また、仮想空間で受けた刺激は、そのまま神経信号として脳に送られる。それにより触覚も痛覚もリアルに感じることができるのだ。以前、アンジェリカとジークが戦ったとき、許容を超える信号によりジークが失神するという事件があった。ヴァーチャルとはいえ危険な代物であることは間違いない。

 ユールベルは動じていなかった。
「目的は何?」
 彼女がそう言うと同時に突風が吹き込み、アンジェリカの髪を後ろからさらさらと舞い上がらせた。そして、スカートのはためく音があたりに広がった。やがて風がやみ、もとの静けさを取り戻すと、アンジェリカはゆっくりと口を開いた。
「私が勝ったら……昔、私たちの間に起こったことを教えて」
 その真剣なまなざしに、ユールベルは意味ありげな笑顔を返した。
「私におじさまとの約束を破れというの?」
「ええ。あなたも相応の望みを出してくれていいわ」
 アンジェリカは負けじと強気な態度を示した。
「そうね……」
 ユールベルはそう言いながら、アンジェリカの反応を愉しむかのようにもったいつけた。
「私は……ジークをもらうわ」
 彼の肩に口を押し当て、上目遣いでアンジェリカを見つめた。明らかにアンジェリカを挑発している。
 しかし、アンジェリカは冷静だった。その挑発にはのらなかった。
「ジークは関係ないでしょう。他のことにして」
 あきれたと言わんばかりに、わざと大きくため息をついて見せた。だが、ユールベルは引かなかった。
「関係あるかどうかなんて知ったことじゃない。ジークがほしい、ただそれだけ。他の条件では受けないわよ。どうするの?」
 アンジェリカはきゅっと口を結び、難しい顔で考え込んだ。そして、ひとつの結論を出した。
「……わかったわ」
「おい! 『わかったわ』って何だよ! 俺の意思はどうなるんだ!!」
 ジークは振り返り、焦って大声でまくしたてた。彼女がそんな条件を受けるとは微塵も思わなかった。驚くと同時にどこか寂しい気持ちになった。
「悪いけどジーク、条件をのんで。絶対に私が勝つから」
 強い意志を秘めた瞳をまっすぐジークに向ける。彼は困ったように目をそらせた。
「随分な自信ね。私のことなんて何も知らないのに」
 ユールベルは冷たい笑顔を浮かべた。しかし、アンジェリカは眉ひとつ動かさなかった。
「あなたがどんな力を持っていようと私が勝つ。それだけよ」
 自らに言い聞かせるようにその言葉を噛みしめると、ユールベルをじっと見下ろした。
「待てよ。俺は取引の道具に使われるなんてゴメンだぜ。俺にはなんのメリットもねぇしな!」
 ジークはやってられないとばかりに、床に手をついて上を向き、投げやり口調で言った。アンジェリカは一瞬きょとんとして、それから緩く頷きながら考え込んだ。
「じゃあこうするわ。私が勝ったら、何でもひとつジークの言うことをきく。それでどう?」
「そんなの不公平よ」
 ユールベルは間髪入れずにアンジェリカのあとに続けた。そして、ジークに顔を近づけた。
「私が勝ったら、私がジークの願いをかなえるわ」
「お、おまえらに頼みたいことなんてなんもねーよ!」
 ジークはユールベルから逃れるように体を後ろにそらせた。
「……お願い、ジーク」
 今までとは違うアンジェリカの弱々しい声。ジークは思わず振り向いた。
「私、どうしても自分の過去を知りたいの。なくした記憶を埋めたいの」
 思いつめた表情、泣きそうな声、哀願する瞳。こんなものを見せられては拒否することなどできない。どうすればいい……。ジークはくちびるを噛みしめた。
「あの、取り込み中、悪いんだけど」
 リックが遠慮がちに口をはさんできた。
「大事なことを忘れてない? VRMでの人間と人間の対戦はもう禁止されてるんだよ」
 リックの言うとおりだった。アンジェリカとジークの一件が原因なのかはわからないが、それからしばらくして通達が出た。VRMの使用は対プログラム(仮想人間)のみに限定するというものだ。
 アンジェリカはそれを忘れていたわけではなかった。
「ラウルに頼めばなんとかなるわ」
 彼女はしれっとして言った。
「ならなかったら?」
「……そのときは、そのときよ」
 何か、彼女には思うところがありそうだった。リックの心に不安が広がった。
「いいわね、そういうことで」
 アンジェリカはユールベルとジークに向き直り、強く念押しした。ユールベルは返事の代わりに挑戦的な笑みを返した。ジークは相変わらず困り顔で返答に迷っていた。
「それじゃ、ユールベル」
 アンジェリカは冷たく無表情にそう言うと、背を向け外へと出ていった。
 リックはジークに目配せした。ジークは我にかえり、脚の上のユールベルを下ろそうとした。それを察知した彼女はまた腕を伸ばしてきたが、今度はそれを阻止した。
「悪いな」
 短くそう言うと、さっと立ち上がり、リックと連れ立って走り去った。
 ユールベルはオレンジ色に照らされたジークの後ろ姿を無言で見送った。

 ザッ、ザッと砂を踏みしめながら、三人は校庭を横切り門へと向かう。空は赤く染まり、三つの長い影を地面に映し出していた。
「本気……なんだよね?」
 リックは横からアンジェリカを覗き込みながら、おそるおそる尋ねた。
「もちろんよ」
 彼女は前を向いたまま、きっぱりと言い放った。
「おっまえなぁ……。どうしてくれるんだよ。意味わかってねぇんだろ。ユールベ……」
「ジークをひとりじめにしたいってことでしょう? まったく子供じみたことを言ってくれるわ」
 アンジェリカはジークの言葉を遮り、やや感情的にまくしたてた。
「……まぁ……そう……だな」
 歯切れ悪く、ジークはあいまいな返事をした。彼女の考えはどこかずれているような気がしたが、それを指摘するだけの確信が、彼の側にもなかった。ユールベルが何を考えているか、それは彼女自身にしかわからないことだ。
「だいたいジークがついてきたから、ややこしいことになったんじゃない」
 アンジェリカはおさまらない怒りの矛先をジークに向けた。
「俺が悪いってのかよ!!」
「私にはこんなにえらそうなのに、どうしてユールベルには強気に出ないのよ」
「そ……そんなことねぇだろ!」
「自覚がないわけ?!」
「関係ねーだろ!!」
 リックは隣であきれたように苦笑いしていた。このくらいの言い合いは日常茶飯事である。そして、こんなことではふたりの絆は壊れないということを、リックはわかっていた。
 ひとしきり言い合いをしたあとで、アンジェリカは思いついたように、小さく「あっ」と声をもらした。
「お父さんやお母さんには言わないでよね」
 ジーク、そしてリックへと、念を押すように視線を送った。
「さあな。サイファさんに問いつめられたらしゃべっちまうぜ、俺は」
 ジークは頭の後ろで手を組んで、空を見上げた。
「僕たちが黙ってても、ラウルが黙ってないと思うよ。頼むんでしょ? VRMのこと」
 リックはアンジェリカの横顔を見つめた。
「もちろんラウルには口止めするわ。何がなんでもね」
 強い決意を秘めた表情。それを見たふたりは、もう彼女を止めることはできない、そう思った。
 ジークの心には不安が渦巻いていた。戦い自体はもちろんだが、それ以上に彼女の望みが心配だった。サイファが過去のことをひた隠しにしているのは、アンジェリカのことを思ってのことだろう。それを彼女が知ってしまうのは、果たして彼女のためになるのだろうか。だからといって彼女の負けを望むわけにはいかない。
「大丈夫よ、ジーク。絶対に勝つから。私を信じて」
 アンジェリカはジークを見上げてにっこり笑った。
「……ああ」
 ジークは複雑な顔でそう返事をすることしかできなかった。



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