目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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32. 友の思い、親の思い

「本当にごめんなさい! わざとじゃない……のよ?」
 アンジェリカは顔の前で両手を合わせると、申しわけなさそうに、上目づかいでジークとリックを見た。
「てっきりジークが怒らせたからだと思ってた」
 リックはちらりとジークを見ると、何か言いたげに目に笑いを含ませた。それから、アンジェリカに向き直るとにっこり笑いかけた。
 ジークは顔を伏せ、耳を赤くしていた。

 昨日の夕方、アンジェリカはジークの制止を振り切り、ラウルの後を追っていった。そしてその途中、自分たちが解除した結界を元に戻していった。いや、新たに結界を張り直したといった方が正しいだろう。そして、それは元のものとは比べものにならないほど強力なものだった。
 彼女が意識をしてやったというわけではない。何気なく扉を閉めるくらいのつもりで張った結界だった。しかし、ジークとリックを屋上に締め出すには十分な強さを持っていた。ふたりがかりでもなかなか破ることができず、悪戦苦闘していたところへ二年の担任が通りかかり、助けられたというわけだ。
 ついでに大目玉をくらってしまったことは言うまでもない。
 それでも、どんなに問い詰められても、ふたりはアンジェリカのことは一言も口にはしなかった。

「ほとんど無意識だったのよ」
 アンジェリカは肩をすくめた。
「多分、ラウルが元に戻しておけって言ってたことが、頭に残っていたからだと思うけど」
「これもアイツの計算だったんじゃねぇかと疑っちまうくらいだな」
 ジークは小声でぼそぼそと言うと、乾いた笑いを浮かべた。

 三人は食堂の隅のテーブルに席をとった。
「それで、ユールベルとかいう子のことは何か聞けたの?」
 昼食をのせたトレイを机に置きながら、リックが尋ねた。
 アンジェリカは椅子に腰を降ろすと、ほおづえをついた。
「それが全然。少し診察して、よくわからない質問をいくつかされて、それだけ。いくら聞いても答えてくれなかったわ」
 不機嫌にそう言うと、コップを手に取り、水をひとくち飲んだ。ジークは勢いよくパンを頬張り、スープを流し込んだ。
「あんな気になることを言っといて、どういうつもりなんだかな」
「うん……」
 さすがにアンジェリカも、これには同意せざるをえなかった。言葉を呑み込み、フォークでサラダをつつきながら、目を伏せていた。
「そのラウルの質問って、どんな質問だったの?」
 リックはスープを片手に、少し頭を低くしてアンジェリカを覗き込んだ。
 彼女は瞬きをしながら小首を傾げた。
「小さい頃のこととか……憶えているかどうか確かめたかったみたいだけど、よくわからないわ」
「ラグランジェ家のことなら、サイファさんかレイチェルさんに聞けばいいんじゃねぇのか?」
 ジークは名案を思いついたといわんばかりにパッと顔を輝かせ、プチトマトを突き刺したフォークでアンジェリカを指した。
「もちろん聞いたわよ」
 彼女は当然のことのように言った。しかし、その声からは明らかに不満が感じとれた。さらに顔を曇らせ、頬をふくらませると、背もたれに身を預けた。
「でも全然。昔に何度か顔を見かけただけであまり知らないとか言っていたけど、絶対にあやしいわ。何かを隠してるみたいだったし……」
 フォークを握りしめたまま、しばらく考え込んでいたかと思うと、突然机に手を置き、身を乗り出した。
「ねぇ」
「ん?」
 ジークとリックは口にパンを頬張ったまま、アンジェリカを見た。
「ふたりから聞いてくれないかしら。私には言わなくても、ふたりになら話してくれるかもしれない」
 アンジェリカの思いつめた表情に、ふたりは言葉を発することができなかった。そもそも彼女が人に何かを頼むということ自体がめったにないことだ。どれほど彼女が必死であるかは察して余りある。
「ね?」
 彼女は不安げに言葉をつけ加えると、返事のないふたりをじっと見つめた。
「あ……ああ」
 ジークはぎこちなく頷いた。

 授業が終わり、皆それぞれ帰り支度を始めていた。ジークも鞄を開け、本をしまおうとしていた。そこへ——。
「ジーク」
 教壇からの無愛想な声が彼を呼んだ。ジークは顔を上げ、声の主に対抗するかのように、精一杯の仏頂面を見せた。
 ラウルはそれ以上、何も言わなかった。教壇からただ無表情でジークを見ていた。その目が彼を呼んでいた。ジークはしぶしぶ立ち上がり、教壇へと歩いていった。ラウルは二つ折にされた紙切れを、人さし指と中指の間に挟んで差し出した。
「サイファからの預かりものだ」
 ジークは少し眉をひそめると、それをそっと引き抜いた。
「アンジェリカに悟られぬように、ということだ」
 言うことだけ言うと、ラウルは教本を脇に抱え、さっさと出ていってしまった。
 ジークはしばらく怪訝な顔でラウルの姿を目で追っていたが、ふいに自分の手元に視線を戻し、渡された紙を広げてみた。
 ——本日、リックと二人で例の酒場へ。
 中央に短くそれだけ書かれていた。そしてその右下にはサイファのサインが入っていた。ジークはそれを一握りすると、ズボンのポケットに突っ込んだ。
「どうしたの?」
 振り返ると、アンジェリカが大きな瞳で不安げにじっと見つめていた。
「ああ……。きのうのお小言だ。心配するな」
 うつむき加減で少し早口にそう言うと、ジークは帰り支度の続きを始めた。

 三人は並んで歩き、外に出た。
 正門の隣にはまだ合格発表の紙が張ってあった。ちらほらと見に来ている人もいる。
 その中にひときわ目を引く、鮮やかな金の髪の少女がいた。アンジェリカよりやや年上くらいだろうか。半そでの白いワンピースから伸びた腕と脚は、折れそうに細い。緩くウェーブを描いたブロンドは腰まで達している。右の瞳は深い森の湖を思わせる蒼色、そして左目は白い包帯で覆い隠されていた。
 ——ユールベル……か?
 ジークはなぜだかそう直感した。そして、隣のふたりも同じように直感していた。
 気配を察したのか、少女がゆっくりと三人の方へ振り向いた。長いブロンドが風になびき、光を受け、きらきらと輝いた。
 アンジェリカは息を呑んだ。

「あら、アンジェリカ。今から帰るの?」
 背後からの声。調子が狂うくらいに明るい。アンジェリカが目を丸くして振り返ると、そこには優しく微笑むレイチェルが立っていた。
「どうしたの?!」
 アンジェリカは驚いて、思わず語気を強くした。アカデミーの正門からレイチェルが出てくるなど、思いもしなかった。
「今日はこちらに来る用事があったのよ」
 レイチェルはにっこり笑った。
「一緒に帰りましょう」
 アンジェリカはこくんと頷いた。レイチェルはジークとリックに一礼し、「それでは」と屈託のない笑顔で言った。そして、アンジェリカの背中に手をまわすと、歩みを促した。
 そのとき、アンジェリカは向かいの包帯少女がじっとこちらを見ていることに気がついた。いや、そんな気がしただけかもしれない。少女は無表情で、目の焦点もはっきりとは合っていない様子だった。
 アンジェリカは落ち着かない気持ちになった。言いしれぬ不安、恐怖にも似た感情が湧き上がる。なぜだか、ふいに母親の表情をうかがった。
 レイチェルは穏やかに笑みを浮かべていた。
 アンジェリカはようやく安堵して表情を緩めた。

 そのとき、少女の口元が微かに笑ったことには、誰も気がつかなかった。

「僕たちも帰ろうか」
 ふたりの背中を見送ったあと、リックはジークに振り向いて言った。ジークは無言でズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「呼ばれてんだ」
 ポケットからくしゃくしゃに丸まったままの紙を取り出し、リックに手渡した。彼は丁寧にそれを広げ、そこに書かれている文字を目で追った。そして顔を上げると、ジークと視線を合わせた。
「ユールベル……のことかな」
「さあな。とりあえず行ってみるか」
 ジークは狭い路地に足を向けた。

 次第に寂しくなる道を、ふたりは黙って進んでいった。しばらく歩き続け、看板も出ていない古びた建物に辿り着いた。外からはわかりづらいが、その地階が『例の酒場』である。
 以前、サイファに連れられてここに来た。王宮で働く者たちの隠れ家的な場所であることはそのときに知った。
 ジークは少しこわばった面持ちで、扉を押し開けた。
「いらっしゃい」
 長い黒髪の女主人フェイが、カウンターから気だるく声を掛けた。ふたりは店に入ると軽く会釈をした。そして狭い店内をぐるりと見渡した。
「サイファなら個室で待ってるよ」
 ニッと悪戯っぽく、そしてどこか艶っぽく笑うと、フェイはカウンターの奥を親指で指した。
「ほら、ぼーっとしてないで。おいで」
 まるで母親が子供をたしなめるような口調で言うと、笑ってふたりを手招きした。

 カウンターの奥に『個室』はある。
 しかし本来そこは店ではなく、フェイの応接間兼リビングルームなのだ。サイファが重要な話をするとき、無理をいって使わせてもらっているらしい。
 そして、今回も個室である——。

「少年ふたりのお届けー」
 抑揚のない声でそう言うと、フェイはジークとリックの背中を軽く押した。サイファはソファに座っていたが、ふたりの姿を見ると立ち上がり、にっこり微笑みかけた。
「ごゆっくり」
 フェイは目を細めてサイファを一瞥すると、カウンターへと消えていった。
「突然、呼び出してしまってすまない」
 サイファはにっこり笑って、手を向かいのソファに差し出し、ふたりに座るよう促した。
「いえ……」
 リックが重い声で答え、ふたりはソファに腰を降ろした。続いてサイファも静かに座った。
「察しはついていると思うが……」
 ふたつのグラスに氷を入れ、ウィスキーを注ぐと、ふたりに差し出した。
「アンジェリカのことだ」
 サイファをじっと見つめたまま、ジークはわずかに頷いた。
「単刀直入に言おう」
 サイファはいったん目を閉じ、深く息を吐くと、まっすぐにジークとリックを見つめた。

「アカデミーをやめさせようと思っている」

 予想を超えたその言葉に、ふたりは凍りついた。逆に、心臓は口から飛び出さんばかりに激しく打っていた。
「アカデミーをやめたからといって、君たちとの縁が切れるわけではないよ」
 ふたりの様子を察して、サイファは優しくつけ加えた。
「でも、アンジェリカの……」
 リックが身を乗り出して何かを言いかけたが、ジークの手がそれを制した。
「わけを、聞かせてもらえますか?」
 ジークは努めて冷静に言った。だが、その声は少しうわずっていた。
 サイファは前を向いたまま、視線だけを落とした。
「申しわけないが、それはできない」
 そのにべもない答えにも、ジークは怯まなかった。
「きのうラウルが言ってました。ユールベルには気をつけろと。それと関係があるんじゃないですか?」
「ラウル……。そんなことを言ったのか」
 サイファは前のめりにうつむくと、目を閉じ、深くため息をついた。
「しかし、これ以上は教えるわけにはいかない。なにがなんでもアンジェリカに悟られるわけにはいかないのだ。君たちを信用していないわけではないが、アンジェリカがしつこく食い下がってきたら、つい言ってしまうことも考えられるだろう」
 ジークは今日の昼のことを思い出していた。サイファから聞き出してほしいと頼んだアンジェリカの必死の表情が頭をよぎった。確かに、それに関してはサイファの言うとおりかもしれない。しかし……。
「アンジェリカにはどう説明するんですか? 何の説明もないのでは、納得しないと思いますけど」
 ジークが言おうとしていたことを、先にリックが口にした。
「納得か……。納得しないのなら、それはそれで仕方がない」
 サイファは自らに言い聞かせるように、そう言った。リックは膝の上にのせた両こぶしを強く握りしめた。
「サイファさんはさっき言いましたよね。アンジェリカがアカデミーをやめても、僕たちとの縁が切れるわけではないと。それはユールベルという子にも当てはまるのではないですか? アカデミーをやめたからといって、逃げられるものなんですか? それともずっとアンジェリカを家に閉じ込めておくつもりですか?」
 リックは一気にまくしたてた。彼にしてはめずらしく語気が荒く、少し怒っているようにも聞こえた。ジークでさえ、こんなリックを見ることはほとんどなかった。
 サイファは目を細めて、それをじっと聞いていた。リックの言葉が途切れると、彼はゆっくり口を開いた。
「もしそれしか手立てがないのなら、私はそうするだろう」
「俺が守ります」
 ジークがサイファの言葉をさえぎるように、きっぱりと言った。口を堅く結んで、まっすぐにサイファの瞳に視線を送った。
 リックは目を見開いて、隣のジークに振り向いた。
「アカデミーにいる間は、俺が守ります」
 ジークはもう一度、噛みしめるように繰り返した。
 サイファはふっと表情を緩めた。
「ありがとう。気持ちはとても嬉しいよ」
 そう言ってうつむき、少し寂しそうに笑った。
「しかし、アンジェリカの記憶までは、守ることはできないだろう」
「記憶?」
 ジークは怪訝に尋ね返した。サイファは顔を上げ、鋭い目つきで、まっすぐにふたりに向き直った。

「私たちは、アンジェリカの記憶の一部を消した」

「……え?」
 ジークとリックは、彼の言ったことが、とっさに理解できなかった。
「正確にいえば、記憶そのものを消したわけではない。思い出すためのルートを断ったというところだな」
 サイファは淡々と説明を続けた。ふたりは口を半開きにしたまま、呆然として彼を見つめた。
「だから、記憶がよみがえる可能性は十分にある。ユールベルに関われば関わるほど、その危険性は大きくなるだろう」
「そこまでして隠しておきたい事実って……」
 リックはそこで言葉を詰まらせた。そして、尋ねかけるような目をサイファに向ける。
「少ししゃべりすぎたようだ」
 サイファはグラスを取り、半分ほど残っていたウィスキーを一気に飲み干した。グラスの中の氷がカランと音を立てて回った。ジークもその音に誘われ、グラスを手にとった。冷たい感触。今が現実であることを、あらためて思い知らされた気がした。
「君たちの話は意見としてもらっておく。もう一度、レイチェルともよく相談してみるよ」
 サイファはにっこりと笑ってみせた。今までの話がすべて嘘ではないかと思えるほど、暗い陰などみじんも感じさせなかった。しかし、次の瞬間、彼は遠くを見やり、どことなく寂しげな表情を見せた。
「今度は楽しい話をしながら飲みたいものだな」
 リックはわずかに笑顔を作って頷いた。しかし、ジークは手にしたグラスに目を落とし、思いつめた顔で考え込んだ。琥珀色の表面には、彼の不安げな瞳が映し出されていた。


33. 説得

「おはよう、アンジェリカ……ってその荷物どうしたの?」
 非常識に大きなリュックサックを背負ったアンジェリカを見て、リックは目をぱちくりさせて尋ねた。まるで山登りにでも行くかのような格好である。
「家出、するの」
 彼女はうつむいたまま、不機嫌に低い声で言った。そして、ずり落ちそうになったストラップをつかみ、肩を揺らして背負い直した。
「家出?」
 ジークはきょとんとして聞き返した。アンジェリカは顔を少しだけ上げると、上目づかいでじっと彼を見つめた。
「アカデミーをやめろって言うのよ」
「あ……」
 ジークは小さく声をもらすと、隣のリックと顔を見合わせた。

 サイファからその話を聞かされたのが数日前。ふたりの説得により、もう一度考えると言っていたが、やはり結論は変わらなかったらしい。

「驚かないのね。もしかして、知ってたの?」
 アンジェリカは訝しげに眉をひそめた。下から覗き込むようにして、ふたりを睨み上げる。リックはたじろぎ、半歩下がった。
「驚きすぎて声が出なかっただけだよ」
 額に冷や汗をにじませながらも、なんとか取り繕った。ジークも調子を合わせて頷いた。
 しかし、アンジェリカは疑いのまなざしをやめなかった。腰に手を当て、下から顔をつきつけた。それでも、ふたりは何も答えようとしなかった。リックは微笑み、ジークは仏頂面を見せている。
 やがて彼女は「まあいいわ」とつぶやき、アカデミーへと歩き始めた。ジークとリックも、ほっとしながら、彼女の両側に並んだ。
「そうだわ。どちらかの家に泊めてほしいんだけど」
 彼女は両脇のふたりを交互に見た。
「あー、僕のところはダメかな。親がうるさいし」
 リックは焦りを笑顔で隠し、すばやく言い逃れた。
「それじゃ、ジークの家にするわ」
 アンジェリカは、さも当然のことのように言った。ジークは疲れたようにため息をついた。
「『するわ』って言われても困るんだよ。俺んち狭いの知ってるだろ? 布団だってねぇよ」
「気にしないで。ソファで寝るから」
 ジークの迷惑顔を無視して、アンジェリカは話を進めた。ジークは再び大きくため息をついた。
「あのなぁ、ソファなんて贅沢品、ウチにはねぇよ」
 アンジェリカはそれでも引かなかった。
「じゃ、ジークの隣で寝かせてもらうわ」
「ばっ、バカか!!」
 ジークは顔を一気に上気させた。その隣でリックは声を殺して笑っていた。
「なによ、意地悪!」
 アンジェリカは思いきり頬をふくらませた。そして、まっすぐ前を見ながら腕を組むと、再び口を開いた。
「いいわ。ラウルのところに泊めてもらうことにする」
 ジークは一気に熱が引いていくのを感じた。
「ていうか、そういう問題じゃねぇ。家出なんてダメだ」
 急に真剣な表情になると、アンジェリカに人さし指を向け、彼女をたしなめた。しかし、それはかえって火に油を注ぐ形になってしまった。
「私がアカデミーをやめさせられてもいいっていうの?!」
 アンジェリカは感情を高ぶらせ、ジークに噛みついた。
「そうよね、ジークにとってはしょせん他人事ですものね!」
 ——バン!!
 突き放したようにアンジェリカがそう言い終わると同時に、ジークは持っていた自分の鞄を地面に叩きつけていた。
 アンジェリカは驚いて彼を見上げた。
「なんにも知らねぇで、勝手なことを言ってんじゃねぇ。俺は……」
 ジークはうつむいたまま、かすれがすれに言葉を吐いた。叫びたい衝動を、喉の奥で必死に押さえつけていた。
 アンジェリカは動揺しながらも、反論をやめなかった。
「私の知らないことって何よ。この間からみんな、誰も、私になんにも教えてくれなくて……。それで何をわかれっていうのよ!! 勝手なのはどっちよ!!」
 今度はジークが驚き、アンジェリカを見た。彼女の、何かに耐えているような悲痛な表情。それは触れるだけで崩れ落ちそうな、そんな脆さを感じさせた。ジークの胸は激しく締めつけられた。
「悪かった」
 静かにそう言うと、彼は叩きつけた鞄を拾い上げた。そしてアンジェリカの背負っているリュックサックを後ろから持ち上げた。
「え?」
「重いだろ。持つよ」
 少しとまどいながらも、彼女は素直にリュックサックから腕を抜いた。
「でも、家出はダメだ。逃げたって何の解決にもならねぇだろ」
 ジークはリュックサックを左肩に掛けながら言った。アンジェリカは無言でうつむき、暗い顔で考え込んだ。
「もう一度よく話し合ってみようぜ。俺たちも一緒に行くから、な」
 めずらしく優しい口調でそう言うと、ジークはアンジェリカの肩に手をのせた。リックもうなずいて、反対側から彼女の肩に手を置いた。アンジェリカは硬い表情で小さくうなずいた。
「しかしこれ、本気で重いな。よくこんなものを背負ってここまで……」
 驚き半分、呆れ半分でジークはつぶやいた。

 終業を告げるベルが鳴った。
「今日はここまでだ」
 教壇のラウルは手に持っていた教本を閉じ、バンと机の上に叩きつけるように置いた。それを合図に、生徒たちは帰り支度やおしゃべりを始める。教室はざわめきで満たされていった。
「さあ、気合い入れるか」
 小さく独り言をつぶやいて、ジークは自らを奮い立たせた。その勢いで、教本を鞄の中へ乱暴に放り込むと、急いで席を立った。
「アンジェリカ」
 ジークは彼女に駆け寄った。だが、彼女は椅子から立ち上がり、教壇をじっと見つめていた。そこにいるのは、もちろんラウルである。
「俺たちじゃ頼りにならねぇか?」
 ジークは少しムッとしながら尋ねた。アンジェリカはそれでもラウルから目を離さなかった。
「簡単なことじゃないのよ」
 前を向いたまま、彼女は小さな声で言った。
 ラウルは視線を感じたのか、彼女の方へ歩き出した。ジークは向かってくるラウルを睨みつけた。しかし、彼は全く意に介していないようだった。
「私に何か用か」
 ラウルはアンジェリカの前にひざまづき、彼女と目線を合わせた。アンジェリカは無表情で小さく首を横に振った。
「また、今度ね」
「……そうか」
 ラウルは何か言いたげなアンジェリカの表情を察していたが、それ以上の追求はしなかった。彼は静かに立ち上がると、教室をあとにした。
「もし今日の説得が失敗したら、そのときはラウルに頼むけど……怒らないでね」
 ラウルがいた辺りに視線を残したまま、アンジェリカは抑揚のない声で言った。ジークは何も言葉を返すことが出来なかった。

「さーて、乗り込むか」
 アカデミーの門から出たところで、ジークは右のこぶしを左の手のひらにパチンと打ちつけて気合いを入れた。アンジェリカの大きなリュックサックをジークが背負い、そのかわりにジークの鞄をアンジェリカが持っていた。
 ジークはストラップをぐいと引っ張り、背中を揺らして背負い直すと、口を真一文字に結び、アンジェリカの家の方角をきつく睨みつけた。ジークの迫力に圧倒され、リックは少し引きぎみに苦笑いした。
「今からそんなに張り切ってると、着く頃には疲れちゃうんじゃない?」
「なに言ってんだ。おまえも気合い入れろよ。そんなことじゃ勝てねぇぞ!」
 ジークは眉間にしわを寄せ、弱気なリックの鼻先に人さし指を突きつけた。リックは笑顔を張りつかせたまま一歩下がった。勝ち負けの問題じゃないのにと思いながらも、あえて口には出さなかった。
「おまえもだぞ」
 今度は少し穏やかな声で、後ろのアンジェリカに振り向いた。
「わかってるわ」
 ジークと目を合わせることなく、アンジェリカは硬い表情で静かに言った。

「こんにちは」
 明るい声が3人を不意打ちした。振り返ると、そこにはレイチェルが笑顔で立っていた。右手を顔の横で広げ、小さく左右に振っている。
 彼女は合格発表の翌日から、毎日のように現われていた。初めは「用があった」という彼女の言葉を信じていたが、こんなにも続くのは不自然である。アンジェリカを迎えに来ているのだということは、もはや明らかだった。
 しかし、ジークもリックも、そしてアンジェリカも、それについて尋ねることは出来ないでいた。
「一緒に帰りましょう」
 レイチェルはにっこり笑いかけた。しかし、アンジェリカは目を伏せて、頬をふくらせた。
「家出するって言ったのに……」
「あら、本気だったの?」
 レイチェルは笑顔で受け流した。
「あの」
 ジークはとまどいながらも声を掛け、ふたりに割って入った。レイチェルは大きくまばたきをすると、にっこりとしてジークに顔を向けた。そして首を少し傾げ、話の続きを促した。ジークは頭に血がのぼっていくのを感じた。
「あ、え……と。今日は俺たちも一緒に行きます。サイファさんを説得、じゃなくて……えーと、話したいことがあるんです」
「とても大事なことなんです」
 隣からリックがつけ加えた。
「サイファは今日は遅くなるかもしれないけど、それでも良いかしら」
「待ちます」
 ジークは間髪入れずに答えた。

 ジークとリックは、アンジェリカ、レイチェルとともに、彼女たちの家へ行った。サイファの帰りが遅いということで、レイチェルに勧められ、ふたりは夜ごはんをご馳走になった。
 そのあと、サイファを待ちつつ、アンジェリカの部屋で勉強を始めた。丸いローテーブルに三人が等間隔に座り、それぞれ本やノートを広げ、無言で読み進めていた。ときおりページをめくる音だけが部屋に響く。ジークは落ち着かない気持ちになりながらも、ふたりの邪魔をしないように、なるべく本に集中しようとしていた。
 しばらくそうやって勉強していたが、やがてリックがそわそわし始めた。こっそりと、だが何度も腕時計を目にしていた。
 彼のそんな様子にジークが気づいた。
「帰ってもいいぜ」
 リックは迷いながら目を伏せたが、少し考えて「うん」とうなずいた。そしてアンジェリカに目を向けると、申しわけなさそうに眉をひそめ「ごめんね」と謝り、慌てて机の上のものを鞄にしまい始めた。

 ふたりはリックを見送ったあと、再び座って本を広げた。
「リック、どうしたの?」
 アンジェリカが尋ねた。ジークは一瞬ためらったが、やがて口を開いた。
「……こないだ母親が倒れたらしいんだ。あいつはあいつでいろいろ大変みたいだぜ」
 思いもしなかった言葉に驚き、アンジェリカは目を大きく見開いてジークを見た。しかしすぐに目を細めて気弱にうつむいた。
「おまえが気にすることはねぇよ。無理に連れてきたわけじゃないんだし」
「うん……でも、大丈夫なの? お母さんは」
 彼女は不安そうに尋ねた。ジークは机にほおづえをつき、顎を上げると、どこか上の方を見やった。
「どうなんだろうな。俺、向こうの親とはあんまり親しくしてねぇんだ。俺のことあんまり良く思ってねぇみたいだし」
「どうして?」
 アンジェリカはそう尋ねながら、気がついた。リックの両親のことが話題にのぼったことは、今までほとんどなかったということに——。
「俺、ガラが悪いし、不良だと思われてんだ」
 ジークはほおづえをついたままアンジェリカを見ると、笑いながらそう言った。彼女にはその笑顔がどこか寂しげに見えた。
「ま、思い当たる節もいろいろあるんだけどな。あいつんちの窓ガラス三枚くらい割ったし、壁に穴も開けたな。あ、わざとじゃねぇぞ」
「……ウチは壊さないでよ」
 アンジェリカは呆れ顔で言った。

 そのとき、外でガタンと音が鳴った。続いて、話し声がかすかに耳に届いた。アンジェリカとジークは顔を見合わせた。
「行くか」
「策はあるわけ?」
「気合いだ」
 アンジェリカは不安を感じながらも、ジークとともに部屋をあとにした。

 サイファは驚きもせず、ジークを暖かく迎えてくれた。
「来ると思っていたよ」
 疲れも見せずにっこり笑って、ジークにソファを勧めた。その後ろでレイチェルも穏やかな微笑みを浮かべていた。ふたりの雰囲気に飲み込まれないよう、ジークは精一杯気持ちをとがらせた。
 ジークとサイファはほぼ同時に腰を落とした。ふたりはテーブルを挟んで向かい合せになっている。アンジェリカはジークの隣にちょこんと座った。そして、空いていたサイファの隣に、レイチェルがゆっくりと腰を下ろした。
「さて、ジーク。察しはついているが、君の話を聞こうか」
 一見、穏やかな表情に見えたが、その瞳は鋭く、真剣さをうかがわせた。ジークはまっすぐに見つめ返した。
「アンジェリカはアカデミーをやめたくないと言っています。家出までしようとしていました。それなのに、何の説明もなくやめさせるのはあんまりではないですか?」
 これではこの前と同じことを繰り返しているだけだ……。ジークは歯がゆかった。しかし、口下手なジークに上手い説得の言葉など、そう簡単に出てくるわけもない。
「子供の危険をあらかじめ回避するのが親の役割なんだよ」
 サイファは優しく、だがきっぱりと言った。
「それは……だから……俺がなんとか守ります」
 ジークは隣を気にしながらも、サイファから目をそらさずに、まっすぐ言葉をぶつけた。
 アンジェリカは驚いて隣のジークを見上げた。目をぱちくりさせながら、彼の真剣な横顔を見つめた。
「だが、君には君の本分がある」
 サイファは静かに反論した。
「アンジェリカのボディガードではない。常にアンジェリカのまわりに気を配るというわけにもいかないだろう。例えば、女子トイレにまでついていくことは出来ない——」
「お父さん!!」
 アンジェリカは叫んだ。サイファはセリカの事件を指して言っているのだ——そこにいる全員がすぐにわかった。ジークは何も返すことが出来ず、うつむいて押し黙った。
「すまない。君を責めているわけではないんだ。だが、事実だ」
 サイファは短くとどめを刺した。ジークはまるで冷たい手で心臓を掴まれたかのように感じた。声などとても出なかった。
「私が自分で気をつけるわ。隙なんて見せない」
 横からアンジェリカが強気に言い放った。強い光を込めた目で、サイファを挑むように見つめている。
「いいことを思いついたわ!」
 突然、レイチェルが緊張感を融かすようなはしゃいだ声をあげた。
「ボディガードをつけるというのはどうかしら?」
「嫌よ! 私は普通に学園生活がおくりたいの!」
 アンジェリカは即座に言い返した。レイチェルは娘の反撃にしゅんとしておとなしくなった。
「……ねぇ」
 アンジェリカは一息つくと、再びサイファに顔を向けた。サイファはゆったり構え、彼女の次の言葉を待っていた。
「生きていくって、誰でも多少の危険は伴うものなんじゃないの? ふたりとも過保護だと思うわ」
「アンジェリカ、多少ではないよ。おまえの場合」
 サイファは優しく諭すように言った。しかし、アンジェリカは納得しなかった。
「だから! それがなんなのかわからないのよ!!」
 いらついて叫ぶアンジェリカを見て、サイファの表情は、一瞬、曇った。しかしすぐにポーカーフェイスを装うと、話を続けた。
「おまえは分家の連中に良く思われてはいない。わかるだろう?」
「……ユールベルって子なんでしょう?」
 アンジェリカは静かにそう言うと、周りの反応をうかがった。しかし、誰も口を開かない。レイチェルはうつむき、ジークはサイファの様子をうかがっていた。そして、そのサイファはアンジェリカをまっすぐ見つめていた。
 アンジェリカはごくりと唾を飲み込んだ。
「何を隠しているの……? 本当に、本当に、どうして……。もう、いいかげんにしてよ!!」
 初めは静かに切り出したが、次第に感極まっていった。言葉もまともに出てこない。最後にはただわけもわからず叫ぶだけだった。
 それでも他の三人には動きはなかった。
 アンジェリカはふいに自分以外の世界が止まってしまったかのような感覚にとらわれた。
「アカデミーに入る前までは、私はほとんど部屋の中でひとりで過ごしていた」
 彼女は独り言のようにつぶやいた。そして、虚ろにソファから立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。
「それが私にとっては当たり前だったし、別に寂しいとは思っていなかった。……でも」
 足を止め振り返り、大きな瞳でジークを見つめた。ジークの鼓動はドクンと強く打った。
「外の世界を知ってしまったから、もう今さらあんな孤独な生活に戻れない。お父さんとお母さんは優しいけれど、それだけじゃ駄目なの!」
 アンジェリカは視線をレイチェルへ、それからサイファへと流した。
「どうしてもアカデミーをやめさせるっていうのなら……」
 彼女はゆっくりと大きく呼吸をした。
「私、死ぬわ」
 落ち着いた声。だが、決意を秘めた激しい瞳。それは、彼女が軽い気持ちで言っているのではないということを表していた。
「アンジェリカ! 落ち着いて! 別にアカデミーをやめたからって、ジークさんたちと会えなくなるわけでもないのよ。ジークさん、会いに来てくださいますよねっ?」
 レイチェルは慌ててジークに同意を求めた。
「そ、そうだぞ! 早まるな! な?!」
「ちょっとジーク! 両親を説得しに来たんじゃなかったの?!」
 アンジェリカは驚いた声をあげながら、半分呆れていた。
「あ、いや……その……。とにかく死ぬなんてダメだ。な?」
 ジークはしどろもどろになりながら、それでもなんとか思いとどまらせようと必死に訴えかけた。

「わかった。私たちの負けだ」
 冷静にことの成り行きを見守っていたサイファが、突然「負け」を宣言した。
「ここで頑固に突っぱねて、肝心のアンジェリカを不幸にしてしまっては、本末転倒だからね」
 サイファはそう言うと、アンジェリカににっこり笑いかけた。
「サイファ……」
 彼の唐突な方向転換に、レイチェルはとまどいを隠せなかった。
「もうこうする以外に術はないよ。誰に似たのか頑固だからね、あの子は」
 サイファは笑って肩をすくめた。しかし、レイチェルはまだ不安そうに顔を曇らせている。
「それに、私たちの不安は単なる邪推かもしれない、だろう?」
 サイファは彼女を安心させるように、優しく耳打ちをした。それから真剣な目になると、ジークに向き直った。
「頼んだよ」
 ジークはずっしりとのしかかるものを感じながらも、それに負けないよう背筋を伸ばした。

 アンジェリカはジークを玄関先まで見送るために、彼とともに外へ出た。外はすっかり暗くなっている。冷たい風がふたりの髪を揺らした。
「死ぬ気なんて、なかったんだろ」
「本気だったわよ」
 お互い前を向き、視線を合わせないまま、淡々とした口調で言った。
「二度と言うなよ、あんなこと。……卑怯だぞ」
「卑怯?」
 アンジェリカはジークの横顔を見上げた。しかし、ジークは無言で門に向かって足を進めた。アンジェリカもその横について歩いた。
「人質とって脅すヤツらと変わんねぇだろ」
 ジークは歩きながらぼそりと言った。
 アンジェリカはうつむいた。ジークの言うことはもっともだった。でも……じゃあ、どうすれば良かったの? やりきれない思いを抱え、沈んだ表情を見せた。
 カラン——。
 ジークは門の留め具を外すと、すぐに外へと出た。アンジェリカは内側から留め具を元に戻した。
「何の役にも立てなくて……悪かった」
 ジークは彼女に背を向けたまま言った。
 アンジェリカの胸に熱いものがよぎった。門の格子を両手で掴み、顔を近づけると、歩き去るジークに向かって叫んだ。
「私、嬉しかった! 私のことを守るって言ってくれて!!」
 ジークは振り返ることなく、遠くで右手を上げた。次第に小さくなる彼の姿は、やがて闇に掻き消されていった。
 アンジェリカは門に張りついたまま、ずっと彼の背中を見送っていた。


34. 友達だった

 ガチャッ。
 ラウルはノックもせずに扉を開け、蛍光灯の光が満ちた部屋へ足を踏み入れた。
 魔導省の塔、その最上階の一室。サイファは中央の机につき、書類に目を通していたが、その音につられ、わずかに顔を上げた。しかし、ラウルの姿を確認すると、何もなかったかのように再び手元に視線を戻した。そして、羽ペンを手に取り、書類の上に走らせ始めた。
 ラウルは後ろ手で扉の鍵を閉めた。
「おまえの欲しがっていたものだ」
 サイファの方へ歩を進めながら、四つ折にされた紙をかざした。それを見て、サイファはようやくニッコリ笑った。
「恩に着るよ」
 ラウルがそれを机に置くと、サイファは間髪入れず手に取って広げた。数枚にわたるその紙には、細かい文字や数字がびっしり書き込まれていた。左上には「極秘」と判が捺してある。本来、朱色で捺されているはずだが、その紙には黒く写っていた。どうやら原本ではなくコピーのようだ。
「ばれたら私はクビだ」
 ラウルは腕を組み、食い入るように文字を追っているサイファを冷ややかに見下ろした。
「私もクビどころでは済まないだろうな」
 サイファはさらりとそう言うと、顔を上げた。そして、ラウルに挑戦的な視線を投げかけ、小さくニッと笑った。
「でも、おまえなら上手くやってくれると思った」
「勝手なことばかり言うな。おまえはそういってすぐに私を利用する」
 ラウルはむっとして言い返した。
「そうだな。なら今度はコーヒーでも入れてもらおうか」
 サイファは冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、再び極秘文書に目を通し始めた。
「……用がないのなら帰るぞ」
「急ぐ必要はないのだろう? 久しぶりにここから朝焼けを見ていったらどうだ。椅子はそこだ」
 サイファは紙から目を離さずに、部屋の隅に立て掛けられたパイプ椅子を指さした。
「それからコーヒーはその戸棚の中」
 今度は返す手で反対側を指さした。

 ラウルがコーヒーを淹れ終わる頃、サイファも最後の一枚を読み終えた。
「何かわかったか」
「いいや。だが、真実に近づくヒントにはなった」
 そう言うと、サイファはくしゃっと紙を握って丸め、短く呪文を唱えた。手の中央から白い閃光が走り、その紙は一瞬にして細かな灰となり飛び散った。
「一度見ただけ、か。相変わらず覚えが早いな」
 ラウルは淹れたてのコーヒーをふたつ持って歩いてきた。そのひとつをサイファへ差し出す。彼はにっこり笑ってそれを受け取った。
 ラウルは蛍光灯を消し、カーテンを開けた。
 大きな窓に映し出された空は、まだ深い紺色だった。しかし、地平に近い部分はだいぶ薄くなり始めていた。まもなく夜が明ける——。

 サイファは薄暗がりの中でコーヒーを一口飲むと、ほっとして大きく息を吐いた。
「おまえの淹れるコーヒーは最高だ」
「話せ。気がついたことがあるのだろう」
 ラウルは彼に振り向いた。暗がりの中にほんのりと浮かび上がったサイファの端整な横顔から、笑みはもう消えていた。
「いくつかある。最も気になったのは、おまえも気がついただろうが、魔導耐性値だ。この価のみが突出している。他の数値との差を考えたら異常だ。よほど片寄った訓練を行ったか、あるいは長年にわたって異常な状況下に置かれたか、だな」
 サイファはひとことひとこと丁寧に述べていった。そして一区切りつくと、コーヒーを口に運んで、小さく息を吐いた。
「思い当たることがあるのか」
 ラウルが尋ねると、一瞬、サイファの瞳に陰がさした。
「彼女の家の二階には、常に結界が張られていた。おまけに偽装されていたんだ。おかげで最近まで気がつかなかったよ」
 冷静に答えたが、その中に若干の自責がにじんでいた。ラウルは無表情で彼を見つめ、パイプ椅子に腰を下ろした。ギシ、と安っぽい音が響いた。
「彼女はずっとその結界の中にいたということか」
「ああ、おそらく」
 サイファは息を吐きながら、背もたれに身を預けた。目を細め、天井を見つめる。
「二階すべてに結界、しかも常時、そのうえ偽装となるとかなり厄介だろう」
「バルタスなら出来るよ。そこまでの労力を払って結界を張る理由、そして結界を悟られたくない理由として、考えられるのはふたつ」
 サイファは淡々と言い、指を二本立てた。
「ひとつは家族ぐるみで秘密裏に特訓をしていた。もうひとつは、何らかの理由で彼女をそこに閉じ込めていた」
 指折りながら可能性を上げる。ラウルは腕を組み、口を開いた。
「魔導耐性値のみが高いことを考慮すると、後者だろうな」
「私もそう思う。あれ以来、ずっと彼女を見かけなかったからね」
 サイファは同意した。ラウルは彼にちらりと視線を走らせた。
「彼女の目的はおまえたちへの復讐か」
「私たちだけではないかもしれない」
 サイファは眉根を寄せ、重々しい表情を見せた。
 ラウルは立ち上がり、窓枠に手をついた。外はもうだいぶ明るくなっていた。東の空は赤く染まり、濃青色へとグラデーションが広がる。そして灰色の雲が相反する色を繋ぐ。夜明けのごく短い時間にだけ見せる、色鮮やかな光景だ。
 サイファも椅子をまわし、ラウルの隣でその光景を眺めた。朝の光を浴び、柔らかく表情を緩める。
「これが夜勤の唯一の楽しみなんだ」
「所詮は作り物だ」
 ラウルは目を細めて、遠く、空の果てのその向こうを見つめていた。
「故郷が恋しくなったか?」
 サイファは挑発するように声を掛けた。ラウルはムッとして背を向け、大股で戸口に向かって歩き始めた。
「いつか見せてくれないか。作り物ではない、果てない空というやつを」
 サイファは去りゆくラウルの背中に声を投げかけた。ラウルは扉に手を掛け、顔だけわずかに振り返った。眉をひそめサイファを睨みつける。
「あまり私をからかうな」
 サイファは返事をする代わりに、にっこりと満面の笑顔を返した。

「……ジーク。気持ちは嬉しいけど、そんなのじゃ今日一日だってもたないわよ」
 アンジェリカは、一歩前を歩くジークの背中に、少し困ったように声を掛けた。ジークはずっと左右をきょろきょろ見渡し、すぐにでも応戦できるよう少しも気を抜かないで構えている。
「いつ何があるかわからねぇだろ」
「それはそうだけど……」
 アンジェリカはリックと顔を見合わせ肩をすくめた。リックも苦笑いしながら、同じポーズを返した。

 今日がアカデミーの入学式である。すなわち、今日からユールベルやレオナルドが、このアカデミーに通ってくるということだ。ジークの過度の警戒はそのためだった。
「リック、後ろ見てるか?」
 ジークは前を向いたまま、張りつめた声でリックに問いかけた。
「ちゃんと見てるから心配しないで」
 リックはアンジェリカと並んで歩きながら、軽く答えた。ふたりは再び顔を見合わせて、声を立てずに笑いあった。

「お嬢さま」
 背後からの声に、アンジェリカの笑顔が凍りついた。
「いいかげん、私につきまとうのはやめたら?」
 思いきり顔をしかめて振り返ると、その声の主、レオナルドを睨みつけた。レオナルドは硬い表情で棒立ちになっていた。柔らかいブロンドだけが、風になびき揺れている。
 前を歩いていたジークは、慌ててふたりの間に割って入った。右手でアンジェリカを庇い、レオナルドをキッと睨みつけた。
「リック! 見てたんじゃなかったのかよ!」
「平気よ」
 リックが口を開くより先に、アンジェリカが冷たく言った。
「こいつはラグランジェ家の敷地内でしか強気に出られないんだから」
 行く手を阻むジークの腕を静かに下ろし、彼女は一歩前に出た。顔を上げ、強い意志を秘めた瞳をレオナルドに向けた。
「もう、おまえをどうこうするつもりはない。この前おまえに謝ったのは本心だ」
 レオナルドは静かに言った。
「どういう心境の変化?」
 アンジェリカは腕を組み、疑わしげに眉をひそめた。
「子供じみたことは、もう卒業するってことさ」
「…………」
「同じラグランジェ家の者どうし、仲良くしよう」
 あまりにも意外なレオナルドの言葉に、アンジェリカは動揺を隠せなかった。
「関係ないわ」
 乾いた声でそれだけ言うと、踵を返そうとした。だが、ふとあることが頭をよぎり、再びレオナルドに顔を向けた。
「あなた、ユールベルって知ってる?」
 隣のジークは驚いてアンジェリカに振り向いた。アンジェリカはまっすぐレオナルドを見上げ、彼の答えをじっと待っていた。レオナルドは怪訝な顔をしながらも、アンジェリカから目をそらさずに口を開いた。
「今年アカデミーに入る子だろう? でも、もう何年も見てないし、よく知らないな」
「そう」
 アンジェリカは、これ以上何も聞きだせそうもないと判断し、レオナルドに背を向けようとした。そのとき——。
「でも、おまえたちは友達なんだろう?」

 アンジェリカは唐突に脳と心臓をわしづかみにされたように感じた。額に汗がにじんで、目の前がかすみ、足がよろけた。
「アンジェリカ!」
 ジークが崩れ落ちるアンジェリカを支えた。リックも反対側に回りこんで、彼女に手をまわした。
「大丈夫、軽いめまいよ」
 アンジェリカはふたりを心配させまいと嘘をついた。しかし、ふたりはすぐに見破った。彼女の身に起こったことは、ただのめまいなんかではない。もしかしたら、サイファの言っていた「アンジェリカの記憶」に関係があるのかもしれない。
 ジークはやりきれない思いを怒りに変え、レオナルドにぶつけた。
「テメエ、でたらめ言ってんじゃねぇ!」
 胸ぐらをつかみ、額がくっつかんばかりに顔を近づけた。暴力的な行為に慣れていないレオナルドはたじろいだ。だが、すぐにジークの手を払いのけ、襟をビシッと引っ張り形を整えた。
「そう思うなら他の人に聞いてみればいいだろう」
 そう言ったあと、ジークを流し見て、鼻先で小さく笑った。
「いい気なもんだ、ナイト気取りか。上手いこと取り入ったな。ラグランジェ家にひいきにされれば、なにかと都合がいいだろう?」
「な……に?」
 ジークは固くこぶしを握りしめた。目の前の薄ら笑いの男に、このこぶしをめり込ませたい。その衝動を抑えるのに必死だった。
「いいかげんにして!」
 アンジェリカがリックの手を振りほどき、ふたりの間に飛び出してきた。レオナルドと向かい合い、息の届く距離まで間をつめると、下から睨み上げた。
「これ以上、私たちに絡むようなら、私が平手打ちをおみまいするわ」
 アンジェリカは低い声で言うと、勢いをつけて背を向けた。彼女の舞い上がった黒髪が、レオナルドの胸元をかすめた。
 ジークとリックもレオナルドを一睨みした。ふたりはアンジェリカを追いかけ、三人で玄関へと歩いていった。

 アンジェリカは授業もうわの空で、ずっと考え込んでいた。
 ユールベルっていう子と私が友達? 本当なの? だとしたら、どうして私は何も覚えていないの? そして、あの痛みはなんだったの? あのときのレオナルドのセリフを思い出すたびに、頭に鈍痛が走る。頭の中に薄い靄がかかったように、何かが見えそうで、見えなくて、もどかしい。

 ラウルはそんな彼女の様子に気がついていた。休憩時間になるとこっそりリックを呼び出した。ジークよりは素直に話してくれると踏んだのだろう。
「何かあったのか?」
 人通りのなくなったところで、ラウルが切り出した。リックは話していいものか、少し迷っていた。ジークが知ったら怒りそうだ。だが、ラウルはラグランジェ家の事情にも詳しい。それに、アンジェリカの主治医でもある。彼は気持ちを決めた。今朝起きたことを、一通り要点をかいつまんでラウルに説明した。
「わかった。もう行っていい」
 ラウルはそう言っただけで、リックの話について何もコメントはしなかった。
「……アンジェリカは大丈夫なんですか?」
 リックはおずおずと尋ねた。それが、彼のもっとも気になることだった。
「おまえたちにできるのは、一緒にいてやることだけだ」
 はぐらかされたと思ったが、それ以上の追求はしなかった。もういくら尋ねても無駄だと思ったからだ。答えなかったのが彼の意思なら、そう簡単に気持ちを変えたりはしない。
 リックはラウルに一礼すると、教室へと戻っていった。

 昼になり、三人は食堂へ向かった。
「もういいのか、その、体は」
 ジークは言葉を選びながら尋ねた。
「ええ、ただの軽いめまいだもの」
 アンジェリカは笑ってみせた。

 角を曲ったところで、ジークは背の低い誰かとぶつかった。
「あっ……」
 かぼそい声を出して、相手の子はよろけて横に崩れた。
「大丈夫か……あっ」
 ジークは息を呑んだ。ウェーブを描いた鮮やかな金髪、右目を覆った包帯、折れそうに細い脚と腕——。これは、多分、ユールベルだ。
 他のふたりもそのことに気がついたようだ。アンジェリカは息を呑み、顔をこわばらせていた。
 ジークは自分の後ろにアンジェリカを隠した。
「ごめんなさい。片目がふさがっているから距離感がつかめなくて」
 少女は弱々しい声でそう言うと、ほこりを払いながら立ち上がった。
「あ、アンジェリカじゃない」
 彼女は、ジークの後ろのアンジェリカを目ざとく見つけた。ジークはアンジェリカを後ろにかばったまま、じりじりと後ずさった。
「私、ユールベルよ。忘れたの?」
 アンジェリカを見つめ、平坦な声でそう言うと、一歩、また一歩と近づいてきた。
「どういうつもりだ」
 ジークは低くうなった。
「どういうって……私はただ、久しぶりに会った友達と再会を祝いたいだけよ」
 友達、という言葉に、三人は敏感に反応した。
 アンジェリカは再び頭と胸に激しい痛みを感じた。そのうえ、頭の中をぐるぐる掻き回されているように気持ちが悪い。視界が狭まり、目を開いているのに真っ暗でなにも見えなくなった。ジークの背中をつかみ、寄りかかるように倒れこんだ。
「お、おい!」
 ジークは後ろ手でアンジェリカを支えながら、ゆっくりと膝をつき、彼女をその場に座らせた。それから素早く振り向くと、ふらつく彼女の上半身を支えた。ジークの腕に身を預け、アンジェリカは息苦しそうに喘いだ。
「体調が芳しくないようね。積もる話はまた今度にしましょうか」
 リックは呆然とユールベルを見つめた。彼女はさらに一方的に話を続けた。
「また昔みたいに楽しく笑いあえるといいわね」
 ユールベルは白いワンピースのスカートを軽く持ち上げると、膝を曲げ、頭を垂れた。
「それではまた……小さな先輩」
 その言葉を残し、彼女はその場を立ち去った。
 ジークは遠ざかる軽い足音を後ろに聞きながら、くやしそうに歯を食いしばった。
「さっぱりわからねぇ。ユールベル……あいつは終始無表情で淡々としていた。言葉づかいは普通なのに、まったく感情がこもっていないみたいだ。なんかちぐはぐで調子を狂わされる」
「うん。本気なのか、冗談なのか、からかっているのか、全然わからないね」
 リックは軽く握った手を口元にあて、深く考え込んだ。
 ジークの腕の中で、アンジェリカが身をよじった。
「私は、なにか、大切なことを、忘れているのかもしれない……」
 ほとんど声にならない声で、アンジェリカはつぶやいた。
「今はなにも考えるな」
 ジークはアンジェリカの頭に優しく手を置いた。
 アンジェリカは目を細め、まぶたを震わせ、白い天井を見つめていた。


35. 敵状視察

「アンジェリカ、大丈夫かな」
 食堂へ向かう途中、リックがぽつりとつぶやいた。
 ジークは暗い顔でうつむいた。今日、アンジェリカは休んでいる。きのうあんなことがあったばかりだ。仕方がない。そうは思っても不安は募る。もしかしたら……。
「アカデミーにはもう来ない方がいいのかもしれないね」
 ジークはリックを鋭く睨みつけた。リックはうろたえながらも、自分の考えを説明した。
「だってアカデミーにいたら、ユールベルって子と顔を会わさないわけにはいかないし」
 ジークは苦々しく歯噛みした。
「僕もアンジェリカの気持ちは尊重したいよ。でも、あそこまでひどいとは思わなかったし」
 リックの言っていることは正論だ。反論の余地もない。それどころか、ジーク自身も同じことを考えていた。だが、だからといって、感情的にはどうしても納得ができなかった。
「でも、俺は、どうにかしてやりたい」
 ジークは言葉にすることで、決意を確かなものにしようとしていた。
「……うん」
 リックは弱々しくうなずいた。どうやって? と尋ねたかったが、切り出すことが出来なかった。
 ジークはまっすぐ前を向き、こぶしを小さく握りしめて気合いを入れた。

 そのとき、ジークはユールベルの後ろ姿を見つけた。鮮やかな長い金の髪は、探そうと思わなくても目についてしまう。食堂へと続く廊下の先で、彼女はひとりで歩いていた。
「ジーク?!」
 急に走り出したジークを追って、リックも走った。彼はまさかと思ったが、その不安は的中していた。
「ユールベル、ちょっといいか」
 ジークはユールベルの背後から声を掛けた。彼女は眼帯の巻かれていない側から、ゆっくりと振り返った。それと同時に、微かに甘いにおいがあたりに舞った。彼女は真面目な顔のジーク、そして、その後ろでおろおろしているリックを順に眺めた。
「アンジェリカはいないのね」
「ああ、休んでる」
 ジークの声は硬かった。ユールベルはしばらく無言で、彼のこわばった表情を見つめていた。
「わかったわ」
 彼女はそう言うと、食堂へ足を向けた。
「なに考えてるの?!」
 リックは責め立てるような口調でジークに耳打ちした。
「敵を知らなきゃ対策の立てようもねぇだろ」
 ジークも小声で返事をした。そして、彼女の後について食堂へ入っていった。リックもしぶしぶ後を追った。

 三人はそれぞれ昼食を乗せたプレートを手に、丸テーブルについた。普段ならアンジェリカ座っているはずの位置にユールベルが座っている。背筋をまっすぐ伸ばし、顔は正面、手は膝の上にそろえられている。文句のつけようがないくらい正しい姿勢だ。
 ジークは落ち着かない気持ちとともに、軽い緊張を覚えた。
「それで、私に何の話なの?」
 ユールベルはジークとリックの中間を見つめて、静かに口を開いた。
 ジークは何から話し始めればいいのか迷い、黙りこくってしまった。そんなジークを、リックは軽く睨みつけた。声を出さずに口を動かしている。無言でジークを急き立てているようだった。
 ジークは困ったように首を傾げ、腕を組んだ。
「えーと、だな」
 ユールベルはジークに顔を向け、開いている方の目を細めた。透き通った蒼の瞳に陰が落ちる。それに呼応して、ジークの鼓動は強くドクンと打った。大きく息を吐き心を鎮めてから、ユールベルを見つめ返した。
「きのう言ってただろ。アンジェリカと友達だったって。あれは本当か」
「もちろんよ」
 ユールベルは間髪入れずに答えた。
「今は、昔の友情を取り戻したいと思っているわ。いけない?」
「いけなくはない、けども……」
「でも、何年も会ってなかったのはどうして?」
 ユールベルの勢いに押されているのジークを見かねて、リックが隣から口を挟んだ。ユールベルは視線をリックへと流した。
「会いたくても会えない状況だったのよ」
 表情のない顔の中で、その瞳だけが冷たく、そしてどこか寂しげな光をたたえていた。
「どういうこと?」
 リックは眉をひそめた。
「これ以上は言いたくないわ。知りたいのならバルタスに聞いて」
「誰なんだよ、バルタスって」
 ジークはいらついて尋ねた。
「半分、私と同じ遺伝子を持つ人」
 ユールベルは顔を上げ、虚ろに遠くを見た。ジークとリックは一瞬、顔を見合わせた。
「父親……ってこと?」
「その言い方は好きじゃないわ」
 それきり言葉が途切れた。
 ジークは伏目がちにユールベルの様子をうかがっていた。何かがあると思ったが、尋ねることは出来なかった。リックも目を伏せ、複雑な表情で口をつぐんでいた。

「……お父さんのこと、嫌いなの?」
 長い沈黙のあと、うつむいていたリックがぽつりと言った。それからゆっくりと顔を上げるとユールベルをじっと見つめた。
「話題を変えて」
 彼の視線に応えることなく、ユールベルは遠くを見たまま短く言った。リックは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ……その包帯はどうしたの?」
「ものもらいよ」
 ユールベルはあっさり答えを返した。だが、その答えは嘘に違いない。ふたりともそう思った。
「何週間か前に見かけたときも、包帯してたぜ。ずっとものもらいなのかよ」
 ジークが食ってかかった。しかし、ユールベルはまったく動じることはなかった。
「そうよ」
 その機械的な声に、ジークは眉をひそめた。
「おまえなんでそんな無表情なんだよ。笑いもしない、怒りもしない。しゃべり方もずっと一本調子。おかしいだろ」
 ユールベルはゆっくりジークへと顔を向けた。右の瞳が彼をとらえた。ジークは小さく息を呑んだ。
「無表情なんかじゃないわ。あなたにも、何度も笑いかけてるでしょう?」
 ジークはとまどったように、リックに目をやった。彼は小刻みに首を横に振った。リックにも彼女が笑っているようには見えなかったらしい。
 彼女はからかっているのか? それとも本気なのか……?
 ジークは再びユールベルに向き直った。険しい表情で彼女を覗き込む。
「おまえ、笑ってるつもりなのか? 全然、笑えてねぇぞ」
 ユールベルはぴくりと眉を動かした。
「笑っていたでしょう? どうしてそんなことを言うの?」
 ジークの胸にチクリと小さなとげが刺した。しかし、彼は続けた。
「いや、笑ってない。鏡を見てみろ」
「……いや」
 弱々しくかすれた声。ユールベルの蒼い瞳が揺れ、顔がこわばった。白いワンピースから伸びた細い腕は小刻みに震えていた。
「鏡はいや、鏡はきらい……」
 消え入りそうな声で何度もそうつぶやきうつむいた。今まで何を言っても動じた様子を見せなかった彼女が、突然、感情を表した。そのことがかえってジークたちを動揺させた。
「ユールベル?」
 ジークはうつむいた彼女を覗き込んで、恐る恐る声を掛けた。
「……っ!」
 何かに気がついて、彼女は大きく息を呑み、身をのけぞらせた。その表情は怯えたように引きつっている。彼女の右目は水の注がれたグラスを凝視していた。
「ユールベル?」
 今度はリックが声を掛けた。
「……嫌……いやぁあっ!!」
 彼女は甲高い声を張り上げ、目をそむけながらテーブルの上のグラスをなぎ払った。それは宙を跳び、ジークを襲った。とっさに手でかばったので顔への直撃は免れた。だが、割れた破片が彼の腕と頬を切った。
「……ってぇ」
 ジークはよろけながら椅子から立ち上がろうとして、床に膝をついた。顔からは浴びた水が、腕からは血がしたたっていた。
「ジーク!」
 リックは椅子から飛びおり、ジークに駆け寄った。
「平気だ。かすり傷だ」
 ジークは落ち着いていた。リックの方がうろたえていた。
「かすり傷なわけないよ! ボタボタ血が落ちてる。ラウルのところへ行こう!」
「大丈夫だって言ってんだろ」
 その言葉とは裏腹に、ジークの顔からは血の気が失せていた。
 バリッ、バリッ……。
 ユールベルが破片を踏みしめながら、ジークに近づいてきた。そして、ジークの目の前で膝をついた。
「おまえその辺、破片と血……」
 そう言われても、ユールベルはおかまいなしだった。彼女の白いワンピースは、裾から赤く染まっていった。
 彼女は白いレースをあしらったハンカチを取り出し、ジークの腕の傷口を縛り始めた。彼女が動くたび、甘い匂いがふわりと舞い上がった。それは血の匂いと混じりあい、ジークに奇妙な感覚を与えた。
 ジークの腕は不格好に縛られた。
 ユールベルは手を止め顔を上げた。彼の視線を捉えると、ぐいと顔を近づける。息の触れ合いそうな距離。ジークは鼓動が止まったかのように感じた。ユールベルは、血が滲んだジークの頬にそっと指を置いた。
「ごめんなさい。私のことを嫌いにならないで」
 あごのあたりに、微かに彼女の吐息がかかった。ジークの頭はぐらりと揺れた。腕の痛みさえ忘れてしまいそうだった。

「すみません! 先生いますか!」
 リックがドンドンと医務室の扉を叩いた。
 ガラガラ——。
 姿を現わしたラウルは、黙ってふたりを見おろした。顔をそむけ立っているジークの腕は赤く染まっている。そのことに気がつくと、面倒くさそうにため息をついた。
「またおまえか」
 ジークはうつむいたまま顔をしかめた。
「入れ」
 ラウルは短くそう言うと、ガーゼや消毒薬などを手際よく準備し始めた。
「ジーク、ほら!」
 リックに促され、ジークはしぶしぶ医務室に入った。

「それほど深くはないな。すぐに治る」
 ジークの腕に包帯を巻き終わると、絆創膏を投げてよこした。
「頬にはそれでも貼っておけ」
 ジークは仏頂面でラウルを睨んだ。
 ——コンコン。
 軽いノックのあと、すぐに扉が開いた。そこから姿を見せたのはサイファだった。
「来客中か?」
 そう言いながらも、彼は遠慮することなく部屋に入ってきた。ジークとリックが会釈をすると、彼は穏やかな笑顔を返した。腕の包帯や血まみれの服を見ても、そのことには触れなかった。ジークは少しほっとした。
「今、終わったところだ。おまえは何の用だ」
 ラウルはため息まじりに言った。
「相談したいことがあってね」
 サイファはにっこりと微笑んだ。だが、目は笑っていなかった。それに気がついたのはラウルだけだった。
「じゃあ、僕たちは戻ります」
 リックがそう言って、ふたりは立ち上がった。
「すまないな」
 サイファは軽く詫びた。そして、ふいに尋ね掛けた。
「ジーク、腕はどうしたんだ?」
「……ガラスで切りました」
 ジークはどう答えようか迷ったが、経緯を伏せたまま事実のみを述べた。その声は重く沈んでいた。だが、サイファはそれ以上の追求はしなかった。
「そうか、お大事に」
 短くそれだけ言った。
「あの」
 ジークはとまどいながら切り出した。
「アンジェリカ、あしたは来ますか?」
「体調次第だが、なるべく行かせるよ。おそらく大丈夫だろう」
 サイファは再びにっこり笑った。ジークはその答えに安堵して、つられるように微かに表情を緩めた。

「あんなことを言っていいのか」
 ラウルは後片づけをしながら、背後のサイファに問いかけた。ジークとリックは出ていったので、ここにはふたりきりしかいない。サイファは窓枠にひじをつき、外の景色を眺めていた。
「相談したいのは、そのことなんだ」
 彼は空を見上げながら、ぽつりぽつりと言った。
 ラウルは椅子に腰を下ろすと、サイファの方へ体を向けた。それに呼応するかのように、サイファもさっと振り向いた。思いつめたような真剣な表情。しかし、それとは対照的な昼下がりの穏やかな風、柔らかな光が、彼の鮮やかな金の髪を上品に煌めかせている。
「アンジェリカの、開きかけた記憶の扉を、もう一度閉じることは出来るか?」
 ラウルは眉をひそめた。
「いつまでも嘘をつき通せるものではないだろう」
「隠し通すさ」
 サイファは少しの迷いも見せずに答えた。ラウルはギィと軋み音を立て、背もたれに身をあずけた。そして、無表情で口を開いた。
「ここまで来たら、思い出させるべきだと思うがな。もう幼い子供ではない。今の彼女なら耐えられるだろう」
 サイファは目つきを険しくしてラウルを睨んだ。
「それはおまえの憶測でしかない。失敗が許されることではないんだ」
「記憶を消すにも危険は伴う。忘れたのか」
「おまえは一度も失敗していない」
 サイファはめずらしくむきになっているように見えた。しばらくふたりは無言で視線を戦わせていた。
「アカデミーが終わったら、家に来てくれ」
 厳しい表情のまま、サイファは有無を言わさぬ口調で言い切った。そして、ラウルとすれ違い、戸口へ足を進めると、扉を開こうとしてふいに手を止めた。
「私はこれからバルタスに会ってくる」
「あまり派手に動くな」
 ラウルは背を向けたまま静かに言った。
「忠告、感謝する」
 サイファに微かな笑顔が浮かんだ。

 煌々と蛍光灯が照らす、天井の低いオフィス。十人ほどが机を並べるその奥に、がっちりした男が大きな机を構えていた。
 サイファは、部屋に入るとつかつかと彼の前へ進んでいった。書類やペンの音がやみ、あたりはしんと静まり返った。そこにいた全員がサイファに視線を注いだ。
「お久しぶりです。バルタス事務官」
 バルタスと呼ばれた男は、うつむいて苦い顔をした。しかし、すぐに厳格な表情を繕い、前を向いた。
「何の用だ」
 威厳に満ちたよく通る低音。だが、サイファは畏縮することなく、にっこりと笑いかけた。
「少し外でお話ししませんか?」
「もう昼休みは終わった。仕事でないのなら帰ってくれ」
 取りつく島もないあしらい方。それでもサイファは引かなかった。
「半分は公用、と言っていいかもしれません」
 意味ありげにそう言うと、真剣なまなざしで挑むように笑ってみせた。バルタスは無言で席を立った。
「すぐに戻る」
 フロア内の部下たちにそう言い残し、サイファと連れ立ってその場を後にした。
 ふたりが部屋を出ると、残された者たちは色めき立って、口々に話を始めた。

 王宮の外れにある小さな森。その中にひっそりとたたずむ散歩道をふたりで辿る。あたり一面にうっすらと緑のフィルタがかかり、枝葉の隙間からもれる光がまだら模様を映し出していた。
「君は、何を知っている」
 先に口を開いたのは、前を歩くバルタスだった。
「あなたの家の偽装結界のことだけです」
 サイファがそう言うと、バルタスの足は止まった。彼は空を仰ぎ、大きく息を吐いた。
「私を罰しに来たのか」
 サイファはバルタスの背中を見つめた。大きいがどこか頼りなく、哀愁が漂っているように見えた。
「公用と言ったのは、あなたを連れ出すため。ことを大きくするつもりはありません」
 バルタスは腰に手を当てうつむいた。
「……だろうな。ラグランジェ家の恥を公にすることなどできまい。それに、そのおかげで君の娘が今日まで何事もなく暮らせてこられたのだからな」
 そう言いながら、自嘲ぎみに鼻先で小さく笑った。
「否定はしません」
 サイファは冷静に答えた。
「それでも、もっと早く気づくべきだったと思います」
 その言葉を聞くと、バルタスはゆっくり振り向いた。サイファは彼と目を合わせた。そしてさらに話を続けた。
「どうして今になって結界を解いたのですか。そして、彼女をアカデミーに通わせるわけは……。私が伺いたいのはそれだけです」
 サイファの真剣なまなざしがバルタスに突き刺さる。彼は重い口を開いた。
「あの子はもう私の手には負えない。すべてはあの子の意思なのだ。私には何を考えているのかわからんよ」
 何もかも諦めたような言い方。サイファは彼のそんな様子を見て決意を固めた。
「今度、お宅の方へうかがいます。もう門前払いをする理由はないでしょう」
「ああ、歓迎するよ。今はあの子とふたりきりでね。正直、気が滅入る」
 バルタスはやりきれなさを滲ませた。
「奥さんと息子さんは?」
「妻の実家に身を寄せている。そうする以外に守りようがないからな」
 風が吹き、葉のこすれる音が、ざわざわと上から降りそそぐ。バルタスは寂しげに笑った。
「呪われているのは、君の娘でなく、私の娘の方かもしれんな」


36. 甘い憂鬱

「おはよう」
 背後からの晴れやかな声が、ジークとリックの足を止めた。ふたりははっとして同時に振り返った。
「アンジェリカ! 良かった、元気そうで」
 リックは彼女の笑顔を目にすると、ほっとして言った。
「全然たいしたことなかったみたい。ラウルも大丈夫だって」
 アンジェリカは肩をすくめて明るく笑った。だが、そんな彼女を見ても、ジークの心配は拭えなかった。
 アンジェリカは三日間、アカデミーを休んでいた。「全然たいしたことない」のなら、三日間も休む必要があるだろうか。念のためといわれればそうかもしれない。だが、そうではないかもしれない。
 気がかりなことは他にもあった。アンジェリカが明るすぎる、ジークはそう思った。あんなことがあったばかりなのに、彼女に不安はないのだろうか。なぜそんなに屈託なく笑えるのだろうか。
「ジーク? どうしたの?」
 ふたりの間に滑り込んできたアンジェリカが、難しい顔のジークを不思議そうに見上げた。ジークはその声で我にかえった。ふいに、下から覗き込むアンジェリカと目があった。近くで見ても彼女の顔色は良かった。肌は白いが、頬はほんのり桜色。そしてバラ色の可憐な唇はつややかに輝いている。
「いや、元気そうでよかった」
 顔をそらし、そっけなく言うと、ジークは再び歩き始めた。
「なに、あれ」
 アンジェリカは彼の後ろ姿にまばたきを送りながら、きょとんとつぶやいた。リックは小さく笑った。
「多分、照れてるんだと思うよ」
「ふーん……?」
 アンジェリカはよくわからないままそう返事をして、軽く首を傾げた。
「おい! 何やってんだ!! 遅刻するぞ!!」
 ジークは振り返り、一向についてこないふたりに向かって叫んだ。
「ごめん、いま行く!」
 リックは笑顔で手を振り答えると、アンジェリカとともに小走りで駆け出した。

 終業のベルが鳴り、一時間目が終わった。
 アンジェリカはノート、教本をトントンと揃えると、それらを机の中にしまいこんだ。それから、いつものように後方のジークに目をやった。しかし、その席には誰もいない。そのまわりにもジークはいない。今までそんなことは一度もなかったのに——。彼女に不安がよぎった。
「あれ? ジークはどこ行ったの?」
 リックも教室をきょろきょろ眺めまわしながら、アンジェリカに近づいてきた。
「さあ……授業中はいたと思うんだけど」
 彼女は目を伏せて、小さな声で答えた。隠そうとしても隠しきれない不安感が、その声に滲んでいた。
 リックはそれに気がつき、急に笑顔を作った。
「きっとお手洗いだよ。そんなに心配することはないって」
「別に心配なんてしてないわ」
 アンジェリカは精一杯の強がりを見せた。

 ジークは一年生の教室へ来ていた。後ろの扉から中を窺うと、近くでしゃべっていた女の子ふたりに声を掛けた。
「悪い。ユールベルを呼んできてもらえるか」
 そう言って、窓際の席でひとり外を眺めているユールベルの後ろ姿を指さした。ふたりの女の子は、頬を赤らめながら少しとまどったように返事をすると、連れ立ってユールベルのもとへ駆けて行った。
 ジークは壁にもたれ掛かり、腕を組んでため息をついた。別に悪いことをしているわけではない。そう自分に言い聞かせても、若干の後ろめたさは拭えない。
「あなたが会いに来てくれるとは思わなかったわ」
 ユールベルの声が、ジークを現実に引き戻した。白いワンピースのユールベルは、棒立ちでジークをじっと見つめた。相変わらず彼女の左目は白い包帯に覆われている。
 ジークは話を切り出そうとしたが、まわりの注目を浴びていることに気がつき、口をつぐんだ。そして、場所を探すため、あたりをぐるりと見渡した。
「あっちで話そう」
 好奇の目を向ける一年生に睨みをきかせながら、ユールベルを階段の裏へと連れて行った。
「腕は大丈夫?」
 先に話しかけたのはユールベルだった。彼女は、ジークの長そでの上からそっと手をのせた。包帯の感触を感じとると、顔を上げ、ジークの目を見つめた。
「ごめんなさい」
「いや、平気だ。傷は浅い」
 スピードを上げた心拍に急き立てられるように、ジークは短く早口で言った。ユールベルはゆっくりと目を細めた。
「私のことを嫌いにならないで」
 前回の別れ際と同じ言葉。だが、あのときとは違って、ほんの少しだが感情がこもっているように感じられた。
 ユールベルは両腕をジークの背中にまわし、彼の胸に顔をうずめた。
 突然のことに驚いたジークは、不格好に両肘を張ったまま、行き場をなくした手を宙にさまよわせていた。背中に置かれた細い腕、細い指、腕をくすぐる柔らかな金髪、鼻をくすぐる甘い匂い、薄地の服を通して感じられる微かな体温、押しつけられた柔らかな胸、胸にかかる熱い吐息……。ジークは全身でユールベルを感じた。だんだんと遠のく現実。それでも正気を保とうと、彼の頭は必死でもがいた。そして、ようやく思い出した。自分がなぜここに来たのかを。
「ハンカチ……」
 ジークはつぶやくように言うと、ズボンのポケットから手のひら大の紙包みを取り出した。
 ユールベルはそれに目を移した。それから顔を上げ、ジークの瞳をじっと見つめた。彼が下を向けば息が触れ合いそうな距離。ジークは少しでも離れようと、背筋を伸ばして顔を前に向けた。
「このまえ借りたやつ、ダメにしちまったんだ。悪い。なるべく似たやつを選んだつもりだ」
 ジークは平静を装い、低いトーンで言った。しかし、速いスピードで打つ鼓動までは隠し切れない。彼女には伝わってしまっているだろう。そう意識すると、心臓はますます強く活動する。
「私のせいだから、そんなことは気にしなくても良かったのに。優しい人ね」
 ユールベルはジークの手から紙包みを受け取ると、ようやく体を離した。ジークはほっとして小さく息を吐いた。「借りを作りたくなかっただけだ」——ジークがそう言おうとした、そのとき。
 ユールベルはぎこちなく笑いかけた。ジークは目を見開いた。先日、彼女が笑っていると主張しても、見た目はずっと無表情だった。笑えないのかと思った。だが、今は確かに笑っている。
「あなたの言ったとおりだったわ。私は笑えてなかった」
 彼女は目を伏せてそういうと、大きくまばたきをしてジークと視線を合わせた。
「だから、今、きちんと笑えるように練習しているの」
 ジークは彼女の蒼の瞳に強い意志を感じた。少なくともそのことに関しては、疑う気になれなかった。
「そうか、頑張れよ」
 ジークも微かな笑顔を返した。
「ありがとう」
 ユールベルは大事そうにハンカチを両手で握りしめ、再び笑ってみせた。まだ少しぎこちない。だが、ジークの目には、さっきよりも表情が柔らかくなっているように映った。

 ジークは自分の教室に戻るために、階段をのぼっていた。
「どんな手を使ったんだ。教えてくれないか」
 その声にジークが顔を上げると、踊り場から男が見下ろしていた。レオナルドだった。腕を組んで壁にもたれかかり、嫌みたらしくニヤリと笑っている。ユールベルと話していたところを覗いていたに違いない。
 ジークはひと睨みすると、無視をして通り過ぎようとした。だが、レオナルドは素直に逃がしはしなかった。
「ユールベルまでこんなに早く手なずけるとはな。アンジェリカだけでは物足りないか。それともラグランジェ家を乗っ取るつもりか」
 レオナルドは挑発的に畳み掛ける。それでもジークは必死に気持ちを抑えていた。だが、その壁も次のレオナルドの言葉で弾け飛んだ。レオナルドはニヤリと笑い、身を乗り出すと、ジークの耳もとでささやくように言った。
「さっきのこと、アンジェリカに言ったらどうなる?」
 ジークはレオナルドの胸ぐらに掴みかかり、そのまま壁に叩きつけた。レオナルドは後頭部を打ち顔をしかめた。だが、歯を食いしばったジークのくやしそうな表情を見ると、満足げにせせら笑った。
「悪いのはこっちか? 言われて困るようなことをしていた自分はどうなんだ」
 レオナルドはさらに追いつめた。
 ジークは何も言葉が出なかった。レオナルドから手を離すと、背を向けこぶしを握りしめた。
「言いたきゃ勝手に言えよ」
 吐き捨てるようにそう言ったあと、少しの間をおいて続けた。
「俺は何も悪いことはしてねぇ」
 今度は自分に言い聞かせるように、言葉を噛みしめながら言った。しかし、それと同時に、後ろめたさを感じていたのも事実だった。

「あ、ジーク!」
 アンジェリカは教室に入ってきたジークと目が合い、声を上げた。ジークはアンジェリカに応えることなく、むすっとしたまま黙って席についた。
「どこへ行っていたの……?」
 アンジェリカはおずおずと尋ねた。
「トイレだ」
 ジークはぶっきらぼうにそう答えた。だが、その目は明らかに彼女から逃げていた。アンジェリカは不安そうに目をしばたたかせながら、遠慮がちに覗き込もうとした。
「だめだよアンジェリカ。あんまりジークを追いつめちゃ」
 リックが優しく彼女を諭した。
 ジークはどきりとした。リックが何を言い出すつもりなのかと気が気でなかった。しかし、下手に口出しするのも恐い。彼は成り行きを見守るしかなかった。
 リックはアンジェリカににっこり笑いかけて言った。
「おなかの調子が悪いなんて、恥ずかしくて言えないんだから」
「違っ……! リックおまえ何言い出すんだ!!」
 ジークは一気に顔を上気させて、椅子から立ち上がった。リックがなぜそう言い出したのかわからず、頭が混乱していた。そんなふうに推測しただけなのだろうか。それとも自分をからかっているだけなのだろうか。
 リックは頭に手を置き、明るく笑った。
 アンジェリカはそんなふたりを見て、腕を組み、呆れたようにため息をついた。しかし、その表情は安堵で和らいでいた。
 ジークはそこで初めて気がついた。リックが自分のためにひと芝居打ってくれたのだということに。リックにも何も言ってはいなかったのだが、アンジェリカより付き合いの長い彼には、何か察するものがあったのだろう。そのごまかし方には納得がいかなかったが、それでもジークは感謝した。
 キーン、コーン——。
 始業のベルが鳴った。
「始まったぞ。おまえら席に戻れ」
 ジークは照れ隠しに、大袈裟に手を振って追いはらった。その拍子に、シャツの袖口から白い包帯がチラリとのぞいた。アンジェリカはそれを目ざとく見つけた。
「どうしたの、それ」
 彼女は指さしながら近づいた。
「ああ……」
 ジークは一瞬、腕を隠そうとしたが、すぐに思いとどまった。隠した方が不自然であることに気がついたからだ。
「割れたコップで切った。たいしたことねぇよ」
 努めて冷静に言ったが、アンジェリカの反応はなかった。
「アンジェリカ?」
「……え? ううん、なんでもない」
 彼女は早口でそう言うと、パタパタと小走りで席に戻っていった。
 甘い、におい——。
 ジークに近づいたとき、微かにふわりと甘い匂いがした。懐かしいような、それでいて落ち着かない気分にさせられる。
 何の匂い——?
 アンジェリカは得体のしれない不安が静かに胸に広がっていくのを感じた。



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