目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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31. 動揺

 アカデミーの正門脇を取り囲むように、人だかりが出来ていた。ざわめきの中からときおり悲鳴にも似た歓喜の声が上がる。
「そっか。今日が合格発表だったんだ」
 少し離れたところからその様子を眺めていたリックが、小さく頷きながらつぶやいた。隣にいたジークもじっと群衆を見つめていた。
 一年前の合格発表のとき、アンジェリカと出会った。そして初めて味わった敗北。傷つけられたプライド。
 最悪の出会いだった。
 そのときまで信じていたものが、いかに小さなものだったのか——。あれからいろいろな経験を重ねた今なら、素直にそれを認めることができる。しかしそのときはただ、自分を負かした小生意気な少女を憎らしく思うことしか出来なかった。
「あれからもう一年になるんだね」
 リックの声でジークは我にかえった。リックも一年前のことを思い出していたのだろう。その声からは近くて遠い日々を懐かしむ気持ちがにじみ出ていた。
「おはよう」
 いつの間にか近くまで来ていたアンジェリカがふたりに声を掛けた。そして、少し肩をすくめて見せた。
「すごい人ね。去年はここまで多くなかったと思うけど」
 合格発表を見ようと押し合う人々は、正門前まで溢れ返っていた。受験生だけでなく、その家族や興味本位の在校生も多く集まっていたようだった。
 その中からひとりの少年が身をかがめ、つまずきながら出てきた。背が高く、痩せてひょろりとしている。クラスメイトのダンだった。
「アンジェリカ、おはよう!」
 アンジェリカに気がつくと、手を振りながらまっすぐに走り寄ってきた。もみくちゃにされた髪を手ですき直していたが、あまり効果はなかった。
「おはよう」
 アンジェリカは挨拶を返しながら、不思議そうに首を傾げた。彼とはあまり話をしたこともなく、特に仲が良いというわけではなかった。
「今、そこで合格発表を見てきたんだけどさ」
 ダンは興奮ぎみにまくしたてた。両こぶしを堅く握りしめ、顔を輝かせている。
「すげーな! 今年も入ってきたんだな、ラグランジェ家の子。しかもふたりも!」
「え?」
 アンジェリカはダンを見上げ、目を見開いた。
「うそ? 誰?!」
 踵を上げて一歩ダンに踏み出すと、短く問い詰めた。彼はアンジェリカの激しい反応に少したじろいだ。
「あ、ああ。女と男とひとりづつだったかな。名前は……、えーと、なんだっけ」
 そう言うと、何とか思い出そうと、目を閉じ額に手を当てた。
 しかし、アンジェリカは彼を待たず、群衆へ向かって走り出した。ジークとリックも、眉をひそめ顔を見合わせると、そのあとを追っていった。
「思い出した! 男の方はレ……」
 ダンが目を開けたときには、もう周りには誰もいなかった。

 アンジェリカは人垣に阻まれ、中に進めずにいた。
「ワリィ、ちょっと開けてくれ」
 ジークがアンジェリカをかばうように後ろから肩を引き寄せると、無理やり道をこじ開けながら進んでいった。
「ちょっ……」
 ジークの強引なやり方に、アンジェリカはとまどいの声を上げた。
 リックはジークの背中にくっつくようにしてついていった。「すみません」としきりに周りに謝っていたが、あまり効果はなかったようだった。押しのけられた人々は文句を言いながら、ジークたちを睨んでいた。しかし、何人かはアンジェリカに気がつき「ラグランジェ家の……」と囁きあっていた。
 刺すような視線を背中に浴びながら、三人はいちばん前に躍り出た。
 アンジェリカは壁に張られた紙を見上げた。
「ユールベル=アンネ=ラグランジェ……? 誰かしら。聞いたことがない」
 いちばん上に書かれた名前を読み上げ、アンジェリカは首を傾げた。そしてもうひとりを探すべく、すぐに下へと目を走らせた。今度はいちばん下にラグランジェの名前を見つけた。
「レオナルド?! どうしてあいつが……」
 そう言うと、身を翻し、今度は自力で人垣をかきわけ出ていった。
「どうしたの?」
 アンジェリカを追って出てきたリックが、彼女の小さな背中に声を掛けた。ジークはただじっとアンジェリカの後ろ姿を見つめていた。
 アンジェリカはゆっくりと振り返った。
「今までラグランジェ家の子がアカデミーに入ったことなんてなかったのに、今年はふたりもいるのよ。どう考えても変よ」
 静かにそう言うと、眉をひそめうつむいた。
「見張り……ってこと?」
 リックは声を低くして尋ねた。アンジェリカは口元に手を添え、さらに深くうつむいた。
「そこまではどうかわからないけれど」
 アンジェリカが続けて何かを言いかけたとき、背後からの声がそれを遮った。
「お久しぶりです、お嬢様」
 聞き覚えのある声だった。胸に黒い気持ちが広がっていくのを感じながら、アンジェリカはゆっくり振り向いた。
「いったいどういうつもり?」
 彼女が睨みつけた先に立っていたのは、パーティでアンジェリカの肩を傷つけた少年、レオナルドだった。

 ジークは一度見ただけだったがはっきりと覚えていた。ラグランジェ分家の嫌味な奴だ。そしてアンジェリカと結婚することになっていたかもしれない男……。
 こいつなのか? アカデミーに合格したのは。
 ジークはアンジェリカの後ろで腕を組み、目つきを悪くしてそのブロンドの男を凝視していた。
「そんなに恐い顔をしないでください」
 レオナルドはアンジェリカに笑顔を向けた。ジークやリックのことは視界に入っていないようだった。
「あなたのその外ヅラの良さには敬服するわ」
 アンジェリカは苦々しくそう言うと、よりいっそうきつく睨んだ。その瞬間、レオナルドの顔に陰がさした。
「この前はやりすぎたと思っている。申しわけなかった」
 嫌味に丁寧でもなく、蔑むでもなく、自然な口調だった。
 思いがけない反応に、アンジェリカはとまどいを隠せなかった。しかし、今まで積み重ねてきたものがある。にわかにそれを信じるわけにはいかなかった。
「何を企んでいるの? アカデミーに潜入して、しおらしさをよそおって」
 アンジェリカは背筋を伸ばし、腕を組み、まっすぐにレオナルドを睨みつけた。少しの隙も見せないように気を張る。レオナルドはそんなアンジェリカから目をそらし、遠くの空を目を細めて眺めた。
「ただ証明しかっただけだ。お……」
「確かにあなたの言っていたとおり、アカデミーはたいしたことがないって証明されたみたいね」
 アンジェリカはレオナルドの言葉を遮り、精一杯の嫌味を突きつけた。そして、しばらく彼の反応をうかがっていた。しかし、彼は無表情のままアンジェリカに背を向け、何も言わずその場を立ち去った。
 アンジェリカはどうしてか声を掛けられなかった。小さくなっていく彼の背中をただぼんやりと見ていた。

「なんかあったのか? アイツと」
 ジークの声で現実に引き戻された。
「うん……まあ、いろいろと」
 アンジェリカにしてはめずらしく歯切れの悪い答えだった。ジークはそれがさらにひっかかった。
「いろいろって何だよ」
 背中を向けたままのアンジェリカに、低い声で問い詰めた。
 しかし、彼女はほとんど上の空で、「たいしたことじゃないわ」とつぶやくように言っただけだった。そして、深く考え込んだまま、アカデミーの門へと歩き出した。

 ジークはその日ずっと機嫌が悪かった。そして、アンジェリカは考え込んだまま難しい顔で黙り込んでいた。三人はほとんど会話らしい会話をしていなかった。
 授業を終え帰り支度をしていたリックは、アンジェリカを気にしながら、ジークにそっと耳打ちした。
「怒ってる場合じゃないと思うんだけど」
 ジークは無言のままむすっとしていた。リックはさらに畳み掛けた。
「アンジェリカは不安なんだよ。怖がってるんだよ」
「……おまえ、俺にどうしろっていうんだよ」
 ジークもアンジェリカを気にして横目で見ながら、声をひそめてリックに突っかかった。
「別にどうしろとは言わないけどね」
 リックはとぼけたような口調で言った。それからアンジェリカに振り向き、明るく声を掛けた。
「ねえアンジェリカ。屋上、行ってみない?」
「え?」
 ぼんやりしていたアンジェリカは、ふと我にかえるとリックに顔を向けた。彼はアンジェリカににっこりと笑いかけた。
「行こうよ、屋上」
 柔らかい彼の声を聞きながら、アンジェリカは怪訝な顔をして首を傾げた。
「行っちゃいけないんじゃないの?」
「大丈夫。ジークがなんとかしてくれるから」
「おいっ! 勝手に決めるなよ!」
 リックの勝手な言いように、ジークは焦って身を乗り出した。そしてリックの肩ごしに、アンジェリカと目が合った。気まずさを感じながら、なぜかふたりとも視線をそらすことが出来なかった。
「わかったよ。行こうぜ」
 そう言ってわざとらしくため息をつくと、ズボンのポケットに手を突っこみ、教室の外へと出ていった。
「行こう」
 リックに促されて、アンジェリカは彼とともに小走りで後を追った。

 屋上へと続く階段は、いつものように封鎖されていた。
 錆びた鎖がゆるく三重に渡され、その中央に「立入禁止」と書かれたプレートが斜めに架かっていた。プレートはほこりにまみれ、薄汚れていた。
 しかし、阻んでいるものはそれだけではなかった。
「結界まで張らなくてもいいのにな」
 鎖の背後はうっすら青白く光っていて、そこに結界が張られていることを示していた。
「でもかなり緩い結界だと思うわ。これくらいなら簡単に解除できるわよ」
 アンジェリカはそう言うと、あたりをうかがった。誰もいないことを確認すると、手のひらを結界に向け、呪文を唱えようとした。
「待てよ」
 ジークはアンジェリカの手をつかみ、それを止めた。
「なによ?」
「俺がやる。もしばれたら……まずいからな」
 今度はジークが手を伸ばし、結界に向け呪文を唱えた。シュッとかすれた音とともに中央部分から広がるように光が消えていった。
 ジークとリックは鎖をまたいだ。
 アンジェリカは後に続こうとして足を止めた。そしてじっと鎖を見つめた。彼女がまたぐには高すぎる。しかしくぐるとほこりまみれになりそうだ。
「足あげろよ」
 頭上から声が降ってくるのと同時に、アンジェリカの体が宙に浮いた。ジークが両脇から彼女の体を持ち上げていた。驚きながらも彼女は言われた通り、素直に足を折り曲げ膝を上げた。彼女はずっと自分の足元を見ていた。鎖を越えると静かに体を降ろされ、再び地に足がついた。
 アンジェリカが顔を上げたとき、ジークはもう彼女に背中を向け歩き始めていた。

 リックは前を向いたまま、ずっとにこにこしていた。
「……んだよッ!」
 ジークは耳を赤くし、中途半端に声をひそめて彼に食ってかかった。
「別に」
 リックはすました声で答えると、再びにっこり笑った。ジークはからかわれているような気がして、むすっとした顔のままよけいに耳を赤くした。アンジェリカもその後ろでかすかに頬を染めていた。

 階段を登りきったところに、鉄製の錆びた扉があった。
 ジークとリックは三本のかんぬきを抜き、扉を押した。ギギギ、と嫌な音をさせながら扉が動き、間から白い光が差し込んできた。
 アンジェリカは右手を光にかざすと目を細めた。

 リック、ジーク、アンジェリカは順番に屋上へ出た。
 眼前にも頭上にも遮るものはない。その恐いくらいの解放感に、アンジェリカは息を呑んだ。
「んー!」
 中央へ走っていくと、リックは両手を伸ばし大きく息を吸った。
「おまえ、ホント好きだな、屋上」
 ジークは腕を組み、浅く息を吐くと、少しあきれたような視線をリックに向けた。しかしリックはにこにこしたままおかまいなしだった。
「だって見てみてよ。この爽快感って他にないよ。それにいつもの景色がいつもとちょっと違って見えるのも好きなんだ。アカデミーのは初めてだけど、今まででいちばん見晴らしがいいよ」
 そういうと顔を上げ、再び深く息を吸った。
 アンジェリカも少し踵を上げて、思いきり息を吸い込んでみた。体の中を風が吹き抜けた。彼女は空を見上げて目を細めた。
 ジークは柵にもたれかかりながら、アンジェリカの様子を見ていた。彼女の笑顔に、彼の表情もつられて緩んだ。しかし、リックが遠くから自分の方を見ていることに気がついて、バツが悪そうにうつむいた。彼の耳は再び赤くなっていた。
「ジークは屋上きらいなの?」
 下を向いている彼に気がついて、アンジェリカは走り寄っていった。ジークは顔を少しそらせた。
「いや。嫌いじゃない、けど……」
 アンジェリカが覗き込んできたので、ジークはさらに顔をそらせた。
「…………」
 ジークは横目でアンジェリカをちらりと見た。
「少しは元気が出たみたいだな」
「あ、うん。……ありがとう」
 アンジェリカは少しのとまどいを含んだ声で、ぽつりぽつりと答えた。
「礼はリックに言えよ」
 彼女から顔をそむけたまま、ジークはぶっきらぼうに言葉を吐いた。アンジェリカはジークにどう接したらいいのかわからず、困って目を伏せた。
「無理にとは言わねぇけど」
 ジークは柵に身を預け、空を見上げた。
「悩んでることがあったら俺らに話せよ。解決は出来ねぇかもしれないけど」
 ジークはずっと仏頂面だった。しかし、アンジェリカはその横顔から照れの表情を見つけた。彼女はにっこりと笑った。

「おまえたちか」
 よく通る低い声。扉から姿を現したのはラウルだった。リックはしまったという表情で振り返った。
「俺が無理やり連れてきたんだよ」
 ジークはラウルを睨んで言い放った。アンジェリカは驚いて隣のジークを見上げた。
「だろうな」
 ラウルは腕を組み、自分を激しく睨む少年をゆったりと見下ろした。ジークは負けじと視線をいっそう鋭くした。
「いえっ、行こうって言ったのは僕です!」
 そう言いながら、後ろからリックが必死の顔で駆け寄ってきた。しかし、ラウルは冷めた目をジークに向けたまま、口を開いた。
「どっちでも構わないが、結界を解除したらすぐに張っておけ。他の者にわからないようにな」
 てっきり怒られるものだと思っていたリックは拍子抜けしてしまった。
 ラウルはアンジェリカに視線を移した。
「アンジェリカ。話しておきたいことがある」
 アンジェリカは小さくこくりと頷いて、ラウルの方へ歩きかけた。しかし、ふいにジークに肩をつかまれ、後ろに押し戻された。
「今日は行かせねぇ」
 そう言うとアンジェリカを後ろ手でかばうようにしながら、一歩前へ踏み出した。背筋を伸ばし、口をまっすぐに結んで、ラウルの前に立ちはだかった。
「ジーク! なに勝手なこと言ってるの?!」
 アンジェリカはジークの背中を軽く叩いた。
「話があるならここで言えよ」
 ジークは挑むように言った。彼の額には薄く汗がにじんでいた。
 ラウルは眉ひとつ動かさずに、じっと彼を見ていた。そして、アンジェリカに視線を移すと、静かに口を開いた。
「ユールベルには気をつけろ」
 ラウルはそれだけ言うと、身を翻し、扉をくぐって戻っていった。
「待って! どういうこと?! ユールベルって誰なの?!」
 アンジェリカはジークを振り切り、ラウルを追いかけようとした。しかし、しっかりと腕をつかまれ引き止められた。
「離してよ!」
 彼女はヒステリックに叫んだ。
「あしたでもいいだろう」
 ジークは彼女の腕をつかんだままうつむき、小さな声で言った。
「ジークは私の気持ちなんて全然わかってない!」
 こみ上げる感情のまま、アンジェリカは再び叫びを上げた。その声はわずかに揺らいでいた。それに呼応するように、ジークも感情を高ぶらせ声を荒げた。
「おまえだって俺の気持ちわかってねーだろ!」
 アンジェリカはジークを睨みつけた。その瞳はわずかに潤んでいた。
「ラウルに反抗したいだけじゃない!」
 ジークの手が緩んだ。アンジェリカの腕が、そこからするりと抜けた。彼女は数歩下がり、息苦しさをこらえるような顔でジークを見た。しかし、うつむく彼の顔には陰が落ち、表情を読みとることが出来なかった。
 アンジェリカはしばらくジークを見つめていたが、意を決したように踵を返すと、ラウルを追って扉をくぐった。

 ジークはもたれ掛かっていた柵を、ガツンと力を込めて叩き、歯をくいしばった。


32. 友の思い、親の思い

「本当にごめんなさい! わざとじゃない……のよ?」
 アンジェリカは顔の前で両手を合わせると、申しわけなさそうに、上目づかいでジークとリックを見た。
「てっきりジークが怒らせたからだと思ってた」
 リックはちらりとジークを見ると、何か言いたげに目に笑いを含ませた。それから、アンジェリカに向き直るとにっこり笑いかけた。
 ジークは顔を伏せ、耳を赤くしていた。

 昨日の夕方、アンジェリカはジークの制止を振り切り、ラウルの後を追っていった。そしてその途中、自分たちが解除した結界を元に戻していった。いや、新たに結界を張り直したといった方が正しいだろう。そして、それは元のものとは比べものにならないほど強力なものだった。
 彼女が意識をしてやったというわけではない。何気なく扉を閉めるくらいのつもりで張った結界だった。しかし、ジークとリックを屋上に締め出すには十分な強さを持っていた。ふたりがかりでもなかなか破ることができず、悪戦苦闘していたところへ二年の担任が通りかかり、助けられたというわけだ。
 ついでに大目玉をくらってしまったことは言うまでもない。
 それでも、どんなに問い詰められても、ふたりはアンジェリカのことは一言も口にはしなかった。

「ほとんど無意識だったのよ」
 アンジェリカは肩をすくめた。
「多分、ラウルが元に戻しておけって言ってたことが、頭に残っていたからだと思うけど」
「これもアイツの計算だったんじゃねぇかと疑っちまうくらいだな」
 ジークは小声でぼそぼそと言うと、乾いた笑いを浮かべた。

 三人は食堂の隅のテーブルに席をとった。
「それで、ユールベルとかいう子のことは何か聞けたの?」
 昼食をのせたトレイを机に置きながら、リックが尋ねた。
 アンジェリカは椅子に腰を降ろすと、ほおづえをついた。
「それが全然。少し診察して、よくわからない質問をいくつかされて、それだけ。いくら聞いても答えてくれなかったわ」
 不機嫌にそう言うと、コップを手に取り、水をひとくち飲んだ。ジークは勢いよくパンを頬張り、スープを流し込んだ。
「あんな気になることを言っといて、どういうつもりなんだかな」
「うん……」
 さすがにアンジェリカも、これには同意せざるをえなかった。言葉を呑み込み、フォークでサラダをつつきながら、目を伏せていた。
「そのラウルの質問って、どんな質問だったの?」
 リックはスープを片手に、少し頭を低くしてアンジェリカを覗き込んだ。
 彼女は瞬きをしながら小首を傾げた。
「小さい頃のこととか……憶えているかどうか確かめたかったみたいだけど、よくわからないわ」
「ラグランジェ家のことなら、サイファさんかレイチェルさんに聞けばいいんじゃねぇのか?」
 ジークは名案を思いついたといわんばかりにパッと顔を輝かせ、プチトマトを突き刺したフォークでアンジェリカを指した。
「もちろん聞いたわよ」
 彼女は当然のことのように言った。しかし、その声からは明らかに不満が感じとれた。さらに顔を曇らせ、頬をふくらませると、背もたれに身を預けた。
「でも全然。昔に何度か顔を見かけただけであまり知らないとか言っていたけど、絶対にあやしいわ。何かを隠してるみたいだったし……」
 フォークを握りしめたまま、しばらく考え込んでいたかと思うと、突然机に手を置き、身を乗り出した。
「ねぇ」
「ん?」
 ジークとリックは口にパンを頬張ったまま、アンジェリカを見た。
「ふたりから聞いてくれないかしら。私には言わなくても、ふたりになら話してくれるかもしれない」
 アンジェリカの思いつめた表情に、ふたりは言葉を発することができなかった。そもそも彼女が人に何かを頼むということ自体がめったにないことだ。どれほど彼女が必死であるかは察して余りある。
「ね?」
 彼女は不安げに言葉をつけ加えると、返事のないふたりをじっと見つめた。
「あ……ああ」
 ジークはぎこちなく頷いた。

 授業が終わり、皆それぞれ帰り支度を始めていた。ジークも鞄を開け、本をしまおうとしていた。そこへ——。
「ジーク」
 教壇からの無愛想な声が彼を呼んだ。ジークは顔を上げ、声の主に対抗するかのように、精一杯の仏頂面を見せた。
 ラウルはそれ以上、何も言わなかった。教壇からただ無表情でジークを見ていた。その目が彼を呼んでいた。ジークはしぶしぶ立ち上がり、教壇へと歩いていった。ラウルは二つ折にされた紙切れを、人さし指と中指の間に挟んで差し出した。
「サイファからの預かりものだ」
 ジークは少し眉をひそめると、それをそっと引き抜いた。
「アンジェリカに悟られぬように、ということだ」
 言うことだけ言うと、ラウルは教本を脇に抱え、さっさと出ていってしまった。
 ジークはしばらく怪訝な顔でラウルの姿を目で追っていたが、ふいに自分の手元に視線を戻し、渡された紙を広げてみた。
 ——本日、リックと二人で例の酒場へ。
 中央に短くそれだけ書かれていた。そしてその右下にはサイファのサインが入っていた。ジークはそれを一握りすると、ズボンのポケットに突っ込んだ。
「どうしたの?」
 振り返ると、アンジェリカが大きな瞳で不安げにじっと見つめていた。
「ああ……。きのうのお小言だ。心配するな」
 うつむき加減で少し早口にそう言うと、ジークは帰り支度の続きを始めた。

 三人は並んで歩き、外に出た。
 正門の隣にはまだ合格発表の紙が張ってあった。ちらほらと見に来ている人もいる。
 その中にひときわ目を引く、鮮やかな金の髪の少女がいた。アンジェリカよりやや年上くらいだろうか。半そでの白いワンピースから伸びた腕と脚は、折れそうに細い。緩くウェーブを描いたブロンドは腰まで達している。右の瞳は深い森の湖を思わせる蒼色、そして左目は白い包帯で覆い隠されていた。
 ——ユールベル……か?
 ジークはなぜだかそう直感した。そして、隣のふたりも同じように直感していた。
 気配を察したのか、少女がゆっくりと三人の方へ振り向いた。長いブロンドが風になびき、光を受け、きらきらと輝いた。
 アンジェリカは息を呑んだ。

「あら、アンジェリカ。今から帰るの?」
 背後からの声。調子が狂うくらいに明るい。アンジェリカが目を丸くして振り返ると、そこには優しく微笑むレイチェルが立っていた。
「どうしたの?!」
 アンジェリカは驚いて、思わず語気を強くした。アカデミーの正門からレイチェルが出てくるなど、思いもしなかった。
「今日はこちらに来る用事があったのよ」
 レイチェルはにっこり笑った。
「一緒に帰りましょう」
 アンジェリカはこくんと頷いた。レイチェルはジークとリックに一礼し、「それでは」と屈託のない笑顔で言った。そして、アンジェリカの背中に手をまわすと、歩みを促した。
 そのとき、アンジェリカは向かいの包帯少女がじっとこちらを見ていることに気がついた。いや、そんな気がしただけかもしれない。少女は無表情で、目の焦点もはっきりとは合っていない様子だった。
 アンジェリカは落ち着かない気持ちになった。言いしれぬ不安、恐怖にも似た感情が湧き上がる。なぜだか、ふいに母親の表情をうかがった。
 レイチェルは穏やかに笑みを浮かべていた。
 アンジェリカはようやく安堵して表情を緩めた。

 そのとき、少女の口元が微かに笑ったことには、誰も気がつかなかった。

「僕たちも帰ろうか」
 ふたりの背中を見送ったあと、リックはジークに振り向いて言った。ジークは無言でズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「呼ばれてんだ」
 ポケットからくしゃくしゃに丸まったままの紙を取り出し、リックに手渡した。彼は丁寧にそれを広げ、そこに書かれている文字を目で追った。そして顔を上げると、ジークと視線を合わせた。
「ユールベル……のことかな」
「さあな。とりあえず行ってみるか」
 ジークは狭い路地に足を向けた。

 次第に寂しくなる道を、ふたりは黙って進んでいった。しばらく歩き続け、看板も出ていない古びた建物に辿り着いた。外からはわかりづらいが、その地階が『例の酒場』である。
 以前、サイファに連れられてここに来た。王宮で働く者たちの隠れ家的な場所であることはそのときに知った。
 ジークは少しこわばった面持ちで、扉を押し開けた。
「いらっしゃい」
 長い黒髪の女主人フェイが、カウンターから気だるく声を掛けた。ふたりは店に入ると軽く会釈をした。そして狭い店内をぐるりと見渡した。
「サイファなら個室で待ってるよ」
 ニッと悪戯っぽく、そしてどこか艶っぽく笑うと、フェイはカウンターの奥を親指で指した。
「ほら、ぼーっとしてないで。おいで」
 まるで母親が子供をたしなめるような口調で言うと、笑ってふたりを手招きした。

 カウンターの奥に『個室』はある。
 しかし本来そこは店ではなく、フェイの応接間兼リビングルームなのだ。サイファが重要な話をするとき、無理をいって使わせてもらっているらしい。
 そして、今回も個室である——。

「少年ふたりのお届けー」
 抑揚のない声でそう言うと、フェイはジークとリックの背中を軽く押した。サイファはソファに座っていたが、ふたりの姿を見ると立ち上がり、にっこり微笑みかけた。
「ごゆっくり」
 フェイは目を細めてサイファを一瞥すると、カウンターへと消えていった。
「突然、呼び出してしまってすまない」
 サイファはにっこり笑って、手を向かいのソファに差し出し、ふたりに座るよう促した。
「いえ……」
 リックが重い声で答え、ふたりはソファに腰を降ろした。続いてサイファも静かに座った。
「察しはついていると思うが……」
 ふたつのグラスに氷を入れ、ウィスキーを注ぐと、ふたりに差し出した。
「アンジェリカのことだ」
 サイファをじっと見つめたまま、ジークはわずかに頷いた。
「単刀直入に言おう」
 サイファはいったん目を閉じ、深く息を吐くと、まっすぐにジークとリックを見つめた。

「アカデミーをやめさせようと思っている」

 予想を超えたその言葉に、ふたりは凍りついた。逆に、心臓は口から飛び出さんばかりに激しく打っていた。
「アカデミーをやめたからといって、君たちとの縁が切れるわけではないよ」
 ふたりの様子を察して、サイファは優しくつけ加えた。
「でも、アンジェリカの……」
 リックが身を乗り出して何かを言いかけたが、ジークの手がそれを制した。
「わけを、聞かせてもらえますか?」
 ジークは努めて冷静に言った。だが、その声は少しうわずっていた。
 サイファは前を向いたまま、視線だけを落とした。
「申しわけないが、それはできない」
 そのにべもない答えにも、ジークは怯まなかった。
「きのうラウルが言ってました。ユールベルには気をつけろと。それと関係があるんじゃないですか?」
「ラウル……。そんなことを言ったのか」
 サイファは前のめりにうつむくと、目を閉じ、深くため息をついた。
「しかし、これ以上は教えるわけにはいかない。なにがなんでもアンジェリカに悟られるわけにはいかないのだ。君たちを信用していないわけではないが、アンジェリカがしつこく食い下がってきたら、つい言ってしまうことも考えられるだろう」
 ジークは今日の昼のことを思い出していた。サイファから聞き出してほしいと頼んだアンジェリカの必死の表情が頭をよぎった。確かに、それに関してはサイファの言うとおりかもしれない。しかし……。
「アンジェリカにはどう説明するんですか? 何の説明もないのでは、納得しないと思いますけど」
 ジークが言おうとしていたことを、先にリックが口にした。
「納得か……。納得しないのなら、それはそれで仕方がない」
 サイファは自らに言い聞かせるように、そう言った。リックは膝の上にのせた両こぶしを強く握りしめた。
「サイファさんはさっき言いましたよね。アンジェリカがアカデミーをやめても、僕たちとの縁が切れるわけではないと。それはユールベルという子にも当てはまるのではないですか? アカデミーをやめたからといって、逃げられるものなんですか? それともずっとアンジェリカを家に閉じ込めておくつもりですか?」
 リックは一気にまくしたてた。彼にしてはめずらしく語気が荒く、少し怒っているようにも聞こえた。ジークでさえ、こんなリックを見ることはほとんどなかった。
 サイファは目を細めて、それをじっと聞いていた。リックの言葉が途切れると、彼はゆっくり口を開いた。
「もしそれしか手立てがないのなら、私はそうするだろう」
「俺が守ります」
 ジークがサイファの言葉をさえぎるように、きっぱりと言った。口を堅く結んで、まっすぐにサイファの瞳に視線を送った。
 リックは目を見開いて、隣のジークに振り向いた。
「アカデミーにいる間は、俺が守ります」
 ジークはもう一度、噛みしめるように繰り返した。
 サイファはふっと表情を緩めた。
「ありがとう。気持ちはとても嬉しいよ」
 そう言ってうつむき、少し寂しそうに笑った。
「しかし、アンジェリカの記憶までは、守ることはできないだろう」
「記憶?」
 ジークは怪訝に尋ね返した。サイファは顔を上げ、鋭い目つきで、まっすぐにふたりに向き直った。

「私たちは、アンジェリカの記憶の一部を消した」

「……え?」
 ジークとリックは、彼の言ったことが、とっさに理解できなかった。
「正確にいえば、記憶そのものを消したわけではない。思い出すためのルートを断ったというところだな」
 サイファは淡々と説明を続けた。ふたりは口を半開きにしたまま、呆然として彼を見つめた。
「だから、記憶がよみがえる可能性は十分にある。ユールベルに関われば関わるほど、その危険性は大きくなるだろう」
「そこまでして隠しておきたい事実って……」
 リックはそこで言葉を詰まらせた。そして、尋ねかけるような目をサイファに向ける。
「少ししゃべりすぎたようだ」
 サイファはグラスを取り、半分ほど残っていたウィスキーを一気に飲み干した。グラスの中の氷がカランと音を立てて回った。ジークもその音に誘われ、グラスを手にとった。冷たい感触。今が現実であることを、あらためて思い知らされた気がした。
「君たちの話は意見としてもらっておく。もう一度、レイチェルともよく相談してみるよ」
 サイファはにっこりと笑ってみせた。今までの話がすべて嘘ではないかと思えるほど、暗い陰などみじんも感じさせなかった。しかし、次の瞬間、彼は遠くを見やり、どことなく寂しげな表情を見せた。
「今度は楽しい話をしながら飲みたいものだな」
 リックはわずかに笑顔を作って頷いた。しかし、ジークは手にしたグラスに目を落とし、思いつめた顔で考え込んだ。琥珀色の表面には、彼の不安げな瞳が映し出されていた。


33. 説得

「おはよう、アンジェリカ……ってその荷物どうしたの?」
 非常識に大きなリュックサックを背負ったアンジェリカを見て、リックは目をぱちくりさせて尋ねた。まるで山登りにでも行くかのような格好である。
「家出、するの」
 彼女はうつむいたまま、不機嫌に低い声で言った。そして、ずり落ちそうになったストラップをつかみ、肩を揺らして背負い直した。
「家出?」
 ジークはきょとんとして聞き返した。アンジェリカは顔を少しだけ上げると、上目づかいでじっと彼を見つめた。
「アカデミーをやめろって言うのよ」
「あ……」
 ジークは小さく声をもらすと、隣のリックと顔を見合わせた。

 サイファからその話を聞かされたのが数日前。ふたりの説得により、もう一度考えると言っていたが、やはり結論は変わらなかったらしい。

「驚かないのね。もしかして、知ってたの?」
 アンジェリカは訝しげに眉をひそめた。下から覗き込むようにして、ふたりを睨み上げる。リックはたじろぎ、半歩下がった。
「驚きすぎて声が出なかっただけだよ」
 額に冷や汗をにじませながらも、なんとか取り繕った。ジークも調子を合わせて頷いた。
 しかし、アンジェリカは疑いのまなざしをやめなかった。腰に手を当て、下から顔をつきつけた。それでも、ふたりは何も答えようとしなかった。リックは微笑み、ジークは仏頂面を見せている。
 やがて彼女は「まあいいわ」とつぶやき、アカデミーへと歩き始めた。ジークとリックも、ほっとしながら、彼女の両側に並んだ。
「そうだわ。どちらかの家に泊めてほしいんだけど」
 彼女は両脇のふたりを交互に見た。
「あー、僕のところはダメかな。親がうるさいし」
 リックは焦りを笑顔で隠し、すばやく言い逃れた。
「それじゃ、ジークの家にするわ」
 アンジェリカは、さも当然のことのように言った。ジークは疲れたようにため息をついた。
「『するわ』って言われても困るんだよ。俺んち狭いの知ってるだろ? 布団だってねぇよ」
「気にしないで。ソファで寝るから」
 ジークの迷惑顔を無視して、アンジェリカは話を進めた。ジークは再び大きくため息をついた。
「あのなぁ、ソファなんて贅沢品、ウチにはねぇよ」
 アンジェリカはそれでも引かなかった。
「じゃ、ジークの隣で寝かせてもらうわ」
「ばっ、バカか!!」
 ジークは顔を一気に上気させた。その隣でリックは声を殺して笑っていた。
「なによ、意地悪!」
 アンジェリカは思いきり頬をふくらませた。そして、まっすぐ前を見ながら腕を組むと、再び口を開いた。
「いいわ。ラウルのところに泊めてもらうことにする」
 ジークは一気に熱が引いていくのを感じた。
「ていうか、そういう問題じゃねぇ。家出なんてダメだ」
 急に真剣な表情になると、アンジェリカに人さし指を向け、彼女をたしなめた。しかし、それはかえって火に油を注ぐ形になってしまった。
「私がアカデミーをやめさせられてもいいっていうの?!」
 アンジェリカは感情を高ぶらせ、ジークに噛みついた。
「そうよね、ジークにとってはしょせん他人事ですものね!」
 ——バン!!
 突き放したようにアンジェリカがそう言い終わると同時に、ジークは持っていた自分の鞄を地面に叩きつけていた。
 アンジェリカは驚いて彼を見上げた。
「なんにも知らねぇで、勝手なことを言ってんじゃねぇ。俺は……」
 ジークはうつむいたまま、かすれがすれに言葉を吐いた。叫びたい衝動を、喉の奥で必死に押さえつけていた。
 アンジェリカは動揺しながらも、反論をやめなかった。
「私の知らないことって何よ。この間からみんな、誰も、私になんにも教えてくれなくて……。それで何をわかれっていうのよ!! 勝手なのはどっちよ!!」
 今度はジークが驚き、アンジェリカを見た。彼女の、何かに耐えているような悲痛な表情。それは触れるだけで崩れ落ちそうな、そんな脆さを感じさせた。ジークの胸は激しく締めつけられた。
「悪かった」
 静かにそう言うと、彼は叩きつけた鞄を拾い上げた。そしてアンジェリカの背負っているリュックサックを後ろから持ち上げた。
「え?」
「重いだろ。持つよ」
 少しとまどいながらも、彼女は素直にリュックサックから腕を抜いた。
「でも、家出はダメだ。逃げたって何の解決にもならねぇだろ」
 ジークはリュックサックを左肩に掛けながら言った。アンジェリカは無言でうつむき、暗い顔で考え込んだ。
「もう一度よく話し合ってみようぜ。俺たちも一緒に行くから、な」
 めずらしく優しい口調でそう言うと、ジークはアンジェリカの肩に手をのせた。リックもうなずいて、反対側から彼女の肩に手を置いた。アンジェリカは硬い表情で小さくうなずいた。
「しかしこれ、本気で重いな。よくこんなものを背負ってここまで……」
 驚き半分、呆れ半分でジークはつぶやいた。

 終業を告げるベルが鳴った。
「今日はここまでだ」
 教壇のラウルは手に持っていた教本を閉じ、バンと机の上に叩きつけるように置いた。それを合図に、生徒たちは帰り支度やおしゃべりを始める。教室はざわめきで満たされていった。
「さあ、気合い入れるか」
 小さく独り言をつぶやいて、ジークは自らを奮い立たせた。その勢いで、教本を鞄の中へ乱暴に放り込むと、急いで席を立った。
「アンジェリカ」
 ジークは彼女に駆け寄った。だが、彼女は椅子から立ち上がり、教壇をじっと見つめていた。そこにいるのは、もちろんラウルである。
「俺たちじゃ頼りにならねぇか?」
 ジークは少しムッとしながら尋ねた。アンジェリカはそれでもラウルから目を離さなかった。
「簡単なことじゃないのよ」
 前を向いたまま、彼女は小さな声で言った。
 ラウルは視線を感じたのか、彼女の方へ歩き出した。ジークは向かってくるラウルを睨みつけた。しかし、彼は全く意に介していないようだった。
「私に何か用か」
 ラウルはアンジェリカの前にひざまづき、彼女と目線を合わせた。アンジェリカは無表情で小さく首を横に振った。
「また、今度ね」
「……そうか」
 ラウルは何か言いたげなアンジェリカの表情を察していたが、それ以上の追求はしなかった。彼は静かに立ち上がると、教室をあとにした。
「もし今日の説得が失敗したら、そのときはラウルに頼むけど……怒らないでね」
 ラウルがいた辺りに視線を残したまま、アンジェリカは抑揚のない声で言った。ジークは何も言葉を返すことが出来なかった。

「さーて、乗り込むか」
 アカデミーの門から出たところで、ジークは右のこぶしを左の手のひらにパチンと打ちつけて気合いを入れた。アンジェリカの大きなリュックサックをジークが背負い、そのかわりにジークの鞄をアンジェリカが持っていた。
 ジークはストラップをぐいと引っ張り、背中を揺らして背負い直すと、口を真一文字に結び、アンジェリカの家の方角をきつく睨みつけた。ジークの迫力に圧倒され、リックは少し引きぎみに苦笑いした。
「今からそんなに張り切ってると、着く頃には疲れちゃうんじゃない?」
「なに言ってんだ。おまえも気合い入れろよ。そんなことじゃ勝てねぇぞ!」
 ジークは眉間にしわを寄せ、弱気なリックの鼻先に人さし指を突きつけた。リックは笑顔を張りつかせたまま一歩下がった。勝ち負けの問題じゃないのにと思いながらも、あえて口には出さなかった。
「おまえもだぞ」
 今度は少し穏やかな声で、後ろのアンジェリカに振り向いた。
「わかってるわ」
 ジークと目を合わせることなく、アンジェリカは硬い表情で静かに言った。

「こんにちは」
 明るい声が3人を不意打ちした。振り返ると、そこにはレイチェルが笑顔で立っていた。右手を顔の横で広げ、小さく左右に振っている。
 彼女は合格発表の翌日から、毎日のように現われていた。初めは「用があった」という彼女の言葉を信じていたが、こんなにも続くのは不自然である。アンジェリカを迎えに来ているのだということは、もはや明らかだった。
 しかし、ジークもリックも、そしてアンジェリカも、それについて尋ねることは出来ないでいた。
「一緒に帰りましょう」
 レイチェルはにっこり笑いかけた。しかし、アンジェリカは目を伏せて、頬をふくらせた。
「家出するって言ったのに……」
「あら、本気だったの?」
 レイチェルは笑顔で受け流した。
「あの」
 ジークはとまどいながらも声を掛け、ふたりに割って入った。レイチェルは大きくまばたきをすると、にっこりとしてジークに顔を向けた。そして首を少し傾げ、話の続きを促した。ジークは頭に血がのぼっていくのを感じた。
「あ、え……と。今日は俺たちも一緒に行きます。サイファさんを説得、じゃなくて……えーと、話したいことがあるんです」
「とても大事なことなんです」
 隣からリックがつけ加えた。
「サイファは今日は遅くなるかもしれないけど、それでも良いかしら」
「待ちます」
 ジークは間髪入れずに答えた。

 ジークとリックは、アンジェリカ、レイチェルとともに、彼女たちの家へ行った。サイファの帰りが遅いということで、レイチェルに勧められ、ふたりは夜ごはんをご馳走になった。
 そのあと、サイファを待ちつつ、アンジェリカの部屋で勉強を始めた。丸いローテーブルに三人が等間隔に座り、それぞれ本やノートを広げ、無言で読み進めていた。ときおりページをめくる音だけが部屋に響く。ジークは落ち着かない気持ちになりながらも、ふたりの邪魔をしないように、なるべく本に集中しようとしていた。
 しばらくそうやって勉強していたが、やがてリックがそわそわし始めた。こっそりと、だが何度も腕時計を目にしていた。
 彼のそんな様子にジークが気づいた。
「帰ってもいいぜ」
 リックは迷いながら目を伏せたが、少し考えて「うん」とうなずいた。そしてアンジェリカに目を向けると、申しわけなさそうに眉をひそめ「ごめんね」と謝り、慌てて机の上のものを鞄にしまい始めた。

 ふたりはリックを見送ったあと、再び座って本を広げた。
「リック、どうしたの?」
 アンジェリカが尋ねた。ジークは一瞬ためらったが、やがて口を開いた。
「……こないだ母親が倒れたらしいんだ。あいつはあいつでいろいろ大変みたいだぜ」
 思いもしなかった言葉に驚き、アンジェリカは目を大きく見開いてジークを見た。しかしすぐに目を細めて気弱にうつむいた。
「おまえが気にすることはねぇよ。無理に連れてきたわけじゃないんだし」
「うん……でも、大丈夫なの? お母さんは」
 彼女は不安そうに尋ねた。ジークは机にほおづえをつき、顎を上げると、どこか上の方を見やった。
「どうなんだろうな。俺、向こうの親とはあんまり親しくしてねぇんだ。俺のことあんまり良く思ってねぇみたいだし」
「どうして?」
 アンジェリカはそう尋ねながら、気がついた。リックの両親のことが話題にのぼったことは、今までほとんどなかったということに——。
「俺、ガラが悪いし、不良だと思われてんだ」
 ジークはほおづえをついたままアンジェリカを見ると、笑いながらそう言った。彼女にはその笑顔がどこか寂しげに見えた。
「ま、思い当たる節もいろいろあるんだけどな。あいつんちの窓ガラス三枚くらい割ったし、壁に穴も開けたな。あ、わざとじゃねぇぞ」
「……ウチは壊さないでよ」
 アンジェリカは呆れ顔で言った。

 そのとき、外でガタンと音が鳴った。続いて、話し声がかすかに耳に届いた。アンジェリカとジークは顔を見合わせた。
「行くか」
「策はあるわけ?」
「気合いだ」
 アンジェリカは不安を感じながらも、ジークとともに部屋をあとにした。

 サイファは驚きもせず、ジークを暖かく迎えてくれた。
「来ると思っていたよ」
 疲れも見せずにっこり笑って、ジークにソファを勧めた。その後ろでレイチェルも穏やかな微笑みを浮かべていた。ふたりの雰囲気に飲み込まれないよう、ジークは精一杯気持ちをとがらせた。
 ジークとサイファはほぼ同時に腰を落とした。ふたりはテーブルを挟んで向かい合せになっている。アンジェリカはジークの隣にちょこんと座った。そして、空いていたサイファの隣に、レイチェルがゆっくりと腰を下ろした。
「さて、ジーク。察しはついているが、君の話を聞こうか」
 一見、穏やかな表情に見えたが、その瞳は鋭く、真剣さをうかがわせた。ジークはまっすぐに見つめ返した。
「アンジェリカはアカデミーをやめたくないと言っています。家出までしようとしていました。それなのに、何の説明もなくやめさせるのはあんまりではないですか?」
 これではこの前と同じことを繰り返しているだけだ……。ジークは歯がゆかった。しかし、口下手なジークに上手い説得の言葉など、そう簡単に出てくるわけもない。
「子供の危険をあらかじめ回避するのが親の役割なんだよ」
 サイファは優しく、だがきっぱりと言った。
「それは……だから……俺がなんとか守ります」
 ジークは隣を気にしながらも、サイファから目をそらさずに、まっすぐ言葉をぶつけた。
 アンジェリカは驚いて隣のジークを見上げた。目をぱちくりさせながら、彼の真剣な横顔を見つめた。
「だが、君には君の本分がある」
 サイファは静かに反論した。
「アンジェリカのボディガードではない。常にアンジェリカのまわりに気を配るというわけにもいかないだろう。例えば、女子トイレにまでついていくことは出来ない——」
「お父さん!!」
 アンジェリカは叫んだ。サイファはセリカの事件を指して言っているのだ——そこにいる全員がすぐにわかった。ジークは何も返すことが出来ず、うつむいて押し黙った。
「すまない。君を責めているわけではないんだ。だが、事実だ」
 サイファは短くとどめを刺した。ジークはまるで冷たい手で心臓を掴まれたかのように感じた。声などとても出なかった。
「私が自分で気をつけるわ。隙なんて見せない」
 横からアンジェリカが強気に言い放った。強い光を込めた目で、サイファを挑むように見つめている。
「いいことを思いついたわ!」
 突然、レイチェルが緊張感を融かすようなはしゃいだ声をあげた。
「ボディガードをつけるというのはどうかしら?」
「嫌よ! 私は普通に学園生活がおくりたいの!」
 アンジェリカは即座に言い返した。レイチェルは娘の反撃にしゅんとしておとなしくなった。
「……ねぇ」
 アンジェリカは一息つくと、再びサイファに顔を向けた。サイファはゆったり構え、彼女の次の言葉を待っていた。
「生きていくって、誰でも多少の危険は伴うものなんじゃないの? ふたりとも過保護だと思うわ」
「アンジェリカ、多少ではないよ。おまえの場合」
 サイファは優しく諭すように言った。しかし、アンジェリカは納得しなかった。
「だから! それがなんなのかわからないのよ!!」
 いらついて叫ぶアンジェリカを見て、サイファの表情は、一瞬、曇った。しかしすぐにポーカーフェイスを装うと、話を続けた。
「おまえは分家の連中に良く思われてはいない。わかるだろう?」
「……ユールベルって子なんでしょう?」
 アンジェリカは静かにそう言うと、周りの反応をうかがった。しかし、誰も口を開かない。レイチェルはうつむき、ジークはサイファの様子をうかがっていた。そして、そのサイファはアンジェリカをまっすぐ見つめていた。
 アンジェリカはごくりと唾を飲み込んだ。
「何を隠しているの……? 本当に、本当に、どうして……。もう、いいかげんにしてよ!!」
 初めは静かに切り出したが、次第に感極まっていった。言葉もまともに出てこない。最後にはただわけもわからず叫ぶだけだった。
 それでも他の三人には動きはなかった。
 アンジェリカはふいに自分以外の世界が止まってしまったかのような感覚にとらわれた。
「アカデミーに入る前までは、私はほとんど部屋の中でひとりで過ごしていた」
 彼女は独り言のようにつぶやいた。そして、虚ろにソファから立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。
「それが私にとっては当たり前だったし、別に寂しいとは思っていなかった。……でも」
 足を止め振り返り、大きな瞳でジークを見つめた。ジークの鼓動はドクンと強く打った。
「外の世界を知ってしまったから、もう今さらあんな孤独な生活に戻れない。お父さんとお母さんは優しいけれど、それだけじゃ駄目なの!」
 アンジェリカは視線をレイチェルへ、それからサイファへと流した。
「どうしてもアカデミーをやめさせるっていうのなら……」
 彼女はゆっくりと大きく呼吸をした。
「私、死ぬわ」
 落ち着いた声。だが、決意を秘めた激しい瞳。それは、彼女が軽い気持ちで言っているのではないということを表していた。
「アンジェリカ! 落ち着いて! 別にアカデミーをやめたからって、ジークさんたちと会えなくなるわけでもないのよ。ジークさん、会いに来てくださいますよねっ?」
 レイチェルは慌ててジークに同意を求めた。
「そ、そうだぞ! 早まるな! な?!」
「ちょっとジーク! 両親を説得しに来たんじゃなかったの?!」
 アンジェリカは驚いた声をあげながら、半分呆れていた。
「あ、いや……その……。とにかく死ぬなんてダメだ。な?」
 ジークはしどろもどろになりながら、それでもなんとか思いとどまらせようと必死に訴えかけた。

「わかった。私たちの負けだ」
 冷静にことの成り行きを見守っていたサイファが、突然「負け」を宣言した。
「ここで頑固に突っぱねて、肝心のアンジェリカを不幸にしてしまっては、本末転倒だからね」
 サイファはそう言うと、アンジェリカににっこり笑いかけた。
「サイファ……」
 彼の唐突な方向転換に、レイチェルはとまどいを隠せなかった。
「もうこうする以外に術はないよ。誰に似たのか頑固だからね、あの子は」
 サイファは笑って肩をすくめた。しかし、レイチェルはまだ不安そうに顔を曇らせている。
「それに、私たちの不安は単なる邪推かもしれない、だろう?」
 サイファは彼女を安心させるように、優しく耳打ちをした。それから真剣な目になると、ジークに向き直った。
「頼んだよ」
 ジークはずっしりとのしかかるものを感じながらも、それに負けないよう背筋を伸ばした。

 アンジェリカはジークを玄関先まで見送るために、彼とともに外へ出た。外はすっかり暗くなっている。冷たい風がふたりの髪を揺らした。
「死ぬ気なんて、なかったんだろ」
「本気だったわよ」
 お互い前を向き、視線を合わせないまま、淡々とした口調で言った。
「二度と言うなよ、あんなこと。……卑怯だぞ」
「卑怯?」
 アンジェリカはジークの横顔を見上げた。しかし、ジークは無言で門に向かって足を進めた。アンジェリカもその横について歩いた。
「人質とって脅すヤツらと変わんねぇだろ」
 ジークは歩きながらぼそりと言った。
 アンジェリカはうつむいた。ジークの言うことはもっともだった。でも……じゃあ、どうすれば良かったの? やりきれない思いを抱え、沈んだ表情を見せた。
 カラン——。
 ジークは門の留め具を外すと、すぐに外へと出た。アンジェリカは内側から留め具を元に戻した。
「何の役にも立てなくて……悪かった」
 ジークは彼女に背を向けたまま言った。
 アンジェリカの胸に熱いものがよぎった。門の格子を両手で掴み、顔を近づけると、歩き去るジークに向かって叫んだ。
「私、嬉しかった! 私のことを守るって言ってくれて!!」
 ジークは振り返ることなく、遠くで右手を上げた。次第に小さくなる彼の姿は、やがて闇に掻き消されていった。
 アンジェリカは門に張りついたまま、ずっと彼の背中を見送っていた。


34. 友達だった

 ガチャッ。
 ラウルはノックもせずに扉を開け、蛍光灯の光が満ちた部屋へ足を踏み入れた。
 魔導省の塔、その最上階の一室。サイファは中央の机につき、書類に目を通していたが、その音につられ、わずかに顔を上げた。しかし、ラウルの姿を確認すると、何もなかったかのように再び手元に視線を戻した。そして、羽ペンを手に取り、書類の上に走らせ始めた。
 ラウルは後ろ手で扉の鍵を閉めた。
「おまえの欲しがっていたものだ」
 サイファの方へ歩を進めながら、四つ折にされた紙をかざした。それを見て、サイファはようやくニッコリ笑った。
「恩に着るよ」
 ラウルがそれを机に置くと、サイファは間髪入れず手に取って広げた。数枚にわたるその紙には、細かい文字や数字がびっしり書き込まれていた。左上には「極秘」と判が捺してある。本来、朱色で捺されているはずだが、その紙には黒く写っていた。どうやら原本ではなくコピーのようだ。
「ばれたら私はクビだ」
 ラウルは腕を組み、食い入るように文字を追っているサイファを冷ややかに見下ろした。
「私もクビどころでは済まないだろうな」
 サイファはさらりとそう言うと、顔を上げた。そして、ラウルに挑戦的な視線を投げかけ、小さくニッと笑った。
「でも、おまえなら上手くやってくれると思った」
「勝手なことばかり言うな。おまえはそういってすぐに私を利用する」
 ラウルはむっとして言い返した。
「そうだな。なら今度はコーヒーでも入れてもらおうか」
 サイファは冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、再び極秘文書に目を通し始めた。
「……用がないのなら帰るぞ」
「急ぐ必要はないのだろう? 久しぶりにここから朝焼けを見ていったらどうだ。椅子はそこだ」
 サイファは紙から目を離さずに、部屋の隅に立て掛けられたパイプ椅子を指さした。
「それからコーヒーはその戸棚の中」
 今度は返す手で反対側を指さした。

 ラウルがコーヒーを淹れ終わる頃、サイファも最後の一枚を読み終えた。
「何かわかったか」
「いいや。だが、真実に近づくヒントにはなった」
 そう言うと、サイファはくしゃっと紙を握って丸め、短く呪文を唱えた。手の中央から白い閃光が走り、その紙は一瞬にして細かな灰となり飛び散った。
「一度見ただけ、か。相変わらず覚えが早いな」
 ラウルは淹れたてのコーヒーをふたつ持って歩いてきた。そのひとつをサイファへ差し出す。彼はにっこり笑ってそれを受け取った。
 ラウルは蛍光灯を消し、カーテンを開けた。
 大きな窓に映し出された空は、まだ深い紺色だった。しかし、地平に近い部分はだいぶ薄くなり始めていた。まもなく夜が明ける——。

 サイファは薄暗がりの中でコーヒーを一口飲むと、ほっとして大きく息を吐いた。
「おまえの淹れるコーヒーは最高だ」
「話せ。気がついたことがあるのだろう」
 ラウルは彼に振り向いた。暗がりの中にほんのりと浮かび上がったサイファの端整な横顔から、笑みはもう消えていた。
「いくつかある。最も気になったのは、おまえも気がついただろうが、魔導耐性値だ。この価のみが突出している。他の数値との差を考えたら異常だ。よほど片寄った訓練を行ったか、あるいは長年にわたって異常な状況下に置かれたか、だな」
 サイファはひとことひとこと丁寧に述べていった。そして一区切りつくと、コーヒーを口に運んで、小さく息を吐いた。
「思い当たることがあるのか」
 ラウルが尋ねると、一瞬、サイファの瞳に陰がさした。
「彼女の家の二階には、常に結界が張られていた。おまけに偽装されていたんだ。おかげで最近まで気がつかなかったよ」
 冷静に答えたが、その中に若干の自責がにじんでいた。ラウルは無表情で彼を見つめ、パイプ椅子に腰を下ろした。ギシ、と安っぽい音が響いた。
「彼女はずっとその結界の中にいたということか」
「ああ、おそらく」
 サイファは息を吐きながら、背もたれに身を預けた。目を細め、天井を見つめる。
「二階すべてに結界、しかも常時、そのうえ偽装となるとかなり厄介だろう」
「バルタスなら出来るよ。そこまでの労力を払って結界を張る理由、そして結界を悟られたくない理由として、考えられるのはふたつ」
 サイファは淡々と言い、指を二本立てた。
「ひとつは家族ぐるみで秘密裏に特訓をしていた。もうひとつは、何らかの理由で彼女をそこに閉じ込めていた」
 指折りながら可能性を上げる。ラウルは腕を組み、口を開いた。
「魔導耐性値のみが高いことを考慮すると、後者だろうな」
「私もそう思う。あれ以来、ずっと彼女を見かけなかったからね」
 サイファは同意した。ラウルは彼にちらりと視線を走らせた。
「彼女の目的はおまえたちへの復讐か」
「私たちだけではないかもしれない」
 サイファは眉根を寄せ、重々しい表情を見せた。
 ラウルは立ち上がり、窓枠に手をついた。外はもうだいぶ明るくなっていた。東の空は赤く染まり、濃青色へとグラデーションが広がる。そして灰色の雲が相反する色を繋ぐ。夜明けのごく短い時間にだけ見せる、色鮮やかな光景だ。
 サイファも椅子をまわし、ラウルの隣でその光景を眺めた。朝の光を浴び、柔らかく表情を緩める。
「これが夜勤の唯一の楽しみなんだ」
「所詮は作り物だ」
 ラウルは目を細めて、遠く、空の果てのその向こうを見つめていた。
「故郷が恋しくなったか?」
 サイファは挑発するように声を掛けた。ラウルはムッとして背を向け、大股で戸口に向かって歩き始めた。
「いつか見せてくれないか。作り物ではない、果てない空というやつを」
 サイファは去りゆくラウルの背中に声を投げかけた。ラウルは扉に手を掛け、顔だけわずかに振り返った。眉をひそめサイファを睨みつける。
「あまり私をからかうな」
 サイファは返事をする代わりに、にっこりと満面の笑顔を返した。

「……ジーク。気持ちは嬉しいけど、そんなのじゃ今日一日だってもたないわよ」
 アンジェリカは、一歩前を歩くジークの背中に、少し困ったように声を掛けた。ジークはずっと左右をきょろきょろ見渡し、すぐにでも応戦できるよう少しも気を抜かないで構えている。
「いつ何があるかわからねぇだろ」
「それはそうだけど……」
 アンジェリカはリックと顔を見合わせ肩をすくめた。リックも苦笑いしながら、同じポーズを返した。

 今日がアカデミーの入学式である。すなわち、今日からユールベルやレオナルドが、このアカデミーに通ってくるということだ。ジークの過度の警戒はそのためだった。
「リック、後ろ見てるか?」
 ジークは前を向いたまま、張りつめた声でリックに問いかけた。
「ちゃんと見てるから心配しないで」
 リックはアンジェリカと並んで歩きながら、軽く答えた。ふたりは再び顔を見合わせて、声を立てずに笑いあった。

「お嬢さま」
 背後からの声に、アンジェリカの笑顔が凍りついた。
「いいかげん、私につきまとうのはやめたら?」
 思いきり顔をしかめて振り返ると、その声の主、レオナルドを睨みつけた。レオナルドは硬い表情で棒立ちになっていた。柔らかいブロンドだけが、風になびき揺れている。
 前を歩いていたジークは、慌ててふたりの間に割って入った。右手でアンジェリカを庇い、レオナルドをキッと睨みつけた。
「リック! 見てたんじゃなかったのかよ!」
「平気よ」
 リックが口を開くより先に、アンジェリカが冷たく言った。
「こいつはラグランジェ家の敷地内でしか強気に出られないんだから」
 行く手を阻むジークの腕を静かに下ろし、彼女は一歩前に出た。顔を上げ、強い意志を秘めた瞳をレオナルドに向けた。
「もう、おまえをどうこうするつもりはない。この前おまえに謝ったのは本心だ」
 レオナルドは静かに言った。
「どういう心境の変化?」
 アンジェリカは腕を組み、疑わしげに眉をひそめた。
「子供じみたことは、もう卒業するってことさ」
「…………」
「同じラグランジェ家の者どうし、仲良くしよう」
 あまりにも意外なレオナルドの言葉に、アンジェリカは動揺を隠せなかった。
「関係ないわ」
 乾いた声でそれだけ言うと、踵を返そうとした。だが、ふとあることが頭をよぎり、再びレオナルドに顔を向けた。
「あなた、ユールベルって知ってる?」
 隣のジークは驚いてアンジェリカに振り向いた。アンジェリカはまっすぐレオナルドを見上げ、彼の答えをじっと待っていた。レオナルドは怪訝な顔をしながらも、アンジェリカから目をそらさずに口を開いた。
「今年アカデミーに入る子だろう? でも、もう何年も見てないし、よく知らないな」
「そう」
 アンジェリカは、これ以上何も聞きだせそうもないと判断し、レオナルドに背を向けようとした。そのとき——。
「でも、おまえたちは友達なんだろう?」

 アンジェリカは唐突に脳と心臓をわしづかみにされたように感じた。額に汗がにじんで、目の前がかすみ、足がよろけた。
「アンジェリカ!」
 ジークが崩れ落ちるアンジェリカを支えた。リックも反対側に回りこんで、彼女に手をまわした。
「大丈夫、軽いめまいよ」
 アンジェリカはふたりを心配させまいと嘘をついた。しかし、ふたりはすぐに見破った。彼女の身に起こったことは、ただのめまいなんかではない。もしかしたら、サイファの言っていた「アンジェリカの記憶」に関係があるのかもしれない。
 ジークはやりきれない思いを怒りに変え、レオナルドにぶつけた。
「テメエ、でたらめ言ってんじゃねぇ!」
 胸ぐらをつかみ、額がくっつかんばかりに顔を近づけた。暴力的な行為に慣れていないレオナルドはたじろいだ。だが、すぐにジークの手を払いのけ、襟をビシッと引っ張り形を整えた。
「そう思うなら他の人に聞いてみればいいだろう」
 そう言ったあと、ジークを流し見て、鼻先で小さく笑った。
「いい気なもんだ、ナイト気取りか。上手いこと取り入ったな。ラグランジェ家にひいきにされれば、なにかと都合がいいだろう?」
「な……に?」
 ジークは固くこぶしを握りしめた。目の前の薄ら笑いの男に、このこぶしをめり込ませたい。その衝動を抑えるのに必死だった。
「いいかげんにして!」
 アンジェリカがリックの手を振りほどき、ふたりの間に飛び出してきた。レオナルドと向かい合い、息の届く距離まで間をつめると、下から睨み上げた。
「これ以上、私たちに絡むようなら、私が平手打ちをおみまいするわ」
 アンジェリカは低い声で言うと、勢いをつけて背を向けた。彼女の舞い上がった黒髪が、レオナルドの胸元をかすめた。
 ジークとリックもレオナルドを一睨みした。ふたりはアンジェリカを追いかけ、三人で玄関へと歩いていった。

 アンジェリカは授業もうわの空で、ずっと考え込んでいた。
 ユールベルっていう子と私が友達? 本当なの? だとしたら、どうして私は何も覚えていないの? そして、あの痛みはなんだったの? あのときのレオナルドのセリフを思い出すたびに、頭に鈍痛が走る。頭の中に薄い靄がかかったように、何かが見えそうで、見えなくて、もどかしい。

 ラウルはそんな彼女の様子に気がついていた。休憩時間になるとこっそりリックを呼び出した。ジークよりは素直に話してくれると踏んだのだろう。
「何かあったのか?」
 人通りのなくなったところで、ラウルが切り出した。リックは話していいものか、少し迷っていた。ジークが知ったら怒りそうだ。だが、ラウルはラグランジェ家の事情にも詳しい。それに、アンジェリカの主治医でもある。彼は気持ちを決めた。今朝起きたことを、一通り要点をかいつまんでラウルに説明した。
「わかった。もう行っていい」
 ラウルはそう言っただけで、リックの話について何もコメントはしなかった。
「……アンジェリカは大丈夫なんですか?」
 リックはおずおずと尋ねた。それが、彼のもっとも気になることだった。
「おまえたちにできるのは、一緒にいてやることだけだ」
 はぐらかされたと思ったが、それ以上の追求はしなかった。もういくら尋ねても無駄だと思ったからだ。答えなかったのが彼の意思なら、そう簡単に気持ちを変えたりはしない。
 リックはラウルに一礼すると、教室へと戻っていった。

 昼になり、三人は食堂へ向かった。
「もういいのか、その、体は」
 ジークは言葉を選びながら尋ねた。
「ええ、ただの軽いめまいだもの」
 アンジェリカは笑ってみせた。

 角を曲ったところで、ジークは背の低い誰かとぶつかった。
「あっ……」
 かぼそい声を出して、相手の子はよろけて横に崩れた。
「大丈夫か……あっ」
 ジークは息を呑んだ。ウェーブを描いた鮮やかな金髪、右目を覆った包帯、折れそうに細い脚と腕——。これは、多分、ユールベルだ。
 他のふたりもそのことに気がついたようだ。アンジェリカは息を呑み、顔をこわばらせていた。
 ジークは自分の後ろにアンジェリカを隠した。
「ごめんなさい。片目がふさがっているから距離感がつかめなくて」
 少女は弱々しい声でそう言うと、ほこりを払いながら立ち上がった。
「あ、アンジェリカじゃない」
 彼女は、ジークの後ろのアンジェリカを目ざとく見つけた。ジークはアンジェリカを後ろにかばったまま、じりじりと後ずさった。
「私、ユールベルよ。忘れたの?」
 アンジェリカを見つめ、平坦な声でそう言うと、一歩、また一歩と近づいてきた。
「どういうつもりだ」
 ジークは低くうなった。
「どういうって……私はただ、久しぶりに会った友達と再会を祝いたいだけよ」
 友達、という言葉に、三人は敏感に反応した。
 アンジェリカは再び頭と胸に激しい痛みを感じた。そのうえ、頭の中をぐるぐる掻き回されているように気持ちが悪い。視界が狭まり、目を開いているのに真っ暗でなにも見えなくなった。ジークの背中をつかみ、寄りかかるように倒れこんだ。
「お、おい!」
 ジークは後ろ手でアンジェリカを支えながら、ゆっくりと膝をつき、彼女をその場に座らせた。それから素早く振り向くと、ふらつく彼女の上半身を支えた。ジークの腕に身を預け、アンジェリカは息苦しそうに喘いだ。
「体調が芳しくないようね。積もる話はまた今度にしましょうか」
 リックは呆然とユールベルを見つめた。彼女はさらに一方的に話を続けた。
「また昔みたいに楽しく笑いあえるといいわね」
 ユールベルは白いワンピースのスカートを軽く持ち上げると、膝を曲げ、頭を垂れた。
「それではまた……小さな先輩」
 その言葉を残し、彼女はその場を立ち去った。
 ジークは遠ざかる軽い足音を後ろに聞きながら、くやしそうに歯を食いしばった。
「さっぱりわからねぇ。ユールベル……あいつは終始無表情で淡々としていた。言葉づかいは普通なのに、まったく感情がこもっていないみたいだ。なんかちぐはぐで調子を狂わされる」
「うん。本気なのか、冗談なのか、からかっているのか、全然わからないね」
 リックは軽く握った手を口元にあて、深く考え込んだ。
 ジークの腕の中で、アンジェリカが身をよじった。
「私は、なにか、大切なことを、忘れているのかもしれない……」
 ほとんど声にならない声で、アンジェリカはつぶやいた。
「今はなにも考えるな」
 ジークはアンジェリカの頭に優しく手を置いた。
 アンジェリカは目を細め、まぶたを震わせ、白い天井を見つめていた。


35. 敵状視察

「アンジェリカ、大丈夫かな」
 食堂へ向かう途中、リックがぽつりとつぶやいた。
 ジークは暗い顔でうつむいた。今日、アンジェリカは休んでいる。きのうあんなことがあったばかりだ。仕方がない。そうは思っても不安は募る。もしかしたら……。
「アカデミーにはもう来ない方がいいのかもしれないね」
 ジークはリックを鋭く睨みつけた。リックはうろたえながらも、自分の考えを説明した。
「だってアカデミーにいたら、ユールベルって子と顔を会わさないわけにはいかないし」
 ジークは苦々しく歯噛みした。
「僕もアンジェリカの気持ちは尊重したいよ。でも、あそこまでひどいとは思わなかったし」
 リックの言っていることは正論だ。反論の余地もない。それどころか、ジーク自身も同じことを考えていた。だが、だからといって、感情的にはどうしても納得ができなかった。
「でも、俺は、どうにかしてやりたい」
 ジークは言葉にすることで、決意を確かなものにしようとしていた。
「……うん」
 リックは弱々しくうなずいた。どうやって? と尋ねたかったが、切り出すことが出来なかった。
 ジークはまっすぐ前を向き、こぶしを小さく握りしめて気合いを入れた。

 そのとき、ジークはユールベルの後ろ姿を見つけた。鮮やかな長い金の髪は、探そうと思わなくても目についてしまう。食堂へと続く廊下の先で、彼女はひとりで歩いていた。
「ジーク?!」
 急に走り出したジークを追って、リックも走った。彼はまさかと思ったが、その不安は的中していた。
「ユールベル、ちょっといいか」
 ジークはユールベルの背後から声を掛けた。彼女は眼帯の巻かれていない側から、ゆっくりと振り返った。それと同時に、微かに甘いにおいがあたりに舞った。彼女は真面目な顔のジーク、そして、その後ろでおろおろしているリックを順に眺めた。
「アンジェリカはいないのね」
「ああ、休んでる」
 ジークの声は硬かった。ユールベルはしばらく無言で、彼のこわばった表情を見つめていた。
「わかったわ」
 彼女はそう言うと、食堂へ足を向けた。
「なに考えてるの?!」
 リックは責め立てるような口調でジークに耳打ちした。
「敵を知らなきゃ対策の立てようもねぇだろ」
 ジークも小声で返事をした。そして、彼女の後について食堂へ入っていった。リックもしぶしぶ後を追った。

 三人はそれぞれ昼食を乗せたプレートを手に、丸テーブルについた。普段ならアンジェリカ座っているはずの位置にユールベルが座っている。背筋をまっすぐ伸ばし、顔は正面、手は膝の上にそろえられている。文句のつけようがないくらい正しい姿勢だ。
 ジークは落ち着かない気持ちとともに、軽い緊張を覚えた。
「それで、私に何の話なの?」
 ユールベルはジークとリックの中間を見つめて、静かに口を開いた。
 ジークは何から話し始めればいいのか迷い、黙りこくってしまった。そんなジークを、リックは軽く睨みつけた。声を出さずに口を動かしている。無言でジークを急き立てているようだった。
 ジークは困ったように首を傾げ、腕を組んだ。
「えーと、だな」
 ユールベルはジークに顔を向け、開いている方の目を細めた。透き通った蒼の瞳に陰が落ちる。それに呼応して、ジークの鼓動は強くドクンと打った。大きく息を吐き心を鎮めてから、ユールベルを見つめ返した。
「きのう言ってただろ。アンジェリカと友達だったって。あれは本当か」
「もちろんよ」
 ユールベルは間髪入れずに答えた。
「今は、昔の友情を取り戻したいと思っているわ。いけない?」
「いけなくはない、けども……」
「でも、何年も会ってなかったのはどうして?」
 ユールベルの勢いに押されているのジークを見かねて、リックが隣から口を挟んだ。ユールベルは視線をリックへと流した。
「会いたくても会えない状況だったのよ」
 表情のない顔の中で、その瞳だけが冷たく、そしてどこか寂しげな光をたたえていた。
「どういうこと?」
 リックは眉をひそめた。
「これ以上は言いたくないわ。知りたいのならバルタスに聞いて」
「誰なんだよ、バルタスって」
 ジークはいらついて尋ねた。
「半分、私と同じ遺伝子を持つ人」
 ユールベルは顔を上げ、虚ろに遠くを見た。ジークとリックは一瞬、顔を見合わせた。
「父親……ってこと?」
「その言い方は好きじゃないわ」
 それきり言葉が途切れた。
 ジークは伏目がちにユールベルの様子をうかがっていた。何かがあると思ったが、尋ねることは出来なかった。リックも目を伏せ、複雑な表情で口をつぐんでいた。

「……お父さんのこと、嫌いなの?」
 長い沈黙のあと、うつむいていたリックがぽつりと言った。それからゆっくりと顔を上げるとユールベルをじっと見つめた。
「話題を変えて」
 彼の視線に応えることなく、ユールベルは遠くを見たまま短く言った。リックは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ……その包帯はどうしたの?」
「ものもらいよ」
 ユールベルはあっさり答えを返した。だが、その答えは嘘に違いない。ふたりともそう思った。
「何週間か前に見かけたときも、包帯してたぜ。ずっとものもらいなのかよ」
 ジークが食ってかかった。しかし、ユールベルはまったく動じることはなかった。
「そうよ」
 その機械的な声に、ジークは眉をひそめた。
「おまえなんでそんな無表情なんだよ。笑いもしない、怒りもしない。しゃべり方もずっと一本調子。おかしいだろ」
 ユールベルはゆっくりジークへと顔を向けた。右の瞳が彼をとらえた。ジークは小さく息を呑んだ。
「無表情なんかじゃないわ。あなたにも、何度も笑いかけてるでしょう?」
 ジークはとまどったように、リックに目をやった。彼は小刻みに首を横に振った。リックにも彼女が笑っているようには見えなかったらしい。
 彼女はからかっているのか? それとも本気なのか……?
 ジークは再びユールベルに向き直った。険しい表情で彼女を覗き込む。
「おまえ、笑ってるつもりなのか? 全然、笑えてねぇぞ」
 ユールベルはぴくりと眉を動かした。
「笑っていたでしょう? どうしてそんなことを言うの?」
 ジークの胸にチクリと小さなとげが刺した。しかし、彼は続けた。
「いや、笑ってない。鏡を見てみろ」
「……いや」
 弱々しくかすれた声。ユールベルの蒼い瞳が揺れ、顔がこわばった。白いワンピースから伸びた細い腕は小刻みに震えていた。
「鏡はいや、鏡はきらい……」
 消え入りそうな声で何度もそうつぶやきうつむいた。今まで何を言っても動じた様子を見せなかった彼女が、突然、感情を表した。そのことがかえってジークたちを動揺させた。
「ユールベル?」
 ジークはうつむいた彼女を覗き込んで、恐る恐る声を掛けた。
「……っ!」
 何かに気がついて、彼女は大きく息を呑み、身をのけぞらせた。その表情は怯えたように引きつっている。彼女の右目は水の注がれたグラスを凝視していた。
「ユールベル?」
 今度はリックが声を掛けた。
「……嫌……いやぁあっ!!」
 彼女は甲高い声を張り上げ、目をそむけながらテーブルの上のグラスをなぎ払った。それは宙を跳び、ジークを襲った。とっさに手でかばったので顔への直撃は免れた。だが、割れた破片が彼の腕と頬を切った。
「……ってぇ」
 ジークはよろけながら椅子から立ち上がろうとして、床に膝をついた。顔からは浴びた水が、腕からは血がしたたっていた。
「ジーク!」
 リックは椅子から飛びおり、ジークに駆け寄った。
「平気だ。かすり傷だ」
 ジークは落ち着いていた。リックの方がうろたえていた。
「かすり傷なわけないよ! ボタボタ血が落ちてる。ラウルのところへ行こう!」
「大丈夫だって言ってんだろ」
 その言葉とは裏腹に、ジークの顔からは血の気が失せていた。
 バリッ、バリッ……。
 ユールベルが破片を踏みしめながら、ジークに近づいてきた。そして、ジークの目の前で膝をついた。
「おまえその辺、破片と血……」
 そう言われても、ユールベルはおかまいなしだった。彼女の白いワンピースは、裾から赤く染まっていった。
 彼女は白いレースをあしらったハンカチを取り出し、ジークの腕の傷口を縛り始めた。彼女が動くたび、甘い匂いがふわりと舞い上がった。それは血の匂いと混じりあい、ジークに奇妙な感覚を与えた。
 ジークの腕は不格好に縛られた。
 ユールベルは手を止め顔を上げた。彼の視線を捉えると、ぐいと顔を近づける。息の触れ合いそうな距離。ジークは鼓動が止まったかのように感じた。ユールベルは、血が滲んだジークの頬にそっと指を置いた。
「ごめんなさい。私のことを嫌いにならないで」
 あごのあたりに、微かに彼女の吐息がかかった。ジークの頭はぐらりと揺れた。腕の痛みさえ忘れてしまいそうだった。

「すみません! 先生いますか!」
 リックがドンドンと医務室の扉を叩いた。
 ガラガラ——。
 姿を現わしたラウルは、黙ってふたりを見おろした。顔をそむけ立っているジークの腕は赤く染まっている。そのことに気がつくと、面倒くさそうにため息をついた。
「またおまえか」
 ジークはうつむいたまま顔をしかめた。
「入れ」
 ラウルは短くそう言うと、ガーゼや消毒薬などを手際よく準備し始めた。
「ジーク、ほら!」
 リックに促され、ジークはしぶしぶ医務室に入った。

「それほど深くはないな。すぐに治る」
 ジークの腕に包帯を巻き終わると、絆創膏を投げてよこした。
「頬にはそれでも貼っておけ」
 ジークは仏頂面でラウルを睨んだ。
 ——コンコン。
 軽いノックのあと、すぐに扉が開いた。そこから姿を見せたのはサイファだった。
「来客中か?」
 そう言いながらも、彼は遠慮することなく部屋に入ってきた。ジークとリックが会釈をすると、彼は穏やかな笑顔を返した。腕の包帯や血まみれの服を見ても、そのことには触れなかった。ジークは少しほっとした。
「今、終わったところだ。おまえは何の用だ」
 ラウルはため息まじりに言った。
「相談したいことがあってね」
 サイファはにっこりと微笑んだ。だが、目は笑っていなかった。それに気がついたのはラウルだけだった。
「じゃあ、僕たちは戻ります」
 リックがそう言って、ふたりは立ち上がった。
「すまないな」
 サイファは軽く詫びた。そして、ふいに尋ね掛けた。
「ジーク、腕はどうしたんだ?」
「……ガラスで切りました」
 ジークはどう答えようか迷ったが、経緯を伏せたまま事実のみを述べた。その声は重く沈んでいた。だが、サイファはそれ以上の追求はしなかった。
「そうか、お大事に」
 短くそれだけ言った。
「あの」
 ジークはとまどいながら切り出した。
「アンジェリカ、あしたは来ますか?」
「体調次第だが、なるべく行かせるよ。おそらく大丈夫だろう」
 サイファは再びにっこり笑った。ジークはその答えに安堵して、つられるように微かに表情を緩めた。

「あんなことを言っていいのか」
 ラウルは後片づけをしながら、背後のサイファに問いかけた。ジークとリックは出ていったので、ここにはふたりきりしかいない。サイファは窓枠にひじをつき、外の景色を眺めていた。
「相談したいのは、そのことなんだ」
 彼は空を見上げながら、ぽつりぽつりと言った。
 ラウルは椅子に腰を下ろすと、サイファの方へ体を向けた。それに呼応するかのように、サイファもさっと振り向いた。思いつめたような真剣な表情。しかし、それとは対照的な昼下がりの穏やかな風、柔らかな光が、彼の鮮やかな金の髪を上品に煌めかせている。
「アンジェリカの、開きかけた記憶の扉を、もう一度閉じることは出来るか?」
 ラウルは眉をひそめた。
「いつまでも嘘をつき通せるものではないだろう」
「隠し通すさ」
 サイファは少しの迷いも見せずに答えた。ラウルはギィと軋み音を立て、背もたれに身をあずけた。そして、無表情で口を開いた。
「ここまで来たら、思い出させるべきだと思うがな。もう幼い子供ではない。今の彼女なら耐えられるだろう」
 サイファは目つきを険しくしてラウルを睨んだ。
「それはおまえの憶測でしかない。失敗が許されることではないんだ」
「記憶を消すにも危険は伴う。忘れたのか」
「おまえは一度も失敗していない」
 サイファはめずらしくむきになっているように見えた。しばらくふたりは無言で視線を戦わせていた。
「アカデミーが終わったら、家に来てくれ」
 厳しい表情のまま、サイファは有無を言わさぬ口調で言い切った。そして、ラウルとすれ違い、戸口へ足を進めると、扉を開こうとしてふいに手を止めた。
「私はこれからバルタスに会ってくる」
「あまり派手に動くな」
 ラウルは背を向けたまま静かに言った。
「忠告、感謝する」
 サイファに微かな笑顔が浮かんだ。

 煌々と蛍光灯が照らす、天井の低いオフィス。十人ほどが机を並べるその奥に、がっちりした男が大きな机を構えていた。
 サイファは、部屋に入るとつかつかと彼の前へ進んでいった。書類やペンの音がやみ、あたりはしんと静まり返った。そこにいた全員がサイファに視線を注いだ。
「お久しぶりです。バルタス事務官」
 バルタスと呼ばれた男は、うつむいて苦い顔をした。しかし、すぐに厳格な表情を繕い、前を向いた。
「何の用だ」
 威厳に満ちたよく通る低音。だが、サイファは畏縮することなく、にっこりと笑いかけた。
「少し外でお話ししませんか?」
「もう昼休みは終わった。仕事でないのなら帰ってくれ」
 取りつく島もないあしらい方。それでもサイファは引かなかった。
「半分は公用、と言っていいかもしれません」
 意味ありげにそう言うと、真剣なまなざしで挑むように笑ってみせた。バルタスは無言で席を立った。
「すぐに戻る」
 フロア内の部下たちにそう言い残し、サイファと連れ立ってその場を後にした。
 ふたりが部屋を出ると、残された者たちは色めき立って、口々に話を始めた。

 王宮の外れにある小さな森。その中にひっそりとたたずむ散歩道をふたりで辿る。あたり一面にうっすらと緑のフィルタがかかり、枝葉の隙間からもれる光がまだら模様を映し出していた。
「君は、何を知っている」
 先に口を開いたのは、前を歩くバルタスだった。
「あなたの家の偽装結界のことだけです」
 サイファがそう言うと、バルタスの足は止まった。彼は空を仰ぎ、大きく息を吐いた。
「私を罰しに来たのか」
 サイファはバルタスの背中を見つめた。大きいがどこか頼りなく、哀愁が漂っているように見えた。
「公用と言ったのは、あなたを連れ出すため。ことを大きくするつもりはありません」
 バルタスは腰に手を当てうつむいた。
「……だろうな。ラグランジェ家の恥を公にすることなどできまい。それに、そのおかげで君の娘が今日まで何事もなく暮らせてこられたのだからな」
 そう言いながら、自嘲ぎみに鼻先で小さく笑った。
「否定はしません」
 サイファは冷静に答えた。
「それでも、もっと早く気づくべきだったと思います」
 その言葉を聞くと、バルタスはゆっくり振り向いた。サイファは彼と目を合わせた。そしてさらに話を続けた。
「どうして今になって結界を解いたのですか。そして、彼女をアカデミーに通わせるわけは……。私が伺いたいのはそれだけです」
 サイファの真剣なまなざしがバルタスに突き刺さる。彼は重い口を開いた。
「あの子はもう私の手には負えない。すべてはあの子の意思なのだ。私には何を考えているのかわからんよ」
 何もかも諦めたような言い方。サイファは彼のそんな様子を見て決意を固めた。
「今度、お宅の方へうかがいます。もう門前払いをする理由はないでしょう」
「ああ、歓迎するよ。今はあの子とふたりきりでね。正直、気が滅入る」
 バルタスはやりきれなさを滲ませた。
「奥さんと息子さんは?」
「妻の実家に身を寄せている。そうする以外に守りようがないからな」
 風が吹き、葉のこすれる音が、ざわざわと上から降りそそぐ。バルタスは寂しげに笑った。
「呪われているのは、君の娘でなく、私の娘の方かもしれんな」



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