目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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27. 狂宴

 アンジェリカが再びアカデミーへ行くようになって数日が過ぎた。以前と変わらず、ジークと言い合ってみたり、三人で笑ってみたり、そんな日々を過ごしていた。ただ、三人とも、なんとなくセリカの話題だけは避けていた。

「ったくラウルのやつ、あれで教えてるつもりか?」
 アカデミーから門に向かいながら、ジークは大声で不満をわめき散らした。並んで歩いていたリックとアンジェリカは、顔を見合わせて苦笑いをした。
 校庭の中ほどまで来たところで、ジークは怪訝な顔を見せた。ふいに後ろを振り返る。だが、近くには誰もいない。
「何?」
 アンジェリカもつられて後ろを見た。
「いや、アイツら、誰を見てんのかと思ってよ。どうもこっちを見ているような気がするんだけど、気のせいだよな」
 ジークは門の方に目を向けて言った。そこには男が三人立っていた。いずれも、鮮やかな金髪だった。中央の少年は、ジークと同じくらいの歳だろうか。残りのふたりはそれよりやや幼く見える。中央のリーダーらしき少年に、付き従うように立っていた。
 アンジェリカは彼らを見ると顔をこわばらせた。

「お久しぶりです、お嬢さま」
 前に立っていた少年が、含みのある微笑みを浮かべた。
「何しに来たのよ」
 アンジェリカは彼らと目を合わそうとせず、突き放すように言った。
「そんなつれない返事はないんじゃないですか。明日は楽しみにしてますよ」
 少年は、アンジェリカの正面に回り込み、腰を屈めて覗き込んだ。アンジェリカの目の前で、彼の柔らかい金髪が風になびいた。彼女はさらに顔をそむけた。
「まさかとは思いますが、アカデミーを理由に出てこない、なんてことはないですよね。ゆっくり話をする機会なんて、こんなとき以外ありませんから」
 優しい口調とは裏腹に、その表情には意味ありげな下卑た笑いが浮かんでいた。
「それでは明日、会いましょう」
 彼はそう言うと、隣のジークに振り向いた。あごをしゃくり見下すような視線を向ける。ジークがムッとすると、彼は片方の口の端を上げにやりと笑った。そして、ふたりの少年を従え、その場を去っていった。

 ジークは激しい嫌悪感と苛立ちを感じた。腕を組み、眉をひそめる。
「なんだあいつら。知り合いか?」
 小さくなった三人の後ろ姿を睨みつけながら、アンジェリカに尋ねた。
「親戚よ。ラグランジェ家の分家の人。私の婚約者になる予定」
「なにっ!!」
「……だった人。お爺さまが勝手に話を進めてたらしいんだけど、今はその話もなくなったから」
 アンジェリカは淡々と話した。ジークは少し恨めしそうに彼女を睨んだ。
「おまえ、あんまり驚かせるなよ」
「え?」
「いや、なんでもない」
 ジークは噴きだした額の汗を拭おうと手を上げかけた。だが、ふいに手を止め、静かに下ろした。

「明日は何があるの?」
 リックはアンジェリカの横顔を見つめながら、心配そうに尋ねた。
「年に一度のラグランジェ家の集まり」
「……それ、行かない方がいいんじゃねえのか?」
 ジークはサイファの話を思い出していた。アンジェリカはショックを受けると眠ったまま目を覚まさなくなる、彼はそう言っていた。親戚たちに蔑まれている彼女た。そんな集まりに行けば、きっとまた酷いことを言われるに違いない。そうすれば、また——。
「どうして? 私は出るわよ」
 アンジェリカは事も無げに言った。ジークはむっとした表情をアンジェリカに向けた。
「おまえ、本当は弱いくせにどうしてそう強がるんだよ! そのせいでどれだけみんなが心配してるかわかってんのか?!」
 今度はアンジェリカが怒りをあらわにした。眉を吊り上げ、ジークに詰め寄る。
「なによそれ。弱いってどういうこと? どうしてジークにそんなことが言えるの?!」
 ジークはサイファから聞いたとは言い出せず、ただ押し黙るしかなかった。

「じゃあ、なんかあったらこの言葉を思い出せ」
 しばしの沈黙のあと、ジークは唐突に切り出した。そして、不思議そうに見上げるアンジェリカの鼻先に、人差し指をビシッと突き当てた。
「勝ち逃げは許さねぇ!」
「……はぁ?」
 アンジェリカは一瞬、目をぱちくりさせて驚いたが、そのあとしだいに怪訝な表情に変わっていった。リックは少し呆れてため息をついた。
「ジーク、もっと気の利いた言葉とか、ないの?」
「うるせえな! なら自分が言えばいいだろう」
 アンジェリカはふたりの言い合いを聞きながら、小さく首を傾げた。

 その夜、アンジェリカは早めにベッドに入った。
「アンジェリカ、何度も言ったけど、今年は学校に行っているという理由もあるし、無理に出なくてもいいのよ」
 レイチェルはベッドサイドに座り、布団を掛け直しながら優しく言った。しかし、アンジェリカはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、出るわ」
 レイチェルはそんなアンジェリカを見て、つらそうに少しだけ笑い、彼女の前髪を掻きあげた。
「私たちのことなら気にしなくていいのよ」
 アンジェリカは再び首を振った。そして、まっすぐレイチェルを見つめた。
「そうじゃないの。私は逃げたくないだけ」
 レイチェルはもう何を言っても無駄だと悟った。
「それじゃ、明日のためにゆっくり休んで」
 精一杯の笑顔でアンジェリカの頬を撫でると、ゆっくりと立ち上がり、明かりを消して部屋をあとにした。

 翌日。ラグランジェ家は朝から準備でバタバタしていた。
 料理などはほとんど雇いの者が行っていたが、それでもサイファとレイチェルは指示を出さなければならなかったし、自分たちの身支度もしなければならなかった。
 夕方になり、次々とゲストが訪れ始めた。みなラグランジェ家の一族である。やはり、アンジェリカに対する態度は一様に冷たかった。あからさまに侮蔑の態度を向ける者、冷ややかな眼差しを向ける者、視界に入れようともしない者……。
 ——こんなこと、もう慣れっこだわ。
 アンジェリカは何度も自分にそう言い聞かせた。そして、次第に感情の扉を閉ざしていった。

 宴が始まると、ホール内は宝石箱のようにきらめいた。色とりどりのドレス、胸元や指で光を放つダイヤモンド、そしてそのダイヤモンドさえくすませるほどの鮮やかな金の髪。それらがホール中を舞い、さまざまな光の乱反射を作り出していた。
 そこかしこで談笑が聞こえる中、アンジェリカは刺すような視線と中傷の言葉を避け、隅でひっそりと立っていた。今の彼女にとって、そこがいちばん落ち着ける場所だった。オレンジジュースの入ったグラスを両手で握りしめ、ただひたすら時が過ぎるのを待った。

「私はおまえたちが不憫で仕方がない。十年もの間、こんな……」
「いくらお父さまでも、アンジェリカの前でそのようなことを口にしたら許さないわよ」
 レイチェルは、サイファを交えて自分の父親と話をしていた。会話の内容は自然とアンジェリカのことになっていた。
「アンジェリカもそろそろ 11になる。いいかげんに決めたらどうかね、許婚を」
 サイファは少し困ったように肩をすくめた。
「その話は無駄だとわかっているでしょう」
「君らも強情だな」
 笑顔をたたえる娘夫婦を見て、半ば諦めるようにため息をついた。
「あの子の意思を尊重してやるのが私たちの教育方針です。あの子はいずれ自分で選びますよ」
 サイファとレイチェルは目を見合わせてくすりと笑った。
「それならどうだ。ふたりともまだ若いんだ。もうひとりくらい……」
「お父さま、この場にふさわしくない話題ですわ」
 レイチェルは軽く怒ったような表情を作り、父親をたしなめた。サイファはカクテルを一口流し込んだ。そして、微笑みを浮かべながら、きっぱりとした口調で言った。
「それはアンジェリカを傷つけることになります。私にそのつもりはありません」
 レイチェルは手にしていたカクテルに視線を落とした。微かに揺れる表面を見つめながら小さく頷く。口元に浮かべた笑顔は、どこか寂しげに見えた。

 レイチェルは彼女の母親に呼ばれ、ホールをあとにした。残されたサイファはガラスの扉を開け、義父をバルコニーへ誘った。外はもうすっかり暗くなっていた。生ぬるい風が頬を撫で、髪をなびかせた。
「伝統あるラグランジェ家をここで途絶えさせる気か」
 娘の前では見せなかった厳格な表情で、義父は話の続きを切り出した。しかし、サイファはその雰囲気に飲まれることなく、柔らかい笑顔で返した。
「悪い風習や形だけにしがみつくくらいなら、それも悪くないと思っています」
 義父は柵に背を向け、そこに体重を預けた。そして、空を見上げて目を閉じ、ゆっくり鼻から息を吐いた。
「君はもっと分別のある男だと思っていたよ」
 サイファは柵に両ひじを乗せ、目を細めて遠くを見やった。
「私はただ、私たちが幸せになる方法を選択しているだけです」
 義父は無言でうつむいた。サイファは真剣な顔を彼に向け、さらに淡々と続けた。
「あなたは娘の幸せを望まない父親ではないはずです。ただ、あなたにも立場というものがある。もしかするとあなたが一番おつらいのかもしれません」
「なんの話だ」
 義父は唸るような低い声でそう言うと、横目でサイファを刺すように睨んだ。しかし、彼はその視線を軽く受け流し、穏やかな笑顔を浮かべた。
「心当たりがなければ聞き流してください」
 義父は何か言いたげな表情を見せたが、こらえるように顔をそむけた。

「さすがに目立つな、黒づくめは」
 その声に反応し、アンジェリカは顔を上げた。少し離れたところに立っていたのは、昨日の三人組だった。
「おっとそれ以上寄るなよ。こっちまで呪いがうつってしまうからな」
 三人とも、にやにやと意地悪く笑っていた。アンジェリカは彼らを一瞥すると、黙ったまま再びうつむいた。
「おまえの周りでは次々と事件が起こるな。それが呪われてる何よりの証拠だろう。おまえ自身もそろそろ気がついてるんじゃないのか。だからそんな喪服みたいな黒い服を選んでるんだろう」
 近くにいた大人たちには、そのセリフは耳に届いていた。だが、誰も止めるものはいなかった。大半は聞こえない振りをしていた。そして、残りは下卑た好奇のまなざしでその様子を見ていた。
「これは喪服じゃない。痛みを忘れないためよ」
 アンジェリカは、静かに、ささやかに反論をした。
「恨みがましいお嬢さまだな。アカデミーに入ったからっていい気になるなよ。あんなものコネに決まってるだろう。そもそもアカデミーってやつもたいしたことないのかもな」
 アンジェリカの反論が、少年をさらに饒舌にした。離れたまま上半身をかがめ、覗き込むように顔を突き出した。
「昨日いっしょにいたお友達も冴えないヤツらだったよな。まあ、おまえのような穢れたヤツには、ああいう低俗な輩が似合っているがな」
 アンジェリカは目を閉じ、ひたすら耐えていた。彼女のまぶたは細かく震え、身体の中で熱いものが暴れ始めていた。
 少年は調子に乗り、次第に音量を上げていった。
「なんとか言ったらどうだ。おまえみたいな穢れた血は、ラグランジェ家にいる資格はないんだよ。みんな言ってるさ。おまえが呪われているのは……」
 ——ガラガラガラガシャン! ゴン!!
 彼の頭上から銀食器が降り注いだ。そして、最後に大きな銀製のプレートに頭を打たれ、膝から崩れた。ぬめりのある黄色いかけらとべとついた液体が彼を伝った。それはプリンだった。隣のふたりは驚いて、後ずさりした。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
 あたりが静まり返ったところに、レイチェルの声が響いた。その声は少し弾んでいるようにも聞こえた。
「あなたわざとやったわね!」
 色白で痩せた年配の女性が、レイチェルに近づきながらヒステリックに叫んだ。その女性は少年の母親だった。
 しかし、レイチェルが臆することはなかった。
「いいえ、手が滑っただけですわ」
 笑顔のままで、きっぱりと言いきった。あまりに堂々としていたので、逆に少年の母親の方が怯んだ。
 レイチェルはしゃがんで膝をつくと、ハンカチを取り出し、彼の顔をそっと拭った。薄い布を通して、彼女の細く柔らかい手の感触が伝わってきた。彼の鼓動はドクンと大きく打った。レイチェルはさらに顔を近づけ、彼を下から覗き込んだ。彼の鼓動はもっと大きく早く、心臓が破れんばかりに打ち始めた。顔が上気していく。彼女に目を向けることすら出来ない。
 レイチェルはにっこりと微笑み掛け、穏やかに言った。
「熱々のシチューでなくて、本当に良かったわね」
 少年は背筋に氷水を流し込まれたように、体の芯から震えが走った。レイチェルはすっと立ち上がると、少年に手を差し出した。
「替えの服をお貸しします。どうしたの? さあ行きましょう」
「触るなっ!」
 少年はレイチェルの手を払いのけ、よろけながら立ち上がると扉の方へ駆け出した。熱湯と氷水を同時に浴びせられたように感覚が麻痺していた。体中に鳥肌を立てながら、顔からは汗を滴らせていた。
 取り残されたふたりの少年も慌てて彼を追って走り出した。

 レイチェルはアンジェリカにこっそりとウインクした。

「まったく、品のないこと。子が子なら親も親ですわ。親からして穢れているようね」
 少年の母親はこめかみに青筋を立て、早口でまくしたてた。しかし、レイチェルは涼しい顔でまったく気にも留めていない。彼女はそれがなおのこと気にくわなかった。
「私の娘を悪く言わんでくれるか」
 背後から低い声が聞こえた。彼女は口をへの字に折り曲げ、肩ごしにその男を睨んだ。
「でしたら、もっときちんと教育なさったらどうです」
「おまえの子供の方がよっぽど品がないと思うがな。幼な子をいじめて楽しんでいるようでは将来が思いやられる」
「それは……」
 彼女は言葉を詰まらせた。そして、思いきり顔をしかめると、身を翻しその場をあとにした。

「ありがとう、お父さま」
 レイチェルは父親に近づきながら、にっこりと微笑んだ。
「おまえには私の助けなど必要なかっただろうがな」
 そう言い無愛想に娘を一瞥すると、彼女に背を向けた。彼女は父のその大きな背中に額をつけた。
「お父さまが庇ってくださったことが、何より嬉しいわ」
 レイチェルは囁くように言った。彼は背中に熱い吐息を感じた。ふいに、振り返って娘の頬を両手で包み込みたい衝動に駆られた。しかし、彼は前を向いたまま微動だにしなかった。
「おまえに触発されたのかもしれん」
 彼はその言葉を残し、再び人の群れへと消えていった。

 アンジェリカは息苦しさに耐えかねてホールの外へ出た。中に比べると幾分ひんやりとしていて、ほてりを冷ますにはちょうど良い。しばらくそこで休憩をとったらまた戻るつもりでいた。しかし——。
「おい、逃げるのか?」
 いちばん聞きたくなかった声が、耳を貫いた。アンジェリカはゆっくりと声のした方へ顔を向けた。
「プリンまみれですごんだって迫力ないわよ」
 濡れタオルを手にプリンのかけらと格闘していた少年に、冷ややかな視線を浴びせた。彼の目に、怒りの炎が冷たく燃えた。
「ちょっとこっちへ来い」
 低い声でそう言うと、顎をしゃくった。しかし、アンジェリカは冷たく見ているだけで、動こうとはしなかった。
「近づいたら呪いがうつるんじゃなかったの?」
 少年は口の端をわずかに上げた。
「その減らず口も今にきけなくしてやるさ」
 少し楽しそうな色を含ませそう言うと、隣のふたりに顎をしゃくり、横柄に指示を出した。ふたりは小走りでアンジェリカの両隣まで来ると、彼女の上腕をつかみ、少年の前まで引きずってきた。
 アンジェリカは感情のない瞳で彼を見上げた。
 少年は彼女の首に手をかけると、そのまま壁に叩きつけた。アンジェリカは後頭部を殴打した痛みと、喉を押さえつけられた苦しさに、思いきり顔をゆがめた。
 ——ビリビリビリッ。
 耳障りな音が耳をつんざいた。少年はアンジェリカの左の袖を引きちぎっていた。そして、その袖を彼女の前に掲げると、見せつけるように彼女の眼前で手を放して落とした。
「兄上、ちょっと趣味が悪いんじゃない?」
 少年に付き従っていた弟のひとりが、驚いて引きぎみに言った。
「こんなガキに興味はないさ。ただちょっとおしおきをするだけだ」
 ニヤリと不敵な笑みを浮かべそう言うと、そのままの表情でアンジェリカに向き直った。
「安心しろ、お嬢さま。俺もバカじゃない。法律に引っかからない程度……いや、揉み消せる程度のことまでしかやらない」
 アンジェリカは怖れるでもなく怯えるでもなく、ただ無表情で少年をその瞳に映していた。そして、ふいに口を開き、平らな声で言った。
「まだ甘ったるい匂いがするわよ」
 少年はカッとなり頬を紅潮させた。ほとんど反射的に、彼女の頬を手の甲で殴りつける。
「チッ、泣けばまだかわいいものを」
 アンジェリカは殴られたまま横を向いてうなだれていた。少年はそれを嫌悪の表情で睨みつけた。
「こうなったら泣くまでやってやる」
 彼は意地になっていた。あらわになった彼女の細い左肩を乱暴に掴むと、小さくこもった声で呪文を唱え始めた。その手と肩の間から白い光が漏れる。それは次第に熱を帯びていった。アンジェリカの額から幾筋もの汗が滴り落ちた。目をつぶり、歯を食いしばり、灼ける痛みに耐えた。
「くっ……」
 アンジェリカは小さく声を漏らした。
 その途端、肩から手が離れた。少年の体はアンジェリカから引き離され、対壁の大きなステンドグラスにガシャンと打ちつけられた。
 それはサイファの仕業だった。
「何をしている、おまえ」
 サイファは喉の奥から声を絞り出し、少年の胸ぐらを乱暴に掴み押し上げた。爪が食い込むくらいに右手を固く握りしめ、今にも振り上げんばかりに震わせていた。
「やるのか? やりたければやれよ。魔導省のお偉いさんが無抵抗の若者に暴行したとなれば、ただでは済まないぜ」
 少年は気持ち悪いくらい冷静に言うと、意地悪く挑むような目で笑った。
 ——ガシャン!
 サイファのこぶしは彼の頬と耳をかすめ、背後のステンドグラスにめり込んでいた。そこから亀裂が広がり、いくつものかけらがカラカラと崩れ落ちた。サイファは彼にくっつかんばかりに顔を近づけた。その瞳にみなぎる激しい憎悪に、少年は一瞬で凍りついた。
「あまり頭にくると、何もかもどうでもよくなるかもしれない」
 本気だ——。
 彼は本能的にそう思った。そして、同時にかつてないほどの激しい恐怖を感じた。
 サイファはゆっくりとこぶしを引くと、彼に背を向け歩き出した。そして、呆然としていたアンジェリカを抱え上げた。
「今日のことは忘れない。レオナルド=ロイ=ラグランジェ」
 背中を向けたまま、サイファは静かに言った。少年は膝を折り、ガラスのかけらの上へへたり込んだ。


28. 踏み出した一歩

「幸い、軽いやけどだけだったよ。跡も残りそうもない。今は部屋で眠っている」
 サイファはそう言うと、軽く息を吐きながら、疲れたようにソファに腰を落とした。
「良かった……といっていいのかわからないけど」
 レイチェルの顔にも疲労の色が浮かんでいた。安堵の息をつき、少しだけ笑うと、すぐに複雑な表情に戻った。
「どうして自分の身を守ろうとしないのかしら」
 サイファの向かいにレイチェルも腰を下ろした。彼女は目を伏せ考え込んだ。サイファはちらりと彼女に目をやると、前屈みにうつむいた。両膝の上で肘をつき、額の前でその手を組んだ。
「この前の事件が、彼女に悪影響を与えているのかもしれない」
「セリカさんの?」
 レイチェルはまっすぐにサイファを見た。サイファも顔を上げレイチェルと視線を合わせた。
「ああ、似ているだろう。六年前のあの事件と。自分の身を守ろうとして、魔導の力を暴発させ相手を傷つけてしまった。そのショックで、相手を傷つけることを必要以上に恐れるようになり、何をされてもひたすら耐えることしかできなくなる」
 レイチェルはその話を聞きながら、顔から徐々に血の気が引いていった。ただでさえ白い彼女の肌は、今や青みがかっているようにさえ見えた。
「……どうするの?」
 こわばった声でようやくそれだけ言った。彼女は湧き上がる湧き上がる恐怖心を鎮め、冷静に振る舞おうとしていた。
「今のところ、あくまで私の推測にすぎない。あれこれ言ってみたところで、私たちは医者ではないからね。ラウルに相談してみるよ。できればあのときのようなことは避けたいのだが……」
 サイファは口元で両手を組み、目を伏せ深く考え込んだ。

 夜が明けた。リビングにはいつも通りの風景が広がっていた。窓からは光が差し込み、光沢のある白いテーブルをよりいっそう輝かせていた。赤いティーポットからはほのかに甘い香りが漂う。いつもと違うことはただひとつ。そこにはアンジェリカがいなかった——。

「来ないね、アンジェリカ。ラグランジェ家の集まりってきのうだけのはずだけど」
 一時間目が終わっても、教室の中にアンジェリカの姿はなかった。リックはアンジェリカの屋敷のある方角に顔を向けながら、心配そうに言った。
「だからやめろって言ったのに。くそっ……」
 ジークは肘をつき、眉間にしわを寄せうつむいた。リックもつられて目を伏せた。沈黙が流れ、ふたりに重い空気がのしかかった。
「もしかしたら、アイツだったら何か聞いてるかもな」
 ジークは視線だけを上げ、教室から出て行こうとしているラウルの後ろ姿を目で追った。リックはジークの視線をたどり、ラウルを目にすると小さく頷いた。
「そうだね。ラウルってラグランジェ家のホームドクターみたいな感じだし」
 ジークは頬を膨らませ、難しい顔をした。
「あんまりヤツとは関わりたくねぇけど……」
 そう言いながらも、意を決したように立ち上がり、ラウルを追って走っていった。リックも少し遅れて後を追った。
「おい! ラウル」
 呼ばれたラウルは足を止め、顔だけわずかに声の方へ向けた。そして、走り寄るジークを一瞥すると、再び背を向け歩き始めた。
 ジークはむっとしながらも小走りでラウルについていき、背中越しに声を投げかけた。
「アンジェリカのこと、何か聞いてねぇか?」
「さあな」
 ラウルは短く一言だけ答えた。ジークは怪訝な表情で、さらに問い詰めた。
「ホントに知らねぇのか。知らないんだったら『何の話だ』とか聞いてくるのが普通じゃねぇか?」
「万が一知っていたとしても、それをおまえに話す義務はない」
 ラウルは大股で歩きながら、振り返ることなく冷たく言い放った。
 ジークは足を止めた。両こぶしをきつく握り締める。そして、だんだんと離れていくラウルの背中を睨みつけた。
「やっぱりおまえなんかに聞かなきゃよかったぜ!」
 大きな声で捨てゼリフを吐くと、床を思いきり蹴りつけた。奥歯を噛みしめ、踵を返し、肩をいからせながら教室へと戻って行った。
「へらへら笑ってんじゃねーよ!」
 扉付近で談笑していたグループに、すれ違いざまに当たり散らしながら自分の席まで行くと、その椅子に乱暴に身を投げた。とばっちりを受けた三人は、突然のことに目を丸くしていた。
「ごめん、ちょっとカリカリしてるから」
 リックは顔の前に右手を立て、肩をすくめて申しわけなさそうな表情を見せた。そして、少し遅れて席に着こうとした。だが、そのときジークがふいに立ち上がり、再び教室を出て行った。リックも慌てて後を追った。
 ジークは両手をジーンズのポケットに突っ込み、ずんずんと進んでいく。
「どこ行くの?」
 ジークを小走りで追いかけながら、リックは短く尋ねた。
「トイレだ」
「トイレならあっちだよ」
 リックは進行方向と反対側を指差した。ジークは無視して歩き続けた。
「……どこまでついてくる気だ」
「僕もトイレ」
 リックはジークの横に並ぶとにっこり笑った。

「やっぱり起きてこないわね」
 レイチェルは不安な表情で、アンジェリカの部屋のある二階に顔を向けた。
「ああ」
 サイファは重い声で短く返事をした。その一言だけで、彼が心配していることは容易に読み取れた。
「当然よね。あんなことがあったんだもの」
 レイチェルはサイファに背中を向け、寂し気にうっすら自嘲の笑みを浮かべた。
「私、もう一度アンジェリカの様子を見てくるわ」
 彼女は一転して明るい声を作ると、サイファに振り返り、にっこり笑って見せた。しかし、無理をしている彼女の姿はなおさら痛々しい——。サイファはそう感じた。
「私も行くよ」
 すっと立ち上がると、レイチェルの後ろからついて行った。
 ——パタパタパタ。
 ふたりが玄関ホールまで来ると、階上から軽い足音が聞こえた。そして、すぐにその足音の主が姿を現し、大きな階段を駆け降りてきた。
「アンジェリカ!」
 レイチェルは目を見開いて娘の名を呼んだ。
「どうして起こしてくれなかったの? 完全に遅刻だわ」
 アンジェリカは冷静にそう言うと、驚いている両親とすれ違い、リビングへと小走りで向かった。残されたふたりは互いに顔を見合わせると、はっとして彼女の後を追った。
 アンジェリカは鞄を開け、その中を確認していた。
「大丈夫なの?」
 レイチェルは、恐る恐る、彼女の顔を覗き込んだ。彼女はそんな母親を不思議そうに見ると、自分の肩に手を当てて、落ち着いた声で言った。
「こんなの怪我のうちにも入らないわよ」
 レイチェルはますます困惑した。
「そうじゃなくて……」
「え?」
 アンジェリカは首をかしげ、きょとんとしていた。レイチェルはそれを見て、短く息を吐き、表情を緩めた。そして、彼女の頭を優しく撫でた。
「朝ごはんだけは食べていきなさいね」

 アンジェリカは大急ぎでトーストを口に運んだ。サイファはほおづえをつき、微笑みながらその様子を見ていた。彼女はどういうわけか軽やかな明るい表情をしていた。まるで、何かを吹っ切ったかのようだった。
「なんだかご機嫌だね。いい夢でも見たのかな」
 サイファにそう問われて、アンジェリカは手を止めた。そして、トーストを見つめたままわずかに頬を緩めた。
「内緒」
 サイファとレイチェルは顔を見合わせた。しかし、アンジェリカは両親のそんな様子を気にする素振りも見せず、黙々とトーストを食べた。
「行ってきます」
 最後のひとかけらを口に放り込むと、早口でそう言い、鞄をつかんで椅子から立ち上がった。そして、軽快な足音を立て、ふたりの間を走り抜けた。
「あ、いってらっしゃい!」
 レイチェルは慌てて彼女の背中に声を投げかけた。部屋の外に出ると、すぐに彼女の姿は見えなくなり、やがて扉の軋む音が聞こえた。
「これって、どう考えればいいのかしら。あんなことがあったばかりなのに」
 レイチェルはいったん首をかしげると、うつむいて視線を落とした。
「私たちに心配をかけまいとして、無理をして振る舞っていると考えられなくもないが……」
 サイファはそう言いながら、アンジェリカの座っていた席を見つめた。そして、ふいに優しい顔を見せた。
「私は信じたいよ。今日のあの子の嬉しそうな表情は」
 レイチェルも穏やかに笑って頷いた。
「ええ、そうね。そうよね。ラウルには楽観的すぎるって怒られそうだけど」
 そう言って、首をすくめておどけて見せた。

 アンジェリカは緩いペースで走りながらアカデミーへ向かっていた。生ぬるい向い風を受け、少し息苦しさを感じた。しかし、それでも走ることをやめなかった。彼女の気持ちはアカデミーへと焦っていた。
 ふと前を見やったとき、長くまっすぐな道の遠くにふたつの影を見つけた。彼女はまさかと思いながら、走るスピードを上げ、そのふたつの影に近づいていった。
「ジーク、リック!」
 アンジェリカは少し息を切らして言った。目の前には仏頂面のジークと笑顔のリックが立っていた。リックは軽く右手を上げ「おはよう」といつもの挨拶で迎えた。彼女は何度か深く息を吸って吐いて呼吸を整えると、ふたりの顔を交互に見て付け加えた。
「アカデミーは?」
「あーっと、えーと……」
 ジークは彼女から目をそらしながら、いいわけを考えていた。ここまで来てトイレなどといういいわけは通じない。焦れば焦るほど頭の中が真っ白になっていく。
「もしかして、私を迎えにきてくれたの?」
 アンジェリカがさらに追いうちをかけた。ジークは「ばっ……」と何かを言いかけて、口をつぐんだ。彼の耳は次第に赤くなっていった。
 リックは後ろから楽しむようにジークの様子を見ていた。
「行くんだろ、アカデミー」
 ジークはあさっての方に目をやったまま早口でそう言うと、踵を返し歩き始めた。アンジェリカは下を向いて小さく笑うと、小走りでジークに駆け寄り並んで歩いた。
「ジークの言ってたこと、少しわかった気がしたわ」
「え?」
 ジークはアンジェリカの方に顔を向けかけたが、慌てて前へ向き直った。まだ彼の顔はほんのり熱を帯びていた。しかし、アンジェリカはそんな彼の様子に気がついていなかった。前を向いたまま、淡々と言葉を続けた。
「迷惑、かけてたのかなって」
「そんなこと言ったか?」
 アンジェリカはジークの問いに答えるかわりに、にっこりと満面の笑みを向けた。それは、レイチェルがよく見せる表情だった。ジークはとまどった。彼女のこんな顔は今まで見たことがなかった。
「だからって、逃げるのはやっぱり嫌だけど」
 彼女は少し硬い顔に戻り、ひとことひとこと噛み締めるように言葉をつなげた。そして、ふいに足を止めた。ジークは怪訝に振り返った。
 アンジェリカは両足を少し開いて、しっかりと大地を踏みしめるように直立していた。胸元で鞄を抱え、まっすぐにジークを見つめた。
「だから、もっと、強くなるわ」
 静かな声に強い決意を秘めた真剣な表情。ジークの鼓動は大きく強く打った。
「それから……」
 アンジェリカは口ごもりながら、はにかんで視線を外した。しかし、すぐにジークに目を戻して言った。
「ありがとう」
「ん、ああ……?」
 何に対する「ありがとう」かわからないまま、ジークは反射的に返事をしてしまった。そんなジークを見て、リックは隣でにこにこ笑っていた。
「早く行きましょう!」
 アンジェリカは照れをごまかすように早口で言うと、白いミニスカートをはためかせながらジークの隣を駆けていった。
「おい、待てよ!」
 ジークも慌てて駆け出し、全速力で彼女を追いかけた。


29. 3人目の招待客

「誕生パーティ? おまえの?」
 ジークが素っ頓狂な声をあげた。
「他に誰がいるっていうの」
 アンジェリカは彼の反応に少しむっとし、冷めた声で言い返した。
「なんでおまえ、そんなガキくさいことやるんだよ」
 ジークはさらに彼女の神経を逆なでする言葉を口にし、面倒と言わんばかりに後頭部を掻いた。
 ——アンジェリカはまだ子供なのに。
 リックはそう思ったが、口には出さなかった。ただ、彼女の実年齢をすっかり忘れているジークがおかしくて、こっそりと笑った。
「別に嫌だったらいいのよ。無理に来てほしいなんて、言ってないんだから……」
 アンジェリカはうつむくと、不機嫌な声で口ごもった。彼女の耳は、ほんのり赤く染まっていた。
「嫌っていうか……」
 今度はジークが口ごもった。
「なに?」
 アンジェリカはジークを見上げ、短く問い詰めるように言った。彼は眉をひそめ、困り顔で少し首をかしげた。
「俺、そういうの行ったことねぇんだよ。どうすりゃいいのかってのがな……」
 思いがけないジークの情けない発言に、アンジェリカは気が抜けた。少し呆れて息を吐くと、冷めた目で再び彼を見上げた。
「別にどうもしなくていいわよ。来るだけで」
 ジークはアンジェリカの視線から逃げるように顔をそらし、何か言いたげな顔をしていた。しかし上手く言葉にすることができずにそのまま押し黙った。
「ジーク、心配しなくても僕がついてるからさ」
 リックに笑いながらそう言われて、ジークは急に自分が情けなく思えた。
「別におまえについててもらわなくても大丈夫だ」
 意識して声を大きくし、今さらながら虚勢を張って見せた。リックはそんなジークににっこりと笑いかけた。そして、今度はその向こう側のアンジェリカを覗き込んだ。
「僕たちの他には誰を呼んでるの?」 
「あなたたちだけ……あっ、もうひとりいたわ」
 その言葉につられて、ジークもアンジェリカに顔を向けた。
「誰?」
 リックの質問に、アンジェリカは何か含み笑いのようなものを返した。
「ふたりのよく知っている人よ」
 はっきりと答えないうえに、意味ありげな笑顔。ジークはからかわれているような気がして苛立ちを感じた。
「だから誰なんだよ!」
 ジークは語気を荒げた。しかし、アンジェリカは動じることもなく、ただにこにこと笑っていた。
「そのうちわかるわ」
 彼女は楽しそうにそう言うと、「じゃあね」と右手を上げ、ふたりを残し小走りで家へと帰っていった。

 ふたりは無言で彼女の背中を見送った。
「誰だと思う?」
 彼女の姿が小さくなったところで、リックがぽつりとつぶやいた。ジークは腕を組み、小さくうなった。
「まさか……セリカ、ってことはないよな」
 リックも腕を組み、首をかしげて考え込んだ。
「アンジェリカの表情からすると、ラウルって可能性の方が高いんじゃないかな」
 ジークは眉根を寄せ、あからさまに嫌悪の表情を見せた。
「ヤツか……。確かにな。なんか気が重くなってきた」
「アンジェリカが名前を言わなかったのも納得がいくしね」
「どういうことだ?」
「ほら、ラウルが行くって聞いたら、ジークは行かないとか言い出しかねないよね」
 ジークはため息をつき、重い足取りで踵を返すと、ゆっくり家へと歩き始めた。リックもその歩調に合わせて並んで歩いた。
「ラウルって、そんなに悪い人じゃないと思うけど」
 いつも思っていたことが、ふいに口をついて出た。言った後で、またジークの機嫌を損ねたかなと少し後悔した。
 案の定、ジークの機嫌はますます悪くなった。
「悪いとは言ってねーよ。ただ気にくわねぇだけだ」
 むすっとした表情でそう吐き捨てた。リックはなぜ気に入らないのかという理由が聞きたかったのだが、これ以上追求するのはやめておいた。

「お帰り! ジーク!」
「なんだ、その格好……」
 家の扉を開けた瞬間、ジークは絶句した。
 ラフなパンツ姿しか見せたことのない母親が、突然ワインレッドのベロア調ワンピースで出迎えたのである。彼が言葉を失うのも無理はなかった。
「うっふっふ。私もまだまだイケるでしょ。もう二十年くらい前のなんだけどね。あのころは私も着飾ったりしていたものよ。あの唐変木を振り向かせるのは大変だったんだから」
 彼女は防虫剤の匂いを振りまきながら、回転してスカートをひらめかせた。
「だから、なんでその二十年前の服を、いま着てるんだよ」
 ジークはだんだんいらつき始めていた。今日はアンジェリカといい、母親といい、わけがわからないことだらけだった。
「今度これを着て行こうかと思ってね。引っ張り出してきて試しに着てみたのよ」
 レイラは全身を鏡に映して嬉しそうに声を弾ませた。
「そんなもの着てどこに行くんだ?」
 ジークはますます苛立ちが募っていった。話が一向に見えてこない。
 突然、レイラは顔を突き出し、ジークを下から覗き込んだ。そして意味ありげにニヤリと笑った。ジークは少し身をのけぞらせた。
「あんたも呼ばれてるでしょ? アンジェリカちゃんの誕生日」
「……ちょっと待て」
 ジークは一気に頭に血が上っていくのを感じた。
「なんでおまえが行くんだ? そもそもなんで知ってんだ……?」
「私もお呼ばれしてるからに決まってんでしょ」
 ジークの重い声での質問に、レイラは極めて軽い調子で返した。
 ジークは苛立ちは爆発した。
「なんでだよ! ほとんど面識もないくせに呼ばれるわけねーだろ!」
 レイラはそんなジークのわめき声を軽く聞き流した。そして、さらに信じがたいことを口にした。
「実はあんたに内緒で行ってきたのよねー、アンジェリカちゃんのお見舞い。そこであちらのご両親と仲良くなっちゃって」
 そう言うと嬉しそうにVサインをジークに突きつけた。
「なっ……嘘つけ! そんな話、俺、聞いてねぇぞ」
 ジークは顔を真っ赤にしながら、必死で反論した。信じられないというよりは信じたくないという気持ちがそうさせていた。
「そりゃそうでしょ。黙ってたし。彼女にも口止めしといたからね」
 ジークは一気に脱力した。レイラならそのくらいの行動力はある。内緒にしておいてあとで驚かせようという子供じみたことも、いかにも彼女のやりそうなことだ。もうここまでくるとジークは信じざるを得なかった。
「楽しみよね、ジーク!」
 無邪気にはしゃぐレイラを残し、ジークはよろよろと二階へ上がっていった。

 レイラは行動が読めない。何をしでかすかわからない。わけのわからないことを口走りかねない。自分の過去を誰よりも知っている人間であるから怖い。サイファ、レイチェルと何を話していたのか、アンジェリカに何か妙なことを言ってないだろうか。考えれば考えるほど不安に押しつぶされそうになる。
 そして、今度は一緒に行くことになるのである。自分の知らないところで勝手にあることないこと言われるのも嫌だが、目の前でむちゃくちゃな言動をされたり自分のことをからかわれたりするのはもっと困る。

 三人目の招待客はラウルのほうがはるかにましだった。今さらながらジークはそう思った。


30. プレゼント

 とうとうアンジェリカの誕生パーティ当日がやってきた。

 レイラは張り切って、鼻歌まじりで髪をセットしたり化粧をしたりしていた。ジークは化粧をした母親の姿などほとんど見たこともなく、どうなるのだろうと不安な気持ちで眺めていた。
「ところでジーク、あんたプレゼントは何にした?」
 レイラは鏡を覗き込みながら、腕を組み扉口に立っているジークに声を掛けた。
「は? そんなものねーよ」
「……あんたまさかパーティに呼ばれておきながら、手ぶらで行くつもりじゃないでしょうね」
 レイラは手を止め、ゆっくりとジークに顔を向けた。ジークは彼女の視線から逃げるように目を伏せた。
「アンジェリカは来るだけでいいって言ったんだよ」
「ああ! 情けないっ!」
 レイラは身をのけぞらせると、額に手を当て、オーバーアクションで嘆いた。そして、鏡台から立ち上がり、驚いて身構えるジークに、化粧途中の顔を下から突きつけた。
「いい? ジーク」
 レイラは腰に手を当て、眉をひそめ、よりいっそうジークに顔を近づけた。ジークは右手で彼女を制止すると、斜め後ろに身を引いた。
「プレゼントは物じゃない、気持ちなのよ。自分のために、自分のことを想いながら選んでくれた気持ちが嬉しいわけ。わかる?」
 レイラは人さし指をジークの鼻先に突きつけた。
「何もむやみやたらにプレゼント攻撃しろって言ってんじゃないのよ。誕生日は何を祝う日かわかってる?」
「ひとつ歳をとったことを祝う日だろ」
「浅ーいっ!」
 ジークの脳天に空手チョップが入った。
「ってーな! 何しやがる!」
「もちろんそれもあるわよ。でも大事なのは、その人が生まれてきたこと、今生きていることに感謝するってことなのよ。だから大事な人の誕生日は特別なわけ」
「……」
「うだうだ言ってないで、ほら、さっさと買って来る!」
 ジークの体を玄関に向けると、背中を平手で目一杯バチンと叩いた。彼は数歩よろけて前へ出ると、顔だけ振り返り母親を見た。レイラは満面の笑みで手を振っていた。
「リックには先に行っててもらうから」
 ジークはレイラに押し切られる形で家を出た。

「ったく……。何を買えばいいか見当もつかねぇ」
 あてもなく町を歩きながら、ぶつぶつと独り言を口にした。
「そういえば」
 ジークは突然はっとした。
「俺、両親に誕生日プレゼントなんてもらったことあったか……?」

「お、買ってきたね」
 無言で帰ってきたジークの手に小さめの袋がぶら下がっているのを目ざとく見つけ、レイラは声を弾ませた。ジークはそれを隠すように後ろにまわすと、仏頂面をレイラに向けた。彼女は化粧を終え、服も着替え、すっかり準備を整えていた。
 化けた——。
 ジークは彼女の変貌ぶりに驚いたが、あえてそのことには触れなかった。
「今度の俺の誕生日にはプレゼント用意しとけよ」
「なに言ってんのよ。毎年ケーキ焼いてあげてるでしょ。愛情を込めて。まあ半分は私が食べたいからだけど」
 ジークは何も言えなかった。
「ところで、どう?」
 右手で横髪をはね上げ、左手を腰に当てると、レイラはポーズをとった。
「若作りしすぎだろ」
 ジークは毒づいた。しかしレイラはあははと豪快に笑い飛ばした。
「素直じゃないわね。アンタも」
 そう言ってジークの肩に手を置いた。
「ていうか、こんなことしてる場合じゃないだろ。もう走っていっても間に合わないな……」
「大丈夫。アレがあるでしょ」
 彼女がウインクしながら指差した先には大型のバイクがあった。それはジークの父親の形見だった。
 ジークは顔から血の気が引いた。
「ペーパードライバーのくせに何言ってんだよ」
「あら。免許があることには変わりないでしょ」
 息子の心配をよそに、嬉々としながらバイクを外へ運び出した。そしていったん部屋の奥へ戻ると、レイラはライダースーツにヘルメットをを装着して出てきた。ヘルメットはともかくライダースーツなんてどこにあったのか、ジークは不思議でならなかった。
「さ、後ろ乗りなさい」
 レイラはバイクにまたがると、ジークにヘルメットを投げてよこした。ジークは乗りたくなかった。しかし乗らなければ確実に間に合わない。少しの葛藤の後、彼は渋々ヘルメットを被った。
「安全運転、頼むぜ」
 レイラの後ろにまたがりながら、ジークは祈るように言った。
「まーかせて。自称A級ライセンスの腕を見せてあげるわ」
「自称ってなんだよ! わけわかんね……うわっ!!」
 ジークの叫び声を残し、バイクは豪快なエンジン音とともに猛スピードで走り去った。

 ふたりの乗ったバイクは、アンジェリカの家の前で止まった。
 レイラはヘルメットをとり、頭を振ると髪を風になびかせた。
「どう? 私の運転」
「スピード出しすぎ。急発進しすぎ」
 ジークはぐったりして言った。そんな息子を見ながら、レイラは小さく笑った。
「ふふ。昔リュークにも同じこと言われた」
「そりゃ親父でも誰でも言いたくなるぜ」
 ジークは大きくため息をついた。

「ジーク!」
 後ろからリックが手を振りながら走ってきた。
「やっぱりさっき追い抜いていったのってジークたちだったんだ。このバイクってお父さんの形見の?」
「ああ。俺もまさかこれが動くとは思わなかったけどな」
 ジークは額の汗を手の甲で拭った。
「ちゃんといつでも走れるように手入れしてたのよ」
 レイラは愛おしげに車体を撫でた。

「いらっしゃい」
 いつの間にか門まで出迎えにきていたレイチェルが笑顔で声を掛けた。
「レイチェル!」
 レイラはレイチェルに走り寄り、覆いかぶさるように小柄な彼女を抱きしめた。
「何やってんだよ!」
 母親のあまりの馴れ馴れしさに驚き、ジークは声をあげた。レイラはジークを振り返るとニヤリと笑った。
「ははーん。アンタうらやましいんでしょ」
「は?」
「それではジークさんも」
 レイチェルは無防備な笑顔で、ジークに向かって両手を広げた。
「な……」
 ジークは一歩脚を引いたまま硬直した。そして彼の耳はだんだん赤くなっていった。レイチェルとレイラは顔を見合わせると、ふたりしてあははと声を立てて笑った。
「遊ばれてるね」
 リックは気の毒そうに笑った。

 レイチェルに先導され、三人は玄関までやってきた。
「いらっしゃい」
 赤いワンピースを着て、赤いリボンを頭につけ、いつもより華やかなアンジェリカが出迎えた。彼女は少し恥ずかしそうにはにかんでいた。
「かぁーわいー!」
 レイラは両手を広げてアンジェリカに走りよろうとした。しかしジークが後ろからレイラの肩を押さえた。
「待て」
「何よ。ヤキモチ妬くくらいなら自分が行けばいいでしょ」
「バカ! そんなんじゃねぇよ!」
 ジークの耳はまたしても赤くなっていった。
 アンジェリカはそんなふたりのやりとりをきょとんと見ていた。
「まあまあ、親子喧嘩はそのくらいにして」
 奥からサイファが姿を現した。彼はアンジェリカに歩み寄ると、後ろから彼女の両肩に手をのせ、ジークたちににっこり微笑んだ。
「どうぞお入りください」
「どうもー、お邪魔しまーす」
 レイラは右手を上げ軽い調子で挨拶すると、応接間へと入っていった。そのあとに仏頂面のジークと笑顔のリックも続いた。

 応接間にはすっかりパーティの準備が整えられていた。
「すっごーい!」
 ご馳走の山を目の前にして、レイラは目を輝かせた。
「はしゃぐな!」
 ジークは恥ずかしそうにレイラを制止した。しかし、レイラはジークの言葉など耳に入っていないようだった。
「まずは乾杯ね!」
「なんでオマエが仕切ってるんだよ!」
 レイラはジークを無視して、レイチェルとともに乾杯の準備を始めた。
「えー、それでは。アンジェリカの11歳の誕生日を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
 なぜかレイラが音頭をとり、みんなで乾杯をした。ジークだけは納得のいかない顔でレイラを睨んでいた。
「そうそう。忘れないうちに渡しておかなきゃ」
 レイラは鞄をがさごそかき回すと、赤とピンクのリボンがかかった黒い箱を取り出した。
「お誕生日おめでとう!」
 レイラがその箱を差し出すと、アンジェリカはとまどって両親を振り返った。両親はふたりともにっこりとうなずいた。
「ありがとうございます」
 まだ少し驚きながらも、嬉しそうにその箱を両手で受け取った。
「開けてもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
 アンジェリカは丁寧にリボンをほどき、蓋をゆっくりと持ち上げた。
「わぁ!」
 その中には深紅の革靴が1足入っていた。つま先が丸く、かわいらしいデザインだった。
「私の手作りなのよ、それ」
「ありがとうございます!」
 実際にプレゼントを目にして、よりいっそう彼女の感情は高ぶった。
「サイズはほんのちょっとだけ大きく作ってあるから。それがピッタリになった頃には……ね! ジーク」
「はあ? 何に対して同意を求めてるのか、わけわかんねーよ」
 ジークは眉をひそめた。
 アンジェリカも何のことだかわからずにぽかんとしている。
 レイラはひたすらニコニコ笑っていた。
「僕もプレゼント持ってきたよ」
 言葉が途切れたところで、リックが割って入った。
「ごめんね。リボンとか何もかけてないんだけど……」
 そう言いながら、茶色いそっけない紙袋をアンジェリカに差し出した。
「ありがとう! 開けていい?」
 リックがうなずいたのを見ると、アンジェリカは口止めのテープをゆっくりとはがし、中味を取り出した。
「この本……」
「アンジェリカがよく図書館で読んでたなと思って。もしかしてもう持ってたりする?」
「ううん、欲しかったの。ありがとう! すごく嬉しい!」
 ジークはリックがプレゼントを用意していたことに、多少ショックを受けていた。
「ほれ、アンタも出しなさい」
 レイラは息子の背中をバシッと叩いた。
「いいよ俺はあとで……」
 ジークは弱々しく口ごもった。
「なぁーに言ってんの! あとでなんて忘れるでしょ! 今にしなさい、今に!」
 レイラの迫力に負け、ジークは鞄を手に取った。しかし興味津々で覗き込んでいるレイラとリックに気がつくと、鞄を隠すようにして立ち上がった。そしてアンジェリカを手招きすると、応接間の外へと出て行った。
 アンジェリカは目をぱちくりさせていたが、すぐに彼を追って外へ出て行った。
 ジークは扉を背にしゃがみ込み、頭を抱えていた。
「どうしたの?」
「何を買えばいいのか見当がつかなくて、とりあえず長持ちしそうなものにしてみたけど、そうじゃないかもしれねぇ……」
 アンジェリカはジークの言っていることが理解できずに、首をかしげた。
「まあとりあえず渡しとく。気に入らなかったら捨ててくれ」
 ジークは鞄の中から小さな袋を取り出し、アンジェリカに手渡した。
「ありがとう。見ていい?」
「あ! 待て! 俺が帰ってからにしてくれ」
 ジークの懇願するような目を見て、アンジェリカはしばらく考えていた。そして「わかったわ」とにっこり微笑んだ。
「部屋に置いてくるわね」
 アンジェリカは階段を駆け上がっていった。
「中はまだ見るなよ!」
 ジークは下から念を押した。

「ジークのプレゼントって何だったんですか?」
 リックがレイラに尋ねた。
「私も知らないのよね。でもあの子、こういうことに関してはバカだから、きっと普通じゃ思いもつかないようなしょうもない物に違いないわ」
 レイラはふふっと楽しそうに笑った。
「何かしら、私も楽しみだわ」
 レイチェルも後ろから話に加わった。サイファはさらにその後ろで、にこにこと笑顔を浮かべていた。
「ホントあの子バカだけど、温かく見守ってやってちょうだいね」
 そう言ったレイラの顔が、ふいに柔らかくなった。

 ギィ……という鈍い音がして扉が開いた。そこにいた四人は、いっせいにその扉の方を見た。
 ジークは皆と視線を合わせないよう目を伏せて入ってきた。
「ジーク! どうだった?」
 レイラは遠くから大きな声で尋ねた。
「渡した」
 ジークは素っ気なく答えた。
「で? で? 反応は?」
 下世話な興味を隠そうともせず、レイラはジークににじり寄った。
「あー!! もう俺に話し掛けるな! おまえに話し掛けられるだけで13倍疲れんだよ!」
「まー!! なによ 13って中途半端な数字は! 10か15のどっちかにしなさいよ! ホント割り切れない男だわ!!」
「おまえには不吉な 13がお似合いなんだよ!」
「もうふたりともやめようよ。よそのウチまで来て喧嘩することないじゃない」
 エスカレートしてきたふたりの言い合いに、リックは焦って止めに入った。そして、申しわけなさそうにサイファとレイチェルに目をやった。だが、ふたりには迷惑がっている様子はなく、くすくすとあまり声を立てないように笑っていた。リックは少しほっとした。
「どうしたの?」
 いつの間にか戻ってきたアンジェリカがリックに尋ねた。
「ただの親子喧嘩。いつものことだから気にしないで」
 リックは苦笑いを浮かべた。

「もう子供たちは放っておいて、私たちは私たちでオトナな会話を楽しみましょ」
 さんざんジークと子供じみたことを言い合ったあと、レイラはサイファとレイチェルのところへやってきた。そしてふたりの間に入り、彼らの肩に手を回し引き寄せた。
「レイラさんはバイクにお乗りになるんですね」
 レイチェルは顔を少し上げ、大きな瞳でレイラを見た。
「最近は全然乗ってなかったけどね」
 レイラは首をすくめた。
「よろしければバイク、見せていただけません?」
 レイチェルの思いがけない言葉に、レイラは顔をぱっと輝かせた。
「もちろん! サイファも行きましょ」
 三人は連れ立って部屋を出て行った。

 外はほんのり薄暗くなっていた。ジークとのことで熱くなっていたレイラには、ひんやりした風が心地よく感じた。
「わぁ、近くで見たのって初めてですわ」
 レイチェルはしゃがみ込んでまじまじとバイクを観察した。
「これ、死んだダンナの形見なのよ」
「それでは、旦那さんの影響で?」
「出会って間もない頃だけどね。そりゃもう必死で免許を取ったわよ。恋する乙女のパワーってヤツ?」
「まあ」
 レイチェルはにっこり笑った。
「旦那さんはお仕事もバイク関連だったのですか?」
 サイファが尋ねると、レイラはまっすぐ彼の目を見ながら答えた。
「そう。小さな町工場で技術者やってたわ。けっこう強い魔導力も持ってたらしいんだけど、そっちには全く興味がなかったみたい」
 レイラは肩をすくめた。
「そういうのって、全く使えない私から見ると腹が立つわけよ。なんで才能を腐らせておくのかって。それでいちど怒ったことがあるの」
 そう言いながら彼女は、思い出したように笑っていた。
「それで、アイツなんて答えたと思う?」
「え? なんて答えたのですか?」
 レイチェルはレイラを見上げた。彼女はハンドルにひじを乗せ、どこか遠くを見つめていた。
「初めて魔導が使えたときより、初めて自転車に乗れたときの方が嬉しかったんだ、って。ほーんと、バカでしょ」
 レイラは肩をすくめ、すこし照れくさそうに笑った。
「素敵なお話ですね」
 レイチェルは目を細めて微笑んだ。

「何話してんだろうな」
 ジークは肉にかぶりつきながら、窓越しに親たちを見ていた。声は聞こえなかったが、楽しそうに笑いながら話をしていることはその様子から容易にわかった。
「ジークの子供のころの話だったりして」
 窓際でジークと並んで外を見ていたアンジェリカがぼそりと言った。
「なんでだよ」
 ジークは外に目を向けたまま、今度はポテトを食べ始めた。アンジェリカは彼をを見上げると、いたずらっぽく笑った。
「私もいろいろ聞いたけど、結構おもしろかったわよ」
 ジークの動きが止まった。
「え? どんな話? 僕も聞きたい」
 リックが身を乗り出した。
「ちょっと待て! ……リックはそこにいろよ」
 額にうっすら汗をにじませながら、ジークは右手でリックを制止すると、アンジェリカの手を引き、部屋の隅まで引っ張ってきた。
「で、何の話を聞いたんだ?」
 動揺を隠すように腕を組み、彼女から目をそらしながら、ジークは低い声で言った。アンジェリカは少し遠くを見て考えるような素振りを見せると、淡々と語り始めた。
「いろいろあるけど、自分で掘った落とし穴にはまって足をくじいてさらに生き埋めになりかけたとか、魔導の力を使って魚を焼こうとしてテーブルまで燃やしちゃって火事になりかけたとか、あと……」
「あーー!! もういいもういい!!」
 ジークの顔はみるみるうちに真っ赤になった。
「とにかく! リックには言うなよ! いいな!」
 アンジェリカに人差し指を突きつけ、大声でわめき立てた。
「なんだか仲間はずれみたいでかわいそう」
 アンジェリカは口をとがらせ、不満げに言った。
「かわいそうなのは俺じゃねーかよ」
 ジークはくたびれたような乾いた笑いを浮かべた。

「ごめんね、リック。口止めされちゃった」
 アンジェリカはリックのところへ戻ると、両手を顔の前で合わせて謝った。
「もしかしてその話って落とし穴とかのじゃない?」
 リックはさらりと言った。
「!! なんでオマエっ……!」
 アンジェリカの後ろで、ジークは口を開けたまま硬直していた。
「ずいぶん前だけど、レイラさんから聞いたことがあるよ」
 リックはにっこりとジークに笑いかけた。
「あんのヤロー……」
 ジークは窓に張りついて、外で楽しそうに談笑している母親を睨んだ。

 パーティが終わる頃には、すっかり外が暗くなっていた。
「長居しちゃってごめんなさいね」
 レイラは軽い調子で言った。彼女は来たときと同様、ライダースーツを身に付けていた。
「いえ、とても楽しかったですわ」
 レイチェルの言葉にサイファも頷き、付け加えた。
「またいつでもいらしてください」
 レイラはウインクで答えると、大きなエンジン音を轟かせながら、バイクでひとり走り去った。

「アンジェリカ、またあしたね」
 リックが笑顔で右手を挙げた。アンジェリカも笑顔で返した。
「ふたりとも、本当にありがとう」
 ジークはアンジェリカをじっと見つめた。そして無言で右手を挙げると、背中を向け歩いていった。
 アンジェリカと彼女の両親は、ジークとリックの背中を小さくなるまで見送った。

 アンジェリカは、家に戻ると小走りで自分の部屋へと駆けていった。そして、ジークのプレゼントが入った袋を手に取った。袋の口を開け、中を覗き込む。
「……サボテン?」
 彼女は袋の中に手を入れ、ゆっくりとそれを取り出した。それは、鉢植えのミニサボテンだった。アンジェリカは渡してくれたときのジークの表情とサボテンを重ね合わせ、ひとりで声を立てて笑った。
 ひとしきり笑い終わると、彼女はそれを南側の窓際に置いた。
「ありがとう、ジーク。頑張って長持ちさせるわ」
 彼女はサボテンに向かって、とびきりの笑顔を見せた。


31. 動揺

 アカデミーの正門脇を取り囲むように、人だかりが出来ていた。ざわめきの中からときおり悲鳴にも似た歓喜の声が上がる。
「そっか。今日が合格発表だったんだ」
 少し離れたところからその様子を眺めていたリックが、小さく頷きながらつぶやいた。隣にいたジークもじっと群衆を見つめていた。
 一年前の合格発表のとき、アンジェリカと出会った。そして初めて味わった敗北。傷つけられたプライド。
 最悪の出会いだった。
 そのときまで信じていたものが、いかに小さなものだったのか——。あれからいろいろな経験を重ねた今なら、素直にそれを認めることができる。しかしそのときはただ、自分を負かした小生意気な少女を憎らしく思うことしか出来なかった。
「あれからもう一年になるんだね」
 リックの声でジークは我にかえった。リックも一年前のことを思い出していたのだろう。その声からは近くて遠い日々を懐かしむ気持ちがにじみ出ていた。
「おはよう」
 いつの間にか近くまで来ていたアンジェリカがふたりに声を掛けた。そして、少し肩をすくめて見せた。
「すごい人ね。去年はここまで多くなかったと思うけど」
 合格発表を見ようと押し合う人々は、正門前まで溢れ返っていた。受験生だけでなく、その家族や興味本位の在校生も多く集まっていたようだった。
 その中からひとりの少年が身をかがめ、つまずきながら出てきた。背が高く、痩せてひょろりとしている。クラスメイトのダンだった。
「アンジェリカ、おはよう!」
 アンジェリカに気がつくと、手を振りながらまっすぐに走り寄ってきた。もみくちゃにされた髪を手ですき直していたが、あまり効果はなかった。
「おはよう」
 アンジェリカは挨拶を返しながら、不思議そうに首を傾げた。彼とはあまり話をしたこともなく、特に仲が良いというわけではなかった。
「今、そこで合格発表を見てきたんだけどさ」
 ダンは興奮ぎみにまくしたてた。両こぶしを堅く握りしめ、顔を輝かせている。
「すげーな! 今年も入ってきたんだな、ラグランジェ家の子。しかもふたりも!」
「え?」
 アンジェリカはダンを見上げ、目を見開いた。
「うそ? 誰?!」
 踵を上げて一歩ダンに踏み出すと、短く問い詰めた。彼はアンジェリカの激しい反応に少したじろいだ。
「あ、ああ。女と男とひとりづつだったかな。名前は……、えーと、なんだっけ」
 そう言うと、何とか思い出そうと、目を閉じ額に手を当てた。
 しかし、アンジェリカは彼を待たず、群衆へ向かって走り出した。ジークとリックも、眉をひそめ顔を見合わせると、そのあとを追っていった。
「思い出した! 男の方はレ……」
 ダンが目を開けたときには、もう周りには誰もいなかった。

 アンジェリカは人垣に阻まれ、中に進めずにいた。
「ワリィ、ちょっと開けてくれ」
 ジークがアンジェリカをかばうように後ろから肩を引き寄せると、無理やり道をこじ開けながら進んでいった。
「ちょっ……」
 ジークの強引なやり方に、アンジェリカはとまどいの声を上げた。
 リックはジークの背中にくっつくようにしてついていった。「すみません」としきりに周りに謝っていたが、あまり効果はなかったようだった。押しのけられた人々は文句を言いながら、ジークたちを睨んでいた。しかし、何人かはアンジェリカに気がつき「ラグランジェ家の……」と囁きあっていた。
 刺すような視線を背中に浴びながら、三人はいちばん前に躍り出た。
 アンジェリカは壁に張られた紙を見上げた。
「ユールベル=アンネ=ラグランジェ……? 誰かしら。聞いたことがない」
 いちばん上に書かれた名前を読み上げ、アンジェリカは首を傾げた。そしてもうひとりを探すべく、すぐに下へと目を走らせた。今度はいちばん下にラグランジェの名前を見つけた。
「レオナルド?! どうしてあいつが……」
 そう言うと、身を翻し、今度は自力で人垣をかきわけ出ていった。
「どうしたの?」
 アンジェリカを追って出てきたリックが、彼女の小さな背中に声を掛けた。ジークはただじっとアンジェリカの後ろ姿を見つめていた。
 アンジェリカはゆっくりと振り返った。
「今までラグランジェ家の子がアカデミーに入ったことなんてなかったのに、今年はふたりもいるのよ。どう考えても変よ」
 静かにそう言うと、眉をひそめうつむいた。
「見張り……ってこと?」
 リックは声を低くして尋ねた。アンジェリカは口元に手を添え、さらに深くうつむいた。
「そこまではどうかわからないけれど」
 アンジェリカが続けて何かを言いかけたとき、背後からの声がそれを遮った。
「お久しぶりです、お嬢様」
 聞き覚えのある声だった。胸に黒い気持ちが広がっていくのを感じながら、アンジェリカはゆっくり振り向いた。
「いったいどういうつもり?」
 彼女が睨みつけた先に立っていたのは、パーティでアンジェリカの肩を傷つけた少年、レオナルドだった。

 ジークは一度見ただけだったがはっきりと覚えていた。ラグランジェ分家の嫌味な奴だ。そしてアンジェリカと結婚することになっていたかもしれない男……。
 こいつなのか? アカデミーに合格したのは。
 ジークはアンジェリカの後ろで腕を組み、目つきを悪くしてそのブロンドの男を凝視していた。
「そんなに恐い顔をしないでください」
 レオナルドはアンジェリカに笑顔を向けた。ジークやリックのことは視界に入っていないようだった。
「あなたのその外ヅラの良さには敬服するわ」
 アンジェリカは苦々しくそう言うと、よりいっそうきつく睨んだ。その瞬間、レオナルドの顔に陰がさした。
「この前はやりすぎたと思っている。申しわけなかった」
 嫌味に丁寧でもなく、蔑むでもなく、自然な口調だった。
 思いがけない反応に、アンジェリカはとまどいを隠せなかった。しかし、今まで積み重ねてきたものがある。にわかにそれを信じるわけにはいかなかった。
「何を企んでいるの? アカデミーに潜入して、しおらしさをよそおって」
 アンジェリカは背筋を伸ばし、腕を組み、まっすぐにレオナルドを睨みつけた。少しの隙も見せないように気を張る。レオナルドはそんなアンジェリカから目をそらし、遠くの空を目を細めて眺めた。
「ただ証明しかっただけだ。お……」
「確かにあなたの言っていたとおり、アカデミーはたいしたことがないって証明されたみたいね」
 アンジェリカはレオナルドの言葉を遮り、精一杯の嫌味を突きつけた。そして、しばらく彼の反応をうかがっていた。しかし、彼は無表情のままアンジェリカに背を向け、何も言わずその場を立ち去った。
 アンジェリカはどうしてか声を掛けられなかった。小さくなっていく彼の背中をただぼんやりと見ていた。

「なんかあったのか? アイツと」
 ジークの声で現実に引き戻された。
「うん……まあ、いろいろと」
 アンジェリカにしてはめずらしく歯切れの悪い答えだった。ジークはそれがさらにひっかかった。
「いろいろって何だよ」
 背中を向けたままのアンジェリカに、低い声で問い詰めた。
 しかし、彼女はほとんど上の空で、「たいしたことじゃないわ」とつぶやくように言っただけだった。そして、深く考え込んだまま、アカデミーの門へと歩き出した。

 ジークはその日ずっと機嫌が悪かった。そして、アンジェリカは考え込んだまま難しい顔で黙り込んでいた。三人はほとんど会話らしい会話をしていなかった。
 授業を終え帰り支度をしていたリックは、アンジェリカを気にしながら、ジークにそっと耳打ちした。
「怒ってる場合じゃないと思うんだけど」
 ジークは無言のままむすっとしていた。リックはさらに畳み掛けた。
「アンジェリカは不安なんだよ。怖がってるんだよ」
「……おまえ、俺にどうしろっていうんだよ」
 ジークもアンジェリカを気にして横目で見ながら、声をひそめてリックに突っかかった。
「別にどうしろとは言わないけどね」
 リックはとぼけたような口調で言った。それからアンジェリカに振り向き、明るく声を掛けた。
「ねえアンジェリカ。屋上、行ってみない?」
「え?」
 ぼんやりしていたアンジェリカは、ふと我にかえるとリックに顔を向けた。彼はアンジェリカににっこりと笑いかけた。
「行こうよ、屋上」
 柔らかい彼の声を聞きながら、アンジェリカは怪訝な顔をして首を傾げた。
「行っちゃいけないんじゃないの?」
「大丈夫。ジークがなんとかしてくれるから」
「おいっ! 勝手に決めるなよ!」
 リックの勝手な言いように、ジークは焦って身を乗り出した。そしてリックの肩ごしに、アンジェリカと目が合った。気まずさを感じながら、なぜかふたりとも視線をそらすことが出来なかった。
「わかったよ。行こうぜ」
 そう言ってわざとらしくため息をつくと、ズボンのポケットに手を突っこみ、教室の外へと出ていった。
「行こう」
 リックに促されて、アンジェリカは彼とともに小走りで後を追った。

 屋上へと続く階段は、いつものように封鎖されていた。
 錆びた鎖がゆるく三重に渡され、その中央に「立入禁止」と書かれたプレートが斜めに架かっていた。プレートはほこりにまみれ、薄汚れていた。
 しかし、阻んでいるものはそれだけではなかった。
「結界まで張らなくてもいいのにな」
 鎖の背後はうっすら青白く光っていて、そこに結界が張られていることを示していた。
「でもかなり緩い結界だと思うわ。これくらいなら簡単に解除できるわよ」
 アンジェリカはそう言うと、あたりをうかがった。誰もいないことを確認すると、手のひらを結界に向け、呪文を唱えようとした。
「待てよ」
 ジークはアンジェリカの手をつかみ、それを止めた。
「なによ?」
「俺がやる。もしばれたら……まずいからな」
 今度はジークが手を伸ばし、結界に向け呪文を唱えた。シュッとかすれた音とともに中央部分から広がるように光が消えていった。
 ジークとリックは鎖をまたいだ。
 アンジェリカは後に続こうとして足を止めた。そしてじっと鎖を見つめた。彼女がまたぐには高すぎる。しかしくぐるとほこりまみれになりそうだ。
「足あげろよ」
 頭上から声が降ってくるのと同時に、アンジェリカの体が宙に浮いた。ジークが両脇から彼女の体を持ち上げていた。驚きながらも彼女は言われた通り、素直に足を折り曲げ膝を上げた。彼女はずっと自分の足元を見ていた。鎖を越えると静かに体を降ろされ、再び地に足がついた。
 アンジェリカが顔を上げたとき、ジークはもう彼女に背中を向け歩き始めていた。

 リックは前を向いたまま、ずっとにこにこしていた。
「……んだよッ!」
 ジークは耳を赤くし、中途半端に声をひそめて彼に食ってかかった。
「別に」
 リックはすました声で答えると、再びにっこり笑った。ジークはからかわれているような気がして、むすっとした顔のままよけいに耳を赤くした。アンジェリカもその後ろでかすかに頬を染めていた。

 階段を登りきったところに、鉄製の錆びた扉があった。
 ジークとリックは三本のかんぬきを抜き、扉を押した。ギギギ、と嫌な音をさせながら扉が動き、間から白い光が差し込んできた。
 アンジェリカは右手を光にかざすと目を細めた。

 リック、ジーク、アンジェリカは順番に屋上へ出た。
 眼前にも頭上にも遮るものはない。その恐いくらいの解放感に、アンジェリカは息を呑んだ。
「んー!」
 中央へ走っていくと、リックは両手を伸ばし大きく息を吸った。
「おまえ、ホント好きだな、屋上」
 ジークは腕を組み、浅く息を吐くと、少しあきれたような視線をリックに向けた。しかしリックはにこにこしたままおかまいなしだった。
「だって見てみてよ。この爽快感って他にないよ。それにいつもの景色がいつもとちょっと違って見えるのも好きなんだ。アカデミーのは初めてだけど、今まででいちばん見晴らしがいいよ」
 そういうと顔を上げ、再び深く息を吸った。
 アンジェリカも少し踵を上げて、思いきり息を吸い込んでみた。体の中を風が吹き抜けた。彼女は空を見上げて目を細めた。
 ジークは柵にもたれかかりながら、アンジェリカの様子を見ていた。彼女の笑顔に、彼の表情もつられて緩んだ。しかし、リックが遠くから自分の方を見ていることに気がついて、バツが悪そうにうつむいた。彼の耳は再び赤くなっていた。
「ジークは屋上きらいなの?」
 下を向いている彼に気がついて、アンジェリカは走り寄っていった。ジークは顔を少しそらせた。
「いや。嫌いじゃない、けど……」
 アンジェリカが覗き込んできたので、ジークはさらに顔をそらせた。
「…………」
 ジークは横目でアンジェリカをちらりと見た。
「少しは元気が出たみたいだな」
「あ、うん。……ありがとう」
 アンジェリカは少しのとまどいを含んだ声で、ぽつりぽつりと答えた。
「礼はリックに言えよ」
 彼女から顔をそむけたまま、ジークはぶっきらぼうに言葉を吐いた。アンジェリカはジークにどう接したらいいのかわからず、困って目を伏せた。
「無理にとは言わねぇけど」
 ジークは柵に身を預け、空を見上げた。
「悩んでることがあったら俺らに話せよ。解決は出来ねぇかもしれないけど」
 ジークはずっと仏頂面だった。しかし、アンジェリカはその横顔から照れの表情を見つけた。彼女はにっこりと笑った。

「おまえたちか」
 よく通る低い声。扉から姿を現したのはラウルだった。リックはしまったという表情で振り返った。
「俺が無理やり連れてきたんだよ」
 ジークはラウルを睨んで言い放った。アンジェリカは驚いて隣のジークを見上げた。
「だろうな」
 ラウルは腕を組み、自分を激しく睨む少年をゆったりと見下ろした。ジークは負けじと視線をいっそう鋭くした。
「いえっ、行こうって言ったのは僕です!」
 そう言いながら、後ろからリックが必死の顔で駆け寄ってきた。しかし、ラウルは冷めた目をジークに向けたまま、口を開いた。
「どっちでも構わないが、結界を解除したらすぐに張っておけ。他の者にわからないようにな」
 てっきり怒られるものだと思っていたリックは拍子抜けしてしまった。
 ラウルはアンジェリカに視線を移した。
「アンジェリカ。話しておきたいことがある」
 アンジェリカは小さくこくりと頷いて、ラウルの方へ歩きかけた。しかし、ふいにジークに肩をつかまれ、後ろに押し戻された。
「今日は行かせねぇ」
 そう言うとアンジェリカを後ろ手でかばうようにしながら、一歩前へ踏み出した。背筋を伸ばし、口をまっすぐに結んで、ラウルの前に立ちはだかった。
「ジーク! なに勝手なこと言ってるの?!」
 アンジェリカはジークの背中を軽く叩いた。
「話があるならここで言えよ」
 ジークは挑むように言った。彼の額には薄く汗がにじんでいた。
 ラウルは眉ひとつ動かさずに、じっと彼を見ていた。そして、アンジェリカに視線を移すと、静かに口を開いた。
「ユールベルには気をつけろ」
 ラウルはそれだけ言うと、身を翻し、扉をくぐって戻っていった。
「待って! どういうこと?! ユールベルって誰なの?!」
 アンジェリカはジークを振り切り、ラウルを追いかけようとした。しかし、しっかりと腕をつかまれ引き止められた。
「離してよ!」
 彼女はヒステリックに叫んだ。
「あしたでもいいだろう」
 ジークは彼女の腕をつかんだままうつむき、小さな声で言った。
「ジークは私の気持ちなんて全然わかってない!」
 こみ上げる感情のまま、アンジェリカは再び叫びを上げた。その声はわずかに揺らいでいた。それに呼応するように、ジークも感情を高ぶらせ声を荒げた。
「おまえだって俺の気持ちわかってねーだろ!」
 アンジェリカはジークを睨みつけた。その瞳はわずかに潤んでいた。
「ラウルに反抗したいだけじゃない!」
 ジークの手が緩んだ。アンジェリカの腕が、そこからするりと抜けた。彼女は数歩下がり、息苦しさをこらえるような顔でジークを見た。しかし、うつむく彼の顔には陰が落ち、表情を読みとることが出来なかった。
 アンジェリカはしばらくジークを見つめていたが、意を決したように踵を返すと、ラウルを追って扉をくぐった。

 ジークはもたれ掛かっていた柵を、ガツンと力を込めて叩き、歯をくいしばった。



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