目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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23. 長い一日

 長かった休みも終わり、今日から再びアカデミーでの学園生活が始まる。休み明けというものは、たいてい条件反射的に少しの憂鬱を伴う。
 ジークも例外ではなかった。今朝からずっと、体の奥底に鉛が沈んでいるような、いいようのないもやもやしたものを感じていた。しかし、アカデミーに近づくにつれ、彼は次第に思い出してきた。自分はどれほどここへ来たかったのか、ということを──。
「ここへ来るのも二ヶ月ぶりなんだな」
 アカデミーの門をくぐり、校舎を仰ぎながら、ジークが感慨深く言った。
「新鮮な気持ちだよね。なんだか入学の日のことを思い出すなぁ」
 リックもつられて顔をあげると、深く息を吸い込んだ。
「もしかして、全然来てなかったの?」
 背後から、驚きを含んだ高い声が聞こえた。
「ああ。二ヶ月間まったくな」
 ジークはそう言いながら、ゆっくりと振り返った。そこには、案の定、呆れ顔のアンジェリカが立っていた。
「どうりで全然会わなかったわけね」
 小さく独り言のようにつぶやくと、ふたりの間をすり抜けて歩き出した。ジークとリックは顔を見合わせた。そして、すぐに小走りで彼女を追った。
「ますます、差を広げるわよ」
 アンジェリカは、前を向いたまま口をとがらせた。
「アカデミーには行ってなかったけど、勉強してなかったわけじゃないぜ」
 ジークも前を向いたままで反論した。そして、口の端を上げ、自信のほどをその顔に表した。
「ふ……ん。ならいいけど」
 アンジェリカは軽く受け流した。
「なんだおまえ。信用してねぇな!」
 ジークは彼女に振り向き、大きな声で叫んだ。それでもアンジェリカは冷静だった。ちらりとジークに目をやると、つんとして言った。
「いずれ結果は出るわ」
「ホントにかわいくねぇなっ」
「まあまあ。せっかく久しぶりに会ったんだから」
 リックがなだめた。
「そういえばアンジェリカ。ちょっと背が伸びたんじゃない?」
 アンジェリカは突然そう言われて、とまどいながらも、少しはにかんで見せた。
「休み前から2cmくらいかな」
「やっぱり?! そうかぁ、成長期だもんね」
 ふたりのやりとりの間、ジークはぽかんと口を開けていた。彼女の身長が伸びていることなど、ジークは気づきもしなかった。それどころか、それを知ってもまだよくわからないでいる。そんな些細なことに気がついたリックに驚いた。しかし、それよりも、彼女が成長するということに、なぜだか不思議な違和感を覚えていた。
「なに?」
 視線を感じとったアンジェリカが、ジークを見上げながら目を細め、訝しげに尋ねた。
「んなもん、普通わかるかよ!」
 ジークは再び前を向き、どたどたと大股で歩き始めた。
「なに怒ってるのかしら。相変わらずわけがわからない」
 アンジェリカは口をとがらせた。リックに顔を向け、首をかしげて見せた。しかし、リックはただにこにこと笑顔を浮かべているだけだった。

 玄関口をくぐると、その中はたくさんの生徒であふれていた。毎日のようにアカデミーへ来ていたアンジェリカも、これには懐かしさを覚えざるをえなかった。休み中は人もまばらで、こんな活気はなかったのだ。
「いいよね。こういう活気って。負けてられないなって気になる」
 リックは鼻から息を吸い込み、小さく気合いを入れた。だが、ジークはあまり興味がないようだった。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに口を開いた。
「そうかぁ? まあ俺は元々そこら辺にいる奴らには負けてないけどな」
「ちょっと違うような気がするけど」
 リックは軽く首をかしげ、苦笑いをした。一方のアンジェリカは、冷めた目でジークを一瞥した。しかし、それとは逆に、口元はふいに緩みそうになる。彼女は慌てて口をとがらせ、それをごまかした。
 ジークはまっすぐ前を向いたままで、そんなふたりの様子に気づいてもいなかった。
「あ……」
 突然、彼は小さく声をあげた。そして、規則的だった足の動きが、前に踏み出すことを躊躇するように緩やかになった。
 アンジェリカは、声につられて何気なく振り向いた。ジークは奥歯を強く噛み締め、ややうつむきながらも、ちらちらと前を気にしていた。前に目をやると、そこには同じようにうつむいているセリカが立っていた。彼女の顔には、暗い陰が差していた。
「なにか、あったの?」
 初めはジークに尋ねたが、答えが返ってこなかった。続いて、反対側のリックを覗き込んだ。
「いや、僕の口からはちょっと……」
 リックは横目でジークを気にしながら、苦笑いして首を傾げた。アンジェリカは、自分の知らないところで何かが起こったのだと察した。気にはなったが、ジークにも、リックにも、それ以上尋ねることはできなかった。

 ジークは立ち止まっているセリカと無言ですれ違った。彼女の姿が視界から消えると、ゆっくりと顔を上げ、ほっとしたように大きく息をついた。
「そういえば、あしたは試験だな」
 唐突に、ややぎこちなく切り出すと、リックも慌ててそれに同調した。
「そうだったね。でも今回はペーパーだけだから心配はないよね」
 彼の言葉で、アンジェリカは期末試験での出来事を思い出してしまった。きゅっと胸を締めつけられる。しかし、彼に悪気がないことはわかっていたので、あえて気がつかないふりをした。
 だが、ジークは違った。
「おまえ、ケンカ売ってんのか?」
 あからさまに不愉快だという表情を、リックに向けた。そのときようやくリックは気がついた。
「ごめん! そういうつもりじゃなかったんだけど……。本当にゴメン! アンジェリカもごめんね」
「あ、私は別に……」
 アンジェリカは何と答えていいのかわからず、消え入りそうな声でそう答えることしかできなかった。ジークは謝られて、すっかり機嫌が直っていた。
「今度またVRMで対決することがあっても、この前のようなことにはならないぜ。ていうか、負けねぇぜ」
 初めはリックに向かって言っていたが、途中でアンジェリカに視線を移した。そして、強気にニヤリと笑ってみせた。彼はすっかりいつもの調子を取り戻していた。
 アンジェリカは安堵した。それと同時に、負けず嫌いの性分が顔を出した。
「私だって、負けるわけにはいかないんだから」
 まっすぐにジークを見て、きっぱりと言い放った。

「ずいぶん大口を叩いているな」
 彼の背後から、冷たい声が降ってきた。あまり聞きたくなかった声だ。頭頂から首筋、背中へと、何かが走ったような感覚に襲われた。奥歯に力を入れ、眉をひそめながら、ゆっくりと振り返る。
 やはり、ラウルだった。
 左脇に書物を抱え、無表情でジークを見おろしていた。
「おまえがそう簡単にアンジェリカに勝てるとは思えないがな」
「さぁ、それはどうかな」
 ジークは、ラウルの圧倒的な存在感に気おされながらも、負けじと必死に強気を保っていた。しかし、ラウルは気が抜けるほどあっさりとした返事をした。
「そうか。それは楽しみだ」
 その言葉が本気なのか嫌味なのか、ジークにはわからなかった。感情がまったく読み取れない。難しい顔で考え込んだ。ラウルはその脇を追い越し、さっと行ってしまった。ジークは眉をひそめ、ラウルの後ろ姿を睨んだ。
「何しに来たんだか、アイツ」
「通りかかっただけでしょ」
 アンジェリカは軽く答えると、急にジークに背を向けた。
「おい、どこ行くんだよ」
 ジークの呼び声に、アンジェリカは顔だけ振り向き、睨みながら右手で上のプレートを指さした。
「……トイレか」

 ふたりは並んで壁にもたれかかりながら、アンジェリカを待っていた。ジークは腕を組んで、何か考えごとをしているようだった。リックは彼の邪魔をしないように、おとなしく雑踏を眺めていた。
「担任って、ずっと変わらないものなのか?」
 ジークが唐突に疑問を口にした。
「さあ……。でもなんで?」
 リックはジークに振り向いた。
「なんでって、おまえはアイツが担任でもいいのか?」
「僕は別にイヤじゃないけど?」
「ああそうか。めでたいヤツだな」
 ジークは乾いた笑いを浮かべると、投げやりに言った。

 ──ドドーン!

 突然、激しい爆音とともに大量の粉塵が舞い上がり、彼らの視界をさえぎった。ざわめきがそこら中から沸き上がる。誰も何が起こったのかわからなかった。
 ジークとリックは嫌な予感がした。
「アンジェリカ!」
 ジークは口に手の甲をあて、目を細めながら、粉塵の中へ飛び込んでいった。壁が崩れ、瓦礫が小さな山を作っている。その瓦礫の下に、誰かが倒れているのがうっすらと見えた。体の半分が瓦礫に埋もれているようだ。
「アンジェリカ?!」
 ジークはその人影に駆け寄り屈み込んだ。しかし、それはアンジェリカではなくセリカだった。
「しっかりしろ!」
 声を掛けながら、彼女の上に乗ったコンクリート片を取り除いていく。あとから駆けつけた生徒たちもそれを手伝った。
「こっちにもいるぞ!」
 誰かが奥の方から叫んだ。ジークは「頼む」と言い残すと、声のする方へ飛んでいった。
「アンジェリカ!」
 今度は確かにアンジェリカだった。体をくの字に折り曲げ、右の脇腹を両手で押さえている。そして、その指の間から鮮血が流れ、彼女のまわりに赤い水たまりを作っていた。
 突然の出来事に、ジークは頭の中が真っ白になった。何が起こっているのかわからなかった。何をすればいいのかわからなかった。世界が遠く離れていくようだった。誰かが「止血!」と叫ぶ声も遥か遠くに聞こえた。
「先生が来たよ! 通して!」
 人だかりの後ろで、リックが声を張り上げた。ラウルは生徒たちを強引に押しのけて現場に向かった。まずアンジェリカの元へ行き、傷口、脈などを、素早く診ていった。そして、勢いよく立ち上がると、持っていた担架のひとつをジークに投げてよこした。
「それでアンジェリカを私のところへ運べ」
 ラウルはそう命令しながら、もうひとりの患者のもとへ向かった。
「ジーク、行こう」
 リックに促されて、ジークは我にかえった。慌てて担架を広げた。

 ジークとリックは、ラウルの医務室へアンジェリカを運び込んだ。セリカも他の生徒によって、ここに運び込まれた。
 ジークたちは片隅で黙って突っ立っていた。クリーム色の薄いカーテンで仕切られた向こう側に、ふたつのベッドとラウルの影が見えた。ラウルは忙しく動きまわり、手際よくふたりの処置をしているようだった。

 ──ガラガラガシャン。
 激しい音がして扉が開き、そこからサイファとレイチェルが姿を現した。それと同時に、仕切りの向こうからラウルが出てきた。
「アンジェリカは?! 無事か?!」
 サイファはラウルを目にすると、一目散に駆け寄った。
「ああ、命に別状はない。そのうち意識は戻るだろう」
 ラウルは冷静にそう答えると、親指でカーテンの方を指した。サイファは急いでカーテンの内側へ入っていった。レイチェルはラウルをじっと見つめていた。その大きな瞳からは今にも涙がこぼれそうだった。ラウルがその細い肩に手をのせると、彼女はこくりと頷いた。ゆっくりとカーテンをくぐり、アンジェリカのベッド際へ歩いていった。
「しばらく待っていてくれ」
 ラウルはカーテン越しに声を掛け、医務室から出ていった。

 ジークは、わずかに開いたカーテンの隙間から、ベッドに横たわるアンジェリカの姿を見た。もとより白い肌が、血の気を失い、よりいっそう白さを増していた。まるで人形のようで、まったく生気が感じられなかった。ジークの鼓動が不安でどんどん大きくなっていった。
 ──ラウルが大丈夫だと言っていた、大丈夫だ、大丈夫なんだ……。
 懸命に自分にそう言い聞かせた。そうしなければ自分を保つことができなかった。

 長い沈黙が続いた。
 ジークには、外のざわめきが別世界のことのように聞こえていた。
「どうしてこんなことに……」
 ふいに沈黙が破られた。サイファは胸の奥から絞り出すように言った。やり場のないくやしさと悲しさをその言葉に込めた。
 ジークは現実に引き戻された。そして、ある考えが彼を支配し始めた。こぶしに力を入れ、固く握りしめる。うつむいたその額に汗がにじんだ。
「俺のせい……、かも、しれない」
 こらえきれなくなって、途切れ途切れに言葉を吐いた。
「君のせいだとは思っていないよ。いつでもどこでも一緒というわけにはいかないだろう」
 カーテンごしに聞こえたサイファの声は、いたって冷静だった。しかし、反対にジークの感情は高ぶっていた。胃の中で何かが暴れまわるような気持ち悪さを感じ、少し前かがみになった。
「俺がセリカを怒らせたからだ。だから……」
「まさか! いくらなんでもそんなムチャクチャなこと……」
 リックは言葉を詰まらせた。「ありえない」と断定することができなかった。ただ「あってほしくない」と願うだけで精一杯だった。

「どうやらおまえのせいではないようだ」
 ジークは驚いて顔を上げた。いつの間にかラウルが戻ってきていた。
 シャッと軽い音を立ててカーテンが開いた。そこからサイファとレイチェルが姿を現した。
 サイファが何かを言いかけたが、ラウルがそれを遮った。ふたりにソファを勧め、自分自身も椅子に腰を下ろした。そして、腕を組み、静かに説明を始めた。
「状況から判断するとふたつのことがわかる。セリカがアンジェリカを刺したこと、それに抵抗するためにアンジェリカがとっさに魔導の力を暴発させたこと。このふたつはほぼ間違いないだろう」
 サイファは、食い入るようにラウルを凝視しながら、努めて冷静に尋ねた。
「状況というのは?」
「ひとつは、セリカがナイフを握っていたこと。そしてそのナイフが著しく黒く焦げていたこと。もうひとつは、アンジェリカの足場だけ残し、まわりの床がえぐれていたこと。アンジェリカ自身もナイフの傷以外は受けていない。最後に、セリカの損傷は体の前面のみだということ。それも主に腕だ」
 サイファは納得したように頷いた。
「でも、どうしてセリカさんは……」
 レイチェルは、今にも泣き出しそうな震える声でつぶやいた。ラウルはそれに答えるように、話を続けた。
「今しがた、彼女の家に連絡を入れたのだが、彼女の祖父の様子が普通ではなかった。連絡を受けても驚きもせず、まっさきにアンジェリカの生死を確認してきたのだ。そして無事だとわかると、明らかに落胆したような返事をしていた」
「じゃあ、セリカはおじいさんの命令で……?」
 信じられない気持ちを含みながら、リックはおそるおそる尋ねた。
「事態は、それよりももっと深刻かもしれない」
 ラウルは不吉な言葉を返した。
「今さっき、ざっと調べてみたのだが、彼女の祖父は催眠術が使えるらしいな。ふたりきりになったとき、何らかのアクションを起こすようにインプットするというのは常套手段だ」
 リックはその話を聞きながら、わずかに首をかしげた。
「もしそうだとして、セリカのおじいさんが、アンジェリカに何の恨みがあるんですか?」
 ラウルはまっすぐサイファを見た。ふたりの視線が絡み合う。サイファはその視線に何かを感じとった。
「話してくれ。彼らには、私たちのことはだいたい話してある。心配は無用だ」
 サイファに促され、ラウルは視線を落としてから口を開いた。
「セリカの父親は十年前に亡くなっている。アンジェリカが生まれた3日後だ」
「それって、まさか……」
 レイチェルは目を見開いて、ラウルを見た。そして、そのままの姿勢で硬直した。彼女の顔から徐々に血の気が引き、小さな唇が小刻みに震え始めた。
 サイファは、横にだらりと放り出された彼女の手を取り、自分の膝の上に乗せた。そしてその上に、自らの手を重ねた。彼女を落ち着かせたかったのと同時に、そうすることで彼自身も心を鎮めたかったのだ。
「まだ私の憶測でしかない。あとで彼女の祖父に直接聞いてみるが、そうだとしても素直に答えるとは思えないな」
 ラウルはやや前かがみになり、まっすぐにサイファを見た。そして、重い声でつけ加えた。
「長い一日になるかもしれない」
 サイファもまっすぐに視線を返し、表情を引き締め目で頷いた。それと同時に、膝に乗ったレイチェルの手に、微かな力が入るのを感じた。彼は、無言で彼女を抱き寄せ、その頭に頬を寄せた。
 ジークとリックは、三人の間に入り込む余地を見つけることができず、ただその場に立ちつくした。


24. 10年前の傷跡

 応急処置の後、セリカは別室に移された。アンジェリカと同じ部屋に置いておくのは危険だというラウルの判断だった。
 ジークは、セリカのことも心配ではあったが、やはりアンジェリカのそばを離れることはできなかった。リックとともに、医務室の隅で立ったまま彼女を見守っていた。近くに行きたい気持ちはあったが、彼女の家族に遠慮してした。

 コンコン──。
 医務室の扉をノックする弱い音が聞こえた。ラウルが扉を開けると、そこにはくたびれた白衣を身にまとった、年配の医者らしき人物が立っていた。小柄で白髪、背中もやや丸くなっている。医者にしては頼りなく見えるとジークは思った。
 ラウルはその男に、二、三の言葉をかけると、持っていたカルテを手渡した。男はカルテに目を通すと、小さく二度うなずいた。そして、ラウルに短く何かを言うと、その場を立ち去った。
 ラウルは静かに扉を閉めた。
「ああ見えても優秀な医者だ。セリカの方は彼に任せることにした」
 それでもジークとリックに安堵の表情はなかった。

 サイファはアンジェリカのベッド脇に座り、彼女をじっと見守っていた。レイチェルも彼と並んで座り、アンジェリカの手を優しく握っていた。心配そうに顔を曇らせ、祈るように右手を胸に当てている。

「サイファ」
 ラウルは後ろから呼びかけた。サイファは表情を引き締め、振り向いた。ラウルは腕を組み、目でこちらに来るよう合図をした。サイファはそれに応じ、大きな足どりでラウルへと向かった。レイチェルは、不安げにサイファの背中を目で追った。
 ラウルとサイファは互いに顔を近づけ、小声で言葉を交わした。その話の途中、サイファは何度か小さく頷いていた。そして、ふたりで連れ立って足早に出ていった。

「お役所仕事があるのよ。ごめんなさい」
 レイチェルはジークたちに説明した。ふたりに心配させまいとしてか、無理に笑顔を作っている。
「いえ……」
 ジークはそう返事をするだけで精一杯だった。彼女の健気な様子に、胸が詰まる思いだった。
 彼女のいう「お役所」とは、サイファの勤めている魔導省保安課のことだった。アカデミー内で起こったこととはいえ、これほど大きな事件を放置しておくわけにはいかないのだろう。サイファも責任ある立場として、また関係者として、顔を出さざるをえない状況であることは想像がついた。
 レイチェルは、アンジェリカの手を両手で包み込んだ。沈痛な面持ちで、血の気のない顔を見つめている。レイチェルの顔色もショックと疲れで、かなり白くなっている。ジークはレイチェルの方も心配になってきた。

 ふと気がついて、レイチェルはジークたちに振り返った。
「おふたりとも、もう帰ってもいいのよ。いろいろとありがとうございました」
 そう言って、丁寧に深々と頭を下げた。ジークはあわてた。
「いえ、あの、俺たち、ここにいたいんです」
「そうです。このまま帰るなんて出来ません!」
 リックも懸命に力を込めて言った。レイチェルの表情が柔らかく緩んだ。
「では、せめて座ってください」
 ふたりは促されるままに、アンジェリカのベッドの隣に腰を下ろした。
 近くで見るアンジェリカは、ますます人形のようだった。肌だけではなく、唇さえも色をなくしていた。顔も体も、微動すら感じられない。息をしているのかさえわからなかった。そして、透明な管につながった針が、彼女の左腕の内側に刺されたまま、テープで固定されていた。その部分は赤紫に変色し、やや腫れているように見えた。それがあまりにも痛々しくて、ジークは思わず目をそらした。そして、爪が食い込むくらいにこぶしを強く握りしめ、奥歯を噛みしめた。

 そのまま、どれくらいの時間が経っただろうか。その場にいた誰も口を開かなかった。時が止まったかのように続く沈黙。ときどき聞こえる衣擦れの音だけが、かろうじて三人を現実世界につなぎ止めていた。

 ガラガラガラ──。
 ゆっくりと入口の扉が開いた。
 ラウル、続いてサイファが入ってきた。サイファはレイチェルのそばまで来ると、片膝をつき、彼女と目線を合わせた。
「相手のご家族の方が見えたそうだ」
 静かに、しかしはっきりとした口調で言った。その目はまっすぐレイチェルを捉えていた。
 レイチェルは小さく頷いて立ち上がった。その張りつめた表情には、先ほどまでの弱々しさは感じられなかった。
「すまないが」
 レイチェルに見とれていたふたりに、サイファは重々しく声を掛けた。ふたりははっとしてサイファに振り向いた。
「私たちが戻るまで、アンジェリカについていてやってくれないか」
「はい! 任せてください!」
 リックは力を込めて返事をした。ジークは真剣な表情で、こくりと首を縦に振った。
「ありがとう」
 サイファはにっこりと笑いかけた。だが、すぐにけわしい表情に戻った。
「行くか」
 ラウルを見上げ、レイチェルの肩に手をまわした。三人は互いに顔を見合わせると、連れ立って医務室をあとにした。

 王宮の地下へと続く長い階段を下り、三人は大きく重厚な扉へと辿り着いた。ラウルはその中央に両手をあて、ゆっくりと押し開けた。その向こう側には薄明かりが灯っていた。
「娘は?!」
 セリカの母親と思われる女性が、ソファから勢いよく立ち上がった。
「まだ会わせることはできない」
 ラウルは静かに言った。
 部屋にいたもうひとりの人物——セリカの祖父は、座ったまま上目遣いにラウルを睨みつけた。そして、順に入ってきたサイファ、レイチェルへと視線を移していった。
 サイファとレイチェルは、セリカ側の家族に一礼すると、向かいのソファに腰を下ろした。セリカの母親もそれにつられて、崩れるように腰を下ろした。
「今回の事件は、セリカ本人の意思で起こしたものではないと、私は考えている」
 ラウルは、ソファに座っている老人を目だけで見下ろした。老人は、頭を斜めに持ち上げ、鋭い視線を返した。
「ウォーレン=グレイス。数少ない催眠術師のひとりだな」
「もう引退したがな」
 静かな言葉のやりとりの間、セリカの母親はただひとり、落ち着きのない表情を浮かべていた。訝しげな顔を、ラウル、そして義父のウォーレンへと向けた。
「おまえがセリカに催眠術をかけ、アンジェリカを襲わせた」
 ラウルはウォーレンを冷たく見下ろして言った。
「ふっ」
 ウォーレンは小さく鼻で笑った。
「言い掛かりも甚だしい」
「動機は十年前」
 ラウルはウォーレンの言葉をさえぎるように、声を大きくして続けた。
「息子のリカルド=グレイスをラグランジェ家へ刺客として差し向けた。目的は生後間もないアンジェリカ=ナール=ラグランジェ抹殺のためだ。しかし、目的を遂げる前に、レイチェル=エアリ=ラグランジェに見つかってしまい、彼女の逆襲を受けた。リカルドはなんとか家へ辿り着いたが、そのときの傷がもとで三日後に死亡」
 セリカの母親は、ラウルに顔を向けたまま凍りついた。その目は大きく見開かれ、膝の上にのせられた手は小刻みに震えていた。
「今回の事件は、十年前の復讐のために企てられたのだろう」
 ラウルはウォーレンをじっと見据えて言った。しかし、彼はどっしりと腰を下ろしたまま、まったく動揺した様子を見せない。
「息子は事故で死んだ。おまえが何を言っているのか、さっぱりわからんな」
「おまえが認めなければ、セリカが罰を受けることになるが」
「脅しか。だが、どう言われても、違うものは認めようがない。だからといって、あの子が自分の意思でやったとは限らんだろう。誰か、他の催眠術師に操られていたのかもしれん」
 ウォーレンがわずかに口の端を吊り上げたのを、ラウルは見逃さなかった。
「他の人間には動機がない」
「動機ならワシにもない。息子が死んだのは事故だ」

 ——ガタン!
 今まで黙って座っていたレイチェルが立ち上がり、ローテーブルの上に右ひざをのせた。
「私が、殺したのよ」
 冷たく虚ろな目でウォーレンを見下ろした。そして、今度は左ひざをのせた。そのままドレスを引きずりながら、彼の目の前まで進んでいく。
「あなたの息子さんを殺したのは、私です」
 そう言って、右手を自らの胸に当てた。口を真一文字に結ぶウォーレンに、覆いかぶさるように屈みこみ、顔を近づけた。
「レイチェル! もういい!」
 サイファはしばらく成り行きを見守っていたが、耐えかねて声を上げた。手を伸ばし、彼女を引き戻そうとする。しかし、その手をラウルが強く掴んで止めた。サイファはキッと彼を睨みつけた。ラウルは彼女を利用してウォーレンから真実を引き出そうとしている。そのことはわかっていた。だが、このままではレイチェルがどうなるかわからない。それでも、これしか方法がないとしたら……。サイファは唇を噛みしめた。そして、すぐにでも行動を起こせるよう構えると、彼女とウォーレンの一挙手一投足を凝視した。
「私が憎いのでしょう?」
 レイチェルは無表情のまま、さらに煽った。彼女の口から漏れた息が、ウォーレンの立派な口ひげを揺らした。
「娘を傷つけただけでは、満足なんて出来ないでしょう?」
 ウォーレンの肩が小さく揺れた。
「詳しく話して差し上げましょうか。あの日あの部屋で起こったことを」
 冷たい声と挑発するような視線が、ウォーレンの脳を凍らせた。瞬きすら忘れ、眼前のレイチェルをその瞳に映し続けた。
 ───パサッ。
 レイチェルの髪が、肩からはらりと落ち、ウォーレンの頬をかすめた。その感触が、彼を現実に引き戻した。同時に、心の留め金が弾け飛んだ。
 ウォーレンは顔を歪めると、勢いよく引いた右手に、白い光球を作った。間髪入れず、レイチェルに向けて放とうとする。その瞬間、横からの光が、彼を弾き飛ばし、壁に叩きつけた。その光はサイファとラウルが同時に放ったものだった。
 ウォーレンは小さくうめき声を上げると、その場に倒れ込んだ。レイチェルは、糸が切れたマリオネットのように、テーブルの上に崩れ落ちた。
「レイチェル!」
 サイファはテーブルに飛び乗り、彼女の上半身を抱き起こした。頬に手を当て、心配そうに覗き込む。レイチェルはぼんやりと天井を見つめていた。その瞳から一筋の涙が流れ落ちた。サイファは親指で彼女の目尻を拭った。そして、彼女を強く、優しく抱きしめた。

 ラウルはウォーレンへと歩み寄った。
「もう、言い逃れは出来ないな」
 ウォーレンはよろよろと体を起こし、ラウルを睨みつけた。ラウルは腕を組み、冷たい目で見下ろした。
「知っていると思うが、催眠術を使っての犯罪は重罪だ」
「……化け物め」
 ウォーレンがそう吐き捨てたのと同時に、重厚な扉がゆっくりと開いた。そこから三人の男が入ってきた。彼らはサイファに一礼すると、ウォーレンへと歩いていった。そのうちのふたりがウォーレンを両側から抱えて立ち上がらせると、もうひとりは正面から呪文を唱えた。指先から現れた白い光の糸が、ウォーレンの両手を縛り上げた。三人は、そのまま彼を取り囲み、連行していった。

 残されたセリカの母親は、凍りついた表情でウォーレンの後ろ姿を見送っていた。
「何も知らなかったのだな」
 ラウルの言葉に、彼女は眉根を寄せて頷いた。
「十年前のことは、事故でないとは思っていました。お義父さまが何かを隠していることも感じていました。ただ、いくら聞いても答えてはくれなかった……」
 言葉の最後がかすれた。彼女は涙をこらえ、肩を小刻みに震わせた。
「来い。セリカに会わせる」
 ラウルは開け放たれた扉へ足を進めた。彼女も立ち上がり、弱々しい足どりでその後に続いた。

 ラウルは追い越しぎわに、サイファの背中を軽く叩いた。


25. 新しい傷

「遅いよな」
 ジークが長い沈黙を破った。向かいのリックは、彼の表情を盗み見ると、すぐに目を伏せた。
「心配ないよ。ラウルもいるんだし」
 前向きな言葉とは裏腹に、その声は弱々しく説得力がなかった。
 ジークはアンジェリカの寝顔に目をやった。もう何度目だろうか。アンジェリカを見て、下を向いて——ずっとその繰り返しだった。彼はぼんやりと思った。彼女の顔をこんなにしっかり眺めたのは今日が初めてかもしれないと。
「このままずっと起きないなんてこと、ないよね」
 さっきよりもいっそう力のない声で、リックがつぶやいた。ジークはカッとしてその声に振り向いた。
「ラウルが言ったこと聞いてなかったのかよ。大丈夫だって言ってただろうが」
 腹の奥から低い声を絞り出し、怒りを抑えながら、その言葉を噛みしめた。眉間にしわを寄せると、うつむいたリックを睨みつける。
 リックは少し顔を上げると、不安げに眉をひそめた。
「そうじゃなくて……。前にサイファさんが言ってたこと。眠ったままなかなか起きなくなるって……」
 ジークは小さく息をのみ、動きを止めた。あのときの、息を詰まらせたサイファの表情が頭をよぎった。顔をこわばらせ下唇を噛むと、再びアンジェリカに目を向けた。

 ──ガガガッ。
 静寂の中、突如、濁った音が響き渡った。ジークのビクリとして振り向いた。それは、隣のリックが立てた音だった。彼は椅子から立ち上がり、ジークに笑いかけていた。
「何か食べるものを買ってくるよ。朝から何も食べてなかったよね」
 ジークは、そう言われて初めて自分の空腹感に気がついた。リックはカーテンをくぐろうとして動きを止めた。
「そういえばさ。言葉をかけるとか、手を握ってあげるとか、そういうことがいいらしいよ」
「は?」
 唐突なリックの言葉に驚き、ジークは振り返った。それと同時に、リックの手から落ちたカーテンが、ふたりの間を仕切った。揺れるクリーム色の布の向こうで扉の開閉する音がして、リックは医務室を出ていった。
 ジークは口を開けたまま呆然としていた。ふと我にかえり、ついさっきの記憶を反芻する。頭の中で、リックの言葉が再び流れた。
「……わけわかんねぇやつ」
 そうつぶやくと、背もたれに体を預けた。その動作の中、視界の端にアンジェリカが映った。彼は、自分の顔が熱くなるのを感じた。ジークは彼女の閉じられたまぶたを横目で見つめた。
「いつまでも寝てると、すぐに追い越すからな」
 小さな声でそう言うと、手の甲でアンジェリカの頬を優しく二回たたいた。彼女の頬は少し冷たかった。

 しばらくしてリックが戻ってきた。
「どう?」
 カーテンをくぐり椅子に座ると、買ってきたサンドイッチのひとつをジークに手渡した。
「いや、なんとも……」
 ジークはリックと目を合わせずに、サンドイッチを受け取った。そして袋を開けると、勢いよくかぶりついた。リックもそれに続いてサンドイッチを口にした。
 ふたりは無言で食べ続けた。

「パンくず、こぼしてる」
 微かに聞こえたかぼそい高音。ふたりはパンを口に入れたままで、すべての動きを止めた。そして、同時に声のした方へ振り向いた。
「アンジェリカ!! 目が覚めたか!! 大丈夫か!! 平気か!!」
 ジークは身を乗り出して、黒い瞳を確認しながら一気にまくしたてた。
「ちょっと、口から食べかけのものを飛ばさないでよ」
 声こそ弱かったが、彼女の口調はいつもと変わらなかった。
 リックは慌てて口の中のサンドイッチを流し込んだ。
「でも、ホント大丈夫? 痛む?」
 そう言って、少し覗き込むようにして、彼女の表情を窺った。
「私、刺されたんだっけ」
 アンジェリカは抑揚のない声でそう言うと、ベッドに横たわったまま頭だけを動かした。ジーク、リック、点滴、そしてベッドまわりをゆっくりと見渡していく。
「ラウルの医務室ね、ここ。……ラウルは?」
 ジークは答えに詰まり、難しい顔をした。だが、リックはすぐに明るい声で答えた。
「ちょっと前までいたんだけど、何か用があったみたいで出ていったんだ。ご両親も一緒だよ。ご両親、ずっと付き添ってくれてたよ」
「リックも、ジークも、ずっといてくれてたんだ」
 アンジェリカは天井をじっと見ながら、無表情でつぶやくように言った。
「……ありがとう」
 彼女はリック、ジークへと、順番に目を移した。そして、微かに笑顔を見せた。
 ジークはほっとすると同時に、胸が締めつけられるように感じた。

 ガラガラガラ──。
 扉が開く音。続いて複数の足音が聞こえた。
 リックは椅子から飛び上がるように立ち上がると、カーテンの切れ目から飛び出した。
「アンジェリカが目を覚ましました!」
 リックのその声のあと、小走りに駆ける音が近づいてきた。そして、シャッと軽い音とともに、カーテンが勢いよく開いた。
 そこに姿を現したのは、サイファとレイチェルだった。ふたりの表情には、焦りと不安が入り混じっていた。しかし、アンジェリカの目が開いているのを確認すると、安堵の息をもらし、そこでようやく柔らかい表情を見せた。
 アンジェリカは両親と目を合わせると、少しためらうように笑った。
「よかっ……た……」
 レイチェルは言葉を詰まらせ、瞳を潤ませた。
 ジークは椅子から立ち上がり席を譲った。サイファとレイチェルは、両側からアンジェリカの枕元に進むと、腰を下ろし、それぞれ彼女の手を取った。
「ごめんね」
 レイチェルは、アンジェリカの手を両手で強く包み、それを額につけると目を閉じた。その姿は祈っているようにも見えた。サイファはアンジェリカの前髪をそっとかき上げ、にっこりと微笑んだ。
「彼らを送ってくるよ」
 柔らかい声でそう言って立ち上がった。アンジェリカもにっこり微笑み、こくりと小さく頷いた。
「すっかり遅くなってすまない。門のあたりまで送るよ」
 サイファはジークたちに振り返って言った。ふたりは無言で頷いた。
「またあしたね」
 リックは軽く右手を上げ、アンジェリカに明るい声を投げかけた。アンジェリカは、レイチェルの助けを借りて、上半身をわずかに起こした。そして、にっこりと右手を上げて応えた。ジークも少し照れくさそうに視線を外しつつも、同じく右手を上げた。

「やはり、セリカの祖父が仕組んだことだったよ」
 暗く静まり返った廊下に足音を響かせながら、サイファが声をひそめて言った。
「セリカはどうなるんですか?」
 リックもまわりを気にしながら、小声で尋ねた。
「彼女も被害者だ。罪に問われることはないだろう」
 それを聞いたふたりは、同時に軽く息をもらし表情を緩めた。
「君たちには本当に申しわけないと思っている。我々のことに巻き込んでしまった」
「巻き込まれたなんて、思っていません」
 リックは即座に切り返した。いつになく、強くはっきりとした口調だった。ジークは少し驚きながらも、それに同意して頷いた。
「アンジェリカは大切な友人です」
 リックはそうつけ加えた。きっぱりと言い放たれたその言葉に、ジークはただ頷くことしか出来なかった。彼はそんな自分を少し情けなく思った。
「君たちのような友人がいて、本当に良かった」
 サイファはふたりに微笑んだ。

 三人は王宮からアカデミーを通り、外へと出た。ひんやりした風が、頬を撫で、髪を揺らした。
 ジャッ、ジャッ——。
 校庭の薄い砂の上を、音を立てて歩いていく。門のところまで来ると、サイファは足を止め、ふたりに振り向いた。
「申しわけないが、私は戻らなければならない。ここで失礼するよ」
 サイファは笑顔を作った。そして、少し真剣な顔になり、ふたりをじっと見つめた。ジークも、リックも、その瞳の強さに気おされ、一言も発することが出来なかった。
「これから、私はアンジェリカに事件の顛末を伝えなければならない」
 重い言葉だった。
「あした、また来てもらえるか?」
「……はい!」
 少しの間のあと、ふたりは同時に返事をした。サイファはわずかに口元を緩め、目を細めた。
「ありがとう」
 そして、ジークとリックを両脇から抱きしめた。

 魔導省の塔。その最上階の一室にあるサイファの部屋。ラウルは明かりもつけずに、窓際に立ち外を眺めていた。
 ガチャ──。
 扉が開き、そこからサイファが無言で歩み入ってきた。奥まで進むと椅子に座り、背もたれに身を預けた。椅子の軋む音が、静まり返った部屋に響いた。
「すまなかったな。席を外してもらって」
 サイファは、ラウルに背を向けたまま静かに言った。ラウルも振り返ることなく口を開いた。
「アンジェリカの様子はどうだった」
「泣くでもなく、動揺するでもなく、ただ無表情で聞いていたよ。……だからこそ、怖いよ」
 サイファは目を伏せた。そして、軽く息を吐くと、再び視線を上げた。
「レイチェルはどうだ」
 ラウルは腕を組み、外を眺めながら、低い声で言った。サイファは上を向いたまま目を閉じた。
「アンジェリカの前では気丈に振る舞っていた。だが、自分を責めているよ。すべては自分のせいだと思っているようだ」
 そして、ゆっくりと目を開くと眉根を寄せた。
「十年前、か……」
 そうつぶやき、遠くを見やった。
「だが、まだすべては明らかになってはいない」
 ラウルのその言葉に、サイファは息を止めた。ラウルは淡々と続けた。
「あれもウォーレンが催眠術を使い、息子を仕向けたとも考えられる」
「……そうだな。そして、ウォーレンにそれを命じたのはラグランジェ家の人間だろう」
 そう言い終わるや否や、サイファは椅子を半回転させた。そして、ラウルの大きな背中に、鋭い視線を投げつけた。
「今さら蒸し返す気か? レイチェルを傷つけるだけだ」
「そのつもりはない。安心しろ」
 ラウルはサイファに振り返った。窓枠にもたれかかり、まっすぐに彼の目を見つめた。サイファも負けじと強く見つめ返した。いや、見つめ返すというよりは、睨んでいるという方が近かった。
「私は時折、おまえのことがたまらなく憎くなる」
 サイファは低い声で言った。その顔には複雑な表情を浮かべている。しかし、ラウルは表情ひとつ変えなかった。
「そうか」
 その一言だけ口にすると、扉へと足を進めた。そして、ドアノブに手をかけたところで動きを止めた。
「アンジェリカの傷だが」
 ラウルは背を向けたまま、静かに口を切った。サイファはアームレストをぐっと掴んだ。けわしい顔で次の言葉を待つ。
「多少、跡が残る」
 ラウルは淡々と言った。しばらくそのままで待ったが、サイファは何の反応も返さなかった。ただ、沈黙が続くだけだった。ラウルはちらりと振り返り、椅子に座る彼の横顔を一瞥した。そして、扉を開けると部屋を出ていった。
 サイファは奥歯を食いしばり、右足で床を蹴った。


26. 後味の悪い別れ

 あれから 十日が経った。

 アンジェリカはまだアカデミーへは来ていない。ジークとリックは毎日アカデミー帰りに、そしてアカデミーのない日もわざわざ出かけ、彼女の家へ様子を窺いに行っていた。
「今日も来てくれたんだ」
 淡々とした声。アンジェリカは上半身をベッドから起こした。そして、薄いレースのカーテン越しに、ふたりに微かな笑顔を見せた。
「おまえが来ないからだろ」
 ジークはぶっきらぼうにそう言うと、乱暴にカーテンを捲し上げた。仏頂面で中に入り、ベッドの隣の椅子にどっかりと腰を下ろす。その隣に、リックも静かに座った。
 初めは何もかもに面くらった。だが、無駄に広い部屋も、天蓋つきのベッドも、十日もすればすっかり見なれる。もうふたりとも、そわそわしたり緊張したりはしていなかった。
「おまえ、いくつ持ってるんだ。パジャマ」
 ジークはアンジェリカをじっと見ていたかと思うと、唐突にそんな質問を投げかけた。
「うん。毎日違うもの着てるよね」
 リックも興味ありげに少し身を乗り出した。
「さあ。もともとはそんなになかったはずなんだけど。最近は毎日新しいものなの」
 アンジェリカは顔を下に向け、自分が身につけているものをじっと見つめた。今日はフリルのついたピンクのネグリジェだった。
「気を遣ってくれているのかしら」
 ふと寂しそうに笑い、小さな声でつぶやいた。
「あのなあ。そういうのは気を遣ってるとは言わねぇんだよ」
 ジークは少し眉根を寄せて、強い調子で言った。アンジェリカは目を丸くしてジークに顔を向けた。ジークは真剣な、少し怒ったような顔で、まっすぐにアンジェリカを見つめていた。
「おまえの方が気を遣ってるんじゃないのか」
「そうそう。素直にありがとうって思えばいいんだよ。ご両親だってアンジェリカに喜んでほしいんだから、ね」
 リックは横からにっこりと笑いかけた。
 アンジェリカは少し驚いたような顔で聞いていたが、やがて恥ずかしそうにはにかんだ。

 アンジェリカはアカデミーの出来事やラウルの様子を聞きたがった。リックは彼女の知りたいことをひとつひとつ丁寧に話した。ジークはときどき割って入るものの、ほとんど聞いているだけだった。こういう状況説明を伴う話をすることは苦手なのだ。

「……まだ、来られねぇのか」
 ふたりの会話の切れ目に、ジークは少しためらいがちに口を開いた。リックは何か言いたげな顔で眉をひそめると、ジークの脇腹をひじでつついた。そして、今そんなことを言わなくても、と表情と口の動きで合図を送った。しかし、ジークはアンジェリカを見つめたまま、リックの腕をこっそり払いのけた。そんなふたりのやりとりを見て、アンジェリカはこらえきれずに吹き出した。
「来週から行っていいって、お許しが出たわ」
 リックは当のアンジェリカ以上に、嬉しそうに顔を輝かせた。
「良かった! アンジェリカがいないと、ジークがつまらなそうなんだよね」
「おい! 俺のことを言うなよ!」
 ジークは慌てふためいてがなり立てた。次第に彼の耳は赤くなっていった。しかし、否定はしなかった。

「そういえば、試験の結果が出たんじゃない? どうだったの?」
 アンジェリカは、思い出したようにふたりに尋ねた。
 ジークは横目でちらりと彼女を見たが、すぐに視線をそらした。
「おまえには関係ないだろ」
 その表情にわずかに陰を落とし、低い声で言った。
「なによそれ」
 アンジェリカは不愉快さをあらわにして口をとがらせた。リックはジークに振り向き、驚いて大きな声を上げた。
「なんで?! 一番だったのに!」
「不戦勝なんて意味ねぇんだよ!」
 ジークは間髪入れずに切り返した。
「不戦勝?」
 アンジェリカがきょとんとしながら尋ねた。一方のリックは、にっこりと彼に笑いかけていた。
 ジークはふたりの視線から逃れるように下を向き、奥歯を噛みしめた。そして、再び耳が熱くなっていくのを感じた。
「ねぇ、不戦勝って?」
 アンジェリカは少し首をかしげた。
「あ、そうだ。今日のノートのコピー」
 ジークはわざとらしく話題をそらすと、リックの太ももを手の甲で軽く二度たたいた。リックは促されるまま、鞄の中を探し始めた。
「ちょっとごまかさないでよ」
「はい、これ」
 ジークに食って掛かろうとしたアンジェリカに、リックは紙の束を手渡した。
「……ありがとう」
 アンジェリカは小さな声でお礼を言った。話の腰を折られ、勢いを削がれてしまった。ごまかされたような気もしたが、それ以上ジークを追求することをやめた。
「アンジェリカなら、これくらいの遅れなんてすぐに取り戻せるよね。頑張って! 本当、嬉しいよ。アンジェリカだけでも戻ってきてくれるんだから」
 リックはにっこりと笑った。
「だけでも?」
 ジークとアンジェリカが同時に同じ言葉を発した。
「それってどういう意味だよ」
 ジークは眉をひそめて尋ねた。
「ああ、セリカはやめちゃうんだよね」
 リックはあっさりと言った。

 ジークもアンジェリカも声が出なかった。

 ジークはごくりと唾を飲み込むと、ようやく口を開いた。
「やめるって……。アカデミーをか?」
「そう」
「バカかおまえ! そんな大事なことは早く言えっつーの!!」
「あ、ごめん」
 ジークのあまりの勢いに気おされ、リックは目をぱちくりさせ体を後ろに引いた。
「くそっ」
 ジークは小さく舌打ちすると、勢いよく立ち上がり、走って部屋を出ていった。アンジェリカとリックは呆然と彼の後ろ姿を見送った。

「リック、本当なの?」
 アンジェリカの声には、驚きと疑いの色が含まれていた。
「うん、本人から聞いたから。もう決意を固めてるみたいだったよ」
「そう……。ジークは止めに行ったのよね」
「多分ね」
 アンジェリカは目を伏せた。そしてゆっくりと長い瞬きをした。
「止められるのかしら」
「アンジェリカはどっちがいいの?」
「やめるべきじゃないと思うわ。でも……」
 アンジェリカはベッドの上で膝を抱えた。そして、無表情で淡々と続けた。
「やめるって聞いて、私は少しほっとした」
 感情を押し込めたアンジェリカの横顔を見ながら、リックは穏やかに微笑んだ。
「自分を責めることはないよ」

 ジークはアンジェリカの家を飛び出し、全速力でアカデミーの前までやってきた。
「くそ、まだ遠いぜ」
 息をきらせながら、アカデミーの奥に目をやった。セリカが入院しているのは、アカデミーを抜けた王宮側の一室だ。ジークは深呼吸をして息を整えると、再び走り出した。
 薄暗く長い廊下の遠くに、ふたつの人影が表れた。そのうちのひとつはセリカだった。ジークは彼女の少し手前で足を止めた。肩を大きく上下させる彼を見て、セリカは目を丸くした。
「どうしたの? 恐い顔をして」
 彼女は自分の胸元に手をやった。その袖口からは白い包帯がのぞいた。
「アカデミーをやめるって、本当か?」
 ジークはまっすぐセリカを見据えた。セリカもまっすぐに視線を返した。
「お母さん、先に行って。門のところで待ってて」
 彼女はジークの方を向いたまま、隣の母親に言った。母親は少し不安げにセリカを見上げたが、彼女の言う通りにその場を立ち去った。
 足音が十分に小さくなったのを確認すると、セリカは大きく深呼吸した。
「今日で退学することにしたわ」
 五歩先のジークに届かせるように、はっきりとした声で答えた。そして、にっこりと笑って見せた。
「逃げんのかよ。四大結界師になりたいっていう夢はどうしたんだよ」
 怒りを含ませた低い声。ジークは彼女を睨みつけた。しかし、セリカは笑顔を崩さなかった。
「そうね。もう逃げることにしたの。私の夢なんて、その程度のものだったってことね」
「…………」
 ジークが返す言葉に詰まっていると、セリカがくすくすと笑い出した。彼は呆気にとられた。
「ごめんなさい。あなたが引き止めに来てくれるなんて思わなかったから。嬉しくてつい……」
 セリカは笑いながら、目尻を濡らしていた。ジークは彼女から目をそらした。
「俺はライバルが減ってくれてありがたいけどな」
 セリカは精一杯の笑顔を見せた。
「良かった。最後にあなたの役に立てて」
 ジークは下唇を噛んでうつむいた。
「やめんなよ。後味悪いだろ」
「ごめんなさい。もう決めたことなのよ」
 セリカは少し真面目な顔になり、それから寂しそうに笑った。
「今度どこかでばったり会ったら声かけてよね」
 ジークは返事も出来ず、ただうつむいたままだった。
「それじゃ」
 セリカは表情を堅くすると、一歩一歩、踏みしめるように歩き出した。ひとけのない廊下に、彼女の足音だけが響く。ジークの左手とセリカの左手が、かすめるぎりぎりですれ違った。触れてはいなかったが、ジークはその手の甲に確実に彼女を感じ取った。次第に遠のく足音を聞きながら、言葉にならないもやもやしたものが募っていった。
「おい!」
 こらえきれなくなったジークは、自分でもわけのわからないまま、ありったけの声を張り上げセリカを呼び止めた。そして、勢いをつけ振り返った。
 セリカは歩みを止めた。右足を踏み出したまま、固まったように動かない。
 ジークは彼女を呼び止めておきながら、次の言葉が出てこなかった。

 長い、長い沈黙が流れる。時間が止まったように、ふたりとも微動だにしない。

「あ……」
 沈黙を破ったのは、ジークのかすれた声だった。
「アンジェリカに、会っていかねぇのかよ」
 冷たい廊下に精一杯の声が響いた。セリカは目を閉じ、まぶたを震わせた。
「会えない……。会えるわけがない!」
 背中を向けたままで叫び、走り出した。止まることなく廊下の角を曲がると、そのまま見えなくなった。足音も次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 ジークは薄暗い廊下にひとり残され、後味の悪さを噛みしめていた。


27. 狂宴

 アンジェリカが再びアカデミーへ行くようになって数日が過ぎた。以前と変わらず、ジークと言い合ってみたり、三人で笑ってみたり、そんな日々を過ごしていた。ただ、三人とも、なんとなくセリカの話題だけは避けていた。

「ったくラウルのやつ、あれで教えてるつもりか?」
 アカデミーから門に向かいながら、ジークは大声で不満をわめき散らした。並んで歩いていたリックとアンジェリカは、顔を見合わせて苦笑いをした。
 校庭の中ほどまで来たところで、ジークは怪訝な顔を見せた。ふいに後ろを振り返る。だが、近くには誰もいない。
「何?」
 アンジェリカもつられて後ろを見た。
「いや、アイツら、誰を見てんのかと思ってよ。どうもこっちを見ているような気がするんだけど、気のせいだよな」
 ジークは門の方に目を向けて言った。そこには男が三人立っていた。いずれも、鮮やかな金髪だった。中央の少年は、ジークと同じくらいの歳だろうか。残りのふたりはそれよりやや幼く見える。中央のリーダーらしき少年に、付き従うように立っていた。
 アンジェリカは彼らを見ると顔をこわばらせた。

「お久しぶりです、お嬢さま」
 前に立っていた少年が、含みのある微笑みを浮かべた。
「何しに来たのよ」
 アンジェリカは彼らと目を合わそうとせず、突き放すように言った。
「そんなつれない返事はないんじゃないですか。明日は楽しみにしてますよ」
 少年は、アンジェリカの正面に回り込み、腰を屈めて覗き込んだ。アンジェリカの目の前で、彼の柔らかい金髪が風になびいた。彼女はさらに顔をそむけた。
「まさかとは思いますが、アカデミーを理由に出てこない、なんてことはないですよね。ゆっくり話をする機会なんて、こんなとき以外ありませんから」
 優しい口調とは裏腹に、その表情には意味ありげな下卑た笑いが浮かんでいた。
「それでは明日、会いましょう」
 彼はそう言うと、隣のジークに振り向いた。あごをしゃくり見下すような視線を向ける。ジークがムッとすると、彼は片方の口の端を上げにやりと笑った。そして、ふたりの少年を従え、その場を去っていった。

 ジークは激しい嫌悪感と苛立ちを感じた。腕を組み、眉をひそめる。
「なんだあいつら。知り合いか?」
 小さくなった三人の後ろ姿を睨みつけながら、アンジェリカに尋ねた。
「親戚よ。ラグランジェ家の分家の人。私の婚約者になる予定」
「なにっ!!」
「……だった人。お爺さまが勝手に話を進めてたらしいんだけど、今はその話もなくなったから」
 アンジェリカは淡々と話した。ジークは少し恨めしそうに彼女を睨んだ。
「おまえ、あんまり驚かせるなよ」
「え?」
「いや、なんでもない」
 ジークは噴きだした額の汗を拭おうと手を上げかけた。だが、ふいに手を止め、静かに下ろした。

「明日は何があるの?」
 リックはアンジェリカの横顔を見つめながら、心配そうに尋ねた。
「年に一度のラグランジェ家の集まり」
「……それ、行かない方がいいんじゃねえのか?」
 ジークはサイファの話を思い出していた。アンジェリカはショックを受けると眠ったまま目を覚まさなくなる、彼はそう言っていた。親戚たちに蔑まれている彼女た。そんな集まりに行けば、きっとまた酷いことを言われるに違いない。そうすれば、また——。
「どうして? 私は出るわよ」
 アンジェリカは事も無げに言った。ジークはむっとした表情をアンジェリカに向けた。
「おまえ、本当は弱いくせにどうしてそう強がるんだよ! そのせいでどれだけみんなが心配してるかわかってんのか?!」
 今度はアンジェリカが怒りをあらわにした。眉を吊り上げ、ジークに詰め寄る。
「なによそれ。弱いってどういうこと? どうしてジークにそんなことが言えるの?!」
 ジークはサイファから聞いたとは言い出せず、ただ押し黙るしかなかった。

「じゃあ、なんかあったらこの言葉を思い出せ」
 しばしの沈黙のあと、ジークは唐突に切り出した。そして、不思議そうに見上げるアンジェリカの鼻先に、人差し指をビシッと突き当てた。
「勝ち逃げは許さねぇ!」
「……はぁ?」
 アンジェリカは一瞬、目をぱちくりさせて驚いたが、そのあとしだいに怪訝な表情に変わっていった。リックは少し呆れてため息をついた。
「ジーク、もっと気の利いた言葉とか、ないの?」
「うるせえな! なら自分が言えばいいだろう」
 アンジェリカはふたりの言い合いを聞きながら、小さく首を傾げた。

 その夜、アンジェリカは早めにベッドに入った。
「アンジェリカ、何度も言ったけど、今年は学校に行っているという理由もあるし、無理に出なくてもいいのよ」
 レイチェルはベッドサイドに座り、布団を掛け直しながら優しく言った。しかし、アンジェリカはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、出るわ」
 レイチェルはそんなアンジェリカを見て、つらそうに少しだけ笑い、彼女の前髪を掻きあげた。
「私たちのことなら気にしなくていいのよ」
 アンジェリカは再び首を振った。そして、まっすぐレイチェルを見つめた。
「そうじゃないの。私は逃げたくないだけ」
 レイチェルはもう何を言っても無駄だと悟った。
「それじゃ、明日のためにゆっくり休んで」
 精一杯の笑顔でアンジェリカの頬を撫でると、ゆっくりと立ち上がり、明かりを消して部屋をあとにした。

 翌日。ラグランジェ家は朝から準備でバタバタしていた。
 料理などはほとんど雇いの者が行っていたが、それでもサイファとレイチェルは指示を出さなければならなかったし、自分たちの身支度もしなければならなかった。
 夕方になり、次々とゲストが訪れ始めた。みなラグランジェ家の一族である。やはり、アンジェリカに対する態度は一様に冷たかった。あからさまに侮蔑の態度を向ける者、冷ややかな眼差しを向ける者、視界に入れようともしない者……。
 ——こんなこと、もう慣れっこだわ。
 アンジェリカは何度も自分にそう言い聞かせた。そして、次第に感情の扉を閉ざしていった。

 宴が始まると、ホール内は宝石箱のようにきらめいた。色とりどりのドレス、胸元や指で光を放つダイヤモンド、そしてそのダイヤモンドさえくすませるほどの鮮やかな金の髪。それらがホール中を舞い、さまざまな光の乱反射を作り出していた。
 そこかしこで談笑が聞こえる中、アンジェリカは刺すような視線と中傷の言葉を避け、隅でひっそりと立っていた。今の彼女にとって、そこがいちばん落ち着ける場所だった。オレンジジュースの入ったグラスを両手で握りしめ、ただひたすら時が過ぎるのを待った。

「私はおまえたちが不憫で仕方がない。十年もの間、こんな……」
「いくらお父さまでも、アンジェリカの前でそのようなことを口にしたら許さないわよ」
 レイチェルは、サイファを交えて自分の父親と話をしていた。会話の内容は自然とアンジェリカのことになっていた。
「アンジェリカもそろそろ 11になる。いいかげんに決めたらどうかね、許婚を」
 サイファは少し困ったように肩をすくめた。
「その話は無駄だとわかっているでしょう」
「君らも強情だな」
 笑顔をたたえる娘夫婦を見て、半ば諦めるようにため息をついた。
「あの子の意思を尊重してやるのが私たちの教育方針です。あの子はいずれ自分で選びますよ」
 サイファとレイチェルは目を見合わせてくすりと笑った。
「それならどうだ。ふたりともまだ若いんだ。もうひとりくらい……」
「お父さま、この場にふさわしくない話題ですわ」
 レイチェルは軽く怒ったような表情を作り、父親をたしなめた。サイファはカクテルを一口流し込んだ。そして、微笑みを浮かべながら、きっぱりとした口調で言った。
「それはアンジェリカを傷つけることになります。私にそのつもりはありません」
 レイチェルは手にしていたカクテルに視線を落とした。微かに揺れる表面を見つめながら小さく頷く。口元に浮かべた笑顔は、どこか寂しげに見えた。

 レイチェルは彼女の母親に呼ばれ、ホールをあとにした。残されたサイファはガラスの扉を開け、義父をバルコニーへ誘った。外はもうすっかり暗くなっていた。生ぬるい風が頬を撫で、髪をなびかせた。
「伝統あるラグランジェ家をここで途絶えさせる気か」
 娘の前では見せなかった厳格な表情で、義父は話の続きを切り出した。しかし、サイファはその雰囲気に飲まれることなく、柔らかい笑顔で返した。
「悪い風習や形だけにしがみつくくらいなら、それも悪くないと思っています」
 義父は柵に背を向け、そこに体重を預けた。そして、空を見上げて目を閉じ、ゆっくり鼻から息を吐いた。
「君はもっと分別のある男だと思っていたよ」
 サイファは柵に両ひじを乗せ、目を細めて遠くを見やった。
「私はただ、私たちが幸せになる方法を選択しているだけです」
 義父は無言でうつむいた。サイファは真剣な顔を彼に向け、さらに淡々と続けた。
「あなたは娘の幸せを望まない父親ではないはずです。ただ、あなたにも立場というものがある。もしかするとあなたが一番おつらいのかもしれません」
「なんの話だ」
 義父は唸るような低い声でそう言うと、横目でサイファを刺すように睨んだ。しかし、彼はその視線を軽く受け流し、穏やかな笑顔を浮かべた。
「心当たりがなければ聞き流してください」
 義父は何か言いたげな表情を見せたが、こらえるように顔をそむけた。

「さすがに目立つな、黒づくめは」
 その声に反応し、アンジェリカは顔を上げた。少し離れたところに立っていたのは、昨日の三人組だった。
「おっとそれ以上寄るなよ。こっちまで呪いがうつってしまうからな」
 三人とも、にやにやと意地悪く笑っていた。アンジェリカは彼らを一瞥すると、黙ったまま再びうつむいた。
「おまえの周りでは次々と事件が起こるな。それが呪われてる何よりの証拠だろう。おまえ自身もそろそろ気がついてるんじゃないのか。だからそんな喪服みたいな黒い服を選んでるんだろう」
 近くにいた大人たちには、そのセリフは耳に届いていた。だが、誰も止めるものはいなかった。大半は聞こえない振りをしていた。そして、残りは下卑た好奇のまなざしでその様子を見ていた。
「これは喪服じゃない。痛みを忘れないためよ」
 アンジェリカは、静かに、ささやかに反論をした。
「恨みがましいお嬢さまだな。アカデミーに入ったからっていい気になるなよ。あんなものコネに決まってるだろう。そもそもアカデミーってやつもたいしたことないのかもな」
 アンジェリカの反論が、少年をさらに饒舌にした。離れたまま上半身をかがめ、覗き込むように顔を突き出した。
「昨日いっしょにいたお友達も冴えないヤツらだったよな。まあ、おまえのような穢れたヤツには、ああいう低俗な輩が似合っているがな」
 アンジェリカは目を閉じ、ひたすら耐えていた。彼女のまぶたは細かく震え、身体の中で熱いものが暴れ始めていた。
 少年は調子に乗り、次第に音量を上げていった。
「なんとか言ったらどうだ。おまえみたいな穢れた血は、ラグランジェ家にいる資格はないんだよ。みんな言ってるさ。おまえが呪われているのは……」
 ——ガラガラガラガシャン! ゴン!!
 彼の頭上から銀食器が降り注いだ。そして、最後に大きな銀製のプレートに頭を打たれ、膝から崩れた。ぬめりのある黄色いかけらとべとついた液体が彼を伝った。それはプリンだった。隣のふたりは驚いて、後ずさりした。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
 あたりが静まり返ったところに、レイチェルの声が響いた。その声は少し弾んでいるようにも聞こえた。
「あなたわざとやったわね!」
 色白で痩せた年配の女性が、レイチェルに近づきながらヒステリックに叫んだ。その女性は少年の母親だった。
 しかし、レイチェルが臆することはなかった。
「いいえ、手が滑っただけですわ」
 笑顔のままで、きっぱりと言いきった。あまりに堂々としていたので、逆に少年の母親の方が怯んだ。
 レイチェルはしゃがんで膝をつくと、ハンカチを取り出し、彼の顔をそっと拭った。薄い布を通して、彼女の細く柔らかい手の感触が伝わってきた。彼の鼓動はドクンと大きく打った。レイチェルはさらに顔を近づけ、彼を下から覗き込んだ。彼の鼓動はもっと大きく早く、心臓が破れんばかりに打ち始めた。顔が上気していく。彼女に目を向けることすら出来ない。
 レイチェルはにっこりと微笑み掛け、穏やかに言った。
「熱々のシチューでなくて、本当に良かったわね」
 少年は背筋に氷水を流し込まれたように、体の芯から震えが走った。レイチェルはすっと立ち上がると、少年に手を差し出した。
「替えの服をお貸しします。どうしたの? さあ行きましょう」
「触るなっ!」
 少年はレイチェルの手を払いのけ、よろけながら立ち上がると扉の方へ駆け出した。熱湯と氷水を同時に浴びせられたように感覚が麻痺していた。体中に鳥肌を立てながら、顔からは汗を滴らせていた。
 取り残されたふたりの少年も慌てて彼を追って走り出した。

 レイチェルはアンジェリカにこっそりとウインクした。

「まったく、品のないこと。子が子なら親も親ですわ。親からして穢れているようね」
 少年の母親はこめかみに青筋を立て、早口でまくしたてた。しかし、レイチェルは涼しい顔でまったく気にも留めていない。彼女はそれがなおのこと気にくわなかった。
「私の娘を悪く言わんでくれるか」
 背後から低い声が聞こえた。彼女は口をへの字に折り曲げ、肩ごしにその男を睨んだ。
「でしたら、もっときちんと教育なさったらどうです」
「おまえの子供の方がよっぽど品がないと思うがな。幼な子をいじめて楽しんでいるようでは将来が思いやられる」
「それは……」
 彼女は言葉を詰まらせた。そして、思いきり顔をしかめると、身を翻しその場をあとにした。

「ありがとう、お父さま」
 レイチェルは父親に近づきながら、にっこりと微笑んだ。
「おまえには私の助けなど必要なかっただろうがな」
 そう言い無愛想に娘を一瞥すると、彼女に背を向けた。彼女は父のその大きな背中に額をつけた。
「お父さまが庇ってくださったことが、何より嬉しいわ」
 レイチェルは囁くように言った。彼は背中に熱い吐息を感じた。ふいに、振り返って娘の頬を両手で包み込みたい衝動に駆られた。しかし、彼は前を向いたまま微動だにしなかった。
「おまえに触発されたのかもしれん」
 彼はその言葉を残し、再び人の群れへと消えていった。

 アンジェリカは息苦しさに耐えかねてホールの外へ出た。中に比べると幾分ひんやりとしていて、ほてりを冷ますにはちょうど良い。しばらくそこで休憩をとったらまた戻るつもりでいた。しかし——。
「おい、逃げるのか?」
 いちばん聞きたくなかった声が、耳を貫いた。アンジェリカはゆっくりと声のした方へ顔を向けた。
「プリンまみれですごんだって迫力ないわよ」
 濡れタオルを手にプリンのかけらと格闘していた少年に、冷ややかな視線を浴びせた。彼の目に、怒りの炎が冷たく燃えた。
「ちょっとこっちへ来い」
 低い声でそう言うと、顎をしゃくった。しかし、アンジェリカは冷たく見ているだけで、動こうとはしなかった。
「近づいたら呪いがうつるんじゃなかったの?」
 少年は口の端をわずかに上げた。
「その減らず口も今にきけなくしてやるさ」
 少し楽しそうな色を含ませそう言うと、隣のふたりに顎をしゃくり、横柄に指示を出した。ふたりは小走りでアンジェリカの両隣まで来ると、彼女の上腕をつかみ、少年の前まで引きずってきた。
 アンジェリカは感情のない瞳で彼を見上げた。
 少年は彼女の首に手をかけると、そのまま壁に叩きつけた。アンジェリカは後頭部を殴打した痛みと、喉を押さえつけられた苦しさに、思いきり顔をゆがめた。
 ——ビリビリビリッ。
 耳障りな音が耳をつんざいた。少年はアンジェリカの左の袖を引きちぎっていた。そして、その袖を彼女の前に掲げると、見せつけるように彼女の眼前で手を放して落とした。
「兄上、ちょっと趣味が悪いんじゃない?」
 少年に付き従っていた弟のひとりが、驚いて引きぎみに言った。
「こんなガキに興味はないさ。ただちょっとおしおきをするだけだ」
 ニヤリと不敵な笑みを浮かべそう言うと、そのままの表情でアンジェリカに向き直った。
「安心しろ、お嬢さま。俺もバカじゃない。法律に引っかからない程度……いや、揉み消せる程度のことまでしかやらない」
 アンジェリカは怖れるでもなく怯えるでもなく、ただ無表情で少年をその瞳に映していた。そして、ふいに口を開き、平らな声で言った。
「まだ甘ったるい匂いがするわよ」
 少年はカッとなり頬を紅潮させた。ほとんど反射的に、彼女の頬を手の甲で殴りつける。
「チッ、泣けばまだかわいいものを」
 アンジェリカは殴られたまま横を向いてうなだれていた。少年はそれを嫌悪の表情で睨みつけた。
「こうなったら泣くまでやってやる」
 彼は意地になっていた。あらわになった彼女の細い左肩を乱暴に掴むと、小さくこもった声で呪文を唱え始めた。その手と肩の間から白い光が漏れる。それは次第に熱を帯びていった。アンジェリカの額から幾筋もの汗が滴り落ちた。目をつぶり、歯を食いしばり、灼ける痛みに耐えた。
「くっ……」
 アンジェリカは小さく声を漏らした。
 その途端、肩から手が離れた。少年の体はアンジェリカから引き離され、対壁の大きなステンドグラスにガシャンと打ちつけられた。
 それはサイファの仕業だった。
「何をしている、おまえ」
 サイファは喉の奥から声を絞り出し、少年の胸ぐらを乱暴に掴み押し上げた。爪が食い込むくらいに右手を固く握りしめ、今にも振り上げんばかりに震わせていた。
「やるのか? やりたければやれよ。魔導省のお偉いさんが無抵抗の若者に暴行したとなれば、ただでは済まないぜ」
 少年は気持ち悪いくらい冷静に言うと、意地悪く挑むような目で笑った。
 ——ガシャン!
 サイファのこぶしは彼の頬と耳をかすめ、背後のステンドグラスにめり込んでいた。そこから亀裂が広がり、いくつものかけらがカラカラと崩れ落ちた。サイファは彼にくっつかんばかりに顔を近づけた。その瞳にみなぎる激しい憎悪に、少年は一瞬で凍りついた。
「あまり頭にくると、何もかもどうでもよくなるかもしれない」
 本気だ——。
 彼は本能的にそう思った。そして、同時にかつてないほどの激しい恐怖を感じた。
 サイファはゆっくりとこぶしを引くと、彼に背を向け歩き出した。そして、呆然としていたアンジェリカを抱え上げた。
「今日のことは忘れない。レオナルド=ロイ=ラグランジェ」
 背中を向けたまま、サイファは静かに言った。少年は膝を折り、ガラスのかけらの上へへたり込んだ。



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