目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

閉じる


<<最初から読む

16 / 94ページ

16. 実技試験

「やっぱり朝の空気は気持ちいいな」
 ジークは両手を広げ、張りつめた空気を体の奥まで流し込んだ。まだ静かな通りの真ん中を、大きく闊歩する。
 隣のリックは、彼とは対照的に弱々しく歩いている。その髪にはまだ寝ぐせがついたままだ。
「なんか、くらくらする」
 眩しそうに目を細め、右手の甲を額につける。
 今朝、まだ日が昇らない時間に、いきなりジークがやってきて叩き起こされたのだ。朝の空気が吸いたくなったからおまえも付き合え、そんな理由だった。ジークのわがままに振り回されるのは馴れていたので、このくらいのことでは別に腹は立たない。しかし、やはり眠いのはどうしようもなく、しきりにあくびが口をついて出た。
「試験までにちゃんと目を覚ましておいた方がいいぞ」
 彼の睡眠時間を奪った張本人が忠告した。
 今日で試験三日目。最終日である。筆記試験を終え、あとは実技を残すのみとなった。実技試験というだけで詳しい方法はなにも聞いていない。
「実技って何をやるんだろう」
 リックはジークと肩を並べて歩きながら、不安をそのまま口にした。
「さあな。でも、どんな試験でも、俺は負けないぜ」
 リックとは対照的に自信に満ちた口調。ここのところの自主訓練の手ごたえが、彼に自信を与えていたのだ。

 アカデミーの門をくぐる。
 まだ早いので、いつもの朝とは様子が違い、ひっそりとしている。人の声はまったく聞こえない。聞こえるのは、自分たちの靴音と、ときどき遠くで小さく響く足音だけだ。
 ジークはまっすぐ教室に向かうと、勢いよく扉を開け放った。案の定、教室には人影は見当たらなかった。それを確認すると、鼻から大きく空気を吸い込み、満足げな表情を浮かべる。
「やった。一番乗りだ!」
 自分の声が教室に響くのを聞いた後、大またでまっすぐ自分の席へ歩いていった。
 リックは、彼の子供っぽさにやや苦笑いしながら、そのあとに続いて歩き出した。自席の机の上に鞄を降ろすと、何気なく窓の外に目をやった。ふいに、見なれた人物がその視界に飛び込んできた。
「あれ? アンジェリカだ」
 ジークもリックの視線を追い、窓の外を見た。そこには、後ろ向きで顔は見えなかったが、確かに彼女とわかる姿があった。
「どこへ行くんだろう」
 彼女は教室であるこちら側に背を向けて歩いていた。彼女の向かっている方には、ふたりともほとんど行ったことがない。
 彼女の向かう先を、目でまっすぐにたどる。校庭の外れ、大きな木が三本立っているさらにその奥。木々の隙間から、こじんまりとした三角屋根の建物が垣間見える。窓ガラスの代わりにはめ込まれたステンドグラスが、そこが教会であることを、ささやかながら主張していた。
 今までその建物に全く気がつかなかったというわけではないが、少なくともその存在は、今の今まですっかり忘れていた。そのくらい存在感のない場所だった。彼らだけでなく、他の生徒たちもほとんど近づくことはなかった。ひっそりと陰を落としている。
「今さら神だのみかよ」
 ジークは茶化そうと思ってそう言った。しかし、思いのほかその声はこわばっていた。
 彼が本気なのか冗談なのかわからなかったリックは、軽く笑って相づちを打つだけで、言葉は返さなかった。
 声がこわばってしまったことに、ジークは自分で驚きを感じていた。
 しかし、理由はわかっていた。
 首席入学の彼女が、まだ幼い彼女が、これだけやる気を見せているのだ。脅威を覚えないはずはない。そして、信仰心を持つものが祈るという行為は、瞑想より大きな効力を持つ。自分には真似できない方法で、魔導力を高めているという事実が、彼の焦りを増していた。
 もう小さくなったアンジェリカを眺めながら、しばらく立ちつくしていたかと思うと、勢いよく教室を飛び出した。リックは小走りでジークの後を追う。
「どこ行くの?」
 リックのその問いに、ジークは足を止めることも振り返ることもなく、ただ短く答えた。
「瞑想だ」

 ついに、実技試験のときがやってきた。
 ラウルによってクラス一同が集められた場所。そこは校舎の隅にあるヴァーチャルマシンルームのさらに奥、いつもは鍵のかかっている部屋。窓もなく閉塞感が漂っている。ラウル以外は足を踏み入れたのも初めてだった。そこにはヴァーチャル・リアリティ・マシン(通称 VRM)のコクピットがふたつ、少し距離をあけて、向かい合わせに置かれていた。そしてその2つの真ん中に大きな薄型のディスプレイが吊り下げられている。そして、縦横無尽に張り巡らせたケーブルが、物々しさをかもし出している。
 その雰囲気に圧倒され、みんな押し黙っていた。
 その沈黙を破ったのは、ラウルだった。
「実技試験の方法だが……」
 生徒たちの反応を確かめるように、少し間をおいて続ける。
「対戦方式で行う」
 依然、重苦しい静けさ。誰も口を開くものはいない。
「これは対戦用に改造した VRMだ。対戦の様子は上のディスプレイに映し出される」
 ラウルは腕を組み、ゆっくりと生徒の方へ向き直る。
「単に勝敗で評価するのではなく、試合内容で評価する。そのつもりで持てる力をすべて発揮して戦うように。いいな」
 相変わらずの威圧的で一方的な口調が、生徒たちに重くのしかかる。
 ラウルは左手に抱えていた青いファイルを開いた。紙をめくる音が、密閉された空間に反響する。その手を止め、上から下へざっと眺めると、口を開いた。
「入学時の順位で下から2人ずつ対戦していってもらう。まずはリックとザズだな」
「うわっ! いきなりだ!」
 下から二番目のリックが、動揺して声を上げた。その驚きぶりがおかしくて、アンジェリカは、彼に気づかれないように忍び笑いをした。
 リックはやや臆病なせいもあって、実戦形式というものが苦手だった。VRMでの自主訓練も嫌々やっていたくらいだ。ただでさえこんな状態なのに、今回はマシン相手ではなくヴァーチャルとはいえクラスメイトが相手なのである。自分が傷つきたくないが、他人を傷つけたくもない。そんな彼がこの試験を嫌がるのも当然だった。
 ジークは、いまにも泣きつかんばかりの表情を見せているリックの背中を軽く押した。
「腹くくって行ってこいよ。あんまりオロオロしてると相手になめられるぞ」
 意気揚々とコクピットに向かう対戦相手を横目で気にしながら、ジークはこっそり耳打ちした。
「あいつより、おまえの方が上なんだからさ」
 リックはちょっと困ったように笑った。
「そういうの、よけいプレッシャーだよ」
 ジークも彼につられて笑顔になる。そして白い歯を見せながら、こぶしを彼の脇腹に軽くひねり込んだ。
「いいから早く行ってこい」
 リックは少し笑って、コクピットへ小走りに駆けていった。

「へぇ、仲いいんだ」
 アンジェリカはきょとんとしながら、ジークを見上げていた。彼は視線を落とし、彼女をとらえたが、まっすぐ見つめてくるその視線に耐えかねて、すぐに目をそらす。
「いまさらなに言ってんだよ」
 彼女に対する返事というよりは、ひとりごとに近い感じだった。腕を組み、顔を少し上げると、まっすぐ口を結んだ。
 アンジェリカは、ジークとリックを交互に見た。
「だって今まで仲よさそうなところを見たことなかったんだもの。どうしてこのふたり、一緒にいるんだろうって思っていたわ」
 アンジェリカにそんなふうに思われていたのかと、ジークは思わず苦笑いしてしまった。

 ウィーン。
 シルバーメタリックのコクピットが、機械音を響かせながら、その口を大きく開いた。対戦予定のふたりは、長く傾斜の緩やかなライド部に身を横たえる。すると、開くときと同じように、機械音を響かせて、その口がゆっくりと閉じていった。
 ラウルがヘッドセットを装着し、スイッチを入れると、ディスプレイが白く光り、そして徐々にふたりの姿が映し出された。
「おおー」
 遠慮がちなどよめきが広がる。
 ラウルはヘッドセットのマイクを口元に引き寄せた。
「ふたりとも、準備はいいか」
 その問いに、ディスプレイの中のふたりの口が動いた。が、その声は聞こえない。
「ラウル。音声が切れてるんじゃねぇか」
 ジークはディスプレイを親指でさしながら、あきれた様子でラウルに問いかけた。ラウルはヘッドセットを少しずらた。
「そういうふうに作ってある。音声はここからしか聞こえない」
 そう答えると、ヘッドセットを人さし指で指し示した。
「案外しょぼいんだな」
 ジークはぽつりと言った。少しの驚きと落胆が、その声色からうかがえた。
 ラウルは、ジークの相手を切り上げた。ヘッドセットのマイクを親指と人さし指でつまんで固定すると、再びディスプレイの中のふたりを仕切り始めた。
「制限時間は五分間だ。準備はいいな」
 ふたりの様子を画面で確認すると、短く、歯切れよく、合図した。
「始め!」

 その声に反応して、ふたりは同時に構える。
 先に動いたのはザズの方だった。目を閉じ、両手を前に伸ばし、呪文の詠唱を始める。それを見て、リックも同じポーズをとった。
「真っ向勝負か」
 ジークは腕を組みながら、冷静にディスプレイを見上げていた。アンジェリカも、隣で彼と同じように腕を組み、同じように見上げていた。
「どうかしら。それじゃ厳しいんじゃない?」
 彼女は感想を述べた。音声が入ってこないため、映像だけで推測するしかない。
 ザズの両手に光が集まってきた。一方のリックには何の変化もない。ザズのまぶたが勢いよく上がった。何かを叫ぶと、手にためたバスケットボール大の光球をリックに向かって放出した。
 それとほぼ同時に、ザズの足首から下と、そのあたりの地面一帯を厚い氷が覆った。ザズは突然、足の動きを封じられ、大きくバランスを崩した。両手をまわし、なんとか体勢を立て直そうとするが、耐えきれずにしりもちをついてしまった。
 彼の足をとどめたリックは、自分に向かってくる光球を避けようと、その身を斜めに引いた。しかし、呪文を唱えていたために動きが遅れてしまい、避けきれず、その半分が右肩に直撃する。その反動で体を後方に吹き飛ばされ、五メートルほど土の地面を土ぼこりをあげながら滑っていった。そして、倒れたまま右肩を押さえ、苦痛に歪んだ顔を見せた。
「あのバカ!」
 ジークは苦々しげに、その声をかみ殺した。
 ザズは足に熱を集め、氷を溶かそうとしているが、今までこんな経験がないため、なかなか思い通りにいかず、気持ちばかりが焦っている。
 リックは身をよじらせて、なんとか立とうともがいている。そして、ようやく片膝を立て上体を起こすと、歯を食いしばり、次の呪文の詠唱に入った。
「そこまで!」
 ラウルの声が響く。制限時間の五分が過ぎた合図だった。

 リックが小走りに戻ってくる。
「みっともない試合だったね」
 自らの試合をそう表現した。落ち込んだ様子でうつむき、短くため息をついている。
「いや、でも制限時間がなければおまえの勝ちだったさ」
 めずらしくジークがフォローをする。リックは疲れをにじませながらも、少し笑ってみせた。
「肩、痛いの?」
 右肩を押さえているリックの様子を、いぶかしげに覗き込んで、アンジェリカがたずねる。VRMの中では、五感のすべてはコンピュータから直接脳に信号が送られる。痛みを感じても、実際に肉体が損傷することはないはずなのだ。
「あ、今は痛くないけど」
 右肩を押さえていた手を外す。
「さっきあまりにも痛かったから、なんか、まだ痛みが残ってる気がして」
 そう言いながら、自分の試合を思い出し、身震いした。背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「やっぱりプログラム相手とは全然違うよ。気持ちも、感覚も、痛みも」
 アンジェリカ、ジークの顔を交互に見て、さらに続ける。
「ふたりが戦うとどうなるか。想像するだけで身がすくむ思いだよ」
「ん?」
 そういってジークは腕を組み、少し考え込む。
「そうか。俺の対戦相手ってコイツだったんだ」
 自分の中で確認するかのようにつぶやいた。アンジェリカとリックが同時に驚いた顔を向ける。ジークはふたりの表情には気づかず、始まった次の対戦に見入っていた。
「なんで今まで気づかないのよ」
 脱力した声が、アンジェリカの口をついて出た。

 試験は順に進んでいき、残すは最後の一組のみとなった。
「アンジェリカ、ジーク」
 ラウルに名前を呼ばれて、一瞬、お互いの視線を絡ませると、そのまま無言でそれぞれのコクピットへ向かった。ラウルがスイッチを跳ね上げる。ディスプレイにふたりの姿が映し出された。ジークはやや緊張の面持ちだった。
「制限時間は五分間……始め!」


17. 届かなかった5分間

「始め!」
 ラウルのその声と同時にふたりは構えた。
 ジークは、短く呪文をとなえると、自分のまわりに結界を張った。そして間髪入れず、胸の前で両手を向かい合わせにし、早口で呪文の詠唱を始めた。
「結界を張りながら、同時に呪文を唱えられるなんて……」
 セリカを始め、それを見ていた生徒の数人が驚きの声をあげた。
「実戦ではこれくらいのことができないと話にならない」
 ラウルは冷たく言い放った。ざわめきがピタリと止み、マシンのモータ音だけがあたりに響きわたった。

 アンジェリカは構えたまま微動だにせず、ジークの様子を凝視していた。彼の両手の光は次第に大きくなっていき、その手からあふれ始めた。すると、自分のまわりの結界を消滅させ、両手の中の光を一気にアンジェリカに向かって放出した。その光球と彼女が重なったかに見えた、その瞬間。アンジェリカはすさまじいスピードで横に飛び出し、それをかわした。すぐに足を止めたが、勢いに押され、そのまま地面を数メートル滑った。激しく砂ぼこりが巻き上がる。
 ジークはかわされることも予想していたらしく、顔色ひとつ変えなかった。伸ばされていた右の手のひらを上に向ける。そして手首を返すと、重そうに歯を食いしばりながら、その手を引いた。
 アンジェリカは何か気配を感じ、後ろを振り返った。彼女の目に飛び込んできたものは、自分の方にめがけて突進してくる、かわしたはずのジークの光球だった。
 ——ジークが操っているんだわ。
 彼の様子から、アンジェリカはそう確信した。右へ、左へ、彼女はジグザグに走った。そして、彼女が向きを変えるたび、ジークは右手を動かし、光球の進行方向を変えた。
 しかし、その作業は彼にかなりの負担を与えていた。
 一度や二度ならともかく、アンジェリカは何度も何度も向きを変え走るのだ。もちろん、これは彼女の戦略である。その戦略にまんまとはまってしまったジークは、次第に疲れの色を濃くしていった。
 それを見計らったアンジェリカは、真正面からジークに向かって突進を始めた。焦ったジークは右手をよりいっそう強く引き、光球の向きを変えた。アンジェリカの方、すなわち自分の方へ。アンジェリカの後ろから、大きな光球が自分へめがけて飛んでくるのを見たとき、ジークはようやく彼女の策略に気がついた。
 彼が次の行動を起こすより早く、アンジェリカは短く呪文を唱え、その手の中に小さな光球を作り上げていた。彼女はすぐ近くまで迫ったジークをめがけ、それを放出した。それと同時に、ジークは自分の前面に結界を作り上げ、間一髪でそれを弾きとばした。
 次の瞬間、ジークの視界からアンジェリカの姿が消えていた。耳障りな砂の摩擦音、舞い上がる砂ぼこり、そして、脚の内側をこする感触。
 彼は気がついた。アンジェリカが勢いにまかせ足からスライディングし、自分の脚の間をすり抜けているのだということに。
 背後をとられる!
 とっさに振り返ろうとしたそのとき、ふいに強く背中を押された。体の向きを変えようとするところだったため、バランスを崩してしまった。よろけながら2、3歩、乱れたリズムを刻む。
 そのとたん、激痛とともに目の前が白くなった。
 何かがジークを飲み込んでいく。白く大きな光。それは、彼自身がアンジェリカに向け放ったはずのものだった。アンジェリカと共に自分の方へ向かってきていたことを、すっかり忘れていた。というより、そこまで気がまわらなかったといった方がいいかもしれない。
 ジークが熱さと痛みにもがいているところへ、さらに後ろから新たな痛みがやってきた。今度はジークの背後へまわったアンジェリカが放ったものだった。ジークは弾きとばされ、顔から地面に落ちるとそのまま数メートル、砂ぼこりを巻き上げながら滑った。
 うつぶせのまま、わずかに頭を持ち上げ、自分の足元に目をやる。砂煙りにゆらめく小さな影。やがてそこから無表情のアンジェリカが姿を現した。小さいはずのアンジェリカが覆いかぶさるような威圧感を持って近づいてくる。ジークは激痛と恐怖で、もはや考えることも動くこともできない。
 アンジェリカは感情のない顔で、倒れている彼を見下ろす。ジークは、彼女と目が合うと、その顔をこわばらせ、歯をガチガチ鳴らしだした。
 しかし、アンジェリカはそんなジークを見ても全く動じない。両手を空に向かって伸ばし、呪文を唱え始めた。顔を天に向け、最後の言葉を口にする。
 ドドーン!
 光が空を裂き、柱となってジークを直撃した。

「ひ……」
 モニター前の生徒たちの何人かがひきつった声をあげた。
 セリカは両手で顔を覆っている。リックは口を半開きにしたまま、画面から目を離せずにいた。
 ラウルはVRMのスイッチを切り、ヘッドセットを外して首にかけた。そして、ジークのコクピットへ大きな足どりで歩み寄り、赤いボタンを押した。
 機械音を響かせながら、コクピットが開いていく。
 そして、ジークのその生身が姿を現した。
 彼は目を開けたまま、ピクリとも動かなかった。ラウルはジークの頬を、数回、軽く叩いたが反応はない。今度は右手で開いたままの目を閉じさせながら、もう片方の手をジークの首筋に当てた。五秒ほどそうしたあと、ラウルはジークを両手で抱えた。
 扉へ向かおうと振り返ったラウルに、生徒たちは一斉に注目を浴びせた。しかし、彼は構うことなく歩き出した。
「試験はここまで。解散」
 扉ぎわでその言葉を残し、ジークを抱えたラウルは部屋を後にした。 

 ウィーン——。
 もうひとつのコクピットがようやく開いた。
「どうかしたの?」
 コクピットから上体だけ起こしたアンジェリカが、きょとんとしながら問いかけた。
「あなた! ちょっとおかしいんじゃないの?!」
 目に涙をためたセリカが叫び声をあげる。
「ジークはもう動けなかったのよ! なのに……あんなに決定的なまでにとどめを刺すなんて!! どういうつもりなのよ!! なんとか言いなさいよ!!」
 青い瞳が揺れ、その瞳から涙がこぼれ落ちた。アンジェリカは戸惑いながらあたりを見渡す。
 恐怖に覆われた顔、怪訝な表情、怯えた瞳……。
 彼女はますます混乱した。
「だって、これはバーチャルなんでしょう?」
 自信がなさそうに、おそるおそる疑問をぶつけてみる。
「そうだけど……」
 リックが口を開く。
「ジークが意識をなくしたみたいで……ラウルが抱えていったよ」
「え……?」
 アンジェリカはそれを聞くと驚きの表情を見せたが、次の瞬間、コクピットから飛び降り、勢いよく走って部屋を出ていった。リックもその後を追った。

 ガラガラガシャン!
 息をきらせたアンジェリカが、ラウルの医務室の扉を勢いよく開ける。白いパイプベッドに寝かされたジークを見つけると、一目散にその枕元に駆け寄った。
「ごめんなさい……わたし……こんなことになるなんて……!!」
 白い布団に顔をうずめ、肩を震わせている。
 あとから入ってきたリックが、ラウルに尋ねた。
「ジーク、どうなんですか?」
 ラウルはカルテをデスクの上に置きながら答える。
「軽いショック症状だ。心配ない。すぐに目を覚ます」
 その声が聞こえていないのか、アンジェリカがずっと肩を震わせ、しゃくりあげ続けている。ふいに、アンジェリカは、頭の上に何かが置かれたのを感じた。
 ——暖かい……手?
 恐る恐る、顔を上げる。
「なに泣いてんだよ。死んでねーぞ」
 天井を向いたまま、アンジェリカの髪をくしゃっと掻き、ジークはいつものようにぶっきらぼうな言葉を口にする。
「実戦だったら確実に死んでいるがな」
 ラウルが口をはさむ。重い空気が医務室に淀んだ。
 ジークはもう一度アンジェリカの髪を掻き、ラウルを無視するかのように続けた。
「おまえは何も悪くないんだ。俺の力が足りなかったんだよ」
 アンジェリカは再びしゃくりあげ
「でも……」
 と言いかけた。そのとき。
「ふたりとも悪くない。悪いのはこいつだ」
 その場にいた四人が、一斉に声の方を振り向く。
 鮮やかな金髪、深い蒼の瞳の男が、親指でラウルを指さし立っていた。ラウルに歩み寄りながら、憤然とした表情で、さらに続けた。
「だから、私はあれには反対だと言っただろう。どこまで安全性が確保されているかわからない代物だぞ。ただでさえ戦闘意欲を冗長させる危険なものだ。戦時中ならともかく、今の世には必要ないだろう。だいたい、リミッターが付いているはずではなかったのか?!」
 金髪の男はそこまで一気にまくしたてた。
「死なない程度にな」
 責めれらたラウルの方はまったく表情を変えず、さらりと受け流すように答えた。相手の男はあきらめの表情を浮かべ、ため息をつく。
「とりあえず……リミット値を下げておけ。いいな」
 ラウルにそう念を押すと、今度はジークとアンジェリカの方へ歩き出した。
「ジーク君だね。娘がいつもお世話になっている」
 後ろからアンジェリカの両肩に手を置き、かがみこむと、品のある笑顔を見せた。
「え……?!」
 ジークは慌てて上体を起こそうとした。
「そのまま、そのまま」
 両手でジークを制し、ベッドに寝かせる。
「サイファ=ヴァルデ=ラグランジェ。アンジェリカの父だ。魔導省保安課に勤めている。ここから近いのでいつでも訪ねてきてくれ。もちろん家の方にもな」
 そういい、サイファはジークの右手をとった。
「ジーク=セドラックです」
 ジークははっきりとした口調で自分の名を告げると、お互いそれぞれの手を固く握り合った。サイファがジークに穏やかに笑いかける。ジークの顔にも微かに笑みが浮かんだように見えた。
 サイファは立ち上がると、扉に向かって歩き出した。ラウルとすれ違いざま、足を止め、横目で彼を一瞥する。
「大丈夫だとは思うが、念のため、彼の脳波、心電図のデータを提出しろ。いいな」
 そう言い、自分の顔のすぐ横にあるラウルの肩を軽く叩くと、部屋を出ていった。

「サイファ。おまえの欲しがっていたものを持ってきた」
 ラウルは無遠慮に部屋の中央まで進み、机の上に書類の束を投げ置いた。
 魔導省の塔、その最上階の一室がサイファの部屋だ。広くはないがきちんと整理され、すっきりとしている。
 サイファは椅子を後ろ向きにし、外の風景を見ていたが、書類の置かれる音が聞こえると、くるりと椅子をまわし、それを手にとった。一通り目を通したあと書類を机の上に戻し、深く息を吐く。
「すべて正常値。安心した」
 そういうと再び椅子を半回転させた。
「なぁ、おまえから見てアンジェリカはどうだ?」
 ラウルに背を向けたまま問いかけた。ラウルは大きな机の横をすり抜けると、サイファの横に並んだ。ふたりの目の前には、薄い霧に包まれた世界が一面に広がっていた。
「正直いって恐ろしいな。彼女は戦闘が始まるとそれにのめり込んでしまうようだ。レイチェルにもそういうところがあったから遺伝だと思うが。それに加え、あの魔導力、戦闘能力。この国で彼女にかなうものはほとんどいないだろう。父親のおまえですらな」
 サイファは背もたれに深く身を預ける。少し、椅子のきしむ音がした。
「それは、仕方のないことだな」
 目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
「なぁ……」
 サイファがそう切り出したあと、しばし沈黙が流れた。ふたりはまっすぐ前を向いたまま、ガラス越しに広がる世界を眺めていた。そして、再び口を開く。
「おまえ、気がついてるんじゃないのか?」
 ラウルがをサイファに横目を送る。
「何をだ」
 サイファはわずかに目を細め、遠くを見つめた。
「……いや、何でもない」
 そう言い、椅子から立ち上がるとラウルの横に並び、彼の背中に手をやった。
「アンジェリカのことを頼むよ。先生」
 前を見たまま、サイファは感情を隠した静かな声を落とした。


18. 呪われた子

 成績が発表されるのは、実技試験の翌日である。
 ジークとリックは普段通りの時間にアカデミーへ来たのだが、そのときには既に玄関ホールにはかなりの人だかりが出来ていた。すべての生徒の成績がこの玄関ホールに張り出されるため、あらゆる学年・学科の生徒が入り混じり、かなりごった返していた。
「あ、もう張り出されてるんだ。魔導科1年ってどこだろう」
 リックは落ち着かない様子で首を伸ばし、壁の白い紙を窺おうとした。
 早く結果が見たくてたまらない様子のリックとは対照的に、ジークは重い足どりでリックの後ろをついていく。
 彼の足のおもりとなっていたものは、昨日の実技試験だった。
 アンジェリカを追い越せなかったことは、誰の目にも明らかだ。それどころか順位が下がっていることも考えられる。自分ではアンジェリカ以外の誰にも負けてはいないと思っている。しかし、今日まで忘れていたのだが、この順位をつけているのはラウルだ。入学式当日のあの事件をはじめ、ラウルに対する先生を先生とも思わない言動の数々——。それらを思い出しては、不安を増していた。
「なかなか見えないなぁ。ジークも探してよ」
 成績表を探すことに夢中になっていたリックは、ジークのそんな様子に気づきもしない。
「ああ」
 ジークは気のないあいづちを返した。軽く息を吐き、面倒くさそうに成績表のある方へ目をやろうとした、そのとき。
「あっ」
 ざわめきの中から見つけたその小さな声に反応して、ジークは無意識に振り返った。彼の視界に飛び込んできたもの。それは、人だかりの中から弾きとばされるように出てきたアンジェリカだった。
 彼女はよろけながら数歩、不規則なリズムを刻み、ジークにぶつかる寸前でその足を止めた。視線を落としていた彼女には足元だけしか見えていなかったが、目の前のそれがジークだとすぐに気がついた。
 ゆっくりと顔を上げる。
 ふたりの視線がぶつかった。ふいに彼女にとまどいの表情が浮かんだ。
 ——何か、言わなきゃ。
 必死に頭をめぐらせて、ようやく言葉を絞り出した。
「え……と、大丈夫?」
 遠慮がちな声でジークに問いかけた。そして、上目遣いで不安げに返答を待った。
「ああ。精密検査もしたけど、なんともないって」
 ジークは平静を装って答えた。
「そう。よかった」
 アンジェリカのその言葉を最後に、ふたりの言葉が途切れた。重い空気がふたりの間に流れる。向かい合ったまま、わずかに視線だけをずらした状態。そのまま動くことが出来なくなった。ジークはなんとか沈黙を破ろうと焦ったが、焦るだけで少しも頭がまわらない。
「ジーク! 見てきたよ!」
 リックの脳天気な声に、ふたりは金縛りから解かれたように軽くなった。
「よかったね。リック」
 アンジェリカはジークを通り越して、その後ろのリックに笑顔を向けた。
「あ、アンジェリカ。もう見てきたんだ?」
「おい、何がよかったんだ?」
 話の見えないジークが、ふたりの会話に割って入った。
「順位が5つ上がったんだよ。頑張った甲斐があったなぁ。あ、ジークは前とおんなじで2位だったよ」
 リックは自分の喜び報告のついでに、ジークの順位もあっさり口にした。
「そうか」
 ジークは1位を取れなかった事実に対してはやはり残念に思ったが、それよりも今はほっとした部分が大きかった。そして、意外にラウルは公平だったんだと、わずかに驚きを感じていた。
「ジーク! 大丈夫なの?」
 背後から今日二回目の「大丈夫?」の声。今度はよく通るはっきりした声だった。振り返ると、セリカが小走りに駆けてくるのが見えた。彼女はリックの隣まで来ると足を止めた。
「ああ、なんともない」
 ジークはそれだけ言うと、教室へ向かおうと足を踏み出した。途端、セリカの顔が曇った。
「……なに? まだこの子といるの?」
 彼女は嫌悪感をあからさまにして言った。今までジークに隠れて見えていなかったアンジェリカが、セリカの視界に入ったのだ。
「あんな目にあわされて、それでもまだこの子と仲良しこよしでいられるの? ジーク、あなたどうかしてるわ」
 ジークは表情を険しくした。
「おまえには関係ないだろう」
 セリカはそう言われたにもかかわらず、構うことなく続ける。
「きのうのことなのに、もう忘れたなんて言うんじゃないでしょうね? あなたがアンジェリカに対して感じた恐怖感とかを」
 ジークはセリカの方にまっすぐ顔を向け、鋭く睨みつけた。そして、もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「おまえには関係ないだろう」
 その迫力に圧倒され、セリカは言葉を失くす。少しうつむき、思いつめた表情で立ち尽くした。
「リック、アンジェリカ、行くぞ」
 そう言い、セリカの横を通り過ぎようとした。彼女はアンジェリカに冷たい視線を向け、言い放った。
「やっぱりあなたは、呪われた子だわ」

 ジークとリックは同時に動きを止め、セリカの方を振り返った。
「……呪われた子って、何だ?」
 怪訝な顔でセリカに問いかける。
 セリカはそこで我に返ったようにはっとした表情を見せた。
「ここで言うべきことじゃなかったわ。ごめん、忘れて」
 急におどおどして、小さな声で一気に言った。そして、いつのまにか集まっていた人だかりをかき分け、逃げるように立ち去った。
「おい! 待てよ!」
 ジークは慌てて呼び止めるが、既に遅かった。もやもやした気持ちのままアンジェリカを見ると、彼女は無表情で立ち尽くしていた。目は空を泳ぎ、焦点が合っていない。
「こんなこと、言われなれてるから……なんでもないわ」
 アンジェリカは自分に言いきかせるようにつぶやいた。
「行きましょう」
 ぎこちない笑顔でそう言うと、人だかりをすり抜けて、その場から去っていった。
 ジークとリックは顔を見合わせて頷き合うと、アンジェリカの後を追っていった。

 教室まで来たが、ここも彼女にとって安らげる場所とはならなかった。
 クラスのほとんどの生徒が、アンジェリカの様子を遠巻きにうかがっていた。腫れ物に触るような、そんな空気が漂っていた。ジークとリックはどうすればいいのかわからず、ただアンジェリカと一緒にいることしかできなかった。しかし、それだけでも彼女の助けになっていたことは確かだった。そして、クラスメイトの中にも「よくわからないけど気にすんなよ」「応援してるからな」と 声を掛けてくれた人がいたことが救いだった。

 ガラガラガラ——。
 いつものように荒っぽく扉を開け、ラウルが入ってきた。生徒たちは一斉にバタバタと席に着く。しかし、ただひとつ、セリカの席だけは空いていた。
「今日から二ヶ月、アカデミーは休みに入る。課題は特にはない」
 何人かが小さく喜びの声をあげた。
「休みをとう使うかはおまえたちの自由だ。アカデミーの施設は休みの間も自由に使える。この意味はわかるな」
 威圧感のあるその言葉に、場の空気が一気に張りつめた。ラウルの次の言葉をじっと待っている。
「それではこれで解散だ」
 あまりの唐突な解散に、クラス中が呆気にとられた。
「なんなんだ。これだけかよ。今日は何しに来たかわかんねえな」
「成績を見に来たと思えばいいんじゃない?」
 ジークとリックがそんなやりとりをしながら、アンジェリカの席へと向かっていた。
「アンジェリカ」
 教壇からの声。アンジェリカは目を伏せていたが、その声に反応して前を向いた。ラウルは目で彼女を呼び寄せると、そのまま外へ連れ出した。
「アンジェリカって、ちょくちょくラウルに連れ出されるよね」
「…………」
 ジークはリックに言葉を返すことができなかった。

「遅いね」
「いいからおまえは帰れよ」
「そういうわけにはいかないよ」
 ジークとリックは、玄関前で壁にもたれかかりながら立っていた。既に何度か同じ会話が繰り返されていた。
 段々と外が暗くなっていくのがわかる。
 ふたりはアンジェリカの帰りを待つことにしたのだが、正直ここまで遅くなるとは思っていなかった。
「よく考えたらここから帰るとは限らないんじゃないの? 今日帰るかどうかもわからないし」
「だからおまえは帰れって」
「そういうわけにはいかないよ」
 無意味な会話を繰り返していたふたりが、突然動きを止めた。
 ひとけのない校舎に響く靴音。
 ふたりは同時に勢いよく振り返る。そこには目を丸くしたアンジェリカが呆然と立っていた。
「どうしたの? ふたりとも」
「おまえを待ってたに決まってんだろ」
 ジークは勢いにまかせてそう言ったが、言ったあとで急に照れくさくなった。彼女から顔をそむけ、うつむく。
「遅かったね。どうしてたの?」
 リックはジークのあとに続けた。
「えっと……。ラウルと話をして、お茶を飲んで、それから眠くなったからちょっと寝て……」
「おいおい。そのお茶に睡眠薬でも入ってたんじゃねぇだろうな」
 ジークは下を向いたまま腕を組み、ぶっきらぼうに口をはさむ。アンジェリカはかすかに笑顔を見せると、ふたりを追い越して歩き出した。リックは小走りで追いつき、彼女に並んで歩く。
「これから二ヶ月休みだけど、いつでも連絡してよ。ジークのウチにも遊びに来てほしいし」
「なんでオレんちなんだよ」
 後ろからのジークの突っ込みを無視して、リックはさらに続ける。
「あ、そうだ。アンジェリカの家にも今度呼んでほしいな。僕、まだ行ったことないし」
「うん」
 アンジェリカは小さな声で返事をした。
「……アンジェリカ」
 ジークが珍しく、彼女を名前で呼び掛けた。しかし、その声は重かった。
 彼女は足を止める。
「今朝のことだけどな……」
「ごめんなさい」
 背中越しのジークの声を、短い言葉で遮った。そして、少しうつむく。
「……今は、何も言えないの。でも、いつか、きっと……話したいと思っているから」
 彼女がとぎれとぎれに絞り出したその言葉を、ふたりはしっかりと受け止めた。
「いつでも、待ってるからな」
 そう言って、ジークもリックも、アンジェリカににっこりと笑いかけた。


19. 告白

「え? これ……? お城じゃないの?」
 アンジェリカの家を目の前にしたリックは、目を丸くして立ち尽くした。ジークは二度目なのでリックほど驚きはしないが、それでもやはりお城と見まがうような家を目の当たりにすると、さすがに圧倒され緊張する。
 ギギギギ……。
 重たげな扉の軋む音。扉がゆっくりと開いていく。その向こうには小柄な女性が立っていた。鮮やかなブロンドと金色のドレスが風になびき、光と風を受けて輝いている。彼女は扉から飛び出すと、小走りでジークたちの方へ駆け寄ってきた。
「ジークさん!」
 ありったけの笑顔をジークに投げかけたその金髪の女性——レイチェルは、門を開き、ふたりを招き入れた。
「そろそろ来るころだと思ったの」
 門を閉めながら、はしゃいだ声をあげる。
 リックは彼女の後ろ姿をじっと見つめた。ふと、素朴な疑問が沸き上がった。
 ——この人は誰なんだろう……。
 ジークに目で訴えかけようとしたが、彼は目を合わせてくれない。
 ずいぶん雰囲気は違うが、顔はちょっと似ているし、やはりアンジェリカのお姉さんなのだろうか。そんなことを考えていたリックに、当の本人が話しかけてきた。
「リックさんですね。初めまして。レイチェル=エアリ=ラグランジェです。よろしくお願いします」
 まっすぐにリックの目を見て、右手を差し出した。リックも慌てて右手を差し出し握手を交わした。
「リック=グリニッチです」
 少しうわずった声で自分の名前を返す。レイチェルのまっすぐな瞳と、触れた手の柔らかさに、リックはどぎまぎした。
「あの、お姉さん、ですか?」
 リックの言葉足らずな質問に、レイチェルはまず笑顔を返し、それから言葉を続けた。
「アンジェリカの母です」
「え……?」
 思いもよらなかった返答に、リックはぽかんとしている。
「よく間違われるのよ。気にしないでね。ね、ジークさん」
 急に振られたジークは、「ん……」と短く言葉を詰まらせた。

「アンジェリカ。おふたりがいらしたわよ」
 レイチェルは大きな扉を押し開け、広い玄関ホールに声を響かせる。そして右手を家の中の方へ向けて、ふたりを導いた。
 目の前に広がる大きな空間、緩やかなカーブを描く白い階段、赤いじゅうたん、きらびやかなシャンデリア……見なれない光景に、リックは再び呆然と立ち尽くした。一度見ているはずのジークも、その雰囲気に圧倒され、息をのむ。
「いらっしゃい」
 少し照れくさそうに、応接間の扉から体半分だけを出し、アンジェリカがあいさつをした。
「入って」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、彼女は再び応接間へと姿を消した。
 ふたりがとまどっていると、レイチェルがふたりの背中に後ろから片手づつ当て「どうぞ」と促した。
 ジークは柔らかい手が触れると、びくりと体をこわばらせた。
 レイチェルはジークの背中が揺れたのを感じると、不思議そうに横から覗き込んで尋ねた。
「どうかしたんですか?」
 ジークは下方から迫ってきたレイチェルを避けるように少し上を向いた。
「なんでもないです」
 少しうわずった声を上げて、あたふたと歩き始めた。
 リックはジークの背中に向かって小さく笑うと、小走りで彼のあとを追っていった。
 ふいに緩やかなメロディが流れ始める。
 ——ピアノ……?
「アンジェリカが弾いてるのかな」
 リックは隣のジークにだけ聞こえるくらいの声でぽつりとつぶやいた。
 応接間に入ると、音の聞こえてくる方を探し、目を向けた。
 ふたの開いた漆黒のグランドピアノ。それにもたれかかるようにひじをついて立っているアンジェリカ。弾いているのは——。アンジェリカとピアノの陰に隠れてよく見えない。
 リックは頭を右へ左へ動かし、なんとか見ようとささやかにあがいた。
 きりのいいところでメロディが止み、ピアノの前に座っていた演奏者が立ち上がった。
「あっ」
 ジークとリックの声がシンクロする。
「サイファさん!」
「よく来てくれた。ふたりとも」
 そう言い、彼は笑みをたたえながら、ふたりに歩み寄った。
「ピアノ、弾けるんですね! かっこいいです!」
 リックが驚嘆の声を上げる。
「たしなむ程度だよ。こういう家に生まれると習わされるものだ」
 左手でソファを示しながら、ふたりをそこへ導き座らせた。そして自分も彼らの向かいに座った。
「アンジェリカも習ってるの?」
 リックは、サイファの後ろにちょこんと立っているアンジェリカに尋ねた。
「ううん、私は何も」
「この子は魔導のこと以外、興味がなくてね」
 サイファは笑いながら、後ろのアンジェリカの手をとると、軽く握った。
「アンジェリカも立ってないで座れば?」
 紅茶を運んできたレイチェルがそう言うと、アンジェリカは素直にサイファの横に座った。
 レイチェルは笑顔でひとりひとりに紅茶を配っていく。そしてそれが終わると、アンジェリカの横へ静かに腰を下ろした。アンジェリカは両親に挟まれて、少し気恥ずかしそうにうつむいた。
「学校って楽しそうね。私も行ってみたかったわ」
 レイチェルは何気なくそう言ったのだが、ジークたちを驚かせるには十分だった。
「学校、行ったことないんですか?」
 ジークが口を開くより早く、リックが反射的に尋ねた。
「私はずっと家庭教師だったの。サイファもそうよね」
 レイチェルは少し前かがみ気味に横を向き、サイファを覗き込んだ。
「ああ。ラグランジェ家の本家はほとんどそうだな。アンジェリカもアカデミーに入るまでは学校へ行ったことはなかったよ」
「へぇ……そうだったんですか。それはうらやましいような、うらやましくないような……」
 リックはあごのあたりに右手を添えてうつむき、なにやら真剣に悩む様子を見せた。
「私としては学校へ行ってほしかったけれど、この子がね。なかなか人見知りが激しくて行きたがらなかったんだ」
 そう言いながらサイファは、アンジェリカの頭の上に手をのせた。
「人見知りじゃないわ。親しくもない人と楽しくおしゃべりができないだけよ」
「はいはい」
 サイファは焦って抗議するアンジェリカをなだめるように、頭をぽんぽんと軽く叩いた。アンジェリカは頬を軽くふくらませて納得いかない様子を見せていたが、それ以上はもう言わなかった。
「ジークさんて無口ですよね。いつもそんな感じなの?」
 レイチェルが少し身を乗り出して尋ねた。そして、上目づかいでじっとジークを見つめる。
 ジークはますます言葉が出なくなった。
「緊張してるんですよ。知った人とじゃないと平和な話なんてあんまりしないし。突っかかっていくことはよくあるんですけど」
 代わりにリックが明るく答えた。
 それを聞いてジークは視線を落とし、少し考えたあと、ようやく声を発した。
「ていうか、そうじゃなくてな……」
 そこまで言うと言葉につまり、また黙り込んでしまった。
「私、無口な人って好きよ」
 レイチェルは唐突にそう言うと、ジークに笑いかけた。
 ジークは驚きととまどいで表情が固まり、その目だけが泳いでいる。
「レイチェル、いたいけな少年をあまりからかうんじゃないよ」
 サイファが穏やかに笑いかけながら言った。
「あら、からかっていないわ。本当のことよ」
 レイチェルはきょとんとしている。
「もう! こんなことのためにふたりに来てもらったわけじゃないでしょ!」
 アンジェリカは気恥ずかしさに耐えかねて、耳を少し赤くしながら叫ぶと、ソファから立ち上がった。
 そのセリフを聞いて、ふいに彼女の両親の顔が引き締まる。レイチェルのこんな真剣な表情を見るのは、リックはもちろんジークも初めてだった。ただならぬ雰囲気を感じとって、ふたりの表情もかすかにこわばった。
 アンジェリカはゆっくり、ジークとリックの方に視線を落とす。
「話すわ。私の……私たちのこと」

「私たちは、外した方がいい?」
 レイチェルが、アンジェリカを見上げて静かに尋ねる。
 アンジェリカは少し首を振って
「いっしょにいて」
 と、かすかな声で言うと、再びソファに腰を下ろした。
 しばしの沈黙のあと、アンジェリカが切り出す。
「ふたりとも気づいてるかもしれないけど」
 そこまで言うと、少し間をおき、伏せていた目をさらに深く伏せた。
「私は両親のどちらとも髪と瞳の色が違う」
 ジークはその言葉につられるように目の前の三人を見比べた。
 ——本当だ。
 彼はそこで初めて違いを認識した。
「でも、隔世遺伝とか、あるんじゃない?」
 リックが口を挟む。
 アンジェリカは少し寂しそうに笑って、続けた。
「ラグランジェ家はずっと、金の髪、青い瞳を守ってきたの。隔世遺伝だってこんなことありえない。入り込む余地なんてないんだから。だからよ。金の髪や青い瞳が魔導士の象徴みたいに言われるのは。ラグランジェ家の影響らしいわ」
 レイチェルとサイファはアンジェリカの話を黙って聞いている。ときどき微かに苦しそうな表情を浮かべては、それを押し込めた。
「しかも黒でしょう? 闇の色、不吉な色、呪われた色……いろいろ言われたわ。物心がついたときには、呪われた子って呼ばれてた。下手に騒ぎ立てると一族の恥になるから、ラグランジェ家以外の人にはそういう話はしてはいけないことになってるみたいだけど」
 ジークはセリカのことを思い出した。セリカ自身はラグランジェ家の人間ではないが、きっと祖父か誰か、ラグランジェ家の親戚に聞いていたのだろう。
「僕たちに言っちゃってもいいんですか……?」
 リックが不安げに尋ねた。
「そういう明確な決まりがあるわけじゃないんだよ。暗黙の了解というやつだな」
 サイファがそう補足すると、ジークとリックを交互に、まっすぐ見つめた。
「アンジェリカが君たちに話したいと言ったんだ。私たちはアンジェリカの意思を、何よりも尊重したいと思っている。そのことでアンジェリカに何らかの危害が及ぶことがあれば、私たちが全力で守るつもりだ」
 ふたりは身じろぎひとつせず、サイファの話をただじっと聞いている。
「まあ偉そうなことを言っているが、私の力が及ばないばかりに、アンジェリカに辛い思いばかりさせてきたわけだが」
 自嘲ぎみに笑みを浮かべ、斜め下に視線を落とした。
 アンジェリカは膝の上の両手をぎゅっと握りしめた。そして、首を小さく横に振った。サイファは、今度は柔らかく、しかしどこか寂しげに笑い、彼女の頭にそっと手をのせた。ふたりを見守っていたレイチェルは、包み込むような笑顔を見せると、娘の背中に手をまわして引き寄せた。
「俺は……」
 ずっと無言だったジークが、下を向いたまま口を開いた。
「俺は、いいと思う。その黒い髪も黒い瞳も……俺は、好きだ」
 その言葉を聞くと、レイチェルはぱっと顔を輝かせた。
「そうでしょう? 私もかわいいと思うの」
 自分のことのように喜ぶレイチェルを、サイファはあたたかく見守った。アンジェリカも、ほっとしたように小さく笑った。そして、顔を上げると、まっすぐジークを見つめた。
「ありがとう」
 彼女の少し潤んだ瞳と揺れた声が、ジークの心を突き刺した。

「本当に帰ってしまうんですか? 泊まっていってくれると思っていたのに」
 レイチェルは残念そうに言った。
 隣のサイファは、そんな彼女を見て、愛おしそうに目を細めた。そして、彼女の頭に後ろから手をまわし、自分の方へ軽く引き寄せた。
「レイチェル、あんまり彼らを困らせるんじゃないよ。あしたはふたりともバイトだっていうんだから、仕方ないだろう?」
 そう言って、優しくなだめた。
「バイトって、何のバイトなの?」
 じゃれあう両親を無視して、アンジェリカはジークたちに尋ねた。
「えーっと、せ……」
「リック!!」
 アンジェリカの質問に答えかけたリックを、ジークは驚くほどの大声で制した。アンジェリカも、彼女の両親も、目を丸くしている。
 ジークも自分の声の大きさに少し動揺した。
「すみませんでした!」
 そう一言告げると、リックの腕を引き、慌てて扉の外へ飛び出した。その扉が閉まるのを確認すると、ジークは軽くため息をついた。
「……言っちゃ、まずかった?」
 リックのその質問に、ジークは少し顔をそむけ、ぼそりとつぶやいた。
「なんか、カッコ悪いだろ」
 再び扉が軋み音をあげる。ふたりがびくりとして振り返ると、中からサイファが姿を現した。
「途中まで送るよ」
 とまどっているふたりに、さらに畳み掛ける。
「まだ話したいこと……というか、話さなければならないこともあるしな」

 この辺は民家があまりないせいか、日が暮れるか暮れないかの時間にもかかわらず、ひっそりとしている。静寂が三人の足音がいっそう際立たせた。
「君たちみたいな友達ができて良かったよ。今日は来てくれて本当にありがとう」
「いえ、こちらこそ、いろいろごちそうにもなりましたし」
 リックが笑顔で答えたあと、ジークは真顔で言葉を続けた。
「アンジェリカの話も聞けました」
 サイファはしばしの沈黙のあと、無表情のまま口を開く。
「君たち、アルコールは大丈夫か?」
 尋ねられたふたりは、顔を見合わせ、お互い目をぱちくりさせた。
「少しくらいなら平気ですけど?」
 リックがとまどいぎみに語尾を上げて答えると、サイファは口の端を少し上げ、にやりと笑ってみせた。
「少し、付き合ってくれるか?」
 そう言ったサイファの親指は、暗い路地裏を指していた。


20. 血塗られた家系

 サイファに誘われるまま、ふたりは暗い路地裏をついていった。何度か曲がって行き、道はだんだん細く暗くなっていった。漠然とした不安が沸き上がる。リックは落ち着きなく左右をきょろきょろ見回している。一方のジークは、視線だけを動かし、あたりの様子をこっそりとうかがっている。
「この下だよ」
 サイファはにこやかな顔で振り返り、親指で斜め下を指した。そこには、地階へ続く薄暗い階段があるだけで、看板などは何も出ていなかった。
 ジークとリックは、お互いに何か言いたげな顔を見合わせた。
 そんなふたりの様子を楽しむかのように、サイファは笑顔のまま、何も言わずに降りていった。ふたりも、置いていかれないように、慌ててついていった。
 短い階段を降りきると、そこにはごく小さな空間があった。使い古された木製の扉だけがあった。
 サイファはその扉を開け、中に入っていった。そのすぐ後ろから、ふたりも足を踏み入れた。
 テーブルが三つほどとカウンター数席。客も数人ばかり入っている。何も心配する必要のない、ごくありきたりな酒場だった。ありきたりでないのは狭さだけである、
 ジークたちは、ようやく少し緊張が緩んだ。

「あら、お久しね。サイファ」
「ごぶさたしています」
 サイファは声を掛けてきた女性のいるカウンターへと近づいた。
 その女性は、歳は40ほどだろうか。若くはないが、長い艶やかな髪をたたえた美しい人だ。話ぶりからいって、おそらくここの女主人だろう。
 彼女はサイファに背を向け、グラス片づけながら尋ねた。
「どう? ウチの娘は元気でやってる?」
「ええ、それはもう。毎日怒ったり笑ったり、相変わらずですよ」
 サイファは茶化すように、抑揚をつけて返事をした。
「そう。サイファがそういうんなら心配ないわね。……ところで」
 そこまで言うと、彼女は急にくるりと振り返った。そして、右手でほおづえをつき、まっすぐふたりを見据え、ニッと笑った。
「後ろのふたりは新人クン?」
「いえ、アカデミーの生徒です。娘の友人ですよ」
「へえ、アンジェリカの。良かったじゃない」
 サイファはふたりの後ろにまわり込んだ。そして、右手でジーク、左手でリックの肩を抱き、にこやかに紹介を始めた。
「こちらはジーク君とリック君。そしてこちらは王妃様の母君のフェイさん」
「……え?」
 ふたりは同時にサイファに振り向いた。
「あははははは」
 その様子がおかしかったのか、女主人が豪快な笑い声をあげた。
「驚くのも無理ないわ。とうてい王族に関わりあるようには見えないわよねぇ。でも娘は娘、私は私。娘はどうであれ、私はただの酒場の女だから」
「そういえば、王妃様は酒場の娘だとかいう噂、聞いたことなかった?」
 リックははっとして、ジークに問いかけた。だが、ジークが答えるより早く、女主人のフェイが割って入った。
「噂じゃないわ、本当のことよ。でも勝手ね。王宮の連中も世間も。半ば強引に連れ去っておきながら、酒場の娘だの、父親がいないだの、財産目当てだのごちゃごちゃと。やりきれないわよ」
 吐き捨てるように、一気に不満をぶちまける。
「すみません」
 サイファは穏やかな笑顔のまま、頭をわずかに下げた。
「別にあなたが悪いわけじゃないでしょ」
 フェイはわずかにため息をつき、素っ気なく言った。
「そこら辺の空いてる席に座ってちょうだい」
「個室をお願いしたいんですけど、空いてますか?」
 それを聞いて、フェイの動きが一瞬止まった。そして、すぐに表情を緩めると、軽く息を吐いた。
「空いてるわよ。好きに使って」
 サイファは一礼すると、ふたりを引き連れ、カウンターの奥へ入り込んでいった。

「なんか……店というより普通のおウチみたいですね」
 手あかの付いた木製のタンス、小さめの机、古びたソファ。リックの言うとおり、そこは酒場という雰囲気とは少し遠い感じだった。
 サイファはふたりの背中を軽く押し、ソファの方へ導く。
「ここはお店ではないんだよ。フェイさんの家の応接間兼リビングルームなんだ」
「え? それって……」
 開いた入口からフェイが顔だけ覗かせた。リックの言葉をさえぎると、自分の大きな声を部屋に響かせる。
「サイファが個室個室ってうるさいから、仕方なく貸してあげてんの。これだからおぼっちゃんは困るわ」
 半ば諦めたような投げやりな口調だが、どこかあたたかみを感じた。
「すみません」
 サイファはにこやかに謝った。そして、満面の笑みを彼女に向けた。
「……っとに、いっつもその笑顔にごまかされるわね」
 フェイは、気だるく無造作に髪をかきあげた。
「で、サイファはいつものでいいわね。おふたりさんは?」
「僕はカルアミルクお願いします」
 リックは即答した。
「俺は、スクリュードライバーで」
 ジークは少し考えながら答えた。
「オーケー。ちょっと待っててね」
 ウィンクをひとつ残して、フェイはその扉口から姿を消した。
「この店は昔から王宮で働く者たちの隠れ家的な場所なんだよ」
 サイファはソファに身を預けて、くつろいだ様子を見せた。
「看板とか何もなかったので、ちょっとびっくりしました」
 リックはようやく安堵して笑顔を見せた。ジークも無言でほっとした表情を浮かべる。
「フェイさんも、娘の王妃様も、口は悪いけどいい人たちだよ。今度、王妃様にも会ってみるか? 紹介するよ」
「えっ?!」
 ジークとリックが同時に驚きの声をあげた。
「おまちどう」
 そこへ、トレイにグラスを3つのせ、フェイが勢いよく入ってきた。
「ごゆっくり」
 机の上にグラスを乱暴に置くと、大きな足どりで戻っていった。扉口でふいに立ち止まり、ゆっくり振り返ると、今までとは違った張りつめた表情でサイファを見つめた。
「ここ、閉めとくから。用があったら呼んで」
「ありがとうございます」
 フェイとは対照的に、サイファは微笑みを崩さずに答えた。
 バタン、と軽めの音を立てて扉が閉じられた。
「フェイさんは察してくれているんだ。私が個室を要求するときは、重大な話をするときだとね」
 サイファはそう説明をした。彼の口元は笑っていたが、その目はふたりを突き刺すほどの鋭さを持っていた。

 グラスの氷がカランと音を立てて崩れた。
「アンジェリカが泣いたときのことを憶えているか?」
 サイファの問いかけに、ふたりは黙って頷いた。
「あの子は泣かない子なんだ」
「泣かない子?」
 リックがおうむ返しに尋ねた。
「親族にいろいろ言われてきたということは、さっきアンジェリカが言ったとおりだが、そんな目にあっても彼女は涙ひとつ見せない。ただ感情を押し殺したような顔でじっと耐えている」
「強いんですね」
 リックがあいづちを打った。
 しかしサイファは、うなだれて首を横に振った。
「そうじゃないんだ。嵐が去ったあと、アンジェリカは意識を失うように眠りについて、そのままなかなか目を覚まさない。ひどいときは3日も眠ったままだった」
 ジークが息を飲む。胸の鼓動がだんだん大きくなっていくのを感じた。
「ラウルによれば自衛本能だそうだ。自分の許容以上のことがなだれ込んできたために、自衛のため脳が活動を停止する……自分が壊れる前にな。ここで無理に起こしてしまうと、彼女を壊してしまうかもしれない。だから待つしかないんだ。とてもつらいよ。もう永遠にこのまま目覚めないかもしれないと、心臓を掻きむしられる気持ちで、ただ待つことしか出来ない」
 サイファは眉間にしわを寄せた。
 ジークはサイファの心情、アンジェリカの心情を思い、息が止まりそうになった。
 リックもうつむき、苦しそうに眉根を寄せた。そして唐突にはっとすると顔を上げた。
「もしかして、こないだラウルのところで寝てたっていうのも……」
「そうだ。それもな。何かを察したようで、ラウルがアンジェリカを呼んで、看ていてくれたそうだ」
 ジークの頭にもやがかかったように感じた。ラウルの新たな面を知るたび、彼のことがだんだんわからなくなっていく。
「そんなアンジェリカが泣いたんだよ。君のことでね」
 サイファはゆっくり顔を上げ、まっすぐジークを見つめた。
 ジークの心臓が飛び出しそうな勢いで打った。
「それを見て、私は決めたんだ。君たちに託そうと」
 そう言うと、少しうつむき、自嘲気味に笑った。
「もちろんそれは私たち親のエゴイズムだということは、十分承知している。君たちがそれを受け止める義務はない。もし背負いきれなくて、逃げ出しても、見捨てても、君たちを責めるつもりはない」
 ジークはサイファの言っていることが理解できず、ただ頭が混乱するばかりだった。わずかに震えながら、ゆっくりと口を開いた。
「どういうこと、なんですか?」
 それだけの言葉を、喉の奥から絞り出した。
「すべてを知ったうえで、アンジェリカと仲良くしてほしい。もっと言えば、あの子のことを救ってほしい……。私たちの勝手な望みだよ」
 ジークは何かを言おうと、言葉を探したが、見つからなかった。
 リックもただ呆然としているだけだった。
「とりあえず飲もうか」
 重くなったその場の雰囲気を払拭しようと、サイファは努めて明るく言った。そして、まだ一口も手のつけられていないグラスを持ち上げた。グラスの外側についていた水滴が滴り落ちた。
「君たちも」
 にっこりと笑って左手を差し出し、ふたりにもグラスを取ることを促した。ふたりは言われるがままに、グラスを手に取った。
「乾杯」
 サイファは静かに言い、グラスを合わせた。そして、バーボンを少し流し込むと、再び口を開いた。
「これから話すことは、アンジェリカ個人のことではなく、ラグランジェ家全体に関わることだ。これはラグランジェ家以外の人に漏らすことは絶対に禁じられている。ラグランジェ家の中でも知っている人間はそう多くないんだ。だから、必ず他言無用でお願いするよ。親兄弟にも」
 ジークもリックもグラスを持ったまま、動きが止まっていた。これから話される内容が何なのか想像もつかない。緊迫した空気が、ふたりを息苦しくさせる。
「もし、私が君たちに話したことが知れたら……。私も君たちも、命を狙われることになるかもしれない」
 サイファはまっすぐジークを見据えた。その瞳の真剣さが、彼の言っていることが決して大げさではないということを物語っていた。
 ジークはサイファから目をそらすことなく、まっすぐ見つめ返した。
「わかりました」
 感情を抑えた低い声で、そう返事をした。
 リックは歯をくいしばり、無言でうなずいた。

 サイファは再びバーボンを口にした。そしてグラスをそっと机に戻すと、深く息を吐き、話の続きを始めた。
「長老会、というものがラグランジェ家にはあってね。最重要事項はここで決定されるんだ。構成員は五人だが、誰であるかは明かされていない。家族にも秘密らしいので、本当に構成員どうししか知らないことになるな。まあ私には何人かの察しはついているが……」
 そこまで言うと、少し目を伏せて考え込んだ。だが、すぐに顔を上げると、じっとふたりを見つめた。その目には強い光が宿っていた。
「その長老会に殺されかけたことがあるんだよ、アンジェリカは。生まれたばかりの頃にね」
「そ、んな……」
 思わずリックが声をもらす。
「長老会だという確証はないが、私は間違いないと思っている。彼女の髪の色と瞳の色を知り、生まれてこなかったことにしようと思ったのだろう」
 サイファは目を閉じて、息を吸い込んだ。そして、少し前かがみになり、膝の上で手を組んだ。
「ところが、錯乱したレイチェルが、逆にその暗殺者をあやうく殺しかけてしまってね。まあ自分の子供が首を絞められている場面に遭遇して、錯乱するなという方が無理な話だが」
「一度だけ、ですか?」
 ジークは冷静を装ったつもりだったが、激しい鼓動の影響を受けて、その声は揺れていた。
「ああ。それ以降は一度も襲われていない。だからといって不安がなくなったというわけではないよ。ラウルにアカデミーの担任を頼んだもの私だ。アンジェリカを見ていてもらえるようにな」
 そう言ったあと、サイファはにっこり笑った。
「ラウルが担任になったことは、君たちには迷惑だったと思うが」
「いえ」
 ジークは反射的に答えた。なぜそう答えてしまったのか、自分でもわからなかった。いや、この状況で迷惑だなどと言えるはずがない。
 彼の複雑な表情を見て、サイファは再びにっこりと微笑んだ。ジークは、彼に心の内を見透かされたように感じて、ばつが悪そうに下を向いた。
「まあ、飲んで」
 サイファはふたりにすすめると、自らもグラスを取り、残り少なくなったバーボンを一口で飲み干した。カラカラと音をさせながら、ゆっくりとグラスを置く。ジークとリックも、それに続いて少しだけ口をつけるとグラスを置いた。ふたりとも衝撃的な話を聞いたばかりで、悠長に飲むなどという気分にはなれなかった。

 サイファはゆっくり目を閉じた。
「実はね……」
 その不安を煽るような切り出しに、ふたりの緊張が一気に高まった。無言で次の言葉を待つ。
「まだ話したいことはあるんだよ」
 サイファはじっとジークを見つめた。
「まだあるんですか?」
 リックは驚きを隠しきれなかった。サイファは彼に振り向くと、穏やかな表情を浮かべた。
「今日は一気にたくさん話しすぎたね。この話はまた今度にしよう」
「今、聞かせてください!」
 ジークは机に手をつき、身を乗り出して叫んだ。横でリックが目を丸くしている。ジークははっとして、その身を戻した。そして、うつむきながら、小さな声で付け足した。
「……気になりますから」
 サイファは再びジークを見つめた。ジークはその瞳の深さに、吸い込まれそうな感覚をおぼえた。
「では、あと少しだけ付き合ってもらうとしよう」
 ジークとリックは息を飲んで頷いた。
「ラグランジェ家には婚約制度というものがあってね。本家の子は皆、10歳までに婚約者を決めなければならないんだ。相手は分家からと決まっているし、本人の意向など全く無視される」
「え……。それじゃ、アンジェリカも?」
 リックは驚き、焦って尋ねた。
「いや、まだ決めていない。というか、決めるつもりもないよ」
 サイファはにっこりする。
「おかげで、今、あちこちからせっつかれて大変だよ。でも、あの子には自分で自分の幸せを見つけてほしい。それが私たちの願いだ」
 穏やかだがきっぱりとした口調で言い切った。リックはほっとしたように笑顔を見せた。ジークは小さく首を縦に振った。
 しかし、サイファの顔にふと暗い影が広がった。小さく息を吐くと、低い声で話し始めた。
「ただ、それは理想論であり、現実となると、それを阻むものが出てくる」
 ジークとリックは固唾を飲んで耳を傾けた。今度は一体どんな話なのだろうと、考えるだけで息苦しくなる。
「私が生まれるより前の話だが」
 両手を口の前で組み、少しうつむいた。
「本家の娘で、決められた婚約者でない人と一緒に逃げた……。俗っぽく言えば駆け落ちだな。そういうことをした人がいたんだ」
 サイファはうつむいたまま淡々と話し続けた。しかし、サイファの冷静さとは裏腹に、ジークの鼓動は何かに煽られるように、どんどん強くなっていった。
「だが」
 短く強い調子で言うと、サイファは上目づかいにジークに視線を送る。
「それから間もなく、相手の男が亡くなった」
 サイファは、ジークの瞳を射抜くような強さで見つめた。
「表向きは事故死、ということになっているが、おそらくは……」
「長老会、ですね」
 リックが硬い表情でゆっくりと言った。その額には冷や汗がにじんでいる。
「ああ」
 サイファは激しい感情を懸命に押さえ込みながら、低い声で返事をした。
「ここまでのことをやってきたからこそ、ラグランジェ家を、金の髪を、青い瞳を、守ってこられたのだと思うよ。いったいどれだけの人間が血と涙を流してきたのか……。こんなもののために」
 サイファは嫌悪感をあらわにすると、自分の横髪を無造作に掴み、ひねりながら引っ張った。
「私たちは何があっても全力で守るつもりだが、守りきれる保証はどこにもないんだ。ときどき思うよ。ラグランジェ家のしきたりに従って、おとなしくしていた方が、彼女のためなのかもしれない、とね」
「そんなことは、ないと思います」
 ジークはときおり言葉を詰まらせながら言った。サイファはその言葉を聞くと、にっこり笑った。
「そうだな。これからは、もう迷わなくて済みそうだ」

「もっとゆっくりしていけばいいのに」
 外へと続く階段を前にして、見送りのフェイは少し残念そうに言った。
「彼らがあした、バイトがあるっていうのでね」
 サイファがそう言うと、リックが申しわけなさそうに軽く頭を下げた。
「そう。君たち、ひとりでもいいからいつでもいらっしゃい」
 フェイは挑発的な笑みを浮かべると、下からふたりを覗き込んだ。
「はい」
 少し頬を紅潮させながら、リックが返事をした。ジークもその返事に合わせて頷いた。
 三人はフェイに見送られながら、短い階段を上がり、通りに出た。辺りはもうすっかり暗くなっていた。もともと薄暗い道だったが、灯りがほとんどないため今はすっかり闇である。
「ところで、何のバイトかは教えてもらえないのかな」
 サイファはふたりを振り返ると、いたずらっぽい笑顔を見せた。
 ふたりは互いに顔を見合わせると、ジークが小さく頷いた。リックがサイファの方に向き直る。
「あの……平たくいうと、着ぐるみショーです。魔導が使えることが条件だったので、僕たちにはちょうどよかったんです。アカデミー魔導全科の生徒だって言ったら即OKでした」
「意外なところで恩恵が受けられるものだね」
 サイファがにこやかに相槌を打った。
「はい。僕もこんなに効力があるとは思いませんでした。それで着ぐるみショーなんですけど。どういうものかというと、いま子供たちに人気の戦隊もので、魔導の力をつかって怪人を倒し世界の平和を守るっていうストーリーなんです。僕がイエローでジークがブルーで……」
「そんなことどうでもいいだろ!」
 だんだん嬉しそうに話しだしたリックを、ジークはあわてて止めた。彼は恥ずかしそうにうつむいた。しかし、わずかに顔を上げると、サイファの様子をこっそり窺った。サイファは穏やかな笑顔をたたえたまま、ふたりを見守っていた。
「俺、アンジェリカに言います。ちょっと恥ずかしくてあんまり言いたくなかったんですけど、アンジェリカの秘密だけ聞いておいて、自分のことは言わないっていうのもやっぱり卑怯な気がしますし」
 サイファは笑顔で頷いた。
「きっと喜ぶよ、あの子」

 靴音を響かせながら通りを歩く。ジークは前を行くサイファの背中をじっと見つめながら、意を決したように口を開いた。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
 サイファは足を止め、顔だけジークに振り返った。
「どうして、アンジェリカの髪と瞳は黒いんですか?」
 沈黙があたりを包んだ。リックは顔から血の気が引いた。なんてことを訊くのだと焦った。しかし、サイファは動揺することなく、にっこりと笑った。
「それは、私には答えることのできない質問だ」
 そう答えると、再び前を向き、なにごともなかったかのように歩き出した。
 ジークには、その微妙な言いまわしの意味することはわからなかったが、もうこのことについては触れてはいけないような、そんな気にさせられた。



読者登録

瑞原唯子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について