目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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12. 蒼い瞳のクラスメイト

「俺、四大結界師を目指すぜ!」
 まだ肌寒さの残る中、ジークは顔を上気させ、ひとりで熱くなっていた。ジークとは対照的に、アンジェリカとリックのふたりは、寒さのために身をすくめている。ふたりともあまりジークの話には関心を示さず、ただ黙って歩いているだけだった。それでもジークはおかまいなしに話を続けた。
「かっこいいよな。自分が世界を護るんだぜ」
 両方のこぶしを握りしめ、興奮をあらわにしている。そんなジークを横目で見ながら、アンジェリカが冷ややかに言い放った。
「あんな人柱のどこがいいのよ。毎日地味に結界に力を送り続けるだけで、誰もあまりありがたさを実感してくれないじゃない」
 それでもジークの熱は冷めることはなかった。
「おまえみたいなお子さまには男のロマンはわかんねぇよ。な、リック」
 アンジェリカの向こう側にいるリックを覗き込んで、白い歯を見せながら同意を求めた。
 だが、リックはから笑いを浮かべた。
「僕もどっちかっていうとアンジェリカの意見の方が……」
「なんだ。おまえもまだまだお子さまだな」
 肩をすかされたジークは、力の抜けた声でひとりごとのように言った。

 アカデミーの門をくぐる。そこを境に少し暖かくなっていることは、寒さの和らいだ今でもまだ感じることができる。これも、結界の力なのだろうか。

「でも、現実問題として、難しいんじゃないかなぁ」
 リックが冷静に分析をする。
「世界でたった四人だけ。しかも滅多なことで交代はないんでしょ」
 ジークは口の右端を軽く上げ、不敵な笑みを浮かべると、リックの分析に切り返した。
「いいや四人中三人はジジイだし、俺がアカデミーを卒業する頃にはチャンス到来かもな」
「チャンスはいずれ来るとは思うけど、それでもなれるとは限らないわよ」
 周りの空気が暖かくなったことで、アンジェリカの口は次第に滑らかになってきた。
 一方のリックは、苦笑いしながらも、周りをきょろきょろうかがっている。ふたりが悪びれる様子もなく失礼なことを言っているので、他の人に聞かれてはしないかと冷や冷やしているのだ。
「いーや」
 ふたりの二歩前を歩いていたジークは、足を止め、振り返り、胸元で軽く握りこぶしを作った。
「俺はチャンスさえあれば、必ず実現させるぜ」
 自信とやる気をその瞳にみなぎらせ、きっぱりと言い放った。

「私も四大結界師を目指してるわよ」
 ふいに聞こえたなじみのない声に、三人は一瞬動きを止めた。なじみはないが、その落ち着いた、深みのある声には聞き覚えがあった。
「男じゃないけどね」
 というと同時に、教室の扉の内側からひとりの女性が姿を現した。
「……えーと、おまえ……。誰だっけ」
「ショックだなぁ。クラスメイトなのに。セリカよ。セリカ=グレイス」
 セリカと名乗った女性は、その言葉とは裏腹に明るく笑っていた。
 ジークはあまり他人に関心がないせいか、いまだにクラスメイトの顔と名前を覚えきれていない。そんな彼だからわからなかったが、実はセリカはアカデミー内ではかなり知られた存在なのだ。
 背が高く、スレンダーなシルエット。利発そうな引き締まった顔立ち。明るい栗色の髪、澄んだ濃青色の瞳。これだけの要素が揃えば否が応にも目立つ。
 もちろんアンジェリカとリックも、直接話をすることはほとんどなかったが、彼女のことはクラスメイトとして認識していた。

「セリカさんはどうして四大結界師になりたいの?」
 リックが不思議そうに尋ねた。
「ああ」
 ひと呼吸おくと、顔をわずかにうつむけて、右手の人さし指を口元に持っていった。わずかな時間、そのポーズで考えたあと、顔を上げ、そして語り始めた。
「私の亡くなった祖父がね、四大結界師のひとりだったのよ。私は現役時代のことは知らないんだけどね」
 ふいに目を細めて、懐かしそうに微笑む。
「結界師という仕事にすごく誇りを持ってた人でね。何度も話を聞かされているうちに、私もだんだん憧れを持つようになっちゃって」
 セリカは三人から顔をそらし、後ろで手を組みながら、軽く肩をすくめた。
「なんか、うまいことすりこまれちゃったのかな」
 そう言って、照れ笑いをした。
 それまで彼女の話を黙って聞いていたアンジェリカが、遠慮がちに口を開いた。
「あの、もしかして、その人って……」
 そこまで言ったところで、セリカは思い出したように目を大きく見開いた。「あ」と言うと同時に、ぽんと手を叩いた。
「そうそう。私の祖父はラグランジェ家の人よ。分家の方だけど。私たちは遠い親戚ってことになるのよね」
 セリカはそう言いながら、アンジェリカに親しげな笑顔を投げかけた。アンジェリカは一瞬、戸惑いの表情を見せたが、それはすぐ無表情に覆い隠された。
「へえ。そうなんだぁ」
 アンジェリカの代わりに、リックの素頓狂な声が飛んだ。彼が続けて何かを言おうとしたとき、そこで始業を告げるチャイムが鳴りだした。

「親戚っていったって、遠いじゃない」
 アンジェリカがかぼそい声でつぶやく。しかし、そのセリフはチャイムにかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。


13. 闇と静寂のひととき

 アンジェリカたちがアカデミーに入学してから約四ヶ月が過ぎた。あと二週間ほどすると期末休みに入るのだが、その前にひとつ、重要なイベントが待っていた。期末試験である。

 図書館の窓際の席。三人は大きな机に並んで座っていた。
「まだやっていくの?」
 リックはぐったりと机に伏せる。しかし、隣のふたりは目もくれない。ただ淡々と書物やノートに向かっている。
「もう九時過ぎてるよ」
 返事のないふたりに向かって、覇気のない声で畳み掛けた。
「帰りたきゃ、先に帰っていいぜ」
 ジークは書物から目をそらすことなく、素っ気なく答えた。
「アンジェリカは? そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
 返事のなかったアンジェリカの方に振ってみた。
 まだ子供なんだから——そう付け加えようとしたが、やめておいた。それは彼女の最も言われたくない言葉であることがわかっていたからだ。
「そう……。じゃ、先に帰るよ」
 机の上に広げていたノート、筆記具を鞄の中にゆっくりと収めていく。
「僕、もうホントに疲れちゃって。ゴメンね」
 片眉をひそめ、右手をひたいの前で立て、申しわけなさそうに許しを請う。肝心のふたりは見ていなかったが、そうせざるをえない気持ちだったのだ。
 そして音を立てないように立ち上がり、ドアに向かってゆっくり歩き始めた。
「またあしたね」
 背後から唐突に聞こえた高い声。リックはその声に振り返った。ようやく顔を上げたアンジェリカが少しだけ笑って、顔の横で小さく手を振っていた。
 リックもつられて笑い、同じ動作で返した。少し、安堵の色が見えた。

 リックの根性がないというわけではない。アンジェリカ、ジークとの力の差なのだ。
 試験期間中の授業は午前のみ。午後は自己鍛練の時間となる。体力トレーニングに魔導力を高めるための瞑想、ヴァーチャル・リアリティ・マシン(通称 VRM)と呼ばれる機械でのシミュレーション。それらを日が落ちるまで続け、その後、夜九時過ぎまで、図書館や教室で文献を調べたりノートの整理をしたりする。
 そんな生活が、もう一週間も続いていた。
 特に VRMでのシミュレーションは、実戦と同程度の体力、精神力、魔導力を使う。それを連日行うということは、力のない者にとっては自殺行為にも等しい。
 リックもずっとふたりに付き合って頑張ってきたが、そろそろ限界にきていた。悲しいことだが、実力が違い過ぎていたのだ。同じメニューをこなそうとするのが無謀だったといえる。リックは自分自身でそのことは感じ始めていた。
 しかし、アンジェリカとジークが楽々とこのメニューをこなしているというわけではない。リックほどではないが、やはり疲労がたまってきている。その体を支えているのは、お互いに対する「負けたくない」という気持ちであった。

「おまえ、まだやっていくのか?」
 本をめくる手を止めずにジークが尋ねる。が、アンジェリカの返事を待たずに、続けて言った。
「子供が夜ふかしするなんて、体に悪いぞ」
 アンジェリカの動きが一瞬止まる。
「たいして歳も違わない人に子供扱いされたくないわ!」
 ジークの方に向き直り、両こぶしを振り下ろして、怒りをあらわにする。
「たいしてって八つも違うだろ。子供に子供って言って何が悪いんだ」
 ジークは冷静に火に油を注ぐ。アンジェリカは思いっきりほほを丸くしていたが、上手い返答を思いつかなかった。仕方なく、怒りを残したまま本に向き直った。

 そして、またしばらく、静かに時が過ぎていった。

「俺、そろそろ帰るわ」
 静寂をうち破るジークの声。
「おまえはどうする?」
 アンジェリカは慌てて正面の壁の掛時計を見る。間もなく十一時になろうとしていた。

 いつも帰りを切り出すリックを先に帰してしまったことで、またお互い意地を張り合っていたことで、帰るタイミングをつかめないままこんな時間になってしまっていた。
「私も帰る」
 帰ると決めた途端、気が抜けたのか急に眠気が襲ってきた。口元を隠すこともなく、大きくあくびをする。
 その様子にジークの緊張もふいに緩む。
「ちょっと! いま笑ってたでしょ? なに笑ってるのよ!」
 あくびで潤んだ目を拭いながら、アンジェリカが食って掛かった。
「笑ってねぇよ」
 そう言いつつも、少し戸惑った様子で顔をそむけた。
「ほら、早く片付けろ。行くぞ!」
 照れ隠しからか、背中を向け、短くまくし立てる。そしてさっさとドアの方へ歩き出した。
 その声につられて、アンジェリカは慌てて鞄の中に本を押し込み、小走りでジークの後を追いかけた。

 ふたり並んで無言のまま歩く。ザッ、ザッ。薄い砂のこすれる音だけが明かりのない空間に響く。
 アカデミーの門をくぐり通りに出たところで、アンジェリカは足を止め、ようやく口を開いた。
「それじゃね。またあした」
 そう言った目の前を、ふいにジークが横切っていった。
「え? ちょっ……。ジークのうちはあっちでしょう?」
 無言で歩き続けるジークを小走りで追いかける。大きく伸ばされた右手は、体とは反対を指している。
「おまえんちはこっちだろ」
 ぼそっとぶっきらぼうにつぶやく。送っていく、と素直に言うのが照れくさいらしかった。
「わたし、ひとりで帰れるのに」
 笑っているのか怒っているのか戸惑っているのか、微妙な表情と声。ジークの気持ちは嬉しかったが、それを素直に表現するのは照れくさい。また、嬉しいけれども子供扱いされているのではないかという不安や不満もある。それらが入り混じって複雑な表情を作り上げていた。

「まっすぐでいいのか?」
「うん。ずっとまっすぐ」
 ジークの斜め後ろをついて歩く。
 再び訪れる沈黙。夜の静寂に、ふたりの靴音だけが浮かび上がる。
 アンジェリカは何か話をしたい衝動に駆られたが、何を話していいのかわからず、もやもやした気持ちのまま沈黙を続けた。

「俺、こっちの方に来たことはほとんどないんだよな」
 静寂を破ったのはジークだった。歩きながら隣の王宮を見上げている。
 王宮とアカデミーは隣り合って建っていて、ふたりは今、その前の通りを歩いているのだ。ジークの家は反対方面のため、特別な用でもない限り、こちらに来ることはない。
 王宮の門の前に差しかかると、ささやかながら明かりがともっていた。そしてその明かりの下に、見張りの衛兵がふたり立っていた。
 不審者に間違われたら嫌だな、そんなことがふとジークの頭をよぎった。だが、というかそれだからこそ、平静を装い通り過ぎようとしていた。
 そのとき、ふたりの衛兵が同時にこちらに向けて頭を下げた。予想外の出来事に、ジークは何が起きたかわからず、うろたえてまわりをきょろきょろ見回す。そして目に入ったアンジェリカの様子に、ようやく事情が飲み込めた。
 アンジェリカは衛兵に軽く会釈をしていた。そう、つまり、衛兵はジークではなくアンジェリカに礼をしていたのだ。考えてみれば当然のことである。

 衛兵を後にし、少し離れたところでジークが口を開いた。
「さっきの、お友達か?」
「……それ、皮肉?」
 アンジェリカは、見せつけるように、はぁと大きくため息をついた。
「あの人たちは、私じゃなくてラグランジェ家に頭を下げたの。わかっているんでしょ」
 そうじゃなきゃ、私なんて……。その言葉は心の中だけにとどめた。
「そういうもんなのか」
 ジークは納得しきれないようで、首をかしげていた。

「あ。ここよ、うち」
 そう言って、アンジェリカは歩みを止めた。ジークも足を止める。そしてまわりを見渡した。しかし、どこにも民家らしきものは見当たらなかった。
「……どこだ?」
「だから、ここ」
 人さし指で指し示す。その方向を目で追う。見る。見上げる。
「……これ、まだ王宮だったんじゃねぇの?」


14. レモンティ

「これ、まだ王宮だったんじゃねぇの?」
 ジークがそう思うのも無理はなかった。おおよそ民家とはほど遠い、白壁の宮殿造りの家。大きさもかなりのものである。
 位置もまた紛らわしい。王宮のすぐ隣に横づけされて建っていた。よく見ると仕切りのレンガ壁があるものの、知らない人が見れば、王宮の一部や別館にしか見えないだろう。
 ジークはただ呆然と、だらしなく口を開けて見上げていた。
「アンジェリカ!」
 そこへ女の人の声が響いた。アンジェリカとは違い、もう少し大人びた感じだ。
「遅かったじゃない。心配しいてたのよ」
 その女の人はアンジェリカの家から出てきたようだった。門を開け、小走りでアンジェリカの元に駆け寄る。
「頑張りたい気持ちもわかるけど、夜はあんまり遅くならないようにして」
「ごめんなさい」
 アンジェリカは素直に謝った。ジークはそんな彼女を見たのは初めてだったので、なにか不思議な気持ちを覚えた。
 そして、最も気になること。
 アンジェリカのお姉さん……か?
 あまりじろじろ見るのはどうかと思いつつも、気になって、視線は彼女を追いかけていた。
 まず目をひくのはあざやかな金髪。この暗闇でもわずかな光を受けて輝いている。長さは腰くらいまであるだろうか。そしてかすかにウェーブを描いている。黒髪ストレートのアンジェリカとは対照的だ。しかし、そのあどけない顔立ち、小柄で華奢な体つきは、どことなくアンジェリカと似ている。上半身をカチッと締め、腰からふわりと広がったロングドレスは優美なかわいらしさを、そして大きく開いた胸元はアンバランスな色気を演出していた。
 気配を感じたのか、視線を感じたのか、彼女はふいにジークの方に顔を向けた。視線がぶつかる。その瞬間、彼は頭が真っ白になり、体は金縛りにあったように動けなくなった。大きな蒼い瞳が、彼をとらえたまま離さない。それは短い時間だったが、彼にはとても長く感じられた。
「ジークさん、ですね?」
 ジークの方に体ごと向き直り、かすかに首を傾け、ありったけの笑顔で彼に問いかける。その声で、ジークはようやく我にかえった。
「あ、はい。でもどうして俺の名前……」
「アンジェリカから、いつも話は聞いていますから」
 急に自分の名前を出されたアンジェリカは、とっさに顔を上げる。
「話なんてしていないわ! ……そんなに」
 慌てて否定するも説得力はない。彼女は頬をふくらまし、自分の名前を出した相手を、うらめしそうに上目づかいで睨んでいる。
 しかし、睨まれた当の本人は、まったくおかまいなしに続ける。
「さ、どうぞ。上がってください」
 右手を家の方に向け、左手をジークの背中にそっと添えた。瞬間、ビクっと小さく体を揺らす。そして、前を見たり後ろを見たり、あからさまにうろたえた様子を見せている。
「ただ送ってくれただけなんだからね! 遊びにきたわけじゃないんだから!」
 アンジェリカが後ろから声を張り上げ、慌てて引き止める。
 だが、金髪の彼女は笑顔を崩さなかった。
「いいじゃない。せっかくここまでいらしたんだから。ね?」
 そう言って、ジークに同意を求めた。
 ジークは戸惑いながらも、うながされるまま歩き出した。アンジェリカはずっと頬をふくらませたままだったが、しばらくすると彼女も後ろをついて歩き出した。

 重厚で格調高そうな扉が音を立て、ゆっくりと開いた。光が闇に飛び出し、ジークたちの顔を照らす。
 そして目の前に広がった世界に、ジークはまたしても言葉を失った。
 まるで別世界。それは、彼のイメージの王宮そのものだったのだ。高い天井、吹き抜け、中央の幅広く白い階段、赤い絨毯、きらびやかなシャンデリア、古いけれどよく手入れされたインテリア。そのすべてが、彼の初めて目にするものだった。
「さ、こちらよ」
 通されたのは玄関ホール隣の応接間。白が基調のただ広い部屋の奥にはソファと机、そして漆黒のグランドピアノ。目につくのはそれくらいだ。贅沢な空間の使い方である。
 ここだけでも俺んちよりでかいな…。
 ジークはあたりを見まわしながらそんなことを考えていた。
「お飲物は紅茶でいいかしら」
「はい」
 ほとんど条件反射で答える。
「わたしレモンティ」
 アンジェリカはそう言うと、無造作に鞄を置いて、応接用の長椅子に身を預けた。
「ジークさんも座ってお待ちくださいね」
 その言葉を残し、長いブロンドをなびかせながら、彼女は部屋を去っていった。
 広い部屋にアンジェリカとジークのふたりきり。独特の不思議な空気。柱時計の振り子の音が静寂を刻む。
「立ってないで座れば」
「ん? ああ」
 アンジェリカの言葉にうながされて、彼女の斜め前の席に腰を下ろした。そして、目の端で彼女の様子を盗み見る。
「末っ子?」
 しばしの沈黙のあと、ジークは唐突に質問をぶつける。アンジェリカはきょとんとしながらも答える。
「わたし? ひとりっ子だけど?」
 その答えに、今度はジークがきょとんとする。
「じゃあ、さっきの人は……?」
 アンジェリカは話の流れが読めず、わずかに首をかしげる。
「母親だけど?」

「お待たせしました」
 大きめのトレイにティーポットとティーカップ三つを載せて、噂の張本人がゆったりとした足取りで戻ってきた。
 ジークは口を半分開けたまま、瞬きも忘れて彼女をじっと見ている。
 彼女はトレイを静かにテーブルの上に置くと、視線の送り主の方に顔を向けた。彼の何か言いたげな顔を見ると、目をくりっとさせ、疑問を投げかけるように首を傾けた。
「アンジェリカのお母さん……ですか?」
 彼女のしぐさに促され、ジークは喉元で止まっていた言葉をようやく口に出した。
「そういえば自己紹介がまだだったわね」
 そう言うと、彼女はまっすぐジークの方に体ごと向き直った。
「レイチェル=エアリ=ラグランジェです。アンジェリカの母親よ。よろしくね」
 ふわりと笑いかけ、優雅に右手を差し出す。ジークは慌ててソファから立ち上がり、同じく右手を出した。
「ジーク=セドラックです」
 そして、柔らかく握手を交わす。そのとき、ジークはようやくほっとした表情を見せた。

「お茶、冷めちゃうわよ」
 その言葉以上に冷めた口調で、アンジェリカがふたりに割って入った。両ひじを自分の膝にのせ、ほおづえをついてむすっとしている。
「あら、私がジークさんと仲良くしてたから怒っちゃった?」
 レイチェルはいたずらっぽく笑いながら、上体をかがめ、後ろで手を組んでアンジェリカの表情を覗き込んだ。
「別に、怒っていないわ」
 レイチェルの追求を避けるように、目を少し伏せる。
「それなら良かった」
 弾んだ声、不自然に強調された語尾。なにか含みを持たせたその言い方に、アンジェリカは困惑するものの、表面上は努めて冷静をよそおった。ただ、その瞳だけがわずかに揺れていた。

 ひといきおくと、ティーカップを口に運び、レモンティをゆっくりと流し込む。体の中をあたたかいものが流れていくのを感じながら、静かに目を閉じた。そして、もういちどレモンティを口にした。あたたかさとともに、今度はわずかに含まれていた苦味が口の中に広がっていった。


15. 交錯するそれぞれの想い

「ジーク! きのうは女の人のところに泊まったんだって?!」
 アカデミーの門をくぐったところで、リックは大声でわめきながら、ジークの背中へ全速力で駆けていった。
 ジークはぎょっとして振り返り、一歩後ずさった。しかし、引いた足をすぐに戻すと、体勢を立て直し、逆にリックの方へ一歩踏み込んだ。
「おまえは誤解を招くようなことを、そんな大声で言うな!」
 そういうと、腕を組んで、はぁと大きくため息をついた。
「おふくろが言ったんだな。違うって言ってんのに…」
 半ば呆れ顔、半ば諦め顔で、ジークはうなだれる。
「なんだ。違うの?」
 リックの問いに、冷めた笑いで返す。
「俺が泊まったのはコイツんち」
 親指を斜め下に向ける。その先にはアンジェリカが無表情で立っていた。
「あのあと?」
 リックが視線を向けると、彼女は少し目を伏せ、わずかに顔をそらした。そして半開きになっていた唇をほんの少しとがらせると、後ろで手を組み、右足をカツンと地面に軽く打ちつけた。
 リックは、彼女のしぐさの意図することがわからず、不思議そうな顔をした。が、ジークはそんな彼女の様子にまったく気づく様子もない。
「なんか、成りゆきでな」
 表情を変えずに、ただ冷静に答えている。
「へえ、そうなんだ」
 リックは相槌を打ちながらも、アンジェリカの様子が気になって、それ以上深くは聞けなかった。なぜだか聞いてはいけないような気にさせられたのだ。そのまま、リックは押し黙ってしまった。ジークもあえて口を開こうとはしない。
 立ち止まったまま、三人に沈黙が流れた。

「いつまでこんなところで立ち話してる気?」
 その沈黙を破ったのはアンジェリカだった。小さい声だったけれど、どこか強気を感じさせるその口調はいつもと変わらない。少なくともリックにはそう思えた。彼はようやく少し安堵した。

 キーン、コーン──。
「今日はここまでだ」
 終業のチャイムと共に授業は切り上げられた。教壇の上のラウルはチョークを投げるように置くと、左手の上に広げられていた教本を勢いよく閉じた。
「明日からは試験だ。それなりに難しいので覚悟しておけ」
 その捨てゼリフを残して、教壇を降り歩き出した。そして、扉に手を掛けようとして振り返った。
「アンジェリカ」
 静まり返った教室に、その声が響きわたる。
 一斉に注目を浴びたアンジェリカは、少し動揺したのか、立ち上がろうとして机の上の本を床に落としてしまった。
 慌てて拾うと、それを持ったまま小走りでラウルのもとに駆け寄り、ふたりで教室を後にした。
「前から思ってたけど、あのふたりってどういう関係?」
 呆然としていたジークに、セリカは後ろの席から身を乗り出し、声をひそめて話しかけた。
「俺が知るかよ」
 ジークはぶっきらぼうに答え、ノートなどを乱暴に鞄に投げ込み始めた。
「なんか、昔の知り合いらしいよ」
 ジークの態度を見かねて、リックが横から苦笑いしながら口をはさんだ。
「ふーん、そう」
 リックの答えが期待に沿うものではなかったのか、あまり興味がなさそうな相槌を返した。
 ジークが鞄を右肩に引っ掛けて立ち上がると、セリカも慌てて鞄をつかんで立ち上がった。
「ジーク。今日も残って勉強とかやっていくんでしょ?」
 すでに教室を出ようと歩き始めているジークの背中に向かって声を投げる。
「いや。今日は帰る」
「え? そうなの?」
 意外な答えに呆気にとられている間に、ジークは教室の外に出ていってしまった。
 リックは顔の前で右手を立てた。
「ごめん。今日は機嫌が悪いみたい」
 申しわけなさそうな顔をすると、ジークを追って教室を後にした。

「うまく、いかないわね」
 小さな声でセリカがつぶやく。もう彼の姿が見えなくなったその扉を、ただずっと眺めていた。

「ねえ。何の用なの?」
 アンジェリカは、ラウルの歩調に合わせるため、ときどき走ったりしながらついていっている。
「顔色が良くない。どうせジークと張り合って無理してたんだろう。今日くらいはゆっくり休め」
 その足を止めることなく、ラウルが答える。
「無理なんかしてないわよ」
 自分が見くびられたように感じて、不満の色をその声に思いっきり含ませていた。
 するとラウルは彼女の方へ向き直り、片ひざを立ててしゃがみこんだ。両手を彼女の肩へのせ、まっすぐ目線を合わせる。
「たまには私のところへ来い」
 彼は真顔で言った。
 それが本心なのか、それとも自分を説き伏せるためなのか。どちらか判別がつかず、アンジェリカは少し頭が混乱していた。手に持っていた本を抱え込み、ぎゅっと抱きしめる。

 そこへ───。
「めずらしいわね。こんなところで会うなんて」
 聞き覚えのある声。アンジェリカとラウルが同時に声のした方を振り返る。
「お母さん!」
 そこには無邪気な笑顔をたたえたレイチェルが立っていた。彼女は軽く右手を上げて、アンジェリカに応えた。そしてそのあと、その視線を、アンジェリカからラウルへとゆっくりと移す。
「先生、こんにちは」
 わざと「先生」と呼んでからかっているのだということは、彼女のいたずらっぽく笑うその表情を見れば一目瞭然だった。
 ラウルは無言で立ち上がると、彼女の方に一歩踏み出した。
「アンジェリカのこと、よろしくね」
 レイチェルはラウルの目をまっすぐ見て、首を小さくかしげながら小さく笑った。
「……ああ」
 一拍の間をおいて、彼は静かに答えた。
「アンジェリカはこれからどうするの?」
 今度はアンジェリカに話を振る。
「私は、ラウルのところに……」
 まだ行くとは決めていなかったが、とっさに口をついて出てしまった。自分の言葉に一瞬とまどう。しかし、考える間もなく続けて畳み掛けられた。
「じゃあ、一緒に帰りましょう。私はこれからアルティナさんのところに行くから……四時すぎくらいかな? それまでラウルのところにいて」
 レイチェルは一方的に話を進めたあと、じゃあねと手を振り去っていった。
 ふたりはしばらく彼女の姿を目で追っていた。
 姿が見えなくなったところで、アンジェリカがひとりごとのようにつぶやく。
「うち、すぐ近くなのに。わざわざ一緒に帰るって……」

「アンジェリカの家はどうだった?」
 ずっと無言で歩いていたが、その沈黙に耐えかねたリックが、ジークに話を切り出す。
「でかかったな」
 一言だけの返事。しかし、リックはめげずに質問をした。
「アンジェリカのお父さんやお母さんとは会った?」
「父親は夜勤でいなかったが、母親とは会った」
 やはりそっけない返事。しかし、それもよくあることなので、リックはあまり気にしていないようだ。さらに続けて尋ねた。
「お母さんどうだった? アンジェリカと似てた?」
 リックのその問いかけに、ジークはふいにうつむいた。そして、しばらくそのまま考えを巡らせていた。
「……若かった」
 彼はぽつりとそれだけ答えた。


16. 実技試験

「やっぱり朝の空気は気持ちいいな」
 ジークは両手を広げ、張りつめた空気を体の奥まで流し込んだ。まだ静かな通りの真ん中を、大きく闊歩する。
 隣のリックは、彼とは対照的に弱々しく歩いている。その髪にはまだ寝ぐせがついたままだ。
「なんか、くらくらする」
 眩しそうに目を細め、右手の甲を額につける。
 今朝、まだ日が昇らない時間に、いきなりジークがやってきて叩き起こされたのだ。朝の空気が吸いたくなったからおまえも付き合え、そんな理由だった。ジークのわがままに振り回されるのは馴れていたので、このくらいのことでは別に腹は立たない。しかし、やはり眠いのはどうしようもなく、しきりにあくびが口をついて出た。
「試験までにちゃんと目を覚ましておいた方がいいぞ」
 彼の睡眠時間を奪った張本人が忠告した。
 今日で試験三日目。最終日である。筆記試験を終え、あとは実技を残すのみとなった。実技試験というだけで詳しい方法はなにも聞いていない。
「実技って何をやるんだろう」
 リックはジークと肩を並べて歩きながら、不安をそのまま口にした。
「さあな。でも、どんな試験でも、俺は負けないぜ」
 リックとは対照的に自信に満ちた口調。ここのところの自主訓練の手ごたえが、彼に自信を与えていたのだ。

 アカデミーの門をくぐる。
 まだ早いので、いつもの朝とは様子が違い、ひっそりとしている。人の声はまったく聞こえない。聞こえるのは、自分たちの靴音と、ときどき遠くで小さく響く足音だけだ。
 ジークはまっすぐ教室に向かうと、勢いよく扉を開け放った。案の定、教室には人影は見当たらなかった。それを確認すると、鼻から大きく空気を吸い込み、満足げな表情を浮かべる。
「やった。一番乗りだ!」
 自分の声が教室に響くのを聞いた後、大またでまっすぐ自分の席へ歩いていった。
 リックは、彼の子供っぽさにやや苦笑いしながら、そのあとに続いて歩き出した。自席の机の上に鞄を降ろすと、何気なく窓の外に目をやった。ふいに、見なれた人物がその視界に飛び込んできた。
「あれ? アンジェリカだ」
 ジークもリックの視線を追い、窓の外を見た。そこには、後ろ向きで顔は見えなかったが、確かに彼女とわかる姿があった。
「どこへ行くんだろう」
 彼女は教室であるこちら側に背を向けて歩いていた。彼女の向かっている方には、ふたりともほとんど行ったことがない。
 彼女の向かう先を、目でまっすぐにたどる。校庭の外れ、大きな木が三本立っているさらにその奥。木々の隙間から、こじんまりとした三角屋根の建物が垣間見える。窓ガラスの代わりにはめ込まれたステンドグラスが、そこが教会であることを、ささやかながら主張していた。
 今までその建物に全く気がつかなかったというわけではないが、少なくともその存在は、今の今まですっかり忘れていた。そのくらい存在感のない場所だった。彼らだけでなく、他の生徒たちもほとんど近づくことはなかった。ひっそりと陰を落としている。
「今さら神だのみかよ」
 ジークは茶化そうと思ってそう言った。しかし、思いのほかその声はこわばっていた。
 彼が本気なのか冗談なのかわからなかったリックは、軽く笑って相づちを打つだけで、言葉は返さなかった。
 声がこわばってしまったことに、ジークは自分で驚きを感じていた。
 しかし、理由はわかっていた。
 首席入学の彼女が、まだ幼い彼女が、これだけやる気を見せているのだ。脅威を覚えないはずはない。そして、信仰心を持つものが祈るという行為は、瞑想より大きな効力を持つ。自分には真似できない方法で、魔導力を高めているという事実が、彼の焦りを増していた。
 もう小さくなったアンジェリカを眺めながら、しばらく立ちつくしていたかと思うと、勢いよく教室を飛び出した。リックは小走りでジークの後を追う。
「どこ行くの?」
 リックのその問いに、ジークは足を止めることも振り返ることもなく、ただ短く答えた。
「瞑想だ」

 ついに、実技試験のときがやってきた。
 ラウルによってクラス一同が集められた場所。そこは校舎の隅にあるヴァーチャルマシンルームのさらに奥、いつもは鍵のかかっている部屋。窓もなく閉塞感が漂っている。ラウル以外は足を踏み入れたのも初めてだった。そこにはヴァーチャル・リアリティ・マシン(通称 VRM)のコクピットがふたつ、少し距離をあけて、向かい合わせに置かれていた。そしてその2つの真ん中に大きな薄型のディスプレイが吊り下げられている。そして、縦横無尽に張り巡らせたケーブルが、物々しさをかもし出している。
 その雰囲気に圧倒され、みんな押し黙っていた。
 その沈黙を破ったのは、ラウルだった。
「実技試験の方法だが……」
 生徒たちの反応を確かめるように、少し間をおいて続ける。
「対戦方式で行う」
 依然、重苦しい静けさ。誰も口を開くものはいない。
「これは対戦用に改造した VRMだ。対戦の様子は上のディスプレイに映し出される」
 ラウルは腕を組み、ゆっくりと生徒の方へ向き直る。
「単に勝敗で評価するのではなく、試合内容で評価する。そのつもりで持てる力をすべて発揮して戦うように。いいな」
 相変わらずの威圧的で一方的な口調が、生徒たちに重くのしかかる。
 ラウルは左手に抱えていた青いファイルを開いた。紙をめくる音が、密閉された空間に反響する。その手を止め、上から下へざっと眺めると、口を開いた。
「入学時の順位で下から2人ずつ対戦していってもらう。まずはリックとザズだな」
「うわっ! いきなりだ!」
 下から二番目のリックが、動揺して声を上げた。その驚きぶりがおかしくて、アンジェリカは、彼に気づかれないように忍び笑いをした。
 リックはやや臆病なせいもあって、実戦形式というものが苦手だった。VRMでの自主訓練も嫌々やっていたくらいだ。ただでさえこんな状態なのに、今回はマシン相手ではなくヴァーチャルとはいえクラスメイトが相手なのである。自分が傷つきたくないが、他人を傷つけたくもない。そんな彼がこの試験を嫌がるのも当然だった。
 ジークは、いまにも泣きつかんばかりの表情を見せているリックの背中を軽く押した。
「腹くくって行ってこいよ。あんまりオロオロしてると相手になめられるぞ」
 意気揚々とコクピットに向かう対戦相手を横目で気にしながら、ジークはこっそり耳打ちした。
「あいつより、おまえの方が上なんだからさ」
 リックはちょっと困ったように笑った。
「そういうの、よけいプレッシャーだよ」
 ジークも彼につられて笑顔になる。そして白い歯を見せながら、こぶしを彼の脇腹に軽くひねり込んだ。
「いいから早く行ってこい」
 リックは少し笑って、コクピットへ小走りに駆けていった。

「へぇ、仲いいんだ」
 アンジェリカはきょとんとしながら、ジークを見上げていた。彼は視線を落とし、彼女をとらえたが、まっすぐ見つめてくるその視線に耐えかねて、すぐに目をそらす。
「いまさらなに言ってんだよ」
 彼女に対する返事というよりは、ひとりごとに近い感じだった。腕を組み、顔を少し上げると、まっすぐ口を結んだ。
 アンジェリカは、ジークとリックを交互に見た。
「だって今まで仲よさそうなところを見たことなかったんだもの。どうしてこのふたり、一緒にいるんだろうって思っていたわ」
 アンジェリカにそんなふうに思われていたのかと、ジークは思わず苦笑いしてしまった。

 ウィーン。
 シルバーメタリックのコクピットが、機械音を響かせながら、その口を大きく開いた。対戦予定のふたりは、長く傾斜の緩やかなライド部に身を横たえる。すると、開くときと同じように、機械音を響かせて、その口がゆっくりと閉じていった。
 ラウルがヘッドセットを装着し、スイッチを入れると、ディスプレイが白く光り、そして徐々にふたりの姿が映し出された。
「おおー」
 遠慮がちなどよめきが広がる。
 ラウルはヘッドセットのマイクを口元に引き寄せた。
「ふたりとも、準備はいいか」
 その問いに、ディスプレイの中のふたりの口が動いた。が、その声は聞こえない。
「ラウル。音声が切れてるんじゃねぇか」
 ジークはディスプレイを親指でさしながら、あきれた様子でラウルに問いかけた。ラウルはヘッドセットを少しずらた。
「そういうふうに作ってある。音声はここからしか聞こえない」
 そう答えると、ヘッドセットを人さし指で指し示した。
「案外しょぼいんだな」
 ジークはぽつりと言った。少しの驚きと落胆が、その声色からうかがえた。
 ラウルは、ジークの相手を切り上げた。ヘッドセットのマイクを親指と人さし指でつまんで固定すると、再びディスプレイの中のふたりを仕切り始めた。
「制限時間は五分間だ。準備はいいな」
 ふたりの様子を画面で確認すると、短く、歯切れよく、合図した。
「始め!」

 その声に反応して、ふたりは同時に構える。
 先に動いたのはザズの方だった。目を閉じ、両手を前に伸ばし、呪文の詠唱を始める。それを見て、リックも同じポーズをとった。
「真っ向勝負か」
 ジークは腕を組みながら、冷静にディスプレイを見上げていた。アンジェリカも、隣で彼と同じように腕を組み、同じように見上げていた。
「どうかしら。それじゃ厳しいんじゃない?」
 彼女は感想を述べた。音声が入ってこないため、映像だけで推測するしかない。
 ザズの両手に光が集まってきた。一方のリックには何の変化もない。ザズのまぶたが勢いよく上がった。何かを叫ぶと、手にためたバスケットボール大の光球をリックに向かって放出した。
 それとほぼ同時に、ザズの足首から下と、そのあたりの地面一帯を厚い氷が覆った。ザズは突然、足の動きを封じられ、大きくバランスを崩した。両手をまわし、なんとか体勢を立て直そうとするが、耐えきれずにしりもちをついてしまった。
 彼の足をとどめたリックは、自分に向かってくる光球を避けようと、その身を斜めに引いた。しかし、呪文を唱えていたために動きが遅れてしまい、避けきれず、その半分が右肩に直撃する。その反動で体を後方に吹き飛ばされ、五メートルほど土の地面を土ぼこりをあげながら滑っていった。そして、倒れたまま右肩を押さえ、苦痛に歪んだ顔を見せた。
「あのバカ!」
 ジークは苦々しげに、その声をかみ殺した。
 ザズは足に熱を集め、氷を溶かそうとしているが、今までこんな経験がないため、なかなか思い通りにいかず、気持ちばかりが焦っている。
 リックは身をよじらせて、なんとか立とうともがいている。そして、ようやく片膝を立て上体を起こすと、歯を食いしばり、次の呪文の詠唱に入った。
「そこまで!」
 ラウルの声が響く。制限時間の五分が過ぎた合図だった。

 リックが小走りに戻ってくる。
「みっともない試合だったね」
 自らの試合をそう表現した。落ち込んだ様子でうつむき、短くため息をついている。
「いや、でも制限時間がなければおまえの勝ちだったさ」
 めずらしくジークがフォローをする。リックは疲れをにじませながらも、少し笑ってみせた。
「肩、痛いの?」
 右肩を押さえているリックの様子を、いぶかしげに覗き込んで、アンジェリカがたずねる。VRMの中では、五感のすべてはコンピュータから直接脳に信号が送られる。痛みを感じても、実際に肉体が損傷することはないはずなのだ。
「あ、今は痛くないけど」
 右肩を押さえていた手を外す。
「さっきあまりにも痛かったから、なんか、まだ痛みが残ってる気がして」
 そう言いながら、自分の試合を思い出し、身震いした。背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「やっぱりプログラム相手とは全然違うよ。気持ちも、感覚も、痛みも」
 アンジェリカ、ジークの顔を交互に見て、さらに続ける。
「ふたりが戦うとどうなるか。想像するだけで身がすくむ思いだよ」
「ん?」
 そういってジークは腕を組み、少し考え込む。
「そうか。俺の対戦相手ってコイツだったんだ」
 自分の中で確認するかのようにつぶやいた。アンジェリカとリックが同時に驚いた顔を向ける。ジークはふたりの表情には気づかず、始まった次の対戦に見入っていた。
「なんで今まで気づかないのよ」
 脱力した声が、アンジェリカの口をついて出た。

 試験は順に進んでいき、残すは最後の一組のみとなった。
「アンジェリカ、ジーク」
 ラウルに名前を呼ばれて、一瞬、お互いの視線を絡ませると、そのまま無言でそれぞれのコクピットへ向かった。ラウルがスイッチを跳ね上げる。ディスプレイにふたりの姿が映し出された。ジークはやや緊張の面持ちだった。
「制限時間は五分間……始め!」



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