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2時間前


「私が朝学校に行った時には、もう殺されていたの。ウサギも、ニワトリも、みんなよ。そこら中に血とか羽根とかが散乱してて、飼育小屋の中はまるでホラー映画よ。大声で泣いてる私を、たまたまそこに来た先生が見つけたの。だけどね、私はその先生がやったに違いないって思ってるわけ。」

 美奈はそう言って、ケーキの皿に残ったラズベリーソースを、フォークの先で皿の中心に懸命に集めようとしている。しかし、皿の上には、鋤いたような跡が残るだけで、一向にソースは中心に集まらない。やがて美奈は諦めたように手を止めて、フォークの先に僅かに付いたソースを舌先で舐めた。
「分かってるよ。だけどさ、その先生がやったんなら、わざわざ君に近付いたりしないだろ? 犯人だってバレるかもしれないじゃない? たまたまそこを通って、泣いてる生徒がいたら、普通の教師だったら駆け寄る。可哀想に、守ろうとした生徒に、犯人だと思われてきたわけだ、その先生は。悲劇だね。」
 直樹はそう言って、小さすぎてとても指が入らないコーヒーカップの柄をつまんで、一口だけコーヒーを啜った。
 
 直樹は銀座の街があまり好きではない。土曜日となれば尚更だ。どこに行っても人ばかりだし、その殆どが「銀座に繰り出している」という雰囲気を纏っているのも気に食わない。
 銀座で売っている物は、荻窪でも売っているし(直樹と美奈が暮らしているマンションは荻窪にあった)、何もこの街に休日ごとに集まって、高い金を払ってそれを買う必要はないのだ。
 例えばこのコーヒーだってそうだ。一杯八百円? 正気の沙汰じゃない。荻窪の商店街にある、喫茶店のマスターが入れてくれる三百円のコーヒーの方が、よっぱど美味いし、リラックスできる。要は、ステータスなのだな。直樹は銀座のコーヒーを啜りながら、一体これ、一口幾らするのかなと思い、ざっと頭の中で計算してみる。
 冷静に見れば銀座なんて、表面だけを立派に飾ったハリボテの店と、首都高速から降り注ぐ、排気ガスだらけの街だ。直樹はそう考えている。
 つい一週間前までは、新宿で上映されていたのに、直樹と美奈の観たい映画は、その週末には銀座でしか上映されていなかった。仕方なく地下鉄を乗り継いでこの街にやってきた。そうでなければ好き好んで銀座になんて来ない。上映までしばらく時間があったので、二人は有楽町にほど近い、オープンテラスの喫茶店に入って時間を潰している。美奈はケーキセットを、直樹はコーヒーだけを注文した。

1時間30分前

 美奈のミルクティーが半分ほどなった時、突然、彼女は飼育小屋の話をし始めた。その時直樹は、通り向かいの家電量販店の店員が、赤いハッピをつけて、メガホンで何か叫んでいるのを見ているところだった。歳は直樹と同じくらいだろうか? 朝から叫び続けているのだろう。その男の声は、すっかり枯れてしまっていて、メガホンを通すと、より一層その掠れ声が強調されて聞こえた。
「私はね、その先生にしがみついた時に、そいつが震えてたのを、今でも覚えてるの。なんていうかね、怖くて震えてるんじゃないっていうのだけは分かったわ。それに、それが起こったのは日曜日よ。日曜日の朝早くに、教師が学校で何してんのよ? 私が犬の散歩で学校に行かなきゃ、月曜日まで飼育小屋はホラー映画のままだったのよ。きっと。」
「ホラー映画はよろしくないな。小学生には早すぎる。だからって、フランス映画が小学生のためになるかっていうと、決してそうじゃないな。結局無難な映画ばかりを見せられて子供は育つんだ。」 
 直樹は、さっきから店員のメガホンから吐き出されている言葉を聞き取ろうとしているが、何を言っているのか、さっぱり分からない。誰にも聞き取れない言葉を、掠れてしまった声で叫んだところで、店にとって何の宣伝になるんだろう? それにあのダサいハッピ。こんなに人目のある場所で、あんな物を着せられるなんて。最低だな。自分だったらあんな仕事にはとても耐えられない。
「今日の映画が、無難な映画でないことを祈るよ。しかし、なんでこんなに人が多いんだろう? 帰りの電車のことを考えるとゾッとするね。ここに通ってた頃は、あまり気にもしてなかったけど、今になってよくよく見てみると、この人混みは異常だよ。よくもまあ毎日通ってたもんだと我ながら感心するよ。」
 直樹は大学を出て、この銀座にある、大手の広告代理店に就職した。世間に名も知られていた会社だったので、両親と、親戚縁者は手を叩いて「でかした」と喜んだ。大学の同期の悪友たちは、どうして成績も見た目もパッとしない直樹が、その会社に入れたのかと、皆が揃って首を傾げた。
 運が良かったとしか言いようがない。直樹自身もそう思っていた。
 しかし僅か一年で、直樹はその会社を辞めてしまった。理由はたくさんあり過ぎて、どれが決定的なものだったかは分からない。人には向き不向きがある。たまたまその会社に、直樹が向かなかっただけのことだ。直樹は自分にそう言い聞かせている。今でも。
 その会社は、今直樹たちがいる店の目と鼻の先にある。通りに出れば、鏡張りのように磨き上げられた窓で一面を覆われた、真っ黒なビルを容易く見つけることができるだろう。新進気鋭のデザイナーによって設計された、近未来的なそのビルも、辞めることを決めてからは、デカい棺桶を縦置きしたようにしか、直樹には見えなかった。てっぺんまで登れば、棺桶に付いた小窓から、見晴らしのいい風景を見ることもできただろうが、その時直樹の働いていた六階からは、外はおろか、未来なんて何一つ見ることはできなかった。

1時間20分前

「ねえ、聞いてる?」
 美奈が、フォークを直樹の手に突き刺す真似をする。直樹はメガホンの声を聞き取るのは諦めて、美奈の方に向き直った。
「ちゃんと聞いてるよ。それで? その先生は何て言ったの? 君がしがみついた時?」
「何も。なーんにも言わなかった。ただ一言だけ、帰りなさい、すぐに。って。私は、疑ってることがバレないように、従順なフリしてそのまま犬と帰ったわ。月曜日の朝には、飼育小屋はすっかり奇麗になってた。朝礼でもそのことは話題にもならなかったの。そんなのおかしいじゃない? 友達もどっかに引っ越したんじゃないの? とか呑気なこと言って。校長先生が話をしている間ずっと、そいつは遠くから私のことを見てたわ。視線を感じたの。恐ろしくて、私はずっと下を向いてた。それから、卒業するまでずっと、バカな女の子のフリしてあいつの気を引かないようにしていたの。だって怖いじゃない。そいつは私だけが目撃者だってことを、知ってるわけだから。」
 美奈はそう言うと、もう一度ラズベリーソースを集め始めた。しかし彼女は本当は、ラズベリーソースなんて見てはいないのだろう。直樹はそう思った。白い皿一面に広がったソースは、まるで木の表面に浸食していく粘菌のように見えた。
 直樹は、美奈がどうして突然、飼育小屋の話を始めたのかを計りかねていた。しかし彼女が、意味のないことを話しているだけとも思えない。美奈は、そういうタイプの人間ではない。    
 仕事を辞めて一年間だけ、直樹は仕事にも就かず、フラフラしていた。好きな時に飯を食べ、金が無くなったら、日雇いのアルバイトで小銭を稼ぎ、封切りになったばかりの映画を全部観て、夜中まで飲み歩いていた。もしかしたら、このままこういう生き方を続けていければ、幸せなのかもしれない。直樹はふと、そう思ったりもした。
 しかし、そんな生活が長く続く訳がない。     
ある時、直樹がアパートに戻ると、父親がドアの前で待ち構えていた。首を掴まれて、部屋の中に引きずり込まれると、「もしこのままの生活を続ける気なら、お前とは絶縁する。もちろん、今日まで続けてきた仕送も止める。」そう言われた。その時初めて、直樹はコトの重大さに気がついた。仕送りを止められたら生活なんかしていけない。直樹は父親に土下座して、次の日からせっせと就職活動にいそしんだ。
 再就職が決まって、親もひと安心したが、一番ほっとしたのは直樹自身だった。再就職先は、中堅の出版社だったが、一度ドロップアウトした自分が、このご時世にすんなり再就職できたのは、これもまた幸運なことなのだなと思った。それに、何よりも幸運だったのは、美奈と出会えたことだ。
 その会社の、二つ上の先輩として働いていたのが、美奈だった。歳は同じだったが、直樹と違い、ドロップアウトなんてしていない美奈は、直樹より二年分多いキャリアを着実に積んでいた。最初は、同じ歳なのに命令口調で話し、先輩風を吹かせる美奈を、直樹はあまりよくは思っていなかった。しかしある飲み会で、映画の話をした時から、二人は意気投合してしまった。美奈は不類の映画マニアだった。直樹もそれまで、かなりの数の映画を観てきたつもりだったが、美奈の足元にも及ばなかった。ある週末に、二人で新しい映画を観に行き、あれこれ意見を言い合った。次の週末にも、違う映画を観に行き、またあれこれ意見を言い合った後、隅田川のほとりを散歩して、キスをした。
 それから二年付き合って、直樹は「結婚してください」と美奈に言った。「はい。結婚しましょう」と、美奈は答えた。

1時間10分前

「泣いて家に帰った時、お母さんに、何があったのって? って聞かれて、私は何も言えなかった。お父さんも出てきて大騒ぎになったけど、結局私がなんにも言わないもんだから、どうにもできなくて、二人とも諦めたみたいだった。結局そのまま。未だにその話を誰かにしたことはないわ。」
「一度も?」
「そうよ。今初めて人に話すの。」
 どちらかと言うと、美奈はロジカルに物事を考える。すべてに説明を求めるし(映画に対しても)、常に相手の先手を先手を打とうとする。感情に任せて行動するという性格でもない。直樹はそう考えていた。
 結婚する時もそうだった。式の日取りや、細かな打ち合わせ、親族や友人への招待状、全て美奈が手配した。今住んでいる荻窪の新しいマンションだって美奈が見つけてきた。直樹が何もしなくても、美奈は文句一つ言わなかった。「いいの、私の性格なんだから」そう言って美奈は、自分の手際の良さに満足しているようだった。元来、面倒くさがりで、出不精の直樹は、素直に美奈に甘えて、全てを任せていた。
 しかし、この飼育小屋の話はどうだろう?話の着地点が見えない。美奈は記憶を辿りながら、見えた風景を言葉でなぞっているだけのようだった。「お星さま、くまさん、りんご、わんちゃん」まるで、目にした物をそのまま言葉にする小さな子供のように。
「でも本当に、間違いなくあいつがやったのよ。私には分かるの。」
「そうかなー。幻だったんじゃない? ほら、幼児期には見えない物が見えるって言うじゃない。僕だって昔、スズメバチの巣を見つけてパニックになってさ、家に飛んで帰って、兄貴に泣きついたことがある。兄貴がその場所に見に行ったらさ、どこにもスズメバチの巣なんてないって言うんだ。そんなはずはないと言って、恐る恐る僕も見に行ったら、本当に何にもないんだ。確かにハチの羽音までしっかりと覚えてるんだけど、なんにもない。まあそれ以来、ハチは大っ嫌いだけどね。」
「違うの。そういうのとは、ちょっと違うのよ。」

1時間前

美奈は自分の言わんとすることを、直樹が理解していないことと、それを上手く説明出来ない自分の両方に、苛立っているようだった。美奈がそういう風に、苛立ちを隠さないのは、珍しいことだった。いつもならそういう時、何かを彼女が抱え込んだ時、美奈は一人で部屋に籠ってしまう。誰にもその過程を見せずに、一人で解決してしまうのだ。部屋から出てくる時にはもう、何もなかったかのように、ケロッとしていて、直樹に当たり散らすようなこともなかった。
 それが彼女のやり方であり、直樹が口を挟むことでもない。むしろ女性の持つ、あの特有のヒステリックさを見ないで済むことに、直樹は感謝さえしていた。
 店の中から出てきた店員が近寄ってきて、ラズベリーソースですっかり散らかってしまった皿を、下げていいかと美奈に尋ねた。美奈はそれがまるで耳に入らないのだろうか、何も言わない。「どうぞ」と直樹が代わりに答えると、店員は不思議そうな顔をして、皿を下げていった。美奈の右手にはフォークが握られたままで、それはまだ、ラズベリーソースを探しているようだった。何かを懸命に思い出そうとしている。同時にその記憶からほつれた糸を、正しい順番に繋げようとしている。
 直樹は、黙って美奈の言葉の続きを待った


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