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30分前

注文した飲み物が、テーブルの上に乗せられると同時に、フラフラと彷徨っていた、過去への回想の意識が、現実に戻ってきた。二人はそれっきり昔のことは、何も喋らなかった。
「あのさ、僕に初めて、いや、誰にも話したことのない記憶の話を君はしてくれたけど、嬉しいよ。ありがとう。その話自体は、とても特殊な体験だし、僕は完全には理解ができていないと思う。でも、こうやって君が正直に話してくれたってことを嬉しく思う。分かってくれるかな? 僕だけを選んで話してくれたってことがね。それに、思ったんだけどさ、今その話ができるってことは、君はもう立派な大人になれたってことなんだと思うんだけど?」
「そうね。あるいは、そうかもね。」
 美奈はさっきまで人だかりのできていた、有楽町の駅の方を見て言った。彼女はさっきまで消防車がそこにいたことを知っているのだろうか? 彼女は孔雀のことで頭が一杯で、消防車のサイレンなんて聞こえていなかったんじゃないのだろうか?

25分前

「でもね、これも初めて話すんだけど。私ね、その孔雀のことが、今でも忘れられないの。忘れられないっていうか、いつも、そのイメージを持ち続けて生きているの。働いてる時、電車に乗ってる時。何をしていてもね。頭の片隅にその片鱗があるの。特にあなたと寝てる時、私、いっつも孔雀が羽根を広げてる姿を思い浮かべているのよ。そしてそれを上手くイメージできればできるほど、私はそのとても興奮するの。知らなかったでしょう? 知るはずないわよね。そういうのが、どうして起こるのかは分からない。ただ、起こるのよ。」
 直樹は口に含んだコーヒーを、思わず吹き出しそうになった。彼女がそういう風に、セックスについてあからさまに話すのも、初めてのことだった。どちらかと言うと、そういうことに関しては、淡白な方なんだと、直樹は思っていた。
「…そう、ええと、なんて言ったらいいか。それは、その、
オーガズムを感じるってことかい? 孔雀のイメージで?」
「そう。そういうこと。」
「じゃあ君が毎回
イク時に、君の頭の中では孔雀が羽根を広げて、ブルブルと音を立てているわけ?」
「そう。そういうこと。どうしてかなんて、聞かないでね。」
 直樹は、もう一度美奈を見た。彼女はどうしてかは分からないが、少しも恥ずかしがってなどいないようだった。さっきと同じ、穏やかな笑顔を浮かべて、静かに直樹のことを見つめている。

20分前

「さあ、そろそろ行かなくちゃね。もう時間でしょう?」
「え? ああ、そうだね。そろそろ行かなくちゃね。」
 直樹は我に返ると、テーブルの隅に置かれた勘定を手に取り、席を立った。とても長い時間をここで過ごしたような気もするし、あっという間に映画の時間が来てしまったような気もする。孔雀の話を聞いて、直樹の時間の感覚は、まるで頼りないものになってしまったようだ。

15分前

会計を済ませ、店を出た二人は、銀座の方に戻り、映画館に向かっている。
 そこに行くには、以前直樹が勤めていた会社の前を通らなければならなかったが、もうそんなことは、何の気にもならない。映画好きな二人は、これまで何度もこうやって同じ映画を観てきた。きっとこれからだって、数えきれないくらいたくさんの映画を、一緒に観るのだろう。
 でも、それはあとどれくらいなんだろう? 直樹は、急にそれが知りたくなった。あとどれくらい、自分は美奈と一緒にいられるんだろう? そう考えると、急に直樹は怖いような、寂しいような気持ちになり、思わず前を歩いている美奈の手を後ろから掴む。
「あのさ」
「なに? どうしたの? 急に。」
「そんなに興奮するなら、家で孔雀を飼おうか?」
「ばか。」
 美奈はそう言って笑うと、少しだけ照れたような表情を見せた。そして直樹の手を引いて自分の方に引き寄せると、「さあ、行くわよ」と言って、歩き始めた。

10分前

銀座から無尽蔵に流れ出てくる人並みを、なんとか掻き分けながら、二人は映画館に向かっている。もう予告編が始まっているかもしれない。でも、あのコマーシャルだらけの予告編なんてどうでもいいんだ。本編はこれからだ。そうだ。
本編はこれからだよ。     
 直樹は美奈の手を離さないように、もう一度強く握り直すと。点滅し始めたスクランブル交差点に向かって走り始めた。
 「美奈! 渡ろう! 大丈夫だよ、まだ間に合うよ!」

—上映開始—


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