閉じる


<<最初から読む

8 / 15ページ

45分前

美奈は、直樹の言葉を待っているようだった。しかし何を言えばいいのか、直樹にはよく分からない。孔雀が生きててよかったね、と言うべきなのか? それとも、孔雀だけを生かしておいた犯人の心理を説明すべきなのか? そんなもの、直樹にだって分かるはずはない。
「確かに小学生の頃って、先生はなんでも知ってる偉い人に見えたよね。正しいことだけを教えて導く、それこそ聖人のように見えた。でも今、その時の先生たちの年齢になってみると、そんな訳ないんだってことがよく分かるよ。彼らだって、ただの人間さ。弱いだけ。だからって、ウサギやニワトリを殺していいわけじゃないけどさ。ただ弱いだけなんだよ。きっと。」
 しまった。的外れなことを言ってしまったかもしれない。直樹は恐る恐る美奈を見た。しかし彼女は直樹の言葉を聞いて、少しだけ安堵の表情を見せた。さっきまでの苛立ちは、もうどこかへ消えて行ってしまったようだった。あるいは、美奈は直樹の言葉なんてまるで聞いていなくて、一人で部屋に籠っている時と同じように、自分で解決してしまったのかもしれないな。直樹はふとそう思った。
「そう。人は弱いわ。確かにね。でも私はその時、少し早すぎる段階でその事に気づいてしまったのよ。別に殺された哀れなウサギたちに同情してた訳じゃないの。私はね、上手く言えないけど、人間が誰でも持ち得る、説明不能な闇の部分を、何の準備もなく見せられたの。そのことで、その先生に腹を立てていたのよ。とても。なんで今なの? って。私は怖くて、混乱して、しばらくは眠れなかったわ。目を閉じると、孔雀の羽根の音がしてね。とにかく、私の少女時代は、大人になるのを、今か今かって待つだけで終わってしまったの。誰にも言えずに。」
 美奈はそこまで言うと、直樹の目を見た。そしてまるで、何かから解き放たれたような穏やかな顔をして笑った。見ている者を包み込む、優しい笑顔だった。結婚してから、いや、付き合っていた時からも、彼女がそういう顔で笑うのを、直樹はこれまで見たことがなかった。直樹は思わず、美奈の目から視線を逸らしてしまう。照れ隠しに、飲み干してしまった、空のコーヒーカップを手に取り、飲む真似をする。カップの中の空気が、ぬるい湿り気になって、直樹の口の中に入っていく。
「そうか、それは、何て言うか、ハードだったね。辛かったんだろう? きっと。分かるよ・・いや、分かってないのか。ごめん、上手く言えないや。」
「いいの、直樹。ありがとう。聞いてくれただけで十分よ。ごめんね、変な話で。びっくりしたでしょう? でも、いつかあなたにこの話を聞いてほしかったの。なんだか話してスッキリしたわ。もう一杯注文してもいい?時間は大丈夫かしら?」
 直樹は、店の中の壁に掛かっている、アンティークの時計を見た。映画の予定時刻まで、もう少し時間はあった。さっき皿を下げていった店員に、美奈がコーヒーとミルクティーを注文した。

35分前

飲み物が運ばれてくるまで、二人は、お互いの幼い頃の話をした。
 美奈は三人姉妹の末っ子だったので、当然のようにオモチャや服は、姉たちのお下がりの物が回ってきた。彼女はそれが嫌で嫌で、いつか大きくなったら、ブラジャーだけは自分でお子遣いを貯めて、お気に入りのを買おうと決めていたのだと言った。
 初めてブラジャーを着けた時の日のことは忘れないわ。ホックの金具を付けた時、やっと自分は「大人」の入口に立ったんだと実感したの。でも、一枚しかないブラジャーを毎日洗って、次の日までに乾かしてっていうのは、とても大変だったのよ。直樹はそれを聞いて、思わず笑ってしまった。
 直樹は、兄の影響で始めた、ギターの話をした。
 兄弟っていうのは、どの家もそうだと思うんだけど、ある年齢までは、兄は弟に対して、絶対的なカリスマ性を持ってる。僕にとっても、兄の存在は絶対的で、いつもくっついて離れなかった。ある時、兄がギターを手に入れると、ちょくちょくそれを持ち出しては、兄の真似をして弾いていた。
 でも、ある日を境にして、宿命的に弟は兄という存在から離れていく。僕は夏休みのキャンプに兄が出かけている時に、そのギターの弦を全部切ってやったんだ。兄は帰ってきて、火のように怒って僕を殴ったけど、僕はなんとも思わなかった。それ以来、ギターを弾いたことはない。というより、もともと興味なんてなかったのかもしれない。まあ、才能もなかったけど。
 直樹がそう言うと、美奈は「残念ね、ギターって素敵な楽器なのに。何て言うか、形も小さな宇宙って感じがするし。私は好きよ」と言った。小さな宇宙か。そう言われてみればそう見えなくもないな。その宇宙に張られていた、六本の糸を、兄と自分とを繋いでいた糸を、愚かにも切ってしまったわけか。そう言えば、兄ともしばらく連絡を取っていない。今度電話でもしてみるか。
 直樹がそんなことを考えていると、店の中から、トレイに二人分の飲み物を乗せた店員が出てきた。

30分前

注文した飲み物が、テーブルの上に乗せられると同時に、フラフラと彷徨っていた、過去への回想の意識が、現実に戻ってきた。二人はそれっきり昔のことは、何も喋らなかった。
「あのさ、僕に初めて、いや、誰にも話したことのない記憶の話を君はしてくれたけど、嬉しいよ。ありがとう。その話自体は、とても特殊な体験だし、僕は完全には理解ができていないと思う。でも、こうやって君が正直に話してくれたってことを嬉しく思う。分かってくれるかな? 僕だけを選んで話してくれたってことがね。それに、思ったんだけどさ、今その話ができるってことは、君はもう立派な大人になれたってことなんだと思うんだけど?」
「そうね。あるいは、そうかもね。」
 美奈はさっきまで人だかりのできていた、有楽町の駅の方を見て言った。彼女はさっきまで消防車がそこにいたことを知っているのだろうか? 彼女は孔雀のことで頭が一杯で、消防車のサイレンなんて聞こえていなかったんじゃないのだろうか?

25分前

「でもね、これも初めて話すんだけど。私ね、その孔雀のことが、今でも忘れられないの。忘れられないっていうか、いつも、そのイメージを持ち続けて生きているの。働いてる時、電車に乗ってる時。何をしていてもね。頭の片隅にその片鱗があるの。特にあなたと寝てる時、私、いっつも孔雀が羽根を広げてる姿を思い浮かべているのよ。そしてそれを上手くイメージできればできるほど、私はそのとても興奮するの。知らなかったでしょう? 知るはずないわよね。そういうのが、どうして起こるのかは分からない。ただ、起こるのよ。」
 直樹は口に含んだコーヒーを、思わず吹き出しそうになった。彼女がそういう風に、セックスについてあからさまに話すのも、初めてのことだった。どちらかと言うと、そういうことに関しては、淡白な方なんだと、直樹は思っていた。
「…そう、ええと、なんて言ったらいいか。それは、その、
オーガズムを感じるってことかい? 孔雀のイメージで?」
「そう。そういうこと。」
「じゃあ君が毎回
イク時に、君の頭の中では孔雀が羽根を広げて、ブルブルと音を立てているわけ?」
「そう。そういうこと。どうしてかなんて、聞かないでね。」
 直樹は、もう一度美奈を見た。彼女はどうしてかは分からないが、少しも恥ずかしがってなどいないようだった。さっきと同じ、穏やかな笑顔を浮かべて、静かに直樹のことを見つめている。

20分前

「さあ、そろそろ行かなくちゃね。もう時間でしょう?」
「え? ああ、そうだね。そろそろ行かなくちゃね。」
 直樹は我に返ると、テーブルの隅に置かれた勘定を手に取り、席を立った。とても長い時間をここで過ごしたような気もするし、あっという間に映画の時間が来てしまったような気もする。孔雀の話を聞いて、直樹の時間の感覚は、まるで頼りないものになってしまったようだ。


読者登録

青井鳥人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について