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1時間10分前

「泣いて家に帰った時、お母さんに、何があったのって? って聞かれて、私は何も言えなかった。お父さんも出てきて大騒ぎになったけど、結局私がなんにも言わないもんだから、どうにもできなくて、二人とも諦めたみたいだった。結局そのまま。未だにその話を誰かにしたことはないわ。」
「一度も?」
「そうよ。今初めて人に話すの。」
 どちらかと言うと、美奈はロジカルに物事を考える。すべてに説明を求めるし(映画に対しても)、常に相手の先手を先手を打とうとする。感情に任せて行動するという性格でもない。直樹はそう考えていた。
 結婚する時もそうだった。式の日取りや、細かな打ち合わせ、親族や友人への招待状、全て美奈が手配した。今住んでいる荻窪の新しいマンションだって美奈が見つけてきた。直樹が何もしなくても、美奈は文句一つ言わなかった。「いいの、私の性格なんだから」そう言って美奈は、自分の手際の良さに満足しているようだった。元来、面倒くさがりで、出不精の直樹は、素直に美奈に甘えて、全てを任せていた。
 しかし、この飼育小屋の話はどうだろう?話の着地点が見えない。美奈は記憶を辿りながら、見えた風景を言葉でなぞっているだけのようだった。「お星さま、くまさん、りんご、わんちゃん」まるで、目にした物をそのまま言葉にする小さな子供のように。
「でも本当に、間違いなくあいつがやったのよ。私には分かるの。」
「そうかなー。幻だったんじゃない? ほら、幼児期には見えない物が見えるって言うじゃない。僕だって昔、スズメバチの巣を見つけてパニックになってさ、家に飛んで帰って、兄貴に泣きついたことがある。兄貴がその場所に見に行ったらさ、どこにもスズメバチの巣なんてないって言うんだ。そんなはずはないと言って、恐る恐る僕も見に行ったら、本当に何にもないんだ。確かにハチの羽音までしっかりと覚えてるんだけど、なんにもない。まあそれ以来、ハチは大っ嫌いだけどね。」
「違うの。そういうのとは、ちょっと違うのよ。」

1時間前

美奈は自分の言わんとすることを、直樹が理解していないことと、それを上手く説明出来ない自分の両方に、苛立っているようだった。美奈がそういう風に、苛立ちを隠さないのは、珍しいことだった。いつもならそういう時、何かを彼女が抱え込んだ時、美奈は一人で部屋に籠ってしまう。誰にもその過程を見せずに、一人で解決してしまうのだ。部屋から出てくる時にはもう、何もなかったかのように、ケロッとしていて、直樹に当たり散らすようなこともなかった。
 それが彼女のやり方であり、直樹が口を挟むことでもない。むしろ女性の持つ、あの特有のヒステリックさを見ないで済むことに、直樹は感謝さえしていた。
 店の中から出てきた店員が近寄ってきて、ラズベリーソースですっかり散らかってしまった皿を、下げていいかと美奈に尋ねた。美奈はそれがまるで耳に入らないのだろうか、何も言わない。「どうぞ」と直樹が代わりに答えると、店員は不思議そうな顔をして、皿を下げていった。美奈の右手にはフォークが握られたままで、それはまだ、ラズベリーソースを探しているようだった。何かを懸命に思い出そうとしている。同時にその記憶からほつれた糸を、正しい順番に繋げようとしている。
 直樹は、黙って美奈の言葉の続きを待った

55分前

その時、どこからか消防車のサイレンが聞こえてきた。音はだんだん大きくなり、数台の消防車が直樹たちの前を通り過ぎて行った。消防車は有楽町の駅の前に止まると、中から防火服を着た消防士が、ぞろぞろと降りてきた。サイレンのけたたましさとは打って変わって、彼らにはあまり切羽詰まった様子は見られず、車を降りても、走り出す気配がない。おそらくは通報を受けたものの、出動した後に、それが誤報であったことが分かったのだろう。格好だけをつけるために、とりあえず現場には行くことになり、サイレンも切らずに、ここまで来たというわけだ。
 公務員には体裁が必要なのだ。ちゃんと働いているということを、国民にアピールしないといけない。ステータスなのだ。直樹はそう思った。この街とおんなじだ。
 サイレンの音と、赤い回転灯がクルクルと回るのに引き寄せられて、人だかりが有楽町の駅にできている。銀座の火事は炎の色までもが、人目を気にしてシックなのかもな。シックな火事。それは悪くないな。でも誤報だから火は出ていないか。直樹はどんどん増えていく野次馬を見ながら、ぼんやりとそう思った。

50分前

「孔雀だけがね。生きてたのよ。」
 サイレンの音が止むと、美奈が突然そう言った。
「なんだって?」
「みんなズタズタに切り裂かれて、死んでいたのに、オスの孔雀が、一羽だけ生きていたの。私が小屋の前で泣いてる間中、羽根を広げて、あの眼の玉みたいな模様を、小刻みに震わせていたわ。それがね、とても怖い音がするの。何とも言えない音よ。聞いてはいけない音だと思ったわ。」
 そう言って美奈は、手に持っていたフォークをテーブルに置くと、ミルクティーの残りに口を付けた。直樹はその続きを待ったが、彼女の口は、ミルクティーの甘ったるい香りに麻酔をかけられたように閉じられたままで、次の言葉がなかなか出てこない。急かすつもりはなかったが、直樹は待ちきれずに口を開いた。
「へえ? そうなの? どうしてまた犯人は、孔雀だけを生かしておいたんだろうね。不思議だな。」
「だから、犯人はあの先生よ。あいつはね、殺せなかったのよ。私にはわかる。あいつは孔雀に、全部見透かされた気がしたのよ。羽根を広げてられて、怖くて逃げ出したんだわ。それだけのことよ。だだのコンプレックスの強い臆病者よ。弱い立場の者にだけ威張ってみせることができるのよ。だから小学校の教師なんてしてたんだわ、きっと。」
 ミルクティーの麻酔が解けた美奈は、吐き捨てるようにそう言った。
 ちょうどその時、駅の中から消防士たちが出てくるのが見えた。彼らはお互いの顔を見て、笑いながら消防車に乗り込むと、今度はサイレンを鳴らさずに、直樹たちの前を通り過ぎて行った。彼らがいなくなると、一カ所に集まっていた野次馬たちも散らばって、均等に街の隙間を埋めていった。

45分前

美奈は、直樹の言葉を待っているようだった。しかし何を言えばいいのか、直樹にはよく分からない。孔雀が生きててよかったね、と言うべきなのか? それとも、孔雀だけを生かしておいた犯人の心理を説明すべきなのか? そんなもの、直樹にだって分かるはずはない。
「確かに小学生の頃って、先生はなんでも知ってる偉い人に見えたよね。正しいことだけを教えて導く、それこそ聖人のように見えた。でも今、その時の先生たちの年齢になってみると、そんな訳ないんだってことがよく分かるよ。彼らだって、ただの人間さ。弱いだけ。だからって、ウサギやニワトリを殺していいわけじゃないけどさ。ただ弱いだけなんだよ。きっと。」
 しまった。的外れなことを言ってしまったかもしれない。直樹は恐る恐る美奈を見た。しかし彼女は直樹の言葉を聞いて、少しだけ安堵の表情を見せた。さっきまでの苛立ちは、もうどこかへ消えて行ってしまったようだった。あるいは、美奈は直樹の言葉なんてまるで聞いていなくて、一人で部屋に籠っている時と同じように、自分で解決してしまったのかもしれないな。直樹はふとそう思った。
「そう。人は弱いわ。確かにね。でも私はその時、少し早すぎる段階でその事に気づいてしまったのよ。別に殺された哀れなウサギたちに同情してた訳じゃないの。私はね、上手く言えないけど、人間が誰でも持ち得る、説明不能な闇の部分を、何の準備もなく見せられたの。そのことで、その先生に腹を立てていたのよ。とても。なんで今なの? って。私は怖くて、混乱して、しばらくは眠れなかったわ。目を閉じると、孔雀の羽根の音がしてね。とにかく、私の少女時代は、大人になるのを、今か今かって待つだけで終わってしまったの。誰にも言えずに。」
 美奈はそこまで言うと、直樹の目を見た。そしてまるで、何かから解き放たれたような穏やかな顔をして笑った。見ている者を包み込む、優しい笑顔だった。結婚してから、いや、付き合っていた時からも、彼女がそういう顔で笑うのを、直樹はこれまで見たことがなかった。直樹は思わず、美奈の目から視線を逸らしてしまう。照れ隠しに、飲み干してしまった、空のコーヒーカップを手に取り、飲む真似をする。カップの中の空気が、ぬるい湿り気になって、直樹の口の中に入っていく。
「そうか、それは、何て言うか、ハードだったね。辛かったんだろう? きっと。分かるよ・・いや、分かってないのか。ごめん、上手く言えないや。」
「いいの、直樹。ありがとう。聞いてくれただけで十分よ。ごめんね、変な話で。びっくりしたでしょう? でも、いつかあなたにこの話を聞いてほしかったの。なんだか話してスッキリしたわ。もう一杯注文してもいい?時間は大丈夫かしら?」
 直樹は、店の中の壁に掛かっている、アンティークの時計を見た。映画の予定時刻まで、もう少し時間はあった。さっき皿を下げていった店員に、美奈がコーヒーとミルクティーを注文した。


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