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1時間20分前

「ねえ、聞いてる?」
 美奈が、フォークを直樹の手に突き刺す真似をする。直樹はメガホンの声を聞き取るのは諦めて、美奈の方に向き直った。
「ちゃんと聞いてるよ。それで? その先生は何て言ったの? 君がしがみついた時?」
「何も。なーんにも言わなかった。ただ一言だけ、帰りなさい、すぐに。って。私は、疑ってることがバレないように、従順なフリしてそのまま犬と帰ったわ。月曜日の朝には、飼育小屋はすっかり奇麗になってた。朝礼でもそのことは話題にもならなかったの。そんなのおかしいじゃない? 友達もどっかに引っ越したんじゃないの? とか呑気なこと言って。校長先生が話をしている間ずっと、そいつは遠くから私のことを見てたわ。視線を感じたの。恐ろしくて、私はずっと下を向いてた。それから、卒業するまでずっと、バカな女の子のフリしてあいつの気を引かないようにしていたの。だって怖いじゃない。そいつは私だけが目撃者だってことを、知ってるわけだから。」
 美奈はそう言うと、もう一度ラズベリーソースを集め始めた。しかし彼女は本当は、ラズベリーソースなんて見てはいないのだろう。直樹はそう思った。白い皿一面に広がったソースは、まるで木の表面に浸食していく粘菌のように見えた。
 直樹は、美奈がどうして突然、飼育小屋の話を始めたのかを計りかねていた。しかし彼女が、意味のないことを話しているだけとも思えない。美奈は、そういうタイプの人間ではない。    
 仕事を辞めて一年間だけ、直樹は仕事にも就かず、フラフラしていた。好きな時に飯を食べ、金が無くなったら、日雇いのアルバイトで小銭を稼ぎ、封切りになったばかりの映画を全部観て、夜中まで飲み歩いていた。もしかしたら、このままこういう生き方を続けていければ、幸せなのかもしれない。直樹はふと、そう思ったりもした。
 しかし、そんな生活が長く続く訳がない。     
ある時、直樹がアパートに戻ると、父親がドアの前で待ち構えていた。首を掴まれて、部屋の中に引きずり込まれると、「もしこのままの生活を続ける気なら、お前とは絶縁する。もちろん、今日まで続けてきた仕送も止める。」そう言われた。その時初めて、直樹はコトの重大さに気がついた。仕送りを止められたら生活なんかしていけない。直樹は父親に土下座して、次の日からせっせと就職活動にいそしんだ。
 再就職が決まって、親もひと安心したが、一番ほっとしたのは直樹自身だった。再就職先は、中堅の出版社だったが、一度ドロップアウトした自分が、このご時世にすんなり再就職できたのは、これもまた幸運なことなのだなと思った。それに、何よりも幸運だったのは、美奈と出会えたことだ。
 その会社の、二つ上の先輩として働いていたのが、美奈だった。歳は同じだったが、直樹と違い、ドロップアウトなんてしていない美奈は、直樹より二年分多いキャリアを着実に積んでいた。最初は、同じ歳なのに命令口調で話し、先輩風を吹かせる美奈を、直樹はあまりよくは思っていなかった。しかしある飲み会で、映画の話をした時から、二人は意気投合してしまった。美奈は不類の映画マニアだった。直樹もそれまで、かなりの数の映画を観てきたつもりだったが、美奈の足元にも及ばなかった。ある週末に、二人で新しい映画を観に行き、あれこれ意見を言い合った。次の週末にも、違う映画を観に行き、またあれこれ意見を言い合った後、隅田川のほとりを散歩して、キスをした。
 それから二年付き合って、直樹は「結婚してください」と美奈に言った。「はい。結婚しましょう」と、美奈は答えた。

1時間10分前

「泣いて家に帰った時、お母さんに、何があったのって? って聞かれて、私は何も言えなかった。お父さんも出てきて大騒ぎになったけど、結局私がなんにも言わないもんだから、どうにもできなくて、二人とも諦めたみたいだった。結局そのまま。未だにその話を誰かにしたことはないわ。」
「一度も?」
「そうよ。今初めて人に話すの。」
 どちらかと言うと、美奈はロジカルに物事を考える。すべてに説明を求めるし(映画に対しても)、常に相手の先手を先手を打とうとする。感情に任せて行動するという性格でもない。直樹はそう考えていた。
 結婚する時もそうだった。式の日取りや、細かな打ち合わせ、親族や友人への招待状、全て美奈が手配した。今住んでいる荻窪の新しいマンションだって美奈が見つけてきた。直樹が何もしなくても、美奈は文句一つ言わなかった。「いいの、私の性格なんだから」そう言って美奈は、自分の手際の良さに満足しているようだった。元来、面倒くさがりで、出不精の直樹は、素直に美奈に甘えて、全てを任せていた。
 しかし、この飼育小屋の話はどうだろう?話の着地点が見えない。美奈は記憶を辿りながら、見えた風景を言葉でなぞっているだけのようだった。「お星さま、くまさん、りんご、わんちゃん」まるで、目にした物をそのまま言葉にする小さな子供のように。
「でも本当に、間違いなくあいつがやったのよ。私には分かるの。」
「そうかなー。幻だったんじゃない? ほら、幼児期には見えない物が見えるって言うじゃない。僕だって昔、スズメバチの巣を見つけてパニックになってさ、家に飛んで帰って、兄貴に泣きついたことがある。兄貴がその場所に見に行ったらさ、どこにもスズメバチの巣なんてないって言うんだ。そんなはずはないと言って、恐る恐る僕も見に行ったら、本当に何にもないんだ。確かにハチの羽音までしっかりと覚えてるんだけど、なんにもない。まあそれ以来、ハチは大っ嫌いだけどね。」
「違うの。そういうのとは、ちょっと違うのよ。」

1時間前

美奈は自分の言わんとすることを、直樹が理解していないことと、それを上手く説明出来ない自分の両方に、苛立っているようだった。美奈がそういう風に、苛立ちを隠さないのは、珍しいことだった。いつもならそういう時、何かを彼女が抱え込んだ時、美奈は一人で部屋に籠ってしまう。誰にもその過程を見せずに、一人で解決してしまうのだ。部屋から出てくる時にはもう、何もなかったかのように、ケロッとしていて、直樹に当たり散らすようなこともなかった。
 それが彼女のやり方であり、直樹が口を挟むことでもない。むしろ女性の持つ、あの特有のヒステリックさを見ないで済むことに、直樹は感謝さえしていた。
 店の中から出てきた店員が近寄ってきて、ラズベリーソースですっかり散らかってしまった皿を、下げていいかと美奈に尋ねた。美奈はそれがまるで耳に入らないのだろうか、何も言わない。「どうぞ」と直樹が代わりに答えると、店員は不思議そうな顔をして、皿を下げていった。美奈の右手にはフォークが握られたままで、それはまだ、ラズベリーソースを探しているようだった。何かを懸命に思い出そうとしている。同時にその記憶からほつれた糸を、正しい順番に繋げようとしている。
 直樹は、黙って美奈の言葉の続きを待った

55分前

その時、どこからか消防車のサイレンが聞こえてきた。音はだんだん大きくなり、数台の消防車が直樹たちの前を通り過ぎて行った。消防車は有楽町の駅の前に止まると、中から防火服を着た消防士が、ぞろぞろと降りてきた。サイレンのけたたましさとは打って変わって、彼らにはあまり切羽詰まった様子は見られず、車を降りても、走り出す気配がない。おそらくは通報を受けたものの、出動した後に、それが誤報であったことが分かったのだろう。格好だけをつけるために、とりあえず現場には行くことになり、サイレンも切らずに、ここまで来たというわけだ。
 公務員には体裁が必要なのだ。ちゃんと働いているということを、国民にアピールしないといけない。ステータスなのだ。直樹はそう思った。この街とおんなじだ。
 サイレンの音と、赤い回転灯がクルクルと回るのに引き寄せられて、人だかりが有楽町の駅にできている。銀座の火事は炎の色までもが、人目を気にしてシックなのかもな。シックな火事。それは悪くないな。でも誤報だから火は出ていないか。直樹はどんどん増えていく野次馬を見ながら、ぼんやりとそう思った。

50分前

「孔雀だけがね。生きてたのよ。」
 サイレンの音が止むと、美奈が突然そう言った。
「なんだって?」
「みんなズタズタに切り裂かれて、死んでいたのに、オスの孔雀が、一羽だけ生きていたの。私が小屋の前で泣いてる間中、羽根を広げて、あの眼の玉みたいな模様を、小刻みに震わせていたわ。それがね、とても怖い音がするの。何とも言えない音よ。聞いてはいけない音だと思ったわ。」
 そう言って美奈は、手に持っていたフォークをテーブルに置くと、ミルクティーの残りに口を付けた。直樹はその続きを待ったが、彼女の口は、ミルクティーの甘ったるい香りに麻酔をかけられたように閉じられたままで、次の言葉がなかなか出てこない。急かすつもりはなかったが、直樹は待ちきれずに口を開いた。
「へえ? そうなの? どうしてまた犯人は、孔雀だけを生かしておいたんだろうね。不思議だな。」
「だから、犯人はあの先生よ。あいつはね、殺せなかったのよ。私にはわかる。あいつは孔雀に、全部見透かされた気がしたのよ。羽根を広げてられて、怖くて逃げ出したんだわ。それだけのことよ。だだのコンプレックスの強い臆病者よ。弱い立場の者にだけ威張ってみせることができるのよ。だから小学校の教師なんてしてたんだわ、きっと。」
 ミルクティーの麻酔が解けた美奈は、吐き捨てるようにそう言った。
 ちょうどその時、駅の中から消防士たちが出てくるのが見えた。彼らはお互いの顔を見て、笑いながら消防車に乗り込むと、今度はサイレンを鳴らさずに、直樹たちの前を通り過ぎて行った。彼らがいなくなると、一カ所に集まっていた野次馬たちも散らばって、均等に街の隙間を埋めていった。


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