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学食は営業してないので、“ラ・メール”で昼ご飯を食べた。

 

「マスターは、家族っていますか。」

「あぁん、家族?。いやオレは結婚しなかったからな。

 そういう意味での家族はいないな。」

 

そういう意味じゃない家族?

 

「中森クンなんかあったの?」

「イヤ、ちょっと聞いてみただけです。」

 

マスターはCDを選び、トレーに乗せて、FMを止めた。

 

「“ラ・メール”で、BOSSAっていうのもちょっと

 あれなんだが、いまの流行っつうのはこういうもんらしい。」

 

 ちょっとくぐもった感じの女性の歌声が流れてきた。英語でもないし、

フランス語でもなさそう。

甘く、切ない想い出。想い出の中だけに生きている人の唄。

 

 中学の時、ミズエに、

「ケイくん、私たち別れよう。」

っていわれたときのことを思い出した。

 

 その別れって、結局二週間ぐらいしか続かなかったんだけど、

その二週間の間はくだらない噂話が耳に入ってきて、ちょとやな

思いをした。

ミズエが別れようっていうのは、仕方がないことなんだよ。

煮え切らない、誰かさんのせいなんだから。

 

「結婚はしなかったけど、女の人と暮らしたことはあるんだ。

 外国でね。

 若い頃、いろんな国を旅して回って、そういうのが流行ってたんだな、

 世界中で。まあ、ちょっと、もう落ちついてもいいかなと思ったことが

 あったんだよ。

 でも、その当時は日本人なんてまだ物珍しくてね。しかも流れ流れて来た

 定職もないような男だ。相手の親が怒っちまって、彼女は板挟み。

 可哀想なんでオレが身を引いたってわけだ。

 この店で出してる料理は、その頃覚えたもんだよ。」

 

マスターは自分のカップにコーヒーを注ぎ、ついでにボクにも入れてくれた。

 

「この店は常連の客が多いからなねえ。ま、ちょっとした家族みたいなもんだ。

 イヤ、家族って言い方は変だな。身内っていったほうがいいかもな。

  だから店がはねて、自分の“ヤサ”に帰ったときより、ここにいるときの方が

 忙しいけど落ちつくんだよ。

 中森クンみたいな面白い子が、時々現れるし。

 明日ッから夏休みかい?」

 

「ええ、九月になったらまた来ます。」

「ああ、元気でな。」

「マスターも・・・。」

 

“ラ・メール”を出てもまだ二時。

 

 もう少し時間を潰さなきゃ。

CDでも見に行こうか、でも持って三十分てとこか。

その後本屋で三十分、デパートの地下で三十分。それで三時半。

家に帰れば四時ちょっと回ったぐらい。

 

まだ早い。

 

むなしい時間の潰し方。映画は一杯だろうな、夏休みの家族連れで。

そんなとこへいったら、おかしくなって笑っちゃいそうだ。

 

そうだ、快速じゃなくて普通に乗って帰ろう。

それでプラス十分くらいか。

 マンションの前まで帰って、引っ越しのクルマが止まってなければ

もうすんだって所だろう。もし止まってたら、河原で寝転ぼうか。


 マンションの前にはクルマの影もなく、エレベーターは十二階まで、

いつもと同じようにごとごとと上がっていく。

 

 廊下を歩いて、鍵を開け、ドアノブを回す。扉を開く。

ボクのスニーカーがきちんと揃えておいてある。

それ以外には無い。

 

 母さんの部屋はすっかり家具が無くなっていた。

向こうに行っても使い続けるんだろうか。

それともそのまま捨ててしまうんだろうか。

どっちにしても、ボクには用のないものだ。

 

壁紙に四角い日焼けの跡が残った。

 

これ、消すんだったら、自分で頼まないといけないんだろうな。

 

 キッチンの調理器具はそのまま残っていた。

お皿やなんかは一人暮らしに多すぎる、殆ど使わないだろうな。

 リビングにおいてあった雑誌は、処分してくれたらしい。

女性誌なんてボク読まないもの。

夏休みは、まずいらないものの整理から始めないといけない。

 

ミズエがこれを見たらここで暮らすなんていいそうだ。

そうなったら、なったでまた大変だ。

カバンを置いて、着替えよう。洗濯もしないと。ちょっとさぼってたし。

 

部屋の机の上に便せんが置いてあった。

 

“ごめんね”と書いてあった。

 

 謝るくらいなら、こんなことするなよ。生きるための知恵だって、

平然としてどうどうと出ていってくれたら良かったのに。

謝られても、許せることじゃないじゃないか。

 

あんたは子供を捨てたんだぞ!

 

はぁ、はぁ、はぁ、苦しい。息苦しい。窓開けなくちゃ。息が詰まる。

 

 ・・・れか、誰か、窓を開けて、誰か、埋もれてしまう。

黒いものに飲み込まれてしまう。

誰か助けて。

 

ミズエ、千冬、・・・ミズエはダメだ。ボクを恨んでる。きっと。

いままで散々辛い思いをさせて、結局千冬と付き合ってるボクを恨んでる。

ミズエはダメだ。ダメだダメだ、もうダメなんだ。

 

千冬、あまりに遠い。

 

遠い。

 

 彼女を引きずり込んでいいんだろうか、この黒い黒いタールの中に

引きずり込んでいいんだろうか。

 

ボクは、ボクは、ボクが耐えれば、なんとか持ちこたえれば、・・・。

 

 なんとか持ちこたえようとしたのに、あの女。自分だけ助かろうと

しやがって。

 いつも、いつも、いつも、詫びればすむと思いやがって・・・。

あれさえなかったら。

 

あれがあったから!

 

ダメだ。もうぼくはダメだ。ミズエ!千冬?

 

Pi、Pi!

 

“景クン・・・。”

 

“どうかした、景クン・・。”

 

“どうしたの、景クン。”

 

“落ちついて、ゆっくり息をして、何も考えないで。

 わたしのことを思い浮かべて。

 いい、わたしが待ち合わせに、いつも走って来るところを思い浮かべて。

 わたし、いつも景クンめがけて走ってきたの。それを思い浮かべて。”

 

「・・・母さんが出ていった。」

“えっ?”

 

「母さんに捨てられた。ボクはひとりぼっちになった・・・・。」

“違うよ、景クン。わたしが一緒だよ。景クンひとりぼっちじゃない。”

 

「だって、一人しかいないんだよ。この家に一人なんだ。

これから先もずーっと。ずっと一人なんだ。」

 

“景クン、いまからケイ君の家に行きます。景クンはそこを動いてはだめ。

 分かった?分かったら返事して。”

 

「千冬がいまから来るの?」

“そう。”

 

「遠いよ。」

“大丈夫だから。だから待っててね。分かった。”

 

「うん。」

 

Pi!

 

 

 

千冬が、この家に来る。どうして?どうやって?

 

北海道なのに・・・。


 わたしは押し入れの奥に押し込んでおいた、小型のボストンバッグを

引きずり出した。

 

なにか、万が一のことがあったときに、これをもってわたしは家を出る。

 そのためにお金やカードや着替えや、最低限必要なものをこの中に

詰め込んであった。

 まさか景クンがあんな事になるとは思ってなかったけれど、

場合によっては暫く帰れないかも知れない。

ううん、ずっと帰らないかもしれない。

 

 母さんはキッチンで夕食の支度をしている。

 見つからないように出たいけど、ドアを開ける音でどうしても

分かってしまうだろう。

 

それでも行かなくちゃ。

 

 家を出たとき、母さんの声がしたような気がしたけど、

わたしは無視した。

駅までかけていったとき、快速が近付いてくるのが見えた。

定期券で改札を通り抜け、一気に階段を駆け上がる。

 

何とか間にあった。息が荒い。早く納まれ!

 

「景クン!」

 

“千冬”

「いま、快速に乗ったから、三十分ぐらいでつけるよ。」

 

“快速?飛行機は?”

 なにいってるの景クン。

「大丈夫、あと三十分ぐらいだから。」

 

“うん。待ってる。良い子にいしてるから。父さんも帰って

 くればいいな。”

おかしい、変だ。景クンがおかしい。

 

“えー、次は鴨田、鴨田。東蒲生、西蒲生方面にお越しの方は、

次の鴨田で普通電車にお乗り換え下さいー。”

 

早くついて、早く・・・。

 

 東蒲生の駅前でタクシーを拾った。わたしは五分が惜しかった。

その五分の間にもしものことが起こっていたら。

わたしは運転手に千円札を押しつけて、そのままマンションに駆け込んだ。

 

「景クンいまマンションについたよ。これからエレベーターで上がるところ。

 もう少しだから待っててね。」

 

“・・・ダメだ、来ちゃダメだ。来たら何をしてしまうか分からない。

 何しに来たんだ。

 来てくれなんて一言も言ってない。

 帰れ!帰ってくれ!誰が来てくれって言ったんだ!”

 

「誰もいってない。わたしが勝手に来たの。」

 

わたしはドアのチャイムを鳴らした。

「さあ、開けなさい、景クン。」

 

 

 

“もう、開いてる。”

 
ドアの向こう側から声がした。

わたしは大きく息を吸い込んだ。

 

このドアの向こうで、何が起こってもわたしは構わない。

それは全てわたしと景クンの間のことだから。

 

 扉を開けると、そこから差し込む光で、薄暗い玄関口に座り込んでいる

景クンが照らし出された。

わたしはドアを後ろ手に閉め、彼から目を離さないようにして鍵をかけた。

 

手にケイタイが握られていた。

耐え難いような暴力で、ぼろぼろにされたようなその姿が痛々しかった。

 

わたしは彼の隣に膝をつき、彼の身体を上から抱え込んだ。

彼が必死に何かと戦っているように身体を震わせていた。

 

わたしは彼に、

「もう、頑張らなくていいから。好きにしていいんだよ。」

と言った。

 

とてもこわかったけど

「わたしで良かったら、好きにしていいんだよ。」

と言って、彼の柔らかな前髪に指を入れ、

それを後ろにかき上げ、彼の額に口づけた。

 

こわばっていた彼の身体が柔らかくなった。

 

 彼の顔が上を向いて、下からわたしの唇を求めた。わたしは彼の頬に手を添えて、

出来るだけ優しく彼の求めに応えた。

わたしは彼の肩を押し、廊下に横たわらせ、その胸に頭を乗せた。

 

彼の激しい心音が聞こえてきた。

 

次第に胸の上下が長く深くなり、心音が落ちついてきた。

 

「千冬。」

「うん?」

 

「ありがとう。」

「うん。」

 

彼の声が胸から聞こえてくる。彼の腕が、わたしの背中に回って来る。

もう、以前の時のようなぎこちなさはなかった。私は少し、ここにいない誰かに

嫉妬を感じた。

 

 

 

私と彼はリビングの床に座っていた。窓から見える空は、まだ青を残している。

 

「私がお茶を入れるね。」といって、キッチンに行った。あっちこっち派手に

動き回りながら、紅茶を捜した。

 

「ここでもないよねー。」

 

「ここかなあ。」

 

「ねぇどこー?」

 

彼は苦笑して、

「その食器棚の左はしに缶があるだろ。それ使って。」と指さした。

 

「あー分かった分かった。ティーポットは?」

「そんな気の利いたもの無いよ。茶こしで入れてくれるかな。」

「そーかー、景クンいつもコーヒーだもんね。お茶の待遇は最悪だー。

 がんばれ紅茶君。」

「何いってんだか。」

 

がんばれ千冬。

 

「こういうときは、お砂糖入れたほうがいいんだからね。」

と有無を言わせず、砂糖を入れた甘い紅茶を彼の前に置いた。

 

一口飲んで、微妙って顔してる。

 

「美味しいのに。」


「昨日の夜、あの人と話し合って、出ていくことに同意したんだ。

納得したことなんだから、そのまま消えてくれれば良かったのに、

ごめんなさいなんて置き手紙を置いていきやがって。」

 

前もそうだったね。

罪悪感を一方的に謝ったことで帳消しにするなって怒ってた。

 

でもね、

「怒っちゃだめ。景クンはね、淋しいだけなの。淋しいって言えないで

 どんどんため込んでいるから、そうなっちゃうの。私が来たら、

 機嫌直ったでしょ。」

「ボクは、淋しがってるだけ?」

 

まだ横顔しかくれないんだね。

 

「景クン、ミズエちゃんがいなくなって、淋しかったんだよきっと。

 そこへ、おかあさんのことが重なって、耐えきれなくなったんだよ。

 でも、大丈夫だよ、千冬がいるから。ずっと側にいるから。」

「ずっと側って?」

「ほら、これ。緊急家出セット。」

 

飛び出したときは差程重いとも思わなかったけど。

 

「家出してきたの。」

「家出の用意がしてあったの。私もう帰れ無いの。帰ったら、

 今度は外国のどこかに留学させられてしまう。」

「どういうことか、いってる意味がわからない。」

 

そうだろうな・・・。

 

「景。私のこと、好き?」

 

・・・こっちを向いて。

 

「うん。」

 

・・・言わせてみせる。

 

「私がいなくなったら淋しい?」  

 

・・・絶対に言わせてみせる。

 

「うん。」

 

「じゃあ、もし私と二度と会えなくなるとしたら、どうする。」

「分からない、そんなこといま考えられない。」

 

・・・私が欲しいって、言わせてみせる。

 

「いま考えないと、そうなってしまうのよ。」

 

「だめだ、それは絶対だめ。千冬が側にいてくれないと、ボクはまた

 正気を失う。ところどころ記憶がないんだ。

 千冬にケイタイしてから、千冬がここに来てくれるまでの記憶が、

 混乱してるんだ。千冬がいてくれないとボクは・・・。」

 

「死んでしまう?」

 

彼は正気を失ったように息を呑んだ。私はもう一度彼を抱きしめて何度も囁いた。

 

「大丈夫、大丈夫、良い子だから。私はここにいるよ。」

「ずっといてくれる?」

「ずーっと。」

「ずっとだよ。」

「ええ、ずっと。」

 

 私はシャツの前をはだけ、聖母が我が子を抱くように、彼の頭を抱き寄せた。

 

・・・言わせた。

 

・・・とうとう、言わせた。



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