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 堀内さんが支えるように握っていた私の腕から手を離し、

保健室の引き戸を開けた。

 

「先生、六年三組の上叢さんが、気分悪いんです。」

「はいって。その椅子に座って。・・・ああ、ちょっと顔色悪いかな。

 あなたは教室戻っていいわよ、ごくろうさま。」

「はーい。じゃね上叢さん。」

 

私は、なけなしの笑顔を堀内さんにつかい果たした。

 

「つらかったら、横になっていいわよ。」

言われるままに、ベッドに這い上がった。

 

「朝ごはん食べた?」

「はい。」

「生理は?」

「まだ少し早いです。」

「夜ちゃんと寝てる?」

「昨日はちょっと、朝まで眠れなくて。」

「そう・・・、とりあえず一眠りしとくか。この体温計、はさんどいてね。」

「はい。」

 

 “はい”、といってから目を覚ますまでの記憶がほとんど無い。

 学校の中にこんなに静かなところがあるのか、と不思議になるぐらい

静かな時間だった。

 

 体温計のピピッていう音と、先生が書類を出したりしているような音が、

眠りと目覚めのドアをいったりきたりしているときに聞こえたような気がする。

 

 そして、たいして時間のたたないうちに、終了のチャイムの音が聞こえ、

目が覚めた。

でも身体が動くようになるまで、十分か十五分ぐらいかかったかもしれない。

 

ベッドと背中の接着剤をやっとの思いで引き剥がして、ようやく起き上がった。

 

「先生。眠ったら気分が良くなったので、教室に戻ります。」

「そう。無理しないようにね。午後も調子が悪かったら、来ていいわよ。」

「ありがとうございます。失礼します。」

 

こういうとき、四階っていうのはこたるなあ。足が重いわ。

 この時間だと、給食みんな食べ終わってるんだろうな。一人で食べるの

いやだな。ただでさえクラスで浮いてるのに。

 

 ああ・・・もう片付けが始まってる。給食当番のあのエプロンほんと、

ださいよね。

何であんなの被らないといけないの。

 

 ああ、だんだんブルーになってきた。昼休みの騒々しい教室で、一人で給食

食べるなんて。一体何の罪と罰なのよ。

 

・・・やっと着いた。もう帰ろうかな。

あれ? なにやってるの彼。

 

「よ、上叢。気分はどう。」

「ちょっとましになった。それより、どうして?」

「中森くんが、上叢さんが一人で給食食べるの、寂しいだろうから

待ってるって。私もお付き合いすることにしたの。」

「堀内さん・・・。」

「さめちゃってるけど、一人よりましだろう。」

 

教室の隅っこに、机三つの小さな島が出来ていた。

 私はそこに流れ着いた漂流者で、その島には優しい先住民がいて、

わたしを慰めてくれる。

 

「立ってないで食べようよ。」

「うん。」

 私は腰を下ろして、お箸を手に取った。

 

「上叢またぐすってる。今日はよく泣くなぁお前。」

景クンのせいだぞ!

 

「はい」といって、堀内さんがハンカチを貸してくれた。

「じゃ、小さな声で“頂きまーす”。」

へへ、“小さな声で”なんて、へんなの。

 

「上叢さん、ごめんなー。ケイに言われたんだけど、どうしても

腹へっててさあ、我慢できなくて先に食べちゃったんだよー。」

竹田くん、いちいちそんなこといいに来なくていいのに。

 

「そのかわり、片付けはおれがやってやっから、ゆっくり

 食べていいぞ。

 あれ、泣いてんの。ケイ、お前なんかよけいなこと言っただろう。」

「言ってないよ。なんでボクのせいにするかなあ。」

 

だから景クンのせいなんだってば。

 

“ええ!中森クンが上叢さんを泣かせたのー、ありえなーい。”

“上叢さん大丈夫なの? 貧血なおった?”

“上叢さん、貧血が似合いそう。”

 

えー、わたしって、そういう印象なの。それこそありえなーい、って。

女子が集まって来ちゃった。わーどうしよう。

 

ガタタッ!

 

「みんな、頼むから給食の間は静かにしてくれ。ボク、女の子に囲まれるの

 慣れてないんだ。ゆっくり食べさせてよ、お願いだから。」

「あんたが、泣かせたんでしょ。」

「だから、ちげーよ。」

 

 そして私は、昨日今日の出来事のせいで、いままで何でも母親の

言いつけを守ってきた自分の生き方が揺らいできたのを感じ始めた。

 

 確かに同族のことは、考えなくちゃいけない。でも、そのために

犠牲になる私の人生って何だろう。

 

 生きてるってこんなに楽しいことなのに、死んだように生きる人生って、

それに意味があるのだろうか。

母さんの言ってることは、正しいと思うんだけれど。

 

「中森くん、なににらんでるの。」

「いや、この芋の煮たのってどうやって味付けするんだろうと思って。

 今度作ってみようかな。醤油、塩・・・?」

「えー自分で料理とかするの。」

「毎日スーパーじゃ飽きるからね。」

 

そんなこと言ってたなあ。そっか、毎日あんな風に一人で食べてるんだ。

 

「あー、そーなんだ。大変だねー。私、煮っ転がしぐらいなら作れるよ、

 教えてあげよっか。それより、作ってあげた方が早いかな。中森君ちで。」

 なに、その流し目。堀内さん。どういう意味よ。

 

「へー、堀内って、案外家庭的なんだね。いいなー煮っ転がし。

 おかあさんの味だあ。」

 

 私だって、煮っ転がしぐらい作れます。

ふんだ。うれしそうな顔しちゃって。

 

「やっぱやめとこーっと。上叢さんがこわい顔してるから。」

「ど、どうして、私がそんな顔するの。」

「ほーら、もう怒ってるじゃない。」

「怒ってないもん。」

えい!

 

「あっ、なにすんの、私の小芋!じゃあ、わたしは。」

「げっ、堀内、何でボクの小芋!あ、隠すなよ、上叢ずるいぞ。」

へっへっへー・・楽しい。

 

「おまえら、芋ぐらいで騒ぐんじゃねーよ。って、いただきっと。」

「タケダー!お前もう食ったろ。しかも指でじか食い。あああ・・

 ボクの芋が・・・・。」

「もう、しょうがないわねぇ・・・。ほら一つ上げるわよ。」

「あーら優しいんだ、上叢さんって。やっぱり、あーやしい。」

「だ、か、ら、違いますって!」

「もとはといえば上叢がー!」


下校時間がやってきて、結局、景クンには言えずじまいだった。

 

 わたしは、おかあさんに抵抗してみることにしたのだ。その結果は、

わたしにとって、あまり望ましい未来にはならないと思う。

でも、望みもしないでやってくる未来はない。

例え短くても、わたしは友達と、そして景クンと心を通わせる現在を選択しよう。

 

「千冬ー。なに、黙りこくって。」

「もうすぐ冬休みだね。」

「その前にテストだよ。」

「テストぐらい。」

「千冬はいいよな、頭いいし。」

「景クンだって、小テスト、結構頑張ってるじゃない。」

 

 景クンちょっと、背が伸びたんじゃないかな。並んで歩いていると、

目線が上の方にいっちゃう。

 男の子って、いま成長期だもんね。三年ぐらい先になったら、

どんな男の子になってるんだろう。

 

見たいなー。

 

「ボクは、千冬にばかにされないように必死に頑張ってるだけ。」

「“必死”って程には見えないけどなあ。」

「まあ、その辺は適当だけど。でも、読書で負けて、テストでも負けて、

 負けっ放しっていうの、悔しいからな。」

 

「へんなとこ意地はるのね。」

「そんなふうに見えるのかな。」

「微妙かも。外見からはわからないわね。うん。だから、いまのちょっと

 意外だった。景クンて、どっちかっていうと、ぽわんとしてそうに見える。」

「そうだよな。ボクも気にしてるんだそういうとこ。」

「いいじゃない。一緒にいるとホッとするし。」

「ぬいぐるみじゃないんですけど。」

 

あれ・・・。

「早く大人になりたいよ。」

 

あ、もしかして。

「ぽわんとしてるからホッとするって言われるんじゃなくて、

 頼りになるからホッとするって言われるようになりたいんだ。」

 

やっぱりだ。

この商店街の道、細いわりには自転車やクルマがどんどん走ってくる。

 

景クンさりげなく車道側に立って、私を守ってくれてるんだ。

何でいま迄気が付かなかったんだろう。

こんなに大事にされてたんだ、私。

 

「ね、いまかっこいい事言ったつもりなんだけど。聞いてる?」

「しーらない。」 

 

でも、いまでも十分頼りになるよ、景クン。


 クリスマスと共に冬休みがやってきて、成績の上がった通知簿を見て

かあさんは嬉しそうだった。

 

“小さいけれどびっくりするぐらい高い”っていうケーキを買ってきてくれて、

いくつになっても子供はクリスマスが好きだって思っている親って幸せかも、

なんて思ったりもしながら、半分食べた。

 

 ちょっと最後の方は必死だったけど。

 

母さんのクリスマスプレゼントは手編みの帽子で、こんなのいつ作ったんだろう。

あんなに忙しそうなのに。

 

 ボクは母さんに手袋をプレゼントした。親にもらったお小遣いで買うって

いうのがちょっと後ろめたかったけれど、一生懸命選ぶ事に心を込めたつもり。

母さんも喜んでくれたし。

 

 ボクがもう少し大きくなって、例えば恋人かなんかとクリスマスを過ごすように

なったら、母さんは一人でどうしているんだろうか。

いや、恋人が出来るかどうかはこの際だから置いといて、だけど。

 

 おっと、ケイタイ鳴ってる。この前、しおり挟むの忘れて、どこまで読んだの

かわからなくなって、適当に開いたらいきなりネタばれしちゃってげっそりした事

あったよな。

 

“ミズエ”だ。 なんだろ。

 

「メリークリスマス!ミズエ。」

 

“・・・・・”

 

「おい、なんか言えよ。」

“酔っぱらいの小学生の、知り合いはいないわ。”

 

「赦して、もうしません。」

“あのさ、ケイくん。約束覚えてる。”

 

「あーあーあー、おぼーえてるよ。ええと、たしかDVD貸すんだよね、

 それとも“ブルー・フィッシュ”のCDだっけ。」

 

“わたし人間不信になりそう。あんなに固い約束を交わしたのにん。他に

オンナが出来るとこれだもんね、やだやだオトコって。”

 

えーーーーーーーーーーーー何だっけ。マジ、やばい、げきヤバ。

声、異常に低いし。

 

“本当に忘れたの・・・、林檎あめ。”

「あーーーーーー!いまそういおうと思ってたトコ。」

 

“けいたいで叫ぶなー、耳しぬ。”

きーーーーーーーーん。

 

「ごめんなさい。初詣だよね、日枝神社の。」

“大丈夫ぅ?いけそうかなぁ。まさかアノコと約束したなんてこと無いで

しょうね。”

 

「誰ともしてないよ、行く行く。」

“じゃあねえ、鳥居の前に1月1日1時って事でどう。”

 

「を、1並びですか。粋(いき)ですなぁお嬢さん。」

“カンナとタケダも誘っとくね。”

 

「四人揃うの久しぶりだなあ。」

“ケイが無視するからでしょ。”

 

「ああ・・・、そっか、そうだったよね。ごめん。」

“あ、ぜんぜん、そんなつもりで言ったんじゃないの。最近、ケイが元気に

なってきたから、ちょっと調子に乗っただけ。ほんと良かったよ、ケイが元気に

なって。”

 

 そうなんだ。ミズエは優しい女の子で、ボクなんかのことを、こうして気に

掛けてくれる。

初詣だって、もっといけてる男誘えばいくらでもついて来るのに。

 

“どうしたの、だまっちゃって。”

「・・・あのさ。」

 

“ぅん?”

「あ、ありがとう。」

 

しばらく、ミズエから答えが返ってこない。

 こんなに暗くて静かな夜に遠く隔てられているのに、二人をつないでいるのは

目に見えない電波だけなのに、ボクはミズエが肩を震わせているのがわかったんだ。

 

 それも単純じゃなくて、いろんな気持ちがごちゃごちゃに溢れ出して、そう

してるっていうことが。

 

どうしてだろう。

 

「おーい。」

“・・・バカ・・・突然なによ、・・・泣いちゃったじゃない。”

 

「うん。」

“あーあ、アノコじゃなくて、私だったらよかったのに・・・。”

 

「そんなんじゃないって。」

“付き合ってるってもっぱらの噂だよ。”

 

「付き合ってないよ。大体さ、ボクってそういうことが出来ないの、

 ミズエが一番わかってるだろ。」

“そういういい方されても、うれしくもなんとも無ーい。でも、そうか。そうだね、

ケイっておこちゃまだもんね。そういうところ。”

 

「タケダにも言われた。」

“私はいつまで待てばいいのかなあ。”

 

 おいおい冗談だろ。そんなの想定外だよ。なんか、今夜は展開がはやいな。

どうしてこんな話になっちゃったんだろう。

 

「1月1日1時だろ。」

“刺身包丁もって。”

 

「ええー!」

“いっとくけど、私モテルんだからね。これが最後のチャンスかもしれないよ。

来年はもう中学生だし。”

 

「そっかぁ、何年かして、こっぴどく振られて、初めて分るんだろうなボクって。

ミズエのことがどんなに好きだったかってこと。」

 

“へぇー、私のこと好きなんだ。”

「うん。」

 

“でも付き合えないんだ。”

「うん。」

 

“どうして。”

 


「ミズエがそんなふうにボクのことを見ているなんて知らなかったし、
 それに、そうなったらなったで、うまくやっていける自信も無いし。
 付き合って別れちゃったら、それまでと同じには、やっていけないと思うんだ。
 でもボクはミズエとずっと仲良くやっていきたい。」

 

“トモダチイジョウ、コイビトミマン、か。ちょっとあせって、まいあがっちゃったかなぁ。

 ねぇ上叢さんのこと、どう思ってるの。”

「どうって。」

 

ついに実名できたか。

 

“このさいだからはいちゃえ。楽になるよー。”

なるか、んなもの。

 

「彼女は面白い。」

“面白い。なにそれ!”

 

「本当は人懐っこくって、寂しがりで、お節介なぐらい世話好きなのに、

クールで淡白で薄情なふりをしているところ。」

“あーあ、聞くんじゃなかった。今のは聞かなかったことにする。

 えー、あ、はーい。”

 

「なに?」

“うちのオニハハが、お風呂に入りなさいって。

 せっかくいいところだったのに。残念。”

なにがいいとこなのか、わけわかんないよ。

 

“やっぱりCDも借りとこうかなあ。あの“ラブ・パレード”の、

 ふん、ふふ、ふん♪ ってとこ好きなんだあ。“

「・・・・わからねえ。」

 

“だぁかぁらぁ、

 さあ、パレードに行こう。世界の終わりまでつづくパレードに。

 愛だけでむすんだボクたちの手をつないでー♪ っていうところ。

 きゃあーーー恥ずかしい。なにさせんのよ、歌っちゃったじゃない。“

 

「ねぇ、ミズエ。」

“うん?”

 

「おちつけ。」

“わたしは常に冷静です。”

 

「あのさあ、大晦日の夜、年が変わったら、一番に電話していいかな。」

“ああっ!いい、いい、それいい!待ってるからね。きっとだよ!

 じゃあ、ついでにもう一つおねだりしちゃおうっかなあ。”

 

「なに?」

 

“おやすみ、ぼくのミズエ、Chuって囁いて。

 待ってね、今からベッドに入るから。“

「今から、風呂はいるんだろ。」

 

“はっはーばれてたか。想像しちゃだめだぞ。”

「するか!」

 

“あ、はーい。わかってまーす。・・たく、しつこいんだからオニハハめ。

 娘の恋路を邪魔するんじゃないの。じゃね、名残り惜しいけど。”

「じゃあな、おやすみ。」

 

Pi!

 

うああああああああ・・・・・・どっと疲れた。

冬なのに汗かいてるよ。

 

 びっくりしたー。ミズエがねぇ・・そういえばいつか、タケダがそんなこと

いってたなぁ。のあああ・・嬉しいけど、なんだか困るよ。

 

ぱたん、ぱたん、ぱたん。

 

そうだ、“待ち受け”変えとこうっと。こんなのみたらミズエが傷ついちゃう。

ええと、これもダメ、これもいまいち、これは・・・千冬の怒った顔。

 

・・・千冬の顔かあ。

 
おい、ケイ! 面白いってだけか?
ほんとうに、それだけの理由でこんなの登録してるのか。

それからお正月までの一週間、ミズエは夏休みと同じ塾で冬期講習に。

ボクはときどき、タケダやケンイチ君達と公園でサッカーボールを

蹴ったりした。

 

 タケダは中学に入ったら、サッカー部に入るって言ってた。タケダだったら

すぐレギュラーだろうな。

それ以外の時間は、やっぱり本を読んでいて、いまは歴史物にはまっている。

 

そうそう、家に料理の本があったのは大発見だった。

多分かあさんが新婚時代に使ってたんだろう。

奥の方に追いやられていたけど、掃除の途中で見つけたんだ。

ボクってどんどん家庭的になっていくのな。

 

ところどころ角を折ったあとや、汚れた指で触ったような跡が付いている。

へぇー煮っ転がしって、砂糖入れるんだ。だからちょっと甘いのか。

知ってるか知らないかだけのささいな事なんだけど、ボクにとっては大発見。

 

 ふうん、結構いろいろと揃えないといけないんだよね、ボクの知らない

調味料とかの名前がたくさん載っている。

 これはこれで面白いけど、作るって大変そうだな。だから奥の方にあったのか

・・・母さん、やっぱり料理嫌いだったのかな。

 

 そんな毎日が続いて、大晦日がやってきて、父さんが三百六十四日ぶりに帰ってきた。



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