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 千冬は、景と別れたあと二区画ほど歩いて、引っ越してきたばかりで、

まだなじみの薄い我が家の扉を開いた。

 

「ただいま。」

「おかえりなさい。どうだった、学校。」

 

ダイニングから母親の声がした。冷蔵庫を開けて、閉める音が聞こえる。

 

 水滴の付いた麦茶の入ったガラスコップを頬に当てて、目をつぶって暫く

思い返したあと。

 

「ふつう。どこも一緒。子供はうるさい。どこから来たのとか、ドラマなに

 見てるのとか・・・。」

といって一口飲み込んだあと。

「あーでもねー、一人面白いのがいたよ。何を読むか、作家の顔で決めるんだって。

 フフ、変わってるでしょ。」

「そうね。初めて聞いたわ、そんな選び方。なんて言う子なの。」

「なかもり君。・・・中森クン。」

「そう。あまり親しくしちゃ駄目よ。いまさら、分かっているでしょうけど。」

 

「・・・・はい。」

 

 千冬は、コップをテーブルに置き、冷えて水滴のついた指で鞄の中を探って

プリントを取り出した。

 おかあさんには、送ってもらったことと、朝一緒に登校することは言わない

でおこう・・・。

 

「おかあさん。新学期そうそう、家庭訪問があるんだって。」

 

 千冬の母は、浮かない顔で水染みのついたそのプリントを開き、

「来るって言うものは、仕方ないわね。」と気乗りのしない返事をした。

 

 引っ越しの荷物は、まだ運送会社のロゴが印刷された段ボール箱の中に入って

いる。今度いつ引っ越しになるか分からないから、衣服なんかは本当に必要になる

ときまでそのままだ。とりあえずは空き部屋に押し込んでおくことになるだろう。

 

「担任の先生の名前は、、、たしか野島先生だっけ。」

「そうだよ。連絡網に書いてあるよ。」

 

 ー 野島浩治・・・とりあえず聞き覚えはないけれど、念を入れるのに越したことは

無いわ。

 

 関係者も含めて。

 

上叢千冬が転校してきてから、三ヶ月が過ぎた。

 

ボクと上叢は朝一緒に登校し、時々は帰りも一緒だった。

 彼女とボクには“読書”という共通の話題と、それから子供嫌いって言う好み

の共通性があった。

 

 彼女の読書は本物で、読んだ物語についてのいろいろな解釈を僕に披露して

くれる。僕はその量においても、読み解く力においても彼女には敵わなかったけど、

それを悔しいとか思ったことは一度もない。

 

 それは彼女が、例えば日の沈むのが早くなった秋の帰り道に、夕焼けのなかで

ボクに話すとき、彼女は物語の世界を旅して、その旅の思い出をただ純粋に懐かしむ

ように、ボクに分け与えてくれたからだ。

 

 ボクは彼女の話を聞くのが好きだった。自分の知らない世界の扉を開けてくれる、

彼女の言葉を聞くのが好きだった。

 

 ボクはいつの間にか、夏の間に迷い込んだ泥沼の中から草原に足を踏み入れていた。

それは、いつか迷子になった帰り道で、気がついたら自分ちのマンションの前に戻って

いたときの感じに似ていた。

 

 ボクは、また、風が吹いていることを感じる事が出来るようになった。

春風は秋風に変わっていたけれど、ちょっと大げさに言うけどさ、まだ、

生きていていいんだと思えたんだ。

 

 

上叢千冬は三ヶ月たったいまも、女の子のどのグループにも属していない。

 

 どうして女の子達があんなふうにグループを作るのか分からないけれど、

それに属さない子は仲間はずれにされたり、時々いじめの標的にされたりもする。

 

 いろんなグループが上叢千冬を取り込もうとしたみたいだけれど、彼女は

愛想良くしているがそれ以上の関係には成らなかった。

 だからといって、彼女が仲間はずれにされたとか言うことは聞いたことがない。

彼女の存在感が、あまりにも独特だからかも知れない。

 

ボクが最初に感じた印象で言うと、彼女は他とは温度がちがう。

そういう彼女を、ボクは援護しているつもりだった。

 

人のためっていう明確な目的があれば、生きるのは楽だ。


そして、そんな朝、あの事件が起きた。

 

「なんか、ちょっと寒くなってきたね。」

「なんだか、散歩のおじいさんの挨拶みたい。」

「寒いものは寒いよ、子供だって。もう十二月だし。」

 

 ほら、息だってこんなに白い。ほーっと。ちょっと怪獣みたいなんて思ってる

ことは、内緒。

 

「こっちって雪降るの?」

「まだまだ随分先。」

「へーでも降るんだ、雪。」

 

「東京は降らないの?」

「年に一度ぐらいね。降ったら大混乱。ニュースとかでもやってるでしょ時々。」

「ああ、見たことある。東京以外の人間にすれば、どうでも良いことなのに。

 関係ないし。」

「そうだね。東京の雪なんて汚いだけなのに。・・・わたし小さいとき、

 信州の方にいたことがあるから、雪が楽しみ。」

 

 この商店街の辺りまで来ると、登校する小学生が増えてくる。この寒いのに

半ズボンと半袖Tシャツで走ってるのもいる。

 あのお婆さんは、多分、いつも小学生の登校に合わせて犬の散歩に来ているん

だろう。にこにこと楽しそうだ。心の中でおはようって言ってるのかも知れない。

だからボクもすれ違うときに、心の中でおはようございますって言ってる。

 

ふと思いついて聞いてみた。

 

「上叢って冬生まれ?」

「さすがだね、名探偵君。」

「そんな言い方すると、恥ずいじゃないか。少なくとも四分の一の確率で

 あたるんだから。」

「でも、千冬って名前、わたしは好きじゃないの。」

「どうして?綺麗じゃない。」

 

「うん。そうなんだけど、好きじゃないの。中森クンは?“景”って言う名前、

 いいよね。」

「うーん。考えたこともない。」

「そうなの?ふーん。 人はそれぞれってところかな。」

 

 最近は、その名前で呼ばれることも少なくなった。母さんとは昨日の朝、

顔を合わしたきりだ。

 

 

 校門に校長先生が立って、一人ひとり挨拶している。これってどういう意味が

あるんだろうな。

 こういうとき上叢千冬は、一度立ち止まり、転校してきた時と同じように

両手を重ねてお辞儀をして「おはようございます。」って挨拶する。

 

仕方ないからボクも立ち止まって挨拶する。

ちょっと恥ずかしいけど、上叢千冬のそういう姿を見るのは好きだから。

 

「ねえ、中森クン。景クンって呼んで良いかな。」

 

校門から校舎に向かう途中で、不意にそんなことを言われた。

 

「良いけど。じゃあ、・・・。」 

「ダメ。それはダメ。」

「ずるいぞ、自分だけ。」

 

 上叢は、笑いながら逃げるように階段を駆け上がっていき、教室に入った

ところで急に立ち止まった。

 

「あっぶねえな。」

 

 ボクは背中にぶつかりそうになり、ぶつくさ言って彼女が見つめているもの

にやっと気が付いた。

 

 黒板に、白いチョークでかさのマークとその下に、上叢とボクの名前が

書いてあった。

 

 彼女は、期待に満ちたクラスの視線をちらっと見下すと、何も言わずに

そのまま自分の席に着いて、窓の外を見ていた。

 

 その横顔が、ちょっと青白く引きつって見えたのは錯覚かも知れないけど、

黒板には依然としてその落書きが残っている。

 彼女の前では消すに消せない。どうしたらいいのと言うような困惑の雰囲気が

クラス中に広がった。

 

 誰かが「ねえ日直!」と言ったけど、「やだよ、オレ関係ないもん。」

と教室の別の所で誰かが拒否った。

ボクは、正直に言うけど、傘の下に書いてあるのがボクの名前で嬉しかった。

もし他の誰かだったら、もう、なんて言うか、すごくへこんでただろうと思う。

 

ボクは鞄から携帯を取り出した。

(本当は、学校に持って来ちゃいけないんだけど、ボクの場合、いつ母さんから

どんなメールが飛んでくるか分からないという不安があって、こっそり持っている。)

 

「タケダー、一枚撮って。」

「おー、かしてみー。」

 

 ボクは落書きの前で親指を立ててポーズをとった。タケダのおもしろがっ

てる顔と、それ以外のクラスのみんなの間抜け面と来たら・・・。

 そして上叢千冬のホッとした顔が見えて、ボクは何とか役割を果たしたぞって

気になった。

 

とっても残念だったけど、先生が来る前にその落書きはボクが自分で消しておいた。

 そしてその後の一時間目の授業中に、こんなことはいままで一度もなかったんだ

けれど、何人かの有志の手を経て上叢千冬からの小さく折りたたんだ手紙が回ってきて、

中にはこう書かれていた。 

 

「景クンありがとう。 千冬。」


昼休みの時間、ボクは非常階段にタケダを誘った。

 

 踊り場の、運動場側のちょっと錆のにおいがする手すりに腕と顎を乗せて、

話し出した。ボクはこの錆の匂いが好きだ。

 

「あれ、誰が書いたか知ってる?」

「ああ、まあな、・・・でも聞かない方がいいと思うぜ。しょうもない

 いたずらなんだから。」

「ボクはいいけど、上叢がけっこう傷ついてるんじゃないかと思って。」

「で、聞いてどうするよ?」

「・・・そこまで、考えてなかった。」

 

「お子ちゃまだなあ、中森は。もう済んだことだから、ほっといた方が

 いいんだよ。

 ・・・そんなことより、ケイさあ。また公園でボールけろうぜ。

 お前のうちが大変だって言うのは、なんとなく分かるんだけど、

 だからってお前まで“てんばる”ことないと思うんだよな。

 本ばっか読んでても、何にも解決しないだろ。俺も、ケンイチも

 ミズエも気にしてるぜ、ケイ大丈夫かなって。

 いままであんまり、きっかけとかなかったからいえなかったけどさあ。」

 

「うん、ありがとう。そのうち行くよ。」

 

別のクラスの六年生が、通りすがりにじろっと見て上がって行った。

ボクとタケダは顔を見合わせて、それを機会に教室に戻っていった。

 

タケダが、「今度は俺とケイの名前が書いてあったりして。」とか言ったから、

おかしくて廊下で “ぎゃはは”って噴出しちゃった。

 


 その日の帰り、ボクは返却期限の本を大急ぎで図書室に返し、上履きを

履き替えてかかとを踏んだまま階段を二段とばしで駆け下りた。

校舎を出たところであたりを見回すと、上叢が中庭の方からやってきた。

 

「女の子を待たせちゃダメじゃない。」

 

普段だったら、そんな約束して無いだろ、とでも言い返すところなんだけど。

 

「これでも大急ぎで出てきたんだから。ちょっと待って、靴ちゃんと履く。」

といってしゃがみこもうとしたら、彼女が右手を出した。

ボクは、ちょっとだけ驚いたけど、彼女に鞄を渡した。

そういう気遣いが、なんか大人っぽい。

 

 いつもだったら校舎を出たところでどっちかが待ってるんだけど、今日は

そういう目立つのはちょっと、だよね。

 

校門を出て、暫くは無言で歩いた。ま、たまにはそんな帰り道もいいさ。

 

「なに、にこにこしてるの。」

「え、笑ってた?」

「うん。なんだかうれしそうに。人が落ち込んでるのに。」

 

そうだよな。今朝あんなことがあったばかりだもんな・・・。よし、

「今日は、ちょっと遠回りしようか。」

 

 いつもの商店街を通る道を離れて、電車道と平行に歩いて行くと家がまばらに

なってきて、畑やたんぼの中の小道に続いてるんだ。

 

「なんだか、すっごい田舎みたい。どうしてこんな道知ってるの?」

「一人で帰ってた頃は、よくこういうの探して歩いてたんだよ。

 迷子になりそうになったこともある。

 今は飛んで無いけど、春には蝶々、秋には赤とんぼ。ほら、虫が鳴いてるだろ。

 転校ばっかりしてたから、友達とか・・・難しくてさあ、一体なにして遊んだら

 いいか、なかなかとけ込めなかったり。

 そういうときでも、野原はどこでも一緒だからね。」

 

「うん・・・、聞こえる。懐かしいな・・・。信州にいたころのこと思い出すわ。」

 

 それからまた、しばらく無言で歩き続けた。上叢を見ると彼女も微笑んでた。

良かった。

 

「ありがとう・・、景クン。」 

ボクはにっこり笑った。

 

「ねえあれ見せて。今朝写してたの。」

ボクは鞄の底から携帯を取り出して、“ぱちっ”と開いた。

 

「やだ、待ち受けにしてるの?趣味わるーい。」

とか言いながら、満更でもない顔してるじゃない。

ボクは調子に乗って、カメラを上叢に向けた。

 

「だめ!」

モニターの中の上叢の顔が怒っている。

 

「それはだめなの。」

 ボクは驚いてゆっくりと手を下ろした。膨らんでた気持から、

空気が全部抜けちゃった。

 

「そうだよね・・・。写真撮られるのイヤな人もいるよね。

 ごめん調子に乗りすぎた。」

 

ボクは鞄に携帯を放り込んだ。

 

しばらく歩いてから、

「わたし、本当は景クンなら撮られてもいいなって思ってるんだよ。でもね、

 おかあさんから厳しくいわれてるの。

 そういうのが知らない人の手に渡って、悪いことに使われたりしちゃいけない

 から、だめだって。ごめんね。」と、千冬が言った。

 

そっか・・・。

「厳しいんだな、その、・・・千冬のおかあさんて。」

ボクは、おそる、おそる、顔を上叢の方に、む、むけた。

 

「どさくさに紛れて、いったわねえ! その名前好きじゃないっていったのに。」

ああ怒ってる。今度こそおしまいだ。

 

「ぷっ、なにその顔。怒ってないよ。景クンが好きなんだったら、わたしも

 好きになるよう努力する。」

 

え、“景クンが好きなんだったら”って、イヤ、ボクはその、

 

「やだ、なに赤くなってるの。そういう意味じゃなくって名前の話でしょ。

 なんでそうすぐ、思ってることが顔に出るの。わたしまで恥ずかしくなる

 じゃない、ばか。」

どうせ、ばかですよーなんて思ったら、また顔にでてるのかな。

 

「ほら、あそこが光が丘。そしてあれがうちのマンション。」

「もう着いちゃったね・・・。今日はいろんな事あった・・・。」

 

「ねえ。」

といいながら、上叢はボクの前に出て、

「景クンのこと見直しちゃった。ありがとう。」

と夕焼けに染まりながら言った、彼女の笑顔。

ボクには、その笑顔で十分です。

 

「じゃあ、また明日ね。」

「ああ、またね。」

 

よーし、今夜はビーフシチューでも作るか。

 

でも総菜コーナーにあったら、やっぱりそれ買って帰ろう。

 



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