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三年と十ヶ月前

 長かった六年の夏休みは、僕にとって本当に意味のないものだった。

 

 宿題に、日記とか無かったのがせめてもの救いだ。

だって、毎日同じだったもの。

 

 毎日毎日、本はいっぱい読んだから、感想文は楽勝だ。

 本当のところは夏目漱石なんて読んでても良くわからない。ギャグも落ちもない。

(だからノイローゼになんかなるんだよ。インターネットでちょっとは調べたんだ。

調べ物学習の成果だね。)

 

 テレビドラマをみてるのと同じ感覚で、ただ字を追っかけてストーリーを

追っかけてるだけ。

 それでどうやって感想文を書けたかというと、一冊だと書くこと少ないけど、

十冊分を一つにしたらこれがケッコウ原稿用紙の穴うめにはなるんだよね。

 

 僕って頭いい!

 

「けーいー。」

 

 そうだ、今日は家にいる日だった。

僕は部屋から出てリビングに入った。

 

「なに、母さん。」 

はは、起き抜けの顔ってギャップあるな。

 

「夏休みの宿題とか、終わってるの?放ったらかしにしといて、今更なんだけど。

 どうせ母さん、父さんみたいに手伝ったり出来ないし。」

「大丈夫、ちゃんとやってるよ。」

「そう、偉いね景ちゃん。」 

 

 母さんは額にたれた前髪を後ろに押し上げた。

 

「母さんね、頑張ったから来月から正社員に成れるの。」

母さんの顔がちょっと誇らしげだ。

 

「正社員になったらどうなるの?」

「お給料が上がるし、部下も出来るのよ。責任も重くなるけど、次は店長にだって

 成れるし。母さんを指名してくれるお客さん、多いのよ。」

「ふうん。すごいね。」

 

 僕にはあんまり、多分、ぜんぜん関係ない。

でも、大人だからにっこり笑ってお祝いしてあげよう。

 

「景ちゃん、なんか欲しいものない?いままで放ったらかしたお詫びになにか

 買ってあげるよ。ゲームでも何でも良いよ。今日は。」

「いいよ別に。特に欲しいものなんてないし。」

 

「そんなこと言わないで。お父さんのお金じゃなくって、お母さんのお金で

 何か買ってあげたいの・・・。 そうだ服買ってあげよう。景ちゃんそのTシャツ、

 いい加減くたびれてるじゃないの。新学期からそんなんじゃ恥ずかしいわよ。」

 

服買うより、家にいてくれ、なんてこと言えないよな。

そして、“お父さんの金じゃなくって”、か。うちって、かなり重傷なんだ、きっと。

 

「じゃあ、服でいいや。」

「それじゃ、出掛ける用意するからちょっとだけ待っててね。」

 

 それから、母さんがいうながーい“ちょっと”の時間、僕は待っていて。

 

「お待たせ。あら、着替えて無いじゃない。」と非難されて。

「このまんまで良いじゃない。」って反論したら、

「だめよ今日はデパートに行くんだから。そんな格好で誰も歩いてないわよ。」

って言われた。

 

「デパート!スーパーじゃないの?」

 

 

母さんと出掛けるのなんて、何ヶ月ぶりだろう。

 ちょこっと前に、化粧が派手になったの何だのってぶつくさ言ったけど、

やっぱり綺麗な母さんは良いな。

 

 夏のじりじりとした日射しが、頭を真っ白にしていく。アスファルトさえ白く

見えてくる。

これが現実じゃなくて、夢だったらいいのに。

 

夢だったら何度でも見られるから。


JRの駅まで出て、普通に乗って、鴨田で快速に乗り換える。

そこから三つ目の葦原駅で降りた。

 

駅を出たらアルミの手すりが安っぽいアーチが掛かっていて、“マルエイ”がある。

 本当は“プラザ・マルエイ”とか言うらしいんだけど、昔からマルエイって

言ってるから、この辺りではみんなそれで通じる。

 この辺りでデパートって言えばマルエイのことで、も少し小さい頃から時々

連れてこられた。

 

アーチからそのままはいると二階の出入り口。この入り口は安っぽい。

 

 そのまま、エスカレーターに乗って六階の子供服売り場に行くんだろうな。

冷房が効いてて涼しいや。

ずっと家に居たから、きっとエアコン無しで居られない体になってる。

 

「あれ、かあさん六階じゃないの。」

「七階でバーゲンやってるのよ。六階はもう秋物の長袖しか置いてないわ。」

 

ちょっと安心したよ。

 店員さんに、“こちらのカントリーシャツなんかいかがでしょうか”、なんて

ニコニコ勧められたら緊張しちゃうよ。

柄より先に値札見せて欲しいよな。

 

で、バーゲンていうから、人でいっぱいなのかと思ったら、ぜんぜんそんなこと無い。

 

「あんまり混雑してないね。」

「八月はね、商売には向いてないの。お客さんあまり来ないのよ。」

 

へえーそうなんだ。暑いからかなあ。

母さん楽しそうだな。女の人ってホントに買い物好きなんだな。 

 

 店員さんが、誰かが散らかしていった服をまた綺麗にワゴンに並べ直している。

 それを母さんがまた引っ張り出す。で、それをまた店員さんがたたんで、誰かが

引っ張り出す。ちょっとした“リンネ”だね。

 

・・・うそ臭いとかいっておきながら、ちょっと読んじゃったんだよな。

不老不死の話とか・・・。

 

「ねえ景ちゃん、これなんかどうかしら。」

 かあさんが広げて見せた紺のボーダーは、確かに母さんの好きそうな柄なん

だけど、(だから僕も良く着せられたんだけど)・・・。

 

「かあさん、僕もう百五十あるんだよ。それって小さい。」

「あっ、いけない。そうなんだ、ご免ね、母さん気がつかなくって。」

 

そんな済まなさそうな顔しなくて良いのに。僕の言い方が悪かったんだよ。

 大人ならどんなふうに言うのかな。ちょっと窮屈かな、とかいえば良かったのかな。

悪いコトしちゃった。

 

「こっちのポロシャツどう?」

「あぁ、それ良いね。」

「ちょっと後ろ向いて。」

 

 僕がくるっと回ると、両肩に母さんの指があたる。多分、上から下まで眺め

回してるんだろうな。

母さんの手が、僕の肩を横になでた。

 

「うん、大丈夫。・・・景ちゃん、大きくなったんだね。」

かあさん、そういう言い方やめてよ・・・切なくなるよ。

なんだか、これが最後みたいで嫌だよ。

 

 それから僕はシャツを三着買ってもらって、母さんの

「ねえ、母さんのスーツも買うからちょっと付き合ってね。」

というとんでもない要求にも快く応えて、結局、買い物は夕方まで続いた。

 

「遅くなったわね。今日はここで晩ご飯食べて帰ろうか。母さん作るのも

 後かたづけするのも面倒になっちゃった。」

「しょうがないなあ。あんまり贅沢しちゃ駄目なんだからね。」

「偉そうな口聞いて・・・。でも、ご飯のやりくりは、いつもあなたがやって

 くれてるんだものね。

 贅沢はしないけど、今日ぐらい良いでしょ。折角、久しぶりに景ちゃんと

 二人で出てきたんだから。

 何が食べたい?」

 

何があるのか知らない。

 

「何でも良いよ。母さんの行きたいところでいいよ。」

お子様ランチとオムライス以外なら何でも。

 

「じゃあねぇ、母さんあのイタリア料理のお店に一度行ってみたかったんだ。

 エステの若いこたちがいいっよって勧めてくれてたの。どう?」

 

イタリア料理ならスパゲッティぐらいあるよね。だったら僕にも食べられそう。

 

「良いよ、そこで。」


 そのお薦めのイタリア料理店というのは、なぜか店の前にシェフのおっさんが

斜め向きに腕を組んで笑ってる写真が貼ってある変な店だ。

 

こんなおっさんの顔見て、あーこの料理美味しそうって思う人なんかいないって。

 

店の中は、少し照明が暗くて静かだ。照明が明るくて、騒々しいファミレスとは大違い。

 レストランと言ったら、ファミレスしか知らないクラスの連中に言ってやろうかなあ。

大人はこういう店に入るんだって・・・。

 

いや、自慢する方が子供っぽいか。

あーあ、大人への道は厳しいぜ。

 

「景ちゃん何にする?」

メニューってどこを見たらいいのか。うーん・・・これ日本語なの?

 

「特にないんだったら、Aコースって言うのにしたら?サラダとスープと

 パスタにデザートとコーヒーが付いてくるわよ。」

 

それじゃ、ファミレスと同じだよ。

 

でもわかんないから、

「それにする。」

 

母さんはAコースを二つと、自分のためにワインをグラスで頼んだ。

いいな大人は。いつか、ボクも飲んでみたいな。

 

 ・・・そっか、こんな店に入るんだったら、いつものTシャツにスニーカー

じゃ駄目って言うはずだ。

きっと最初からそのつもりだったんだな。

 

 ボクがトマトソースのたっぷり絡まったスパゲッティを、フォークに

巻き取っている時だった。

 

「景ちゃん、いつも母さん遅くてご免ね。」

「え、ううん。いいよいいよ。母さん、仕事忙しいんでしょ。」

 

 もぐもぐ。うん、本当に気にしてないように見せなくちゃ。

だから、口いっぱいに頬ばってもぐもぐ。

 

「仕事もだけど、色々お付き合いもしなくちゃならないの。母さんどうしても

 正社員になって、収入を安定させて自立したかったの。

 だから、時々はお酒も飲まないといけなかったりするの。」

 

母さん酔ってる? 僕、母さんおんぶして帰れるほど、まだ大きくないよ。

 

「あぁ、心配しなくて良いのよ。別にお父さんと離婚するとか、そんなじゃないから。

 でもね、母さんの我が儘でこっちに残るって言ったとき、言い出しにくかった

 のは父さんに頼り切っていたからだと思ったの。

 だから母さんも働いて、対等に物を言いたいと思ったの。」

 

 母さんは、グラスに残っていた二杯目のワインを飲み干した。

 

 変なの。母さんも僕と同じこと考えていたんだね。

でもさぁ、ボクがそれを実現させるのって、一体何年先になるんだろう。

 

「こんなに、あなたに苦労させるとは思ってなかったんだけど、母さんいま

 充実してるの。だから、ご免ね。」

 

ご免ねって、ねぇ母さん。それって反論は聞かないってことでしょ。

もう決めちゃったって。

 

「母さんは、母さんのやりたいようにすればいいよ。僕は大丈夫だから。

 別に共働きなんて、クラスでも珍しいことじゃないし。」

「ありがとう。」

 

「でも、なんでエステに?」

「うーん。学歴も経歴も問われない実力の世界だし、それに女ってね、

 いつまでも若くて綺麗でいたいって願望、いくつになっても持ってるの。

 一度経験したら抜けられなくなるのよ。だから商売としては堅いと思ったの

 ・・・ていうのはあとから思いついた理由で、本当のところ、なんで始めようと

 思ったのか、求人見ててなんか気になっちゃって、電話して、面接受けて、

 採用されて・・・。どうしてかしらね。」 

 

いつまでも若くて綺麗・・・不老だ。

 

「あのさ、家にある“徐福”の本って母さんのだったの?」

「ぇえ?知らないわよ。お父さんのじゃないかしら。あの人そういうの好き

そうだから。」

じゃあ、やっぱり父さんのだったのか。

 

 母さんはカードで支払いを済ませ、デパートの紙袋を両手に提げた僕たちは、

来たときとは逆のルートで家に帰った。

 

 家に帰って部屋に入って思った。

 明日からまた学校だ。母さんに大人の付き合いがあるように、僕にも子供の

付き合いがあって、学校にはそれがいっぱい詰まっている。

 

子供のお相手か、やだなあ・・・。

 

そうそう、結局、父さんはお盆には帰ってこなかったんだよ。