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1.

「産もう」僕は言った。

 洋子は何も言わず僕を見返すだけだ。少しこちらをにらみ付けるような表情は怒っているようでもあるし、言葉の奥にある思考を慎重に読み取ろうとしているようでもあった。

 数分たっても返答をもらえそうになかったので、僕は先ほど言った言葉がもしかしたら「羽毛」と言ったように聞こえたのではないかと疑い始めた頃に、ようやく彼女は口を開いた。

「いいから」

「え?」

「孕ませちゃったなあ、責任とらないとなあっていう風に考えているなら堕ろす覚悟できてるから」

「そ」そこで言葉が止まってしまう。こんな状況は初めてだ。シャツの裾で手の汗を拭う。「そんなことはないよ。本当に産んでほしいから言ってるんだ。洋子も子供欲しいって言ってたじゃんか」

 付き合い始めて七年。結婚もしていなければ、籍も入れていない。夏の匂いがし始めた頃のある日の深夜、コンドームがなくて、勢いでしてしまったあの一回で授かったらしかった。

 ごめん、中で出しちゃった。自分でも吐き気が出そうな取り繕った半笑いしたあの夜。月明かりで互いの顔も判然としなかったが、なぜかそのときだけ洋子の表情は、はっきりと僕の眼に像を結んだ。今と同じ、にらみ付けるような、こちらに何かを問うような固く厳しい面持ちだ。

 洋子は妊娠検査薬を手でゆっくりと回しながら、やはり口を閉ざしたままだった。新たな生命の誕生を調べることができるその棒の小さな窓には確かに、縦に一本の線が黒く滲んでいた。

 子供を産んでほしい気持ちはもちろん、本心だ。自身の目標が達成されれば、結婚して、定職にもついて……と考えていたが、ずるずると時間だけが過ぎていた。頭の片隅で夢を捨てることを考えていることも確かだった。要は、僕はふがいないのだ。

 窓のほうへ目を向ける。月は流れ行く雲からときどき顔をのぞかせ、冷たい目でこちらを見下ろしていた。衣服にじっとりと吸い付く汗に、ぬるい風しか送らない扇風機は意味がなかった。

「うう」と洋子が言った。

「どうした?」

 つわりと思い背中をさするとやんわりと拒絶された。

「違う。これからすごい不安だと思って」

「二人で頑張れば、何とかなるよ」

 元来楽天的な僕は、何の根拠もない言葉で元気づけようとした。洋子は本当に気持ちが悪そうにお腹を抱えていたかと思うと、すぐにがばりと顔を上げ、僕の両肩を掴んだ。

「だってさ出産前に入院とかして、流産とかしないように気をつけて、出産のときはすごい痛いって聞くし、産まれてからも最初は夜泣きがひどくて寝れないって――」

 僕はどうしたらいいか分からず、思わず抱きしめた。大丈夫、大丈夫、という言葉は洋子だけに発したものではなかった。

 言葉にならない言葉をしばし吐き出し続けていた小さな背中はやがて小刻みに震え始め、温かい雫が僕の胸をつたった。

 心臓が鼓動するようにしゃくりあげる彼女の頭を優しくなでるたびに僕は自分自身に毒づいていた。二人の間に子供が産まれるとはどういうことなのか塵ほどにも理解していない、覚悟もできていない愚かな自分自身に対して。

 

 朝起きるとすでに洋子の姿はなく、テーブルにはいつもの書き置きがあった。

 いつからだろう、僕は深夜勤務のフリーターで彼女は朝早くから働いていて、どちらからともなく始めたことが習慣になっていた。

 洋子は二駅先のデザイン会社で事務として働いている。僕と違って大学を遊びの場としてでなく、学びの場であることを認識していた彼女は堅実に単位を取り十分な準備を行って就職活動にのぞみ、早々に内定をもらっていた。

〈昨日はごめん。驚かせちゃったよね。これから不安だけど、でも嬉しかった〉

 線にぶれがない真っすぐな文字だった。いつものように冷蔵庫にマグネットでつけている前の書き置きに追加する。

 まだ洋子は怒っているだろうか。産もう、と言ってはみたが、すぐにどうこうできるものでもない。やがてお腹が大きくなってきたら、仕事も休まなくてはならないだろうから僕がその間支えることになる。いつまでもフリーターをやっている場合ではない。

 出てくるタイミングを間違えた蝉の鳴き声と子供たちの叫び声が窓から飛び込んでくる。どんなにゲームが発達して引きこもりが増えようとも、格好の遊び場として公園は公園として存在している。しかも彼らには夏休みという大イベントが待っているのだ。わめき声や泣き声などを毎日聞く日々が今年も始まる。

 冷蔵庫から半分残していた菓子パンとペットボトルのウーロン茶を取り出す。テーブルが散らかっているので片付けようとして、うずたかく積まれた参考書を何となしに見つめた。僕は少しため息をついて、それらをどかし、遅い朝食を食べ始めた。

2.

「メールを教えてくれる教室ってないかな」

 駒田さんがぽつりとつぶやいた。

 客足がばったり途絶えた深夜三時過ぎ、やるべきことも終え、「当麻堂」は静寂に包まれていた。都内では大きいほうの書店で、売り上げもそれなりにあるそうだが、この時間帯はさすがに誰もいない。別に二十四時間営業せずともいいと思うのだが、そのおかげでいい時給で働かせてもらっているので、何も文句はない。

「……どういうことですか?」

「合コンとかで盛り上がった後、連絡先交換するじゃん。それで今度は二人きりで、と思って連絡しても全然温度差感じるんだよね。だから女の子の心にぐっと突き刺さるメールの指南をしてくれる場所はないかなと」

 駒田さんは僕と同じくフリーターだ。特に将来の夢もなく、正社員になる必要性も感じておらず、とにかく気楽に、自由に生きていきたいと常々言っている。

 シフトが一緒になることが多く、人懐っこい性格で付き合いやすい人なのだが、どうすれば女性にモテるのかについての話が全体の八割ほどを占めていて、うざったくなるときがある。ちなみに顔は整っていて悪くはないと思うのだが、店長から何度も注意されているにも関わらず剃ろうとしない、戦地から帰還した兵士みたいに奔放な伸び方をしているひげで台無しだ。

「そういうのって指南されるもんなんですかね」

「そりゃそうだよ。傾向と対策だよ。パチンコでもさ、何とか必勝法、みたいな雑誌あるじゃん」

「パチンコと一緒ですか」

「言葉のあやだよ」

「例えば、どんな感じのメールを送ってるんですか」

「そうだなあ」そう言って顎に手を当て、天井を見つめる。「『この前はありがとうございました。とても楽しかったです。もしよかったら俺と付き合ってくれませんか?』っていうメールを一昨日に送ったな」

「はや! さすがにそれは駄目ですよ。絶対に断りますよね」

「やっぱりそうかあ。男らしくストレートにがつんといこうと冒険したんだが」

「大冒険しましたね……。順序ってものがありますから。もっと段階をふんでいかないと成就しませんよ」

「じゃあコーギーはどうするんだよ」

 コーギーとは駒田さんが僕に付けたあだ名だ。あの犬のコーギーに単純に似ているからというのが理由だが何だかいつまでたっても納得いかない。そもそも僕には岡田修平という名前があるのだ。

 そうして考えているとお客さんがきた。中学生ぐらいだろうか。ジーパンに長袖シャツという格好でトートバッグを肩にかけている。いらっしゃいませと二人で声をかける。

「今度の休みにご飯食べに行きませんか、とか」

「あーはいはい。そういう内容ね」ふんと鼻を鳴らし、つまらなそうな表情をして僕を見る。「まったくコーギーはマニュアル人間なんだから」

「メール指南されたいって言ってた駒田さんこそそうじゃないですか」

「うるさい! ちょっと店内見てくる」いきなりそう宣言した後、歩き出そうとしてすぐに振り返る。「あと彼女とけんかしただろ。顔で分かるんだよ、顔で。仲直り早くしたほうがいいぞ」

 本当にうざったい人だ。僕は何も答えず、図星だったことを悟られないよう平静を装ってレジに立つ。

 ほどなくして駒田さんが戻ってくると、どこか様子がおかしい。いつもは飄々としているのにどこか肩を落としているというか、元気がない。問いかけてみると、思いもよらない答えが返ってきた。

「逃げられた」

「え」

「というか逃がした」

「何の話です?」さっぱり分からない。

「万引きだよ。万引き」

 先ほどの映像が頭で再生される。中学生ぐらいのあの男の子か。普通であれば湧いてくるはずの店で働く者としての責任感があまりにも希薄で少し動揺する。

「逃がしちゃ駄目じゃないですか」

 書店を悩ませていることの一つとして万引きが挙げられる。一冊盗まれると五冊は売らないと利益を取り戻せないそうだ。もちろん当麻堂も例外に漏れることなく、毎年被害は相当なものらしい。しかし自分がレジに入っているときに万引きされたのは初めてのことだった。

「ありゃあ誰かに命令されてやっている顔だな」

「また適当なことを」

「適当じゃねえよ。いじめれていることを受け入れようとせず、面倒なことを避けようとするためと自分に言い聞かせて万引きしてる感じだった」

「もしそれが本当だったとしても、罪を犯したことには違いないですよ」

「分かってるよ」

 駒田さんはそれきり喋らなくなった。

 早朝の時間になった頃、思い出したようにお客さんがきた。二人で接客し、会計を済ませた後、駒田さんが誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。

「俺も昔、いじめられてたんだ」

3.

 そのとき、僕たちは閑静な住宅街から完全に孤立し、しかし自身の存在について声高な主張をしている灰色で四角い建物を見上げていた。軽く僕の四人分の背丈はある。

 それは完璧な違和感だった。太古から存在している墓標のようだ。黙して静かに佇んでいる。

 夏だった。今と比べて殺人的な暑さではなかったような気がする。

「いやあ、四角いね」

「うん。四角い」

「村田実の初期の傑作だよ。戦後の建築界に希望の光をもたらした建築物だ」

 建物の中心には正方形の小さな窓がある。夜に中で明かりをつけると、その窓に光が満ちる。無機質なコンクリートとのコントラストでよりその光は綺麗でかけがえのないもののように目に映る。

 戦争で希望を失った人々への村田流のエールだった。僕はそんな血が通っていない建築物に息吹を与える彼の人間臭さが好きだった。

 だから――。だから自分も建築家を目指そうと思ったのだ。

「じゃあ、行こうか」

「え。中に入らないの」

「うん。十分満足した」

 洋子との初デートである。こんなつまらないプラン、僕が女性の側だったらデートの最後に文句と共に告白もされる前にフッている。

 きっかけは大学の飲み会だった。学科を超えた懇親会を看板にした合コンで、酔った僕はこれでもかと建築についての思いをつらつらと喋り続け、気が付くと単純に珍しがって話を聞いていた者は一人、また一人と離れていった。最後まで残っていたのが洋子だった。

 揺れる世界に身を委ねながら、ばらばらになりそうな思考を何とかつなぎとめながら、こんな話をしていた。

「夢を持ってるっていいね。もし叶わなかったらどうするの?」

「死んじゃうかも。死なないけど」

 今度一番好きな建物まで連れてってよ。社交辞令と思って、軽い気持ちで後日メールを送ってみると本当に会う約束までこぎつけたのだった。

 その日のデートの別れ際、彼女は思いの丈をようやく最後にぶちまけた。

「今日はありがとう。次どこか行きたいところはある?」

 洋子ははちきれんばかりの満面の笑みを顔に貼り付け、十分な間を取ったあと、こう言った。

「じゃあ今度、世界で一番人気なネズミがいる素敵な世界に連れて行きなさいこのやろう」

4.

 早朝六時、帰宅する。鍵をそっと回し中に入る。ベッドでは洋子が眠っていた。起こさぬように忍び足で部屋着に着替える。

 あと二時間もしないうちに、彼女は仕事のためこの部屋を出る。コンビニで買ってきた弁当を静かに食べ始める。テレビはつけない。

 食事をして、さあ寝ようかとは簡単にいかない。やはり人間は朝起きて、夜には寝ないといけないと思う。いつも帰宅して少し時間がたたないと眠くならない。

 テーブルの隅に追いやられた参考書を手に取ろうとしてやめた。別にもう読まなくていいのだ。表紙には鉢巻きを頭に巻いた若者のイラストが躍動的に描かれていて、その上のほうには『一級建築士試験 必勝ガイド』とある。

「勉強しないの」

「わ。起こしちゃった。ごめん」 

「ううん。何か最近眠りが浅い。ちょっとの物音で目が覚めちゃう」

 体勢は横のままで、まだ寝ぼけ眼の表情で僕を見つめている。コンタクトをしておらず、目をこらすため、僕を睨んでいるようだ。

 沈黙が訪れる。洋子の視線は高く積まれた参考書に注がれている。

「俺、フリーターやめるわ。就職してちゃんと働く」

「……何言っているの」

「子供産まれるし。試験受けてるけど全然受かる気配ないしさ」

 笑おうとしたが笑えなかった。

「本気で言っているの」

「うん」

 洋子は半身だけ身を起こしボサボサの髪で呆れ返った表情でこちらを見ている。寝起きの洋子が好きだ。ゆったりとした服装に身を包み、話しかけても気だるい様子で受け答えする彼女をとても愛おしいと思う。

「意味分かんないんだけど」

 ベッドから勢いよく降り、僕に向かってくる、と思ったがそのまま台所にいき、顔をばしゃばしゃと勢いよく洗い始めた。どうやら仕事の支度を始めたようだ。僕は水の音でかき消されないように大きな声で話した。

「しょうがないよ。こういう話したくないけど、これからたくさんのお金がいる。洋子にも迷惑かけたし、今がいい機会だと思うんだ」

 何も反応がない。洗顔を終えると洋子は慌ただしく化粧、着替え、冷蔵庫からパンと牛乳を取り出し朝食をとるところまでてきぱきと行動する。こちらを見ようともしない。

 こうなったら何をしても無駄だ。傾向と対策である。僕は黙して、今後の展開を見守ることしかできない。

 食事を終えると、そのまま玄関へ向かう。靴を履いたところで洋子はこちらを振り返りもせずに静かな声で問いかけてきた。

「大学のときの飲み会で初めて会ったときのこと覚えてる?」

「うん、覚えてるよ」

「あのとき言ってたよね。夢のことについて」

 蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。今日も早朝からエンジン全開の暑さのようだ。額を拭ってみるとぬらりとした汗がべったり手に付いた。

 言葉に詰まって視線をさまよわせると、三段ボックスの上に置かれているレゴでできた小さな家に目が止まった。付き合い始めたばかりのとき、建築士になったらこんな家を作りたいということを分かりやすく説明するため作ったものだ。

 アーチ上に組まれた透明なブロックでできた天井からいくつもの人形が見える。

 ――天井には緑の蔦をはわせる。陽光が葉っぱと葉っぱの間から降り注ぐ様子は、きっと癒しになると思うんだ。公民館でも、誰かの家でも、図書館でも何でもいい。風雨をしのげて、そこを訪れる人が幸せでもそうでなくても、皆を包み込む、そんな建物を――

「あのときはあのときさ。ただの酔っ払いが言ったことだよ」

「ふーん。……いってきます」

「いってら――」

 全てを言い切る前にドアを閉められてしまった。妊娠したというのにこのところけんかをしてばかりだ。

 ふと思い立って、押し入れの中からビニール紐を取り出す。一本適当な長さに切って、その上に参考書を重ね、ばらばらにならないように紐で縛り、玄関の脇にそっと置いた。

 振り払っても振り払ってもわいてくる様々な考えにふたをするように、僕はまだ洋子の匂いが残っている布団をかぶった。

 夕方になって目が覚めた。疲れが取れた感じが全くしない。僕はゆっくりとバイトの準備を始めた。出かける前に二人で使っているメモ用紙の書き置きを残し、職場へ向かった。

〈出勤前に今日の話の続きできる? ※洋子の好きな「極上抹茶プリン〜杏仁豆腐のせ〜」を買って帰ります〉

 

 道の途中で、プリンを買っていくことについては別に書かなくてよかったと後悔した。いつもそうだ。僕は書き置きの内容を後からうだうだと考えてしまう。

5.

 出勤すると駒田さんが難しい顔をして本を読んでいた。仕事中なのだが、別にお客さんはおらず、注意するのも面倒くさいので普通に質問する。

「何読んでいるんですか」

「おお、コーギー。これだよ」

 そう言って表紙をこちらに向ける。『メールで落とせ! 恋愛必勝バイブル〜2011年版〜』と表紙にある。

「またそういうの読んで……。そういうマニュアル本で落とせるのなら、みんな買ってますよ」

「おいおい、俺たちは本屋さんだぞ。まわりにこんな宝物が置いてあるというのに利用しない手があるか?」

「店の本立ち読みしているんですか?」

「いかにも」

「何で偉そうなんですか」

 どっと脱力する。これ以上追及しても疲れるだけだ。好奇心でどんなことが書いてあるのか覗き見する。

 

〈ステップ1 〜初めてのメールで好印象を与える〜

 合コン、友人からの紹介、メールアドレスをゲットした後は意中の女の子へ早速メールしてみましょう。初めてのメールですので重要ということは認識しておきながら、そのような気負いが文章に出ないようにしないと、相手にがっついている印象を与えますので気をつけましょう。

 メール本文中に入れて頂きたい要素を三つ挙げます。また、百聞は一見にしかず、ということで三つの要素を含んだ例文を紹介します。ぜひ参考ください。

    お礼

    感想

    次へつながる、相手に興味を持たせる話題提供

 これらの要素を含んでいれば、全く眼中にないという以外は次の二人きりのデートへは約六割の可能性で成功します。さあ、例文を読んで、気になっているあの子へ、Let’s mail !!! 

◎例文:今日はありがとう! めっちゃ楽しくてあっという間の時間でした。まさかアロマの話題で意気投合するとは(笑)紹介してもらったアロマですが、早速来週の休みにでもお店に探しに行こうと思います。僕がオススメしたものもよかったら感想ください! ところで僕はアロマ以外にもう一つ趣味がありまして……。それは、岩石です(笑)おっとここで引かないでください。戻ってこーい! 岩石といっても様々な種類がありまして――〉

 

「……。駒田さん」

「何だ?」

「これやめたほうがいいですよ。絶対にやめたほうがいい」

「何だよコーギー。あ、もしかしてこの本で俺が女の子をゲットするかもしれないから、わざとそういう風に言っているんだな。遅いよ。もうメール送っちゃったもん」

「そうですか。ちょっと、本の整理をしてきます」

 軽い頭痛を覚えながら、気分転換をしようと僕は適当に本棚の間をうろつくことにした。二十三時過ぎだが、男女ともにお客さんは多い。

 すれ違う人々のなかで一瞬なぜか既視感がある人がいた。

 脳内の引き出しを探っているとこの前出勤したときのことを思い出した。

 ――ありゃあ誰かに命令されてやっている顔だな――

 またあの男の子は万引きをするのだろうか。あの子をいじめているかもしれない誰かから命令をされて今日もここまで来たのだろうか。表情から何も読み取れることもなく、ただ今は店内をぶらついている様子だ。

 自然、何気ない風を装いながら、行動を目で追っていた。注意して見てみると、なるほど他の客と比べてすぐに次の本、次の棚へと移っていく様が怪しい、気もする。

 ゲームの攻略本コーナーで足を止め、一冊の本を手に取った。そのまま立ち読みするでもなく、再び店内を歩く。

 心臓の鼓動が大きくなる。今すぐにでも鞄に本を入れるかもしれない。

 そのとき、着信音が鳴った。普段はロッカールームへ置いてくるはずなのにこういう日に限って入れっ放しにしてしまっていた。

 男の子は敏感に反応し、雑誌が平積みされている場所に本を投げ捨て出口に向かった。

 店を出られてはどうすることもできない。電話に出ることもなく急いで着信自体を切断する。履歴を見てみると、固定電話からだった。こんな時間に……と思いながら携帯をポケットにしまおうとして得体の知れない胸騒ぎを感じ、店の隅のほうにいき、連絡することにした。

 二回目のコール音で電話がつながった。

「×××病院です」

 思考が一瞬停止する。その後すぐに洋子の顔が目の前に映し出される。

「あの、さっきそちらの番号から着信があったんですけど」

「確認しますので少々お待ちください」

 女性の素っ気ない応対がさらに不安を増大させる。何度打ち消しても最悪の結果が思考を駆けめぐる。とてつもないほどの時間に感じられた保留のあと、今度は男性が電話に出た。

「望月洋子さんのお知り合いの方ですか?」

 心臓がのたうつように荒々しく鼓動する。

「はい」

「先ほどこちらに望月さんが搬送されて――」

「あの、その、大丈夫なんでしょうか。洋子ももちろんそうですけど、あの」何をためらっているんだ。ちゃんと言えよ。あきれたもう一人の自分が僕をなじる。「赤ちゃんは」

 馬鹿みたいだが、初めて僕はそのとき洋子にもう一つの命が宿っていることを認識した。こちらの焦りを落ち着けるためか、数瞬の間をあけたあと落ち着いたゆっくりとした口調でこう告げた。

「お腹の赤ちゃんは無事ですよ。もちろん望月さんも。過労のようです。駅で少し気分が悪くなってしまったようですね」

 糸が切れた操り人形のように脱力する。それだけ聞ければ取りあえずは安心だ。点滴を打ったあとは体調も戻ったようなので安静をお願いし、帰宅してもらったという旨を聞き、終話した。

 レジに戻り、帰宅していいか駒田さんに聞くと、あっさり了承してくれた。

「彼女のことだろ? 俺はすぐ分かるんだよ」

 駒田さんは不思議な人だと思った。うざったくて、不思議だ。

 帰り際、駒田さんが嬉々として、携帯の画面を見せてくれた。画面には色とりどりの絵文字が踊っている。文章を読もうとしたところで駒田さんが言った。

「デートOKだってさ。いいか、コーギー。要は信じることなんだよ。どんなくだらない教えでも、助言でも、自分自身が心の底から信じて絶対に、って気持ちを持って実行すれば、大抵の願いなんて叶っちゃうんだよ」

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