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オサム  タイムライン 現在

 土曜日。人気のない西新宿のビル街は、女が出て行ったばかりの部屋を連想させる。しかし日曜になれば、街は次の週の日常に向けて動き始め、たちまちそのイメージは掻き消されてゆく。
 
 
 〈オサム  タイムライン 現在〉

 オサムはその限られた土曜日という日を、街を歩いて過ごす日に充てている。新宿からの多少の人並みを除けば、オフィスばかりが入っているビルの群れは恐ろしく静かで、ほとんどの店が、シャッターを閉じている。
 週に一度だけ訪れる、その束の間の静寂の中を、オサムは一人きりで歩く。それは「散歩」と呼ぶには、余りにも個人的過ぎる行為であったし、「観察」と呼ぶには、余りにも集中力を欠いていた。
 一種の「儀式」のように、ビルの周りを徘徊するオサムに、声をかける者は誰もいなかった。オサムから誰かに、声をかけることもない。
 もっとも、オサムの外見を見ただけで、すれ違う人々は自然と道を開け、目を合わせようとしない。濃い色のサングラス。その上からでも窺える、鋭い眼光。仕立ての黒のスーツ。背の高さも凄みを加えている。オサムのような中堅のヤクザが、こうやって街を一人で歩くことは、珍しいことだ。
 堅気のような格好をすれば、いくらかは違ったかもしれない。犬でも連れて歩けば「犬の散歩をするヤクザ」に見えたかもしれない。しかし、あいにくオサムはそんな服を一つも持っていなかったし、犬だって飼ってない。そもそも、この「儀式」に相応しいのがどういう格好なのかも、よく分からない。
 結局オサムは、毎回「お仕事」と同じ格好で歩き回ることになった。二、三時間ほどそれを続けてから、オサムは成子坂にある自分のマンションに戻る。いつからかは思い出せないが、随分長いこと、それが毎週土曜日の習慣になっている。
 
 
 どうしてそんなことを続けるのか? オサム自身にもわからない。しかし、歩かない訳にはいかないのだ。
 つい一日前まで、活気に満ち、「流れ」の中にあった街が、ふいに立ち止まる。そのときに生まれる慣性のような力が、女が出て行った後の部屋を、思い起こさせるのかもしれないなと、オサムはなんとなく考えている。
 ただいつもオサムのイメージの中で、出て行く女は、決まってユリだった。ユリは二年前に、オサムの前から消えて行ってしまった。消えた女なんて、数えきれない。中には名前も思い出せない女や、存在していたことすら忘れている女だっている。忘れていることさえも、忘れ去っている。
 オサムはユリが出て行くのを、直接見た訳ではない。ある日部屋に戻ると、テーブルの上に置き手紙があった。そこにはつらつらと、オサムを非難する言葉が書かれていた。一体どうやったら、こんなにも沢山の言葉を選べるのかと、感心した程だ。しかし、手紙の中のどの言葉も、意味するものは皆同じだった。
「あなたの心が、もう見えない。」
 いくらそう言われたところで、オサムにはユリの気持ちが理解できなかった。知る必要もないと思った。
 心というものが何処かに存在しているとして、その繋がりを重要だと考えているならば、繋がれない相手と離れるのは、ひどく自然なことのように思えた。繋ぎ止めておく努力をする必要が、どこにあるのだ?
 そう頭では考えていても、出て行く女のイメージが、毎回ユリだという事実だけをみると、ユリを愛していたのではないかとも思う。ただそれは、状況がそう思わせるだけであって、オサム自身がそう思っていたという確証はない。だいたい「愛」なんてものを考えていられるほど、ヤクザの世界は悠長なものではなかったし、オサム自身も、それについて深く考えようとしたことはない。
 「愛」に何か重要な意味があるとして、土曜日に、意味もなくビル街を歩き回る理由が分かるのだろうか? あいにくそれは知らなくてもいいと、オサムは考えている。
 熱いシャワーを浴びて、数時間分の汗を洗い流す。これから「お仕事」だ。この世界に定休日なんてない。無理を言って、土曜日の決まった時間をもらえるのは、オサムが組長に一目置かれている存在だからだ。そのことで、オサムを妬んでいる幹部の奴らも何人かいたが、オサムにとって、そんな奴らは、出て行った女たちと大して変わりはしない。ただ、繋がれないだけなのだ。誰もが、誰とも繋がれない世界で生きている。

 「真珠貝」
  ヤクザの世界で、オサムはそう呼ばれている。どんなに脅されても、泣きつかれても、オサムは何も言わず、ただじっと相手の目を睨む。殴られても、ただ相手を睨み続ける。そのうち、わめき散らしていた相手は、次第に我を失っていき、最後には逃げ出すか、大人しくなってしまう。そうしているうちに、いつしかオサムに、そのあだ名がついていた。 周りからは恐れられ、組長からは一目置かれるようになった。どんどんオサムは出世して、今では組の幹部にまでのし上がった。他の組とのいざこざや、誰にも手に負えないような問題が持ち上がると、必ずオサムが呼び出された。そしてそのほとんどを、オサムは解決することができた。最後はいつも、相手が根負けして折れてしまうのだ。問題を解決する度に、オサムの名は、さらに恐れられるようになっていった。
 しかしオサムは、そんなことも、どうでもいいことだと考えている。自分の才能が活かせる場所が、たまたまヤクザの世界だっただけのことだ。
 
 
 ソファの真ん中に座り、タバコに火をつける。もうすぐシンイチから電話がかかってくるだろう。
「兄貴、下に車つけましたんで! いつでも降りてきてください!」
 シンイチは、ユリが出て行く少し前から、オサムの下についている舎弟だ。東北の生まれで、いまだに訛りが抜けないところがある。中学もろくに行っていないようなチンピラ風情だが、オサムのことを神のように尊敬し、周りの下っ端たちにも自分のことを言いふらしているらしい。オサムはそのことを特に咎めもしなかった。好きなようにさせていた。
 オサムが何も話さなくても、シンイチは機関銃のようにいつも喋り続けた。昨日どこどこのシマでいざこざがあったとか、新しい女が店に入ったから、見に行ったらとんでもなく美人で、いつかモノにしたいんだとか、こっちが聞いているか聞いてないかなんて、お構いなしのようだった。ラジオでも聞くように、オサムはシンイチの言葉をいつも黙って聞いていた。なぜか、シンイチの声はオサムを落ち着かせた。
 一度でも嫌だと感じていれば、「黙れ」と言ったに違いない。シンイチの声を通してのみ、オサムはヤクザの世界と、それ以外の世界の近況を知ることができた。まるで瓦版を読んで聞かせるように、シンイチはいつまでも喋り続けた。江戸時代ならば、シンイチはヤクザにならずに済んだろうに。オサムは時折そう思った。
 テーブルの上の携帯が、振動と発光を同時に繰り返す。
「兄貴、下に車つけましたんで! いつでも降りてきてください!」
 シンイチの声が瓦版を読む。これから事務所に行って、組長と昼食をとる。煩わしさなんて、会社勤めもヤクザも、そう変わらない。ただ違うのは、スーツの裏に銃を持ってるか持ってないかだけだ。オサムは、携帯の側に置いたベレッタを手に取り、安全装置を確かめる。次の土曜日の徘徊までには、やらなきゃいけないことが、まだ山ほどある。


ユリ  タイムライン 過去

 〈ユリ  タイムライン 過去〉

 金沢へ向かう深夜バスの中には、ユリを入れて八人の客しかいない。そのおかげでユリは、荷物を客のいないシートに置き、誰からも話しかけられずに、窓の外を眺めることができた。
 ユリが座っている席の窓からは、方角的に、日本アルプスの山々が見えるはずだったが、漆黒の闇に包まれたその時間帯では、何一つ視界に捉えることはできない。乗客の眠りのために、バスの中の灯りも消され、高速道路の、オレンジ色の街灯だけが、定期的に前から後ろへ流れていく。
 携帯電話を開く。その光でユリの顔が白く浮かび上がる。「3:50」という数字が白い画面の中に浮かんでいる。数字と数字の間の「:」だけが、流れゆく街灯とリンクして、点滅を繰り返している。メールも、着信もない。もっとも、オサムが電話なんてくれるとは思えなかったし、メールなら尚更だ。
「もう終わったことよ」ユリは誰にも聞こえないくらいの声で、そう呟いてみる。その言葉と共に放たれた息で、口元の窓が白く曇っていく。闇に潜んだ日本アルプスの雪だけが、小さくそこに姿を現したかのようだ。
 成子坂のオサムのマンションに、置き手紙をしたその足で、ユリは新宿発の深夜バスに飛び乗っていた。会えば決心が揺らぐからという気持ちもあったが、もし会っていても、オサムは何も言ってはくれなかっただろう。もうこれ以上は、オサムの側にはいられなかった。
 
 一年ほど前、ユリが働いていた新宿の高級クラブに、オサムはやって来た。ヤクザもそういうクラブに出入りするクラスの人間になると、皆紳士だ。柄の悪い、チンピラのような奴らは一人もいない。
 毎回店が気を遣って、人目につかない個室を必ず用意する。その店のある界隈は、オサムの組が仕切っていた。その夜も、組長と幹部たちが飲みに来ていた。その中にオサムも混じっていて、個室のソファーの端に、一団から少し離れて一人で座っていた。
 店に入って間もないユリだったが、上のクラスのヤクザの相手をするのは得意だった。彼らに対しては何も質問をする必要がないのだ。何をやってるかは一目瞭然で、仕事のことを掘り下げて聞くのは、暗黙の了解でタブーとされていた。そして、どこかで自分たちのことを、隠そうとする習性が彼らにはあった。だからだいたいユリは、毎回自分のことを話していた。どこの生まれだとか、どんな服が好きだとか、そんな他愛のないことだ。仮にそこで嘘をついても、彼らはそれ以上は踏み込んで聞いてはこない。嘘の世界に、自分たちも女たちも生きていることを知っているからだ。その絶妙に距離をとる会話が、ユリは得意だった。そこはビジネスの場で、女たちは、自分たちに利益をもたらす商品であるという意識を、彼らは徹底している。
 その夜、ユリはオサムの隣に座った。氷を入れたグラスにウイスキーを注ごうとすると、オサムがユリの手を掴んで、それを止めた。
「アルコールはいらない。何か匂いのない飲み物を。」
 ユリは手を掴まれて、何か奇妙な感覚を覚えた。言葉ではうまく言えない。他のヤクザとは全く違う感触。それはやがて好奇心になり、ユリはいつも守っている距離を保てなくなった。
「匂いのない飲み物って? 例えば? 私の知っている限り、それは水しかないわ。」
「じゃあ水にしてくれ。俺も水のつもりで言ったんだよ。」
「じゃあ最初から水って言えばいいじゃない。変な人。」
 周りの女たちの顔が凍りつくのが分かった。次に何が起こるのだろうかと、会話の後の沈黙に、耳をそば立てている。
「オサム、お前変なこと言うんじゃないよ。その子だって困っちまうだろうが、そんな言い方されたら。まったく変わった奴だ。」
 組長の言葉で、空気が元に戻った。女たちもそのことを安堵するかのように、笑う。
「すいません」
 そう言ったきり、その後オサムは一言も口をきかなかった。ユリも黙ってオサムのグラスに、匂いのない水を注ぎ続けた。
 
 ユリはその後、こっぴどくママに怒られたが、次の日オサムが一人で店にやって来て、ユリを指名したことで、ママの怒りも何処かへ行ってしまったようだった。昨日と同じように、オサムは無口で、水しか飲まず、会話らしい会話はほとんどなかったが、「行こう」というオサムの言葉に、ユリは逆らうことが出来なかった。
 その日、オサムのマンションに行き、オサムと寝た。恐ろしく静かなセックスだった。ただ、こうなることは決まっていて、抗えない力が、確かにそこにはあると感じていた。少なくとも、ユリは。
「もう終わったことなの」
 もう一度ユリは、さっきよりも少しだけ大きな声でそう言ってみた。二つ前に座っている、サラリーマン風の男の頭が、ユリの声で僅かに動いた気がしたが、それも気のせいだろう。眠りが浅いので、身体が常に少しだけ動いているだけだ。ユリに眠気は訪れない。多分これから先、死ぬまで眠気は訪れないかもしれないとも思う。
 もうすぐバスは最後の休憩所に停車する。その時にもう一度だけ、山の方を見てみよう。夜明けの光が僅かでも差し込んで、山の輪郭だけでも見ることができたら、オサムから連絡がくるに違いない。しかしそこまで考えて、ユリは首を振る。バカバカしい。もう終わったことなんだからと。午前四時を回っても、辺りは漆黒の闇に包まれている。夜明けはまだ訪れない。

アカネ  タイムライン 現在

 〈アカネ  タイムライン 現在〉

 新宿区役所の目の前の通りに、俄かに人が溢れ始める。店を出て客を捕まえようとするホストたちと、その男たちを物色する女たちが集まって、その時間帯、そこには異様な光景が広がっている。
 車道の真ん中を、我が物顔で歩くホストたちは、皆が揃って同じ形のスーツに身を包み、髪型ばかりを気にしている。女たちのほとんどは、キャバ嬢か風俗嬢だ。金の捨て場所を探して、男たちに声をかけられるのを待っている。
 歌舞伎町で男の下半身から吸い取った金が、また同じ歌舞伎町で男たちの下半身へと還っていく。バカみたい。この街の全部。本当にバカばっかりだ。アカネはそう思いながら、その光景を店の中から眺めている。そして後ろに一つに縛った髪をほどいて、もう一度結び直す。真っ黒な髪は、染める時間がないからそうなっただけで、一つに束ねるのは単に作業がしやすいからだ。いくらアカネが見たくないと思っていても、その時間帯には花が売れるので、店は開けておかなければならない。軒先に並べられた、ど派手な色の花束を、男たちも女たちも、ろくに見もしないで買って行く。
 この街では白い花なんて売れない。真紅や、ピンク、ゴールドに、人工的に染められた花を皆が喜ぶ。それが彼らの愛の色であり、より高い金をかけることが、愛する人への礼儀だと本気で信じている。
 
 アカネがこの店を開いて、もう五年が経つ。以前この建物のオーナーだった占い師の女と、たまたま知り合い、アカネは気に入られた。占いの店を畳むから、ここで花屋をやらないかと言われた時は、正直嬉しかった。八畳ほどの小さな敷地ではあったが、自分の好きな花を仕入れ、好きな花を飾れるというのは、魅力的だった。誰にも気を遣わず、誰の許しを得る必要もない。一国一城の主になれるのだ。
 しかし店を始めて一週間で早くも、アカネはこの街の現実を突きつけられてしまった。
自分の選んだ花が売れない。作る形も色も、初めから全部決められている。
 しばらくすると、オーナーだった占い師が行方不明になり、ビルの所有権が転々とした。人が突然行方不明になることも、この街では日常茶飯事だった。最終的に、この街を仕切っているヤクザの手に渡ったが、売り上げの二十パーセントを「上納」することで、アカネは商売を続けることを許された。
 その頃には、アカネはもうどうでもいいと思っていた。なるようにしかならないと。失踪した占い師の女は、アカネが最後に会った時、アカネにこう言った。
「あんたには大事な役目がある。それを果たす時を、見逃すんじゃないよ。」
 しかしいくら考えてみても、この街に自分の役目なんてあるとは思えない。見逃すならそれに越したことはないと、アカネはいつも思っている。
 バラのオケの水を取り替えていると、常連のホストが、髪をいじりながら店に入ってきた。
「ヤッホー、アカネちゃん。元気ー? 頼んでた花束できたー?」
 アカネは何も言わず、冷蔵庫から赤いバラだけで作った花束を取り出した。表面には薄く金粉が振られている。
「ヤベー、チョー綺麗じゃん。しのぶは赤いバラしか興味ないって言ってたしー、誕生日にサプライズで渡せば泣いちゃうよ、あいつ。」
「税込みで一万と五百円。」
「あ? あー、金はさ、店につけといてよ。店の名前わかんでしょ?」
「うちはツケはやってないの。払わないんなら、それ返して。『ミネルバ』のタクがバラの花束が欲しいって言ってたからちょうどいいわ。回しちゃうから。ほら、早く。」
「わかったよー、冷てーなーアカネはさ。払えばいいんだろ、払えば。ほら。」
「あんたに呼び捨てにされる覚えなんてないわよ。そのしのぶって女だけ呼んでりゃいいでしょ。」
「あいにくさー、呼ばなきゃいけない女がたくさんいてさー、忙しいのよオレも。じゃあさ、領収書だけ店にまわしといてよ。接待交際費ってね。頼んだぜ。じゃあねー、アカネー。」
 アカネはまた何も答えない。
 舌打ちして出て行くホストと入れ替わりに、背の高い、黒のスーツに身を包んだ男が店に入ってくる。
「あ、オサムさん」
 オサムが軽く手を上げる。
「ちょっと寄っただけだ。」
「そう。まあゆっくりしてってください。って言ってもこんなに狭くちゃね。」
「いいんだ。気にするな。」
 オサムは棚の上に置かれた、百合の花を一輪手に取った。
 「組長さんは元気? 今度生け花を事務所に届けますって言っててね。なかなか忙しくてさ、こうやって派手な色に塗らないと売れないから、とっても手間がかかるの。花だって、まさか自分が金色に変身するとは思いもしないわよね。それが運命だって、花でも感じるのかしらね?」
 オサムはそれには答えずに、百合の花をオケに戻すと、アカネの方にゆっくりと向き直った。
「アカネ。ひとつ頼みがあるんだ。」



ウサギの夢  タイムライン 現在

 〈ウサギの夢  タイムライン 現在〉

「穴は見つからないよ。いくら探したって無駄さ。あんた一人じゃダメなんだよ。」

 ウサギは、夢の中でオサムにそう言った。オサムは何かを言い返そうとしたが、どうしても声が出てこない。夢の中で喋れるのは、ウサギだけというルールらしい。
 ヤクザだって夢くらいは見る。オサムとそのウサギは、夢の中で誰もいない街を歩いている。土曜日にオサムが、一人で歩き回る西新宿のビル街に、似ているような気もするし、それとは違う、全く知らない街のような気もする。遠くの景色は、ひどく輪郭がぼやけていて、灰色に見える。ただそれが灰色なのかどうかは定かではない。夢の景色なんて、そんなものだ。
 オサムとウサギが歩いている道だけが、霧を晴らすように、灰色らしき世界を一直線に区切っている。一つだけはっきりしているのは、街の信号がすべて赤のままだということだけだ。色の判別が難しい世界にあって、信号の赤色だけが、やけにくっきりと、灰色らしき世界に点灯している。
 それはまるで、ウサギの眼のように見える。無数のウサギの眼に、オサムは見られているような気がする。このところ毎日のように、オサムはウサギの夢を見る。
「穴は入り口でもあり、出口でもあるんだよ。もちろん、穴の先には出口がある。でも向こうから見たら、そこは入り口なんだ。」
 ウサギはどうしてか分からないが、声を殺して小さな声でそう囁いた。オサムにはウサギの言っている意味が、全く理解できなかったが、それを聞き返すことができないので、黙って次の言葉を待った。
 ウサギは二本足で歩き、タキシードのような服を着ていた。左の耳が、右よりも少し短い。首に時計さえ掛けていたら、「不思議の国のアリス」のウサギそのままなのだが、あいにく時計は持っていない。
 それが理由かどうかは分からないが、ウサギはとてもゆっくりと歩いた。決して慌てたりはしない。言葉と言葉の間隔も長いので、オサムは次の言葉を聞き逃さないように、集中し続けていなければならなかった。
「別に穴なんて探しちゃいないって、あんたは言いたいんだろう? あんたにとってはこの世界で起こること全てに、意味はない。そういう風にしか考えられないと信じてる。間違いだとは言わないよ。そういう側面だってある。ウサギが『側面』なんて言葉使うなんて、可笑しいねえ。あのさ、おいらだって、好きでここに来たわけじゃないんだ。あんたがおいらを呼んだんだよ。そうなんだ。自分で認めようが認めまいが、あんたは土曜日に、街を歩き回る理由を知りたいと思ってる。そこに答えがあるってことが分かってる。だからおいらを呼んだんだ。」
 オサムは、ウサギの言葉の意味を、しばらく考えてみた。そして、これはただの夢だ、夢の言葉に意味なんてあるわけがない。そう思った。ましてや俺は、こんなウサギを呼んだ覚えはない。目が覚めるまでの辛抱だ。ベレッタがあれば、このウサギを撃ち殺して目を覚ますのだが、あいにく夢の中には、銃を持ち込めなかったようだ。
「あんたの考えてることは分かるよ。おいらの言葉を、信じる気もないんだろう? これは夢で現実ではないって。でもさ、現実の世界で見る夢だけが、その世界に含まれないっていうのは、ちょっと不公平な考えじゃないのかな。そこに境界線みたいなものはないんだよ。ただその割合が変わっていくだけなのさ。仮に、夢の世界が景色の大半を占めたって、ほとんどの人は気付きもしないだろうよ。なぜって、そのどちらもが現実の範疇にあるからさ。『範疇』だって。ウサギが『範疇』なんて可笑しいね。」
 ウサギはそう言って軽くスキップを踏んだ。
「ともかく、あんたは穴を探している。それも、とても熱心にね。そしておいらに助けを求めてきた。おいらが言えるのは、それは一人では見つけられないってことだけだ。目が覚めたら冷静になって考えてみなよ。もっとも、あんたはいつだって冷静だから、すぐに気付くはずさ。一緒に探さないといけない相手が誰かをね。よく考えるんだ。間違いは許されない。失敗したら、あんたは永久に半分のままだ。意味が分かるかい? あんたはどんなことをしてでも、ユリを取り戻さないといけないんだよ。そのために穴はあるんだ。」  ウサギの言葉を合図にするように、オサムの足下が揺れ始めた。ぼやけていた風景が渦になって、ウサギのタキシードの胸ポケットに吸い込まれていく。やがて全てが消えると、暗闇の中に、オサムとウサギだけが、宙に浮かんでいた。
「いいかい、忘れるんじゃないよ。失敗は許されないんだ。」
 ごうっという音がして、ウサギが目の前から消えてしまった。オサムは目を閉じた。やがて音が消え、再び目を開けると、部屋のベットで天井を見ていた。やはり夢だったのだ。
 オサムは、ベットの傍にある時計に目を向けた。「3:50」と赤く表示されたデジタルの時計。真ん中の「:」が、オサムにまるで警告を与えるように点滅し続けている。午前か午後の区別もつかなかったが、部屋が暗いところをみると、午前なのだろう。オサムはゆっくりと起き上がると、キッチンへと向かう。コップに注がれていく水を見ながら、オサムはウサギの言葉を思い出してみた。
 穴? ユリを取り戻す? 何のために?
 くだらないと思いながらも、オサムの頭の中では、ウサギの言葉がいつまでも反芻している。自分が、これまでとは違う生き物になったように感じる。俺はヤクザだ。ウサギの指図なんて受けない。いくらそう考えても、ユリのことばかりを考えてしまう。
 オサムはカーテンを開けて、下を走る道を眺めてみた。この時間に道を走っているのは、タクシーか大型のトラックだけだ。日付けはもう変わっている。水曜日だ。土曜日まではあと二日ある。それまでに俺は、誰かに頼まないといけない。一体誰に? オサムは、はっと気が付いた。そうか、あいつしかいないか。
 「失敗は許されない。しくじったらあんたは、永久に半分のままさ。」
 半分というのは、いったいどういう意味なのだろうか? 考えてみたところで、オサムには見当もつかなかった。分からないが、オサムは穴を探すしかないのだろう。オサムは両手で顔を覆うと、深くため息をついた。夜明けはまだ訪れない。


ユリとアカネ  タイムライン さらに過去

 〈ユリとアカネ  タイムライン さらに過去〉

 初めてユリがアカネの店に姿を現した時、アカネはひどく落ち込んでいた。店を出して間もない頃で、店の切り盛りにもまだ慣れていなかったし、自分のセンスが街に受け入れられないことに、フラストレーションを抱えていた。注文書通りに市場から花が届かず、ある時には、菊の花が店に大量に送られてきたこともあった。業者はそのことを詫びるどころか、注文の仕方が悪いのだと言って、アカネを責めた。
 気味の悪いホストが一人、アカネにしつこく付きまとっていて、店に度々姿を見せては、花も買わずに「ヤらせろよ、アカネ」と言い寄ってきた。口をきくのも嫌だったので無視し続けていたら、今度はそのホストに入れ込んでいた女が店に乗り込んできて、「あんた、なに人の男に手出してんのよ。花屋は花だけ売ってりゃいいのよ!」と言って店の中をメチャクチャにして帰って行った。
 床に散らばって、踏みつけられた蕾を拾い集めながらアカネは、もう無理かもしれない、店なんか始めたのは間違いだったんだ。そう思った。
 そんな時、ユリが店にやってきた。その頃ユリは。違う店でホステスをしていて、店の飾り用の花を買ってから出勤するところだった。
「その白い百合をちょうだい。」
 ユリはそう言って、店の冷蔵庫の中のオケを指差した。
「白でいいんですか?」
 アカネは、ユリを見てそう言った。白い花だけを買う客は珍しかった。思わずユリの顔を見てしまう。初めて見る顔だ。おそらく歳はアカネと同じくらいだろう。湿り気を帯びたような、艶のある黒髪が、両肩の上に座っている。綺麗というよりは可愛らしい顔つきをしているが、少女のような、無垢な可愛らしさではない。何かを隠しているような、何かを知っているかのような色気がある。ホステス特有の色の濃いルージュはつけず、薄いピンクが塗られた口元は、自分だけの豊潤な言葉を発することを予感させた。
「そうよ。私、白い百合が好きなの。何色にも染まるけど、何者にも染まらない。そんな強さを感じる。きっとお父さんも、そういう意味を込めて名前をつけたのね。」
「お父さん? 誰のお父さんですか?」
 冷蔵庫から白い百合を抜きながら、アカネは言った。
「私のよ。私の名前よ。ユリっていうの。その花とおんなじ。でもこの街で何色にも染まらずに生きていくのは、なかなか勇気がいるわね。あなたもそう思わない?」
 そう言ってユリもアカネの顔を見た。アカネはユリと目が合って初めて、ユリの魅力が、瞳に全て凝縮されていることに気付いた。口元よりもさらに雄弁に、瞳は底の見えないくらい深いところから、語りかけてくるようだった。
 なぜだかは分からないが、アカネはユリの瞳を見て、小さい頃、冷蔵庫で冷えていた水羊羹を思い出した。お中元か何かでもらったやつだ。ずっしりとした重みと、ギザギザのついた木の匙。蓋を開けると、深みのある色の羊羹が見える。それは一瞥しただけで「特別だ」ということが分かる色をしていた。ユリの瞳の色は、それと同じ色だった。とても魅力的で、深みのある瞳。
 水羊羹のことを考えながら、百合の花を包み終えると、アカネはユリにそれを手渡した。
「ねえ、あなたこの店、いつからやってるの? 私今日、初めて来たんだけど。」
「三ヶ月になります。いつまでできるかは、分からないけど、私には花しかないし。ただこの街は嫌いだけど。」
「ふーん。あなたが作ったんでしょう? そのアレンジ。」
 ユリは店の隅に置いてあった、売れ残りの白い花のバスケットを指差してそう言った。
「私、このアレンジ好きよ。何ていうか、ちゃんと主張してるわよね。私はここにいる! って。それが分かる。ただ、この街のほとんどの人間には、それが分からないでしょうね。悲しいかな。私もこの街が大っ嫌いなの。」
「ありがとうございます。そう言ってくれる人がいるのは嬉しいです。本当に。」
 それはお社交辞令ではなく、アカネの本心だった。
 店を出る間際に、ユリはもう一度振り返り、照れ臭そうに肩を窄めて、微笑みながら言った。
「ねえ、あなた、名前は何ていうの? 私はユリ。さっきも言ったけど。」
「アカネっていいます。」
「夕陽の色ね。私夕陽も大好きよ。私のこと、ユリって呼び捨てにしていいから、私もあなたのこと、アカネって呼び捨てにして構わない?」
「いいですよ。」
「そう、よかった。じゃあ今日から私達は友達ね。また来るわ、アカネ。」
 そう言ってユリは店を出て、人混みの中へと歩いていった。そしてあっという間に、街にその姿は飲み込まれてしまった。不思議なものだ。「今日から私達は友達ね。」そんな芝居みたいな台詞も、ユリが言うと、ごく自然なものに感じられた。
 それからほぼ毎日、ユリはアカネの店に顔を出しては話をするようになった。新しく入ったホステスが、イノシシみたいな顔をしているの。とか、会って三十分で、お客さんにプロポーズされたの。とか。アカネはユリの話に、飽きることがなかった。アカネも少しづつ、自分のことを話すようになっていった。二人の関係は「友人」というよりも、まるで「同志」だった。二人は、この街に充満する、濃度の濃い、偽物の空気に埋れて窒息する前に、いつかここから逃げ出したいと、心から願っていた。
 ユリがいなければ、アカネはもっと早く、この街を出ていたと思う。ユリがいたおかげで、なんとか首から上だけを、汚れのない、人間を人間と思える空気の中に、繋ぎとめておくことができた。



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