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 付録 2012年・2013年の解答文


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最終更新日 : 2013-03-30 10:17:01

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2011年度の問題

第1問
 歴史上、異なる文化間の接触や交流は、ときに軋轢(あつれき)を伴うこともあったが、文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。たとえば7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも、新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響を及ぼしていった。
 13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動きを、解答欄(イ)に17行(510字)以内で論じなさい。その際に、次の8つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 インド 医学 アッバース朝 イブン=シーナ一
 代数学 トレド シチリア島 アリストテレス  答えに行く

第2問
 歴史上、帝国と呼ばれた国家は、多民族、多人種、多宗教を包摂する大きな領域をその版図におさめている場合が多かった。それらの国家の繁栄と衰退、差異や共通性、内外の諸関係について、次の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) ローマはテヴェレ川のほとりに建設された都市国家にすぎなかったが、紀元前6世紀に、エトルリア人の王を追放して共和政となった。その後、周辺の都市国家を征服してイタリア半島全体を支配し、やがて地中海世界を手中におさめる大帝国となった。ローマが帝政に移行する紀元前後からおよそ200年にわたる時期はパクス=ローマーナとたたえられ平和が維持された。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ローマの平和と繁栄を示す都市生活を支えていた公共施設について、2行以内で説明しなさい。

 (b) ローマの市民権の拡大について2行以内で説明しなさい。

問(2) 中国の歴代王朝は、周辺諸国との間で儀礼に基づく冊封や朝貢といった関係をもった。しかし、その制度や実態は、王朝ごとに、また相手に応じて、多様であった。とりわけ対外貿易と朝貢との関係には、顕著な変化が見られる。明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら、4行以内で説明しなさい。

問(3) 1898年に勃発したアメリカ・スペイン戦争をきっかけとして、アメリカ合衆国は、(a)モンロー宣言によって定式化された従来の対外政策を脱し、より積極的な対外政策を追求しはじめた。とりわけこの戦争の舞台となったカリブ海や西太平洋、そして中国においては、戦後、(b)アメリカ合衆国の影響力が飛躍的に高まり、帝国主義列強間の力関係にも大きな変化がもたらされた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) この宣言の内容を、2行以内で説明しなさい。

 (b) この戦争後におけるアメリカ合衆国の対中国政策の特徴を、3行以内で説明しなさい。

第3問
 火を自由にあつかえるようになると、人類は調理を知り、さまざまな食糧を手に入れることになった。食生活が安定するとともに、人類の生活圏は拡大していく。これに関連して、以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) 麦作は乾燥した西アジアで、始まった。この麦を水に浸して発芽させたものからビールができることはすでにシュメール人もエジプト人も知っていたという。大河のほとりにあるために灌漑施設をめぐらし、豊かな穀物生産にもとづく文明は、文字を発明したことでも名高い。それぞれの文字名を記しなさい。

問(2) 漢の武帝は内政の充実とともに、西域などへの対外遠征にも積極的であった。そのために軍事費がかさみ、それをまかなうために鉄などを専売品とした。このとき専売品とされた飲食物が2つあるが、それぞれの名称を記しなさい。

問(3) ワイン生産のもとになる葡萄の栽培は、ローマ帝国の拡大とともに北上したという。その北限をなすライン・ドナウ両河の北側一帯には古くからゲルマン系の諸族が住んでいた。それらのなかで帝国内を蹂躙し、やがて5世紀になると北アフリカに王国を建てた部族がいる。この部族名を記しなさい。

問(4) 11世紀後半から、西ヨーロッパでは森林や荒野の開墾が進み、農法も改良されて、収穫は播種量の3倍から6倍ほどに上昇した。生産高に余剰が生まれ、それらが取引される交易拠点には都市が目立ってくる。やがて、これらの都市は領主に対して自治を主張するようになった。このことを讃える名高い格言があるが、それを記しなさい。

問(5) マレ一半島に興ったマラッカ王国は、15世紀には東西貿易の中継地として栄えた。ジャワ商人などによってマラッカに運ばれたジャワやモルッカ諸島の産物の中で、当時の需要の増大によってヨーロッパ向けにも輸出された国際商品は何か。その名称を記しなさい。

問(6) 15世紀末以前のアメリカ大陸では麦や米の栽培は知られていなかったが、独自の農耕技術にもとづいて、ほかの作物が栽培されていた。それらは、以後、世界中に広まり、人口の増大にも寄与している。これらの作物名を2つ記しなさい。

問(7) 16世紀初頭にマラッカを占領した国は、ラテンアメリカに大きな領土を有し、そこで黒人奴隷を導入して大規模なサトウキビのプランテーション栽培をしたことでも知られている。この国名およびそのラテンアメリカの領土名を記しなさい。

問(8) ビルマは19世紀後半以降のエーヤーワディ一川のデルタ地帯の開発で、世界有数の米の輸出地となった。ビルマの最後の王朝となったコンバウン朝についての次の①〜④の文章のうち誤りを含むものの番号を1つ記しなさい。

 ① 18世紀に成立した。
 ② シャムに攻め込んでアユタヤ朝を滅ぼした。
 ③ イギリスとの間で三次にわたる戦争を戦った。
 ④ イギリスの植民地支配下で1947年まで存続した。

問(9) 酒を楽しむ歴史は長いが、飲酒を禁止したり制限したりする試みも、古くから繰り返されてきた。ドイツでは、1933年に政権を握ったナチスのもとで断種法が制定され、慢性アルコール依存症患者も、強制的な不妊手術の対象に入れられた。こうした優生学的発想はこの政党の政権が第二次世界大戦の時期にかけて展開した、ユダヤ人などの大量殺戮にもつながった。この大量殺戮は何と呼ばれているかを記しなさい。

問(10) ベトナムは、第二次世界大戦以前には、世界有数の米輸出地だったが、大戦後は戦乱のため米作が停滞し一時は食糧輸入国になった。ベトナムが米輸出国の地位を回復するのは1989年からであり、これは1986年にはじまる改革の成果とみなされている。このベトナムの改革は何と呼ばれているかを記しなさい。

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最終更新日 : 2011-08-01 11:31:34

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2011年の添削

2011年・第1問
学生の解答
征服活動とムスリム商人が東西と交易に携わったことから、イスラーム教以前の文化を吸収した。ビザンツ帝国からシリア・エジプトを奪い、ビザンツの古代ギリシアの学術がイスラーム世界に流入した。イスラーム勢力の東方拡大はインドにいたり、インドからはゼロの概念などの数学・薬学などが採り入れられた。アッバース朝では9世紀バグダードで組織的なギリシア語文献のアラビア語翻訳が行われ、アリストテレス哲学や医学代数学などが研究された。その結果、ギリシア医学などを摂取し、『医学典範』を著したイブン=シーナー、代数学を発達させたフワーリズミーなどが輩出した。他方、西アジアで発達したイスラーム文化は、十字軍によるキリスト教勢力との衝突を機に西欧に流入した。この十字軍の頃より西欧カトリック文化圏が拡大し、レコンキスタを進めるカスティーリャ王国がイベリア半島のトレドを征服した。このトレドシチリア島のパレルモなどでシーナーの著作やイブン=ルシュドのアリストテレス哲学がラテン語に翻訳され、西洋医学やトマス=アクィナスのスコラ哲学確立に影響を与えた。13世紀のロジャー=ベーコンはイスラーム学術の影響を受けて、近代自然科学の先駆となった。
(学生のコメント)
 大きいテーマなので初めは戸惑ったけど、書きだしてみると、なんとか出来ているのではないかとおもいます。

添削
 >征服活動とムスリム商人が東西と交易……教以前の文化を吸収した> これは前置きにあたりますが、かならずしも不可欠な文章ではありません。解答はいきなり結論を書くつもりで書いていけばいいです。というのは導入文に「異なる文化が受け入れられ、発展していった」とすでに書いてあるので、言い換えにあたる文章は必要ないことです。東大の問題はテーマを大まかに述べて、受験生にはそれを具体例で証明してほしいと求めているからです。

 >ビザンツ帝国からシリア・エジプトを奪い、ビザンツの古代ギリシアの学術がイスラーム世界に流入した> これは正しい文章ですが、征服地を一々書いてそこからどういう文化を受容したと書かなくても、「旧ビザンツ帝国領から古代ギリシアの学術が流入した」で済みます。

 >インドにいたり、インドからはゼロの概念などの数学・薬学などが> 「など」は一般に複数のことがらをあげてから使う表現です。「ゼロの概念」1個で「など」は使わないこと。後の「など」はまだいい。これは受容説明ですが、インドに与えた影響はおもいつきませんか?

 >アッバース朝では9世紀……代数学を発達させたフワーリズミーなどが輩出した> ここは問題なくできてます♪

 >西アジアで発達したイスラーム文化は、十字軍によるキリスト教勢力との衝突を機に西欧に流入した> これはよくある間違いです。十字軍兵士に学ぶ姿勢はなく、後で書いているように十字軍でなく、レコンキスタやノルマン人のシチリア島征服の方が学ぶ姿勢をもっていました。十字軍が西欧にもたらしたのは物質文化(ソファ、シャーベット、築城術、紋章など。この「物質文化」という表現は1997年第3問に使ってある用語)です。

 >この十字軍の頃より西欧カトリック文化圏が拡大……トレドを征服した> 征服過程は要りません。この問題は文化の受容・発展・影響にしぼって書くべきです。

 >トレドやシチリア島のパレルモ……近代自然科学の先駆となった> これはできてます♪
 ただ全体として、受容と影響が西欧との関係に集中していて、インドからは受容だけで影響がなく、また中国からの授受もありません。それに学問的なものばかりの授受で「生活様式の多様化や変容」が表されていません。

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最終更新日 : 2011-08-01 11:31:34

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2011年の解答文

〔2011年・第1問・解答例〕  問いに返る
レベル1(詳説世界史の参照ページ、p.107-09、113-114、116-125、139-140、157、163-164)

古代ギリシアの古典、インドの医学代数学・物語、ペルシアの灌漑技術や法などがアラブ人によって受容されアラブ・イスラーム文明が成立した。征服がアッバース朝の下で終息すると、異民族と自民族起源の文化が融合した。公用語がアラビア語で、シャリーアが施行され、香辛料・砂糖・紙・穀物などが流通し生活を豊かにした。インドでは、仏教拠点の破壊が仏教の消滅となり、ヒンドゥー教寺院も破壊され、その資材がイスラーム建築に流用された。両教の要素を融合させた壮大な都市も建設された。紙を導入した中国へは郭守敬の授時暦となった。元からはイル=ハン国に中国絵画が伝えられ、細密画に中国の線描をもたらした。アフリカ東岸にはアラビア語の影響をうけたスワヒリ語を成立させた。ビザンツにはギリシア語公用語化と聖像崇拝論争を起した。トレドシチリア島パレルモの翻訳によってイスラームの学問が入り、スコラ学はアリストテレス哲学の影響をうけて壮大な体系となり、その科学の影響も大きく、イブン=シーナ一の医学は長く模範となり、R.ベーコンの実験科学も生まれた。高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまった。

(構想メモ) 受験場ではもっと簡単なメモでもいいですが、読んで分かるように詳し目のメモにしてます。
  

レベル2 (受容と影響) 
受容した異文化。中国から製紙法・火薬・絵画技法が入り、インドから数字・ゼロの観念・医学・物語を受容した。西アジアからユダヤ教・キリスト教の唯一神、法律、錬金術を、東欧からギリシア哲学・医学などをアッバース朝が吸収した。圏内の発展。シャリーアを完成しペルシア人官僚に施行させた。アリストテレス哲学はスンナ派神学を体系化し、ガザーリーやルシュドの哲学となり、イブン=シーナーの医学、フワーリズミーの代数学、ハイヤームの詩、ウッディーンの史書へと発展した。ニザーミーヤ学院・アズハル大学で研究され、マドラサはウラマーを育成した。他地域へ影響。中国へは天文学が授時暦となり、商人たちはモスクを建てた。インドへはスーフィー、細密画を伝えた。ビザンツ帝国との接触は帝国側にイコン紛争をおこしたが、結果的にイコン重視の文化をつくらせた。西欧へはトレドシチリア島パレルモでの翻訳がイスラーム文化の影響を与えた。イスラーム哲学はパリ大学を刺激し、トマス=アクィナスを代表とするスコラ学を完成させた。またイベリア半島にはアスパラガス・オレンジなどの野菜、カナート・カレーズなどの地下水技術が伝わり、高等教育が施され、西欧の留学生が集った。(510字)

 

レベル3 (地域別に受容と影響)
イスラーム文化はアラブ民族起源の学問と、アッバース朝の「知恵の館」による翻訳によって異民族起源の学問が融合した普遍的な文明を形成した。中国から製紙法、羅針盤が伝わり、元朝からイル=ハン国に絵画の技法が伝わった。中国への影響は蕃坊・清真寺の設置、染付の製作、授時暦の制定となった。インドからゼロの観念、数字の表し方、医学や物語が伝わり、インドへはスーフィー信仰、イスラーム建築を伝えた。イランから帝国の法制、メソポタミアの太陰暦、パレスティナの一神教や聖地礼拝などを受容し、この地域一帯にアラビア語・イスラーム教を浸透させた。その文化として、タバリーやラシード=ウッディーンの歴史書、イブン=シーナー医学が生まれた。アズハル大学・ニザミーヤ学院は先進的であった。東欧からアリストテレスを吸収し、他に幾何学・医学なども受容した。ビザンツ帝国へは、帝国のギリシア化とイコン重視に向かわせた。西欧へは十字軍によって築城術・紋章・シャーベットが伝わり、シチリア島トレドにおける「12世紀ルネサンス」は大学・哲学・神学を伝えスコラ学完成につながった。フワーリズミーの代数学、アルハンブラ宮殿の庭園学、造船・灌漑の技術も伝えた。(509字)

  

第2問・解答例
1
a コロッセウムは剣奴・猛獣の試合を見せる「パンとサーカス」を、安い公共浴場はスポーツ・図書・討論の場を提供した。
(別解)コロッセウムで市民に「パンとサーカス」という穀物・見世物を供し、大浴場で憩いを、水道橋によって都市に豊富な水を供給した。
b 紀元前はローマ市と植民市に限られていたが、同盟市戦争により半島全体に広げ、212年の勅令で帝国内全自由民に広げた。
2
明初は海禁令をしき朝貢と貿易は一体であり民間の貿易と渡航は禁止されていた。16世紀になると後期倭寇と西欧人の要求によって緩和した。清初は三藩の乱と台湾の蜂起に対処するため遷界令をしき、貿易を禁止した。沈静化すると4海関をおいた。
3
a アメリカはヨーロッパの紛争に干渉しない。またヨーロッパはアメリカに干渉すべきでない。アメリカは植民地の対象ではない。
b 門戸開放・機会均等を唱え、後に領土保全も主張した。義和団事件に際し出兵し、幹線鉄道国有化に四国借款団を結成してドル外交を展開した。軍事的な進出でなく経済的な進出にとどめた。

第3問・解答例
 1楔形文字、神聖文字
 2塩、酒
 3ヴァンダル人(族)
 4都市の空気は自由にする
 5香辛料
 6トウモロコシ、ジャガイモ
 7ポルトガル、ブラジル
 8 (4)
 9ホロコースト
 10ドイモイ

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最終更新日 : 2012-04-25 06:02:27

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2010年度の問題

第1問
 ヨーロッパ大陸のライン川・マース川のデルタ地帯をふくむ低地地方は、中世から現代まで歴史的に重要な役割をはたしてきた。この地方では早くから都市と産業が発達し、内陸と海域をむすぶ交易が展開した。このうち16世紀末に連邦として成立したオランダ(ネーデルラント)は、ヨーロッパの経済や文化の中心となったので、多くの人材が集まり、また海外に進出した。近代のオランダは植民地主義の国でもあった。
 このようなオランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 グロティウス コーヒー 太平洋戦争 長崎 ニューヨーク
 ハプスブルク家 マーストリヒト条約 南アフリカ戦争   答えに行く

第2問
 アジア各地には古くからそれぞれ独自の知の体系が発展し、それらを支える知識人たちも存在した。そして16世紀以降ヨーロッパの知識・学問に接するようになるなかで、それらは次第に変容していった。アジア諸地域における知識・学問や知識人の活動に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 読書人などとよばれた中国前近代の知識人にとって儒学と詩文は必須の教養であった。これらはいずれも漢代までの知的営為の集積を背後にもつ。この集積は時として想起され、現代に至るまでその時々の中国社会に大きな影響を与えることがあった。以下の(a)・(b)の問いに冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) それまで複数の有力な思想の一つにすぎなかった儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事について2行以内で説明しなさい。
 (b) 唐代に入ると詩文には様々な変化が起こった。文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な気運が生まれた。唐代におけるその気運について2行以内で説明しなさい。

問(2) 14世紀半ば、東アジアは元の衰退にともない一時的に混乱した。しかし、1368年に明が建国されると、再び新たな安定の時期を迎え、知識人たちも活発に活動した。1392年に成立した朝鮮(李氏朝鮮)も、明の諸制度を取り入れながら繁栄し、知識人による文化事業が盛んにおこなわれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 15世紀前半の朝鮮でなされた特徴的な文化事業について2行以内で説明しなさい。
 (b) 明の末期になると、中国の知識人たちは、イエズス会宣教師がもたらしたヨーロッパの科学技術に強い関心を示した。その代表的な人物である徐光啓の活動について2行以内で説明しなさい。

問(3) 18世紀後半以降、ヨーロッパの侵略や圧力にさらされるようになると、アジアの知識人は自国の文化の再生や政治・経済の再建を目指して改革運動をはじめた。かれらは、ヨーロッパの知識を吸収しつつ近代化・西欧化を推進しようとするグループと逆に伝統の本来の姿を復活させようとするグループとに分かれて論争し合い、政治運動も展開した。これらの改革運動に関する以下の(a)〜(c)の問いに、冒頭に(a)〜(c)を付して答えなさい。

 (a) 西アジアのアラビア半島ではワッハーブ派が勢力を拡大した。この運動について3行以内で説明しなさい。

 (b) インドでは、ラーム=モーハン=口一イが、女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習を批判するパンフレットを刊行するなどして、近代主義の立場から宗教・社会改革運動を進めた。この風習を何というか答えなさい。

 (c) 中国では、曾国藩・李鴻章などの官僚グループが洋務運動とよばれる改革を進めた。この運動の性格について3行以内で説明しなさい。

第3問
 人類は有史以来、司馬遷の『史記』やギボンの『ローマ帝国衰亡史』、さらにはホイジンガの『中世の秋』などのすぐれた歴史叙述を生みだしてきた。しかし世界史教科書の記述では、文学・哲学の著作や芸術・科学技術の業績と比べて、歴史書の紹介が十分とはいえない。とはいえ歴史書は、それぞれの時代や人々の生き方と分かち難く結び付いている。そこで以下の歴史叙述に関わる文章A・B・Cのなかで、下線を付した部分に関する設問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、官頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

A 中世ヨーロッパにおいては神学が重視され、歴史叙述もその影響下にあった。このような思考の枠組を脱し人間のありのままの姿や歴史を見つめようとしたのがルネサンス期の(1)人文主義」であり、そこではギリシア・ローマの古典文化が再発見されたのである。その古典期ギリシアでは(2)世界最古の個人による歴史叙述」が試みられており、そうした伝統のなかで地中海世界における(3)ローマ興隆史、あるいは建国史を究めようとする歴史家」も登場した。やがて古代末期になると、(4)キリスト教の信仰を正当化する歴史叙述」も生まれるようになった。

問(1) 政治を、宗教や道徳から切りはなして現実主義的に考察したフィレンツェの失意の政治家は『ローマ史論』とともに、近代政治学の先駆となる作品も書いている。この人物の名と作品の名を記しなさい。

問(2) それまでは年代記のような記録しかなかったがギリシア人の一人はペルシア戦争の歴史を物語風に叙述し、もう一人はペロポネソス戦争の歴史を客観的・批判的に叙述した。それぞれの歴史家の名を記しなさい。

問(3) 前2世紀のローマ興隆を目撃し実用的な歴史書を書いたギリシア人がおり、ローマ建国以来の歴史をつづったアウグストゥス帝治世下のローマ人もいる。それぞれの歴史家の名を記しなさい。

問(4) キリスト教最初の『教会史』を書いた教父作家が現れる一方、神学とともに歴史哲学の書でもある『神の国』を著して後世の人々の信仰や思想に大きな影響をあたえた教父作家も出現した。それぞれの教父作家の名を記しなさい。

B アラム文字に由来する突厥文字は中央ユーラシアで活躍した北方遊牧民の最古の文字と見られる。この文字によってオルホン碑文など(5)突厥の君主や歴史」に関する貴重な記録が残された。中央ユーラシアから西アジアに目を転じれば、14世紀の(6)アラブの歴史家」は『歴史序説(世界史序説)』を書いて都市民と遊牧民との交渉を中心に王朝興亡の歴史の法則性を求めたが、その鋭い歴史哲学は、現在でも新鮮な示唆に富んでいる。ほぼ同時期のイランでもイル=ハン国のガザン=ハンの宰相ラシード=アッディーンは、(7)壮大な歴史書をペルシア語で記述した」が、それは、ユーラシアの東西をまたにかけて支配したモンゴル帝国の歴史を知る重要史料となっている。

問(5) 突厥の歴史は、現在の西アジアのある国につながっている。その国の名を答えよ。また突厥の前に現れた匈奴の最盛期の君主名を記しなさい。

問(6) チュニジアに生まれたこの歴史家は、エジプトの大法官などをつとめ、シリアに軍をすすめたティムールと会見したことでも知られる。この人物の名を記しなさい。

問(7) この歴史書の名を記しなさい。

C 広大な植民地をかかえるイギリスの20世紀を代表する歴史家として、トインビー(1889-1975)とカー(1892-1982)をあげることができる。トインビーはギリシア・ローマ史の研究者として出発したが、長期化した(8)第一次世界大戦」に世界史を見直す手がかりを見出し、40年の歳月をかけて「文明」を構成単位とする全12巻の大著『歴史の研究』を完成させた。カーは外交官となった直後に起きた(9)1917年のロシア革命」に大きな衝撃を受け、膨大な史料と対話を重ね、30年以上を費やして10巻におよぶ『ソヴィエト・ロシア史』を完成させた。一方、イギリスの植民地であった(10)インド」でも優れた歴史書が書かれた。

問(8) 第一次世界大戦の体験から『西洋の没落』を著して西洋文明の衰退を予言し、大きな反響をよんだ歴史家の名を記しなさい。

問(9) ロシア革命の指導者の一人で『ロシア革命史』を著し世界革命論を唱えた人物はだれか。また、ロシア革命を批判したのち、ヒトラーの政権が成立すると対ドイツ宥和政策にも反対し、大部の『第二次大戦回顧録』を残したイギリスの政治家は誰か。これら2人の名を記しなさい。

問(10) インドの独立運動に参加し、1947年の独立直後に首相を務めた政治家は、すぐれた歴史認識の持ち主でもあり、獄中で『インドの発見』を書いた。この人物の名を記しなさい。

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最終更新日 : 2011-08-01 11:31:34


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