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2011年の添削

2011年・第1問
学生の解答
征服活動とムスリム商人が東西と交易に携わったことから、イスラーム教以前の文化を吸収した。ビザンツ帝国からシリア・エジプトを奪い、ビザンツの古代ギリシアの学術がイスラーム世界に流入した。イスラーム勢力の東方拡大はインドにいたり、インドからはゼロの概念などの数学・薬学などが採り入れられた。アッバース朝では9世紀バグダードで組織的なギリシア語文献のアラビア語翻訳が行われ、アリストテレス哲学や医学代数学などが研究された。その結果、ギリシア医学などを摂取し、『医学典範』を著したイブン=シーナー、代数学を発達させたフワーリズミーなどが輩出した。他方、西アジアで発達したイスラーム文化は、十字軍によるキリスト教勢力との衝突を機に西欧に流入した。この十字軍の頃より西欧カトリック文化圏が拡大し、レコンキスタを進めるカスティーリャ王国がイベリア半島のトレドを征服した。このトレドシチリア島のパレルモなどでシーナーの著作やイブン=ルシュドのアリストテレス哲学がラテン語に翻訳され、西洋医学やトマス=アクィナスのスコラ哲学確立に影響を与えた。13世紀のロジャー=ベーコンはイスラーム学術の影響を受けて、近代自然科学の先駆となった。
(学生のコメント)
 大きいテーマなので初めは戸惑ったけど、書きだしてみると、なんとか出来ているのではないかとおもいます。

添削
 >征服活動とムスリム商人が東西と交易……教以前の文化を吸収した> これは前置きにあたりますが、かならずしも不可欠な文章ではありません。解答はいきなり結論を書くつもりで書いていけばいいです。というのは導入文に「異なる文化が受け入れられ、発展していった」とすでに書いてあるので、言い換えにあたる文章は必要ないことです。東大の問題はテーマを大まかに述べて、受験生にはそれを具体例で証明してほしいと求めているからです。

 >ビザンツ帝国からシリア・エジプトを奪い、ビザンツの古代ギリシアの学術がイスラーム世界に流入した> これは正しい文章ですが、征服地を一々書いてそこからどういう文化を受容したと書かなくても、「旧ビザンツ帝国領から古代ギリシアの学術が流入した」で済みます。

 >インドにいたり、インドからはゼロの概念などの数学・薬学などが> 「など」は一般に複数のことがらをあげてから使う表現です。「ゼロの概念」1個で「など」は使わないこと。後の「など」はまだいい。これは受容説明ですが、インドに与えた影響はおもいつきませんか?

 >アッバース朝では9世紀……代数学を発達させたフワーリズミーなどが輩出した> ここは問題なくできてます♪

 >西アジアで発達したイスラーム文化は、十字軍によるキリスト教勢力との衝突を機に西欧に流入した> これはよくある間違いです。十字軍兵士に学ぶ姿勢はなく、後で書いているように十字軍でなく、レコンキスタやノルマン人のシチリア島征服の方が学ぶ姿勢をもっていました。十字軍が西欧にもたらしたのは物質文化(ソファ、シャーベット、築城術、紋章など。この「物質文化」という表現は1997年第3問に使ってある用語)です。

 >この十字軍の頃より西欧カトリック文化圏が拡大……トレドを征服した> 征服過程は要りません。この問題は文化の受容・発展・影響にしぼって書くべきです。

 >トレドやシチリア島のパレルモ……近代自然科学の先駆となった> これはできてます♪
 ただ全体として、受容と影響が西欧との関係に集中していて、インドからは受容だけで影響がなく、また中国からの授受もありません。それに学問的なものばかりの授受で「生活様式の多様化や変容」が表されていません。

4
最終更新日 : 2011-08-01 11:31:34

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2011年の解答文

〔2011年・第1問・解答例〕  問いに返る
レベル1(詳説世界史の参照ページ、p.107-09、113-114、116-125、139-140、157、163-164)

古代ギリシアの古典、インドの医学代数学・物語、ペルシアの灌漑技術や法などがアラブ人によって受容されアラブ・イスラーム文明が成立した。征服がアッバース朝の下で終息すると、異民族と自民族起源の文化が融合した。公用語がアラビア語で、シャリーアが施行され、香辛料・砂糖・紙・穀物などが流通し生活を豊かにした。インドでは、仏教拠点の破壊が仏教の消滅となり、ヒンドゥー教寺院も破壊され、その資材がイスラーム建築に流用された。両教の要素を融合させた壮大な都市も建設された。紙を導入した中国へは郭守敬の授時暦となった。元からはイル=ハン国に中国絵画が伝えられ、細密画に中国の線描をもたらした。アフリカ東岸にはアラビア語の影響をうけたスワヒリ語を成立させた。ビザンツにはギリシア語公用語化と聖像崇拝論争を起した。トレドシチリア島パレルモの翻訳によってイスラームの学問が入り、スコラ学はアリストテレス哲学の影響をうけて壮大な体系となり、その科学の影響も大きく、イブン=シーナ一の医学は長く模範となり、R.ベーコンの実験科学も生まれた。高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまった。

(構想メモ) 受験場ではもっと簡単なメモでもいいですが、読んで分かるように詳し目のメモにしてます。
  

レベル2 (受容と影響) 
受容した異文化。中国から製紙法・火薬・絵画技法が入り、インドから数字・ゼロの観念・医学・物語を受容した。西アジアからユダヤ教・キリスト教の唯一神、法律、錬金術を、東欧からギリシア哲学・医学などをアッバース朝が吸収した。圏内の発展。シャリーアを完成しペルシア人官僚に施行させた。アリストテレス哲学はスンナ派神学を体系化し、ガザーリーやルシュドの哲学となり、イブン=シーナーの医学、フワーリズミーの代数学、ハイヤームの詩、ウッディーンの史書へと発展した。ニザーミーヤ学院・アズハル大学で研究され、マドラサはウラマーを育成した。他地域へ影響。中国へは天文学が授時暦となり、商人たちはモスクを建てた。インドへはスーフィー、細密画を伝えた。ビザンツ帝国との接触は帝国側にイコン紛争をおこしたが、結果的にイコン重視の文化をつくらせた。西欧へはトレドシチリア島パレルモでの翻訳がイスラーム文化の影響を与えた。イスラーム哲学はパリ大学を刺激し、トマス=アクィナスを代表とするスコラ学を完成させた。またイベリア半島にはアスパラガス・オレンジなどの野菜、カナート・カレーズなどの地下水技術が伝わり、高等教育が施され、西欧の留学生が集った。(510字)

 

レベル3 (地域別に受容と影響)
イスラーム文化はアラブ民族起源の学問と、アッバース朝の「知恵の館」による翻訳によって異民族起源の学問が融合した普遍的な文明を形成した。中国から製紙法、羅針盤が伝わり、元朝からイル=ハン国に絵画の技法が伝わった。中国への影響は蕃坊・清真寺の設置、染付の製作、授時暦の制定となった。インドからゼロの観念、数字の表し方、医学や物語が伝わり、インドへはスーフィー信仰、イスラーム建築を伝えた。イランから帝国の法制、メソポタミアの太陰暦、パレスティナの一神教や聖地礼拝などを受容し、この地域一帯にアラビア語・イスラーム教を浸透させた。その文化として、タバリーやラシード=ウッディーンの歴史書、イブン=シーナー医学が生まれた。アズハル大学・ニザミーヤ学院は先進的であった。東欧からアリストテレスを吸収し、他に幾何学・医学なども受容した。ビザンツ帝国へは、帝国のギリシア化とイコン重視に向かわせた。西欧へは十字軍によって築城術・紋章・シャーベットが伝わり、シチリア島トレドにおける「12世紀ルネサンス」は大学・哲学・神学を伝えスコラ学完成につながった。フワーリズミーの代数学、アルハンブラ宮殿の庭園学、造船・灌漑の技術も伝えた。(509字)

  

第2問・解答例
1
a コロッセウムは剣奴・猛獣の試合を見せる「パンとサーカス」を、安い公共浴場はスポーツ・図書・討論の場を提供した。
(別解)コロッセウムで市民に「パンとサーカス」という穀物・見世物を供し、大浴場で憩いを、水道橋によって都市に豊富な水を供給した。
b 紀元前はローマ市と植民市に限られていたが、同盟市戦争により半島全体に広げ、212年の勅令で帝国内全自由民に広げた。
2
明初は海禁令をしき朝貢と貿易は一体であり民間の貿易と渡航は禁止されていた。16世紀になると後期倭寇と西欧人の要求によって緩和した。清初は三藩の乱と台湾の蜂起に対処するため遷界令をしき、貿易を禁止した。沈静化すると4海関をおいた。
3
a アメリカはヨーロッパの紛争に干渉しない。またヨーロッパはアメリカに干渉すべきでない。アメリカは植民地の対象ではない。
b 門戸開放・機会均等を唱え、後に領土保全も主張した。義和団事件に際し出兵し、幹線鉄道国有化に四国借款団を結成してドル外交を展開した。軍事的な進出でなく経済的な進出にとどめた。

第3問・解答例
 1楔形文字、神聖文字
 2塩、酒
 3ヴァンダル人(族)
 4都市の空気は自由にする
 5香辛料
 6トウモロコシ、ジャガイモ
 7ポルトガル、ブラジル
 8 (4)
 9ホロコースト
 10ドイモイ

5
最終更新日 : 2012-04-25 06:02:27

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2010年度の問題

第1問
 ヨーロッパ大陸のライン川・マース川のデルタ地帯をふくむ低地地方は、中世から現代まで歴史的に重要な役割をはたしてきた。この地方では早くから都市と産業が発達し、内陸と海域をむすぶ交易が展開した。このうち16世紀末に連邦として成立したオランダ(ネーデルラント)は、ヨーロッパの経済や文化の中心となったので、多くの人材が集まり、また海外に進出した。近代のオランダは植民地主義の国でもあった。
 このようなオランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 グロティウス コーヒー 太平洋戦争 長崎 ニューヨーク
 ハプスブルク家 マーストリヒト条約 南アフリカ戦争   答えに行く

第2問
 アジア各地には古くからそれぞれ独自の知の体系が発展し、それらを支える知識人たちも存在した。そして16世紀以降ヨーロッパの知識・学問に接するようになるなかで、それらは次第に変容していった。アジア諸地域における知識・学問や知識人の活動に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 読書人などとよばれた中国前近代の知識人にとって儒学と詩文は必須の教養であった。これらはいずれも漢代までの知的営為の集積を背後にもつ。この集積は時として想起され、現代に至るまでその時々の中国社会に大きな影響を与えることがあった。以下の(a)・(b)の問いに冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) それまで複数の有力な思想の一つにすぎなかった儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事について2行以内で説明しなさい。
 (b) 唐代に入ると詩文には様々な変化が起こった。文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な気運が生まれた。唐代におけるその気運について2行以内で説明しなさい。

問(2) 14世紀半ば、東アジアは元の衰退にともない一時的に混乱した。しかし、1368年に明が建国されると、再び新たな安定の時期を迎え、知識人たちも活発に活動した。1392年に成立した朝鮮(李氏朝鮮)も、明の諸制度を取り入れながら繁栄し、知識人による文化事業が盛んにおこなわれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 15世紀前半の朝鮮でなされた特徴的な文化事業について2行以内で説明しなさい。
 (b) 明の末期になると、中国の知識人たちは、イエズス会宣教師がもたらしたヨーロッパの科学技術に強い関心を示した。その代表的な人物である徐光啓の活動について2行以内で説明しなさい。

問(3) 18世紀後半以降、ヨーロッパの侵略や圧力にさらされるようになると、アジアの知識人は自国の文化の再生や政治・経済の再建を目指して改革運動をはじめた。かれらは、ヨーロッパの知識を吸収しつつ近代化・西欧化を推進しようとするグループと逆に伝統の本来の姿を復活させようとするグループとに分かれて論争し合い、政治運動も展開した。これらの改革運動に関する以下の(a)〜(c)の問いに、冒頭に(a)〜(c)を付して答えなさい。

 (a) 西アジアのアラビア半島ではワッハーブ派が勢力を拡大した。この運動について3行以内で説明しなさい。

 (b) インドでは、ラーム=モーハン=口一イが、女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習を批判するパンフレットを刊行するなどして、近代主義の立場から宗教・社会改革運動を進めた。この風習を何というか答えなさい。

 (c) 中国では、曾国藩・李鴻章などの官僚グループが洋務運動とよばれる改革を進めた。この運動の性格について3行以内で説明しなさい。

第3問
 人類は有史以来、司馬遷の『史記』やギボンの『ローマ帝国衰亡史』、さらにはホイジンガの『中世の秋』などのすぐれた歴史叙述を生みだしてきた。しかし世界史教科書の記述では、文学・哲学の著作や芸術・科学技術の業績と比べて、歴史書の紹介が十分とはいえない。とはいえ歴史書は、それぞれの時代や人々の生き方と分かち難く結び付いている。そこで以下の歴史叙述に関わる文章A・B・Cのなかで、下線を付した部分に関する設問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、官頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

A 中世ヨーロッパにおいては神学が重視され、歴史叙述もその影響下にあった。このような思考の枠組を脱し人間のありのままの姿や歴史を見つめようとしたのがルネサンス期の(1)人文主義」であり、そこではギリシア・ローマの古典文化が再発見されたのである。その古典期ギリシアでは(2)世界最古の個人による歴史叙述」が試みられており、そうした伝統のなかで地中海世界における(3)ローマ興隆史、あるいは建国史を究めようとする歴史家」も登場した。やがて古代末期になると、(4)キリスト教の信仰を正当化する歴史叙述」も生まれるようになった。

問(1) 政治を、宗教や道徳から切りはなして現実主義的に考察したフィレンツェの失意の政治家は『ローマ史論』とともに、近代政治学の先駆となる作品も書いている。この人物の名と作品の名を記しなさい。

問(2) それまでは年代記のような記録しかなかったがギリシア人の一人はペルシア戦争の歴史を物語風に叙述し、もう一人はペロポネソス戦争の歴史を客観的・批判的に叙述した。それぞれの歴史家の名を記しなさい。

問(3) 前2世紀のローマ興隆を目撃し実用的な歴史書を書いたギリシア人がおり、ローマ建国以来の歴史をつづったアウグストゥス帝治世下のローマ人もいる。それぞれの歴史家の名を記しなさい。

問(4) キリスト教最初の『教会史』を書いた教父作家が現れる一方、神学とともに歴史哲学の書でもある『神の国』を著して後世の人々の信仰や思想に大きな影響をあたえた教父作家も出現した。それぞれの教父作家の名を記しなさい。

B アラム文字に由来する突厥文字は中央ユーラシアで活躍した北方遊牧民の最古の文字と見られる。この文字によってオルホン碑文など(5)突厥の君主や歴史」に関する貴重な記録が残された。中央ユーラシアから西アジアに目を転じれば、14世紀の(6)アラブの歴史家」は『歴史序説(世界史序説)』を書いて都市民と遊牧民との交渉を中心に王朝興亡の歴史の法則性を求めたが、その鋭い歴史哲学は、現在でも新鮮な示唆に富んでいる。ほぼ同時期のイランでもイル=ハン国のガザン=ハンの宰相ラシード=アッディーンは、(7)壮大な歴史書をペルシア語で記述した」が、それは、ユーラシアの東西をまたにかけて支配したモンゴル帝国の歴史を知る重要史料となっている。

問(5) 突厥の歴史は、現在の西アジアのある国につながっている。その国の名を答えよ。また突厥の前に現れた匈奴の最盛期の君主名を記しなさい。

問(6) チュニジアに生まれたこの歴史家は、エジプトの大法官などをつとめ、シリアに軍をすすめたティムールと会見したことでも知られる。この人物の名を記しなさい。

問(7) この歴史書の名を記しなさい。

C 広大な植民地をかかえるイギリスの20世紀を代表する歴史家として、トインビー(1889-1975)とカー(1892-1982)をあげることができる。トインビーはギリシア・ローマ史の研究者として出発したが、長期化した(8)第一次世界大戦」に世界史を見直す手がかりを見出し、40年の歳月をかけて「文明」を構成単位とする全12巻の大著『歴史の研究』を完成させた。カーは外交官となった直後に起きた(9)1917年のロシア革命」に大きな衝撃を受け、膨大な史料と対話を重ね、30年以上を費やして10巻におよぶ『ソヴィエト・ロシア史』を完成させた。一方、イギリスの植民地であった(10)インド」でも優れた歴史書が書かれた。

問(8) 第一次世界大戦の体験から『西洋の没落』を著して西洋文明の衰退を予言し、大きな反響をよんだ歴史家の名を記しなさい。

問(9) ロシア革命の指導者の一人で『ロシア革命史』を著し世界革命論を唱えた人物はだれか。また、ロシア革命を批判したのち、ヒトラーの政権が成立すると対ドイツ宥和政策にも反対し、大部の『第二次大戦回顧録』を残したイギリスの政治家は誰か。これら2人の名を記しなさい。

問(10) インドの独立運動に参加し、1947年の独立直後に首相を務めた政治家は、すぐれた歴史認識の持ち主でもあり、獄中で『インドの発見』を書いた。この人物の名を記しなさい。

6
最終更新日 : 2011-08-01 11:31:34

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2010年の添削

2010年・第1問
学生の解答
1581年、ハプスブルク家のカトリック政策に反発してネーデルラント連邦共和国の名で独立した。貿易では中継貿易を得意とし、この時期に「海洋自由論」や「戦争と平和の法」を著し、各国の自由航行を主張したグロティウスは国際法の父と呼ばれた。東インド会社の活動によって17世紀初頭には日本から長崎貿易を認められた唯一の西欧国となり、後に日本を西欧に紹介することとなる。さらにアンボイナ事件によって香料諸島を手に入れ、香辛料、後にはコーヒーを取引して大きな利益を上げ、西欧と東南アジアを結んだ。しかしイギリスとの覇権争いのなか、航海法制定と英蘭戦争の敗北で、でオランダの中継貿易が打撃を受け、イギリスに覇権を奪われた。一方、名誉革命でオランダ総督がイギリス国王となったことで両国が共にフランスに対抗するという協調も見られた。18世紀に入るとニューアムステルダムをイギリスに奪われてニューヨークとされ、大西洋三角貿易においても地位が低下した。さらに同世紀末からフランス革命軍に占領され、ナポレオン戦争後、ウィーン体制に組み込まれ、一時オランダ立憲王国と改称された。ケープ植民地から北へ逃げたボーア人は南アフリカ戦争でイギリスに抵抗、イギリス衰亡の一因となった。太平洋戦争後には東南アジア植民地でも独立運動が激化し、オランダはインドネシアの独立を認める。その後はマーストリヒト条約に参加して欧州統合の一助となった。
学生のコメント
役割になっているところと、そうでないところががあるような気がして……、自信ないです(;_;)

(添削)
 初めに数字の書き方のことで一言。数字は1マス2字入れても良いですよ。「1581」と4マス使ってますが、「1581」と2マスで入れ込んで良いです。教科書の数字もそのように印刷してありますし、採点する教授たちも通常やっている書き方です。「数字も1字に数える」という断り書きは昔ありましたが、最近はまったくなく、指示がないかぎり2字分入れるとマス目の節約になります。
 課題は「オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、……現在までの展望のなかで、論述」でした。役割というのは意義づけに近い表現です。役割は何かの担い手になったということを強調する書き方で、とくに「世界史における役割」と幅広く意味をもった行動・効果・影響を与えたはず、ということです。

 課題は「中世末(14-15世紀)から」ですが、中世末のことは何も書いてありません。何か書いてほしい。
 初めの文を、「独立した」で終わっては、オランダ史にはなっても役割を言ったことになりません。「世界史における役割」というのは、ドッコイショと担ぎ上げる表現が必要です。大国に対して宗教弾圧から小国が独立を勝ち取った先駆である、とするか、スペイン帝国の没落を促した、とか。

 >貿易では中継貿易を得意とし> これも日本にまで及ぶ世界的なもののはず。アジア内貿易を展開した、とか、東インド会社を書いて「株式会社の先駆」とするか。
 
 >「海洋自由論」や「戦争と平和の法」を著し、各国の自由航行を主張したグロティウスは国際法の父と呼ばれた> 正しいのですが、もっと持ち上げられないか。「呼ばれた」より「なった」の方が強調です。現代までつづく国際法の先駆となった、近現代の国際政治学の土台となった、とか。近くは三十年戦争終結の原理となった、とか。

 >17世紀初頭には日本から長崎貿易を認められた唯一の西欧国となり、後に日本を西欧に紹介することとなる> これは文句なしの出来です♪

 >さらにアンボイナ事件を機にジャワ島を手に入れ、香辛料、後にはコーヒーを取引して大きな利益を上げ、西欧と東南アジアを結んだ> これも持ちあげていて巧い説明です。

 >しかしイギリスにクロムウェルが登場し、彼の航海法に対抗した英蘭戦争に敗北すると中継貿易の利を失ってオランダはイギリスに覇権を譲る> これは経過ですから、あまり意味がない文章でした。もっと簡略化して次の文章につなげてもいいでしょう。

 >一方、名誉革命でオランダ総督がイギリス国王となったことで両国が共にフランスに対抗するという協調も見られた> これは良いですね。「共にフランスに対抗」は役割になってます。

 >18世紀に入るとニューアムステルダム……オランダ立憲王国と改称された> の文章は、どちらかというと停滞・衰退のオランダの姿ですが、実際にそうであったとしても、こういうことは書かなくていいのです。「役割」が薄れていく過程は加点はないはずです。

 >同植民地から北へ逃げたボーア人は南アフリカ戦争でイギリスに抵抗、イギリス衰亡の一因となった> これは役割になってます♪

 >太平洋戦争後には東南アジア植民地でも独立運動が激化し、オランダはインドネシアの独立を認める> の文章は弱いので、「東南アジア植民地でも独立運動が激化し」を省いて「太平洋から西欧後退を告げるインドネシア独立承認となった」と役割にごだわった文章に変えてください。
 最後の文章は<欧州統合の一助となった> でできてます。

 課題に沿ってデータを編集する、課題にならないことは省き、課題に近くなるように改変していく、という加工的な作業です。もちろん史実に基づいていなくてはならないという縛りはありますが。
 ただ単に歴史の事実を並べても、そこで役割を短くても言わないと史実が活きてきません。

7
最終更新日 : 2011-08-01 11:31:34

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2010年の解答文

〔2010年第1問・解答例〕  問いに返る
 レベル1 
(詳説世界史の参照ページ p.143、152、176、197-99、212-13、217-18、256、266、284、295-6、332、361)

ネーデルラントは干拓した農地と毛織物工業で栄え、中世末、仏国は毛織物産地のフランドル地方を支配下におこうとして百年戦争の一因となった。16世紀スペイン・ハプスブルク家領となり、フェリペ2世はカトリック化政策を強めたため、豊かなオランダが反乱をおこし独立したことは、スペイン帝国の打撃になった。バルト海での中継貿易で富をたくわえ、さらに東インド会社を設立して東南アジアにまで貿易網をひろげ、アムステルダムは国際金融の中心となった。長崎におけるオランダの交易は中国・朝鮮・琉球・東南アジア諸国をつなぐ役割を果たす。アンボイナ事件を機に英国への優越を決定的にし、インドネシアではコーヒーやサトウキビ・藍などの商品作物を導入した。これらの商品を輸出することで欧州に生活革命をおこした。アメリカでは東岸にニューアムステルダムを建設し、金融街ニューヨークの土台をつくった。三十年戦争に際してグロティウスは自然法思想を国家間の関係に適用して「国際法の祖」となった。19世紀末、英国はオランダ移民ブール人の土地をとりあげる南アフリカ戦争をおこしたが、その抵抗は大英帝国没落の一因となった。またインドネシアでは現地人官吏養成の学校を建てて留学も奨励したため、しだいに民族的自覚を養った。太平洋戦争中と戦後における独立運動の指導者は留学生たちであった。戦後西欧の回復はオランダでのマーストリヒト条約で域内市場を完成させた。

  

 レベル2 (役割=他国や世界史への影響、プラス面とマイナス面)
ブルージュ・ガンなど毛織物工業で栄えた低地は百年戦争の争奪原因となり、この戦争のために英国に亡命した技術者たちは英国に毛織物工業を興した。15世紀末にはハプスブルク家のものとなり、新興市民にカルヴァン派が普及したため、スペインの弾圧を受け、低地の商人たちは闘い、北部は連邦共和国として独立、スペイン帝国を没落させた。三十年戦争の際にはグロティウスが画期的な国際法を提唱した。また宗教に寛容な国家としてウェストファリア条約で承認された。高い造船技術、史上初の公立銀行、デカルト、スピノザなど最高の頭脳を集め、レンブラントを代表とするバロック芸術などをもち17世紀を「オランダの世紀」とした。かれらは日本では長崎を通して蘭学を伝え、コーヒーや茶を広めジャーナリズムを育成した。新大陸にニューアムステルダムを建設、英国に奪われニューヨークは移民の入口となった。こうして先駆的な役割を担ったが負の先駆もある。インドネシアの植民地化、ケープ植民地の形成と、現地でのコーヒー・プランテーション、1830年からの強制栽培制度、南アフリカ戦争終結における英国と妥協したアパルトヘイトなどである。20世紀太平洋戦争で日本の侵略を受けた蘭領東インドは、戦後も植民地を維持しようとしたためインドネシア人の民族主義に火をつけた。非植民地化の波の中、結成当初から加盟したECにマーストリヒト条約を結成させ、EUの中心的役割を果たした。

  

 レベル3 (役割を経済・政治・文化に分けて)
経済面。中世末フランドル地方の毛織物職人たちが英国に亡命し、毛織物の技術を伝えたため、英国を毛織物工業国に変えた。17世紀、アムステルダムに世界初の公立銀行と株式会社を設立し、欧州金融の中心となった。インドネシアではコーヒープランテーションを始め、その圧政は19世紀にジャワ戦争を招き、ベルギー喪失も重なり、財政負担は強制栽培制度を施行させた。北米に建設したニューアムステルダムは後の金融街ニューヨークの起源となった。政治面。16世紀、ゴイセンによる独立はハプスブルク家帝国の衰退に拍車をかけた。新旧の宗教対立は三十年戦争で再開したが、新教オランダの国際的承認は寛容の進歩となった。19世紀末の南アフリカ戦争では、オランダ移民のボーア人が英国と戦い、その泥沼化は英国の栄光ある孤立を危機に落とし日英同盟締結の契機となった。太平洋戦争期、ABCD包囲網に加わり日本を追いつめた。戦後、戦場となった西欧回復のため、EECに初めから加わり、EUの結成となるマーストリヒト条約の締結地となった。文化面。エラスムスの教会批判は宗教改革を誘発し、グロティウスの教説は国際法の制定につながった。絵画の油彩技術を完成させ、中世末にファン=アイク、16世紀にルーベンス、17世紀にレンブラント、19世紀にゴッホを生んだ。また、長崎の出島を通じて「蘭学」を、幕末に蒸気船・鉄工所・国際法・風説書などで先進的な技術・学問を日本に伝えた。

  

第2問・解答例
問(1)
 a武帝に対して董仲舒が、皇帝を国父とする儒学を官学とするように進言し、武帝はこれを受けて五経博士を置いた。
 b『文選』の推奨する四六体が普及していたのに対して、韓愈・柳宗元が簡潔な古文復興運動を展開した。 
問(2)
 a銅活字をつくる鋳字所を設置、世宗は古典編纂につくし、かつ朝鮮民族独自の文字を考案させ「訓民正音」を作成した。
 bエウクレイデスの『幾何原本』を訳し、西欧のプランテーションも記した『農政全書』や『崇禎暦書』を編集した。
問(3)
 a半島東部ネジド地方におきたイスラーム原理主義に立つスンナ派の一派。19世紀初期にはメッカ・メディナを占領する時もあった。サウド家の支持を受け、オスマン帝国から独立した。
 bサティー
 c「中体西用」を方針に官僚が主導した工業化だったが、軍事技術に偏り、統一的な計画はなく、官僚は私的蓄財に専念したため、民族資本の成長ははかどらず、清朝皇帝体制を温存した。

第3問・解答例
 1 マキァヴェリ、君主論
 2 ヘロドトス、トゥキディデス
 3 ポリビオス、リウィウス(リヴィウス)
 4 エウセビオス、アウグスティヌス
 5 トルコ(共和国)、冒頓単于
 6 イブン=ハルドゥーン
 7 集史(蒙古集史)
 8 シュペングラー
 9 トロツキー、チャーチル
 10 ネルー

8
最終更新日 : 2012-03-04 16:15:54


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