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序章

 あたしは、子供の頃から暗闇を恐れるということを知らなかった。

 正しくは確かに畏怖心を喚起されはするものの、跪いて屈服するということを知らなかったと言い換えたほうがいいのかもしれない。部屋の明りをすべて消して窓を開け、月や星々の輝きを導き入れると、そこはちょっとした別世界で――あたしは薄暗く、水の流れのように微かに蒼い自分の部屋の中で、泳ぐように空想を心に思い描いては眠りの港に碇を降ろしていた。

 自分が身を横たえているふかふかの柔らかいベッドは実は動く無人島で、あたしはひとり漂流しながらロビンソン・クルーソーのように遥か遠くの水平線を船影が掠めはしないかと恋い焦がれて待っている。ある日、一隻の大型客船が無人島の側近くを通りかかってあたしは無事救出されるのだけれど、しかしそれこそはやがては沈みゆくタイタニック号だったのだ……というようなとりとめもない空想話をいくつも頭に思い描きながら、夢の中の現実世界に橋をかけ、そこに一晩中停泊することを毎夜の習慣としていた。

 あたしはある時は宝を探し求める海賊船の女船長であり、ある時は鯨やイルカの歌に竪琴の音色を調和させる人魚であり、ある時は捕鯨艦や密漁船を駆逐し、ある時は無残にも撲殺されて皮をはぎとられる運命のごまふ海豹たちを救った。

 あたしの乗る船の船名はころころとよく変わり、大抵は神話の英雄やヒロインたちからその名がとられることが多かった。例えばランスロット号であり、トリスタン号であり、ジークフリート号であり、アナスタシア号であり、ミネルヴァ号であり……あたしは両親がふたりともに帰りが遅くなる夜など、居間のソファーや父と母の寝室のダブルベッドの上で空想世界へと出港したものだった。

 そして物語の歯車がうまく回らないような時には親しい暗闇や沈黙や静寂を友として言葉もなく語りあい、自分の考えたのではない夢を見た。両親は帰宅すると寝たふりをしているか、もしくは本当に眠っている娘を両腕で抱き上げて子供部屋のベッドの中へと静かに運び入れてくれる。

 あたしは父に抱き上げられる浮遊感と母のそっと掛け布団をかけてくれる優しさとが好きだった。

 ただふたりがともに勘違いをしていたことには、あたしが愛する父母を待ちわびてついには寝入ってしまったと思っていることだった。それは本当にまったくの誤解で、あたしはいつも両親が夜に出掛ける時が早く来はしないかと胸を踊らせて待っていたくらいだったのだ。もっともあたしはそんなことを微塵も素直に口に出したりはしなかったし、秘密の御伽話を誰かに打ち明けるということもしなかった。

 あたしは周りにいる至極平均的な子供たちと変わりなく育ち、突出して目立つということのないかわりに何か問題を起こして両親を困らせるということもなく、ただ心の中に秘密だけがあった。多くの人は暗闇の支配下に置かれることを恐れ、あえて自分から近づこうとは気が狂っても思わないものだということはよく承知している。けれどもあたしは真っ暗な闇が慕わしく、たまらなく恋しいのだ。恐れとおののきとに心が覆われても、なおも闇を征服して自分のものとしたくなる。暗く深き闇に映る影に恐怖と狂気を覚えれば覚えるほど、あたしは真の闇に酔いしれるように魅せられてますます離れ難くなる。そして闇そのものと同一化して初めて虚無を従えることができるようになるのだ。
 果たして、あたしは自分が異常であるのかどうかよくわかっていないし、自覚すべきなのかどうかもよくわからない。それでもまさか闇の中から迎えの使者が現れて――本当にさらわれることになるとは、実際にそうなってみるまで到底信じられないことではあった。  

 


第1章

 勤めていた銀行が倒産した。
 銀行が倒産?ハ、ハ、ハ、そんな馬鹿なと思っていたら本当に潰れてしまった。
 一末端行員としてはお上の指示を仰いで他銀行に回されるがまま、信託、不動産業務の研修を重ね、新しい銀行に奮起をもって迅速に慣れるよう努力したつもりだったのに、凄まじく反りの合わない上司のためにあたしは三か月後には退職願を提出していた。
 この大不況気に何を考えているのかと問われてしまえばそれまでだったけど、あたしには銀行員に固執する理由のようなものがなかったし、大体銀行なんていうお堅い企業に就職が決まったのも数打ちゃあたるのまぐれ当たりのようなものだったのだ。
 あたしは札幌にある某短大の保育科を平凡な成績で卒業している。もちろん保育士の資格も持っている。けれどもなかなか幼稚園や託児所の受け入れ先が見つからなかったので一般企業巡りを始めた。そしてどういうわけか最も筆記試験と面接を通るのが難しかろうと思われた某大手銀行に入社が決まり、その会社が他の銀行に営業譲渡するまで約三年間勤めることになった。
 美好真理子みよしまりこという名のあたしは無職のプータローになって五か月余りが過ぎたこの時、二十四歳だった。
 同じ銀行に勤めていた榎門雄二という名の恋人と呼ぶべきかどうかやや思い迷う人物とはかれこれ二年近くのつきあいになる。彼は俗にいうやり手の有能な銀行マンとかいうやつで、二十七歳という若さながら民間の信用金庫から引き抜きを受けていた。あたしは失業保険の認定のためにハローワーク(労働よ、こんにちはと訳していいのだろうか)へ足を運んだ日に彼からプロポーズされていたけれど、率直に断っていた。でももしも彼が職にあぶれて再就職もままならないような状態にあったとしたら、事によってはひょっとしたらプラチナのダイヤリングとかいうのを受けとっていたかもしれない。
「結婚を励みにして仕事を頑張りたい」?
 正直にいってあたしは彼のそういうところがあまり好きではなくて、自分は雄二のステイタスを高めるための一環としての恋人という気が前々からしていないでもなかった。彼はそこそこに見目が良く、知識や教養がたしなみ程度にあって人から尊敬されたり感心されたりするような職業に就いている女が好きなのだ。

 あたしは身長が百六十センチ(正確には百五十八センチらしい)ある彼より三センチ(五センチ?)ほど背が高かったけれど、これで自分よりも背の低い女なら尚可といったところだったろう。きっと彼は何事においても九十九パーセントまでは見事にやり遂げられるといった類の人種で、残りの一パーセントの可能性には一生気づかないタイプの人間なのかもしれない。彼は人生という名の空の風船をあくせくと一生懸命ふくらませている道化師で、最後の最後に毒針の一刺しが待ち構えているのを知らないに違いない。

 その証拠に、というわけでもないのだけれど、銀行が破綻したあとも彼の上昇志向は揺らぎを見せないようであるかにあたしの瞳には映っている。彼の精神構造は鍛え上げられたボディビルダーの筋肉のようで、しかも彼は筋肉が脂肪に変わってしまわぬよう、毎日トレーニングを怠らずに念入りに強さの綻びを補強しているようなタイプだったから。

 そんなマッチョ志向の人間の強さにはとてもじゃないけどあたしみたいなか弱い凡人はついていけない。まあプロポーズを断ったとはいえ、彼とのつきあいはたわんだゴムか何かのように今も続いてはいたけれど。

「プロポーズを断ったあ!?なんでまた……」
 場所はシークレストというススキノの外れにある地下のバーでのことだった。あたしは親友ふたりと飲みにきていて、早速短大来の友人である美希のほうから非難を受ける。
「雄二さん条件いいし、顔だってそんなに悪くないし、それってやっぱり彼の社会的基盤がゆらいだからとか、そういう理由?」
「違うわよ。むしろその逆なんだってば。雄二はねえ、流行りのビジネス書を読み耽ってはいかに成功を手に入れるかしか興味のない人なの。あたしのことも同じで登攀がきつくなってきたからちょっと周りを見回してみたっていうくらいのことなのよ。傾斜が再び楽になってきたら後ろなんて振り返らずにひとりでさっさと登頂を遂げちゃうような人なんだから」
「ふうん。そのわりに二年もよく続いてるねえ。あたしから見ると雄二さんも結構我慢してるんじゃないかと思うけどな。考え方がまだ子供だもんね、真理子は」
 冴子ちゃんに子供、と言われると反論の余地があってもないような気がしてきてしまう。彼女は市内の病院で看護師をしているけれど、職業柄かどうなのか洞察力のとても鋭い人なのだ。冴子は今日スリットが大胆に入っている黒のチャイナ風ドレスを着ていて、いつも以上に雰囲気が大人の女っぽく感じられる。

「まあ結婚するんなら主婦っていう逃げ道もあるだろうけど、真理子はこれからどうするの?結婚願望がないのはいいけど、保育士っていったって真理子の場合経験に乏しいわけでしょ?それに一般企業はどこも銀行よりランク下がるわけだし……だったら一念発起して興味の持てる分野に再チャレンジするとか、資格を取って手に職をつけるとか、第三の道を探すしかないわけじゃない?例えばだけどね」
「ひっどーいっ、冴子ちゃんっ。主婦は逃げ道だっていうのね!?どおおおせっあたしはしゅーちゃんの汗と涙の結晶で三食昼寝付き+夜遊びの贅沢な新婚ライフを送ってるわよっ。でも幸せだもん、いいんだもん、それで」
 カンパリソーダを飲みながら頬を紅潮させている美希。久しぶりの夜遊びということで、メイクにも気合いが入っている。しかも超ミニのワンピースに白の編みタイツ。ロリータフェイスに弱い男なら、イチコロといったところだろう。
「差別するわけじゃないけど、美希と真理子はそれぞれ個性が違うし、別々の生き方ってもんがあると思うのよね。美希はホロスコープで占って相性が百二十パーセントだったのが修平と結婚したきっかけだったわけでしょ?でも真理子は夢見るリアリストだもの。真理子の場合結婚したって割にうまくいかないと銀行をあっさり辞めた時みたいに見切りつけるのも早いと思うのよ。そういう女はね、いつでもひとりになる準備みたいなものをしてないと生きていけないの。誰かに頼ろうとしない可愛げのなさはあたしと真理子に共通してることだからよくわかるんだけど」
「んー……よくわかんないけど、美希はのけものなのね?でも結婚って一度経験しとくとお得なもんだとあたしは思うけどなあ。べつにホロスコープに頼らなくても美希はやっぱりしゅーちゃんと結婚してたと思うし、しゅーちゃんは優しいし、それだけじゃなくてしゅーちゃんはしゅーちゃんだからしゅーちゃんを美希は選んだんだけど」
「つまりね、そういうことよ。美希が修平のことをしゅうちゃんしゅうちゃんって言ってるみたいに真理子も雄二さんのことをゆうちゃんゆうちゃんって言ってるようなら何も問題はないってことなのよ」
「やめてよ、冴子。雄二にゆうちゃんなんて気持ち悪くて言えるわけないわよ」
「ほら、これだもん」
 冴子の耳にしているプラチナのピアスがカウンターの抑えた照明にきらりと閃く。美希はなるほど、と言ってやっと納得している様子だった。

 美希は愛しの修平さんを携帯電話で呼びだすと、ふたりの愛の巣であるマイホームへと一足先に帰っていった。パジェロの助手席から手を振る美希を見送ったあと、あたしと冴子は場所を変え、終電がなくなってからも飲んでいた。冴子はつきあっていた同じ病院の検査技師と別れたと言った。家出していた奥さんが子供を連れて戻ってきたという話だった。
「まあよくある話よね。患者さんをベッドで一般のレントゲン室やCTやMRIの部屋に運んでいく時もお互い素知らぬ顔をしてることに変わりがあるわけじゃないし……べつに真理子がそんなに同情めいた顔することないわよ。あたしには最初からわかってたことだったけど、それでもあえてそういう関係になっただけのことなんだから。真理子はその後雄二さんとうまくいった?」
 あたしはジン・フィズを飲む手を止めると首を横に振った。冴子は三杯目になるウィスキーの水割りを飲み干した後、呆れたように溜息を洩らしている。
「真理子、それじゃ雄二さんにもし浮気されたとしても文句言えないんじゃない?真理子は雄二さんにいっぱい文句があるみたいだけど、話を聞いてると要するに性格や価値観が合わないってことでしょ?その上セックスレスっていうことはもう完璧アウトなんじゃない?どうして別れずにつきあい続けてるわけ?プロポーズの話も蹴ったのに」
 カウンターの席には今、あたしと冴子以外客は誰もいない。ボックス席のほうでもジャズバンドの演奏を聴きながら静かにやってる客が多い。若いバーテンダーが背を向けてグラスを磨いているけれど、こちらに耳を傾けているような気がしてなんとなく落ち着かない。
「だって……仕様がないじゃない。別れ話をしようとしたちょうどその日に具合悪くプロポーズされたんだもの。それに雄二はプライドの高い人だからなかなか切り出すのが難しいのよ。『別れましょう』、『はいそうですか』ってすんなり認めてくれるとは思えないし、あたしも今は地に足がついてない状態だからどっちつかずでいるほうが楽なのかもしれない。結婚する気は全然なくても緊急避難用の梯子がないと不安な感じがあるのよね。こんなんじゃ駄目だってわかってるんだけど、何をしててもどこか決め手に欠けるの。銀行時代に溜めた貯蓄が結構あるから昔興味のあったアートデザインの教室なんかに通ってもみたんだけど、こんなところで呑気に落書きなんかしてていいのかしらって焦燥感がかえって募っちゃったりもして。かといって就職情報誌に目を通したところでどこもしっくりこないっていうか、ピンとこないの。保育士の面接も幾つか受けてみたけど、何故かみんな落ちるのよね。どうしてだと思う?」
「そうねえ……」と冴子は壁にかかる年代物らしいサキソフォンを眺めながら言った。「美希は短大卒業と同時に幼稚園に勤めはじめたでしょ?それもほとんど顔パス状態で面接に受かったって言ってたわよね?真理子はなんていうか、いいところのお嬢さんっていうオーラがでてるから、逆にお堅い企業の秘書に向いてるようなそんな感じがしちゃうのよ。とても子供と一緒に泥だらけになって遊びそうにない雰囲気っていうのかな」
「えーっ!?一体あたしのどこがそう見えるのよ?今日だって巻きスカートに薄手のカーディガンなんていうダサい格好してるのに……」
「服装は関係ないわよ。それに面接にいく時はきちんとしたスーツを着てくでしょ?逆に今みたいな格好でいくか、それかトレーナーにジーンズっていう格好でいったほうがいいかもしれないわね、真理子の場合。スーツを着た瞬間から間違いなく美人秘書、重役の愛人になるの巻って感じだもの」
「嘘っ。やめてよそんなの、冗談じゃないわよ」
 あたしは銀行時代のセクハラ上司の顔を思いだし、背筋に悪寒が走るのを感じた。ああ、思いだしただけでも腹の立つ。
「まあ、次からは気をつけるのね。真理子はそういうところ本当に潔癖だから、男のナニがお尻に当たったっていうだけでも大騒ぎだものね。あたしなんか毎日何十本も見てるから全然なんとも思わないけど」
「冴子ちゃんっ」
 ワイングラスを磨き終えたバーテンダーが振り返り、注文もしていないのに何やらシェイカーを振り始めた。コルクのコースターの上に置かれたのは、深い霧のようなカクテル。さっぱりしていて口あたりがよく、微かにミントの香りがする。
「お客さまは看護婦さんなのですか?いや、今は看護師さんとお呼びするんでしたっけ?」
「勘がいいのね。べつにあたしはフェミニストじゃないから、看護婦と呼ばれようと看護師と呼ばれようとそんなことはどっちでも構わないけど。毎日何十本も見てるっていっても、寝たきりの老人のばかりだから、しなびたきゅうりを何本も見ているようなものね。中には時々元気のいいおじいさんもいるけれど」
「それはそうでしょうね。お客さまのように美しい方がオムツを替えてくれるのであれば……老人の方のほうでもお元気になられるでしょう」
 まだ二十代前半くらいのバーテンダーと冴子ちゃんが意気投合しそうなのを見て、あたしは席を外すことにした。仄暗い店の片隅ではジャズバンドが楽器を片付けはじめている。そして代わりに四十代くらいの金の髪をした外国人女性がピアノの独奏をはじめた。最初に指馴らしするように和音をいくつか奏でたあと、やがて静かに演奏がはじまった。どこか眠気を誘う、湖面に波紋がゆっくりと広がっていくようなバラードだった。
 あたしは化粧室からでてくると、何やらジャズの話で盛り上がっているらしい、冴子ちゃんとバーテンダーに暇を告げることにし、ジャズバー『サヴォイ』をあとにした。タクシー乗り場に並んでもよかったのだけれど、酔い覚ましもかねて歩いて帰ることにする。どうせススキノからアパートのある石山通りまではそう遠くない。夜道さえ怖くなければちょっとした散歩感覚といったようなところかもしれない。

 夏の終わりの濃い夜空から降ってくる冷涼な空気を肺いっぱいに吸いこみ、冴子の言うとおり自分はやっぱり子供なのかもしれない、とあたしは考えていた。

 何しろ、街路樹のナナカマドやポプラの樹木がさやさやと風に揺れて、夜の挨拶を歌に乗せているようだった……なんて、この歳になってもまだ真剣に考えてしまうのだから、子供というよりも幼稚と言ったほうがいいのかもしれない。

 それとも子供でもなく大人でもなく女でもないと言ったほうがいいだろうか?でもだからといって少女というわけでもない。あたしは世界や地球や宇宙といった観点で見れば生物学上人間であるわけなのだけれど、時々自分を異星人か何かのように感じてしまうことがある。

 そしてちょうどこの時もそうで、あたしはネオンの光を避けるように、暗闇の濃いほうへ濃いほうへと海の河口に向かう一筋の川の流れのように引き寄せられていた。通り魔や痴漢にあったり、人に尾けられたりといった心配はまるでしていない。暗く濃い闇はあたしの味方、暗き影は人間の及ぼしうる限りの危害からあたしをきっと守ってくれる……あたしは街路樹よりもわずかに野生の匂いの強い樹木の重なりあう公園を通り抜け、空き地の野原の傍らを通り過ぎる時にキリギリスの悲しい求愛に鳴く声を聴いた。

 ふとそのキリギリスと自分とに共通項があるような気がして、雄二のことを思いだしてしまう。そして不意に、今のままの宙ぶらりんな状態はもうやめよう、雄二と未練を残すことなくきちんと別れて、どんな仕事でもいいから真面目に働きはじめようってそう心が決まってしまった。
 あたしは暫くの間、有刺鉄線に囲まれている野原の前に立ち、風と闇との隙間から聴こえてくるキリギリスの鳴き声に耳を澄ませていた。そしてあと数百メートルほどの距離に迫っている自分のアパートへと再び足を向けることにする。夜は暗く、闇は暗く、そしてとても優しかった。夜と闇の間を滑る野の草の葉擦れの音も。
 その時まさか自分を尾けてきている一台の車があるだなんて、すぐ真後ろに足音もなく忍び寄ってくる何者かの存在があるだなんて、あたしは毛ほども気づいてなかった。
 アパートのすぐそばにある電話ボックスが見えてくると、あともう少しだなって思ったのを覚えている――腕時計の時刻は二時十三分。暗闇への恐怖がいくら薄いとはいえ、ほっと安堵の息を洩らしたその瞬間の出来ごとだった。
 乱暴に片腕を掴まれたかと思うと、後ろに物凄い勢いで引っ張られ、一瞬のうちに地面に捩じ伏せられる。
「き……」
 叫び声を上げようとすると同時に、口許に何かの布をあてがわれ、緩やかに四肢から力が脱けていくのがわかった――気が遠くなっていく。 あたしは遠ざかる意識の波間で、それでも必死に抵抗していた。屈服してはならないと思っていた。身体に力が入らない分を集中力で補おうとすると、闇の輪郭の中にくっきりと発光するように意識が浮かび上がってくる……でもそれだけだった。
 あたしは身体を持ち上げられるのも車内に運び入れられることも感覚としてはっきりと捉えることができていたのに、どうすることもできなかった。意志による命令では、瞼を開けることさえできなかった。その人はまるで闇そのもののように流動的に動いたかと思うと、あたしの身体から離れ、次の瞬間には車のドアの閉まる音がした。それからエンジンのキィを回す音……あたしはそれを最後に意識の闇に抵抗をきすのをやめ、溺れるように暗い沼の中へと沈んでいった。

 目が覚めた時、非情に愚かしいことにあたしは自分の部屋にいるものと信じ込んで微塵も疑っていなかった。それどころか今は一体何時だろうと蛍光色の秒針を目で探しあぐねていたくらいだった。当然あるべきはずの場所に時計はなく、そのことを怪訝に思うよりも早く、あたしは異常な何かが自分の身を包み込んでいるのを察知していた。
 ここにはあたしの知らない真の暗闇がひしめいていると本能的に感じたこともそうだったし、それ以前に手首が後ろ手に縛られていること、ガムテープの粘膜によって口唇が覆われてしまっていることが何よりも最も速くおぼつかない記憶を甦らせようと急いていた。
 自分の身の周りに密着するように真の闇が群がっているのを見ると、これが今現在の自分の置かれている現実なのだとは到底信じることができない。脳裏の片隅を悪い予感が掠めていく度にあたしはその考えをことごとく蹴散らし、頑迷なまでに何も考えたりすまいと思考を停止させたいようにさえ思った。
 まるでそうして再び眠りに堕ちたなら、すべては朝の眩しい光に包まれて鳥の囀りの声がいつもの変化ない一日のはじまりを告げ知らせてくれるだろうと信じて疑わないかのように。

 次の日の朝、光は窓から斜めに差し込んで、あたしの闇になれた両の瞳の網膜を焼いた。

 たまらなく眩しい光を室内に導き入れたその人は、両開きの窓の扉を全開にすると光を反射させた頬に微かな笑みを刻んでいたように思う。
 白い木綿のワイシャツはとても清潔そうなイメージで、短く刈りこまれた頭髪も彼にとてもよく似合っていた――などということを思ったのはすべてあたしが後に冷静な頭に戻ってから思い起こしたことで、あたしはこの時、この男を外見とは裏腹にとても不気味で残忍な凶悪犯として警戒することしかできなかった。
 彼は窓敷居に腰掛けながら眩しい陽の光を遮るように背にして、あたしを見つめたままかなりの長い間置物のようにそこから動かなかった。男は細面で背が高く、身体をふたつに折り曲げたらぽきりと折れてしまうのではないかという危惧を他人に与えるほど細い線をしていた。
 おそろしく繊細で気が弱く病弱――見るからにそんなイメージを想起させられる容貌だった。ただその白皙の面に宿る両の瞳だけが強い意志と存在感を見る者に与え、あたしは形勢的に不利な状態の中で射抜くような鋭い視線にさらされているのが息苦しくてたまらなかった(もちろん鼻孔のみで呼吸していることにもよるのだけれど)。
「美好真理子、二十四歳。札幌市内の短大を四年前に卒業、今年の三月にセクハラ上司に嫌気が差して勤めていた銀行を退職……三歳年上である恋人の榎門雄二とは二年前からのつきあいになるがペッティング以上の関係には至っていない……これで間違いない?」
 事実を指摘されて、顔が燃え上がるくらい熱くなるのがわかった。あたしは手首にロープが食いこんでもその痛みによって羞恥心を紛らわすかのように懸命に身じろぎした。
「ああ、ごめんね。これじゃあ話したくても喋れないよね」
 男は組み合わせていた両手をほどくと、窓際からゆっくりと近づいてきた。そしてあたしの口唇からガムテープをそっと丁寧にはがした。
「僕ね、雄二の大学時代のお友達なんだよ。雄二は君のことをとても自慢にしていて、料理はビーフストロガノフが得意だとか胸はDカップあることだとか色々と聞かないことまで話してくれてね、僕はいつも羨ましく思ってたんだ」
 あたしは怒りによって一時的な呼吸困難に陥っていたので、十分に酸素を補給するまで男に何も答えられなかった。
 ベッドの端に軋む音を立てながらそいつは座り、あたしが言葉を話すまでは視線を逸らすつもりはない様子で、遠慮なくこちらを見つめ返してくる。
「……あなた、ちょっと頭がおかしいんじゃないの!?雄二の友達ならこんなことしなくてももっと普通に紹介してもらえば良かったじゃない。どうかしてるわよ、誘拐なんて。まさかとは思うけど、雄二に馬鹿にされてその腹いせにとかいうんじゃないでしょうね!?」
 男はさも面白いことを聴かせてもらったとでもいうかのようにくつくつと笑いだし、それから突然また真顔に戻るとこう言った。
「駄目だよ、普通に紹介してもらったのではね。それでは君は僕のことを好きになってくれそうもないから。異常な状態の中で芽生えた愛のほうがそこらに流通している恋愛感情なんかよりもよほど強いものだと僕は思っているしね」
「わからないじゃない、そんなこと。もしかしたら雄二のことなんかどうでもよくなってあなたのことを好きになる可能性だってあったかもしれないわ。だけどあたしは女の体を縛り上げて言うことを聞かせるような卑劣野郎は絶対にもう好きになったりなんかしないんだからっ。雄二はあたしが嫌だっていうことは強引に無理矢理するような人じゃなかったし、そう考えればあなたなんかよりはよっぽど男らしかったわよ」
 言ってしまってから即座にしまった、と後悔した。この手のタイプの人間は常日頃からやり場のないストレスを抱えていて、それをほんの少しでもつつかれると何をしだすかわからないような気が直観的にしたからだった。見た目は一見穏健温和そのものという感じに見えても、ほんのちょっとしたことにでも手ひどい仕返しを自らの正当性を持って下すのではないかという気がしたのだ。

 恐れが脳裏をよぎる。それであたしは思わず慌ててフォローしていた。あなたのこと、よく知りもしないのに卑劣野郎だなんて言う権利、あたしにはないわよね、それにあなたのような理知的なタイプの人がこんなことをするにはきっと事情があるんでしょう?冷静になってよく考えてみて。今ならまだ間に合うわ……ところが男は珍しい動物が一生懸命言い訳するのを面白がっているような様子で、おかしくてどうしようもないというように吹きだしただけだった。あたしももう頭に血が昇るのを抑えきれなかった。
「大体あなた、一体どういうつもりなのよ!?言っとくけど、雄二の自慢話なんて半分くらい誇張されてるんだからね、いちいちあいつの言うことを真に受けてたらそれこそ奴の思うつぼなんだからっ。なんならあたし、雄二と別れてあなたとつきあってもいいわよ。ちょうど別れようと思ってたところだから、あなたがこんな馬鹿なことさえやめてくれるんなら……」
 口からでまかせとはいえ、我ながらいい取引の材料かもしれないと思った。けれど男は笑うのをぴたりとやめて真偽を確かめるかのようにあたしの瞳の中を深く覗きこんでくる。

「許せない嘘だな、それは。それに君の言ってることは支離滅裂だよ。誇張された自慢話をするような男は間違っても男らしいとは言えないし、女を縛り上げるような奴は嫌いなんだろ?それじゃあ僕とまともにつきあっても君は僕のことを好きになるはずがない。なにしろ僕は病的なSMマニアだから」
「……嘘」
 普通の状況でなら、男の最後の科白を冗談だと一笑して聞き流せたかもしれない。だけどこの時のあたしは頭から男の言葉を信じきってしまっていて、怖さからベッドの背もたれへと身をよじらさずにはいられなかった。目の前にいる誘拐犯はとてもじゃないけど冗談なんかを言うようなタイプには見えなかったから。
「本当だよ。何年か前に一度結婚したことがあるんだけどね、女房がこれ以上は夜の生活に耐えられないと言って出ていったんだ。それでそろそろ代わりが欲しくなって君に白羽の矢を立てたってわけなんだけど。僕が君にどんなことをしたくてここへ連れてきたのか、想像できる?」
 あたしはもう生意気な口を聞くのはやめにしようと思った。黙って首を横に振ると、口を引き結んで必要最低限のこと以外は決してもう何も喋るまいと固く心に決める。
「そうだね、君をまず素っ裸にしてそこの椅子へ縛りつけることにしようか」
 男はベッドの脇にある白い塗料の剥げかかった古い木製の椅子を指で指し示す。
「そしてよく見えるように足を大きく広げた格好にして手も足もきつく縛り上げるんだ。それから目隠しをして……そんな恥かしい格好の君の目の前でよく焼けたいい匂いのする上等なステーキを食べる。君がごくりと生唾を飲み込んで椅子の上によだれを垂らすのをじっくりと観賞しながらね。そして食後には血のような赤いワインを飲んで、懇願する君にそれを口移しで飲ませるんだ。僕かやりたいのはそういうことだよ」
 言語に絶するというのはこういうことを言うに違いない。あたしはほんの一瞬、男の言うなりになるしかない自分を想像して背筋が寒くなった。
「……変態。絶対に絶対にそんなことなんかさせないわ。もしあたしに指一本でも触ったら舌を噛み切って死んでやるからっ」
 本気だった。男が何か少しでも屈辱的な行為を課したら必ず何かの形で死を選択してやると思った。
「それは困るな。君には長持ちしてほしいと僕は心から願っているからね。悪いけど念のためにまた口を封じさせてもらうよ。これから僕は仕事をしなくてはいけないから」
 身をよじるというような抵抗も虚しく、男は枕元にあったガムテープを手にとると有無を言わさずにそれをあたしの唇の上に張りつけた。そしてその上からキスをひとつすると監禁部屋から出ていった。



第2章

 ……カチ、コチ、カチ、コチ……。
 男が先程指差した、古ぼけた椅子の上に耳障りな音を立てる小さな時計が置いてあった。

 きのうの夜に目覚めた時には聴かれなかった音だから、男が朝になって持ってきたものなのだろう。今その時を刻む針は十時を過ぎたところを指している。
 足や腰や腕や肩など、身体の節々が悲鳴を上げているとまでは言わないまでも、戒めを解かれて伸びをしたいとしきりに不平不満を訴えてくる。しかもきのうとは違って口唇に張られた真新しいガムテープの匂いが嫌に鼻につき、胃のあたりがむかむかと吐き気に近い感覚を重ねて訴えてもいた。水が飲みたい、と思った。喉を潤して新鮮な空気を肺いっぱいに取りこみたいとも。空気が実はこんなに有難いものだったなんて、実感として知るのは生まれて初めてだったかもしれない。
 何をどうしてでも必ず機会を見つけて逃げだしてやる、そうあたしは心に固く誓いを立てていた。囚われの身を嘆いて諦めるのはまだ早かったし、枯れゆく花のように打ち萎れるのもまだまだ早い。逃げて捕まった時にどうなるかなんて、行動を起こす勇気を挫くようなことは微塵も計画のうちに入れないことにする。
 今あたしの身の上に降りかかっていることはあたしの人生に起こってはならない、起こる予定のなかったアクシデントで、あたしは一刻も早く軌道修正を済ませていつもの普通な平凡極まりない日常へ戻らなくてはならないと焦っていた。もし命あってここから出ていけるのなら毎日が退屈の連続の平坦な日々の繰り返しでも、劇的な素晴らしい何かが空から降ってきてほしいだなんて願ったりすまいと、窓の外に広がる雲の上の青さにかけて思う。
 あたしの閉じ込められている部屋はかなり老朽化が進んでいて、床も壁もその年輪を余すところなく刻んでいるように見えた。床板はフローリングなんていう上品な響きのものでなく、あちこちがたわんで艶もほとんどなかった。白い壁は薄汚れて汚く、よくこんなひどい部屋で一晩も眠りにつけていたものだと自分自身に驚きの念さえ抱いてしまう。その上部屋にあるものといえばあたしが今横になっている埃っぽい匂いのするダブルベッドと、それから出来損ないみたいなぼろい椅子と癪に障る小うるさい時計、がらあきの物寂しい備えつけのクローゼット、あとは外の世界に通じるひとつのドアとふたつの窓……たったそれだけだった。
 窓から見える紺青の屋根と空の青さの高さからこの部屋が二階であることがわかる。しかも時折強い風がびょおびょおとその窓から吹き荒んできては、部屋中の埃という埃を巻き上げていて換気は最悪だった。あたしはベッドから転げ落ちて窓のところまで身体をずっていき、窒息死する前に投身自殺してやろうかと思いつめたくなったほどだった。そしてもしあの男が自分に何かしたら必ずそうしてやるつもりでもいた。さらにその上、窓はぎぃぎぃ、床はみしみし不気味に鳴るし、がらあきのクローゼットにかかっているハンガーは落っこちてくるわで、逃亡のための計画がその度に散らされてなかなかうまくまとまらない。

 あたしは怒りのままに運命への不平を並べ立てるよりも、入念かつ綿密な脱走計画を企てて、時間を一滴も無駄にせず、有効に用いて敵を出し抜こうという算段をしていた。時々腹筋を使って寝返りを打ってはあの男をどうにかできないだろうかと思案に耽る。そしてこれという打開策もないままに不安ばかりが募っていき、焦りとおののきで身体が汗ばんでくると、いよいよあたしはこれからの自分の身の上が心配でたまらなくなった。
 一番の心配は食事と排泄と入浴のことで、食事はまだいいとしても今すぐにでもトイレに行きたくなったらどうしたらいいというのだろう。食事の時やお手洗いの時には手首の戒めを解いてくれるだろうか?――あいつがもしこのままで、口許にスプーンを持ってくるような真似をしたら絶対に受けつけたりなんかすまいと思った――それからトイレの時はその外で待っているといった具合なのだろうか?――もし生理になったらそんなことまで報告しなくてはならないのだろうか――あたしはそんな人間の尊厳に関わる問題をひとつひとつ検討していくにつれ、目に見えない鋼鉄の鎖とその先の五トンばかりの重りが心にのしかかってくるのを感じた。そして憂欝の沼へとなす術もなくずぶずぶと沈みこんでいってしまう……食事の時もお手洗いの時も入浴の時ですら常に監視され、囚人の如く扱われることを想像しただけで気力がみるみる萎えてきて衰弱死したくなってくる。あたしはこのままベッドの上で石のように硬くなり、粉々になったほうがまだましではないかと絶望と諦めに何もかもを引き渡したくなるほど弱気になってきていた。
 しかも食事の必要のことを考えた途端にお腹が鳴り、トイレのことを想像しただけで尿意が下腹部のあたりを圧迫してくるしで、あたしは本当に舌を噛んで死ぬことにしようかと思いつめたくなった。そしてちょうどその時に白くて細いコードが枕の下から流れていることに気づいたのだった。
 陽に焼けて茶ばんだ染みのある枕を頭でどけると、小型のスピーカーホンにボタンのついたものを発見する。あたしは顎でそれを押し、ビーッとブザーのような音を繰り返し三度ほど鳴らしてやった。暫くすると床のみしみしいう音が近づいてきて、色褪せたチョコレート色のドアが開き、背の高い男が首を軽くもたげて入ってくる。
 彼は今朝方と同じ白い洗いざらしのワイシャツにところどころ網目の垣間見えるジーンズ、それから頭には何故か麦藁帽子を被っていた。肩にかかっているタオルで額の汗を拭いながら帽子を脱ぐと、ベッドの端に腰掛けてくる。もし口唇がガムテープで覆われていなかったとしたら、あたしは自分の立場も忘れて笑いだしていたかもしれない。実際、自分の唇が自由になるのと同時、こらえきれずに吹きだしてしまったのだけれど。
「そんなにおかしいかな」
 あたしがベッドの上でひとしきり身をゆすって大笑いしていると、彼は麦藁帽子をとりながら気分を害した様子もなく、優しく微笑していた。
 本当に奇妙なことなのだけれど、あたしはこの隣に座っている誘拐魔に束の間だけ親近感を覚えた。彼の繊細な笑みを浮かべる横顔とその口許とに吸い寄せられるように目を奪われてしまったほど。
「……ごめんなさい。決して変な意味で笑ったりしたんじゃないのよ。ただあんまり……その、似合いすぎてるんだもの。あなたのその格好が」
「ああ、これね。ちょっと庭いじりをしてたんだ。実り多い秋がすぐそこまで忍び寄ってきているから手入れを怠れなくてね」
 彼は細い肩からタオルを外すと、額の汗を拭いながら言った。
「今ちょうど君に御飯を持ってこようと思ってたところなんだ。もう十二時だっていうのに遅くなって悪いことをしたよ。僕はあんまり朝早く起きるんで、君の朝御飯のことをすっかり忘れてしまっていたんだ。お腹すいたろ?」
 あたしは彼には答えずに、じっとその端正な横顔を不自然なくらい見つめてしまっていた。
「?……どうした?」
 彼はあたしのほうを振り向いて、不思議そうに首を傾げている。
「あなたってすごく感じのいい喋り方をするんだなあってちょっと感心してたの。歌の特別上手な人の中に、普通に喋ってても歌を歌ってるみたいな、そんな感じの人がいるでしょう?本当にちょうどそんな感じだなあって思って」
 彼は照れたのかどうなのか、立ち上がって窓際までいくとその開け放たれた窓を無造作に閉め、口を噤んだまま部屋を出ていった。

 あたしには彼がとても根っからの悪人のようには見えなかったし、ひどく人を傷つけることを恐れるタイプの人間のようにも思えていた。多分あたしをさらったのも魔が差してのことで、説得のしようによっては、あるいは情に訴えるか何かすれば、あたしを黙ってここから出してくれるのではないかという、そんな気がしていた。
 あたしを監禁している男は再び戻ってくると、お盆にのせた昼食をベッドの上に置いた。そしてあたしの手と足の束縛を解いてくれたのだった。
 白い御飯と豆腐のお味噌汁、それからスクランブルエッグにじゃがいものバター炒め、海草のサラダ……メニューはその五品だった。

「これ、あなたが全部作ったの?」
 彼は頷くと、椅子の上の時計をどけて背もたれを前にしてから、両腕をそこにのせるような格好で座っている。
「僕は菜食主義者だから冷蔵庫に肉類が入ってなくてね。次に街へでかける時まではそんなので我慢してほしいんだ。二三日中には外へ出る用事があるから……どうかした?」
 あたしは一旦箸を手にしたものの、御飯を食べようかどうしようかしばし迷ってしまった。もちろんお腹はピークに達するくらい空いていたのだけれど。
「べつに変な物は何も入ってないよ。なんなら毒味しようか?君が僕みたいな者の作った料理は食べたくないっていうんなら話はまた別だけど」
「違うのよ。それよりも……お手洗いにいきたいの」
 あたしがもじもじするように下を向いていると、彼は椅子から立ち上がって後についてくるようにと言った。
 あたしはなんとなくおそるおそる部屋の外の廊下に出、そのあまりに違いすぎる室内の内装に驚いてしまった。吹き抜けになっているから廊下の手摺ごしに階下の部屋が見下ろせるのだけれど、床は一点の曇りもなくワックスによって綺麗に磨き上げられているようだったし、どの壁にもミルクホワイトの壁紙が張られ、ただの白色とは微妙に違う落ち着きを見る者に与えている。オパールのような輝きを放つ豪奢なシャンデリアに大理石の暖炉、階段の親柱のそばにあるアンティークな振り子時計、それから『レカミエ夫人の肖像』のレカミエ夫人が座っていたような革張りのソファー……その他、サイドボードの上やキャビネットの中にある調度品など、随分高価で値打ちのある物ばかりが並んでいるように、あたしの目には映っていた。
「トイレはこっちだよ」
 監禁部屋から扉をふたつほどいった先にあるドアを彼はノックしていた。
 あたしはどこか名残惜しい目つきで下の部屋をもう一度眺めてから、黙ってトイレに入ると用を足すことにする。便座に腰かけると薔薇の芳香が微かに鼻孔を掠めて、あたしは広いトイレ内の清潔さと綺麗さにも驚いていた。鏡の前の手洗い場には小さな花瓶にリンドウの花が生けてあり、トイレのタンクの上にはネクタイを締めたペンギンとリボンをつけたペンギンが向かいあっていて……とても男の一人住まいとは思えないトイレだった。
(もしかしたら潔癖症なのかもしれないわよね。そういう人ってどこか変わってるってよく言うし……)
 あたしはそんなことを思いながらパンツを上げ、それから少しおかしくなった。男はあたしに喋り方を褒められたあと、わざと暗い調子で話していて、そのことを思いだすとなんだか笑いがこみ上げてきてしまう。
 声を洩らさないように噛み殺し笑いをしながら手を洗おうとすると、鏡にはひどくぼんやりとした変な顔の女が映っていた。考えてみたらメイクも何も落とさず寝入ってしまっていたわけで、油浮きはしてるわ、長い髪はぼさぼさだわで家族と極一部の親しい友人以外には間違っても見せられないひどい容貌をしていた。

 あたしは手櫛で髪を整えてトイレットペーパーで顔全体の肌を押さえると、急いでトイレを出た――大きいほうだとはあまり思われたくなかったから。
 男はトイレのすぐ目の前で待ち構えているような真似はしていなかったので、とりあえず廊下にはいなかった。そしてその瞬間――逃げろ!と心の中で誰かが叫ぶように命じた。あたしは本能に逆らえずに、とっさに走りだしていた。今しかないという強い思いが一瞬にして胸を鷲掴みにしてしまっていた。
 それにもし捕まってもあの男なら、抵抗すればどうにかなるような気がした。一気に階段を駆け降りると、心臓が躍り上がるように脈打っていて、あたしはとにかく最初に目についたドアを開けた。出口である玄関はおそらくこちらであろうという直感がそのドアを開けさせたのだけれど、その部屋は行き止まりで窓さえなかった。そして戻ろうとして振り返るといつの間にか彼がいた。
「あ……」
 まったく勘が外れてしまっていた。十二畳ほどの部屋の中は小さな画廊のようになっていて、白いグランドピアノがある他は、何枚かの絵画が壁に飾られているだけだった。
「さして広くもないこんな家の中で迷えるだなんて、君は天才的な方向感覚の持ち主だね。この家はもともと買い手もつかないくらいひどかったのを僕がここまで改装したんだ。だから見た目はそれなりにどうにかなったけど、人が走ったりなんだりすると家中が筒抜けになってるみたいによく響くんだよ。ほんのちょっと目を離しただけなのに君がこんな無謀なことをするなんて――そんなに僕から逃げたかったの?」
 彼は唯一の出入り口を塞ぐように立ちながら、そんな愚問を投げかけた。
「逃げたいに決まってるじゃない。当たり前よ。愚にもつかないようなこと聞かないで。大体なんであたしがこんなところに閉じこめられなくちゃいけないのよ。全部間違ってるわよ、こんなの……」
 あたしはどうしてか急に喉が詰まってきて、涙がこみ上げるのを止められなくなってしまった。こんな女を閉じこめるしか能のない最低野郎に泣いてるところなんか見られたくもないのに。
「ねえ、どうしたらここから出してくれるの?あたしをどうしたいの?もし雄二に面当てしてやりたいとかそういうことなら、いくらでも協力してあげるわ。ちょうど別れようと思ってたところなのは本当なのよ。だから……」
 彼はあたしの口車になんか乗るものかというように座りこんで泣きじゃくるあたしの腕を乱暴に掴むと、無理矢理立たせようとした。あたしは必死に抵抗して彼の胸のあたりを何度も叩いたけれど、彼は子供の我が儘に飽きたかのように振り上げたあたしの両手首を掴むと、即座に後ろへ捻り上げていた。声を発する間さえ与えられなかった。
「ごめんね。僕もこういうひどいことをするのは苦手なんだけど、君が僕から二度と逃げないために必要なことだから……」
 腕をへし折られるかと思うくらい強い痛みが左肘の関節を襲った。息をするのも忘れてしまうくらいの激しい痛みだった。彼はあたしの肘の関節を脱臼させてからもう一度それを元通りに戻したのだけれど、あたしは二度と腕が動かせなくなるのではないかというくらいの恐怖と苦痛を味わっていた。
 それからあたしは途端に大人しくなり、無実の罪で連行される罪人のように深く頭を垂れて階段を上った。もしかしたらこれから断頭台に上っていく死を求刑された人のように、青ざめた顔をしていたかもしれない。
「自慢じゃないけど僕、これでも空手と剣道の有段者なんだ。大抵の人は僕が背ばっかり高くて弱々しい脆弱野郎みたいに思うようだけど、おかげで僕は喧嘩をして誰かに負けたということがない。みんな油断して見くびるからだろうね、最後には君のようになってとても聞き分けがよくなるんだ」
 死刑執行人はあたしの手を引きながら、淡々とした抑揚のない、感情の暖かみを失くしたような声でそんなことを言った。
「じゃあ、御飯でも食べて元気をつけて、また逃げる力を蓄えたほうがいいよ。こう言ってはなんだけど、これでも僕は君になるべく誠意を尽したいと思ってる。例えば君の服を脱がせて人に見せられないようないやらしい写真を撮ったりだとか、そんなことはできればしたくないんだ」
「何が誠意よ、馬鹿っ!このド変態野郎の唐変木っ!!あんたなんか死んじゃえっ!」
 あたしが渾身の力を込めて投げた枕を彼は難なく受けとめると、ベッドの上に軽く返して寄こした。
「次に何かあったら罰としてそれを行うつもりだからね。覚悟しておいたほうが懸命だと思うよ――いいね?」
 男はあたしの返答を待たずにドアを閉め、それからわざと重々しい音を立てるように鍵をかけていた。


第3章

 あたしは不本意ながらもかなりの時間が経過したあと、手に御飯茶碗をとってしぶしぶながら卑劣野郎の作った料理を口許に運んでいた。もう一度逃げるチャンスを窺うには体力が第一に必要だと、自分に一生懸命言い聞かせながら。だけど心のない者の作った食事にしては、それらは質素ながらとても美味しく、いくらまずいと思おうとしても気持ちは舌と胃の正直さには逆らえなかった。
 あたしはすっかり冷めてしまった盆の上のものをすべて平らげ、飢えた食欲を満たすと、つい先ほどまで支配されていた無気力さや倦怠感を追いやることができた。
 エネルギーを摂取したことによってあたしの瞳は光る空気を見つめるようになり、微かながら勇気と希望が肌の下に宿るようになってきていた。
 手足は今、自由に動かして使うことができている。その気になれば何かができるのではないかと思考が網を張ろうとすると、木枠に囲まれた透明な窓ガラスと目があった。外の世界では鳶が二羽、自由を競いあうかのように大空で何度も旋回を繰り返している。
 あたしは迷うことなく、窓をなるべく音を立てぬように用心深くそっと開け、束の間の自由を強い風の中に感じていた。そして勇気をもって屋根の上へと足の裏をのせると、パンストごしに冷たい感触が感覚の筋を上ってくる。あたしは薄汚い、ところどころがひび割れた壁にへばりつくようにして四方を見渡した――ざあっと漣のように風の音が揺れ、あたしはこの傾きかけた家のまわりが一面葦の海原になっていることを知った。見渡すかぎりの緑の海と、ところどころに点在する雑木林――周囲には見事なまでに家一軒建っていない。一体ここはどこなのだろう?札幌の郊外か、それとももっとずっと遠いところなのだろうか?石狩、当別、江別、北広島、恵庭……あたしは地図を頭の中に思い描きながら、手足に力を集中させて横へ横へと少しずつ移動していき、隣の窓枠の出っ張りに手をかける。その時、海の青さの輝きが遠くから目に飛び込んできて、あたしは呆然と立ち尽くしたようになってしまう。一瞬、葉擦れの音が本物の海の音色のように聞こえ、魂が沸き上がるように鼓舞するのを感じる。でも今は自然の音楽に聞き入っていていい時ではないし、あたしは現実を直視するために下方へちらりと目をやった。庭に植えられている松の樹や楓やナナカマド、ハンノキやナラの樹などが見える。それから大きなガラス張りの温室が光を反射して一瞬眩しい。あたしは我をとり戻すとさらにその次の窓へと足を伸ばし、開け放たれた窓から白いレースのカーテンが揺れるのを見た。あの男がいるかもしれないと思った。
 あたしの手足は自分の意志に逆らうように好奇心の赴くがまま、勝手に動いていた。正体不明の男が一体今何をしているのか垣間見てやろうとして、そっとカーテンの隙間から一瞬だけ中を覗きこむ。そして敵情視察を終えると、すぐにぱっと身を翻す。数秒にして得た情報は、敵が机の上に頭を抱えこみ、ひどく思い悩んでいる様子というもので、彼は随分暗く沈みこんでいるように見受けられた。といってもあくまでほんの一瞬の間そう見えただけなので、本当のところはどうなのか、確かめるためにもう一度薄い更紗のカーテンと窓枠の間から室内の様子を探ることにする。

 すると、くしゃりと紙を丸める音がして、それからドアの閉まる音が続いた――まずい、と思った。看守は囚人が大人しくしているかどうかを視察するために部屋を出たに違いない。あたしはまるで鳶職人のように身軽な動作で壁をはっていき、おそらくは来た時の二分の一くらいのタイムで元の捕囚部屋へと舞い戻ったに違いなかった。
 これはあたしがあとで元の自由な身になってから、彼のひとつひとつの細かい動作に至るまでを何度も思いだすようになる過程で気づいたことなのだけれど、おそらく彼はこの時、ひどく後悔していたに違いなかった。あたしをさらって自分の領域に引き摺りこんでしまったこと、それから先程ふるってしまった暴力について、深く悔恨していたに違いない。
 最もこの時のあたしの脳裏をよぎったものといえば、まったく別の考えで、あたしはごみ箱に入り損なった原稿用紙のことを頭の隅で気にかけていた。そして監視員の点呼にぎりぎり間にあったあたしは、荒い呼吸と弾む心臓の鼓動の両者を急いで整え、ベッドの上でさりげなさと自然さを無理に装おうと懸命だった。
 彼は囚人に対して礼儀正しくもノックなんぞをしてからドアを開けて入室してきた。
 あたしはわざと彼に背を向けるようにしてベッドの端に座り、胸によぎる疑問を口に上らせるべきかどうかを真剣に思い迷っていた。
「……良かった。全部食べてくれたんだね。君の口にあうかどうか心配だったんだけど」
 彼はわざわざ嫌味たらしくあたしの正面や隣に座るということはせず、あたしとは反対側のベッドの縁に腰かけていた。
 もちろんこの時のあたしには考え及びもしないことだったけど、彼はさっきのひどい仕打ちをあたしがまだ怒っているに違いないと恐れていたのだと思う。
「あなた、一体何者なの?どうしてここにいるのがあたしじゃなくちゃいけなかったの?あたし、雄二の友達にならさんざん紹介されたし、よくよく考えてみたら……消去法でいくとあとはもうひとりしか残っていないのよ。とても残念なことに」
 ぎしり、というベッドの軋む音加減で彼があたしの後ろ姿を振り返るのが、見なくてもよくわかる。
「御飯食べながらそんなことを考えてたの?君はなかなか賢い人だね。ブザーの置いてある場所も僕が教えなくても見つけだしたし……まあこれは意地悪したっていうんじゃなくて単に僕が言い忘れてただけだけど」
「馬鹿にしないでちゃんと答えて。あなた、佐京宗一郎さんでしょ?もしあなたがこんな最低野郎だってわかってたら、あたし、あなたに手紙なんて絶対書かなかったのに。ファンの期待を裏切るだなんて作家として本当に最低よ。もうがっかりだわ、幻滅よ――あなたがこんな……」
 考えつく限りの、一番ひどい罵りの言葉を投げつけてやりたかった。
「イカレた猥拙好きの誘拐犯だなんて?」
「それよりももっと質が悪いわ。どうしようもなくサイテーのサイテーの大嘘つき野郎よっ!」
 あたしは侮蔑の言葉を強調するように、枕でベッドの上を叩きに叩いて痛めつけてやった。埃が煙のようにもうもうと透ける光の中に立ち上る。
「ひどいな。それじゃあ君は僕がどんな人間なら良かったの?僕の小説に出てくる『僕』のような男を期待してた?」
「もちろん実物が小説の主人公そのままの人だなんて思ってなんかいなかったけど、でも少なくとも一部分は重なるところのある人なんだろうなっていうか……小説はともかくとしても、エッセイとかって人柄の滲みでるものでしょ?あたし、あなたの小さなエッセイ記事を読むためだけに大して読みどころのない雑誌を毎月発売日に買いに走ったりしたのよ?文芸誌に小説が連載される時は連載が終わるまで必ず買ったわ。書き下ろしの新刊がでる時には本屋さんに予約して――学校や会社の退けるのが待ち遠しくて仕方なくて、一度わざわざ早退までしたことがあったくらいなのに。あたし、本を読んでる間は恋でもしてるみたいに熱心なあなたのファンだったのよ。雄二に大学時代の写真を見せてもらった時なんて嬉しくて仕様がなかったくらいだもの。それなのにどうして……」
 つい先程、隣の隣の部屋を覗いた時、原稿用紙らしき紙屑を見てすぐにピンときてしまった。それならすべての辻褄は合うのではないか、と。
「あの頃と今じゃあ大分変わったからわからなかっただろ?僕はこれでも一応覆面作家だから写真が本や雑誌に載ることもそう滅多にないし――まあ君みたいな人がいてくれるのは光栄なことだとは思うけどね。確か手紙にも君が今言ったようなことが書いてあって少しばかり感動したのを覚えてるよ。僕が小説家としてデビューした十九歳の頃からのファンで、あなたの書く小説には一度もがっかりさせられたことがありません……だったかな。それで僕が異世界と現実世界の狭間で殺してしまった主人公がもし現代に無事戻ってきたとしたらどうなってたか、わざわざ百枚もの大作を送ってくれて、色々と分析的なことも書いてくれてたよね。あんまり情熱的な手紙だったから、僕にしては珍しく返事を書こうかなって思ったくらいだったよ」
 あたしは一気に体温が上昇して爆発しそうなくらい恥じ入っていた。後ろを振り返ってボンクラ作家と目を合わそうだなんて死んでも思わない。
「でも君は来なかったんだよな。雄二が僕に引き合わせてくれるって言った時、どうしてすっぽかしたりしたの?まあ僕も心のどこかではほっとしたりもしてたんだけどね」
「あの時は……本当はものすごく会ってみたくてどうしようもなかったんだけど、いざとなったら急に恥かしくなって死にそうになったんだもの。それってその熱烈なファンレターのせいよ。ほとんど愛の大告白以上にすごいこといっぱい書いちゃったんだもの。それにあなたは……佐京さんはその前に一度、約束をすっぽかしてるでしょう?ホテルのレストランで待ってた時のあたしの気持ちなんて絶対わかってもらえっこないわ。指も足も震えて、入口から人が入ってくるたんびにびくっとして……締切り前で急に駄目になった時にはもうあたし、ほとんど化石みたいになってたんだから。本当なのよ、これ。とてもじゃないけどまた同じプレッシャーに耐える自信はあたしにはなかったのよ。でもどうしてなの?何もわざわざこんなことまでしなくても良かったじゃない。あたし、あなたが会いたがってるって知ったら、尻尾を振ってのこのことどこへでも尾いていったと思うわよ?それで薄情にも雄二のことなんか綺麗さっぱり忘れちゃって、あなたのいいようにされてたかもしれないじゃない」
 佐京宗一郎氏は音を立ててベッドから腰を上げると、あたしの真正面にある椅子に今朝と同じ格好で座りこんだ。
「話すと長いけど、きのうの君をさらった夜ね、僕、雄二とススキノで飲んでたんだよ。それで偶然帰り道で君を見つけて――暗かったし、実際には写真でしか見たことのない人だったのに、いやにはっきりと君であることがわかったんだ。それでも本当に本人かどうか少し不安でね、手紙に書いてあった住所と同じ方向に歩いていくかどうか、後を尾けて確かめたっていうわけだよ。もしかしたらその前に雄二からさんざん君の話を聞かされたばかりだったから、これは運命だとか勘違いしたのかもしれないな。多少酔ってもいたからね……君、失業中だから毎日雄二に食事を作ってあげてるんだって?それで雄二がどんなに遅くなっても真っ暗な中でソファに横たわりながら待ってるっていう話を聞いたんだよ。まあ雄二はね、そんな君を見ててっきり襲われるのを待ってるもんだと勘違いしたみたいだけど。抱こうとしたら思いっきり拒まれたって言ってたよ。それから前にぎりぎり寸前までいきかかったのに、直前になって君がやっぱり駄目だって言ったっていうようなこともね。河野と渡部も一緒だったんだけど、今度奴らに会った時、変な目で見られたら裸にされてると思っといたほうがいいかもしれないな。あいつは酔っ払うと聞かれたこと以上に色々なことを喋り倒すからね――まあそういうわけで僕は君に興味を持ったというわけだよ。何もいやらしい意味じゃなくて、真っ暗な闇の中で待っていてくれるような恋人が僕は欲しかったんだ。君をさらった理由はそれだけだよ」
 あたしは精神的に丸裸にされてしまったような気がして、目の前にいる余裕顔の男を直視することができなくなってしまった。二十三年間生きてきた中でこんな屈辱は初めてだったかもしれない。
「明日、食糧や何かを買いだしにいくけど、欲しいものがあるなら考えておいてもらえるかな。君から自由を奪った以上、出来る限り不自由な思いはさせたくないからね。食べたいものとか、必要な日用品なんかがあったらあとで教えてくれ」
 本物のベストセラー作家は椅子から立ち上がると、原稿の続きを書くためなのかどうなのか、監禁部屋から出ていこうとしている。
「何も――何もいらないわ。あなたがくれようとするものなんてもう何ひとつ欲しくなんかないもの」
 あたしの憧れの的だった佐京宗一郎はお盆を手にとると、何も言わずにドアを閉め、それから鍵をかけた。階段をゆっくりと降りていく音が響いてくる。この部屋以外の家の内装はもしかしたらどこもとても見栄えを良くしてあるのかもしれなかったけど、家屋は相当に痛んでいて、壁を通して床の軋む音やトイレのあとの水が配水管を流れる音なんかがはっきりとよく通るように聞きとれる。
 あたしは呆然自失として、薄汚れた白い壁を眺めると、逃亡計画について念密な考えを巡らさなくてはならないと思いながらもショックから逃れることができなかった。
 彼の書く本はどれも皆素晴らしい言葉に溢れていて、一行の無駄もないくらいに完璧で、彼の描きだす主人公にあたしは恋していたといってもいいくらいだったのに。
「嘘よ、こんなの……」
 無意識のうちにも呟きを洩らしてしまい、あたしは自分の掠れ声に思わず失笑してしまった。
 どうしてこんなことになってしまったのか、今さら悔いても始まらない。だけどなんだかもう何もかもを忘却の果ての不毛の土地に埋め立てて、その上に墓碑を築きたい思いだった。
 ベッドの上に力なくうなだれると、自分の身体がしなびた老体のように感じられてくる。
 ――なんだか、疲れちゃった……。
 あたしはもう一度目覚めた時に、まだこの部屋にいるくらいなら、瞼がもう二度と上がることがないようにと祈りながら眠りの国の入口に立っていた。

 長く短い夢を見た。
 あたしは森の中を泳いでいて、風が真夏に感じる冷たい水のように優しく、体全体を包み込んでいた。薄い水色のヴェールが森の樹から樹へと波打ち、あたしに心地好い波動を送ってくれている。永遠にこうしていたい、とあたしは祈る時のように神聖な気持ちで、迷路のような森の中を彷徨っていた。
 あたしはとても大切な何かを探しているようなのだけれど、それを見出だせない悲しみが水の色の濃度をどんどん深めていく。やがて深海魚に似た暗黒の塊のような何かがあたりをうろつきはじめると、あたしは嫌だな、と思った。
 これ以上深くて暗いところへ降りていったら、圧縮された闇に体が押し潰されてしまうのではないかという恐怖があった。あたしは自分の薄い闇の世界から離れ、他者の支配する闇の世界へと移行しようとしているのかもしれない――それは危険な試みだった。
 不意に、日が陰った時のように寒くなったかと思うと、あたしはこのまま凍えて死んでしまうのではないかと不安になった。そばに誰かがいて欲しいと、切実に願い、心が焦る。
 実をいうと本当は最初から誰かに見られているという感覚がつきまとっていて、あたしはそれが何なのかつきとめようと、海の深みを誘われるように泳ぎ進んできたのだった。
 ――あなたは誰?
 喋ろうとしても泡がぶくぶくと上へ流れていくだけで、あたしは息苦しさから地上を目指して足を蹴り上げていた。そうだった、忘れていたけれど、言葉を発すると途端にこの世界では呼吸が苦しくなるのだった。
 もう二度とあたしは何も喋ったりなんかすまい、永遠に幸福でいるためには沈黙が必要だということを肝に命じて、もう一度だけ月の光を浴びに地上へ舞い戻ろうと思った。
 そして泳いで泳いで泳いで――あたしは目を覚ましたのだった。

 夢から目覚めると、暗闇がすべてを包み込むように支配していて、あたしは物悲しい喪失感に胸を痛めていた。とても大切な何かを失ってしまったような、それは一度失ってしまうと二度と取り返せないもののような気がして、切迫した思いが心と魂をつなぐ道を塞いでいる。もしも夢の中を泳いでそれを取り戻すことができていたなら、現実の世界の出来事もすべてうまくいっていたのではないかという確信に似た強い気持ちがあった。
 ベッドを軋らせて上体を起こすと、窓から青白い光が差し込んでいることに気づき、あたしは手を差し伸べるように窓敷居まで歩いていった。窓の外は満月だった。あたしは夢の続きを現実でも見ることが許されている者のように夢想に耽り、名前もわからない大切な何かはどこにあるのだろうと、見つけだせない苦しみに甘い疼きを覚えていた。
 あたしの意識を包み込む精神というものはまだ半分夢見心地で、月の愛撫に身を委ねながら恍惚としていた。窓の外は真の闇に覆われていて、月の偉大さを称えるように暗い樹木が葉擦れの音を揺らしては歌を歌っている。
 あたしはこう見えても普段はとても現実的な女で、人前においては夢見ることを知らぬ者のようにふるまってはいる。けれど、自然の与える官能の甘い疼きのようなものをあたしはこの世で誰より愛していた。もしかしたらそのせいで人を一生本気で愛することはできないかもしれないと恐れてしまうくらいに。
 そしてあたしが時を忘れて月の光の深さと闇の濃さに見惚れていると、こんこん、と木を叩く音がどこかでした。あたしはまどろみから呼び覚まされるのが嫌で何の応答も返さなかったけれど、おそらく佐京はあたしが眠っているものと思ったのだろう、床を軋ませながら次の部屋かそのまた次の部屋へ入っていって扉を閉めていた。
 あの男にはもう二度と口を開いてやるまいと、固く心に誓いを立てる。あの男が佐京宗一郎本人であることがわかって何がショックだったか、今ならはっきりと思考の整理をすることができる。
 あの男の内面世界が反映されているであろう小説には、あたしが自然や暗闇に対して感じる親密さや官能の疼きといったようなものが色濃く描写されていて、あたしは自分の感覚と同じものを共有している作者に強い共感を覚えていたのだ。それだから尊敬している人間に裏切られたみたいな、そんな恨みがましい思いと許せない思いとが募ってしまったのだろう。
 月が遥か彼方、海の方角へと隠れてしまうまであたしは葉擦れと風の音色を月の光の中に聞き、それからベッドの中へ身を横たえると瞑想の続きをするかのように瞳を閉じた。全然眠くはなかったけれど、男を呼びつけて暇潰しに話をしようだなどとは死んで固くなっても思いたくないことだった。
 真っ暗な闇の中で意識が現実の感覚を取り戻していくにつれ、明日、自分が一体何をすべきかが明瞭にわかってくるようになる。
 男が出掛けたら窓から逃げて、何としてでも下界へ降りゆく方法を見つけだすのだ。きっと正しい者が逃げおおせるための手段と道がどこかに備えられているはずだと、刃物を念入りに研磨する時のように研ぎ澄まされた思考の中であたしはあらゆる可能性に手を伸ばす。色々な策に手を染めてはそれを捨て、また手に取っては違うものと繋ぎ合わせたり、組み合わせたもの同士を解体したり……あたしはこれまでの人生においてそれほどひどい過ちを犯してはこなかったし、きっと神様のような人が守ってくれて逃れさせてくれるに違いないと祈らずにはいられなかった。神と呼ばれる至高の存在に心からの必要を感じて祈るのは本当に久方ぶりのことで、どうか助けてくださいとあたしは泣きたい気持ちで祈り、祈り疲れてから夜明けまでの短い眠りについた――夢は見なかった。

 


第4章

「じゃあ僕は蛇の餌を買うために出掛けるけど、君は本当に何もいらないんだね?」
 いらない、という意思表示のために黙って頷こうとして、あたしは胸に引っ掛かった疑問を口に上らせずにはいられなかった――唖のようにだんまりを決め込むという計画は明け方に尿意を催すと同時に打ち砕かれていたので、口を開くことにあまり抵抗はなかったのだけれど。でもやっぱり聞かないでおいたほうがよかったかもしれない。
「ヘビってあなた、あのにょろにょろしたヘビを家の中で飼ってるんじゃないでしょうね!?」
「にょろにょろしない蛇を家の中で飼ったってつまらないだろう?僕はアフリカ産のニシキヘビを五匹飼ってるんだけど、みんなメスでね、人間の女なんかよりもよっぽど優美で可愛げがあるよ――まあ君ほどじゃないけどね」
 背筋が総毛立つようにしてぞわりとすると、身体全体に鳥肌が伝染していく。
 この家のどこかにヘビが五匹もとぐろを巻いて、主人のくれる餌を待っているのかと想像しただけで気が遠くなってくる。
「まあ僕がいない間に逃げだそうだなんて曲かり間違っても考えないことだよ。もし逃げようとした痕跡が部屋のどこかに少しでも残ってたらニシキヘビ専用の部屋に君を移すつもりだからね、よく覚悟の上で検討することだよ」
 なんでもないことのように淡々とした口調でそんなことを言う男の薄ら笑いを見ていると、本気でやりかねないというよりはむしろそれを楽しみにしているというような嗜虐的なものさえ感じられてくる。嫌悪感によって体温が二三度下がってしまいそうなくらいに。
「……あなたの可愛いメスヘビたちに嫉妬されて噛み殺されたくないから大人しくじっとしてるわ。あなたが仮に事故にでもあって帰ってこなくても一生待ち続けるつもりだから心配なんてしなくても大丈夫よ」  
  科白の後半は皮肉のつもりだったけれど、男はどこか弱々しく微笑しただけだった。彼は愛しい蛇たちの餌を買いにいくために部屋を出ていこうとして、ドアノブに手をかけながら振り返るとこう言った。
「お土産を楽しみに待っててくれ」
 そしてそんな捨て科白みたいな言葉のあとに鍵のかかる音が続いたのだった。

 蛇男が外出し、車のエンジン音が遠ざかると、あたしは早速脱走計画を実行に移すために青い空を映しだす窓を全開にした。
 アフリカ産のニシキヘビがどんな蛇なのかは知らなかったけれど、野生の宝庫のアフリカ産、と聞いただけで体長が数メートルはあるであろうことが想像される。そんなニョロニョロが五匹も同じ屋根の下にいるとわかった以上、一秒たりともじっとしているわけにはいかなかった。
 外界へと通じることが唯一可能な窓から身を乗りだすと、きのうと同じ経路でまずは隣室の窓へと手足を用心深く伸ばすことにする。この部屋はきのうと同じくカーテンがぴったりと閉められていて、ある考えというか予想があたしの脳裏を横切っていく。おそらくこの薄暗い室内で雌蛇たちが赤い舌をのぞかせながら腹をすかせているのではないかという気がした――その光景にぞっとすると、そのまた隣の部屋へと手と足を急がせることにする。
 壁一枚だけを隔ててヘビと同居していただなんて、想像するだに悪寒の走る話だった。しかも『僕を愛してくれるのは君たちだけだよ』とかなんとかあの男が言いながら鼠やら兎やら猫やらの小動物の死骸を餌として与えているところがありありと思い浮かべられてしまい、首筋から全身にじんましんが走りそうになる――あたしが昔見たことのあるテレビのドキュメンタリー番組では、なんとかいうどでかい蛇が顎の骨を自在にはずして兎を丸飲みにしていたから。
「ああ気持ち悪い……あんな爬虫類愛好家の変態野郎とはこれ以上親睦を深めないに限るわ」
 きっと小説家というのは大変な大嘘つきで、本人の人格とはまったく別のところで作品が書かれる場合もあるのだろう。
 あたしはいまだにあの男が『メルヴィル家の人々』だとか『ディラン・デュカス』を書いた人間と同一人物だとは認め難かった。もし本当にそうだと言うのなら、あの野郎はとんでもないペテン師で、詐欺容疑か何かで警察に捕まり、重刑に処せられるべきという気がした。
 あたしの理想の作家である佐京宗一郎の像は、自動車工場でスクラップにされた車よりも惨め極まりない形にその姿を変え、ぺしゃんこにされていた。速やかにこんな異常作家の住むあばら屋からは離れ、一般に言われる『普通の人々』の雑踏に紛れて安堵したくてたまらなかった。こんな人里離れたような場所であんなサイコ野郎と生活を共にしていたら、しまいに頭がおかしくなってサイコカップル誕生なんていう三流のコントにも劣る結果が生まれかねない。
「やめてよ。絶対に嫌よ、それだけは……」
 自分の近い未来の姿を想像して背筋に悪寒が走る。あたしは身震いしながらも手足に出来うる限りの神経を集中させて横へ横へと蟹歩きをして壁を這っていく。
 一昨日、佐京宗一郎がいた部屋まで強い風にも負けずに辿り着くと――当然ながら、遮蔽物が何もないので強風がもろに直撃してくる――じっくりとその室内を覗かせてもらうことにする。
 どうやらここは変態作家の書斎のようで、資料のための本なのか何なのかは知らないけれど、壁一面に一ミリの隙間すら作ることなしにぎっしりと本が並べられている。アンティーク調の蓋付きライティングデスクの上には原稿用紙らしきものと万年筆が置いてあり、室内に他にあるものはといえば、食器棚のような五つの本棚と、ざっと見て五百冊はあるだろうかという整理整頓された本の群れ、スケジュールらしきものの書かれたカレンダー、締切日の日付と出版社名の入っている茶封筒――それから傘立てのような細長い灰色のゴミ箱がひとつあるきりだった。
(ひいふうみいよいつむうなな……あっ、あれ紫雀社からでる書き下ろしの新刊の締切日じゃないの。来月末に原稿が上がるっていうことは、出版されるのはいつなのかしら……もちろんあんな奴の書いたものなんて金輪際もう二度と買ってやったりなんかしないけど)
 あたしは窓枠の外から壁に張られている茶封筒の数を数え、佐京宗一郎先生がいかに多忙な作家であるかを改めて知った。はっきり言って女をひとり誘拐している暇があったら、日付の間隔のあまり空いていない原稿をなるべく早く上げたほうがいいに違いないことは間違いない。
(あの封筒の日付なんてずばり今日じゃないの。もしかしてそのせいだったのかしら……今日出掛けたのって)
 あたしはそんな余計なことまで考えてから自分には関係のないことと首を振り、さらに未知の領域である次なる部屋へと――といってもトイレだけれど――蟹歩きの歩を進ませることにする。そしてトイレの小窓から(人が出入りするのは不可能なくらいの小さな窓)さらに横の壁面へと角を曲がろうとした時、ポトリ、と何かが上から降ってきたのだった――何気なくその到着先の肩に目を落とすと、それはゴキブリの黒い羽根に赤い斑点模様を散らしたような気色の悪い虫で、あたしは一瞬の間のあとに我知らず叫び声を上げていた。
「きゃあああああっ!」
 さらにどこからわいてきたのか、もう一匹が手の甲に具合良く乗っかってくるともう駄目だった。
「きゃあああああっ!」
 あたしの右手は黄ばんだようなクリーム色の壁から手を離し、虫を振り払おうとするのと同時、体重が後ろにかかった。ふうわりと風の波に身体が乗った瞬間――落ちる!と思った。そしてなんとか手がかりを捉えようとバランスを崩しながらも必死に宙をもがいていると、あたしの両手はかろうじて雨どいに引っ掛かることを許されていた――のも束の間、下の状態を確かめることもなしに、足から地上へと落ちていく。雨どいは滑りやすかったのかどうなのか、気づいた時には手が離れていたとしか言いようがない。あたしは変態男の大切にしているであろう庭の中へと落っこちて、着地点にあった草花たちをめちゃくちゃに荒らしていた。
 そして一瞬気づかなかったけれど、左の足首に鈍い痛みがあって、身体を起こそうとした途端にそれは激痛へと変わった。どうしたらいいのか皆目見当もつかない。まわりは口の聞けないダリアやデイジーやマーガレットばかりで話にもならない。
 痛みを堪えてなんとか上体だけを起こし、このまませめて家の外の、佐京から逃げられうるところまで歯を食いしばってでも行けはしないだろうかと足を引き摺る覚悟で歩こうとするけど、立つことさえままならない――身体全体から熱が引いていき、左足だけに熱が集中するかのように熱く、脂汗が額から流れてきたのには真剣に驚いた。
 この際あの男でも仕様がない、帰ってきてはくれないだろうかと弱気になりそうになって、慌てて頭を振る。そして絶対にそれだけは駄目だと思った瞬間に、甘い花粉の匂いがあたりに立ちこめて、あたしの意識はひどく酔っ払った時のようにぐるぐると旋回の波に揉まれ始めていた――不思議とそれはとても心地好い気の回り方で、足の痛みも吸いこまれるように一緒に巻きこまれていった。
 このままどうなってしまってもいい――あたしは石楠花の樹木の根元に倒れ、ポンポンダリアやコスモスやポピーの花を見上げながら意識を手放していた。

 それから痛みによって再び意識が呼び覚まされるまで、かなりの長い時間、あたしは気を失っていたのらしかった。
 頬に軽い刺激を感じて瞼をゆっくりと開けると、目の前に細面の男がいて、あたしの上体を支えるように柔らかい土の上から持ち上げていた。
「屋根から落ちたのか?まったく無茶なことを……偶然ちょうど具合のいいところに落ちたから良かったようなものの、間違って変なところに着地してたら大変なことになってたよ。半身不髄にでもなって僕に一生面倒を見られたいとでも思ってたっていうんなら話は別だけどね」
 笑えない冗談を言っているわりに佐京の顔は蒼白で、血の通っていない瀬戸物の白い人形のようですらあった。
 彼は壊れた雨どいにちらりと視線を送ったあと、立てるかどうかを尋ね、痛みによってあたしが彼にしがみついてしまうと、腕に力をこめてあたしの身体を抱き上げた。あたしは先程よりも足の痛みがひどくなってきていたせいで、口も聞けないような状態だったけれど、この男の細い肢体のどこにこれだけの力があるのか、驚かずにはいられなかった。
 記憶を遡らせて考えてみると、あたしをさらった夜にこの男はひとりで階段を上ってあたしを運んだわけで、足が絶え間なく痛みを訴えてきているのにも関わらず、胸に安堵感のある自分にあたしは戸惑っていた。
 佐京は一度としてよろけることなく、庭に面しているテラスから家の中へと入り、二階の元の軟禁場所まであたしを抱えていった。
「大丈夫か?」
 ベッドの上にゆっくりと降ろされるまでの間、あたしは佐京の首にしっかりと両腕を回していて、それを解いてしまうと何か物足りないような、寂しいような気がした――両手でぎゅっと掴める、確かな手応えのようなものが欲しくて仕様がなかった。そうしていないと不安が胸にこみ上げてきて、どうしてなのか切なかった。
「ちっとも大丈夫なんかじゃないわ。ゴキブリみたいな虫にはいじめられて屋根から落っこちる羽目になるわ、必死になって掴んだ雨どいには見放されるわ、足は挫いてずきずき痛みだすわで、人生最低の厄日よ。第一、北海道にゴキブリは生息していないんじゃなかったの?あなた知ってる?ゴキブリみたいな黒い羽根に赤い点々を散らした模様の気味の悪い虫……」
 あたしは思いだしただけでぞわりと背筋が寒くなり、両手で自分の両肩を抱いていた。
「ああ、あの虫はよくこの家に出没するんだよ。ゴキブリの一種かどうかはわからないけど……でも北海道にもゴキブリはいるところにはいるらしいよ。札幌の地下街とか万年暖かいところには生息できる条件が整ってるっていう噂だしね。実際にお目にかかったことはないけど」
 佐京は淡々とした抑揚のない声でそんな話をしながら、あたしの左足に触れ、足の腫れ具合を調べている様子だった。
「骨には異常ないと思うよ、多分ね。僕は医者じゃないけど、そのくらいのことはわかるから……湿布を貼って休んでいれば一週間か二週間くらいで治るんじゃないかな」
「いい加減なこと言わないで。本当に本気ですごく痛いのよ。あたし、高校生の時に飛箱八段飛び損ねて捻挫したことがあるけど、こんなにひどくなかったもの。早く病院に連れていって。大体あなたがこんなところにあたしを閉じこめようとするからいけないんじゃない。全部あなたのせいよ。責任とって欲しいわ」
 足の痛みは歯痛の時のようにあたしの全神経を逆撫でして苛立たせていた。それでついきつい口調になってしまったけれど、元はといえばすべてこの男が元凶なのだ。それに病院へ行くことさえできれば、あたしはこの囚監所から解放されることができるのだから、相手の良心に訴えかけることも大切だった。もっとも、佐京はこのくらいのことで簡単に頷くような、単純で甘い男ではなかったけれど。
「それだけはどうしても許可することができないな、申し訳ないけれど。そのかわり僕が全責任を持って看病するから仕様がないと思ってそれで我慢してほしい。今、湿布薬と包帯を持ってくるからちょっと待っててくれ」
「嫌よ、そんなの。どうしてあたしがあなたなんかのために我慢しなくちゃならないの?絶対冗談じゃないわ。もしもこのまま一生足を引き摺るようなことになったら永遠に恨んでやるからっ!」
 佐京はベッドの下に跪いたままの格好であたしの顔を見上げると、不意に伝線した透明のストッキングを引き裂いていた。それから左足の甲の青紫に腫れた部分に長く口接けると、鍵もかけずに部屋を出ていった。一瞬、何をされるかと身構えたけど、佐京は意味のないキスをひとつしただけだった。
 彼は階下から戻ってくると、まるで生意気な態度をとったあたしにおしおきでもするかのように、飛び上がりたくなるほど冷たい湿布を貼った。それから器用な手つきでゆっくりと包帯を巻いていく――あたしは彼があんまり丁寧に白い包帯を巻いてくれるので、病院に行く必要はないような錯覚を覚えてしまうくらいだったけど、心を鬼にして礼など言うものかと固く心の扉に閂を下ろしていた。
「……ねえ、ヘビの餌は買ってきたの?」
 それでも彼が包帯を巻き終わった時に、気まずいような感じがして、聞かないほうがいいことをあたしは思わず聞いてしまっていた。
「ああ。ミミズを百匹ほどね、養殖場から買いつけてるんだ。ミミズも特に餌のいいのをもらってるから、丸々と太ってて蛇にはとても栄養満点だろうね」
 質問を誤ってしまったと即座に後悔したけど、どうやら佐京は不慮の事故に免じて蛇たちのお部屋にあたしを引っ張りこむような罰を与えるつもりはなさそうだった。そのことにだけ、とりあえずはほっと胸を撫でおろす。
「君の足が治るまでの間、僕は多少優しくなるかもしれないけど、それはあくまでも特別措置だからね。足の怪我が治ったら何をするかわからないから、勘違いせずに用心しておいたほうがいいよ」
 佐京は救急箱を手にとると、鎮静剤だという薬と水の入っているコップを置いて出ていき、そして部屋の鍵をいつもと同じ調子で重々しくゆっくりとかけていた。
 あたしは二粒の白い錠剤を怪しい目つきで眺め回してから、水だけを飲んで薬を寝台とマットレスの狭い隙間へと押しこんでおくことにした。




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