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「ヒーカーリー! たーすけてー!」
 初夏のキャンパスに、素っ頓狂な声が響き渡る。
 名を呼ばれた雛方ひながたひかりは、渋々といった様子で足を止めた。大きな溜め息一つ、ウェーブがかったミディアムヘアをばさりと揺らして、声の主を振り返る。
「助けて、ヒカリ! 壊しちゃった! サトル兄ちゃんのっ、姉ちゃんがっ、姉ちゃんでっ、おこっ、おこここ、怒られるー!」
 勢い良く駆け寄ってきたのは、ヒカリの友人の松山万里まりだった。さらさらのショートヘアを振り乱しながら、半べそをかいて、助けてくれと繰り返す。
 ヒカリはもう一度大きく息を吐き出してから、やれやれ、と両手を腰に当てた。
 細身ながらもメリハリのきいたスタイルのお陰で、見た目で性別を間違われる事は無いものの、ガーリーな万里の横に立つと、ボーイッシュなヒカリは、まるで女形か男役といった風情だ。
 剣道部の紅一点を三年間経験すれば、誰だって男らしくなる、というのがヒカリの持論だが、誰だって、の部分に異議を唱える者は少なくない。
「ちょっと落ち着け。誰が何をどうしたって?」
「だから、壊してしまったの! どうしよう、ヒカリ、直せる? 直せないよね? 同じの、どこかで売ってないか知らない? ああ、どうしよう、姉ちゃんに殴られるー!」
 パニックを起こして頭を抱える万里を、ヒカリは黙って見守り続けた。この万里という人間は、下手になだめたり慰めたりすると、余計に焦って更なるドツボに嵌まりゆく傾向があった。その事を、ヒカリは三年間の高校生活を通して、骨の髄まで思い知っていたのだ。
 ひとしきり百面相を繰り広げたのち、万里はようやく落ち着きを取り戻した。その間にヒカリが知りえた情報は、たったの一点だけ。万里の家の近所に、彼女の姉の同級生であるサトル兄ちゃんとやらが住んでいる、という事のみである。
「落ち着いたか。なら、順を追って話せ」
「うん。だから、オルゴールなのよ。どうしよう? どうしたらいい?」
「順番に、だ。いいか? 頭から順番に」
「う、うん。だからね、今日、姉ちゃんの誕生日でね。朝にサトル兄ちゃんが、プレゼント持ってやってきて、生憎姉ちゃんは演奏会前の合宿で留守で、とりあえずプレゼントを預かったんだけど……」
 大学生協前の木陰のベンチに、並んで腰を下ろすや否や、万里はまたも興奮した面もちでヒカリに迫ってきた。
「それがね、壊しちゃったみたいなのよ!」
 ヒカリは、馴れたものと言わんばかりの表情で先を促した。
「オルゴールを? 落としてしまったとか?」
「ううん、落としてもぶつけてもないよ」
「それなら、なんで壊れたって分かるんだ?」
「…………」
 ヒカリの問いを聞いた途端、万里の目がいきなり泳ぎ始めた。
「待て。もしかして……」
 刺々しいヒカリの声音に、万里はあたふたと両手を振りまわした。
「だって、あのサトル兄が姉ちゃんに何渡すんだろ、って、気になって……」
「……他人へのプレゼントを開封したのか……」
 がっくりとヒカリが肩を落とす。
「開封ってったって、箱剥き出しで、この紙袋にぞんざいに突っ込んであるだけだったし……、しかも箱の蓋、封されてなかったし。って言うか半開きだったし!」
 冷ややかなヒカリの眼差しに負けじと、万里が両手を固く握り締めた。
「だってだって、お互い気にしてるのバレバレの状態で、もう十年だよ? 今更何をプレゼントするんだろ、って気にならない?」
「つまり、お互い意識し合っている男女の、その男のほうが一念発起して贈ったプレゼントを、贈られた本人のいないところで、その妹が勝手に開封して、壊してしまった、と」
 ヒカリはそこで小さく溜め息をつき、それからナイフのごとき一瞥を万里に突き刺した。
「最悪だな」
「反省してマス」
 身体を小さく縮ませた万里が、神妙な声で頭を垂れた。
「正直に話して、怒られな」
「そうだね……。やっぱりその場凌ぎはだめだよね。マジ殴りされるかもだけど、きちんと謝るよ」
 弱々しくうなだれる万里が、微かに身を震わせているのを見て、ヒカリは思わず首をかしげた。
「殴られる、って、万里の姉ちゃんって、そんなキャラだっけ? 優雅にピアノ弾いているところしか知らないんだけど」
「それは思いっきり騙されてるって。怒ると、それはそれは凶暴なんだから」
「へー、意外だ」
 佳人の思わぬ一面に感心する一方で、ヒカリは眉間にそっと皺を寄せた。
 ヒカリと万里は、高一で同じクラスになって以来の腐れ縁だ。長い付き合いのお陰で、お互いの長所も短所もそれなりに把握し合えている。
 そう、ヒカリの知っている万里は、確かにおっちょこちょいの調子乗りであるが、礼儀知らずではない。姉妹同士という事で対応が多少ルーズになったのだとしても、彼女が他人への贈り物をぞんざいに扱うとは、ヒカリにはどうしても思えなかった。
「ちょっと、それ見せてみ」
「あ、うん」
 万里が弾かれたように背筋を伸ばして、紙袋の中へと手を突っ込んだ。滑稽なほど急いた様子で、小さな箱を引っ張り出す。
 箱の蓋が開いた瞬間、眩い反射光がヒカリの目を射た。
 箱から出てきたのは、一辺が五センチほどの透明な立方体だった。何の飾りもついていないアクリルの正六面体の中、真鍮色のムーブメントが、まるで宝物のように鎮座している。箱の横に突き出した小さなハンドルが、シリンダの動力源なのだろう。良く見ると側面の下部に小さなかみ合わせがあり、どうやら底辺が外れるようになっているらしい。
 ヒカリは、木陰の映り込みを避けるようにして、箱の内側へと目を凝らした。それから、大きな溜め息をついた。
「これは、直せんなあ」
 ゼンマイ式ではなかったが、その構造は普通のオルゴールに同じ。回転するシリンダに植えられた小さなピンが、すぐ横に設置された金属製の櫛の歯を弾いて音を出す。その、幅僅か一ミリほどの歯の一本が、途中で折れて、短くなってしまっていた。
「瞬着(瞬間接着剤)で……とか、無理かな?」
「この狭い断面じゃ接着出来ないだろうし、仮に着いたとしても強度がもたない。そもそも外見を取り繕ったところで、元通りの音が出るわけが無い。つうか、このカケラはどこ?」
「それが……、見あたらないのよ」
「じゃあ、何を接着するつもりだったんだ?」
 呆れ返るヒカリの視線を避けるように、万里は小さく身をすくめた。
「何か……カケラの代わりになるものが無いかなあ、って……」
「あると思う?」
「ああ、やっぱりぃいー?」
 万里が悲劇のヒロインさながらの身振りでその場に突っ伏した、その時、ベンチに何かの影が差した。
「最初っから折れてた、って事は無いのか?」
 驚いて振り返った二人の目の前、一人の男子学生が立っていた。
「原田さん」
「妖怪退散」
 ヒカリの声をあっさりと聞き流して、原田れいは「よう」と軽く右手を上げた。
 原田は、ヒカリと同じ機械工学科の、二年上の先輩だ。男子にしては少し長めの髪をゆるく首の後ろで括り、ダメージジーンズを嫌味無く着こなしている姿はそこそこ絵になっていて、一回生女子の間で一時「カッコイイ上回生がいる」と噂になった人物だ。
 だが、学部の新歓コンパでの顔合わせ以来、ヒカリは原田とは馬が合わないと公言して憚らない。曰く、調子が良過ぎる、調子に乗り過ぎる、年長者とは思えない、と。いくらヒカリが女らしくないからといっても、遠慮も配慮も何も無い男同士の会話を、顔を合わせるたびに年下の女性に屈託無く振ってくるその態度は、ヒカリをして「ふざけるな変態」と言わしめるに充分だろう。
 そもそも一般教養を中心に履修する一回生と、専門の授業が大半を占める三回生とでは、広いキャンパス内で顔を合わせる機会などあまり無いはずだった。だが、どういうわけかこの二人は、同じタイミングで同じ場所に居合わせる事が多く、そのたびにヒカリの眉間の皺は深さを増し、挙げ句の果てに、学部の違う万里までもが原田と顔見知りになってしまっている、という有様だった。
 あからさまに嫌そうな表情を見せるヒカリに対し、原田は至極愉快そうに片眉を上げ、それから一転して真面目な表情で万里のほうに向き直った。
「確かに、自分宛じゃないものを、勝手に開けるのは問題だけど、でも、松山さんは他人のものを粗末にするような人じゃないだろ?」
 その言葉に、万里の表情がぱあっと明るくなる。
 心の中のもやもやを、第三者に、特にこの男に炙り出されてしまった事に、ヒカリは思いきり顔をしかめた。
「盗み聞きとは、良いご趣味で」
「一方的に聞かせておいて、随分な言いぐさだな」
 原田が憮然と二人の背後を指差した。
 綺麗に刈り込まれた植え込みの向こう側にもベンチがあった事を、二人はすぐに思い出した。
「内緒の話ならもっと場所を選べよな」
「すみません」
 素直に頭を下げる万里に向かって、原田は少し慌てて両手を振った。
「いや、松山さんが謝る事じゃないから。毒舌家を気取る短絡馬鹿に反論しただけだからさ」
 彼はそうニヤリと笑うと、歯軋りせんばかりのヒカリを華麗に無視して、涼しい顔で万里の手元を指差した。
「それよりも、そのオルゴール、ちょっと見せてくれないか?」
「いいですよ」
 手渡されたオルゴールに真剣な眼差しを向ける原田を、ヒカリが意趣返しも露骨に、盛大に鼻でわらう。
「最初から折れてた、って、どこの世界に、好きな相手に不良品をプレゼントする阿呆がいる?」
「なら、破片が無いのをどう説明するんだ?」
「それは……」
 万里が失くしたから、と続けようとして、さしものヒカリも躊躇った。先刻この男が言ったように、万里は他人のものをいい加減に扱うような人間ではないのだ。
 ヒカリが、ぐ、と言葉を呑み込んださまを見て、原田が微かに笑った。
 腹立たしい、とヒカリは思った。口論相手を言い負かしたのだから、もっと根性悪い笑みを浮かべればいいものを、何だその上から見下ろさんばかりの尊大な微笑みは、と。
「察するに、箱を開けて、中身がオルゴールだと知って、何の曲だろう、ってハンドルを回したら音が飛んでいて、慌てて箱や袋の中を確認したけど、破片は既にどこにも無かった、ってとこじゃないの?」
「凄い! 原田さんってば、シャーロック・ホームズみたい!」
 いやいやそれほどでも、と調子の良い返事を万里に投げてから、再び原田はヒカリのほうを向いた。
「さっき雛方自身が言っただろ。送り主が不良品を用意するはずが無い、って。だが、現にオルゴールは壊れている。ならば、自分が壊したのかもしれない、って、ありがちな思考の流れじゃねーか?」
 返す言葉が見つからずむっとするヒカリをよそに、原田はオルゴールのハンドルを回し始めた。
 シリンダの回転とともに、懐かしい旋律が小箱を震わせる。メロディに合わせて、原田が小さな声で歌いだした。
「うさぎ美味しい……」
「うさぎ追いし」
 咄嗟にそう訂正をかけてから、ヒカリは「しまった」と歯軋りをした。原田の満足げな表情を見る限り、どうやら今のはツッコミ待ちのボケであったらしい。
 二人の水面下の戦いに気づかない万里が、にっこりと曲名を補足した。
「『ふるさと』って歌ですよね」
「そうそう、平和なタイトルのわりに、ウサギ狩ったりコブナ釣ったり、サバイバルな歌詞のやつだ」
 そう上機嫌でオルゴールを回していた原田が、突然その手を止めた。やにわに難しい顔でじっとオルゴールを見つめる。
 やがて、原田はゆっくりと顔を上げた。
「二人とも、少し時間はあるか?」
「無い」
 表情一つ変えずに即答するヒカリを、肘で突っつきながら、万里が呆れ顔で口を開いた。
「無い事無いでしょ。今日は四コマ目まで休講だ、って言ってたのに。……で、原田さん、どうしたんですか?」
「ちょっとおかしな事に気がついたんだけど、一緒に来てくれないか」
「あ、はい」
 真剣な顔で頷いた万里を尻目に、ヒカリは「じゃ」と挨拶を放って回れ右をした。そのまま一人さっさとこの場から立ち去ろうとするが、間髪入れず繰り出された万里のタックルに阻まれる。
「ちょ、ちょっと、ヒカリ! ヒカリも一緒に行こうよ!」
「アレに付き合うぐらいなら、オオアリクイと戯れるほうがマシだ」
「オオアリクイでもコアリクイでも何でもいいけど、ヒカリの先輩でしょ。ヒカリがいないと気まずいよー」
 万里がひそひそと懇願するも、ヒカリはとりつくしまも無い。
「知らん」
 と、頑なな背中に、心底愉快そうな原田の笑い声が投げかけられた。
「自分が気づけなかった事実に、俺が気づいたという事が面白くないんだろ。全く、ケツはでかいくせにケツの穴の小せぇ奴だ」
「ケツケツ言うなっ」
 ヒカリの怒鳴り声が辺りに響き渡る。
 つい振り返ってしまったヒカリの視線の先で、原田が得意げに口の端を上げた。
 
 
 
「ねえ、どうしてそんなに原田さんの事を目の仇にしてるのよ」
 原田に先導されての道すがら、万里が不思議そうにヒカリを見やった。五メートルほど前方を歩く話題の人物に、ちらりと視線を投げかけ、ふう、と溜め息をつく。
「ヒカリが言うほど、いい加減な人じゃないと思うけど」
「随分あいつの肩を持つじゃねーか」
「だって、原田さん、私に訊かないんだもん」
「何を?」
 不思議そうに眉根を寄せるヒカリに、万里が悪戯っぽい表情で片目をつぶってみせた。
「『彼女、いつもあんな感じにつんけんしてるの?』とか『どうしてあんなに男みたいな喋り方してるの?』とか」
「何だそれ」
 反射的に言い返したものの、それらの台詞はヒカリにとって決して珍しいものではなかった。
『ヒカリちゃん、どうしてそんなに乱暴な言葉を使うの?』
 怪訝そうな問いかけの言葉。だが、そこに潜んでいるのは「疑問」ではない。おのれの期待にそわぬものに対する、「非難」だ。
『お姉ちゃんと同じように育てたはずなのに、一体誰の影響なのかしら』
「……何だそれ」
 再度ぼそりと呟いたヒカリに、万里がにんまりと笑いかけてくる。
「だからさぁ、上っ面だけじゃなくて、きちんと中身も見てくれてる、って事じゃん」
 朗らかな万里の声に、ヒカリはほんの刹那口を引き結び……それからそっと顔を背けた。
「だから、ムカつくんだよ」
 
 
 数分後、三人は大学構内の隅にある文化部棟にいた。古ぼけた鉄筋コンクリート造りの一階、薄暗い廊下の突き当たり、原田が所属するという工作部の部室である。
 趣味の工作に勤しむ人間ならば来る者を拒まず、という同好の会は、部室の雰囲気もその趣旨を反映して混沌としていた。壁一面を埋め尽くすオープンラックには、大小さまざまな箱が引き出し代わりに並べられており、木材から電子基板、裁縫道具から溶接機まで、雑多な品物が突っ込まれている。
 初めてこの部屋を訪れた二人は、ひたすら興味深げに部屋中を見まわした。入口を入って正面には腰高窓、左手奥の壁には四十インチはくだらない立派な液晶テレビ。その横の棚に並ぶ、多種多様なゲーム機と週刊マンガ雑誌を見て、ヒカリの目つきが冷ややかなものになる。随分居心地の良さそうな部屋のようで、と口元を歪めかけたところで、隅に積まれたシュラフに気づき、ヒカリは思いっきり脱力してしまった。「秘密基地みたい」と目を輝かせた万里の呟きが、とどめを刺したようでもあるが。
 原田はそんな彼女達の様子には目もくれず、部屋の真ん中にでんと据えられた大きなテーブルの上にオルゴールを置いた。散らかる書類やらコップやらを大雑把に隅に寄せ、空いた場所にスタンドライトを引っ張ってきて、それからオルゴールの底辺を外すと、何やらごてごてと機器が取りつけられた大きなルーペを、櫛の歯に近づけた。
「やっぱりな」
「何がですか?」
 興味津々の万里の後ろから、ヒカリも渋々といった風に顔を覗かせる。
「ちょっと待って」
 そう言って原田は、どこからともなく黒いケーブルを一本引き出してきた。ルーペ側面の小さな蓋を開け、コネクタを差し込む。リモコンのスイッチを入れた途端、液晶テレビにルーペを通した映像が大写しになった。
「ここが、破損箇所だ。分かるか?」
 原田の手の動きに合わせて、画面一杯に映し出された鋼鉄色が、ゆっくりとスクロールする。
「変だな」
 ぼそりとヒカリが呟いた。
 先ほどまでとは一転して熱心に身を乗り出すヒカリの様子に、万里が目をしばたたかせる。その横で、原田がほんの一瞬だけ嬉しそうに目を細めた。
「え? 何が? 何が変なの?」
「断面が滑らか過ぎる」
「その通り」
 やっと気づいたか、と尊大な態度で一言つけ加えてから、原田が慎重にルーペの位置を調節した。
 画面の中が大きく揺れたかと思えば、その中央に、一本の水平なラインが映し出された。
「問題の歯だけを一本、こう、上に反らせて、切り取ったんだろうな。薄刃のニッパーを使えば、簡単だ」
 なるほど、画面に映るこれは、上と下の両方から固い刃で挟み切られた痕に違いない。
 原田の台詞を受け、ヒカリは真剣な眼差しを画面からオルゴールへ落とした。
「つまり、この櫛の歯は、何者かの手によってわざと工具を使って切り取られたと考えていい、という事か」
「そう。ところで松山さん、破片は見つからなかったんだよね?」
 いきなり話を振られた万里は、跳ねるように背筋を伸ばした。
「は、はいっ! それはもう、目を皿にしたつもりで探したけど、見あたらなくって」
「という事は、やはりこの歯を切り取ったのは、その送り主である可能性が高いな……」
「え、でも、サトル兄ちゃんがなんでそんな……」
 考え込む原田の横で、ヒカリが眉間に皺を刻む。
「まさか嫌がらせって事は無いだろうが……」
「それか、ある種の挑発行為とか、な。ネタ振り、きっかけ作り、とか」
 折れた歯の謎に意識が向いているせいだろうか、とても自然に言葉が二人の間を行き来していた。その様子を、万里があっけに取られた表情で見つめ続ける。
「お姉さんと、その『サトル兄ちゃん』ってのは、どういう人でどんな関係なんだ?」
 再び自分のほうに話の矛先が回ってきた事で、万里は彼らの観察を渋々諦めた。
「姉ちゃんは……私よりも三歳上で、音大に通ってます。専攻はピアノで、結構腕はいいみたい。見た目もそこそこ美人なんだけど、中身が……中身が……」
 そこまで語って、万里は突然身震いし始めた。
「……昔、姉妹喧嘩の時に、ブリタニカ投げつけられたし……、この間は、電車で遭遇した痴漢を、独りで捕まえて駅員に引き渡したって……」
 ふー、と感心したように息を吐き出してから、原田がニヤリと傍らを見やる。
「……要するに、雛方みたいな性格、と」
「冗談! 私は百科事典を粗末に扱ったりしない」
「ブリタニカじゃなくて! 私の心配をしてよ!」
 話題が逸れた元凶がおのれである事を自覚しているのかいないのか、原田が「まあまあ落ち着いて」と調子の良い態度で万里をなだめた。
「で、そのツワモノなお姉さんに、そのサトル氏がいわくありげなプレゼントをした、と」
「姉ちゃんと同い年って言ってたっけ」
「そう。高校までずっと同じ学校でねー。落ち着いた感じの、『これぞお兄ちゃん』って風に頼れるカッコイイ兄ちゃんなんだけど、面倒見の良いところにつけ込まれて、姉ちゃんに振りまわされてるって言うか、尻に敷かれてるって言うか、いじめられてるって言うか、虐げられてるって言うか……」
 穏やかでない単語の羅列に、ヒカリの眉が思いっきりひそめられた。
「ちょっと待て、『お互い意識し合ってる二人』じゃなかったのか?」
「世の中には色んな愛のカタチがあるんだよ」
 と、わざとらしく頷く原田に、ヒカリの容赦無い視線が突き刺さる。
「知った風な事を」
「お子様には解んねーだろうけどなー」
「解ったフリしてボケかます馬鹿に言われたくないね」
「もうっ、サトル兄ちゃんの話、聞くの? 聞かないの!?」
「あ、すまん」
 もしやこれが姉譲り、と思わせる怒声を張り上げる万里に対して、二人は声を揃えて姿勢を正した。
「……で。ついこの間、兄ちゃんが、東京に就職が決まったらしくって。姉ちゃんは、もうこっちでピアノの仕事が決まってるし……、どうなるんだろう、どうするのかな、って思ってたら、それから二人とも全然お互いに顔を合わさなくなって……」
 そこで万里は、一際大きな溜め息をついた。
「このまま終わってしまうのかな、って矢先に、プレゼントよ。多分初めての。袋覗いたら、蓋の閉まりきっていない箱が剥き出しなのよ、つい中身見てしまいたくなるよね!?」
「ノーコメント」
 またも二人の声が揃った。
 その事に気づいたヒカリが原田を睨む。
 だが、原田はじっと何か考え込んだきり、周りが目に入っていない様子だ。やがて彼は神妙な顔でオルゴールを手に取ると、もう一度ゆっくりハンドルを回し始めた。
 一音欠けたむず痒い旋律が、静かな部屋に流れ出す。
「何の音が折れているんだろうな……」
 原田の呟きを受け、万里が少しだけ誇らしげに胸を張った。
「姉ちゃんだったら、すぐに分かるかもだけど」
「もしや、絶対音感ってやつ?」
 と、ヒカリが嘆声を漏らす。
「なら、この欠けている音に秘密がありそうだな」
 もう少し調べてみるか、と言葉を継ぎ、原田が立ち上がる。ぱあっと表情を明るくする万里の横で、ヒカリが複雑そうな顔で小さく鼻を鳴らした。
 
 
「餅は餅屋、ってね」
 隣の棟にある軽音楽部の部室の前に立ち、原田は軽く扉をノックした。一拍おいて、「どうぞー」と野太い声が奥から響いてくる。
「篠原、いるかー?」
 おう、という返事を待たずに、原田が扉を開いた。正面の窓際に立っていた男が、にこやかに片手を上げる。
「原田! この間はありがとうな。お陰でほら、」そう言って彼は傍らのキーボードに手を伸ばし、ドレミファソ、と音階を奏でた。「この通り、もうすっかり元通りだ。本当助かったよ」
 ありがとう、助かった、と何度も繰り返す声に、原田が照れたように頭を掻く。左手奥の机に座っていたもう一人が、感心したように口を開いた。
「もしかして、修理してくれたっていう工作部の人? 凄いなあ。僕のベースが壊れた時も、頼めるかな」
「部品があればね。依頼は会計通してな」
 背後で感嘆の溜め息を漏らす万里に、得意げな目配せを投げてから、原田は部屋の中へと歩みを進めた。
「篠原、お前さ、『ふるさと』って弾ける? 『うさぎ追いしー』ってやつ」
「ああ」
 篠原と呼ばれた男は、ちょっぴり得意そうにキーボードに指を走らせた。幾つか音をさまよったのち、訥訥と旋律を弾き始める。
「うさぎ美味しいー」
 良く通る低い声で字余りの歌を歌う篠原に、原田は、「いきなり喰うか」とツッコミを入れてから、ニヤリと後ろを振り返った。
 どこもかしこも馬鹿ばっかりかよ、とヒカリが即座に目線で返す。
 
 ド ド ド レーミレ、ミ ミ ファ ソー
 ファ ソ ラ ミーファミ、レ レ シ ドー……
 
「シ、か……」
 弾き手の手元を見つめながら、原田が唸った。オルゴールに欠けていた箇所は「シ」の音だったのだ。
「『ロ』とも言うよね。ハニホヘトイロ、で『ロ』」
「ツェー、デー、エー、エフときて『ハー』かもな」
 本題に入ったからには遠慮は無用、とばかりにキーボードの周りに押し寄せてきたヒカリ達を見て、篠原が目を丸くした。誰? と慌てる彼に、原田が苦笑を浮かべる。
「ちょっとこの子らの調べ物を手伝っててさ」
「へー。君らもしかして一回生? 何学部?」
 律儀に「経済です」と返事をする万里を放っておいて、ヒカリは原田に向き直った。それから、尊大な態度で腕組みをし、皮肉ありげに口元を歪ませる。
「さて、迷探偵殿は、これらをどう料理するんだ?」
「急かすなよ。お前、ケツの穴が小さいだけじゃなくて、早ろ……」
「シモネタはもう充分だ」
 光の速さで、ヒカリの肘が原田の鳩尾に入った。腹を抱えて呻く背中にとどめを刺すべく、ヒカリは刺々しい声音を投げつける。
「欠けている音が判明したわけだが、これで謎が解けるのか?」
「お前は? 何か思いつかねーのか?」
 質問に質問で返す不躾さに、ヒカリの眉が大きく跳ね上がった。
「これはアンタが言い出したネタだ」
「じゃあ、お前に何か他のアイデアがあるのか?」
 いつになく静かな眼差しで問いかけられて、さしものヒカリも言葉に詰まってしまった。
「代替案があるってんならともかく、他に良い案も無いのに、偉そうに突っかかってくるってのは、どうよ?」
「……それを言うなら、アンタだって充分偉そうな態度じゃないか」
 目元に力を込めて、ヒカリが原田を睨みつける。だが、当の原田は全く怯んだ様子も無く、そればかりか、にぃ、っと口元に笑みを浮かべた。
「な、何だ」
「『アレ』呼ばわりから『アンタ』になったな」
 しまった、とヒカリの目が見開かれた。
「って事は、俺、妖怪から人間に昇格したんだな?」
 そう言って楽しそうに笑う原田の、どこを何で殴りつけてやろうか、とヒカリが考えを巡らせていると、突然オルゴールが鳴り始めた。
 何事かと振り返れば、篠原の横で万里が、「ここが一音欠けているんですよー」とか何とか言いながらオルゴールを回していた。
「あれ? ……違うな」
 ぼそり、とこぼされた篠原の声に、ヒカリも原田も一変して真顔になって、彼の傍に駆け寄った。
 二人が全く同じタイミングで「何が」と問う様子に、万里の眉がそっと緩む。
「何が違うんだ?」
「音がね。ほら」
 篠原の指が、先ほどと同じ鍵盤の上を滑る。オルゴールの曲に追いついたところで、彼の言わんとする事をその場の全員が理解した。
 オルゴールの音とキーボードの音が合っていない。
 合奏を諦めて、篠原は同じ高さの音を探し始めた。キーボードの上で指を行ったり来たりさせる事数秒、やがてオルゴールの音と楽器の音とが綺麗に重なった。先ほどの不協和音とは打って変わって、見事な二重奏が部屋の空気を震わせる。
 旋律が一巡したところで、どちらからともなく演奏は終わりを迎えた。
「へー、ト長調かあ」
 篠原の呟きに、原田が身を乗り出した。
「どういう事だ?」
「さっき俺が弾いた時には、黒鍵は使わなかっただろ。俺は絶対音感なんて上等なもの持ってないからさ、音と音の音階の差だけ拾って、単純にハ長調でメロディを探したんだ。でも、本当はファにシャープのついたト長調だったんだ」
 ソラシドレミファソ、と篠原が黒鍵を交えて弾いたその音は、何も知らない素人の耳には、まるで「ドレミファソラシド」のように聞こえる。
 と、その時、奥にいたもう一人の軽音楽部員が口を開いた。
「楽譜では、ヘ長調になっているけどね」
「マジ?」
 篠原が机の傍へと向かう。ベース担当と言っていた部員は、手に持った大判の冊子を開いてみせた。
「そのキーボードの付録の楽譜に、載ってるんだよ、『ふるさと』が。ほら」
「本当だ、ヘ長調だ」
 遅れて駆け寄る一同が、篠原の肩越しに楽譜を覗き込んだ。
 ふるさと、とタイトルを冠した五線譜には、フラットが一つだけ、ちょこんと飾りのようについている。
「童謡とか唱歌とかって、ヘ長調が多いと思ってたから、ト長調って聞いて意外に思って」
「でも、ヘからトだと、わざわざ変調するメリットってあまり無いよな?」
 ヘはファ、トはソの音名だ。ファを主音とした長調がヘ長調で、ソを主音としたのがト長調である。
「相当音域の限られている楽器なら別だけど、オルゴールだしなあ」
「ギターみたいにコードとかも関係無いもんなあ」
 ぶつぶつ呟くアマチュア演奏家二人の間に、原田が少しだけ遠慮がちに身を割り込ませた。万里から受け取ったオルゴールを示しながら、おずおずと問いかける。
「ト長調という事なら、結局欠けているのはどの音なんだ?」
「ファ、だな」
「シャープがついている音か……」
 もう一度オルゴールと同じ音で弾いてみてくれないか、との原田の言葉に、篠原は気前良く頷くと、キーボードの前に立った。
 
 ソ ソ ソ ラーシラ、シ シ ド レー
 ド レ ミ シードシー、ラ ラ ファ ソー……
 
「じゃあ、今度はシャープを取っ払ってみてくれ」
「いいけど」
 ファ、のところで白鍵を押さえた途端、弾いている本人も含めた全員の眉間に皺が寄った。
「わ、変なの」
「たかが半音で、気色悪くなるものだな」
 顔をしかめてぼやくヒカリ達に、軽音楽部員が苦笑を返す。その横で、原田がただ一人、無言のままじっと立ち尽くしていた。彫像のごとく微動だにせず、難しい顔でおのれの足元を見つめている。
 やがて彼は勢い良く顔を上げると、「サンキュ」とだけ言い残して、そのまま部屋を飛び出していった。
 
 
 礼もそこそこに軽音楽部室を辞したヒカリ達が、工作部の部屋に戻ってみれば、原田がドライバー片手にオルゴールに挑みかかろうとしているところだった。
「わー! 原田さん、何するんですかっ!」
「壊すなー!」
 ヒカリは右手、万里は左手、と見事な連係プレーで二人は原田を押さえにかかった。期せずして両手に花となった原田が、ちょっと赤い顔で叫ぶ。
「壊すか馬鹿!」
「じゃあ、なんでドライバーなんか持ってるんですか!」
 間違いなく姉譲りの万里の恫喝に若干怯えつつ、原田はそろそろとオルゴールを指差した。
「この櫛を外してみようかと思って」
「何故そんな事をする」
 憮然としたヒカリに得意そうな笑みを投げてから、原田はルーペを手に取った。さっきとは違って、今度は櫛のネジのあたりを拡大して見せる。
「……これは……」
「台座の酸化した部分と、櫛の端っこと、ほんの僅かだがズレてるだろ。さっき見た時は、気のせいかなと思ってたんだが――」と、そこで原田はもったいぶるように言葉を切った。「――多分、この櫛は『違う』んだ」
「違う?」
「元々このオルゴールについていた櫛とは違うものに、取り替えられているんだろう」
 原田は再びドライバーをネジに当てた。
「取り替えられた櫛は、恐らくハ長調。『ファ』の音に、シャープはついていなかったんだ」
 原田の言葉を聞き、ヒカリの背筋が、ぴん、と伸びた。
「そうか、だからわざわざ『ファ』の歯を切り取ったんだ」
「そう。そのままだと櫛が違っている事がすぐにばれてしまうからな。音の違う一本を折っておけば、単に壊れているとしか思われずにすむ」
「え、でも、どうして兄ちゃんてばそんな事を……」
 きょとんとする万里に、ヒカリが口角を上げた。
「兄ちゃん、とやらは、たった一人にだけ、知らせたかったんだよ。櫛が壊れているんじゃなくて、櫛が違っているんだ、って事を」
「絶対音感を持つ、たった一人にな」
 ころん、とネジがテーブルに落ち、櫛が外れる。
 三人は一様に小さく声を上げた。
 櫛に隠されていた台座の部分に、何かが刻まれていた。目打ちか何か針のようなもので彫られた、五ミリにも満たない小さな文字が三つ、スタンドライトの光にきらきらと浮かび上がる。
 それは、たった三文字のメッセージだった。思いの丈を込めて刻みつけられた、たった一言のメッセージ……。
 三人は、しばし無言でそれを見つめ続けた。
 
「……何と言うか、あれだな、他人宛のラブレターを間違えて読んでしまった気分だな」
「まさしく、その通りだろーが」
 律儀にツッコミを入れつつも、ヒカリもすっかり疲れきった表情で天を仰ぐ。その横で万里が頭を抱え込んだ。
「兄ちゃん……回りくど過ぎるよ……」
 我に返った原田が、いそいそと櫛を再びネジどめする。
 オルゴールを箱に戻し、紙袋に入れ、それから三人は同時に大きく溜め息をついた。
 
 
 
「ねえ、姉ちゃんがこのメッセージに気づかなかったらどうしよう……」
 次の講義に出るべく文化部棟を出たところで、万里が不安そうな言葉を漏らした。
 うむ、と唸るヒカリとは対照的に、原田の声はやけに素っ気無かった。
「その男が自分で選んだ修羅の道なんだから、松山さんが気にする事は無いさ」
「思いっきり他人事だと思ってるだろ」
「あったりまえだろ?」と、底意地の悪い笑みを浮かべる眼差しが、ふと、遠くなる。「幸せは自力で掴むもんだからな」
「そんなー! ね、ヒカリ、どうしたらいい? このままじゃ私、気になって夜も眠れないよ!」
 うむ、と再びヒカリは考え込んだ。
 ……とはいえ、原田の言う事も確かに一理ある。送り主は熟考の末に、運試しをする覚悟を決めたのだろう。それを第三者がどうこうするのは、いかがなものか。
 結局他人事って事か。ヒカリはそっと息を吐いた。
 いつも、いつも、肝心なところでこの男には敵わない。普段、あんなにちゃらんぽらんな事を言っているくせに、こういう時だけは正論を吐くのだから。
 ――だから、ムカつくんだよ。
 もう一度、ヒカリは深く息をついた。そうして、ほんの束の間、そっと目をつむる。
 それから彼女は、原田には見えないように万里に微笑んでみせた。
「大丈夫だよ。万里の姉ちゃんならきっと気づくさ。音の無い音に」
「無音の音、ね。禅問答みたいだな」
 原田が、顎をさすりながらしみじみと頷く。
 と、突然、万里が何か思いついたように「あっ」と手を打った。
「そっかー。もし気づかなかったとしても、『よくも不良品を掴ませてくれたね!』って兄ちゃんを締め上げて、本当の事を聞きだすよね、姉ちゃんなら」
 あまりにあんまりな言いざまに、ヒカリは思わず足を止めた。
 なーんだ心配して損したー、と満面の笑みを浮かべる万里をまじまじと見つめるうち、ヒカリの喉から、知らず「怖えー」と声が漏れる。
 それと全く同じタイミング、同じ調子で発せられた同じ言葉に気づいて、ヒカリは思いっきり顔をしかめた。
「真似するな」
「そっちこそ」
 対峙する、仏頂面とにやけ顔。
 その傍らで、いきなり万里が盛大に吹き出した。息をするのも苦しい様子で、身体を二つに折って笑い転げている。
「ま、松山さん?」
「や、だって、もう、だって……」
「どうした、万里」
「……だって、さっきから、ふたりってば、息、ぴったりで……」
「冗談じゃない!」
 
 待ってよヒカリ置いていかないでー、と縋る声を振り払いながら、ヒカリは、一人早足でその場をあとにしたのだった。


文:GB(ジービー/GreenBeetle 改め)
ファンタジーや謎解き、恋愛など、その時々の萌えのままに書いています。タネや仕掛けのある物語が大好きです。
  

絵:yanagi(やなぎ) - イラスト特別提供 -
GBさまのお話のファンで、長いこと只の一読者でおりました。yanagiと申します。 
本業はグラフィックデザイナーで、趣味で絵描きは致しますが、イラストは久々です。 
少しでも作品の世界観のイメージを表現できたらよいのですが…

 砂鳥スナドリに乗って街道をゆくうちに、いつのまにか道に迷っていたらしい。
 旅人は途方に暮れてあたりを見渡した。
 丈の低い草が痩せ地にへばりつくように生えているだけの乾いた草原を突っ切る、一筋の古街道。これまでにも何度か往来したことがある見知った道筋の、このあたりは迷いようもない一本道であったはずなのに、行けども行けども、今日中に辿りつくはずだった次の宿場が見えてこないのだ。気がつくと、足下の街道自体が、人の踏み跡も絶えて久しい風情で黄褐色の砂を被り、草に埋もれかけている。
 そういえば先頃から、普段なら何組も行き会うはずの他の旅人と、一度も出会っていない。やはり気づかぬうちに古い枝道にでも迷い込んでしまったのだろうか。いや、そんな道はないはずなのだが……。胸のうちでひとりごち、旅人は暮れかけた空を仰いだ。
 西方の砂漠に産する巨砂鳥オオスナドリは、早駆け時の上下の振動が激しいので騎乗に熟練を要するが、どんな悪路もものともせず、穏和で頑健、渇きに強く雑食性で、休憩時に放してやれば草でも地中の小虫でも、ときには蛇や蛙や野鼠まで何でも勝手に食べるので飼い葉もほとんど不要、野宿の際には巨大な翼を天幕代わりに柔らかな羽毛に包まれて眠れば夜露も凌げて暖かく、人に倍するその巨体と鋭い嘴に恐れをなして野の獣も滅多なことでは近寄らないという、荒野の旅にはこの上もなく役立つ騎獣だ。そのうえ賢く忠実で、細やかな愛情と愛嬌のあるしぐさで旅の孤独を癒やしてくれる、良き道連れでもある。
 が、夜目が利かないのだけは、鳥であるからにはしかたがない。
 野営をするのはいいとしても乏しくなってきた水だけはなんとか調達できぬものかと思案していると、行く手に何か見えてきた。
 近づいてみると、なんと都合の良いことに、それは古びた井戸だった。見渡す限り遮るものとてない広い草原の只中に、ぽつんとひとつ、井戸がある。傍らには一人の老婆が、頭からすっぽりと布を被って、うずくまるように座っていた。
 砂鳥から降りて年長者への礼を取りながら進み出ると、老婆は皺深い面を上げ、旅人を差し招いた。間近に寄って見下ろせば、老婆のかづいている布は、古びて色褪せ擦り切れてはいるがずっしりと凝った織り目の、金糸銀糸を精緻に織り込んだ豪奢な衣の成れの果てであると知れた。
 老婆は井戸守りと名乗り、井戸から水を汲んで、まず自分で一口飲んでみせてから、柄杓を差し出してきた。なぜこんなひとけのないところに老婆が一人で、と、不思議に思いながらも、有り難く澄んだ水を飲み干し、勧めに従って皮袋にも満たした。砂鳥も、足元に置かれた水桶に幾度も頭を突っ込んで、雫が伝う長いくびを一飲みごとに反らしては、満足げに咽を鳴らした。――砂鳥は水を飲まないというのは単なる俗説だ。生草などの水分のある餌を摂っていれば長期間水なしでも耐えられるというだけで、新鮮な水があれば喜んで飲む。
 謝礼の小銭を差し出そうとすると、老婆は受け取らず、旅人が背負った半月琴に目をとめて、謝礼代わりに音楽と一夜の話し相手をと所望した。
 まもなく日も暮れる。この先にはどうせ何もないから、ここで夜を明かすと良い。屋根はないが焚き火を振る舞おう。あそこに積んである薪を運んできて火を熾しておくれ、と。
 この老婆は何処に住んでいるのだろう。まさか普段からここで一人で夜を明かしているのだろうか。水はともかく食料はどうしているのだろう……。訝しみながらも旅人は、言われるままに火を熾し、焚き火のほとりで携帯食を食べ、老婆にも勧めたが、老婆は手を振って断った。その背後に、火明かりが作るはずの影がないのに、そのとき初めて気がついた。
 いずれ人外のものであろうとは薄々察していたから、意外には思わなかった。
 それでも旅人は、老婆に琴を奏でて聴かせた。
 旅人は楽師でもあった。よしや妖しの者であっても、楽の音を愛するものがもてなしの対価として演奏を望むのに、応えないのは楽師の名折れだ。それに、たとい魔物であれ亡霊であれ、楽を愛する者であれば、楽の奏で手に危害を加えはしないものだ――その演奏が、その者の心に適いさえすれば。
 旅人は己の楽の音にいささかの自負を持っていた。演奏の技量にではなく、音色にこめることができる音楽への純粋な愛に対して。
 心をこめた演奏を老婆は気に入り、返礼にこの場所にまつわる物語を、と申し出た。
 この場所を、よく見てごらん――という老婆の言葉に、あらためて黄昏の草原を見回すと、周囲には風化した石材の破片が散乱し、目を凝らせば、井戸を取り囲むように、城郭の跡と思しき草むした遺構もところどころ見分けられるのだった。
 老婆は、かつての光景の幻を見ているかのように夕闇に沈みかけた街道の先を見遥かし、低く語りはじめた。
「遠い昔、この道の向こうから、騎馬の軍勢がやってきたのだよ――」






 かつて、ここには、城壁に囲まれた小さな都があった。小さいけれど文化の栄えた古い都で、古い血を引く王もいた。年若い王で、未だ正妃を持たず、ただ一人の愛妾を一途に慈しんでいた。妾姫は名立たる舞姫で、その美貌と舞の上手の評判は、草原の西の果てから東の果てまで隈なく鳴り響くほどだった。王と妾姫は幸せだったが、雅な文化を誇る古い王国は既に昔日の勢いを失い、熟れすぎた果実が自ら地に落ちようとするように、すっかり力衰えて緩慢な滅びの中にあった。
 そんな頃、草原の北に台頭してきた蛮族が、この道を通って都に攻め寄せてきたのだ。
 迎え撃つすべも持たぬ文弱の王は、民を城壁の外に逃がして後に城門を閉ざした。
 涙ながらに都を捨てた人々のどれほどがどこかで生き延びることができたのかは知らない。
 城門を閉ざした都は、騎馬の蛮族に包囲された。城壁の中には、王と家臣たち、そして、都と運命を共にすることを選び取った一部の民たちが残った。城壁を乗り越え、打ち壊して蛮族が攻め込んでくるのは時間の問題と思われた。
 そんな中、蛮族の首領は、城壁越しに舞姫に呼びかけてきた。明日の朝までに自ら出てきて自分のものになれば命は助けてやろう、と。王たちにも、止め立てせずに舞姫を通せば都の陥落の後に多少の情けはかけてやろう、と。
 陥落後の情けなどという約束が嘘であるのは明らかだったし、情けをかけられたいとも思わなかったが、舞姫の命を取らないという約束は本当だろうと思われた。舞姫はその絶世の美貌を草原中に謳われていたから、蛮族の首領がまだ見ぬその美姫を一目見たいという好奇心に駆られ、さらには己がものにしてみたいという好色な野心と執心を抱いても、何ら不思議はない。
 王は、我が身を断ち切る思いで、己が愛妾にこの呼びかけに応じることを勧めた。が、舞姫は、王と共に、都と共に滅びることを自ら選んだ。
 諸共の死を覚悟した王は、その夜、蛮族たちの包囲の中で、この都の最後の舞の宴を催したのだった。
 煌びやかに着飾った王に家臣、やはりできうる限りの盛装に身を包んだ民たちの全員が、赫々と篝火を焚いた王城の中庭につどった。残り少ない備蓄食糧の洗いざらいが宮廷料理人の矜持にかけて山海の珍味であるかのごとく技巧を凝らして調理され、洗練の限りを尽くした器に美しく盛られ、酒蔵の美酒も一甕残らず運び出されて、身分の分け隔てなく供された。料理の量は少なかったが、折りしも盛りの甘扁桃アーモンドの花びらの舞う中庭にしつらえられた宴席は、まるで栄華の盛りの優雅な花遊びの夜宴のよう。夜風に白い花びらが流れ、金の火の粉が夜空を焦がして舞い上がる中、篝火に照らされて、舞姫は舞った。滅び行く故国のために、愛した王のために。そして最後に舞台を降りて、中庭の真ん中の深い井戸にその身を投げた。死した後にさえ己が身に、蛮族の手が指一本たりと触れぬよう。それを見届けた王と家臣たちは、みな、その場で刺し違えて息絶えた――。






「翌朝攻め入ってきた蛮族たちはどうなったかって? 全部死んだよ。一人残らずね。何故なら、井戸に身を投げたわたしは、舞衣の懐に毒を抱いていたのだから。色も匂いも味もなく、水に良く溶ける強い毒をね。しかも、飲んですぐ効く毒じゃあない。最初に飲んだものがその場で死んだら、他のものたちは水を飲まぬもの。一刻ほどたってから、ゆっくりと効く毒であったのさ。――ああ、そんなぎょっとした顔をおしでない。たしかにこの井戸がそうじゃが、あれはもう、遠い、遠い、昔の話じゃもの、毒など、とっくに消えたよ。折り重なった屍も、都の跡さえ砂に埋もれ、草に埋もれて消え果てる――それくらい、長い、長い時がたったのじゃよ。……そうではない? ぎょっとしたのは毒が怖かったからではなく、妾がその舞姫であったからと? 妾が常の人ではないことなど、そなたはとうに察しておったろうに。だからこそ、こうして昔語りをしたのじゃに。……そうでもなく、絶世の美女であったはずの舞姫がこのような老婆であることに衝撃を受けたと? ……失礼な」
 そう言いながら、老婆の口調は笑いを含んでいた。
 あたりには、いつしか深い闇が落ちていた。
「堅固な石造りの城でさえ崩れ果てて砂に還り、跡形もなく草に埋もれるほどの長い長い年月のうちには、いかなる美女も老婆になろうというもの。じゃが、話を聞いてくれた礼に、昔日の美女の舞姿を見せてやろう。さあ、楽を奏でておくれ……」
 そう言って老婆が、被いていた衣をするりと肩に落とし、袖を通しながら立ち上がると、曲がっていた背がすっくと伸びて、そこには金糸銀糸の舞衣を纏った、臈長ろうたけた美女。
 しなやかな指先が中空に軌跡を描いて天に伸べられ、ゆるやかに舞が始まった。幾重にも重ねられてきらめく玉飾りがしゃらしゃらと鳴り、滑るような足取りを追って華麗な裳裾がさんざめく。ふいに身を翻せば五色ごしきの絹布が宙を流れ、螺鈿の髪挿かざしが火影に映える。
 はじめはゆったりと、しだいに早く激しく、舞姫は舞った。
 舞は語った。過ぎし日の愛を、誇りを、恨みを、憎しみを、哀しみを――。
 いつしか、金砂のように闇を彩る火の粉に混ざって、白い花びらが降っていた。
 旅人は夢を見ている心地で、降り惑う花びらと耀かがよう火の粉に彩られた幽遠の舞を眺めていた。
 本当に夢を見ていたのかもしれない。旅人はいつのまにか演奏の手を止めていたのに、楽の音は続いていて、小さな焚き火は赤々と燃え盛る篝火に変わり、立ち並ぶ篝火の向こうには、装いも美々しい若き王と居流れる廷臣たちのおぼろな影が、ほむらの揺らめきにつれてつかのま浮かびあがっては、儚く闇に沈むのだった。楽の音に混じって、遠く人馬のざわめきも流れてくる。
 陶然のあまり、しだいに夢も現も判らぬようになり、目を開けて舞を見ていると思っているうちにいつのまにか目を閉じて、ただ夢寐むびのうちに舞の続きをみつめつづけていたのだろうか。夢の中で、舞い終えた美女が、眠る自分の上に身を屈めて手を取り、髪から引き抜いた螺鈿の髪挿しをそっと握らせる場面を見たような気もする。
 夢の中の美姫は囁いた。良い伴奏であった。おかげで心置きなく舞うことができた。消え残っていた想いの全てを舞い尽くすことができた。伴奏と、話を聞いてくれたことの礼に、これを進ぜよう。そなたが自分で持っていても良いし、人にやっても、売ってしまってもかまわない。ただ、そなたは、妾のことを、そして滅びた都のことを、憶えていておくれ。忘れずにいて、語り伝えておくれ。そしてこの髪挿しを人に譲るときには、必ずや、その相手に、妾と都の話を語り、髪挿しと共にこの物語を語り伝えてゆくようにと頼んでおくれ。さすれば妾は安んじて、ここを離れることができる。天へと続く道の途中で妾を待ってくれている愛しい王の元に、旅立つことができる。旅人よ、伝えておくれ、滅びし都の、名は繭羅マユラ――。




 はっと気がつくと、旅人は、心安らぐ鳥の体臭と柔らかな羽毛で満たされた心地よい薄暗がりで目覚めたところだった。砂鳥の翼の下で、その羽毛と体温に包まれて寝入っていたのだ。旅人の手の中には、古びてはいるが見事な細工の螺鈿の髪挿しがあった。
 目覚めた合図にそっと砂鳥の胴を叩くと、砂鳥は頭上から翼をどけて静かに立ち上がり、長い頸を下げて頭を擦り寄せてきた。旅人が頼れる相棒への感謝をこめて顎の下を掻いてやると、愛鳥は心地よさげに目を細めて、咽の奥でクゥ、と啼いた。
 あたりは朝で、老婆の姿はなく、ただ崩れかけた古い枯れ井戸があるだけだったが、水袋にはちゃんと、昨晩井戸から汲んだ澄んだ水がいっぱいに入っていて、朝日を受けて砂鳥と共に出立すれば、街道はいつのまにか見慣れた佇まいに戻り、ほんの数十歩も歩いて振り返ると、そこにはもう、古井戸の影も形も見えなかったのだった――。






「そして、これが、その髪挿しだ。どうだい? 砂に埋もれた古い都の、王の寵姫の髪飾りだよ」
 賑わう市の片隅で、旅の楽師兼物売りは、砂鳥に括りつけた袋から取り出した髪挿しを恭しく掲げて見せた。そうしながら、遠巻きに群がる子供たちに声をかけるのも忘れない。
「ああ、ぼうやたち、砂鳥は大きいが優しい生き物だから、怖がることはない。ほら、可愛い眸をしてるだろ? 名前はサヌザと言うんだ。触ってみるかい? 頸を撫でてやると喜ぶよ。ただし、気をお付け、もしも、お母ちゃんへのお土産に羽を一本、なんて悪戯心を起こして引っこ抜こうとでもしたら、この大きな嘴で、頭からばくっと齧られてしまうよ」
 騎乗用の砂鳥は東方では珍しいから、こんな田舎の市では、傍らに立たせておくだけで恰好の客寄せになる。
 楽師は人垣の中から、赤い頬をつやつやさせた頑丈そうな女に目をとめて差し招いた。
「ねえ、そこの美しい奥方。そう、あなただよ。この髪挿しを買わないかい? あなたのような美しいご婦人になら、きっと似合うと思うから、安くしとくよ。儲けより、似合う人に挿してもらうのが一番だからね。ああ? そんな、井戸に身を投げた悲運の姫の髪挿しなんて、呪われているのじゃないかって? 祟るんじゃないかって? まさか。とんでもない。あれはたしかに亡霊の類ではあったと思うが、悪いモノじゃあなかったよ。ただ、自分たちのことを誰かに憶えていて欲しかっただけなんだ。自分たちのことを語り伝えてくれる人が欲しかったんだ。だったら、そうしてくれる相手に害を成すわけがないだろう。古き繭羅とその舞姫の物語を語り伝えてゆく限り、髪挿しを持っているものは、むしろその伝え手として守護してもらえるはずさ。奥さんに、娘はいるかい? じゃあ、その娘さんが嫁に行くときに、この髪挿しを、由来を話して持たせておやりよ。そうして、娘さんは、そのまた娘さんに、物語と共に髪挿しを伝える。そうすれば、繭羅の舞姫は深く満足して、この髪挿しは、あなたとその娘、そのまた娘を代々守ってくれるだろう。……しかも、この髪挿し」と、物売りはここで、秘密めかして声を潜める振りをした――実際には声色が変わっただけで、声は小さくなっていなかったが。
「ここだけの話、あの舞姫が、石造りの城が砂に還るほど長いこと絶世の美貌を保っていられたのは、これのせいじゃないかと思うんだ。だって、舞姫が私に渡そうと髪挿しを抜いたとたん、みるみる縮んで、萎びた老婆の姿に戻り、ふっと消えてしまったんだからね。実はこの髪挿しにこそ、若さと美貌を保つ不思議な力があったんじゃないか? もしかすると、生前の舞姫の美貌も、多少はこの髪挿しのおかげだったのかも……? ねえ、あなたのその健やかな美しさが、これ一本で弥増いやました上にいつまでも保たれるとしたら、私はとても嬉しいんだけどな……」






「そう言って、物売りは、招きよせたあたしの手に髪挿しを載せて、あたしをじっとみつめながら優しげに笑ってね、その手を両手でそっと包みこんだんだ。それがまあ、うっとりするようないい男だったんだよ……。金の髪に翠の目の、珍しい西域の美貌でさ。煙るような金色の睫毛の長いことといったら!」
 たまさか訪れた下界の市で髪挿しを購った高地の村の女は、そう言って、井戸端に集った女たちに髪挿しを見せびらかすのだった。
 衣を濯ぎながら笑いさざめく賑やかな女たちの頭上には、純白の雪を頂く峻嶺が厳しくも清らかに聳え、光明るい高嶺の空を清澄な風が吹き渡る。
「その物売りの綺麗な顔とお世辞につられて、ふらっと買っちまったわけかい? 挿してるだけで美人になれる髪挿しなんて、そんな莫迦げた話があるもんかね!」
 どっと笑われて、女は頬を膨らます。
「別にそんなのは嘘だっていいんだよ! だって、ほら、見事な細工じゃないか。物売りの話が嘘でも本当でも、値打ち物には間違いないよ。それに、あの綺麗な西域の物売りが、あたしのことをじっとみつめて、美しい奥方って言ってくれたんだよ。嘘でも嬉しいじゃないか。これを見るたびに、そのことを思い出して楽しくなれるじゃないか」
「でもさ、そんなものに大枚はたいて、あんたの亭主がなんて言うかね」
「ふん! 亭主になんか何も言わせやしないよ! だってこれは、あたしが山に入って採ってきた薬草をあたしが自分で市に降りて売った金で買ったんだからね。あたしが稼いだ金で何を買おうと、あたしの勝手さ! ねぇえ、ラサ、あんたが嫁入りするときには、この髪挿しをあげるからね。古い繭羅の都の、王の寵姫のご加護がある、特別の髪挿しなんだよ」
 女たちの足元で遊んでいた泥に汚れた裸足の小娘は、突然名を呼ばれ、きょとんと指を咥えて母親を見上げる。
 幼子の手を引き堂々たる尻を揺らして立ち去る健やかな女の髪で、螺鈿の髪挿しはからりと明るい山の陽にきらめき、空はどこまでも澄み渡って白い稜線を抱くのだった。


 その頃、同じ空の下、純白の峰々に見下ろされて街道をゆく旅人は、翼持つ相棒の頸の付け根を優しく叩いて呟いていた。
「ねえ、サヌザ、あのひとは、いまごろ髪挿しを挿してくれているだろうかね。サヌザ、お前にわかるかな。もしもあのひとが私の頼み通り、髪挿しとともに古き繭羅の物語を本当に語り伝えてくれるなら、その時、髪挿しは本物なのだよ」
 旅人は夢見るように微笑んで、高地の女の面影を胸に、背後の山並みを振り返る。
 砂鳥は小首をかしげて賢しげな眸を瞬かせ、訳知り顔でクゥ、と啼いた。
「サヌザ、わかってくれるのかい?」
「クゥ」
「そうか、わかってくれるのか」
「クゥ」
「綺麗な女だったね。美人ではないが、私はあのひとを綺麗だと思ったよ」
「クゥーゥ」
 サヌザは幾度でも機嫌よく主人の声に応えながら、長い脚を悠然と繰り出して歩を進める。
 こうして旅の楽師兼物売りは、今日も愛鳥サヌザと共に、草原の道を、いずこへともなく旅しているのであった。



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