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 立、バス停、待ち合わせ



 雨が垂れていた。

 トタンを打つ雫が音を奏でる。ド、ミ、ラ。不規則な音階は軽快なテンポで頭上を滑る。
 梅雨も明けてからの雨。遠くに見えた入道雲が降らせた夕立。バス停には俺ひとりで、ついでにいうとここの停留所にはあと一時間ぐらいしないとバスはやってこない。
 後ろに控えるのは木々の生い茂った山。田舎の山は神域となり、この地にずっと鎮座してきた。地域開発だかがの犠牲になった隣町の山とは随分違う。鬱蒼とした、真夏でも涼しくなるような山。

 雨は地を濡らし、やがて水の流れが俺のつま先にもやってくる。防水のスニーカーだったら良かったと思えど、もはや遅い。突然の夕立は、熱を溜め過ぎる羽目になったアスファルトへの褒美だ。前からは濡れたアスファルトの匂いが、後ろからは懐かしい雨の匂いが沸きたつ。
 
 バス停の小さな屋根。その僅かなテリトリーに身体を収め、雲が去るのを待つ。五分かもしれないし三十分かもしれない。だけどそんなことはどうでもいい。今はただ、雨粒のつくり出すメロディをBGMに空を眺めるだけだ。


「久しぶり」
 不意に人影が現れた。顔を上げずともその声でわかる。優雨。俺の優しい幼馴染。
 ボロボロのベンチに腰掛けた彼女のセーラー服は雨に濡れて肌に張り付いていた。前髪も額にくっついていて、その滴がこめかみから頬をつたう。

「久しぶり。まただいぶ濡れたな」
 雨に濡れても朱がさしている頬。ちょっと困ったような瞳。優雨は「いやだなぁ」と照れるように笑って、身体の前を隠すように鞄を抱えた。
 
「夕立、すごいね」
「そうだな」
 そうぽつりとお互い零して、空を見上げた。

 雨は好きだ。雨の匂いもその音も。静かに降る雨は特に好きで、よく縁側から庭を眺めていた。雨に打たれて鳴くアマガエル、濡れるのが嫌だと茂みに隠れる猫。
 学校帰りに突然雨が降って、優雨の手を引っ張って走って帰ったこともあった。

「ねえ、もう、いいんだよ」
 優雨がこちらを見ずに言う。その声は雨に消えて溶けてしまいそうだった。
 俺は聞こえなかったふりをして、遠くの空に青空を見つける。
 


1
最終更新日 : 2011-07-21 08:32:31



 雨が、静かになってきた。トタンを打つテンポがだんだんと遅くなり、目の前に垂れる雫も小さくなってゆく。
 もうすぐひぐらしが鳴き出すだろう。日が傾いてもすぐに、地面は乾いて匂いを変えるだろう。

「じゃあ、またな」
 古いベンチから立ち上がると、反動でギイと音が鳴った。結局スニーカーには雨が染み込み、つま先は気持ち悪い状態になっている。

「ねえ、もう、いいんだよ」
 優雨は再びそう口にした。やっぱり俺は聞こえなかったふりをして、明るくなった世界へと足を踏み出す。屋根のない、晴れた世界に。

 わかっている。そう、わかっているんだ。


「あー、おっちゃん! あとでアイス買いに行くからなー!」
 雨がやむのを待っていたのか、近所の小学生が自転車で目の前を通り過ぎていった。その後を彼の弟が走って追いかけている。
「おう、たんまり買っていけ」
 その背中に大きな声で言ってやると弟が「一個だけだよー」と兄を追いかけながら叫んでいった。

 雲と雲の隙間から、眩しい太陽が地面を照らす。もう夕刻だというのに、その光は陰ることを知らない。
 誰もいないバス停を振り返る。ボロボロになったベンチがひとつだけ、その上に申し訳程度にトタンの屋根が覆いかぶさる。

 雨が垂れたその場所は、今でも誰かの待ち合わせ場所だ。
 

2
最終更新日 : 2011-07-21 08:13:55

 道雲、きらきら



「あっつーい!」
 エアコンをつけてくれない車から顔を出す。温い風が顔を叩いてゆくだけだった。
 遠くに立派な入道雲が見える。真っ白だけど綿でも綿菓子でもない。雨を降らすぞーっていう意地悪な集まり。
「ちょっと、青、危ないから顔引っ込めなさい」
 運転席の母が前を向いたままそう言った。サイドミラーか、バックミラーか、少なくとも鏡のせいだ。
「だってさ、なんでエアコン切っちゃったわけ? あっついよー、もうスポーツドリンクも温いしさ」
「お母さんは、この空気が好きなのよ」
 思いっきり文句を言ったつもりが、そんなのんきな声でシャットアウトされてしまった。そりゃ確かに普段住んでいる街や途中のサービスエリアよりは涼しいのかもしれない。でも暑いのには変わりなくて、真っ青過ぎる空から太陽は苛めるかのように世界を照らしていた。

 仕方なしに、頭をやや引っ込めて窓にもたれかかる。いつもは四人乗るセダンも、今日は私と母だけだ。だから後部座席で思う存分のんびり出来るわけだけど、私の好きな音楽を一曲もかけてくれない車内は、もう充分過ぎるぐらい退屈だった。
 かといって小生意気な弟がいても、無口な父がいてもプラスに働くことはなかっただろう。寧ろサッカーの練習だと張りきっていった弟とその面倒を見ると残った父がいない方が、まだ気が楽だろう。
 まあある意味プチ旅行には違いない。来たのは母の実家、驚くぐらいの田舎なんだけれど。

 ド田舎を出て、都心でも有名な大学を出た母は、入社した広告代理店で父と出会って、そのまま結婚して私を産んだ。仕事を辞める気はなかったらしく、出産時にもこの実家には帰らなかったそうだ。
 だからなのか、仕事を辞めた今は、時折こうやって車で帰っていた。ちなみに仕事を辞めた理由は、弟が産まれたから。私ひとりならまだしも、ふたりになって、しかもそのふたりめの身体がちょっと弱かったんだから仕方がない。もっとも、今は体力もついて、元気にサッカーなんかしてるわけだけど。

 まあ今更文句は言わない。ときに夜間保育に預けられ、小学生になったらすぐ鍵っ子になったことなんて。晩ご飯はいつも簡単なメニューで、うちの母は料理が苦手なんだと思ってた子ども時代のことなんて。
 

3
最終更新日 : 2011-07-21 09:50:32



 そんなわけで私がここに来た記憶があるのは一番古くて十歳のときのものだ。つまり五年前。本当はその更に五年前にも来てるらしいのだけれど、生憎あまり覚えていない。たぶん初めてきたおばあちゃんちというやつに緊張しっぱなしだったのか、つまらなくて寝てばっかりだったのか。どちらもありえる。
 十歳の頃を覚えてるのは単純にそう昔じゃないからというのもあるけれど、そのときは弟が一緒だったからだ。当時二歳。おばあちゃんたちがみーんな弟に夢中で、かまいっきりで、私はひとり山道を散歩したっけ。

「あ」
「何、どうしたの」
 記憶を掘り起こしていたら、ちょうど懐かしい山が見えてきた。名前は知らないけれど、確かみんなが天狗の山とか言っていた小さな山。どうしてそういうのかはわからない。おそらくそんな伝説でもあったのだろう。山のてっぺんが二股になっているから、遠くからでも見たらわかる。
 思わず拝んでおいた。その姿に母が笑い出す。
「そういう律儀なとこ、ほんと夏由なつゆきにそっくり」
「いーの。森のおばけには挨拶しておかないと」

 じっと、手を合わせて三秒。次に目を開けたときには天狗の山は大きくなっていた。鳶がその上をくるくると風に乗っている。奥には入道雲。
 いつまでも変わらない、夏の景色だ。

 ここにある変わらないものは、いい。気持ちがいいし、ほっとする。

「ねえ、お母さん」
 窓にふたたび持たれて、温い風を浴びる。
「なあに」と母は答えたような気がしたし、ラジオから流れる曲に合わせて鼻唄を歌い始めただけのような気もする。

「今日は、夕立かな。入道雲が、きらきらしてる」



 らびもち、かき氷



 七夕商店。そんなボロい看板を掲げたのが、俺の職場だ。
 俺の店ではない。あくまで職場。店を構えたのは記憶に薄い祖父だし、親父は早々にこの世から引退してしまった為、その後は母親が店を経営している。
 変な名前の店だ。由来は祖父が七夕好きとか七が揃って縁起がいい日だとか色々聞いていたけれど、大方祖父の初恋の相手がナナとかナナコとかそんな名前だったんだろうと思っている。ちなみにその話は祖母から聞いた。だからきっと当たりだ。

 小さな集落の、小さな商店。食料品から日用雑貨、漫画雑誌まで。なんでも置いていて、何も揃わない店。それでも営業できるのは、他に買い物をするところがあまりないからだが、生憎今では車で行ける距離にそこそこ大きなスーパーマーケットが出来てしまった。品揃えも値段も敵うわけがない。今ではただの昔懐かしい個人商店だ。
 それでも死なない程度に生きていけるのは、商魂たくましいというか何事にも豪快な母のおかげかもしれない。今では車で買い出しに行けない年寄りたちの御用聞きもやっている。まあそれを聞いて配達して回るのは俺なわけだが。

「夏由、藤井のおばあちゃんが、わらび餅食べたいだってさ」
 近所の子どもが注文してきたかき氷を削っていると、いい意味で年を取らない母が店の奥から出てくる。電話の子機を持っているから、きっとまだ繋がっているのだろう。
「ああ、わかった。あと五分ぐらいしたら行くって言って」
 これまた古びた手動のかき氷機で出来た氷の山にいちごシロップをかけてやる。遠慮のない子どもは「もっともっと!」と声をあげる。
 俺の伝言を藤井さんに伝えた母は、そのまま一旦奥に戻ろうとして、立ち止まった。
「青ちゃんって、わらび餅好きだったっけ」
 俺の方を見て言ったかどうかはわからない。俺は次の氷を急いで削らなければいけなかった。そうしないと、兄弟の間に差が生まれてしまう。
「さあな。嫌いじゃないんじゃないか。姉さん好きだろ」
 弟のかき氷を横からつつきそうな兄を諌めつつ、ハンドルを回す。氷も俺も、汗をかいていた。
 母は「そうよね。じゃあもっと作っておこうかしら」と独りごとのように言ってから、サンダルをカタカタ言わせ今度こそ奥へと消えていった。



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