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Prologue / Hongkong, Mar.1995

 3月3日に生まれた赤ん坊は、女の子だった。

 香港島。華美酒店 (The Wharney Hotel)。
 真っ暗なホテルの部屋で、ふいに電話が鳴る。
 深い眠りから急速に引き戻されながら、反射的に受話器をとると、お義母さんだった。カーテンから透けて見える空がまだ暗い。

 「午前0時12分、女の子無事出産しました。母子ともに元気ですのでご安心なさってください」
 お義母さんの声は少し緊張していた。日本から国際電話で掛けてきたのだ。
 「あ、本当ですか。どうもありがとうございます」。
 寝ぼけた頭を必死に覚醒させようとしながら、ぼくは答える。その努力はまったく報われなかったが、それでもからだ全体に安堵感が広がっていくのがはっきりわかった。
 受話器を置くと、時計の針は朝の6時40分を指していた。起きだしてミーティングに向かう時間にはまだだいぶあった。

 ベッドの上にもう一度大の字になりながら、ぼくは長かった10か月を思い出していた。

Chapter1 / Beijing, Nov.1994

 北京市内はいつのまにか雪が降りだしていた。

 すでに暗くなったドライブウェイには一台もタクシーの姿はない。長い重そうなコートを着た中国人のドアボーイがダメだというように手を振る。
 待っていても新しいタクシーが入ってくる気配はない。
 背の高い白人の集団が回転ドアから出てくると、ドアボーイにひと言ふた言話しかける。ドアボーイがぼくにしたと同じように手を降ると、白人たちは肩をすくめバラバラとホテルの外へ駆け出していく。
 ぼくは腕時計を見た。急いで北京市内のもうひとつのホテルまで行き、荷物を拾ってもう一度ここまで戻って来なくてはならない。
 ホテルの外は暗く、そしてひどく寒そうだった。

 1994年11月13日。
 それはその冬北京市に降ったはじめての雪だった。そしてその雪は、翌日からはじまる一大イベントのために世界中から集まってきていた主要な自動車メーカーの関係者すべての頭上に、等しく降り積もろうとしていた。
 中国政府は、国内自動車産業の保護育成の観点から外国自動車メーカーの参入を厳しく制限していた。一方で、地球上に残された最後のビッグマーケットを何としてでも手中にしようと、世界中の自動車メーカーが虎視眈々と参入機会をうかがっていた。
 そしてこの年、中国政府はこれらの自動車メーカーを北京に呼び集め、将来の中国に相応しいファミリーカーについて提言させることを思いついた。よい提言を行ったメーカーにはチャンスが与えられるかもしれない。そんな思惑から、世界中の主要自動車メーカーにとって「ファミリーカー・シンポジウム」と名付けられたこのイベントは必ずくぐらなければならない関門のひとつとなっていた。

 ぼくは、というよりぼくの会社は、そのシンポジウムの中でトヨタ自動車のプレゼンテーションと展示のすべてを請け負っていた。プランナーとしてその仕事にどっぷりつかることになったぼくは、数カ月にわたる準備期間の後、最後のリハーサルと本番を見届けるためにこの国に来ていた。

 それにしても、この国では流しのタクシーというのは拾えるものなのだろうか。
 ホテルに近い場所ではすでに何グループかの外国人たちが、タクシーをつかまえようと手を挙げている。ぼくは思い切って外の大通りへと出ていくことにした。
 明らかに電力量の足りない首都のぼんやりした街灯が、決して多くはない車の流れを浮かび上がらせている。雪はぼたん雪となって、激しく降り出していた。
 空車のタクシーを見つけて手を挙げると、赤いシャレードの車体がスーッとぼくの傍に滑り込んでくる。ぼくはメモ帳を取り出すと、「京広中心」と漢字で書いたページを指さした…。

Chapter2 / Tokorozawa, Mar.1995

 医者は最初から帝王切開にするつもりだった。逆子だったからだ。
 だけどもその医者は、何故帝王切開にすべきなのか、それによってどんな危険が取り除かれるのか、そして逆にどんな危険があるのか、その可能性はどれくらいなのか、といったことをきちんと説明してくれた。
 そのうえで、あなたたち自身が決断してくださいと言った。

 ぼくたちは、帝王切開を選んだ。
 そしてその手術の予定は、3月5日の予定だった。
 ぼくは出張に出掛けるべきか出掛けないべきか悩んだ。手術予定がいつだろうと、兆候が現れたらすぐに切らなくてはならない。ぼくの出張と手術が重なってしまう可能性は十分にあった。
 一方でその出張は、ぼく抜きでは考えられないものだった。その年の6月に行われる上海モーターショーの戦略案を、香港にあるトヨタ自動車のディストリビューターにプレゼンテーションしなければならなかったのだ。
 ぼくは悩んだ末、日程を最小限に切り詰めたうえで、恐らくだいじょうぶだろうと考えて出張に出た。

 娘が生まれたのは、香港に着いた日の深夜だった。

Chapter3 / Tokyo, Aug.1994

 ファミリーカーシンポジウムについてのオリエンテーションは、夏の暑い日、東京・飯田橋にあるトヨタ自動車東京本社の5F会議室で行われた。
 それは、ちょうどぼくが妻の妊娠を知った頃だった。

 実のところそれは、ぼくにとってもぼくの会社にとってもまったくはじめての種類の仕事だった。その辺の事情を理解してもらうためには、まず広告代理店の仕事と組織を説明しなければならないだろう。

 一般に広告代理店では、営業が仕事を獲得すると、スタッフ部門の各部署から人材を集めてきて、プロジェクトチームを作る。
 チームの中では、まずマーケティング部門が市場調査やそれを踏まえた戦略プランの立案を行う。それを受けて、媒体部門はメディアの買い付けを、クリエイティブ部門はTVCFや新聞広告などの表現制作を、SP(セールスプロモーション)部門はイベントや店頭販促活動などの実施計画の立案を行う。
 今回のようなコンベンションの場合は、営業とSP局が軸になり、マーケティング部門とクリエイティブ部門は必要があればそれを支援するというレベルだ。したがって、マーケティングプランナーという立場にあるぼくは、大方針さえ決まればあとはお役御免だろうと割合かんたんに考えていた。

 だが、はたしてこの仕事はそうはならなかった。
 ぼくたちには一般向けのイベントやインナー向けの発表会に関する豊富な経験はあったが、外国の政府に対するプレゼンテーションなど請け負った経験があるものは誰もいなかった。そこからすべての混乱と試行錯誤がはじまった。

 オリエンテーションの時点で本番まで3ヶ月ちょっと。切迫する時間と経験の乏しさから、ぼくらは通常の役割分担に関係なく、目の前に次々と現れるハードルをクリアしていかざるを得なくなっていった。
 気がつくとぼくはトヨタの役員スピーチ用のスライド原稿を書いていたり、展示用映像のナレーション案をひねり出していたり、展示用パネルのレイアウトに頭を悩ませたりしていた。
 それは従来の仕事の仕方から言えばきわめて特殊なことだったし、タイトなスケジュールの中では非常にきつい仕事でもあった。仕事は毎日深夜までの作業となり、休日も急速に仕事で埋まるようになっていった。
 それでもその仕事は非常に楽しく、充実感のある仕事でもあったのだ。もともとぼくは自分の手で何かを生み出すということが好きだったし、企画書だけを書き続けていたそれまでの仕事から見て、実際の作品を(たとえ一部であっても)自分の手で作っていけるというのはとても刺激的なことだった。

 そうこうするうちにぼくは、現地まで行くはめになっていた。

Chapter4 / Shanghai, Nov.1994

 北京からの国内線旅客機が、上海・虹橋(ホンチャオ)空港に着いたのは、夜10時を回った頃だった。

 空港を滑り出たタクシーが上海市内に向かって走りだすと、開いた窓からふいに夜風が流れこんでくる。
 それは心なしか華やいだ風だった。
 つい数時間前まで雪の降る灰色の首都・北京にいたせいかもしれない。広い道路と生気のない人びと。身を切るような冷たい風。その昔遊牧民が大平原につくった首都は、昼間でも暗い色のカーテンに包まれているかのようだった。

 11月とは言え、タクシーの窓から入ってくる上海の風は、北京に比べずっとやわらかい。どこからともなく人間のざわめきが聞こえてくるような匂いがした。

 ファミリーカーシンポジウムが終わったあと、ぼくらはまっすぐ東京に帰らず上海に立ち寄った。翌年の上海モーターショーの会場を視察し、現地での協力会社を見つけるためだ。
 メンバーはセールスプロモーション局のディレクターが2人。その年ぼくたちの会社に入ったばかりの上海生まれのチャイニーズガールZ。それに演出関係をやってもらっている協力会社のO氏。彼の香港子会社の香港人代表、それにぼくの6人だった。
 陣容は立派だが、実際はそんなに仕事がある訳でもなく、ぼくらは比較的気楽な気分だった。


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