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ジャンプ

 その日、私は飛んだ。

「ごめんなさい…。」

思いを馳せながら一人、カーテンの隙間から外を覗く。病室のような簡素な小部屋の窓からは都会の雑居ビルが見える。私はきっと世の中に負けた。多分誰のせいでもないけど、自分に負けたなんて思いたくない…でも、私には、もう…。窓を開け、その縁に足を掛けた。

「唯!セージ君来た…。」

奥から女が顔を出し、後から声を掛けられた。

「ちょっと!何やってるの!?」

見つかってしまった。女が窓から私を引き剥がし、片手に握られていた物を奪い取った。

「返して…。」

「ダメ!なんでいつも…。」

「だって、伸びてたから。」

「だからって、足の爪外に降らせないでよ。」

女は私から奪った爪切りをポケットに仕舞った。

「それ、私の!」

「仕事終わりに返すって。それより、セージ君来たから早く行って。」

「はーい…。」

私は部屋を出て外に向かった。狭苦しい廊下の先には、同じく狭苦しい階段が繋がっている。階段を降りた脇に『コスチュームマッサージAPPLE』という看板が出ている。

「おう。」

分かりやすいほど分かりやすい、ホストな男が逸早く気付いて声を掛けてきた。

「はい、今月分…。」

封筒を差し出す。男が封筒をひったくり、中を確かめる。びくびくしながらセージと封筒を見ていた私は目を逸らして思う。…ホント、もう、お金がない。

「はーい、確かに。頑張ってんじゃん。で?今日はどーなの?っつーか来いよ。」

「…今日は、ちょっと…。お金が…。」

「はぁ?そんなのまたつけときゃいーじゃん。今日指名1本指名足んねーんだよ。」

「えっと…、でも…。」

私が間誤付いていると、盛大な舌打ちが聞えた。

「ああ、じゃいーよ。マジ苛つく。」

「ごめん!あ、あ、早く終わったら行く。頼んでみるから…。」

セージは急に笑顔をつくり、優しく親しげに私の肩を抱いた。

「ジョーダンだって。いや、お前はホントにかわいいな。じゃ、店で待ってっから。っつーかお前終わったら電話しろ。迎えに来てやるよ。俺直々に。」

「あ、うん…。」

「そんだけかよ。」

「ありがとう…ございます…。」

「よし!じゃ、オシゴトがんばってー。」

セージと呼ばれる男はさっさと行ってしまった。ほっとしながら見送る私は思う。今日、私は、トブ。だから店には行けない。さよならセージ。払えなかったツケ、被らせる事になるけど、ごめん。


リユウ

 店内に戻ると、私はぼぅっとTVを見みていた。番組との合間に流れるニュースも、この職場の息抜きにはかかせない。しかし、耳に入ってはいても、頭に入る事は滅多に無い。

“…バットのような鈍器と見られ、2つの事件は通り魔の…〝

後一時間して仕事が終ったら、そそくさと飛ばなくてはならない。大仕事が待ち受けている私にとっては、赤の他人の殺人事件などどうだって良い。

「どーしたんっすかぁ?」

隣に座っていた女が必要以上に近付いてきた。その女のふわふわに巻かれた長い黒髪が私の肩に触れる。

「え…、いや、別に…っつーか寄り過ぎ、うっとーしいなぁ。」

肩に触れていた髪を払って、自分の髪に手をやった。染め直さなくてはいけない髪が気になる。でも、美容院に行く金さえ、今の私には用意できない。

「だって、やっぱ天然ものは違いますよね。」

女が私の胸を凝視している。

「なんだ、それ。…あぁ、そっか。やっぱ偽モンは違う…。」

「そうそう。高かったし。しかもメンテが大変ですよ。」

と言いつつ女は自分の胸をつつく。豊胸手術をした胸は、やっぱり普通とはちょっと違う。

「そこまでして欲しいもん?」

「ギリAの方々にそれ言ったら殺されますよ。」

「でも、大きさじゃないってよく言うじゃん。」

「形が認識できる大きさからの話題っすよ。それ。」

「そんなののためにココ入ったんでしょ?なんかなぁ…」

「どの道見せるためにやったんだからいいんだって。コスプレするにも乳ないと様になんないんだわ、コレが。でもまだ2ヶ月だからたまにちょっと痛いんだよねぇ…。あ、タメ語っちゃった。」

「いいよ、今更。大体、凛はいくつよ。」

「二十三…。」

私が凛と呼んだ女は厚めに切り揃えた前髪で自分の顔を隠しつつ、小さい声で答えた。

「うん。店ではね。ほんとは二十…」

「よ~ん!!もうすぐゴ~。あはは」

「おばちゃんだなぁ、笑うなよ。笑うトコがおばちゃん。」

「ゆいっちは?」

「二十二。」

「うん。店ではね。ほんとは二十…」

「二。さば読む歳じゃないから。まだ。」

「なんだよぉ。つまんない。ねぇねぇ、ゆいっちはなんで入ったの?」

「それは…」

言いかけた時、ドアが開いて奥から声がかかった。

「唯~。指名入ったよ~。」

「はーい。今行きます。新規ですか?」

飲み物を冷蔵庫に仕舞いながら聞く。

「んーん。スズキさん。」

「え、またあいつ?」

名前を聞くなり、凛が眉を寄せて言った。しかし、常連と言うのは金になる。金のためにココで働いているのだと思い直したのか、凛は私が部屋を出ようとしたところで、先程の質問の答えに話を戻した。

「…で、それは、何!?」

「凛よりマシな理由。あ、術後二ヶ月は運動しちゃだめって言われなかった?無理しない方がいいよ。」

「はーい。って、なんで知って…」

私は凛が新たな質問に入る前に、部屋を出る。

「あ、がんばっ…。らなくていいぞ~!!」

ドア越しに凛の声が聞えた。言われなくても頑張る気などない。頑張った事なんか一度もないし…。いつもの部屋にいつもの人。お座なりの接客をしながら私は考る。もう二十二歳になってしまった。サバを読むほどではないが、若いとも言えない。本当なら田舎で大学を卒業している歳。ホストに貢ぐ金を稼ぐののどこがマシな理由だろう。実家は、広島にある。便利と不便が半々の、いわば中都市だ。父は美容整形外科クリニックで成功した強く優しい人で、母は看護士をしていたところを父に見初められた。そういう表現がぴったりの楚々とした美人だった。小さいときから父も母も大好きだった。特に父は私にとって理想の存在。自分は絵に描いたようなファザコンだったと思う。でもまぁ、人並みに恋もしたし自分で言うのもなんだが、成績は良かったし顔も良い方でヒネくれもせずに育ったので、小中高とよくモテた。しかし今思えば高校入学から少しずつ、家は冷たくなっていたのだと思う。父は何やら忙しそうで、夜中目が覚めて台所に行くと、母が一人酒を煽っているところをよく見かけた。父は私達のために頑張って働いてくれているのに、母はなんて心の弱い人なんだろうと、疑いもせずに心の中で母を責めた。それでも、反抗らしい反抗をすることもなく、勉強に没頭し、気付けば県立大の医学生になっていた。父のようになりたかった。父は相変わらず不在が多かったが気にならなかった。でも、あの日…

トウボウ

“プルルル…、カチャ…”

母が電話を取る。私はその側で夕飯の用意を手伝っていた。

「はい沢木ですが…。ええ。わかったわ。」

「ただいま。」

「お父さん!おかえりなさい。今日は早かったね。」

「ん?あ、ああ。」

「今、帰ってきました。…ええ。…あなた。」

「なんだ?誰からだ?」

「日之瀬さんとおっしゃる方です。」

「ヒノセ…?…もしもし、沢木です。…はぁ。あっ、あんた…え…。ああ…。」

帰ったばかりで、急に電話を変わられた父は妻を凝視し、そのまま受話器を床に転がした。妻を見つめたまま、微かに震えている。二人の間に私が入る隙間は無かった。

「…知ってたのよ。もう、我慢できなかった。」

母親は引き出しから封筒出し、夫に投げた。封筒には『別れさせます!HINOSE探偵事務所』とあるのが見えた。慌てて夫は中を見る。中身は写真、それが落ちて散ばる。夫は土下座した。

「悪かった!すまない。」

「なに?どうしたの?お父さん、なにやって…。」

「浮気よ。5年前からね。いつかは戻るだろうと…。でももう待てなかったの。ごめんね、唯。」

 

 あの時、父は泣いていた。母は涙一つ流すことなく、平伏す父を眺めていた。私は黙ったまま風呂に入り、身支度をして、始発の新幹線に乗った。新宿をふらついているところをセージというホストに拾われ、後はよくある一連の流れの末、1年後には立派な風俗嬢の出来上がり。そして、今日また、私はトブ。ツケを残したまま。仕事を終えた私はロッカールームでボストンバッグを掴んだ。あの日と同じように逃げるのだ。職場もセージも私の家を知っているから、今日付けでアパートは引き払った。行く当てはない。数万の逃走資金のみが命綱だ。歩いて東京駅まで行き、鈍行に乗って行ける所まで行くしかない。


バット

 公園に差し掛かり少し休もうか迷っていると、背後に不振な気配を感じ、思わず立ち止まった。頭に、ふとTVのニュースが甦った。“…事件は通り魔の…”。身震いした後早足になり、振り返りつつ、走って木陰に隠れる。金も行く当ても無くても、死ぬのは嫌だ。どうやって生きていくか分からなくても、生きてはいたい。

“ピルルル…”

「うわっ…。」

突然の携帯にあたふたしてるところに、横からセージの顔が現れた。

「やっぱ、唯じゃーん!なになに?なんで隠れてんの?」

「い…いや…。」

逃走から二十分と経たない内に、いきなり見つかってしまった。

「お前さぁ、終わったら電話しろっつったじゃん。」

「…ごめんな…」

「謝ってすまねえんだよ!」

セージが唯の腕を掴む。物凄い力と迫力に声も出ない。先程とは逆に通り魔の方が良かったと思う程だ。通り魔はすぐに殺してくれるが、セージなら生かさず殺さず、半永久的にいたぶりながら金を無心するだろう。

「おめえが来ないせいで俺の名前に傷がついたんだよ。」

私を揺すり、突き放す、ボストンバッグが転がった。

「罰金払って貰う…。なんだよこれ。」

セージがバッグに気付きそっちへ近付く。

「あ…」

私が止める間も無く、セージはバッグを探った。中身を見て逃走に気付かないはずは無い。

「…てめ…、トブ気か!?コラ!!」

セージは立ち上がり、私に一歩近づいた。

「いくら残ってっと思ってんだよ!」

カッとなったセージが殴りかかってきた。

「ひっ」

殴られると思い身を竦ませた瞬間バフッと鈍い音がし、瞼の隙間から目の前でセージがうずくまっているのが見えた。その後に足が二本…。視線を上げるとその後ろにバットを振り切った姿勢の凛が見える。

「りっ…!なんで!?」

もう訳が分からない。

「いっ…てぇ…!!誰だっ…」

セージが振り返り立ち上がる。が、その前に凛はサッと私の方へ回りこんでいた。

「ぅわっ!はい!!」

立ち上がったセージに今更ながらに驚きつつ、凛が私にバットを渡す。

「ぇえ!?」

頭を押さえてふら付きながらセージが近付いてくる。さっきより目が怖くなっている。異常な状況に、私の恐怖は増した。やられる。

「ゆいっち!殺される!やれ!」

セージが私に手を伸ばした瞬間、凛の声をきっかけに唯は目を瞑ったまま、思いっ切りバットを振った。鈍い音と、バットが何かに当たった感触がする。

「まだ!!」

凛の掛け声で更にバットを振る。鈍い音。もういいだろうと、目を開ける寸前に凛が唯からバットを奪う。

「おまけだ!!」

凛がバットを振る瞬間、私は目と耳を覆った。一呼吸置いて、恐る恐る目を開ける。と、ぐったり転がったセージがいる。どうしよう…。動けないでいる私を他所に、凛はセージの頭部に駆け寄り頚動脈で脈をとっている。

「ふぅ…。グッジョブ。逃げるよ。」

「は?」

「逃げるの!!」

凛がボストンバッグを拾って私に押し付け、走り出す。

「ぇえ!?」

と言いながらも私は凛に付いて走り出した。凛はバットを持ったままだ。私は凛の背中だけを見て走り続けた。振り返るとセージが居そうで、怖かったからだった。しかし、そんな事を考えられたのも最初のうちだけで、後は付いて行くだけで必死だった。息が続かない。待ってと言う事すら不可能になった頃、ついに凛が止まった。息を整える。人気の無い大通りのガードレールに縋ると、自分の心臓の音が鼓膜を振動させている。こんなに走ったのは高校以来だろう。私、結構速い方だったのに、凛って一体…。なんだかちょっと悔しい。そう思って顔を上げると、凛は息切れしつつも笑顔だった。

「はぁ…Yeah!」

などと楽しそうに凛が笑い出す。全く、意味が分からない女。

「はぁ、で…?あれって…し…死んでたの…?」

凛はチラッと唯を見て笑うのを止め、呼吸を整えてから言った。

「…通り魔は1回ならバレナイってお父がよく言ってた…」

余韻を持たせて呟く。

「あれは多分…」

どういう意味か考えて、私ははっと息を飲み、凛が言い終わらないうちに、

「いい!やっぱいい!聞きたくない!」

耳を覆った唯を見た凛は大声で言い始めた。

「とーおーりーまーはぁああ!!」

唯は指で耳を塞ぎ、

「あー、あー、あー」

自分の声で、凛の声を掻き消す。

「ぅわぁ、古典的だなぁ。ねぇねぇ、逃げるの…」

「あー、あー、」

「もう言わないって!じゃなくて、逃げるのって楽しくない!?」

「…ん…。」

何を言ってるんだか、この女は…。とは思ったが、しばし考えてみた。確かに正直楽しいというか何というか…。しかしこれは、興奮状態になった時に脳が出す、アドレナリンと、運動によって出るエンドルフィンの作用。

「なんか、やったぜって感じ?」

更に同意を求めてくる凛をおかしな奴だと思いながらも、でもまぁ、そういう脳内物質の加減で、人間は感情を決めてるわけだから…。

「…確かに…、ちょっと、た…のしい。かも…?」

仕方なく、正直に言ってみた。

「ねー!走るの楽しー!いえーい!…ほら、ゆいっちも。」

この状態をランナーズハイと言うって事は、このコに言っても無駄だろう。一応助けてもらったみたいになってるし、合わせるか…。

「ぃ…えーい!」

口に出してみると、意外な事に面白くなってきた。

「いえーい!!」

何度か繰り返すうちに、なぜか二人共大爆笑になった。それぞれ細かいところは違っても、同じ人間の感じるところなど、所詮似たり寄ったりだ。

「ん…?」

私が急に近づく音に気付いた。

「ははは…はーあ。ん?なに?」

「やばっ。」

今度は私が走り出す。と共に遠くでパトカーの音が響いた。

「すごい耳!…って、おーい!違うよ!私ん家こっち!」

私は引き返し、二人してまた走り出した。


フタリ

 ドアに鍵をし、チェーンまでしっかり掛ける。

「そんなことして意味あんのってくらいボロい家なんだけど…。」

「だって貧乏なんだもん。適当に座るなり何なり。」

凛はクーラーボックスを開けて指を差しながら言った。

「なんか飲む?酒?茶?炭酸?水?コーヒーとかもあるけど?」

「水!…ってか冷蔵庫もないの?」

「うん。売っちゃた。」

紙コップ二つとボトルをテーブルに置く。水を注ぎ終わると凛は座り、バットを磨き始めた。私はとりあえず水を飲んだが、クーラーボックスに入っていたとはいえかなり温い。

「あー疲れた。今何時?」

「時計後ろ。」

唯は振り返り卓上時計を見る。午前五時。仕事柄、この時間に起きているのは珍しくない。横に小さい写真立てを見つけ手に取った。幼稚園児くらいの子を抱きしめるようにして小学生くらいの子が笑っている。

「で?何時だっ…」

バットを磨く手を止め時間を聞いた凛は、私が写真を見ていることに気付いて動きを止めた。

「これ…」

「…なに…?」

「妹?」

「…まあ、ね。なんで聞くの?」

「似てなーい。妹のがかわいー。」

「はぁ!?あたしのがかわいいって!」

私から写真立てを取り上げ、じっくり見直している。

「…うーん、そうでもないか…。」

「仲良かった?」

「…小さい時は。色々あって、大きくなってからはあんま会えなかったから。」

珍しくまともに答えたので、私は聞いてはいけない事だったのかと気が付いた。

「ごめん。」

「ははは、いーってことよ。色々あんのはお互い様でしょ?」

「本当にねぇ。…って、…っと言いますかね、そういえばなんであそこに居たわけ?そうだよ、忘れてた。なんでよ?」

「それは…」

「タイミング良過ぎだし、大体なんでバットなんか…。」

「…実は…例の通り魔…。」

バットの柄をぎりっと握り直し、私から視線を逸らした。

「まさ…。いい!聞かなきゃよかった!いや、聞いてない!ウチはなんも聞いとらん!」

「…ふう、さぁてと、寝るかぁ。あ、そうだ。明日もう仕事行かないんでしょ?」

「え…うん。」

「あたしも行かないから。」

「ああ、気ぃ使わなくていーよ。」

「じゃなくて、あたしも辞めるの。」



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