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G線上の悪魔


たくき よしみつ

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一九八七年晩秋・パリ郊外
        

 パリ郊外。雑木林に隣接したこぎれいな住宅街の中に、周囲とは多少調和のとれない、赤煉瓦の建物がある。
 夜九時を過ぎ、騒音も消え始めた外気の中に、その建物からかすかなバイオリンの音色が染み出している。
 一分間に四分音符=一〇〇くらいのスピードでのスケール練習。ハノンの二番をリディアン・セブンス・スケールで弾いているのだが、そんなことは相当な専門家でないと分からないだろう。
 その建物は、一応の防音処置が施されていた。時間帯を気にせず音楽を奏でるためである。
 家の主はあと数日で七十歳になる世界的なジャズ・バイオリニスト、フィリップ・アルベール・カルノー。かつては一種大道芸的に見られがちだったクラシック以外のバイオリン音楽を、第一級の芸術の域に高めた先駆者として知られている。
 その超人的なテクニックは老齢になっても全く衰えを知らず、今でも一年に五十日以上は公演をこなしているバリバリの現役だ。
 しかし、さっきからスケール練習をしているのは、そのフィリップ・カルノーではない。
 簡素な作りの居間の中央でバイオリンを弾いているのは、身長一五〇センチに満たない東洋系の少女だった。
 背中までまっすぐに伸びた黒い髪、大きく見開かれた焦げ茶色の瞳。小さな白い指が、そこに本来秘められた神経と筋力の限界に挑むかのように、小柄なこの少女が持つとアンバランスに大きく見えるフルスケールモデルのバイオリンのネックの上を、素早く、力強く動き回っている。
 その様子を、グランドピアノの前に座った白髪の老人が目を細めて見守っている。
「うん、今夜はここまでにしておきましょう。今、ジャンを呼ぶから、車が来るまで、熱いココアでもどうですか?」
「ありがとうございました。ココアは私が入れますから……」
 少女は多少たどたどしいながらも、正確なフランス語で答えると、バイオリンの弓を緩め始めた。
 フィリップはアンティーク調の電話機を取り上げると、運転手のジャンに電話をした。
「ジャンかい? 今、終わったところだ。私の大切な恋人を、しっかり部屋までお送りしてくれ。また門限を少し破ってしまいそうだから、途中で菓子でも買って、あの感激屋のセス夫人に届けておくれ」
「いつもすみません。私、お月謝もお払いしていないのに、こんなにまでしていただいて……」
 電話を聞いていた少女が、消え入りそうな声で言った。
「それは言わないってことになっていたでしょう? ひかり、君は特別なんだ。世界中に、バイオリニストを目指している人間は星の数ほどいるだろうが、私は君のような素晴らしい宝石に出会ったことはない。君に出会い、こうして教えられることは、神様が私の生涯の最後に贈ってくれた最も大きな贈り物だよ」
 フランス人はとかく表現がオーバーだが、こんな台詞を吐くときでも、フィリップの表情は真剣だった。
 少女ははにかむように微笑むと、小さく頷いた。
 少女の名前は北畑ひかり。十三歳になったばかりだが、パリでの生活はもう一年半になる。
 小学校の卒業も待たずにバイオリン修行のためにパリのルミエール音楽院に特別留学した。
 彼女は新潟県下では名を馳せた名家、北畑家の一人娘で、母親は将来を嘱望されながら、脂がのり始めた二十代後半で、事故によって左手の小指と薬指を第二関節から失った悲劇のバイオリニスト・北畑玲子である。
 ひかりは生まれたときから母親の夢を継いでバイオリニストになることを運命づけられていたと言ってもいい。母親からありとあらゆる英才教育を施され、今もこうして技術を磨くためにフランスで単身下宿生活を続けている。
 しかし、彼女がフィリップに教わっているということを、母親は知らない。母親が彼女に望んだものは、正統派のクラシックバイオリニストになることであり、いくら世界的な大家とはいえ、ジャズなどという「下世話」な音楽をやる人間になど、近づけさせたくもなかったのだ。
 ひかりが国際電話で、フィリップの指導を受けたいと相談したときも、母親の玲子はすぐさま反対した。
「あなたの師匠はベルモント先生です。師匠は二人はいりません。余計なことは考えないで、しっかり本業に精を出しなさい」
 強い口調でそう答える母親に、ひかりはそれ以上逆らえなかった。 それでも、まもなくひかりはフィリップの指導を受け始めた。つまり、これはフランス人の老バイオリニストと日本人の少女との、「道ならぬ恋」……いや、道ならぬ師弟関係なのだった。
 ひかりは学校の正規のレッスンの合間を縫って、こっそりとフィリップのもとを訪れる。フィリップも忙しいスケジュールをやりくりして、こうしてひかりのレッスンをする。
 ひかりの送り迎えは、フィリップの運転手・ジャンが受け持った。 ひかりの下宿先の女主人がフィリップのファンであることも幸いして、このお忍びレッスンは、もう一年近く続いていた。
 フィリップにとって、誰かにバイオリンを教えるということは、長いバイオリニスト人生の中でも、実は初めてのことだった。
 教えてほしいという申し出は何百回と受けたが、首を縦に振ったことはなかった。自分の音楽を完成させることが精一杯で、今まではそんなことを考えるゆとりもなかったのだ。
 しかし、この東洋人の少女との出会いが、フィリップをすっかり変えてしまった。

 それは、一年前の、あるテレビ局が制作したクリスマス特別番組のリハーサルでのことだった。
 フィリップは、その番組の中で、パリのルミエール音楽院のジュニアオーケストラと、クリスマスメドレーを競演することになっていた。
 そのオーケストラのメンバーの中に、ひかりがいた。
 リハーサルが始まってすぐ、フィリップはいち早くひかりの存在に気づいていた。数十人の子供たちの中でもひときわ美しく、魅力的な東洋人の美少女だったからだ。
 年甲斐もなく、時折彼女の方に自然と視線を向けている自分に気づき、フィリップは戸惑った。
 長いこと忘れていた熱いものがこみ上げてきて、それにどう対処していいのか分からない。
 休憩時間、フィリップは熱を冷ますかのように、バイオリンケースを抱えたまま一人でスタジオの裏庭に出ていった。
 すると、バイオリンの音が聞こえてくる。
 本番を前に、さっきのジュニアオーケストラの誰かが練習をしているらしい。曲は、誰もが知っている『サイレント・ナイト』だ。
 これから収録される番組で、フィリップはジュニアオーケストラと一緒に、この『サイレント・ナイト』を含む、いくつかのクリスマスナンバーをメドレー形式にアレンジしたものを演奏することになっていた。
 ごくあたりまえの曲をごくあたりまえに弾いているだけなのに、そのバイオリンは不思議な引力を持っていた。
 素直な音色。伸びやかなボウイング。
 そうした基本的なことが、実はいちばん難しい。
 フィリップは感心してしばらく耳を傾けていた。すると、演奏が次第にアドリブを交えた変奏曲風に変わっていった。これから演奏することになっているアレンジとも違う。どうやら全くのアドリブらしい。
 バックも何もないところで、純粋なメロディー楽器であるバイオリンがアドリブソロを展開するというのはかなり難しいことだ。
 一体誰が弾いているのか……。
 フィリップは音がする方にそっと近づいた。
 積み上げられた大道具の陰で、あの黒い髪の東洋人の美少女が、一人でバイオリンを弾いていた。
 フィリップは軽い目眩を覚えた。
 こんな小さな少女が、これだけの演奏を軽々とこなしている。一体何者なのだ?
 フィリップはそっと自分のバイオリンケースを開けて愛用のベルゴンジを取り出すと、少女が奏でるメロディーにアドリブでバッキングを付け始めた。
 少女は一瞬驚いたような目を向けたが、いささかも躊躇することなく、そのまま演奏を続けた。
 演奏の腕もさることながら、番組の主役が突然加わったセッションに物怖じしない少女の剛胆さにも、フィリップは大いに感動した。
 二人はそれから数分間、まるで何年もコンビを組んだ親子デュオのように、即興演奏を繰り広げた。

 あの運命的な出会いから一年。
 ひかりはフィリップのもとに通い続け、めきめきと腕を上げていった。
 クラシックではほとんど教えてくれない即興演奏の極意を学び、ジャズの音楽理論を学び、そしてクラシックの第一線ソリストに負けない厳しい演奏技術をもフィリップから学んだ。
「誰かが記した音符を忠実になぞるだけが演奏の喜びではありません。演奏家は作曲家の下僕ではないんです」
 フィリップはひかりに、ことあるごとにそう言ってきかせたものだ。
 そう、まさにそれを信条として、フィリップは今まで、長く孤独な戦いを続けてきたのだ。
 フィリップほどの技術があれば、クラシック界でも十分一流のソリストとして大成できただろう。しかし、フィリップはその道を選ばなかった。今でこそ押しも押されもせぬジャズバイオリンの巨匠として認められているが、この名声を得るまでには数々の苦汁をなめつくしてきた。「所詮は少し出来のいい大道芸人さ」というクラシック界からの揶揄に耐え、保守的で下品な批評家の無理解を乗り越え……。

「ココアが入りました」
 ひかりの声で、フィリップは短い追想から目覚めた。
「ああ、ありがとう。もうすぐジャンが迎えに来る。今度はいつ一緒に学べるかな」
 フィリップはひかりとのレッスンを「一緒に学ぶ」と表現する。 ひかりと一緒にいる時間が、彼の気力を奮い立たせる。
 ひかりの無限の可能性が、フィリップの残り少ない人生に、大いなる意味を与えてくれる気がする。
「分からないんです。このところベルモント先生のご指導も日増しに厳しくなっていて……」
「ラファエル・ベルモントか……」
 世渡り上手なだけの二流のバイオリニスト……という言葉が続きそうになるのを、フィリップはすんでのところで呑み込んだ。
 ひかりの前ではそんな下品な自分を見せたくない。
 それにしても、ひかりの両親に、彼女にふさわしい教師はこの自分をおいて他にないということを、どうにかして教えられないものだろうか……。
 天下のフィリップ・カルノーが、なぜこんなこそこそとした逢い引きまがいのことを続けなければならないのだろうと思うと、情けなく、また口惜しい。
 そのとき、ドアを激しくノックする音がした。
「分かったよ、ジャン。どうしたっていうんだ……」
 フィリップはせっかくの至福の時間にピリオドを打たれ、不機嫌そうにドアを開けた。
 しかし、ドアの外に立っていたのは運転手のジャンではなかった。太った中年女性が、息を切らして立っている。
 ひかりが下宿しているアパートの女主人だった。
「おや、セスさん、どうしたんです?」
「何度電話しても出ないんですもの」
「それはすみませんでしたね。ひかりとのレッスンのときは、電話のベルを切っているんです。それで、どうしたんです?」
「ひかりちゃんのお父さんとお母さんが……」
 セス夫人はそう言ったまま、数秒間絶句した。

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関越道で事故・会社社長夫婦即死

 四日午後八時半頃、関越自動車道下り線、小千谷インターチェンジ付近で、乗用車と大型トラックの衝突事故があり、乗用車に乗っていた夫婦が即死した。
 なくなったのは長岡市の会社社長・北畑葦次郎さん(五二)と妻の玲子さん(四一)。葦次郎さんは、新潟県下を始め、北陸地方に建築・製造など二十一社の企業を抱える北畑総合産業の代表取締役社長。妻・玲子さんは、かつてボストン弦楽音楽コンクール新人奨励賞を受賞したバイオリニストとして知られる。
 葦次郎さんの運転する乗用車が中央分離帯に衝突した弾みで横転し、皇族の大型トラックに真横から衝突された。原因は葦次郎さんの居眠り運転ではないかと見られている】

 地方紙にこのように掲載された事故が起きてから七年が経った。
 北畑夫妻の一人娘であるひかりは、即座にパリから帰国させられた。フィリップにとっては、さようならさえ言えなかった慌ただしい別れだった。
 まさかそのまま再会できずに、これだけの年月が経ってしまうとは、あのときには思いもよらなかった。
 フィリップは七十七になった。
 今でも現役を続けているが、さすがにこのところ、指の動きや力に往年の切れが失われつつあるのが分かる。
 フィリップは毎晩寝る前に、ベッドの横に跪いて祈りを捧げる。
 祈りの相手はイエス・キリストではなかった。
「ベルよ。お願いです。もう一度だけ私の前に現れてください……」
 祈りはいつもそうした呼びかけから始まる。

 ベルがフィリップの前に現れたのは、もう五十年以上前のことになる。
 フィリップは

 もう自分に残された時間はほとんどない。
 死ぬ前に、いや、自分が現役のバイオリニストとしての威厳を保ち続けていられるうちに、まだひかりに伝えたいことがたくさん残っている。このままでは死ぬに死ねない。
 せめて死ぬ前にもう一度だけでもいい。ひかりと一緒に演奏したい……。
 その思いに駆られ、フィリップはあれから五回も日本公演をしてきた。ひかりにもう一度会いたいがためだった。
 フィリップは、残りのわずかな人生を、日本で過ごしてもいいとさえ思い始めていた。
 しかし、ひかりには再会できなかった。
 両親に先立たれたひかりは、今では日本芸術院大学の元教授で、日本のクラシック音楽界の大御所・添多征一(そえたせいいち)の養女になっている。
 添多はひかりの母親以上にガチガチのクラシック保守派で、ジャズ・バイオリニストがひかりに接近することを極端に嫌った。
 フィリップは何度も添多家にコンタクトをとったが、ひかりと電話で話すことすらできなかった。
 後ろ髪を引かれる思いで日本を後にすること既に五回。しかし、今度こそは……。
 その思いとともに、フィリップは六度目の日本公演に旅立った。

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   ∥ 一九九五年晩夏・成田空港∥
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「あー、ウェルカム トゥ ジャパン、ミスター カルノー……」
 背の高い二人の青年にガードされるようにして到着ゲートを出てきた白髪の老人の姿を見つけるなり、ダークグレーのスーツに身を包んだ中年の日本人男性が小走りに走り寄り、英語で話しかけた。
 その男性のすぐ後ろから続いた三十代半ばくらいの痩せぎすの女性通訳が、浮かべかけていた笑顔を一瞬引き吊らせた。
 フランス人にいきなり英語で話しかけるとは、随分と教養のない男だと思ったのだろう。しかも相手はこれから一カ月あまり接待しなければならない大切な相手だ。
「あー、アイ アム コサカ、えー、バイスプレジデント オブ エターナルララバイ・カンパニー……」
「ハジメマシテ、コサカサン。フィリップ・カルノー デス……」
 白髪のフランス人は、なかなかしっかりした日本語ですぐに応じた。しかし、日本語が堪能というわけではないらしい。その後はすぐに英語で挨拶を続けた。
 先に相手に英語で話し始められてしまい、付き添いの女性通訳はフランス語で話すきっかけを失ってしまった。
 が、やはりフランス語専門通訳としてのプライドに目覚めたか、流暢なフランス語で切り出した。
「飛行機はいかがでしたか? 長旅お疲れ様でした。私、みなさまのご案内をさせていただく桜木由伽(さくらぎゆ)と申します……」
 フィリップは、通訳の見事なフランス語に接すると、目を細め、彼女の声の余韻を楽しむように小さく頷いた。
 通訳は小さな勝利を確信し、負けずにとびきりの笑顔を返した。
「どうぞよろしく、サクラギサン。でも、せっかくなんですが、私以外のメンバーはみんなフランス語が苦手なんで、できれば英語でお願いできませんか? 世界一美しい言葉をこんなに美しく話すあなたには本当に申し訳ないんですが……」
 フィリップは本当に残念そうに、前半を英語で、後半をフランス語でそう言った。
「ウィ、ムッシュ……あ、YES」
 通訳は複雑な表情で答えた。
 その落胆ぶりを見て取ったフィリップは、すかさずこうフォローした。
「もちろん、私と二人だけの場所では、ぜひあなたの美しいフランス語を聞きたいと思いますが……。そういうチャンスがたくさんあるように祈っていますよ。それから私のことはどうぞフィリップと呼んでください。あなたにそう呼ばれる度に寿命が一年ずつ延びるでしょうから」
 茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせる老人に、通訳の由伽は改めて敬服した。そう、これが本物のフランス紳士なのだと。
 老人の後ろには、荷物を山のように積んだカートと四人の男女が立っている。
 フィリップは彼らを一人一人紹介した。
 まだ三十代にさしかかったばかりなのに、すっかり頭が薄くなったギタリストのステファン。聖歌隊の少年のような童顔を、電柱のように細い長身の上に乗せたベーシストのジョージ。太った品のいい黒人婦人はフィリップのマネジャーをしているタニア。そしてタニアの補佐役であり、荷物運び兼音響エンジニアのボブ。
 ステファンはデンマーク人。ジョージとボブはイギリス人。タニアはアメリカ人という混成部隊だ。
 自分のツアースタッフを紹介し終わったフィリップは、ふと視線を招聘元の音楽事務所のスタッフの後ろに向けた。
 副社長の小坂の隣には、運転手兼任の若手社員が作り笑顔を浮かべて立っていたが、その斜め後方数メートルのところにもう一人、さっきから控え目に立っている青年がいる。
 すり切れた黒のスエードのジャケットに、やはり黒のコットンパンツ。耳が隠れる程度の長髪に無精髭。きっちりスーツで固めた事務所の男性二人とは明らかに違う種類の男だ。
 青年はフィリップと視線が合うなり、笑顔のままそっと頭を下げた。
「岸田サン! オウ!」
 フィリップは大きな声を上げると、それまでの笑顔とは別格の笑みを見せて、青年に近づいた。
 老齢のため、足元が多少あぶなっかしい。慌てて青年のほうが歩み寄った。
「長旅、お疲れさまでした。待ち遠しくて、ついつい来てしまいましたよ」
 そう英語で挨拶する青年の手を、フィリップはしっかり握り締めて、何度も頷いた。
 出迎えに出ていた音楽事務所のスタッフはきょとんとしていた。 彼らはその青年が今まで同じ到着ロビーにいたことにも気がついていなかったのだ。
 当惑した顔のままの副社長の小坂の耳許に、通訳の由伽が耳打ちした。
「新東京フィルのコンサートマスターの方じゃないですか? 岸田(てつろう)さんですよ。今度のツアーで、カルノーさんがご指名で一曲共演なさるという……」
 そう言われて副社長は慌てて青年のほうに近寄った。
「これはこれは岸田さんでしたか。気がつきませんで、大変失礼いたしました。私、エターナルララバイの小坂と申します。ご旅行か何かで?」
「いえ、カルノーさんを一刻も早くお迎えしたくて……」
「えっ、そうでしたか。これは恐縮です。いや、まことに失礼いたしました……」
「いえ、僕は住まいが千葉ですから、ここまで来るのはすぐなんです。どなたか事務所の方がお出迎えにいらっしゃっているとは思ったのですが、お顔が分からなくて、こちらこそ失礼しました……」
「いや、本当に失礼を……」
 事務所の副社長・小坂は、クラシック界のことはほとんど分からないらしい。それにしても、主催するコンサートに共演予定の音楽家のことを通訳から耳打ちされて気がつくようでは話にならない。
 そんな小坂をそっちのけにして、フィリップは上機嫌で岸田に自分のスタッフを紹介した。
 岸田は、事務所が用意したマイクロバスに一行の機材を積み込むのにまで手を貸して、その後はまた丁寧に挨拶をすると、自分は乗ってきた車で一人帰っていった。
 あちこち塗装が禿げている三代も前のグレーのコロナを、小坂は面白くなさそうに見送った。
 エターナルララバイがジャズ系のミュージシャンを招聘することは珍しい。
 フィリップ・アルベール・カルノー。このもうすぐ八十に手が届こうとしているフランス人ジャズバイオリニストは、なぜかここ数年、熱心に日本公演を続けている。初めての日本公演が七十一歳のときで、それから七年で五回の公演をしているというから、よほど日本が気に入っているのだろう。
 しかし、ジャズ・バイオリンというジャンルがまだまだ日本では一般に馴染みがないためだろうか、これまでの五回の日本公演では、赤字にこそならないものの、超満員が続くというほどの人気でもなかった。
 今回の構成は、フィリップのバイオリンの他に、彼の弟子ともいえる若手のギタリストとベーシストというトリオで、ジャズの中でも最も渋い部類のコンサートになるだろう。
 今までの招聘元であった音楽事務所が倒産したため、今回、業界大手のエタ-ナル・ララバイが初めて彼のコンサートツアーを手掛けることになったのだが、招聘元としては、正直なところ赤字にならなければいいが……という程度の期待しかしていない。
 しかし、なにせ音楽家の格としてはジャズ界の大御所だから、接待には細心の注意を払う必要がある。
 よほど長旅がこたえたのか、それとも老齢のためか、フィリップは事務所が用意したマイクロバスに乗り込んで暫くすると、後方の座席に横になり、すやすやと寝入ってしまった。
 若いベーシストとギタリストは、通訳の桜木由佳の案内に耳を傾けながら、マイクロバスの窓からしきりに外を見ている。
「成田まで単身迎えにくるとはね。あの岸田というのも、それだけフィリップ・カルノーの後ろ盾が欲しいということなんだろうな」
 小坂は運転をしている中林にささやいた。
「そうでしょうね」
 中林は素っ気なく答えた。
「しかし、あのフィリップというじいさんは、ジャズだけじゃなくて、クラシックの世界にもそんなに顔が利くのかね」
「いえ、カルノーさんがクラシックをやるという話はあまり聞いたことがありませんね。むしろ、岸田さんのほうが、ジャズ界の巨匠との共演ということで、自分の世界を広げようとしているんでしょう」
 中林はまだ入社三年目だが、イベンターとしての実力はともかく、純粋に音楽の知識ということでなら、小坂よりずっと上だった。「岸田さんは日本のクラシック界では異端児的存在なんですよ。積極的にジャズ・ミュージシャンとのセッションをこなしたり、ほとんど手弁当で地方の小規模ホールで次々にミニコンサートを開いたり……。実際、彼がコンサートマスターをしている新東京フィルは結成されてまだそれほど年がたっていないですし、ほとんどレコーディング経験もないんですが、彼自身はジャズ・ミュージシャンのアルバムに加わったりして、結構レコーディングもこなしているんです。
 つまり、岸田さんはレコードに関して言えば、クラシックのバイオリニストというよりはジャズバイオリニストに近いんです。彼にしてみれば、フィリップ・カルノーとやれるなんていうのは、最高の勲章でしょう」
「なるほど。それにしても随分親しそうだったな」
「そうですね。僕も、岸田さんがカルノーさんのお知り合いだとは知りませんでした。
 フィリップさんは世界各地で、毎回自分のコンサートにご当地の若手ミュージシャンを呼んで、一、二曲セッションするんです。才能ある若手の発掘に力を貸すということなんでしょうね……あ」
 バックミラーに一瞬目をやった中林は、そこで言葉をとぎらせた。 フィリップが目を覚まし、通訳の由伽と何やら話を始めていた。
「岸田サンとはいつ音合わせできるんですか。私は今回何よりもそれが楽しみなんですよ。それに、一風変わった趣向のテレビ番組が用意されているという話ですけど、どんなものなんでしょうね」
 フィリップは聞き取りやすい英語でそんな話をしていた。
「どうなんでしょうか、小坂さん」
 細かいスケジュールを知らされていない由佳が、小坂に助けを求めてきた。
「はい、岸田さんとの音合わせは、コンサート当日のリハーサルに時間を取ってありますが、もしもその前にということでしたら、後ほど調整してみます。それと、テレビの件はつい一昨日事務所のほうに打診があったばかりで、詳しいことは私も何も聞いていないんですよ。事務所に戻って確認し次第、すぐにご連絡します」
 小坂は英語で直接そう答えた。
 二人の間に座っていた由佳が、白けた顔で小坂を見た。


2/5

      ∇‡∇
 フィリップが出演するというテレビ番組は、音楽番組というよりは、一種の科学バラエティ番組だった。
 その番組の収録が、コンサートに先だって組まれていた。
 番組タイトルは「ストラディバリの秘密」という。
 企画書にはこんな内容が書かれていた。

[弦楽器の王者といわれるバイオリンには、数万円で買える入門用から数千万円もする時代物の銘器まで、それこそピンからキリまである。これらの違いはどの程度のものなのか? 例えばバイオリンの王者ストラディバリウスと、初心者用の数万円のバイオリンとでは実際に音にどれだけの差があるのだろうか? さらには、現代の工学技術の粋を集めても、ストラディバリ以上の音色を出せるバイオリンは作れないものなのだろうか?
 そうした素朴な疑問を科学的に解明するために、一つの実験をしてみることにする。
 まず、三本のバイオリンを用意する。一本は有名なストラディバリウス。もう一本は国産の新作バイオリン。最後は数万円で売られている入門者用のバイオリン。
 この三本を使って、一流のバイオリニストが同じ曲の同じパートを演奏する。これを完全な目隠し状態で、五人のリスナーが聴き分ける。
 リスナーは、日本を代表するバイオリニストであり、音楽大学添多学園の理事長でもある添多征一、バイオリン製作者の西丘九(にしおかきゅうへい) 、音楽評論家の湊民(みなとたみき)、レコーディング・エンジニアの笹本ジョー、そして来日中の世界的ジャズ・バイオリニスト、フィリップ・カルノーの五人である。
 彼らには三本のバイオリンの正体も、演奏者が誰かも知らされていない。何も知らされていない状況で、五人の鍛えられた耳は三本のバイオリンをどう評価するだろうか……]

「よくフィリップが出演を承知したね」
 番組収録のため、フィリップをホテルまで迎えにいく車の中で、小坂が中林に言った。
「いえ、フィリップさんは二つ返事だったそうですよ。そもそもこの番組は、岸田さんが知り合いのテレビ局ディレクターに持ち込んだ企画らしいんですが、問題は他の出演者ですよ。下手すると大恥かくことになるじゃないですか。日頃偉そうなこと言っていて、実際にはストラディバリと入門用バイオリンの差も聴き分けられなかったなんてことにでもなれば……」
「なるほどね」
「最初はストラディバリとガルネリと国産バイオリンということだったらしいんですけれど、それだと万が一間違えたら怖いと、みなさん二の足を踏んだらしいんです。そこでストラディバリと国産モデルと入門用の安物ということにしたらしいんですよ。それならさすがに区別できるだろうと判断して、みなさんようやく応じたらしいですよ」
「演奏者は誰なんだい?」
「それが極秘なんだそうですよ。大物だって話があるんですが、正体を明かさないという条件で出演を承諾したらしいですよ。そもそもクラシック界というのは保守的で、こういう試みには概ね非協力的なんですよ。芸術は科学的に解明できるものじゃない……という見解らしいですよ」
「なるほど」
 ホテルのロビーでは、フィリップの一行と通訳の由伽が既に待っていた。
 フィリップは愛用のバイオリンを抱えている。
「今日はこれを弾くわけじゃないんですが、用意されたストラディバリと弾き比べさせてもらおうと思いまして……。なにしろとても健康な、日本にある中でも有数のストラドだということですから」
 そう言うフィリップは、まるでこれからピクニックに行く少年のような無邪気な笑顔を見せている。
      
 番組の収録は、都内の小さなコンサートホールで行われた。
 リスナー役の出演者たちは既にホールに集まっていた。
 番組を企画し、セッティングした岸田の姿も見える。
 フィリップについてきたベーシストのジョージやギタリストのステファンは、人目につかないようにホールの後方に座った。エンジニアのボブは、好奇心に満ちた目で、テレビ局のスタッフの動きを追っていた。
 ホールの中央に、椅子が何列か外されたスペースがあり、そこに長いテーブルがセットされていた。ここがリスナー席らしい。
 そこで、スタッフの一人と口論している老人がいた。
「……そういうふうには私は聞いていないよ。解説者ということではなかったのかね? 私もテストされるのかね?」
「いえ、テストというわけでは……。もちろん総括的な解説はお願いしたいと思っているのですが……」
「だったらクイズの解答者のような真似はできないね。あくまでもトータルな解説ということで引き受けたのだからね。そうではないというならば、話が違うわけだから、出演はお断りしますよ」
 クレームをつけているのは日本のクラシック音楽界のドンとも呼ばれている添多征一だった。
 百八十センチ近くある巨体と額から大きく禿げあがった頭。一見すると音楽家というよりはヤクザの親分のようだ。
 添多はかつては日本を代表する名バイオリニストとして活躍していたが、現在は演奏家としては第一線を退いている。
 持ち前の政治力と、政界、財界の強力な人脈を背景に、十数年前、幼稚園から大学までそろった音楽教育主体の総合学園「添多学園」を創設し、理事長を務めている。現在、日本のクラシック界ではいちばんの発言力を持っている大御所だ。
 養女の添多ひかりはまだ二十歳そこそこの若手だが、日本はおろか世界的レベルを目指せると評されるバイオリニストだ。
 添多学園のPRや主催コンサートなどで活動しているが、一部では養父の征一があまりにもひかりを可愛がりすぎるあまり、外に出さないようにしているという評もある。
「すみません。私どものミスです。先生は解答者の一人ではなく、番組全体の監修者ということで、ぜひご出演いただきたいと……」
 プロデューサーらしい男が頭を下げ、すぐに事態収拾に動いた。
 既にテーブルに座っていた何人かの出演者たちが、一様に不愉快そうな表情を浮かべていた。
 結局、添多はみんなと同じテーブルに座るものの、他の解答者たちとは別格の「解説者」扱いで出演することになった。
 ディレクターと構成作家が慌てて台本を手直ししている。
 添多が抜けた分は、一般のクラシック愛好家の代表ということで通訳の桜木由伽が急遽出演することになった。もともとフィリップの通訳として隣に目立たないように座る予定だったから好都合だった。
 アシスタントディレクターが出演者に飲み物を運んできた。オレンジジュースだが、なぜか一つだけレモネードが用意されている。
 レモネードは添多の席に置かれた。
「飲み物まで添多大先生のは特別ですか。俺たちは別に何がいいかなんて訊かれませんでしたよね」
 評論家の湊が、隣に座っているレコーディング・エンジニアの笹本に小声で言った。
 添多とスタッフの行き違いもあって、番組収録は予定よりも三十分ほど遅れてスタートした。
「永遠の銘器と呼ばれるストラディバリウス。バイオリニストならば誰でも一度は手にしてみたい楽器ですが、実際、他の楽器とどれだけの差があるのでしょうか。
 半ば伝説化したストラディバリウスの秘密に迫るために、今回、画期的な実験をしてみることにしました……」
 司会役のアナウンサーが番組の主旨を伝え、その後は型どおり、解答者の五人と解説役の添多征一を紹介した。
 六人のゲストの紹介が済むと、ステージが暗転して、黒い蚊帳のような網目の粗いカーテンが降りてきた。
 ゲストたちには網目のスクリーンの向う側にいるプレイヤーは見えない仕組みだ。
 アナウンサーが説明を続ける。
「ここに三台のバイオリンが用意されています。まず最初のバイオリンを演奏していただきます。これをAのバイオリンと呼ぶことにしましょう。ゲストの方々には、バイオリンの形はもちろん、演奏しているバイオリニストの姿も見えないようになっています。つまり、純粋に音だけが聞こえてくるわけです。それではさっそく、Aのバイオリンの演奏を聴いてみましょう」
 よく知られたモーツァルトのバイオリン協奏曲の主題と、その変奏曲の一部が演奏される。
 時間にして約二分間。
 カメラはリスナーの表情を執拗に追っている。
 ステージ上にも二台のカメラが用意され、演奏者の顔を撮さないように、手元や楽器のアップを捉えている。
 その様子は調整室のモニターには映し出されているが、出演者たちの前に用意されたモニターテレビには映し出されない。
 この演奏者の正体を知っているのは、スタッフだけだった。
 控え室もわざと他の出演者たちとは反対側に設け、ホールへの出入りの際にも、誰にも見られないようにと厳重な警戒がしかれた。
 なぜそこまで正体を隠す必要があるのか、一部のスタッフは理解しているが、出演者たちは不審に思っていたことだろう。
 しかしともかく、その謎の演奏者による最初の演奏が終わった。
 演奏そのものは完璧だった。しかし、演奏を評価するのがこの番組の目的ではない。問題はバイオリンの音色だ。それに関しては、まだ比較すべきものがない段階なので、解答者たちはみな困惑した表情だった。
「それでは、次に二番めのバイオリンを弾いていただきましょう。これをBのバイオリンとします。最初に弾いたAのバイオリンとの音の差が分かるでしょうか? ではお願いします」
 最初と同じモーツァルトの曲が演奏される。しかし今度のバイオリンは、最初のバイオリンと比べれば、音量も音の艶も貧弱だった。
 演奏が終わる前に、手元の用紙に何やら評価を記入し始める者もいた。
 二番目のバイオリンによる演奏が終わった。
「これがBのバイオリンです。では最後に、残った三番目のバイオリンを使った演奏を聴いてみましょう」
 暗いステージで演奏者がバイオリンを持ちかえる気配がし、やがて三番目の演奏が始まった。
 これは最初の演奏にひけをとらない素晴らしいものだった。
 バイオリンの音色は明るく澄んでおり、音量も最初のバイオリンよりもむしろ豊かかもしれなかった。
 しかし、それも相当なレベルの耳を持った者にはそう聞こえるということであって、多くの素人には最初のバイオリンとの差は、全くと言っていいほど分からないかもしれない。
 実際、テレビの貧弱な内蔵スピーカーで聴いている視聴者に、その差を分かれというのは酷な話だった。
 演奏が終わっても、五人の出演者たちは難しい表情をしていた。
「さて、これで三本全てのバイオリンの演奏が終わりました。ここで少しお話を伺いましょう。音楽評論家の湊民喜さん。いかがでしょうか」
 指名された湊は、ベッコウの太い縁の眼鏡の奥の、神経質そうな目をしばたかせながら答えた。
「えー、困りましたね。この中のうちの一本がストラディバリなんですか? まいったな、これは。はっきり分かるのは、Bではないということですよね。これと残り二本のバイオリンの差は歴然としていますね。Bに比べると、AやCのバイオリンのほうがはるかに音が出ていますし、音質も美しいと思います」
 他の解答者も大体同じ意見のようで、隣に座っていたレコーディングエンジニアの笹本ジョーも、湊のコメントに大きく頷いた。
「ありがとうございます。湊さんは、Bのバイオリンよりは、AやCのバイオリンの方がいい音だという評価のようですね。ではここで、三本のバイオリンの音を、オシロスコープで波形にしたものを見てみましょう。これがA、これがB、そしてこれがCです」
 解答者たちの前に用意されたモニターテレビに、三つの波形が映し出された。
「これを見る限りでは、三つともほとんど同じような波形をしていますね。それでも耳で聴くと、湊さんは明らかにBは、AやCに比べると劣っているとおっしゃいます。いい音、悪い音というのは、こうして音の波形を見ても区別できないものなのでしょうか? レコーディング・エンジニアの笹本さん、いかがですか?」
「まあ……そうですね。音の世界ってのは奥が深いですからね。だからこそ面白いわけでして……」
 笹本は苦笑しながら言葉を濁した。
「そのへんのところは、実際にバイオリンを演奏されるバイオリニストはどうお感じになっているんでしょう?」
 今度はフィリップが感想を求められた。
「素晴らしい演奏でした」
 通訳がうまくなかったのか、フィリップはとんちんかんな答えをした。
 司会者が困って、質問をし直した。
「カルノーさんは、三本の中でどのバイオリンがいちばん気に入られたでしょう?」
「そうですね、私は今の、三本目のバイオリンがいちばん気に入りました。ぜひ私が今愛用している楽器と比べてみたいですね」
 フィリップの英語のコメントを、隣に座った由伽が通訳した。
「カルノーさんご愛用のバイオリンは、どういうものなんですか?」
 司会者が訊いた。
「カルロ・ベルゴンジです。作られたのは一七四四年ですが、その後、幸か不幸か、バイオリニストよりもコレクターの手に渡っていた時期の方が長かったので、私はまだこの楽器の三人目の使用者なのです。私が手に入れてから、もう四十年近くになりますが……。 かつて私がまだ駆け出しの頃、ファンの一人に大変なお金持ちがいましてね。その人が遺書に『私のバイオリン・コレクションのうちの一本を、フィリップ・カルノー氏へ進呈する』と書いてくれていたんです。
 彼のコレクションはそれはもう見事なものでした。ストラド、ガルネリ、アマティ……全部弾かせていただいて、迷いに迷った末に、これをいただくことにしたんです。それ以来、ずっとこのベルゴンジと一緒です。でもこのベルゴンジとの出合いは、同時に悲しい別れも引き起こしました」
「その方が亡くなられた……」
「ええ、それもそうなんですが、私がそれまで愛用していた名もないバイオリンと別れる羽目になってしまったんです。いろいろな苦しみを共にしてきたバイオリンだったのに、やはりこれと比較してしまうと、もう弾く気にはなれなかったんです。私も残酷な人間です。今でもフランスの家に大切に保管してありますが、弾かれない楽器なんて、死んだも同然ですから……」
 フィリップはまるで犯罪者が罪を告白するような表情でそう言った。
「それもぜひ聴いてみたいものですね。もしできれば、後で特別コーナーとしてやっていただくとして、その前にストラディバリの秘密に戻りましょう。他の方のご意見はどうですか?」
「私は、最初のバイオリンの音色も悪くなかったと思いますよ。渋い味わいがあって」
 バイオリン製作者の西丘が言った。
「でも、僕はやっぱり今の三番目のバイオリンが好きだなあ」
 エンジニアの笹本がすかさず反論する。
「そうですね。音の張りというか、エネルギー感のようなものが違うんですよね。これは名器ですよ」
 湊も同調した。
「では、ここでみなさん、A、B、Cそれぞれのバイオリンについて、評価の高いものから順に並べてみてください。用意されているボードに順番に書いてみてくださいますか?」
 司会者の要求にしたがって、五人のリスナーはそれぞれボードにアルファベットを書き記した。
「では一斉にお見せください」
 五人がボードを見せる。
 その五枚のボードを、カメラが捉える。
 笹本、湊、フィリップの三人が「C-A-B」の順に、そして西丘と由伽が「A-C-B」と並べた。
「興味深い結果になりました。みなさんBのバイオリンがいちばん下になっていますが、AとCに関しては評価が分かれましたね。ではここで、実際に使用したバイオリンをみなさんにご覧いただきたいと思います」
 司会者の言葉に合わせ、アシスタントがキャスター付きの細長いワゴンを押してきた。ワゴンの上には三本のバイオリンが並んでいる。
「ここで、添多学園の理事長であり、日本のクラシック音楽演奏のレベルを世界的に高めた名バイオリニストでもいらっしゃる添多征一さんに解説をお願いいたします」
 司会者に促され、添多はワゴンの前に進み出ると、政治家のような押し殺した笑みを浮かべながら話し始めた。
「バイオリンというのは極めて完成された楽器でして、例えばデザインなども、もうこれ以上改良の余地が残されていない程完成されているんですね。ですから、理屈では、例えば名器と言われるストラディバリを完璧にコピーして同じような楽器を作れば同じようにいい音がしそうな気がするのですが、これがそうはいかないわけです。どんなに真似しようと思っても、なぜか同じ音はしてくれないんですね。材料の品質などもあるでしょうし、ニスに秘密があるとも言われています。でも、結局は最後の部分は謎なんですね。
 さて、今回の三本は、名器ストラディバリの他に、楽器店で数万円で売られている入門者用のバイオリン、そして国産の手作り高級バイオリンという内容です。みなさん、さすがに数万円のバイオリンはすぐに区別がついたようですね。このBのバイオリンがそうですね」
 そう言うと、添多はワゴンの真ん中のバイオリンを手にとって、カメラのほうに示した。
「一見してニスの塗りが安っぽいですね。木目も……いや、このクラスになると合板かもしれないし、合板ではないにしろ、安物のスプルースでしょうから、木目を云々すること自体意味がないかもしれません。ほら、糸巻きなども、安いエボニーで……」
 そう言いながら、添多は弓を取ってBのバイオリンを弾いた。
「こうして弾いてみても、音色が浅く、ギスギスした感じで、耳が疲れます。プロのバイオリニストにしてみると、これは極端な話、バイオリンとは言えないかもしれません」
 そう言うと添多はBのバイオリンを元に戻した。
「問題は残りの二本ですが……」
 添多はそう言いながらも、迷わずCのバイオリンを手にして、まじまじと見つめた。
 その様子を見守る西丘の目が鋭く光った。
「……素晴らしいですね。今日のこの実験にストラディバリが用意されるとは聞いていたのですが、数あるストラディバリの中でも『グレフューレ』が用意されていたとは知りませんでした。この、サイドに施された見事な装飾……素晴らしいですね。これはストラディバリの装飾バイオリンの中でも最も凝った装飾が施されている『グレフューレ』ですね。確か一七○九年の作品です。これがCのバイオリンの正体でした。さすがにプロのバイオリニストやクラシックの評論を仕事となさっている方々は耳が確かでしたね。Aの国産バイオリンもよくできてはいますが、やはり本物のストラディバリの前では……」
「あ、あの……、ちょっと待ってください……」
 得意顔で説明する添多を、司会者が制した。
 解説を遮られた添多はむっとした顔で司会者を見返したが、次の瞬間、表情をこわばらせながら、手にした装飾バイオリンをもう一度まじまじと見つめた。
「ワッハハハハハハ……」
 ホール中に響き渡るような笑い声が起きた。
 西丘だった。
「添多先生、お誉めに預かって光栄ですね。それは俺が作ったバイオリンですよ」
「まさか……」
 添多は怒りと恥辱に震えながら、手にしたバイオリンと西丘を交互に見比べた。
「カメラを止めたまえ! こんなふざけた番組は絶対放送させん」
 添多はバイオリンを荒々しく台の上に戻すと、プロデューサーの方に歩み寄った。
「カット!」
 ディレクターの声が飛んだ。
 番組収録は完全にストップしてしまった。
 ディレクターがおろおろしながら添多をなだめている。
「いえ、私はAがストラディバリだと申し上げ……」
「聞いてない! まさかグレフューレのコピーが混じっているとは思わないだろうが。これは最初から私を陥れるために仕組んだ番組なんだろう」
「いえ、とんでもない。そんな……」
 添多はカメラが止まったのを確かめると、凄い剣幕でスタッフに食ってかかった。
 その様子を、他のリスナー役の出演者たちが、呆れ顔で見守っていた。
 揉めている添多と番組スタッフをよそに、フィリップは一人席を立つと、バイオリンが置かれている場所に行き、西丘が作ったという「グレフューレ」のコピーモデルを手にした。
 ストラディバリの「装飾バイオリン」は、世界でも十数台しか残されていないない。「ヘリエ」「サンライズ」「オレブル」「グレフューレ」などが知られているが、グレフューレは側面に動物や鳥の絵柄が描かれている相当凝ったもので、フィリップも写真でしか見たことがなかった。
 一ミリに満たない細い曲線が連続する象嵌。埋め込んであるのは貝だろうか骨だろうか。しかも、コピーにありがちないじけたか細い線ではなく、細部に渡るまで勢いがある。
 フィリップは魅入られるようにそれを左の肩に乗せ、弓を取り、音を出してみた。
 ホールに、甘く、力強いバイオリンの音が響き渡った。
 その瞬間、言い争っていた者たちも、その争いを見守っていた者たちも、一斉にフィリップのほうを見た。
 フィリップはかまわずアドリブのメロディーを弾いた。
 弓の微妙な動きに合わせて、きちんと反応する鳴りのよさ。輪郭が太く、それでいてピアニッシモのときでも、消え入りそうになりながらも途切れずに美しい音の筋を残す腰の強さ……。
 素晴らしい楽器だった。
 ひとしきり弾くと、フィリップは軽いため息をつき、西丘のほうを向き直って言った。
「西丘サン。岸田サンから聞いていましたが、あなたは本当に素晴らしい人だ。現代のアントニオ・ストラディバリウスかもしれない」
 フィリップが言った英語は、西丘には半分しか分からなかった。しかし、誉められていることは分かったので、たちまち相好を崩した。
「あなたは現代のストラディバリウスだとおっしゃってます」
 由伽がおずおずと通訳した。
「とんでもない。ストラディバリウスはバイオリンという素晴らしい楽器を完成させた天才でしょ。俺はそれを必死で真似ているだけの凡人ですよ。とてもたちうちできない。だからこそ俺はストラディバリウスに敬意を表して、Aのバイオリンに最高点をつけたのさ。
 俺にも、どのバイオリンがどれかは知らされていなかったが、自分が作った楽器の音色くらいは分かるさ。もちろんBが安物だってこともね。
 ただね、現代だって、きちんとした技術と良質の材料さえあれば、いい音が出る楽器は作れるんだってことを証明してみせたかったんだよ。みんな国産バイオリンに対して偏見を持ちすぎているんだ。ストラディバリやガルネリに負けない新作バイオリンは存在するんだよ」
「思い上がりだ」
 添多が言った。
「そうかね。事実あんたも見分けられなかったじゃないか」
「いや、ストラディバリにしては音に品がないとは思ったんだが、装飾のこけおどしについだまされたのさ」
「装飾にだまされた……か。それこそあんたの勉強不足と偏狭さの証明じゃないか。ここ数年、日本のバイオリン製作者も、この程度の装飾バイオリンは作るようになってきたんだ。国産楽器に見向きもしようとしないあんたならではのミスだね」
「おまえにバイオリンについて説教されるつもりはない。とにかく私はこの番組の放送は許さない」
「あんたにそんな権限があるのかね」
 再び収拾がつかなくなりそうになるところを、ディレクターが割って入った。
「分かりました。放送するかどうか、あるいは添多先生の出演を編集するかどうかというようなことは後でゆっくりご相談するとして、ここはとにかく番組をとりあえず最後まで収録させてもらえませんか。みなさんお忙しい身ですし、ここのホールで収録する分だけでも片付けたいんですが……」
 添多とスタッフの話し合いはそれからさらに暫く続いた。
 スタッフの説得で、添多も少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
 ようやく妥協点が見つかったらしく、とりあえず全員が席に戻ったところで、収録が再開された。
「では、解説などは後日スタジオで撮り直すということで、番組の最後を飾る、フィリップ・カルノーさんの演奏を収録させてください。フィリップさんがご自分でいちばん気に入ったバイオリンを使ってデモ演奏をされるという……」
 フィリップは迷わずにCのバイオリン……つまり、西丘が作ったストラディバリの「グレフューレ」コピーモデルを選んだ。
 そのバイオリンを持ってステージに上がる。
 それを西丘は誇らしげに、添多は苦々しく見送った。
 今度は演奏者を遮るスクリーンはない。普通のコンサート同様、ステージが明るく、客席は暗くされた。
 フィリップは今日の実験に用いられたモーツァルトのメロディーを弾き始めた。
 主題をていねいに弾いた後、次第にそれを崩して、アドリブを始める。ジャズバイオリニストならではの自由奔放な演奏だ。
 とても七十八歳の老人とは思えないしっかりした弓さばき。
 ホールの中には心地よい緊張感がみなぎった。
 フィリップによって、西丘の作ったバイオリンはさっきまでとはまた少し違った艶やかさを発揮しているようだった。
 五分少々にまとめあげ、フィリップは演奏を終えた。
 ぶっつけ本番の演奏にしては、かなり満足のいく演奏だった。
 しかし、客席からは、拍手の代わりに妙なざわめきが聞こえてきた。
「明かりをつけて! 客席を明るくして」
 ディレクターの声が飛ぶ。
 客席の中央に設けられたゲスト席には人垣ができていた。
 その人垣の中で、添多征一が倒れていた。
「救急車だ。早く!」
「いや、脈がないぞ。人工呼吸を……」
 異常事態を知ったフィリップが、おぼつかない足どりでステージ横の階段を一歩一歩踏みしめるように降りていくと、小さな人影がホール最前列横のドアから飛び込んできて、人垣のほうに走っていった。
「お父様!」
 それは黒いドレスを着た小柄な少女だった。
 いや、少女のように見えるが、少女とは言えない。小柄で童顔だが、大人の色香も漂わせる美女だった。
「お父様!」
 驚いて振り返る人々に向かって、その美女は叫んだ。
「心臓の発作なんです。お薬がポケットにあるはずです」
 しかし、添多征一はもう薬を飲むこともできなくなっていた。

      ∇‡∇
 添多は目を剥き、物凄い形相で死んでいた。
 上質のスーツの前は、倒れたときにこぼしたのだろう、レモネードでびしょびしょに濡れていた。
 駆けつけた救急隊員は、一通り状態をチェックし、そのまま引き上げていった。
 添多が以前から心臓病を患っていたということは、クラシック音楽関係者の間ではかなり広く知れ渡っていた。その場に居合わせた他のゲスト出演者たちも、ミキシング・エンジニアの笹本を除く全員がそのことは知っていた。
 添多が急死したことはもちろん衝撃的だったが、出演者たちの中には、それまで覆面で演奏していたバイオリニストが添多の養女・ひかりだったことを知って驚いている者も少なくなかった。
 特にバイオリン製作者の西丘は、添多の遺体のそばでうなだれる美女の姿を、何か幽霊でも見るような目で見つめていた。
 そのひかりの肩に、フィリップがそっと手を置き、何か一言ふた言呟いた。
 ひかりは何度も頷くようにしていたが、フィリップと岸田に両脇から抱き抱えられるようにして、ようやく添多から離れた。
 岸田とフィリップは、そこにひかりがいることに別段不思議を感じている様子ではなかった。二人は最初から今日の覆面バイオリニストがひかりだということを知っていたかのようだ。
 それ以上に、フィリップ、岸田、ひかりの三人は、まるで家族のようにも見えた。岸田とひかりが兄妹で、フィリップはその二人を日頃から可愛がっている祖父……というように。
 番組収録は目茶苦茶になった。
 出演者たちは一旦ホールのロビーに集められた。
「自分が日頃馬鹿にしている国産のバイオリンをストラディバリと間違えて、カッカして頭に血が上って、それが心臓に響いたんでしょうかね」
 湊がまるで番組の解説の延長のような口調で言った。
「私たちもあのグレフューレのコピーモデルにはまんまとだまされましたからね。国産バイオリンの実力……というか、西丘さんのバイオリン製作の腕はこれで十分に証明されたわけですが、皮肉にもこれでは番組はお蔵入りでしょうな」
「それにしても黒いカーテンの向こうでバイオリンを弾いていたのが娘さんの添多ひかりさんとは、思いもよりませんでしたね。岸田さんは知っていたんですか?」
 笹本が言った。
「はい。この番組を企画したのは、実は僕なんです」
 岸田が告白した。
「西丘さんのバイオリンは、僕も愛用しているんです。でも、バイオリニストを始め、クラシックの専門家はみな国産バイオリンというものをなかなか認めようとしないんですよ。それで、西丘さんの名誉のためにも、一度公の場所で権威ある人たちに国産バイオリンの実力を認めさせるようなチャンスが作れないかと思い、テレビ局にいる友人に企画を持ち込んだんです。
 フィリップさんやひかりさんに出演交渉をしたのも僕です。
 しかし、ひかりさんは添多理事長の許可がないと全く行動ができない状態なんです。出演するコンサートやコンクールなどは全て理事長が選んだものだけで、彼女は自分でスケジュールを決めることもできないんです。ご存じのように、添多理事長はガチガチのクラシック保守派で、ジャズバイオリンなどというものも認めていないし、国産バイオリンのこともハナから馬鹿にしていましたから、もちろん正直に相談したりしたら駄目だと言われるに決まっている。そこで完全な覆面出演ということにしたんです」
「なぜ、そこまで彼女の出演にこだわったの? あなたが自分で弾けばいいじゃない」
 湊が訊ねた。
「彼女をフィリップさんと共演させるための布石ですよ。今回のフィリップさんのコンサートで、僕はゲストとして一、二曲共演することになっていますが、本当はひかりさんが共演するという計画があったんです。
 実はひかりさんは十一歳から十三歳にかけて、フランスに音楽留学しているんですが、そのときにフィリップさんに直々にジャズバイオリンの奏法を伝授してもらっているんです。彼女は本当はアドリブ・プレイなども物凄いんですよ。でも、ご両親が亡くなられて、添多理事長に引き取られてからは、そういうものは全て邪道だとして厳禁されていたわけです。フィリップさんとしては、成長した彼女ともう一度一緒にアドリブ・プレイの応酬をしてみたいと願っていたんです。
 今度の日本公演はその最後のチャンスかもしれないと心に秘めておられたようで、来日前から僕はフィリップさんからその希望を聞かされていました。僕自身、フィリップさんとの共演は夢だったんですが、それ以上に、ひかりさんとフィリップさんの共演を見てみたいという気持ちもありました。それを実現するために、いろいろとお手伝いしたかったわけです。
 この番組にひかりさんを出演させるというのもその一環でした。つまり、この番組での覆面演奏者が誰かということが話題になり、いずれはひかりさんだと分かるはずですが、そういうジャブを打ちながら、少しずつ添多さんの頑固な意志を崩していきたいと……」
 岸田の説明に、一同はじっと耳を傾けていた。
 通訳の由伽は、岸田のその言葉をフィリップに通訳していいものかどうか迷っている様子だったが、岸田の言葉が一段落したところで、小声で、手短に通訳した。
「要するに、この番組の裏には、随分と込み入った思惑がいろいろとあったわけですね」
 笹本がいささか不愉快そうに言った。
「私などは一方的に利用されたということになるのかな。しかしまあ、ショックで亡くなった添多さんがいちばんの被害者だろうね」
 湊も岸田に責めるような視線を向けながら言った。
 岸田は黙ってうつむいた。
 由伽はさすがにもうフィリップに通訳するのをやめていた。
 フィリップは心配そうに、岸田とひかりの顔を交互に見ていた。
「誰のせいでもないでしょ、これは。要するに事故なんだから。岸田さんにも何の責任もない。妙な言い方はやめましょうや」
 それまで沈黙を守っていた西丘が言った。
 その言葉に答える者はいなかった。
 所轄署の刑事が現れるまで、ざらついた沈黙が続いた。


3/5

      ∇‡∇
「会いたかった……。本当に、この日の来るのをどれだけ待ち焦がれていたか」
 玄関ホールに他の出演者たちを残し、ひかりの控え室に入ったフィリップは、ひかりの細い肩を抱いて、フランス語でそう言った。
 部屋には他に、フィリップの後を追ってきた通訳の桜木由伽、そしてひかりに付き添うようにしていた若いアシスタントディレクターがいたが、二人ともフィリップの言葉を理解できなかった。
 ディレクターはフランス語が分からなかったので、多分養父が突然死んでしまったことに対する慰めの言葉を言っているのだろうと思っていた。
 由伽はもちろんフランス語は分かっていたが、フィリップとひかりが以前どういう関係にあったかを知らなかったので、なぜこんな状況でそうした言葉が真っ先に出てきたのかが理解できなかった。
「私もずっとお会いしたかったんです。すみませんでした」
 ひかりはうつむきながら、フランス語でそう答えた。
 しかし、もう長いこと使っていなかったためか、それだけのことを言うのも随分大変そうだった。
「大丈夫。全てがこれからはうまくいきます。何も心配はいらない。私はもちろん、岸田さんも君の見方です。気持ちを落ちつけて、神様のご指示を待っていればいい。大丈夫、大丈夫……」
 フィリップは何かの呪文のように、「大丈夫」という言葉をゆっくりと何度も繰り返した。
 由伽は何も言えず、抱き合ったままの二人を遠慮がちに見ていた。

      ∇‡∇
「まいったね、本当に殺人事件なの? このところ、事件ラッシュって感じだね」
 鑑識からの報告を聞くなり、皆川警部は部屋中の人間に聞こえるような声でそう言った。
 皆川は五十一歳のベテラン刑事だ。
 身体は細いのだが、声だけは朗々としたバリトンで、たまに仲間内でカラオケ大会などがあると、物凄い声量で『エーデルワイス』や『マイウェイ』を歌い上げるので嫌われている。
 その声の十分の一ほどのか細い声で、鑑識課の渡辺が説明を続けた。
「添多氏が飲んでいたレモネードのグラスから毒物が検出された以上、単純な心臓発作で片づけるわけにはいかないでしょう。司法解剖の結果、体内からも同じ毒物が検出されましたし……。毒物はアコニチンで……」
「なんだ、そりゃ?」
「トリカブトなどに含まれる猛毒物質です。青酸カリの百倍という毒性があります」
「ああ、トリカブトか……。それが添多氏のグラスに入れられていた……と」
「ええ」
「毒殺とはなあ……まさかの展開だな」
 しかし、万一の可能性を考えて、現場からグラスを押収させたり、添多の解剖を要請するように指揮したのは皆川だった。
 添多が心臓病の持ち主だということで、最初に現場に行った刑事は単なる病死と思いこんでいた。
 その報告を受けた皆川は、しかし念のために……と、解剖や器物回収を命じたのだ。長年刑事を勤めてきた勘が働いたのだろう。
 皆川が命令しなければ、添多の死は今頃ただの病死として片づけられていたかもしれない。
「こんなことなら、現場にいた連中を缶詰にして、徹底的に持ち物検査とかをしていればなあ……。今となっては後の祭りだがな」
 皆川は、そばにいたまだ三十になったばかりの綾部刑事に、嫌みたっぷりにそう言った。
 綾部は現場に最初に出向いており、心臓発作による突然死らしいと皆川に報告していた。
「申し訳ありませんでした。まだまだ甘いです」
 綾部は深々と頭を下げた。
 皆川はそんな綾部のほうを見もせずに言った。
「それにしてもまいったなあ。俺のとこだけでもここ二週間で二件も事件抱えてるしなあ」
 皆川警部が率いる捜査班では、現在、二件の女性変死事件を捜査中だった。
 一つは十七歳の少女がラブホテルで首を絞められ死んでいたという事件。少女はごく普通の高校生だったが、どうやら売春をしていたらしい。
 もう一つは、一人暮らしの独身中年女性の変死事件。死後一カ月ほど経って発見されたので、死因の究明に苦労したが、薬物による中毒死、あるいは毒殺か服毒自殺の疑いもあるということだった。
 いずれもまだ捜査に乗り出したばかりで、解決のめどは立っていない。
 皆川が「まいった」を連発する裏には、本心としてはこの有名人毒殺事件を担当したいのに、この状態ではできない……という悔しさがあった。
 結局、添多征一毒殺事件捜査本部は、皆川が日頃からライバル視している同期の警部、有賀義治の指揮下に置かれることになった。
「自分で事件性を証明したヤマだっただけに、本当は俺なんかにやらせたくないんだろう?」
 有賀警部は禿げあがった額を手の甲でこすりながら、皆川に言った。
「まあな。しかしまあ、俺の方も手一杯だし……よろしく頼むよ」
 皆川は本当に悔しそうにそう言った。

      ∇‡∇
 ホテルのフィリップの部屋に二人の刑事が訪ねてきたのは、添多征一が急死した二日後だった。
 一人は有賀義治。頭が薄くなった五十代のベテラン警部。柔和な顔立ちだが、時折目だけがぎらりと光る。
 もう一人は富田恭比古といい、まだ三十代の警部補だった。富田は背が低いが、スポーツ刈りで、ごつい顔つきをしている。レスリングの選手で、学生時代は国体にも出たことがある。
 二人とも、判で押したようにくたびれたダークグレーのスーツを着ている。
 フィリップの部屋には、通訳として由伽も同席していた。
 フィリップも由伽も、富田警部補のほうには見覚えがあった。添多が倒れた現場に最初に駆けつけた刑事の一人だったからだ。
「困ったことに、添多征一さんの死は、単なる病死とは片付けられなくなりました」
 開口一番、富田がそう告げた。
「どういうことでしょう?」
 警部補の言葉を通訳するのも忘れて、由伽が問い返した。
「司法解剖の結果、体内から毒物が検出されたんです。さらには、添多さんのために用意されたレモネードのグラスからも、同じ毒物が検出されました」
 富田警部補が無表情に言った。もともと感情表現が乏しいタイプらしいが、通訳を通すという意識があるせいか、ますます声に抑揚がなくなっている。
 由伽の通訳を聞いたフィリップは、返事をする代わりに、大きく見開いた目に精一杯の驚きを込めて二人の刑事を見た。
「レモネードはホールの隣にある喫茶店から出前させたもので、喫茶店のアルバイトのウェイトレスが持ってきて、テレビ局のアシスタント・ディレクターが受け取っています。受け取ってから三十分近く、ホールの右側通路にあるテーブルの上にラップを掛けて置かれていて、収録の直前にホール内に同じアシスタント・ディレクターが運んでいます。
 喫茶店のほうは既に調べましたが、ここで毒物が混入されたということはあまり考えられません。飲み物を用意したマスターも、運んだウェイトレスも、それを誰が飲むかなど、全く知らなかったわけですからね。
 ということは、飲み物が通路に置かれているときに何者かが毒を入れたか、あるいは席に運ばれてから、添多氏が口にいれてショック死する前に入れたかということになります……」
 富田は事務的な口調でそう説明しながらも、綾部刑事と二人で最初に現場を見ていながら、まさか殺人事件だとは思わなかった自分の甘さを悔いていた。現場を見ていないのに何か疑問を感じ、遺体の司法解剖やグラスの回収を命じた皆川の姿勢にはほど遠い。
 富田は、同時通訳をしている桜木由伽に向かってこう訊いた。
「ホールの中では、司会者も含めてゲストの皆さんは同じ長いテーブルに横一列になって座っておられたわけですね」
「はい」
 通訳を途中で一時やめ、由伽が答えた。
「確認しますと、いちばん左に司会者の坂田吾郎さん、その隣に亡くなられた添多さん、その隣に西丘さん、フィリップさん、桜木さん、岸田さん、笹本さん……という順番ですね。つまり、このテーブルに飲み物が運ばれてから毒物が入れられたとすれば、添多さんの両隣の、司会の坂田さんか西丘さんがいちばん可能性があるということです。そしてもし西丘さんが何か不自然な動きをしたとすると、その隣のフィリップさん、あなたが気がつく可能性がある」
 富田の言葉を由伽の同時通訳がそこまで訳し終えたとき、フィリップは即座に首を横に振った。
「ノン。私が記憶している限り、そういうことは一切ありませんでしたよ」
「そうですか……。いや、それを伺いたかったんです。ということは、飲み物が席に運ばれてくる前に、つまり通路に置かれていたときに混入された可能性が高いということになりますからね」
 富田警部補に代わって、有賀警部が言った。
「そもそも、用意された飲み物のうち、添多さん用のだけがレモネードで、他はみんなオレンジジュースだったというのが解せなかったんですよ。添多さんがレモネードを飲むと分かっていれば、前もって毒物を入れることが可能なわけですからね。他の皆さんは飲み物のリクエストを訊かれていないと言うし……」
「私たちも何も……」
 由伽が答えた。
「そうですか。その点は既に喫茶店に注文したアシスタント・ディレクターに確かめたんですが、添多さん用にレモネードを注文してくれというのは、ひかりさんからの指示だったそうです。添多さんがオレンジジュースが嫌いで、喫茶店などで注文するのはいつもレモネードだからレモネードにしてほしいということだったようです。ひかりさんにその点を確かめたところ、彼女もそれを認めていました。
 ひかりさんはみなさんがホールに入る前に、単独でスタッフと打合せをしているんですね。みなさんと顔を合わせないようにという配慮で、別室で。そのときにそういう話があったそうなんです。
 アシスタント・ディレクターとしては、本当はテレビの画面に映ることもあるので、オレンジジュースで統一したかったらしいのですが、添多氏がいろいろと気難しい性格だということは聞いていたので、まあいいだろうといいうことで、一つだけはレモネードにしたんだそうです」
「待ってください」
 フィリップがフランス語で言った。
 由伽がそう訳す前に、有賀警部は話すのをやめた。
「あなたがたは結局こう言いたいのですか? あのホールに居合わせた人物のうち誰かが、添多さんに故意に毒を飲ませ、心臓発作に見せかけて殺したと」
「そうです」
 由伽の通訳を聞き終えるなり、有賀警部がきっぱりと答えた。
「誰が、何のためにですか?」
 フィリップはやや顔を紅潮させて、さらに訊いた。
「それをこれから調べるわけです」
「調べるのは結構でしょう。でも、あなたがたは大切なことを一つ忘れています。添多さんは自殺したのかもしれない。自分で飲み物に毒を入れて飲んだのかもしれない」
 フィリップの言葉に、二人の刑事は暫く沈黙した。
「ええ、可能性はないとはいえません。しかし、それこそ理由が希薄ですね。番組収録中に耐え難い恥をかいたので、発作的に自殺したとでもいうんですか?」
「芸術家というのは、普通の人間には理解しがたい価値観や感情を持っているものです」
 フィリップは穏やかな口調で、諭すように言った。
「貴重なご意見として承っておきましょう」
 有賀警部はそう答えると、ゆっくり立ち上がった。
「今のところ、分かっていることはこれだけです。カルノーさんはまだ公演がこれからあって、しばらくは日本に滞在なさるとか、また何か伺うことがあるかもしれませんので、ひとつご協力をお願いします。桜木さん、あなたも」
「ええ、もちろん……」
 由伽は警部の言葉を通訳する前に、反射的にそう答えた。

 刑事たちが部屋を出ていった後、フィリップはソファに座ったまま頭を抱え、何度も大きなため息をついた。
 由伽はその場に残っていていいものかどうか分からず、椅子から立ち上がったまま、黙ってフィリップを見ていたが、その表情があまりにも暗かったので、「大丈夫ですよ」と、とりあえずは気休めを言った。
「ウィ。大丈夫、大丈夫……」
 フィリップは由伽が言った言葉を、呪文のように繰り返した。

      ∇‡∇
 ホテルに刑事たちが訪ねてきた二日後、フィリップは東京公演の第一日目を迎えていた。
 会場はクラシック音楽中心の由緒正しい音楽堂の小ホール。PAも最小限度のものしか使わず、極力生の音に近いコンサートにするという演出だった。
 音響エンジニア・ボブの繊細な耳が、コンサートホールの特性に合わせて、絶妙のミキシングポイントを探る。生音と拡声音の比率を、楽器毎に決めていく作業がかなり難しい。
 PAのバランスをチェックしながら、二、三曲レパートリーをこなすと、フィリップはゲストの岸田とのセッションを望んだ。
 本当は添多ひかりと一緒にやりたかったが、ひかりは養父の死のショックや葬儀の疲れなどから、今回は遠慮したいと申し出ていた。
 岸田はバイオリンを二台持ってきていた。
 一台は先日の番組で使われた、西丘九平が作ったアントニオ・ストラディバリウス作「グレフューレ」のコピーモデルだ。
「西丘さんはこれを、できればフィリップさんにモニターしてほしいと言って僕に託したんですが、どうですか?」
「私からお願いしたいところでしたよ」
 フィリップは、岸田とのセッションでは、そのバイオリンを使ってみることにした。
 フィリップは高齢のため、長時間立っていることさえ辛い。コンサートでも座ったまま演奏している。ステージ上の絵作りの観点から、それに合わせて、ギタリストのステファンも座って演奏する。
 岸田とのセッションでは、座ったフィリップの横に、長身の岸田が立った。二人並ぶと、祖父と孫のように見える。
 岸田とのセッションのために選んだ曲は『チュニジアの夜』。テーマを三度のハーモニーで構成し、その後、岸田がソロに入る。
 三十二小節のソロの後、今度はフィリップがソロを取る。さらにその後、二人が絡み合うアドリブがあり、テーマに戻る……という構成だった。
 岸田は力強い演奏でフィリップの期待に応えた。
 フィリップも岸田のパワーをしっかり受け止め、寸分の狂いもないハーモニーを築き上げる。
 ソロの応酬も息詰まるような名演奏だった。
 攻撃的な岸田のソロに対して、フィリップはなめらかで懐の深い独特のアドリブフレーズを展開する。
 速弾きにおいても、フィリップは七十八歳とはとても思えない確かな技術を見せつけた。皴だらけの太い指が、象嵌がほどこされた細いネックの上を素早く、力強く征服していく。
 その巨人の演奏に、岸田も物怖じすることなく正面からぶつかる。普段、オーケストラのコンサートマスターとして演奏している岸田とはまた別人の演奏だった。
 曲が終わると、期せずしてスタッフやバックのステファンとジョージから拍手が起こった。
「岸田サン、素晴らしい演奏でした。あなたのようなバイオリニストが育ってきているのを見届けながら、私は安心して死んでいけますよ」
 フィリップは隣に立っている岸田を見上げながら英語で言った。
「ありがとうございます。僕もフィリップさんと共演できるなんて感激ですよ」
 岸田がやや紅潮した顔で、やはり英語で答えた。
「あなたの迫力に押されて、少し頑張りすぎてしまったようです。ちょっと休憩したい。楽屋でお茶を飲みましょう」
 フィリップは椅子の縁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
 ステファンが手を差し出す。
 演奏しているときの超人的な指の動きからは想像できない、足腰が弱った、ごく普通の老人の姿に戻っているフィリップに、ミキシングをしていたボブが声をかけた。
「いいバイオリンだね、フィリップ」
「三十年以上連れ添ってきたベルゴンジが嫉妬しているよ。私が浮気をしようとしているのを感づいているんだ」
 ステージに残された愛用のベルゴンジを振り返りながら、フィリップが答えた。

フィリップと岸田が楽屋に戻ると、由伽が複雑な表情で待っていた。
「どうかしましたか?」
 フィリップがフランス語で話しかけた。
「それが……、西丘さんが添多さん殺害の件で、重要参考人として出頭させられたんです。西丘さんの家の庭に、トリカブトが栽培されているのが見つかったそうです。添多さんの体内から検出された毒物も、アコニチンというトリカブトの毒なんだそうです」

      ∇‡∇
 西丘九平バイオリン・ギター工房は、多摩市の住宅街の中にあった。
 フィリップと通訳の由伽を連れて岸田が工房を訪れたのは、コンサートの翌日だった。
 岸田はここをもう何度も訪れている。
 蔦の絡まるモルタルの建物が三つ、広い敷地に並んでいる。その中では二十代から三十代の若い職人が、主にギターを作っている。
 西丘の父親は腕のいい歯科医だったそうだ。
 九平は生まれつき手先が器用だったが、物心ついた頃から楽器に興味を持ち、中学生のときの夏休みの自由工作には、なんとバイオリンを一人で作ってしまった。その細部の仕上げに歯科医院のエンジン(歯を削る精密ドリル)をこっそり使ったのがばれて、父親にこっぴどく叱られたなどということもあったらしい。

 西丘の工房には、精密機械工場などに置かれている一台一千万円もするコンピューター制御の立体裁断機などもある。そうしたハイテクをも駆使して、クラシックの名器の秘密に迫ろうとしている。
 合理主義と熟練の腕は相反するものではないというのが西丘の持論だ。楽器職人としては一風変わったタイプかもしれない。
 西丘は岸田とフィリップを笑顔で迎えたが、すぐに「明日にでも逮捕されるかもしれないってえ雲行きだよ」と、心細そうに漏らした。
「トリカブトはね、俺のおまじないみたいなもんなんだ。バイオリンの(こんちゅう)にね、トリカブトの葉を煎じ詰めたものを塗るとね、いい音がするんだな。ただの気のせいかもしれない。でも、俺にはそれで何か魂が入ったように感じられるわけさ。だから、これはと思うバイオリンができたときには、トリカブトのエキスを魂柱に塗るんだ。岸田さん、あんたが使っているバイオリンの魂柱にも塗ってあるよ。家に帰ってからよく見てごらん。緑がかった黒っぽい色をしてるから」
 魂柱というのは、バイオリンの胴の中に入っている細い柱のことだ。駒の右脚の真下あたり、表板と裏板の間に挾まっているが、fホールから懐中電灯を使って覗きでもしない限り、普通には見えない。表板の振動を裏板に伝えると同時に、表板を支えている重要なパーツで、接着剤や膠でくっついているわけでもなく、デリケートなものだ。
 音に何らかの作用を及ぼすことは確かだろうが、これに何かの薬物を塗るなどということは、プロのバイオリニストであるフィリップも岸田も、未だかつて聞いたことがなかった。
「でも、警察はかなり重要視しているわけでしょう? 添多さんが死んだ直接の原因がトリカブト毒で、それがここに栽培されていたという点を」
 岸田が訊いた。
「トリカブトなんて、そのへんにいくらでも自生しているさ。もっとも、そいつを煎じてバイオリンの魂柱におまじない代わりに塗るなんて言っても、連中には理解できないみたいだったな」
「まあ……そうでしょうね。でも、動機はどうなんです? 西丘さんには動機がないでしょう? いくら添多さんと普段から仲が悪かったとは言っても、殺す動機としては弱いですよね」
「それが……まあ、そうでもないんだな。俺も驚いたんだが、連中は昔のバイオリン偽造事件のことまで調べていてね」
 西丘はいわくありげな表情で言った。
「バイオリン偽造事件?」
 岸田が問い返したが、西丘はすぐには言葉を続けなかった。
 西丘が言い淀んでいる間に、二人の会話を小声で通訳していた由伽が話題に追いつき、それを聞いていたフィリップが薄くなった白髪まじりの眉を大袈裟に動かして見せた。
「まあ、訴訟ざたにならなかったという意味では、正確には事件には至らなかったのかもしれん。しかし、被害者というか、だまされた者がいたという意味では、事件には違いないだろうな」
 由伽の通訳がひと区切りするのを見届けたように、西丘がゆっくりと説明し始めた。
「俺と添多征一は同じ新潟の生まれでね。あいつはバイオリニスト、俺はバイオリン製作者と、それぞれ目指した道は違っていたんだが、若い頃は一緒に朝まで呑み明かしたりもする仲だったんだ。
 俺は歯医者だった親父の後を継ぐべく歯科大学へ進んだんだが、本当は医者なんて全然なりたくなかった。で、親父が死んだ直後、退学してこの工房を作った。お袋は親父が死ぬ二年前に死んでいたし、もう誰に気兼ねすることもなかったわけさ。親父の残した財産を、俺の生涯の夢のための資金にしたわけだ。
 しかし、工房を作って数年は、全く商売としては成り立たなかった。国産のバイオリン……それも個人工房の若造が作ったバイオリンなんて、プロには音を試してももらえなかったわけさ。
 それでも、バイオリニストとして売り出し始めていた添多に何台も試奏してもらったりして、俺は腕を上げていった。
 商売のほうはギターを作ることでなんとか維持し続けた。ギターのほうは結構売れてね。西丘の手工ギターといえば、演奏家や楽器店でも多少は評価してくれるようになった。
 そして十年くらい前かなあ、俺も添多も脂が乗り切った頃の話さ。添多は俺に、ストラディバリやガルネリの完全コピーを作れと持ちかけてきた。わざとニスを古めかしく仕上げたりしてね。一目で新作だとわかるピカピカしたような楽器は、いくらいい音がしても押し出しがきかないっていうわけさ。
 見栄っぱりのあいつらしい申し出だと思ったがね。俺としては、それまでも世界の名器については研究しつくしていたから、それほど抵抗のある話じゃなかった。
 そもそも、現代のバイオリン製作っていうのは、ほとんどがストラドやガルネリのフルコピーのことさ。わざと古く見せるために、ニスをかすれたように塗ったりもする。添多に言われる前から、俺だってそうした技術は嫌々磨かされたもんだ。
 それにしても、新作バイオリンってのはなんでこうも散々な扱いを受けるのかねえ。
 日本では、五十万円くらいまでのバイオリンだと、音のことなんかほとんど問題にされないといってもいいくらいなのさ。どこの国の誰が、いつの時代に作ったのか、ニスのムードはどうか、裏板のモクの柄はどうか……そんなことばかりが問題にされて、かんじんの音はその後の問題にされている。
 まあ、仕方ないなと思いながら、俺は精一杯それらしいストラドやガルネリのコピーモデルを作った。
 しかし、まさか添多がそれを、『本物』だと言って、弟子たちにとんでもない値段で売りつけようとしていたとは思わなかったよ」
「そんなことがあったんですか? 詐欺じゃないですか、それ」
 岸田が身を乗り出すようにして言った。
「そうさ。幸い、二、三本売ったところで俺が気がついてやめさせた。これ以上ふざけたことをやるなら、買った人間に全てをバラすと言ったんだ。ところがあいつは逆に、もしそんなことをするなら、俺を計画的な偽造品製作者として告発してやるとぬかしやがった。自分はだまされた被害者だと主張するってわけさ。既にあいつは音楽界での実力者だったからね。周りを味方で固めて、本当にそれくらいのことはできただろうよ。
 実際には大事になる前にやつは手を引いた。警察が動き始めたのを察知してね。そのへんのことでも、やつのバックには政界のお偉方とかもいたんで、事前に情報を流したり、裏で手を回して、告発寸前でうやむやにさせたりってことがあったみたいだな。
 おかげで俺はそれ以上犯罪者にならずに済んだわけだが、その代わり、以降やつは俺の楽器を事あるごとにけなし続けてね。俺の方は商売あがったりって状態になっちまった。
 一方でバイオリニストとしてさらに名を上げていったやつは、そのうち楽器商ともつるみ、本物のストラディバリを始め、舶来バイオリンを随分自分の手で弟子たち売りさばいたらしいよ。二束三文の楽器を自分が推薦する形で十倍、二十倍の値段で売ったなんて話も聞いたな。
 犯罪すれすれの行為で、事件にこそならなかったが、そういった俺とやつとの長年の確執を警察はちゃんと調べ出していた。そのときに捜査に加わっていた有賀って刑事が、どういう因縁か今度の添多の死を調査しているんだ。俺にはやつを殺すに足りるだけの恨みが積もっていると思ってるわけさ」
「でも、もちろんやっていないわけでしょう?」
「あったりめえだろが。あんなインチキ野郎、わざわざ殺すまでのこともないさ。俺には腕がある。大体、今度の番組であいつは俺の作ったバイオリンをすっかりストラディバリと間違えた。ああいう恥をかかせるほうがどれだけ気分が晴れるか……。俺は実際あのとき痛快でたまらなかったよ。そんなときに、わざわざ殺すなんてことを考えると思うかい?」
「いいえ……。僕だってあの番組を実現するためには随分苦労したわけだし……西丘さんの気持ちは分かりますよ。せっかく実現した自分の晴れ舞台をぶちこわすようなことはしないですよね……」
「そうさ。ところが警察はそうは思ってはくれていないんだな。先行き暗いぜ。まあ、決定的な物証がないから……逮捕まではできないだろうがな……」
 そう言って軽くため息をついた西丘に、フィリップが言った。
「大丈夫。大丈夫。何も問題ないですよ。それより、私はあなたの楽器を見に来たんです。このグレフューレは本当に素晴らしいですが、ここには他にもっと素晴らしい楽器が眠っているような気もしますね」
 フィリップの言葉にようやく気を取り直した西丘は、工房の中を案内し、作りかけのバイオリンや、中学生のときに一人で見よう見真似で作った記念すべき自作バイオリン第一号などを見せた。
 工房には、作りかけの「ヘリエ」もあった。ストラディバリの装飾バイオリンのコピーモデル第二号だという。
 一通り案内してもらったフィリップは、西丘にこう言った。
「あなたの腕は素晴らしい。でも、なぜコピーモデルにこだわるのですか? 『グレフューレ』も『ヘリエ』もオリジナルと寸分たがわぬ精巧なコピーだということは分かりましたが、あなたほどの腕なら、堂々とオリジナルの『ニシオカ』モデルを作ればいいのに。装飾もオリジナルなものにして……」
「駄目駄目。そんなもの、誰も相手にしてくれないんですよ。ストラディバリと同じだからありがたがるんでね。俺だって多少は絵心があるからそれなりにオリジナルな模様くらい描けるだろうけど、そんなもの、誰もありがたがらないさ」
 西丘は自虐的な笑いを浮かべながら言った。
「いいえ」
 フィリップは静かに言い返した。
「少なくとも私は、そういうバイオリンを心から望んでいますよ」


4/5

      ∇‡∇
 西丘の工房を後にした三人は、工房から車で三十分ほど離れた町田市の外れにやってきていた。
「桜木さんには申し訳ないんですが、ここまで来たからにはついでにもう一カ所つき合ってもらえますか?」
 運転席に座るなり、岸田は後部座席の由伽にそう言った。
「いいですけど……どこですか?」
「まあ……ちょっとした物件ですよ。3LDKの庭十坪付き貸家。家賃月十五万円」
「岸田さん、いつから不動産屋になったんですか?」
「フィリップさんに頼まれた三カ月前からですよ」
「はあ?」
「まあ、人生いろいろとありましてね。バイオリニストが不動産の斡旋をすることもあるんですよ……」
 訝る由伽を煙に巻くように、岸田は小声でそう言った。
 その様子を、フィリップはちょっと不審そうな顔で見ていた。
 日本語だったから、フィリップには岸田が何を言っているのか分からなかっただろう。しかし、それ以上に由伽にも岸田が何を言っているのか分からなかった。
「フィリップさんの家ですよ。できれば日本に永住したいそうです」
「えっ!」
 由伽は驚いてフィリップの顔を見た。
「本当ですか? 日本に永住したいというのは?」
 由伽はフランス語で、フィリップ本人に訊いた。
 フィリップは穏やかな笑顔で答えた。
「ウィ」
 岸田が運転する車でその「物件」とやらに向かう間、フィリップは由伽に説明した。
「私にはもうあまり時間は残されていません。このまま力尽きるまで世界中を演奏旅行するということも考えたのですが、もう体力的には限界なのですよ。
 私の今いちばんの望みは、次の世代のバイオリニストが育っていくのを見守ることです。私が築いたジャズバイオリンの世界を、さらに高めてくれる……いや、ジャズだとかクラシックだとかいう垣根など、これからは何の意味も持たないのだということを教えてくれるような、深く広い音楽世界を築いていく新しい時代のバイオリニストたちが育つのを見届けてから死にたいのです。
 そうした理想にいちばん近いのが、ひかりさんであり、岸田さんです。私はこの二人のそばにいて、彼らの力を身近に感じながら余生を送りたいのです。もちろん、二人のためにできることは何でもするつもりです。教えられることは全て教えたいし、私が現役としてのプライドを保てるうちは、セッションもどんどんしてみたい。 そのためには私が日本に住むのがいちばんいい。手続きなどでいろいろと大変なことはあるでしょうが、まずは家を探してもらったのです。住む場所が決まれば、後はなんとかうまくいくものですよ」
 由伽が驚いているうちに、車は町田市の外れにあるその「物件」に到着した。
 閑静な住宅街に隣り合わせた農家の広い敷地の一角に建つ、白いスタッコの壁の建物だった。
「まだ新しいんですよ。この農家の主が娘さん夫婦のために建てたものなんですが、その夫婦、この家が建った途端に旦那さんがドイツに出向になりましてね。当分帰ってこられないらしいんです。家賃は十二万円。周囲はみんな庭みたいなものだし、破格だと思いますよ」
 岸田が得意そうに解説した。
 平屋だが、敷地を気にせずに建てられているので、狭苦しい感じはしない。静かで、周囲には建物もないので、バイオリンの練習なども思いきりできるだろう。
「いいじゃないですか。気に入りましたよ」
 フィリップは本当に嬉しそうに、その家の周りを何度もゆっくりと回った。

      ∇‡∇
 フィリップの公演は、東京、横浜、大阪、名古屋、そして最後にもう一度東京という順番で、一週間に五回行われるというスケジュールだった。
 通訳の由伽はその全行程に同行した。
 最後の東京公演で、ついにフィリップが念願していた添多ひかりとの共演が実現した。
 フィリップは他の公演のときよりも三時間も早くからリハーサルを始め、リハーサルの最初からひかりとの共演を望んだ。
 添多征一が死んだあの番組で一緒だった評論家・湊が、その様子を由伽と一緒に客席から見ていた。
 リハのステージ上に、ひかりは例の西丘が作った「グレフューレ」を持って現れた。事前にフィリップと何らかの話があったのだろうが、愛用のストラディバリに代えてわざわざ国産のバイオリンを使うというのは、クラシックファンの間でもかなりの話題になりそうだった。また、ひかり自身、あの番組で覆面バイオリニストとしてこの楽器を試奏して以来、相当気に入ったということなのだろう。
 しかし湊には、楽器の選択以上に、フィリップとひかりが何の曲をどんなスタイルで共演しようとしているのか、極めて興味があった。
 ひかりのバイオリニストとしての実力は以前から分かっていた。 はっきり言って、岸田などとは格が違う。しかし、ジャズミュージシャンとのセッションを事もなげにこなしてしまう岸田の器用さを、ひかりが持っているとは思えなかった。
 同じバイオリンという楽器を弾くとはいえ、クラシックとジャズとでは音の出し方から演奏のノリまで、相当違う。下手をするとまるでちぐはぐな共演になる可能性もある。
 湊が注目する中、フィリップは椅子に座り、ひかりのほうに目で合図を送ると、愛用のベルゴンジで、なんとバッハの『フーガの技法』の一節を弾き始めた。
 ジャズバイオリニストによるクラシックのバイブル的楽曲の演奏。 意表をつかれた湊は、固唾を呑んでフィリップの演奏に聴き入った。
 ひかりのバイオリンが、途中から追いかけ始めた。
 複数の異なったメロディーが絡み合い、全体として複雑な曲調を形成するのがこの作品の特長だ。
 二つのバイオリンはつかず離れず、邪魔をせず、一人歩きをせず、しかもそれぞれが明確に主張しながら絡み合い、独特のハーモニーを築いていた。
 ひかりの演奏は、やはり岸田よりもレベルが上だと分かる、実に堂にいったものだった。フィリップも、そのひかりのレベルに引き上げられるかのように、岸田との共演のときよりもずっと木目細かな、繊細な音を出していた。
 ジャズプレイヤーと言われるフィリップに、こんな演奏ができるのかと、湊は改めてステージ上の七十八才の老バイオリニストの奥の深さに感服した。
 しかし、何かが変だ。すばらしい演奏なのだが、これは自分が知っているあの『フーガの技法』ではない。
 その原因を発見したとき、湊は感動と驚愕で身体が震え始めた。
 一人は確かにバッハが書いた譜面を忠実に再現している。しかしもう一人は、そのバッハの記したメロディーに合わせ、自由奔放にアドリブプレイをしているのだ。
 そしてアドリブをしているのは、ジャズバイオリニストのフィリップではなく、クラシックバイオリニストのひかりだった。
 それも、ジャズのコード理論に乗っ取ったスケール的なアドリブではなく、あくまでもバッハの調べに溶け込んだ、クラシックの香りを漂わせた気品のあるアドリブ……。
 湊は何度もこれは自分の勘違いではないかと思った。二人は自分が知らない「ある曲」を演奏しているのではないかと。しかし、やはりフィリップはバッハのメロディーを、ひかりは湊の知らないオリジナルなメロディーを弾いている。
 やがて、フィリップのバイオリンがひかりのバイオリンに包み込まれるように、ゆったりとしたロングトーンを残して消えた。ひかりはさらにアドリブソロを続ける。
 バッハから移行しても何の違和感もないオリジナルなメロディーだけがホールに響く。
 そのメロディーが二回繰り返されたところで、ジョージのベースがおずおずと入ってきた。素朴な二音の繰り返しによる指弾きのベース。
 それに合わせて今度はギタリストのステファンが、ジャズ特有のテンションコードを控え目にピッキングする。
 ひかりのバイオリンがそこですっと抜け、ベースとギターだけのバッキングが残る。そのシンプルなバッキングが八小節続いたところで、フィリップのバイオリンが力強く入ってきた。
 フィリップが三十代の頃に書いた名曲『シリウスへの祈り』の主題だった。
 バッハからジャズへ。その移行が違和感なく、極めてスムーズに行われる。湊の長い音楽鑑賞歴でも、こんな体験は初めてだった。
 テーマがダカーポされたところで、ひかりが三度上のハーモニーで入ってきた。
 二人が競うようにテーマを弾き終えると、そのままひかりが力強いアドリブソロに突入する。長い髪を少し乱し、首を振りながら弾くそのソロは、いわゆるジャズのモード奏法とは違う。あくまでもメロディアスで、それでいて心地よいテンションノートがちりばめられた、オリジナリティ溢れるものだった。
 聴衆がみな息を呑む気配が伝わってくるようだった。
 変化に富んだ渓谷を駆け抜ける清流のようなひかりのソロの後、今度はフィリップがソロに入った。
 生涯何万回となく演奏したであろう自分の代表作。おのずとソロ部分もパターンが決まっているはずだが、ひかりのソロに刺激されてか、フィリップは明らかに多少の冒険をしようとしていた。
 時折眉根を寄せ、未知のフレーズを探るように、そして一瞬のひらめき、奇跡のフレーズが指先に宿るのを祈るように、指板の上の左指を踊らせる。
 しかし、ひかりの弾いたソロ以上のソロには、どうしてもなりえなかった。
 あのジャズバイオリンの巨匠・フィリップ・カルノーが、本領のアドリブプレイで、クラシックバイオリニストの添多ひかりに負けたのだ。
 湊は信じられない面もちで、ステージの上の二人を見つめていた。
 十分を越える演奏が終わったとき、会場は一瞬痺れるような沈黙に包まれた。しかしすぐに、誰か最初の一人につられ、力強い拍手が起こった。
 湊自身は、拍手をするのも忘れて、ただただ放心していた。
 ステージの上では、フィリップが潤んだ目をひかりに向け、恍惚としたまま、喋ることも、動くこともできないでいた。
 さらにもう一人、客席の後ろでは、いつ入ってきたのか、西丘が一人、溢れ出る涙を隠そうともせず、ステージの上のひかりを見つめていた。

      ∇‡∇
 怒涛のようなリハーサルは、開演の三時間前に切り上げられた。
「私は開演まで、ちょっとホテルに戻って休みたいと思います」
 疲れきった表情で、フィリップは由伽に告げた。
 由伽はすぐにタクシーの手配をした。
 迎えに来たタクシーに一緒に乗り込もうとする由伽を、フィリップが軽く手で制した。
「ノン。すみません。一人になりたいんです」
 丁重だが、きっぱりとした口調だった。
 開演前の大切なときに主役を一人にしていいものかどうか、由伽はためらったが、結局は言われるままに一人タクシーに乗り込んだフィリップを見送った。
 取り残された由伽は、ロビーの自動販売機でコーヒーを買うと、ソファに座った。
 そこに湊が現れ、同じように自動販売機でコーヒーを買うと、由伽の隣に座った。
「凄かったですね、ひかりさんとの共演」
 プロの感想を聞こうと、由伽は湊にそう言った。
「どこがどう凄いか、分かりましたか?」
 湊は由伽にそう質問した。
 答えに困っている由伽に、湊は解説した。
 クラシックバイオリニストのひかりが、ジャズバイオリニストのフィリップを圧倒するアドリブを弾いたこと。特に最初の「半分だけ即興のバッハ」は、音楽史上特筆されるべき画期的な試みであることを。
 そして最後にこう付け加えた。
「あの芸術性を解放するためなら、私でも人の一人くらい殺すかもしれないな」
「えっ?」
 その発言にぎょっとした由伽が、思わず湊の顔を覗き込んだ。
 湊は声を落として、こう説明した。
「今日の二人の共演も、ある意味では添多征一氏が亡くなったからこそ実現した企画ですよ。ひかりさんは今まではずっと篭の鳥だったからね。征一氏の許可がないと何もできなかったんだ。楽団のレベルが低すぎるとか、指揮者がひかりの感性には合わないとか、いろんな理由を付けて添多さんはひかりさんを外に出さなかったんだ。格の高い演奏会でも、主催者に法外なギャラをふっかけたりして随分話を潰していたしね。ましてやジャズ・バイオリニストとの共演なんて、考えられなかったわけでしょう?」
 湊の「解説」を聞きながら、由伽は複雑な思いに捕らわれた。
 添多殺害の犯人はまだ分からない。しかし、現場にいた音楽関係者の誰か、つまりはあの番組のゲスト出演者の誰かである可能性は高い。警察は西丘をいちばん疑っているようだが、見方を変えれば、ひかりを添多の「篭」から出してやろうとした誰か、あるいはひかり本人にも、「動機」はあるということになるのではないか……と。 しかし、まさかそうした疑いが現実に形になってしまうとは、そのときの由伽は思いもしなかった。

       ∇‡∇
「……それで、その飲み物が置かれたトレイの前で立ち止まっていたのは、確かにこの女性だったんだね?」
 有賀警部は、前髪を緑色に染めた若い男に問いただした。
「ええ、可愛い子だったから、印象に残ってるんですよ。小柄で、髪がまっすぐに背中まで伸びてて、今時珍しいお嬢様タイプっていうんですか? クラシックのバイオリニストだって知ったのは後になってからだけれど……」
「何をしていたんだね、その女性は」
「さあ……そこまでは。見たのは一瞬だし……」
「飲み物に手を触れたのか、それともただ近くに立っていただけなのか、そのへんが重要なんだがね」
「分からないですよ。こっちだって仕事してた合間のことだし……」
 事情聴取されているのは、添多征一が死んだ日に、ホールのトイレ清掃をしていたアルバイトの青年だった。トイレの清掃を終えて出てきたときに、飲み物を置いたワゴンテーブルのそばにひかりが立っていたのを見たという。
「しかし、何か不審な感じがしたから、君も印象に残っていたわけだろう?」
 いささか誘導尋問じみているとは思ったが、有賀警部はさらにそう追及した。
「不審ってわけじゃないけど、まあ……ただ、ぼーっと突っ立っていたってわけじゃないですよ、そりゃあ。何かしていたんじゃないですか。よく分からないけど」
 青年は苦し紛れにそう答えた。
「その何かまでは分からない……か」
 有賀が不満そうにそう言ってため息をつきかけたとき、青年は言いにくそうに、呟くような声でこう言った。
「その……何か小さな容器みたいなものを持っていたような気も……」
「何だって?」
 有賀は俄然色めき立った。

     ∇‡∇
 フィリップ・カルノー日本公演の打ち上げパーティーに、なぜか添多ひかりと岸田徹郎の姿がなかった。
 二人とも出席すると聞いていただけに、主催のエターナルララバイ音楽事務所のスタッフは気を揉んでいた。
 そこに、岸田が三十分以上遅刻して現れた。
「重役出勤ですね、岸田さん」
 いち早く見つけた桜木由伽がそう声をかけたが、岸田は硬い表情を崩さないまま、いきなりこう言った。
「えらいことになったよ」
「どうしたんです?」
「ひかりさんが、警察に任意出頭を求められて、かなり厳しい追及を受けたらしいんだ」 
「なぜです? 何かあったんですか?」
「目撃者が現れたんですよ。ひかりさんが廊下に置かれていた飲み物のグラスの前に立って、不審な行動をしていたのを見たというやつがね」
「誰なんです、それは?」
「よく分からないけれど、清掃会社のアルバイトらしい。トイレ掃除を済ませて出てきたときに偶然見かけたって。しかも手には何か小さな容器のようなものを持っていたと言うんだな。本当だとしたら、かなり決定的な証言になってしまう」
「ひかりさんは認めたんですか?」
「いや、もちろん否定したさ。ちょうどコンタクトレンズが外れて、それを直していたところだって釈明したらしい。トイレも清掃中で入れず、仕方なくたまたまそこで直していたんだと……」
 由伽は岸田の話を聞き終えてから、小さくため息をついた。
 警察はひかりの釈明を簡単に受け入れるだろうか。そうは思えない。
 二人が険しい表情で話しているのを見て、フィリップが心配そうに近づいてきた。
「何があったんですか?」
 由伽は一瞬躊躇したが、岸田が目で了承するのを見て取って、今の話をフィリップにフランス語で伝えた。
「ノン! ノン!」
 フィリップは激しくかぶりを振りながら、絞り出すような声を出した。
 周囲にいた人々が、何事かと驚いた顔で振り向いた。
「大丈夫ですよ。心配はないですよ。ひかりさんはもちろん潔白です」
 由伽が慌てて言った。
「それにしても、こんなことになるなんて……僕があの番組を企画しなければ……」
 岸田は苦渋の面持ちで、そう呟いた。

      ∇‡∇
 コンサートの全日程が終了し、フィリップのスタッフとバンドは離日した。
 しかしフィリップは単身日本に残った。
 岸田が見つけてきた貸家のほうは、フィリップの日本での永住権、あるいは永住権とまではいかなくとも、ビザの延長手続きなどがクリアになるまでは購入手続きを進められそうもなかったので、フィリップはとりあえず東京郊外のこじんまりしたビジネスホテルに長期滞在することにした。
 一部では、添多征一殺害事件が解決するまで日本に足止めを食っているのではないかなどという噂も流れたが、もちろんそれは違っていた。
 フィリップは残りの人生を日本で過ごしたいという希望を実現するために動き始めていたにすぎない。
 捜査本部とて、最初から事件とフィリップとの関係はほとんど考えていなかった。
 トイレ掃除をしていたアルバイト青年からの聴取以来、捜査本部はひかりを重要容疑者として見始めていた。
       
 杉並区の高級住宅街の一角に、敷地三百坪ほどの豪邸がある。
 玄武岩を積んだ門柱には、銅板の大きな表札があり、「添多征一」の文字が刻まれている。
 葬儀や法要などが一段落し、再び静けさを取り戻したその家を、有賀警部と富田警部補の二人が訪れていた。
 しかし、目当てはひかりではない。添多夫人……今は未亡人となった添多多美恵だった。
 家には夫人が一人でいた。ひかりは仕事で昨日からいないという。
 夫人はまだ四十になっていない。しかも歳よりもずっと若く見えるので、最初添多の葬儀のときに見かけたときは、有賀も富田も一瞬それが夫人だとは思わなかった。
 添多は五十八歳だから、親子ほども歳が違う夫婦ということになる。秘書として雇った女性を、半年で四人目の妻にしたということだ。これが政治家などだったら結構スキャンダルにもなるのだろうが、芸術家というのはそうした一種破天荒な人生も、世間からむしろ肯定的に捉えられるのだろうか。
 しかし、その添多も今はもういない。有賀は改めて複雑な思いで夫人を見つめた。
 夫人は二人の刑事を応接間に通し、型どおり茶を出した。しかし、当然のことながら、表情は硬い。
「いろいろと大変だったでしょう。もう、少しは落ちつかれましたか?」
 出された紅茶をいきなり半分ほど飲んでから、有賀警部はそう切り出した。
「以前から、こういう日が突然来るかもしれないということは覚悟しておりましたから」
 夫人は落ちついた口調でそう答えた。
「殺される……ということがですか?」
「いいえ、もちろんそういう意味ではありませんわ。主人が急死するかもしれないという意味です。なにしろ心臓病を患っていましたから」
「そうですか……。しかし、ご主人は病気で亡くなられたわけではないんです。何者かに毒を盛られて殺された……そこのところはしっかりと見据えていただかないと」
「でも……本当にそうなんでしょうか? 私、今でもそうは思えないんですよ。ただの心臓発作だったんじゃないかって……」
「ちゃんと毒物が検出されていますからね。間違いはありません」
「信じられませんわ……」
「でも、信じていただかないことには話が進みませんから」
「ええ……」
 夫人はそう言うと、うつむき加減になって、軽くため息をついた。
 その仕草が、計算されたような色気を醸し出す。
 それも決して水っぽいとか、安っぽいコケットリーとは違う種類の色気だ。秘書に雇ってから半年で結婚したという添多だけでなく、過去に多くの男を夢中にさせたに違いない。
 有賀はカップに残った残り半分ほどの紅茶を、また一気に飲み干すと、相手の色香に真正面から挑戦するような無遠慮な口調でこう訊いた。
「立ち入った話で恐縮なんですが、娘さんのひかりさんは、あなたがたご夫婦の本当のお子さんではありませんよね。確か、八年前に養子としてこの家に来た……と」
「ええ。私が主人と結婚する前のことです」
「ああ、そうでしたね。奥さんも再婚で……」
「いえ、私は初婚でした。主人の方は四回目でしたけれど。まだほんの二年前のことですから、ひかりのほうが主人との関係という点では私よりずっと先輩なわけですね」
「奥さんがこの家に来られる前には、前妻さん……というか……ご主人の前の奥さんとひかりさんは一緒に……」
「いいえ。主人が前妻と正式に離婚したのは私と結婚する直前でしたが、実際にはもう四年以上も別居状態でした。つまり、ひかりが養女になってまもなく別居しているんです」
「ほう……。ということは、その四年以上という期間はこの広い家にご主人とひかりさんがお二人だけで……」
「ええ……」
 夫人はなぜかそこで前を伏せ、言葉をとぎらせた。
 しかしすぐに再び顔を上げ、何かを打ち消すようにこう続けた。「でも、実際にはお手伝いさんが三人、交代で来ていましたし、他にも弟子たちや運転手など、人の出入りは多かったようです。私も主人の秘書になってからは、ときどき出入りしていましたし、家というよりは、事務所のようなものですね」
「事務所……ねえ」
 有賀と夫人のやりとりをそばで見守っていた富田警部補が、呟くようにそう言うと、意味ありげに部屋の中を見回した。
 立派な屋敷だが、芸術家の家だけあって、よくある成金趣味の調度品などはない。北欧調の家具が目立つくらいのもので、部屋全体はシンプルなモノトーンにまとめられている。しかし、それだけに部屋の作りそのものの高級さやスペースのゆとりが、初めて訪れる者を圧倒する。
 三十畳はあろうかという空間に、スタインウェイのグランドピアノとクオード社の家具調オーディオセットが置かれている。オーディオには多少うるさい富田には、まさに涎が出そうな部屋だった。
「奥さん、ずばりお伺いしますが……」
 品定めするように周囲を見回し始めた富田を無視して、有賀警部は続けた。
「……ご主人とひかりさんはうまくいっていましたか?」
 その問いに、夫人はすぐには答えず、一、二秒の間、有賀を咎めるような目で見返した。
「やはりそういうことですのね……。ひかりが事情聴取を受けたと聞いて、私も相当ショックでしたが、この際私の方からもきっぱりと申し上げておきます。ひかりと主人とは、実の親子以上にうまくいっていました。万が一にでもひかりをお疑いなら、全くナンセンスなことですわ。ひかりは主人を尊敬していますし、私が嫉妬するくらい、主人もひかりのことを実の娘以上に愛していました」
「しかし、その愛し方が問題だったのではないかと見る向きもあるようですよ。ご主人がひかりさんを縛りすぎていて、ひかりさんは私生活はおろか、音楽活動のほうでも自由を奪われていた……と」
「世間がどんな勘ぐり方をしようと、主人とひかりの関係をいちばんよく知っているのは家族である私です。ひかりが主人を殺そうとするだなんて、絶対にありえません。私を疑うというならともかく、ひかりを疑うのは時間の無駄ですわ」
「奥さんを疑うならともかく……ですか? ではついでというわけではありませんが、奥さんはご主人とはうまくいってらっしゃったんでしょうか?」
「ええ。結婚してまだ二年、倦怠期には早いですし……。とりたてて仲が悪い夫婦ではなかったと思いますよ。歳が離れていたり、私が四人目の妻ということで、いろいろと言う人もいたようですけれど、私としては、秘書の延長のようなところがありました。もちろん、男性として、夫として、主人のことを愛していたことも事実ですけれど……。私とて、主人を殺さなければならない理由は何一つありませんわ」
「まあ、我々としても、奥さんのことは疑ってはおりませんよ。なにしろ奥さんはご主人の殺害現場にいらっしゃらなかった。飲み物に毒を盛ることはできませんでしたからね」
「やっぱり、どうしても主人はあのホールにいた人たちの誰かによって殺されたというんですか?」
「ええ。他の誰かが喫茶店の店員を買収して毒を入れさせたとか、そういう可能性はほとんどないでしょうから」
「そうだとしても、ひかりではありません。絶対に」
 多美恵夫人は頑としてひかりをかばい続けた。
 有賀は手を代え品を代え、何か新事実を聞き出そうとしたが、多美恵はますます頑なになり、最後はとりつく島もなくなってきた。「とにかく、ひかりが主人を殺しただなどということはありえません!」
 そう繰り返す夫人を、それ以上追及しても仕方ないようだった。

5/5

        
「なんだか徒労に終わりましたね。親として子供をかばうのはあたりまえなんでしょうけれど……」
 添多宅を後にし、署に戻る車の中で、富田が有賀に言った。
「親子といったって、血はつながっていないんだからな。一緒に暮らすようになってまだ二年。歳だって、添多とひかりのちょうど中間くらいの歳だろう? 俺はむしろ、なんであんなにむきになるんだろうって思ったよ。確かに夫人はあの現場にいなかったから、飲み物に毒を入れることはできない。だが、毒を用意することはできるかもしれないな。夫人が計画を練って準備をし、ひかりに毒殺を実行させる……そういう共同犯行の可能性ならあるわけだな」
「証拠が何もないですね」
「ああ、証拠どころか、根拠もない。刑事たる者、根拠のない憶測でものを言っちゃあいけないな」
「自分で言い出しておいて、すぐに否定ですか」
「ああ、取り消す。とりあえず、やはり毒物の出所を洗い直すか。その線に関しては、未だにいちばん怪しいのは西丘だからな」
「トリカブトを栽培していただけでなく、煎じて液体にしたものを持っていたわけですからね。私は音楽は好きで、クラシックも結構聴くんですが、未だかつて、トリカブトでバイオリンの音がよくなるなんていう話は聞いたことはありませんからね」
「でたらめだろうな。俺も念のため他のバイオリン製作者に何人か電話で訊いてみたが、そんな話は初めて聞いたという人たちばかりだったよ」
「西丘は添多氏の隣に座っていたわけですしね」
「ああ。まだ日は高いな。これからもう一度西丘を当たってみるか」
 有賀は署に無線電話で連絡を入れると、署には戻らず、運転する富田に告げ、そのまま西丘の楽器工房に向かわせた。

       ∇‡∇
 ホテルの部屋で、フィリップはもう一時間以上もサイドテーブルの上を見つめていた。
 そこには小さな丸い容器が置かれている。
 バイオリンの弓に塗る松脂を入れるケースだった。
 フィリップは手を伸ばすと、その容器を取り、暫く手の中で転がす。やがて慎重に蓋を開け、中に入っている松脂を見る。飴色のその固体は、中が少し白く濁っている。
 その松脂を手に取り、目の前に持ってきて凝視する。
 そして、そっと元のケースに戻し、蓋をして、テーブルに置く。 ……そんな行為を、もう小一時間も繰り返していた。
 そのとき、枕元のサイドテーブルの上にある電話が鳴った。
 待ちかねたように、フィリップは電話に飛びつく。
〈フロントですが、添多様がお見えです〉
「ああ……、Well, I'm coming soon.」
〈はい?〉
「……イマ、イキ……マス……」
 小さなホテルだと、フロントマンが英語も分からない。しかし、フィリップは別に腹も立たなかった。これからこの国で生活するとなれば、日本語をもっと覚えなければならないのは自分の方なのだから。
 フィリップは上着を引っかけると、すぐに玄関ホールに向かった。
 小さなエントランスホールに形ばかり置かれたソファに、ひかりは座っていた。
「なかなか会えなくて、気が狂いそうでしたよ」
 フィリップはフランス語でそう言うと、ひかりを抱き寄せるように両手を差し出した。ひかりはちょっと身体を引くようにしながら苦笑した。
 人目を気にしているのだろうか……。
 フィリップはフロントのほうを一瞥した。
 まるでアルバイトのような青年が、不思議なものを見るような視線を慌ててそらしたが、フィリップは気にしなかった。英語が分からないホテルマンにフランス語が分かるはずはない。
「話したいことが山のようにあるんだ。どうしたらいいだろう。このホテルの周りには大した店はないみたいだし……」
「でも、そこのカフェは一応やっているんでしょう? 私はどこでも構いませんけれど」
 ホテルの一階に、小さなカフェがあることはあった。フィリップはここ数日、ここで朝食や夕食を取っている。昼間も一応営業してはいるのだが、ほとんど客が入っているのを見たことがない。
 しかし、考えようによってはその方が好都合かもしれない。
 誰に気兼ねすることもなくゆっくりと話ができる。
 二人は客の入っていないカフェで、コーヒーとココアを頼んだ。「私はもう、日本を離れまいと思っているんです。人生の最後を、ひかり……君のそばで過ごしたい」
 一人しかいないウェイトレスが注文を取って下がるなり、フィリップはいきなりそう切り出した。
 ひかりは驚いたような顔でフィリップを見た。
 フランス語を忘れてしまったのだろうか、それとも突然そんなことを言われて面食らってしまったのだろうか。
 フィリップはどう言葉を続けていいのか分からず、ひかりを見つめた。
 ひかりは静かに視線を外した。
「すまない。驚いてしまったんだね。そうだね、私は自分のことしか考えていなかったかもしれません。こんなおじいさんに一方的に愛されたところで、若い君には迷惑でしょうね。でも、私は君にとって重荷かね? 別に君に面倒を見てもらおうというわけじゃない。ただ、君の音楽家としての成長を、できるだけそばから見ていたい……それだけなんだ」
「そこまで言っていただけて光栄ですわ」
 ひかりはゆっくりとだが、正確なフランス語で答えた。
 少なくとも言葉が通じていなかったわけではないと分かり、フィリップはさらにたたみかけるようにこう続けた。
「実際のところ、君はもう、バイオリンを弾くという技術に関しては、あらゆる点で私より優れているかもしれない。私にはもう、君に教えるべきものなど何もないのかもしれない。しかし、技術を超えたものを、何か教えられるかもしれない……それができたら、私はいつ死んでもいい。ひかり、……君がこれから築いていく音楽の世界の中で、私は永遠の眠りにつきたい……」
「そんな……」
 ひかりはますます困惑した表情になって、うつむいた。
「私はまだほんのひよっこです。フィリップ先生の四分の一くらいしか生きていないし、先生を超えただなんて、とんでもないことです。先生のバイオリンは先生の人生そのものです。私はとてもそこまでは……。どうぞ末永く、私のかけがえのない師匠でいてください」
 その言葉を、フィリップは涙を浮かべながら聞いていた。そして何度も何度も頷いた。
「ひかり、君はこれからもあの家に住み続けるのかね。もしそうならば、私は君の家がある杉並区に近い場所に部屋を借りようと思う。ミスター・キシダが見つけてくれたあの家は本当に素晴らしい環境だけれど、よく調べてみると君の家まで二時間もかかる。私はもっと君のそばにいたいんだ。それとも……そういうのは迷惑ですか?」
「いいえ、迷惑だなんて……とんでもない……ただ……」
「ただ……何だね?」
「ただ……、これから先どういう生活になるのかは、私自身まだ分かりませんし……。養父であり、マネジャーでもあった添多先生が亡くなってしまい……、私はこれ以上あの家に居座り続けていいものかどうか……。今のお母さまとも、仲はいいですけれど、本当の親子ではないし……。いろいろなことがまだ未知数で、もう少し時間をかけないと……。どうか先生もしばらくはのんびりなさっていてください。
 岸田さんが、もし先生が本当にこのまま日本での生活を望まれているのなら、一緒にお仕事をする機会を増やしたいと言っていました。岸田さんともいろいろとお話なさって……」
「そうだね。彼はいい男だ。本当に……」
 もちろん君とは別格だが……という言葉を、フィリップは呑み込んだ。
 髪を赤く染めたウェイトレスが、ココアとコーヒーを持ってきた。 テーブルに置きながら、改めて二人の顔を興味深げに盗み見る。 その視線を受け流しながら、フィリップは笑顔で「メルシー」と呟いた。
 ひかりはその後小一時間ほどフィリップの相手をした後、「約束があるので」と、申し訳なさそうに言い、その場を去った。
 約束とは、誰とのどういう約束なのだろう……。
 フィリップは知らず知らずのうちに岸田の顔を思い浮かべていることに気づき、たまらない気持ちになった。
 もしかして、ひかりと岸田は……。
 七十八歳の老人が、二十代の女に恋をし、、三十代の若者に嫉妬している。
 これだけ長生きをしてきて、なんと分別のないことだろう。
 情けない……。
 このひからびかけた身体を切り離し、捨ててしまいたい。そして未熟なままの精神も、どこかに放り出してしまいたい。
 そうすれば、後には音楽を奏でる「心」だけが残るだろうか?
 フィリップはひかりが去った後も、空になったココアのカップを見つめたまま、誰もいないカフェテラスをいつまでも去ろうとしなかった。

      ∇‡∇
「俺が添多のことを快く思っていなかったのは確かだよ。それは前にも言ったじゃないか。だけど、あいつを恨んでいた人間は他にもたくさんいるだろうよ」
 二人の刑事、有賀と富田を前に、西丘はほとんど一方的に話し続けた。
「そのへんのことを明らかにさせたいなら、昔のバイオリン偽造の件を徹底的に洗ってほしいものだね。俺はあいつに請われて確かにいくつかのストラディバリやガルネリのコピーを作ったさ。だけど、鑑定書の偽造までは関知しちゃいねえよ。本物のストラディバリと間違えるような完璧なコピーを作るだけじゃあ犯罪にはならんだろ? 問題はそれを本物だと偽って売る行為だ」
「あのねえ、西丘さん。我々はバイオリン偽造事件を調べているわけじゃあないんですよ」
 富田が言った。
「分かっているよ。ただ、俺はね、その偽のストラディバリを掴まされたやつなんかも、添多のことは相当憎んでいただろうって言っているのさ。しかも、被害者の多くはあいつの弟子や生徒だからな。騙されたと分かっても、泣き寝入りさ……」
「そういう人がたとえたくさんいたとしてもですよ、少なくともあの現場にはいなかった。だから添多氏を殺すことはできなかった。そういうことです。殺した人間は、あの場にいた人物に絞られるんだ。そして毒物はあなたが所持していたトリカブト毒……」
 富田が部屋の隅にある古びた戸棚を指さして言った。
 そこには楽器に塗る塗料や艶出し用の薬品、接着剤などが収められている。そこから、トリカブトを煎じた液体の入った瓶が発見され、証拠物件として既に押収されている。
 西丘はそれを、あくまでもバイオリン製作上必要な薬品だと主張しているわけだ。しかし、ここで働く弟子たちの証言も曖昧で、日頃からその瓶のことは知ってはいたが、西丘からは「おまえたちは触るな」とだけ言われていて、中身のことはよく知らなかったようだ。
「俺はもちろん試したことはないんだがね、あの液体ではたして人が殺せるのかね? 日本一優秀な警視庁の鑑識が調べたんだろう? 教えてほしいもんだね」
 西丘から逆にそう訊かれて、富田は一瞬答えに詰まった。
「トリカブト毒がきっちり検出されたよ。言ったはずだが」
 代わりに有賀が答えた。
 正確な答えになっていないのは分かっていたが、そう答えるしかなかった。
 鑑識からの報告は既に受けていた。
 確かにトリカブト毒・アコニチンは微量に検出されたのだが、あの液体のまま使うとすれば、相当量を飲まなければ死ぬまでにはいたらないだろうということだった。瓶に入っていた液体はトリカブトの葉の部分を煎じたものらしいが、もしも人間を殺すために用意されたのだとすれば、葉ではなく、根の部分を使うのが常道だという意見も付加されていた。
 しかし、そう言えば、西丘を調子づかせることになる。なんとかここで一気に追い込みたいのだが、西丘は自分の工房からトリカブト毒が発見されたときも、全く慌てる素振りも見せなかった。
 本当にバイオリンに塗るために使っていたのだろうか……そう信じ込まされそうになる自分を、有賀は何度も否定し続けてきた。そんな不自然な話があるはずはない……と。
「こいつをもっと煎じていくと、最後にはどろどろになって、粉のようになるのかね?」
 有賀はそうカマをかけてみた。
「どうかねえ。そこまでやったことはないからなあ。粉になっちまったら魂柱に塗れないからね。水に溶かせばいいのかもしれないが、まあ、一種のおまじないみたいなもんでね。そこまで厳密には考えたことないよ」
 西丘は少しも動ずる様子なく答えた。
 そこに、車が近づく音がし、塗装が剥げかけたグレーの古いコロナが工房の前の道に停まった。
 降りてきたのは岸田だった。
 岸田は二人の刑事を見ると、露骨に不快な表情を浮かべた。
「ああ、ちょうどいいところへ来た」
 西丘は岸田の姿を見て、刑事たちにそう言った。
「岸田さん、魂柱の調整だったね。貸していた例の『グレフューレ』の魂柱が微妙にずれちまったらしいんだ。ちょうどいい。トリカブトを塗った魂柱というやつを見せてやるよ」
 西丘は上機嫌にそう言うと、二人の刑事と岸田を工房の奥に招き入れた。
 西丘は岸田からバイオリンケースを受け取ると、中から「グレフューレ」のコピーモデルを取り出し、二人の刑事に見せた。
「これは俺が作った中でも一、二の自信作でね。ストラディバリの『グレフューレ』を忠実に再現したものさ。データをコンピューター制御の三次元測定機でばっちり解析してね。本物のグレフューレと寸分の狂いもないモデルになっているんだ。もちろん、仕上げの象嵌は完全な手作業だし、時間もめちゃくちゃかかっているよ。現代のハイテクと職人の腕の高次元な融合ってわけだな。
 出来がよかったんで、このバイオリンの魂柱にもトリカブトエキスを塗ってある。作ったのは去年のことだから、もちろん今度の事件とは何の関係もない……」
 そう言いながらも西丘は慣れた手つきでバイオリンの弦を緩め、駒を外し、fホールから特殊なピンセットのような器具を入れると、やがて細い木製の円柱を取りだした。
「分かるかね? これが魂柱だよ。魂の柱って書くくらいでね、バイオリンの音には重要な影響を及ぼすんだ。ほら、よく見てくださいよ。こいつにはトリカブトが塗ってある。去年作ったバイオリンにも、こうしてちゃんと塗ってあるんだ。これが証拠さ」
 西丘が示した丸い木の棒は、確かにうっすらと何かが塗ってあるように見えた。
「岸田さん、これはずっとあなたが持っていたんですか?」
「ええ。金は払っていないけど、長期モニター契約みたいなものですね。そのうちにちゃんとお支払いして買い取りたいと思っているんですが、貧乏楽士にはなかなか……。これを持っていってテレビ局のディレクターにも例の番組の企画を説明しましたし、ここ一年はずっと僕が持っていました。魂柱のことは僕も今初めて気がつきましたけれどね。西丘さんのところに調整に出すのは半年ぶりだし、事件の後、西丘さんがこの楽器に細工をすることは無理です。これで西丘さんの話が本当だということは分かりましたね」
「それはどうかな。西丘さん、このコンチュウってやつ、お借りしてもいいですかね?」
「ご苦労なこったね。また鑑識に回すのかい? わしは構わんが、そうなるとこのバイオリンには新しい魂柱を取り付けなけりゃあいかんことになるわな。これが結構微妙な作業でね。馴染んでいる魂柱を取り替えて、音が変わったなんてクレームが出ると困るんだ。こっちはしっかりやる自信はあるが……」
「僕はいいですよ。それで西丘さんの容疑が晴れるなら。それにこれは、暫くはフィリップさんが使ってみたいとおっしゃってまして、調整していただいたら、フィリップさんのところに届けることになっているんです。西丘さんもそれがお望みでしたよね」
「ああ、多くの一流バイオリニストに弾いてもらって、感想を聞きたいんでね。フィリップさんにも、……できればひかりさんにも弾いてもらいたいもんだね。で、どうなんだい、刑事さん。この魂柱、持っていくのかい?」」
 西丘が言った。
 有賀と富田は思わず顔を見合わせたが、有賀は黙ってポケットからビニール袋を取り出すと、西丘の前に突き出した。


この本の内容は以上です。


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