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「なんだか徒労に終わりましたね。親として子供をかばうのはあたりまえなんでしょうけれど……」
 添多宅を後にし、署に戻る車の中で、富田が有賀に言った。
「親子といったって、血はつながっていないんだからな。一緒に暮らすようになってまだ二年。歳だって、添多とひかりのちょうど中間くらいの歳だろう? 俺はむしろ、なんであんなにむきになるんだろうって思ったよ。確かに夫人はあの現場にいなかったから、飲み物に毒を入れることはできない。だが、毒を用意することはできるかもしれないな。夫人が計画を練って準備をし、ひかりに毒殺を実行させる……そういう共同犯行の可能性ならあるわけだな」
「証拠が何もないですね」
「ああ、証拠どころか、根拠もない。刑事たる者、根拠のない憶測でものを言っちゃあいけないな」
「自分で言い出しておいて、すぐに否定ですか」
「ああ、取り消す。とりあえず、やはり毒物の出所を洗い直すか。その線に関しては、未だにいちばん怪しいのは西丘だからな」
「トリカブトを栽培していただけでなく、煎じて液体にしたものを持っていたわけですからね。私は音楽は好きで、クラシックも結構聴くんですが、未だかつて、トリカブトでバイオリンの音がよくなるなんていう話は聞いたことはありませんからね」
「でたらめだろうな。俺も念のため他のバイオリン製作者に何人か電話で訊いてみたが、そんな話は初めて聞いたという人たちばかりだったよ」
「西丘は添多氏の隣に座っていたわけですしね」
「ああ。まだ日は高いな。これからもう一度西丘を当たってみるか」
 有賀は署に無線電話で連絡を入れると、署には戻らず、運転する富田に告げ、そのまま西丘の楽器工房に向かわせた。

       ∇‡∇
 ホテルの部屋で、フィリップはもう一時間以上もサイドテーブルの上を見つめていた。
 そこには小さな丸い容器が置かれている。
 バイオリンの弓に塗る松脂を入れるケースだった。
 フィリップは手を伸ばすと、その容器を取り、暫く手の中で転がす。やがて慎重に蓋を開け、中に入っている松脂を見る。飴色のその固体は、中が少し白く濁っている。
 その松脂を手に取り、目の前に持ってきて凝視する。
 そして、そっと元のケースに戻し、蓋をして、テーブルに置く。 ……そんな行為を、もう小一時間も繰り返していた。
 そのとき、枕元のサイドテーブルの上にある電話が鳴った。
 待ちかねたように、フィリップは電話に飛びつく。
〈フロントですが、添多様がお見えです〉
「ああ……、Well, I'm coming soon.」
〈はい?〉
「……イマ、イキ……マス……」
 小さなホテルだと、フロントマンが英語も分からない。しかし、フィリップは別に腹も立たなかった。これからこの国で生活するとなれば、日本語をもっと覚えなければならないのは自分の方なのだから。
 フィリップは上着を引っかけると、すぐに玄関ホールに向かった。
 小さなエントランスホールに形ばかり置かれたソファに、ひかりは座っていた。
「なかなか会えなくて、気が狂いそうでしたよ」
 フィリップはフランス語でそう言うと、ひかりを抱き寄せるように両手を差し出した。ひかりはちょっと身体を引くようにしながら苦笑した。
 人目を気にしているのだろうか……。
 フィリップはフロントのほうを一瞥した。
 まるでアルバイトのような青年が、不思議なものを見るような視線を慌ててそらしたが、フィリップは気にしなかった。英語が分からないホテルマンにフランス語が分かるはずはない。
「話したいことが山のようにあるんだ。どうしたらいいだろう。このホテルの周りには大した店はないみたいだし……」
「でも、そこのカフェは一応やっているんでしょう? 私はどこでも構いませんけれど」
 ホテルの一階に、小さなカフェがあることはあった。フィリップはここ数日、ここで朝食や夕食を取っている。昼間も一応営業してはいるのだが、ほとんど客が入っているのを見たことがない。
 しかし、考えようによってはその方が好都合かもしれない。
 誰に気兼ねすることもなくゆっくりと話ができる。
 二人は客の入っていないカフェで、コーヒーとココアを頼んだ。「私はもう、日本を離れまいと思っているんです。人生の最後を、ひかり……君のそばで過ごしたい」
 一人しかいないウェイトレスが注文を取って下がるなり、フィリップはいきなりそう切り出した。
 ひかりは驚いたような顔でフィリップを見た。
 フランス語を忘れてしまったのだろうか、それとも突然そんなことを言われて面食らってしまったのだろうか。
 フィリップはどう言葉を続けていいのか分からず、ひかりを見つめた。
 ひかりは静かに視線を外した。
「すまない。驚いてしまったんだね。そうだね、私は自分のことしか考えていなかったかもしれません。こんなおじいさんに一方的に愛されたところで、若い君には迷惑でしょうね。でも、私は君にとって重荷かね? 別に君に面倒を見てもらおうというわけじゃない。ただ、君の音楽家としての成長を、できるだけそばから見ていたい……それだけなんだ」
「そこまで言っていただけて光栄ですわ」
 ひかりはゆっくりとだが、正確なフランス語で答えた。
 少なくとも言葉が通じていなかったわけではないと分かり、フィリップはさらにたたみかけるようにこう続けた。
「実際のところ、君はもう、バイオリンを弾くという技術に関しては、あらゆる点で私より優れているかもしれない。私にはもう、君に教えるべきものなど何もないのかもしれない。しかし、技術を超えたものを、何か教えられるかもしれない……それができたら、私はいつ死んでもいい。ひかり、……君がこれから築いていく音楽の世界の中で、私は永遠の眠りにつきたい……」
「そんな……」
 ひかりはますます困惑した表情になって、うつむいた。
「私はまだほんのひよっこです。フィリップ先生の四分の一くらいしか生きていないし、先生を超えただなんて、とんでもないことです。先生のバイオリンは先生の人生そのものです。私はとてもそこまでは……。どうぞ末永く、私のかけがえのない師匠でいてください」
 その言葉を、フィリップは涙を浮かべながら聞いていた。そして何度も何度も頷いた。
「ひかり、君はこれからもあの家に住み続けるのかね。もしそうならば、私は君の家がある杉並区に近い場所に部屋を借りようと思う。ミスター・キシダが見つけてくれたあの家は本当に素晴らしい環境だけれど、よく調べてみると君の家まで二時間もかかる。私はもっと君のそばにいたいんだ。それとも……そういうのは迷惑ですか?」
「いいえ、迷惑だなんて……とんでもない……ただ……」
「ただ……何だね?」
「ただ……、これから先どういう生活になるのかは、私自身まだ分かりませんし……。養父であり、マネジャーでもあった添多先生が亡くなってしまい……、私はこれ以上あの家に居座り続けていいものかどうか……。今のお母さまとも、仲はいいですけれど、本当の親子ではないし……。いろいろなことがまだ未知数で、もう少し時間をかけないと……。どうか先生もしばらくはのんびりなさっていてください。
 岸田さんが、もし先生が本当にこのまま日本での生活を望まれているのなら、一緒にお仕事をする機会を増やしたいと言っていました。岸田さんともいろいろとお話なさって……」
「そうだね。彼はいい男だ。本当に……」
 もちろん君とは別格だが……という言葉を、フィリップは呑み込んだ。
 髪を赤く染めたウェイトレスが、ココアとコーヒーを持ってきた。 テーブルに置きながら、改めて二人の顔を興味深げに盗み見る。 その視線を受け流しながら、フィリップは笑顔で「メルシー」と呟いた。
 ひかりはその後小一時間ほどフィリップの相手をした後、「約束があるので」と、申し訳なさそうに言い、その場を去った。
 約束とは、誰とのどういう約束なのだろう……。
 フィリップは知らず知らずのうちに岸田の顔を思い浮かべていることに気づき、たまらない気持ちになった。
 もしかして、ひかりと岸田は……。
 七十八歳の老人が、二十代の女に恋をし、、三十代の若者に嫉妬している。
 これだけ長生きをしてきて、なんと分別のないことだろう。
 情けない……。
 このひからびかけた身体を切り離し、捨ててしまいたい。そして未熟なままの精神も、どこかに放り出してしまいたい。
 そうすれば、後には音楽を奏でる「心」だけが残るだろうか?
 フィリップはひかりが去った後も、空になったココアのカップを見つめたまま、誰もいないカフェテラスをいつまでも去ろうとしなかった。

      ∇‡∇
「俺が添多のことを快く思っていなかったのは確かだよ。それは前にも言ったじゃないか。だけど、あいつを恨んでいた人間は他にもたくさんいるだろうよ」
 二人の刑事、有賀と富田を前に、西丘はほとんど一方的に話し続けた。
「そのへんのことを明らかにさせたいなら、昔のバイオリン偽造の件を徹底的に洗ってほしいものだね。俺はあいつに請われて確かにいくつかのストラディバリやガルネリのコピーを作ったさ。だけど、鑑定書の偽造までは関知しちゃいねえよ。本物のストラディバリと間違えるような完璧なコピーを作るだけじゃあ犯罪にはならんだろ? 問題はそれを本物だと偽って売る行為だ」
「あのねえ、西丘さん。我々はバイオリン偽造事件を調べているわけじゃあないんですよ」
 富田が言った。
「分かっているよ。ただ、俺はね、その偽のストラディバリを掴まされたやつなんかも、添多のことは相当憎んでいただろうって言っているのさ。しかも、被害者の多くはあいつの弟子や生徒だからな。騙されたと分かっても、泣き寝入りさ……」
「そういう人がたとえたくさんいたとしてもですよ、少なくともあの現場にはいなかった。だから添多氏を殺すことはできなかった。そういうことです。殺した人間は、あの場にいた人物に絞られるんだ。そして毒物はあなたが所持していたトリカブト毒……」
 富田が部屋の隅にある古びた戸棚を指さして言った。
 そこには楽器に塗る塗料や艶出し用の薬品、接着剤などが収められている。そこから、トリカブトを煎じた液体の入った瓶が発見され、証拠物件として既に押収されている。
 西丘はそれを、あくまでもバイオリン製作上必要な薬品だと主張しているわけだ。しかし、ここで働く弟子たちの証言も曖昧で、日頃からその瓶のことは知ってはいたが、西丘からは「おまえたちは触るな」とだけ言われていて、中身のことはよく知らなかったようだ。
「俺はもちろん試したことはないんだがね、あの液体ではたして人が殺せるのかね? 日本一優秀な警視庁の鑑識が調べたんだろう? 教えてほしいもんだね」
 西丘から逆にそう訊かれて、富田は一瞬答えに詰まった。
「トリカブト毒がきっちり検出されたよ。言ったはずだが」
 代わりに有賀が答えた。
 正確な答えになっていないのは分かっていたが、そう答えるしかなかった。
 鑑識からの報告は既に受けていた。
 確かにトリカブト毒・アコニチンは微量に検出されたのだが、あの液体のまま使うとすれば、相当量を飲まなければ死ぬまでにはいたらないだろうということだった。瓶に入っていた液体はトリカブトの葉の部分を煎じたものらしいが、もしも人間を殺すために用意されたのだとすれば、葉ではなく、根の部分を使うのが常道だという意見も付加されていた。
 しかし、そう言えば、西丘を調子づかせることになる。なんとかここで一気に追い込みたいのだが、西丘は自分の工房からトリカブト毒が発見されたときも、全く慌てる素振りも見せなかった。
 本当にバイオリンに塗るために使っていたのだろうか……そう信じ込まされそうになる自分を、有賀は何度も否定し続けてきた。そんな不自然な話があるはずはない……と。
「こいつをもっと煎じていくと、最後にはどろどろになって、粉のようになるのかね?」
 有賀はそうカマをかけてみた。
「どうかねえ。そこまでやったことはないからなあ。粉になっちまったら魂柱に塗れないからね。水に溶かせばいいのかもしれないが、まあ、一種のおまじないみたいなもんでね。そこまで厳密には考えたことないよ」
 西丘は少しも動ずる様子なく答えた。
 そこに、車が近づく音がし、塗装が剥げかけたグレーの古いコロナが工房の前の道に停まった。
 降りてきたのは岸田だった。
 岸田は二人の刑事を見ると、露骨に不快な表情を浮かべた。
「ああ、ちょうどいいところへ来た」
 西丘は岸田の姿を見て、刑事たちにそう言った。
「岸田さん、魂柱の調整だったね。貸していた例の『グレフューレ』の魂柱が微妙にずれちまったらしいんだ。ちょうどいい。トリカブトを塗った魂柱というやつを見せてやるよ」
 西丘は上機嫌にそう言うと、二人の刑事と岸田を工房の奥に招き入れた。
 西丘は岸田からバイオリンケースを受け取ると、中から「グレフューレ」のコピーモデルを取り出し、二人の刑事に見せた。
「これは俺が作った中でも一、二の自信作でね。ストラディバリの『グレフューレ』を忠実に再現したものさ。データをコンピューター制御の三次元測定機でばっちり解析してね。本物のグレフューレと寸分の狂いもないモデルになっているんだ。もちろん、仕上げの象嵌は完全な手作業だし、時間もめちゃくちゃかかっているよ。現代のハイテクと職人の腕の高次元な融合ってわけだな。
 出来がよかったんで、このバイオリンの魂柱にもトリカブトエキスを塗ってある。作ったのは去年のことだから、もちろん今度の事件とは何の関係もない……」
 そう言いながらも西丘は慣れた手つきでバイオリンの弦を緩め、駒を外し、fホールから特殊なピンセットのような器具を入れると、やがて細い木製の円柱を取りだした。
「分かるかね? これが魂柱だよ。魂の柱って書くくらいでね、バイオリンの音には重要な影響を及ぼすんだ。ほら、よく見てくださいよ。こいつにはトリカブトが塗ってある。去年作ったバイオリンにも、こうしてちゃんと塗ってあるんだ。これが証拠さ」
 西丘が示した丸い木の棒は、確かにうっすらと何かが塗ってあるように見えた。
「岸田さん、これはずっとあなたが持っていたんですか?」
「ええ。金は払っていないけど、長期モニター契約みたいなものですね。そのうちにちゃんとお支払いして買い取りたいと思っているんですが、貧乏楽士にはなかなか……。これを持っていってテレビ局のディレクターにも例の番組の企画を説明しましたし、ここ一年はずっと僕が持っていました。魂柱のことは僕も今初めて気がつきましたけれどね。西丘さんのところに調整に出すのは半年ぶりだし、事件の後、西丘さんがこの楽器に細工をすることは無理です。これで西丘さんの話が本当だということは分かりましたね」
「それはどうかな。西丘さん、このコンチュウってやつ、お借りしてもいいですかね?」
「ご苦労なこったね。また鑑識に回すのかい? わしは構わんが、そうなるとこのバイオリンには新しい魂柱を取り付けなけりゃあいかんことになるわな。これが結構微妙な作業でね。馴染んでいる魂柱を取り替えて、音が変わったなんてクレームが出ると困るんだ。こっちはしっかりやる自信はあるが……」
「僕はいいですよ。それで西丘さんの容疑が晴れるなら。それにこれは、暫くはフィリップさんが使ってみたいとおっしゃってまして、調整していただいたら、フィリップさんのところに届けることになっているんです。西丘さんもそれがお望みでしたよね」
「ああ、多くの一流バイオリニストに弾いてもらって、感想を聞きたいんでね。フィリップさんにも、……できればひかりさんにも弾いてもらいたいもんだね。で、どうなんだい、刑事さん。この魂柱、持っていくのかい?」」
 西丘が言った。
 有賀と富田は思わず顔を見合わせたが、有賀は黙ってポケットからビニール袋を取り出すと、西丘の前に突き出した。


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