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 西丘の工房を後にした三人は、工房から車で三十分ほど離れた町田市の外れにやってきていた。
「桜木さんには申し訳ないんですが、ここまで来たからにはついでにもう一カ所つき合ってもらえますか?」
 運転席に座るなり、岸田は後部座席の由伽にそう言った。
「いいですけど……どこですか?」
「まあ……ちょっとした物件ですよ。3LDKの庭十坪付き貸家。家賃月十五万円」
「岸田さん、いつから不動産屋になったんですか?」
「フィリップさんに頼まれた三カ月前からですよ」
「はあ?」
「まあ、人生いろいろとありましてね。バイオリニストが不動産の斡旋をすることもあるんですよ……」
 訝る由伽を煙に巻くように、岸田は小声でそう言った。
 その様子を、フィリップはちょっと不審そうな顔で見ていた。
 日本語だったから、フィリップには岸田が何を言っているのか分からなかっただろう。しかし、それ以上に由伽にも岸田が何を言っているのか分からなかった。
「フィリップさんの家ですよ。できれば日本に永住したいそうです」
「えっ!」
 由伽は驚いてフィリップの顔を見た。
「本当ですか? 日本に永住したいというのは?」
 由伽はフランス語で、フィリップ本人に訊いた。
 フィリップは穏やかな笑顔で答えた。
「ウィ」
 岸田が運転する車でその「物件」とやらに向かう間、フィリップは由伽に説明した。
「私にはもうあまり時間は残されていません。このまま力尽きるまで世界中を演奏旅行するということも考えたのですが、もう体力的には限界なのですよ。
 私の今いちばんの望みは、次の世代のバイオリニストが育っていくのを見守ることです。私が築いたジャズバイオリンの世界を、さらに高めてくれる……いや、ジャズだとかクラシックだとかいう垣根など、これからは何の意味も持たないのだということを教えてくれるような、深く広い音楽世界を築いていく新しい時代のバイオリニストたちが育つのを見届けてから死にたいのです。
 そうした理想にいちばん近いのが、ひかりさんであり、岸田さんです。私はこの二人のそばにいて、彼らの力を身近に感じながら余生を送りたいのです。もちろん、二人のためにできることは何でもするつもりです。教えられることは全て教えたいし、私が現役としてのプライドを保てるうちは、セッションもどんどんしてみたい。 そのためには私が日本に住むのがいちばんいい。手続きなどでいろいろと大変なことはあるでしょうが、まずは家を探してもらったのです。住む場所が決まれば、後はなんとかうまくいくものですよ」
 由伽が驚いているうちに、車は町田市の外れにあるその「物件」に到着した。
 閑静な住宅街に隣り合わせた農家の広い敷地の一角に建つ、白いスタッコの壁の建物だった。
「まだ新しいんですよ。この農家の主が娘さん夫婦のために建てたものなんですが、その夫婦、この家が建った途端に旦那さんがドイツに出向になりましてね。当分帰ってこられないらしいんです。家賃は十二万円。周囲はみんな庭みたいなものだし、破格だと思いますよ」
 岸田が得意そうに解説した。
 平屋だが、敷地を気にせずに建てられているので、狭苦しい感じはしない。静かで、周囲には建物もないので、バイオリンの練習なども思いきりできるだろう。
「いいじゃないですか。気に入りましたよ」
 フィリップは本当に嬉しそうに、その家の周りを何度もゆっくりと回った。

      ∇‡∇
 フィリップの公演は、東京、横浜、大阪、名古屋、そして最後にもう一度東京という順番で、一週間に五回行われるというスケジュールだった。
 通訳の由伽はその全行程に同行した。
 最後の東京公演で、ついにフィリップが念願していた添多ひかりとの共演が実現した。
 フィリップは他の公演のときよりも三時間も早くからリハーサルを始め、リハーサルの最初からひかりとの共演を望んだ。
 添多征一が死んだあの番組で一緒だった評論家・湊が、その様子を由伽と一緒に客席から見ていた。
 リハのステージ上に、ひかりは例の西丘が作った「グレフューレ」を持って現れた。事前にフィリップと何らかの話があったのだろうが、愛用のストラディバリに代えてわざわざ国産のバイオリンを使うというのは、クラシックファンの間でもかなりの話題になりそうだった。また、ひかり自身、あの番組で覆面バイオリニストとしてこの楽器を試奏して以来、相当気に入ったということなのだろう。
 しかし湊には、楽器の選択以上に、フィリップとひかりが何の曲をどんなスタイルで共演しようとしているのか、極めて興味があった。
 ひかりのバイオリニストとしての実力は以前から分かっていた。 はっきり言って、岸田などとは格が違う。しかし、ジャズミュージシャンとのセッションを事もなげにこなしてしまう岸田の器用さを、ひかりが持っているとは思えなかった。
 同じバイオリンという楽器を弾くとはいえ、クラシックとジャズとでは音の出し方から演奏のノリまで、相当違う。下手をするとまるでちぐはぐな共演になる可能性もある。
 湊が注目する中、フィリップは椅子に座り、ひかりのほうに目で合図を送ると、愛用のベルゴンジで、なんとバッハの『フーガの技法』の一節を弾き始めた。
 ジャズバイオリニストによるクラシックのバイブル的楽曲の演奏。 意表をつかれた湊は、固唾を呑んでフィリップの演奏に聴き入った。
 ひかりのバイオリンが、途中から追いかけ始めた。
 複数の異なったメロディーが絡み合い、全体として複雑な曲調を形成するのがこの作品の特長だ。
 二つのバイオリンはつかず離れず、邪魔をせず、一人歩きをせず、しかもそれぞれが明確に主張しながら絡み合い、独特のハーモニーを築いていた。
 ひかりの演奏は、やはり岸田よりもレベルが上だと分かる、実に堂にいったものだった。フィリップも、そのひかりのレベルに引き上げられるかのように、岸田との共演のときよりもずっと木目細かな、繊細な音を出していた。
 ジャズプレイヤーと言われるフィリップに、こんな演奏ができるのかと、湊は改めてステージ上の七十八才の老バイオリニストの奥の深さに感服した。
 しかし、何かが変だ。すばらしい演奏なのだが、これは自分が知っているあの『フーガの技法』ではない。
 その原因を発見したとき、湊は感動と驚愕で身体が震え始めた。
 一人は確かにバッハが書いた譜面を忠実に再現している。しかしもう一人は、そのバッハの記したメロディーに合わせ、自由奔放にアドリブプレイをしているのだ。
 そしてアドリブをしているのは、ジャズバイオリニストのフィリップではなく、クラシックバイオリニストのひかりだった。
 それも、ジャズのコード理論に乗っ取ったスケール的なアドリブではなく、あくまでもバッハの調べに溶け込んだ、クラシックの香りを漂わせた気品のあるアドリブ……。
 湊は何度もこれは自分の勘違いではないかと思った。二人は自分が知らない「ある曲」を演奏しているのではないかと。しかし、やはりフィリップはバッハのメロディーを、ひかりは湊の知らないオリジナルなメロディーを弾いている。
 やがて、フィリップのバイオリンがひかりのバイオリンに包み込まれるように、ゆったりとしたロングトーンを残して消えた。ひかりはさらにアドリブソロを続ける。
 バッハから移行しても何の違和感もないオリジナルなメロディーだけがホールに響く。
 そのメロディーが二回繰り返されたところで、ジョージのベースがおずおずと入ってきた。素朴な二音の繰り返しによる指弾きのベース。
 それに合わせて今度はギタリストのステファンが、ジャズ特有のテンションコードを控え目にピッキングする。
 ひかりのバイオリンがそこですっと抜け、ベースとギターだけのバッキングが残る。そのシンプルなバッキングが八小節続いたところで、フィリップのバイオリンが力強く入ってきた。
 フィリップが三十代の頃に書いた名曲『シリウスへの祈り』の主題だった。
 バッハからジャズへ。その移行が違和感なく、極めてスムーズに行われる。湊の長い音楽鑑賞歴でも、こんな体験は初めてだった。
 テーマがダカーポされたところで、ひかりが三度上のハーモニーで入ってきた。
 二人が競うようにテーマを弾き終えると、そのままひかりが力強いアドリブソロに突入する。長い髪を少し乱し、首を振りながら弾くそのソロは、いわゆるジャズのモード奏法とは違う。あくまでもメロディアスで、それでいて心地よいテンションノートがちりばめられた、オリジナリティ溢れるものだった。
 聴衆がみな息を呑む気配が伝わってくるようだった。
 変化に富んだ渓谷を駆け抜ける清流のようなひかりのソロの後、今度はフィリップがソロに入った。
 生涯何万回となく演奏したであろう自分の代表作。おのずとソロ部分もパターンが決まっているはずだが、ひかりのソロに刺激されてか、フィリップは明らかに多少の冒険をしようとしていた。
 時折眉根を寄せ、未知のフレーズを探るように、そして一瞬のひらめき、奇跡のフレーズが指先に宿るのを祈るように、指板の上の左指を踊らせる。
 しかし、ひかりの弾いたソロ以上のソロには、どうしてもなりえなかった。
 あのジャズバイオリンの巨匠・フィリップ・カルノーが、本領のアドリブプレイで、クラシックバイオリニストの添多ひかりに負けたのだ。
 湊は信じられない面もちで、ステージの上の二人を見つめていた。
 十分を越える演奏が終わったとき、会場は一瞬痺れるような沈黙に包まれた。しかしすぐに、誰か最初の一人につられ、力強い拍手が起こった。
 湊自身は、拍手をするのも忘れて、ただただ放心していた。
 ステージの上では、フィリップが潤んだ目をひかりに向け、恍惚としたまま、喋ることも、動くこともできないでいた。
 さらにもう一人、客席の後ろでは、いつ入ってきたのか、西丘が一人、溢れ出る涙を隠そうともせず、ステージの上のひかりを見つめていた。

      ∇‡∇
 怒涛のようなリハーサルは、開演の三時間前に切り上げられた。
「私は開演まで、ちょっとホテルに戻って休みたいと思います」
 疲れきった表情で、フィリップは由伽に告げた。
 由伽はすぐにタクシーの手配をした。
 迎えに来たタクシーに一緒に乗り込もうとする由伽を、フィリップが軽く手で制した。
「ノン。すみません。一人になりたいんです」
 丁重だが、きっぱりとした口調だった。
 開演前の大切なときに主役を一人にしていいものかどうか、由伽はためらったが、結局は言われるままに一人タクシーに乗り込んだフィリップを見送った。
 取り残された由伽は、ロビーの自動販売機でコーヒーを買うと、ソファに座った。
 そこに湊が現れ、同じように自動販売機でコーヒーを買うと、由伽の隣に座った。
「凄かったですね、ひかりさんとの共演」
 プロの感想を聞こうと、由伽は湊にそう言った。
「どこがどう凄いか、分かりましたか?」
 湊は由伽にそう質問した。
 答えに困っている由伽に、湊は解説した。
 クラシックバイオリニストのひかりが、ジャズバイオリニストのフィリップを圧倒するアドリブを弾いたこと。特に最初の「半分だけ即興のバッハ」は、音楽史上特筆されるべき画期的な試みであることを。
 そして最後にこう付け加えた。
「あの芸術性を解放するためなら、私でも人の一人くらい殺すかもしれないな」
「えっ?」
 その発言にぎょっとした由伽が、思わず湊の顔を覗き込んだ。
 湊は声を落として、こう説明した。
「今日の二人の共演も、ある意味では添多征一氏が亡くなったからこそ実現した企画ですよ。ひかりさんは今まではずっと篭の鳥だったからね。征一氏の許可がないと何もできなかったんだ。楽団のレベルが低すぎるとか、指揮者がひかりの感性には合わないとか、いろんな理由を付けて添多さんはひかりさんを外に出さなかったんだ。格の高い演奏会でも、主催者に法外なギャラをふっかけたりして随分話を潰していたしね。ましてやジャズ・バイオリニストとの共演なんて、考えられなかったわけでしょう?」
 湊の「解説」を聞きながら、由伽は複雑な思いに捕らわれた。
 添多殺害の犯人はまだ分からない。しかし、現場にいた音楽関係者の誰か、つまりはあの番組のゲスト出演者の誰かである可能性は高い。警察は西丘をいちばん疑っているようだが、見方を変えれば、ひかりを添多の「篭」から出してやろうとした誰か、あるいはひかり本人にも、「動機」はあるということになるのではないか……と。 しかし、まさかそうした疑いが現実に形になってしまうとは、そのときの由伽は思いもしなかった。

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「……それで、その飲み物が置かれたトレイの前で立ち止まっていたのは、確かにこの女性だったんだね?」
 有賀警部は、前髪を緑色に染めた若い男に問いただした。
「ええ、可愛い子だったから、印象に残ってるんですよ。小柄で、髪がまっすぐに背中まで伸びてて、今時珍しいお嬢様タイプっていうんですか? クラシックのバイオリニストだって知ったのは後になってからだけれど……」
「何をしていたんだね、その女性は」
「さあ……そこまでは。見たのは一瞬だし……」
「飲み物に手を触れたのか、それともただ近くに立っていただけなのか、そのへんが重要なんだがね」
「分からないですよ。こっちだって仕事してた合間のことだし……」
 事情聴取されているのは、添多征一が死んだ日に、ホールのトイレ清掃をしていたアルバイトの青年だった。トイレの清掃を終えて出てきたときに、飲み物を置いたワゴンテーブルのそばにひかりが立っていたのを見たという。
「しかし、何か不審な感じがしたから、君も印象に残っていたわけだろう?」
 いささか誘導尋問じみているとは思ったが、有賀警部はさらにそう追及した。
「不審ってわけじゃないけど、まあ……ただ、ぼーっと突っ立っていたってわけじゃないですよ、そりゃあ。何かしていたんじゃないですか。よく分からないけど」
 青年は苦し紛れにそう答えた。
「その何かまでは分からない……か」
 有賀が不満そうにそう言ってため息をつきかけたとき、青年は言いにくそうに、呟くような声でこう言った。
「その……何か小さな容器みたいなものを持っていたような気も……」
「何だって?」
 有賀は俄然色めき立った。

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 フィリップ・カルノー日本公演の打ち上げパーティーに、なぜか添多ひかりと岸田徹郎の姿がなかった。
 二人とも出席すると聞いていただけに、主催のエターナルララバイ音楽事務所のスタッフは気を揉んでいた。
 そこに、岸田が三十分以上遅刻して現れた。
「重役出勤ですね、岸田さん」
 いち早く見つけた桜木由伽がそう声をかけたが、岸田は硬い表情を崩さないまま、いきなりこう言った。
「えらいことになったよ」
「どうしたんです?」
「ひかりさんが、警察に任意出頭を求められて、かなり厳しい追及を受けたらしいんだ」 
「なぜです? 何かあったんですか?」
「目撃者が現れたんですよ。ひかりさんが廊下に置かれていた飲み物のグラスの前に立って、不審な行動をしていたのを見たというやつがね」
「誰なんです、それは?」
「よく分からないけれど、清掃会社のアルバイトらしい。トイレ掃除を済ませて出てきたときに偶然見かけたって。しかも手には何か小さな容器のようなものを持っていたと言うんだな。本当だとしたら、かなり決定的な証言になってしまう」
「ひかりさんは認めたんですか?」
「いや、もちろん否定したさ。ちょうどコンタクトレンズが外れて、それを直していたところだって釈明したらしい。トイレも清掃中で入れず、仕方なくたまたまそこで直していたんだと……」
 由伽は岸田の話を聞き終えてから、小さくため息をついた。
 警察はひかりの釈明を簡単に受け入れるだろうか。そうは思えない。
 二人が険しい表情で話しているのを見て、フィリップが心配そうに近づいてきた。
「何があったんですか?」
 由伽は一瞬躊躇したが、岸田が目で了承するのを見て取って、今の話をフィリップにフランス語で伝えた。
「ノン! ノン!」
 フィリップは激しくかぶりを振りながら、絞り出すような声を出した。
 周囲にいた人々が、何事かと驚いた顔で振り向いた。
「大丈夫ですよ。心配はないですよ。ひかりさんはもちろん潔白です」
 由伽が慌てて言った。
「それにしても、こんなことになるなんて……僕があの番組を企画しなければ……」
 岸田は苦渋の面持ちで、そう呟いた。

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 コンサートの全日程が終了し、フィリップのスタッフとバンドは離日した。
 しかしフィリップは単身日本に残った。
 岸田が見つけてきた貸家のほうは、フィリップの日本での永住権、あるいは永住権とまではいかなくとも、ビザの延長手続きなどがクリアになるまでは購入手続きを進められそうもなかったので、フィリップはとりあえず東京郊外のこじんまりしたビジネスホテルに長期滞在することにした。
 一部では、添多征一殺害事件が解決するまで日本に足止めを食っているのではないかなどという噂も流れたが、もちろんそれは違っていた。
 フィリップは残りの人生を日本で過ごしたいという希望を実現するために動き始めていたにすぎない。
 捜査本部とて、最初から事件とフィリップとの関係はほとんど考えていなかった。
 トイレ掃除をしていたアルバイト青年からの聴取以来、捜査本部はひかりを重要容疑者として見始めていた。
       
 杉並区の高級住宅街の一角に、敷地三百坪ほどの豪邸がある。
 玄武岩を積んだ門柱には、銅板の大きな表札があり、「添多征一」の文字が刻まれている。
 葬儀や法要などが一段落し、再び静けさを取り戻したその家を、有賀警部と富田警部補の二人が訪れていた。
 しかし、目当てはひかりではない。添多夫人……今は未亡人となった添多多美恵だった。
 家には夫人が一人でいた。ひかりは仕事で昨日からいないという。
 夫人はまだ四十になっていない。しかも歳よりもずっと若く見えるので、最初添多の葬儀のときに見かけたときは、有賀も富田も一瞬それが夫人だとは思わなかった。
 添多は五十八歳だから、親子ほども歳が違う夫婦ということになる。秘書として雇った女性を、半年で四人目の妻にしたということだ。これが政治家などだったら結構スキャンダルにもなるのだろうが、芸術家というのはそうした一種破天荒な人生も、世間からむしろ肯定的に捉えられるのだろうか。
 しかし、その添多も今はもういない。有賀は改めて複雑な思いで夫人を見つめた。
 夫人は二人の刑事を応接間に通し、型どおり茶を出した。しかし、当然のことながら、表情は硬い。
「いろいろと大変だったでしょう。もう、少しは落ちつかれましたか?」
 出された紅茶をいきなり半分ほど飲んでから、有賀警部はそう切り出した。
「以前から、こういう日が突然来るかもしれないということは覚悟しておりましたから」
 夫人は落ちついた口調でそう答えた。
「殺される……ということがですか?」
「いいえ、もちろんそういう意味ではありませんわ。主人が急死するかもしれないという意味です。なにしろ心臓病を患っていましたから」
「そうですか……。しかし、ご主人は病気で亡くなられたわけではないんです。何者かに毒を盛られて殺された……そこのところはしっかりと見据えていただかないと」
「でも……本当にそうなんでしょうか? 私、今でもそうは思えないんですよ。ただの心臓発作だったんじゃないかって……」
「ちゃんと毒物が検出されていますからね。間違いはありません」
「信じられませんわ……」
「でも、信じていただかないことには話が進みませんから」
「ええ……」
 夫人はそう言うと、うつむき加減になって、軽くため息をついた。
 その仕草が、計算されたような色気を醸し出す。
 それも決して水っぽいとか、安っぽいコケットリーとは違う種類の色気だ。秘書に雇ってから半年で結婚したという添多だけでなく、過去に多くの男を夢中にさせたに違いない。
 有賀はカップに残った残り半分ほどの紅茶を、また一気に飲み干すと、相手の色香に真正面から挑戦するような無遠慮な口調でこう訊いた。
「立ち入った話で恐縮なんですが、娘さんのひかりさんは、あなたがたご夫婦の本当のお子さんではありませんよね。確か、八年前に養子としてこの家に来た……と」
「ええ。私が主人と結婚する前のことです」
「ああ、そうでしたね。奥さんも再婚で……」
「いえ、私は初婚でした。主人の方は四回目でしたけれど。まだほんの二年前のことですから、ひかりのほうが主人との関係という点では私よりずっと先輩なわけですね」
「奥さんがこの家に来られる前には、前妻さん……というか……ご主人の前の奥さんとひかりさんは一緒に……」
「いいえ。主人が前妻と正式に離婚したのは私と結婚する直前でしたが、実際にはもう四年以上も別居状態でした。つまり、ひかりが養女になってまもなく別居しているんです」
「ほう……。ということは、その四年以上という期間はこの広い家にご主人とひかりさんがお二人だけで……」
「ええ……」
 夫人はなぜかそこで前を伏せ、言葉をとぎらせた。
 しかしすぐに再び顔を上げ、何かを打ち消すようにこう続けた。「でも、実際にはお手伝いさんが三人、交代で来ていましたし、他にも弟子たちや運転手など、人の出入りは多かったようです。私も主人の秘書になってからは、ときどき出入りしていましたし、家というよりは、事務所のようなものですね」
「事務所……ねえ」
 有賀と夫人のやりとりをそばで見守っていた富田警部補が、呟くようにそう言うと、意味ありげに部屋の中を見回した。
 立派な屋敷だが、芸術家の家だけあって、よくある成金趣味の調度品などはない。北欧調の家具が目立つくらいのもので、部屋全体はシンプルなモノトーンにまとめられている。しかし、それだけに部屋の作りそのものの高級さやスペースのゆとりが、初めて訪れる者を圧倒する。
 三十畳はあろうかという空間に、スタインウェイのグランドピアノとクオード社の家具調オーディオセットが置かれている。オーディオには多少うるさい富田には、まさに涎が出そうな部屋だった。
「奥さん、ずばりお伺いしますが……」
 品定めするように周囲を見回し始めた富田を無視して、有賀警部は続けた。
「……ご主人とひかりさんはうまくいっていましたか?」
 その問いに、夫人はすぐには答えず、一、二秒の間、有賀を咎めるような目で見返した。
「やはりそういうことですのね……。ひかりが事情聴取を受けたと聞いて、私も相当ショックでしたが、この際私の方からもきっぱりと申し上げておきます。ひかりと主人とは、実の親子以上にうまくいっていました。万が一にでもひかりをお疑いなら、全くナンセンスなことですわ。ひかりは主人を尊敬していますし、私が嫉妬するくらい、主人もひかりのことを実の娘以上に愛していました」
「しかし、その愛し方が問題だったのではないかと見る向きもあるようですよ。ご主人がひかりさんを縛りすぎていて、ひかりさんは私生活はおろか、音楽活動のほうでも自由を奪われていた……と」
「世間がどんな勘ぐり方をしようと、主人とひかりの関係をいちばんよく知っているのは家族である私です。ひかりが主人を殺そうとするだなんて、絶対にありえません。私を疑うというならともかく、ひかりを疑うのは時間の無駄ですわ」
「奥さんを疑うならともかく……ですか? ではついでというわけではありませんが、奥さんはご主人とはうまくいってらっしゃったんでしょうか?」
「ええ。結婚してまだ二年、倦怠期には早いですし……。とりたてて仲が悪い夫婦ではなかったと思いますよ。歳が離れていたり、私が四人目の妻ということで、いろいろと言う人もいたようですけれど、私としては、秘書の延長のようなところがありました。もちろん、男性として、夫として、主人のことを愛していたことも事実ですけれど……。私とて、主人を殺さなければならない理由は何一つありませんわ」
「まあ、我々としても、奥さんのことは疑ってはおりませんよ。なにしろ奥さんはご主人の殺害現場にいらっしゃらなかった。飲み物に毒を盛ることはできませんでしたからね」
「やっぱり、どうしても主人はあのホールにいた人たちの誰かによって殺されたというんですか?」
「ええ。他の誰かが喫茶店の店員を買収して毒を入れさせたとか、そういう可能性はほとんどないでしょうから」
「そうだとしても、ひかりではありません。絶対に」
 多美恵夫人は頑としてひかりをかばい続けた。
 有賀は手を代え品を代え、何か新事実を聞き出そうとしたが、多美恵はますます頑なになり、最後はとりつく島もなくなってきた。「とにかく、ひかりが主人を殺しただなどということはありえません!」
 そう繰り返す夫人を、それ以上追及しても仕方ないようだった。

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「なんだか徒労に終わりましたね。親として子供をかばうのはあたりまえなんでしょうけれど……」
 添多宅を後にし、署に戻る車の中で、富田が有賀に言った。
「親子といったって、血はつながっていないんだからな。一緒に暮らすようになってまだ二年。歳だって、添多とひかりのちょうど中間くらいの歳だろう? 俺はむしろ、なんであんなにむきになるんだろうって思ったよ。確かに夫人はあの現場にいなかったから、飲み物に毒を入れることはできない。だが、毒を用意することはできるかもしれないな。夫人が計画を練って準備をし、ひかりに毒殺を実行させる……そういう共同犯行の可能性ならあるわけだな」
「証拠が何もないですね」
「ああ、証拠どころか、根拠もない。刑事たる者、根拠のない憶測でものを言っちゃあいけないな」
「自分で言い出しておいて、すぐに否定ですか」
「ああ、取り消す。とりあえず、やはり毒物の出所を洗い直すか。その線に関しては、未だにいちばん怪しいのは西丘だからな」
「トリカブトを栽培していただけでなく、煎じて液体にしたものを持っていたわけですからね。私は音楽は好きで、クラシックも結構聴くんですが、未だかつて、トリカブトでバイオリンの音がよくなるなんていう話は聞いたことはありませんからね」
「でたらめだろうな。俺も念のため他のバイオリン製作者に何人か電話で訊いてみたが、そんな話は初めて聞いたという人たちばかりだったよ」
「西丘は添多氏の隣に座っていたわけですしね」
「ああ。まだ日は高いな。これからもう一度西丘を当たってみるか」
 有賀は署に無線電話で連絡を入れると、署には戻らず、運転する富田に告げ、そのまま西丘の楽器工房に向かわせた。

       ∇‡∇
 ホテルの部屋で、フィリップはもう一時間以上もサイドテーブルの上を見つめていた。
 そこには小さな丸い容器が置かれている。
 バイオリンの弓に塗る松脂を入れるケースだった。
 フィリップは手を伸ばすと、その容器を取り、暫く手の中で転がす。やがて慎重に蓋を開け、中に入っている松脂を見る。飴色のその固体は、中が少し白く濁っている。
 その松脂を手に取り、目の前に持ってきて凝視する。
 そして、そっと元のケースに戻し、蓋をして、テーブルに置く。 ……そんな行為を、もう小一時間も繰り返していた。
 そのとき、枕元のサイドテーブルの上にある電話が鳴った。
 待ちかねたように、フィリップは電話に飛びつく。
〈フロントですが、添多様がお見えです〉
「ああ……、Well, I'm coming soon.」
〈はい?〉
「……イマ、イキ……マス……」
 小さなホテルだと、フロントマンが英語も分からない。しかし、フィリップは別に腹も立たなかった。これからこの国で生活するとなれば、日本語をもっと覚えなければならないのは自分の方なのだから。
 フィリップは上着を引っかけると、すぐに玄関ホールに向かった。
 小さなエントランスホールに形ばかり置かれたソファに、ひかりは座っていた。
「なかなか会えなくて、気が狂いそうでしたよ」
 フィリップはフランス語でそう言うと、ひかりを抱き寄せるように両手を差し出した。ひかりはちょっと身体を引くようにしながら苦笑した。
 人目を気にしているのだろうか……。
 フィリップはフロントのほうを一瞥した。
 まるでアルバイトのような青年が、不思議なものを見るような視線を慌ててそらしたが、フィリップは気にしなかった。英語が分からないホテルマンにフランス語が分かるはずはない。
「話したいことが山のようにあるんだ。どうしたらいいだろう。このホテルの周りには大した店はないみたいだし……」
「でも、そこのカフェは一応やっているんでしょう? 私はどこでも構いませんけれど」
 ホテルの一階に、小さなカフェがあることはあった。フィリップはここ数日、ここで朝食や夕食を取っている。昼間も一応営業してはいるのだが、ほとんど客が入っているのを見たことがない。
 しかし、考えようによってはその方が好都合かもしれない。
 誰に気兼ねすることもなくゆっくりと話ができる。
 二人は客の入っていないカフェで、コーヒーとココアを頼んだ。「私はもう、日本を離れまいと思っているんです。人生の最後を、ひかり……君のそばで過ごしたい」
 一人しかいないウェイトレスが注文を取って下がるなり、フィリップはいきなりそう切り出した。
 ひかりは驚いたような顔でフィリップを見た。
 フランス語を忘れてしまったのだろうか、それとも突然そんなことを言われて面食らってしまったのだろうか。
 フィリップはどう言葉を続けていいのか分からず、ひかりを見つめた。
 ひかりは静かに視線を外した。
「すまない。驚いてしまったんだね。そうだね、私は自分のことしか考えていなかったかもしれません。こんなおじいさんに一方的に愛されたところで、若い君には迷惑でしょうね。でも、私は君にとって重荷かね? 別に君に面倒を見てもらおうというわけじゃない。ただ、君の音楽家としての成長を、できるだけそばから見ていたい……それだけなんだ」
「そこまで言っていただけて光栄ですわ」
 ひかりはゆっくりとだが、正確なフランス語で答えた。
 少なくとも言葉が通じていなかったわけではないと分かり、フィリップはさらにたたみかけるようにこう続けた。
「実際のところ、君はもう、バイオリンを弾くという技術に関しては、あらゆる点で私より優れているかもしれない。私にはもう、君に教えるべきものなど何もないのかもしれない。しかし、技術を超えたものを、何か教えられるかもしれない……それができたら、私はいつ死んでもいい。ひかり、……君がこれから築いていく音楽の世界の中で、私は永遠の眠りにつきたい……」
「そんな……」
 ひかりはますます困惑した表情になって、うつむいた。
「私はまだほんのひよっこです。フィリップ先生の四分の一くらいしか生きていないし、先生を超えただなんて、とんでもないことです。先生のバイオリンは先生の人生そのものです。私はとてもそこまでは……。どうぞ末永く、私のかけがえのない師匠でいてください」
 その言葉を、フィリップは涙を浮かべながら聞いていた。そして何度も何度も頷いた。
「ひかり、君はこれからもあの家に住み続けるのかね。もしそうならば、私は君の家がある杉並区に近い場所に部屋を借りようと思う。ミスター・キシダが見つけてくれたあの家は本当に素晴らしい環境だけれど、よく調べてみると君の家まで二時間もかかる。私はもっと君のそばにいたいんだ。それとも……そういうのは迷惑ですか?」
「いいえ、迷惑だなんて……とんでもない……ただ……」
「ただ……何だね?」
「ただ……、これから先どういう生活になるのかは、私自身まだ分かりませんし……。養父であり、マネジャーでもあった添多先生が亡くなってしまい……、私はこれ以上あの家に居座り続けていいものかどうか……。今のお母さまとも、仲はいいですけれど、本当の親子ではないし……。いろいろなことがまだ未知数で、もう少し時間をかけないと……。どうか先生もしばらくはのんびりなさっていてください。
 岸田さんが、もし先生が本当にこのまま日本での生活を望まれているのなら、一緒にお仕事をする機会を増やしたいと言っていました。岸田さんともいろいろとお話なさって……」
「そうだね。彼はいい男だ。本当に……」
 もちろん君とは別格だが……という言葉を、フィリップは呑み込んだ。
 髪を赤く染めたウェイトレスが、ココアとコーヒーを持ってきた。 テーブルに置きながら、改めて二人の顔を興味深げに盗み見る。 その視線を受け流しながら、フィリップは笑顔で「メルシー」と呟いた。
 ひかりはその後小一時間ほどフィリップの相手をした後、「約束があるので」と、申し訳なさそうに言い、その場を去った。
 約束とは、誰とのどういう約束なのだろう……。
 フィリップは知らず知らずのうちに岸田の顔を思い浮かべていることに気づき、たまらない気持ちになった。
 もしかして、ひかりと岸田は……。
 七十八歳の老人が、二十代の女に恋をし、、三十代の若者に嫉妬している。
 これだけ長生きをしてきて、なんと分別のないことだろう。
 情けない……。
 このひからびかけた身体を切り離し、捨ててしまいたい。そして未熟なままの精神も、どこかに放り出してしまいたい。
 そうすれば、後には音楽を奏でる「心」だけが残るだろうか?
 フィリップはひかりが去った後も、空になったココアのカップを見つめたまま、誰もいないカフェテラスをいつまでも去ろうとしなかった。

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「俺が添多のことを快く思っていなかったのは確かだよ。それは前にも言ったじゃないか。だけど、あいつを恨んでいた人間は他にもたくさんいるだろうよ」
 二人の刑事、有賀と富田を前に、西丘はほとんど一方的に話し続けた。
「そのへんのことを明らかにさせたいなら、昔のバイオリン偽造の件を徹底的に洗ってほしいものだね。俺はあいつに請われて確かにいくつかのストラディバリやガルネリのコピーを作ったさ。だけど、鑑定書の偽造までは関知しちゃいねえよ。本物のストラディバリと間違えるような完璧なコピーを作るだけじゃあ犯罪にはならんだろ? 問題はそれを本物だと偽って売る行為だ」
「あのねえ、西丘さん。我々はバイオリン偽造事件を調べているわけじゃあないんですよ」
 富田が言った。
「分かっているよ。ただ、俺はね、その偽のストラディバリを掴まされたやつなんかも、添多のことは相当憎んでいただろうって言っているのさ。しかも、被害者の多くはあいつの弟子や生徒だからな。騙されたと分かっても、泣き寝入りさ……」
「そういう人がたとえたくさんいたとしてもですよ、少なくともあの現場にはいなかった。だから添多氏を殺すことはできなかった。そういうことです。殺した人間は、あの場にいた人物に絞られるんだ。そして毒物はあなたが所持していたトリカブト毒……」
 富田が部屋の隅にある古びた戸棚を指さして言った。
 そこには楽器に塗る塗料や艶出し用の薬品、接着剤などが収められている。そこから、トリカブトを煎じた液体の入った瓶が発見され、証拠物件として既に押収されている。
 西丘はそれを、あくまでもバイオリン製作上必要な薬品だと主張しているわけだ。しかし、ここで働く弟子たちの証言も曖昧で、日頃からその瓶のことは知ってはいたが、西丘からは「おまえたちは触るな」とだけ言われていて、中身のことはよく知らなかったようだ。
「俺はもちろん試したことはないんだがね、あの液体ではたして人が殺せるのかね? 日本一優秀な警視庁の鑑識が調べたんだろう? 教えてほしいもんだね」
 西丘から逆にそう訊かれて、富田は一瞬答えに詰まった。
「トリカブト毒がきっちり検出されたよ。言ったはずだが」
 代わりに有賀が答えた。
 正確な答えになっていないのは分かっていたが、そう答えるしかなかった。
 鑑識からの報告は既に受けていた。
 確かにトリカブト毒・アコニチンは微量に検出されたのだが、あの液体のまま使うとすれば、相当量を飲まなければ死ぬまでにはいたらないだろうということだった。瓶に入っていた液体はトリカブトの葉の部分を煎じたものらしいが、もしも人間を殺すために用意されたのだとすれば、葉ではなく、根の部分を使うのが常道だという意見も付加されていた。
 しかし、そう言えば、西丘を調子づかせることになる。なんとかここで一気に追い込みたいのだが、西丘は自分の工房からトリカブト毒が発見されたときも、全く慌てる素振りも見せなかった。
 本当にバイオリンに塗るために使っていたのだろうか……そう信じ込まされそうになる自分を、有賀は何度も否定し続けてきた。そんな不自然な話があるはずはない……と。
「こいつをもっと煎じていくと、最後にはどろどろになって、粉のようになるのかね?」
 有賀はそうカマをかけてみた。
「どうかねえ。そこまでやったことはないからなあ。粉になっちまったら魂柱に塗れないからね。水に溶かせばいいのかもしれないが、まあ、一種のおまじないみたいなもんでね。そこまで厳密には考えたことないよ」
 西丘は少しも動ずる様子なく答えた。
 そこに、車が近づく音がし、塗装が剥げかけたグレーの古いコロナが工房の前の道に停まった。
 降りてきたのは岸田だった。
 岸田は二人の刑事を見ると、露骨に不快な表情を浮かべた。
「ああ、ちょうどいいところへ来た」
 西丘は岸田の姿を見て、刑事たちにそう言った。
「岸田さん、魂柱の調整だったね。貸していた例の『グレフューレ』の魂柱が微妙にずれちまったらしいんだ。ちょうどいい。トリカブトを塗った魂柱というやつを見せてやるよ」
 西丘は上機嫌にそう言うと、二人の刑事と岸田を工房の奥に招き入れた。
 西丘は岸田からバイオリンケースを受け取ると、中から「グレフューレ」のコピーモデルを取り出し、二人の刑事に見せた。
「これは俺が作った中でも一、二の自信作でね。ストラディバリの『グレフューレ』を忠実に再現したものさ。データをコンピューター制御の三次元測定機でばっちり解析してね。本物のグレフューレと寸分の狂いもないモデルになっているんだ。もちろん、仕上げの象嵌は完全な手作業だし、時間もめちゃくちゃかかっているよ。現代のハイテクと職人の腕の高次元な融合ってわけだな。
 出来がよかったんで、このバイオリンの魂柱にもトリカブトエキスを塗ってある。作ったのは去年のことだから、もちろん今度の事件とは何の関係もない……」
 そう言いながらも西丘は慣れた手つきでバイオリンの弦を緩め、駒を外し、fホールから特殊なピンセットのような器具を入れると、やがて細い木製の円柱を取りだした。
「分かるかね? これが魂柱だよ。魂の柱って書くくらいでね、バイオリンの音には重要な影響を及ぼすんだ。ほら、よく見てくださいよ。こいつにはトリカブトが塗ってある。去年作ったバイオリンにも、こうしてちゃんと塗ってあるんだ。これが証拠さ」
 西丘が示した丸い木の棒は、確かにうっすらと何かが塗ってあるように見えた。
「岸田さん、これはずっとあなたが持っていたんですか?」
「ええ。金は払っていないけど、長期モニター契約みたいなものですね。そのうちにちゃんとお支払いして買い取りたいと思っているんですが、貧乏楽士にはなかなか……。これを持っていってテレビ局のディレクターにも例の番組の企画を説明しましたし、ここ一年はずっと僕が持っていました。魂柱のことは僕も今初めて気がつきましたけれどね。西丘さんのところに調整に出すのは半年ぶりだし、事件の後、西丘さんがこの楽器に細工をすることは無理です。これで西丘さんの話が本当だということは分かりましたね」
「それはどうかな。西丘さん、このコンチュウってやつ、お借りしてもいいですかね?」
「ご苦労なこったね。また鑑識に回すのかい? わしは構わんが、そうなるとこのバイオリンには新しい魂柱を取り付けなけりゃあいかんことになるわな。これが結構微妙な作業でね。馴染んでいる魂柱を取り替えて、音が変わったなんてクレームが出ると困るんだ。こっちはしっかりやる自信はあるが……」
「僕はいいですよ。それで西丘さんの容疑が晴れるなら。それにこれは、暫くはフィリップさんが使ってみたいとおっしゃってまして、調整していただいたら、フィリップさんのところに届けることになっているんです。西丘さんもそれがお望みでしたよね」
「ああ、多くの一流バイオリニストに弾いてもらって、感想を聞きたいんでね。フィリップさんにも、……できればひかりさんにも弾いてもらいたいもんだね。で、どうなんだい、刑事さん。この魂柱、持っていくのかい?」」
 西丘が言った。
 有賀と富田は思わず顔を見合わせたが、有賀は黙ってポケットからビニール袋を取り出すと、西丘の前に突き出した。


この本の内容は以上です。


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