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「会いたかった……。本当に、この日の来るのをどれだけ待ち焦がれていたか」
 玄関ホールに他の出演者たちを残し、ひかりの控え室に入ったフィリップは、ひかりの細い肩を抱いて、フランス語でそう言った。
 部屋には他に、フィリップの後を追ってきた通訳の桜木由伽、そしてひかりに付き添うようにしていた若いアシスタントディレクターがいたが、二人ともフィリップの言葉を理解できなかった。
 ディレクターはフランス語が分からなかったので、多分養父が突然死んでしまったことに対する慰めの言葉を言っているのだろうと思っていた。
 由伽はもちろんフランス語は分かっていたが、フィリップとひかりが以前どういう関係にあったかを知らなかったので、なぜこんな状況でそうした言葉が真っ先に出てきたのかが理解できなかった。
「私もずっとお会いしたかったんです。すみませんでした」
 ひかりはうつむきながら、フランス語でそう答えた。
 しかし、もう長いこと使っていなかったためか、それだけのことを言うのも随分大変そうだった。
「大丈夫。全てがこれからはうまくいきます。何も心配はいらない。私はもちろん、岸田さんも君の見方です。気持ちを落ちつけて、神様のご指示を待っていればいい。大丈夫、大丈夫……」
 フィリップは何かの呪文のように、「大丈夫」という言葉をゆっくりと何度も繰り返した。
 由伽は何も言えず、抱き合ったままの二人を遠慮がちに見ていた。

      ∇‡∇
「まいったね、本当に殺人事件なの? このところ、事件ラッシュって感じだね」
 鑑識からの報告を聞くなり、皆川警部は部屋中の人間に聞こえるような声でそう言った。
 皆川は五十一歳のベテラン刑事だ。
 身体は細いのだが、声だけは朗々としたバリトンで、たまに仲間内でカラオケ大会などがあると、物凄い声量で『エーデルワイス』や『マイウェイ』を歌い上げるので嫌われている。
 その声の十分の一ほどのか細い声で、鑑識課の渡辺が説明を続けた。
「添多氏が飲んでいたレモネードのグラスから毒物が検出された以上、単純な心臓発作で片づけるわけにはいかないでしょう。司法解剖の結果、体内からも同じ毒物が検出されましたし……。毒物はアコニチンで……」
「なんだ、そりゃ?」
「トリカブトなどに含まれる猛毒物質です。青酸カリの百倍という毒性があります」
「ああ、トリカブトか……。それが添多氏のグラスに入れられていた……と」
「ええ」
「毒殺とはなあ……まさかの展開だな」
 しかし、万一の可能性を考えて、現場からグラスを押収させたり、添多の解剖を要請するように指揮したのは皆川だった。
 添多が心臓病の持ち主だということで、最初に現場に行った刑事は単なる病死と思いこんでいた。
 その報告を受けた皆川は、しかし念のために……と、解剖や器物回収を命じたのだ。長年刑事を勤めてきた勘が働いたのだろう。
 皆川が命令しなければ、添多の死は今頃ただの病死として片づけられていたかもしれない。
「こんなことなら、現場にいた連中を缶詰にして、徹底的に持ち物検査とかをしていればなあ……。今となっては後の祭りだがな」
 皆川は、そばにいたまだ三十になったばかりの綾部刑事に、嫌みたっぷりにそう言った。
 綾部は現場に最初に出向いており、心臓発作による突然死らしいと皆川に報告していた。
「申し訳ありませんでした。まだまだ甘いです」
 綾部は深々と頭を下げた。
 皆川はそんな綾部のほうを見もせずに言った。
「それにしてもまいったなあ。俺のとこだけでもここ二週間で二件も事件抱えてるしなあ」
 皆川警部が率いる捜査班では、現在、二件の女性変死事件を捜査中だった。
 一つは十七歳の少女がラブホテルで首を絞められ死んでいたという事件。少女はごく普通の高校生だったが、どうやら売春をしていたらしい。
 もう一つは、一人暮らしの独身中年女性の変死事件。死後一カ月ほど経って発見されたので、死因の究明に苦労したが、薬物による中毒死、あるいは毒殺か服毒自殺の疑いもあるということだった。
 いずれもまだ捜査に乗り出したばかりで、解決のめどは立っていない。
 皆川が「まいった」を連発する裏には、本心としてはこの有名人毒殺事件を担当したいのに、この状態ではできない……という悔しさがあった。
 結局、添多征一毒殺事件捜査本部は、皆川が日頃からライバル視している同期の警部、有賀義治の指揮下に置かれることになった。
「自分で事件性を証明したヤマだっただけに、本当は俺なんかにやらせたくないんだろう?」
 有賀警部は禿げあがった額を手の甲でこすりながら、皆川に言った。
「まあな。しかしまあ、俺の方も手一杯だし……よろしく頼むよ」
 皆川は本当に悔しそうにそう言った。

      ∇‡∇
 ホテルのフィリップの部屋に二人の刑事が訪ねてきたのは、添多征一が急死した二日後だった。
 一人は有賀義治。頭が薄くなった五十代のベテラン警部。柔和な顔立ちだが、時折目だけがぎらりと光る。
 もう一人は富田恭比古といい、まだ三十代の警部補だった。富田は背が低いが、スポーツ刈りで、ごつい顔つきをしている。レスリングの選手で、学生時代は国体にも出たことがある。
 二人とも、判で押したようにくたびれたダークグレーのスーツを着ている。
 フィリップの部屋には、通訳として由伽も同席していた。
 フィリップも由伽も、富田警部補のほうには見覚えがあった。添多が倒れた現場に最初に駆けつけた刑事の一人だったからだ。
「困ったことに、添多征一さんの死は、単なる病死とは片付けられなくなりました」
 開口一番、富田がそう告げた。
「どういうことでしょう?」
 警部補の言葉を通訳するのも忘れて、由伽が問い返した。
「司法解剖の結果、体内から毒物が検出されたんです。さらには、添多さんのために用意されたレモネードのグラスからも、同じ毒物が検出されました」
 富田警部補が無表情に言った。もともと感情表現が乏しいタイプらしいが、通訳を通すという意識があるせいか、ますます声に抑揚がなくなっている。
 由伽の通訳を聞いたフィリップは、返事をする代わりに、大きく見開いた目に精一杯の驚きを込めて二人の刑事を見た。
「レモネードはホールの隣にある喫茶店から出前させたもので、喫茶店のアルバイトのウェイトレスが持ってきて、テレビ局のアシスタント・ディレクターが受け取っています。受け取ってから三十分近く、ホールの右側通路にあるテーブルの上にラップを掛けて置かれていて、収録の直前にホール内に同じアシスタント・ディレクターが運んでいます。
 喫茶店のほうは既に調べましたが、ここで毒物が混入されたということはあまり考えられません。飲み物を用意したマスターも、運んだウェイトレスも、それを誰が飲むかなど、全く知らなかったわけですからね。
 ということは、飲み物が通路に置かれているときに何者かが毒を入れたか、あるいは席に運ばれてから、添多氏が口にいれてショック死する前に入れたかということになります……」
 富田は事務的な口調でそう説明しながらも、綾部刑事と二人で最初に現場を見ていながら、まさか殺人事件だとは思わなかった自分の甘さを悔いていた。現場を見ていないのに何か疑問を感じ、遺体の司法解剖やグラスの回収を命じた皆川の姿勢にはほど遠い。
 富田は、同時通訳をしている桜木由伽に向かってこう訊いた。
「ホールの中では、司会者も含めてゲストの皆さんは同じ長いテーブルに横一列になって座っておられたわけですね」
「はい」
 通訳を途中で一時やめ、由伽が答えた。
「確認しますと、いちばん左に司会者の坂田吾郎さん、その隣に亡くなられた添多さん、その隣に西丘さん、フィリップさん、桜木さん、岸田さん、笹本さん……という順番ですね。つまり、このテーブルに飲み物が運ばれてから毒物が入れられたとすれば、添多さんの両隣の、司会の坂田さんか西丘さんがいちばん可能性があるということです。そしてもし西丘さんが何か不自然な動きをしたとすると、その隣のフィリップさん、あなたが気がつく可能性がある」
 富田の言葉を由伽の同時通訳がそこまで訳し終えたとき、フィリップは即座に首を横に振った。
「ノン。私が記憶している限り、そういうことは一切ありませんでしたよ」
「そうですか……。いや、それを伺いたかったんです。ということは、飲み物が席に運ばれてくる前に、つまり通路に置かれていたときに混入された可能性が高いということになりますからね」
 富田警部補に代わって、有賀警部が言った。
「そもそも、用意された飲み物のうち、添多さん用のだけがレモネードで、他はみんなオレンジジュースだったというのが解せなかったんですよ。添多さんがレモネードを飲むと分かっていれば、前もって毒物を入れることが可能なわけですからね。他の皆さんは飲み物のリクエストを訊かれていないと言うし……」
「私たちも何も……」
 由伽が答えた。
「そうですか。その点は既に喫茶店に注文したアシスタント・ディレクターに確かめたんですが、添多さん用にレモネードを注文してくれというのは、ひかりさんからの指示だったそうです。添多さんがオレンジジュースが嫌いで、喫茶店などで注文するのはいつもレモネードだからレモネードにしてほしいということだったようです。ひかりさんにその点を確かめたところ、彼女もそれを認めていました。
 ひかりさんはみなさんがホールに入る前に、単独でスタッフと打合せをしているんですね。みなさんと顔を合わせないようにという配慮で、別室で。そのときにそういう話があったそうなんです。
 アシスタント・ディレクターとしては、本当はテレビの画面に映ることもあるので、オレンジジュースで統一したかったらしいのですが、添多氏がいろいろと気難しい性格だということは聞いていたので、まあいいだろうといいうことで、一つだけはレモネードにしたんだそうです」
「待ってください」
 フィリップがフランス語で言った。
 由伽がそう訳す前に、有賀警部は話すのをやめた。
「あなたがたは結局こう言いたいのですか? あのホールに居合わせた人物のうち誰かが、添多さんに故意に毒を飲ませ、心臓発作に見せかけて殺したと」
「そうです」
 由伽の通訳を聞き終えるなり、有賀警部がきっぱりと答えた。
「誰が、何のためにですか?」
 フィリップはやや顔を紅潮させて、さらに訊いた。
「それをこれから調べるわけです」
「調べるのは結構でしょう。でも、あなたがたは大切なことを一つ忘れています。添多さんは自殺したのかもしれない。自分で飲み物に毒を入れて飲んだのかもしれない」
 フィリップの言葉に、二人の刑事は暫く沈黙した。
「ええ、可能性はないとはいえません。しかし、それこそ理由が希薄ですね。番組収録中に耐え難い恥をかいたので、発作的に自殺したとでもいうんですか?」
「芸術家というのは、普通の人間には理解しがたい価値観や感情を持っているものです」
 フィリップは穏やかな口調で、諭すように言った。
「貴重なご意見として承っておきましょう」
 有賀警部はそう答えると、ゆっくり立ち上がった。
「今のところ、分かっていることはこれだけです。カルノーさんはまだ公演がこれからあって、しばらくは日本に滞在なさるとか、また何か伺うことがあるかもしれませんので、ひとつご協力をお願いします。桜木さん、あなたも」
「ええ、もちろん……」
 由伽は警部の言葉を通訳する前に、反射的にそう答えた。

 刑事たちが部屋を出ていった後、フィリップはソファに座ったまま頭を抱え、何度も大きなため息をついた。
 由伽はその場に残っていていいものかどうか分からず、椅子から立ち上がったまま、黙ってフィリップを見ていたが、その表情があまりにも暗かったので、「大丈夫ですよ」と、とりあえずは気休めを言った。
「ウィ。大丈夫、大丈夫……」
 フィリップは由伽が言った言葉を、呪文のように繰り返した。

      ∇‡∇
 ホテルに刑事たちが訪ねてきた二日後、フィリップは東京公演の第一日目を迎えていた。
 会場はクラシック音楽中心の由緒正しい音楽堂の小ホール。PAも最小限度のものしか使わず、極力生の音に近いコンサートにするという演出だった。
 音響エンジニア・ボブの繊細な耳が、コンサートホールの特性に合わせて、絶妙のミキシングポイントを探る。生音と拡声音の比率を、楽器毎に決めていく作業がかなり難しい。
 PAのバランスをチェックしながら、二、三曲レパートリーをこなすと、フィリップはゲストの岸田とのセッションを望んだ。
 本当は添多ひかりと一緒にやりたかったが、ひかりは養父の死のショックや葬儀の疲れなどから、今回は遠慮したいと申し出ていた。
 岸田はバイオリンを二台持ってきていた。
 一台は先日の番組で使われた、西丘九平が作ったアントニオ・ストラディバリウス作「グレフューレ」のコピーモデルだ。
「西丘さんはこれを、できればフィリップさんにモニターしてほしいと言って僕に託したんですが、どうですか?」
「私からお願いしたいところでしたよ」
 フィリップは、岸田とのセッションでは、そのバイオリンを使ってみることにした。
 フィリップは高齢のため、長時間立っていることさえ辛い。コンサートでも座ったまま演奏している。ステージ上の絵作りの観点から、それに合わせて、ギタリストのステファンも座って演奏する。
 岸田とのセッションでは、座ったフィリップの横に、長身の岸田が立った。二人並ぶと、祖父と孫のように見える。
 岸田とのセッションのために選んだ曲は『チュニジアの夜』。テーマを三度のハーモニーで構成し、その後、岸田がソロに入る。
 三十二小節のソロの後、今度はフィリップがソロを取る。さらにその後、二人が絡み合うアドリブがあり、テーマに戻る……という構成だった。
 岸田は力強い演奏でフィリップの期待に応えた。
 フィリップも岸田のパワーをしっかり受け止め、寸分の狂いもないハーモニーを築き上げる。
 ソロの応酬も息詰まるような名演奏だった。
 攻撃的な岸田のソロに対して、フィリップはなめらかで懐の深い独特のアドリブフレーズを展開する。
 速弾きにおいても、フィリップは七十八歳とはとても思えない確かな技術を見せつけた。皴だらけの太い指が、象嵌がほどこされた細いネックの上を素早く、力強く征服していく。
 その巨人の演奏に、岸田も物怖じすることなく正面からぶつかる。普段、オーケストラのコンサートマスターとして演奏している岸田とはまた別人の演奏だった。
 曲が終わると、期せずしてスタッフやバックのステファンとジョージから拍手が起こった。
「岸田サン、素晴らしい演奏でした。あなたのようなバイオリニストが育ってきているのを見届けながら、私は安心して死んでいけますよ」
 フィリップは隣に立っている岸田を見上げながら英語で言った。
「ありがとうございます。僕もフィリップさんと共演できるなんて感激ですよ」
 岸田がやや紅潮した顔で、やはり英語で答えた。
「あなたの迫力に押されて、少し頑張りすぎてしまったようです。ちょっと休憩したい。楽屋でお茶を飲みましょう」
 フィリップは椅子の縁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
 ステファンが手を差し出す。
 演奏しているときの超人的な指の動きからは想像できない、足腰が弱った、ごく普通の老人の姿に戻っているフィリップに、ミキシングをしていたボブが声をかけた。
「いいバイオリンだね、フィリップ」
「三十年以上連れ添ってきたベルゴンジが嫉妬しているよ。私が浮気をしようとしているのを感づいているんだ」
 ステージに残された愛用のベルゴンジを振り返りながら、フィリップが答えた。

フィリップと岸田が楽屋に戻ると、由伽が複雑な表情で待っていた。
「どうかしましたか?」
 フィリップがフランス語で話しかけた。
「それが……、西丘さんが添多さん殺害の件で、重要参考人として出頭させられたんです。西丘さんの家の庭に、トリカブトが栽培されているのが見つかったそうです。添多さんの体内から検出された毒物も、アコニチンというトリカブトの毒なんだそうです」

      ∇‡∇
 西丘九平バイオリン・ギター工房は、多摩市の住宅街の中にあった。
 フィリップと通訳の由伽を連れて岸田が工房を訪れたのは、コンサートの翌日だった。
 岸田はここをもう何度も訪れている。
 蔦の絡まるモルタルの建物が三つ、広い敷地に並んでいる。その中では二十代から三十代の若い職人が、主にギターを作っている。
 西丘の父親は腕のいい歯科医だったそうだ。
 九平は生まれつき手先が器用だったが、物心ついた頃から楽器に興味を持ち、中学生のときの夏休みの自由工作には、なんとバイオリンを一人で作ってしまった。その細部の仕上げに歯科医院のエンジン(歯を削る精密ドリル)をこっそり使ったのがばれて、父親にこっぴどく叱られたなどということもあったらしい。

 西丘の工房には、精密機械工場などに置かれている一台一千万円もするコンピューター制御の立体裁断機などもある。そうしたハイテクをも駆使して、クラシックの名器の秘密に迫ろうとしている。
 合理主義と熟練の腕は相反するものではないというのが西丘の持論だ。楽器職人としては一風変わったタイプかもしれない。
 西丘は岸田とフィリップを笑顔で迎えたが、すぐに「明日にでも逮捕されるかもしれないってえ雲行きだよ」と、心細そうに漏らした。
「トリカブトはね、俺のおまじないみたいなもんなんだ。バイオリンの(こんちゅう)にね、トリカブトの葉を煎じ詰めたものを塗るとね、いい音がするんだな。ただの気のせいかもしれない。でも、俺にはそれで何か魂が入ったように感じられるわけさ。だから、これはと思うバイオリンができたときには、トリカブトのエキスを魂柱に塗るんだ。岸田さん、あんたが使っているバイオリンの魂柱にも塗ってあるよ。家に帰ってからよく見てごらん。緑がかった黒っぽい色をしてるから」
 魂柱というのは、バイオリンの胴の中に入っている細い柱のことだ。駒の右脚の真下あたり、表板と裏板の間に挾まっているが、fホールから懐中電灯を使って覗きでもしない限り、普通には見えない。表板の振動を裏板に伝えると同時に、表板を支えている重要なパーツで、接着剤や膠でくっついているわけでもなく、デリケートなものだ。
 音に何らかの作用を及ぼすことは確かだろうが、これに何かの薬物を塗るなどということは、プロのバイオリニストであるフィリップも岸田も、未だかつて聞いたことがなかった。
「でも、警察はかなり重要視しているわけでしょう? 添多さんが死んだ直接の原因がトリカブト毒で、それがここに栽培されていたという点を」
 岸田が訊いた。
「トリカブトなんて、そのへんにいくらでも自生しているさ。もっとも、そいつを煎じてバイオリンの魂柱におまじない代わりに塗るなんて言っても、連中には理解できないみたいだったな」
「まあ……そうでしょうね。でも、動機はどうなんです? 西丘さんには動機がないでしょう? いくら添多さんと普段から仲が悪かったとは言っても、殺す動機としては弱いですよね」
「それが……まあ、そうでもないんだな。俺も驚いたんだが、連中は昔のバイオリン偽造事件のことまで調べていてね」
 西丘はいわくありげな表情で言った。
「バイオリン偽造事件?」
 岸田が問い返したが、西丘はすぐには言葉を続けなかった。
 西丘が言い淀んでいる間に、二人の会話を小声で通訳していた由伽が話題に追いつき、それを聞いていたフィリップが薄くなった白髪まじりの眉を大袈裟に動かして見せた。
「まあ、訴訟ざたにならなかったという意味では、正確には事件には至らなかったのかもしれん。しかし、被害者というか、だまされた者がいたという意味では、事件には違いないだろうな」
 由伽の通訳がひと区切りするのを見届けたように、西丘がゆっくりと説明し始めた。
「俺と添多征一は同じ新潟の生まれでね。あいつはバイオリニスト、俺はバイオリン製作者と、それぞれ目指した道は違っていたんだが、若い頃は一緒に朝まで呑み明かしたりもする仲だったんだ。
 俺は歯医者だった親父の後を継ぐべく歯科大学へ進んだんだが、本当は医者なんて全然なりたくなかった。で、親父が死んだ直後、退学してこの工房を作った。お袋は親父が死ぬ二年前に死んでいたし、もう誰に気兼ねすることもなかったわけさ。親父の残した財産を、俺の生涯の夢のための資金にしたわけだ。
 しかし、工房を作って数年は、全く商売としては成り立たなかった。国産のバイオリン……それも個人工房の若造が作ったバイオリンなんて、プロには音を試してももらえなかったわけさ。
 それでも、バイオリニストとして売り出し始めていた添多に何台も試奏してもらったりして、俺は腕を上げていった。
 商売のほうはギターを作ることでなんとか維持し続けた。ギターのほうは結構売れてね。西丘の手工ギターといえば、演奏家や楽器店でも多少は評価してくれるようになった。
 そして十年くらい前かなあ、俺も添多も脂が乗り切った頃の話さ。添多は俺に、ストラディバリやガルネリの完全コピーを作れと持ちかけてきた。わざとニスを古めかしく仕上げたりしてね。一目で新作だとわかるピカピカしたような楽器は、いくらいい音がしても押し出しがきかないっていうわけさ。
 見栄っぱりのあいつらしい申し出だと思ったがね。俺としては、それまでも世界の名器については研究しつくしていたから、それほど抵抗のある話じゃなかった。
 そもそも、現代のバイオリン製作っていうのは、ほとんどがストラドやガルネリのフルコピーのことさ。わざと古く見せるために、ニスをかすれたように塗ったりもする。添多に言われる前から、俺だってそうした技術は嫌々磨かされたもんだ。
 それにしても、新作バイオリンってのはなんでこうも散々な扱いを受けるのかねえ。
 日本では、五十万円くらいまでのバイオリンだと、音のことなんかほとんど問題にされないといってもいいくらいなのさ。どこの国の誰が、いつの時代に作ったのか、ニスのムードはどうか、裏板のモクの柄はどうか……そんなことばかりが問題にされて、かんじんの音はその後の問題にされている。
 まあ、仕方ないなと思いながら、俺は精一杯それらしいストラドやガルネリのコピーモデルを作った。
 しかし、まさか添多がそれを、『本物』だと言って、弟子たちにとんでもない値段で売りつけようとしていたとは思わなかったよ」
「そんなことがあったんですか? 詐欺じゃないですか、それ」
 岸田が身を乗り出すようにして言った。
「そうさ。幸い、二、三本売ったところで俺が気がついてやめさせた。これ以上ふざけたことをやるなら、買った人間に全てをバラすと言ったんだ。ところがあいつは逆に、もしそんなことをするなら、俺を計画的な偽造品製作者として告発してやるとぬかしやがった。自分はだまされた被害者だと主張するってわけさ。既にあいつは音楽界での実力者だったからね。周りを味方で固めて、本当にそれくらいのことはできただろうよ。
 実際には大事になる前にやつは手を引いた。警察が動き始めたのを察知してね。そのへんのことでも、やつのバックには政界のお偉方とかもいたんで、事前に情報を流したり、裏で手を回して、告発寸前でうやむやにさせたりってことがあったみたいだな。
 おかげで俺はそれ以上犯罪者にならずに済んだわけだが、その代わり、以降やつは俺の楽器を事あるごとにけなし続けてね。俺の方は商売あがったりって状態になっちまった。
 一方でバイオリニストとしてさらに名を上げていったやつは、そのうち楽器商ともつるみ、本物のストラディバリを始め、舶来バイオリンを随分自分の手で弟子たち売りさばいたらしいよ。二束三文の楽器を自分が推薦する形で十倍、二十倍の値段で売ったなんて話も聞いたな。
 犯罪すれすれの行為で、事件にこそならなかったが、そういった俺とやつとの長年の確執を警察はちゃんと調べ出していた。そのときに捜査に加わっていた有賀って刑事が、どういう因縁か今度の添多の死を調査しているんだ。俺にはやつを殺すに足りるだけの恨みが積もっていると思ってるわけさ」
「でも、もちろんやっていないわけでしょう?」
「あったりめえだろが。あんなインチキ野郎、わざわざ殺すまでのこともないさ。俺には腕がある。大体、今度の番組であいつは俺の作ったバイオリンをすっかりストラディバリと間違えた。ああいう恥をかかせるほうがどれだけ気分が晴れるか……。俺は実際あのとき痛快でたまらなかったよ。そんなときに、わざわざ殺すなんてことを考えると思うかい?」
「いいえ……。僕だってあの番組を実現するためには随分苦労したわけだし……西丘さんの気持ちは分かりますよ。せっかく実現した自分の晴れ舞台をぶちこわすようなことはしないですよね……」
「そうさ。ところが警察はそうは思ってはくれていないんだな。先行き暗いぜ。まあ、決定的な物証がないから……逮捕まではできないだろうがな……」
 そう言って軽くため息をついた西丘に、フィリップが言った。
「大丈夫。大丈夫。何も問題ないですよ。それより、私はあなたの楽器を見に来たんです。このグレフューレは本当に素晴らしいですが、ここには他にもっと素晴らしい楽器が眠っているような気もしますね」
 フィリップの言葉にようやく気を取り直した西丘は、工房の中を案内し、作りかけのバイオリンや、中学生のときに一人で見よう見真似で作った記念すべき自作バイオリン第一号などを見せた。
 工房には、作りかけの「ヘリエ」もあった。ストラディバリの装飾バイオリンのコピーモデル第二号だという。
 一通り案内してもらったフィリップは、西丘にこう言った。
「あなたの腕は素晴らしい。でも、なぜコピーモデルにこだわるのですか? 『グレフューレ』も『ヘリエ』もオリジナルと寸分たがわぬ精巧なコピーだということは分かりましたが、あなたほどの腕なら、堂々とオリジナルの『ニシオカ』モデルを作ればいいのに。装飾もオリジナルなものにして……」
「駄目駄目。そんなもの、誰も相手にしてくれないんですよ。ストラディバリと同じだからありがたがるんでね。俺だって多少は絵心があるからそれなりにオリジナルな模様くらい描けるだろうけど、そんなもの、誰もありがたがらないさ」
 西丘は自虐的な笑いを浮かべながら言った。
「いいえ」
 フィリップは静かに言い返した。
「少なくとも私は、そういうバイオリンを心から望んでいますよ」


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 西丘の工房を後にした三人は、工房から車で三十分ほど離れた町田市の外れにやってきていた。
「桜木さんには申し訳ないんですが、ここまで来たからにはついでにもう一カ所つき合ってもらえますか?」
 運転席に座るなり、岸田は後部座席の由伽にそう言った。
「いいですけど……どこですか?」
「まあ……ちょっとした物件ですよ。3LDKの庭十坪付き貸家。家賃月十五万円」
「岸田さん、いつから不動産屋になったんですか?」
「フィリップさんに頼まれた三カ月前からですよ」
「はあ?」
「まあ、人生いろいろとありましてね。バイオリニストが不動産の斡旋をすることもあるんですよ……」
 訝る由伽を煙に巻くように、岸田は小声でそう言った。
 その様子を、フィリップはちょっと不審そうな顔で見ていた。
 日本語だったから、フィリップには岸田が何を言っているのか分からなかっただろう。しかし、それ以上に由伽にも岸田が何を言っているのか分からなかった。
「フィリップさんの家ですよ。できれば日本に永住したいそうです」
「えっ!」
 由伽は驚いてフィリップの顔を見た。
「本当ですか? 日本に永住したいというのは?」
 由伽はフランス語で、フィリップ本人に訊いた。
 フィリップは穏やかな笑顔で答えた。
「ウィ」
 岸田が運転する車でその「物件」とやらに向かう間、フィリップは由伽に説明した。
「私にはもうあまり時間は残されていません。このまま力尽きるまで世界中を演奏旅行するということも考えたのですが、もう体力的には限界なのですよ。
 私の今いちばんの望みは、次の世代のバイオリニストが育っていくのを見守ることです。私が築いたジャズバイオリンの世界を、さらに高めてくれる……いや、ジャズだとかクラシックだとかいう垣根など、これからは何の意味も持たないのだということを教えてくれるような、深く広い音楽世界を築いていく新しい時代のバイオリニストたちが育つのを見届けてから死にたいのです。
 そうした理想にいちばん近いのが、ひかりさんであり、岸田さんです。私はこの二人のそばにいて、彼らの力を身近に感じながら余生を送りたいのです。もちろん、二人のためにできることは何でもするつもりです。教えられることは全て教えたいし、私が現役としてのプライドを保てるうちは、セッションもどんどんしてみたい。 そのためには私が日本に住むのがいちばんいい。手続きなどでいろいろと大変なことはあるでしょうが、まずは家を探してもらったのです。住む場所が決まれば、後はなんとかうまくいくものですよ」
 由伽が驚いているうちに、車は町田市の外れにあるその「物件」に到着した。
 閑静な住宅街に隣り合わせた農家の広い敷地の一角に建つ、白いスタッコの壁の建物だった。
「まだ新しいんですよ。この農家の主が娘さん夫婦のために建てたものなんですが、その夫婦、この家が建った途端に旦那さんがドイツに出向になりましてね。当分帰ってこられないらしいんです。家賃は十二万円。周囲はみんな庭みたいなものだし、破格だと思いますよ」
 岸田が得意そうに解説した。
 平屋だが、敷地を気にせずに建てられているので、狭苦しい感じはしない。静かで、周囲には建物もないので、バイオリンの練習なども思いきりできるだろう。
「いいじゃないですか。気に入りましたよ」
 フィリップは本当に嬉しそうに、その家の周りを何度もゆっくりと回った。

      ∇‡∇
 フィリップの公演は、東京、横浜、大阪、名古屋、そして最後にもう一度東京という順番で、一週間に五回行われるというスケジュールだった。
 通訳の由伽はその全行程に同行した。
 最後の東京公演で、ついにフィリップが念願していた添多ひかりとの共演が実現した。
 フィリップは他の公演のときよりも三時間も早くからリハーサルを始め、リハーサルの最初からひかりとの共演を望んだ。
 添多征一が死んだあの番組で一緒だった評論家・湊が、その様子を由伽と一緒に客席から見ていた。
 リハのステージ上に、ひかりは例の西丘が作った「グレフューレ」を持って現れた。事前にフィリップと何らかの話があったのだろうが、愛用のストラディバリに代えてわざわざ国産のバイオリンを使うというのは、クラシックファンの間でもかなりの話題になりそうだった。また、ひかり自身、あの番組で覆面バイオリニストとしてこの楽器を試奏して以来、相当気に入ったということなのだろう。
 しかし湊には、楽器の選択以上に、フィリップとひかりが何の曲をどんなスタイルで共演しようとしているのか、極めて興味があった。
 ひかりのバイオリニストとしての実力は以前から分かっていた。 はっきり言って、岸田などとは格が違う。しかし、ジャズミュージシャンとのセッションを事もなげにこなしてしまう岸田の器用さを、ひかりが持っているとは思えなかった。
 同じバイオリンという楽器を弾くとはいえ、クラシックとジャズとでは音の出し方から演奏のノリまで、相当違う。下手をするとまるでちぐはぐな共演になる可能性もある。
 湊が注目する中、フィリップは椅子に座り、ひかりのほうに目で合図を送ると、愛用のベルゴンジで、なんとバッハの『フーガの技法』の一節を弾き始めた。
 ジャズバイオリニストによるクラシックのバイブル的楽曲の演奏。 意表をつかれた湊は、固唾を呑んでフィリップの演奏に聴き入った。
 ひかりのバイオリンが、途中から追いかけ始めた。
 複数の異なったメロディーが絡み合い、全体として複雑な曲調を形成するのがこの作品の特長だ。
 二つのバイオリンはつかず離れず、邪魔をせず、一人歩きをせず、しかもそれぞれが明確に主張しながら絡み合い、独特のハーモニーを築いていた。
 ひかりの演奏は、やはり岸田よりもレベルが上だと分かる、実に堂にいったものだった。フィリップも、そのひかりのレベルに引き上げられるかのように、岸田との共演のときよりもずっと木目細かな、繊細な音を出していた。
 ジャズプレイヤーと言われるフィリップに、こんな演奏ができるのかと、湊は改めてステージ上の七十八才の老バイオリニストの奥の深さに感服した。
 しかし、何かが変だ。すばらしい演奏なのだが、これは自分が知っているあの『フーガの技法』ではない。
 その原因を発見したとき、湊は感動と驚愕で身体が震え始めた。
 一人は確かにバッハが書いた譜面を忠実に再現している。しかしもう一人は、そのバッハの記したメロディーに合わせ、自由奔放にアドリブプレイをしているのだ。
 そしてアドリブをしているのは、ジャズバイオリニストのフィリップではなく、クラシックバイオリニストのひかりだった。
 それも、ジャズのコード理論に乗っ取ったスケール的なアドリブではなく、あくまでもバッハの調べに溶け込んだ、クラシックの香りを漂わせた気品のあるアドリブ……。
 湊は何度もこれは自分の勘違いではないかと思った。二人は自分が知らない「ある曲」を演奏しているのではないかと。しかし、やはりフィリップはバッハのメロディーを、ひかりは湊の知らないオリジナルなメロディーを弾いている。
 やがて、フィリップのバイオリンがひかりのバイオリンに包み込まれるように、ゆったりとしたロングトーンを残して消えた。ひかりはさらにアドリブソロを続ける。
 バッハから移行しても何の違和感もないオリジナルなメロディーだけがホールに響く。
 そのメロディーが二回繰り返されたところで、ジョージのベースがおずおずと入ってきた。素朴な二音の繰り返しによる指弾きのベース。
 それに合わせて今度はギタリストのステファンが、ジャズ特有のテンションコードを控え目にピッキングする。
 ひかりのバイオリンがそこですっと抜け、ベースとギターだけのバッキングが残る。そのシンプルなバッキングが八小節続いたところで、フィリップのバイオリンが力強く入ってきた。
 フィリップが三十代の頃に書いた名曲『シリウスへの祈り』の主題だった。
 バッハからジャズへ。その移行が違和感なく、極めてスムーズに行われる。湊の長い音楽鑑賞歴でも、こんな体験は初めてだった。
 テーマがダカーポされたところで、ひかりが三度上のハーモニーで入ってきた。
 二人が競うようにテーマを弾き終えると、そのままひかりが力強いアドリブソロに突入する。長い髪を少し乱し、首を振りながら弾くそのソロは、いわゆるジャズのモード奏法とは違う。あくまでもメロディアスで、それでいて心地よいテンションノートがちりばめられた、オリジナリティ溢れるものだった。
 聴衆がみな息を呑む気配が伝わってくるようだった。
 変化に富んだ渓谷を駆け抜ける清流のようなひかりのソロの後、今度はフィリップがソロに入った。
 生涯何万回となく演奏したであろう自分の代表作。おのずとソロ部分もパターンが決まっているはずだが、ひかりのソロに刺激されてか、フィリップは明らかに多少の冒険をしようとしていた。
 時折眉根を寄せ、未知のフレーズを探るように、そして一瞬のひらめき、奇跡のフレーズが指先に宿るのを祈るように、指板の上の左指を踊らせる。
 しかし、ひかりの弾いたソロ以上のソロには、どうしてもなりえなかった。
 あのジャズバイオリンの巨匠・フィリップ・カルノーが、本領のアドリブプレイで、クラシックバイオリニストの添多ひかりに負けたのだ。
 湊は信じられない面もちで、ステージの上の二人を見つめていた。
 十分を越える演奏が終わったとき、会場は一瞬痺れるような沈黙に包まれた。しかしすぐに、誰か最初の一人につられ、力強い拍手が起こった。
 湊自身は、拍手をするのも忘れて、ただただ放心していた。
 ステージの上では、フィリップが潤んだ目をひかりに向け、恍惚としたまま、喋ることも、動くこともできないでいた。
 さらにもう一人、客席の後ろでは、いつ入ってきたのか、西丘が一人、溢れ出る涙を隠そうともせず、ステージの上のひかりを見つめていた。

      ∇‡∇
 怒涛のようなリハーサルは、開演の三時間前に切り上げられた。
「私は開演まで、ちょっとホテルに戻って休みたいと思います」
 疲れきった表情で、フィリップは由伽に告げた。
 由伽はすぐにタクシーの手配をした。
 迎えに来たタクシーに一緒に乗り込もうとする由伽を、フィリップが軽く手で制した。
「ノン。すみません。一人になりたいんです」
 丁重だが、きっぱりとした口調だった。
 開演前の大切なときに主役を一人にしていいものかどうか、由伽はためらったが、結局は言われるままに一人タクシーに乗り込んだフィリップを見送った。
 取り残された由伽は、ロビーの自動販売機でコーヒーを買うと、ソファに座った。
 そこに湊が現れ、同じように自動販売機でコーヒーを買うと、由伽の隣に座った。
「凄かったですね、ひかりさんとの共演」
 プロの感想を聞こうと、由伽は湊にそう言った。
「どこがどう凄いか、分かりましたか?」
 湊は由伽にそう質問した。
 答えに困っている由伽に、湊は解説した。
 クラシックバイオリニストのひかりが、ジャズバイオリニストのフィリップを圧倒するアドリブを弾いたこと。特に最初の「半分だけ即興のバッハ」は、音楽史上特筆されるべき画期的な試みであることを。
 そして最後にこう付け加えた。
「あの芸術性を解放するためなら、私でも人の一人くらい殺すかもしれないな」
「えっ?」
 その発言にぎょっとした由伽が、思わず湊の顔を覗き込んだ。
 湊は声を落として、こう説明した。
「今日の二人の共演も、ある意味では添多征一氏が亡くなったからこそ実現した企画ですよ。ひかりさんは今まではずっと篭の鳥だったからね。征一氏の許可がないと何もできなかったんだ。楽団のレベルが低すぎるとか、指揮者がひかりの感性には合わないとか、いろんな理由を付けて添多さんはひかりさんを外に出さなかったんだ。格の高い演奏会でも、主催者に法外なギャラをふっかけたりして随分話を潰していたしね。ましてやジャズ・バイオリニストとの共演なんて、考えられなかったわけでしょう?」
 湊の「解説」を聞きながら、由伽は複雑な思いに捕らわれた。
 添多殺害の犯人はまだ分からない。しかし、現場にいた音楽関係者の誰か、つまりはあの番組のゲスト出演者の誰かである可能性は高い。警察は西丘をいちばん疑っているようだが、見方を変えれば、ひかりを添多の「篭」から出してやろうとした誰か、あるいはひかり本人にも、「動機」はあるということになるのではないか……と。 しかし、まさかそうした疑いが現実に形になってしまうとは、そのときの由伽は思いもしなかった。

       ∇‡∇
「……それで、その飲み物が置かれたトレイの前で立ち止まっていたのは、確かにこの女性だったんだね?」
 有賀警部は、前髪を緑色に染めた若い男に問いただした。
「ええ、可愛い子だったから、印象に残ってるんですよ。小柄で、髪がまっすぐに背中まで伸びてて、今時珍しいお嬢様タイプっていうんですか? クラシックのバイオリニストだって知ったのは後になってからだけれど……」
「何をしていたんだね、その女性は」
「さあ……そこまでは。見たのは一瞬だし……」
「飲み物に手を触れたのか、それともただ近くに立っていただけなのか、そのへんが重要なんだがね」
「分からないですよ。こっちだって仕事してた合間のことだし……」
 事情聴取されているのは、添多征一が死んだ日に、ホールのトイレ清掃をしていたアルバイトの青年だった。トイレの清掃を終えて出てきたときに、飲み物を置いたワゴンテーブルのそばにひかりが立っていたのを見たという。
「しかし、何か不審な感じがしたから、君も印象に残っていたわけだろう?」
 いささか誘導尋問じみているとは思ったが、有賀警部はさらにそう追及した。
「不審ってわけじゃないけど、まあ……ただ、ぼーっと突っ立っていたってわけじゃないですよ、そりゃあ。何かしていたんじゃないですか。よく分からないけど」
 青年は苦し紛れにそう答えた。
「その何かまでは分からない……か」
 有賀が不満そうにそう言ってため息をつきかけたとき、青年は言いにくそうに、呟くような声でこう言った。
「その……何か小さな容器みたいなものを持っていたような気も……」
「何だって?」
 有賀は俄然色めき立った。

     ∇‡∇
 フィリップ・カルノー日本公演の打ち上げパーティーに、なぜか添多ひかりと岸田徹郎の姿がなかった。
 二人とも出席すると聞いていただけに、主催のエターナルララバイ音楽事務所のスタッフは気を揉んでいた。
 そこに、岸田が三十分以上遅刻して現れた。
「重役出勤ですね、岸田さん」
 いち早く見つけた桜木由伽がそう声をかけたが、岸田は硬い表情を崩さないまま、いきなりこう言った。
「えらいことになったよ」
「どうしたんです?」
「ひかりさんが、警察に任意出頭を求められて、かなり厳しい追及を受けたらしいんだ」 
「なぜです? 何かあったんですか?」
「目撃者が現れたんですよ。ひかりさんが廊下に置かれていた飲み物のグラスの前に立って、不審な行動をしていたのを見たというやつがね」
「誰なんです、それは?」
「よく分からないけれど、清掃会社のアルバイトらしい。トイレ掃除を済ませて出てきたときに偶然見かけたって。しかも手には何か小さな容器のようなものを持っていたと言うんだな。本当だとしたら、かなり決定的な証言になってしまう」
「ひかりさんは認めたんですか?」
「いや、もちろん否定したさ。ちょうどコンタクトレンズが外れて、それを直していたところだって釈明したらしい。トイレも清掃中で入れず、仕方なくたまたまそこで直していたんだと……」
 由伽は岸田の話を聞き終えてから、小さくため息をついた。
 警察はひかりの釈明を簡単に受け入れるだろうか。そうは思えない。
 二人が険しい表情で話しているのを見て、フィリップが心配そうに近づいてきた。
「何があったんですか?」
 由伽は一瞬躊躇したが、岸田が目で了承するのを見て取って、今の話をフィリップにフランス語で伝えた。
「ノン! ノン!」
 フィリップは激しくかぶりを振りながら、絞り出すような声を出した。
 周囲にいた人々が、何事かと驚いた顔で振り向いた。
「大丈夫ですよ。心配はないですよ。ひかりさんはもちろん潔白です」
 由伽が慌てて言った。
「それにしても、こんなことになるなんて……僕があの番組を企画しなければ……」
 岸田は苦渋の面持ちで、そう呟いた。

      ∇‡∇
 コンサートの全日程が終了し、フィリップのスタッフとバンドは離日した。
 しかしフィリップは単身日本に残った。
 岸田が見つけてきた貸家のほうは、フィリップの日本での永住権、あるいは永住権とまではいかなくとも、ビザの延長手続きなどがクリアになるまでは購入手続きを進められそうもなかったので、フィリップはとりあえず東京郊外のこじんまりしたビジネスホテルに長期滞在することにした。
 一部では、添多征一殺害事件が解決するまで日本に足止めを食っているのではないかなどという噂も流れたが、もちろんそれは違っていた。
 フィリップは残りの人生を日本で過ごしたいという希望を実現するために動き始めていたにすぎない。
 捜査本部とて、最初から事件とフィリップとの関係はほとんど考えていなかった。
 トイレ掃除をしていたアルバイト青年からの聴取以来、捜査本部はひかりを重要容疑者として見始めていた。
       
 杉並区の高級住宅街の一角に、敷地三百坪ほどの豪邸がある。
 玄武岩を積んだ門柱には、銅板の大きな表札があり、「添多征一」の文字が刻まれている。
 葬儀や法要などが一段落し、再び静けさを取り戻したその家を、有賀警部と富田警部補の二人が訪れていた。
 しかし、目当てはひかりではない。添多夫人……今は未亡人となった添多多美恵だった。
 家には夫人が一人でいた。ひかりは仕事で昨日からいないという。
 夫人はまだ四十になっていない。しかも歳よりもずっと若く見えるので、最初添多の葬儀のときに見かけたときは、有賀も富田も一瞬それが夫人だとは思わなかった。
 添多は五十八歳だから、親子ほども歳が違う夫婦ということになる。秘書として雇った女性を、半年で四人目の妻にしたということだ。これが政治家などだったら結構スキャンダルにもなるのだろうが、芸術家というのはそうした一種破天荒な人生も、世間からむしろ肯定的に捉えられるのだろうか。
 しかし、その添多も今はもういない。有賀は改めて複雑な思いで夫人を見つめた。
 夫人は二人の刑事を応接間に通し、型どおり茶を出した。しかし、当然のことながら、表情は硬い。
「いろいろと大変だったでしょう。もう、少しは落ちつかれましたか?」
 出された紅茶をいきなり半分ほど飲んでから、有賀警部はそう切り出した。
「以前から、こういう日が突然来るかもしれないということは覚悟しておりましたから」
 夫人は落ちついた口調でそう答えた。
「殺される……ということがですか?」
「いいえ、もちろんそういう意味ではありませんわ。主人が急死するかもしれないという意味です。なにしろ心臓病を患っていましたから」
「そうですか……。しかし、ご主人は病気で亡くなられたわけではないんです。何者かに毒を盛られて殺された……そこのところはしっかりと見据えていただかないと」
「でも……本当にそうなんでしょうか? 私、今でもそうは思えないんですよ。ただの心臓発作だったんじゃないかって……」
「ちゃんと毒物が検出されていますからね。間違いはありません」
「信じられませんわ……」
「でも、信じていただかないことには話が進みませんから」
「ええ……」
 夫人はそう言うと、うつむき加減になって、軽くため息をついた。
 その仕草が、計算されたような色気を醸し出す。
 それも決して水っぽいとか、安っぽいコケットリーとは違う種類の色気だ。秘書に雇ってから半年で結婚したという添多だけでなく、過去に多くの男を夢中にさせたに違いない。
 有賀はカップに残った残り半分ほどの紅茶を、また一気に飲み干すと、相手の色香に真正面から挑戦するような無遠慮な口調でこう訊いた。
「立ち入った話で恐縮なんですが、娘さんのひかりさんは、あなたがたご夫婦の本当のお子さんではありませんよね。確か、八年前に養子としてこの家に来た……と」
「ええ。私が主人と結婚する前のことです」
「ああ、そうでしたね。奥さんも再婚で……」
「いえ、私は初婚でした。主人の方は四回目でしたけれど。まだほんの二年前のことですから、ひかりのほうが主人との関係という点では私よりずっと先輩なわけですね」
「奥さんがこの家に来られる前には、前妻さん……というか……ご主人の前の奥さんとひかりさんは一緒に……」
「いいえ。主人が前妻と正式に離婚したのは私と結婚する直前でしたが、実際にはもう四年以上も別居状態でした。つまり、ひかりが養女になってまもなく別居しているんです」
「ほう……。ということは、その四年以上という期間はこの広い家にご主人とひかりさんがお二人だけで……」
「ええ……」
 夫人はなぜかそこで前を伏せ、言葉をとぎらせた。
 しかしすぐに再び顔を上げ、何かを打ち消すようにこう続けた。「でも、実際にはお手伝いさんが三人、交代で来ていましたし、他にも弟子たちや運転手など、人の出入りは多かったようです。私も主人の秘書になってからは、ときどき出入りしていましたし、家というよりは、事務所のようなものですね」
「事務所……ねえ」
 有賀と夫人のやりとりをそばで見守っていた富田警部補が、呟くようにそう言うと、意味ありげに部屋の中を見回した。
 立派な屋敷だが、芸術家の家だけあって、よくある成金趣味の調度品などはない。北欧調の家具が目立つくらいのもので、部屋全体はシンプルなモノトーンにまとめられている。しかし、それだけに部屋の作りそのものの高級さやスペースのゆとりが、初めて訪れる者を圧倒する。
 三十畳はあろうかという空間に、スタインウェイのグランドピアノとクオード社の家具調オーディオセットが置かれている。オーディオには多少うるさい富田には、まさに涎が出そうな部屋だった。
「奥さん、ずばりお伺いしますが……」
 品定めするように周囲を見回し始めた富田を無視して、有賀警部は続けた。
「……ご主人とひかりさんはうまくいっていましたか?」
 その問いに、夫人はすぐには答えず、一、二秒の間、有賀を咎めるような目で見返した。
「やはりそういうことですのね……。ひかりが事情聴取を受けたと聞いて、私も相当ショックでしたが、この際私の方からもきっぱりと申し上げておきます。ひかりと主人とは、実の親子以上にうまくいっていました。万が一にでもひかりをお疑いなら、全くナンセンスなことですわ。ひかりは主人を尊敬していますし、私が嫉妬するくらい、主人もひかりのことを実の娘以上に愛していました」
「しかし、その愛し方が問題だったのではないかと見る向きもあるようですよ。ご主人がひかりさんを縛りすぎていて、ひかりさんは私生活はおろか、音楽活動のほうでも自由を奪われていた……と」
「世間がどんな勘ぐり方をしようと、主人とひかりの関係をいちばんよく知っているのは家族である私です。ひかりが主人を殺そうとするだなんて、絶対にありえません。私を疑うというならともかく、ひかりを疑うのは時間の無駄ですわ」
「奥さんを疑うならともかく……ですか? ではついでというわけではありませんが、奥さんはご主人とはうまくいってらっしゃったんでしょうか?」
「ええ。結婚してまだ二年、倦怠期には早いですし……。とりたてて仲が悪い夫婦ではなかったと思いますよ。歳が離れていたり、私が四人目の妻ということで、いろいろと言う人もいたようですけれど、私としては、秘書の延長のようなところがありました。もちろん、男性として、夫として、主人のことを愛していたことも事実ですけれど……。私とて、主人を殺さなければならない理由は何一つありませんわ」
「まあ、我々としても、奥さんのことは疑ってはおりませんよ。なにしろ奥さんはご主人の殺害現場にいらっしゃらなかった。飲み物に毒を盛ることはできませんでしたからね」
「やっぱり、どうしても主人はあのホールにいた人たちの誰かによって殺されたというんですか?」
「ええ。他の誰かが喫茶店の店員を買収して毒を入れさせたとか、そういう可能性はほとんどないでしょうから」
「そうだとしても、ひかりではありません。絶対に」
 多美恵夫人は頑としてひかりをかばい続けた。
 有賀は手を代え品を代え、何か新事実を聞き出そうとしたが、多美恵はますます頑なになり、最後はとりつく島もなくなってきた。「とにかく、ひかりが主人を殺しただなどということはありえません!」
 そう繰り返す夫人を、それ以上追及しても仕方ないようだった。

5/5

        
「なんだか徒労に終わりましたね。親として子供をかばうのはあたりまえなんでしょうけれど……」
 添多宅を後にし、署に戻る車の中で、富田が有賀に言った。
「親子といったって、血はつながっていないんだからな。一緒に暮らすようになってまだ二年。歳だって、添多とひかりのちょうど中間くらいの歳だろう? 俺はむしろ、なんであんなにむきになるんだろうって思ったよ。確かに夫人はあの現場にいなかったから、飲み物に毒を入れることはできない。だが、毒を用意することはできるかもしれないな。夫人が計画を練って準備をし、ひかりに毒殺を実行させる……そういう共同犯行の可能性ならあるわけだな」
「証拠が何もないですね」
「ああ、証拠どころか、根拠もない。刑事たる者、根拠のない憶測でものを言っちゃあいけないな」
「自分で言い出しておいて、すぐに否定ですか」
「ああ、取り消す。とりあえず、やはり毒物の出所を洗い直すか。その線に関しては、未だにいちばん怪しいのは西丘だからな」
「トリカブトを栽培していただけでなく、煎じて液体にしたものを持っていたわけですからね。私は音楽は好きで、クラシックも結構聴くんですが、未だかつて、トリカブトでバイオリンの音がよくなるなんていう話は聞いたことはありませんからね」
「でたらめだろうな。俺も念のため他のバイオリン製作者に何人か電話で訊いてみたが、そんな話は初めて聞いたという人たちばかりだったよ」
「西丘は添多氏の隣に座っていたわけですしね」
「ああ。まだ日は高いな。これからもう一度西丘を当たってみるか」
 有賀は署に無線電話で連絡を入れると、署には戻らず、運転する富田に告げ、そのまま西丘の楽器工房に向かわせた。

       ∇‡∇
 ホテルの部屋で、フィリップはもう一時間以上もサイドテーブルの上を見つめていた。
 そこには小さな丸い容器が置かれている。
 バイオリンの弓に塗る松脂を入れるケースだった。
 フィリップは手を伸ばすと、その容器を取り、暫く手の中で転がす。やがて慎重に蓋を開け、中に入っている松脂を見る。飴色のその固体は、中が少し白く濁っている。
 その松脂を手に取り、目の前に持ってきて凝視する。
 そして、そっと元のケースに戻し、蓋をして、テーブルに置く。 ……そんな行為を、もう小一時間も繰り返していた。
 そのとき、枕元のサイドテーブルの上にある電話が鳴った。
 待ちかねたように、フィリップは電話に飛びつく。
〈フロントですが、添多様がお見えです〉
「ああ……、Well, I'm coming soon.」
〈はい?〉
「……イマ、イキ……マス……」
 小さなホテルだと、フロントマンが英語も分からない。しかし、フィリップは別に腹も立たなかった。これからこの国で生活するとなれば、日本語をもっと覚えなければならないのは自分の方なのだから。
 フィリップは上着を引っかけると、すぐに玄関ホールに向かった。
 小さなエントランスホールに形ばかり置かれたソファに、ひかりは座っていた。
「なかなか会えなくて、気が狂いそうでしたよ」
 フィリップはフランス語でそう言うと、ひかりを抱き寄せるように両手を差し出した。ひかりはちょっと身体を引くようにしながら苦笑した。
 人目を気にしているのだろうか……。
 フィリップはフロントのほうを一瞥した。
 まるでアルバイトのような青年が、不思議なものを見るような視線を慌ててそらしたが、フィリップは気にしなかった。英語が分からないホテルマンにフランス語が分かるはずはない。
「話したいことが山のようにあるんだ。どうしたらいいだろう。このホテルの周りには大した店はないみたいだし……」
「でも、そこのカフェは一応やっているんでしょう? 私はどこでも構いませんけれど」
 ホテルの一階に、小さなカフェがあることはあった。フィリップはここ数日、ここで朝食や夕食を取っている。昼間も一応営業してはいるのだが、ほとんど客が入っているのを見たことがない。
 しかし、考えようによってはその方が好都合かもしれない。
 誰に気兼ねすることもなくゆっくりと話ができる。
 二人は客の入っていないカフェで、コーヒーとココアを頼んだ。「私はもう、日本を離れまいと思っているんです。人生の最後を、ひかり……君のそばで過ごしたい」
 一人しかいないウェイトレスが注文を取って下がるなり、フィリップはいきなりそう切り出した。
 ひかりは驚いたような顔でフィリップを見た。
 フランス語を忘れてしまったのだろうか、それとも突然そんなことを言われて面食らってしまったのだろうか。
 フィリップはどう言葉を続けていいのか分からず、ひかりを見つめた。
 ひかりは静かに視線を外した。
「すまない。驚いてしまったんだね。そうだね、私は自分のことしか考えていなかったかもしれません。こんなおじいさんに一方的に愛されたところで、若い君には迷惑でしょうね。でも、私は君にとって重荷かね? 別に君に面倒を見てもらおうというわけじゃない。ただ、君の音楽家としての成長を、できるだけそばから見ていたい……それだけなんだ」
「そこまで言っていただけて光栄ですわ」
 ひかりはゆっくりとだが、正確なフランス語で答えた。
 少なくとも言葉が通じていなかったわけではないと分かり、フィリップはさらにたたみかけるようにこう続けた。
「実際のところ、君はもう、バイオリンを弾くという技術に関しては、あらゆる点で私より優れているかもしれない。私にはもう、君に教えるべきものなど何もないのかもしれない。しかし、技術を超えたものを、何か教えられるかもしれない……それができたら、私はいつ死んでもいい。ひかり、……君がこれから築いていく音楽の世界の中で、私は永遠の眠りにつきたい……」
「そんな……」
 ひかりはますます困惑した表情になって、うつむいた。
「私はまだほんのひよっこです。フィリップ先生の四分の一くらいしか生きていないし、先生を超えただなんて、とんでもないことです。先生のバイオリンは先生の人生そのものです。私はとてもそこまでは……。どうぞ末永く、私のかけがえのない師匠でいてください」
 その言葉を、フィリップは涙を浮かべながら聞いていた。そして何度も何度も頷いた。
「ひかり、君はこれからもあの家に住み続けるのかね。もしそうならば、私は君の家がある杉並区に近い場所に部屋を借りようと思う。ミスター・キシダが見つけてくれたあの家は本当に素晴らしい環境だけれど、よく調べてみると君の家まで二時間もかかる。私はもっと君のそばにいたいんだ。それとも……そういうのは迷惑ですか?」
「いいえ、迷惑だなんて……とんでもない……ただ……」
「ただ……何だね?」
「ただ……、これから先どういう生活になるのかは、私自身まだ分かりませんし……。養父であり、マネジャーでもあった添多先生が亡くなってしまい……、私はこれ以上あの家に居座り続けていいものかどうか……。今のお母さまとも、仲はいいですけれど、本当の親子ではないし……。いろいろなことがまだ未知数で、もう少し時間をかけないと……。どうか先生もしばらくはのんびりなさっていてください。
 岸田さんが、もし先生が本当にこのまま日本での生活を望まれているのなら、一緒にお仕事をする機会を増やしたいと言っていました。岸田さんともいろいろとお話なさって……」
「そうだね。彼はいい男だ。本当に……」
 もちろん君とは別格だが……という言葉を、フィリップは呑み込んだ。
 髪を赤く染めたウェイトレスが、ココアとコーヒーを持ってきた。 テーブルに置きながら、改めて二人の顔を興味深げに盗み見る。 その視線を受け流しながら、フィリップは笑顔で「メルシー」と呟いた。
 ひかりはその後小一時間ほどフィリップの相手をした後、「約束があるので」と、申し訳なさそうに言い、その場を去った。
 約束とは、誰とのどういう約束なのだろう……。
 フィリップは知らず知らずのうちに岸田の顔を思い浮かべていることに気づき、たまらない気持ちになった。
 もしかして、ひかりと岸田は……。
 七十八歳の老人が、二十代の女に恋をし、、三十代の若者に嫉妬している。
 これだけ長生きをしてきて、なんと分別のないことだろう。
 情けない……。
 このひからびかけた身体を切り離し、捨ててしまいたい。そして未熟なままの精神も、どこかに放り出してしまいたい。
 そうすれば、後には音楽を奏でる「心」だけが残るだろうか?
 フィリップはひかりが去った後も、空になったココアのカップを見つめたまま、誰もいないカフェテラスをいつまでも去ろうとしなかった。

      ∇‡∇
「俺が添多のことを快く思っていなかったのは確かだよ。それは前にも言ったじゃないか。だけど、あいつを恨んでいた人間は他にもたくさんいるだろうよ」
 二人の刑事、有賀と富田を前に、西丘はほとんど一方的に話し続けた。
「そのへんのことを明らかにさせたいなら、昔のバイオリン偽造の件を徹底的に洗ってほしいものだね。俺はあいつに請われて確かにいくつかのストラディバリやガルネリのコピーを作ったさ。だけど、鑑定書の偽造までは関知しちゃいねえよ。本物のストラディバリと間違えるような完璧なコピーを作るだけじゃあ犯罪にはならんだろ? 問題はそれを本物だと偽って売る行為だ」
「あのねえ、西丘さん。我々はバイオリン偽造事件を調べているわけじゃあないんですよ」
 富田が言った。
「分かっているよ。ただ、俺はね、その偽のストラディバリを掴まされたやつなんかも、添多のことは相当憎んでいただろうって言っているのさ。しかも、被害者の多くはあいつの弟子や生徒だからな。騙されたと分かっても、泣き寝入りさ……」
「そういう人がたとえたくさんいたとしてもですよ、少なくともあの現場にはいなかった。だから添多氏を殺すことはできなかった。そういうことです。殺した人間は、あの場にいた人物に絞られるんだ。そして毒物はあなたが所持していたトリカブト毒……」
 富田が部屋の隅にある古びた戸棚を指さして言った。
 そこには楽器に塗る塗料や艶出し用の薬品、接着剤などが収められている。そこから、トリカブトを煎じた液体の入った瓶が発見され、証拠物件として既に押収されている。
 西丘はそれを、あくまでもバイオリン製作上必要な薬品だと主張しているわけだ。しかし、ここで働く弟子たちの証言も曖昧で、日頃からその瓶のことは知ってはいたが、西丘からは「おまえたちは触るな」とだけ言われていて、中身のことはよく知らなかったようだ。
「俺はもちろん試したことはないんだがね、あの液体ではたして人が殺せるのかね? 日本一優秀な警視庁の鑑識が調べたんだろう? 教えてほしいもんだね」
 西丘から逆にそう訊かれて、富田は一瞬答えに詰まった。
「トリカブト毒がきっちり検出されたよ。言ったはずだが」
 代わりに有賀が答えた。
 正確な答えになっていないのは分かっていたが、そう答えるしかなかった。
 鑑識からの報告は既に受けていた。
 確かにトリカブト毒・アコニチンは微量に検出されたのだが、あの液体のまま使うとすれば、相当量を飲まなければ死ぬまでにはいたらないだろうということだった。瓶に入っていた液体はトリカブトの葉の部分を煎じたものらしいが、もしも人間を殺すために用意されたのだとすれば、葉ではなく、根の部分を使うのが常道だという意見も付加されていた。
 しかし、そう言えば、西丘を調子づかせることになる。なんとかここで一気に追い込みたいのだが、西丘は自分の工房からトリカブト毒が発見されたときも、全く慌てる素振りも見せなかった。
 本当にバイオリンに塗るために使っていたのだろうか……そう信じ込まされそうになる自分を、有賀は何度も否定し続けてきた。そんな不自然な話があるはずはない……と。
「こいつをもっと煎じていくと、最後にはどろどろになって、粉のようになるのかね?」
 有賀はそうカマをかけてみた。
「どうかねえ。そこまでやったことはないからなあ。粉になっちまったら魂柱に塗れないからね。水に溶かせばいいのかもしれないが、まあ、一種のおまじないみたいなもんでね。そこまで厳密には考えたことないよ」
 西丘は少しも動ずる様子なく答えた。
 そこに、車が近づく音がし、塗装が剥げかけたグレーの古いコロナが工房の前の道に停まった。
 降りてきたのは岸田だった。
 岸田は二人の刑事を見ると、露骨に不快な表情を浮かべた。
「ああ、ちょうどいいところへ来た」
 西丘は岸田の姿を見て、刑事たちにそう言った。
「岸田さん、魂柱の調整だったね。貸していた例の『グレフューレ』の魂柱が微妙にずれちまったらしいんだ。ちょうどいい。トリカブトを塗った魂柱というやつを見せてやるよ」
 西丘は上機嫌にそう言うと、二人の刑事と岸田を工房の奥に招き入れた。
 西丘は岸田からバイオリンケースを受け取ると、中から「グレフューレ」のコピーモデルを取り出し、二人の刑事に見せた。
「これは俺が作った中でも一、二の自信作でね。ストラディバリの『グレフューレ』を忠実に再現したものさ。データをコンピューター制御の三次元測定機でばっちり解析してね。本物のグレフューレと寸分の狂いもないモデルになっているんだ。もちろん、仕上げの象嵌は完全な手作業だし、時間もめちゃくちゃかかっているよ。現代のハイテクと職人の腕の高次元な融合ってわけだな。
 出来がよかったんで、このバイオリンの魂柱にもトリカブトエキスを塗ってある。作ったのは去年のことだから、もちろん今度の事件とは何の関係もない……」
 そう言いながらも西丘は慣れた手つきでバイオリンの弦を緩め、駒を外し、fホールから特殊なピンセットのような器具を入れると、やがて細い木製の円柱を取りだした。
「分かるかね? これが魂柱だよ。魂の柱って書くくらいでね、バイオリンの音には重要な影響を及ぼすんだ。ほら、よく見てくださいよ。こいつにはトリカブトが塗ってある。去年作ったバイオリンにも、こうしてちゃんと塗ってあるんだ。これが証拠さ」
 西丘が示した丸い木の棒は、確かにうっすらと何かが塗ってあるように見えた。
「岸田さん、これはずっとあなたが持っていたんですか?」
「ええ。金は払っていないけど、長期モニター契約みたいなものですね。そのうちにちゃんとお支払いして買い取りたいと思っているんですが、貧乏楽士にはなかなか……。これを持っていってテレビ局のディレクターにも例の番組の企画を説明しましたし、ここ一年はずっと僕が持っていました。魂柱のことは僕も今初めて気がつきましたけれどね。西丘さんのところに調整に出すのは半年ぶりだし、事件の後、西丘さんがこの楽器に細工をすることは無理です。これで西丘さんの話が本当だということは分かりましたね」
「それはどうかな。西丘さん、このコンチュウってやつ、お借りしてもいいですかね?」
「ご苦労なこったね。また鑑識に回すのかい? わしは構わんが、そうなるとこのバイオリンには新しい魂柱を取り付けなけりゃあいかんことになるわな。これが結構微妙な作業でね。馴染んでいる魂柱を取り替えて、音が変わったなんてクレームが出ると困るんだ。こっちはしっかりやる自信はあるが……」
「僕はいいですよ。それで西丘さんの容疑が晴れるなら。それにこれは、暫くはフィリップさんが使ってみたいとおっしゃってまして、調整していただいたら、フィリップさんのところに届けることになっているんです。西丘さんもそれがお望みでしたよね」
「ああ、多くの一流バイオリニストに弾いてもらって、感想を聞きたいんでね。フィリップさんにも、……できればひかりさんにも弾いてもらいたいもんだね。で、どうなんだい、刑事さん。この魂柱、持っていくのかい?」」
 西丘が言った。
 有賀と富田は思わず顔を見合わせたが、有賀は黙ってポケットからビニール袋を取り出すと、西丘の前に突き出した。


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