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木の呪禁(1/6)

呪禁

(じゅごん)

たくき よしみつ


  蝋燭(ろうそ)の炎が、四方の壁に複数の人影を映し出していた。
 その空間を部屋に見立てれば、広さは八畳より一回り大きい程度だろうか。床も壁も剥き出しの岩盤で、どの面も均一に濡れている。
 中央に置かれた燭台の脇には白髪の老人が座り、それを囲む形で、四人の中年の男女が車座に座っていた。
 老人の前には、幅三十センチ、長さ一メートル強ほどの和紙が置かれている。
「では、異存はないのだな?」
 老人が低く呻くように言った。
 身につけた黄土色の装束が蝋燭の炎を受け、少し赤みがかって見える。
長太夫(おさだゆう)どのの判断じゃ。間違いはなかろう。わしは異存ない」
 青い装束をまとった五十がらみの男が答えた。
「長太夫様にすべてを託します」
 赤い装束をまとった中年の女が言った。
「恐らく、これだけの太夫(たゆ)が集まるのは、今後ないでしょう。自分の一生をかけられる時を迎えられて、私は幸せです」
 まだ三十代だろうか、五人の中ではいちばん若い、白装束の女が言った。
「俺は正直なところ、よく分からん。だが、長太夫どのがそうまで言うなら仕方なかろう」
 最後に、四十代半ばくらいだろうか、黒装束の男が言った。
 周りの四人から「おさだゆう」と呼ばれる老人は、しばしの沈黙の後、懐から懐中時計のようなものを取り出した。
「名匠(きっこう)が、いつか『合わせ(しきがみ)』を召還する日が来るやもしれんと、特別に作りし(こんごう)。今、初めて五太夫が揃い、(じゅごん)を込める。
 我らの力が足らねば、式神は勝手に動き出す。命に替えても、必ず封じ込めねばならん。よいな?」
 老人は「金剛」と呼んだそれを、ゆっくりと目の高さまで持ち上げて、祈るような眼差しで見つめた。
 それに習い、老人を囲んでいた四人も、それぞれ懐から同じものを取り出し、目の前に掲げた。
 金剛……それは、一見何かのメダルのようだった。
 直径四センチ、厚さは三ミリほどの平らな金属塊。腕時計のように、ベルトを取り付けられそうな突起が両側に付いていた。
 片方の面には、黒と白の巴が互いに抱き合う形の図柄が描かれている。易でいう「大極(たいきょくず)」だ。
 大極図の部分は、黒檀と白蝶貝を薄く削って填め込んだ(ぞうがん)
 裏面には、五芒星が描かれている。五人が持つ五つの「金剛」それぞれに違う色の星。
 青、赤、黄、白、黒。
 それぞれの男女が身にまとった装束と同じ色だ。
「夜が明けるまでにすべてを終えねばならん。もう迷うておる時間はない。よいな」
「ようそろー」
 周囲の四人が声を合わせて答えた。
 老人は、自分が持つ、黄色い星が描かれた金剛を左手の甲の上にのせ、それにかぶせるように右手を交差させて置いた。
 次に交差させた両手の小指同士を絡め、人差し指だけを立てて他の指は軽く結ぶ。
「あびらうんけんそわか、あびらうんけんそわか……」
 小指を絡めたまま左手の甲の上に右掌を置くという(いん)を結んだまま、老人はしばし祈祷した。
 初めは聞き取れないほどの呟きだったが、次第に大きくなり、絶叫に近いところまで声を上げたところで印を解いた。
 左手の甲の上にのせた金剛を右手で取り上げ、次に両方の手で挟むように持ち、目の前に掲げると、左右にちぎるように引く。
 大極図の部分の抱き合った巴が二つに割れ、メダルの中から鋭い刃が現れた。
 丸い金属ケースに収まった小さなカッターナイフ。それが「金剛」の正体だった。
 老人は金剛の刃を、目の前に広げてある長さ一メートル強ほどの和紙の中央に押しつけた。
 切り紙細工のようにいくつかの線を引いていく。
 ゆっくりと、ていねいに。
 やがて紙の中央に、三角形の頭、三角形の目鼻を持つ(ひとがた)が浮かび上がった。
(じゃくちょう)
 老人は赤い装束の女のほうを向いて名を呼んだ。
 雀蝶と呼ばれた女は、老人の元に歩み寄り、自分の金剛で、今、老人が切り出した人形の右側に、同じような人形を切り抜いていった。
夕子(ゆう)
 赤い装束の中年女の次は、白装束の若い女が呼ばれた。
 夕子と呼ばれた女も、入れ替わりに老人の元へ歩み寄り、老人が切り抜いた人形の左側に、同じような人形を切り抜いた。
東吾(とう)
 四番目は青い装束の男だった。
 男は紙の右端に、同じような人形をつなげて切り抜いた。
(ふみたけ)
 最後に呼ばれた黒装束の男も、残された左端の部分に、同じく人形をつないで切り取った。
 黒装束の男が下がると、老人の前には、横一列に五人分が連結された紙の人形ができあがっていた。
 目は小さな三角。口は逆三角形に切り抜かれ、どの顔も笑っているように見える。
 その異様な横長の紙を見下ろしながら、老人は背筋を伸ばした。そして身につけている黄色の装束の胸元を両側に大きく開くと、裸の胸を突き出した。
「りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん、おんそんばにそんばうんばざらうん……」
 腹の底から湧き出るような声で再び何やら唱え始める。
 やがて周囲の四人の声も重なり、四方の岩壁に反射し、五人の祈祷の声がうねるように混じり合った。
「オン!」
 老人は一人そう叫ぶと、手にしていた「金剛」の刃を自分の胸に突き立て、横一文字に引いた。
 肋骨が浮き上がった老人の胸に、血の直線が引かれた。
 次に、今横に引いた血の線の端に直角に交わるよう、縦に胸を切り裂いた。
 さらに最初の横一文字の下に、もう一本同様の横線。次に縦に並べて傷をつけ……。
 一センチほどの間隔を置いて、老人は自分の胸に横五本、縦四本の線を切り刻んだ。
「りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜんおんそんばにそんばうんばざらうん……」
 周囲の四人も彼に習って同じことを始めた。
白装束の若い女も、まだ形の崩れていない乳房に挟まれた胸を、躊躇(ため)うこともなく傷つけていく。痛みに顔を歪める者はいない。
「りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん……」
 今や、五人の胸には、金剛の刃で切り裂いた、横五本、縦四本の格子状の傷が生々しく開いていた。
 老人は自分の胸から吹き出した血を指に絡ませ、さっき自分が切り出した紙の人形に、逆立ちした五芒星を描いた。
「我らイワフネミチ五太夫、金剛に宿りし力を頼み、合わせ式神を呼び立てまつる」
 老人の声に呼応するかのように、まず青い装束の男が立ち上がり、能のすり足のような仕草で老人に近づいた。
 左足をほんの少し前に出し、次にその左足の直前に右足をすり出す。三歩目は二歩目の右足を超えることはなく、左足を右足の横に揃えて出し、四歩目は、右を一足分だけ前に出す。
 一歩を足裏の長さ分しかとらないので、この狭い空間でも、男が老人のところまで歩むのに、八歩かかった。
 男は老人と向かい合う形で座ると、自分の胸についた傷のうち、いちばん上の横線を右人差し指でなぞり、指先に血をからめ取る。そしてその血を、老人の胸の上の、同じ位置の傷口に擦り込んだ。
 老人の痩せた胸の上で、男の血と老人の血が混じり合う。
 次に左の縦線、次に二番目の横線……。横縦交互にそれを繰り返す。
 横五本、縦四本、九つの傷口にすべて自らの血をすりつけると、最後に男はもう一度、たっぷりと血を絡めた指先で、五連の人形の右端……さっき自分が切り抜いた人形の胸のあたりに、老人がしたのと同じように、逆立ちの五芒星を描いた。
 そしてゆっくり立ち上がり、さっきとは逆の所作で、後ろ向きのまま元の場所へ戻った。
 男が元の場所に座ると、入れ替わりに今度は赤い装束の中年女が祈祷を唱えながら立ち上がり、青装束の男がしたと同じように奇妙なすり足で老人に近づいた。
 そして老人と向き合って座り、やはり自分の胸から滲み出た血を老人の胸になすりつけていった。
 女の垂れた乳房には血がからみつき、腹の横皺にも血が溜まっている。
 しかしそんなことにはお構いなしに、女は自ら傷つけた横五本、縦四本の傷を指でなぞって血を付け、その血を老人の同じ位置の傷に、力を込めて擦り込んでいった。
 そして最後に、やはり自分が切り抜いた人形の胸のあたりに、血染めの逆五芒星を描いた。
 赤装束の女が引き下がると、白装束の女、黒装束の男も、後に続き、まったく同じことをした。
 全員がその行為を終えたとき、老人の胸元は、もはや傷口の形も判別できぬほど血まみれになっていた。
 最後に老人は自らの指先で、駄目押しのように九つの傷口をなぞると、ゆっくり立ち上がった。
 それに合わせ、周囲の四人も立ち上がった。
「りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん……」
 祈祷の声が一段と高まる。
「……オン!」
 老人の掛け声と共に、全員が胸の横五本、縦四本の格子傷に袈裟がけになるよう、手にした金剛で斜めの傷を一本斬りつけた。
 そして数秒間の沈黙。
「あびらうんけんそわか あびらうんけんそわか……」
 やがて老人は、再び静かな口調に戻って唱え始めると、すり足で赤い装束の女と白い装束の女の間に割って入った。
 五人は両手をつなぎ、輪になった。
(しきがみ)いでよ。我ら木火土金水(もくかどごんずい)(じゅごん)を願うものなり。式神いでよ。合わせ式神となりて、鬼火の(けが)れ、{ルビ とわ}永久{/ルビ}に封じ込めよ。あびらうんけんそわか。あびらうんけんそわか……」
 老人が念じる。
「あびらうんけんそわか あびらうんけんそわか……」
 風も入らない密室で、蝋燭の炎が、一瞬、ゆっくりと、大きく揺れた。
 五人の影も揺れた。
 そして床に置かれていた五連の人形に切り抜かれた紙が、すっと立ち上がるように舞い上がった。

◆  △▽  ◆

■ 第一部 木の(じゅごん)


 新大阪二一時一八分発・東京行き「のぞみ三〇四号」は、東京へ向かう新幹線の最終便だ。
 車両の接続部にある自動ドアが開いた。
 山北玄治(やまきたげんじ)は腕時計を一瞥すると、ゆっくりと十三号車に入っていった。
 ネクタイこそしていないが、ジャケットもコートも安物ではない。筋肉質の中肉中背。一見してカメラマンかデザイナーという風貌。持っている鞄は手提げにも背嚢にもなるタイプで、やはり自由業をにおわせる。
 指定席禁煙車両は、座席の半分も埋まっていなかった。
 玄治は車両内の乗客着座位置と、一人一人の乗客の様子を瞬時に判断する。
 いつもこの瞬間、玄治には新幹線の車内が故郷の田園風景と重なる。美しい緑やのどかな自然といった意味合いの田園風景ではない。これから田畑に食い物を探しに出る狸や穴熊にとっての戦場。人間との騙し合いの場としての田園風景だ。
 俺はこれから畑にトマトを盗りに行く狸だ。
 そう言い聞かせ、静かに「狩り」に出る。
 客の大半は出張慣れしたサラリーマンで、寝ている者も多い。中には、三人掛けの椅子を独占し、肘掛けを上げて、ソファ代わりにしている者もいる。
 玄治の目が、素早く獲物をとらえた。
 二列席の窓際で寝入っているサラリーマン風の乗客。
 玄治は何気ない顔で、その乗客の一つ後ろの座席に滑り込み、コートを脱いでたたむと、網棚にのせた。
 のぞみは全席が指定席だが、京都を過ぎた後の検札が終わると、指定席券の番号はあまり意味をなさない。慣れた客の場合、そばにいびきのうるさい客や子供連れなどがいれば、さっさと空いている静かな空間に席を移り、隣の席に脚を投げ出してくつろぐ。車掌も心得ていて、席を移る客を咎めたりはしない。
 バッグは隣の席に置いた。通路を挟んだ反対側のシートは空っぽだ。
 そのまま、静かに目を閉じ、狩りをする時を待った。
 名古屋まであと五分と迫ったとき、玄治はゆっくり立ち上がった。
 前席の「獲物」は深く寝入っている。テーブルは下ろしたままで、空になった水割りセットが置かれている。
 荷物棚に置いてあったコートを下ろすと、玄治はしばらく窓際で形を整えるふりをした。
 自分のコートの内ポケットを確かめる仕草を装い、指先は前の客が壁際のハンガーに掛けた上着の内ポケットを素早く探っていた。
 読みは外さない。
 目的の物はちゃんとあった。
 時間にして一秒もかからない早業。玄治は前席の客の上着から財布を抜き取り、自分のコートのポケットに移し替えていた。
 そのままコートを羽織ると、隣の座席に置いてあった自分のバッグを持ち、通路に出て出口のほうに歩き始める。
〈間もなく名古屋です……〉
 車内アナウンスが名古屋着を予告した。
 誰も玄治の動きに気をとめる者はない。万一いたとしても、気の早い客が、名古屋で降りるために席を立ったとしか思わないだろう。
 念のため、車両を三つ分ほど移動する。
 途中、トイレに入り、財布の中身を抜き取る。成果は六万円少々と、まだ座席指定を取っていない新幹線回数券切符が一枚。これは会社から支給されたものだろう。
 キャッシュカード類は面倒なので、財布と一緒に捨てる。この時刻だとどこのATMも閉まっているし、翌朝ではすでに盗難届が出されている恐れがある。
 鞄から出した派手な野球帽を被ってトイレを出た。
 やがて列車は名古屋に着く。
 名古屋で下車する客は少ない。
 のぞみはすぐに発車する。
 玄治は一旦改札を出てからトイレに入る。
 個室の中で野球帽を取り、鞄にしまう。代わりにネクタイを取り出し、身につける。さらには眼鏡と付け髭で軽く変装する。これだけで身軽な自由業風から中堅サラリーマン風へと、印象がだいぶ変わる。
 しばらく時間をおいてから、個室を出る。幸い、トイレ内に人影はなかった。
 名古屋で下車してから二十三分後、今度は下りホームに新大阪行き「ひかり二八一号」が滑り込んでくる。これに乗るために、玄治は新幹線ホームに再び入っていく。
 出口と入口では改札係の駅員が違うから、さっき改札を出ていった男が、二十分後、再び戻ってきたとは気づかない。それに、人間の認識力というのは結構いい加減なもので、派手な色の野球帽を被っていると、その人物を「野球帽を被った男」として認識し、記憶する。眼鏡や髭も同じ効果を持つ。服装や持っている荷物が同じでも、小道具を変えると簡単に別人になりすませる。
 闇の世界に身を隠す野生生物のように、玄治は人混みという闇の中に自分の存在を埋没させる術を学んできた。
 現代人の住む「社会」とは、記号の集まりのようなものだ。記号になることを拒否した人間は、社会にとっては実体がないに等しい。
 玄治は記号の価値には興味がない。
 しかし、一見して「庶民」という風貌の乗客は、どれほど泥酔していて仕事がしやすかろうとも獲物には選ばない。玄治が狙うのは、いかにもエリート然とした連中だけだ。通勤電車ではなく、新幹線を中心に仕事をするのも、そうしたこだわりからだったが、かといってグリーン車の客だけを狙うほどには徹していないので、大したこだわりともいえないだろう。

 列車が入ってきた。
「ひかり二八一号」は、ひかりとしては新大阪行きの下り最終便の一つ前の列車である。
 車内は空いていたが、玄治はいちばん端の車両から乗り込み、ゆっくりと獲物を物色しながら移動していく。
 客の大半は寝ている。
 さっきと同じ手口で、玄治は京都駅手前でもう一仕事する。
 京都駅では乗り込む客はもちろん、降りる客もほとんどいない。
 二三時二三分。東京ならまだ宵の口だが、列車が発車した後の京都駅新幹線ホームには人影がなくなる。客はおろか、駅員や売店の人間も見えない。
 ホームにある待合室も当然のように無人だ。そこで玄治はネクタイ、付け髭、眼鏡を外して鞄にしまう。
 四分後、最終の「ひかり二八三号」がホームに入ってくる。これに乗り込む。
 うまくすれば新大阪へ着くまでの間に、もう一人くらいカモが見つかるかもしれないが、深入りは禁物だった。
 終着駅では乗客の全員が起きて、上着のポケットを確認する。終着駅ではなく、あくまでも途中駅の手前で仕事をし、素早くその列車から降りてしまうというのが安全のための鉄則だった。
 深追いすれば……。
 玄治の脳裏に、子供の時に見た子狸の姿が浮かぶ。
 生きたまま、隣家の主人にトラばさみごと引きずられていった子狸の恐怖と苦痛の顔が。

 結局、その夜はそれ以上の仕事はせずに、さっきまで乗っていた「ひかり二八一号」の四分後に新大阪に着く「ひかり二八三号」に乗り換えて大阪に戻った。

 玄治には決まった住処がない。そのときどきの懐具合によって、ビジネスホテルや木賃宿、二十四時間営業のサウナなどを転々としている。
 今夜の宿は二日前から泊まっているビジネスホテルだった。新大阪では上から二、三番目のランク。よく使うので、会員カードまで持っている。
 玄治が所持しているカードは、こうしたビジネスホテルの会員カードが数枚だけで、他にはクレジットカードはおろか、運転免許証さえ持っていない。
 玄治には戸籍がないのだった。
 山北玄治という名前も、母から聞かされただけだから、ある意味では「本名」とも言えない。
 こんなことをしていながら、三十になる今まで、警察のやっかいになったこともない。つまり、行政上は日本国内に存在していないのだ。
 高度に統制化されたこの国にも、玄治のように記号化されていない人間は、今なお存在している。一般に思われている以上に、表面化しない殺人がたくさんあるように。
 玄治が自分を野生動物の存在に重ねてイメージするのは、こうした特殊な生き方をしているからでもあった。
 税金を納めたこともなければ、保険証を使って病院の医療にかかったこともない。住民票がないので、免許もパスポートも取れない。しかし、それを特に不自由だと思ったことはない。
 ビジネスホテルチェーンの会員カードは、身分を証明するものなどまったくなくても簡単に作ってくれる。名前は「佐藤治」としてある。山北玄治よりはずっと平凡で目立たないからだ。書き込む住所は大阪市阿倍野区にある雑居ビルの一室。その住所は実在するが、誰も住んでいない。
 支払いがきちんとしている限り、ホテルはなんの疑いも持たず、カード会員として扱ってくれる。チェックインもカード提示だけで済むから、あまり顔を覚えられたくない玄治の場合、好都合だった。
 十四階のシングルルーム。一泊一万円少々。これだけ贅沢な宿に泊まることは、一年のうちに十日もない。このところ稼ぎが順調なので、大盤振る舞いをしているのだった。
 戻ると、ドアの下から入れたらしい二枚のチラシカードが目に留まった。
 一瞥しただけでなんのカードかは分かる。売春の案内だ。
 新大阪駅周辺では、暗くなると同時に、あちこちに両面テープで貼り付けられたこの手のチラシが目に付くようになる。電話ボックスだけでなく、自動販売機コーナーや歩道橋の上がり口など、まるで夜だけ咲く隠花植物のように、闇の中で売春チラシが原色の怪しい光を放つ。
 この地では、高級なビジネスホテルでも、売春婦たちは自由に出入りしている。仕事を終えて帰るとき、他の部屋のドアにチラシを滑り込ませていく者もいる。
 玄治は二枚のチラシを拾い上げると、電話機の横に置いた。
【寂しいあなたの夜に安らぎと官能を】
 どこかのグラビアから無断借用したに違いない美女が笑いかけてくる。オーソドックスなチラシだが、いきなり「寂しい夜」と決めつけられるのは気に入らなかった。
 もう一枚のほうは、わざとなのか金がかけられないのか、ただの白いカードに手書きの文字がコピーされただけのものだった。
【忘れられぬ夜をあなたに】
 こちらのほうがコピーとしてはまだましな気がした。
 腕時計を見ると十二時半。風営法では営業終了だが、どうせ無店舗営業の裏世界のことだ。関係ないだろう。
 番号をプッシュすると、コール三回で中年の男が出た。
〈お電話ありがとうございます〉
「まだ大丈夫かな?」
〈はあ、大丈夫です。お客さん運がええわ。とびきりの子がおりまっせ〉
「じゃあ、頼む。ニューダイヤモンドホテルの一四二七だ」
〈お名前は?〉
「佐藤」
〈ほな、すぐ行かせますさかい。おおきに〉
 確認の電話を入れようとしないのは、もう時間が遅いからだろうか、そのままあっさりと電話は切れた。
 玄治は靴下を脱ぎ、バスタブに湯を張り始めた。
 シャツを脱ぎ、上半身裸になって顔だけ洗う。
 バスルームから出て、上着のポケットから財布を取り出し、一万円札を二枚抜くと、ホテル備え付けの封筒に入れた。売春婦に渡す金でも、こうして封筒に入れるというのが玄治の流儀だった。
 財布は靴の中へと隠す。スリが売春婦に財布を盗られたりしたら洒落にならない。今までそういう失敗は一度としてなかったが、どうしても用心深くなる。
 ドアがノックされた。
 予想よりずっと早い。
 ベッドの上に出ていた浴衣を広げ、裸の上半身に羽織った。下はまだズボンをはいていたので、ひどくみっともない格好になったが、半裸で初対面の女を迎え入れるというのは、玄治の流儀に反していた。
 一応ドアの覗き穴を通して相手を窺う。
 黒いコートを着た若い女が、少し顔をうつむき加減にして立っている。覗き穴に填め込まれた超広角レンズのせいで歪んでいるが、それでも期待以上の美貌を感じさせた。
 ドアを開けると同時に、細身の女が不安そうな眼差しで玄治を見た。
「こんばんは」
 消え入りそうな声でそう告げながら、女は精一杯の作り笑いをした。
「やあ」
 玄治は素早く女を中へ迎え入れた。この一瞬をホテルマンに見られると面倒なことになりかねない。もっとも、ほとんどのホテルでは、こうした売春婦の出入りを見て見ぬふりしている。
「いいですか?」
 女は相変わらず小さな声で言った。
 いいですかというのは、「私でいいですか?」という意味だ。気に入らなければこの段階で断ることができるというのが暗黙のルールになっているが、図々しい女は客が何か言う前にさっさと店に電話を入れて「OKです」などと報告する。
 彼女はそうした図々しさとは無縁の、清楚な感じさえ漂わせた女性だった。
「うん」
 君みたいな美人に文句があるはずないさ、と続けたい気持ちだったが、口にはしない。
「{傍点}ありがと{/傍点}ございます。電話、お借りします」
 そのときになって、玄治は初めて女の言葉に外国人訛があるのに気づいた。
 迂闊だった。電話したときに「日本人を」と念を押すのを忘れていた。このへんでは売春婦の大半は東南アジアの女性なのだ。
 病気の心配があるので、いつもなら絶対に断るのだが、彼女の美貌と、日本人の若い女が失ってしまった危うさのような魅力に、玄治はすでに負けてしまっていた。
 電話をかける女の姿を、玄治は後ろから観察した。
 身長は一六〇センチほど。細く伸びた手足。肌の色はほんの少し褐色がかっているが、肩の下あたりまで真っ直ぐに伸びた髪が漆黒と言うにふさわしい黒なので、対比するとそれほど色黒には見えない。
「今入りました。……はい……はい……大丈夫です」
 必要最小限の返事だけして、女は受話器をそっと、音も立てずに戻した。こういう仕草も、今の若い日本人女性にはほとんど見られなくなった。
 黒いコートを脱ぐと、下も黒のツーピースだった。
 脱いだ自分のコートを入り口脇のハンガーに掛けると、
「シャワーお借りします」
 と言って、女はバスルームのドアを開けようとした。
「まあ、そう慌てるなよ。ビールでも飲まないか?」
「ありがとございます。でも……」
 それ以上の言葉が出る前に、玄治は女の肩に両手を置き、ベッドのほうへ誘った。女はふらふらとよろけるように歩きながら、ベッドの縁に腰を下ろした。
 女と向かい合う形で、玄治は椅子に座った。
 相手のペースにはまって流れ作業の商品のように扱われるのはご免だった。
「日本人じゃないみたいだね」
「半分日本人です」
「半分?」
「はい。お父さんが日本人。お母さんはラオス人」
「ラオス?」
 カンボジアの隣……ということくらいは分かる。でも、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの正確な位置関係は思い浮かばない。
「国籍はラオスなの?」
「はい。私、留学生」
 本当だろうか。大阪にラオスからの留学生がいるというのは今ひとつ信憑性がない。
 歌舞伎町の外国人売春婦は、多くがコロンビア人だが、「商品価値」を上げるために、スペイン人だとかイタリア人だと名乗る女が多い。仕切っている組織の入れ知恵だろう。ラオスというのもそれに近い方便なのかもしれないが、突っ込んで問いただすのも野暮というものだ。
 戸籍のない玄治自身、ある意味では「日本人」ではない。記号化された表の世界では存在していない人間なのだから、似た者同士とも言える。
「ああ……先に渡しておかないとね」
 玄治はカウンターテーブルの上に置いてあったホテル名入りの封筒を渡した。
 女は一瞬驚いた顔をした。封筒入りで金を渡す客など滅多にいないからだろう。
 だが、受け取るとすぐに笑顔になり、
「ありがとございます」
 と、たどたどしく礼を言い、中身を確かめもせずにハンドバッグの中にしまった。
 封筒の中身を確かめないことに、玄治は驚いた。
 今まで何人もの売春婦を相手にしたが、そんな女はひとりとしていなかった。
 よほど「確かめないの?」と言おうとしたが、女の仕草があまりにも自然だったので、口には出さなかった。
 代わりに、こう訊いた。
「名前は?」
 何気なくそう訊いた後、これこそ野暮な質問だったと後悔した。
 ラオス人の名前など聞いても分からないし、店の源氏名なら、知ったところでなんの意味もない。
 女はしかし、少し間を空けてから、まるで面接官に答えるようなはっきりした口調で言った。
「ミズモトフユミです」
 玄治は面食らった。
 エリカとかリサとか、国籍不明の源氏名が出てくるものとばかり思っていたからだ。フユミとは、また随分演歌調ではないか。
 しかも、なぜか「ミズモトフユミ」とフルネームで答えたところに興味を引かれた。
「それは源氏名?」
「ゲンジナ?」
「ああ、店の人が付けた名前なの?」
「いいえ。お父さんがつけました」
「本名?」
「ホンミョウ?」
「本当の名前?」
「はい。私の本当の名前です」
 女はベッドサイドに置いてあったボールペンとメモ用紙を手にすると、何やら文字を書き付けて玄治のほうに手渡した。
〈水元冬身〉という、ぎこちないが、ていねいな文字が書かれていた。
「変わった字だね」
「そうですか?」
「うん。変わっている」
 どう変わっているのか、「冬美」「不由美」などと書いて「普通はこうだ」と説明するのも面倒なのでやめておいた。
「お父さんは日本人だって言ったね。日本にいるの?」
「分かりません。生きてないかもしれません」
 冬身の黒目がちな目が、一瞬不自然に揺れた。
 つまらぬことを訊いてしまったと、玄治は後悔した。
 買春ツアーに参加した町工場の社長が父親なのかもしれないし、商社マンが単身赴任でアジアの市場開拓に派遣され、向こうで女を作ったのかもしれない。
 どっちにしろ、彼女たちのそうした事情を詮索するのは恥ずかしいことだ。
 東南アジアの女性を日本人が金で買い、その犠牲者である娘をまた自分がこうして金で買っている。
 玄治は黙って冷蔵庫から缶ビールを取り出して一口飲んだ。体調が悪いのか、いつもより苦い味がした。
「シャワー、まだですか?」
 冬身が、気まずそうに言った。
 まだシャワーを浴びていないなら入ってくれという意味なのか、それともいつまでもこんな風に話し相手をしているのは時間の無駄だから、早くシャワーを浴びさせてくれという意味なのか。
 玄治は立ち上がると、ズボンのベルトを緩めた。
 その手に、冬身の両手がふわりと重なった。
 脱がせるということらしい。
 冬身は床に跪き、玄治のズボンのベルトを完全に外した。黒髪が眼下で揺れる。
 玄治は思わず彼女の髪にそっと触れた。
 洗っただけで、なんの手も加えられていないのだろう。近頃は日本人の若い女にさえ見ることの少なくなった本物の黒髪だ。
 何か冷たく固い物が股間にそっと触れた。
 冬身がしていたペンダントだった。
 細い鎖の先に、黒っぽい金属製の物体がぶら下がっている。ペンダントにしてはかなり重そうだ。それが前屈みになった拍子にちょうど玄治の股間に触れたのだった。
 なぜか、その感触に、玄治は一瞬心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
 冬身はそんなことには気づかないようで、玄治のズボンを下にずらすと、トランクスの上からそっと膨らみに手を当てた。まるでそうすることが職業上の責務であるかのように。
 玄治は少しいたたまれなくなり、自ら身体を離すと、自分でズボンを脱いだ。
冬身は部屋の隅で、自分の服を脱ぎ始めた。
 黒いツーピースの下はやはり黒い下着だった。黒づくめもここまで徹底していると、色気よりも不気味さのようなものが漂う。
 玄治に背を向け、その黒い下着も取って椅子の上に置いた。
 細い裸身が現れる。薄い陰毛が、彼女の薄幸を象徴しているような気がして、愛おしかった。
 無駄な脂肪はまったくついていない。細くても、病的な細さではなく、筋肉はしまっている。
 全裸になっても、冬身はなぜかペンダントだけは外そうとしなかった。黒いメダルのようなものが、薄い胸の間で揺れている。
「重そうだね」
 メダルを指さして、そう言ってみた。
「お父さんの形見」
「お父さんの?」
 競技会か何かの記念メダルだろうか。「形見」というからには父親は死んだということになるが、さっきは行方知れずと言っていたはずだ。どうも要領を得ないが、また話題がそういう方向へ戻るのは避けたかった。
 冬身もそれ以上は説明しようとはしなかった。

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木の呪禁(2/6)

 狭いバスルームの中で、冬身は身体を洗ってくれた。投げやりでもなく、過剰にしな()を作るでもなく、町工場のまじめな女子工員が電子部品を組み立てるように、ていねいだが淡々とした「作業」だった。
 玄治の身体はいきり立っていたが、気持ちはひどく惨めだった。

 ベッドの中でも、玄治は自然には彼女を抱けなかった。
 どうしてか、入っていこうとすると萎えてしまう。
 今まで数え切れないほど金で女を買ってきた。というよりも、玄治にとって、金が介在しない性行為というのはほとんどないほどだった。今さら、女を買う行為に罪悪感を覚えるほどナイーブではない。
 なぜだろう……。
 焦りよりも、諦めの気持ちのほうが強く支配している。
 玄治は冬身の肩を抱いたまま、天井を見上げていた。
 脳裏に故郷の景色が次々に浮かんでくる。
 寂れた神社、雪に埋もれた田圃、轍の中でぺしゃんこになった蛙の死骸……。
 なぜだ?
 なぜこんなときに……。

 物心ついた頃から、玄治は村の中で孤立していた。
 いや、孤立というよりは、玄治の存在自体がタブーだった。
 旅芸人集団の奇術師が、旅先で立ち寄った飲み屋で、働いていた未亡人を口説き、抱いた。女は身ごもり、数か月後、男の子を産んだ。……それが玄治だった。
 父親の顔はおろか、名前さえ知らない。生きているのかどうかも分からない。
 母親は酒におぼれ、村の男たちの慰み物になり続けていた。玄治は学校へも行かず、村外れの小屋でひっそりと育った。
 そしてついに、玄治が十二のときに母親が失踪した。
 飲み屋の主人が呆れた顔で言った。
「玄坊、調べてみたんだが、おまえの戸籍、ねえみてえなんだ。かあちゃんが出生届を出してねえんだな。小学校にも行ってなかったって? とんでもねえ親だ。どうする?」
「どうもしねえ」
 玄治の母親と関係した男たちはかなりの数に上っていた。その女が産んだ、父親の身元も分からない子供と関わり合いになることを恐れた。
 女たちも同じだった。自分の亭主や息子が、玄治の母親と遊んだことがあることを知っている。こっそり玄治に優しくしてくれる女はいても、役場が関係してくるような面倒な事態が起き、それに自分が関わってしまうことは避けようとした。
 飲み屋の主人も、何度となく玄治の母親を抱き、利用しつくしたという後ろ暗い過去があるだけに、それ以上玄治の面倒を積極的にみようとはしなかった。
 母親が失踪してからも、玄治はしばらく店の手伝いをしながら倉庫の片隅で寝泊まりしていたが、そのうちに主人の態度に危険なものを感じるようになった。
 学校へ行かない子供を店でただ働きさせ続けるのは、さすがにまずいと思い始めたのだろう。かといって、今頃のこのこと役場に相談すれば、自分の立場も危うい。玄治の存在を露骨に疎んじるようになった。
 玄治はこの村に「いてはいけない存在」なのだった。
 もしかしたら、母親は失踪したのではなく、村人たちに殺され、ひっそりと葬られたのではないか? だとしたら、次は自分の番ではないのか?
 そんな恐怖が、日増しに増していった。
 しかし、自分から警察や役場に助けを求めることはまったく考えなかった。
 役場や養護施設というものには、底知れぬ嫌悪と恐怖を抱いていたのだ。自分でもなぜなのかは分からない。生まれ持った血の奥底で、何かがお(かみ)との関わり合いを拒絶している気がする。玄治はその血の囁きに正直に従って生きようとした。
 玄治は一人で村を出た。
 その後まもなくして、村祭りを転々とする芸人一座に入り込んだ。
 そこで出逢った老奇術師は、玄治の父親らしき男に心当たりがあるようだった。その男は武治(げん)といい、もともとは彼の弟子で、腕もよかったが、病的なまでに女癖が悪く、数年前に行方知れずになったという。
「武治の子供は日本中にいる。俺たちは『種付け武治』って呼んでたもんだ。おまえもどうせ、武治がどこかでまいた種の子だろ。そっくりだ」
 老奇術師は玄治を自分の孫のように可愛がり、奇術師としての技術を教え込んだ。
 もともと手先が起用だった玄治は、たちまち腕を上げ、そのうち師匠に嫉妬されるほどになった。
 やがてその旅芸人一座も、お上や暴力団組織の介入で自然解体し、玄治はまた一人になった。
 十代後半から二十代にかけては、単身、全国を転々とした。その間、さまざまなアウトローたちと接触し、万引、スリ、置き引き、空き巣、車上狙いなど、あらゆる犯罪の手口を覚えた。生まれ持った手先の起用さと身のこなしの素早さで、玄治は何をやってもすぐにうまくなった。
 初体験は十五の冬。旅先の赤提灯の二階で、相手は、明らかに五十は超えている太った女だった。金こそ取られなかったが、できることなら記憶から消し去りたい。
 その後、どれだけの女を抱いただろうか。ほとんどは金で買った相手だった。
 行為の最中、玄治の脳裏には、酔っぱらって男に抱かれている母親の姿がよぎる。
 今さら、そして今後も、性行為にロマンを感じることはできないだろう。

 気がつくと、冬身が玄治を手でそっと包み込み、黙って、静かな愛撫を続けていた。
 やがて玄治は彼女の手の中で果てた。
 同時に襲ってくる底なしの虚無感。
 こんな気持ちを得るための欲求だとしたら、性欲とは、食欲や睡眠欲に比べてあまりに理不尽な生理だ。果てた瞬間、玄治はいつも思う。
 それとも、自分だけが特別で、他の男たちは別の快感を得ているのだろうか……?
 横で、彼女は無言のまま後始末をし、身支度を整えていた。
 もう行くのか?
 一刻も早くこの部屋から出て、今、俺と共有していた時間を記憶から消し去りたいのか?
 それとも、この後すぐにまた、別の男のもとへと急ぐのか……。
 虚しさと後ろめたさが混ざり合った疲労感の中で、玄治はぼんやりと冬身の痩せた背中を見ていた。
 やがて、彼女はすっかり身支度を整え、椅子に座った。
 背を向けたまま、無言で何かしている。
 壁には大きな鏡がある。それを見ながら化粧を直しているのだろうと思ったが、そうではなかった。
 肩が小刻みに震えている。
 泣いているのか? まさかこれが初めての「仕事」だったというわけでもないだろうに。
 玄治は鏡に映る彼女の表情を見ようと、身体をずらした。
 冬身は泣いてはいなかった。
 少なくとも涙は流していない。身体を震わせながら、、何か一心不乱に作業をしている。
 キッという甲高い摩擦音が部屋の静寂を切り裂いた。
 なんだ?
 玄治は浴衣を羽織り、冬身の肩越しに手元を覗いた。
 冬身の手には、バスルームでも、ベッドの上でも外そうとしなかった、あの奇妙なメダル状のペンダントが握られていた。
 ペンダントで、ホテル備え付けの便箋を切り裂いている。
 切り裂く?
 そうだ。便箋はカッターナイフで切り裂かれたように、スッパリときれいに切れている。ペンダントの中身には刃が仕込まれているらしい。あれはペンダントを装った護身用のナイフだったのだろうか? 変質者が急に首を絞めてきたとき、相手の頸動脈に切りつけるために、行為の最中も身体から離さない護身具……。
「何をしてるんだ?」
 訊いたが、冬身は何も答えない。
 切り紙細工をしているようにしか見えないが、どんな意味合いがあるのだろう。さっきまでは、早く仕事を済ませてさっさと引き上げたそうな素振りをしていただけに、一心不乱に意味不明の行為をしている冬身の姿は異様だった。
 その横顔を覗き見た玄治の背中に、冷たいものが走った。
 冬身の目の下は黒ずみ、唇は色を失い、しかも何かを呟くように細かく震えている。病気の発作を起こしているのか?
 キッ。
 また鋭い摩擦音がして、便箋が切り裂かれた。
 ホテル名の入った便箋は横位置に置かれ、上下を波形に切り取られていた。
 少しずつ形がはっきりしてくる。
 人の形だ。
 紙雛のようにも見えるが、よく見ると、もっとグロテスクだ。
 頭は三角形に尖り、目の位置には小さな正三角形の、口の位置には逆三角形の穴が空いている。アメリカの白人至上主義教団KKK(クークラックスクラン)の白いマスクとマントを思わせる。
 冬身が突然立ち上がった。
 玄治は思わず飛び退きそうになった。相手は刃物を持っている。
 しかし冬身は、ペンダント型のカッターナイフではなく、人の形に切り抜いた便箋のほうを玄治に突き出した。
「なんの真似だ?」
 やはり返事はない。
 冬身の表情は、もはやさっきまでとはまったく別人のものだった。
 まるで、夜叉だ……。
 俺は一体何者を抱いたのか?
 冬身は黙って、さらに紙を突き出した。その勢いに呑まれ、玄治は反射的にそれを受け取っていた。
 玄治の手に切り抜いた紙が渡ったのを確認すると、冬身は後ろを向き、壁の鏡にペンダントを押し当てて図形のようなものを描いた。
 さっきまでとは比べものにならないくらい甲高く、強烈な摩擦音が部屋に響いた。
 そのまま、冬身はバッグを持ち、入り口脇に掛けてあったコートを着て、あっという間に部屋から出ていった。
 玄治は呆然と彼女を見送るしかなかった。
 気づくと、壁の鏡に小さな傷がついていた。
 星形の傷。ユダヤの紋章とも言われる五角形の星。しかし、上に二つの角があり、ちょうど逆立ちした格好になっている。
 それにしても、あのペンダントに仕込まれた刃先は、鏡に傷を付けるだけの硬度を持っていたことになる。ダイヤモンドでも埋め込んであったのだろうか。
 鏡には、腑抜けのようになった自分の姿が映っていた。浴衣の前ははだけ、一物が陰毛の中に隠れるように縮み上がっている。情けないのを通り越して滑稽ですらある。
 右手にはさっき手渡された人の形に切り抜かれた便箋があった。
 改めて見ると、まるで、仮面の悪魔から人買いの罪を宣告されているような気分になった。
 玄治は気味悪くなり、その紙片を丸めてごみ箱に捨てた。
 ごみ箱の中には、さっき自分の身体から搾り取られた精液を拭き取ったティッシュも入っているはずだ。紙の人形が自分の分身に接触するのが怖いような気がした。
 バスタブの湯を抜き、熱い湯を入れ直した。
 今、一体、何が起きたのか?
 熱い湯に浸かり、今あったことを整理しようとしたが、頭が冴えれば冴えるほど、ますます混乱するばかりだった。
 風呂から上がっても、しつこい脂汗が滲み出てくる。
 冷蔵庫の中の酒類をすべて飲み尽くしても少しも酔えず、喉は渇き続ける。
明かりをつけたまま、ベッドの上に横たわり、眠りが訪れるのを待つことにした。
 こんなことはまったく経験がないことだった。
 今でこそ、金のあるときは軟弱にビジネスホテルなどを泊まり歩いているが、若い頃は工事現場の片隅や公園のベンチ、保安倉庫の土嚢の陰など、どこででも寝られた。少し頭のおかしい外国人売春婦を相手にしただけで、神経が高ぶり寝られなくなるほどやわではない。
 部屋の灯りを消し、目を閉じた。と同時に、見えない重石が身体の上に乗せられたように感じた。
 背中がベッドに押しつけられ、手足を曲げることさえできない。
 上半身を起こそうとしても、手が動かないので起こせない。腹筋だけで起きあがろうともしたが、無駄だった。
 金縛りにしては意識がはっきりしすぎている。
 目を開こうとしたが、まぶたも重く、まるで糊付けされたようだった。
 灰色のどんよりとした煙幕が脳裏に立ちこめている。
 耳元でキッという嫌な摩擦音がした。
 さっき、女が固い金属片で壁の鏡を引っ掻いたときの音だ。
 幻聴か?
 悪性の風邪でもひいたのだろうか。
〈水のしきがみ、われらとつながり、ここにもくかどごんずいのあわせしきがみ、よみがえるなり〉
 すぐそばで、声が聞こえた。
 意味は分からないが、言葉には違いない。しかし、なぜか人間の声には聞こえない。
 玄治はベッドに寝たまま、声のほうに顔を向けた。
 壁の鏡の中から、白っぽいものが染み出すように現れた。最初はぼやけていたが、やがて人の形をした紙であることが分かった。
 さっきあの冬身と名乗るラオス人の女がホテルの便箋を切り抜いて作った人形と同じだ。しかも、横に四体連なっている。
 ライティングデスクの上には、女が切り抜いた人形が「立ち上がって」その四連の人形を見上げるように待ち受けていた。
 さっき丸めてごみ箱に捨てたはずの紙切れが、なぜ?
 よく見ると、一体だけの人形の表面には細かい折り皺がある。すると、あれはさっき俺が丸めてごみ箱に投げ入れた紙切れなのか?
〈水のしきがみ、われらとつながり、ここにもくかどごんずいのあわせしきがみ、よみがえるなり〉
 童歌のような調子で、歌とも祝詞とも念仏ともつかないような言葉が繰り返される。その声は四連の紙人形のほうから聞こえる気がする。
 やがて四連の紙人形は、ライティングデスクの上に立っている一体の紙人形の隣にふわりと降り立った。
〈オン!〉
 掛け声と共に、四連の紙人形は、玄治の目の前でつながり、横一列、五連の紙人形になった。
〈もくかどごんずいのあわせしきがみ、いまよみがえりそうろう〉
 一つにつながった五連の紙人形が、そう言って玄治のほうに笑いかけた。いや、三角形に切り抜かれた目と逆三角形に切り抜かれた口は、最初から笑っているように見える。
 気味の悪い夢を見ている。
「早く失せろ」
 玄治は夢の中でそう叫んだ。

(ちぎ)りによって選ばれしあがもの(ヽヽヽ)よ〉

 突然、五連の紙人形が玄治に告げた。
 相変わらず、声というほどはっきりしたものではない。無声音だけで呟いているような、芯のない音声だ。しかし、言葉として明瞭に頭に入ってくる。
〈契りによって選ばれし{傍点}あがもの{/傍点}よ〉
 五連の紙人形がもう一度言った。
 あがもの? あがものとはなんだ?
 分からないまま、玄治は人形の次の言葉を待った。
〈おまえは、もくかどごんずい、五つのじゅごんの五番目なり。たった今、水のじゅごんがおまえと{傍点}うつせたゆう{/傍点}を結んだ。我らがおまえの番を告げてより、九回陽が出ずる前に……〉
 紙を切り抜かれただけの五連の人形は、何やら意味不明の言葉を並べ立てたが、玄治にとってはまるで外国語のようで、最後までは聞き取れなかった。
 もくかどごんずい? じゅごん? うつせたゆう?
 どれも玄治には意味不明だった。これが夢ならば、なぜ自分が知らない言葉が出てくるのだろうという疑問がよぎったが、深く考えれば考えるほど底なしの恐怖へと引きずり込まれるようで、それ以上の思考を停止させた。
夢に理屈を付けても仕方がない。
 夢ならばこのまま深い眠りにつかせてくれ。
「消え失せろ」
 玄治は五連の人形に向かって言った。
 自分の声ははっきりと聞こえたが、夢の中にしては現実感がありすぎた。
〈従わぬ者は死すのみ。従わぬと言うのか?〉
 紙の人形が告げた。
「さっさと消えろと言ってるんだ」
 玄治はもう一度言った。
 次の瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
 見ると、横真一文字に血が滲んでいる。剃刀の刃で斬りつけられたような傷みだった。
 やはりこれは夢ではないのか?
〈従わぬ者は死すのみ。死すのみ。死すのみ……〉
 その繰り返しの言葉に合わせ、胸には縦、横、縦……と、格子状に次々に傷が切り刻まれていく。
 耐え難い痛みが襲いかかる。夢なのか現実なのか……もはやそんなことを考えている暇もなかった。
「分かった。やめてくれ」
 現実であるはずがない。しかし、夢であっても、こんな苦しみからは一刻も早く逃れたい。本能的な恐怖から出た言葉だった。
 五連の紙人形がゆらりと揺れた。まるで「聞き届けたぞ」と言っているかのようだった。
 裸の胸の上に碁盤の目のように次々と刻まれる切り傷は、何本目かでようやく止まった。
 見ると、切り紙の人形は灰色の霧の彼方へと消えていくところだった。
 やはり夢だったか。……冗談じゃない。夢にしてもこの痛みはなんだ。
 そう心の中で呟くと同時に、玄治の意識はスイッチを切られたように急速に混濁していった。

△△◎▽▽
 十時前に、フロントからの電話で起こされた。
〈ご予約は本日まででございますが、チェックアウトのお時間です〉
 よほど深い眠りに落ちていたのだろう。そう言われても、一瞬なんのことだか分からなかった。
 アウトローとしていつも危険に身を晒している玄治にしては、まず経験のないことだった。
「分かった」とだけ答え、受話器を置く。
〈オン!〉
 頭の中で、そんな声がしたような気がした。
 同時に、あの妙に現実感を伴った夢のことを思い出した。
 紙人形が現れた鏡のほうを見る。ライティングデスクの上にはホテル備え付けの備品以外、何もなかった。
 胸の上に鋭い痛みを覚えた気がして、慌てて浴衣の前を開き、胸を見た。
 傷はなかった。痛みを感じたのは気のせいだったのだ。
 ああ、やっぱり夢だったのだと、あの悪夢を振り返った。不思議に、細部までよく覚えている。しかし、夢は夢だ。
 ベッドサイドのテーブルに組み込まれた時計は十時五分前をさしていた。
 急いで身支度を整える。
 部屋を出ようとして、何か忘れ物はないだろうかと振り向いたとき、ライティングデスクの上にあるホテル備え付けの便箋が目に入った。
 昨夜の出来事が脳裏に鮮明に蘇ってくる。
 あの売春婦とのこと。
 冬身と名乗ったラオス人の女が、ペンダントの中に仕込んだナイフで便箋を人形に切り抜いた……あれは夢だったのだろうか、現実だったのだろうか?
 玄治は便箋の束を手に取ってみた。
 いちばん上の便箋が、(ひとがた)に切り抜かれていた。
 あれは夢ではなく、現実だったのだ。
 切り抜かれた人形のほうは、丸めてごみ箱に捨てたはずだ。念のためにごみ箱の中を覗き込んだ。
 丸められたティッシュが一つ。他には何もない。
 玄治の背中に冷たいものが流れた。
 捨てたはずの人形の紙はどこへ行ったのか?
 部屋の中をいくら探しても、それらしき紙ゴミは見つからなかった。
 まさか、あの夢は現実で、鏡の中から四連の紙人形が現れ、五番目の分身と合体してどこかへ消えた……などということがあるはずはない。しかし、それならなぜ部屋の中に残っていないのだろうか?
 もしかしたら記憶違いで、切り抜いた人形はあの女が持ち帰ったのかもしれない。
 一体どこまでが現実で、どこからが夢だったのか……。
 鏡を見ると、自分の顔が写し出された位置に、うっすらと逆五角形の星形の傷が残っていた。
 玄治は悪夢から逃げるように、部屋を出た。


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木の呪禁(3/6)

△△◎▽▽
 フロントでは、予想外の追加料金を請求された。
 冷蔵庫の中のアルコール類をすべて飲んでしまったためだった。
「細かいんだが……」
 少し言い訳口調で、玄治は五百円玉を数枚出す。
 それでもポケットの中の財布はあまり軽くならない。
 このところスリの成果が上がっているので、もう一つの「副業」のほうはさぼり気味だったのだ。
 頭も身体も疲れている。こんな日は副業のほうに精を出そうと決めて、玄治は地下鉄に乗り、「事務所」へ向かった。
 事務所は、大阪、阿倍野区の雑居ビルの中にある。
 銀行とゲームセンターの間の路地を入ると、急に人通りが減る。二本向こう側の路地両脇にはラブホテル街が形成されているが、この路地は取りたてて店もなく、奥へ入るにしたがって寂れた感じになる。
 路地に入って三軒目のビルには、飲み屋がいくつか入っている。その向かい側は野ざらしの駐車場。さらに奥へ進むと、おでん屋と、どうして成り立っているのだろうと思うような小さな金物店。
「事務所」は、その路地のどん詰まり近く、薄汚れたモルタル塗りの三階建てのビルの中にある。
 ビルの入り口は昼間から薄暗い。女性でなくとも、一人では怖くて入れないような雰囲気だ。
 軋み音がひどくなったドアを押してロビーに入ると、さらに薄暗い通路が奥へ向かって延びている。通路には窓がないので、奥へ行くに従って暗くなる。もちろん天井に照明はあるのだが、ついていたためしがない。
 その突き当たり右側に、引っ込んだ一角がある。三畳ほどのスペースで、奥には壊れた清涼飲料水の自動販売機がある。ショーケース部分のガラスにはひびが入り、鉄板にはあちこち錆が浮き出ている。もう何年も前から「故障中」という張り紙がコイン投入口をふさいでいる。
 もっとも、その張り紙がなくても、こんな場所にあるボロ自販機に金を投入する者はいないだろう。
 玄治は周囲を確かめ、自販機の裏側に手を入れた。
 廃物のように見えるこの自販機には、実は高性能な電子施錠装置がつけられている。裏側にある、一見ただのボルトのように見える三つのスイッチを、特定の順番で押すことにより施錠が一時的に解除できる仕組みだ。
 スイッチを押して施錠を解除すると、かすかな電子音がする。それを確かめてから、玄治は自販機の鍵穴に鍵を差し込む。この鍵は、裏側の電子施錠を外して初めて回すことができる。
 表側ショーケース部分の扉を開くと、中には縦に九列の商品シリンダーがある。九列のシリンダーはさらに上下に区切られていて、全部で十八のブロックを構成している。
 そのシリンダーの各々に、無地のボール紙に包まれた、厚さ三センチ弱、石鹸箱を一回り大きくしたような、ほぼ正方形のパッケージがびっしり積み上げられている。
 玄治の担当である右から二列目の下の段には、ボール紙の包みが五つ入っていた。
 周囲を見渡し、改めて誰もいないことを確認してから、玄治はその包みを素早く鞄の中に入れる。
 玄治の鞄は手提げにも背嚢にもなるタイプのもので、一見コンパクトに見えるが、かなりの量が収納できる。
 そのまま素早く自販機の扉を閉め、鍵を掛けると、警報装置は再び動き出す。
 ずしりと重くなった鞄を背負って、階段を上る。
 二階の西端に「佐藤」という表札が出た部屋がある。
 表札はカムフラージュで、住んでいる者はいない。
 ドアは二重ロックになっていて、内鍵を掛けると外からは開かない仕組みだ。
 トイレと同じで、誰かが中にいるときは入れないことになっている。中から内鍵が掛けられているときは、ドアの端に小さくマークが表示されるのだが、うまい具合に誰もいないようだった。
 重いドアを開ける。郵便受けの裏側は改造してあって、巨大な箱が据え付けてある。
 玄治はこの部屋では「佐藤治」である。住所を必要とする場合、山北玄治はこの部屋の住所の「佐藤治」になる。
 玄治宛に郵便物が届くことはまずないが、この部屋には「佐藤健一様」「佐藤事務所御中」「佐藤デザインルーム御中」「オフィス佐藤御中」「佐藤政夫様」など、何種類かの宛名で郵便物が届く。それぞれが別人のコードネームになっている。
 一応自分宛の郵便物がないか確認してみたが、「佐藤事務所御中」という郵便物が一通あるだけだった。
 この部屋を利用しているのは常時五、六人いるはずだが、誰も互いに名前も知らない。たまに通路ですれ違うことがあっても、相手の顔をじろじろ観察などしないのが暗黙のマナーになっている。
 表札は「佐藤」と出ているだけなので、郵便配達は恐らく、佐藤という一家が住んでいて、家族の誰か、あるいは何人かがデザインオフィスをやっていると思っているだろう。
 電話は一本引いてあるが、常に留守番電話状態になっていて「はい、佐藤です……」という女性のアナウンスが流れるようになっている。
 最低限度の物の保管と郵便物管理だけのための部屋。
 自分の他にどんな人間がここを利用しているのかは分からないし、知ろうとしないというのが掟になっている。
(ゆい)」と呼ばれる組織に関わっている人間たちだということだけは分かっているが、それ以上のことは詮索しない。
 中は六畳一室だけで、事務机が二つ、ロッカータンスが三つ、コンテナが三つ置いてある。
 狭い部屋の中は、細かくなわばりが分けられていて、自分のなわばりの外にある物には一切手を触れてはならないことになっている。
 玄治はトイレだけを使用できる。言い換えれば、トイレのドアを開けることができるのは玄治だけだ。
トイレのドアを開けると、壁際にはコートや上着が吊されている。このトイレは玄治専用のロッカーなのだった。
 便座を開けると、中には丸い板が渡されていて、物入れのようになっている。玄治はそこに、今、下の自販機から取ってきたボール紙のパッケージを置いた。
 そのうちの一つを開く。
 中にはびっしりと五百円玉が詰まっている。
 五百円玉というのは、直径が二十六・五ミリで、厚さは二ミリ。一枚の重さは七・二グラムある。
 パッケージ一つには、これが四列に五十枚ずつ並んで入っている。これで十万円。重さは一・四キロ以上ある。五つもバッグに入れると七・二キロ。とんでもない重さになる。無論、この状態では歩き回れない。
 小銭入れと呼ぶにはかなり大きな財布二つに、入れられるだけ入れ、残りはこうしてストックしておく。
 玄治は持てるだけの五百円玉を持ち、すぐに部屋を出た。
 玄治の「副業」は、この五百円玉を札に換えることだった。
 この五百円玉が偽造のものであることは明白だ。「結」の元締めである「庄屋」が偽造している。
 偽札と比べて、硬貨の偽造ははるかに易しい。問題は一つあたりの価値が低いから、偽造してもうまみがないということだ。一円玉に至っては、造幣局で大量生産してさえ原価のほうが高くつく。
 一万円札なら、百万円がほんの一センチほどの札束にすぎないが、五百円玉で百万円といえば二千枚も必要になる。五百円玉二千枚は、十四・四キロある。これでは運ぶのも目立つし、大きな取引はできない。
 そこで、偽造した五百円玉は極力紙幣に換えていかなければならないが、一度に大量の換金作業をすれば目立ち、すぐに足がつく。継続的に五百円玉を偽造するためには、なるべく小規模に、目立たず、広範囲で換金していくことが必要になる。その作業をするのが玄治たち「小作(こさ)」と呼ばれる、アウトローたちだ。
「小作」は庄屋から支給された五百円玉を元手にして、庄屋に支給額の半額にあたる一万円札を戻す。
 二百枚入りのパッケージ一つは十万円だから、パッケージ一つにつき、一万円札五枚を戻す。残り五万円が小作の稼ぎとなる。
 無論、郵便局や銀行で両替するなどという安直な方法は厳禁だ。五百円玉だけの大量換金が何度も重なれば、当然怪しまれる。また、自動販売機を使って釣り銭をせしめるのも禁じられている。
 小作に渡される偽五百円玉は極めて精巧なもので本物と見分けがつかないが、一台の自販機から大量に見つかったとなれば厳密に調べられる恐れがある。
 もし結で禁じている方法で小作が五百円玉を札に換えたことが分かれば、その時点で結から除名され、庄屋との取引は永久停止になる。
 小作たちは、競馬、競輪、パチンコなどで五百円硬貨をせっせと札に換えていく。普通、プロのギャンブラーの場合、投入額と回収額が同じだったら飯は食えないわけだが、小作たちは、同額回収でも投入額の半額の儲けが出ることになる。例えば、腕のいいパチプロにとって、これはそれほど厳しい条件ではない。
 競馬でも、大勝ちしなくていいとなれば、おのずと安全策が取れる。
 複勝で細かく「コロガシ」をするという手もあるが、これは一度でも外すと振り出しに戻ってしまう。
 玄治がよくやるのは「高入れ」という方法だ。外したレースの次は、必ず直前に負けたレース以上の金を投入していく。
 例えば一万円投入したレースを外した場合、次のレースで配当二倍の馬に同じ一万円を投入したら、取れても差し引きはゼロにしかならない。一万円すったら、次のレースでは一万円以上取れるように、さらに高い金額を投入する。負けが続いても、絶対に投入金額を引き下げない。逆にどんどん高い金額を投入する。ただし、自信がないレースには決して手を出さない。
 玄治は競馬のデータ収集に時間をかけるタイプではない。だから、出走数の多いメインレースや、荒れやすい、距離の長いレースには手を出さない。出走頭数が少なく、距離の短い、読みやすいレースにだけ賭けていく。
 そうすれば、まず当たるレースが一レースはある。その時点でやめてしまえば、収支はマイナスにはならないわけだ。
 普通の競馬ファンは多少の儲けでは満足できず、さらに手を出し墓穴を掘る。だが、小作にとっては、五百円玉を万札に逆両替することが最初から目的なのだから、大儲けする必要はない。とんとんでも投入金額の半額儲かるという精神的な余裕は大きい。
 実は玄治には、この五百円玉の逆両替に手を染める前から、絶対に安全で、食いっぱぐれない特技があった。
 パチスロである。
 あれが登場して以来、玄治は金に困ったことがない。
 回転するドラムの絵柄を、玄治のずば抜けた動体視力は完璧に「見る」ことができるのだ。
 ほぼ百発百中で同じ絵柄を自由自在に並べられる。
 一度だけ、自分と同じ能力を持つ男に出逢ったことがある。その男は普通の会社員だった。
 彼の話では、全国にこうした特殊な動体視力を持つ人間が数人いるという。
 パチスロをしている限り、絶対に損をすることはないのだが、パチスロはパチンコよりも店の数が少ない。すぐに顔を覚えられてしまう。戸籍を持たない玄治にとって、人相がきのようなものが出回ることだけは避けたかった。
 また、パチスロで稼ぐことはあまりにも簡単すぎて、それだけを続ける気になれなかった。
 野生動物の誇りとでも言おうか。確実に儲かるパチスロだけで生きていくのは、庭先に餌を置かれて餌付けされた狸になるような気がした。
 それなら、失敗をしながらでも、せこく「高入れ」で稼いでも、まだ競馬のほうが面白い。ましてやスリは命がけの真剣勝負だ。
 一度だけ話をした会社員も言っていた。
「蛇口をひねると金が出てくるみたいな生活を続けていたら、人生の面白みがなくなるからね」
 五百円玉逆両替は、玄治にとって、保険でもあり、日々の生活にバラエティを持たせるための手段でもあった。

 玄治はこの五百円玉逆両替の小作を始めて二年になる。
 仲介してくれたのは、行きつけの飲み屋でたまに顔を合わせる、通称「春さん」という初老の男だ。
 小柄だがほどよく筋肉がつき、身のこなしも軽い。顔は歳の割にやや童顔で、見ようによっては女形でもできそうな愛らしさを秘めている。
 春さんと知り合ったのはさらに三年ほど前に遡るが、信用を得るまでにそれだけの年月が必要だったということなのだろう。そこから推し量るに、ほとんど顔も合わせない他の小作たちも、かなり厳選されたメンツに違いない。警察にやっかいになることがない、地道な裏稼業の人間たち。もしかしたら正業として他に立派な肩書きを持っている者もいるかもしれない。

 玄治は今でも、春さんが最初に偽造五百円玉逆両替の仕事を持ちかけてきたときのことをよく覚えている。
 阪神大震災の後、行きつけの飲み屋で久々に春さんと遭遇した。
 春さんは酔っていて、いつもより饒舌だった。
「なあ玄治、今度の地震でどれだけの金がのうなったと思う?」
 玄治は一瞬その言葉の意味が分からなかった。被害者の数は連日のように報道されていたが、「金が」という言葉はまだあまり聞かれなかった。
「経済的な損失という意味ですか? 復興にかかる金額?」
「あほ。そんなんやない。単純に燃えてしもうた札束ってことや。物やない、現金。箪笥貯金しとった金が燃えたはずやろ。結構な額になるんとちゃうか?」
「そうかもしれませんね」
「そやろ? したら、この日本という国に出回っとる現ナマが減ったいうことや。減った分は補充せなあかんわな。国は当然いつもより多めに新札を刷るやろ? そんとき、どんくらい増やして刷ったらええかちゅう計算式みたいなもんがあるはずやろ。これくらいの範囲で住宅と商店が燃えたら、これくらいの箪笥貯金が燃えたはずやという……」
「そんなもんですかね」
「あたりまえやろ。金作るほうかてプロやがな。行き当たりばったりで札びら印刷しとるわけやないで」
「かもしれませんね」
「ぼーっとしとったらあかんで。ここまで言うたら分かるやろ?」
「何がですか?」
「あほやな。そこまで言わせるんか? 逆に、増えた金もあるはずやろが」
「増えた金?」
「そうや。一人もんが貯め込んでた貯金とかや。一人もんが通帳と一緒に燃えてしもうたら、その金はもう誰も引き出せん。銀行の中で動かない金ゆうんは、要するに銀行のもんや」
 玄治は春さんの正体を知らない。普段は通天閣あたりを根城にふらふらしているらしいが、郊外に大きな家を持っているのだという噂も聞いたことがある。
 一体何をして暮らしているのか、不思議に思っていたが、引き替えに自分のことを説明することになるのは藪蛇なので、訊いたことはなかった。
「金って、考えてみたら不思議なものですよね。ただの記号みたいなものかもしれない」
 玄治がそう呟いたのを、春さんは聞き逃さなかった。
「どうや。仕事せんか? 興味があったら、明日、訪ねてこいや」
 そう言い残し、春さんは一足先に店を出ていった。

 翌日、春さんに言われた場所を訪ねた。
 指定された場所は通天閣そばにある芝居小屋だった。
 大衆演劇をかける汚い常設小屋だが、その日は空いていた。このへんでは顔の春さんは、小屋の主とも仲がよく、空いている日はこの小屋に自由に出入りし、ときには寝泊まりもしているようだった。
 照明器具を入れた汚い木箱の蓋の上に、春さんは五百円玉と五十円玉を一枚ずつ置いてこう言った。
「玄治よ、五百円は五十円の何倍や?」
 春さんはこういう謎かけのような話し方を好んだ。またいつもの調子できたかと、玄治は苦笑しながら答えた。
「十倍ですね。俺の計算が間違っていなければ」
 春さんはにやっと笑って言った。
「ちゃうわ。そんなにはならん。二倍や。わしはこの五百円玉と五十円玉の話をしとるんや。両方の手え出してみい」
 玄治は素直に両手を出した。その右の掌の上に、春さんは出してあった五百円玉を、左手に五十円玉をのせると、懐から五十円玉をさらにもう一枚取り出して、玄治の左手の上にのせた。
「どうや。大体同じ重さやろ」
「なんだ。重さが何倍かという話ですか。つまらないなぞなぞだ」
「つまらんか? あかんなあ、そないなことでは。おかしいと思わへんか?」
「何がです?」
「五十円玉も五百円玉も、同じ白銅貨や。それなのに、五百円玉は五十円玉の二倍の重さしかあらへん」
「貨幣ってのはそういうもんでしょう。昔のように金や銀そのものの価値がコインの価値と同じだという時代じゃあるまいし。貨幣の価値は約束事で支えられているわけですからね」
「玄治よ、見損なったで。おまえはそういう常識から自由な場所で生きとると思うとったがなあ」
 その言葉に玄治ははっとした。
 その通りだった。
 社会の約束事など信じることなく、野生動物のように自分だけを信じて生きてきたつもりだった。それが、いつしか固定観念にとらわれてしまっている。
「つまり……造幣局としては、五十円玉二枚分のコストで五百円玉を造っているということを言いたいわけですね?」
 玄治の言葉に、春さんの顔がたちまちほころんだ。
「そういうことや。五十円玉かて、造幣局は原価割れで造っとるわけやない。ということは、五百円玉の原材料費は、どう考えても百円以下やいうことになるわな。これは韓国の五百ウォンや」
 そう言うと、春さんはポケットからもう一枚のコインを出して、五百円玉、五十円玉の横に置いた。五百円玉そっくりなその硬貨が、よく自販機やゲーム機で不正使用されることを、もちろん玄治も知っていた。
「同じ材質で同じ大きさやけど、ウォンは円よりずっと安い」
「そうですね」
「世の中いうのはそういうインチキの上に成り立ってるんや。十万円記念銀貨いうのが造られたとき、材料になった銀の値段は三万円くらいのもんやった。残り七万円分は国の丸儲けや。五百円玉いうのはそれどころやない。しかも、札とちごうて、造るのは簡単や。金型とプレス機があれば誰でも造れる」
「それでも、大量に儲けるには利ざやが小さそうですね。初期設備投資を回収するには最低でも数千万円は儲けなければ馬鹿みたいだし、億の単位で儲けようとしたら、それこそ、とてつもない数を造らなくちゃならない」
「そういうことや。五百円玉で百万円分いうと、二千枚……重さにすると十五キロ近くある。一千万なら二万枚、一億なら二十万枚……一トン半や。そんな大量の五百円玉をいっぺんに両替したらすぐに足がつくわな。普通に買い物するいうても、五百円玉だけでできる買い物いうたらたかが知れとるわ。そこで小作人が必要になるんや」
「小作人?」
「どうや、玄治。小作にならへんか? おまえさんが堅気でないことはすぐに分かる。指先の器用さは並やないしな。パチプロの他にもいろいろしとるんやろうが、そこいらへんは訊かんことにする。ここから先の話は、裏の世界の者同士としてするんやで……」

 ……そうして玄治は小作になった。
 庄屋の正体を探らないこと、他の小作たちのことも詮索しないこと、銀行や郵便局での両替は一切しないこと、自販機での一括大量両替もしないこと。むろん結の存在は口外しないことが条件だった。
         ☆

 一日かけて、玄治は一万円札六枚を手にしていた。調子は悪くて、この六万円を手にするために、五百円玉で七万五千円分つぎ込んでいた。
 この六万円のうち、五万円を庄屋に戻せば、とりあえず十万円分のノルマは達成したことになる。残りの一万円と、つぎ込まずに手元に残った二万五千円分の五百円玉は自由に使える。
 しかし、世の中、生活の中の支払いすべてを五百円玉でできるわけではない。ホテルの宿泊費をすべて五百円玉で支払ったら、フロントマンにはかなり強烈な印象を残すことになる。昨夜のように売春婦を呼んだときにも、四十枚の五百円玉を渡すわけにはいかない。
 だから、必ず自分が使うための札も残しておかなければならない。
「佐藤事務所」の入っている雑居ビルの三階に、玄治が勝手に「社長室」と名付けている部屋がある。
 いつも鍵がかかっていて、誰が中にいるのかは分からない。ドアの郵便受けから、専用の封筒に入れた一万円札を投入する仕組みだ。
 封筒は支給された五百円玉のパッケージに同封されている。封筒には個別に割り印が押されていて、誰の分の「仕事」かが分かるようになっている。
 パッケージ一つは十万円だから、封筒には必ず五万円、つまり万札五枚を入れて返さなければならない。返却が遅れれば次の五百円玉は支給されない。
 うまくいかない日は深入りしないのが鉄則だ。玄治は五万円入りの封筒一つだけを社長室ポストに投函し、その足で行きつけの飲み屋へ向かった。

 飲み屋は佐藤事務所のある雑居ビルから歩いて十五秒。路地のはす向かいにある。
 場所柄に似合わず、造りは高級店だ。少し歩けば、千円で文字通り悪酔いするほど飲める立ち呑み酒場などはいくらでもあるが、そういう店で呑むくらいなら、誰もいないところで一人で呑むほうが好きだった。
 小学校にすら行かなかった玄治は、世間並みの知識や最低限度の教養を、すべて他人や本から学んできた。
 旅芸人集団には数人のインテリがいて、師匠の奇術師も大した物知りだった。そうした大人たちから生きた知恵を学んできた経験から、会話の相手を求めるときは、極力高級な場所を選ぶことにしていた。価値ある情報を引き出せない者たちと単に飲み明かすのは、時間の無駄でしかない。
 開店時間にはまだ早かったが、目当てのママはまだ出ておらず、「大ママ」と呼ばれる彼女の母親が愛想よく迎え入れてくれた。
「あら、玄さん、今日はもうお仕事終わりやの?」
「まあね。早すぎたかな」
「ええよ、ぜんぜん。まだちょっと準備してるさかい、そのへん適当に座っといて。じき、夏子(なつ)も来るよってな」
「じゃあ、そうさせてもらうよ」
 そう答えると、玄治はカウンターのいちばん右端に座った。空いているときは、ここが彼の定位置になっている。
 玄治は大阪弁は喋らない。喋ろうと思えば喋れるが、関東での暮らしが長かったから、普段は東京弁に近い。そういう人間が阿倍野あたりのバーの常連になるというのは、かなり目立つことだった。
 バーの名前は「閑古鳥」という。俳句歳時記をめくり、夏の季語から取ったそうだが、縁起を担ぐ商売の世界では随分と大胆な命名だ。
 夏子の猛反対を押し切って、この名前を付けたのは大ママだ。
 大ママが信奉している若い占い師が「俳句歳時記をめくり、夏の季語で最初に目に留まったものを店の名前に付けなさい」とのたまったのだそうだ。大ママが、託宣を聞いたその足で本屋へ駆けつけ、俳句歳時記を買って、ぱっと開いたページの最初に「閑古鳥」が載っていたという話は、この店の常連なら知らぬ者はない。
 大ママは、信心深いというよりも、一種の占いマニアだった。星占いから姓名判断、方位学、墓相学、風水と、その手の話題には滅法強い。たまに客が乗ってきたりすると、いつまでも話し続けている。
 玄治も時に話相手に選ばれるのだが、もともとその手のことにあまり興味のない玄治には、相槌を打つのが精一杯だった。
「いらっしゃい」
 カウンターの中で付きだしを準備していたアルバイトの子が、愛想よくきんぴらを盛りつけた小皿とおしぼりを玄治の前に置いた。何度か名前で呼ばれているのを聞いているはずなのだが、覚えていない。
 店には二十代の若い女性がいつも数人いる。ママの目が厳しいのか、みなそれぞれに個性的だが、決して下品ではない。むしろ阿倍野という場所柄には似つかわしくないほどに健全だ。
 この店からカラオケをなくし、そっくりそのまま銀座に移転させれば、立派に高級店としてやっていけるのではないかとさえ思うのだが、常連客のどれだけがそうした高級感、「普通さ」を求めてこの店に集まってくるのかは分からない。
 玄治はいつも開店時間早々にここに来て、混み始める十時前には退散する。空いている時間帯に、ママや店の女の子と話をすることが楽しみだった。
 女の子が玄治のボトルを出し、オンザロックを作り始めているとき、入り口のドアが勢いよく開き、ママが入ってきた。
「ごめーん。ちょっと用事が片づかへんかってん……」
 そう言いながら、もうコートを脱ぎかけている。
 カウンターの端に腰掛けているたった一人の客に視線を向けると、
「いらっしゃい。久しぶりやったね」
 と、いつも通りの明るい声をかけてきた。
 ママは(あかいし)夏子といって、三十路の独身。玄治よりは二つ三つ年上のはずだ。かつては役者やCMソングの歌手など、いろいろとやっていたらしいが、芸能界とは肌が合わなかったのか、引退して母親と一緒にこの店を始めたらしい。
「ちょっとスランプでね。夏子さんの顔を見ないと、やっぱり調子が出ないみたいだ」
 そう言いながら、あまりにも芸のない台詞だなと、玄治は恥じ入った。
「なんの調子やの? 謎のお仕事の? それとも夫婦喧嘩?」
「少なくとも後者じゃないな。俺は独り者だってば」
「どこまでほんとなんやろ。まあええけど」
 そう言うと、彼女はカウンターの反対側奥にあるドアの向こうに姿を消した。
「玄さんって、ほんま何してる人やの?」
 グラスをカウンターの上に置きながら、アルバイトの女の子が言った。氷と一緒に、グラスの縁までウイスキーが満たされている。何も言わなくとも玄治の飲み方を覚えているというのに、この子の名前を、玄治はまだ思い出せなかった。
「自由業」
「そんなあ。泥棒かて自由業やで」
「弁護士もね」
「いけずやなあ。いつまでも謎の人のままやと、夏子さんにも愛想つかされるよ」
「じゃあ、泥棒か弁護士」
「もうええわ」
 そう言って奥に引っ込む女の子と入れ違いに、ママが再びドアの向こうから現れた。
「なんやの? ジュンちゃん。玄さんに何か意地悪されたん?」
「いーえ。バトンタッチ」
 ジュンちゃん……そうだった。そういう名前だったと、玄治はようやく彼女の名前を思い出す。
 明るく、会話も機転がきき、この店でも一、二を競う人気者だが、玄治の興味はやはりママのほうにある。
 彼女を「ママ」と呼ぶ客はまだ馴染みとは言えない。女の子も常連客も、彼女のことは「夏子さん」と名前で呼ぶ。
 そう呼ばれることを、彼女も誇らしく思っているようだ。
「まさか玄さんまで罰金箱のお世話になるんと違うやろね。ジュンちゃんをいじめると高く付くよ」
 夏子は笑いながら、壁に掛けてある募金箱のようなものを指さした。
 客が女の子に触れたり、下卑たことを言ってからかったりすると、たちまち彼女がこの「罰金箱」なるものを持って飛んでくる。ペナルティを宣告された客は、この箱に「罰金」を納めなければ、それ以上店にいることは許されない。罰金は最低が一万円。
 罰金箱にたまった金は、年に二回ある従業員慰安旅行の資金にされる。だから、懐に余裕がある客は、店へのカンパのつもりで、わざと面白がって罰金行為をする。
「俺、実はなんか(たた)られたみたいでさ」
 玄治は、とりあえず冗談口調でそう言った。
「恨まれるようなことしたんと違う? 誰かが呪ってたりして。私やないよ。言うとくけど」
 夏子ママは、軽く返してきた。
 そのままジョークとして終わらせてしまおうかとも思ったが、玄治はついまともにこう続けてしまった。
「夏子さん、呪いって信じる?」
「え? なに? それ、真面目な話として言うてんの?」
 笑顔のままだったが、夏子の目の奥に、一瞬かすかに不安の色が走った。その一瞬の翳りが、玄治の心をくすぐった。
「いや、真面目は真面目だけれどね。俺、もともとはそういう類の話ってあまり興味がないから、自分ではどうにも腑に落ちなくてさ」
「なんや、ややこしそうやけど、そういう話なら、うちよりおかあちゃんの専門やわ」
「いや、大ママさんは話がマニアックになりすぎてちょっと怖いから」
 玄治は声を潜めて言った。
「あら、いつもはおとなしくおかあちゃんの講釈聞いてはるのに、あれは無理してはったの? まあ、ええわ。私もオカルト大ママの娘や。承りましょう」
 夏子はおどけた口調に戻ってそう言うと、カウンターから出てきて玄治の隣に座った。
 玄治はまずグラスの中の液体を半分ほど胃に流し込んだ。
 まだあまり氷が溶けていないので、ストレートに近い。しかし、このくらいのほうが酒らしくて好きだった。
「俺、変な呪いにかけられたらしいんだ。もっかどごんずいの呪い。なんのことだか分かる?」
「どうしたん?」
 笑顔は崩れていないが、目の奥には、さっきよりもさらにはっきりと真剣な光が読みとれた。
 玄治は見つめ返すことができずに目を逸らした。その拍子に、カウンターの奥で、こちらに聞き耳を立てている大ママと視線が合った。
 大ママは怪訝そうな顔をしていたが、すぐにいつもの愛想笑いに戻り、突き出しに使うキュウリを刻み始めた。
「あがもの、じゅごん……それと……うつせたゆう……。なんのことだか分かるかな」
 玄治は夏子のほうに視線を戻して訊いた。
「玄さんがそういう方面に興味を持つとは意外やわ。現実主義者やと思うてたのに」
「そうだよ。基本的には自分の目で見たものしか信じない。本はよく読むけれど、小説とかには興味がない。でも、自分で知らないものを夢に見るってのは、うまく説明ができなくてね。あがもの、じゅごん、うつせたゆう……記憶にある限り、今までそんな言葉に出くわしたことはないはずなんだ。夢の中で俺が勝手に創作した言葉なのかなとも思ったんだけど、もしかしてそういう言葉が実際にあったら……」
「全然聞いたこともあらへんの?」
「今まではね」
 夏子は困ったようにため息を一つついた。
「知っているの?」
 玄治は問いつめた。
「ちょっとはね……せやけど、そういう話は、やっぱり、おかあちゃんのほうが詳しいわ。おかあちゃん」
 夏子は母親を呼んだ。
 大ママはキュウリを刻んでいた手を休めて、そそくさと近寄ってきた。
「なんや、怖い話してるやないの」
「嫌やわ。聞いてたん? 年寄りのくせに、地獄耳なんやから」
「他にお客さんもおらへんし、聞きとうのうても聞こえるわ」
「じゃあ、繰り返さなくてもいいですね。あがもの、じゅごん、うつせたゆう……分かりますか?」
 玄治は気持ちを切り替え、大ママにまともに向き合った。こんなに真面目な気持ちで大ママと話すことはまずないことだった。
 大ママはしかし、すぐには答えず、逆にこう問い返した。
「玄さん、その言葉、どこで聞いたん?」
「夢の中で。変な紙の(にんぎょう)みたいなのが出てきて言ったんですよ。(やっこ)さんみたいな……頭が尖っていて、笑っているような小さな目が三角形に切り抜かれていて……」
「どう言うたん? その(ひとかた)が」
 玄治は「にんぎょう」と言ったのに、大ママは「ひとかた」と言った。その言い換えが、玄治を緊張させた。
「俺は『あがもの』なんだそうです。『あがもの』に選ばれたんだと。そう……五番目のあがものって言ってたかな。で、契りを結んだ『うつせたゆう』がどうのこうの、『じゅごん』がどうのこうのと」
「どうのこうのでは分からんやないの。どういう(じゅごん)やいうの?」
 大ママの口調は真剣だった。
 あまりに口調が鋭すぎたと気づき、大ママは慌ててまた作り笑いをしたが、もはや目は笑ってはいなかった。
「じゅごんって今言いましたね。そういう言葉があるんですね? じゅごんって何です? まず、それを教えてくださいよ。じゃないと、俺だって説明しにくい」
 玄治は駆け引きに出た。
「海に棲んでる太ったイルカみたいな……」
 聞き耳を立てていたジュンちゃんが茶々を入れようとしたが、三人の異様に真剣な眼差しに遭い、言葉を呑み込んだ。
 大ママは少し考えてから、こう言った。
「呪禁……うちが思い浮かぶのは、呪うという字に禁止するの禁って書く呪禁やねえ……」
「どういう意味です?」
 玄治は頭の中にその二文字を思い浮かべながら訊いた。
「平とう言うたら、呪いゆうことや。呪禁の『(ごん)』は、刃物を持って呪文を唱えるということや。いつも悪い意味での呪いとは限らへんけどね。玄さん、何かしたん? 何と関わってるん?」
「別に何も……」
 玄治としても説明のしようがない。発端は売春婦を呼んだことだが、そんなことは、大ママはともかく、夏子ママの前では絶対に言えない。
「『あがもの』や、『うつせたゆう』は?」
 玄治は少しばかりの期待を込めて訊いた。もし「呪禁」だけならば、偶然そういう言葉と合致していただけということもありうるだろう。だが、もし「あがもの」や「うつせたゆう」という言葉までもが「呪禁」と同じような世界で使われる言葉だとしたら……。
「あがものは……撫で物や(ひとかた)のことやろね。(あがな)う物と書いて『あがもの』というんや。玄さん、京都の貴船(きふ)に行ったことあらへん?」
「いえ、ないですね」
 玄治は神社仏閣の類に特に興味はない。若い頃は境内で寝泊まりするようなこともあったが、最近は金回りも悪くないので、野宿はとんとしたことがない。
「貴船神社に行くと、人の形をした紙に願い事を書いて、それで自分の身体を撫でて、その後で川に流すいう祈祷があるんや。そういうのを撫で物いうてな。人の形した紙に邪気や汚れを移して、それを水に流すことで、厄払いや願掛けをするんや。藁人形に釘を打ち込むいうのも似たようなもんやね。そんなんに使われる撫で物や人形を、(あがもの)とも言うんや」
「それはうちも知ってる。紙の人形を(しきがみ)にして人を呪ういうのもあるよね?」
 横から夏子が口を挟んだ。
「そうや。いざなぎ流の中には、そういう術もあるわ。いざなぎ流では人の形した紙を雛御幣(ひなごへい)いうてな。普通は魔除けとして使うんやけど、中には式神いうて、雛御幣みたいな、もともとは命のないもんに、きつい念を込めて自由自在に操る術もあるんや」
 大ママが真顔で答えた。
「その話はうちも聞かされたの覚えてるよ。せやけど、『うつせたゆう』いうのは聞いたことないわ。おかあちゃん、知ってるの?」
「うつせたゆういうのは知らんけど、『太夫』ならあんたも知ってるやろ?」
「あの太夫?」
「そうや。あの太夫。ひょっとして、現太(うつせたゆう)』ということはあらへんかな」
「たゆうってなんです?」
 母娘だけが分かっているような会話に、玄治は少し苛立ちながら割って入った。
「字は遊郭の太夫と同じやけどね、うちらが今言うた太夫は、祭文を司る呪術師のことや。うちの故郷(いな)にはたくさんおったわ。それに(うつせみ)の『うつせ』……現実の現という字がつくと『現太(うつせたゆう)』いうんや。今でもおるんやろけど、もうずっと長いこと行ってへんから、分からん」
「故郷って……大ママさん、大阪出身だとばかり思っていましたけれど」
「うちは十八のときから西宮、三十過ぎてこの子産んでからは大阪やけど、十八までは高知で育ったんや。山奥で、槇山村いうとこ。だいぶ前に隣の村と一緒になって、今は物部村(ものべそん)いうんやけど。その村に伝わるいざなぎ流いう占いいうかまじないいうか……そういうのを司る人間を太夫て言うてな。一つの家に一つの神様いうのかな。雨師()とか河伯(かは)とか……。
 その神様を伝える(さいもん)いうのがあってな。密教の(しんごん)みたいなもんやけど、こっちは自家製いうか、秘伝やわ。その家のもんは代々口伝えでそれを伝えていくんや。他の家のもんには絶対に教えたらあかん。
 うちはおとうちゃんが京都のほうから引っ越ししてきて、村代々のもんやなかったから、詳しいことは知らんけどね。その村の子とも遊んだりしてたから、少しは知ってる。夏子は知らんやろ」
「知らんけど、おかあちゃんがいろいろ教えてくれたのは覚えてるわ」
「そんなこと、あんたに言うたかなあ」
「ぎょうさん教えてくれたやないの。祭文やら(ぜにうら)やら(こめうら)やら式神やら……おかあちゃん、おとぎ話代わりにそんなおどろおどろしいもん子供に言い聞かせてたんやで。忘れたん?」
 夏子ママはからかうような口調で言った。が、その声は相変わらず明るくはない。
「玄さん、なんでそんなこと言うてるの? なんかあったの? 玄さんが、信心深い、迷信や縁起かつぐようなタイプやったらそんなに心配せえへんよ。うちの店来るお客さんでも、そういう話がむちゃくちゃ好きな人は結構おるしね。でも、玄さんはそういうタイプやないやろ? そやから心配なんや。誰か変な人とつきおうてるの?」
 夏子は玄治の目を真っ直ぐ見据えて言った。
 こういうときの彼女の口調は、まるで教師が生徒を諭すようだ。ごまかして答えるのに多少の罪悪感さえ覚える。
「夢の中に紙人形が出てきてそんなことを言ったんだ。なぜそんな夢を見たのかは、全然分からない」
 結局、玄治は半分嘘をついた。

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木の呪禁(4/6)

 そのとき、入り口のドアが開いて、背広姿の数人連れのグループが入ってきた。まだ早い時間からグループ客が訪れるのは珍しい。
「いらっしゃい」
 カウンターの中にいたジュンちゃんがすぐに応じたが、先頭切って入ってきた頭の薄い四十代くらいの客は、ジュンちゃんには目もくれずに夏子ママのほうに近づいてきた。
「おお、よかった。夏子さん、今日は早いやろ。まずは五人、先発隊や。後からもう五、六人来るさかい、席、確保させてえな」
 夏子は仕方なく立ち上がり、愛想よく客を迎え、反対側のボックス席に誘導した。
 大ママも、カウンターの中に戻り、人数分のおしぼりを用意し始めた。
 取り残された玄治は、グラスに残っていたウイスキーを飲んだ。さっきよりはかなり水っぽくなっていた。
 朝からまだ飯を食っていないのに、グラス一杯のウイスキーでもまったく酔えない。
 先発隊と名乗る五人組は、常連の税務署員らしい。なぜかこの店には税務署員の客が多い。仕事が細かいせいか、店の中では鬱憤を晴らすように大声で話し、下手な歌を歌う。
 その五人の相手が一段落した頃、ミキちゃんという別のアルバイトの女の子と、作業着を着た初老の男が同時に入ってきた。
 まるで同伴出勤のようだが、単なる偶然だろう。
 作業着の男は春さんだった。
 案内されるまでもなくカウンターに座るが、玄治とは椅子一つ空けている。
 春さんとはこの店でときどき一緒になるが、積極的に言葉を交わすことはない。特に、玄治が五百円玉結の「小作」仲間になってからは、お互い、知り合いのように振る舞うことを避けていた。
 もちろん玄治にとっては春さんは五百円玉結の仕事を世話してくれた恩人であり、信頼もしている。話をしていて楽しい相手だが、この店では別だった。お互い、この店ではしばし裏稼業を忘れて呑むことを楽しみにしているからだ。
 春さんはいつも早い時間に一人で来て、カウンターに座り、にこにこと穏やかな表情でウイスキーのシングルをきっちり二杯だけ呑んで帰る。
 女の子と長々と話すわけでもなく、カラオケを歌うわけでもなく、小一時間ほどでさっと帰っていく。
 今日は手に紙袋を持っていた。
「これ、頼むわ」
「あ、はい。持ち込みやね?」
 ミキちゃんが皺になった無地の紙袋を受け取る。中からシーバスリーガルのボトルが出てきた。
「あら、春さん、えらい高級品やないの」
 横にいた大ママが言う。
 この店は客がボトルを持ち込むことができる。持ち込み料は三千円。それでも店でボトルを入れるよりは安くつくので、常連客の多くはボトルを持ち込んでいる。いかにも大阪らしいシステムだ。
 しかし、玄治は一度もやったことはない。この店で千円単位の金を計算する気にはどうしてもなれないのだ。
 春さんは、玄治のほうを一瞥したがすぐに視線を外し、出されたおしぼりで顔を拭いた。
 スーツ姿の客がほとんどだから、作業着を着た彼は店内では少し異質な感じに映る。もっと安い店はいくらでもあるのに、この店に通い続けるのは、やはり何か特別な満足感を得られるからなのだろう。その気持ちは、同じ境遇の玄治にはよく分かる。
 奥のボックス席では、早くもカラオケ大会が始まってしまった。
 演歌ならまだ分かるが、いい歳をしてアイドルものをがなりたてる。(もとうた)が女の子のものらしく、中年サラリーマンにはキーがまったく合わない。そんなことにはお構いなしに、「……だわ」「……なの」と、女言葉の歌詞をがなりたてる。
 もちろん玄治は、その歌の題名も、歌っている歌手の名前も知らない。それは恐らく、玄治とはわざと一つ席をおいて座っている春さんにとっても同じことだろう。
 春さんは、何も聞こえないかのように、にこにこと手の中のデミグラスを眺めている。
「最近、どうやのん?」
 ミキちゃんが気を利かせて春さんに声をかけた。
「ぼちぼちやな」
 多分そう答えたのだろうが、春さんの声は税務署員の下手な歌声にかき消されて聞き取れなかった。
 一曲終わると、ドアが開いて、また五人のグループが入ってきた。先発隊の仲間だった。ジュンちゃんがすぐにカウンターから出て、迎えた。
 早い時間から店が税務署員たちのカラオケ大会という様相を帯びてきたので、玄治は早々に退散することにした。
 ミキちゃんに目配せし、支払いをする。千円札一枚と五百円玉五枚。いつもより五百円玉の数が多いのは、今日の副業の成果が思わしくなかったからだ。すぐそばの春さんの視線が気になった。
 照れ隠しに、玄治は指先で五百円玉の一つをくるくると独楽のように回してみせた。
「へえー、玄さん、器用やわあ」
 感心しているミキちゃんに金を渡して、玄治は黙って店を出た。
 人前で披露することを戒めていた指先の器用さを、なぜ気を許して見せてしまったのか。心の中の何かが確実に狂い始めているのを、玄治は感じていた。
「玄さん」
 店を出て、外に出る階段を下りているとき、後ろから呼び止められた。
 大ママが後を追ってきていた。
「玄さん、ちょっと待って。これ……」
 大ママは店の名刺の裏に何かを走り書きしたメモを手渡した。
〔西宮市甲山町甲山神社 中林龍治〕という文字と電話番号が記されていた。
「この人に相談するとええわ。若いけど、大したお人やで。うちは困ったときにはいつもこの人を頼りにしとるんや。この店を出すときも、ようけ相談にのってもろた。おかげさまでこれだけ繁盛しとる」
「閑古鳥という名前もこの人が?」
「そうや。あの頃はキタのほうで占いやってはったけど、今は宮司さんになってる。やっぱり大したお人やったんやねえ。若いのに見込まれて宮司さんや」
 占い師が宮司として雇われるというのも分からない話だが、あまり突っ込んで訊く気はしなかった。
「ありがとうございます。でもまあ、ご心配なく」
 玄治は素直にメモを受け取ると、ポケットに入れ、大ママに頭を下げた。
 道に出るところで振り返ると、大ママは階段の途中に立ったまま見送っていた。
 老人に心配そうな顔で見送られるというのはあまり気持ちのいいものではない。
 玄治は、夢の話を夏子や大ママにしてしまったことを深く後悔した。

△△◎▽▽
 京都伏見稲荷の裏手にある稲荷山には、大小とりまぜて様々な祠がある。夏の間はその祠にホームレスが住み着き、時折参道付近にも姿を見せることがあるが、十一月も終わろうというこの時期になると、どこへ引っ込むのか、見かけることはめっきり少なくなる。
 日は短くなり、五時ともなると、稲荷山は闇に包まれ始める。山に戻ってきた鴉の大群が空を覆い、何かの拍子に大合唱し始める。
 稲荷大社周辺にある数え切れないほどの社には、灯籠や提灯の明かりがともり、無数の狐が、闇の中にシルエットで浮かび上がる。
 足下もおぼつかないその参道を、一人の老人が黙々と登っていた。
 山はすでにほとんど闇に包まれている。懐中電灯も持たずに、老人は、眠りにつこうとしている稲荷山に登っていく。着ている作業着はあちこち破れていて、ほとんど雑巾を縫い合わせたようだ。さらによく見ると、左右違う靴を履いている。
 参道を利用してクロスカントリーの練習をしていた高校陸上部の生徒たちが、深まる夕闇と時間を競うように参道を駆け下りてきた。
 登っていく老人とすれ違いざま、全員が何事かと振り返る。
「おっちゃん。もう真っ暗やで。まじに遭難するで」
 最後尾を走っていたリーダーらしき少年が声をかけた。
 だが、老人は振り向きもせず歩を進める。
「ほっときいな。どっかの穴に住みついとるおこじきさんやろ」
 別の少年が声を潜めて言った。
 少年たちはすぐにまた一列になって参道を下っていった。

 その頃、玄治は新大阪駅前を歩いていた。
 この時刻になると、あちこちに売春チラシが貼られ始める。電話ボックス、歩道橋の脇、自販機の横……ありそうなところを片っ端から見て回っていた。
 カラー印刷されたものには目もくれない。探しているのは名刺のように白いカードだ。
 白無地のカードに手書きの文字。キャッチコピーは確か〈忘れられぬ夜をあなたに〉だ。
 あの女に、どうしてももう一度会わなければならない。会って、あの奇妙な行動はどういうことだったのか確かめなければならない。
 目的のチラシはなかなか見つからなかった。
 一体、この新大阪駅周辺だけでも、どれだけの売春業者が存在しているのだろうか。こんなことなら、電話番号をしっかり覚えておくのだったと後悔しても遅い。
 すっかり暗くなっても、目的のチラシは見つからなかった。同じ場所を何度も覗く。通行人が時折不審そうな視線を投げかけていく。これではチラシ貼りのちんぴらだと思われかねない。
 ほとんど諦めかけた頃、路地裏の自販機コーナーの前に、白い紙片が落ちているのが目に入った。
 何人かに踏みつけられ、汚く汚れている。もしかしたら普通の名刺か、飲み屋の割引券の類かもしれない。人通りを気にしながら、紙片の横に立った。
 裏返っていて、白無地の面が上になっている。あまりに汚れていて、拾い上げるにはかなりの勇気が必要だった。普段は絶対に危険を冒さない、無理をしないのがモットーなのに、ここまでなりふり構わぬ行動をしている自分が不思議だった。
 人通りが途絶えたところを見計らい、玄治はその紙片を拾った。
 そのまま自販機コーナーの中に入り、照明の下で確認した。
〈忘れられぬ夜をあなたに〉
その泥に汚れた紙片からようやくそのコピーを読みとったとき、玄治は、まるで一度なくした宝くじの当たり券を取り戻したような気がした。
 よく考えてみれば、宝くじなどではなく、おどろおどろしい呪禁が込められた(あがもの)なのかもしれないのだが。
 電話番号を頭にたたき込み、今度は電話ボックスを探した。
 電話をすると、あのときと同じ男の声が出た。
〈はい、お電話ありがとうございます〉
「冬身さんは、今夜はいるかな?」
 玄治はいきなりそう告げた。
〈フユミ……ですか……?〉
 電話の向こうで、男が困ったような声で言った。
 そうだった。彼女は自分の名前が「冬身」だとは言ったが、そういう源氏名で店に登録しているとは言っていなかった。そんな女はいないと答えられたら、それまでだ。
 しかし玄治は諦めなかった。店は間違いないのだ。
「ああ、名前は違っているかもしれない。ラオスの子だよ。細身で、髪は真っ直ぐ肩の下まで伸びていて、日本語がうまい。目は黒目がちで、こないだは黒い服を着ていた。黒いコートに黒いツーピース……」
 矢継ぎ早に彼女の特長を口にした。
〈ああ、はいはい、分かりました。お客さん、今どちらです?〉
「センチュリーオーサカの……3012だ」
 玄治は夕方チェックインしたホテルと部屋の番号を告げた。
〈分かりました。すぐに向かわせます。おおきに〉
 電話を切ると、玄治はホテルへ走って戻った。
 その場所からホテルまでは少し距離があった。彼女が先に来たら困ったことになる。少し時間をおいてからよこしてくれと言うのだったと後悔しながら、懸命に舗道を走った。
 久しぶりに息を切らすほど走り、部屋に戻って数分後、ドアがノックされた。
 覗き窓から確認することもなくドアを開けると、あの女とは似ても似つかぬ小太りの女が笑いながら立っていた。
「こんばんは。フユミです。よろしくね。さっそくですけど、電話貸してくださいね」
 そのままずかずかと部屋に入ろうとするのを押しとどめて、玄治は言った。
「君じゃない。俺が頼んだのは君じゃない」
「でも、私がフユミよ」
 ドアを開けたまま言い争うわけにもいかないので、仕方なく女を部屋には入れたが、玄治は頑として拒絶の意志を示した。
「電話に出たやつは分かっていたはずだ。俺が探しているのはラオス人の冬身だ。細身で髪が長くて……」
「あら、ごめんなさい。私みたいなのは好みと違うん? 残念やわー。どうしてもあかん? サービスするよって……なんならイチハチでもええよ」
「すまない。あの子じゃないと駄目なんだ」
「そやったら、細身の子とチェンジやね?」
 そう言いながら電話をしようとする女を押しとどめた。
「そういうことじゃない。あの子じゃないと駄目なんだ。あの子以外なら、どんな美人でも関係ない。あの子が来ると言うから頼んだんだ」
 女は露骨に嫌な顔をして玄治を見たが、すぐにこう言った。
「お客さん、多分、他の店の子を回されたんやわ。うちの事務所は日本人しかおらへんもん。その子、ラオスって言うてたん? このへんはタイ人が多いんやけどね。正味の話、あっちの子は危ないわ。このへんやったら、うちみたいな日本人だけいう店のほうが少ないのに、お客さん、命知らずやわあ」
「あんたの店には日本人しかいない? 本当か?」
「ほんまや」
「あの子は一見日本人みたいに見えるんだが。日本語もうまいし……」
「ああ……それなら……」
「心当たりがあるの?」
「うちの店で、どうしても女の子足れへんとき、回してくれはるよう頼む店がいくつかあるんやけど、一人日本語が滅茶苦茶うまい子がおるいう話、聞いたことあるわ。確か……エレナちゃんいうたかな」
「エレナ? 店は?」
 女は口を尖らせて玄治を見つめた。
「分かったよ」
 玄治は財布から一万円札を抜いて女に渡した。
「おおきに」
 女は札を受け取ると、再び笑顔に戻り、枕元の電話機に手を伸ばした。
「あ、{傍点}アユミ{/傍点}です。お客さん、どうしてもその外人さんがええいわはるんです。ミルキーのエレナやと思うんやけど……」
 しばらくして受話器を置くと、女はにっこり微笑んで言った。
「今、取り次いでるとこやわ。そんならうちはこれでね」
 女は逃げるようにドアを出ていった。
 結局、一万円をかすめ取られただけだったか。
 玄治はため息をつきながら、ベッドの上に仰向けに寝ころんだ。
 ミルキーのエレナ? それが本当なら、もう一度外に出てピンクチラシを探し回り、「ミルキー」という店名のものがあれば、そこに電話をしてエレナという女を指名してみるという方法はある。
 だが、今の女の情報がどこまで本当かは分からない。事実、あの女は店への電話では「アユミ」と言っていた。別の「フユミ」ですらなかったのだ。
 ほとんど諦めかけていたとき、電話が鳴った。
〈あ、佐藤さんでっか? すんまへんな。ほな、お客さんが言うとる女の子やと思うんやけど、すぐ向かわせますよって……〉
 また別の女が来るのがオチだろうとは思ったが、断ることはしなかった。一縷の望みに賭けてみたのだ。
 だが、三十分経っても誰もやってこなかった。
 ドアがかすかにノックされたのは、電話があって小一時間も経った頃だった。
 今度は覗き穴から外を窺った。
 黒づくめの細身の女が立っていた。
 彼女だ。
 すぐにドアを開けた。
 玄治を見ると、女はまるで殺人犯に出くわしたようなこわばった顔で、その場に立ちつくした。
 声もなく、部屋に入ろうともしない。
「やあ、待っていたよ」
 玄治は彼女の手を取り、半ば強引に部屋の中へ入れた。
 中に入っても、女は身体を固くしたまま、ドアのそばから離れようとしなかった。
「なんだよ、俺が怖いのか? 別に暴力をふるった覚えはないぜ」
「は……い……」
 ようやく聞き取れないほどの小さな声で返事をする。
「まあ、座れよ。今日は別に仕事をしなくてもいい。君と話をしたいんだ。もちろん金は払う」
 玄治は彼女をベッドの縁に腰掛けさせ、財布から一万円札を二枚出そうとしたが、さっきの女に一枚出したので、残りは千円札と五百円玉しかなかった。
 いつもはきっちり万札を二枚、ホテルの名入り封筒に入れて用意しておくのに、やはりどうかしている。
 苦笑しながら千円札を数える。六枚しかない。
 五百円玉だけは嫌と言うほど持っているが、残り四千円を五百円玉で払うとなると、八枚も必要だ。
 仕方なく、玄治は一万円札一枚、千円札六枚、五百円玉八枚を枕元のカウンターに並べた。
「細かくてごめん」
「いえ……いいです。ありがと」
 女はそう言うと、恥ずかしそうに紙幣七枚と硬貨八枚を自分の財布に入れた。
「シャワー……」
「いや、いいんだ。話がしたいんだ」
 玄治は立ち上がろうとする女の肩を押し戻し、再びベッドに座らせた。
「エレナっていうんだってね。この前会ったときは冬身って言っていたから、その名前で指名したら、太ったおばさんが来た」
「冬身は私の本当の名前。お父さんがつけてくれた。お店ではエレナ。でも、名前で指名する人、ほとんどいないです」
「そう? 意外だな。君くらい魅力的だと、固定客も多いんじゃないの?」
「コテイキャク?」
「君のファンってこと」
「ファン? ……そんな人、いないです」
 冬身はそう言ってうつむいた。
 玄治は冬身の前に跪くような格好になり、黒いコートの前を開いた。
 この前と同じ黒のツーピースが現れる。
 冬身は促されていると思ったのか、コートを脱ぎ、軽く折り畳んでベッドの足下のほうに置いた。
 玄治はツーピースの上着の前にも手を掛け、ボタンを一つだけ外した。
 冬身はされるがままになっている。
 だが、玄治はそれ以上服を脱がせることはしなかった。冬身の首からかかっているペンダントの鎖に指をかけ、襟の外に引き出した。
 この前はよく見なかったが、今ははっきりと細部まで観察できる。
 ペンダントは直径四センチ、厚さは三ミリほどの円形だった。
 玄治はそれを手に取り、感触を確かめた。
 明らかに金属製だが、銅や鉄ではなさそうだ。消し炭色の光沢は、チタンなどの軽合金を思わせた。実際、大きさの割には、思っていたほど重くはない。
 表には、黒と白の巴が互いに抱き合う文様が描かれている。その部分は象嵌で、黒は黒檀、白は何かの貝のようだ。金属に木と貝を埋め込むというのはかなり珍しい細工といえる。
 裏を返すと、消し炭色の金属面に、さらに濃い黒で五芒星が描かれていた。
 冬身はやんわりと玄治の手を退け、ペンダントを襟刳りから胸の中に戻した。
「変わったペンダントだね」
 玄治はブラウスの上から隠れたペンダントを指で押さえながら言った。
「駄目! これは駄目です」
 冬身は怯えて後ずさった。
「この前、それで便箋を切り抜いただろう? 人の形に」
「え?」
 冬身は何のことだか分からないという顔で玄治を見つめた。
「覚えてないの? 何かに憑かれたみたいに、便箋を切り抜いて俺に渡した。あれから、気になる夢を見てね」
「夢?」
 冬身はペンダントに触れていた玄治の手を押しのけ、自分の手でブラウスの上から押さえた。大切なお守りを渡すまいとするかのようだった。
「それ、なんなんだ? お父さんの形見って言っていたよね。お父さんは日本人だって? そのへんの話から聞かせてくれないかな」
 玄治は冬身に圧迫感を与えまいと、再び離れて椅子に座った。
 冬身は黙ってうつむいていた。
「それとも、この前していたのは作り話?」
「違います! 嘘じゃないです」
 冬身は強く否定した。
「私のお父さん、日本人。このペンダント、お父さんが私にくれました。お母さん、私が日本に行くこと決まったとき、このペンダントくれました。もしかしたらお父さん、日本に戻っているかもしれないから、会えたらこのペンダント見せなさいと言って、くれました。これ、本当はペンダントじゃないです。コンゴウといいます」
「コンゴウ? どういう字?」
「知らないです」
 また夏子の母親に訊くことが増えたと玄治は思った。
「君のお父さん、名前とか、職業とか、出身地とかは分かっているの?」
冬身は胸のペンダントに手を当てたまま、少し呼吸を整えるようにしてから答えた。
「名前は水元文(みずもとふみたけ)。文武両道っていう意味だって。でも、お母さんはその字、書けなかったね。私、日本語勉強して、書けるようになった。こういう字」
 冬身はこの前と同じように、電話機の脇に備え付けられたメモ用紙に、「水元文武」と書いてみせた。
「なんでラオスへ行ったんだろう。仕事で?」
「分からないです」
「お父さんの仕事は?」
「仕事は……分からないです。でも住んでいたところは分かります。ラオスに来る前には、大阪のそばのイワフネというところに住んでいました」
「大阪近辺にイワフネという地名はあったかな」
「私、日本に来てから探しました。地図を買って。大阪の東のイワフネ。河内磐船(かわちいわふね)という駅がありました。交野(かた)市というところ。一度行ったことあります。電話帳で水元という名前、探しました。でも、載ってなかったです」
 交野市か……。
 玄治は頭の中で地図を思い描いた。
 交野市は、大阪、京都、奈良に囲まれた位置にあるが、特に観光の目玉があるわけでもなく、関西人でさえ普段はほとんど意識しない地域だ。玄治自身、足を踏み入れたこともない。
「お客さん、私のこと、何も知らない?」
 冬身が逆に問いかけてきた。
「知るわけがないだろう。知らないから訊いているんだ」
「本当?」
「本当さ。なぜ知っていると思うの?」
 冬身は困ったように口をつぐんだ。
「俺のほうこそ知りたい。この前切り刻んだ、人の形をした紙切れはどういう意味があるの?」
「かみ……きれ?」
「その胸から大切そうにぶら下げているナイフで、備え付けの便箋を切り抜いただろう?」
 冬身はさっきと同じように、なんのことか分からないという顔で、ただ玄治を見つめるばかりだった。
「覚えていないのか?」
「ごめんなさい。覚えてないです。記憶、ないです。ホテルから事務所に戻るまで、何も覚えてないです」
 嘘をついているようには見えなかった。
 玄治はカウンターテーブルの引き出しを開け、中からレターセットを取り出すと、便箋にボールペンで絵を描き始めた。
 尖った三角頭の人形。目は小さな三角、口はそれより少し大きめの逆三角形に切り抜かれていたことを思い出す。足の部分は袴のように斜めに何本かの線が切り刻まれていた。
 もともと絵心などないが、なんとかそれらしい図にはなった。
「こんな形に便箋を切り抜いたんだ。君がその胸にぶら下げているナイフで」
「知りません。これ、ナイフじゃないです。コンゴウといいます」
「ああ、さっき聞いたよ。コンゴウね。貸してごらん」
 玄治は苛立ちを抑えきれず、冬身の胸元を鷲掴みにして横に開くと、怯える冬身に構わず、ペンダントを握って引っ張った。
 鎖が冬身の首に食い込み、冬身はたまらず前のめりになる。
 巴の図柄を引きちぎるように横に引くが、何も起こらない。
 そんなはずはないのだが。
 玄治は冬身の頭を押さえるようにして、強引に首からペンダントを外した。
 冬身の長い髪に鎖がからみつき、冬身は軽い悲鳴を上げた。
「ごめん。乱暴にするつもりはなかったんだ。これをちゃんと見せてくれ」
 玄治は手にしたペンダントを詳細に点検した。
 二つに割れるとしたら、巴の境界線からだろう。細工が素晴らしく、隙間はまったく認められないが、ここから二つに割れるはずだ。
 しばらくいじっているうちにようやく仕掛けが分かった。
 両側に飛び出しているベルト穴のような突起が留め金になっていて、横にではなく、突起を縦方向に少し押しながらずらすと、抱き合っていた巴の図柄はきれいに二つに割れた。
 黒檀を填め込んだ黒い巴のほうが(つか)に、貝を填め込んだ白い巴のほうが(さや)になっていた。現れた刃は丸く、ナイフというよりは、まさしく紙を切り抜くのに都合のいいカッターのようなものだった。
 二つに割れたペンダントを、冬身は驚いたように見つめていた。
「壊した?」
 なにをとぼけたことを……と言おうとして、冬身の狼狽ぶりが演技ではないことに気づいた。
「このコンゴウとやらが、ナイフになっていることも知らなかったって言うのか? 君はこのナイフで……」
 玄治はさっきの便箋の絵に沿って刃を当て、切り抜いた。カッターナイフなどとは大違いの、驚くほどの切れ味だった。
 いびつで不格好だったが、冬身があのとき切り抜いたものに近い人形ができあがった。
 玄治はそれを冬身の目の前に突きつけた。
 冬身は後ずさった。明らかに怯えている。
「本当に覚えてないの? 君はこんな形に紙を切り抜いて、俺に突き出したんだ」
「それ……何ですか?」
 冬身は突き出された紙の人形を見ながら言った。
「こっちが訊きたいよ」
「それ、夢の中に出てきました」
「なんだって?」
 どういうことかと問いただそうとすると、冬身は素早くカウンターテーブルの上に置かれていたペンダントを鷲掴み、そのまま入り口ドアのほうへ逃げ出した。
「待てよ。何もしないよ。おい!」
 止める間もなく、冬身はドアを開けて廊下へ飛び出していった。
「待てったら」
 後を追おうとしたが、自分がスリッパ履きなのに気づいた。ドアがオートロック式なのも思い出した。このまま飛び出すと、閉め出されてしまう。
 鍵を探すために部屋の中を振り向くと、鍵よりも先に、ベッドの上に残された冬身の黒いコートと枕元のハンドバッグが目に入った。
 これを取りに戻ってくるはずだ。慌てることはない。
 しかしその判断は間違っていた。
 ドアを開け、廊下を覗いたときには、冬身の姿はなかった。
 従業員が不審そうな顔で近づいてきた。
「どうかなさいましたか?」
「いや。なんでもない」
 従業員は数秒間、腑に落ちない視線を向けていたが、軽く会釈をして戻っていった。

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木の呪禁(5/6)

 玄治はその夜、ほとんど眠れずに過ごした。
 太った女をよこした店に電話してみたが、何度コールしても出なかった。何かあったのか、もう店じまいしたのか。
バッグもコートも置いて行ってしまったのだから、必ず戻ってくるだろう。
 いつドアが小さくノックされてもいいように、聞き耳を立てていた。
 だが、冬身は戻ってこなかった。
 翌朝、チェックアウトの時間になっても、冬身は戻ってこなかった。
 残された黒いコートとハンドバッグをどうすべきか、悩みながらも、一応コートのポケットとハンドバッグの中を確かめた。
 コートのポケットにはサラ金のチラシのついたティッシュが二つだけ。バッグの中は、財布とコンドームと安物の化粧道具、予備のストッキング。
 財布の中身は、玄治が渡した二万円の他には、ほんの数百円しか入っていなかった。
 身分証明書やカードの類もない。パスポートもない。留学生というのはやはり嘘で、入国させたブローカーに借金の形としてパスポートを取り上げられているのだろうか。
 悩んだ挙げ句、冬身が残したバッグは自分の鞄の中に入れて持っていくことにした。コートはかさばるので、エレベーターホールの植え込みに置き去りにした。
 従業員が見つけ、保管するだろう。
 冬身が後でホテルに取りに現れるとは考えにくかったが。
 金も貰わず、薄着のまま事務所に戻った冬身はどうなったのだろう。ひどく後味が悪かった。
 そして何よりも、ますます説明のつかない状況に自分が追い込まれていくことに苛立った。

△△◎▽▽
 京都に数ある社寺の中でも飛び抜けた参拝客数を誇る伏見稲荷。しかし、冬を迎えようとするこの時期は、かなり人出が減る。
 しかも、大半の参拝客は大社の本殿まで来るとそのまま戻ってしまい、そこから朱塗りの鳥居がずらりと続くお山への参道には足を踏み入れない。
 お山を巡る道沿いに点在する茶店も、平日はほとんど閉めている。
 二の峰の手前にある休み処「峰山」の女将は、参拝客が途絶えた参道に立ち、積もった落ち葉をブロワーで吹き飛ばしてはゴミ袋に詰めていた。
 参道脇には何か所かコンセントが埋め込まれている。そこにブロワーをつないで、鳥居のトンネルを掃除するのが彼女の夕方の日課になっている。
 店はもうとっくに閉めた。
 作業を終え、道具を持って店に戻る途中、無数に並ぶキツネの向こう側に人影を見つけた。
 汚れた作業服を着た老人だ。前にも見かけたことがある。このへんを根城にしているホームレスだろう。
 老人は社の後ろ側に回っていた。別に参拝している風ではない。
 いつもなら気にも留めずに通り過ぎるところだが、なぜか老人の顔に死相が出ている気がして、女将は思わず声をかけた。
「どうかしはったかね?」
 老人は何やら中空を見上げているようだったが、声をかけられて女将のほうに視線を向けた。
 頬は削げ落ち、明らかにまともに飯を食っていないことが窺えた。だが、落ちくぼんだ目には、一種異様な光が宿っている。
「もう冷え込む季節やしね、きついやろ」
 返事をしない老人に、女将はもう一言だけ声をかけた。これで何も答えなければ、立ち去るつもりだった。
 老人は数秒間女将のほうを見ていたが、ぼそりと何か言った。
「え? 聞こえんがな。なんやて?」
 危険な様子はなかったので、女将は老人の立っている場所に近寄っていった。
 老人はもう一度呟くように言った。
「獅子と狐が仲ようしとる。後ろから見ると、ええ景色や」
 老人の隣に立ち、社を後ろから見たとき、彼が言っていることがようやく分かった。
 沈みゆく夕陽を、狛犬と狐が並んで見ている。その後ろ姿が逆光に浮かび上がり、微笑ましいシルエットを作っていた。
「ほんまやねえ。もう何十年もこのお山におるけど、こんな風に狛犬やら狐やらを後ろからしげしげ見たことはなかったわ。おっちゃん、風流が分かる人なんやね」
(いぬ)が好きなだけや」
「犬?」
「狛犬。この山には狐のほうが多いが、狛犬も結構おる。ほとんどは最近造られたつまらん狛犬やけどな。中にはようできたのもおる。この獅子はようできとる。わしはこいつに呼ばれてな」
「狛犬に呼ばれて? おっちゃん、狛犬と話ができるんか? たいしたもんやな。うちには話どころか、狛犬の違いも分からんわ」
「こいつは阿吽(あう)の阿で獅子、向こう側におるのが阿吽の吽で(いぬ)や。普通は、獅子は雌、狗は雄やな」
「へえー、おっちゃん、物知りやなあ。もう寒いやろ。甘酒でも呑んでくか?」
「いや。そうはいかん。おおきに」
 そう言うと、老人は再び口を閉じ、夕陽に向かう狛犬と狐を見つめた。
 それ以上関わるのも面倒だと思い直し、女将は「ほならな。風邪ひかんようにな」と言い残し、その場を立ち去った。

△△◎▽▽
〈何か、あの子が不始末でもしましたか?〉
 電話の向こうで、まだ若そうな男が言った。
 夜になって、また新大阪駅周辺のピンクチラシを漁り、ようやく見つけた「ミルキー」という店に電話をかけると、片言の日本語しか喋れない女が出た。埒があかず、何度か掛け直し、三度目の電話でようやくまともに話ができる日本人が出たのだった。
「不始末じゃない。あの子が忘れ物をしてね。バッグを忘れて帰ってしまったんだ。取りに戻るだろうと思って待っていたんだけれど、来なくて」
〈エレナは昨日、戻ってけえへんかったんですわ。今日も出てけえへんし〉
「居場所は?」
〈分かりまへんわ。おたく、ほんまにお客さん?〉
 男の声は明らかに警戒心に満ちていた。冬身が警察にでも保護され、店が手入れを受けることを心配しているのだろう。
 仕方なく、玄治は電話を切った。

 バー「閑古鳥」のドアを押したときは、日付が変わろうとする時刻だった。
 店には隅のボックス席に客が二人いるだけで、その二人も、もう帰り支度をしている。
「あら」
 カウンターの中で最後の客に領収書を切っていた夏子が、玄治の姿を認めて驚いたような声を上げた。
「あら……か。もう閉店かな」
「それはええけど、玄さんがこんな時間に来るなんて、初めてやない?」
「かもしれないな。ビール一杯だけ、いいかな」
「ええよ。でも、ビールやなんて、それも珍しいわ。なんかあったん?」
 玄治がカウンターにつくのと同時に、二人の客は店を出ていった。
 煙草の煙が充満した店内では、ミキちゃんが洗い物をしている。もう閉店の準備をしていたことは間違いない。
 夏子が冷蔵庫から瓶ビールを一本出してきて、グラスについだ。
「私もいい?」
「え? ああ、もちろん。でも、夏子さんが自分から飲むなんて言うのも珍しいな」
「変なことついでや。今日はうるさい客がぎょうさん来て、ちょっとむかむかしてるし」
 自分で注ごうとするのを制して、玄治は夏子のグラスにビールを注いでやった。
「じゃあ、この一本空けたら、他の店につき合うか?」
「へえー、玄さんから誘われたわ。台風でも来るんやろか」
 奥から大ママが出てきた。
「夏子、こういうことはもう一生あらへんで」
 目が笑っている。娘が閉店後のデートに誘われているのを後押しするとは、意外と信用されているらしい。
 大ママはカウンター越しに身体を寄せるようにしてきて玄治に耳打ちした。
「玄さん、(かぶとやま)神社へは行かはった?」
 それが、先日帰り際に渡されたメモに書いてあった神社のことだと、すぐには思い出せなかった。
「いえ……まだ……。今度行きますよ」
「今度やのうて、明日すぐ行きなはれ」
「ええ、分かりました。……で、それはそうと大ママさん、また訊きたいことがあるんですがね。コンゴウってなんでしょうね」
「コンゴウ?」
 代わりに夏子が問い返した。
「普通に考えられる言葉じゃなくて、この前の呪禁や償物みたいな関連で、そういう言葉はありますか?」
 玄治はすぐに付け足した。
 大ママは大袈裟に首を傾げてみせた。
「普通に考えたら、金剛力士像の金剛かなあ。そういう名前のお相撲さんがおったやろ。うちはファンやったわ。大阪出身やったしね」
「お相撲さんの名前?」
「何言うてるんやろね、この子は。もともとは仏さんの名前や。きょうびの子は、自分の守り本尊も知らんと平気な顔して生きてるねんから。罰当たりなことやで」
「守り本尊て何?」
「あんたも知らんの? 呆れたねえ。()(せんじゅ)、丑寅どしは虚空蔵、辰巳は普賢(ふげ)、卯は(もんじゅ)なり。(うま)勢至(せい)(ひつじ)(さる)は大日よ、酉は不動に、戌亥(いぬ)阿弥陀ぞ……ていうてね」
 大ママは歌うようにそう言った。
「それみんな仏様の名前やの? なんや原子炉の名前みたいやね」
 横から夏子が口を挟んだ。
「そうや。原子炉の名前も入ってる。あれは仏さんの名前から取ったんやもん。そんなことも知らんのか、あんたは」
「今知ったわ」
 夏子は口を尖らせて答えた。
 数日前、高速増殖炉の実用炉「せんじゅ」が、冷却剤のナトリウム漏れ事故を起こし、マスコミでは頻繁にこうした名が出ていた。
「丸い形をした小さなナイフみたいなものを金剛と呼ぶというようなことはありませんか?」
 玄治はさらに突っ込んで訊いてみた。
「丸いナイフ? なんやの、それ」
「ええと……ちょっとそれを貸して」
 玄治はカウンターの奥にある領収書の用紙とボールペンを指さした。夏子がすぐに意図を汲み取り、カウンターの上に置いた。
 玄治は領収書用紙を一枚はがし、裏側に円を描いた。
 さらにその中に巴が抱き合う模様を描き、半分を斜線で黒く塗りつぶした。

(図)

「なんや、大極図やないの」
 見ていた大ママが言った。
「タイキョク図? そういうんですか、これ」
「易で使うやろ。見たことあらへん?」
「見たことはありますよ。韓国の国旗にも使われてるし。名前を知らなかっただけですよ」
「世の中の物事はみんな巡り巡って元に戻るやろ。春夏秋冬、昼と夜、全部循環してる。そういうことを表してるんや」
「じゃあ、これは?」
 玄治は隣にもう一つ円を描き、その中に逆位置の星形を入れた。一筆書きで描ける図形だが、普通とは逆位置になるために、少しぎくしゃくした」
「セーマンやな。逆立ちしとるけど」
「こういう星形をセーマンというんですか?」
「そうや。五芒(ごぼ)の星をセーマンていうんや。安倍清明(あべのせいめい)の清明が訛ってセーマンて言うようになったらしいわ」
「あ、それで清明神社の……」
 夏子がまた口を挟んだ。
「清明神社でやるお祭りで、稚児()さんがその印つけた着物を着とったわ。あれも確かひっくり返ってたわ」
 清明神社というのは、この店から遠くない安倍清明神社のことだろう。京都にも清明神社がある。
 玄治はどちらも行ったことがあるが、そう言えば京都の清明神社には、提灯にこの星形が印されていた気がする。
「表がこれで、裏がこの星。それで直径が四センチくらいで、この大極図……っていうんですか? この黒と白の巴がぱっくり二つに割れて、中には鋭い刃物が仕込まれている……そういうのを知りませんか?」
 大ママは玄治の説明がいっぺんには理解できないようだった。
「なんや、ややこしいなあ。言葉で説明されてもよう分からんわ。それがどうかしたの?」
 一瞬黙り込んでしまった二人を見かねて、夏子が言った。
「いや、そういう奇妙なカッターみたいなもので、紙を切り裂いた女がいてね」
「女? あら、どういうご関係?」
 玄治はうっかり口を滑らせたことを後悔したが、時すでに遅かった。
「関係はないさ。あかの他人だ。素性もよく知らない」
「行きずりの女?」
「いや、別に……」
 ここで口ごもるのはもっとまずいのだが、咄嗟には弁明できなくなってしまった自分が情けなかった。
「玄さん、なんか面倒なことにでも巻き込まれたんと違う? 悪いこと言わへんから、はよ甲山神社の宮司さんとこへ行きいな。なんならうちから電話しとこか?」
 夏子を押しとどめるように、大ママが真面目な口調で言った。
「いえ、まあ……。大丈夫ですから」
 玄治は適当にごまかすと、グラスに残ったビールを飲み干した。
「怪しいわあ。もともとが怪しい人やけど」
 カウンターを挟んで、夏子もビールを飲んだ。
「うまく説明できないんだよ」
 なぜこの店に足を運んでしまったのだろう。玄治は少し後悔し始めた。
「せっかくやけど、今夜はデート、やめとくわ」
 夏子が横を向いて言った。

 気まずい思いのまま、玄治はカウンターの上に五百円玉二枚を置くと、店を出た。

△△◎▽▽
 関西新聞十二月三日付朝刊。
〔狛犬の下敷きになり男性死亡
 二日早朝、京都市伏見区の稲荷山で、身元不明の男性が狛犬の下敷きになって死んでいるのが発見された。
 男性は推定六十歳から七十歳。作業服を着ており、身元が分かる所持品はなかった。狛犬にのしかかられるような格好で死んでおり、肋骨を骨折していたが、直接の死因は不明。男性の上にのっていた狛犬は小型のもので、重さは約五十キロ。高さ一・五メートルほどの台座に置かれていたものが落下したと見られるが、前日から京都市内で地震などはなく、圧死にしてはあまりにも不自然なため、警察では殺人の疑いもあるとみて、男性の身元究明を含め捜査を始めた〕

 その不思議な記事を、玄治は「健康ランド」と称する施設のロビーで読んでいた。
 二十四時間営業のこの施設は、同系列の営業によるホテルと渡り廊下でつながっているが、あいにくホテルのほうはここ数日、満室で取れなかった。あぶれた客、あるいは宿泊料をけちった客が何人も、大浴場・サウナ付きのこの健康ランドで夜を明かしている。
 食堂、マッサージルーム、映画室、ゲームコーナー……それらは夜中には閉鎖される。夜の十一時を過ぎた頃から、通路脇や、ロビーのソファや、休憩室と称する畳敷きの大部屋に、カラフルな甚平を着た男たちが横たわる。長距離トラックの運転手や、出稼ぎ労働者などが多いが、中には頭に大仏のらほつのようなきついパーマをかけた中年女性や、髪を脱色し、肌に張りのない二十代の女性などもいる。
 一年に何度か、泊まる場所にはぐれたとき、玄治はここに来る。

 朝五時半。
 ロビーの周りでは、オレンジ色と黄緑色が交錯するトロピカル模様の甚平を着た男たちがまだ寝息を立てていた。起きている客は、玄治を含め、ほんの数えるほどだ。
 朝早く出ていく客のために、早朝から軽食コーナーだけは開いている。洋食と和食があり、洋食はトーストとコーヒー、ゆで卵だけ。和食は飯、味噌汁、生卵、焼き海苔と、毒々しく着色された漬け物。ともに三百八十円という値段を考えれば、内容についてはあまり文句を言えない。
 その洋食セットを食べながら、玄治はロビーの新聞コーナーにあった新聞を読んでいた。
 一面は高速増殖炉「せんじゅ」の事故続報。開発・経営をしている財団法人「新エネルギー事業団」が、事故直後の調査資料を隠していたことを追及している。
 しかし、玄治の興味を引いたのは、狛犬の下敷きになって老人が死んだという三面記事のほうだった。
 スポーツ面や文化面にも他に目を引く記事はなく、玄治は新聞を元の場所に戻そうと腰を浮かした。
 そのとき、
「おう、玄治」
 いつの間にかすぐ隣に来ていた小柄な男に声をかけられた。
 春さんだった。
「ああ、どうも」
 バー「閑古鳥」ではよく顔を合わせるが、あそこではろくに挨拶も交わさず、知らん顔をするのがお互い暗黙の約束事になっている。こうして閑古鳥以外の場所で会うのは久しぶりだった。
 春さんは、玄治のはだけた胸元をじっと見つめながら言った。
「ええ身体や。肉が締まっとって」
「え?」
 玄治は思わず身体を硬くした。
「せやけど、わしの趣味やないわ。肉が締まりすぎとってな」
「そういう趣味だったんですか?」
「ん? いや、冗談や。どうや、調子は?」
 春さんはすぐにいつもの人懐こい顔に戻り、照れ隠しのように言い直した。
「ぼちぼちですね」
 春さんと玄治の間で「調子」と言えば、もちろん小作としての両替効率のことだった。
「わしはこのところさっぱりやわ。それ、ええか?」
 春さんは玄治が手にしていた新聞を指差した。
「ええ、どうぞ。昨日の朝刊ですけれど」
「昨日の? かまへん。ここ、おまえさんもよう泊まるんか? わしはもう三日連続や」
 新聞を受け取って玄治の隣に腰を下ろしながら、春さんが言った。
「通天閣近辺が根城だと思っていましたけど、春さんもこういうところ利用するんですね」
「昔は平気で野宿したもんやけどな。近頃は身体がえらいわ」
「もともと、どちらの出身なんですか?」
 考えてみると、春さんの身の上話というものを聞いたことはなかった。裏稼業で生きる無宿人同士の暗黙の仁義のように思っていたが、久しぶりに閑古鳥以外の場所で顔を合わせたことで、玄治はなぜか自然にそう訊いてしまっていた。
「わしか? 実家は交野市いうとこにあるんやけど、もう長いこと帰ってへんなあ。おまえさんは?」
「俺は……生まれたのは群馬の田舎です」
 そう答えながら、やはり出身など訊くのではなかったと後悔した。生まれ故郷にいい想い出はほとんどない。
 また、あの狸の顔が一瞬脳裏に浮かんだ。
「人がようけおるところのほうが、なんや妙に安心して寝つけるんや。特にここんとこ、嫌な夢ばかり見とってな。身体も調子悪うてかなわん。ほんまは温泉にでも長逗留して養生したいところなんやが、そうそう贅沢も言えんやろ。それでこんなとこに長居しとるわけや」
 気の置けない話相手を求めていたのか、春さんは嬉しそうに話し始めた。
 玄治のほうはそれほど話をしたい気分ではなかったのだが、相手が恩人の春さんとなればむげにはできない。
 五百円玉結の小作同士といえど、こうした場所では結のことを安易に口にするわけにはいかない。
 そのうちに話題が尽き、春さんは新聞記事のことを口にした。
「せんじゅの事故、なんや次から次へとえらいことになっとるなあ」
「せんじゅって……ああ、高速増殖炉ですか。この前、ナトリウム漏れ事故を起こしたという」
「そうや。千手観音ゆうたら、観世音菩薩の化身のことやろ? 仏の名前をああいう欠陥品に付けるんやから、ばちあたりな神経や。おまえさん、どない思う?」
「ええ……」
 学校教育を受けていない玄治は、意識してあらゆる話題を貪欲に吸収するようにしている。アウトローとして生き抜くためにも、世の中の仕組みについては、ある意味では一般人以上に精通していなければならないからだ。
 分からない話題に遭遇すれば、本を読んで勉強もする。
 朝食後の話題にしては少し重かったが、いつもの好奇心と知識欲が頭をもたげ、すぐに春さんの話に聞き入った。
「わし、働いとったんや、原発で」
「え? 春さんがですか?」
 意外な展開だった。
「もうだいぶ前のことや。せんじゅができる前やな。増殖炉やのうて、普通の原発やったけどな。あれは事故を起こさんほうが不思議やわ」
「春さん、原発でどういう仕事していたんですか?」
「配管工事や」
「配管? ……今度のナトリウム漏れ事故っていうのも、パイプから漏れたんですよね」
 そう言った後、口を滑らせてしまっただろうかと気にしたが、春さんは気を悪くするどころか、ますます我が意を得たりと勢いづいて話し始めた。
「そうや。田舎もんの寄せ集めが工事しとるんやから、ごっつう立派な設計しとっても、出来上がりは推して知るべしやな。田舎もんは物を大切にするよってあかんわ」
「え? どういうことです?」
 また春さんの謎掛け癖が出たと思いながら、玄治は訊いた。
「貧乏人がああいうとこで工事をしたらあかんちゅうこっちゃ。例えばやな、四メーターのパイプをつなぐとするやろ。一本のパイプは五メーター半やから、それを使うたら一メーター半余るわけや。そういう余った端切れがぎょうさん出るわけや。
 ほんで、田舎もんの作業員はそこで節約しよるわけや。一・五メーターの切れ端三本を溶接して四メーターのパイプを一本作りよる。そんなことは誰も頼んどらへんのに、もったいないゆうてやりよるんやな。ほんであっちこっちつぎはぎだらけになる。そんな半端なことやりよる素人がぎょうさんおったわ」
「面白い話ですね。最先端技術とか言っていても、現場はそんなものなんですか?」
「そうや。しかもどんどんひどうなりよる。そやからわしはおそろしゅうなって、もうだいぶ前に足洗うた。
 わしらの頃はまだ腕のええ職人も何人かおったよ。玄人は設計図通りに工事はせんのや。分かるか?」
「いいえ」
 春さんがこうして気分よく話しているときは、「なぜか分かるか?」という問いかけに「いいえ」と答えておくに限る。ますます気分よく話し続けることになる。
 ただし、真剣に相手を試そうとしているときは別だ。
 五百円玉硬貨偽造の謎かけのときがそうだったように、試されていると感じたときは、こちらも真剣に答えなければ見くびられてしまい、それ以上話してもらえなくなる。
 春さんはいつになく躁状態だった。
「分からんか? 設計図書いとるインテリさんたちは、現場のことをよう知らへん。エルボからエルボまでが五百ミリやとしたら、図面にはそのまんま五百ミリと書き込むわけや。そらあ確かに図面の上では五百ミリでおうてるかもしれんわ。せやけど、実際にはパイプゆうもんは、必ずエルボのところでちょっとたわむんや。玄人はそれを計算に入れて、図面の数字より少し寸法を詰めたる。そうしたら壁の穴を通すときでも、びしっと真ん中を通るわけやな。
 素人はそれがでけへん。図面に五百と書いてあったら、真っ正直に五百ミリで切るわけや。ほしたら壁の穴の真ん中に通らんと、こう、縁にこすれるわけやな」
 春さんは目の前のテーブルに置いてある和食セットの盆に、割り箸の先で図を描きながら得意げに解説した。
 割り箸の先は生卵と醤油で汚れていて、プラスチックの盆の上にはうっすらと汚らしい線が引けた。
「なるほど。そうすると、長い間に、そのこすれた部分が弱って穴が空くと」
「そういうことや」
 春さんは嬉しそうに答えた。
「ほんで、素人が増えてきたもんやから、偉いさんたちはマニュアルちゅうやつを作りよったわけや。ハンバーガー屋と同じやな。どこをどうしたらええか、(こま)こう決めてやるわけや。ほなら素人でもきちっと工事がでけるやろゆうわけや。
 せやけど、これでますますひどうなりよった。おまえさん、パイプを溶接したことあるか?」
「いや、ないですね」
「パイプを溶接でつなぐいうときは、必ずカイサキ空けるんや」
「カイサキ?」
「隙間やな。ぴたっとくっつけて溶接したらあんじょう溶けんわけや。ほんで、仮止めのとき、上を三ミリ、下はその半分の一・五ミリ空けるわけや。下から溶接していったら、半分くらいくっついたとこで、両側から引っ張られて、上がちょうど一・五ミリくらいになるんや」
 春さんは今度は割り箸を両手に一本ずつ持って、少し角度を付けて先端を合わせるように示しながら説明を始めた。
「ところが設計屋さんはそういうことは知らんわな。自分でバーナー持ったことなんかないしな。せやから、マニュアルには、下も上も同じように一・五ミリ空けるて書いてある。そうせんと検査が通らんわけや。いくらそうやないんやゆうて説明しても、偉いさんは、専門家が書いたマニュアルにそう書いてあるんやからそうやれゆうて聞かんわけや。生まれてこのかた半田付けもしたことないような背広野郎が、マニュアルがどうのこうのとぬかすわけや。
 揉めてても仕事にならんから、わしら、最後は、はいはいそうですかゆうて、言うこときいて検査を受けるわけや。ほんで、そのまんま溶接したら、上がくっついてしまうから、具合が悪いわな。どうするかいうたら、今度はグラインダでガリガリ削って隙間を空けるわけや。二度手間やな。
 それでも、手間だけやったらまだええわ。そのとき金属の粉がパイプの中に落ちるんやな。水道管やったら水と一緒に流れるけどな、原発のパイプはそういうわけにはいかんやろ。安全弁のとこなんかにたまって、ガチガチに固まってしまうわけやから、こら安全弁やのうて、危険弁や。
 いくら立派な図面引いとっても、こういう工事しとったら、事故も起きるわなあ」
「春さんは玄人だからそういうへまはしないわけですね?」
 玄治はさらに調子を合わせた。
「まあな。畑いじったり、魚獲ったりしてる連中よりは分かってるわな」
「もともと本職はなんなんです?」
「金物屋や。売るほうやないで。加工するほうの」
「じゃあプロだ。五百円玉結のアイデアも……」
 うっかりそう言いかけて、玄治は慌てて口をつぐんだ。
 結の話を持ち出したのが悪かったのか、春さんはそこでぱたっと話をやめ、作業着のポケットから五百円玉を一枚取り出すと、ロビー脇の自動販売機のコーナーへ向かった。
 春さんの話はいつも面白い。だが、今の玄治には、さっき新聞で読んだ狛犬下敷き事件のほうが気になっていた。
 春さんの話を聞いていても、「せんじゅ」が事故を起こすのは不思議ではない。だが、大の大人が狛犬に組み敷かれるようにして死ぬなどということがありえるだろうか。
 その現場を、この目で確かめてみたいという気持ちがわき上がった。
 そこに、春さんが缶ビールを二本持って戻ってきて、一本を黙って差し出した。
「あ、どうも」
 朝からビール……玄治にとってはいささか迷惑だったが、断るのも悪いので、仕方なくつき合うことにした。
 やがて従業員が朝刊を持ってやってきた。
 春さんは手にしていた新聞ホルダーを持ち上げ、ここだと示した。
 従業員がホルダーに新しい新聞をセットし、そのまま春さんに戻した。春さんは、その来たばかりの朝刊を読み始めた。
 玄治は間を持て余し、春さんの分も一緒に、食べ終わった食器をカウンターに返却しに行った。
 戻ってきても、春さんは黙々と朝刊を読みふけっていた。さっきまでとは完全に別人だ。
 玄治は少し拍子抜けして、ソファに深く座り直し、春さんが奢ってくれた缶ビールを飲んだ。
 早朝から呑むビール。
 まあいいさ。今日一日、何をしなければならないというわけでもない。
 玄治はゆっくり目を閉じた。
 朝食とビールのせいもあるのだろうが、急に眠気が襲ってきた。しかし、心地よい眠りに誘われるというのとは少し違う。
 身体がどんどん重くなり、手足がソファに押しつけられたように感じる。
(もく)、呪禁そわか〉
 どこからか、囁くような声が聞こえた気がした。
 目を開けようとしたが、まぶたが重くて開かない。
 くそ。またあれだ……。
 声の主を、玄治はすぐに思い出した。
〈木、呪禁そわか〉
 今度はさっきよりはっきりと聞こえた。無声音ばかりで構成されたような声だが、言葉は明瞭に聞き取れる。
「木? なんのことだ」
 問い返したいのだが、声は出ない。
 金縛り状態が解けたとき、隣に春さんの姿はなかった。
 テーブルの上には、さっきまで春さんが読んでいた朝刊が、開いたまま放り出してある。
 玄治は何気なくその新聞を取り上げて目を通した。
「せんじゅ」のナトリウム漏れ事故の続報は小さくなっていた。このまま少しずつ忘れられていくのかもしれない。
 いくつかの記事を拾い読みしていると、前日の新聞で報じられていた狛犬圧死事件の続報が、ほんの数行のベタ記事で載っていた。
〔三日、京都市伏見区の稲荷山で台座から落ちた狛犬の下敷きになって発見された男性の遺体は、交野市の磐船石材店元社長・青木東吾(とうご)さん(64)のものと判明。青木さんは五年前から行方が分からなくなり、経営していた石材店も倒産している。青木さんの死因などは引き続き調査中〕
 その記事を読み終えた途端、さっき金縛り状態の中で聞こえた声が蘇った。
〈木、呪禁そわか〉

 春さんはいつまで待っても戻っては来なかった。



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