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1

若い主婦は、男性から魅力的な存在として見られている。このことを主婦本人は意外に知らない。

男は若い独身女性にしか興味がないと、勝手に思っている場合がある。しかし、この世の中、善良な市民だけが暮らしているわけではない。

ニュースを毎日見ている主婦なら、そのことを百も承知のはずである。

ところが、独身女性に比べて、どうしても警戒心が薄く、大胆になりがち。いや、もっと言えば、本人は別に大胆という意識はないのかもしれない。

狼は狼のまま現れない。狼はときに羊のふりをして獲物を探し、美しき標的に忍び寄る。常にストーカーや性犯罪を警戒する独身女性はバリアが固い。しかし若い主婦は、毎日の家事の忙しさに、服装を気にすることなく、会う友達も同じ主婦が多いから、異性と接する機会も減る。結婚しているから合コンというのはあり得ない。

夏。薄着になる季節が到来した。ファッションではなく暑いから脱ぐ。この無頓着な感覚が危ない。裸になるわけには行かないが、いわゆる「はしたない」格好をする。

だが、女性から見て「百年の恋も醒める」と思っている「けだるい」格好が、狼をエキサイトさせることもあるから、世の中わからないのだ。

 

仁美はまじめな性格で、学生時代もOL時代も、それほど目立つ存在ではなかった。
ルックスは悪くない。万人が認めるような美人タイプではないが、人相が良く、笑顔がかわいい。
スリムな体だが肉付きも良く、スポーティで腹筋は引き締まっている。健康的な太ももに細過ぎないふくらはぎ。細い足首。
脚線美は本人も自慢の部分だが、大人しい性格ゆえ、思いきり披露する度胸がなかった。
仁美の青春時代は、学校でも職場でも、男性にモテるという経験がなかった。
気づいてみたら27歳。やがて会社の先輩と結婚した。相手は10歳年上の水谷真司主任。
年の差婚が流行っている今の時代を考えれば、10歳差くらいではあまり騒がれない。
仁美は結婚してすぐに退職し、「晴れて」かどうかはわからないが、専業主婦となった。


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2

夫・真司の家はアパートを経営していた。
真司の両親はもうすぐ80歳になる。大家の仕事を息子夫婦に渡し、自分たちは別の家に住み、老後をゆっくり楽しむことにした。
真司はそのまま会社勤めを続けるから、大家の仕事は、もっぱら仁美が一人でやることになった。
アパートの大家の仕事など、当然経験がない仁美。だが、もともと働くことは嫌いではない。アパートの一階に夫婦で住み、家賃を受け取ったり、アパートの廊下や窓を掃除したり。それはなかなか新鮮な毎日を送れた。 専業主婦は返上したものの、家にいられるから、パートに出かけるよりは気分も楽だ。
仁美はよく働いた。ただ、アパートといっても木造の、古ぼけた、いわゆるボロアパートだ。お化け屋敷と言ったほうが早い。
風呂なしの共同トイレ。家賃は26000円。一階の玄関で靴を脱ぎ、下駄箱に入れる。寮のように土足厳禁だ。
二階に六部屋あるが全部満室。すべて男性だ。
女性から電話がかかって来ることは何度かあったが、面接に来たことはない。
おそらく外観を見たら背を向けて退散したのだろう。
快適な暮らしをする権利は、だれもが憲法で保証されているはずだ。
仁美も思った。
(あたしが部屋を探している人の立場だったら、絶対無理)
でも仁美が住む一階の部屋は、風呂もあり、シャワーもある。しかし住人は銭湯やコインランドリーを利用している。
そう考えると、家賃26000円は大しておいしくはない。
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3

仁美は大家の仕事を引き継いで、感じたことがある。
激安のアパート。風呂なしの共同トイレ。こういうところに住む人は、全部ではないが、ワケありの人が多い。
若い学生はいない。いわゆるフリーターのような人。レスラーのような巨漢。サラリーマンでも別居かバツイチの雰囲気を持った人。
いろいろだ。
もちろんそういうプライベートなことは、仁美からは聞かない。
今までは老夫婦が経営していたから、平穏無事なアパートだった。しかし、いきなり27歳の若い仁美が大家となり、皆は色めき立った。
仁美はまさに紅一点。一輪の花。もっと具体的に言うと、ハイエナの住処にいるバンビだ。
季節は夏。
薄着で廊下を掃除する仁美に、眠りかけていた狼の血が湧き立つ男たち。
仁美は人生で初めてモテまくった。
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4

夕方。201号室の阿部が帰宅。スーツ姿が似合わないサラリーマンだ。
仁美は二階の廊下で掃除をしていた。タンクトップからは華奢な肩が覗く。長い髪を後ろに束ねているが、よく似合っていて、なかなかセクシーだ。そしてショートパンツに裸足にスリッパ。
挑発する気など彼女には微塵もない。暑いから薄着なだけだ。
今までモテない生活を送ってきたので、この格好がどれだけ刺激的か。狼たちの目に魅惑的に映るか。
仁美はそういうことは考えていなかった。
阿部は階段を上がって仁美の姿が目に入ると、オーバーアクションで驚いて見せた。
「ワオー!」
「あ、こんばんは!」
仁美は明るく挨拶した。キュートな笑顔が素敵過ぎて、阿部のもともと低い理性が揺らいだ。
「……いい」
「え?」
「いい」目が危ない。
「何がいいんですか?」
「え、いやいやいや。何でもありません」阿部は慌てた様子で首を左右に振ると、無遠慮な目線で仁美の体をながめ回す。「大家さんって、いい体してますね」
直球。
仁美は驚いて顔を赤くした。
「何言ってるんですか、いきなり」
「いやあ、美しい。天使、いや、女神のようだ」
「そこまで言ったらお世辞だとバレますよ」
口を尖らせる仁美がかわいくて、阿部は暴走する。
「お世辞なんて生まれてこのかた言ったことない」
「嘘は?」
「あります」
「ほらあ」
「そのスマイルがたまらない。今夜は眠れないかも」
「ハイハイ」
仁美は呆れた顔で階段を降りていったが、正直凄く嬉しかった。ルックスを誉められる免疫がないのだ。
「ヤバいヤバい」
浮かれてはいけない。人の妻だ。仁美は気持ちを引き締めた。
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5

独身時代ならまだしも、主婦になると、ルックスを誉められる機会がめっきり減るかもしれない。
口説くのが目的なら主婦を誉めたりはしない。それに夫を気づかい、あからさまに奥さんの外見を誉めるようなことは普通しない。
だが狼やハイエナは違う。食うことが目的だから、結婚していようと関係ないのだ。
良い狼は阿部のようにストレートでユーモラス。しかし悪い狼は羊の仮面をかぶって近づいて来る。
それを見抜けない主婦が悲しい。
仁美は独身時代、面と向かって誉めちぎられたことがないので、内心ドキドキしていた。
お世辞といっても全くそう思っていなければ、誉めたりしないだろう。仁美はそう取っていた。
休日の昼。廊下の窓を拭いていると、203号室の加刃が出てきた。やや小太りの40歳。阿部より10歳年上だ。
「こんにちは」仁美はいつも嬉しそうに挨拶をする。
「こんちは」加刃もつられてニコニコする。
加刃は、仁美のショートパンツに目を止めた。
「大家さんってさあ、いい脚してるよね?」
「よく言いますよ」仁美は照れた。「そんなこと言わたことないから、びっくりしちゃいますよ」
「そんなことないでしょう。見事な脚線美だよ」
「じゃあ、明日からジーパン穿きます」
「ダメだよ」
「ダメだよって」仁美は思わず笑ってしまった。
加刃はあまり嫌らしさを感じない。職場なら完全にセクハラだが。
「加刃さんて…」
「人の顔見てカバはないでしょう」
「しょうがないじゃないですか、名字なんだから」
「大家さんだけには名前で呼ばれたいね」
「じゃあ、哲朗さん」
加刃は目を丸くして仁美を直視した。
「嘘、フルネーム知ってんの?」
「そりゃそうですよ、大家だもん」
「嬉しい。お礼に今夜だけ俺の部屋に泊めてあげる」
「遠慮しときます」
「ハハハ」
加刃はトイレへ行った。仁美は自分の脚を触りながら、甘い吐息。
顔を合わすたびに阿部と加刃から誉めちぎりに遭う。悪い気はしないどころか、それを待っている自分に気づき、仁美は唇を噛んだ。
(これって妻失格だよね?)

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